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2012年1月に作成された投稿

2012/01/31

「ステマ」 を巡る冒険

食べログのやらせ問題で、「ステマ」 という言葉が有名になってしまった。これは 「ステルス・マーケティング」 の省略形で、広告業界では昔から使われていた言葉なのだそうだ。

元々の英語は ”stealth marketing" で、"stealth" というのは、あの 「ステルス戦闘機」と同じ、「密かに」 とか 「内密の」 とかいう意味の単語である。

ところが一時、この 「ステルス戦闘機」 は、「スティルス戦闘機」 と表記されていたことがある。私なんかそのおかげで、"stealth" の発音は 「スティルス」 なんだと信じてしまったほどだ。

"Steal" の発音が 「スティール」 なんだから、そう思ってしまうのも無理もない。しかし考えてみれば、"heal" (ヒール = 癒す) の名刺形が "health" (ヘルス = 健康) なのだから、「スティール」 の名刺形が 「ステルス」 でも当たり前なのである。

いやはやまったく、英語というのも一筋縄では行かない。

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2012/01/30

大阪市の 「教育バウチャー制度」 について

大阪市が中学生を対象に、塾代や習い事など教育に使用目的を限定して、1ヶ月につき 1万円のクーポン券を支給するんだそうだ。「教育バウチャー制度」 というらしい。直訳すれば 「教育引換券制度」 だ。とりあえず、所得水準の低い西成区内から始めるという。

それにしても、橋下市長、よほど学校教育を信頼していないようなのだね。学校だけじゃ到底まともな教育ができないから、塾にでも通うしかないといわんばかりだ。

私は子どもの頃、塾に通うなんて馬鹿馬鹿しいと思っていた。学校の授業だけで足りるじゃないか。それで足りないなら、塾なんか通ったって大した足しになりゃしない。ただし、例外はある。英語だけは中学 3年間、塾に通った。おかげで、留学もしてないし英文学部に行ったわけでもないが、しばらく英語でメシを食うことができた。

専門に英語を学んだわけじゃないが、中学 3年間、塾に通っただけで、まあフツーに使えるレベルの英語の基礎を、「一応素養として」 身につけることができたのである。本来なら、中学高校の英語も、そのくらいのレベルであるべきだと思うのだが、そうでないのはフツーの日本人の英語力をみればわかる。

今はどうだか知らないが、私の頃の田舎の中学の英語教育なんて、ひどいものだった。教師が英語を話せないのだ。生徒の私の方がずっと上手だった。英語だけは塾に通ったおかげである。

いや、塾ならなんでもいいというわけじゃない。いわゆる学習塾風の英語教育だったら、役に立たない。私の通った英語塾では、「本当に使える英語」 を教えてくれた。塾長の上野伊栄太先生は、「君たちの時代になったら、外国人と英語で話をするのが普通になるんだから、受験の役に立つだけの英語を学ぶんじゃダメだ」 とおっしゃっていた。

受験の役に立つだけの英語は、実際には使い物にならないが、実際に使える英語を学んだら、受験英語もクリアできる。というわけで、私は 「本当に役に立つ英語を学べるなら」 という条件付きで、英語塾だけは通う価値があると思っている。

それでも、「本当に役に立つ英語を教える塾」 が、そうたくさんあるとも思えない。だから、月に 1万円のクーポン券を配ることが、教育に本当に効果があるのか、よくわからない。ただ、現金で配っていた 「子ども手当」 なんかよりは、用途限定であるだけ少しはましかもしれない。少なくとも、パチンコ代に消えることはない。

私としては、1万円のクーポン券をもらったら、学習塾なんかに行くより習い事でもする方がずっといいと思う。

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2012/01/29

NHK のテイストが変わった?

私は NHK の連続ドラマというものを見ない人である。朝の連続ドラマでも、大河ドラマでも、何というか、あの独特の NHK ドラマ臭、あれが苦手なのだよ。あの、リアルさとか自然さとかいう要素よりも、説明的であることを重視しすぎた演出。

例えば、主人公 A は B に心を寄せているが、どうしても素直に自分の気持ちを表現できない。そこであえてさりげない態度を装おうとしているが、実際のドラマで見ると、どう見てもさりげなくない。わざとらしすぎる。

そのわざとらしさは、どう見てもバレバレなのだが、ドラマの中では誰も怪しまない。視聴者がどんなに鈍感でも主人公の気持ちが伝わる演出なのだが、ドラマに登場する主人公以外の人物は、それ以上に鈍感だということになる。

ところが最近、その NHK 臭が少し薄れてきているような気がする。朝の連ドラ、『カーネーション』 がずいぶん評判がいいので、一週間分まとめて粗筋を見せる番組を見たら、登場人物の演技がずいぶん自然になっているのである。

大阪弁 (でいいんだよね?) が十分に自然だし、視聴者は鈍感なものと決めつけるような説明過剰な演技が、かなり少なくなっている。これは、NHK としては革命的な変化でさえある。

『平清盛』 も、かなり NHK 的でなくなっている。よっぽどコンベンショナルな NHK 体質と思われる兵庫県知事のテイストには徹底的に合わないらしいが、これまでのステロタイプな 「大河ドラマ体質」 が薄れている。かろうじて鼻につかないところまできたという気がする。

私は近頃、NHK BS のドキュメンタリーなら評価しているのだが、NHK のドラマ部門にも、ようやくまともな感性が芽生えつつあるのかもしれない。遅すぎると言えば遅すぎるのだが。

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2012/01/28

スマホのトラフィック増大は大問題なのだね

Docomo の新型パケット交換機が一時的に不調になって、二百何十万人だかに回線接続不具合が生じたというのが、やたらと問題になった。私は 「元々接続しにくいソフトバンクモバイル (SBM)」 の iPhone だから全然関係ないお話だったが、Docomo 回線は接続がいいというのは、もう神話になりかかっているのかもしれない。

Docomo の交換機がパンクしてしまったのは、「想定を上回る通信量が生じた」 ということで、トラフィックがやたらと増加してしまっているためだという。それはスマートフォンの急速な普及で、多くのユーザーが暇さえあればインターネットにアクセスしているかららしい。

これまでだって、電車の中でケータイ・メールのチェックに余念のない乗客はいくらでもいた。しかし最近では動画にアクセスしたり SNS に画像をアップロードしたりという作業が、スマホで簡単にできるようになったので、トラフィックの量はこれまでの比じゃないのだ。

それに加えて、Docomo ではテザリング可能のスマホをずいぶん多様に展開しているので、出先で使う PC や タブレット端末まで Docomo の電波でインターネットにアクセスしているのだろう。

私は自分の使っている SBM の iPhone でテザリングが解禁されることを望んでいるのだが、そんなことをしたら、ただでさえ回線の弱い SBM は、簡単にパンクしてしまうかもしれない。道理で SBM はテザリングに消極的なわけだ。

解決策としては、回線の増強と、より高速な 4G 接続によって、電波の能力を高めることだろうが、それに加えて、動画の規格を早く HTML 5 に移行させることも効果があるといわれている。

インターネット上の動画の多くが Flash や WMV みたいな重い規格から離れて、HTML 5 に沿った運用をするようになれば、トラフィックの総量はかなり減るかもしれない。それに、iOS では Flash をサポートしていないから、iPad、iPhone ユーザーの私としては大歓迎だしね。

それにしても、iPhone でのテザリングは早く解禁してもらいたいなあ。

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2012/01/27

この国の選挙の不幸

何だか知らないが、そう遠くないうちに衆議院が解散して総選挙になるというような雰囲気が、そこそこ漂い始めている。

既にこのブログでも懺悔したが、私は前の総選挙で民主党に投票したことをものすごく後悔している。あの時は、「この国も、とりあえず一度ぐらい、まともな政権交代というのを経験しといた方がいいんじゃないか」 という軽い気持ちだった。福田さんが首相をやった時点で、「もう、自民党おわりやんけ」 と思っちゃったこともあるし。

民主党政権になって、急に日本がよくなるとは到底思わなかったが、これほどひどいとも思わなかったのは、私の眼力のなさである。お恥ずかしい限りである。鳩山、菅と続いた政権は、確実に福田さんよりひどかった。

次の総選挙では、絶対に民主党には投票しないと宣言しておく。しかしそれなら自民党が与党に復帰して日本がよくなるかという期待も、ほとんどないのが悲しい。二大政党への期待値は、本当に低い。

ここまで袋小路みたいなどん詰まりにはまりこんだら、多分、政界再編成の時期なのだろう。しかし、客観的にそう見えても、日本の政治家たちは決して自ら 「ガラガラポン」 の渦中に身を投げ出そうとしない人たちなのだということを、私は知ってしまっている。

これまでだって、大山鳴動してなんとやらというようなケースが、数え切れないほどあった。もう期待しない。日本の政治というのは、ちょっとやそっとでは変わらない動脈硬化を、何十年と煩いっぱなしなのである。

と、そんなところに、大阪から火の手が上がった。「維新の会」 などという橋下新党が、やたら支持を受けている。動脈硬化を煩ったご老体に見切りを付けて、「はっきりしたことをやる」 というのだから、これは支持されるパターンである。既成政党はあの小泉さんを除いて、誰も 「はっきりしたこと」 を言いもやりもしないできた。

私も深く考えなかったら、橋下さんを支持してしまいそうな危うさを感じる。しかし私は昨年秋に 「橋下不支持宣言」 をしてしまっているので、やっぱり支持しないのである。

となると、もう積極的に支持する政党が見当たらないではないか。なるほど、投票率が低くなるわけだ。この国の選挙は、支持したい候補者 (あるいは政党) に投票するのではなく、支持しない候補者 (あるいは政党) を落とすために投票するというパターンを意識しないと、投票率なんて上がらない。これはかなり不幸なことだと思う。

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2012/01/26

Apple にはずっとアーティスティックであり続けてもらいたい

Apple の 10~12月期は、売上高が 463億 3300万ドル (約 3兆 6000億円、前年同期比 73%増)、純利益が 130億 6400万ドル (前年同期比 120%増) となったという。ともに四半期ベースで過去最高だった。

この業績の要因は、iPhone 4S と iPad 2 の好調な売上げだったというが、そのまた要因は、スティーブ・ジョブズの死だったことは間違いないだろう。彼の死は昨年の 10月 5日だったから、10~12月期の売上げに直接反映された。とくに iPhone は 3704万 4000台の販売となり、前年同期比で約 2.3倍だった。

作家が死ぬとその著作が売れ、ミュージシャンが死ぬとその CD が売れる。アーティストの死は、最大のセールス・プロモーションになる。スティーブ・ジョブスの場合は、iPhone 4S が馬鹿売れした。彼がそれだけ、「アーティストに近い存在」 だったことを物語る。

問題は、アーティストであるスティーブ・ジョブズ亡き後の Apple である。今後、iPod や iPhone に匹敵するほどの、アーティスティックな製品を出し続けることができるだろうか。

私は現在、iPhone 4 と iPad 2 を使っているが、PC は Windows ベースである。これは去年の秋に 「Windows 8 に慣れるより、Mac に乗り換える方が話が早そうだ」 という記事で書いたことだが、次に PC を買い換える時は、Mac にしたいと思っている。自分のデジタル環境を Apple で統一する方が、何かと楽そうだ。

米国と日本では、今後 Mac ユーザーが増えるだろうと思う。私自身、今年で還暦を迎えるので、ビジネスでの互換性を重視して無理矢理 Wiindows ユーザーであり続ける必然性が薄れてくる。団塊の世代は既に定年を過ぎて、嘱託で数年残る期間も終わろうとしている。

そうなったら、自宅で使う PC まで律儀に Windows にしておく義理はない。それでも多分、大多数は使い慣れた Windows PC を購入するだろうが、ちょっとへそ曲がりっぽい人なら、Mac を選ぶだろう。スーツとネクタイから解放されるような意味合いで、Windows から開放されたい気持ちになるのはわかる。

私なんかだいぶ前からスーツとネクタイからは開放されているが、Window から開放されるのが遅すぎて、自分でも少しストレスになっている。Mac への移行が、ようやく現実味を帯びてきて、少しわくわくしているところだ。

それだけに、スティーブ・ジョブズ亡き後の Apple には、ずっとアーティスティックであり続けてもらいたいと思うのである。


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2012/01/25

仕事より出世が好きな人種

今はそっちの方からはできるだけ足を洗いつつあるので、あまり気に障ることもなくなってきたが、以前、生臭いビジネスにも盛んに足を突っ込む仕事に関連していた頃、役人や商社マンや百貨店社員 (店員ではない) と付き合うのが、とても億劫だった。

そうでない人もいくらでもいるが、私の個人的な偏見に満ちた印象として、彼らは自分のお客 (役人の場合は 「国民」 とか) より自分たちの方がエライと確実に思っている人たちである。百貨店の社員なんかは客商売だけに、一見するととてもソフトで低姿勢だが、一皮むくとやっぱりかなり 「エラソー」 である。

よく言えばプライドが高いわけだが、悪く言えば 「自分を何様と思ってるんだ」 ということになりそうな人もいる。

彼らと付き合って何がうっとうしいかというと、食事や酒の席の話題として、出世の話しか出てこないことだ。「誰それさんは本部長になった」 とか 「誰それさんは役員になった」 とか、役人だったら 「課長になった」 とか 「局長になった」 とか。そして一方で、「誰それさんは不遇だ」 とか、「体をこわさなかったら、今頃役員になってた」 とか、そんな話ばかりなのだ。

彼らと会食しても、文化論とか芸術論とか、そっち方面の話なんて、まず絶対に出てこない。せいぜいゴルフの話題止まりだ。要するに、私がまず興味を抱かない分野の話題だけが、延々と続くのである。まあ、付き合いきれないわな。

もちろん、これが偏見に満ちた印象に違いないとは、いくら私でもわかっていて、そうでない人もいくらでも知っているが、概してこれらの世界で出世する人というのは、「仕事よりも出世が好きな人」 である。

一方、中小企業には、出世なんてことより 「仕事そのものが好き」 という人が多い。物作りの業種でなくても、概して 「職人肌」 だ。そして私は、日本の産業界を影で支えているのは、こうした 「職人肌」 の人たちなのだと思っている。

そして悲しむべきは、日本の影でない部分、「表舞台に近いところ」 と言ったらいいのかな、そんなところにいる人たちの多くが、「仕事より出世が好きなタイプの人たち」 であるということだ。

よく言われることだが、「立身出世」 という美徳のうちの 「立身」 というファクターがいつの間にか消えてしまって、「出世」 のみが重大関心事となってしまっているのが、確かにこの国の大きな不幸である。

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2012/01/24

ありがとうございます/ありがとうございました

先日の TBS ラジオの「ラジオ寄席」は、死んだ十代目桂文治の特集だった。今年の秋に十一代目を襲名する桂平治が、スタジオで亡き師匠の思い出を語っていた。

文治師匠はチャキチャキの江戸っ子だけに、言葉遣いにはうるさい人だったという。「ありがとうございました」 という言い方を嫌って、「過去形じゃなく、ちゃんと 『ありがとうございます』 と現在形で言え」 と、常に言っていたそうだ。

そのくせ、その話をした帰り際に 「ありがとうございました」 と声をかけられた時に、自分も 「ああ、ありがとうございました」 なんて応えていたそうで、平治によれば、「その辺がウチの師匠なんですよ」 ということのようである。ちょっとおもしろい。

それでその番組の締めでは、パーソナリティーの浦口直樹が、「それでは今日はどうも、ありがとうございました……とは言っちゃいけないんだ。ありがとうございます」 なんて洒落ていた。

確かに感謝やお礼の言葉は、フツーは現在形で言うものである。何かしてあげたり、プレゼントを上げたりした時に、いきなり 「ありがとうございました」 と言われると、文治師匠じゃないが、「ああ、そうかい、それでおしまいかい」 と、そのまま帰ってしまいたくなったりする。

しかし、そればかりで硬直してはいけない。過去の好意に感謝するような時には、当然ながら 「その節はどうもありがとうございました」 などと過去形で言うのが自然である。過去形だからもう感謝してないというわけじゃなく、改めて再度のお礼を言っているのだから、十分ていねいなのだ。

それから、帰り際や別れ際など、そこで完了して自然なシチュエーションでも、「ありがとうございました」 の方が自然だ。これはいわば現在完了形である。完了形だからありがたさもそれで完了かというと、これも決してそういうわけじゃない。

先日のラジオ寄席の締めは洒落だからいいが、フツーの別れ際に 「ありがとうございます」 なんて言うと、やっぱりとって付けたようで、「あれ、まだ帰っちゃいけないのかな?」 なんて思ってしまう。

日本語ってのは、やっぱりいろいろと難しいところがある。

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2012/01/23

冷蔵庫と refrigerator

昔、うちの娘が幼かった頃の会話。

娘: お父さん、冷蔵庫は英語で何て言うの?
私: Refrigerator.
娘: え?
私: Refrigerator.

(ちなみに、私は自分でいうのもナンだが、英語の発音が結構よくて、いわゆるカタカナ英語じゃない)

娘: それじゃわかんないよ~。日本語で言ってよ。
私: ??? 日本語で? えぇと、冷蔵庫。
娘: う~ん、そうじゃなくて、日本語で英語を言ってよ~!
私: あ、そうか、わかった。えぇと、リフュリージレイターかな? いや、レフリュージレイターと言ったらいいのかな?
娘: あ~ん、ますますわかんないよ~!

どうやら娘は、冷蔵庫というのはとても身近なものなので、自動車を 「カー」 というぐらいに単純な英語を教えてもらえると思っていたようなのだ。こんなにカミカミになりそうな言葉だとは、想像もしなかったらしい。

確かに refrigerator というのは、生活家電に似つかわしくないほど、ごっつい単語だ。しかしそれは、現代生活では必需品となった、あのスマートで機能的なデバイスを思い浮かべるからびっくりするのであって、昔の冷蔵庫は、refrigerator という語感に似合ったごっついものだったのである。

そして、今でもアメリカの冷蔵庫は、refrigerator という語感に負けないほどごっつい。これはもう、比較文化学の領域といえるほどの問題なのかもしれない。

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2012/01/22

Wikipaedia や Google は何に反対しているのか? (その2)

4日前に書いた 「Wikipaedia や Google は何に反対しているのか?」 という記事の最後が、なんとなく中途半端な調子で終わってしまったので、もう少し書き足そうと思う。それはきっしーさんのコメントへのレスとして、少し触れたし、前書いたことにもカブるが、あえて改めて、ちゃんとした記事として書いておこう。

それは著作権に関する基本的な態度の問題でもある。昨年暮れの 「Winny 開発者の無罪確定で、あれこれ思う」 という記事にも書いたことを、改めてもう一度触れておこう。7年半前の自分の記事からの引用で、次のようなテキストである。

(Winny の) 開発者の 「47氏」 が志向したと思われる 「著作権という概念の質的変化」 への対応には、興味がなくもない。私も、著作権の現在のコンセプトは確かにオールド・ファッションドだと思う。まったく新しい形の著作権のコンセプトがあってもいい。

例えば、ハリウッド的な大作主義の映画を作ろうと思ったら、著作権に基づいた収入を想定しなければ制作自体が不可能になる。だから、ああした作品がお好きなら、ちゃんと入場料を払い、DVD をきちんと買うべきだろう。

しかし、もっと 「草の根的」 な芸術作品がお好きなら、あんまりお金のことで面倒な運用が必要なのは、うっとうしい。インターネット時代のアートは、そうした志向への萌芽が見られる。

つまり、著作権についてあまりうるさいことを言わなくてもいい領域が、存在してもいいんじゃないかということなのだ。

私自身、自分の書いた文章の著作権には結構シビアで、過去にこのブログの記事をもろにパクったブログを追求して、結果的に 3度ほど (いや、もっとだったかな?) 閉鎖に追い込んだことがある。それは私の書いた記事の主張、言い回し、「てにをは」、その他、ほとんどそのまま、あたかも自分のテキストであるように書いたものだったからだ。

その行為は許せないので、すぐに厳重に抗議を申し入れ、結果、相手のブログはあっけなく閉鎖された。一つだけ、しぶとく閉鎖されなかったのがあるが、それは某地方政治家のブログである。記事を削除して一度謹慎の姿勢を表明し、しばらくしてから再開された。さすがに政治家というのはしぶとい。

しかし、こうしたモロの 「パクリ」 以外のもので、例えていうなら 「入会地」 的な領域があってもいいと、私は思っている。

最近流行りの (私自身はちっとも魅力を感じないが) 「萌え絵」 というのは、はっきり言って、どれをとってもほとんど同じに見える。好きな人に言わせれば、「それぞれこんなに違うのに、その差がわからないのか」 ということにもなるのだろうが、少なくとも私は大した違いは感じない。

それでも、萌え絵に関して大きな著作権侵害問題が発生したとは、聞いたことがない。つまりあれって、「入会地」 なのだと思う。髪の色やスタイルやコスチュームがちょっと違ってさえいれば、問題にならないようなのだ。

絵が似ているからといって下手に提訴するよりも、一群のよく似たテイストの 「萌え絵」 として存在し続けることの方が大きなパワーとなることを知っているから、そんなことで責め合うことをしない。

それから、昔の (あるいは今でもか?) 自己啓発的人生論の本 (デール・カーネギーの本みたいなやつ) に登場する、前向きな言葉や考えや行動で救われたといったようなエピソードは、すべて実話なんだかどうだか知らないが、細部は別にしても大筋では似たようなものが多い。これもやはり 「入会地」 である。

ブルースという音楽形式も、基本的にはほとんど同じコード進行の 12小節だ。同じようなメロディで違うタイトルのブルースが、数え切れないほどある。あれって、七・七・七・五 の形式で何千とある 「都々逸」 と、同じことなのだと思う。都々逸で著作権を厳密に主張する人を、私は見たことがない。

このように似たようなもの同士が、徒党を組むわけでは決してないにしても、つかず離れず、「ゆるいお友達関係」 を意識的、無意識的を問わず維持し続けることで、無闇にオリジナリティを主張しすぎるよりも、むしろ強いパワーを発揮できるというような分野がある。そこでは、厳密な著作権を主張しすぎるのは、かえって野暮になる。

著作権を主張しすぎない代わりに、「まったくのパクリ」 ということもない。まことに絶妙な間合いで、「入会地感覚」 が維持されている。

インターネットというメディアは、こうした 「入会地感覚」 での運用に、ものすごく適したメディアだと思う。正当な著作権はもちろん保護されなければならないが、自由な 「入会地」 をも破壊するような厳密すぎる著作権の主張は、そもそもインターネットの世界と相容れない。

それだけに、シリコンバレーは SOPA や PIPA (ネットにおける海賊行為防止法案) といったものには、本能的に反対する。そういう体質なのだ。

問題はハリウッド的な著作権をどう保護するかということで、私は、ハリウッドは自分自身の地道な努力によって正当な権利を守るべきだと思う。早くいえば、既存の法律でもやっていけるじゃないかということだ。

「俺らの権利保護に無条件で協力しなければ、ネット企業そのものが悪者と同列だ」 と言わんばかりの強引な法案は、厚かましすぎるところがあるのではなかろうか。

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2012/01/21

この冬は 「厳冬」

昨日、東京で平年より 17日遅れで初雪が降ったのだそうだ。初雪といっても、私が昼頃に東京都内に着いた頃には小雨に変わっていたし、積雪の痕跡もなかったから、大した雪じゃなかったのだろう。八王子などの多摩地区は結構な雪になったところもあるようだが、都心では大きな混乱にはならなかったようだ。

東京の初雪が平年より遅いのは、この冬が厳冬であることを示すものだ。関東に雪が降るのは、日本海側の場合とはメカニズムが違う。日本海側の雪はご存じのように、西高東低の 「冬型気圧配置」 で生じる冷たい北西の季節風が、日本海の水蒸気をたっぷり吸って雪雲を作り、日本列島にぶつかって雪になるというものだ。

北西の季節風に含まれた水分は、日本列島の背骨のような山脈に漉し取られて雪となり、水分を抜き取られた風はからっ風となって太平洋側に吹き降ろす。だから私は、冬につくば周辺がからっと晴れて風が強いと、「あぁ、田舎は雪だなあ」 と思いを馳せることになる。

一方、関東の雪は冬型気圧配置が崩れて、太平洋岸沿いに移動性低気圧が進む時に降る。これは冬のまっさかりには現れにくい現象だ。つまり、関東の雪は冬が終わりに近づいたことを暗示する。冬の終わりの暗示が遅かったのだから、つまりこの冬は寒い冬だということで、体感的な印象と一致する。

ところで、昨年 9月下旬に発表された季節予報 (2011年 12月~2012年 2月) によれば、北日本の気温は 「平年並みか高い」 ということで、つまり 「暖冬」 ということだった。東日本と西日本は 「平年並み」、沖縄・奄美は「平年並みか低い」 で、「寒冬」 の予報だった。

季節予報が当てにならないのは毎度のことで、気象庁自身も言い切り型の予報ではなく、それぞれの可能性をパーセンテージで示しているので、まったくのでたらめというわけじゃない。とはいえ、こちらとしては気象庁の季節予報は当たらないものと思っている方が確率的に救われるというのでは、ちょっとなあという気持ちになってしまう。

ところで、この寒さをもって 「地球が温暖化してるなんて、嘘っぱちじゃないか」 なんて粋がるお人がいるが、こういうのを 「木を見て森を見ず」 と言うんだろうなあ。

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2012/01/20

iPad 用のスキャナーというデバイス

スキャナーにもなる iPad ドック」  という新製品が出た。上部にiPad (iPad 2も含む) を立てるスロットが付いていて、ドックの前部にあるスリットに幅 5cm から約 22cm までの紙を入れると、スキャンされたデータが JPG ファイルとして iPad に送られ、画像データとして 「写真ライブラリ」 に保存される。


実際の操作は、上の動画で見る限り本当にシンプルで簡単そうだ。これなら、紙の書類がたまることなく、書斎がずいぶんすっきりと片づくだろうと思う。

しかし 「待てよ」 と思う人がいるだろう。iPad 2 にはカメラが付いているじゃないか、どうせ画像データとして 「写真ライブラリ」 に保存されるなら、別にこんなものを買ってスキャンしなくても、iPad に付いているカメラで写してしまえば、同じことじゃないか。撮影は一瞬で済むから、スキャンするよりずっと手っ取り早い。

うむ、確かに私も一瞬そう思ったよ。だが、「いや、そうじゃなかった」 と思い直した。iPad 2 の残念なポイントとして、カメラの性能があまりよくないのである。調べたら、90万画素だそうだ。それって、一昔前のスペックである。

父が死んだ時に、死亡通知を出すために父の住所録 (昔の人らしく、大学ノートなのだ) の全てのページを iPad のカメラで撮影して保存した。30ページぐらいの住所録を端からずっとカシャカシャと撮影し、それで OK と思っていた。ところが後からその画像を眺めると、かなり粗いのである。小さい字がようやく読み取れるぐらいのものなのだ。

「しまった、これだったら、iPad じゃなく、iPhone で撮影しとくんだった」 と思い直したが、まあ、読み取れないこともないので、そのまま保存してある。ちなみに、iPhone 4 のカメラは 500万画素だから、iPad 2 よりずっといい。これまでもメモや書類を iPhone 4 のカメラで撮影してスキャナー代わりに使ってきたが、画像は十分に鮮明だ。

ところが、iPhone は表示画面が小さい。字の読み取れる大きさで画像の端から端まで眺めるためには、スクロールしなければならない。父の住所録を iPad 2 で撮影したのは、画面が大きいのでスクロールしなくていいだろうと思ったからなのだ。ところが、画像が粗いのでは、スキャナー代わりとしては、かなり惜しい。

iPad 2 のカメラがお粗末なのを 「残念なポイント」 と書いたが、Apple としては、iPad を振りかざして写真を撮るなんてことは、あまり想定していなかったのだろうね。ちょっと想像しても滑稽な姿だもの。

iPad 2 のカメラは、せいぜい Skype やFacetime などのテレビ電話用ぐらいの意味なのだろう。年取ってくると、自分の顔があまりにも鮮明に相手に送られるのは決して望まないものなのだ。ちょっと粗いぐらいの方がいい。

そんなこんなで、iPad 用のスキャナーというのが商売になるのだろうが、私としてはそれなら、iPhone 4 で撮影した写真を iPad で閲覧すればいいじゃないかと思っている。今は iCloud というのがあるから、それで十分じゃないか。

そうか、このデバイスは、iPhone を使わないで iPad だけというユーザーのために開発されたのかもしれない。ふむふむ。

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2012/01/19

Wikipaedia や Google は何に反対しているのか?

本家米国版の Wikipedia が 24時間ストをしたり、Google がタイトルロゴをブラックアウトしたりという、センセーショナルな話題ばかりが伝えられる中で、日本のマスコミでは、問題の焦点が今イチまともに解説されていない。だから、シリコンバレーは、海賊版防止にどうしてそんなに必死に反対しているのかが、理解されていない。

映画や音楽などの米国の知的資産が、中国などのサイトで違法に公開されているのは、隠しようのない事実である。こうした悪質サイトが検索エンジンの検索結果に反映されないようにする、つまり実質的にアクセスを遮断して、悪質サイトに 「死刑宣告」 してしまうというのが、今回問題になっている SOPA の内容ということのようだ。

SOPA というのは、"Stop Online Piracy Act" (直訳すれば 「オンライン海賊行為停止法」) の略称で、似たような法案に PIPA (Protect IP Act 直訳すれば 「IP 保護法」) というのもある。シリコンバレーは、SOPA と PIPA の両方に反対の立場を鮮明にしている。

なんで反対なのかというと、多くの日本の報道では 「ネットの自由が阻害されるから」 という理由しか紹介されていない。つまり、記事を書いている記者自身が、あまりよくわかっていないから、そんな漠然とした言い方しかできないのである。

私も法案のテキスト・ページに行ってみたが、何しろ長いし、どこの国でもそうみたいだが、法律の文章ってくどいし、わかりにくいしというわけで、全文をしっかり読むなんてことは、早々に諦めた。要するに、法案自体も漠然としてわかりにくいのである。

ただ、いろいろ調べているうちに、問題点が絞り込まれてきた。最大の問題は、次の点である。

映画会社やレコード会社などの著作権者は、司法当局に届ければ問題サイトを強制的に閉鎖させることができる。検索サイト事業者は問題サイトが検索結果に反映されないよう遮断し、その問題サイトの制作者情報を開示することが課せられる。違反者への罰則は、最高で禁錮 5年。

つまり、著作権が侵害されたと主張する者が司法当局に届けさえすれば、検索サイトは問題サイトを遮断し、さらにサイトの制作者に関する情報を晒さなければ、罰則の対称になるというのである。

これはかなりきつい内容だ。検索サイトの活動に、司法当局、あるいは司法当局を通じた他のセクターからの圧力が、ほとんど無条件に直接的に加えられることになる。さらに、悪質サイト制作者の情報を晒すということは、プライバシーの問題も関連してくる。

法律の適用が非常に慎ましく行われれば、本当に悪質なサイトだけが遮断され、その制作者が公開ブラックリストに載るだけだが、乱用されてしまうと、ネットは検閲だらけになり、まさに自由が制限されることになる。

この法律が成立したら、多分 「慎ましい運用」 では済まなくなるだろう。悪質サイト撲滅に関する "voluntary action" (自主的行動) が求められるということが、法案に明記されているからだ。著作権者や司法当局だけでなく、ネット業者 (検索エンジン事業者やプロバイダーなどを含む) 自身も、自主的に悪質サイトの遮断を行わなければならないというのである。

これは例えば、「運送業者がわいせつ文書の配送に関わらないように、自ら運ぶ荷物の中身に注意していろ」 というようなものだ。当事者だけでは手が回らないから、ネット事業者もしっかり検閲しろというわけだ。そんなことは、実際問題として不可能に近い。

「そんなの、やってられねぇよ」 というレベルのことになる。シリコンバレーが猛反発するのも当然だ。米国が自らの知的所有権を保護したいなら、もっと他のやり方があるはずだ。

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2012/01/18

IT 業界では文系ヘビーユーザーのニーズが届かない構造

IT 情報は、役に立つようで役に立たない。いろいろな IT 情報がある。かなり込み入った業務系のものから、フツーのオフィスで使うレベルのもの、個人ベースの情報などなど。それらの多くは、役に立つようで、実はあんまり役に立たない。

IT 情報を書くのは、IT の専門家である。IT の専門家というのは、文字通り IT を専門として扱っている人であって、一方、その IT 情報を読む方の人たちのほとんどは、IT を仕事上に役立たせている人たちだ。だから、それぞれの仕事の専門家であって、IT の専門家である必要はない。

IT のユーザーにとって、IT というのは、それぞれの仕事で役に立つ程度に進化してくれていればいいのであって、デバイス A とデバイス B を比較して、どーでもいいような細かな点で A の方が優れているとか、いや、A にできなくて B ならできるポイントがあるとか、そんなのは、あまり問題ではない。要するに使いやすければいいのだ。

ところが IT 専門家にとっては、使いやすさはあまり問題でない。機能としてどっちかがちょっとでも優れているかいないか、それが問題だ。

もっと言っちゃえば、IT 情報を書く IT 専門家は、IT が好きなのだ。車好きがスポーツカーにたまらない魅力を感じるように、最先端の機能豊富な IT デバイスが好きだ。ところがフツーのドライバーはスポーツカーなんていらないのと同様に、最先端のどーのこーのは、あまり必要じゃない。

iPad が世に出た時、IT の専門家は 「あんなもの使い物にならない」 と思った。ところが一般のユーザーは 「このくらいの親しみやすいデバイスが欲しかったのさ」 と言って飛びついた。

IT のメーカーも、もちろん IT の専門家である。だから、フツーのユーザーのニーズをわかっていない。最近のノート PC は、なんとテンキー付きが多い。ディスプレイがワイド・スクリーンになっているので、キーボードも横幅が余るから、だったらテンキーを付けた方がいいと思っている。

ところが、フツーのユーザーは、テンキーなんてあまり使わないのだ。それどころか、ノート PC にもマウスを接続して使うことが多く、右側にテンキーがあると、マウスを操作する右手が遠くなってしまい、肩が凝ってしまうのである。

そうでなくても、右側にテンキーがあると、キーボードの正中線とディスプレイの正中線がずれてしまって、体が歪む。これは昨年の夏に 「テンキーが右側にあるって、イラつかない?」 という記事で書いた通りである。

このことについては、PC のライトユーザーと、理系ヘビーユーザーはあまり気付いていないが、文系ヘビーユーザーは薄々気付いている。ところが、文系ヘビーユーザーのニーズは、理系ヘビーユーザーが支配する IT 専門家の世界にはほとんど届いていない。悲しいことである。

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2012/01/17

おおくま座とこぐま座の尻尾はなぜ長い?

いくつになっても、知らないことってあるものである。そして、その気になったら調べられないこともないのに、ずっと調べもしないで知らないままになっていることもある。まさに、我々はいくつになっても物知らずである。

私は 「あれ、これって一体、どうして?」 と思うことがあって、そのまま放っておくと気にかかってしょうがない性質で、春日三球・春代の 「地下鉄漫才」 みたいに 「眠れなくなっちゃう」 ほどではないにしろ、ムズムズして気が済まなくなってしまう。

ところがそんな私でもちょっとした落とし穴があって、何年も何十年も 「これって、一体、どうして?」 と思いっぱなしの懸案事項がいくつかある。そのうちの一つが、「星座のおおくま座とこぐま座って、どうして尻尾が長いんだ?」 という疑問である。

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星座の元になったのは、ギリシャ神話である。私としては、昔のギリシャにはあまり熊がいなかったので、古代ギリシャ人は実物の熊に馴染みがなく、あんな尻尾の長いものと想像してしまっていたんじゃないかと、漠然と考えていた。それで、今日までマジメに調べてみようという気になれなかったのだと思う。

おおくま座とこぐま座に関するギリシャ神話のくだりは、ざっと次のようなお話である。

おおくま座はカリストというニンフで、こぐま座はその子アルカスの姿である。カリストは月の女神アルテミスに使えていたが、ゼウスに見初められて身籠もった。ゼウスはあちこちに子どもを作るので、珍しいことじゃない。ところがアルテミスはそれを知って怒り、呪いをもって彼女を熊の姿に変えた。

カリストは熊の姿になってゼウスの子、アルカスを産んだが、自分は熊の姿を恥じて森の奥深くに身を隠していた。

15年の歳月が経ち、狩りの好きな青年 (神話の時代だから、15歳でも青年ということらしい) に育ったアルカスが、森の奥で熊に出会い、自分の母、カリストとも知らずに弓を引こうとする。

その様子をオリンポスの山から見下ろしていたゼウスは、これはたまらんとばかりに、咄嗟にアルカスを小熊の姿に変え、2頭の熊を天に上げて星座にしてしまった。

ざっとこんなお話である。子どもの頃にこの話は読んだか聞いたかしたことがある。しかし、この神話を聞いただけでは、どうしてその 2つの星座は熊の姿なのに尻尾が長いのかという疑問の答えは得られない。

今日たまたま初めて知ったのは、それは、ゼウスが 2頭の熊を天に上げる時、尻尾をつかんで振り回して投げたから、伸びてしまったのだという説である。ネットで検索してみると、そんなような話がいくつも見つかる。

しかし私の子どもの頃に読んだギリシャ神話は、ゼウスが尻尾をつかんで振り回したなんてえげつないことにはなっておらず、「一陣の旋風を巻き起こして天に巻き上げた」 というようになっていたはずなのだ。今、ネットで調べてみても、まともなギリシャ神話の紹介では、たいていそういうことになっている。

尻尾をつかんで振り回したなんて、どうみてもおかしい。ゼウスらしくない。一番エライ神様だもの、一瞬にして旋風を巻き起こすぐらいのことで解決しなければ、沽券にかかわるじゃないか。

思うに、尻尾つかんで云々というのは、後世の屁理屈による俗説なんじゃないかという気がする。ギリシャ神話成立時には、熊の尻尾は短いなんてことは常識的知識じゃなかったので、他の動物同様に長い尻尾のままに当てはめたのだが、後になって 「おかしいじゃないか」 ということになり、テキトーに話をこしらえたのだ。

ネットで調べた中には、北米インディアンの神話に、尻尾をつかんで放り投げたので伸びたのだという説があるというのも散見されたが、北米インディアンの神話ができた時代にギリシャ神話と交流があったとはよもや信じられない。北米インディアンの神話にたまたまそういう話があったとしても、それをギリシャ神話に当てはめるのは乱暴というものだ。

というわけで、私はずっと漠然と思っていた 「古代ギリシャ人は実際の熊の尻尾が短いとは知らなかった説」 に、初めて意識的に固執しようと思う。ギリシャでは早くから森林伐採が進んでいたというから、熊なんてよくよく希少動物になっていたんじゃあるまいか。

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2012/01/16

「知のヴァーリトゥード」 開設 10周年

近頃ではココログの "Today's Crack" の方がずっと目立ってしまって、アクセス数も 7:1 ぐらいの比率になっているが、私のホーム・サイトはあくまでも 「知のヴァーリトゥード」 で、当初からこれを 「本宅サイト」 と称している。このサイトのトップページから、私の運営しているほとんどすべてのサイトに飛べるので、いわば個人的ポータルでもある。

実はこの本宅サイトが、今日で開設 10周年を迎えたのである。ちょっと前までの世の中では 「十年一昔」 なんてことを言っていたが、デジタルの世界では 3~4年経てばずいぶん風景が違ってしまうから、なんだか遙かイニシエからやってきたような錯覚にとらわれる。それでもまあ、たった 10年なんだね。

本宅サイトを立ち上げたのは平成 14年 (2002年) の 1月 16日。その前から勤務先のサイトの更新をしたりしていて、少しはウェブページ作成の知識はあったので、そろそろ自分のサイトを作ってみようと思い立ったのである。

そういえばその前提として、自宅のインターネット接続が ISDN から ADSL になったということがあった。この頃ようやく、我が家の地域が ADSL エリアとしてカバーされたのである。接続料金はその少し前から定額制にしていたとはいえ、接続スピードが 64kbs では、なかなか自分のサイトを作ろうという気にはならなかった。

その後、平成 15年 (2003年) 3月に 「Flets ひかり」 (FTTH) を導入した。ということは、ADSL は 1年ちょっとしか使っておらず、そして FTTH ははるか昔から使っているような気がしているのだが、実はまだ使い始めて 8年半しか経っていないのだ。これもまた、改めて確認してみると驚きである。

トップページに短い一言を添えて、頻繁に更新するようになったのは、サイト立ち上げからほぼ 2ヶ月後の 3月 17日から。これが今の "Today"s Crack" の始まりである (参照)。当初はほんの 3~4行の短いフレーズで、2日に 1度程度の更新だったが、その月の終わり頃にはほぼ毎日更新するようになった。

この 「ほぼ毎日更新」 という時期が 1年ちょっと続き、その間に 3~4行のはずがだんだん少しずつ長くなって、いつの間にかちょっと短めのコラムぐらいの分量になった。

コラムを書くのが習慣になりかけ、「いっそ 『ほぼ』 を取っちまえ」 と思いついて正真正銘の毎日更新を開始したのが 平成 15年 12月 26日である。今でも続いているので、8年以上確実に毎日更新していることになる。これは 8年以上 (実際は 20年以上だと思うが) 病気で寝込んだりしていないということだ。健康はありがたい。

私のサイトで一番大きな変化は、平成 16年 (2004年) 7月から、"Today's Crack" をココログで更新するようになったことである。ココログというサービスが開始されたのは平成 15年 12月だから、それからほぼ半年ちょっと経ってから使い始めたことになる。結構早い方だろう。

ココログに移行するまでは、「最近ブログってのが流行っているみたいだけど、ウチの "Today's Crack" も、ブログみたいなもんだよなあ」 と思っていた。で、どうせ 「ブログみたいなもん」 なら、いっそシステムとして専用に作られたサービスに移行する方が更新も楽だと気付くまでに、ほぼ半年かかったというわけである。

というわけで、今や私のサイトは本宅なんか忘れかけられていて、ブログの "Today's Crack" ばかりが目立ってしまっている。それでも本宅内の "「なおざり」 と 「おざなり」" というページには毎日 100件以上のアクセスがあったりして、やたら健闘している。

そのほかにも "「小股ってどこか」 よりも大切なこと" "なぜ日本人は羊を数えても眠れない"  "「森」 と 「林」 の違い" など、結構有名になってしまったページもある。まんざら捨てたものではないのである。

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2012/01/15

隠居志向

最近、このブログで強烈に論じてみたいテーマに巡り会わないと思っていたら、それは多分、自分の外界におもしろいテーマがなくなってきているというわけじゃなく、自分自身が外界に対する強烈な思いをもたなくなっているからじゃないかと、ふと思い当たった。

要するに、私、そろそろ 「隠居」 に近くなりつつあるのだね。きっと。

いや、老け込んでいるというわけでは、決してない。多分まだまだ若いと、自分では思う。戸籍年齢としては今年中に還暦を迎えるわけだが、全然そんな気はしない。むしろ、まだまだ人生経験が足りない若僧だと思う。

それでも、かなり 「隠居」 目指してまっしぐらなのだよね。気分は。

昔、といっても江戸時代は、商家の主人は平均 50歳前後で家督を息子に譲り、隠居した。昔は平均寿命が短いとはいっても、それは乳幼児の死亡率が高かったためで、無事に 20歳を越えれば、大抵は還暦ぐらいまでは生きた。それどころか、80歳以上まで生きる人も珍しくはなかった。

ということは、現代人が還暦にして隠居しても、別に早すぎるというわけでもないと思うのである。いや、「隠居」 と言ってもただぶらぶらしているというわけじゃない。昔のご隠居だって、商売にあくせくしなくなるというだけで、ずいぶん活発にいろいろなことをしていたのである。人生を楽しんだのだ。

私も還暦を目前にして、以前ほどいろいろなことで無闇に怒らなくなってしまったのだよ。世の中というのは、いくら怒っても変わりゃしないということもわかった。怒っても怒らなくてもどうせ変わらないなら、怒っていては体に毒だ。喜んで見ている方がいい。

で、何でもかんでもただ 「喜んで」 見ているようになると、息せき切って論じるなんてことも、ばかばかしくなってしまうのだよね。というわけで、あまり強烈に書くなんてこともなくなってしまうのだ。

それならそれで、枯れきった心境を淡々と書きつづればいいような気がするのだが、いかんせん、まだ枯れ方が中途半端なので、そんな文章もなかなか書けないのである。うぅむ、きっと私は今、人生の踊り場にいるのだろうね。

この踊り場を経由してどんな方向に進んでいくのか、どんな方向でも別に構わないが、そんなところを楽しむようにしていこう。

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2012/01/14

「食べログ」 問題を巡る冒険

「食べログ」 の 「やらせ」 が問題になっているが、「何を今さら」 という気がしている。インターネット社会固有の問題という言い方をする解説があり、さらに 「だからインターネットなんて信用できない」 という言い草も散見するが、その言い切り方はちょっと考え物だ。

これは昔からある 「サクラ」 の 1バリエーションに過ぎないではないか。サクラがインターネットをものすごく効率的に使ったというだけのことである。

飲食店の新規開店時に、びっくりするほどの長蛇の列ができることがある。注目のゲームソフト発売日には前夜から長蛇の列ができることがあるが、たかだかラーメン屋とかハンバーガー・チェーンとかの開店時に、自然発生的にそんな列ができるはずがない。あれは多くの場合、サクラである。

インターネットの口コミにサクラが混じっているからと言って、大手マスコミの紹介記事なら信用できるかといえば、全然そんなことはない。大手マスコミの記事こそ、広義の 「サクラ」 の最たるものである。

マスコミでは 「広告」 と 「パブリシティ」 が、建前上は一応はっきりと区別されている。広告は金を払っての宣伝であり、一方パブリシティは、そのメディアが独自の視点による取材で書いた紹介記事で、お金のやりとりとは関係がないということになっている。

しかし実際は、多くのマス・メディアに 「パブリシティ」 として取り上げられるのは、お金を払って広告ページを出してくれている企業の製品の記事である。突っ込んで聞くと、「あれは 『タイアップ企画』 です」 なんて、わけのわからないことを言い出す。

お金はびた一文もらっていないが、その雑誌の編集者が心から惚れ込んで礼賛記事を書くなんてケース (これぞまさしく、本来の意味の 「パブリシティ」 なのだが) は、皆無というわけじゃないが、今どきは非常に少ない。とくに大手マスコミほど少ない。

ことほど左様に、情報はお金で左右されるのである。そして、お金を払ってまで情報を左右したがるのは、大衆の一部がその情報に左右されるからである。ランキング上位の店で食いたがる、ベストセラーの本を買いたがる、評判の温泉地に行きたがる、視聴率のいいテレビ番組を見たがる、などなど。

ここで 「大衆の一部が」 と書いたのは、「大衆が」 と書いたら語弊があるあからだ。大衆だってそれほどのべつ幕なしに、こうした情報のすべてに踊らされっぱなしというわけじゃない。ただ、それぞれの分野で 「特定の情報に踊らされやすい人たち」 が存在するのである。

食い物情報に踊らされやすい人、ベストセラーは一応買わなければ気が済まない人、テレビで紹介された温泉地に行きたくてたまらない人、視聴率が高ければ無条件にチャンネルを合わせたがる人、などなど、さまざまなクラスターが存在する。そして彼らは自分自身を、「情報に踊らされやすい人」 ではなく、「情報に敏感な人」 と思いこんでいる。

こうした 「大衆の一部」 が動くだけで、商品やサービスの売上げは劇的に変化する。全員が動かなくてもいい。自らを 「情報に敏感な人」 と思いこんでいる、信じやすい純朴な人だけが動けば、それで十分なのである。

というわけで、「サクラ情報」 に踊らされないようにするには、ほんのちょっとだけ 「へそ曲がり」 になればいいのだ。「信じやすい純朴な人」 という徳目を、心ならずもちょっとだけ削り取って、「ちょっとだけ疑い深く、スレた人」 になればいいのである。

そもそも、例えばラーメン屋のランキングにしたって、上位の店と下位の店との間に、それほど大きな差があるわけじゃない。それなりの店なら、大体それなりの味だ。さらに言えば、それぞれの店にはそれぞれの個性があるし、要するに 「好きずき」 の問題になる。それを一律のランキングで評価しようなんてこと自体に無理がある。

だから、我々としてはほんのちょっとだけ 「すれっからし」 になって、自分の好みにあった個性の商品やサービスを見つけ出せばいいのだ。

具体的に言えば、例えば飲食店なら、単に 「おいしい」 というだけの評判は信じなければいいのである。どんなふうにおいしいのか、そのおいしさがどのように実現されているのかが具体的に語られていて、それがとりたてて無茶な話というわけではなく、そして一定期間継続しているなら、一応暫定的に信じてもいいだろう。

「暫定的に」 というのは、結局は自分自身で味わってみなければ、本当のところはわからないからだ。私の印象では、ネットやマス・メディアで評判になっている店で、実際にはるばると出かけてまで食ってみる価値のあるのは、せいぜい 2割か 3割ぐらいのものである。

そして本当においしいのは、その評判店の周辺で地道にコツコツとやってる店だったりする。

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2012/01/13

髪の毛の本数を確保するために、長さを犠牲にしてきたのだが

私は今年還暦を迎えるのだが、ありがたいことに白髪が一本もない。ちょっと前まで左のモミアゲのあたりに短いのが 2~3本あったが、最近はそれもなくなった。もしかして、よくよく探せば目立たないところに 1本ぐらいあるかもしれないが、とりあえず 「白髪なし」 と言い切っても、嘘つき呼ばわりされずに済むぐらいの状態をキープしている。

ただ、白髪はないのだが、若い頃に比べると頭の地肌が少しだけ透けて見えるようになった。これは多分、髪がどんどん抜けているというのではなく、髪の太さのせいだと思う。確かに近頃になって、髪がずいぶん細くなったなあと思うのである。これはまあ、何しろ今年還暦なんだから、仕方なかろう。同年代の連中はほとんどごま塩か禿頭だし。

私は長いこと、「毛髪に廻されるエネルギー (あるいは養分) は定量」 と、何の根拠もなく思いこんでいて、それならば、本数を確保するために長さは犠牲にしようと決意し、40代の頃から短めのヘアスタイルにしている。若い頃はロングヘアだったのだが、短くしたせいで、白髪にも禿頭にもならないで済んでいるのだと、無邪気に信じてきた。

ところが今日、インターネットで調べてみて、髪の長さと本数はほとんど関係がないと知り、愕然としている。「育毛豆時点」 というページに、次のように書かれている。(参照

髪の長さと抜けやすさは関係あるのでしょうか?結論から言いますと、基本的には、関係があるという根拠は全くありません。 つまり、髪の長さは抜ける本数には関係ないということです。 きっと、長い髪は抜けたときに目立ちますが、短い髪の場合、それも坊主に近いような短い髪の場合、抜け落ちても目立ちませんし、シャンプーで手にも付きにくいので、そのように思われがちなのかもしれません。

長さと抜け毛とは相対関係がないというのだから、短くしていれば本数が確保されるというのも、私の単なる思い込みだったようなのだ。念のため、セカンド・オピニオンを探そうとしても、大抵 「抜け毛と髪の長さは関係ない」 と書いてある。髪が長いと、抜けたときに目立つだけだというのである。

とはいうものの、最近はショート・ヘアの快適さと面倒のなさに慣れてしまったので、「長さと本数は関係ない」 と知っても、前のロン毛に戻ろうという気は全くない。スティーブ・ジョブズだって、若い頃はロン毛だったが、アップルに復帰したあたりからはベリー・ショートだったしね。

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2012/01/12

通信料金はなかなか削減できない

日経トレンディが 2月3日発売の3月号で、「ライフスタイル別 通信料金激減大作戦」 というタイトルで、「スマートフォンやモバイルルーター、光回線などの通信料金削減や、賢い通信サービス選び」 の特集をするのだそうだ。

それに伴い、現在、facebook の日経トレンディ ページで、モバイル回線・固定回線の通信料金やサービス見直しについて、ユーザーがどんなことで悩んでいるかの質問が投稿されており、コメント欄に記入するという形での回答が求められている。12日 19時 30分現在での回答はまだ 20件しかないが、今後どんどん増えていくかもしれない。

電話とインターネット接続の通信料金がかさむのはちょっとした問題で、私も、自宅固定回線のフレッツ光 (プロバイダーの @nifty とコミコミで支払い) をベースとして、モバイル回線としてソフトバンク版の iPhone (もちろんデータ定額) と、E-mobile の Pocket Wifi を使っている。

私は基本的にノマド・ワーカーなので、モバイル回線がないと仕事にならない。そしてこれらを全部足すと、月間 25,000円を超える。これを多いと見るか少ないと見るかは、自分でも判断がつかないが、心情的には当然ながら、もっと減らしたいと思うのである。

痛恨なのは、モバイル回線としてソフトバンクモバイル (以後 SBM と記述する) と E-mobile の 2回線を使わざるを得ないということだ。SMB はいわずとしれた iPhone 用で、E-mobile は Pocket Wifi で PC と iPad を外部でインターネットに接続する時に使う。

iPad の購入にあたっては、Wifi 版にするか 3G 版にするかちょっと考えたが、3G 版にしてしまうと、PC を接続するためにもう 1回線必要になってしまう。それではたまらないから、Pocket Wifi で PC と iPad をインターネットに接続することにしているわけだ。

世の中には iPhone もデータ定額サービスを付けず、Pocket Wifi で接続しているという人もいるが、それだと、いつでもどこでもさっとインターネット接続できるという手軽さが、ちょっとだけ損なわれるような気がして、踏み切れない。

願わくは、iPhone が本来持っているテザリング機能を使えたら、モバイル回線も 1回線で済むのだが、これは SBM がなかなか解禁してくれない。それで仕方なく E-mobile を使ってしまっているわけだ。

SBM がテザリング使用にあたって、もう 2、000円ぐらい余計に取ってもいいから解禁してくれれば、私はすぐにでも E-mobile を解約するんだけれど、当分そんなことにはなりそうにない。

あるいは、iPhone を解約して、他社のテザリング機能付きのスマホに乗り換える (どうも SMB はテザリングに消極的なのだ。回線が弱いからかなあ) という手もあるが、私はどうも、iPhone を愛しちゃってる気分があるので、なかなかそれには踏み切れない。

それに、我が家は家族中 iPhone ユーザーだから、他社に乗り換えると、家族間での無料通話ができなくなってしまうので、コスト削減にならない可能性がある。それでは手間をかけて乗り換える意味がない。

というわけで、今度の日経トレンディは是非購入して、各種サービスを比較検討してみたいと思っている。

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2012/01/11

大河ドラマと地元の事情

昨日、「大河ドラマ 『平清盛』 って、やっぱり受けないのかなあ」 という記事を書いたが、兵庫県知事が記者会見で大河ドラマ批判をやっていたとは、今日になって知った。ニュースで読んだ限りではその批判の仕方がお粗末で、ちょっとびっくりした。

井戸敏三知事の言い草は 「画面が汚い」 「鮮やかさがない」 というもので、「時代考証に忠実にするという方針であの画面になったと聞いている」 として、「清盛の公家社会打破のエネルギーを前面に出してもらいたい。番組の人気で観光も影響を受ける」 とも発言したという。

さらに 「NHK に改善を申し入れる」 とも言ったらしい。今さら改善を申し入れたところで、番組は相当なところまで撮り進んでいるはずなので、遅すぎるというか、そんな申し入れが聞かれるはずもない。民放番組のスポンサーならわかるが、(実態はともかく) 一応 「非営利」 であるはずの NHK の番組に対する批判としては、勝手過ぎるもの言いである。

大河ドラマは、舞台となる地域が観光プロモーションに利用するのは勝手だが、元々は観光キャンペーンのために作られているわけじゃない。

地元としては撮影にいろいろ協力したりするので、一応 NHK とタイアップしているという意識もあるのは自然のことだ。そういうことなら、それなりの見返りを期待しても悪くはないが、プロモーション・イベントに番組の写真を提供してもらうとか、主演俳優がゲストとして登場するとか、まあ、そんなところだろう。

そうしたレベルを超えて、地元の首長が番組の内容にまで次元の低いところでくちばしを突っ込むというのは、あまりにも悪趣味だ。

この発言は一般には冷笑を呼んでいるようで、かえって番組への関心を高める逆効果 (?) を産まないとも限らないから、NHK としては 「清盛の成長に合わせて映像表現も変わっていくので、楽しみにしていてください」 と、大人の対応をしているのがおかしい。

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2012/01/10

大河ドラマ 『平清盛』 って、やっぱり受けないのかなあ

新大河ドラマ 『平清盛』 の第 1回目の視聴率は、歴代ワースト 3 の 17.3% だったそうだ。私は大河ドラマにほとんど興味がなくて、記憶に残ってるのは、第一作目と二作目、『花の生涯』 (先代尾上松緑主演の、井伊直弼のドラマ) と 『赤穂浪士』 (ご存じ長谷川一夫主演) ぐらいのものである。

遙か昔のことで、私が小学校 5~6年の頃のことだ。翌年は緒方拳主演の 『太閤記』 だったはずだが、あまり記憶がない。大河ドラマ独特の、ステロタイプすぎる説明的演出が鼻についたからだと思う。歴史小説なら読む気もするが、それを実写化すると、どうしてもわかりきったことをなぞる説明的なものになりがちだ。

その私が、『平清盛』 は見てもいいかなと思っていた。何となく、これまでのステロタイプからちょっとだけ脱したドラマづくりが期待できそうな気がしたからだ。それに、これまでは悪役イメージだった清盛の、世界的視野をもった革新的人物としての再発見につながりそうな期待があったからでもある。

とかなんとかいいながら、第一回目は見逃してしまった。やっぱり日曜の夜にテレビに向かうという習慣がないので、つい見忘れるのである。まあ、その程度の関心でしかないのだが、それでも、私が 48年ぶりに大河ドラマに興味をもったというのは、ちょっとしたことなのである。

しかし、悲しいことに私が興味を持つようなものというのは、きっと大衆受けしないのである。ワースト 3 の視聴率というのが、それを物語っている。

大衆は、平清盛が嫌いなのだね、きっと。傲慢で贅沢で嫌らしいオッサンと思っているのだ。源氏に滅ぼされて当然、ざまみろぐらいに思っているのである。そんな嫌らしいオッサンのドラマなんか見たくないと思っているのである。

そうでなくても、去年の震災以来気が滅入っているというのに、「諸行無常の響き」 に満ちた、「驕れる者は久しからず」 のドラマなんか見たくないのだ。本当は決して嫌らしいオッサンのドラマにはならず、むしろ海の彼方に思いをはせる気宇壮大な展開になると思うのだが。

まあ、これからの展開を見守ろうと思う。

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2012/01/09

全国温泉ベスト 100

私は日本人の例に漏れず、温泉好きである。というか、温泉を愛している。露天風呂に浸かって夜空を見上げていると、幸福感に包まれる。行った先に温泉があったら、なるべく入るようにしている。

ところで、「国内の温泉ベスト 100」 (ランキング表は こちら)というニュースを見つけた。旅行業界のプロによる投票を、観光業界の専門紙が発表したのだ。それによると、1位が草津 (群馬)、2位が湯布院 (大分)、3位が登別 (北海道) というのである。

以下、黒川 (熊本)、指宿 (鹿児島)、有馬 (兵庫)、道後 (愛媛)、下呂 (岐阜)、別府八湯 (大分)、城崎 (兵庫) と、ベスト 10 が続く。

このベスト 10 の中で、私が行ったことのあるのは、登別と道後しかない。しかも、登別は高校時代の修学旅行で、道後は昨年秋に出張で行っただけだ。残りの 8つは、まだ縁がない。温泉好きとしては、「あれあれ……」 という感じである。

ベスト 100 のうちとなると、上記の 2つ以外に、秋保 (宮城)、鬼怒川・川治 (栃木)、鳴子 (宮城)、熱海 (静岡)、湯河原 (神奈川)、伊東 (静岡)、知床・ウトロ (北海道)、あつみ (山形)、かみのやま (山形)、作並 (宮城)、人吉 (熊本) の 11カ所に行ったことがあり、合わせて 13カ所となる。制覇率 13%。これって多いのか少ないのか、よくわからん。

13カ所のうち、東北が 5カ所というのは、自分も妻も東北生まれなので当然という気がするが、その他では、北海道 2カ所、関東 2カ所、東海 2カ所、四国 1カ所、九州 1カ所と、ばらけている。

こんなに温泉好きなのに、これっぽっちしか行ったことがないのかなあと、不思議な感じにとらわれたが、よく考えてみれば、このベスト 100 に入っていない多くのひなびた温泉に、私は入っているのである。

とくに山梨、長野、岐阜辺りは若い頃に何度も行ったことがあるのに、不思議にベスト 100 の温泉には入っていない。これは山登りの後などに、その辺の地味な日帰り温泉にちゃちゃっと浸かって帰って来たりしているからだ。

考えてみると、私は 「温泉旅行」 (温泉が主目的の行楽) というのは、ほとんどしたことがない。仕事や他の用事で行った先に温泉があると、ちょっとした空き時間に入るというパターンがやたら多いのである。

最初に紹介したランキングは、「旅行業界のプロの投票」 によるものなので、旅行をセットして儲かるところが上位に入っているのは当然だ。これまで私が入っているのは、地方の目立たない、地味な温泉、旅行業者があまり儲からない温泉が多いということになるのだろう。

そうか、こうしたランキングにはあまり踊らせられない方がいい。これは、「旅行業界内部のランキング」 なのだ。そういえば、本でも音楽でも映画でも、ベストセラーとか、興行収入ベスト 10 とかいうものには、私は昔からあまり縁がないのである。

というわけで、いかにも観光地というより、のんびりした温泉の方がゆったりしていいと思うのだが、よくみるとベスト 100 の中には、そうした温泉もポツポツ入っている。うぅむ、旅行業界、なかなかバカにできないところがあるな。

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2012/01/08

「細かく頑張ろう」 というフレーズに目を開かれる

6日の 「ダイエットと 75kg の壁」 という記事に shun さんが付けてくれた 「共に細かく頑張りましょう」 というコメントに、ぐっと来るほど感激してしまった。なるほど、ダイエットというのは、いや、ダイエットに限らず、「細かく頑張る」 といいのかもしれない。

私は上述の記事で、体重 75kg を下回りたいが、この壁を越えるのが至難の業であることを嘆いた。その記事にコメントしてくれた shun さんが、次のような、なかなかおもしろいことを指摘してくれたのである。

最近聞いた話で、人と言うのは不思議な生き物で、5 とか 10 とか切りが良い数字にはなかなか当てはまれないらしいんです。例えば、挨拶は 5分程度で、と依頼されると何故かオーバーしてしまうけれど、6分とか 7分とか、なんとなく区切りの悪い数字には律儀に反応するとか、あとは 9時 43分まで集合と言われる となぜか遅れないとか。

  (中略)

で、あまり関係ないのですが、ダイエットも、細かい数字にしとくと、なんだかやらなければならないという気分になります。

というわけで、shun さんは、1月末までに 「マイナス 2,7kg」 を目指すことにしたのだそうだ。なるほど。それで私は、以下のようなレスを書き込んだ。

なるほど、いいことを聞きました。
それはきっと、無意識に四捨五入して楽な方を取ってしまうからかもしれませんね。

私も、とりあえず、73.8kg を目指します。

「73.8kg」 を目指すことにしたのは、75kg を目安にしたダイエットなんかをしていると、本当に四捨五入で、80kg にリバウンドまでは安易に妥協してしまいそうな気がしたからである。それで、四捨五入しても 80kg には決してならない、アンダー 74kg である 73.8kg を目標にすることにした。

これまでは 75kg まで落とすと、それで一安心してしまって、気がゆるんでいた。再び 「もう一口」 を食うようになって、運動に関しても 「ほんのちょっとだけ無理した時の気持ちよさ」 を忘れてしまう。そして 80kg すれすれまでリバウンドしないと、「四捨五入すれば、同じようなもの」 と思って、甘えてしまう。あるいは、諦めも早くなる。

73.8kg を当面の目標とすれば、75kg まで減らしても、まだ気を緩めることができなくなる。目標はまだ 1.2kg 先だ。相手のみぞおちに突きを入れる時には、みぞおちそのものを的にするのではなく、その 5寸先ぐらいを射抜くようなつもりで突かなければ、ダメージを与えられないのと同じような感覚である。

ダイエットは、いや、再び繰り返すが、ダイエットに限らず、ものごとは大雑把な目標ではなく、現実的で、なおかつ 「細かい」 数字の目標をもつと、かなり励みになるかもしれない。というわけで、頑張る。とりあえず、毎日恐れずに、細かく細かく体重計に乗ることにする。

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2012/01/07

オウム信者が知らずに犯した罪

オウム真理教の平田信容疑者が出頭したことについて、これまで触れてこなかったのは、忌まわしい記憶が呼び覚まされて嫌な気持ちになるからだったが、ここらで一言書いておこうかと思う。

麻原彰晃は当初、ヨガの修行団体 「オウムの会」 (後に 「オウム神仙の会」) というのを始めたということになっている。そのまま修行団体として地道に活動していればよかったのに、怪しげな教義を振りかざして一種のカリスマ的存在となり、ついに反社会的行動に走るようになった経緯が、私には一番気にかかる。

これは麻原彰晃自身の、「変な目立ちたがり」 という性格と、信者をどんどん増やしていく過程での社会との軋轢、そして金銭的事情の合わせ技なんじゃなかろうかと、私は思っている。

当時、ヨガだのタントラだのという、神秘的カウンター・カルチャーに染まると、ある程度の社会的軋轢は避けられなかった。何となくお約束みたいにロング・ヘアーになり、ひげを生やし、「どうみても、きちんとした人じゃない」 みたいな外見になってしまうし、「まともに働きもしないで」 と、後ろ指を指される。

こうした精神的修行団体に参加する人間というのは、基本的には 「マジメ」 な人である。マジメだからこそ、フツーのお仕事で金儲けにあくせくするよりは、親に泣かれようとも、精神的修行というのをしたいのである。

こうしたマジメな人、とくに若い連中を集めて、宗教みたいな団体を維持していくからには、一人当りの 「ご奉納」 なんてたかがしれているから、人数を集めなければならない。人数集めて怪しげなアルバイトをさせ、共同生活でコストをとことん切りつめて、そして収入はごっそり教団が取ってしまう。

こんなことをしていたら、信者の親には泣かれるし、逃げ帰った元信者を強引に連れ戻したりして、ますます恨まれるし、近所の住民からはつまはじきになるし、それに怪しげなクスリなんかを使って神秘体験させたりするので、反社会的存在になるのは当然である。

元々は 「マジメ」 な動機で精神的修行をしたかったのに、世の中からは糾弾される。ここで、教団側は自らの理不尽さを棚に上げて、「自分たちは社会から圧迫される受難者である」 という意識をもつことになる。自分たちはあくまでも 「被害者」 なのだ。それで、邪悪な社会と戦い、勝利するというシナリオまで持つようになってしまう。

自らを省みることなく、周囲を 「悪」 とする単純二元論的な対立的構図を教義の中に持ち込むと、その宗教はことごとく 「邪教」 になる。世の中にはそうしたプロセスを経て自己破滅に陥った団体がいくらでもあるが、オウム真理教は、この原則を最も端的に現した団体だったと思う。

17年前の平成 7年、私は都心にある外資系団体に勤めていて、JR 常磐線の北千住で地下鉄千代田線に乗り換え、国会議事堂前まで通っていた。この年の 3月 20日、いつものルートを辿ってオフィスに着き、しばらくすると妻から電話が入った。息せき切った様子である。

「あなた、大丈夫?」
「大丈夫だけど、一体どうしたの?」
「何だかよくわからないけど、大変なことになっているのよ。ニュースを見て」

というわけで、皆、会議室に集まってテレビを付けると、地下鉄で毒ガス散布事件があり、多くの人が病院に運ばれ、死亡した人もいるということだった。地下鉄入り口の路上で横たわり、苦しげに息をついている人が何人もいる。救急車のサイレンがひっきりなしに聞こえる。皆、唖然となった。

その日はなぜか、いつもよりほんの少しだけ早めに家を出て、いつもより一本早い電車に乗っていたのだった。霞ヶ関と国会議事堂前は、たった一駅違いである。いつも通りの時間に出勤していたら、私だって今頃どうなっていたかわからない。

「命拾いした」 と思ったが、それ以上の感慨はなかった。まったくなかった。何しろ、現実感がまるで伴わない。しかしその現実感のなさは、オウム信者たちにとっても同様だったのではなかろうか。彼らは何だかよくわからないうちに犯行に及んだのである。

釈尊は 「知って犯す罪より、知らずに犯す罪の方が重い」 とおっしゃった (参照)。まさにその通りである。知ってしまってから後悔しても遅い。

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2012/01/06

ダイエットと 75kg の壁

正月休みで食っちゃ寝、食っちゃ寝を繰り返して、太ってしまった人が多いようだが、私は必死に節制して少しだけ体重を減らした。

実は年末においしいものを食べ過ぎてしまい、ずっと 75kg を維持してきたのに、大晦日に計ってみたら 78kg を越えてしまっていた。私ぐらいの重量になると、3kg や 4kg ぐらいは、ちょっと気を許せばすぐに増えてしまう。

あぶないところだった。あのままだらだらと食べ続けていたら、今頃は 80kg を越えているところだった。そしてそのまま節制しないで好きなだけ食べて暮らしたら、多分 1年以内に 100kg になってしまう。

(どうか、私を肥満体質と思わないでいただきたい。私は身長も 178cm 以上あるので、そんなにデブには見えないはずだ)

それで、正月になってからは意識的に食う量を減らし、運動したのである。夜中に腹が減っても、「ちょっとうどんを一杯食べて暖まろう」 なんてことは考えないことにした。いずれにしても、今年の正月は喪中だから、鏡餅も注連飾りもないし、おせち料理も作っていない。ごく普通の、正月らしくない食べ物しかない。

だったら、ついでだから食う量も減らしてしまおうということだ。原則は単純なこと。「腹一杯になるまで食べない」 ということである。「もうちょっと食いたいな」 と思っているあたりで、「でも、やぱりやめとこう」 と思ってしまえばいいのだ。

というわけで、正月の 5日間で、78kg 以上あった体重を、76.4kg まで落とした。このままいけば、来週中には元の 75kg 台に戻るだろう。

そう、75kg 台にするのは、案外簡単なのである。これまでだって、何度か 「ヤバイ!」 と思いながらも、その度に 75kg には戻してきた。ところが、そこから先が大変なのである。なかなか 75kg を割らない。

それまで順調に体重を落としてきたのだから、そのままの推移をたどればいいだけのように思えるのだが、どういうわけか 75kg の壁は難攻不落なのだ。

今回も、できれば 75kg を割って、70kg に近づきたい、あわよくば 70kg を下回りたいとまで思っているのだが、それはものすごく難しいだろう。しかし、諦めないで挑戦してみようと思っている。

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2012/01/05

喪中と年賀状

今年は年賀状が少ない。それも当然で、昨年の 10月に父が死に、11月のうちにいわゆる 「喪中欠礼葉書」 というやつを出しておいた。この 「喪中欠礼葉書」 というものの元々の意味は、「喪中なので、こちらからは年賀状を出しません」 ということのようで、「お前も俺に年賀状なんか寄こすんじゃないぞ」 と強要する意味はないのだという。

「喪中の人には年賀状を出さない」 というのが一般常識化しているが、出してしまったとしても、とりたてて責められるほどの失礼ではないのだという。世の中には、「欠礼葉書を出したのに、年賀状を寄こした」 と言って怒る人がいるが、そんなことで怒ってはいけない。

というわけで、私だって年賀状をくれるんならどんどんもらいたいとすら思っているのだが、やはり圧倒的に少ない。来るのはほとんどが何かの業者からの営業年賀状である。今年、私は年男 (恐ろしいことに、還暦を迎えるのだよ) なので、お年玉で当たる辰の絵の記念切手が欲しいと思っているのだけれど、当たるかなあ。

とまあ、それはそれでいいのだが、私の実家には死んだ父宛の年賀状が、まだ何通か届いているという。今、実家には私の妹がいて、父宛の年賀状がパラパラ来るのに戸惑っているようだ。

大抵の親戚と知り合いには通夜と告別式の前に知らせを出したし、それ以外の知人にも、10月中に葉書で死亡通知を出した。それでも、本人宛に結構年賀状が来る。その本人はもうこの世にいないんだから、喪中の私宛に年賀状が来るのとはわけが違う。「死んだと知らせたやんか」 と言いたくなってしまう。

ただ、死亡通知を出し漏らした 2~3人から届いた年賀状は、これはもう仕方がないので、改めて通知しておこう。いやはや、親父の住所録を隅から隅まであたったつもりだったのに、漏れってあるもんだなあ。

一番驚いたのは、通夜と告別式に出席してくれた父の親しい友人から、年賀状が届いていたことだ。これ、ついうっかりなのか、はたまたボケてしまったのか。まあ、年も年だし、家人が気を利かせて代筆してくれたんだろうと思っておく方がいいかもしれないが、死んだ親父も、さぞかしびっくりだろう。

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2012/01/04

論理的になるということは、バカになることなのかもしれない

1年半前に論理思考の限界に関する記事を何本か続けざまに書いた。ざっと挙げてみよう。

人間の脳はデュアルタスクが限度なので (2010/06/05)
人間の脳は三等分すら苦手なので (2010/06/08)
論理思考の限界 (2010/06/25)
論理思考の限界 その 2 (2010/06/27)
複雑なことを単純化して考える以上の賢さ (2010/06/30)
(ちょっと間をおいて)
理屈通りに行かないのが、世界のありよう (2010/11/04)

一連の記事の中で私は、論理思考というものの限界を、くどくどと、ちょっとだけ論理的に書いている。論理思考というものがあまり当てにならないものなのだということを示すために、論理思考を用いているのだが、論理思考というのは、その程度には機能するようなのである。

自らの限界を提示できるのだから、まあ、論理はまったく信頼できないというわけじゃない。だからこそ、我々は日常生活において論理思考を厭わないわけだが、過度に信頼しすぎちゃいけないということだ。何しろ、何事も理屈通りには運ばないのだから。

最近あの岡田斗司夫氏がご自身の公式ブログで、それと似たようなことを書かれている。「美人の恋愛コラムニストを前に、ついついしゃべりすぎてしまいました(by岡田斗司夫) 」 という記事だ。

この記事の中で岡田氏は、次のようにおっしゃっている。

女の人は考えが複雑すぎるんです。「これもある。でも、あれもある」 って、物を考える時に関連性込みで引っ張ってくる。1つ手繰ったらそれにいろいろ糸が付いていて、その糸の先にいっぱい重たいものが付いてるんです。網引っ張るみたいにして、そうしたらそこにいっぱいものがあるから、引っ張り上げられないんですよね。

(中略)

論理的になるのはバカになるということです。物事を単純化するというのは、子どもみたいに見るということですから。そうすると、本質が見えることもあるんですけども、大事なディティール取りこぼすんです。

(中略)

犬ですから、理屈を追いかけるという、理屈まっしぐら。フリスビー投げればシュッと走るみたいなもので、理屈で考えるといったらシュシュシュッと曲がるん です。大変お上手なんですけども、それは訓練された犬にしか過ぎないので。僕らは女性が思うような複雑な概念というのは扱いきれない。

岡田氏はどうやら恋愛論に関連した文脈で、「男 = 論理的、女 = 非論理的」 という、あえて雑ぱくな前提に立ちながら、要するに男 (= 論理的人間)は 「単純な犬」 みたいなものだということをおっしゃっているのである。

私は冒頭で紹介した 「複雑なことを単純化して考える以上の賢さ」 という記事の中で、 「賢い人は複雑なことを単純に考えるが、もっと賢い人は、単純化した過程で切り捨ててしまったファクターがあるということに、きちんと自覚的である」 と書いている。

この言い方はかなりモデレートなもので、その点岡田氏はもっと思い切りがいい。「論理的になるのはバカになるということです」 と、一刀両断に言い切っている。私はそこまでは言い切れなかったなあ。

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2012/01/03

iPhone は 32GB を買うべきか、16GB で十分か

突然だが、私の iPhone 4 は容量 16GB である。私は iPhone に関しては結構なヘビーユーザーなので、意外と思われるかもしれないが、今のところ、これで何とか足りている。

機種変更する前は iPhone 3G の 32GB を使っていたから、本来なら 32GB にしたかったところだが、何しろ一昨年の秋に 3G をうっかり洗濯機で洗って壊してしまい、急遽機種変更を迫られているところで、近所の Softbank ショップの店員が 「iPhone 4 は 16GB しか在庫がございません」 なんて言うから、深く考えずにそれで妥協したのだった。

これから iPhone を買おうとしている人に、 「容量は 32GB を買うべきか、16GB で十分か」 と相談されることがある。そんな時、「私は結構ヘビーに使い倒しているけど、今のところ、16GB でも不便は感じてないよ」 と答えることにしている。

ほとんど使いもしないアプリをやたらにインストールしたり、動画や音楽をこれでもかというほど保存するのでなければ、16GB でも致命的に困ることはない。しかし超ヘビーに使い倒したかったら、32GB ある方が安心かもしれないということだ。

私の 16GB モデルの iPhone 4 は、かなりいろいろなアプリ (Office Set にあたるPages, Numbers, Keynote を含む) をインストールし、音楽もアルバムを 80枚以上入れているが、今のところ空き容量が 3GB 以上確保されている。キツキツといえば言えるかもしれないが、何とか足りていて、動作が不安定になることもない。

PC に接続して、iTunes でディスクの中身を見ると、オーディオが 5GB、アプリが 4.5GB ほど占有していて、そのほかは微々たるものだ。写真はマメに PC の方にセーブしているし、必要なファイルは iDisk や Evernote などのクラウド・サービスに保存しているので、本体にセーブしておく必要がない。(あ、そうだ、さっさと iCloud の設定もしとかなきゃ)

とはいえ、私の iPhone は今年の秋で 2年縛りが解けるので、その頃には多分発売されているであろう iPhone 5 に機種交換する時には、32GB にしてしまおうと思う。今後はもっといろいろなアプリを入れてしまうだろうし。

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2012/01/02

今年の正月と無常観

「明けましておめでとう」 と言いにくい正月なんだそうだ。私は父の死後、まだ 3ヶ月も経っていないので年賀状も出していないが、別に喪中でなくても 「おめでとう」 というのを控える風潮なんだそうだ。なんだかなあ。

それでなくても、とくに東日本、さらに東北ではちょっとうっとうしい正月なのだが、「おめでとう」 ぐらい気楽に言ったらどうなんだと思う。またぞろ 「自粛体質」 が症状を現し始めたのだろうか。

とはいえ、一休禅師が狂歌に読んだように 「正月は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」 ということだから、まあ、あまりこだわらずに餅でも食っていようか。

こんな具合なので、今年の正月は何だか重苦しい。あの震災以後、何かが確実に変わってしまっていて、日本中に 「無常観」 が漂っている。「驕れる者は久しからず」 ってな言葉を思い出すが、日本はもう、「驕る」 ほどの材料もなくなってしまったような気がする。折もおり、今年の大河ドラマは 『平清盛』 なんだそうだよ。ちょっとできすぎじゃなかろうか。

『方丈記』 という日本の古典的随筆があるが、この中で著者の鴨長明は、当時の都を襲った火事、竜巻、飢餓、地震などの災難を克明につづって、世の無常を説いている。今の日本、多くの人が鴨長明みたいな心境になっちゃってるんじゃないかと思うようなところがある。

本当に、ちょっと人里離れた山の中に方丈の庵を結んで、世捨て人みたいな感じで生きられたら、かなり気楽なものだという気がするが、今の世の中では、食うぐらいは稼がなきゃいけないので、なかなか鴨長明のライフスタイルまで真似することはむずかしい。

ところで、北朝鮮にいたっては 「無常観」 どころじゃないぐらい大変な世の中になっているんだろうけれど、指導部はここに至ってもまだ妙な幻想を抱いているのかなあ。方丈記を読ませてあげたいぐらいのものだ。

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2012/01/01

元日らしくない元日

一夜明けて元日だが、私はまだ喪が明けていないので、鏡餅も注連飾りもないし、「おめでとう」 とは言わない習わしなんだそうだ。だからここでは、「皆さん良いお年をお過ごしください」 ということで、さりげなく挨拶を済ませたような気になっておくことにする。

今年は元日の朝イチで配達される年賀状が極端に少ない。11月のうちに喪中欠礼葉書を出しておいたので、当然のことで、来るのは自動車屋や保険屋の営業用の賀状ばかり。なんだかつまらない話である。

喪中とはいえ、初詣はしようと思う。昼食をとったらこのところ恒例になった往復 10km の徒歩による初詣のハシゴをする予定だ。ダイエットも兼ねて。

元日らしくない元日にちょっと気が抜けているので、今日はこのくらいで失礼。

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