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2011/11/22

「自由」 と 「機能」

Today's Crack というコラムがココログに移行する前、水泳の 「自由形」 というものについて書いたことがある。せっかくだから、 ちょっと抄録してみよう。

それは、我が家にテレビというものが導入されて間もなくの頃だったから、東京オリンピックの1~2年前の夏休みだったろうか。たまたま、山形県の水泳大会 (多分、高校の大会だったろう) がテレビで実況されるのを見た。画面はもちろん白黒である。

おりしも、種目は女子 100メートル自由形。私はそれまで、「自由形」 というのは 「クロール」 の別称だと思っていた。どんな水泳競技会でも、「自由形」 でクロール以外の泳ぎをする選手を見たことがない。

号砲一発、きれいにそろったスタート。しかし、浮き上がって泳ぎ始めると、どこかおかしい。よく見ると、両端のコースの 2選手だけが、明らかに 「異様な動き」 をしているのである。

一人は 「横泳ぎ」。田舎では 「ノシ」 といった。水泳大会に出て 「ノシ」 で泳ぐ選手を、私は生まれて初めて見た。

もう一人は、明らかに 「背泳ぎ」 である。そういえば、この選手だけ飛び込み台からではなく、水中でスタートしたような気がする。ならばどうして 「背泳」 の種目に出ないのかと思っていたら、50メートルのターンをしたところで 「平泳ぎ」 になってしまった。どうも、「背泳ぎ」 では50メートルが限界で、後半は 「平泳ぎ」 に転換しないと、100メートルもたないらしい。とんでもない水泳選手だ。

アナウンサーが 「自由形というのは、本来、このように自由な形で泳いでいいんです」 と、真っ当だがかなり苦しい説明を入れる。そうかと思うと、解説者は、「そうですね。いろいろな泳ぎ方で記録を伸ばしてくれる選手が、もっともっと出てくるといいですね」 などと、無責任なことを言う。そんなことを言っている間に、両端の 2選手は見る見る大差をつけられる。全然フォローにならない。

水泳の自由形 (英語では free style) という種目では、選手は 100% クロールというスタイルで泳ぐが、それは本来、クロール限定というわけではなく、自由な泳ぎ方をしていいのだそうである。しかし、各自が自由にもっとも速い泳ぎ方を追求すると、必然的に 「クロール」 に集約されるのだ。で、結果的に 「自由形」 とは名ばかりになってしまっている。

「自由」 というのは、なかなか微妙なものなのである。「自由」 と言いながら、「機能」 とか 「効率」 とかを追い求めると、結果はワンパターンな方向に収束していく。見方によってはどんどん 「不自由」 になる。

だから、「機能」 や 「効率」 というのは、自由の敵である。まったく必要ないとは言わないが、オリンピックとか決まり切ったものの生産とかいうような、それが至上命令でない場合は、機能や効率をあまり追いすぎると、人生がつまらないものになる。

かといって、「とことん好き放題に、自由にやっていいよ」 なんて言われても、人間というものは、何をどうして良いかわからなくなるものだ。小学校の作文で 「自由に書きなさい」 なんて言われても途方に暮れるのと同じである。

結局、不自由な窮屈さを感じさせない程度の枠組みがあるというのが、一番 「自由」 を感じさせてくれる。ただ、「不自由な窮屈さ」 を感じる度合いが、個々人でずいぶん違うという問題もある。よほど明確な枠組みをしてくれないと何もできない人もいれば、ちょっとしたルールが窮屈に思われてしょうがないという人もいる。

日本は自由な国であると言われる。そりゃまあ、共産圏やイスラム主義の強い国々に比べたら、ずっと自由だが、制度としての自由とは別に、「枠組み」 という視点で見ると、かなり不自由さを感じるところがある。

私は日本という国が基本的には好きだが、たまにアメリカに行くと、そのすかっとした自由な雰囲気がものすごく気持ちよく感じる。まあ、アメリカという国はその自由と引き替えにリスクも引き受けなければならないのだが、これだけ自由なら多少のリスクは全然構わないという気になる。

で、この国もあまり枝葉末節にこだわらずに、もうちょっとだけでいいから好き勝手にやらせてくれるといいなあと思うのである。好き勝手にやれる土壌の上で、茶道だの日本舞踊だの武道だの、きっちりと決まったフォームを重視する分野では、それをとことん追求する自由を保障してくれさえすればいいのだ。

他の選択肢も保証されているのに、あえて 「一見不自由な形」 を追求する自由を行使するのであるからこそ、「伝統的な型」 というものは意味を持つ。そうでなければ、単なる 「がんじがらめ」 でしかない。

「そうではない、年月をかけて練り上げられた伝統的な型こそが、実は最も機能的なのだ」 なんていう人も中には (とくに茶道の世界なんかに) いて、それはかなりもっともらしく聞こえるが、その主張にはやはり無理がある。

それはその様式が完成された時代の常識と技術的限界と美意識の合わせ技による制約の下において 「最も機能的」 ということに過ぎないので、現代に通用するお話ではない。伝統的な型においてはやはり、 「あえて好んで非効率をする」、あるいは 「好んで制約の多い昔のスタンダードに身を置く」 というところに意味がある。

もっとも、昔の技術を未だ超えられない分野というのもあって、宮大工の世界なんかはそうらしい。とはいえ、それだって宇宙開発に匹敵するぐらいの、べらぼうな国家的予算をつければ超えられないこともないのだろうが、そんなことをするよりも、今の技術を伝承する方がずっと効率的だ。ということは、あれって、すごい技術なんだなあ。

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