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2012年7月に作成された投稿

2012/07/31

ウナギやサンマが高くても

この夏はウナギの値上がりが話題になったが、秋になるとサンマが高値になりそうだという。水産庁によると、今年の北西太平洋におけるサンマ推定資源量は 160万トンで、昨年より 3割以上も少ないんだそうだ。

となると、マスコミが 「秋の味覚のサンマが高嶺の花に」 と騒ぐことになるのだが、別にいいではないか。供給が減ったものをいつも通りに食いたがるから、値段が上がる。いつも通りに食わなきゃ、値段だって上がらないのである。

ウナギにしてもそうなのだが、高けりゃ食わないまでのことだ。少しは食いたいというのなら、食う頻度をいつもの年の半分にすればいい。漁獲高が 3割減でも、需要を 5割減らせば、値段は上がらずに済む。むしろ下がる。

そもそも、魚の資源量が減るというのは、それだけ獲れにくくなるということで、獲れにくくなったら、無理して獲らなきゃいいのである。無理して獲ったら、資源量がますます減って後々が大変なことになる。

無理して獲らないんだから、強いて食わなきゃいい。それだけのことだ。

ところがどういうわけか、人間というのは供給が減ると、普段はそんなに食わない人まで食いたがるという、ない物ねだりなところがある。。BSE で米国産の牛肉が入ってこなくなった時、吉野屋の牛丼を食いたがる人間が妙に増えたようなものだ。

ウナギなんていうのは、年に 1度の贅沢として食えばいいのに、年に何度も食いたがるから、中国産の変な薬漬けのウナギまで食わされるのだ。私は 「国産」 という表示のウナギも、かなりの部分は怪しいと踏んでいる。

サンマはウナギと違って、「目黒の秋刀魚」 という落語でもお馴染みの、「庶民の秋の味覚」 ということになっているわけだが、漁獲量が減ってしまえば、庶民の口から遠離っても仕方がない。アジでもサバでも、他の魚を食えばいいだけのことだ。

「秋の味覚」 をどうしても食いたいというなら、週に 2度食っていた人は 1度に、1度だった人は隔週にし、シーズンに 2度だった人は 1度にすればいい。シーズンに 1度しかサンマを食わなかった人は、今年は 1度も食わなくても、別にどうということもなかろう。

それよりも問題なのは、マグロである。本格的トロの取れるミナミマグロとクロマグロの漁獲資源は、今や危機的状況にまで減っているというのに、どうも日本人は無理にでもマグロを食いたがるところがあるらしい。

私はマグロでも牛肉でも、「トロ」 というやつの存在意義がほとんど理解できておらず、「あんなもの、一体何がそんなにありがたいんだろう?」 と思っている人なので、マグロなんか強いて食いたいと思わない。今後 2~3年マグロなしで暮らせば、漁獲資源はかなりもちなおすだろうに、それができないのが不思議でしょうがない。

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2012/07/30

PC メガネって、効果があるのかなあ

還暦になっても体力はそんなに落ちているという実感がない。そりゃ確かに若い頃とは比較にならないが、まだまだ大丈夫である。ちょっとやそっとではヘロヘロになったりはしない。

ただ、目だけは別物である。何しろ老眼というやつだ。メガネなしでは細かい字が読めないし、ちょっと目を酷使すると、視界がまともじゃなくなる。

昔は一晩徹夜してでも分厚い本が読めたが、最近では、3時間続かない。PC に向かって仕事をしていても、すぐに目がウロウロしてくる。主な収入源が ウェブサイト作成とライターという職業をしていると、PC に向かっている時間が長い。目が命の商売だから、これは大問題である。

最近、PC メガネというものがあると知った。PC 画面から発する有害なブルーライト (青い光) を防いでくれるらしい。これって、本当に効果があるのかしらん。

ちょっと試してみようと思うのだが、度付きはやっぱり高いらしい。どれがいいのか、ちょっとリサーチしてみようと思う。使っている方がいたら、コメントしてくださるとありがたい。

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2012/07/29

暑い!

今日の記事のタイトルは、ただ一言。「暑い!」 これのみである。

昨日は茨城北部の山懐の中にまで行ってきた。山の中だから少しは涼しいかと思ったが、全然そんなことはなく、空気が澄んでいる分、太陽光線をまともに浴びて、日向を歩くだけで汗が滝のように流れた。

というわけで、たった 1日でスポーツ・ドリンクの 500ml ペット・ボトルを、3本消費した。そのくらい水分を補給しないと、エアコンを効かせた車で移動するうちにも、知らないうちに発汗で水分が失われて脱水症状が出そうな暑さだった。

7月のうちからこんな具合では、地面が暖められて冷える暇がないから、8月になったらますます酷暑になるだろう。私は昨年の震災以来、「電力なんか足りるんじゃ! 使わなきゃいいんだから」 とばかり、仕事部屋のエアコンのコンセントを抜いてしまっているから、暑さは暑さとしてストレートに感じる。しっかり対策しておく必要がある。

今月で還暦になったとはいえ、まだまだ体力はあるので、熱中症にならずに済んではいるが、年寄りの体には確かにこたえるだろうと思う。各地で熱中症で死亡するというニュースが聞かれるのも、むべなるかなという気がする。

で、一昨日あたりから死ぬ話ばかりになって恐縮だが、私も死ぬなら熱中症にでもなって死ぬのがいいかもしれないという気がしてきた。暑くて死んでしまうようでは、いずれにしろ、体力がもたなくなっているのだ。そうなったら静かに死なせてもらえばいい。

そのためにも、このままエアコンは点けずに、自然に体に一定の負荷をかけ続けておくのがいいかもしれない。そうでもしないと、ブログを毎日更新して平気で 9年近くになることでもわかるように、丈夫すぎていつまで生き続けるか知れたものではない。

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2012/07/28

死ぬ算段

還暦になってしまったからというわけでもないと思うのだが、最近、死ぬことばかり考えている。いや、世をはかなんでしまって死にたいというわけではない。それどころか、ちゃんと意気盛んで、まだまだ死にそうな気はしていない。

まだまだ死にそうではないのだが、やはり死ぬことの算段はしておかなければならないと思うのである。それは昨年父が死に、今年伯父が死んで、葬式に出たからかもしれない。とにかく、死というのはいずれ来るものなのだ。

『般若心経』 によれば、諸法は空相であり、生まれることもなければ滅することもないというのである。それどころか老いたり死んだりすることもなく、老いたり死んだりすることが尽きるということもない。つまり、生まれたり老いたり死んだりというのは幻の如きことなのだ。

とはいえ、幻の如きこととはいいながら、人は生まれ、老いて死んでいくように見える。どうせ幻なのだから、生まれ、老い、死んでいけばいいのである。しんどいことではあるが、それを厭うてもしょうがない。幻と思えば気軽に引き受けられる。

どうせ幻なのだから、その幻のほころびを補填するために、必死に医療に頼ろうという気もあまりしない。幻は幻としてサクサクと走馬灯のごとき流れに任せていればいい。死ぬように見えるときは、ちゃんと死ぬように見せておけばいい。それも功徳である。

よく生きることとはよく死ぬことであるというが、そんなわけで、今のウチから死ぬ算段をしておくのも悪くないと思うのである。

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2012/07/27

人間がちゃんと死ねるように

今さらながら、iPS 細胞のことについて書く。例の、ES 細胞 (胚性幹細胞) のように非常に多くの細胞に分化できるようにされた細胞のことだ。これが再生医療に大変な可能性をもたらしているのだという。

先日、知人たちと話をしていた時、私以外の人間が、あまりにもこの iPS 細胞の医療的効果を歓迎するようなことを言うので驚いた。「ガンになっても、自分の遺伝子そのままの臓器に入れ替えられるんだから、いいよね」 なんて、平気で言うのである。それで私は、つい脊髄反射的に口走った。

「ちょっと待ってよ、iPS 細胞で自分の臓器を作り直してまで、ガンを直さなくていいじゃないの。このまま医療が進歩していったら、人間、死ねなくなっちゃう。ガンになっても死ねないんじゃ、どうやって死ねばいいの?」

こう言うと、みんな意外なような顔をした。どんな病気でも治すことができて、死なずに済むということが、無条件で 「いいこと」 のように思っているようなのだ。「そんなに、死にたいのか?」 と言いたそうな顔である。

いや、そりゃあ私だって簡単に死にたくはない。しかし、「死なないこと」 がそんなにも 「いいこと」 かと言われたら、「いいはずがないじゃないか」 と答えるしかない。そもそも、生命というのは個体としては生まれたり死んだりしながら、種として保存されるようにプログラミングされていることを忘れてはならない。

そのようにプログラミングされている命が、個体として死ななくなってしまったら、その個体には精神的に、大変なストレスがかかってしまうだろう。「死なない」 というのは、人間の手に余ってしまう。

命というのは、生まれて死ぬからいいのである。医療の進歩によって 「死ぬ」 という自然の摂理から逸脱してしまったら、大袈裟ではなく、人間は自分の人生に絶望し、その絶望のままに生き続けなければならないだろう。それはきっと、拷問のようなものだ。

医療で生かされっぱなしになって、死なせてもらえなくなってしまったら、人間、事故か自殺で死ぬしかなくなってしまうではないか。そんなことにならないよう、自然に死なせてもらえる余地をしっかりと残しておいてもらわなければならない。

それでなくても、周りに 100歳だの 200歳だのという人間がゴロゴロいるような世の中を想像してみるがいい。ただでさえ、世にはばかるのは憎まれっ子ばかりである。いや、憎まれっ子だから世にはばかるのではない。世にはばかれば、大抵は憎まれるのである。そんな憎まれっ子ばかりの世の中は、生きにくくて仕方なかろう。

医療というのがどんどん進歩し続けなければならない 「業」 を背負っているのだとしたら、それはそれでしかたがないから、倫理的な側面として 「余計な医療を受けない権利」 というのをしっかりと保証してもらわなければならないだろう。それも 「特別なこと」 というわけではなく 「ごく普通のこと」 として。

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2012/07/26

還暦を迎えてしまった

私事で恐縮ではあるが、なんと還暦を迎えてしまったのである。もっとも、7年半前に "「早生まれ」 の込み入った事情" という記事で書いたとおり、日本人は民法の規定に従って、誕生日の前日に年を取るということになっているので、60歳になったのは昨日である。昨日ではあるが、ここはやっぱり、誕生日の今日が還暦の日と思うのが、人情というものである。

元巨人監督の長嶋さんは 60歳の誕生日に、「今日、初めての還暦を迎えまして……」 と言ったそうだが、あの人を見ていると、下手したら本当に 2度目の還暦があっても不思議じゃなさそうな錯覚にとらわれる。私としてはこれが最初で最後で、十分と思うが。

子供の頃は、60歳の男というのは、どこからどう見ても 「じいさんそのもの」 だった。顔はしわだらけ、腰は曲がり、下手したら杖をついて歩いていた。それも道理、私が生まれた 1950年代は、日本人の平均寿命がやっと 60歳を超えたばかりの時代だった。

あの当時の還暦のじいさんばあさんと比較したら、私なんぞはもう、ファンタジーである。どこも悪いところはないし、老け込んだような気がしない。というわけで申し訳ないが、私としてはまだまだ元気で生き続けてしまいそうな気がするので、あとしばらくはお付き合い願いたい。

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2012/07/25

民主党の 「日本再生戦略」

政府・民主党がこのほど発表した 「日本再生戦略」 は、2020年まで実質平均 2%程度の経済成長を目指すとしている。そのために、医療や環境などの分野で新たに 100兆円以上の市場を開拓し、420万人の雇用を創出するのだそうだ。(参照

前回の総選挙で発表したマニフェストをことごとく反古にしてきた民主党のいうことだから、到底まともには信用する気になれないが、エネルギー、健康、農林漁業の 3つを重点分野として、優先的に取り組むという方向性だけは誤っていないと思う。

再生エネルギー開発の必要性と、長寿化に伴う老人の増加は、必然的にエネルギーと健康分野の市場の拡大を生み出す。これだけは誰も否定できない。そして、食糧安保や国土保全の観点からも、農林漁業の見直しは避けて通れない。

つまり、民主党の提案は総論的には十分に OK なのである。問題は各論だ。実際上の運用がどうなるかで、政策の成否は変わってくる。問題は、小手先部分でコロコロ変わる民主党に、この重要政策が任せられるかである。

ある意味、総論部分はどこの政党に提案させてもそれほど変わらないのではないかと思う。ということは、どの政党が運用上の能力があるかということが問題なのだ。それを考えると、自民党はボロは出さないだろうが、画期的な運用は期待できず、他の政党は、能力的に疑問が残る。

日本の政治の不幸はこの辺にあると思う。堅実だけれど何も変わらない路線と、革新的だけれどすぐにこける路線の、二者択一を迫られてしまうのだから。

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2012/07/24

「気まぐれの 1度きり」 の怖さ

私は近頃、頭の薄くなった人や腹の出てきた人に 「頭、薄くなったんじゃない?」 とか 「お腹、出てきたんじゃない?」 とか、極力言わないように気を付けている。それは、言う方にしてみれば 「たった一度の発言」 だが、言われる方にしてみれば、「何十回、何百回」 となり、ボディ・ブローのように効いてしまうからだ。

事実、私がそうだった。40歳過ぎに急に太り始めた頃、会う人ごとに 「太ったんじゃない?」 と言われた。ほとんど毎日、10回以上言われるのである。10日で 100回、1ヶ月で 300回である。3ヶ月太りっぱなしだったら、1000回言われることになる。

これは効く。精神的にものすごく効く。マジでへこむ。あんまり言われるから、それがイヤになってさっそくダイエットに取り組み、半年で 10kg 減らした。その後すぐに 5kg ぐらいのリバウンドがあったりして、紆余曲折を経ているが、何とか 「太めの人」 という印象は与えずに済んでいる (と、信じる)。

というわけで、言う方にとっては 1度きりの気まぐれ的発言でも、積もり積もれば山となる式のことというのは、案外多い。

似たようなものに、ベストセラーというのがある。大して素晴らしいというほどのことでもない商品が、急に大ヒット商品になってしまうことがある。しかし、それは多くの人が 「1度きりのきまぐれ」 で、つい買ってしまったことの集積である場合が多い。

「1度きりの気まぐれ」 でしかないのだから、リピートはあり得ない。だから、単なるブームで終わるのがほとんどだ。ところが、そこに気付かない業者がコピーで儲けようとして、その頃にはブームが終わっているので、あっという間に在庫の山になるということが、過去に何度も繰り返されてきた。

実は、ベストセラーというもののかなりの部分が、この類であるということに気付かなければならない。だから私は、流行り物にはあまり飛びつきたくないと思っているのである。

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2012/07/23

オリンピックへの無関心

オリンピックがもうすぐ始まるんだそうで、ちょっと驚いている。知らないうちに選手団はロンドン入りしてしまっていて、なんだかもう間もなく、開会式になってしまうんだそうだ。「間もなく」 なんて書いてしまってから、正確な開幕日を知らないことに気付いて検索してみたら、なんと、7月 27日なんだそうだ。へえ、4日後じゃないか。

記憶にある最初のオリンピックがいつのオリンピックかで、大体の年齢が知れてしまうが、私が明確に記憶しているのは、1960年のローマ・オリンピックである。8歳の時の話だ。同年代では 1964年の東京オリンピックからしか覚えていないという連中が多いが、それはあの年を境に、テレビが爆発的に普及したからだろう。

私はラジオ少年だったから、8歳の時のローマ・オリンピックを明確に覚えている。日本水泳陣の期待の星の山中毅が、1500メートル自由形で 4位に沈んだ時の実況がものすごく印象的で、まるで既に 3人がゴールした後を必死にもがくように泳ぐ山中毅本人の目に映った光景が、確かに見えたような気さえしたものだ。

TBS ラジオのキャッチフレーズ、「聞けば見えてくる」 というのは、まさに本当である。

その 4年後の東京オリンピックは、日本の高度成長の幕開けみたいなもので、急に小学校の各教室にテレビが設置され、オリンピック期間中は授業そっちのけで教室中がテレビに夢中になっていた。その年の 6月に新潟地震に見舞われ、1ヶ月近い断水で苦労していたのがウソのような話である。

東京オリンピックの熱狂からみると、今年のロンドン・オリンピックへの無関心さはどえらいギャップである。大分前から、欧米諸国は概してオリンピックに冷淡だと伝えられていたが、日本もそんな雰囲気になってきたような気がする。いい悪いではなく、文化が成熟すると (あるいは腐敗一歩手前までいくと)、オリンピックへの熱狂は薄まるようだ。

家電業界は、「オリンピックでテレビが売れる」 といういつものパターンが崩れてしまって、拍子抜けしているようだ (参照)。なんでも、オリンピック・イヤーはテレビがいつもの年の 1.3倍売れるんだそうだが、今年はそれが当てはまらないというのである。

そりゃそうだ。テレビ需要なんてほとんど一巡して、オリンピック観戦のためにテレビを買い直すなんていう話は、少なくとも私の周囲では聞いたことがない。

個人的な印象だが、オリンピックは百貨店と同じなんじゃないかという気がする。もう既に百貨店の歴史的使命は終わりかけているのと同様、オリンピックも下り坂になってきているんじゃあるまいか。

多くの種目で毎年世界選手権的なイベントがある中、「4年に 1度のオリンピックは特別」 という感覚も薄れてしまっている。それに、総花的イベントというのは、お祭り騒ぎ的ではあっても、集中的な感覚は薄まる。熱狂の度合いからいったら、サッカーのワールドカップの方がずっと上のような気がするし。

というわけで、もし 8年後に再び東京オリンピックが開催されるようなことがあっても、日本人にしてみれば、56年かけて 「始まりと終わり」 を体験するような気分にさせられるんじゃないかという気がするのだよね。

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2012/07/22

米国の干ばつの、個人的な影響を考える

米国の記録的干ばつで、トウモロコシと大豆の作柄に深刻な影響が出そうだ。日本では平成 5年 (1993年) の冷夏で 「米騒動」 が起きたが、米国は世界の穀倉地帯で多くの国に輸出しているだけに、今回の干ばつはより複雑な影響が出そうだ。

日本の米騒動と違うのは、米はかなり多くがそのままの形で最終消費者の元に流通するが、トウモロコシや大豆は、ほとんどが加工され、姿を変えた形で流通するということだ。トウモロコシはいろいろな食品の原料として使われるが、実は食肉に姿を変えて流通する比率が最も大きい。

統計によれば、世界で収穫されるトウモロコシの 64%が家畜の飼料となり、米国と日本では、その比率が 74%まで跳ね上がる。つまり、トウモロコシの収穫が減るということは、ポップコーンが高くなるということ以上に、肉が高くなるということである。

さらにいえば、トウモロコシの値上がりの影響は、食肉になることでより拡大するだろう。というのは、有名な話だが、牛肉 1kg を生産するのに、穀物は 11kg 必要なのである。11kg のすべてがトウモロコシというわけではないが、多くを占めることは疑いがない。

仮に 11kg のうち半分近くをトウモロコシが締めるにしても、牛肉 1kg の値段には、トウモロコシ 5kg 分の値上がりが圧縮されて影響するわけだ。ちなみに、豚肉 1kg には、7kg 、鶏肉 1kg には 4kg の穀物が必要とされている。

そうでなくても、地球の人口は今でも爆発的に増加中であり、増え続ける人間を養うには食料が必要だ。多くの人間を飢えさせたままで、取れた穀物の半分以上を家畜の飼料にし、例えば 11kg の穀物を 1kg の牛肉に圧縮して、主として先進国の人間の腹に入れてしまうというのは、倫理的な問題も生じるだろう。

とはいえ、私のように肉をあまり食べないものにとっては、トウモロコシの収穫減は個人的にはさほど大きな影響とはならない。要するに、トウモロコシの減産の影響からできるだけ逃れるには、みんなで肉を食う量を減らすのが一番なのである。「肉食系」 であることを誇る類の人にとっては、難しいことかもしれないが。

一方、大豆の収穫減は、多くの日本人に大きな影響を与える。「日本人は米と大豆と海草で生きている」 といわれるほど、日本の食生活における大豆の比率は高いのに、その自給率は 5%を切るといわれ、悲しくなるほど低い。

ということは、大豆の収穫減は、味噌、醤油、納豆の値上がりに直結する。これらがないと暮らせない私のような人間にとっては、トウモロコシの収穫減なんてこととは、比較にならないほど大きな打撃となる。

そうでなくても米国のことだから、相場的には日本の米騒動以上の大変な混乱が生じるだろう。市場というのは、品物が不足すればするほど各段階で隠したがって、最終市場ではものすごい品不足となる。そのうち、隠していることによる負担に耐えきれなくなって、どっと品物が出てくることになっているのだが、一時的には相当な値上がりが予想される。

毎日 2パックは食べている納豆を、今年後半からは 1パックに減らさなければならないかもしれない。

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2012/07/21

楽するのは決して楽じゃない

"「なまけるためにはどんな努力も惜しまない!」 ある意味感心する写真 19枚" という記事が、らば Q にある。どれもこれも、なまけて楽するための工夫をこらした挙げ句、トータルでみれば、かえって面倒なことになってしまったんじゃあるまいかという写真だ。

寝っ転がりながら皿に盛られたフレンチフライを食べるデバイス、PC を打ちながらテーブルの上のドリンクを吸い込めるチューブ、仰向けに寝たままテレビを見ることのできるボックス、リモコン・ミニチュアカーで雑巾がけできるデバイス等々、そんなことするぐらいなら、まともにやった方が早いぜ! というようなものばかりだ。

だが、私はなぜかこれらを笑えない。というのは、現代の PC を使って仕事をするシステムも、これらとほとんど似たようなものなんじゃないかと思うことがあるからだ。

PC を使って仕事をするのは、楽して効率を上げるためである。しかし、PC を使って本当に楽して効率を上げられるようになるには、かなりの努力をして PC 操作に習熟しなければならない。

PC 操作の習熟だけではない。PC を買い換えるたびに、ほとんど 1日がかりでデータの引っ越し、プログラムのインストールなどをしなければならない。さらに楽してテキスト入力をするために、何百もの単語登録をする。

ようやくこうした作業をクリアして、本当に楽して効率の上がるレベルに達すると、今度はそのおかげで余った時間に、余計な仕事をしなければならない。決して楽になんかならない。永遠に忙しい。

私がよく引き合いに出す 「健康のためなら命も惜しくない」 というジョークほどではないが、楽するのは決して楽じゃないのである。

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2012/07/20

手書きとデジタル

デジタルは NG!手帳がPC やスマホより優れている点 3つ」 という記事を発見した。手帳が優れている 3つのポイントというのは、次のようなことだという。

  1. 命にかかわる情報は手帳で管理すべし!
  2. 夫婦円満にも手書きの交換日記が大活躍
  3. 手書きはタイピングよりも記憶に残りやすい

「命にかかわる情報」 というのは何かと思ったら、「おくすり手帳」 なんだそうだ。そういえば、私もかなり大昔、医者にかかって薬局で薬を処方してもらった時に、そんなようなものをもらった憶えがあるが、とっくになくしてしまった。どこか引き出しの奥を探せば出てくるかもしれないが、面倒で探す気になれない。

昨年の大震災の時、「おくすり手帳を持っていた患者さんは、別の診療所や避難所でいつも飲んでいた薬を正確に医師に伝えられ、スムーズに薬を受け取ることができた」 というのだが、私の場合、いつも飲んでる薬なんてないから、スルーしちゃっていいだろう。

2番目の、夫婦円満に 「手書きの交換日記」 だなんて、今さらなあというわけで、これもスルー。ハートマークだらけのケータイ・メールじゃだめなの? という気もするし、そもそも、1番と 2番は、なんだかとってつけたような感じがする。

もっとも、高血圧かなんかの持病があっていつも薬を飲んでいるという人は、「おくすり手帳」 をしっかり肌身離さず携帯しておく方がいいのかもしれない。そこまでは否定しない。

3番目の 「手書きはタイピングより記憶に残りやすい」 というのは、ようやくまともな理由が出てきたなという気がする。実感として、これはありかもしれない。記事中にタイピングと手書きの記憶に関する効果に関する研究結果が照会されていて、やはり手書きの方が記憶に残りやすいんだそうだ。

アルファベットだけのヨーロッパの研究ですらそうなんだから、漢字仮名交じりの日本語だったら、さらに手書きに有利かもしれない。しかし、記事中の次の指摘は、どうなんだろう?

つまり、スケジュール管理する場合でも、手書きのほうがデジタルよりも書いた時点で記憶に残りやすいので、いちいち手帳を見返さなくても大事な予定をすっぽかすようなミスが起こりにくいというわけですね!

これはちょっと、言わなくてもいいことまで調子に乗って言っちゃった感がある。メモに書き残すというのは、後で読み返して確認するためなんだと思うが、こんな風に言われると、手書きにしたおかげで、ちょっとした記憶違いに気付かずに、約束の時刻に遅れるなんてことはないだろうかなんて、突っ込みたくなってしまう。

そして、後で確認することまで考えると、デジタルの方がずっと確認しやすい。

というわけで、私は平成 21年 (2009年) の秋に iPhone 3GS を買い、その冬に長年愛用してきた 『超整理手帳』 を放棄して、以来 iPhone 派だ。考えてみれば、紙の手帳を捨ててからまだ 3年足らずなのだが、もうずっと前から iPhone で生きてきているような気がしている。

とはいえ、紙媒体をまったく使わないというわけではなく、仕事上の取材や打ち合わせなどでは、小型のノートを使いまくっている。だからありがたいことに、大事なことは記憶にも残りやすい。

ただ、どうしても 「下書き」 とか 「単なるメモ」 みたいな使い方になるので、走り書きばかりだ。すると、ちょっと七面倒くさい漢字はパスして、カタカナになってしまう。どうせ公式文書や原稿にする時には PC を使うから、手書きで面倒な漢字を使う必要は、あまりない。

というわけで、やっぱり漢字は忘れてしまうなあと思う。

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2012/07/19

急に空気が入れ替わった実感

いやはや、空気が入れ替わるというのは、あるものなのだ。風の具合によって、つくば周辺の空気がすっかり入れ替わってしまった。

朝目覚めた時は、ものすごい蒸し暑さだった。気温自体は大したことはなく、部屋の寒暖計をみると、27度ぐらいでしかない。しかし湿度がものすごかった。部屋の中でちょっと動いただけで、体中から汗がしたたり、下着までびしょびしょだ。こまめに水分補給をしないと、マジで脱水症状になりそうだった。

外に出てみると、風がほとんど吹いていない。台風 7号崩れの熱帯低気圧に向かい、南から吹き込んだ湿った風が、飽和状態ぐらいの湿り気のまま居座っているようだ。ただ、この低気圧が朝鮮半島を横切って北東に遠離るとともに、風向きが変わるはず。朝の無風状態は、その風の変わり目のようだった。

案の定、昼前から風が吹き始めた。今度は北からの涼しい乾いた風である。ありがたい。私の仕事部屋は昨年の震災以来、エアコンのコンセントを抜きっぱなしにしてあるので、あの暑さのままでは仕事の進行も遅れるところだった。

太陽はカンカンに照りつけ、気温自体は 28度と少しだけ上昇しているのだが、この風のおかげで世界がさわやかになった。汗でびしょびしょになっていた T シャツが急速に乾き、じっとりとしていた肌も、あっという間にさらさらだ。

ところがラジオを聞いていると、東京は 35度ぐらいで大変な暑さらしい。とすると、この北東からの涼しい風の影響は、まだ都心までは届いていないということだ。ただ、明日は東京でも今日より 10度ぐらい気温が下がるという予報になっていた。ならばつくば周辺は、もっと涼しくなるだろう。

空気がすっかり入れ替わるという実感といえば、平成 5年 (1993年) の冷夏を鮮明に思い出す。あの年、夏の初め頃はいつもの年と変わらず、ちゃんと暑かった。ところがある日、昼日中から家にいたのだから、休日だったと思うのだが、ちょっと昼寝をしていたら、急にゾクゾクするほど寒くなった。

「なんじゃ、これは?」 とばかり起き出したら、家人も 「急に肌寒いぐらい、涼しくなっちゃった」 なんて言っている。そしてその夏はそのまま記録的な冷夏になり、秋以後は米騒動まで起きてしまったのだった。

今年もあの時みたいに、急に涼しくなったまま冷夏に突入なんてことはないだろうな。

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2012/07/18

原発関連の聴取会をめぐる冒険

将来の原発比率をどうするかという 「聴取会」 とやらで、中部電力の社員 (幹部社員らしい) が、「福島原発の事故で放射能の直接的な影響で亡くなった人は 1人もいません。今後 5年、10年たってもこの状況は変わらないと考えています」 と発言したとやらで、結構な問題になっている (参照)。

まあ、確かに 「直接的な影響」 で亡くなった人はいない。しかし、それを電力会社の人間が言うのは、いくら 「個人的な発言」 としても、あまりにも短慮である。そんなもの、反発されて逆効果になるに決まっているではないか。そんなことも読めないようでは、電力会社もいよいよ焼きが回ってしまったとしか思われない。

それに、あえて冷静な議論をすれば、「直接的な影響」 で亡くなった人はいないが、間接的な影響で亡くなった人は、かなり多数にのぼるはずなのである。

私は今年 3月 7日に 「原発事故では本当に一人も死んでいないのか?」 という記事で、次のように書いている。

「震災で福島県の避難区域内で餓死した疑いの強い人が少なくとも 5人いる」 と、あの NHK が報じた。

(中略)

瓦礫の下から助けを呼ぶ声が聞こえていたのに、原発事故による避難指示が出たので、救助することができなかったのが残念だと述懐する消防団員は、一人や二人ではない。さらに、避難先の不自由な暮らしのうちに病気で亡くなった人もいると報告されている。

この電力会社幹部社員以外でも、「原発事故での死亡者は一人もいない」 というのは、某池田信夫氏を初めとして何人もいるが、それは詭弁というほかない。この世は複雑系なのである。複雑系の世の中を幼稚園児的ウルトラ単純論で切り抜けようなんて、大人のすることじゃない。

そもそも、こうした聴取会に当事者である電力会社の社員が出席して意見を述べること自体が問題である。食中毒で死者まで出ている牛の生レバーをどうしようかという問題に、ユッケを看板メニューとする焼き肉屋のオヤジが出てきているようなものだ。

この聴取会のテーマというのは、将来の原発比率を どうするかということなのだが、政府が提示した(1)0% (2)15% (3)20~25%の 3案に対し、抽選で選ばれた一般国民が意見を述べるという形で行われたというのが、ちょっと唖然である。

ところが、こうした唖然茫然な三択を前提にしてしまったせいで、、「0%にすべし」 という政府の思惑を裏切った声が圧倒的という状況になっているのは、ものすごい皮肉である。普段はあんなにも中間的意見の好きな日本国民が、この問題に限っては、はっきりした意思表示をしているというのも、ある意味画期的なことではないか。

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2012/07/17

いきなりの猛暑

日本は東北・北陸と九州以外の地域で、一気に梅雨明けしてしまった。多くの人がまだ暑さに慣れていないので、熱中症になってしまう人も少なくなかったようだ。

とくに関東の内陸部はものすごい暑さで、群馬県館林市で 39.2度、伊勢崎市 39.1度を記録した。梅雨明けしたばかりの 7月中旬に、いきなり 39度台というのは、ちょっと尋常な暑さではない。これから先、ますます地面が暖められたら、平気で 40度を越してしまいそうだ。今年の暑さは覚悟しておく方がいいだろう。

今日は栃木県、埼玉県の県境に近い古河市に、仕事で行ってきた。往復の車中は、エアコンを効かせておかないと気が遠くなりそうだから、27.5度に設定して運転した。近頃はオート・エアコンが普及したので、知らないうちに冷やし過ぎるということがなく、ありがたい。

行った先のオフィスでも、さすがにエアコンが入っていたので、それほど暑くは感じなかった。ところが、仕事が終わってオフィスから出た途端に、廊下の空気がムッとして体温以上に感じられた。壁を触ってみても熱い。この廊下は窓がないので、直射日光ではなく、ほとんど伝導熱だけで暖められたのだろう。恐ろしい。

そして自宅に帰ってからは、エアコンなしである。私の仕事部屋は、昨年の震災以来、エアコンのコンセントを抜いてしまっていて、夏の冷房、冬の暖房なしで乗り切った。暑さも寒さも、徐々に体を慣らしていけば耐えられるものだとわかった。

しかしこの夏はいきなり猛暑がやってきてしまったので、さすがにまだ体が追いついていない。あまり無理をしないようにして慣らしていくしかないだろう。

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2012/07/16

「黙秘します」 と供述してる?

まったくもって、悪い癖とは知りながら、ほんのちょっとした言葉尻が気になって気になってしょうがない。今回気になっているのは、あのオウムの菊地直子容疑者の再逮捕に関するニュースである。

今回の再逮捕は、1995年 5月の東京都庁小包爆弾事件の殺人未遂と、爆発物取締罰則違反の疑いだ。容疑については、まあ、別に気にならないのだけれど、ひっかかったのは、NHK ニュースの "警視庁によりますと、調べに対し菊地容疑者は 「黙秘します」 と供述しているということです" というレトリックだ (参照)。

私が記者だったら、"「黙秘します」 と供述している" なんていう日本語は、気持ち悪くて絶対に書けない。どうやら、これは NHK 記者の作文ではなく、警視庁がそのような言い回しで発表したもののようなのだ。というのは、他のメディアでも、"警視庁によると、容疑について 「黙秘します」 と供述している" というテキストが目立つのである (参照)。

へえ、私はこれまで、「黙秘します」 と言うのは、「供述しません」 という宣言であり、つまり 「供述しない」 ことを 「黙秘」 と称するのだと思っていた。ところが、警視庁の解釈では、「黙秘します」 という一言さえも 「供述」 に含まれるようなのである。

てことは、「黙秘します」 と一言だけ書かれた供述調書が作成されて、それにサインを求められるのか。それならば、完璧に黙秘するためには 「黙秘します」 という一言さえも発することができないではないか。

しかしそうかと思うと、"○○容疑者は 「黙秘します」 と、供述を拒んでいる" というテキスト (こちらの方が、日本語として気持ち悪くないよね) のニュースも、いくらでもある。(参照

さて、「黙秘します」 という一言は、「そのように供述した」 ということになるのか、はたまた 「供述を拒否している」 ということなのか。あまりにも気になったので、ちょっと調べてみると、法的には 「黙秘権」 と 「供述拒否権」 というのがあり、いろいろ難しいことを言えばきりがないが、一般的には、両者はほぼ同じと考えていいようだ。

ということは、「黙秘します」 と宣言することは、「供述を拒否する」 ということなので、となると、"「黙秘します」 と供述する" というのは、矛盾というほかない。「黙秘します」 と書かれた供述調書に、容疑者がサインを求められるなんてことは、実際の取り調べにおいては、あるはずないよね。きっと。

【同日追記】

この記事についたコメントをみて、私が一体何について疑問を呈しているのか、伝わっていないのではないかという危惧を抱いたので、くどいようだが、念のため、「遊び」 なしで、単刀直入に追記しておく。

「供述」 というのは、単なる 「発言」 ではない。Goo 辞書 (『大辞泉』) によれば、次のようになっている。

[名] (スル) 刑事訴訟法上、被告人・被疑者・証人などが、主として裁判官・検察官などの尋問に答えて事実を述べること。また、その内容。

ということは、「黙秘します」 という宣言は、「供述」 ではないのである。「事実」 ではなく、意志を述べているのだから。

それを 、"「黙秘します」 と供述している" なんて発表されたら、菊地直子容疑者としてはたまらんだろうということである。何しろ、「供述」 なんてしてないんだから。

そして、それを 「供述している」 などと、無神経で不正確な言葉で発表してしまう警視庁を、私は信頼できないと感じてしまう。これまでも、ずいぶん多くの供述調書を勝手に 「作文」 してきたんだろうなと思う。端的に言ってしまえば、そういうことなのだよね。

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2012/07/15

大津の事件の、ネットでの実名晒しについて

例の大津市の事件が、いよいよゴチャゴチャ化している。ネット上では 「いじめの犯人」 とされる中学生とその親の実名がとっくの間に晒され、ちょっと調べればマスコミの報道以上のことが簡単にわかってしまう。

こうした状況について、「ネットで実名を晒すのはいかがなものか」 とか、「もし間違いだったらどうするのか」 とか、批判的なコメントも多い。確かに、リベラルな視点からしたら、こうした行為は行きすぎだろう。本当に間違いだったりしたら、名前を出された人の人生は大変なことになる。(事実、今回の件でもガセネタがかなりある)

ただしかし、実名晒しを批判して 「いい人ぶりっこ」 をする気には、私はなれないのである。というのは、ネット社会というのはそういうものだからだ。

7月 6日の "「いじめ」 と 「イジリ」、あるいは 「虐待」 と 「しつけ」" という記事で書いたように、今回の事件は、「悪役とそのバックに連なる陰湿な構造という、ものすごく典型的な筋立がうかがわれ、それがあまりにも典型的過ぎるので、現代劇というよりは時代劇のような様相」 である。後は水戸黄門の登場が待たれるばかりなのだ。

ところがこれは時代劇ではなく、現代におけるリアルな事件なのだから、すっきりと溜飲の下がる水戸黄門の登場はあり得ない。それで、ネット社会はこぞって、「風車の弥七」 や 「かげろうお銀」 になりたがったのだ。圧倒的ヒーローが不在の時代に存在感を発揮するのは、陰の脇役たちである。

繰り返すが、ネット社会とはそういうものなのである。これだけの草の根的ネットワークが張り巡らされてしまったら、いじめの犯人とその親の実名と住所が晒し出されることなど、あっという間の出来事でしかない。

それは言うまでもなく、決して褒められたことではないが、その流れは止めようがないのである。それは、いくら批判してもいじめがなくならないのと同じことだ、むしろ、長い間いじめ続けることよりも、ずっと短時間で簡単にできてしまう。こんなに簡単にできることを遮るなんて、できっこない。それは人間の 「業」 みたいなものだ。

どうせ止められないのならば、ネットという名の 「より強力ないじめっ子」 の力が、「日常的ないじめの抑止力」 として作用することに期待するほかないと、私は思っている。

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2012/07/14

旅ガラスミッション、終了

酒田で伯父の葬儀に出席し、500km の道のりを運転してようやく帰宅した。今週になって、初めて自分の家のベッドで眠れる。

一週間前の 7月 7日に 「明日からは旅ガラス」 と書いた。当初の予定では 4泊 5日の旅ガラスだったが、もしかしたら、1週間以上続くことになるかもしれないと危惧していた。というのは、その記事を書いている途中で田舎の親戚から電話が入り、伯父が危篤で 1週間もたないかもしれないと知らされていたからである。

8日に、水戸で夕方前までの会議に出席してから、不安な気持ちで新幹線に乗って名古屋に向かったわけだが、11日に京都で今回の出張の目的をすべて終了してから、亡くなったとのメールが入った。私の仕事が終わるまで、待っていてくれたような気がした。

昨日、葬儀と百箇日法要までの前倒し行事に出席して、その日は倒れ込むように眠り、今日の昼前に出発して、ゆっくり運転して暗くなってから家に着いた。結構ハードな 1週間ではあった。

明日は溜まっていた仕事を片付けなければならないので、日曜とはいえ、のんびりしているわけにはいかない。でも、少し寝坊させてもらおう。

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2012/07/13

大徳寺納豆という不思議な食べ物

Img_5923今週京都に出張した時、ふとした気まぐれで 「大徳寺納豆」 というものを買った。大徳寺の前の土産物屋にあったので、ちょっと気になってしまったのである。

「甘納豆とは違うの?」 と聞くと、店のおばちゃんが 「あぁ、甘納豆とは全然ちゃいます。だから、食べはるときは、バコォ食べたら、あきまへん。おえぇ! なりまっせ」 と言う。自分の店の売り物について 「おえぇ! なる」 なんていう人に初めて出会った。それでかえって、ますます気になって、試しに一袋だけ買ってみたのである。

そして、買ったはいいが、バッグにしまったまま忘れてしまっていて、今日になって思い出した。開けてみると、ビニール袋になんだか黒っぽい塊がボロボロ入っている。見た目としては、決して旨そうなものじゃない。ウサギのうんこみたいである。

だが、店のおばちゃんの 「寺の坊さんの夏のタンパク質と塩分補給源で、暑くて疲れはった時なんか、これ一粒食べはると、元気出ます」 という言葉を信じ、そして 「バコォ食べたら、あきまへん」 という言葉を思い返して、恐る恐る一粒食べてみた。

うっ、しょっぱい! そして次の瞬間、酸っぱい。しょっぱさと紫蘇っぽい酸っぱさが口の中で広がる。決して 「旨いもの」 ではない。しかし、旨くはないが、不味くもないのである。妙に体に馴染むのである。確かに、暑い夏の日の夕暮れ時、一粒食べるといいかもしれない。

さらに、おばちゃんの言葉を思い出した。「御飯のおかずにもなりますし、お茶漬けに入れはってもいいですよ。お酒好きな方は、おつまみにしてはる方もおいでです」

なるほど、そうかも知れない。梅茶漬けのバリエーションみたいな風味になるだろうし、日本酒に合うだろう。案外乙なものかもしれない。

これからしばらく、ちまちま食べてみようと思う。夏バテしないかもしれない。

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2012/07/12

伯父の死

伯父 (父の兄) の訃報を聞いて、酒田に帰郷している。妹と二人で葬儀場に着いた時、通夜が終わったばかりで、親戚一同が会食しているところだった。式場入り口には、伯父が今年の正月に詠んだという辞世の歌が飾られていた。

私の父が昨年の 10月に死んだ時、伯父は 「逝く時は順番だぞと言ったのに」 と悔しがっていた。体も大分弱っていたし、思い残すことはないというので、自分もそろそろあの世に行きたかったのではないかと思う。それで、今年の正月に早々と辞世を詠んでいたのだろう。

明日は朝九時から告別式で、昼に火葬場に行き、昼過ぎに初七日の法要までを行うので、ほぼ半日以上付き合うことになる。親しくしていた親戚がだんだん少なくなる。

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2012/07/11

小沢さんの新党

小沢さんの新党の名前が、「国民の生活が第一」 に決まったんだって。このニュースの見出しを見て、思わず 「長げぇよ!」 と呟いた。ああ、やっぱりこの人、よくよく言葉に関するセンスがないのだね。それがよくわかった。

ニュースをよく読んでみたが、党名は 「国民の生活が第一党」 とか 「新党 国民の生活が第一」 とかじゃなくて、あくまでそのまま 「国民の生活が第一」 のようだ。ということは、選挙カーなんかで連呼する時、「国民の生活が第一の小沢一郎をよろしくお願い致します」 とか言うんだろうか。まあ、普通に考えたら言うんだろうなあ。

さらに、「比例区は国民の生活が第一に」 とか言うんだろうか。やっぱり言うんだろうなあ。「国民の生活が第一公認の○○です」 とかも言うんだろうか。言うんだろうなあ。何だかノリが悪いなあ。

それから、もう一つ疑問に思ったのが、「英文名称はどんなんだろう?」 ということだ。気になっていろいろ検索してみたが、今のところ、小沢サイドからの公式アナウンスとしては全然言及されていないようだ。急なことだったので、そこまで考えている余裕がなかったんだろうか。

Japan Daily Press では 次のように紹介されている。(参照

Ichiro Ozawa announced the formation of his new Japanese political party on Wednesday, Kokumin no Seikatsu ga Daiichi, meaning "People's Livelihoods First."

つまり、公式アナウンスはないので、日本語をローマ字にしてそのまま紹介し、その意味を "People’s Livelihoods First." という英語に訳している。ざっと眺めたところ、国際的にもとりあえずこの言い方で説明しているニュースが多いようだ。

ただ、"People’s Livelihoods First." という英語は、ストレートに日本語に訳し返すと 「人々の生計が一番」 という感じだろう。なんだか、かなり貧しい国のスローガンみたいだ。他には 毎日や NHK の "People's Lives First" (人々の命が一番) というのがあるようで、こっちは内戦状態とか飢餓とかで、国民の命が脅かされている国みたいである。

ちなみに、英語にすると突然ぼやけてしまうとか、具体的には言いようがないとかいうのは、元々の日本語も、かなり雰囲気だけで作っているということなのだと、私は常々思っている。そんなことを言ったら、日本の政党名はほとんどそんなものなのかもしれないが。

小沢さん、これまでもいくつも政党を作っては壊してきてしまったので、まともな名称は使い尽してしまったのかもしれない。まあ、どうせまたいつ壊すか知れないのだから、こんなようなテンポラリーな感覚の名称で十分ということなのだろう。いかにも 「ここで骨を埋めるつもりはないよ」 と言われているような気がするのも、ちょっと悲しい。

新党の基本政策には 「反原発」 が上げられているようだから、こうなったら、いっそその一点突破で投票してあげて、引っ込みがつかないようにしてやってもいいような気もするが、何だかいかにもポピュリズムの臭いぷんぷんで、いつあっさりと政策転換してしまうか知れたものではないので、危なくてしょうがないとも思う。よく見極めないとね。

【8月 9日 追記】

かなり旧聞になってしまったが、7月 13日付で、英文名称が "People's Life First" に決まったという小さなニュースがあったのを、今頃発見した (参照)。"Life" という抽象名詞にして、「人々の個々の生命」 というニュアンスになることを控えたんだろう。

ちなみに略称は "LF" なんだそうだ。だったら日本語でも 「生活第一党」 にでもすりゃよかったのに。

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2012/07/10

コピーと偽物

タブレット端末のデザイン特許侵害として、アップルがサムスンを訴えていた裁判で、イギリスの高等法院が 「サムスンの商品はアップルほどクールじゃない」 という理由で、アップルの訴えを退けたというニュース (参照) には、思わず声を出して笑ってしまった。

よく 「相撲に勝って勝負に負けた」 などと言うことがあるが、アップルにとってはまさにそんなところだろう。普通にみれば 「実質、アップルの勝ち」 ということになるんじゃなかろうか。

このニュースで考えなければならないのは、「まあ、誰が考えても、デザインはこんなような形になるんだろうな」 というようなものを、最初に特許登録してしまえば、ものすごく大きな先行者利益が発生するということだ。これって、ある程度は当然だけれど、行き過ぎは考えなければならない気がする。

それから、意識してデザイン・コピーしちゃった場合は、敢えてちょっとダサめにしてしまえば、特許侵害にならずに済むかもしれないという、変てこな前例ができちゃったということだ。これもまた、いいような悪いような、複雑な気がする。

例えば、洋服の場合は誰がデザインしても、首が一つに、袖が二本ということになるわけで、本当に微妙な違いが問題になる。ちょっとダサめにしてしまえばコピーにならないのかもしれないが、洋服となるとなかなか意識してダサくするわけにいかない。

しかし、実際問題として、コピー商品の多くはやっぱりダサいのだ。素人目ではほとんど見分けがつかないのは、コピーではなく 「偽物」 ということになって、それは韓国や中国に行けばゴロゴロある。ある意味、見分けがつかないぐらい簡単に真似られるというのは、ちょっと考え物ではある。

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2012/07/09

「ビートたけしの TV タックル」 という番組

出張で京都に来ている。ホテルの部屋に入ってテレビをつけたら、「ビートたけしの TV タックル」 という番組をやっている。珍しく淡々としたまともな討論をしているなと思って見ていたら、案の定、途中から怒鳴り合いになった。

この番組、初めはそれぞれの意見を淡々と語り、途中からどっと盛り上がって怒鳴り合うという、実にテレビ的な筋立てで作られているような気がする。そしてその発端は、一番右の大竹まことが作り、それに乗っかって一番左の山際澄夫というおっさんが怒鳴り始めるという趣向のようだ。

怒鳴り合いがいい加減うるさくなり過ぎると CM が入って、トピックを微妙にズラすので、大荒れになるという事態にはならずに済むというのも、「うまく計算してあるなあ」 と思う。ただ計算ができすぎていて、何もかも 「適当にうまく片付けられていく」 という印象だ。

大荒れといえば、ずっと前に一度 「朝まで生テレビ」 とかいうのを見たことがあるが、あれはいい年をした大人が怒鳴り合うのを見て、すぐにイヤになってスイッチを切った。テーマに沿って怒鳴り合うだけでなく、何だか知らないが、感情が激したというだけで怒鳴り始める人もいるのを見て、私は単に呆れた。

そもそも、あれだけたくさんの立場も主張も好きずきも違った人をどっと登場させて、わいわいがやがやと言いっぱなしの討論をさせても、まともな話ができるわけがない。前に 「人間の脳はデュアルタスクが限度なので} という記事で書いた (あれから 2年以上経つんだなあ、しみじみ) ように、そもそも人間は、2つ以上のことを同時に考えられないのである。

デュアル・タスクが限度の脳の人間が、あんなにたくさんの意見をてんでにわいわいとと怒鳴り合うのをみて、まともな方向に考えをまとめられるわけがない。つまり、あれは単なるエンタテインメントなのだが、それを不愉快に思う私のような人間は、見てられなくなるのである。

その辺のところを、さすがにたけしの番組は、ギリギリのところでうまく料理しているとは思ったのであった。

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2012/07/08

今日はごめんなさい

水戸での仕事を終えて、新幹線で名古屋に移動。今ホテルに入ったところ。

交通機関の乗り継ぎはすべてサクサク運んで、徒歩での移動中も雨は降らず、最もいい具合にたどり着けたが、さすがに疲れた。

そんなわけで、今日はこれまで。ごめんなさいである。お休みなさい。

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2012/07/07

明日からは旅ガラス

やれやれ、昨日から超忙しの日々で、ブログをまともに更新している暇もない。何しろ、明日の昼過ぎまでは某会議に出席して、それが終わったら新幹線に飛び乗って名古屋入りしなければならない。そこから先は 4泊 5日の旅だ。その前にいろいろな事にケリをつけておかなければならない。

まあ、天気はもつようなので、相変わらずの自分の晴れ男ぶりがありがたい。旅の支度もしなければならないので、今日はこの程度で失礼。

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2012/07/06

「いじめ」 と 「イジリ」、あるいは 「虐待」 と 「しつけ」

大津市の例の事件で、「こりゃ、テレビ・ドラマか!」 と言いたくなるほどに、呆れた実態が知られてきている。悪役とそのバックに連なる陰湿な構造という、ものすごく典型的な筋立がうかがわれ、それがあまりにも典型的過ぎるので、現代劇というよりは時代劇のような様相すら呈している。そこに水戸黄門役がまだ登場していないだけだ。

私は近々京都に出張する予定があるのだが、新幹線で大津市内を通過するだけでムカついてしまうだろうと思う。東海道新幹線には 「大津」 という名の駅がないが、新幹線のレールは大津市内を通っているようなのだ。今この瞬間も、新幹線の中でムカついている人が多いだろう。

この問題では、いじめたとされる生徒の母親が昨年 11月の保護者会で、「アンケートは周りの目撃情報を基に全く関係ない人間が推測で書いた」 と主張したと、中日新聞で報道されている。つまり 「いじめはなかった」 と強弁しているようなのだ (参照)。

さらに未確認情報として、この母親が 「(アンケートによっていじめたとされたことで) 濡れ衣の息子も被害者」 と言ったとか、加害者の一人の親が PTA 会長だった (これが上述発言の本人あるいは夫かは、わからない) とか、うんざりするような話がネット上を飛び交っている。

未確認情報については、取り扱い注意なのであまり深入りしたくないが、加害者とされる同級生が、「いじめではなく、遊びのつもりだった」 と言ったことは確認されている。読売新聞の記事に、次のような記述がある。

加害者とされる同級生らに直接確認し、経過も公表していた。いずれの行為も、同級生らは 「いじめではなく、遊びのつもりだった」 と否定していたという。

つまり大津市教委は、いじめの当事者の生徒に聞き取り調査をしたものの、「いじめではなく、遊びのつもりだった」 なんて厚かましいことを言われて、「あぁ、そうですか」 と引き下がったというわけだ。

フツーは 「遊びのつもりだった」 なんて言われても、「ふざけんじゃねぇ!」 となるところだが、大津市のケースではあっさり認められているのである。これが大津警察署が被害届を 3回はねつけたという事実とともに、裏側の陰湿な権力構造をうかがわせる材料になっている。

とはいえ、そこまで行くとまさに取り扱い注意未確認情報の最たるもので、ガセネタである可能性も高い。で、ここで私が問題にしたいのは、「いじめではなく、遊びのつもりだった」 という加害者の言葉である。これ実は、いじめ問題には付きものの話だ。

いじめられる方は死ぬほど思い詰めているのに、いじめる方は 「遊び」 のつもりなのである。この認識のギャップが、いじめ問題のなくならない要因の一つだ。いじめる方も、いじめは悪いことと知っているのに、自分のしているのはそこまでいかず、「遊び」 なんだと思っているのである。

今回の大津市のケースは、どう言いつくろおうとも 「遊び」 で済むものではないようで、これは 「聞き取り調査では 『遊びのつもりだった』 と言え」 と、大人の入れ知恵があったんじゃないかと、私は疑うのだが、他のケースでは、いじめる側に 「いじめの認識」 がないことも結構ある。

世の中には 「イジリ」 という言葉がある。ジョーク混じりに結構ひどい扱いをすることを、面に関西方面では 「イジリ」 と言って、「イジられ役」 とか 「イジられやすい性格」 なんていうのがあるらしい。しかし、一方が 「イジってるだけ」 と思っていても、他方は 「いじめられた」 と受け取ることが、実は多いのだと思う。

幼児虐待などでも、子供を殺しておいて 「しつけのつもりだった」 などという親がいる。というか、ニュースをみていると、子供を虐待して殺した親のほとんどがそう言う。もっと言えば、「愛のムチ」 と 「暴力」、さらに 「冗談」 と 「セクハラ」 の関係もそんなところがある。当事者同士の認識が一致しないと悲劇になる。

「知って犯す罪と、知らずに犯す罪とでは、知らずに犯す罪の方が重い」 という釈尊の言葉は、まさにその通りなのである。これについて私は何度か書いているので、以下を参照頂ければ幸いだ。

「無明」 と 「罪」

原発避難者への差別と 「知らずに犯す罪」

「知らずに犯す罪」 の重さ

※ いじめや虐待の問題では、心理学的にかなり多くの知見があるのだが、今回は敢えてそこには触れない。つまりこの記事のテーマは、幼児期における愛情への不満とかいう方向には振っていないので、そっちの視点からコメントされたい方は、自分のブログなどで展開していただきたい。

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2012/07/05

小沢さんのとってつけたような 「正論」

小沢さんがようやくお尻に火がついて、新党結成を公式に表明した。この人、一部では 「原理原則にこだわる人」 とか 「原理主義者」 なんて言われているようだが、私には全然理解できない。この人に原理原則があるとしたら、田中派時代からの遺産の 「数の論理」 だけなんじゃあるまいか。

先月 27日の 「政局には付き合いきれない」 という記事で私は、「小沢さんの言うことは案外コロコロ変わるし、政策を政局の道具にしているとしか思われないところがある」 と書いた。するとその 1週間後、自民党の茂木さんが 「小沢さんの言っていることは民主代表時代と 180度違う」 と言いだした。日経のウェブサイトから少し引用する (参照)。

茂木氏は小沢元代表が福田康夫首相 (当時) に持ちかけた自民、民主両党の大連立協議を引き合いに 「小沢さんから、一緒に消費増税をやろうという話だった。(与野党の) 政策協議についても政策そのものについても、今言っていること、言おうとしていることと 180度違うなと思う」 と語った。

5年前に消費増税をエサにした大連立構想で自爆した張本人が、今さらとってつけたように 「国民の生活が第一だから増税反対」 なんて言っても、どうすれば信用できるというのだ。彼にとって 「国民の生活」 というのは、自分の都合次第で優先度がずいぶん変わるらしい。

「反増税」 とセットで言い始めた 「反原発」 にしても、それが彼の 「原理原則」 から出たものとは到底思われない。そもそも彼の口から原発をきちんと批判する言葉が出たのを、少なくとも私は聞いたことがない。

昨年の原発事故直後にはひたすら沈黙を守るだけだった男が、大好きな選挙が近づいたとたんに 「総選挙は反増税・反原発で戦えば勝てる」 と言いだした。これをご都合主義のかけ声と言わずに、何と言えばいいのか。

彼は消費増税に関しては 「増税の前にやるべきことがある」 という、とてもぼかした言及をした (つまり、5年前はその 「やるべきこと」 を無視して大連立を構想したわけだ) が、原発再稼働については、「反原発」 のかけ声以外に、ぼかした言及すら伝わってこない。こんな具合ではいつ 「原発推進」 に変わるか、あぶなくてしょうがない。

今月 1日の 「小沢さんの賞味期限」 という記事に山辺響さんが、今回の一連の動きでの小沢さんの言動について、"あれだけ正論なのに何だか共感できません。「それは正論だけど、あなた以外の人に言ってほしい」 という感じ…" とコメントしてくれたが、まさに言い得て妙である。

新党の名称は、せいぜい 「小沢商店」 にでもすればいい。

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2012/07/04

何がユニバーサルデザインかは、一概には言えないもの

昨日の 「ユニバーサルデザインとバリアフリー」 という記事に、山辺響さんがおもしろいコメントを付けてくれた。「確実に人を躓かせる方法」 という、ニューヨークの地下鉄の出口にある、途中一段だけ約 1インチ (25.4mm) 高い段が潜んでいる階段のビデオの紹介である。

リンク先に飛んでビデオをみると、「確実に」 というわけではないが、本当に多くの人がつまずいている。もんどり打って倒れるわけではないが、思わず手すりをつかんだり前方のステップに手をついたりしてしまうぐらい、明確につまづく人が多い。

つまずかずに昇り切っている人もいないわけではないが、既に何度もつまずいて、この階段のリスクを体で学んだからこそ、問題なくいけるのだろう。それもおそらく 1度や 2度のつまずきでは、しっかりとは学べないだろうと思う。そのくらい微妙な差でつまずくのである。

このビデオでわかるように、人はほんのわずかの段差でつまずくが、目で見て明らかにわかるほどの段差だと、かえってつまずかないものだ。認識しにくい差でつまずくのである。「年を取ると座布団でつまずいて転ぶ」 というが、それはまさに実感である。

自分の目より高いところにあるものに頭をぶつけやすいというのも、「認識されにくいものにつまずく」 のと同じことだと思う。人は間近にあって自分の目より高いものというのは、見えていないのだ。

自分の目の高さと頭の高さのごくわずかな差の間に存在するものに頭をぶつけるというのは、本当に痛恨だが、生活の場ではこの微妙な高さのところに、頭をぶつけやすいものが案外たくさん配備されているのである。あんまり高いと手が届かなくなって、それはそれで不便なことになるので、しかたがない。

ちなみにニューヨークの地下鉄階段のビデオで、私は庄内空港のエスカレーターのことを思い出した。それは 2年前に書いているので、こちら を参照して頂きたい。

要点だけをいうと、庄内空港のエスカレーターは、老人の転倒事故を防ぐためにものすごくゆっくりしたスピード (通常の 3分の 2 の速さ) に設定されている。それがあまりにトロいために、多くの人は乗ったとたんに前につんのめりそうになる。

停電などで止まっているエスカレーターを昇ろうとすると、止まっているとわかっていても、体ががくっとつんのめりそうになるのを経験した人は多いだろう。あれと似たことが起るのだ。エスカレーターに慣れた人ほど、エスカレーターの標準的なスピードが体に染みついていて、無意識にそれに体の重心移動を合わせようとするので、がくっとなりやすい。

空港側によると、開業してから 13年間に 5件の老人による転倒事故が起きたので、スピードを落としたというのだが、 ほぼ 2年半に 1件の割という事故に懲りて、乗るたびにこけそうになるリスクを、普通の人に強いているわけである。

庄内空港には幸か不幸か昇りエスカレーターしかないが、降りエスカレーターでこんなことをしたら、確実に転げ落ちる事故が続出すると思う。こうなると、ユニバーサル・デザインというのは、本当に一概には言えないものだと思う。

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2012/07/03

ユニバーサルデザインとバリアフリー

近頃の住宅建築というのは、ずいぶん進歩したもので、バリアフリーや高気密高断熱なんていうのは当たり前になっている。私の実家は、昨年死んだ父が 7年前に新築したものだが、敷居の出っ張りはないし、冬でも暖かいし、とにかく大したものである。

父は古い家に住んでいた頃は、「冬に風呂に入るのが命がけだ」 と言っていたが、それは半分は冗談にしても、残り半分はシリアスな問題だった。ところが新築した家では冬に風呂に入るのが本当に楽だ。この家に引っ越したおかげで、当時寝たきりだった母は、白髪が消えて髪が濃く黒くなったし、顔色がよくなった。多分、寿命が 2年ぐらい伸びたと思う。

当然、家中がバリアフリーで、つまづいて転ぶような出っ張りはどこにもない。今の住宅はそれが当然らしい。ところが、あまりにもバリアフリーすぎる家に住んでいると、つまずくことに関する警戒心がなくなって、外に出かけた時によく転ぶようになるという指摘がある。

バリアフリーの家というのは、本当に体が不自由になってしまった人にはいいが、動ける人にとっては、あまりにも行き届きすぎなのだそうだ。ある程度の段差などは、あった方がいいというのである。その方が体がなまらない。

人間、年取ってつまずきやすくなると、ちょっとしたものにつまずいて転ぶ。座布団につまずいて転んで骨折するなんていうことも珍しくない。ところが、はっきりした段差だと、あまりつまずかない。明確な段差で体を鍛えておく方がいいというのも、もっともな話である。

ユニバーサル・デザインとバリアフリーとは、かなり共通してはいるが、やはり少し違うと思う。それは、CSR (「企業の社会的責任」 と訳される) が、昔は 「公害を出さなければいい」 という意識だったが、今はもっと積極的に環境に対する貢献が求められているのと似ていると思う。

より進んだユニバーサル・デザインというのは、「バリアをなくす」 という段階から、「人生をより楽しいものにする」 という段階に進まなければならないと思う。

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2012/07/02

住みよい街って、どんなのだろうか?

東洋経済新報社が全国の市を対象に調査した 「住みよさランキング」 の、上位 50都市を発表している。1993年から開始して今回が 19回目なのだそうだ。単純計算で 1回足りないのは、昨年が震災の影響で公表しなかったためだという (参照)。

調査は全国 787市と東京区部全体を対象として、安心度、利便度、快適度、富裕度、住居水準充実度の 5つの観点から分析している。その算出には政府が発表した、病院・一般診療所病床数 (人口当たり)、大型小売店店舗面積 (同)、住宅延べ床面積 (世帯当たり) など、14の統計が用いられたんだそうだ。

これだけのデータを使ったのであれば、単なるイメージとか人気調査みたいなものではなく、ある程度客観的な 「住みよさ」 が反映されているだろう。もちろん、使う統計やパラメターの取り方によって細かい違いは出てくるだろうから、このランキングが厳密に住みよさの順位を反映しているわけはないが、上位の都市がかなり住みやすいというのは確かだろう。

で、今回のランキング 1位になったのは、千葉県の印西市である。我が家からそんなに遠くないので、時々通ったりすることがあるが、まあ、確かに住みやすそうなところではあると思う。印西市だけでなく、これら 50都市の半分ぐらいは実際に行ったことがあり、少なくとも 「住みにくそう」 という印象からはかけ離れていると思う。

そして我が茨城県だが、なんと、5位に守谷市、15位につくば市、46位に鹿嶋市と、3都市がランクインしている。全国に都道府県は 47もあるのだから、1県で 3都市というのは大健闘である。ダサダサのイメージとは大違いだ。

一方、湘南の好イメージが強い神奈川県は、25位に鎌倉市、37位に逗子市がランクインしているのみ。意外なことに藤沢市などはランク外だ。さらに東京区部は 625位と、やや悲惨。多分、住宅面積の狭さがランクを引き下げているんだろうが、まあ、確かに住みやすそうではない。

上位都市の傾向としては、郊外でインフラが整備されていて、そこそこ交通も便利で買い物しやすいというところが強いようだ。人口が多いと、どうしても 1人当りの公園面積とか病床数とかに割を食うので、不利になるだろう。

ただ、公園なんか狭くても、病院のベッドが足りなくても、都市機能がギンギンに豊富で享楽的な暮らしができるところでなきゃイヤという人もいるので、そういう人はこのランキングにはかなり反発するだろう。

またその反対に、とにかく自然が豊富でなきゃ暮らせないという向きは、郊外どころかさらに田舎に住みたいということになるだろうし、本当の 「住みやすさ」 なんて人それぞれになのだ。

ということは、このランキングに上げられた都市は、あくまでも 「フツーの人」 にとって住みやすいところで、それだけにちょっと変わった人にとっては、「おもしろくもなんともない街」 という評価になってしまう可能性が高いと思う。

「住みやすい街」 と 「住んでおもしろい街」 とは、かなり違うのだ、きっと。そして 「住んでおもしろい街」 に住むには、ちょっとしたパワーが必要なのだね。

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2012/07/01

小沢さんの賞味期限

小沢さん、新党旗揚げを臭わせておいて実際にはなかなか踏み切らず、気を持たせている。なんだか北朝鮮の瀬戸際外交みたいで、ちょっと哀れな気さえしてきた。もうタイミングを逸しちゃってるんじゃないかなあ。

この人、実はもう賞味期限が切れてるんじゃないかと思う。新党旗揚げしたところで、小沢ガールズみたいな、近頃降って湧いたように国会議員になったばかりの人が多いので、次の選挙ではきっと見限られるだろう。もうあの時みたいな 「政権交代」 の風は吹いていないし。

私は何度も言ってるように、普段はあまり人を好き嫌いで判断することはないのだけれど、小沢一郎という人だけは、はっきりと 「嫌い」 と言わせてもらっている。その判断基準は、「一緒にメシを食っても不味そう」 という、とても単純なことだ。まあ、あの人と一緒にメシを食う可能性なんて、万に一つもないけど。

一方、小沢さんの元々のボスである田中角栄という人は、私はあんまり好きじゃなかったけれど、かといって、そんなに嫌いというわけでもなかった。だって、まだ愛嬌があって、一緒にメシを食ってもそれほど不味そうでもなかったからね。

それに、何だかんだ言っても、昔の田中派には有力な人材がうじゃうじゃいた。今の小沢グループなんて、比較するのもおこがましいほどだ。

やっぱり小沢さんのところには、まともな人が居着かないんだろうなあ。今は亡き金丸さんが甘やかし過ぎたせいで根本的に勘違いしていたのが、今でもまだ直っていないんだ、きっと。

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