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2011/07/30

単に 「もっともらしいだけ」 というのも、それなりに意味がある

昨日の予告通り、食べ合わせに関する思い出深い話を書く。実は 8年も前に書いてしまったことなのだが、Today's Crack をココログに移管する前のことで、独立したブログ記事としての体裁になっていないので、ここで改めて書くことにする。

それは、「私は子供の頃、『死』 を具体的に意識したことが 2度ある」 という話から始まる。一度は 12歳の頃の 「新潟地震」 の時だが、最初に意識したのは幼稚園の頃だった。健気なことに、幼心に 「死」 を覚悟したのである。

私は三世代同居の家で子供時代を過ごした。祖母は自分が病弱だったこともあって、「食べ合わせ」 には大変うるさい人だった。「○○と△△」 は一緒に食うなとか、「××と◇◇」 と一緒に食ったら死んでしまうとか、ことあるごとに言うのだった。

中でも凶暴なのが、「イカの塩辛と梅干」 の食べ合わせである。とにかく祖母は何かあるとすぐに 「死ぬ、死ぬ」 という人だったが、常日頃からイカの塩辛 (庄内では 「いがじょがら」 と訛る) と梅干しを一緒に食ったら、たちどころに死んでしまうと言うのである。

ところが祖母と二人きりで留守居をしていたある日、私はうっかりと、まさにこの組み合わせのつまみ食いをしてしまった。それがバレた時、祖母は冷酷にも 「おぉ、死んでしまう」 と言い放ったのである。幼い子供にとっては、これ以上のショックはない。

「本当に死ぬのか」 と聞くと、「イカの塩辛と梅干を食ったら死ぬと、昔から言う」 と、祖母は真顔で答えるのである。

「そうか、死ぬのか」 と私は思った。これはもう後悔してもし切れない。頭が白くなった。

そして何よりも切ないことに、祖母はそれっきり私を放っておいたのである。薄情この上ない仕打ちである。大事な孫が死ぬというのに医者を呼ぶわけでもなく、病院に担ぎこむのでもない。坊主を呼ぶわけでもさらにない。何事もないように、ごくフツーの顔をして日常の家事に戻ったのだ。私は、これはどう手を尽くしても甲斐のないほどに 「手遅れ」 なのだと理解した。

それから半日、私は泣き喚くこともなく、ひたすら大人しく自らの死を迎えようとした。死ぬのは仕方ないと思ったので、とりたててうろたえはしなかった。既に自らの死を受け入れていた。しかし死ぬ前にはさぞ苦しかろうと、それだけが恐怖だった。それでも、どんなに苦しかろうと耐えるしかない。どうせ死ぬのだから。

ところが、何時間経っても死ぬどころか、腹痛すら起きない。祖母に 「いつ死ぬのか」 と尋ねても、「死ぬ」 としか言わない。そうは言っても、そのような兆候はまったく現れない。夜になってもまだピンピンしていて、いつの間にか 「死」 の恐怖は消えてしまった。

「食い合わせ」 というのはほとんどが迷信だと知ったのは、小学校 3年か 4年の頃である。それまで私は、「あの時は 『運良く』 死を免れた」 ものとばかり思っていた。

ところで祖母は、本当に私が 「死ぬ」 と思っていたのだろうか? あるいは、死なないと知っていて 「死ぬ」 と言ったのだろうか。私は長い間、それが疑問だった。後者だとしたら、現代の考え方からしたら相当に残酷な話だ。してはいけないことである。幼子に 「食」 に対するトラウマが残ってしまうかもしれないではないか。

しかし、その後に私はこう理解できた。祖母の頭の中は、「現代」 ではなく、「近代」 、はたまた 「近世」 ですらなかったのだ。

彼女は、「はひふへほ」 を 「ふぁふぃふふぇふぉ」 と発音する人だった。これは音韻学によれば、奈良時代の発音であるとわかっている。「歯が痛い」 というのを、「ふぁ、病める」 と言った。昭和の御代に、奈良時代の物言いを維持する、「生きたフォークロア」 だった。

彼女が実質的に生息する 「中世以前~古代」 の感性においては、「食い合わせで死ぬという言い伝え」 は、「死なぬという事実」 よりはるかに重視すべきテーゼだった。伝承によるファンタジーの価値は、実証的事実に勝るのである。

だから大事な孫を目の前にしても、「事実」 はどうあれ、「言い伝え」 を忠実に繰り返す以外に選択肢はなく、いわば 「オートマチック」 な反応なのであった。これを現代の感覚から 「残酷」 と非難するわけにはいかない。

私のフォークロア的感性は、昨日や今日に始まったことではない。年季が入っているのである。だから、「おばあちゃんの知恵袋」 の中身が、本当に役に立つことと、単にもっともらしく聞こえるだけのことの混淆だったとしても、それをしてどうのこうの言う気にはならない。単に 「もっともらしいだけ」 というのも、それなりに意味があると思っている。

実用的なことと、単なる言い伝えのごちゃまぜこそが、人の世というものなのである。

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コメント

「うなぎと梅干」など、永遠のテーマだと思ってました。

 ですが、近所のスーパーで買ってきたうなぎのかば焼きでひつまぶし、…刻んで混ぜただけのうなぎの混ぜご飯作ったときに、口の中さっぱり箸休めのために、きゅうりとカツオ節と梅肉の和え物をこさえて、家族に出しました。

 結果、好評好評!(重畳重畳)

 皆さん、召し上がった後に、「あ!うなぎと梅干!」と気付いておられましたが、特になんともなしでした。


 調べてみたら、「梅の月向農園」さんの、「なんでも梅学→暮らしの中の梅」というページに、上記家族の“?”を補完してあまりある内容がありましたので、こっそり報告します。

投稿: 乙痴庵 | 2011/08/02 21:49

乙痴庵 さん:

>「なんでも梅学→暮らしの中の梅」

http://www.minabe.net/gaku/kurashi/unagi.html

ですね。

勉強になりました (^o^)

投稿: tak | 2011/08/02 23:26

>「なんでも梅学→暮らしの中の梅」


食べ合わせなど
一度も気にしたことがありませんでしたが、
世の中には
たくさんの忌みがあるんですね~~!
とっても勉強になりました。
ありがとうございました。

あ、そうそう、
私は夜爪を切ると親の死に目にあえないと
昔の人がいいましたが、
「それは、迷信だ」
と、思って、いつもいつも夜、
お風呂あがりに、やわらかくなった爪を切っていました。

私はずっとそばに付いておりながら、
ちょっと席をはずした為に
何故か、両親の死に際に、間に合いませんでした。

でも、
まだ、諺を、信じていませんの。


投稿: tokiko68 | 2011/08/09 10:48

私もその言い伝えは知りつつ、「それってそんなに重要なことなのかなぁ」と思いつつ、「夜ツメ」やっていました。結果として(ではないと思いますが・笑)、両親の死に目には会えませんでした。

投稿: 山辺響 | 2011/08/09 11:34

tokiko68 さん:

私は夜に爪を切っているのを見つかって、母に泣かれたことがあります。

で、結局本当に死に目にあえませんでした。

でも、親の死に目にあえる人は、今の世の中では少数派なんでしょうね。

みんな夜爪切ってるから ^^;)

投稿: tak | 2011/08/09 15:27

山辺響 さん:

>結果として(ではないと思いますが・笑)、両親の死に目には会えませんでした。

tokiko さんのコメントのレスに書いたとおり、私も母の死に目にあえませんでした。

これは夜爪とは関係がないと思いますがねえ ^^;)

投稿: tak | 2011/08/09 15:29

想像するに、「夜ツメ」という行為には実はもっと現実的なデメリットがある(あった)のではないでしょうか。たとえば昔は今ほど室内の照明が明るくなかったから、手許が暗くて、ツメを切ろうとしてちょいと怪我をすることがある、とか。

で、そういう愚行を戒めるために「親の死に目に会えなくなる」というような迷信が生まれた……。

食べ合わせにしても、たとえば「これとこれを一緒に食べると、翌日のおかずがなくなっちゃうじゃないか!」とか……(笑)

投稿: 山辺響 | 2011/08/09 17:10

山辺響 さん:

夜爪の禁忌は、多分そういうことなんだろうと、前から思っていました。

食べ合わせの件は、目から鱗が落ちました (^o^)

投稿: tak | 2011/08/09 17:23

え====!!!
ここの3名が同じ「夜爪」で親の死に目にあえなかった・・・・・・・・・
するってぇと~~~・・・・・・

う~~~む。


投稿: tokiko68 | 2011/08/09 19:08

tokiko68 さん:

>ここの3名が同じ「夜爪」で親の死に目にあえなかった・・・・・・・・・
>するってぇと~~~・・・・・・

風評被害、風評被害 ^^;)
決して原発のせいじゃないと思いますが。

投稿: tak | 2011/08/09 21:58

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