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2012年9月に作成された投稿

2012/09/30

「暑さ寒さも彼岸まで」 というわけにはいかなかった

「残暑が厳しいざんしょ」 なんて駄洒落を、言うまいと思えどつい言ってしまう陽気である。23日の記事の中で、「このところずっと、『暑さ寒さも彼岸までなんて、嘘じゃないか!』 と言ってきたような気がするが、今日の彼岸を境に、このところ少し秋らしく涼しい」 なんてもっともらしいことを書いてしまった。しかしやっぱり暑さが戻ってきた。

一昨日辺りから、またしても最高気温が 30度を越すようになった。真夏の 30度越えはもとより覚悟の上なので耐えられるが、一度涼しくなってしまってからの暑さは、ちょっと骨身に堪える。しかもこのところの暑さは台風がらみで、湿度が高い。

今日なぞは、台風で雨が降り込んでくるので、窓も開けられない。こうして窓を閉め切っていると、真夏の夜に窓を開け放しているよりも、ずっと不快指数が高い。ただ、真夏にもエアコンのスイッチを入れずに耐えたのだから、今夜も耐えようと思う。

明後日以降になると、つくば周辺の最高気温は 24度以下に収まる日が続くと言う予報が出ている。ただ、曇りがちですっきりしない空模様になるようで、秋晴れの爽快さは、10月中旬以後まで待たなければならないかもしれない。

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2012/09/29

実家を 「うち」 と呼べない理由

emi さんが 「夫が実家のことを 『うち』 と呼ぶのが嫌」 という話を聞いて、「ぽかーん」 としていらっしゃる (参照)。ネット上には、夫が自分の実家を 「うち」 と称することに違和感を覚える妻が多いようなのだ (参照)。

emi さんは、「生まれ育った最初の 『うち』 がいつまでも 『うち』 なのは当たり前でしょ。なにが気に障るのか、さっぱりわからない。が、意外なことにこれ、妻たちの間では "あるある" のカチンと来るネタらしい」 と述べておられる。

振り返って自分のことを考えるに、私自身は自分の実家のことを 「うち」 と言ったことはないと思う。山形県の酒田という田舎町の高校生だった頃の私は、とにかく家を出たくてたまらなかった。

うまいこと東京の大学に合格して、実家を脱出することができたのは、昭和 46年。そう、私にとっての実家は、「脱出してきたところ」 なのである。何度も気軽に帰ってはいるものの、「本拠地」 (home) では決してない。

私の父と母は両方とも既に他界したが、最後まで彼らを 「捨てた」 という意識になったことはない。決して親孝行ではなかったが、関係性はとても良かった。両親も先祖も捨ててはいないが、「実家」 に関しては、明らかに脱出したのである。だから、実家は 「うち」 (home) ではない。

私としては自分の実家を 「うち」 と呼んでしまったら、自分のアイデンティティが損なわれてしまったような気がするだろう。だから、「実家」 と言わずに 「酒田」 と言っている。

これはあくまでも私個人の問題だから、配偶者が自分の実家のことを 「うち」 と言う分には、まったく気にならないと思うが、私の妻も、あまりそうは呼ばないタイプの人間である。

私同様、彼女も実の両親との関係は良好だが、「実家」 に関していえば、やはり脱出してきたところという位置づけのようなのだ。これって、60年代後半から 70年代初頭にかけての、独特の感覚なんだろうか。

とにかく 「家」 というのは、それを捨てて、「街に出る」 ためのものだったと思う。思えばずいぶん単純な時代だったよね。

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2012/09/28

複雑なことを単純に考えて満足するのは、中途半端に賢い奴

巷では、「バカな奴は単純なことを複雑に考える。普通の奴は複雑なことを複雑に考える。賢い奴は複雑なことを単純に考える」 と言われている。ずっと昔から言われている言葉と思っていたのだが、どうやら稲盛和夫氏の名言とされているらしい。

これについては私はいささか疑問をもっていて、「複雑なことを単純化して考える以上の賢さ」 というタイトルで、2年ちょっと前に書いている。そして最近、もうちょっと単純に (つまり限界的な賢さをより洗練させて) 考えることができるようになったので、書いてみようと思う。

これって、本当は、「考える」 ではなく、「説明する」 と言い換えると、しっくりくるんじゃなかろうかということだ。つまり、「バカな奴は単純なことを複雑に説明する。普通の奴は複雑なことを複雑に説明する。賢い奴は複雑なことを単純に説明する」 というわけだ。

そしてさらに単純化してしまうと、「バカな奴の説明を聞くと、ますますわからなくなる。普通の奴の説明は聞いても聞かなくても同じ。賢い奴の説明で、ようやくわかる」 ということだ。つまり、説明とは複雑なことを易しく言い換えることだから、バカな奴の説明は、説明になっていないということである。要するに自分がよくわかってないから。

論理思考というのは基本的に二者択一の繰り返しで展開される。これを 「弁証法」 といって、論理思考の基本モデルだ。しかしそれは裏返して言えば、人間は単純化しないとまともに思考できないというだけのことなのだ。つまり、複雑なことを複雑なままにしていては、考えているようで何も考えていないのである。だから当然、説明もできない。

思考するということの大半は、複雑な構造を単純化する作業に費やされる。それさえ十分にできれば、8割以上の作業を終えたということになる。その上で結論を出すのは、とても簡単なことだ。

複雑なことを単純化して説明できる奴は、世間では 「あの人は賢いから、何でもわかりやすく説明してくれる」 なんて言ってもらえる。言い換えると、上手に説明してもらうと、誰でも楽に 「わかったつもり」 になれて、ろくに考えなくても結論が出せるということだ。組織においては、「説明」 がいかに重要かということである。

しかし、「単純化して考えて、上手に説明できる」 というだけで終わってしまうのは、「中途半端に賢い奴」 でしかない。単純化するための視点はいくら賢くても人それぞれに違うから、同じことを説明するにも人の数だけ 「わかりやすい説明」 があって、それによって導かれる結論も微妙に違ってくる。

言うまでもないことながら、実際の世の中の 「複雑系」 の動きは、思考と説明のための 「単純化モデル」 では説明しきれない。だから、世の中の動きは論理的思考の結論を平気で裏切る。

だから、「より賢い奴」 というのは、複雑なことを単純に説明できて、その上で、「これでかなりの部分を説明できているけど、カバーしきれない部分も残されている」 ということに自覚的である。

世の中のいろいろな事象に関して、「論理思考」 による結論で 「想定」 ということをすると、必ず 「想定外」 の現象によって裏切られる。それは、なまじ想定なんかするからいけないのである。つまり論理思考ってやつは、普段は役に立つけど、時々期待を裏切るのだ。

どんなに詳細なデータを打ち込んで、スーパーコンピュータをフル稼働させて出した天気予報も、明日のことはよく当たるが、明後日以後のことはよく外れる。3ヶ月先の天気 (季節予報) なんて、今でも当たることの方が少なくて、気象庁の言うことと逆になると思っている方がましだというほどのものだ。経済予測もそれに似たところがある。

中途半端に賢い奴は、「正しいのは俺で、世の中の方が間違っている」 と思いがちだが、天気予報や経済予測のことを思えば、そういうのを日本語では 「至らない」 というのだということがよくわかる。世の中の姿というのは 「不確実性に満ちた複雑系」 であって、究極的には人間の脳如きで単純化なんかしきれるわけがないのだ。

だから稲盛さんも、複雑なことを単純に考えてある程度通じる経営問題より深いところに関わるには、仏門に入ってしまうしかないのかもしれないね。

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2012/09/27

「次の総選挙」 を巡る冒険

安倍さんが自民党総裁に返り咲いて、次期首相にほぼ決定した。次の総選挙で民主党が野党に転落するのは、よほどの大どんでん返しがない限り確実で、野田さんがレイムダックであることは決定事項扱いになってしまった。

ただ、自民党総裁が安倍さんじゃなくて石破さんだったら、次の総選挙では 「圧勝」 するだろうに、安倍さんでは 「順当な勝利」 程度で済んでしまいそうな気がする。テレビで見ても、安倍さんの顔色はどうみても健康じゃなくて、いかにも内蔵悪そうな感じだしね。

私としても、次の総選挙では自民党に投票しようと、つい最近まで思っていたのだが、自民党の原発政策を知って迷い始めた。今回の総裁選に立候補した全員が、脱原発する気が全然ないようなのである。もちろん安倍さんも 「脱原発なんて無責任なことは言えない」 なんてなことを言っている。

私は脱原発しない方がずっと無責任だと思うので、ここで自民党という選択肢が消えた。じゃあ、どの党に投票すればいいかとなると、もう本当に迷ってしまうのである。国民の生活がなんちゃらというのは、初めから選択肢にないし、橋下さんは支持しないとだいぶ前に宣言したしね。

ああ、どうすればいいんだろう。

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2012/09/26

「漢字が書けなくなった」 ことの弊害とは?

文化庁から平成 23年度版 「国語に関する世論調査」 の結果が発表された。この中で最も注目されているのが、報告書 P7 の 「多様化する情報交換手段の日常生活への影響について」 という項目で、7割近くの人が 「漢字を正確に書く力が衰えた」 と感じているという点である。

ちょっと一言だけ言いたいんだけれど、この項目に関する説明で、報告書の文言では、「携帯電話や電子メールなどの普及による情報交換手段の多様化が,日常生活に影響を与えている」 となっている。これ、私としてはちょっと気持ち悪い。

ハードウェアとしての 「携帯電話」 と、ソフトウェアとしての 「電子メール」 をあまりにも無神経に並べすぎていると感じないだろうか。漢字変換システムを使うのは 「電子メール」 だけじゃないんだから、私なら 「パソコンや携帯電話などの普及による……」 と言い換えたいんだが、それはまあ、いいや。

話を戻すが、漢字が書けなくなったと感じる人が多いのは、これはもう当然の話である。私なんか、仕事にワープロを使い始めた 30年以上前からそれを感じている。手で書かないんだから、書けなくなるのは当たり前だ。

調査によると、60歳以上の人でも 55.6%がそう感じていて、10年前より約 30ポイントも上昇している。それも当然で、10年前の 50代の人が今回は 60歳以上になっていて、彼らの多くが、既にパソコンやケータイに馴染んでいるのだ。

ただ、「漢字を正確に書く力が衰えた」 という事実の弊害があるかといえば、私の実感では、フツーの生活をしている限りは、ほとんどないのである。まるで困らない。あまり困らなすぎて、かえって困惑してしまうぐらいのものだ。

私は公式な文書を書く場合はほとんど電子機器を使う。手書きの手紙や葉書を書く場合でも、年配の人とはまったく逆の発想になるかもしれないが、PC や iPad で下書きをしてから、手書きで清書する。まったくの手書きは、仕事上の取材や、会議、電話の時の 「メモ書き」 ぐらいしかない。

だから私のメモ書きは、カタカナがやたら多い。何しろ時間との勝負だから、無理に漢字を思い出すよりも、瞬間的にカタカナで書くことになる。「インフォメーション」 だの 「モチベーション」 だの 「コンプライアンス」 だののややこしい外来語は英語で書く方が速かったりするから、私のメモのカタカナは、「漢字忘れた!」 の結果の方が多いのである。

メモ段階でカタカナになっても、原稿を書く時は PC を使うので、漢字を書く苦労はない。「同音異義語などの使い方が乱れる」 なんて心配をする人がいるが、読む時にちゃんと意識的に読めているのだから、書く時に乱れるなんてことはない。気を付けなければならないのはむしろ 「確率/確立」 「国家/国歌」 などのうっかりミスである。

とはいいながら、「漢字を読めるのに書けない」 というのは、やはりどこか、目に見えないところで間接的な影響を生じさせているんじゃないかという心配がある。脳内回路のどこか切断されてしまった結果、発想力が 「健全な伝統的日本人」 よりもずっと貧弱になってしまっているんじゃないかなんて、妙なことを思ってしまうのだ。

「じゃあ、具体的にどんな影響だ?」 と聞かれても、正確に答えられないどころか、実は見当もつかない。それでますます心配が広がってしまうのである。日記でも書こうかなあ。それも縦書きで。

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2012/09/25

自民党総裁選をみていて、こう考えた

自民党総裁選挙が明日開票されるんだそうだ。党員票では石破さんが圧倒的優位らしいが、1位と 2位との候補で行われる決選投票では、逆転されることがほぼ確実だといわれている。決選投票の投票権は国会議員だけがもち、この国会議員の中での票のとりまとめみたいなことは、石破さんの陣営は苦手なんだそうだよ。

この構図、ごくフツーの選挙でも同じようなことが言えそうな気がする。

最近ではどんな選挙でも、投票率はものすごく低い。高くても 60%以下、下手すると 30%台なんてのもある。つまり、投票するのは、自民党総裁選でいえば国会議員みたいな、「利権と直接関係する層と、その周辺だけ」 ということだ。「党員票」 にあたる無党派層の意向は、あまり反映されない。

どうせ反映されないので、投票に行かないという悪循環も生じているわけで、投票に行かないから、ますます既得権の上にあぐらをかく層の意向だけが、国から市町村に至るまでの行政に反映されることになる。

つまり、今の行政というのは、票のとりまとめの上手な既得権をもつ連中 (いわゆる 「守旧派」) の意向で動いているというわけなのだね。これって、現行の公選法にもよるところが大きいと思っている。

なにしろ、公選法ではまともな選挙キャンペーンができないようになっているのだよ。選挙カーでは連呼しかしちゃいけないと規定されてるぐらいだからね。詳しくは、"選挙カーの 「連呼」 は 「迷信」 から生じているらしい" という記事を参照頂きたい。

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2012/09/24

iOS 6 へのアップデートをためらっている

一昨日、iPhone 5 の購入はもう少し先になってもいいということを書いた。来年 1月のソフトバンク版のテザリング解禁まで待っても、別に不便なわけじゃない。手持ちの iPhone 4 で、十分便利に使っているので、呑気に構えていられる。

iOS 6 へのアップデートは、そのうちやらなければならないだろが、実は Map が Google Map から Apple 独自のものになって、その完成度がやたら低いというので、二の足を踏んでいる。私は初めての土地を訪ねるという仕事が結構多いので、Map ができそこないだと、かなり困るのだ。

Apple 独自の Map も、そのうちだんだん完成度が高まっていくのは間違いないが、とりあえずは、使い慣れた Google Map の方を使い続けたい。年が変わる頃には大きなバグは修正されるだろうから、テザリング解禁で iPhone 5 に乗り換えるまで、iOS はアップデートせずに使い続けるという手もある。

実は明日も福島県の初めての土地に仕事で行くし、27日には神奈川県に行く。慣れた Google Map が使えなくなるのは困るのである。私は Apple 的世界にはかなり好印象をもってはいるが、Google Map は純正で搭載し続けてもらいたかったし、日本語入力に関しても、Atok が使えるようにしてもらいたいと思う。

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2012/09/23

暑さ寒さも彼岸まで

このところずっと、「暑さ寒さも彼岸までなんて、嘘じゃないか!」 と言ってきたような気がするが、今日の彼岸を境に、このところ少し秋らしく涼しい。東京の週間天気予報をみると、今後 1週間の最高気温は 27度から 29度の間で推移するようで、とりあえず 30度の 「真夏日」 にはならないようだ。つくば周辺までくると、さらに 1度は涼しい。

といっても、ずっと 25度以上の 「夏日」 ではあることには違いないようで、昔の感覚だったら十分に 「暑い」 ということになるはずなのだが、平気で 33度とか 34度とかになる昨今の感覚だと、30度以下なら 「涼しい」 と言えてしまう。それが、ちょっと切なかったりする。

そして、日が沈んで 20~22度ぐらいになると、急に 「肌寒さ」 なんてものを感じてしまう。摂氏 22度というのは、昔からずっと 「最も快適な温度」 と言われてきたはずなのに、これで肌寒いなんて、切ないなんてもんじゃない。悲しすぎるぐらいのものである。関東の人間の体も、熱帯並みの暑さに適応してしまったようなのだ。

そんなこんなで、私なんか夏中エアコンなしで暮らしたものだから、最近の気温が急にひんやりと感じてしまうのである。おかげで少し風邪気味で、咳が止まらない。暖かい生姜湯なんか飲んでゆっくり休めばいいのだろうが、なかなかそうさせてもらえない。

ああ、本当に 2~3日、何もしないでのんびり過ごす休暇が欲しいなあ。

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2012/09/22

iPhone 5 が発売になったが

iPhone 5 が発売になって、大騒ぎになっているのはもう皆さんご存じの通りだ。実は私も早く欲しいところなのだが、2年縛りの解けるのが 11月以後なので、まだ予約も入れずに様子を眺めている。

聞くところによれば、iPhone 5 はどえらいヒットのようで生産がまったく追いついておらず、予約していても入手できないという人が出ているようだ。この状況は 11月までに解消するだろうか。まあ、あと 2ヶ月経っても品薄のようだったら、もう少し待ってもいい。

何しろ、ソフトバンク版 iPhone 5 のテザリング解禁は、来年の 1月 15日だというし、その頃まで待っても、別に大きな不都合はない。2年近く経ってバッテリーのもちがかなり悪くなっているのを、ちょっと我慢すればいいだけだ。どうせいつも充電用外付けバッテリーを持ち歩いているから、困るわけではない。

ただ、来年 1月 15日以後のテザリング解禁を待って、ソフトバンク版 iPhone 5 のテザリングの使い心地をしっかりと見定めなければならないと思っている。それによって、今使っている E-mobile の "Pocket Wifi" を今後どうするか決める必要がある。これの 2年縛りが、来年の 3月に解けるのだ。

聞けば、最近の E-moble は LTE を使って結構なスピードを出しているらしい。サービスエリアもそこそこ広がっているし、ちょっと前までは、3月になったら快速の新機種に乗り換えようと思っていた。ところがそんな時に、iPhone 5 もテザリング解禁というニュースが飛び込んできたのである。

普通に考えたら、これで E-mobile とは縁を切れるのである。月額 5,000円ぐらいだったと思うが、この料金も払わずに済むようになる。万々歳である。

しかし、私はまだ懐疑的だ。iPhone のテザリングは、「使い放題」 ではなく、7GB という制限があるというではないか。一方、E-mobile は無制限である。それに、回線状態もかなり安定している。iPhone 5 の接続の状態をしっかり検証してから、E-moble を解約するか、機種交換するか、決めなければならない。

でもまあ、そりゃ、Softbank 版の接続がスムーズにできることを望むばかりである。その方が、料金を安くできるしね。ただ、そうなると E-moble は解約続出だろうなあ。気の毒に。

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2012/09/21

「刺身のつま」 を巡る第二弾

昨日の記事、"「付け合わせの野菜を食べない」 という習慣を巡る冒険" に関しての続きである。

もう何年前になるんだろうか。大阪の 「船場吉兆」 が、刺身のつまを使い回ししたとか、いろいろな不祥事が問題になって、ついに廃業に追い込まれた。船場吉兆だけでなく、飲食業界では使い回しはそんなに珍しいことじゃないという、仲居さん経験者の証言も相次いだ。

それで、「だから、ツマは食べない方がいいんだ」 なんて言う人もいたが、私としては、その程度の話で済むのが不思議でしょうがなかった。だって、そうでしょ。それを気にするなら、「もう、居酒屋や料理屋で刺身なんか食えない!」 となるのがフツーの反応なんじゃなかろうか。

山辺響さんがコメントで指摘されていたが、居酒屋でも、皿の上がつまだけになってしまうと、確認もしないでさっさと下げてしまいたがる。あれって、使い回しするためなんじゃないかと、疑いたくなることがある。

そして私としては、そんなひどいことをさせないためにも、刺身のツマは供された時点で、責任持ってしっかりと平らげ、完結させるべきだと、確信しているのである。食ってしまえば、使い廻そうにもできないわけだからね。

どうしても食いたくなかったら、醤油かけてグジャグジャにしておけばいい。それでもう、使い物にならない。でも私だったら、醤油かけたら、どうしても食ってしまいたくなるがなあ。口の中の生臭さが消えて、すっきりするのだよ。

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2012/09/20

「付け合わせの野菜を食べない」 という習慣を巡る冒険

昨日は 「後期高齢者」 という呼称にことさら反発して立腹するのは、どうしてもよくわからないというようなことを書いたが、今日は 「どうしてもよくわからない」 第二弾である。それは、刺身のつまとか、付け合わせのパセリ、大葉などを残す人が多いが、それがどうしてもよくわからないというお話である。

先日も親しい知人 3人で食事をした時、私以外の 2人が天ぷらの盛り合わせに添えられた大葉を残すので、「どうして残すの? もったいないと思わない?」 と聞いてみた。3人は常々、「日本では捨てられてしまう食物が多い。なんともったいないことだ」 なんてことを本気で言う人たちなので、私にはとても意外だったのである。

もしかしたら 3人は私に指摘されて、「そういえばそうだ」 と納得し、残した大葉を食べてくれるかもしれないと思っていたが、もごもごと口を濁して、そのままに放置している。そこで私は重ねて、「大葉、嫌いなの?」 と聞いた。

2人とも 「別に嫌いじゃない」 と言う。「じゃあ、どうして食べないの?」 と聞くと、「どうでもいいじゃないの、そんなこと」 と、不愉快さを露骨に見せた。常々 「食物を捨てるのはもったいない」 と思っているし、大葉が嫌いなわけじゃないけど、天ぷらの付け合わせの大葉を食べないことで突っ込まれるのは、ちょっと腹が立つみたいなのである。

ちなみに私は、茶碗には飯粒一粒も残さない人である。盛りそばのかけらも丹念にざるからつまんで食べる (これは、そば食いとしてのマナーである)。付け合わせのキャベツの細切れも、箸でつまめるだけつまんで食べる。洗い場に返す食器は、できるだけきれいにして返したい。食べきれないとわかっているなら、「少なめ」 を所望すればいい。

食器洗いの人だって、飯粒だらけ、残飯だらけの食器を返されたら、あまりいい気はしない。6年半前に 「仏道修行は広く深い」 という記事で書いたように、私は家では、自分で使った食器は食べ終わってすぐに自分で洗うから、食器洗いの人の気持ちはよくわかるのである。学生時代も、皿洗いのバイトはよくやったし。

付け合わせの野菜を食べない人というのは、多分、「そういうものだ」 という美学に基づいているのだろう。刺身のつまを食べるのは 「カッコ悪いこと」 という価値観が、子供の頃から身に付いている。だから、いくら 「もったいない」 とか 「体のためによい」 とか言われても、どうしても箸が出ない。「そんなカッコ悪いこと、したくない」 と思っている。

常々 「食べ物を捨てるのはもったいない」 だの 「残飯を出さないように」 だのを言わないオッサンなら、別にいいのだが、普段からそんな立派なことを言ってる限りは、ここはもう、すっぱりとその価値観を切り替えて、付け合わせの野菜は食べてもらいたいと思うのである。そうでないと、言うこととすることが別の人になってしまう。

25歳までヘビースモーカーだった私が、きっぱりと禁煙できたのも、「カッコいい」 と思って始めた喫煙という習慣を、「カッコ悪い」 という価値観に切り替えたからである。「カッコいい」 と思っているうちは、「他人に迷惑」 とか 「体に悪い」 とかいっても、タバコは止められない。

付け合わせの野菜を食べるのをカッコ悪いと思っているのなら、「世界では飢餓に苦しむ人がいるのに、食べ物の 30%を捨てる日本人は嘆かわしい」 なんて、もっともらしいことを口にするのは、はっきり言って欺瞞である。

そして、欺瞞を嫌う人が、何を言われても口を濁して、天ぷらに添えられた大葉を食べようとしないというのは、繰り返しになるけれど、どうにも理解できないのである。

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2012/09/19

「後期高齢者」 という呼称を巡る冒険

世の中では 75歳以上を 「後期高齢者」 というらしい。ちなみに 65歳から 74歳までは 「前期高齢者」 だが、その中でも障害のある者は後期高齢者に含まれるらしい。ただ、「障害」 ってどの程度のものをいうのかわからないので、フツーは 75歳以上の者のことだと思われている。

で、この 「後期高齢者」 という呼称に、ことさらに反発する人がいる。先日も、前期高齢者の知人 (66歳) との間でこんな会話を交わした。

私: 「『後期高齢者』 っていう言い方、そんなにイヤかね?」
知人: 「そりゃ、イヤだよ。『早く死ね』 と言われてるようなもんじゃないか」
私: 「言ってないって。だから、年寄りはひがみっぽくてイヤだよ (笑)。そんなの、単なる行政上の分類なんだから、言わせておけばいいじゃん」
知人: 「あんた、そんな呑気なこと言えるのは、自分がまだ 75歳になってないからだよ」
私:「そっちだって、まだなってないじゃん (笑)」

とまあ、世の中には、前期高齢者のうちから 「後期高齢者」 という呼称に立腹している人が少なくない。私にはそれが不思議でしょうがない。私の父は 80歳過ぎてからは 「俺は 『末期高齢者』 だから、気楽なものだ」 と達観していたが、実は私もそんなところがある。何と言われようと、笑っていられると思う。

私: 「常に枕詞みたいに 『後期高齢者の○○さん』 と呼ばれるわけじゃあるまいし、気にしなければ、全然気にならないじゃん」
知人: 「そうじゃないだろ、そりゃ、イヤな気がして当然だろう」
私: 「別に当然じゃないでしょ。初めから嫌がろう、文句言おうと決めてるから、イヤなんでしょ。私なんか不精だから、いちいち気にする方がずっと面倒だよ。単なる行政上の用語にこだわって、『何か別の言い方を考えろ』 なんて、もう、その方が死ぬほど面倒 (笑)」

高貴高齢者」 と書くようにすればいいなんて話もあるが、そんなこと、聞いてる方が恥ずかしくて、私はよう言わん。自分で思っている分にはいいけど。

自分が 「後期高齢者」 と呼ばれるようになったら、そんな呑気なことを言っていられなくなるなんて、よく言われるが、74歳の最後の日までヘラヘラ笑っていて、75歳になった途端に腹を立て始めるなんていう、その方がずっとわざとらしいというか、あざといというか、おかしいだろうよ。

常々 「ピンピンコロリ」 がいいと言いながら、「ピンピン」 だけ求めて 「コロリ」 はイヤだなんていうのは、そりゃ、わがままというものである。私は還暦のだいぶ前頃から、どんな風に死ねばいいか考えるのが習性みたいになってきていて、うまく死ぬのを楽しみにしている。まあ、実際に死ぬのは多分、ちょっと先の話だろうけど。

本当に問題にしなければならないのは、実は 「後期高齢者」 という呼称なんかではなく、「後期高齢者医療制度」 というシステム、さらにはそれを包括した医療システム全般についてである。呼称レベルでブツブツ言われるだけなら、行政としては痛くも痒くもない。

後期高齢者医療制度というシステムによって、保険金を年寄りの年金から天引きできるというのは、行政側としてはそりゃ、手間が省けていいだろうが、年寄りにしてみればむっとくるところもあるだろう。

ただ、どうせ取られるなら、後で収めるよりは天引きしてもらう方がいいという考え方もある。独立して仕事を始めると、サラリーマン時代の源泉徴収システムの方がずっと楽だったと実感するし。

それより大きな問題は、もう、誤解を恐れずに思い切って言っちゃうけど、老人医療に金をかけすぎることだ。放っておけば安らかに死ぬ人の、腕だの口だの喉だの腹だのに何本もパイプを付けて無理矢理生かし、苦痛を長引かせることに、何の意味があるだろうと、私なんかシンプルに疑問を感じる。

だから、私は死が近づいたら余計な医療はしないでくれと、妻と子どもたちに言ってある。せっかくさっさと死ねるところまで辿り着いているのに、無理に娑婆にとどめ置かれるのは金輪際ごめんである。その旨は、そのうち文書にして残そうとも思っている。

というわけで、私はいつ死ぬことになっても OK である。「死ぬのが恐い」 なんていう臆病な人が、娑婆で生き永らえることの苦痛には案外平気でいられるというのも、私には不思議でしょうがない。うんざりするほどの娑婆の長丁場にすがるよりも、死ぬ時が来たらあっさりと受け入れる方がずっと楽だろうに。

釈尊は 「仏心とは四無量心是なり」 とおおせられた。「四無量心」 とは 「慈悲喜捨」 の心であり、最後の 「捨徳」 というのは、要するに 「捨てて放つ」 ことである。こだわらないことである。こだわらなきゃ、なんでもありがたいのだよ。もちろん、「死」 でさえも。

だから、急に制度が変わって今日から 「後期高齢者」 と呼ばれることになろうと、私はちっとも構わない。むしろ、人間いつだって後期高齢者のつもりでいれば、もっといい生き方ができようというものである。

「年寄りはカッコ悪い」 と思うから、「後期高齢者」 という呼称がカッコ悪く感じるのである。むしろ 「年は取るほどカッコいい」 と思えば、「後期高齢者」 というのは頼りになる長老みたいで、なかなかいいじゃないかとさえ思える。そう思えないのは、年寄りをリスペクトしていない裏返しの証拠だ。

さらに 「末期高齢者」 なんてことになったら、もう寝たきりでオムツをしていようと、神に近い存在として崇められてもいい。死んでから急に手を合わせられても、しょうがない。

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2012/09/18

中国さん、やれやれだよ

繊維業界最大の専門紙 「繊研新聞」 からのニュースレターに、上海アパレル交易会への出展を取りやめるという記事があった。19日から 21日まで開催される交易会に 「繊研日本時装展」 を開設する予定だったが、出展者の安全を考慮し、中止するという。

こうしたビジネス関連だけではなく、観光にも影響が出ている。中国から日本を訪れる観光客は激減している模様だが、当然のごとく、日本からの中国ツアーも続々中止になっている。こんな時期に呑気に中国旅行したがる人は少ないだろう。

暴徒化するデモには、中国国内からも至極まっとうな批判が上がっているようだが、まあしばらくは極端な連中の方の力が強いだろう。あれってどうも、政治的抗議活動というよりは日頃の鬱憤晴らしみたいな感覚が強いんじゃないかと思うほどで、その証拠に、デモ隊の標的は、日本と関係ないマクドナルドやイタリア大使館にまで広がってる。

要するに、めちゃくちゃである。

はっきり言って、この騒動で一番損をしているのは他ならぬ中国なので、そのうち政府も沈静に動くだろうが、ここまで野放しにしてしまったというのは、政権内部での混乱もあるんじゃないかと疑われても仕方がない。

やれやれである。

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2012/09/17

iPhone はスマホじゃない?

先日 iPhone 5 が発表されたばかりだが、最近、スマホとタブレット端末に関する用語の混乱が気になる。混乱と言っても細かい話じゃない。まったく基本的なカテゴリーに関する話だ。

少なからぬ人が、「スマホ (スマートフォン)」 というカテゴリーに iPhone は含まれず、同様に 「タブレット」 というカテゴリーの中に iPad は含まれないと思っている。だから、「スマホ」 と言った場合には iPhone 以外のものを指し、「タブレット」 と言ったら iPad 以外のものを意味する。両方とも主として、アンドロイド端末のことを指しているようだ。

友人が最近、アンドロイドのタブレットを Docomo ショップで買ったが、この店の店員は 「iPad とタブレットは別物」 という説明をしたようで、それを真に受けた友人は、「僕も iPad を買おうかと思ってたんだけど、Docomo では扱ってなかったんで、仕方なくタブレットにしちゃった」 と言っていた。

こういう言葉の混乱は、ちょっと困りものである。案の定、彼はアンドロイド・タブレットの扱いに苦労して、何ヶ月経っても、まともに使いこなせていない。

言葉の問題に戻るが、この状況は、ちょっと前の "PC" という用語の混乱を思い出させる。その昔、少なからぬ人が、"PC" と "Mac" を別のカテゴリーとして理解していた。「PC の方が圧倒的多数派だから、Mac は買わない方が無難だよ」 なんていう言い方をよく聞いたものである。

言うまでもなく "PC" とは "Personal Computer" の略語だから、正しい理解は、「Mac は PC に含まれる」 ということだ。これらを別カテゴリーと思っている人は、Mac をパーソナルなコンピュータと思っていないんじゃないかと疑っていたが、どうやら単に、そこまで深く考えていないというだけのことのようだ。

同様に、iPhone をスマホと思わず、iPad をタブレットと思っていない人も、単に言葉の意味を深く考えていないというだけなのだろう。普通に考えれば、iPhone こそスマホの代表選手だし、iPad は一人勝ち状態のタブレットなのだが。

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2012/09/16

「コト作り」 と、それを支える 「高度なモノ作り」

シャープの経営危機が大きく伝えられるが、シャープばかりでなく、パナソニックも東芝もソニーも、悲惨な業績である。家電業界は今や、衰退産業になってしまったようで、売れる商品が見当たらない。

一般家庭でどうしても必要な家電製品というのは、冷蔵庫と洗濯機ぐらいしかないんじゃなかろうか。エアコンも欲しいという人もいるかもしれなkが、我が家なんて、昨年の震災以来、エアコンのコンセントを抜いてしまって、使ったことがない。なくても済むものである。

冷蔵庫と洗濯機以外は、エアコンを含めてどうしても必要というわけじゃない。考えてみれば、テレビもラジオも、PC やインターネット端末で代用できる。もっと突き詰めてみれば、カメラもビデオも、ラジカセもステレオも、電話も FAX もカーナビも、スマホが 1台あれば用が済んでしまう。

ちょっと前はオフィス向けの小商いで食っている印刷屋が、「近頃はみんな、ちょっとしたパンフレットやチラシ、名刺なんかは、PC を使って自前で作っちゃうから我々がもうからない」 と嘆いていたが、今は家庭でも大抵のことはスマホで済ませちゃうから、家電屋が儲からないのである。

もはや、「モノ」 を売るより 「コト」 を売る方が儲かる仕組みの世の中になってしまったようなのである。日本は 「コト作り」 と、それを保証する高度な 「モノ作り」 の分野で伸びなければ、にっちもさっちもいかなくなってしまったようなのだ。

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2012/09/15

相撲が始まってたなんて、知らなかった

ふと気付くと大相撲が始まっていて、既に中日が近いのだった。だが私の周囲では、大相撲の動向に注目している人が一人もいない。いったいどこで場所が開かれているのかも、気にする人がいない。あまりに遠い世界のできごとのようなので、九州辺りでやっているのかと思ったら、「大相撲秋場所」 と言って、両国国技館で開かれているのだった。

大相撲というのは、注目して見ていると結構おもしろいところがないわけじゃない。あの攻防はかなり理詰めなところがあって、勝負の分かれ目が明確にわかったりする。しかしどうも、今の世界のリズムに合わない。

スポーツでもないし、伝統芸能でもない。どうにも中途半端な見世物になってしまっていて、共感たっぷりに見入ってしまうということができない。財団法人相撲協会というところの運営も、どうにももっさりしていて、魅力的なコンセプトが打ち出されていない。

これでは人気が落ちるのも無理もない。今の日本で小学生にアンケートをとったら、「将来はサッカー選手になりたい」 と答える子はクラスに何人もいるだろうが、「よぉし、俺も強い相撲取りになって、一旗揚げてやろう」 なんて思う子供は、100人に 1人もいないだろう。

相撲は今、「カッコ悪い競技」 になってしまっている。相撲が強くても、女の子にモテない。だから、誰も相撲なんてしたがらない。これでは、モンゴルだのロシアだのから来た力士に席巻されるのも道理である。

実は、柔道もそんなようなところがある。日本では柔道で強くなっても、女の子にモテない。だから、柔道人口は減るばかりである。翻って、ヨーロッパでは柔道着をぶら下げて道場に通うのが、「カッコいい」 と見られるようになっている。それで、柔道人口は日本の比じゃないほど増えている。これでは、日本柔道は勝てない。

どうやら、ぼってり太って腹の出た体型の選手の方が強いという種目は、トレンドから外れているようなのだ。柔道なんか体重別の種目になっているのに、日本の選手は減量して有利な階級でやろうという発想があまりないようで、腹の出た体型の選手が多い。

さらに相撲なんか元々無差別級だから、みんなできるだけウェイトを増やそうとして食っちゃ寝ばかりするから、極端な体重の力士ばかりになってしまった。相撲の勝負なんてほとんどが数秒で終わるから、瞬間的なパワーが優先されて、持久力は軽視される。それで、あんなにアスリート体型がいない競技になってしまった。

相撲や柔道を復興させたかったら、もう少しカッコいい競技に再構築しなければならない。

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2012/09/14

韓国の 「クラウド」 という名のビル

表現の自由にはできるだけ寛容であるべきだと思っている私だが、さすがに 「これは無神経すぎるんじゃないか」 と思ってしまった。(参照

これはソウルに建設が予定されているビルの完成予想図である。設計を請け負ったのはオランダの MVRDV. という会社で、9月初旬にこの計画が発表されたとたんに、MVRDV. の Facebook ページは、抗議のコメントで炎上してしまった。

「悪趣味」 「恥知らず」 「愚か」 「アルカイダの一味」 という抗議だ。ビデオに登場するアメリカの市民たちも、「一体、どうしてそんなことをするの?」 「ぞっとする」 などとコメントしている。確かに神経が逆なでされるのもわかる。どう見ても、9・11 のワールド・トレード・センターを襲った悪夢を連想してしまうではないか。

あまりの抗議を受けて、MVRDV. の社長は、「9・11 のことは全くイメージになかったが、人々の神経を逆なでしてしまったことはお詫びする」 とのコメントを発表した。しかし、韓国の発注者が思い直さなければ、このビルは計画通りに建設されてしまうということらしい。

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2012/09/13

自宅があるから引きこもりが続く?

毎日新聞によると、自宅に放火し、全焼させたとして現住建造物等放火罪に問われた被告の動機というのが、「自宅があるから引きこもりが続く」 と考えたことだったという。自宅を焼いてしまえば、引きこもりようがなくなるというわけだ。(参照

金沢地裁で被告は起訴内容を認め、検察側が 「動機に酌量の余地はない」 とする一方、弁護側は 「自分の気持ちを制御できない状態だった」 などと訴えた。検察、弁護側ともに犯行時の被告が心神耗弱状態だったという認識では一致しているようだ。まあ、心神耗弱でもなければ、自宅に放火なんかしないだろうし。

ただ心神耗弱とはいえ、放火した時の被告の心理のベースにあったのは、どんな思いだったのだろうかと、気にかかる。大分前のことだが、我が家の近所でも、引きこもりの息子が自宅に放火したという事件があったし。

「引きこもる場所をなくして、社会に出ざるを得ない状態に身を置きたい」 という、ややポジティブに見えないこともない 「背水の陣」 志向だったのか、あるいは、「俺が引きこもってしまうのは、引きこもらせる自宅が悪いんだ」 という、「悪いのは自分じゃない」 と言わんばかりのネガティブな甘えだったのか、そのあたりがよくわからない。

あるいは心神耗弱というだけに、こうした別方向の思いがごちゃごちゃに交錯していたのかもしれない。そうだとすると、交錯した状態で自分の行動をコントロールできない状態に陥っていたのだろう。

あるいは、「悪いのは自宅だ」 というネガティブな思いが、「自宅さえなければ社会復帰できるかも」 という幻想に裏打ちされて、初めて放火するという行動が可能になったのかもしれない。

馬鹿な行動を起こすのは大抵、馬鹿げた考えの裏に一見もっともらしい理屈が寄り添った時である。もっともらしい理屈というのは、かなり危ないのだ。それは馬鹿な行動を起こすための引き金になりうる。

うつの一番ひどい時には、悶々とするだけで自殺するほど元気もないが、その状態から少し脱却しかけた時に、自殺するに足るぐらいの元気が生じて、実行してしまいやすいというのと似ているかも知れない。

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2012/09/12

自然の天気と人工のエアコンの、終わりなきミスマッチ

8月下旬の天気予報では、「この暑さは 9月の初めまで続く」 と言っていたような気がするが、9月に入ってしまうと、「10月初めまで続く」 ということになってしまった。まあ、10月まで暑いのはいつものことだが、近頃は暑さのレベルが違う。残暑なんていう生やさしいものではなく、真夏の猛暑が 10月まで持ち越す。

私は近頃では、5月半ばから 10月半ばまでの 5ヶ月間の日本は夏だと思っている。そして 11月半ばから 3月半ばまでの 4ヶ月間は冬だ。残る 3ヶ月を、春と秋とが辛うじて分け合う。その間にも桜が咲く頃に雪が降ったり、紅葉の頃に急に 30度を超したりするから、まともな春と秋は、本当につかの間だ。

20年前頃、コートを主力商品とする某大手アパレル・メーカー本社の階段には、「社員は 10月になったら、コートを着よう」 という貼り紙が何枚も貼ってあった。社員自ら 「動く広告塔」 になれというわけだ。その当時でも、10月といえばまだ暑さの残る時期だったから、「ここの社員、気の毒!」 と思ったが、今でも同じようなことを言ってるのかしらん。

今どきの東京では、10月でコートはまだ要らないが、真夏に薄手のコートが必要だったりする。それは、電車内の冷房の効き過ぎが少なくないからだ。常磐線で適度に空いた電車に乗っていると、天井から吹き付ける冷風で震えてしまうことがある。女性が薄手のコートをぶら下げているのは、この冷房対策であったかと理解される。

そして冬になると、今度は暖房が効きすぎる。鼻の頭に玉の汗をかき、頭から湯気を立てながら窓を見ると、蒸気で曇って、外の景色が全然見えないなんてことがよくある。

電車や公共施設内の冷暖房は、夏は暑がりに、冬は寒がりに合わせているんじゃないかという気がする。だから暑い夏でも安心して薄着できないし、寒い冬でも暖かすぎる格好をすると大変な目に遭う。こんなに省エネ省エネと言われても、電車内のエアコン調節はバブルの頃のままだ。

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2012/09/11

「維新の会」 を巡る冒険

衆議院解散がいつになるかもさっぱりわからないのに、世の中は既に総選挙を目指したあれやこれやで、思惑だけがどんどん先に進んでいる。実情はずっしり重くて、なかなか動きが取れないというのに。

前回の民主党大勝利の時には、「自民党はもう耐用年数がとっくに切れちゃったから」 という理由で、「それでは一度政権交代というものを実現させて、民主党にやらせてみよう」 というような、大まかな共同幻想が膨らんだのだった。あれはあれで、日本の国にとって必要な経験というものだったと思う。

この 「必要な経験」 を通して、「民主党ってのは結局、自民党の出来損ないに旧社会党の残党がひっついただけで、何も変わらないどころか、かえって悪くなってしまったじゃないか」 ということを、日本国民は学んでしまった。

一番痛恨だったのは、強くなりすぎた 「官」 の力をコントロールできると期待していたのに、結局のところは、さらに官僚にコントロールされてしまう構造に陥ってしまったことである。官僚にもっともらしい理屈で攻められると、なまじ優等生が多いものだから、あっさり丸め込まれてしまうのだね。

自民党の出来損ないが政権を担ったために、「戦後レジーム」 は何も変わらないどころか、かえって病気が重くなってしまったというわけだ。

それで、次の総選挙では自民党が政権の座に復帰することが確実視されている。ということは、今回の自民党総裁選に勝ったものは、ほぼ確実に総理大臣になれるということだ。そんなわけで今、自民党は総裁候補者が 6人も出ている。

6人も出てはいるが、国民としては 「失敗だったとはいえ、曲がりなりにも政権交代を経験したのに、またしても元の黙阿弥みたいな人では意味がない」 と思っているから、その中でも新鮮なイメージのある石破氏と石原氏の支持が比較的高い。

ただ、「比較的高い」 と言ってもそれはコップの中の嵐だから、国民としては次の総選挙で自民党に雪崩を打ったように投票するとは限らない。6人も候補者が出てしまうと、かえって付き合いきれない感じがしてしまう。

そもそも前回からの流れとして、「自民党は耐用年数切れ」 というイメージが払拭されたわけではない。自民党の出来損ないの民主党の耐用年数は、当然ながらあっという間に切れてしまったし、そのまた出来損ないの国民の生活がなんちゃらだって、既に終わってしまっている。

というわけで、「じゃあ、第三極の橋下グループか」 ということになる風向きは、かなり強いと思う。維新の会というのは、確かに戦後レジームからはずいぶんはみ出しているから、これまでのもっさりした政治手法が踏襲される可能性はとても低い。そこに期待する国民は、かなり多くなるだろう。

国民は政治にうんざりしている。しかし、それは既成政党の 「もっさり感」 にうんざりしているのであって、「しゃきしゃき感」 さえあれば、政治に目を向ける。国民って、とても単純なのであって、ということは、政治家としても単純なビジョンを強烈に打ち出せしさえすれば、支持は得られるのだ。

小泉さんが政権を取った時の 「しゃきしゃき感」 を思い出せば、それは納得されると思う。あの時 「塩じい」 こと塩川正十郎氏が、小泉さんの勝利の要因は 「モノ、はっきり言うちゅうこってすわ」 と喝破したのと同じ構造を現出すればいいのである。

ということで、橋下さんのグループは、かなりの議席を獲得するだろうと思う。だが私は個人的に、橋下さんは支持しない。昨年の 11月に 「橋下不支持宣言」 した通りである。彼の打ち出す政策には共鳴するところも少なくないが、彼の 「文化音痴」 が、私は基本的に気に入らない。

彼がリーダーなんかになってしまったら、日本は底の浅いつまらん国になってしまう。そうはさせたくない。

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2012/09/10

「絵心」 を巡る冒険

目で見たものをそのまま 「絵」 として再現できるのを、私はこれまで 「技術」 と思ってきたが、どうやらそれは違っているようなのだ。それはむしろ 「感覚の産物」 という方が近いみたいなのである。というのは、私は目で見たものをテキストとして表現することは得意だが、そのまま「絵」 として表現するのは 「下手っぴすぎる」 のである。

私は絵心がないわけでは、決してないはずだ。私のもう一つのブログ、「和歌ログ」 は毎日、和歌と写真で構成しているが、その写真は決して上手というわけではないにしろ、まったく下手というほどひどくもないと思っている。そして時々は、「この写真、なかなかいいんじゃない?」 と自分で思うほどの写真だって撮れる。

少なくとも私は、「見るセンス」 は悪くないと思うのである。美しいもの、趣のあるものを見ることはできるのだ。しかしそれを自分の手で 「画像」 に再現することが、決定的に下手なのである。

多分、絵の上手な人というのは、画用紙やキャンバスの上に、これから描く絵の原型が既に 「見えている」 んじゃないかと思う。彼らの筆は、その 「原型」 をなぞっていくのだ。しかし私が絵を描こうとすると、画用紙の上には何もない。何もないところに何かを置いていこうとするのだが、それが 「一つのまとまり」 として構成されない。

これはおそらく私の感覚の中で、「見たもの」 を 「見えた通りの画像」 として再構築する神経回路のつながりが、あまりうまくいってないからなんじゃないかと思う。以前、"「数字数式認識障害」 とでも言いたくなるほど、数字に弱いのだよ" という記事で次のように書いたことがあるが、それとちょっと関係があるような気もする。

読み上げ算が始まるとすぐに、私は一種のパニック状態に陥る。耳から入ってくる数字が、数字として聞こえないのだ。単に 「音声」 でしかないのである。「さんびゃくきゅうじゅうはちえんなり」 という 「音声」 を 「さんびゃくきゅうじゅうはち」 という 「言葉」 として確認し、それを数字の 「398」 に変換するのに、かなりうっとうしい努力と手続きが必要になる。

これが写真だと、自分の感覚の中で情報の受け渡しをする必要がなく、「私の見た一番いいアングルの記録をお任せするから、よろしくね」 と、カメラのシャッターを押すだけなので、私はそれほどヘボカメラマンということにならずに済んでいるのである。

翻って、俳句や短歌で考えてみよう。俳句や短歌の下手な人には、分かち書きをする人が多い。五・七・五、または 五・七・五・七・七 の各句をスペースで区切るのである。これに関して、「憑依系俳人」 の石原ユキオさんは、次のように指摘する。(参照

高校生の俳句を見た印象だが、上五中七下五の間にそれぞれ一字あきを入れてくる初心者は、俳句を十七音のかたまりとして捉えられてないようだった。五音、七音、五音に合わせて作文するだけで、いっぱいいっぱい。

これって、私の 「見たものを見たままに描けない」 症候群の俳句版のような気がする。心象風景をそのまま自然にテキスト化できず、他からもってきたテキトーな言葉を、つながりを意識せずにバラバラに当てはめているだけだ。こんなようなタイプの人も、言語化の不必要な絵は、とても上手に描いてしまえたりする。

それから一流の料理人 (とくに日本料理) は、大した訓練もしないのに 「描いてみたら描けちゃった」 というような感じで、絵の上手な人が多いという印象がある。彼らは料理という職人的仕事の過程で、絵心とか視覚的表現力とかいうものがものすごく鍛えられたんじゃないかと思う。

というわけで、私は料理は下手じゃないが、盛りつけが下手なので損をしている。どうも芸術センスにおいては、言語センスと画像センスというのはかなり別物のようなのである。さらにまた、音楽センスとか演技センスとかいうのもあるようで、かなり複雑だ。

私は言語センス、音楽センス、演技センスにかけては人並み以上と自認しているが、画像センスに関しては、ものすごく問題ありのようで、それって実は、数字センスと関係ありなんじゃないかという気がしている。数学って、とても美的な世界のようだし。

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2012/09/09

音声認識の私的状況

iPhone や iPad では既に音声認識システムが採用されている。iPhone 4S では Siri が搭載されて、今では日本語で話しかければ iPhone がそれに応えてくれるまでになっている。私の手持ちはその一世代前の iPhone 4 なので、Siri は利用できないが、音声認識システムを使うことはかなりの高レベルでできる。

例えば Google アプリでは、キーワード入力を音声で行える。また、「音声認識メール クラウド」 という、わずか 85円の有料アプリでは、iPhone に向かってしゃべった内容が即座にテキストとして表示される。例えば 「来週の水曜日、渋谷で待ち合せ」 と語りかけて Calender と連動させれば、その予定がスケジュールとして入力される。

この音声認識の精度はかなりのもので、少なくとも私の場合は、別に意識してはっきりとした口跡にしなくても、ごく普通に語りかければ、よほどのことがない限り、きちんと認識してくれる。なかなかのスグレモノなのである。

ところが、せっかくのこの優れたシステムを実際に利用するという場面には、なかなか恵まれないのである。電車内やコーヒーショップで、iPhone に向かって語りかけるというのは、よほどのあつかましさがなければできない。多くの人がいるオフィスでも、急になにやらブツブツとしゃべり始めるというのは、はばかられる。

出張先のビジネスホテルなら、他に誰もいないので OK のはずだが、それでもつい慣れで、指先で仮想キーボードを叩いてしまい、「あ、そういえば、音声認識もできるんだった」 と、後で気付いたりする。

私の場合、せっかくの優れた機能も宝の持ち腐れ状態だが、本当に音声認識をフルに利用したいケースがある。それは運転中のカーナビ操作だ。

私の車のカーナビはパイオニア製の純正品で、音声認識機能付きである。ところが、ちょっと古いせいもあって、認識の精度が悲しくなるほど低い。「お出かけ」 というボタンを押すと、「どちらへお出かけですか?」 と、カーナビが聞いてくるのだが、かなり意識してはっきりとした音声で答えても、まともな認識をしてくれることはまずない。

例えば 「早稲田大学」 と言うと、「波照間飛行場」 なんていうとんでもない認識をしてくれる。それだけではない。「集英社」 と言うと 「首里城」 と受け取られ、「戸隠神社」 と言うと 「諏訪之瀬島」 と返される。このカーナビは、私をよほど南の島に連れて行きたいみたいなのである。

運転中のカーナビほど、しっかりと音声認識をしてくれることを望むものはないのだが、残念ながら使い物にならないのである。私のカーナビが iPhone ぐらいに気の利いた音声認識をしてくれたら、本当に楽なのだが。

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2012/09/08

au ショップでは店員の口車に乗るなというマジな話

先日、父の一周忌 (約 1ヶ月前倒しで実施) で帰郷したら、つい最近まで au のガラケーユーザーだった妹が、アンドロイド・スマホに機種変更していた。妹一家は今どき珍しいほどデジタル機器との親和性が低くて、家に PC が 1台もなく、つい最近までデジカメも持っていなかったというぐらいなので、ちょっと驚いた。

IT 機器の使い方に慣れていないのに、急にスマホなんか持ってしまった妹は、扱いにとても苦労している。メールに写真を貼付して送るだけで、四苦八苦の状態だ。「前のケータイでできてたことが急にできなくなって、大変なんだよね」 と、こぼすのである。

私の周囲には、機種変更しに行ったら店の人に勧められたのでアンドロイド・スマホを買ったが、使い方がよくわからなくて苦労しているという中年以降の女性が少なくない。そして他ならぬ妹まで、その一人になってしまったというわけだ。

「au ユーザーだったら、iPhone にしとけば、そんなに苦労しないで済んだのに、どうしてよりによってアンドロイドなんか選んだの?」 と聞くと、店で勧められたからだという。

「店の人が言うには、iPhone は操作が難しいから、こっちの方がいいって」

「はあ? とんでもない、まったく逆だよ。パソコン操作が難なくこなせるような人なら、アンドロイド・スマホがいいかもしれないけど、スマホ初心者には iPhone の方が無難だって、そりゃもう、10人中、少なくとも 8人以上は同じことを言うよ。操作がシンプルで直観的だから、どうみてもアンドロイドより楽に使える」

「あぁん、お店の人にだまされちゃったのかなあ」

というわけで、私は 「iPhone は操作が難しいから、アンドロイドがオススメ」 なんて無茶苦茶なことを言う au 店員が存在するという、信じられない事実を知って、ちょっと唖然としてしまったのである。相手が何も知らないと思って、よくまあ、そんなデタラメを言うものだ。

いろいろ情報を集めてみると、どうやら au はせっかく販売権を獲得した iPhone を、本気で売る気がないようなのである。というか、iPhone ではなくアンドロイドの方を売りたい姿勢がミエミエなのだ。「iPhone を買うなら、ソフトバンクの方がいいですよ」 なんて、率直すぎることを言う au の店員がいくらでもいるというぐらいだ (参照)。

確かに au のショップをみると、完全に iPhone 以外のスマホを前面に出しているし、iPhone を買いに行っても、アンドロイド・スマホばかり勧められるらしい。iPhone は PC と連動しないと使えないから難しいとか、住所録の同期ができないとか、動作が遅いとか、いろいろ嘘っぱちを並べ立てて、アンドロイドを買わそうとするのだそうだ。

これらは単なるウワサではなく、私の妹が身を以て経験した事実である。客の利益というより、店の都合なのだろうとしか思われないお話だ。多分、店側が iPhone の取り扱いに慣れていない上に、アンドロイドを売る方がショップの利益率が高いシステムになっているのだろう。

自分で判断してアンドロイドを選択するというユーザーなら何の問題もないが、漫然と機種変更しに行って、何もわからないままアンドロイドを押しつけられるというのは、あまりと言えばあんまりである。本来はそうした 「漫然派」 ほど、アンドロイドよりは iPhone の方が親しみやすいはずなのに。

というわけで、ここでは au ユーザーが機種変更したい時には、店員のデタラメ情報に振り回されないように用心しなければならないと、やんわりとだが、とてもマジに呼びかけておくことにしよう。

一時は SMB 版 iPhone から電波状態のいい au 版に乗り換えようかとも思っていた私だが、今となっては 2年縛りが解けても SMB 版のままでいる方が、相対的に安心できそうな気がしている。

【補足情報として、以下を参照】

iPhone売る気ゼロ?auショップの悲しい現状

「auショップ」はiPhone 売る気あるのか 店内にポスターやポップすらない

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2012/09/07

「ロゼット洗顔パスタ」 と 「スパゲティ」 の怪しい関係

本当にいくつになっても知らないことってあるもので、何と還暦になってようやく、「パスタ」 と 「麺類」 はイコールじゃないということを明確に認識した。

「明確に」 と言ったのにはわけがあって、前から 「薄々と」 は気付いていたのである。「パスタ」 という範疇には、スパゲティだけではなく、マカロニやラザニアなど、日本人が考える麺類とはちょっと違った形状の食物が含まれる。英語の 「ヌードル (noodle)」 は、日本人の考える 「麺類」 と大体重なるが、「パスタ」 となるとはみ出す部分が大きい。

こうした 「薄々気付いていた認識」 に急にこだわって、にわかにちゃんと調べてみる気になったのは、我が家の浴室に 「ロゼット 洗顔パスタ」 なるものがあることに気付いたのがきっかけだ。これはかなり昔からある製品で、「黒子さん白子さんのおしゃれ問答」 なんていう漫画形式の宣伝が懐かしい。

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久しぶりでこの製品を目にして私は、「洗顔パスタ? 洗顔麺類? いや、やっぱり 『パスタ』 は 『麺類』 ってわけじゃないんだよな」 と、心の中でつぶやいた。

思い返してみれば、昔は 「洗顔パスタ」 と言われても、スパゲティを連想して 「どうして洗顔クリームが麺類なの?」 なんて不思議がる前提条件がなかった。日本人がスパゲティなどを 「パスタ」 と呼ぶようになったのはつい最近のこと (多分、1980年代以後) なのである。

Wikipedia の 「パスタ」 の項で調べてみると、「パスタ」 というイタリア語は、英語の paste (ペースト) やフランス語の pâté (パテ) と語源が同じで、俗ラテン語の pasta (生地、練りもの) に由来する言葉なのだとわかった。なんだ、元々の意味は 「練りもの」 だったのか。

なるほど、「洗顔パスタ」 は 「洗顔ペースト」 ということだったのね。歯磨きのことを 「トゥースペースト (toothpaste)」 というのと同じようなものだ。

それが今や、日本では 「パスタ」 といえば 「麺類」 のことと思われてしまうまでに、カタカナ言葉として普及してしまったのは、やはり 「パスタ」 の代表選手が 「スパゲティ」 ということによるのだろう。そして スパゲティが主に乾麺の形で流通しているので、ますます 「練りもの」 というイメージが遠のいてしまったわけだ。

ちなみに、乾麺でない手打ちのスパゲティなどは、"pasta fresca" というのだそうだ (参照)。これなんか、英語なら "fresh paste" なのだろうということぐらい、調べなくてもわかる。この辺りは庄内弁と鹿児島弁より近しいぐらいで、欧米のバイリンガルなんて、楽なものだ。

いずれにしても、スパゲティなどを 「パスタ」 と言うようになる前の日本では、「パスタ」 といえば 「練りもの、軟膏」 のイメージの方が強かったのだね。

ちなみにイタリア語の 「スパゲティ」 は、「ひも」 の意味の "spago" から来ていて、細ひもになると "spaghetto" (小さな星とか、スターになる直前の新進女優を "starlet" というみたいなものね)。その複数形が "spaghetti" なんだそうだ。

以上、本日のまとめは、「パスタ」 は 「練りもの」 で、「スパゲティ」 は 「細ひも」 であるということ。

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2012/09/06

Apple 的世界の居心地のよさ

TechBargains.com が 1,300人以上を対象にして調査した結果によると、アップルの iPhone 5 が販売されたら、Android ユーザーの 20%以上が、iPhone に乗り換えると回答したという。Brackberry ユーザーに至っては、38%が乗り換える意向を表明した (参照)。 iPhone 5 は、Android ユーザーの多くを奪いそうな勢いである。

さらに iPhone 4 ユーザーの 74%、iPhone 4S ユーザーの 64%も切り替えると答えているので、iPhone 5 はかなりのヒット商品になりそうだ。かくいう私も、今使っている iPhone 4 の 2年縛りが 11月に解けるので、その頃には切り替えることになりそうだ。

タブレット分野では iPad の一人勝ち状態だし、iPhone、iPad は、今後も好調を維持し続けそうな勢いである。それだけでなく、PC の分野でも Mac ユーザーが増えてきているような気がする。

駅や空港、コーヒーショップなどで、最近 Mac Book を開いている人の数が増えている。統計としてみれば、Windows PC と比べるのもおこがましいほどのシェアのはずだが、印象としては、本当に Mac ユーザーが増えていると思う。

最近知り合った若手企業経営者は、いつも MacBook Air を持ち歩いていて、「もちろん偏見だと思うけど、Windows ユーザーを見ると、『こいつとお酒飲んでもつまらなそうだな』 と思うし、Mac ユーザーとは初めから気が合いそうに思ってしまう」 と言っていた。なんとなくわかるような気がする。

私自身も、iPad と iPhone を使い倒していると、Apple の世界の方が居心地がよく感じられて、PC を次に買い換える時は Mac にしようと思っている。

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2012/09/05

いやはや疲れた

ざっと思い返してみると、7月初旬から旅から旅への旅烏で、自宅で寝たのは半分ぐらいじゃないかという気がする。8月初旬からはその傾向が強まって、自宅で寝たのは 3分の 1 ぐらいだ。

とくに 8月末からは北海道の小樽に行って、戻ったらすぐに九州・熊本。さらに父の一周忌のために車で帰郷して戻ってきたので、恐縮ながらクタクタだ。若い頃はどんなに疲れても一晩寝れば回復していたが、さすがに還暦ともなると、一晩では生き返らない。なんだか、久しぶりに体の芯からぐったり疲れた気がする。

ところが、いくら疲れてもスケジュールはどんどん迫ってきて、休んでいるわけにいかない。今月中旬はまた九州に行かなければならない。その前にこなすことが目白押しだ。

忙しいことはありがたいことだが、2~3日でいいから、ぼうっとして暮らしたいなあ。

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2012/09/04

父の一周忌法要を終えて帰宅

父の一周忌法要を終えて、500km の道のりを辿り、日付の変わる前に帰宅した。

酒田はずっと雨が降っておらず、異常なほどの暑さだったが、今日の 4時過ぎ、帰る直前から雨が降り出した。恵みの雨である。これで少しは地面が冷やされて、気の遠くなるような暑さが和らぐだろう。

つくばの里は、雨が上がって静かな夜である。虫が平和に鳴いている。今夜はゆっくり休もう。

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2012/09/03

文鮮明死去で思い出したこと

つい最近、我が家のドアがノックされたので出てみると、近所のおっさんが訪ねてきていた。何の用かと思ったら、何やら本を取り出し、「これ、読みませんか?」 と言うのである。「これ、送られてきたんだけど、私は既に持ってるんでね」

何の本かと思ったら、文鮮明の著作である。タイトルはもちろん忘れた。「へえ、このおっさん、統一教会と関係ある人だったのか」 と、その時初めて知った。そんな感じには見えなかったんだけどなあ。

「せっかくですけど、その手の本は読まないので……」 と丁重にお断りしてお引き取り願ったのだが、その 2~3日後に、文鮮明死去のニュースが報じられて、少し驚いた。教祖の命が危なくなったあたりから、著書の大処分が始まったんだろうか。

いずれにせよ、統一教会はカリスマ教祖を失って、迷走を始めることになるだろう。後継者争いから分裂が繰り返されるかもしれない。下手に分裂されてしまうと、監視が難しくなって、またぞろ変な事件が起きないとも限らない。うっとうしいことである。

もう 20年以上も前のことだが、我が家になにやら怪しい壺の押し売りがきたことがある。話を聞くと、どうやら統一教会関連の臭いがプンプンする。「そんなもの要らない」 と断ると、「買ってもらうまでは帰れない」 と言う。立派な押し売りである。

こちらはそんなのにまともに取り合うつもりは一切ないから、「あっそう、帰れないなら、いつまでもそこにいていいよ。ただし何もおもてなしはできないけどね。それから、ウチの物に手を付けたら、ただじゃおかないよ。半殺しにするからね」 と脅かして放っておいた。

頼りなさげな押し売り君は、この放置プレイに 10分ぐらい耐えたようだがそれ以上はもたず、すごすごと立ち去った。彼は今頃、いいオッサンになってるだろうが、一体何をしてるだろうか。

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2012/09/02

東京でゲリラ豪雨があったなんて、知らなかった

昨日は午後 3時まで水戸で会議に出席し、その後に羽田に直行して、日が暮れてからのフライトで熊本に行き、今日の夕方に戻ってきた。昨日の夕暮れの東京の空模様を見て、「いつ雨が降ってもおかしくないな」 と思っていたが、実は雨が降ってしまった後の空だったようだ。

東京のゲリラ豪雨の時には、熊本行きのフライトに間に合うように、水戸から高速道をひた走っていたので、そんなことになっていたとは、ちっとも知らなかった。雨は今日も降ったようで、夕方 4時半に羽田に着陸した時には、あちこちに水溜まりができていた。

常磐線で帰ってくる時も、千葉県内は所々大雨で、取手駅に着いた時も小雨が残っていた。道路はあちこちに水溜まりが残って、街灯を反射して光っていた。一昨日まではあんなに日照りが続いていたのに、降るとなるとゲリラ豪雨になる。最近の極端な天気を象徴しているようだ。

帰宅してこのブログを更新しようと、PC を立ち上げてみると、ネットの世界ではスカイツリーから見たゲリラ豪雨というのが話題になっていた。確かにすごい。雨のぶっとい柱が立っているようだ。(参照

実は、こんなような雨の柱を、今日帰ってくる時に私も飛行機の中から見た。四国を越えた辺りから高く湧き上がった入道雲が多くなり、紀伊半島、知多半島を越えると、所々が分厚い雲に覆われるようになった。

静岡県か神奈川県の辺りだろうか。トルネードの季節のアメリカ中西部を越える時にしか見たことのないような、ものすごく高いモンスターのような入道雲が飛行機のすぐそばに立ち上がっていて、度肝を抜かれた。あまりに見事な雲だったので写真に撮っておいた。

Img_6367

写真の右側奥に見えるのが、いわゆる普通の入道雲である。それらと比べても、この入道雲のスケールがわかる。この雲の切れた辺りにもまた分厚い雲があり、その下が、まさに雨の柱のようになっていた。その雨の柱をちょっと越えた雲の端が虹色に光っている。なんとも不思議な光景だった。

いずれにしても、今年の天気はまたまたすごい。

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2012/09/01

熊本は案外涼しいじゃないか

熊本に着いた。東京を発つ前に空を見ると、結構な入道雲がわらわらと湧いていたので、「これはかなり揺れるかもしれん」と覚悟していたのだが、やっぱり揺れた。ガタガタ揺れた。

揺れはしたものの、定刻より少し早めに熊本空港に到着。降りてみると、なんだか関東より涼しい気がする。一昨日までいた小樽がめちゃくちゃ暑かったので、熊本はどんなに暑いだろうと覚悟していたが、こちらの覚悟はあっさりと裏切られた。

はてさて、日本の天気は一体どうなっているんだろう。さすがに疲れたので、今日はこの辺で失礼。

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