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2011年8月に作成された投稿

2011/08/31

テンキーが右側にあるって、イラつかない?

7年半前に 「テンキーが右側だなんて、誰が決めたんだ?」 という記事を書いた。テンキーが右側あるのは、これはマウスというデバイスが登場する以前からの因習で、右手でマウスを使うからには、テンキーは左手に担当させるという分業体制でいきたいものである。

件の記事を書いた時点では、私はマイクロソフトのエルゴノミクス・キーボードというのを使っていたのだが、これは右側のテンキー部分が異様に大きい。それによる不都合に関して、私は次のように書いている。

普段はあまり使わないテンキーが大きく右に張り出しているために、マウスを右手遙か遠くで動かさなければならない。これは思いの外、肩への負担が大きい。マウスを多用する作業をすると、猛烈な肩こりに悩まされる。

それに第一、マウスを動かすスペースが小さくなる。マウスをちょっと左に動かすだけで、すぐにキーボードに当たってしまう。これは本当にストレスだ。

マウスの可動部分をまともに取ると、今度はキーボードが左に寄ってしまうので、体がねじれてしまう。自分の体の中心と、キーボードの文字部分のセンターライン、ディスプレイが、一直線上に並ばないのだ。キーボードを打つために、体を常にやや左にねじりながらの作業になってしまう。

ところがその年の春、私はついにテンキーが左側に付いたキーボードを入手した。これはとても便利である。ディスプレイ - キーボードのセンターライン - 自分の体が一直線上に並ぶので、不必要に体をねじる必要がない。下に写真を載せておく。

とくに、エクセルに数字を打ち込む作業をしている時などは、右手のマウスでセルを指定し、左手でテンキー操作をするという両手使いができるので、仕事がものすごく速く進む。テンキーが右側にあったら、右手だけでマウスを握ったりカーソルキーを打ったりテンキーを打ったりしなければならない。これはちょっとしたストレスだ。

私は今、左側にテンキーのあるキーボードにとても満足しているのだが、今日、出先で会った人たちに 「テンキーが右側にあるのって、かなりイラつきません?」 と聞いたところ、誰もそんなことは考えたこともなかったというような返事だったので、私としてはものすごく意外だった。

「テンキーが右側で不便だと思ったことなんて、一度もない」 「そもそも、左手でテンキーなんか打てない」 というのである。

しかし、テンキーが右側にあることの不便さに気付かなかった人も、左側に外付けテンキーを置いて作業してみれば、そのあまりの便利さに目から鱗が落ちたような気がするはずだ。「左手でテンキーなんか打てない」 という人だって、普段からキーボードを両手で打っているのだから、やってみれば打てないことなんてないのである。

私はノート PC に外付けテンキーを付けて作業している人に、「そのテンキー、左側に置いてご覧なさい。ものすごく能率が上がるから」 と勧める。すると大体の人は 「左手でテンキーなんか打てませんよ」 と言う。それでも 「だまされたと思ってトライしてみて」 と言う。

そして 1週間後にその人の元を訪れると、テンキーが元からそうであったかのごとくに左側に置かれていて、「だまされたと思ってやってみたら、本当に便利。もう右側にテンキーを置くなんて、考えられない」 と言ってもらえたりする。

ところが最近は、ノート PC のディスプレイもワイド型が増えて、それに伴って、ノートの分際で右側にテンキーが付いたモデルが増えている。これは私に言わせれば、「余計なお世話の最たるもの」 だ。ノート PC はキーボードとディスプレイの中心線が一直線上に並んで、体を不自然に捻らなくても済むいうメリットがあったのに、それが崩れてしまっている。

テンキーが欲しかったら、外付けを左側に置くに限るのである。

実は私のお気に入りの左側にテンキーのあるキーボードは今、7年の酷使のためにかなりガタがきている。しかしどういうわけか、このモデルを買い換えようとどんな大型店に行っても、左側にテンキーの付いたモデルはもはや見当たらない。既に製造されていないのかもしれない。

こうなったら、テンキーレスのキーボードと外付けテンキーを併用するしかない。というわけで、私は今、使い心地のいいテンキーレス・キーボードを探している。

【9月 2日 追記】

右手によるマウス操作と、左手によるテンキー操作による合わせ技は、右手のマウスで範囲指定して、左手でショートカットキー 【"Ctrl + x" (切り取り)、"Ctrl + c" (コピー) "Ctrl + v" (貼り付け) など】 操作を行うと抜群に効率的というのと同じ感覚なので、是非試してもらいたいところである。

ショートカットキーによる操作はあちこちでオススメされているのに、テンキーを左側において同様の感覚の操作をすることは全然無視されているというのは、本当に納得がいかないのである。

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2011/08/30

庄内平野のヒグラシ

遠い昔の記憶とは、あてにならないものである。私は自分の生まれた庄内平野では、セミは主にアブラゼミとツクツクホウシしかいないものだと思っていた。夏の盛りの 「ジージー」 という声、そして夏の終わりの 「ホウシツクツクツク……」 という繰り返し。それこそが庄内のセミの声だという印象が強い。

ところが、昨日たまたまカーラジオで聞いた 「庄内平野 風の中」 という演歌に 「千のひぐらし 鳴いてます」 という歌詞がある。「ウソだ、庄内平野でそんなにひぐらしが鳴いてるわけないだろう」 と、反射的に思ってしまった。

ところが念のため、「庄内 ヒグラシ」 でググってみると、意外な結果だった。庄内平野でもヒグラシが盛んに鳴いているというのである。「かがくナビ」 というサイトに、次のような記述がある。(参照

ヒグラシは夏の終わりに鳴くセミと勘違いされていることがあります。これは、俳句でヒグラシが秋の季語とされているからですが、実際には7月のなかばくらいから活発に活動するセミです。ここ庄内も今が最盛期。夕方になると 「カナカナカナ・・・」 というヒグラシの声がよく響いています

いやはや。私は自分の思い込みを恥じてしまったのである。庄内平野でもヒグラシは鳴くのだ。もしかしたら子供の頃の他の思い出というのも、ずいぶんいろいろな記憶違いがあるのかもしれない。いちいち詮索したら、思い出の風景や音などというのは、実際とはかなり違っているのだろう。

まあ、それでもいい。思い出は個人個人で違っていてもいいじゃないか。記憶の微妙な違いが、その人なりの個性を作ることにつながっているということだってあるだろうから。

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2011/08/29

紳助引退に関連して、私もちょっとだけ書いておく

なんだか世の中が紳助引退の話でもちきりなので、私も何か書こうと思ったのだが、書こうにもあまり予備知識がないので書けない。とはいえ、ちょっと前に Twitter に彼について一言書いたことがあったので、行きがかり上、何か書いておく。ちなみにちょっと前の tweet とは、こんなのである (参照)。

島田紳助の出てる番組ってのをみた (タイトル忘れた)。芸能界における処世術を、紳助がドヤ顔でしゃべりまくるだけだった。表であんな調子なんだから、裏ではさぞかし説教好きなんだろうなあと思った。

なんとまあ、普段は全然彼の話題なんか書きそうもない私が、たまたまこんなことを書くと、それから 10日も経たないうちに引退騒動である。これからは芸能界から消したいタレントがいたら、私に言っておくれ。適当なことを tweet してあげちゃうから。

ちなみにこの tweet には、@morikenken さんからこんなような返信があったとお伝えしておく (参照)。

その説教を、無視したりすると殴られて事件になっちゃう訳ですね (笑)

そういえば、そんなような事件があったよなあ。態度がなってないとか言って、女性をぶんなぐっちゃったんだっけか。態度がなってない女性をぶんなぐるというのは、しかるべき行為だったんだろうなあ、彼にとっては。

で、私の tweet に戻る。私の見たのは出演者が簡単なクイズにまともに答えられないというような、バラエティ的にあるべき馬鹿の姿を競い合う番組だったんだけど、この中で紳助は (もう一般人だから 「さん付け」 にすべきだとの説もあるが、芸名なので慣例通り呼び捨てにしておく)、まあ、彼一流という類の話芸を披露していた。

ところがその話芸が、この手のバラエティ番組が好きで好きでたまらないというような視聴者にはよくわかるであろう楽屋落ちばかりちりばめられているので、たまたまちょっと見ただけの私のような者には、何がおかしいのかわからない。単に 「お笑い業界内処世術をドヤ顔で語っている」 だけにしか聞こえない。

で、彼が引退してから、彼に縁のある (のであろう) お笑い芸人、ファン、そして大阪府知事までが彼を惜しむコメントを続々と発しているのを見るにつけ、「ああ、あの世界は、事務所、メディア、タレント、さらにはファンまでもが一蓮托生になった運命共同体であるのだなあ」 と感慨を深くした。

ファンまでもが、まるで業界の一員であるかのような共同幻想を共有しているからこそ、あのような 「業界内処世術」 的なお話が、不思議な広がりをもって 「あるよね、あるよね」 ってな感じで通じてしまうんだろうなあと、しみじみ思ったのである。

この感じ、寿司屋の客まで 「あがり」 だの 「おあいそ」 だのと言ってるのと共通したイヤらしさを感じると言えば、通じる人には通じるだろうか。

上下関係に妙にうるさく、誰かがボケたらすかさずツッコミで応じないとつまらないヤツという烙印を押され、馬鹿を装いながら義理人情だけは欠かさずというような 「空気」 が、あの業界の外の世界までかなり広まっているということだ。今や、一般人の世界もなかなか大変なのである。とりもなおさず、極道の世界のバリエーションである。

この世の中のかなり広い範囲までが、そっち方面の 「勘の良さ」 とか 「如才なさ」 とかがないと、なかなか生きにくい世の中になってしまっているみたいなのだよ。疲れるなあ。正直言って、紳助のようなタイプの人間は、私はあんまりお友達になりたくないなあと思ってしまうのである。本当に、無茶苦茶疲れそうだ。

ただ、お友達になりたくないからと言って、テレビの世界から抹殺したいとまで思っていたわけじゃない (見なきゃいいだけだから) ので、今回の引退騒ぎは 「へぇ~!」 と驚くばかりである。これって、深く裏読みをすればいくらでも小ネタが出てくるんだろうが、そこまで突っ込むほどの興味がわかないので、この辺で止めておく。

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2011/08/28

したたかな謙虚さ

食工房の mikio さんがブログ 「飯豊の空の下から…」 の 8月 25日付で、「私たちが失ったもの・・・2」 という記事を書いておられる。もちろん、飯豊連邦を見上げる土地だから、福島のお話である。ちょっと引用してみよう。

この春のことですが、いつもなら山菜きのこなどが楽しみなこの季節、私も家族の者も、また伝え聞く限りの友人知人も、一切手を出しませんでした。
裏の杉林の中に伏せてあるほだ木には、シイタケがいつもにないほど沢山出ましたが、皆そのまま腐らせてしまいました。
こんな時の気持ち、お分かりになる方は沢山いらっしゃると思います。

花が咲いても、新緑がまぶしくても、その下に行って思いっきり深呼吸出来ないもどかしさ。
山の沢水を手ですくって口にすることも、もはやあり得ないことになってしまいました。

都会のど真ん中に住んでいて、自然と親しむなんて、テレビや絵本の中でしか経験のない人には、もしかしたらわからないかもしれない。あるいは、ちょっとした遠足程度でしか森の中に行ったことのない人にも、あまりピンと来ないかもしれない。

ここに書かれたような喜びを一度も得たことのない人にとっては、今回の原発事故では個人的には失ったものが少ないということなのかもしれない。

しかし、自然の中で自然の恵みを感じる喜びを知っている人にとっては、とても多くを失ったことになるのだ。本来ならば誰にも迷惑をかけずに享受することができたはずの、ほんの些細ではあるが、深い喜びにつながることが、得られなくなってしまったのだから。

そして実は、自然とともに生きる人にとっての損失は、普段は自然とは縁の薄い人にとっても、巡り巡っての大きな損失となる。それはまず、家庭の台所に響いてくるのだ。台所は暮らしを支える源の一つである。

今回の原発事故ではまだ 1人も死者が出ていないのだから、年間 1万人近くが死ぬ交通事故より原発は安全だという人もいる。しかし、死にさえしなきゃ安全だというのは、とても乱暴な言い方ではないか。それを言ったら、人は必ず死ぬのだから、生まれるほど危険なことはない。

ここで表現されているのは、電気をバンバン使って生産力を上げて、経済を強くして、いい暮らしをするのが幸せで、その幸せを支えるために、原発は必要だといったトーンの主張とは視点がかなり違う。

豊かな緑の下で安心して深呼吸ができること、自然の恵みをいただく喜びを味わえること、沢の水をすくって飲めること……。「いい暮らし」 をする幸せというのは、こうした喜びを失ってまで追い求める価値があることだろうかと、私は最近しみじみ思う。

もちろん、皆で 60年前の暮らしに戻ろうとか、電気も車もインターネットもない時代の方がよかったとか言うわけではない。ただ、持続可能な暮らしをするために、人間はもう少し謙虚にならなければならないというだけのことだ。

問題は、謙虚な存在は傲慢な存在に圧倒されてしまいがちだということである。だから、謙虚な存在は謙虚なりのパワーを持たなければならない。夢物語を語っていればいいというわけではないのだ。「したたかな謙虚さ」 という態度を、我々は身に付けなければならない。

例えば、太陽光パネルは寿命が来たら有害廃棄物になるとかいうような低次元の攻撃には、「リサイクルすればいいだけのことじゃん。寿命が来たら捨てるしかないと思う方が馬鹿じゃん」 と、ごく当然の反撃をするぐらいの武装はしておいても邪魔にはならない。

私がこの記事で書いた、夢見がちとも思われそうなロマンチックな感慨だけでは、持続可能な生活が実現されるわけがない。この記事のコンセプトを支えるには、科学技術を駆使する必要がある。エコ派というのは、科学技術を否定するようなナイーブな人たちというわけではないのだよ。

実際、mikio さんは工学系にかなり強いしね。

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2011/08/27

出張からの帰路

新幹線で京都から東京方面に戻る新幹線の中で更新をしている。ただし、日付は明日付となる。今回の出張は天気には概ね恵まれて、またしても晴れ男ぶりを発揮してしまったが、新幹線乗り場でちょっとあせった。

関東方面の大雨で、新幹線が遅れているというのである。ところがよく聞くと、東京方面は既に遅れを取り戻して、定刻運転に戻っているという。やれやれ、もう少しで新幹線の大雨による遅れの三連チャンになってしまうかと思った。

それにしても、新幹線のこのダイヤ調整能力というか、運用能力というか、大したものだなあと思う。新幹線の運転本数なんか、常磐線の快速電車よりずっと多いはずなのに、よくまあ事故も起こさずやっているものだ。中国とはずいぶん違う。

というわけで、今新幹線の中でこの更新記事を書いている。さすがに強行軍で眠いので、短めで失礼。明日はしんどそうなので、予定記事だ。

今日の京都は猛暑だった。太陽に照らされて歩いているだけで、頭がクラクラした。一方で、関東は大雨だったという。何だか梅雨の終わり頃のような前線が停滞していて、台風でもないのに各地で大雨になっている。本当に、近頃天気が極端だ。

明日も雨になるらしい。明日も外で仕事があるから、あまり激しく降らないでくれるように祈りながら、今夜はゆっくり休もう。

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2011/08/26

iPad 用の外付けキーボード使用レポート

出張で名古屋に来た。東京駅に着いたら、静岡県内の豪雨で東海道新幹線がストップして一部運休になっているというので、ちょっと冷や汗を書いたが、間もなく動き始めて、名古屋には約15分遅れで着いた。このくらいの遅れなら、ほとんど影響ない。OKである。

それよりも、夕方までは雨という予報に反して、曇りがちながら全然雨が降らなかったのがありがたかった。一応屋外での撮影もしなければならないので、このくらいの曇り空が、陰影がどぎつくならず、好都合である。相変わらず自らの晴れ男ぶりがありがたい。

仕事は滞りなく終了して、今ホテルにチェックインしたところ。昨日のブログに書いた折りたたみ式キーボードを使って、始めて本格的なテキスト入力をしてみている。今のところサクサクと思い通りに動いてくれていて、なかなか快適だ。やはり画面に出てくるキーボードをタッチするよりは、ずっと快適に打てる。

外部キーボードでありがたいのは、カーソルキーが使えることだ。ちょっとした5~6行のテキストならいざしらず、このブログ程度の文章でも、画面のタッチだけでは、やっぱりちょっとストレスになるくらいスクロールがトロい。キーボードの威力はやはり捨て難い。

もしあなたが iPad を使っていて、長文入力にストレスを感じておいでなら、外付けキーボードはとてもいい選択だとお勧めする。

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2011/08/25

iPad 用に折りたたみ式キーボードをゲット

iPad でストレスなく長文入力をするために、昨日 bluetooth 接続の外付けキーボードを買った。Apple の純正ではなく、ELECOM の TK-FBP028E という折りたたみ式キーボードである。

値段はアキバのヨドバシで 8,980円。Apple 純正キーボードの方がデザインがスマートで値段も 6,800円と安いが、出張の時などにホテルに戻って原稿を書いたりブログの更新をするためのものだから、少しでもコンパクトな方がいい。差額の 2,180円は、コンパクトさへの投資である。

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左側の写真は、iPad をケースを使って立てて、その前にキーボードを開いて置いたところ。これであたかもノート PC のように使える。右側の写真はたたんでケースに収めたところ。サイズがわかりやすいように、500ml のペットボトルを置いてみた。

このくらいコンパクトなら、出張に持っていっても苦にならない。iPad とこのキーボード (ケースを含む) を合わせても、910g にしかならないのだから、ノート PC と AC アダプターの約半分の重量だ。バッグに入れて持ち運ぶときのこの差は、案外大きい。

Bluetooth 接続の設定は、全く難しいところがなく、マニュアル通りにしたらあっという間にできた。キーは JIS 配列ではなく英語式だが、どうせローマ字入力なのだから全然 OK である。配列がちょっと独特だが、使っているうちに慣れるだろう。

ところで、今日からさっそく出張である。2日間で名古屋と京都を回る強行軍だ。とりあえずこのキーボードを携帯している。

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2011/08/24

韓国のあの国会議員は 「倭人」 ではなく 「倭奴」 と言ったらしい

昨日の「韓国国会議員の 「倭人」 発言を巡る冒険」 という記事で、私は基本的に韓国のチョ・ギョンテという国会議員の 「倭人」 発言は、ことさら問題にするようなことじゃないと書いたのだが、ことはもう少し複雑らしい。

というのは、親愛なる先輩 alex さんが、次のようなコメントを付けてくれたからだ。

私はこのニュースを見た時に、「倭人なんて言うはずがない。ウェノム (倭奴) と言ったに違いないと確信を持ったので、韓国のサイトで確認しました。
この国会議員はやはり 「イルボン ウェノム (日本倭奴)」 と発言していました。

私自身はハングルがわからないので、alex さんの言われる韓国のサイトをみても、どうせ判読できない。そこで、alex さんのコメントを全面的に信頼して話を進めるのだが、「倭人」 なら別にどうってことはないにしても、「日本倭奴」 では話が違う。こりゃ、やっぱり問題だ。

と言っても、私自身はこの発言そのものにいきり立つ気には到底なれない。別にこっちが怒らなくても、韓国の国会が自らの品位を自らの発言で落としただけのことだ

私がむしろ問題にしたいのは、チョ・ギョンテの発言の日本への伝わり方だ。これを日本に伝えたニュース (参照) は、事実を伝えていないじゃないか。「日本倭奴」 という発言を日本向けのニュースとして伝えるのに、敢えて 「倭人」 とモディファイしたのは、どういう意味なのだ。

韓国内では 「倭奴」 という漢字で報じられたわけではないにしろ、「ウェノム」 (ハングルでどう書くか知らないので、恐縮ながらカタカナで済ませる) という言葉の元の漢字が 「倭人」 ではなく 「倭奴」 というのは明らかではないか。

今月 12日に 「日本のマスコミで一番 「適切」 なのは 「無難」 であること」 という皮肉な記事を書いたが、「無難」 を追って 「正確さ」 を放棄するのがマスコミだとしたら、非常に残念なことである。

私は今日、久しぶりにちょっとだけ 「怒り」 のトーンの記事を書いている。怒っているのは、チョ・ギョンテに対してではなく、意図的に不正確な報道をした編集者に対してである。

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2011/08/23

韓国国会議員の 「倭人」 発言を巡る冒険

"韓国国会議員が日本人を 「倭人」 と発言、ネットでは 「痛快」 が多数" という記事が、一部で話題となっている。都知事が 「三国人」 というと何だかんだと批判を集めたりするのに、韓国の国会議員が明確に侮蔑的意図でそう言っても、日本ではほとんど話題にならない。日本は平和である。

「倭人」 発言をしたのは、チョ・ギョンテという名前 (漢字表記は知らない) の国会議員だそうだ。17日に国会知識経済委員会が開いた 「大企業の社会的責任強化に対する公聴会」 で、この人が 「私は日本が好きではないので 『倭人』 と呼ぶ」 と発言して、さすがに韓国国会内では問題になったらしい。

ところが韓国ヤフーのインターネット投票では、この問題について 「痛快な発言」 という解答が 全体の 62.4% (20日午後 3時現在) を占めて、いかにも韓国らしい反日感情をうかがわせる。

ところが、チョ代議士がいかに日本人を卑しめて 「倭人」 と読んでも、当の日本人があまり卑しめられた気がしていないのである。問題発言とされるのを覚悟の上で、せっかく気色ばんで言ったのに、のれんに腕押しみたいな感じになっている。

何しろ日本人は 「倭人」 が蔑称であるとは、あまり認識していない。『魏志倭人伝』 というのは学校で習ったから、この呼称を知らない人は少ないだろうが、そう言われても、あまりむっとするわけでもないのである。

ためしに手持ちの漢和辞典 (三省堂の 『携帯漢和中辞典』) で調べても、蔑称とする根拠となるような意味は出ていない。中国で日本を呼ぶ時に使った呼称という以外の意味は見当たらないのである。

念のため Wikipedia にあたってみると、次のように出ている (参照)。

解字
「倭」 は 「委(ゆだねる)」 に人が加わった字形。音符の委は、「なよなかな女性」 を意味し、解字は 「ゆだねしたがう」 「柔順なさま」 「つつしむさま」、また 「うねって遠いさま」

いかにも従順な日本人を表す意味合いの字のようで、それほどことさらに悪い意味でもないじゃないかというイメージである。「矮小」 の 「矮」 とはちょっと違うようなのだ。もっとも中国が周辺を呼ぶのに使ったのだから、いい意味であるわけがなく、あるいは、「言いなりになるやつ」 というような意味を込めているのかもしれないが。

さらに Wikipedia には 次のようにある。

奈良盆地 (のちの大和国) の古名。倭人ないしヤマト王権自身による呼称。「大倭」 とも記す。

つまり、「倭」 というのは、古代日本人が自ら使っていた呼称でもあったのである。「大倭」 が後に同音好字 (意味もそんなに遠くはない) の 「大和」 に変わったのだ。そして 7世紀には 「日本」 が正式国号となって、ほんの少しだけ 「言いなり」 ってわけでもなくなった。

というわけで、韓国国会では 「倭人」 発言が妙に問題になっているらしいが、こちらとしては、「まあまあ、あまりお気になさらずに」 と言ってあげてもいい程度のことのようなのである。何しろ、他ならぬこっち側でも使っていた呼称なのだから、他国に言われても別に怒る筋合いもない。

ということは、韓国のネット住民の痛快がりも、独り相撲でしかないわけだ。まあ、韓国の人たちは今では漢字にほとんど馴染みがないので、「倭」 というのはよっぽど卑しい意味の字だと思っているのかもしれないが。

さらに、「倭」 が日本のことと固定化される以前は、中国では朝鮮半島南部のことも 「倭」 と呼んでいたことがあったらしい。これ以上突っつくと、チョ先生ご自身が火の粉を浴びることになりかねないので、この辺で止めておこう。

【同日夜 追記】

alex さんのコメントによると、韓国人が日本人を侮蔑して呼ぶときは、「倭人」 などと言うはずがなく、「倭奴」 (ウェノム) と言うのだそうで、韓国のサイトで確認したところ、やはり 「イルボン ウェノム (日本倭奴)」 と発言していたのだそうだ。

そうだとすると、これはやっぱり問題だよね。私としては怒る気にはならないけど、あちらさんの国会の品位が落ちるわ。私としてはむしろ、「日本倭奴」 が 「倭人」 にモディファイされて日本に伝えられちゃったことの方が問題だと思う。

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2011/08/22

CD や 3D テレビは、10年後に生き残るか?

GIZMODO が 「【ギズ大予想】パソコンは、ゲーム機は、ガソリン車はなくなる運命なの? 10年以内に消え去るともいわれる10のガジェットたちを徹底分析!」 という興味深い記事を載せている。この予測記事は、10のガジェットの 10年後を次のように予測している。

  1. 新曲の CD 販売はなくなる...
  2. 家庭で特殊メガネをかけて 3D テレビを見る人などいなくなる...
  3. 電子ブックリーダーはなくなる...
  4. ハードディスクはコンシューマー向けにはなくなってしまう..
  5. カギがキーレスエントリーに取って代わってなくなる...
  6. 携帯ゲーム機は消え去る...
  7. デジタル音楽プレイヤーはかろうじて生き延びる...
  8. 意外にも固定電話はなくならない...
  9. ガソリン車が 10年以内に消え去ることはない...
  10. パソコン&キーボード&マウスの組み合わせは不滅です...

タイトルだけを読んで意外に思われる方は、リンク先に飛んで本文を読んでいただければ、概ね納得できるのではないかと思う。少なくとも私は 「そんな馬鹿な!」 とは思わなかった。

1番目の 「新曲の CD 販売はなくなる」 というのは、日本ではやや遅れるかもしれないが、世界的趨勢だろう。音楽は 「モノ」 の形で残すものじゃなくなってきている。さらに書籍もデジタル化するだろうが、こればかりは音楽ほどの勢いではないだろう。

書籍といえば、3番目の 「電子ブックリーダはなくなる」 という予測は意外かもしれないが、iPad などのタブレット端末がブックリーダー機能をもつので、専用機としてのリーダーはなくなっていくというものだ。なるほど。

この意味で、「ゲーム専用機」 としての 「携帯ゲーム機は消え去る」 という 6番目の予測も納得だが、7番目の 「デジタル音楽プレイヤーはかろうじて生き延びる」 というビミョーな予測は、どうなるだろうか。スマホは忘れても、小さな音楽プレイヤーだけは手放せない層があるというのは確かだが。

4番目の 「ハードディスクはコンシューマー向けにはなくなってしまう」 というのは、SSD の普及という要因のほかに、「だんだんと若い世代ほど、HDD を搭載しないといけないようなコンピューターを必要としなくなってきている」 ということが挙げられている。これは私がよく書いている 「多くのホームユーザーには、PC は必要ない」 ということと重なる。

ただ、一見これと矛盾するのが、10番目の 「パソコン&キーボード&マウスの組み合わせは不滅です」 という予測だ。「不思議なことかもしれませんが、どんなに時代が進んでも、パソコンにキーボードとマウスという組み合わせだけは、引き続き末永く残っていきそう」 というのである。

これは私自身の実感においても共感できる。私はリビングルームや外出先では、今では iPhone や iPad を使っていることが圧倒的に多いが、自分のコックピット (狭いワークスペースのことを、最近こう呼んでいる) では、相変わらず PC を使い倒している。長文原稿入力や、ややこしい業務をこなすには、やはりキーボードとマウスが必要なのだ。

たとえ音声入力が進歩したとしても、私は PC の前でぶつぶつ呟き続ける気にはならないので、キーボードは手放せない。また、タッチパッドを使ったりスクリーンをタッチしたりするよりも、マウスを使う方が仕事がサクサクと進む。こればかりは 10年やそこらでは変わらないだろう。まだまだ肩凝りを我慢するしかないようなのだ。

おもしろいのは、3番目の 「家庭で特殊メガネをかけて 3Dテレビを見る人などいなくなる」 という予測だ。これに関しては私も昨年 5月に 「3D 映像を巡る冒険」 という記事の中で、次のように書いている。

家庭用テレビに関しては、わざわざ正面に座ってかしこまって見るようなヘビーなプログラムでないと、3D  の意味はなかろう。どうでもいいお笑いやバラエティを、眼鏡かけてかしこまって見てもしょうがない。

やはり 3D はヘビーなプログラムを劇場で見るということに落ち着くのではなかろうかと思う。さらにもっと言えば、家庭用の大画面テレビというのも、需要が一巡してしまったらもう伸びはないのではなかろうか。

液晶テレビの価格がますますこなれていったら、自分の部屋で、せいぜい 20インチぐらいの小さな画面で楽しむというような傾向になると、私は思う。お茶の間の大画面で家族揃って一つの番組を楽しむという、「昭和の家族」 的光景は、ちょっと無理じゃないかなあ。

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2011/08/21

「温暖化」 というのは 「極端化」 を穏やかに言っただけ

金曜日の夜に京都から帰ってきたら、関東は妙に涼しかった。夜の 9時頃に JR 常磐線の取手駅に降りると、地面は大雨が降ったことを物語るようにびしょびしょで、その上を涼しい風が渡っていた。前線が南下して、関東は前線の北に入ってしまったようなのである。

今日も最高気温がせいぜい 25~26度。ずいぶん涼しい。明日はもう少し上がって、27度ぐらいになり、火曜日からはまた 30度を超えるようになると予測されている。それでも、先週までのような猛暑日にはならないようだ。31度ぐらいなら、涼しく感じてしまう。

先月の終わり頃、お盆過ぎには涼しくなるというようなことを書いたが、ちょっと遅れたものの、まあ、本当に涼しくなってしまった。昨年の今頃はまだまだ暑くて気が遠くなりかけていたが、今年は楽といえば楽だ。

ただ気になるのは、暑いときにはやたらと暑く、涼しくなると急に涼しくなるという 「極端な天気」 である。「地球温暖化」 と言うと、中には 「地球が温暖化すれば、住みやすくなっていい」 とか 「極地でも穀物が取れるようになれば、食糧危機が回避される」 などと呑気なことをいう人がいるが、そんな生やさしいものじゃないようなのだ。

「地球温暖化」 というのは、もっとわかりやすく言うと 「気候の極端化」 ということであるらしい。大気がまんべんなくかき回されて、平均的に暖かくなるというだけなら、何とか対策の講じようもあるのだろうが、実際には気候変動が極端になるのだ。やたらと大型台風が発生したり、竜巻が生じたり、暖冬になったかと思うと大雪になったりもする。

バランスの取れたモデレートな気候ではなく、極端から極端に走るような、やたらと振れ幅の大きな気候になるものであるらしい。

それであの 「京都議定書」 も、実際の名称は 「気候変動に関する国際連合枠組条約の京都議定書」 (Kyoto Protocol to the United Nations Framework Convention on Climate Change) という。「温暖化」 とは言わずに 「気候変動」 と言っている。

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2011/08/20

MS に高い 「奉納金」 を払うのは、もう止めようじゃないか

昨日の 「Windows のブランド・イメージを気にしてみると」 という記事に alex さんが強烈な MS 悪玉論のコメントをつけてくれた。「自分勝手な、あこぎな、傲慢な、強引な、独裁的な商売」 だというのである。そのレスとして、私は次のように書いた。

MS が商品開発をストップして、既存ソフトの販売だけを行う会社になったとしても、消費者の大多数はちっとも困らないと思います。

「それじゃあ困る」 という、ほんの数パーセントの人たちのために、大多数の消費者が高いソフト代を 「奉納」 してるようなものです。

前にどっかの記事で読んだのだが、マイクロソフトが 「Office の次期バージョンで実現してもらいたい機能は何か」 というアンケートをしたところ、返ってきた要望のほとんどは既に実現されている機能ばかりだったということだ。つまり MS Office は、もうこれ以上の機能拡張は必要ないところまできているのである。

だからはっきり言って、MS はこれ以上の商品開発なんてする必要がない。既存のソフトを売り続けてくれればいい。ところが、それではソフト会社として儲からないので、無理矢理新バージョンを作って売ろうとする。新機能の必要がなくなった今、手を付けられるのはユーザー・インターフェイスの部分である。

例えば Office 2003 から 2007 に移行した際には、ユーザー・インターフェイスががらりと変わった。あれだけ Windows ソフトの基本ともなっていたメニューバーやツールバーを排して、妙な 「リボン」 なんていうものにしてしまった。おかげで、それまでの UI に慣れ親しんでいたユーザーは大混乱を起こしてしまった。

私はいつも言うのだが、UI の基本的構造があんなに勝手に変更されてしまっては、自動車だったら命がいくつあっても足りない。パソコン・ソフトだから、命まで危なくはならなかったが、あのおかげで私のようなベテラン・ユーザーが、一瞬にしてビギナーに落とし込められてしまった。まったく、余計なことはしないでもらいたいものである。

「MS が商品開発を継続してくれないと困る」 という層は、おそらくユーザーの 10%以下だろう。残りの 90%は、「余計なことをされると迷惑でたまらない」 と思っている。せっかく苦労して操作に慣れたのに、その努力が一挙に無駄になってしまうのだから。

つまり一般のユーザーは、ほんの数パーセントのコア・ユーザーのために、自分たちにとっては迷惑でこそあれ、ちっとも役に立たない MS の新開発を、高いソフト代を 「奉納」 して支えているのである。

そこで提案である。PC を買うときは、MS Office がプリ・インストールされている機種を避けよう。Office ソフトが必要なら、無料の OpenOffice を始めとして、MS Office 互換のいろいろなものが出ている。もちろん完全互換ではないが、よほど複雑なことでもしない限り支障は出ないから、それで十分だ。それによって、ハードを購入する際の値段も下がる。

上記の記事へのコメントで、alex さんは次のように述べておられる。

純粋に個人ユースであれば、多分、ネットでの使用がほとんどであるだろうし、安価で軽い互換ソフトを使いたい
しかし、ビジネスユースであれば、マイクロソフト以外のソフトを使用することに、主に社外との互換性・整合性の面から、不安がある

確かに、そう考えているユーザーは多いだろう。しかし私は、ビジネス・ユースでこそ、無料の互換ソフトを使ったらいいのではないかと思う。というのは、PC を 30台使っている事業所で、MS Office を 30セット買ったら (あるいは、1セットで 2台にインストールすれば 15セットで済むが)、かなりのコストがかかる。

無料 Office セットを導入して、互換で多少の違いが出ても、それはそれで割り切って諦めればいい。それは大抵の場合、最終的にプリントしたときの見た目の問題であることが多いのだから、逆に言えば、PC 上で個人的に作業をしている間は、互換なんて気にしなくていい。

もしそれが共同的作業である場合は、作業継続の間は互換が保証された機能だけを使用し (大抵の場合はそれで十分だ)、最終的にフィックスした段階で、見た目の部分を意識して調整すればいい。そして、それはフィックスしちゃっているのだから、PDF で配布すればいい。

もう MS に高い 「奉納金」 を出して、迷惑でしょうがない開発が継続されるのを支えるなんていう馬鹿なまねは止めたいと思うのである。

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2011/08/19

Windows のブランド・イメージを気にしてみると

Windows のブランド・イメージって、どんなようなものなんだろう。とくに、非パソコン・ユーザーとライトユーザーにとっては。

試しに 「Windows/ブランド・イメージ」 という 2つのキーワードでググって見ても、私の求める解答に行き当たりそうなページはほとんど見当たらない。思えば消費者はこれまで、Windows のブランド・イメージなんてことを気にする必要性に迫られていなかったのだ。ほかに選択肢がほとんどない分野で、そんなことを言っても始まらない。

せいぜい、ほかに Mac という結構かっこいい独自機種があって、独自の Mac OS というのがあるみたいだけれど、世の趨勢に習うならば、しかたなく Windows を使う方が無難そうだという、一種の諦観じみた思いがあるにすぎないのではなかろうか。

こんなことが気になったのは、スマートフォンの世界に Windows Phone なるものが上陸して、iPhone、Android に続くスマートフォンの第三勢力になるというニュースを見かけたからである。これまでも Windows Mobile なんてものがあったが、それとはまったく別の OS として開発されたのだそうだ。

朝日新聞のサイトでかなり詳しく解説してあった (参照) ので、ちょこちょこっと読んでみたところによると、Windows Phone は、PC の Windows の操作感とは共通しない独自のインターフェイスを持っているのだそうだ。アイコンに代わる 「タイル」 なんていうのが売り物らしい。

私は初め、仕事などで Windows を使っていて、スマートフォンでも操作感の近いものを求める需要に対応するのかと思ったが、そうでもないようなのだ。それは Windows Mobile までのコンセプトで、Windows Phone では、スマホの分野でイチから新たなマーケティングをするつもりらしい。

そしてうわさによると、その UI が Windows 8 にも使われるというのである。ということは、Windows ユーザーはまたしても、MS の勝手な仕様変更で戸惑うことになるのである。せっかくベテラン・ユーザーになっても、ある日突然、ビギナーに落とし込められてしまうのである。そんなことを自動車の世界でやられたら、命がいくつあっても足りない。

とまあ、いろいろあって、非パソコン・ユーザー及びライトユーザーにとっての Windows のブランド・イメージというのが気になったのである。彼らにとって、Windows の名を冠したスマホは、「あの Windows の流れだったら、とりあえず信頼できるわぁ」 ということになるのか、はたまた 「何だか難しそうで、うっとうしいわぁ」 となるのか、興味あるところだ。

というのは、私自身がこれほどまでに普段の仕事で Windows PC を使い倒しながら、「スマホまで Windows なんて、ご免こうむりたいわ」 と思っているからである。

自慢じゃないが、私は Windows に関してはかなりのヘビー・ユーザーである。たいていのことならあっという間にサクサクとこなせるし、操作法を人に聞かれて教えてあげることだって多い。

その私が、Windows Phone は PC の Windows とは別物とは重々知りながら、「何が悲しくて、スマホでまで Windows 使わなきゃいけないんだ?」 と、ちょっと理不尽なまでの反感を募らせてしまうのだ。

恐縮ながらこればかりは、これまでのブランド・イメージが邪魔しているのである。スマホなんてものは手軽に簡単にサクサクと使いこなしたいのに、あの 「重くて」 「使いもしないおせっかい機能満載で」 「画面がダサくて」 「操作が面倒くさい」 Windows の流れの上にある OS なんて、あんまりそそられないと思うのだよ。

それは、モバイル PC にしてもそうだ。外に持ち歩く PC なんて、インターネットでの情報収集と、メールと、オフィスで作ったファイルの閲覧とちょっとした編集ができさえすればいい。そんなことに Windows PC は必要なかろう。iPad で十分だ。

いくら Windows 搭載のノート PC が 3万円台で買えるようになったからといっても、そしてそれにインストールするオフィス・ソフトは、あの高い MS オフィスなんかじゃなく、フリーソフトで十分といっても、やはりもう Windows を持ち歩いて使うなんて、ちっともスマートじゃないと感じてしまうのである。

ちょっと前までは、個人でデジタル情報を取り扱うにも Windows PC 以外の選択肢はないに等しいか、あっても非常に小さなものだった。消費者の多くは、長らく無駄な買い物をしてきたのである。使い切れないご大層なものを買って、それを使いこなせないのは自らの能力不足のせいに違いないと、泣く泣く自分を責めてきたのである。

そしてようやく、そんな時代じゃなくなったのだ。Windows のブランド・イメージって、多分今では、プラス・ポイントよりマイナス・ポイントの方が大きくなりつつあるんじゃないかと思う。

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2011/08/18

「エルヴィス」 と呼ぶか 「プレスリー」 と呼ぶか

今朝ラジオを聞いていたら、「次の曲は、プレスリーの 『ラブ・ミー・テンダー』 です」 と言っていた。日本ではエルヴィス・プレスリーのことはなぜかファミリーネームだけとって 「プレスリー」 と呼ぶことが多いようだが、私はそのことにいつも違和感を覚えてしまう。

私自身は普通は 「エルヴィス」 と言う。それは私がエルヴィス・プレスリー世代ではなく、ビートルズ世代だからだと思う。ビートルズ世代はあの4人のことを 「ジョン」 と言い、「ポール」 と言い、「ジョージ」 「リンゴ」と言う。

「レノン」 とか 「マッカートニー」 とか言うことは、特殊ケースを除いて滅多にない。,マイケル・ジャクソンとかになると、「ジャクソン」 とだけ言うなんて考えられない。だからエルヴィス・プレスリーのことも 「プレスリー」 とだけ呼ぶのは、何だかとても居心地が悪い気がする。

いずれにしても、欧米人のことはファーストネームで呼ぶことが多い。最初は 「ミスター◯◯」 とか 「ミズ◯◯」 とか呼んでいても、ちょっと親しくなると、あるいは親しくなる前でも向こうの方からファーストネームで呼んでくれと言い出す。

というか、周り中でファーストネームで呼んでいるから、自然にそれに馴染んでしまう。目上だろうが上司だろうが、向こうがファーストネームで呼んでもらいたがっているならお構いなしだ。

ところが、ミスターだのミズだのの敬称なしにファミリーネームで呼ぶのは、ちょっと失礼なことであるらしい。あるいはケツの毛羽まで知ってるような悪友同士だと、敬称なしのファミリーネームで呼び合うことがあるようだが、それは日本人が親しみを込めて苗字を呼び捨てにするよりもずっと 「濃い」 ケースだ。

というわけで、わたしはどうしても 「プレスリー」 と言う気になれないのである。あるいは、世界にあまた存在するプレスリーさんの中でもエルヴィスは別格中の別格だから、「ザ・プレスリー」 というような意味でそう呼ぶのかなあ。

いや、それとも蒸気機関の発明者を 「ワット」 と呼び、米国初代大統領を 「ワシントン」 と呼び、黒船でやってきた提督を 「ペリー」 と呼ぶような、古典的なノリなのかなあ。ロックンロール世代のシンボルなのに。

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2011/08/17

英語式語順は、自然な思考の順番に反するらしいのだが

"「英語式語順は、自然な思考の順番に反する」 研究結果" というとても興味深い記事を見つけた。「英語式語順」 というのは、主語 (S)、動詞 (V)、目的語 (O) という順に文が構成されるシステムで、例えば "Bill eats cake." (ビルが、食べる、ケーキを)」 というような順番になる。英語に限らずほとんどのヨーロッパ語と中国語はそうなっているはずだ。

一方、日本語やトルコ語 (韓国語もそうらしい) では 「ビルが、ケーキを、食べる」 というように、主語 (S)、目的語 (O) 、動詞 (V) という語順になる。私の友人の日系ブラジル人 (母語はポルトガル語) は、日本に来た頃、この語順の違いにかなり戸惑ったという。

「だって、『何がああして、こうして……』 という話を聞いていて、『ああ、そういうことなんだな』 と思っていると、最後になって急に、『……じゃないんですよ』 なんて言われるんだもの。頭の中がひっくり返っちゃう」

なるほど、ヨーロッパ語のシステムでは、「……じゃない」 というのは、主語のすぐ後にくる動詞に "not" に相応する言葉を付け加えることで、早々に明らかにしてしまう。日本語の語順だと、最後の最後で 「どんでん返し」 に聞こえてしまうというのも、わからないではない。

ところが、人間の思考の順序に自然に沿っているのは、英語式ではなく日本語式の語順なかもしれないという。Wired Archives から引用してみよう。

6月 30日 (米国時間) に 『米国科学アカデミー紀要』 (PNAS) に発表された論文によると、主語 (S)、動詞 (V)、目的語 (O) の順に文章が構成される (例えば「Bill eats cake (ビルが、食べる、ケーキを)」) SVO 型言語を話す人であっても、身ぶり手ぶりでコミュニケーションを取るよう求めると、主語、目的語、動詞の順番で意志を伝えたという。

例えば、「少女が、ドアノブを、回す」 という動作を身振り手振りで伝えるように求めると、ほとんどのすべての被験者が、主語 (少女が)、目的語 (ノブを)、動詞 (回す)の順に身振り手振りしたというのである。

身振り手振りという手段による固有で限定的な順序でないことは、絵の描かれた透明シートを任意に重ねて意味を構成するという実験においても確認された。ほとんどすべての被験者が、主語 - 目的語 - 動詞 の順で絵を重ねたという。

多くのヨーロッパ語が SVO 型の語順を採用しているのは、この実験にあたった Goldin-Meadow 氏が指摘するように 「言語は思考から独立している」 ということを証明しているのかもしれない。

自然な志向の順序に逆らってでも、SVO 型の語順を採用することによって、日本語の場合のような 「最後のどんでん返し」 が生じないように、論理を明確に整えたいという欲求が、ヨーロッパ語を話す人々の間には強いのかもしれない。これはつまり、言語としての 「加工度」 を高めているということになる。

一方、日本人やトルコ人は、論理の明確さを多少犠牲にしても、自然の流れをそのまま言葉にする方がしっくりくるということなのだろう。論理化するために順序を変えて (加工度を高めて) 言語化するという行為が、ストレスになってしまうのだ。

しかし私自身日本人でありながら、英語で話す場合には SVO 式語順がごく当たり前のこととして、ほとんどストレスには感じられない。ということは、人間の思考というのは、使用する言語にかなり影響されるということなのかもしれない。

確かに、論理的なことを表現しようとすると、日本語より英語を使う方が楽だ。英語を母語としない私でもそんなふうに感じるのだから、言語の制約というのはかなり大きい。そういえば、ドイツ語、英語、日本語、スペイン語、イタリア語、中国語を話すドイツ人の友人は、「哲学は英語では考えられない」 と言っていたなあ。

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2011/08/16

「米不足」 の風評に踊らされると、高い買い物をすることになる

まだエアコンのコンセントを外したままで、いい汗をかいている。猛暑日になったらいくら何でも耐えきれないと思っていたが、案ずるより何とやらで、何とかなるものだ。最近ではエアコン効き過ぎの電車に乗ると、かえって気持ち悪い。

時節柄、とりあえず 「米不足」 の風評に踊らされないようにしようと思う。

東京と大阪で 72年ぶりに再開された米先物取引は、原発事故の影響による米供給不足の懸念から買い注文が殺到し、初日から不成立になったという。こんなのは個人的には関係のない情報である。こんなことで、古米を高い値段で無駄に買いだめする行為に走る人が気の毒である。

平成 5年 (1993年) の米騒動を忘れないようにしよう。あの時だって、「記録的な冷夏による米不足」 ということで、店頭から米が消え、タイ米の輸入までしたはずだが、翌年の春には、(つまり、翌年の収穫のずっと前には) 店頭にフツーに米が並んでいた。「今までどこに隠してたんだよ」 と言いたくなったものだ。

商人というのは悲しい性をもっているもので、「品薄になる」 という情報が出始めると、流通の各段階で品物を隠し始める。供給を意図的に小さくして、値上がりを促進するのだ。いや、そんなセコイ意図ではなく、「十分な在庫を確保するため」 なんてのが、出荷抑制の理由になるかもしれないが、まあ、いずれにしても 「隠す」 ことには違いない。

理由は何にしろ、「品薄情報」 が出たら、自然に供給は不必要なレベルにまで抑制されるのだ。まずメーカー (米の場合は農家) が、品物をバックヤードに隠す。そう言って差し障りがあるなら、「いっぺんに出荷する量を控える」 という行為に出る。表現はどうあれ、要するに、「十分にあるものを隠す」 のである。

すると、一次卸も倉庫の奥の方に品物を隠す。二次卸も隠す。小売店も隠す。流通の各段階で 2割ずつ隠したら、消費市場に出回る量はあっという間に半分以下になる。これは消費者がパニックになるには十分な状況で、多くの消費者が買いだめに走る。それによって、状況はばさらにひどくなり、小売店の棚から商品が消え去る。

平成の米騒動の時だけでなく、これはオイルショックの時のトイレットペーパーでも経験したことだ。一時的にパニックになっても、しばらくするといつの間にか商品はどこからか湧いて出てくる。

それは当たり前のことで、流通業者は商品を隠したはいいが、倉庫代がかかる。隠しておくのもコストがかかるのである。とくに米なんていうのは古米になったら値段が下がるから、ある時点で在庫負担に耐えきれなくなって、あちこちからポロポロ放出されるようになる。

一度在庫放出が始まれば、いつまでも隠しておくことはできない。相場があまり下がらないうちに我も我もと放出するようになる。かくして、あれほどまでに 「品不足」 といわれていたはずのものが、あっという間に潤沢に供給されるようになる。

私自身が恥ずかしながら、オイルショックの時代に 「灯油隠し」 を経験している。その経験談は こちら をご覧いただきたい。この記事を書いた平成 15年にしても、米が不作で品薄になり、秋口には前年比 40%以上の値上がりなんて言われていたが、あっという間に潤沢な供給が回復した。

というわけで、お米は必要な量だけをフツーに買うようにしようね。そうでないと、一番高いときに無駄な量の買い物をすることになってしまうよ。

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2011/08/15

音楽がヘビーな意味をもてた時代

昨日の朝、山下達郎が TBS ラジオの番組に出て、とてもおもしろいことを言っていた。60年~80年頃のロック・ミュージックが、どうしてあんなにも素敵だったのかというと、それは LP レコードというメディアがあったからだというのである。

LP レコードというのは、片面 22~23分。両方を合わせても 50分弱の時間しか録音できない。これは、人間が一つのことに集中することのできる時間とぴったり重なるというのである。しかも、LP レコードは基本的にステレオ装置の前に座って向かい合って聞くしかない。ウォークマンとか iPod のように、延々と歩きながら聞くなんてわけにいかないのだ。

そしてこの頃、録音技術の飛躍的な進化があった。とても素敵な音を楽しむことができるようになった。こうした要素の合わせ技で、この時代のロック・ミュージックは、時代の先端を行く文化であることができたのだという指摘である。なるほど、それは言えてる。

60年代から80年代にかけて青春時代を過ごした私の世代というのは、音楽に真剣になって向き合ったのである。それ自体が一つのアートとも言えるレコード・ジャケットから LP レコードを拝むように取り出し、そっとレコード・プレーヤーに置いて、慎重に針を乗せる。

こうした一連の儀式ともいえるほどの手続きを経て、スピーカーに向かって座り、流れてくる音を真正面から受け止める。ダンス・ミュージックでも BGM でもない。真剣に向き合って聞く音楽と、私は一緒に育ったのである。

翻って、ウチの娘たちの音楽の聴き方をみていると、全然違う。音楽をかけっ放しなのである。部屋で何かをしながら、車を運転しながら、歩きながら、かけっ放しにしているのだ。求められるのはその場の 「ノリ」 と 「雰囲気」 である。私の世代が音楽に求めていた 「哲学」 みたいなものは、ほとんど問題にされない。

あの頃の音楽は、「哲学」 の発信を要求されていたから、アルバムが一つの単位だったのである。一曲だけでは表現しきれないから、半年に一曲ヒットすればいいというのではなく、アルバムで勝負していたのである。そのための素晴らしいメディアが LP レコードというものだった。

というわけで私は、音楽がとてもヘビーな意味をもった時代に、リアル・タイムで音楽を聴くことができた、とても幸せな世代に属していると思う。はたして今の若い世代は、あの頃のようなヘビーな意味をもつ音楽を、受け止めきれるんだろうか。

まあ、音楽ごときにそんなヘビーな意味なんか求めてないというなら、それはそれでいいんだが。

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2011/08/14

「大連立」 を巡る冒険

菅首相が退陣について、今までよりもいくらかはっきり言うようになったということは、もう 「ポスト菅」 の動きが本格化したということなんだろう。ただ、はっきりしたのは 「菅さんはようやくもう終わり」 ということだけで、その後がはっきりしたというわけではまったくない。秋以後のビジョンは相変わらず薄ぼんやりしたままだ。

そんな中で 「大連立」 というのが、いつの間にか大きなテーマになっている。言い出しっぺは野田財務大臣なんだろうが、火種はずっと前からあったことだ。ずっと前からあって、それが表面化するたびにあっという間に葬り去られていたのだが、急に現実的な問題となってしまっている。

ここに来て野田財務大臣だけでなく、岡田幹事長や前原元代表までそれを追認するような発言をし始めたということは、大きな方向性として実際に模索され始めているということなんだろう。

東日本大震災からの復興という至上命令があるなかで、ねじれ国会なんてやってる場合じゃないというのは、かなりもっともらしいお話で、少なくとも期間限定で大連立をするというのは、あながちとんでもないことではない。かなり説得力はある。

しかし 「期間限定」 で滑り出したとしても、その期間というのがいつまでを指すのかというのがうやむやになって、だんだんおかしなことになる。「目途が付いたら」 という発言でうやむやにしたままここまで粘っているという、素晴らしい前例があるのだから、それは確実である。

で、そんなこんなで、政界はシャッフルされて再編成に向かう…:… ということになれば、いっそすっきりするのだが、そんなにうまくいくかどうかは、さっぱりわからない。この国の政治は 「もう一歩踏み出せばすっきりする」 という段階までくると、必ずその手前でうやむやになってしまうという習性がある。

いずれにしても、岩手・宮城・福島がガタガタの状態では、総選挙をするのはほとんど不可能なので、選挙をしないで政権交代、あるいは政権の枠組み変更を行うには 「大連立」 しかない。

問題は自民・公明がそれに乗っかってくるかということだ。乗っかれば総選挙なしで政権に参加することができるが、それをしたら、野党として民主党のいい加減さを責めることができなくなるという逆効果も生じる。思案のしどころなんだろう。

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2011/08/13

あのサントリーが、ウェブ CM でこんな凡ミスを

サントリーの CM といえば、よくできているというイメージがあったんだけど、力抜いちゃうとやっぱりこけるということがわかった。う~ん、それにしても、個人ブログなんかではありがちな変換ミスでも、あのサントリーが CM でやっちゃうと、がっかり感が増幅するなあ。

それは  「サントリーウエルネス健康情報」 というウェブ上の、健康食品プロモーションのアニメ CM である。商品は 「黒酢にんにく」 というやつだ。ふとした拍子に、「サントリーがこんなの扱ってんのか」 と思ってクリックしてみたら、なんだか冗漫なテンポのアニメが始まった。(参照:今月 21日までの期間限定なので、それ以後は多分表示されないと思う)

「サントリーにしては、できの悪い CM だなあ」 と思いつつ、その珍しいほどのできの悪さに注目していたら、冒頭で触れたがっかり感の漂う変換ミスのシーンが登場した。

Tw110812

「他品種/多品種」 は本当にありがちな変換ミスで、私なんかもよくよく気を付けなきゃいけないんだけれど、ほかならぬサントリーさんがこれをやっちゃうのを目の当たりにすると、「ああ、日本のクォリティ・コントロールも、よくよく落ちちゃったなあ」 と思ってしまうのである。

サントリーとしては黒酢にんにくなんていうのはサイドジョブにすぎないんで、CM 制作にしてもあまり力が入らず、この程度の安っぽいものになっちゃうんだろうが、それにしても、こんな凡ミスをしてしまうようでは、よくよくチェック体制が甘かったんだろう。

ウィスキーやビールのテレビ CM では、まさかこんなチョンボはしないよね。

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2011/08/12

日本のマスコミで一番 「適切」 なのは 「無難」 であること

近頃、トルストイの 『アンナ・カレーニナ』 の冒頭を思い出した。手元の新潮文庫版では 「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである」 (木村浩・訳) となっている。

きっかけは例の東海テレビの 「不適切なテロップ」 問題だ。これは率直に言えば 「不適切な」 というよりは  「不穏当な」 とか 「悪意のある」 とか 「ドジで軽はずみな」 とかいう方が 「適切」 だと思うのだが、そこはそれ、「不適切テロップ」 という無難な言い方で収められている。日本のマスコミでは 「無難」 であることが最も 「適切」 と考えられている。

「不適切な」 という形容詞 (いや、形容動詞というのかな?) は、ものすごく便利な言葉である。「適切」 は限られているが、「不適切」 のバリエーションはほとんど無限大だ。だから問題をかもすようなことはすべて 「不適切な○○」 とぼかしておけば無難に収まる。要するに、ドジをかましたら 「不適切な○○がございました」 として謝っておけばいい。

「不適切な」 という便利な言葉が、日本でこれほどまでに重宝されるようになったのは、ビル・クリントンのホワイトハウス内不倫が明るみに出て以来なんじゃないかと、私は思っている。モニカ・ルインスキーとの 「不適切な関係」 というのが、大変な話題となった。

ビル・クリントンが "I did have a relationship with Ms. Lewinsky that was not appropriate." ともったいぶった告白をしたのを受けて報道されたもので、"relationship that was not appropriate" (不適切な関係) というのは、1995年の流行語となったほどだ。あれ以来、「不適切な」 というのはとても便利な言葉として使われるようになった。

ちょっとググってみただけで、まあ、本当に様々なドジの謝罪に関して 「不適切な」 が使われている (参照)。しかし、「不適切な」 なことに関してあまりにも次々に謝りすぎると、世の中つまらなくなるんじゃあるまいか。

冒頭に触れたように、「適切な」 ものはとても一様で限られているが、「不適切な」 ものは多様なのだ。ときには敢えて 「不適切」 を押し通すことで 「おもしろい」 「意義のある」 ものが生まれる。適切すぎると、あまりにも無難でつまらないのである。

まあ、そこは 「さじ加減」 の問題なのだけれど、あの震災以後のマスコミの原発に関する報道姿勢は、確かに 「無難」 を追うことを 「適切」 としすぎていたことが問題だったと思われるところがある。

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2011/08/11

父が杖を突いて歩く

実は昨日まで二泊三日で酒田に帰郷していた。肺炎で入院していた父の様子をみるのと、お盆にはちょっと早いが墓参りが目的である。父はかなり回復していて、ベッドに寝ている必要もなく、ちゃんと起きていられるようになっていたのがありがたい。

何だか知らないが、来週には 「5年間肺炎がぶり返さなくてすむようになる注射」 というのを打ってもらうことになっているのだそうだ。それなら、あと 5年間は死なずに済むということなのだろうか。まあ、ほっと一安心である。

ただ、ほっと一安心はいいのだが、ほぼ 2ヶ月近く入院していたので筋肉が弱っていて、しかもその弱った筋肉が、筋肉痛を発生して、杖を突きながらようやく歩くという状態になっていた。あまり心配なので、評判のいい整形外科に連れて行った。

その整形外科は通いでリハビリに来る患者が多く、待合室で待っていると次々に呼び出されてリハビリ室に入っていく。その様子をみると、みんな結構しゃきしゃきしていて、「あんた、一体どこにリハビリの必要があるの?」 ってな感じである。杖を突いてヨタヨタ歩いている父が、一見すると一番重症に見える。

ところがレントゲンを撮って診察してもらったら、医者はあまりまともに取り合ってくれない。「どこも悪いところはありません。長く入院していたんで、単なる筋肉の疲れでしょう。痛み止めと筋肉をほぐす飲み薬と塗り薬を 1週間分出しておきますから、それで大丈夫ですよ」 と言う。

その軽い気持ちの説明を聞いて、父も私もすっかり安心して帰ってきた。要するに、おとなしくして薬を飲んで塗っていれば治るということだ。事実、翌日にはかなり痛みが取れて楽になったようだ。

で、父が杖を突いてヨタヨタ歩くのをみているうちに、永六輔さんのことを思い出してしまった。永さんは一時、かなり滑舌が悪くなって、何をしゃべっているのかわからなくなってしまったことがある。ところが最近は見事に回復して、放送に差し支えないほどになっている。

永さんも二度連続して転んで骨折してしまい、今では杖を突いて歩いているという。そして最近、パーキンソン病であることを明らかにした。パーキンソン病というのは神経変性疾患の一つで、運動障害を伴うことが多いという。父の筋肉痛はそのうち治るが、パーキンソン病は難病なのだそうだ。

そして、「あれ、ウッディ・ガスリーは何だっけ?」 と思って調べたら、こちらは 「ハンティントン病」 という病気だった。不随意運動を伴うことが多いので、昔は 「ハンティントン舞踏病」 とも言われていた。症状としては、パーキンソン病と似たところもあるらしい。ハンティントン病は遺伝するので、息子のアーロ・ガスリーもそのうち発症するんだろうか。心配である。

今日は暑いせいか、何だかとりとめもない話になってしまった。一応エアコンなしでがんばっている。

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2011/08/10

暑さの 2番目のピークが来てしまった

酒田を午後 3時半に発って、高速道路を 400km 以上走り、10時半過ぎに帰宅した。何しろ夜中に近いので、つくばの自宅周辺は少しは涼しい風も吹き始めているが、娘たちの証言によると、日中はやばいほどの暑さだったらしい。

先月 24日に 「暑さのピークは過ぎてしまったようなのだ」 という記事を書いたが、そうは問屋が卸さなかったようだ。その前の 16日の生地で、"何しろ急速に 「温暖化」 が進んでいるので、お盆休みの前にしのぎやすくなるなんていうのは、甘すぎる期待かもしれない" と書いた通りになってしまった。うーん、くやしいなあ。

7月下旬の見通しでは、太平洋高気圧はしぼみ傾向で、これ以上発達することはないとみられていたのが、実はもう一度復活してしまった。やっぱり温暖化の威力は半端じゃない。明日はますます暑くなって、この辺りも体温以上の気温になりそうだ。行きがかり上、これまで通りエアコンなしで過ごしてみたいと思うが、さすがにちょっと厳しいかな。

それにしても晴れ男の私が離れたとたんに、故郷の庄内地方は大雨になるらしい。そして関東が体温以上の気温になるというのは、薬の効きすぎかもしれない。お盆過ぎには少しは涼しい風が吹き始めるのを期待しているのだが、どうなるかなあ。

とにかくお盆過ぎの私は、しばらく出張続きの旅烏になる。しかも旅先は京都とか名古屋とか、日本でも一番暑苦しい地域だ。少しは暑さが和らいでいてもらいたいんだがなあ。

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2011/08/09

都会の富士山

8月 2日の 「和歌ログ」 で紹介したように、東京港区には愛宕山という山がある。標高 25.7m で、自然の山としては東京 23区内の最高峰なのだという。山上には愛宕神社があり、NHK の前身、社団法人東京放送局 (JOAK) が、1925年の日本初のラジオ放送をこの山から発信したことでも知られる。また 『鉄道唱歌』の1番めに出てくる 「愛宕の山」 は、この山のことである。

だがここで話題にしたいのは、この愛宕山ではない。東京 23区内にはもっと高い山がある。それは箱根山 (44.6,m) という人工の山である。新宿区戸山 2丁目にあって、母校のすぐ近くなのに、私は一度しか登ったことがない。

この箱根山は江戸時代、尾張藩徳川家が回遊式庭園 「戸山山荘」 を造成した際に、池を掘った残土を積み上げたものと言われている。なんでも本物の箱根山を模して造ったというのだが、どこが本家に似ているんだかさっぱりわからない。

人工の山を造るなんて、あまりにも酔狂だと思う人もいるかもしれないが、実はそんなに珍しいことではない。関東では至る所に 「富士塚」 という人工の山がある。ちょっと調べてみたら東京近郊では、江古田 (練馬区)、豊島長崎 (豊島区)、下谷坂本 (台東区)、木曽呂 (埼玉県川口市) の4基の富士塚が重要有形民俗文化財に指定されている。

私が実際に行ったことがあるのは、埼玉県志木駅近くの 「富士山」 である。高さは 33尺 (約 10m) で、正式名称は 「田子山富士塚」 だが、地元ではみんな 「富士山」 と呼んでいるようだった。

「富士塚」 は、昔の「富士講」の人たちが、本当の富士山まで登りに行くのは大変なので、近場に富士山に似せた山を造って間に合わせちまおうとか、高いところから本物の富士山を望みたいとかいう発想で造ったらしい。「浅間神社」 という名前の神社がちょっと小高く盛り上がったところに建っていたら、それはきっと富士塚で、つまり 「人工の富士山」 だ。

実は私の住むつくば近辺にも人工の富士山 = 富士塚らしきものがある。平成 20年の元日に徒歩で約 10km の道のりを歩いて初詣のハシゴをした時に、このつくばの浅間神社にもお参りしたことが写真入りで述べてある (参照)。やっぱり、小高く盛り上がったところにあった。

昔の土木技術も結構大したもので、「よくまあ、こんな酔狂を」 と思うほどの山が造られている。なかなか捨てたものではないのである。

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2011/08/08

原発のせいかも

高校で同級だった わたなべ じゅんじ くんが、自分のサイトでおもしろいことを書いている。まあ、いつもそこはかとなくおもしろいことを書いてくれるんだけど、今回はとくにそこはか度が高くて、なま暖かい気持ちにさせてもらった。

トップページにある 「週一/うたたねコラム」 の 8月 3日付である。ちょっと引用させてもらう。(参照

今年はセミの鳴き声をあまり聞かない。原発のせいかな。このあいだスーパーマーケットの駐車場でスズメがセミを空中キャッチしているのを見た。スズメなかなかやるなと、そのときおもったが、よく考えてみるとそれも原発のせいでセミが弱っていたのかも。

うん、これいい。とりあえず、軽い気持ちで 「原発のせい」 ということにしておいて、「かな」 とか 「かも」 とかで、チョー無責任にボカすというのは、これからの自由業系おっさんの新しいスタイルになるかもしれない。

ちなみに、「今年はセミの鳴き声をあまり聞かない」 というのは、かなり地域差が大きいようで、ウチの周辺では去年よりずっと蝉の声がうるさい。じゅんじくんの家よりずっと原発に近い茨城でセミが多いんだから、まあ 「原発のせい」 じゃないとは思うんだけど、でもとりあえず 「原発のせいかな」 と言っておいても、そんなに罪深いってわけじゃない。

セミがスズメに空中キャッチされちゃうのも、「原発のせい」 なんかじゃなさそうな、ビミョーなところがいい。セミはどうせ 1週間ほどで弱って死んじゃうんだから、弱ってるセミに遭遇する確率は元々ものすごく高いんだけど、そこをあえて原発に関連させてみるという芸風は、そこはかとなくいい。今後少なくとも数年は使える。

これを発展させると、「今日はよく鳥のフンが道に落ちてる。原発のせいかな」 とか、「今日はコーヒーでむせた。原発のせいだろうか」 とか、「今日は赤信号によくひっかかる。原発のせいかも」 とか、いろいろな発展型を使える。

こうしたファクターというのは決してウケるはずがなくて、「あ~あ、またなんか言ってる」 と、ビミョーにうウザがられることは請け合いである。しかし、その程度の毒にも薬にもならない、かすかなしつこさというレベルをキープするのが、浮世で生きる上の望ましいインテリジェンスというものだ。

我々の世代ももうすぐ還暦なんだから、あんまりスマートな大人になり果てては、おもしろくないしね。

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2011/08/07

世代別ハモり感覚

一昨日の 「SMAP がハモらないのは その2」 に、テレビ画像論の発端を提供してくれた まこりんさんから、またまた新鮮なご指摘をいただいた。日本人で自然にハモれるのは、60~70年代に青春を送った人限定なんじゃないかというのである。ちょっと引用する。

多分、自然にハモれる日本人ってのは、60~70年代に青春を送った人限定なんじゃないかな―って思います。洋楽が自然と入ってくる環境で、かつ、友達が集まると自然と誰かがギター持ってきてっていう、その二つが重なるのってその世代限定な感じですし。たしかにあの時代の邦楽フォークってハモり、そこそこ多いですしね。

確かに、そんなようなことがあるかもしれない。私は若い人間が 3人集まればギターを弾けるヤツが少なくとも 1人はいて、そいつの伴奏でちょっとハモってみるなんていうのは、日常茶飯事なのだと思っていたが、今どきの若い連中にはギターを弾けるやつが案外少ないのである。最近それを知って、心底驚いた。

あるいは、エレキ・ギターを持っていてもまともにコードを押さえられるヤツが少ない。C - Am - F - G7 というコード進行を G に移調したら G - Em - C - D7 になるという当たり前すぎることでも、わかってるやつなんかさらに少ない。そんなだから、自然のハモり感覚が体に入ってるやつとなると、絶望的に少ない。

だから、何人かが一緒に歌っても、ユニゾン以外の選択肢がない。あるいは 「アカペラ・コーラスやります」 なんていうから期待して聞いてみると、リードボーカル以外はベース・ラインと 「口 (クチ) パーカッション」 だけなんていうのが多くて、こけそうになる。あんなのは、ちっとも 「コーラス」 じゃない。

「ここは最高のハモりどころじゃないか」 というようなサビを、済ました顔でユニゾンされちゃうと、私なんか気持ち悪くてイライラしてしまう。「こいつら、絶対損してる!」 と思う。ところが、まこりんさんは、次のようにおっしゃる。

私の世代なんかは完全に90年代のカラオケボックス全盛で、いわゆる個人個人が好きな曲勝手に歌うっていうノリで。人が歌っている時はカタログ見て曲選ぶ 時間ですから、ハモる暇なんてないわけですよ。つか、唐突にハモり入れたりする人はちょっとうざい人?扱いだったりしますし。

ふむふむ、これもわかる気がする。盛り上げるためにハモってあげると、メインメロディ歌ってるやつがハモりにつられて壊れてしまって、「じゃまするな」 なんて怒り出したりする。そんなのはオッサンだけかと思っていたが、実は若いやつほどよく壊れる。ハモりが 「じゃま」 になっちゃうという、信じられない世界が現出している。

確かに、東アジアにおいては、60~70年代青春派以外には、「ハモり」 なんて別の世界のお話なのかもしれない。ものすごく哀しいことだが。

と思っていたら、平成の清少納言、朱鷺子さんから次のようなコメントをいただいた。

実は、私も皆さんと一緒にお炊事などする機会があった時、
じゃあ、歌うたいながらしましょう~なんて言って、
「夏は来ぬ」 とか、ハモッていた時代がありましたよ。

う、これ、すごい! 60~70年代青春派の "sing out" スタイルのハモりとはまったく異質の世界。これはもう、昭和のお嬢様の世界である。私なんか、不覚にも萌えちゃうのである。

"Sing out" スタイル (← このリンク先は必見! 私は何度見ても泣ける) では、ハモりはとても様式的に決まり切っていて、つまりパターン化されていて、体感として慣れさえすれば楽譜なんて読めなくても自然につけられる。さらに慣れると、即興的バリエーションも加えながら、どんどん進化して、陶酔のリズムの世界になる。

ところが 『夏は来ぬ』 (とか 『椰子の実』 とか 『冬景色』 とか 『夏の思い出』 とか 『遙かな友に』 とか) になると、「主旋律」 と 「低音部」 とかがきちんと作り込まれていて、その通りに歌うと、えも言われぬ美しいハーモニーとして響き合う。

どっちかといえば、楽譜で憶えて合わせましょうという世界だ。"Sing out" とはスタイルが違う。使う筋肉が違う。賛美歌とゴスペルぐらい違う。

音楽は奥が深い。朱鷺子さんと 『夏は来ぬ』 をハモってみたい。

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2011/08/06

iPhone、iPad のウェブ表示の不具合

本宅サイト、「知のヴァーリトゥード」 のトップページのデザインを少し変更した。前はボタンを並べたバーを右側に配していたのだが、左側に変えた。下図のような具合である。バランスとしては変更前の方がいいと思っているのだが、不具合解消のためには仕方がない。

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変更前のデザインだと iPhone と iPad の Safari では、下図のような具合に表示されてしまっていた。右側のサイドバーが、本来は隠れているはずのブログのサイドバーとかぶって表示されてしまうのである。

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これはちょっとまずい。かねてまずいまずいと思ってはいたが、PC 版の Safari ではまともに表示されるので、「まあ、いいか」 とも思っていた。ところが時間が経つにつれて、やはり 「まあ、いいか」 では済まないという気がしてきたのである。それだけ、iPhone と iPad に馴染んでしまったというわけだ。

修正は簡単だった。左と右を入れ替えればいいだけのことだ。簡単にはできたが、予想されたこととはいえ、iPhone と iPad では、修正後のデザインが下のように表示されてしまう。まあ、前のようにかぶってしまうよりはいいのだが。

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というわけで、iPhone と iPad 版の Safari は、まだちょっと未完成の部分があるようなのだ。いや、Safari に限らず、iPad にインストールした Lunascape でも同じように表示されてしまうので、OS ベースの話なのかもしれない。

iPhone、iPad は、他の部分に関してはかなり満足しているので、いずれにしても、早くアップデートして、まともな表示ができるようにしてもらいたいと思っている。まあ、最近では読者の多くが本宅サイトではなく、ブログの方に直接行ってしまわれるようなので、あまり大きな問題ではないのかもしれないが。

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2011/08/05

SMAP がハモらないのは その2

今年初めに 「SMAP がハモらないのは」 という記事を書いたところ、まこりんさんからとても興味深いレスをいただいて、「ああ、なるほど」 と思い、そのうちそれについて書こうと思っていたのだが、つい忘れてしまっていた。半年以上も経って今さらながらだが、書こうと思う。

まこりんさんからのご指摘は、日本の、ポップス・グループがハモりを重視せず、コマ切れ代わりばんこにソロをとって、ユニゾンのサビで締めるみたいなスタイルになっているのは、テレビというメディアと強い関係があるということだった。ちょっと引用してみよう。

とはいえ、グループのソロ→ユニゾンという構成は、それがテレビで歌われる曲だ、ということも考慮に入れたほうがいいかもしれません。特にジャニーズ系なんかの場合。
各ソロパート → 寄りでメンバー各人のワンショット、ユニゾン → 遠景でメンバー全員のショット、という絵的な作りやすさから採用される面もあるんじゃないかな、と。

なるほど、テレビにおける 「絵的な作りやすさ」 であったのか。

そう言われてみれば、日本の、いや、今となっては東アジアのポップス・グループの歌のテレビ映りは、既にかなり 「様式化」 されているようなのだ。まこりんさんのおっしゃる通り、各ソロパートは各メンバーのアップで、ユニゾンになるとカメラを引いてメンバー全員のショットにするというスタイルである。

ソロのパートはアップになるメンバーが次々に入れ替わるので、かなりめまぐるしい。これがまあ、いわばエキサイティングな効果となって、DNA的に (?) ハモりが苦手な東アジア人にとって、魅力的な演出補完ともいえる状態になっている。

さらにこれによって、グループの各メンバーのプロモーションもほぼ公平にできるということもある。AKB 48 の 「総選挙」 なんていうのがあるように、単にグループ全体として売るよりも、各メンバーを競合させて売る方がいい。なるほど、コマ切れソロというのは、効率的なビジネス・モデルである。

また、最近のテレビはワイド画面が多いから、遠景でメンバー全員のショットを無理なくフィーチャーできるというのも、ちょっとした強みなる。そんなわけで、アイドル・グループというのはテレビにとっては使いやすい素材なんだろう。

そういえば、モー娘のカメラワークをフランス人が絶賛して説明する動画が YouTube にある。メンバーがソロを取る順番とそのメンバーが立つ位置とをあらかじめ熟知して、交代で追い続けるカメラマンのチームワークがすごいというのである。

(参照) http://www.youtube.com/watch?v=D4EKdNs9A2s&feature=player_embedded

これをみると、あのスタイルは東アジアのポップス・グループが、振り付け、そしてテレビカメラの緻密な職人芸とコラボして築き上げた特殊技術だったのだとわかる。ここまで完成されたスタイルになってしまうと、なかなか変えられるものではない。一方向への進化のベクトルが行き過ぎてもなかなか止まらないのは、経験則からも知られる。

ただ、このスタイルにおいては 「音楽性」 とくに 「ハモり」 の要素が極端に軽視されてしまう。それが 「グループで歌ったら、ハモるのが当たり前」 というか 「グループで歌うのにハモらないのは、損してる」 という感性で接した時の違和感の根元になっている。とくに画像を伴わないラジオや CD で聞くと、学芸会レベルにも及ばない。

それにこのスタイルだと、パフォーマンスをがちがちに固定してしまわなければならない。メンバーがそれぞれの感性でフリーに即興をまじえるなんてことは御法度だ。そんなことをしたら、テレビの絵が壊れてしまう。つまり、かなり不自由なスタイルといえる。音より絵を重視する結果なんだろうけど。

とまあ、そんなわけであれは、音楽パフォーマンスをするメンバー自身の音楽的センスはあまり要求されず、振り付け通りのダンスと、それを支える体力、そしてユニゾンで目立ちすぎない中途半端な歌唱力の方が優先的に要求されるという、極めて特殊なスタイルなんだとわかる。

音楽なのに一定以上の音楽的センスが邪魔になるという点に関しては、アイドル路線においては昔からの伝統でもある。まともな音楽センスがあったら、あんなようなのをこなすばかりでは、不満が高じてしょうがないだろう。

先日、何とかいう K ポップスの男の子たちのグループが 「得意の」 アカペラ・コーラスを生で披露するのを、帰宅途中のカーラジオで聞いたが、あまりにもメロメロで、それを苦し紛れにほめる日本人パーソナリティがかわいそうになった。東アジア人は、軽はずみにはハモらない方がいいようなのだ。

つまるところ、SMAP にハモりなんか要求してはいけないと、しみじみ思った。あれは、あれでいいのだ。きわめて特殊なスタイルとして、放っておけばいいのだ。

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2011/08/04

「まじる」 と 「まざる」 の違い

@nifty の 「デイリーポータル Z」 に 「外でやってる将棋にまざる」 という企画があった。近所の公園でおじいちゃんたちがやっている野良将棋の輪に加わってみるというのである。「一人で飲みに行ったり、一人でそば屋に入ったり、ちょっと敷居が高いかなと思う場所に飛び込んではみんな大人になっていくのだ」 という崇高なる主旨である。

このタイトルを読んで、将棋についてまったく疎い私が気になったのは、この企画で飛び込んだ大北栄人さんが、はたしていい勝負ができたのかとか、そういった問題ではない。またしてもいつものように、ちょっとした細かい日本語が気になってしまったのである。

「まざる」 だと? この場合は、「まじる」 というべきじゃないのか? いやいや、もっと言えば、この場合に使うべき漢字は、「混じる」 なのか、はたまた 「交じる」 なのか? 微妙なところではあるが、いったいどうなんだ。

ああ、まったくもって因果なことである。こんな細かいことが気になって、きちんと調べずにはいられなくなってしまうのだ。決して暇ってわけでもないのに。

で、さっそく辞書 (Goo 辞書 = 大辞泉) を引いてみたのである。こんな具合だった。

まざ・る【混ざる/交ざる/▽雑ざる】 (参照
[動ラ五 (四)]

性質の異なるものが中に入り込む。まじる。「酒に水が―・る」 「カシミアの―・ったウール地」

まじ・る【混じる/交じる/▽雑じる】参照
[動ラ五(四)]

  1. ある物の中に種類や性質の異なる別のものがはいり込む。まざる。「黄の―・った緑色」「麦の―・った御飯」「髪に白いものが―・る」
  2. グループに加わる。仲間にはいる。交際する。「子供たちに―・って遊ぶ」
  3. 分け入る。山野などにはいりこむ。    「野山に―・りて竹を取りつつ」〈竹取〉

なんだかまどろっこしいので、念のため iPhone にインストールしてある 『大辞林』 の方にもあたると、こんな具合だ。

まざ・る【混ざる/交ざる/▽雑ざる】 [動ラ五(四)]

二種類以上のものが一緒になって、一体となる。まじり合う。「水と油は―・らない」「麦の―・った御飯」

まじ・る【混じる/交じる/▽雑じる】 [動ラ五(四)]

  1. あるものの中に、他の種類のものが少量入る。入る物が少なく、異物感の強い場合にいう。「御飯の中に石が―・っていた」 「雑念が―・る」
  2. 仲間に加わる。交際する。(用例省略)
  3. 野や林に分け入る。(用例省略)

こうして比較してみると、大辞泉よりも大辞林の方が語義の説明が綿密で、違いがわかりやすい。大辞泉の 「まじる」 の方の 1番目に出ている語義は、「まざる」 とほとんど変わらないので、どっちを使ってもよさそうに思えるが、大辞林ではある程度明確に区別されている。

大辞林の方の、「まじる」 の説明で、「異物感の強い場合にいう」 というのは実感である。一方 「まざる」 は、渾然一体というニュアンスが強くなる。確かに、「御飯の中に石が "混ざって" いた」 とは、方言は別として NHK 的標準語では言わない。

さて、ようやくこのテーマの本題となるのだが、将棋仲間に加わるというような場合は、やはり 「まじる」 という方が妥当のようなのだ。大辞泉も大辞林も、 「まざる」 には「仲間に入る」 というような語義は挙げられておらず、それは 「まじる」 の方にある。

そして漢字としては、「混じる」 でも 「交じる」 でもいいみたいだが、「交じる」 と書く方がやや深く入り込んだヘビーなニュアンスかもしれない。

ただ、方言とか慣用句のレベルでは、仲間に入れてもらうのを 「まざる」 ということはある。庄内弁では 「まざる」 のみで、「まじる」 という単語自体がない。違和感なく素朴にしっくりと仲良くまぜてもらうような場合は、庄内的感性では、「まざる」 でもいいかもしれないという気がしてきた。

ちなみに、上述のデイリーポータル Z の企画で公園の野良将棋の輪に加わろうとした大北栄人さんは、当初は高いと感じたハードルをなんとなく乗り越えて、ビミョーに 「まざって」 しまったようなのだ。その顛末を読み終えた時点で、「なるほど、ここは破格の用法として 『まざる』 以外にないな」 と、なま暖かい気持ちでほぼ納得したのだった。

日本語の懐は深い。

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2011/08/03

韓国人名の読み方のダブル・スタンダード

当ブログの昨日のアクセス解析を見てびっくりした。久しぶりに 3,000 の大台を超えて、よもや 4,000 というところまで迫っている。多分 ケータイやスマホ向けの表示を見た人も入れたら、4,000 は軽く越してしまっているのだろう。

一体どうしたのかと思ってリンク元を調べたら、あちこちのニュース・サイトで先月 28日付の「麺類を茹でるのに多量のお湯は必要なかった」 という記事を紹介してくれているのだった。インターネットの世界でも、こんな下世話なテーマがあまたの興味をひくらしい。

さらに、今日になってからもアクセスはかなり多めで、しかも妙なアクセスが増えている。これもリンク元を調べたら、2ch のまとめサイト 「ゆめ痛」 というサイトからのが最も多かった (参照)。

今日に日付が変わって早々の2ch のスレに 「韓国 反省する」 というのがある。例の日本の国会議員が韓国に入国拒否されたという事件で、韓国側があまりにストレートすぎる対応をしたために寝た子を起こすみたいなことになったと、韓国内でも反省論が出ているというものだ。

そのスレの 169 番目のコメントで、私が 3年前に書いた 「中国人、韓国人の名前の読み方」 という記事に言及されている。

この 3年前の記事で私が提示した疑問は、未だに解決されていない。それは、どうして 「イ・スンヨプ」 は、英語だと "LEE" さんなのかということだ。疑問の前提は、中国人の名前は日本語読みしても問題にならないのに、韓国人の名前を日本語読みするとクレームがくるということだ。

名前の読み方は、国際的には大抵どこでも 「相互主義」 でやっている。それはアルファベット圏の欧米人同士だったら、お互いに自国の読み方で通しても問題ないということだ。例えば "Agnès" という名前は、フランス人には 「アニエス」 だが、アメリカ人は 「アグネス」 と呼ぶ。それで構わない。それが相互主義だ。

アルファベットの固有名詞の読み方を自国流にしていいという慣習があるのだから、漢字の読み方だってそれに準じて当然だ。

だから、日本人は中国人の名前を日本語式に読むが、中国人はそんなことで文句を言わない。そして、日本人の名前も中国では当然ながら中国式に (実際には北京語式と広東語式があるのだが) 読まれていて、それを初めて聞いた日本人は 「ああ、それって、俺のことか !?」 と驚きはするが、そりゃ仕方のないことと割り切る。

そんなのは当たり前のことで、例えば 「イエス・キリスト」 が英語で 「ジーザス・クライスト」 になっても誰も 「そりゃ、変だ」 なんて言わないのである。「ヨハネ」 が 「ジョン」 になるのも、「ペテロ」 が 「ピーター」 になるのも 「パウロ」 が 「ポール」 になるのも、当たり前のことなのだ。そして 「カエザル」 が 「シーザー」 になるのも、やっぱり当然なのだ。

ところが、韓国人は自分たちの名前を日本語読みされることに耐えきれないらしい。というのは、彼らは日本人の名前を日本語発音で呼んでいるらしいのである。だから、「日本人も韓国語の発音通りに読め」 ということのようなのだ。

しかし、それはほとんど向こう側の都合である。というのは。彼らは漢字を捨て去ってハングル表記をもっぱらとしているので、自分の名前とおなじみの固有名詞で使われる漢字の読み方ぐらいしか知らないらしいのである。

というわけで、漢字表記された日本人の名前を韓国式に読むことすら難しい。だから、日本人の名前も漢字ではなくハングル表記するしかないみたいなのである。つまり、彼らが日本人の名前を日本語式に発音しているのは、彼らが漢字が読めないからというだけのことであるらしい。東アジアの共有文化を捨て去ったのは、彼らの都合である。

それで、「日本人も韓国人の名前を韓国式に読め」 ということになる。それで、最近の韓流スターなんかは面倒を省くために、みなカタカナ表記になっている。それならそれで、話が早いから OK だ。

ところが、漢字で表記されている固有名詞まで韓国語読みしろといわれても、ちょっと困るのである。だって、韓国語式の読み方なんて、学校で習わないから知らないんだもの。日本のマスコミも、もう面倒だから、韓国の固有名詞はすべてカタカナ表記にしてくれる方がいいかもしれない。そうすれば、いっそ面倒なく 「相互主義」 でいける。

と、ここまでは、まあいいのであって、本当に問題なのはここからだ。韓国の人たちは、「李」 という名字を、日本人には日本式の 「リ」 ではなく 「イ」 と読んでもらいたいとしているのに、英米人にはなぜか "Lee" と読ませて平気のようなのだ。「イ・スンヨプ」 という野球選手のユニフォームの背中には、堂々と "LEE" と書いてある。

韓国大統領 「李明博」 は、日本人には 「イ・ミョンバク」 と読ませたいらしいが、英語表記は "Lee Myung-bak" である。なんで日本人が 「リ・ミョンバク」 と読んじゃいかんのか、私には理解できない。

先代の大統領 「盧武鉉」 も、日本人には 「ノ・ムヒョン」 と読ませておいて、英語表記は "Roh Moo-hyun" である。欧米人が 「ロー」 と読む分にはいいが、日本人が日本式に 「ロ」 と読むのはいけないようなのだ。

このあたりの事情は、私にはさっぱりわからないのである。韓国語が多少わかる人は、「李」 の発音はとても微妙で、「イ」 とも 「リ」 とも聞こえることがあるなんて説明してくれるが、じゃあ、どうして日本人が 「リ」 と読んじゃいけないのかという疑問の答えにはなっていない。

韓国人の名前の読み方は、日本向けと欧米向けのダブル・スタンダードがまかり通っているようなのである。

【平成 26年 6月 30日 追記】

この問題について、まだすっきりとしたわけじゃないが、一応の疑問が解けたので、今年 1月 3日付 「韓国人の名前の読み方で、ちょっとだけ疑問が解けた」 という記事をご参照いただきたい。

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2011/08/02

ちょっとしたことで 5000文字も書きたくなんかない

内田樹氏がご自身のブログに 「140字の修辞学」 という記事を書いておられる。Twitter 的な短い文章は、それはそれでいいが、そればかりが得意になりすぎるのも問題だとおっしゃっているのである。そしてその理由を、次のように挙げておられる。

「寸鉄人を刺す」 という俚諺から知られるように、「寸鉄」 的コメントは破壊においてその威力を発するからである(「寸鉄人をして手の舞い足の踏むところをしらざらしめる」 というような言葉は存在しない)。
何より、一刀両断的コメントは、書いている人間を現物よりも 150%ほど賢そうに見せる効能がある。

うぅん、そうかなあ。私は内田氏のおっしゃることの 8割以上は共感してしまうのだが、こればかりは首を捻ってしまったのだよ。だって、短い文章の全てが 「人を刺す寸鉄」 というわけじゃない。そして、Twitter や 2ch の短いコメントは、「現物より 150%ほど賢そうに見せる」 とは限らない。かえってお馬鹿に見えることも多い。

ということは、内田氏は 「人を刺す寸鉄」 のみを指しているのであって、短い文章全般を問題としているわけではないのかもしれない。などとも思ったが、いやいや、そういうわけでもないらしい。だって彼の記事の最後はこんなふうに締めくくられている。

というようなことを書くと、「ふざけたことを言うな」 というご批判が早速あると思うが、如上の理由により、私宛のご批判は 「5000字以下のものは自動的にリジェクト」 させて頂くので、皆さまの貴重なプライベートタイムはそういうことに浪費されぬ方がよろしいであろう。

5000字以下の短い文章での批判は、「自動的に」 リジェクトするというのだから、内容を問わず 「文章の長さだけ」 を問題にしておいでのようなのである。で、私としては内田氏に 「自動的にリジェクト」 されるんじゃつまらないから、先方に伝わる、伝わらないは度外視して、ここでこんな風なことを書いているのである。

私は一時期、業界新聞の記者をしていたこともあり、文章は短く簡潔に書くべしという大原則をたたき込まれた。ただ、単に短く簡潔なだけではおもしろくも何ともないということは、いくらなんでも重々承知していて、「一筆啓上火の用心。おせん泣かすな、馬肥やせ」 なんていう手紙を至上のように言う都市伝説には、以前に疑問を呈している (参照)。

私が 「一筆啓上火の用心。おせん泣かすな、馬肥やせ」 という手紙を 「つまらん」 というのは、そんなこと、別に手紙で言う必要もない当たり前のことだからだ。つまり、究極的に短く簡潔な文章のように見えて、実は内容的には 「くどい」 のである。「簡潔さ/くどさ」 というのは、文章の長さとは別の問題である。

そして、こう言っちゃなんだけど、でもまあ、思い切って言っちゃうけど、内田先生のブログの御文章だって、結構 「くどい」 じゃん。恐縮だけど、私はいつも流し読み、飛ばし読みしちゃうよ。

以上、ちょっとしたことで 5000文字も書かされるのはたまらんというお話なのであった。

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2011/08/01

日本水泳界が自由形選手育成に力を入れたら

上海で開かれている水泳世界選手権の男子 400メートル・メドレーリレーで、日本 (入江、北島、藤井、日原) は 日本は第三泳者のバタフライ藤井までトップだったが、最後の自由形でアメリカ、オーストラリア、ドイツにかわされ、4位に終わった。どうみても日本の課題は自由形 (要するにクロール) 種目の強化である。

TBS ラジオ 「小島慶子のキラキラ」 でスポーツライターの生島淳氏がこの件で語ったところによると、日本水泳でクロールが弱いのは、かなり構造的な問題なのだという。

まず日本の水泳界では、「日本人は体格的にクロールでは世界で戦えない」 という思い込みが強いのだそうだ。確かにムキムキの欧米選手と比べると、クロールの、とくに 50m とか 100m とかの短距離では勝負にならないと思うのもしかたがない。

そこで日本のスイミングクラブでは、有力選手ほど中学校ぐらいでクロール以外のを専門種目にする傾向があるのだそうだ。なるほど、コーチが 「こいつ、才能があるな」 とみたら、世界でメダルの取れそうな種目に行けと勧めるのは、当然といえば当然だろう。敢えて競争の激しい種目に分け入っていくよりは、結果が出しやすい。

なるほど、それで日本のメドレーリレーは、第三泳者までは強いのだ。そして最後の自由形で、「こいつ、世界では勝負できないな」 とコーチに思われてしまった選手が泳ぐということになるのだから、最後の最後であっさり逆転されるのは当然だ。

ただ、日本人がクロールでは世界で勝てないという思い込みの根拠は、最近崩れつつあるらしい。というのは、400m や 1500m で、韓国と中国の選手が金メダルや銀メダルを取っているからだ。日本人と体格的にはあまり変わらないアジア選手が活躍しているのだから、日本人だって少なくとも中長距離でならやれないはずがない。

ただ、日本の水泳界でクロール選手育成に力を入れ始めたとしても、その成果が現れるまでには 5年から 20年かかるだろうという。すぐに強い自由形選手が出現するわけではない。息の長い話のようなのだ。

さらに自由形選手育成に力を入れるとなると、これまで背泳ぎや平泳ぎにまわっていた運動能力の高い少年少女のうちの一部が、自由形の方に供給されることになる。ということは、自由形以外の選手層がこれまでと比較して薄くなるということだ。ということは、背泳ぎや平泳ぎは多少弱体化するだろう。

つまり 「自由形さえ補強すればメドレーリレーで楽勝できる」 というわけではない。「あちら立てればこちらが立たず」 というのは世の常である。

これは水泳界に限らず、何事も一筋縄でいくものではない。なでしこジャパンの活躍に刺激されて、多くの身体能力の高い少女がサッカーを始めるようになると、他のスポーツが手薄になる。今日本女子が強い柔道やレスリングがこのままいけるとは限らない。

さらにスポーツ界ばかりではない。ビジネスの世界、とくに製造業の競争力にも言えることだろう。どこに力を入れて育成するかで、未来の構図は大きく違ってくる。エネルギー問題でもそうだ。現状は、これまで原子力に力を入れすぎてきたことの結果である。

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