« 音声認識の私的状況 | トップページ | 「維新の会」 を巡る冒険 »

2012/09/10

「絵心」 を巡る冒険

目で見たものをそのまま 「絵」 として再現できるのを、私はこれまで 「技術」 と思ってきたが、どうやらそれは違っているようなのだ。それはむしろ 「感覚の産物」 という方が近いみたいなのである。というのは、私は目で見たものをテキストとして表現することは得意だが、そのまま「絵」 として表現するのは 「下手っぴすぎる」 のである。

私は絵心がないわけでは、決してないはずだ。私のもう一つのブログ、「和歌ログ」 は毎日、和歌と写真で構成しているが、その写真は決して上手というわけではないにしろ、まったく下手というほどひどくもないと思っている。そして時々は、「この写真、なかなかいいんじゃない?」 と自分で思うほどの写真だって撮れる。

少なくとも私は、「見るセンス」 は悪くないと思うのである。美しいもの、趣のあるものを見ることはできるのだ。しかしそれを自分の手で 「画像」 に再現することが、決定的に下手なのである。

多分、絵の上手な人というのは、画用紙やキャンバスの上に、これから描く絵の原型が既に 「見えている」 んじゃないかと思う。彼らの筆は、その 「原型」 をなぞっていくのだ。しかし私が絵を描こうとすると、画用紙の上には何もない。何もないところに何かを置いていこうとするのだが、それが 「一つのまとまり」 として構成されない。

これはおそらく私の感覚の中で、「見たもの」 を 「見えた通りの画像」 として再構築する神経回路のつながりが、あまりうまくいってないからなんじゃないかと思う。以前、"「数字数式認識障害」 とでも言いたくなるほど、数字に弱いのだよ" という記事で次のように書いたことがあるが、それとちょっと関係があるような気もする。

読み上げ算が始まるとすぐに、私は一種のパニック状態に陥る。耳から入ってくる数字が、数字として聞こえないのだ。単に 「音声」 でしかないのである。「さんびゃくきゅうじゅうはちえんなり」 という 「音声」 を 「さんびゃくきゅうじゅうはち」 という 「言葉」 として確認し、それを数字の 「398」 に変換するのに、かなりうっとうしい努力と手続きが必要になる。

これが写真だと、自分の感覚の中で情報の受け渡しをする必要がなく、「私の見た一番いいアングルの記録をお任せするから、よろしくね」 と、カメラのシャッターを押すだけなので、私はそれほどヘボカメラマンということにならずに済んでいるのである。

翻って、俳句や短歌で考えてみよう。俳句や短歌の下手な人には、分かち書きをする人が多い。五・七・五、または 五・七・五・七・七 の各句をスペースで区切るのである。これに関して、「憑依系俳人」 の石原ユキオさんは、次のように指摘する。(参照

高校生の俳句を見た印象だが、上五中七下五の間にそれぞれ一字あきを入れてくる初心者は、俳句を十七音のかたまりとして捉えられてないようだった。五音、七音、五音に合わせて作文するだけで、いっぱいいっぱい。

これって、私の 「見たものを見たままに描けない」 症候群の俳句版のような気がする。心象風景をそのまま自然にテキスト化できず、他からもってきたテキトーな言葉を、つながりを意識せずにバラバラに当てはめているだけだ。こんなようなタイプの人も、言語化の不必要な絵は、とても上手に描いてしまえたりする。

それから一流の料理人 (とくに日本料理) は、大した訓練もしないのに 「描いてみたら描けちゃった」 というような感じで、絵の上手な人が多いという印象がある。彼らは料理という職人的仕事の過程で、絵心とか視覚的表現力とかいうものがものすごく鍛えられたんじゃないかと思う。

というわけで、私は料理は下手じゃないが、盛りつけが下手なので損をしている。どうも芸術センスにおいては、言語センスと画像センスというのはかなり別物のようなのである。さらにまた、音楽センスとか演技センスとかいうのもあるようで、かなり複雑だ。

私は言語センス、音楽センス、演技センスにかけては人並み以上と自認しているが、画像センスに関しては、ものすごく問題ありのようで、それって実は、数字センスと関係ありなんじゃないかという気がしている。数学って、とても美的な世界のようだし。

|

« 音声認識の私的状況 | トップページ | 「維新の会」 を巡る冒険 »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

盛りつけ方がヘタっぴというのは、ただ要所をしらないだけなのではないかと、
要所は、型。茶道でいうお手前の型。

と思いつつも私は味付けも盛るのもイマイチです。
たまに手順どおりに添っているときはそれなりになります。

私は絵は好きですけど、作成する上で、どう対象物の構造がなっているのかイマイチ。書いているのをズーっと見る方が好きです。

絵ができる人はこんな色よく出せたとか。このタッチの表し方は!などと思われるのでしょうね。わたしにはさっぱり!
ジーとみていたら違いを見分けられるようになるのは分かりました。それも私はさっぱりです。絵の勉強したらわかるのかな。

適当にあしらって形になればうれしいと思います。
・・センスないのでしょうね^o^

投稿: BEKAO | 2012/09/14 12:51

BEKAO さん:

>盛りつけ方がヘタっぴというのは、ただ要所をしらないだけなのではないかと、

>ジーとみていたら違いを見分けられるようになるのは分かりました。それも私はさっぱりです。

この 2点の指摘は矛盾しますね。

ただ知らなかっただけという 「要所」 を、知っても (つまり見分けられるようになっても)、「さっぱり」 なのを、どう解決しますか?

投稿: tak | 2012/09/18 23:33

頭を整理しておきます。明日9/20返答します。

投稿: BEKAO | 2012/09/19 17:36

◎盛りつけ方がヘタっぴというのは、ただ要所をしらないだけについては、
要所とは、大まかな型を知ってっていればこれでとりあえずみんなに受け入れてもらえる、
受けがいいもの。
例を挙げるなら、
こんな態度をとったらみんなの反応がよかった。笑ってくれた。(時代で変わっていきますけど)
お茶道でいういならお手前の型(ひつこいですが・・)。
品物で言うなら模倣品(はやり)。

模倣したものが細部までこだわったりして、
見事なものになったとしたらそれは芸術の域に達しているということになる。
建築家の人が言った言葉の通りですネ。

真似とかも細部まで埋めたらそれを達人の域で、
倣品が細部にこだわってしまったら品物として差がでてくるけど
ブランドの名を借りて売るにはコストを考慮に入れなければならず、
釣り合わなくなるから見分けがつく。

◎ジーとみていたら違いを見分けられるようになるのは、
表現が難しいというのが知識としてあれば、
他のと見比べて、見比べた基準(本物)となるものがすばらしいと感じれば、
おおやはりか!と
またそいう難しいことができるのは、ある域に達した限られた人にしかできないと思うので
それが差となる。

わたしはにただ絵としてとらえていて、
興味の対象でないからさっぱりなだけで
芸術を楽しむように意識を向けたら、
かなり文句をいいそうです。

色の調和いけてない!細部までこだわっていない!気が抜けている!構図がおかしい!
筋肉の動きおかしい!影の付け方がなってない!とか
私の趣味にあわない!とか

絵を書くのを見るのが好きなのは、どういった表現をするのだろうとわくわくできるからです。人間観察が好きなのです。

もし答えられていなければきちんと改めなおします。

普段の私の思考の形態になっていますがご考慮を・・

投稿: BEKAO | 2012/09/20 18:29

BEKAO さん:

「型」を頭で知っていても、それを自分で実行できるかどうかは別です。それが本当に身に付いて、つまり、頭で知っている「型」を、体が自然に実行できるようになって、初めて「型」を理解したということになります。

頭の中の理想型と表現された作品の間には常にギャップがありますが、そのギャップがお話にならないぐらいに大きいのは、やはり理由があります。

例えば、体操競技の「3回転半1ひねり」とかいう「型」を、頭では知っていても、たいていの人は実行できませんよね。

体操競技なら「それも当然」と思われますが、絵や茶道や料理の盛りつけでも、それと同様の構図があるんです。

知っていても、どうしてもうまくできないことって、あるんです。

逆に言えば、頭で理解したことをきちんと実行・表現できる人というのは、素晴らしいのです。

よく「彼は野球センスがある」とか「サッカーセンスがある」とかいいますが、世の中には野球センスとかサッカーセンスとかのない人の方が多いので、そういう表現が成立するんです。

で、人はそれぞれ、ある特定の分野で「いいセンス」を発揮できるものです。それだからいいんです。誰でもおしなべてすべての分野で「いいセンス」を発揮できるんだったら、そんなのつまらないと思いませんか?

だから、「型」を知ればいいとか、人の真似をして手法を学べばいいとかいう問題ではありません。それができるのは、その分野で「いいセンス」のある人です。

それができない人が多いから、世の中はおもしろいんです。

もしかしたら、どんなにセンスのない人でも、ものすごい時間をかけて精進すれば、まるでリハビリテーションのように、生来のセンスのなさを補って、一定のレベルに到達できるのかもしれません。

しかし人生は限られた時間ですので、よほど特殊な事情(どうしても代々の家業を継がなければならないとか)がない限り、そんなことをするよりは、本当に自分に向いた分野で努力する方がいいというのは、言うまでもありません。

それだけのことです。

ですから、こんなことで必要以上に深く考える必要はないんじゃないですか?

もう、この辺で打ち切りましょう。

「○○センスのあるなし」に関する詳細に関しては、脳科学者にでも任せましょう。そこにはきっと、神経回路の微妙な問題があるのだと思います。

自分に向いた分野で、楽しんで努力すればいいというだけのことでしょう。

投稿: tak | 2012/09/21 09:10

そうですね(^^)~わかりました。

投稿: BEKAO | 2012/09/21 12:41

訂正
ね。でなくか。だ!

そうですか。わかりました。

柔らかいいい回しをいつものごとく好んでしまいましたので、私の気持を表しているのは『か』です!

投稿: BEKAO | 2012/09/21 12:56

BEKAO さん:

「そうですか。多少のモヤモヤは残りますが、それなら、そういうことにしといいたるわ」 ってことですね (^o^)

投稿: tak | 2012/09/21 23:34

まぁ、そうです。
言葉にたけているだけあって、さすがですね(^v^;

投稿: BEKAO | 2012/09/25 12:14

BEKAO さん:

言葉に関する神経回路の問題というのも、多分あるんです。

投稿: tak | 2012/09/26 10:51

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/42004/55624067

この記事へのトラックバック一覧です: 「絵心」 を巡る冒険:

« 音声認識の私的状況 | トップページ | 「維新の会」 を巡る冒険 »