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2012年3月に作成された投稿

2012/03/31

北朝鮮の 「ロケット」 への日本側の対応

北朝鮮の 「人工衛星打ち上げロケット発射」 は、どうせミサイルだろうというのが見え見えだが、日本側の対応は大袈裟すぎるのではないかという批判がある。ロケットの破片が日本の領土に落ちて被害をもたらす可能性は、はっきり言ってゼロに近い。そんなことに対して迎撃体制を整えるだの PAC3 を配備するだのは、金の無駄遣いだというのである。

ただ政府としては、北朝鮮の悪者イメージは厳然としすぎているほどで、だから何を仕掛けてくるかわかったもんじゃないという思い込みを利用している面があると思う。そいつの打ち上げるミサイルを落っことす準備をするのは、どちらかといえば、国民からの支持を得やすいものと考えているようだ。

しかも、防衛大臣はあの田中直紀氏である。うじうじしているだけではますます軽く見られるだけだから、少しは毅然としたところを見せておかなければならないと考えても不思議ではない。

そんなことで金をかけすぎという批判があるが、政府としてはこんな時だからこそ、ちょっとした訓練に金をかけるチャンスと思っているのかもしれない。なにしろ、絶好の実戦訓練になるのだもの。

どちらかと言えば、最もメリットを感じているのは自衛隊かもしれない。自らの防衛装備の実効性の検証の、またとない機会になる。もしかして、全然役に立たなかったりしたら、さらなる装備強化を行うためのいい口実になる。いずれにしても、いい機会に違いないのである。

そう考えれば、田中さんが珍しく強気の方針を打ち出しているのは、防衛省に丸め込まれているということもあるのかもしれない。

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2012/03/30

東北の高速道路無料化が明日で終了

東北の高速道路無料化が明日で終了する。私は個人的にはこの無料化の恩恵には十分にあずかった。昨年の 6月に父が入院し、危篤になり、10月に死に、12月に四十九日の法要を行ったので、10回以上酒田との間を車で往復した。これだけで多分、15万円ぐらい浮いていると思う。

そのほかに、水戸以北に何度か出かけているので、5万円ぐらい浮いているはずで、合計 20万円ぐらいは得している。

ただ昨年に無料化が発表された時点では、今年の 6月まで実施するとアナウンスされていたはずだ。それがいつの間にか無料化のシステムが変わって、常磐道でいえば水戸以北のみが無料化の対象となり、時期も 3月 31日で終了ということに変わった。

東北地方の人たちにしてみれば、無料化による移動コストのメリットや観光客誘致の促進という効果が現れるのは、雪が解けた春以後に本格化すると思っていただろうが、「さあ、これから」 という時期に終わってしまうのでは、なんとなくがっくりというところだろう。

それにそもそもの話でいえば、民主党は高速道路を無料化するという公約を掲げていたはずなのに、嘘ばっかりである。いろいろな試行錯誤を重ねたあげく、休日上限 1000円ということさえ廃止されて、結局は自民党政権時代より利用者の負担は増えてしまうということになってしまっている。

私は個人的には日本の高速道路利用料金は高すぎると思っている。道路公団のコスト意識を徹底すれば、上限 1000円は無理としても、上限 3000円ぐらいは可能なのではないかと思っている。

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2012/03/29

郵便物が途中で消える件

郵便物を配達せずに処分 隠蔽で支店長自らシュレッダー」 というニュースをみて思い当たったことがある。とりあえず、そのニュースはこんなのだ。

郵便事業会社三島支店 (静岡県三島市) で昨年 5~11月、男性配達員の社員がはがきや封書などの郵便物 100通以上を配達せずに隠し、事実を知った当時の支店長らが協議の上、隠蔽のため一部をシュレッダーにかけて処分していたことが 28日、分かった。

思い当たったのは、その昔、某団体勤務をしていた頃のことだ。当時、団体所属企業 300社以上にしょっちゅう郵便物を出していたのだが、時々こちらから郵送した通知が先方に届いていないということがあった。

印象では、10回郵送すると、1回届かないケースがあった。1割届かないというわけではなく、1度に 300通の郵便物を 10回出すと、1回は 「ウチに届いてない」 と言ってくる会社が 1社はあるという感じである。確率で言えば、3000分の 1 、つまり 0.03%ぐらいということだ。ざっくりとした印象にすぎないが。

このうち、半分以上はちゃんと届いたのに、社内で紛失してしまったということなのだろうと思うが、どうみてもそうとは思われないこともある。めちゃくちゃ乱暴な推定だが、郵便物は 0.01%ぐらいは届かないといっていいのかもしれない。

そんなわけで、私としては、「郵便というのは、案外途中で消えてしまうものだ」 と密かに思っていたのである。ただ、それを言っても誰も信じてくれないので、あまり口外していなかった。

ところが、上記のニュースを読んで、やっぱりそうしたことがあるのだとわかった。ゴキブリが 1匹いたら 100匹いると思えというが、こうしたケースが 1件露呈したということは、同様のことが 100件あったとしても不思議ではない。まじめな郵便局員の方にしてみれば、とんでもない暴論かもしれないが。

幸いなことに、私が個人的に送った郵便物は 1度も途中で消えたことがない。ただ、1度に 300通も 500通も送ったら、10回に 1回は、そのうちの 1通ぐらいは途中で消えてしまうかもしれないと思っている。

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2012/03/28

機内食が不味く感じられるのは

Slashdot に 「科学で証明、機内食が不味く感じられる理由」 という記事がある。私は今日の今日まで、機内食は 「不味く感じられる」 というよりも、元々おいしいものではないのだとばかり思っていたが、むしろ、飛行中の機内は食べ物がおいしく感じられる条件に恵まれていないのだそうだ。

人間の舌に約 10,000 個ある味蕾の機能は、高度が上昇するにつれて変化する気圧により 3 分の 2 も低下してしまうのだという。また、機内の湿度は非常に低いため、鼻の粘膜が乾いて香りを感じにくくなり、さらにドライマウスになって、ますます食べ物が味気なく感じられるという。

このため機内食は塩分などの調味料やスパイスが多めに使われているらしい。道理で私は、「機内食の味付けは不自然にしつこい」 と感じていた。

いや、待てよ。機内食の味付けがしつこいと感じられるということは、気圧や湿度変化しても、私の味覚はあまり低下していないということではないか。

そうか、つまり 「機内食の味付けはしつこい」 と感じていた私の感覚は、結局は正しかったみたいなのだ。高度や湿度による味覚の低下を起こしやすい人のために濃い味付けにするというのは、私にとっては余計なお世話ということのようなのである。

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2012/03/27

長い社名が増えていく

先日損保ジャパンと日本興和損保が合併が発表され、新社名は 「損害保険ジャパン日本興亜株式会社」 になるんだそうだ。私の車の保険は損保ジャパンなので、合併したらやたら長い社名の保険に入っているということになってしまう。略称は 「損保ジャパン日本興和」 なんだそうだが、それでも長い。

しかもこの名前、やたら長いだけじゃなく、よくみると真ん中が 「ジャパン日本」 なんてことになっていて、「なんじゃ、こりゃ?」 といわれそうだ。「ごくフツーのセンスさえあれば、恥ずかしくて名乗れない社名」 と tweet したら @hym_s さんが 「英文社名どうなるんだろ」 とコメントしておられた。

なんだかますます恥ずかしい英文社名なんだろうなと思って調べたら、当事者の発表資料に "Sompo Japan Nipponkoa Insurance Inc." とあった。まあ、固有名詞なんだからどうでもいいけど、"Japan" の後に "Nipponkoa" と続くあたり、聞いてる方が恥ずかしい。

いずれにしても、この新社名を決めるにあたっては、顧客にとっての言いやすさとか、そういった事情は二の次にして、当事者同士のメンツみたいなものが最優先されたんだろうなあと想像される。どちらか一方の名前が前面に出たら、もう一方はいかにも吸収されたみたいなイメージになるから、並列の名前にしてしまうのだ。いくら言いにくくても。

それで世の中には、東京三菱UFJ銀行とかいう、舌を噛みそうな名前の会社が増えていく。こうなったらどんどん合併を繰り返して、「寿限無」 みたいな名前の会社が出てくれば、それはそれでおもしろい。その会社の電話受付は大変なことになるだろう。

ちなみに、長い社名といえば、「あいおいニッセイ同和損害保険」 とか 「東京海上日動火災保険」 とか 「東京海上日動フィナンシャル生命保険」 とか 「三井住友海上あいおい生命保険」 とかいうのが思い浮かぶ。調べればもっといくらでもありそうだが、言わされる方は 「どんな罰ゲームですか?」 なんて思ってしまうような社名だ。

こうしてみると、銀行関係とか保険関係とかは合併するにあたり、どうやらユーザーの都合より自分らのメンツの方を優先してしまいがちな、ちょっとゴーマンなメンタリティを持ちやすい業界なのかなあなんて、つい考えてしまう。

今度は 「あいおいニッセイ同和損害保険」 と  「東京海上日動火災保険」 を合併させてみたいものである。

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2012/03/26

ディスプレイ上の日本語表示と解像度について

大分前に、「人間は文字を認識する時、最初と最後の文字さえ合っていれば読める」 というのが話題になった。次の段落の太文字は、平仮名の順序がめちゃくちゃなのだが、案外すらすら読めてしまうのである。

こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。
この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか
にんんげ は もじ を にしんき する とき その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば
じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて
わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。
どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?
ちんゃと よためら はのんう よしろく

人間の脳の機能というのはなかなかすごいもので、上の平仮名は、文字通り単語の最初と最後の文字だけが合っていて、途中はかなりめちゃくちゃなのに、大抵の人はすらすら読んでしまう。しかも、文字のフォントが小さいほどすらすら読めて、あまり大きいとかえって読みにくくなる。大きいとこんな感じだ。

Cr120326a

文字が大きすぎると、あまりにも文字そのものが明確に認識され、逆に文字の並びとしての単語認識に手間がかかるせいだろうと、私は思っていた。確かにそれは正しいと思う。ただそれだけでなく、PC のディスプレイ上に限って言えば、画像としての文字を拡大すると、表示がまともじゃなくなる。

例えば私のある日のブログをディスプレイ上に表示して、それを画像として部分的に拡大してみると、下のようになる。

Cr120326b

なんとまあ、案外スラスラと読んではいたが、実はこんなにめちゃくちゃなフォントをまともな字と認識して読んでいたということになる。画数の多い 「層」 とか 「違」 という字なんて、よく見れば 「こんなの字じゃないぞ」 と言いたくなるぐらいのものだ。人間の脳の認識能力のすごさに、改めて気付かされる。

こんなのをまともな字に 「翻訳」 しながら読んでいるのだから、目にはかなりの負担がかかっているのだろうと思われる。

cagylogic というブログに 「新しい iPad のインパクトは漢字圏とアルファベット圏で違う」 という記事があり、新型 iPad の Retina ディスプレイの解像度の素晴らしさについて、こんな風に書かれている。

僕らは漢字ネイティブだから、「ようやく僕らの文字を正しく表示するデバイスを手に入れた」 と感じるのだけれども、アルファベット圏の人は、以前から 「文字を正しく表示するデバイス」 を持っていた。今回発表された新しい iPad は、今まで 「文字を正しく表示するデバイス」 に加えて、「文字のデザイン (フォ ント) を正しく (美しく) 表示するデバイス」を手に入れたことになる。

なるほど、私は新型 iPad のディスプレイをまだ見ていないのだけれど、多くの人がその詳細さと美しさについて称賛している。それによって、日本語はようやくまともに表示されることになったというわけだ。これはかなり重要なことではあるまいか。

ちなみに上述のブログ記事に、日本語の文字をエミュレーションした拡大画像 (上の単なる画像としての拡大とは違う) が載っているが、まともでない画像でみると、日本語フォントは本当に滲んでいるのがわかる。ディスプレイは解像度の高いものでないと、目にかなりの負担をかけているわけだ。

還暦に近づいてきた近頃、PC で仕事をしていてやたらと目が疲れるのも道理であると思い至ったのである。

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2012/03/25

IT の視点から離れつつある Apple のマーケティング

新型 iPad (名称は "iPad 3" にはならなかった) の販売が開始されたが、私自身は今回の新バージョンを買う予定はなく、買うとしても多分、来年か再来年に発表されるより新しいバージョンになるだろう。企業でまとめ買いをする場合には、旧バージョンの iPad 2 が値引きになって 3万円台で買えるようなので、そっちをオススメしているほどだ。

とはいえ、新型がどんなふうに評価されているのかを知りたくて、3月 21日付の日経 Trendy の 「評価が分かれた新しいiPad、販売は伸びるか?」 という記事を読んでみた。佐野正弘氏の連載、「"日本的"ケータイ論」 の最新記事である。

読んでみた感想は、「うぅん、やっぱりこの分野の専門家に評価させると、こういうことになるのだろうなあ」 ということに尽きる。初っ端の紹介が 「解像度を大幅にアップさせた Retina ディスプレイの採用で画面の美しさを絶賛する人がいる一方、目立つ新機能が用意されなかったことから失望の声も聞かれ、評価は賛否両論分かれたようだ」 だもの。

iPad のユーザー像については、未だに誤解から抜け出せない人が多いようだ。それは、「iPad のメイン・ユーザーは、IT に大いに関心のある若年層」 という誤解だ。

確かに、今回の新型 iPad に限らず、待ちきれなかったというようにいち早く購入する層は、「IT に大いに関心のある若年層」 に違いない。しかし、メイン・ユーザーがそうであるかということは、大いに疑問だ。方向性としてはむしろ、iPad は IT なんて別に好きでも何でもない 「広範なユーザー」 にこそ、使う価値のある製品なのだと思う。

最初に購入する層、「IT に大いに関心のある若年層」 にしてみれば、「目立つ新機能」 がないというのは、失望要素なのかもしれない。しかし、「広範なユーザー」 にしてみれば、「目立つ新機能」 なんて要らないのである。うっとうしい新機能なんかより 「ぱっとみて理解できる使いやすさ」 の方が、ずっと価値あることなのだ。

私は今月 15日の 「法人需要でも 「ポスト PC」 革命なのだね」 という記事で、次のように書いている。

フツーのオフィスワークなんて、簡単な体裁のドキュメントを作成したり、メールの受発信をしたり、ちょっと金額は張るが関数の内容はお小遣い帳か家計簿と変わらないレベルのスプレッドシートを作るぐらいのものだった。よっぽど慣れてきて初めてプレゼンを作成したりするが、それができるのは部署の 3割もいない。

プレゼンテーションの作成を含め、その程度のことなら何も PC を使わなくても iPad で十分だ。ということは、これまでフツーの企業は、コンパクト・カーで十分なドライバーに大出力のスポーツカーを使わせるような無駄遣いをしてきたわけだ。

つまり、オフィス・ユーザーだろうが個人ユーザーだろうが、7割以上のユーザーは、PC の機能の 2割も使っていないのである。ということは、iPad をもっても、その機能をフルに使うユーザーなんて、それほどにはいないのだ。

ほとんどのユーザーにとっては、iPad 2 のレベルの機能で十分以上なのである。むしろ重要なのは使い勝手の洗練と、画面の美しさだ。それに関しては、新型 iPad はそれなりの進化を遂げているようなのである。マーケティング的には、それこそが望ましいことではないか。

記事の筆者の佐野正弘氏も、その辺のことは多少わかっておいでのようで、次のように書いている。

初めてタブレットデバイスを購入する人にとっては、iPad の進化に関わらず iPad 自体が "新しいもの" であるし、iPad に対する明確な対抗馬となるタブレットデバイスもまだ存在していない。こうした状況を見るに、市場拡大と共に、新しい iPad の販売は継続して伸びる可能性が高いと考えられるのだ。

しかし、わかり方が中途半端のようで、ユーザーにとって iPad が "新しいもの" でなくなれば、新たな新機能を求め始めるはずだと言わんばかりの視点のようである。しかし私としては、ユーザーにとって iPad が "新しいもの" でなくなったとしても、多くのユーザーは 「新機能」 よりも 「よりユーザーフレンドリーな使い勝手」 を求めるだろうと思う。

面倒な高機能が必要なら、PC を買えばいいだけのことだ。オフィス・ユースだろうがホーム・ユースだろうが、面倒な高機能が必要なユーザーは圧倒的少数派とはいいながら、確実に存在する。事実私も、業務としてウェブ・ページやデータベース・プログラムなどを作成する時には、iPad では使い物にならないので、当然にも PC を使う。

しかし、そうした業務なんてしなくて済む大多数のユーザーにとっては、PC なんかより iPad の方がずっと使いやすい。「画期的な新機能」 なんてものを加えて使いにくいものにするよりは、機能限定でいいから、ますます使いやすいデバイスに進化してくれればいいのである。

機能限定されていてもどうせ、大多数のユーザーにとっては、限定されているということすら意識されないのだから。

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2012/03/24

夢の中での五官

昨夜、夢の中で 「どんがら汁」 を食って、「旨い! やっぱりどんがら汁はやめられんなあ!」 と感激したところで目が覚めた。この時、何に驚いたかといって、本当にどんがら汁を食ったと変わりないほどのおいしさを、夢の中で味わっていたことである。

どんがら汁とは、庄内浜名産の寒鱈を、頭から尻尾までどこも捨てるところなくぶち込んだ鍋物で、とくに 「だだみ」 と呼ばれる肝臓や白子の濃厚なおいしさが、思い出しただけでもよだれがあふれるほどのものである。あれはまさに、庄内のソウルフードである。

それにしても、実際に口に入れたわけでもないのに、あんなにも明確かつ具体的かつ詳細な味覚が夢とはいえ、脳内に再現されてしまうというのは、恐ろしいものである。あんなだったら、催眠術をかけられて 「寒鱈汁、召し上がれ」 とインスタントみそ汁を出されても、寒鱈汁のおいしさをバーチャルで十分に味わえると思う。

夢の中の五官の感覚というのは、馬鹿にできないものがある。寒鱈汁の味覚だけでなく、総天然色の鮮やかな画像、音、臭い、暑さ寒さ、痛さなんてものまで、かなりリアルに再現されてしまう。バーチャルな感覚の力というのは、かなりのものだ。

ただ、夢の中で再現可能なのは、実際に体験したことのある感覚のみという気がする。食ったことのないものの味は夢の中で再現不可能だし、嗅いだことのない臭いというのも同様だ。

行ったことのない土地に夢の中で行くことはできる。例えば私は実際には行ったことのない英国やネパールに、夢の中で行ったことがあるが、それはもちろん実際の記憶の再現ではなく、想像上の英国やネパールである。だからかなり 「トンデモ系」 の英国、ネパールだった。

それに対し、味覚、臭覚、痛覚みたいなものは、かなりリアルに夢の中で再現される。これは、脳内に蓄積された味覚、臭覚、痛覚のデータベースが、夢の中でもしっかりと機能するからだと思う。味覚、臭覚、痛覚というのは、感覚の中でもかなり原始的なものだから、夢の中のような朦朧とした状態でも OK なのかもしれない。

これだったら、フグだろうがキャビアだろうが、一度しっかりと脳内データベースにセーブしてしまえば、夢の中で何度でも食べることができるはずだが、そう自由自在に夢を見ることもなかなか難しいみたいで、なかなかうまく行かないのが残念だ。

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2012/03/23

ネット上のガセネタ

ものを調べるのにインターネットというのは、ものすごく重宝なメディアになった。先日米国の Wikipedia が SOPA、PIPA の法案に反対してストライキを行った時、前日の告知に 「学生諸君は今日中にレポート作成を済ませておく方がいい」 みたいなことが書いてあった。そのくらい、調べ事に不可欠のものになったということだ。

しかし、気を付けなければいけないことがある。それは、インターネットの世界にはガセネタが多いということだ。明らかな間違いを、堂々と自慢げにブログに書いている人が案外多い。「ぐっすり」 の語源が英語の "good sleep" であるとかね。

そこまで恥をさらさないまでも、「○○については、インターネットで検索したら××という説もあるようだ」 なんて、知らぬこととはいいながら、明らかなガセネタを大まじめで紹介しているブログがかなりある。

そして、ネットの世界で一度でもそれらしく紹介されてしまうと、「このような説もある」 ということで、いけしゃあしゃあと独り歩きしてしまうことがある。まったく、怖くて冗談も言えないのである。

この類のガセネタで、最近取り上げたことがあるのは、「プーマのロゴはチーター」 という都市伝説だ。

Wikipedia の 「プーマ」 の項にも 「ロゴはチーター」 なんてもっともらしく書いてあるので、私まであやうく信じてしまいそうになり、昨年の秋に 「プーマがチーターだったとは」 なんて記事を書いてしまったのだ。(私自身の名誉のために付け加えるが、まったく信じ込んだのではなく、「えっ? それって、本当なの?」 というトーンで書いている)

その翌日に気を取り直して、「プーマはやっぱり、チーターじゃなく、ピューマのようだ」 という記事を書き、その中で 「どなたか気が向いたら、日本語の Wikipedia のプーマのページを訂正してあげるか、少なくとも疑問を呈しておいてください。私はそこまでマメじゃないので」 という一文を添えたのだが、Wikipedia の記事はまだ修正されていない。

ただ、「プーマ/チーター」 というキーワードでググると、私の記事がトップに表示されるので、何とかなるかなと思っている。「ぐっすり/good sleep」 説にしても、最近ではググってみると、ガセネタであると解説している記事ばかり上位に並んでいる。

やっぱり長い目で見ると、まともな情報の方が強いようで、少しは安心していいのかもしれない。

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2012/03/22

キャッシュレス経済ということ

スウェーデンで経済のキャッシュレス化がすすむ」 という Slashdot の記事に興味をもった。スウェーデンのキャッシュレス経済への移行は今、大変なスピードなのだという。

市場での現金による請求の比率は、ユーロ経済圏の平均が 9%、米国での平均が 7%だが、スウェーデンでは平均 3%にまで減少している。スウェーデンの都市部では、例えば公共バスの支払いは前払いチケットか携帯電話の電子決済しか受け付けないんだそうだ。

日本のバスみたいに、乗降の際に運転席の横のボックスに小銭をジャラジャラっと放り込むシステムは、私なんか 「本当にこれで金額が確認できているのかなあ?」 と心配になるし、小銭がない場合の両替なんか、ものすごくうっとうしい。すべてプリペイド式か IC タグによる電子決済になれば、とても楽だろう。

キャッシュレス化は銀行強盗の防止に、ものすごく効果があるようだ。スウェーデンの銀行協会によると、2008年の銀行強盗発生件数は 110件だったが、2011年には16件までに急落しているそうだ。確かに、現金なんてあっても使い道がなければ、盗んでみてもしょうがない。

前世紀末の話だが、私の知り合いが米国に旅行し、ドラッグストアか何かで買い物をした。レジに並んだ 3人のうち、1人目はクレジット・カードで支払い、2人目はデビット・カードだった。この 2人は何の問題もなく支払いを済ませ、私の知人の番になった。

彼は現金で、しかも 100ドル紙幣で支払った。レジの店員は 100ドル紙幣を受け取ると、ためつすがめつ子細に眺め、透かしを確認し、マネジャーまで呼んで確認してもらい、やたらと時間がかかったという。

「いやはや、まいったよ。現金が一番強いと思ってたんだけど、一番疑われちゃった」 彼は嘆いていたが、前世紀末にしてそんな状況だったのだから、今世紀に入って既に 12年経過したのだから、キャッシュレス化がますます進んでいるだろう。

日本では今でも 「ピン札志向」 が強く、結婚式の祝儀袋に入れるために、わざわざ銀行に行って新品の紙幣を入手するなんて人が結構いる。それどころか、自分の使うお札には折り目を入れたくないとかで、中折れ式でない長いサイズの財布でないといけないなんて、妙なこだわりを持つ人も少なくない。

そういうタイプの人は、その長い財布にいろんな種類のゴールド・カードを並べて挿しこんでいるが、それは滅多に使わない。おもむろに長い財布からピン札を取り出して支払うのである。まあ、彼らにしても多額の決済は、銀行間の数字のやりとりだけで済ませているのだが。

彼らが米国に行ってよれよれのドル紙幣をみたら、腰を抜かすんじゃあるまいか。米国では、現金なんて新聞を買うとかチップをやるとかいう時ぐらいしか使わないし。

まあ、今でも現金志向が強い日本というのは、それだけ 「安全な国」 ということもできるんだろうが、最近はコンビニ強盗なんかが増えていて、それもだんだんおかしくなってきた。しかしキャッシュレス化が薦めば、コンビニの店員にナイフなんか突きつけても、レジから出てくるのはせいぜい数千円なんてことになって、強盗事件も減るだろう。

私はずっと前から 「お金って、持ち点制度ということでいいんじゃない?」 と思っていて、紙幣や小銭なんていうのは、「持ち点のなれの果て」 という気がしている。持ち点としての価値が同じなのだから、むしろよれよれの方がなれの果てらしい雰囲気がある。

しかしあまりそれで割り切りすぎると、国家が紙幣供給の増減で経済コントロールするなんていうのが意味をなさなくなったりするだろうし、それ以上のことは、うぅむ、よくわからん。

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2012/03/21

湿性耳垢と乾性耳垢

耳垢には湿性と乾性があるのだそうだ。要するに、耳カスがじっとりと湿っているか、かさかさに乾いているかの違いである。ちびまる子ちゃんの耳カスは、確か湿性だったと記憶している。

湿性の方が優性遺伝で、全世界的には圧倒的に湿性の方が多いのだが、日本人は乾性の方がずっと多いのだそうだ。この辺に関しては Wikipedia の 「耳垢」 の項 に詳しい。湿性は縄文人の特質で乾性は弥生人の特質なんだそうだ。とすると、さくらももこさんは、静岡の生まれなのに縄文系なのだろうか?

私自身の耳垢は、完全に乾いている。カッサカサである。ところが、ずっと昔からこんなにカッサカサだったかというと、記憶が曖昧だ。子どもの頃はもう少し湿り気があったような気もするが、耳カスのことなんてそんなに正確に覚えていないから、どうにもおぼろげである。

耳垢が湿ったものになるのは、耳の中の汗の成分であるアポクリン腺によるのだそうだ。弥生系の日本人はこのアポクリン酸が少ない人が多いので、日本人の耳垢は乾性になりやすいという。

しかしこのアポクリン酸の活動状態は、腺の活性が第二次性徴のひとつであるために、同一人物でも成長により変化するらしい。 若年期にはかなりどろりとした耳垢の人でも、成長期を過ぎると汗の分泌量も低下し、高齢者では耳垢は粘度が高い粘土状になる傾向があるというのである。

とすると、私の耳カスが若い頃に多少湿り気があったのだとしても、今はカッサカサの状態なのだから、私の縄文ファクターはかなり薄いとみていいのかもしれない。まったくゼロというわけではないのだろうが。

湿性耳垢の人は、北海道と沖縄に大変多く、ついで東北や南九州にも多いとされている。私は東北でも南東北の生まれだから、縄文ファクターが薄いのも、ビミョーにしかたのないところだ。個人的には、縄文系に憧憬があるんだがなあ。

まあ、縄文系とか弥生系とかいっても、それで人生上の様々なことが過度に規定されすぎるわけでもなさそうだから、あまりとらわれずにいればいいのだろうが、多少は気になるところである。

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2012/03/20

石巻市長の 「宿命」 発言

日本の政治家って、言葉の使い方のなってない人が多いなあと、常々思っているのだが、"石巻市長、「宿命」 発言を謝罪 大川小惨事で" というニュースを読んで、ますますその思いを強くした。言葉の使い方をちょっと間違えただけで、余計な物議を醸し出したりしてしまう。とくに悪気があったわけでもないのだろうが、それはやっぱり自分の責任だ。

石巻の市長の 「宿命」 発言というのは、新聞記事から知る限り、昨年の大震災で児童・教職員計 84人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市の大川小学校の惨事について、6月に市教委が開いた保護者への説明会で、こんなようなことを述べたということのようだ。

「もし自分の子どもが亡くなったら、思いを償っていくという、自分自身に問うということしかない。これが自然災害における宿命だと思っております」 と述べ、遺族から批判を受けた。

多分、話の前後をカットされているので文脈がわからなくなっているということもあるのだろうが、それを勘案してもこの発言は意味不明瞭すぎる。「自分の子どもが亡くなったら」、「思いを償い」、「自分自身に問う」 しかなくて、それが 「自然災害における宿命」 と言われても、「なんじゃそりゃ?」 と言うしかない。

この発言に対する遺族からの批判に、同市長は 「私自身のとらえ方として、自然災害のやむを得ない事情があったということで 『宿命』 という言葉を使った。言葉が足りなかったところはある」 と言い訳しているが、だからといって、「思いを償い」、「自分自身に問う」 しかないとは、ますますもって意味がわからない。

勘ぐれば、「自然災害なんだから、『自分に問う』 ことはしても、市の責任を追及するということは遠慮してもらいたいのよね」 と言外に言っていると思われてもしかたがない。一方、市教委は今年 1月の説明会で学校側の落ち度を認め、人災の面があったとして謝罪しているというのだから、「自分自身に問う」 しかないというのは、結果的に暴言に近いものになった。

まあ、同市長にしてみれば、そこまでひどい意図があったわけじゃなく、ちょっとしたセンチメントの中に、おぼろげながら 「市として追求されたくはないんだよなあ」 という無意識的願望が混じり込んだだけということなんだろうが、やっぱり、「余計なこと」 を言ってしまったことには変わりない。

で、同市長は昨日の市議会で 「遺族の方が傷ついたということであれば率直におわび申し上げたい」 と謝罪したというのだが、これ、政治家の失言に関するお詫びに必ずといっていいほど登場する陳腐な決まり文句だ。私としては、かなり気に入らないのである。

去年の夏、復興相に任命されたことで舞い上がり過ぎ、被災地で周りがびっくりするような親分風を吹かせてすぐに辞任した松本龍氏も、「結果として被災者の皆さまを傷つけたのであれば、おわび申し上げたい」 と発言していた。

これに関して私は、" 「傷つけた」 んじゃなく、「怒らせた」 んだろうよ" という記事の中で、「このおっさんにとっては、怒るのは常に自分で、相手は常に、それによって少々傷つくかもしれない存在でしかないのだ」 と書いている。

政治家というのは無意識的にかもしれないが、自分と住民を上下関係で捉えているようだ。自分は常に、下手したら住民を傷つけてしまいかねない上の立場にいて、「怒られる」 という下の立場にいるはずがないと、どうしようもなく思いたがっている。しっかり 「対等」 と認識すればいいだけの話なのに。

ちなみに、「宿命論」 でいえば、宿命的なのは日本列島が現在の位置にあることにより、定期的に大地震に見舞われるという客観的事実だけであり、そこで暮らす個々の人間が死ぬとか生きるとかいうことまで宿命というわけでは、決してない。このことについても、同市長は言葉の使い方を誤っている。

政治家なんだから、「悪気じゃないんだから、真意をわかってよ」 なんて甘えちゃいけない。言葉の使い方に関しては、役人の方がさすがに 100倍も上手だ。ただ上手だというのは、言質を取られないということに関してのみで、決して理解しやすいということではないのだが。

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2012/03/19

まだ吹かない春一番と、まだ咲かない梅の花

今年は関東地方ではまだ春一番が吹いていない。春一番とは、立春から春分にかけての間に吹く南からの強い風ということなので、今年の関東地方は、春一番が吹かなかったということになりそうだ。天気図をどう見ても、明日中に南からの強い風が吹きそうにない。関東に春一番が吹かないとなると、2008年以来 12年ぶりのことになるそうだ。

春一番が吹かないということは、関東地方にはまだ本格的な春が来ていないということだ。何しろ、今日だってとても強い冬型の気圧配置で、北西の季節風 (「季節風」 と言っていいのか、疑問だが) がびゅうびゅうと吹き荒れた。東北北部から北海道にかけての日本海側では、猛吹雪になったところもあるという。

思えば、昨年は近年には珍しく残暑があまり長続きせず、秋らしい秋を味わうことができた。そしてその秋らしい秋が終わると急に冷え込んで、11月下旬にはもう、初冬と言いたくなるほど冷たい風が吹き渡った。その頃から、「ラニーニャ現象により、この冬は厳冬」 なんていう話が出始めて、翌月始めにはすっかり真冬になってしまった。

普通は寒波が早く訪れると、そのうちに北極地帯の寒波供給源が息切れして、冬の終わり頃にはすっかり穏やかになるものだが、今年の寒波のスタミナはものすごいもので、11月下旬から 3月中旬まで、もう 4ヶ月近くもしっかりと日本付近を冷やし続けている。こんなの、憶えがない。

おかげで、我が家の庭の梅は、今日になっても蕾が固いままで、一向に咲く気配がない。ウチの梅は近所でも有名な遅咲きで、「お宅のそれ、梅と思いこんでいるだけで、本当は桜なんでしょ」 なんて冗談を言われるほどだ。まあ、初夏には梅らしき実も成るし、桜じゃないとは思うのだが。

私のもう一つのブログ、和歌ログでは毎年今頃になると、我が家の梅が咲いたのを歌にしている。それで過去ログを調べてみたが、いくら遅咲きとはいえ、彼岸の中日になっても咲かなかった年なんて過去にない。早ければ 3月上旬、かなり遅くても 3月 17~18日には咲いている。というわけで、遅咲きの記録は既に更新されている。

とはいえ、春一番の吹かない年はあっても、梅の咲かない年はないから、我が家の庭でも今月下旬にはちゃんと見事に咲いてくれるだろうと思う。梅も桜も、遅咲きの年ほどきれいに咲くという話もあるから、期待しておこう。

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2012/03/18

今日は 「精霊の日」 なんだそうだ

今日、3月 18日は 「精霊の日」 (「しょうりょうのひ」 と読む) なんだそうだ。そりゃ一体何じゃ? と思って調べたら、柿本人麻呂、小野小町、和泉式部の 3人の祥月命日が 3月 18日なのだそうで、それで 「精霊の日」 なんだそうである。うぅむ、わかったような、わからんような。

今日が柿本人麻呂の命日として、「人麻呂忌」 とされているというのは、どこかで読んだ憶えがあるが、小野小町の命日として 「小町忌」 ということにもなっているとは、今日初めて知った。「式部忌」 というのがないというのは、和泉式部にちょっと気の毒かもしれない。

3人の命日が今日だというのは、いくらなんでも眉に唾して受け取らなければならない。この 3人とも正確な生没年は不詳とされているのに、どうして命日だけは記録されているのだと疑うことに気付きさえすれば、それは頷ける。念のため Wikpedia で生没年を調べると、次のようになっている。

柿本人麻呂: 斉明天皇 6年 (660年) 頃 - 養老 4年 (720年) 頃
小野小町  : 天長 2年(825年) - 昌泰 3年 (900年) の頃
和泉式部  : 天元元年 (978年) 頃 - 没年不詳

こんな怪しい話なのに、揃いも揃って 3月 18日が祥月命日と伝えられている。ただ、これを単に 「怪しい」 と笑い飛ばしてはいけない。いや、いけないというより、もったいない。どうみても怪しいとはいえ、こうした伝説を保持してきたことには、きっと理由がある。その背景というものを考察してみると、きっとおもしろいに違いない。

というわけでちょっとググってみたら、「柳田国男の 『目一つ五郎考』 によると、3月18日は、源義経、柿本人麻呂、小野小町、和泉式部といった古くに恨みをのんで亡くなった怨霊たちの命日とかんがえられているそうです」 という記述が見つかった (参照)。

残念ながら 『目一つ五郎考』 というのは持っておらず、青空文庫にもないようなので、にわかには原典にあたってみることができないが、ほかにも同様の記述をしたページもあるので、とりあえずはこれを信じておくことにしよう。

それにしても、そうか、菅原道真と並ぶ御霊の代表格、源義経の命日も 3月 18日だったのか。……と、一瞬信じそうになって、念のため Wikipedia にあたってみたら、どうやら 文治 5年 (1189年) 閏 4月 30日というのが、本当のところらしい。あぶない、あぶない。

他には山名宗全の命日も文明 5年(1473年) 3月 18日と伝えられている。これは一応、まともに信じてもよさそうだが、源義経、柿本人麻呂、小野小町、和泉式部の命日が 3月 18日というのは、ことごとく怪しい。怪しいが、そのようにまことしやかに伝えられているというのは、ますますもって興味深い。

柿本人麻呂については、梅原猛氏が 『水底の歌』 で人麻呂死刑説を展開しており、まさに非業の最期を遂げたという見方がある。「いろは歌」 の作者が柿本人麻呂で、そのメッセージは七文字目をつなげて 「とかなくてしす」 (咎なくて死す) となることで読み取れるなんていうびっくり説は、結構有名になっている。

小野小町は絶世の美女でありながら、不遇のうちに生涯を閉じたと伝えられ、恋多き奔放な女性だったとされる和泉式部も、幸せな人生だったとは思われない。二人とも、自分の内に秘めた熱情を人生のうちで存分に発揮し切れたとは思われないところがあり、その悲劇性が後世に伝えられる要因ともなっているように思われる。

ちなみに山名宗全にしても、応仁の乱の責任をとって切腹したが死にきれず、後になって非業の最期を遂げたと言われているので、怨霊っぽさがないとはいえない。しかし、それはちょっと歴史が下りすぎるので、除外しておこう。

確かに、上述 4人の人物は怨霊っぽさが漂う。源義経の御霊としてのすごさは群を抜いているが、群を抜きすぎているために、柿本人麻呂、小野小町、和泉式部の 3人とは一緒にしてもらえないのだろう。

とはいえ、それがどうして 「3月 18日が命日」 という伝説と結びつくのだろう……と考えて、それはすぐに想像がついた。この日は彼岸の入りの日なのである。なるほど、なるほど。多分、これらの人たちの命日は 「3月 18日」 というより、新暦採用以前には、彼岸の入りの日に重ねられて伝えられてきたのだ。それで 「精霊の日」 なのだ。

だからこそ、旧暦での命日がはっきりしすぎている人ではなく、よくわからない、つまりどうとでも言える 3人が、「精霊の日」 のシンボルとなっているのだ。きっと。

それにしても、「精霊の日」 の 3人が、揃いも揃って和歌の名人だったというのは、和歌というのは、かなりスピリチャルなものだったのだなあと、改めて思った。もう一つのブログ 「和歌ログ」 を運営するものとして、ちょっと身が引き締まった。

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2012/03/17

「未亡人」 という言葉は、かなりひどいよね

さっき何の連想ということもなしに、ふと 「そういえば 『未亡人』 って、ひどい言葉だな」 と気付いた。「未だ亡くならない人」 ということで、「本来なら夫が死んだら自分も死ぬべきなのに、生きながらえている人」 という言外の意味を含んでいる。そしてこれは、女性にのみ適用される言葉で、妻を亡くした夫を 「未亡人」 とは決して言わない。

未亡人と共通した意味で、「寡婦」 という言葉があるが、これには対のように 「寡夫」 という言い方がある。さらに 「やもめ」 という言葉に対しては 「やもお」 という言葉があることを、今日辞書を引いていて初めて知った。「家守り女/男」 というのが語源という説が有力のようだ (参照)。

ただ 「やもめ」 という言葉は古くからニュートラルな意味になったようで、男女を区別する時には 「男やもめ/女やもめ」 なんて言うこともある。「男やもめにウジがわき、女やもめに花が咲く」 なんて、「未亡人」 とは逆視点のひどい諺まである。

女性だけに使われる言葉として、他に 「後家」 というのがあるが、これは 「未亡人」 という言葉ほどのひどさは感じない。「後家のふんばり」 なんていうと、なかなか立派な女性のようなイメージが浮かぶ。

こうしてみると 「未亡人」 という言葉については、フェミニストでなくても 「あまりといえばあんまりだ」 と言いたくもなるではないか。ところが、試しに辞書 (Goo 辞書 = デジタル大辞泉) を引いてみると、次のようにある (参照)。

《夫と共に死ぬべきなのに、まだ死なない人の意。元来、自称の語》 夫に死別した女性。寡婦。後家。びぼうじん。

なるほど、元来は夫に先立たれた女性が自分を指して、一人称的な使い方をする言葉だったのか。「恥ずかしながら生きながらえております」 ってな意味合いを込めていたわけね。儒教文化に支配されていた頃の、まあ、後追い自殺しなくてもすむ免罪符みたいな言い方をしていたわけだ。

フェミニズムの視点でストレートに受け取れば、とんでもない言葉だが、ちょっとひねった見方をすれば、表向きには家父長文化が支配する中で女性が生き延びるための、かなりしたたかな言い方とみることもできるだろう。

しかしそのしたたかさというのは、自分で言う時に限って発揮されるものであって、自称として使う文化が廃れてしまった現在では、他人がそう言ったら、ちょっと気の毒ってなものだ。これからは、この言葉はあまり使わないようにしようと思った次第である。

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2012/03/16

吉本隆明の死で思い出したこと

このブログは 「毎日更新」 はまだ 8年とちょっとだが、「ほぼ毎日更新」 ということだと、もうすぐ 10年になるので、ほぼ一昔近くに書いた記事で、今の世の中で使い回しのきくのがたまに見つかったりすることがある。今回使い廻すのは、9年半前に書いた 「吉本さんちの 親父さんと娘」 という記事である。こんなのだ。

以前、20歳代の一応インテリと称される女性と話をしていて、ひょんなことから、彼女は吉本隆明を知らないということがわかった。

「吉本ばはな の親父なんだけど」 と言うと、「それなら、聞いたことがある」 という。ちょっとずっこけた。

昭和20年代生まれとしては、あくまでも、「吉本ばなな は吉本隆明の娘」 という位置づけなのだが、彼女の世代にとっては、「ばなな の父親は、何だか難しいことを書く人らしい」 という程度の認識のようだ。

そこに現れた昭和 10年代生まれのオジサン (彼も、一応インテリと呼ばれている) に、「ねえねえ、聞いてくださいよ。彼女は吉本隆明を、ばななの親父としてしか知らないみたいなんですよ」 と言ったら、かのオジサンはきょとんとして、「ばななって何だ? 人の名前か?」 とのたもうた。

こちらは、またまたずっこけてしまった。二重のジェネレーションギャップである。

「隆明」 と 「ばなな」 の二人の著作をちゃんと読んだことのある人間というのは、実はずいぶん少ないのだということを、最近になってしみじみと知った。、両方リアルタイムで、同時代に生きる人間として感じることができる人間というのは、結構希少価値なのかも知れない。

それにしても、文学趣味の人間の常識というのは、しばしば世間では通用しないことがあるので、気を付けなければならない。

この時、吉本隆明を知らなかった 20代の女性も今は、とっくに 40歳を過ぎているはずだ。そして昭和 10年代生まれのおじさんは、ちゃんと生きていれば傘寿に近づいているだろう。まことにも、年月は人の思いに関わらずさっさと流れていくものなのである。今我々は、吉本隆明を知らなくても全然困らないし、軽く見られたりもしない時代に生きている。

今朝、吉本隆明が死んだというニュースを聞いて、妻と一緒に 「もう結構な年だったんだもんねぇ」 と話していたら、次女が二階から降りてきて、「それ誰?」 と聞く。「ばなな の親父」 というと、ちゃんと通じた。

よかった。ばなな も知らなかったら、どうしようかと思った。

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2012/03/15

法人需要でも 「ポスト PC」 革命なのだね

Wired の "アップルが先導する 「ポスト PC」 革命の意味" という記事が興味深い。私は初めの頃、iPad というデバイスはコンシューマー・マーケットで圧倒的な強みを発揮するもので、法人向け需要は、まだまだ PC のものだとばかり思っていた。しかしそれは、私の認識不足だったらしい。この記事の 4ページ目 (参照) には、次のような記述がある。

企業が私物の iPad を職場に持ち込む幹部のサポートに追われていたのはつい2年前のことだが、いまではまったく逆の状況になっており、iPad を支給した社員に対して 「どうしても必要なら自分のノートパソコンを使ってくれ」 と言うような場合も増えているという。

つまり、2年前には企業は社員に PC を 1台ずつ支給してそれを使うように求め、社員が私物の iPad を持ち込むことを快く思っていなかった。しかし最近では PC ではなく iPad を 1台ずつ支給して、それを使うように求め始めた。iPad ではこなせないこみいった作業を、PC でこなしたかったら、私物の PC を使えと言い始めたのである。

私は雇われ社員の立場を離れてもう 8年以上になるので、なんとなく忘れかけていたが、そういえば、前にフツーのオフィスで働いていた時も、PC でなければこなせない込み入った作業をする人なんて、限られていた。

フツーのオフィスワークなんて、簡単な体裁のドキュメントを作成したり、メールの受発信をしたり、ちょっと金額は張るが関数の内容はお小遣い帳か家計簿と変わらないレベルのスプレッドシートを作るぐらいのものだった。よっぽど慣れてきて初めてプレゼンを作成したりするが、それができるのは部署の 3割もいない。

プレゼンテーションの作成を含め、その程度のことなら何も PC を使わなくても iPad で十分だ。ということは、これまでフツーの企業は、コンパクト・カーで十分なドライバーに大出力のスポーツカーを使わせるような無駄遣いをしてきたわけだ。

そしてそれによって、PC の使い方にいつまでも習熟しない社員のサポートために、システム部門の要員がうっとうしい作業を強いられたり、ほんの少し PC 操作の得意な社員が隣のデスクのおっさんの 「ちょっと、表の幅の広げ方教えて」 なんていう初歩的な質問にしょっちゅう悩まされるという、馬鹿馬鹿しい非効率を継続してきたわけである。

なるほど、一般のオフィス・ワーカーこそ、iPad を使えばいいのだ。彼らの多くは、PC でなければできないようなジョブをしているわけじゃないのだ。それにどうせ、両手の人差し指でキーボードを叩いているだけなのだから、ディスプレイに表示されるソフトウェア・キーボードでも、入力が遅くなったなんて感じなくて済むのだ。

さらに法人需要で iPad を使うメリットとして、あまり言われないことだが、アプリケーションの安さが上げられる。MS Office を使ったら、Word、Excel、PowerPoint だけのセットでも 28,000円ぐらいするが、iPad のアプリで揃えると、3つで 3,600円とか、優待システムを利用すると 2,500円ちょっとかで買えたりする。フツーの消費者でも衝動買いできる価格だ。

これだけのメリットがあれば、企業が iPad を導入するのもわかる。PC は本当に必要とする社員にだけ与えればいいのだ。そして、Microsoft が Windows タブレットの展開を始めるといっても、もう既に遅すぎる。企業はそれまで待てない。

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2012/03/14

「聞き流すだけ」 という英会話教材を巡る冒険

「聞き流すだけ」 という英語教材の CM が、結構あちこちで流れている。いろいろな種類があるらしいが、一番よく聞くのが 「スピードラーニング」 という教材だ。「あの石川遼選手も使っている」 なんて聞くと、かなりもっともらしい気がするからおもしろい。

この手の教材のマーケティングに共通しているのは、徹底的にムードでもっていって、実際の教材がどんなものなのかは、ちらりとも聞かせてくれないことである。申し込めば無料サンプル CD を送ってくれるというのだから、そんなことをしなくても、CM の中でほんの 10秒ぐらいでいいから実際の 「聞き流し」 教材を聞かせてくれてもいいと思うのだが、それは絶対にない。

とにかく、「何も考えずに」 「勉強すると思わずに」 「1日 5分間でいいから」 「シャワーを浴びるように聞き流す」 というメソッドらしい。それを 2ヶ月ぐらい続けると、ある日突然、「目の前の外国人の会話がほとんど聞き取れる」 ようになる (人もいるらしい) というのである。ふぅん。それが本当なら、こんなすごいことはない。

私としては、その教材がどんなものなのか、本当に 10秒ぐらいでいいから聞きたいものだと思って、あちこちググりまくってみたのだが、まともに聞けるのは YouTube でも見当たらない。

スピードラーニングの無料視聴用CDを聞いてみました」 という動画があるが、それを再生しても、動画の再生時間の半分ぐらいまでは、パッケージを開けてプレイヤーにセットするという異常にもったいぶった作業に費やされていて、その上、CD を再生すると日本語の CM で聞いたと同じようなナレーションが流れるだけだ。

要するに、肝腎な部分はちっとも収録されていない。気をもたせるだけもたせて、「それ以上知りたかったら申し込んでみてね」 というメッセージを発するだけというのは、この教材の CM とまったく同じメソッドである。

さらに同じ人がアップロードしたと思われる 「スピードラーニング第1巻日常英会話を聞いてみました」 というのも、やはり同じように延々と時間をかけてパッケージを開いてみせて、あとはごく小さなボリュームの英語が遠くから聞こえてくるだけという仕掛けになっている。

せっかく再生しているんだから、もう少しマイクを近づけてもいいじゃないかと思うのだが、これまた絶妙な気のもたせ方である。これじゃ、実際のユーザーがアップロードしたというより、サプライヤーのマーケティングの一環 (早く言えば、ステマ?) なんだろうと勘ぐられてもしかたがない。

周りの部分だけちらちらと小出しにしてみせて、肝腎な部分は最後まで隠すという、喩えが悪くて恐縮だが、昔の場末のストリップ小屋みたいなメソッドで売ろうとしているのだなという印象だ。

こうしたイメージ操作で、「英語というのは、従来の学習法では身に付かないんですよ。まったく新しいいメソッドに沿ってやれば、おもしろいように身に付くんですよ」 というようなことを、言っているわけだが、まあ、これは昔から英会話教材の売り込みに使われる常套手段である。

これについては、私は 3年前に "たった 90日で 「英語がペラペラ」 になるなんて" という記事でそこはかとない疑問を投げかけているのだけれど、その疑問の肝腎な部分は 「聞くだけ」 教材ににおいても、ほとんど同様に引き継がれている。

これから英会話を身につけたいと思うのは、大抵が英会話の初心者というか、素人だから、こんなような夢物語みたいなストーリーを突きつけられると、ついその気になってしまいかねない。

私はスピードラーニングの教材に一度も触れたことがないので、「聞くだけで英会話ができるようになるわけがない」 なんて断定的なことは言わない。それは偏見というものだろう。とはいいながら、疑問を感じる点がありすぎということは言っておいてもいいだろう。

ただ、私がおもしろいと思うのは、日本人の多くにとって、「英会話ができるようになる」 というのは、昔の場末のストリップ小屋と同じようなものなのだなあということだ。要するに、実体のないファンタジーなのである。具体的に英語でどうしたい、こうしたいというようなことじゃないみたいなのだ。

ここから先はオマケ。

どうでもいいようなことだけど、「エブリデイイングリッシュ」 という教材のサイトでは、「"What time is it now?" という外国人はいません。あなたのテキストに掲載されていたら要注意」 と、でかでかと書いてある。

確かに "Do you have the time?" とか "What time do you have?" とかの方がよく聞かれると思うけど、"What time is it now?" という外国人だって、いないわけじゃない。ちゃんと時々は聞くよ。

ちなみに、YouTube に "What time is it now?" というタイトルの傑作なビデオがあるので、ご覧いただきたい。使われているのは英語じゃなくて、多分イタリア語みたいな気がするが、心配ない。なんとなくわかって、最後は笑ってしまう。昔、タモリが得意にしていたジョークの映像版だ。


傑作なのは、この "What time is it now" というタイトルのビデオに、そんなことをいう外国人はいないと言い張る 「エブリデイイングリッシュ」 の広告がバシバシ入ることなのである。これって、やぶ蛇だよね。

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2012/03/13

アクセス数アップの、あの手この手

日経BP などのメールマガジンを購読している人はかなりの数に上ると思う。かくいう私も日経系のメールマガジンを複数購読している。そして、興味を引くタイトルを見つけると、ついクリックしてその記事を読んでしまう。

その際にいつも面倒に思うのは、最初の画面が広告画面になっていることがあることだ。ちゃんと一番上の目立つところに 「このページをスキップする」 という文字があって、それをクリックすればすぐに記事本文に飛べるのだが、まあ、「さすが日経、しっかり広告取りにいってるなあ」 と、感心ではなく、やっぱりうんざりする。

さらに、記事本文に飛ぶと、大して長い記事でもないのに何ページかに分割されていて、記事の続きを読みたい時には 「次へ」 の文字を次々にクリックしなければならない。昔の ISDN の 64kb/s で 「高速通信」 なんて言われていた頃ならいざしらず、今の世の中でこんなに分割表示する必要なんてないんじゃないかと、少々イラつくのである。

この記事の分割表示というのは、日経系に限らずほとんどのジャーナリズム系のサイトで採用しているメソッドだ。なんでこんなうっとうしいことをするのかというと、どうやらクリック数を増やして、見かけ上のアクセス数を上げる効果があるかららしい。

1本の記事を 4ページで構成すれば、本来 1クリックで済むのに 4回クリックしなければならず、見かけ上のアクセス数は、1ページで全文表示する場合の 4倍になる。そして、見かけ上だろうがなんだろうが、アクセス数が増えれば広告料金も高く設定できる。

なるほど、よく考えるものである。

まてよ、これをブログに応用して、トップページには各記事のリード部分のみを表示し、全文を読みたければ 「続きを読む」 をクリックさせるという設定にすることで、見かけ上のアクセス数を増やすことだってできそうだ。多分 2倍とまではいかなくても、最低でも 30%増ぐらいにはなるだろう。このココログにしても、そうした設定にすることができる。

そういえば、ココログの大分前のバージョンアップの際に、デフォルトで 「続きを読む」 スタイルになってしまったことがあり、私は 「なんだよこれ、めんどっちいじゃねえか!」 と憤慨して、手動で元の設定に戻したことがあるような気がする。やっぱり、クリックの回数は最低限にしておきたいものである。

というわけで、アクセス数増加の妙案に気付いちゃったのだけれど、そこまであくせくする気にもなれないから、当ブログはこれまで通りの設定でいきたいと思う。

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2012/03/12

”Today"s Crack" 3000日連続更新を達成

今日で、"Today's Crack" の 3000日連続更新という記録にたどり着いた。平成 15年 12月 26日からずっと欠かさず毎日更新している。ココログを始めたのは、翌年の平成 16年 7月からで、それ以前は 「知のヴァーリトゥード」 のウェブサイト内コラムとして継続していた。

我ながらよくぞ続けたものと思うが、3000日といっても 365 で割ってみれば、まだ 8年とちょっとしか経っていない。私は何事においても自慢できるのは 10年ぐらい継続した頃からだと思っているので、9年にも達していないとなれば、まだまだだ。

とはいいながら、正真正銘の毎日更新というのではなく、「ほぼ毎日更新」 ということだったら、平成 14年 3月 17日から継続しているので、もうほんの少しで 10年になる。というわけで、半分ぐらいは自慢しておこう。

一口に 10年と言っても、この間の時代の変化というのはちょっとしたものだ。とくに、昨年の 3・11 東日本大震災を区切りとして、それ以前と以後とでは、世の中がかなり変わった。前は便利で面倒くさくないのがいいと思っていたが、近頃では多少の我慢をするのが、人類愛のうちなんて考えるようになった。

これからもそんな風な色彩が強まることと思う。「前に言ってたことと違うじゃないか」 なんて言われそうなことを書くかもしれないが、10年も経てば周囲の状況も変わるし、人間の考え方も少しは変わる。だが、一見違っているようなことを書いても、元のココロは同じだ。

そんなわけで、今後もいい頃合いで、よろしくお付き合い頂きたい。

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2012/03/11

震災から 1年なので

3月 11日が来た。震災 1年目の追悼式典があちこちで行われ、テレビは震災関連の番組で埋め尽くされている。

これまで、大きな災害から 1年経って行われる式典は、ともすれば忘れられがちの災害の記憶をとどめ、今後の防災意識を高めるために行われるという側面が強かったように思う。しかし今回の場合は、受け取られ方が全然違う。忘れようにもまだ記憶が生々しすぎるし、直接的な災害に加えて原発の影響が切実な問題として継続している。

だから震災関連のテレビ番組も、送り手のメッセージがそのままストレートに伝わるような状況ではない。多分、今日の視聴率は低いだろう。震災直後に大津波が人々の暮らしを飲み込むのを繰り返し見せられたため、テレビのスイッチを入れたくなくないという人が増えたようなものだ。

震災の影響に関しては、我々は未だに強烈な消化不良から立ち直っていない。立ち直るにはまだ長い時間がかかるだろうし、復興途中に新たな大地震が関東地方以西を襲うという可能性も高まっている。よほどの覚悟が必要なのだ。

継続中の影響で最大のものは、なんといっても原発問題だ。

経済的な視点では原発を停めるのはナンセンスということになるのだろうが、倫理的な視点と現実的なリスク・マネジメントからすれば、とりあえずは原発を停止した状態におく方が望ましいということになる。そして世論の天秤は、やや脱原発 (私自身は 「反原発」 という方がしっくりくるのだが) に傾いているようだ。

この点について石原都知事は、「人間だけが持つ英知の所産である原子力の活用を一度の事故で否定するのは、一見理念的なことに見えるが実はひ弱なセンチメントに駆られた野蛮な行為でしかありはしない」 と述べている (参照) 。

しかし、原発の動きを 「ひ弱なセンチメント」 という低次元なところに落とし込めるのは、都知事の勉強不足による偏見というほかない。廃棄物処理を含む根本的な技術問題から、補助金と利権漬けによる運用にいたるまで、原発推進には問題が多いことが、調べてみればわかる。これまで隠されてきただけだ。

ろくな根拠もなく相手の立場を単なるセンチメントと断じ、「人間だけが持つ英知の所産である原子力の活用」 などと、半世紀前の美しすぎるレトリックをそのまま繰り返すことの方が、よほどセンチメンタルな態度ではないか。石原氏の言説の多くはそんなレベルのものだと、私は見ている。

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2012/03/10

阿蘇山彷徨

今日は熊本での仕事を終えて、空き時間にレンタカーを借り、大急ぎで阿蘇山を見物してきた。熊本空港から草千里に直行、さらに中岳の噴火口に間近い展望台まで足を延ばした。

阿蘇山については、平成16年 6月に外輪山の淵まで登って、カルデラの中にできた虹を見下ろしたことがあり、その時のことは和歌ログに写真入りで書いている (参照)。しかしそれっきりで、全貌がどうなってるんだか知らないままだったのだ。

今回は自分で車を運転して行ったのだから、かなり実感的につかめた。巨大なカルデラの中に町があり、田畑があり、鉄道が走り、その真ん中あたりに火山群があるという実感である。

何しろ、車でカルデラの中を走っていると、周囲を壁の如き外輪山が囲んでいるのだ。なかなか不思議な光景である。そして草千里まで行くと、さすが標高1100メートルである。凍えるような寒風が吹き、小雪まで舞ってきた。九州まできて雪に降られるとは思わなかった。

まあ、晴れ男の私のことだから雪はすぐに止んで、青空も出てきたのだけれど、とにかく寒い。南国だからと見くびっていたが、やはり山は山である。

寒風吹きすさぶ草千里をワシワシと歩いて行くと、あちこちでヒバリが鳴いている。よくまあ、こんな寒空を昇って行きたくなるものだ。ヒバリは熊本県の県鳥だというが、さすがの根性である。

草千里をうろついてから、火口のある中岳まで足を延ばした。有毒ガスが出ているので注意するようにという、条件付きの入山である。火口間近の展望台まで登る間も、白い霧のようなガスが吹き付けると、ちょっとむせる。目に染みる気もする。

火口から立ち昇るガスを呆然と眺めていると、急に「有毒ガスが異常に濃くなってきたので、速やかに避難してください」というアナウンスが聞こえた。まさか死ぬことはあるまいが、確かにむせちゃうぐらいなので、そそくさと引き上げてきた。

後で地元の人に聞くと、火口近くまで登って避難させられるのは、なかなか貴重な体験だそうだ。普段は危険が予想されたら、初めから立ち入り規制されるらしいから。

ほんの短い間の阿蘇体験だったが、なかなかのものではあった。

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2012/03/09

津波てんでんこ

あとりえ・チビッコ の keicoco さんに、三陸には 「津波てんでんこ」 という言葉があると教わった。Wikipedia によれば、「津波が来たら、取る物も取り敢えず、肉親にも構わずに、各自てんでんばらばらに一人で高台へと逃げろ」 「自分の命は自分で守れ」 「自分自身は助かり他人を助けられなかったとしてもそれを非難しない」 という不文律だそうだ (参照)。

大抵の集落では、人々は助け合って生きようとしているが、こと津波ということになると、そんなことは言っていられないということなのだろう。とにかく我が身一つだけでも助かるのが、集落全体のためになるということだ。人を助けるために自分の命も失ってしまったら、元も子もない。

ことは津波とはわけが違うが、例えばキャンプや合宿が終わって後かたづけをする時など、最も効率的に進むのが、各自とりあえず、脇目もふらず自分の荷物をさっさと片付けるという方式だ。最終的に残った共有物を、自分の荷物をさっさと片付け終えた仕事の速いやつが片付ければ、あっという間に始末がつく。

一番始末におえないのが、どこから手を付けたらいいかわからないほど混乱することである。それを避けるためにも、常に自分の荷物はしっかりまとめておくに限る。そうしておけば、既に片付けは半分終えたも同然だ。

津波のときも、どこに逃げたらいいか常に意識して、いざという時にはダッシュで逃げるということなのだろう。そうすることで、多分最大限の命が助かることになる。混乱して右往左往すれば、多くの命が失われる。

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2012/03/08

「真逆」 という言葉を巡る冒険

今朝、Twitter で次のように tweet した (参照)。

よく 「真逆」 と言うけど、個人的にはこの言葉に馴染めない。フツーに 「逆」 でいいじゃん。そもそも 「真逆以外の逆」 って、どんな逆だろうと思う。

試しに Goo 辞書 (デジタル大辞泉) で調べてみると、次のように出てきた。(参照

真逆 [名・形動] 《「逆」を強調した俗語》 まったく逆であること。正反対なこと。また、そのさま。「前作とは性格が ― の人物を演じる」

ふぅむ、「俗語」 扱いとはいえ、ちゃんと見出し語にあったんだ。もしかして、そんな言葉は無視されているかと思った。

私の tweet に対して、次のような反応があった。

S太郎さんより (参照

逆に言うと、的なマクラが 「逆」 じゃないケースでも濫用された挙句 「逆」 の価値が下がってしまい、本来の 「逆」 を表現する必要がうまれた、、なんて事はありませんよね?

おかげんさんより (参照

「逆様」 に対して 「真っ逆様」、「反対」 に対して 「正反対」 という表現があるので、「逆」 に対しても同様の表現が存在してもおかしくないと思います。「真逆」 という表現が妥当かどうかは別問題ですが…

私の tweet は下手すると、「何がいけないんだ、気取るんじゃねえ、馬鹿野郎!」 みたいな、ちょっとした反感を買っちゃうんじゃないかという気もしていたのだけれど、このようにとてもクールな反応が 2つもあって、私はある意味、感動してしまったのである。

S太郎さんの "「逆」 じゃないケースでも濫用された挙句 「逆」 の価値が下がってしまい" という指摘の内容は、私も確かに日頃感じている。「逆に言うとさあ……」 なんて言うから、どんなアンチテーゼが提出されるのかと思って期待していると、ちっとも逆じゃない見当はずれだったりして、がくっとくることがある。

「逆」 という言葉がインフレを起こした結果、本来のインパクトがなくなってしまったので、「真逆」 というかなりパワフルな言葉でデノミを行ったのだと捉えることは可能だし、確かにそんな側面があると思う。

一方、おかげんさんの指摘は、私も 「それを言われたら弱いよなあ」 と思っていたことである。「真逆」 という言葉に違和感を覚える私は、会話の中では 「正反対」 という言葉をよく使うのだが、これにしても、「だったら 『正反対以外の反対』 なんてあるの?」 と言われたら、答えるのが難しい。

ただ、うじうじと言わせてもらうとすれば、「正反対」 というのは、数学的、論理的にきっちりと 180度反対のことを強調する場合に使われるんじゃないかという気がする。単に 「反対方向」 などと言った場合は、「真北に対する真南」 でなくても、「北向きに対する南向き」 ぐらいで済ませられる。

「正反対」 というとても数学的、論理的な言い方に対して 「真逆」 は、「感覚的にざっくりと正反対っぽい」 (正確さやヘビーな論理的裏付けを要求しない) というような場合に多用されている気がする。

まさに、上述の 「大辞泉』 にある 「前作とは性格が真逆の人物を演じる」 という用例がいいサンプルだ。性格というものが数学的かつ論理的にきっちり 180度反対というのは不可能だろうから、「性格が正反対」 というよりも、ざっくりと感覚的に 「性格が真逆」 と言いたくなるというのもわかる。

で、「感覚的にざっくりと正反対っぽい」 ということなら、そもそもの話、単なる 「逆」 でいいじゃんということになるのだが、そこはそれ、S太郎さんのご指摘にあるように、単なる 「逆」 はインフレで価値が下がってしまっているので、「真逆」 という言葉のデノミでインパクトを保持する必要が出てきたと、そんな感じなのかもしれない。

ちなみにおかげんさんの指摘にある 「逆様」 という言葉は、相当早い時期からインフレを起こしていたようで、「真っ逆様」 ではないケースでも、大体 100度以上ぐらいの角度がついてさえいれば、「逆様」 と表現されてもあまり違和感がない。それで上下がすっかり置き換わった状態を表現するために、「真っ逆様」 という言葉が生まれたのだろう。

とすれば、「逆/真逆」 も、「逆様/真っ逆様」 と同様のプロセスを、今辿りつつあるのかもしれない。

ただ、私が 「真逆」 という言葉に違和感を覚えるのは、こうした背景や意味合いよりも、語感やニュアンスに対してというのが大きいような気がする。この言葉は、言った当人の勝手な主観が強く出過ぎているというか、押しつけがましいというか、要するに、言葉としての美しさを感じないのだよね。

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2012/03/07

原発事故では本当に一人も死んでいないのか?

少なからぬ人が、「少なくとも今回の原発事故では死者が一人も出ていない」 というようなことを言ったり書いたりしている。これはかなり誤解を生む表現だと、私は前から思っていた。

確かに、原発事故を直接的な死因とした死者は、一人も確認されていないだろう。しかし、だからといって 「今回の原発事故では死者が一人も出ていない」 というのは、乱暴な結論だと私は思う。世の中は複雑系なのである。

「風が吹けば桶屋が儲かる」 というのは、極端な屁理屈の喩えだが、原因があって結果が出るという法則は、連鎖するものだということを指摘している点では、一面の真理である。世の中は、二次的、三次的、さらにずっと遠因的な要素が絡まり合って動くのだ。

複雑系を現す喩えとして、「中国で蝶が羽ばたくと、南米で嵐が起きる」 とすら、度々語られるではないか。世の中は 「風が吹けば桶屋が儲かる」 どころではないのである。直接的な因果関係以外は無関係だと断じたり、無視したりするのは、ある意味で詭弁ですらある。

「震災で福島県の避難区域内で餓死した疑いの強い人が少なくとも 5人いる」 と、あの NHK が報じた。これについては、関係者から疑問の声も出ているという。「餓死かどうか、解剖していないから明確な結論は出せない」 というのだ。まあ、そりゃ、確かにそうだろう。

しかし、「解剖していないから餓死かどうかわからない」 というのは、それはそれとして、つまり、餓死か衰弱死か、その他の死因なのか、その結論を明確にするのはペンディングにしておいても、原発事故で全員避難するという事態さえ生じなかったら、救えたかもしれない命が少なからずあったというのは、多くの証言からもうかがえる。

瓦礫の下から助けを呼ぶ声が聞こえていたのに、原発事故による避難指示が出たので、救助することができなかったのが残念だと述懐する消防団員は、一人や二人ではない。さらに、避難先の不自由な暮らしのうちに病気で亡くなった人もいると報告されている。

救えたかもしれない命を、いわば見殺しにしてしまったケースがあり、さらに強いられた避難生活で命を縮めた人もいるという事実に直面しながら、「少なくとも原発事故では死者は一人も出ていない」 と主張し続ける強引さを、私は残念ながら持ち合わせていない。

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2012/03/06

どこの誰が 「暁を覚えず」 というほど眠りこけてるんだ?

近頃、私のブログのアクセス解析を調べると、「春眠暁を覚えず」 というキーワードで検索した結果でアクセスしてくるというケースがやたら多い。試しにこのキーワードでググってみたら、"「春眠暁を覚えず」 の意味合い" という私のブログ記事がトップにランクされていて驚いた。

ちなみに、Yahoo で検索してみても同じ結果だったのだが、最近は Yahoo Japan も再び Google のエンジンを使っているらしいから、それは当たり前か。

こんな一般的な成句で検索してトップにランクされているなんて、私ももう、いっぱしのアルファ・ブロガーなのかしらん。いやいや、決してそんなことはない。私のブログのアクセス数なんて、せいぜい 1,500件/日 ぐらいなんだから、よくてベータ・ブロガーといったところだろう。ちなみに、私は 「超二流」 というのが好きなのだよ。

それにしても、本格的な春の訪れが遅くて、いつまでもやたらと寒いというのに、「春眠暁を覚えず」 なんて成句を気にかけてしまう幸せな人が、日本中で 1日に 100人以上もググってみてるなんて、一体どうなってるんだろう。一体どこの誰が、暁を覚えないほどに眠りこけているというのだ。

私なんか最近、寝不足で目がしょぼしょぼしっぱなしだというのに。

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2012/03/05

人間の脳をロボットに移植させるというプロジェクト

ロボットに人間の脳を移植し不死化する人造人間プロジェクトが発足、10年以内に実現化を目指す(ロシア)」 という記事を見つけて、びっくりこいた。日本では不老長寿などというおとぎ話にあこがれる人はほとんど姿を消して、「しかるべき時がきたらコロリと死にたい」 と願う人が多いというのに、ロシアという国はその点ではまだまだ野蛮である。

考えてもみるがいい。もしも自分の脳がロボットに移植されて、いつまでも機械的に生きるとしたら、つまらないことこの上ないだろう。人間の遺伝子は、年相応の肉体変化を経験しつつ生きて、最終的に死ぬことに最適化されているのだから、その条件が破壊されたら、精神的にもつはずがない。

人間は人生経験を経て肉体的にも老い、その過程でそれなりの智恵が熟成され、そしてそろそろ人生を十分堪能し終えたと思った頃に死ぬからいいのである。いつまでも機械に閉じ込められて生きるというのは、拷問に近い。

不老不死の願いというのは、人間の平均寿命が 50年にも達しておらず、たまに 70歳とか 80歳とかまで生きる人がいると、周囲からえらく尊敬された時代だからこそ発生したんじゃあるまいか。

生まれた赤ん坊が 3歳まで生き延びるというのさえ幸運の産物で、生き延びたとしても 50歳前後で死んでしまうのがフツーだった時代に、80歳の爺さんがいたら、それはもうほとんど 「不死身」 みたいなもので、あこがれの的になっただろう。しかし、今は違う。

現代日本では、平均寿命が 80歳を越えて、90歳や 100歳の人もそれほど珍しくない。100歳でピンピンしている人もいるが、だからといって、「あんたの命を、今の肉体からロボットに引っ越しさせたら、さらにずっと生きられるよ」 なんて言われても、ほとんどの人は 「そこまでして生きたいとは思わんよ」 と断るだろう。

私はなんと、今年で還暦を迎えるのだが、体さえしっかりしていれば、あと 10年や 20年は生きていてもいいなと思う。しかしどんなに元気でも、あと 50年生きたいかと聞かれたら、「もう結構」 と答えるしかない。ましてや 「不死身」 になるなんて、勘弁してもらいたい。

人生は時間が区切れているから意義がある。いつまでもだらだらと生きていてもしかたがない。もし自分の命がロボットに引っ越して、ハードウェアが古びてもさらに新しいハードウェアに移植されて生き続けなければならないとしたら、きっと自分の手でこの世におさらばすることになるだろう。

「来年の誕生日に CPU がクラッシュして、その瞬間にすべてのデータが消え去る」 とかいうプログラムを組み込むなんてことになるのかもしれない。バックアップなんか取られていたら、最悪だが。

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2012/03/04

原発避難者への差別と 「知らずに犯す罪」

福島から避難の子ども、入園断られる 山梨の保育園」 というニュースが目を引いた。昨年、福島県から山梨県内に避難してきた子どもの保育園入園が断られるというケースがあったと、一昨日、甲府地方法務局が発表したんだという。

入園を断った理由がひどい。「原発に対する不安が他の保護者から出た場合、対応できない」 からなんだそうだ。こんな馬鹿馬鹿しいことに 「対応できない」 のでは、いずれにしてもまともな保育園じゃないから、あぶなくて子どもを預けられない。「そんなところに入園させるのは、こっちの方でお断り」 と、拒否するほかないだろう。

また、"法務局によると、自宅近くの公園で子どもを遊ばせようとした際、近くの住民から避難者であることを理由に 「遊ばせるのを自粛してほしい」 と言われたこともあったという" という言及もある。本来ならば、こんな馬鹿なことを言う住民こそが、周囲から 「人前で口をきくのを自粛してほしい」 と要請されるべきである。

ちょっと前に "「知らずに犯す罪」 の重さ" という記事を書いた。釈尊は、知らずに犯す罪は、知って犯す罪よりも重いと教える。

避難者の子どもを遊ばせるのを自粛せよなどと迫る人は、それがナンセンスな妄想だと教えられても、決して反省しない。それどころか、「だって仕方ないじゃない。そんなこと、知らなかったんだもの」 と言って居直る。彼らは 「無明」 という最も根本的な罪を犯して、それを恥じないのである。

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2012/03/03

「地震酔い」 の、あのくらっとくる感覚

昨年の大震災の後、被災地の人間のほとんどが 「地震酔い」 という症状に悩まされた。私とて例外ではなく、3・11 のちょうど 1ヶ月後の大きな余震の後、"「地震酔い」 復活" という記事の中で、「地震で揺れているのか、風で揺れているのか、あるいは自分の心臓の鼓動に合わせて揺れていると感じているだけなのかわからなくなる」 と書いている。

そういえば、昨年秋に死んだ父も同じようなことを言っていた。「眩暈しているのかと思ったら、本当の地震だったり、地震かと思うと、自分がふらついているだけだったり」 なんてもらしていたから、あの頃から体調がおかしかったんだろうなあ。気付いてあげられなくて申し訳なかった。

とにかく 2ヶ月以上も大きな余震が連続して、とくに 4月頃までは、揺れていない時間の方が少ないんじゃなかろうかと思うほど、常に揺れているという印象だった。あんなでは、神経がおかしくなるのも無理もない。

昨年 4月 18日に仕事で徳島に出張した時は、本当に久しぶりで、一晩一度も地震で目を覚まされずに安眠することができて、それがものすごく嬉しかったという記憶がある。その時のことは、「阿波の徳島から、今帰った」 という記事で、こんなふうに書いている。

度重なる余震で、精神的にしんどくなってしまった人は、関西以西に一時避難してみればいいと思った。余震を忘れていられるというだけで、精神的に本当に楽になる。人間らしい気持ちになれる。

大地が安定しているということは、人間の精神衛生上で本当に大切な条件になっていると感じたので、こんなことを書いたわけだが、今度は東海とか東南海とか南海とか、関東以西で確実に大地震が起きるだろうなどと言われ始めた。やれやれ、日本はどこにいても地震からは逃れられないらしい。

関東以西の大地震だけでなく、最近は茨城沖を震源地とする地震が増え始めて、またしょっちゅう揺れるようになった。おかげで、時々去年の地震酔いのくらっとする感覚がよみがえったりする。

何が起きるかわからないご時世だから、よくよくしっかりと生きなければならない。

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2012/03/02

「プログラマーの夫に買い物を頼んだら」 というジョーク

先週ぐらいだったか、「プログラマーの夫に買い物を頼んだら」 というジョークが、ちょっとした話題になったことがある。こんなのだ。

妻がプログラマの夫に 「買い物にいって牛乳を 1つ買ってきてちょうだい。卵があったら 6つお願い」 と言った。
夫はしばらくして、牛乳を 6パック買ってきた。
妻は聞いた。「なんで牛乳を 6パックも買ってきたのよ!」
夫いわく 「卵があったから……」

これを読んで、きっと元は日本語じゃないんだろうなと思っていた。自然な日本語だと、牛乳は 1本、玉子は 6個になる。最近のスーパーでの買い物に慣れていたら、どちらも 1パック、6パックになるが、玉子を一度に 6パック (60個) も買うというのも、ちょっと苦しい。

とかなんとか思っていたら、元ネタらしいのが見つかった。英語である。こんなのだ。

"Could you please go shopping for me and buy one carton of milk, and if they have eggs, get 6!"
A short time later the husband comes back with 6 cartons of milk.
The wife asks him, "Why the hell did you buy 6 cartons of milk?"
He replied, "They had eggs."

うん、英語だと 「1本」 とか 「6つ」 とか言わなくても済むから、ジョークとして自然だ。ちなみに、アメリカのスーパーでは、玉子は 半ダースとか 1ダースとかの単位で売るんだろうななどと、余計なことまで考えてしまった。

ともあれ、このジョークは夫がプログラマーというのがミソである。プログラマーという人種は、何でもプログラミングした形で思考してしまうというのが、ジョークの前提にあるわけだ。

しかしプログラマーでなくても、Excel の関数を入力するのでも、「If チョメチョメ, then シカジカ」 というメソッドは、私みたいな超文系人間でもおなじみだから、「卵があったら」 という部分のみを条件節と捉えてしまう思考は、「うん、わかる、よくわかる!」 と膝を叩いてしまった。

もしかしたら、自分も牛乳 6パック買ってきちゃうクチかもしれない。何しろ私は、アスペルガー障害の一歩手前みたいなところがあって、言葉で言われたことは額面通り真に受けてしまう (参照)。

だから、私は世の中に順応するのにいつも、ちょっとしたフラストレーションを感じてしまうのだ。まあ、今ではそれを 「人生勉強」 と捉える余裕ができているからいいんだけどね。

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2012/03/01

車のドアの閉まる音

車のドアの閉まる時の音というのは、結構重要な問題なのだそうだ。高級車ほど重厚な音がするらしい。「バタン!」 とか 「ペタン!」 とかではダメで、「バフッ」 という重厚な音で閉まらなければならないのだそうだ。

私が前に乗っていた先代のデミオは、前のドアを閉めると 「バフッ」 と重厚に閉まったが、後部座席のドアは 「ペタン!」 という軽薄な音で、かなりのギャップがあった。今乗っているのはスズキのスウィフトという車だが、両方とも 「バフッ」 と閉まる。こんな小型車が、一体どうして、ドアの閉まる音だけはまるでクラウンみたいな音にできるのだろう。

インターネットで検索してみると、あれはドアの 「閉まり音」 というのだそうで、そのカラクリはよくわからないが、音のチューニングというのが技術的に可能なのだそうだ。トヨタとか日産とかは、そのチューニングに熱心で、いかにも高級車らしい重厚な音にしたがるらしい。

私が驚いているのは、基本的には軽自動車メーカーというイメージのスズキが、前のドアも後ろのドアも、やたら重厚な音に仕立て上げているということだ。あるいは、根が軽自動車メーカーだからこそ、1300cc の小型車になると、ちょっと背伸びした音にしたがるのだろうか。

私個人の感慨としては、ドアを閉める時の音なんか、どうでもいいと思っている。「パタン」 だろうが 「ペチッ」 だろうか 「ペチン」 だろうが、何でも構わない。どちらかといえば、静かに閉まってくれる方がありがたい。できれば、「ストン」 ぐらいの無音に近いぐらいの方がいい。

ところが自動車好きには、ドアの閉まる音にもこだわりを持つ人が多いようで、やはり重厚な音を求める傾向があるそうだ。そんなものなのかな。

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