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2013年2月に作成された投稿

2013/02/28

人に薦めるのは iPhone だけど、Android が主流になるだろうなと

ジャストシステムの運営するアンケートサービス Fastask が、スマホの OS である iOS と Android の両方を経験したユーザーの実感調査によると、多くの人は 「人に薦めるなら iOS (つまり iPhone) だが、今後主流になるのは、Android だろう」 と考えているらしい (参照)。私の考えも、まったく同様である。

この調査では、人から相談を受けた場合に、iOS と Android のどちらを勧めるかという質問に、78.5% が iOS を薦めると回答した。これはとりもなおさず、「圧倒的多数」 といっていい数字である。しかし今後のスマホの主流 OS はどちらになるかとの質問には、55.0%の人が Android と回答した。このねじれ現象は興味深い。

ちなみに、かくいう私も 「iOS と Android の両方を経験したユーザーの一人」 である。圧倒的メインに使っているのは iPhone だが、忘れちゃいけない、私は E-mobile の Pocket Wifi (S31HW) を使っていて、これはモバイル・ルーターであると同時に、れっきとした Android スマホでもあるのだ。

これを購入した時は、「iPhone がトラブッた時には、予備のスマホとして使えるからいいかも」 なんて思っていたが、スマホとしてのできは、iPhone と比べるのが申し訳ないほどのもので、まともに使おうとは到底思えなかった。幸いにも iPhone はそんなに簡単にはトラブらないし。

Pocket Wifi のスマホとしてのできはさんざんだが、ソフトウェアである OS としてはどうかといっても、私の印象ではやっぱり iOS の方がずっと使いやすい。

デジタル・デバイスに関してはかなりの使い手であるはずの私が、Android スマホでは時々戸惑うのである。iPhone なら直観でいじくっても全然問題なく、つまりほとんど直観通りの操作ができるが、Android スマホは、かなり直観を裏切るという印象なのだ。

こんなのを年寄りにもたせたら、きっとお手上げだろう。多くの Android ユーザーが、「親に持たすなら、iPhone の一択」 というのも道理である。

しかしながら、主流となるのはどちらかと聞かれたら、私も Android だろうと答える。ハードウェアが Apple 1社からしか提供されない iPhone と、あちこちのメーカーが競っていろいろなデバイスを作っている Android では、そりゃ、勝負は目に見えている。PC 市場で Windows が主流で、Mac はユニークな地位を占める少数派であるのと同じ構図になるだろう。

それに、電車に乗ってスマホをいじっている連中のほとんどが iPhone だったりしたら、私はなんとなく居心地悪くなってしまう。将来的には、iPhone のシェアはせいぜい 2割ぐらいになる方が、「しかるべし」 と思えるだろう。私は少数派の心地よさを選んでしまうタイプなのである。

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2013/02/27

デジタル・デバイスに親和性のない人

私はこれまで、何年 PC を使おうとしても使いこなせないでいる高齢者には、iPad に乗り換えることを勧めてきた。しかしそれは、半分は間違いだったかもしれない。

「失礼ながら率直なところ、あなたにとって PC は荷が重すぎるようです。これからの残り少ない人生を、『PC が使えない』 と嘆いてストレスに満ちたものにするぐらいなら、PC なんてもうすっぱりと諦めた方がいいです。そして iPad に乗り換えなさい」 と、私は勧めてきたのである。

ところが、PC から iPad に乗り換えて、ルンルンで使いこなしている人もいれば、「せっかく PC に慣れかかったところなので、iPad にはとまどってしまう。それで、相変わらず PC を使っている」 と言う人もいる。

こちらは 「3年も 5年もかかって、ちっとも PC に慣れたようには見えないから iPad を勧めているのに、まだ PC にこだわっているのか」 と呆れてしまうが、当人にとっては、新しいデバイスに挑戦するよりは 「使い慣れた (と当人が主張する) PC」 の方がまだ安心するようなのだ。

F 氏は一応 Facebook を使っている。そしてメモリが決定的に足りない古い  PC (OS は Windows XP)で、起動させてから Facebook にアクセするのに 5分以上もかけている。そしてニュースフィードを眺めて、時々 「いいね」 をクリックするだけだ。

その程度のことしかしないなら、PC どころか iPad でもオーバースペックすぎるぐらいだ。それで私は、彼が買った真新しい iPad の設定を頼まれた時に、Facebook アプリをインストールして、アイコンにタッチすればすぐにでも始められるようにしておいた。

しかし彼は、その Facebook アイコンをタッチするという発想すらないようで、相変わらず PC で苦労している。「なんで iPad でやらないの?」 と聞くと、「iPad で Facebook ができるの?」 と驚く。

「iPad の一番目立つ上の方に、Facebook アプリのアイコンを置いてあげたでしょ。それをタッチしさえすれば、一瞬で始められるのに」

「ふぅん、でも、せっかく PC で慣れてきたから、PC でやるわ」

信じられない反応だが、これでわかった。デジタル・デバイスに親和性のないタイプの人間のメンタリティがわかった。

彼らは、「PC で (あるいは iPad で)、そんなこともできるの?」 と驚く。あれだけ 「あなたがしようと思うような作業で、PC でできないことなんてないから。iPad だって、それ以上のことを簡単にできるし」 と言っても、現実のこととして理解できていない。

「たいてい何でもできるんです。『このくらいのことが、できないはずがないから、そのためのメニューを出してみよう』 と思いさえすれば、それだけで、半分以上はできてるんです」 と言っても、その 「できること」 の具体的イメージが湧いていなければ、ググって調べることもできない。

要するに 「やりたいことを楽してさっさと仕上げるために、最初だけちょっと苦労して、楽なやり方を確かめてみよう」 という発想が、彼らにはない。

「最初のちょっとした苦労」 にチャレンジする好奇心がないと、デジタル・デバイスは使いこなせない。「好奇心」 というのは、iPad のデスクトップに並んだアイコンは、一通りとりあえず触れてみて、何が出てくるか確かめてみるという程度の、ちょっとした好奇心である。

当たり前すぎる結論だが、これに尽きると思う。

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2013/02/26

日本酒の表示

日本経済新聞の 「純米酒に醸造アルコール混入 大阪の浪花酒造」 という記事によると、大阪の浪花酒造は、純米酒の味の調整のためにブレンドする古酒が足りなくなった際に、古酒の替りに醸造アルコールを混ぜたほか、純米大吟醸が品切れになった際に、安価な吟醸酒に純米大吟醸のラベルを貼って販売したのがバレてしまった。

これは高級酒の需要に生産が追いつかなくなったことによるものだろう。できなかったら売らなきゃいいだけの話なのに、流通させる数量が予め決められているので、無理矢理に帳尻を合わせなければならなくなった。欲をかいて無理な生産・販売計画を立てるから、こんなことになる。

この記事を読んで 「これじゃ、中国を笑えないな」 と思うと同時に、「やっぱり、そういうことってあるんだな」 と、妙に納得してしまった。ゴキブリが 1匹いたら 100匹いると思えというが、同様のことはおそらく他の酒造でも行われているんだろうと思う。

これまでも、「純米吟醸」 というラベルの貼ってある酒を飲んで、「純米吟醸にこんな雑味があるわけなかろうよ」 と思ったことが何度もある。さらに恐縮だが、瓶ではなくパック (牛乳パックの大きなやつ) で売られている酒のかなりの部分は、「純米酒」 と書いてあってもあまり信じない方がいいと、個人的には思っている。

統計をみると流通における国産ウナギのシェアは圧倒的に小さくてたったの 2割ぐらいしかないはずなのに、スーパーでウナギの蒲焼の売り場を見ると 「国産」 ばっかりなのに笑ってしまうが、それと似たようなものだ。ただでさえ生産の少ない純米酒が、パック入りで大量に店頭に並ぶかなあ。まあ、私が疑り深いだけなのかもしれないが。

報道によると浪花酒造の成子和弘社長は 「味がほとんど変わらないので、その場しのぎでやってしまった。反省している」 と話しているというが、それは消費者を見くびりすぎた発言だと思う。わかる人にはわかるよ。

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2013/02/25

世の中の 「酒離れ」 の最先端を走る

先日、4泊 5日で関西に出張した。最近は長くても 2泊 3日の出張が多かったから、個人的には久しぶりの長旅である。初日は 3時過ぎの新幹線で東京駅を出発し、日が暮れてから大阪梅田のホテルに入る。

出張中は車で帰宅する必要もないので、寝る前にお酒の 1本も飲みたくなるだろうからと、ホテルに入る前に、コンビニで缶チューハイを 1本買う。ただ、ホテルの部屋に入ってもすぐに飲むわけにいかない。出張の間も別の仕事を抱えていたので、買ったばかりの缶チューハイを冷蔵庫に入れ、PC を取り出してデスクワークだ。

途中でシャワーを浴びて気分転換し、再び仕事の続き。夜中過ぎになって眠くてたまらなくなり、ベッドに倒れ込むようにして潜り込む。

朝になって、「ありゃ、缶チューハイ飲むの忘れた!」 と気付く。捨てるのももったいないから、バッグの片隅に入れて、仕事の現場に向かう。この日から行動を共にするカメラマンは、下戸である。だから、1日の終わりに 「ご苦労さんで 1杯」 ということはない。夕食が終わると、「お疲れ様」 と別れて、京都宮津市の、天橋立に近いホテルの部屋に入る。

缶チューハイをバッグから取り出して冷蔵庫に入れる。そして前夜からのデスクワークの続き。途中でシャワーを浴びて、前夜と同様のプロセスを辿り、ベッドに倒れ込む。翌朝、「ありゃ、またしても、缶チューハイ飲み忘れた」 と気付き、バッグに入れる。

三日目も無事に仕事を終えて、三泊目の京都駅南口のホテルに入る。前夜と同様のプロセスを辿り、四日目の朝になって、またしても缶チューハイを飲み忘れたことに気付く。

四泊目のホテルでさすがに、同じ缶チューハイを毎日バッグに入れて持ち運ぶことが馬鹿馬鹿しくなり、夜の仕事を早めに切り上げてシャワーを浴び、ようやく缶チューハイのプルトップを開けて口を付ける。

飲めばおいしいとは思う。ところが最近は酒量がめっきり減っているのですぐに酔っぱらい、ベッドに倒れ込むように眠る。五日目は缶チューハイを持ち歩くこともなく、無事にミッションを完了し、帰路についた。

帰りの新幹線の中で、自分がよくよくお酒を必要としない人間になったことに気付き、我ながら驚いた。8年ぐらい前までは、いつも缶ビールを飲みながらブログの更新をしていた。「週に 1日ぐらいは、休肝日を作りたいなあ」 と思いつつ、それは決して果せなかった。

そしてちょっと前までは、「俺も週に 2~3回しか酒を飲まなくなってしまったなあ」 と驚いていた。ところが最近では、週に 1度も飲まなくても平気である。せっかく缶チューハイを買っても、いつの間にか飲み忘れたまま眠ってしまうなんて、昔だったら考えられない。

世の中は 「酒離れ」 と言われるが、私はその最先端を走っているみたいである。

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2013/02/24

今年も 「春はまだか」 と呟いている

2月 8日の記事で、「もしかして今年の春は早いのかもしれない」 なんてチョー希望的なことを書いてしまった (参照) が、あれから真冬の寒さに逆戻りして、ここ数年の春先と同様に震えながら 「春はまだか」 と呟いている。やっぱり近頃は冬と夏がやたら長くて、春と秋はあっという間に終わるという季節感になってしまったようだ。

とくに今日は冷たい強風が吹いて、朝方などは家が揺れるほどだった。外に出るとただでさえ気温が低いのに、風による体感温度の低下で、肩をすくめるばかりである。本当に近頃は春の来るのが遅い。

庭の梅の木を見ると、蕾だけは確実に膨らんできているので、ますます 「春はまだか」 と呟くことになる。目で見える季節感と、肌を刺す風の冷たさのものすごいギャップに、体は戸惑うばかりである。

気付けば 2月も最終週で 24日。短い 2月はあと 4日で終わる。やれやれだ。3月になったら、少しは暖かくなってもらいたいものである。

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2013/02/23

O2O を巡るシンプルな冒険

この言葉を初めて文字で見た時は、「ゼロ・ツー・ゼロって一体なんだ?」 と思ったものだが、マーケティング業界ではあっという間に定番の流行り言葉となってしまった。もちろん "O2O"、つまり "online to offline" のことである。

O2O というのはまだ模索段階で、きちんとした見解なんてまだ誰ももっていないのだろう。「オンラインで訴求して実店舗で売る」 なんていうが、そんなのは半分は、これまで実店舗で成功を収めてきた旧タイプのプレイヤーたちの願望なんだと思うし。

実際には商品によってうまく行ったりいかなかったりするという、それだけのことなんじゃなかろうか。ごくシンプルな話である。

今すぐ必要な小さなモノ、例えば、デジカメに SD カードを装着してくるのを忘れたなんていう時は、手近なリアルショップで買うしかない。急に必要になったポケットディッシュとか、ボールペンとかビニール傘なんていうのもそうだ。早くいえば 「コンビニで売ってるようなモノ」 である。

逆に、リアルショップで買っても 「お持ち帰り」 するのがうっとうしいほどの大モノは、ネットで買って届けてもらう方が面倒がない。冷蔵庫や洗濯機なんていうのは、どうせ届けてもらうしかないのだから、ネットで買う方が手軽だ。

この手の 「大モノ」 の販売に関しては、リアル店舗はどんどんショールーム化するだろう。とはいえショールームに下見に行ったつもりでも、値段が十分に安かったら、その場で買って届けてもらうことになるかもしれない。しかしリアルな店舗でそんなに安く売るには、利益率をかなり落とさなければならないだろうから、ちょっと不利だよね。

手で持ち運べるようななものでも、「いつものヤツ」 だったらネットで買う。シャツとか靴下とか、「お気に入り」 の定番があるなら、店に行くまでもなくネットで買うだろう。それが特殊なものであればあるほど、ネットで買うしかないことが多い。

我が家の猫が生きていた頃は、腎臓の弱った老猫用の特殊ペットフードをいつもネットで買っていた。普通の量販店では探しても見つからないのだから、ネットで買うしかない。専門書みたいなものも、この類といっていいだろう。

オフラインの方が圧倒的に有利なんていう商品は限られるので、これからはオンライン販売のシェアがどんどん高まるだろう。「抵抗勢力のあがき」 みたいな O2O の中から、オフラインでなければならないモノというのが少しは生き残りはするだろうが。

じゃあ、SD カードとかポケットティッシュとかボールペンとかビニール傘などの 「コンビニ商品」 以外で、リアル店舗の方が有利な商品に何があるかといえば、「感覚に強烈に訴えるモノ」 ということになるだろう。ファッションとかファンシー・グッズとかスイーツとか、あるいは骨董とか、とにかく 「見た途端に欲しくてたまらなくなるもの」 だ。

つまりは 「ショッピングの楽しみ」 みたいなものとのセットで売る商品である。その商品を見るまで、それが欲しいとは、消費者自身も気付かなかったというような、意外性のある商品であればあるほどいい。リアルなショップは、「モノ」 そのものよりも、「体験」 とか 「直接触れることによる満足感」 とかを売るものになって行くんじゃなかろうか。

いずれにしても、「モノ」 の売り買いはどんどんオンラインに行く。実店舗で生き残るのは、コンビニと 「体験型商品」 の店ぐらいのものかもしれない。

オンラインに抵抗を感じるというのは、単にこれまでの 「ハイタッチな気がする効果」 のある実店舗での販売に慣れた 「習慣性」 の産物でしかない。ただ、習慣性というのは無茶苦茶強いファクターだから、死ぬまでオフラインでしかモノを買わない層というのも確実に存在する。だから、しばらくはコンビニ以外の実店舗もなくなるわけじゃない。

ちなみに私自身は、どんどん 「モノなんて要らない」 というタイプの人間になってしまっていて、オンラインだろうがオフラインだろうが、別にどうでもいいと思っている。最後の最後で、身も蓋もない話になっちゃってゴメン。

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2013/02/22

「わかっちゃいるけど、止められない」 理論

「類は友を呼ぶ」 を裏返せば 「類は呼ばれて友となる」 のだろう。その意味で、Wired の "肥満はなぜ 「伝染」 するのか: 実験結果" という記事が、とても興味深い。ネガティブなイメージに接した時、意識的には 「こりゃ、やべぇ! 気を付けなきゃ」 と思っても、無意識はつい呼び寄せられがちになるもののようなのだ。

米国立心臓・肺・血液研究所 (NHLBI) の主導によりマサチューセッツ州フラミンガムで行なわれている疫学調査 『フラミンガム心臓研究』 (FHS) によって、肥満はネットワークで 「伝染」 することが実証されている。太った人の姿を見たり、周囲に大食いの人がいたりすることで、食生活が容易に影響され、つい太ってしまうというのである。

研究者たちがフラミンガムの町の社会的ネットワークを再現して研究したところ、ある人が太ると、その友人が太ってしまう可能性は 57%高くなる。同様の可能性が、きょうだい間では 40%、配偶者間では 37%高くなる。遺伝よりもその人のネットワークの方が強く影響するのだそうだ。

また 「ルーシーという名前の友人が、最近の休暇で撮影した写真を送ってきた。彼女は標準体重より 11kgほど体重が多い。その写真を見た後で、オフィスの秘書が、クッキーがたくさん載ったお皿を持ってきた。体重が多すぎる誰かの姿を見たことは、これから食べるクッキーの数に影響するだろうか?」 という調査結果も興味深い。

上記の質問をされた人の大多数が、「太った友人の写真を見た後では、食べるクッキーの量を減らす」 と答え、その中でも 31%の人は、減らすどころか、まったく手をつけないとまで答えた。つまり、「やべぇ、自分も気を付けなきゃ!」 と、理性が意識的な警告を発するのである。

しかし我々の無意識というのは、理性よりずっと強い。コロラド大学の研究結果によると、こうした意識的警告は悲しくなるほど無力で、実際には人間は体重が多すぎる誰かの写真を見た後では、より多くのカロリーを取るようになるというのである。

「類に呼ばれて友となる」 というか、「朱に交われば赤くなる」 というか、まさに 「わかっちゃいるけど、やめられない」 状態で、我々の行動は理性を裏切る。大衆の理性に期待しても、あっさり裏切られるのも道理で、そもそも人間はそれほど理性的な存在じゃないのである。

そしてこれは逆に言えば、常に 「ポジティブなイメージ」 に接することが大切というメッセージでもあると思う。

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2013/02/21

佐藤、斎藤、馬の糞

4月からの新年度で、町内の自治会の役員をすることになった。こればかりは平等に順番が回ってくるから、断るわけにもいかない。みんな 「1年間の辛抱」 と思って引き受けている。

で、改めて自治会の名簿を眺めてみて、名字のバラエティの豊富なことに驚いた。ウチの自治会は結構大きくて、ほぼ 100戸の会員があるのだが、同じ名字は、佐藤、齋藤、高橋、池田、木村、鈴木が各 2軒あるだけで、ほかは全部違う名字である。

私の郷里の山形県庄内地方という所は、「佐藤、斎藤、馬の糞」 と言われるほどで、とにかくこの 2つの名字は道に落ちている馬糞同様に、あふれるほどある。そして馬糞がむしろ珍しい時代になっても、こればかりはずっと同じように言われている。

小学生の頃は 1クラスの生徒数が 50名をちょっと越えていたが、思い出すだけでも、佐藤という名字の子が男女合わせて 12~3名いたし、斎藤いう名字の子も 7~8名はいた。それに高橋、池田を加えたら、あっさり過半数。さらに鈴木、伊藤、後藤、渡辺を加えたら残りはチョボチョボで、上位 2割で 8割を占めるというパレート法則に近い世界である。

東京の大学に入って、佐藤なにがしというクラスメイトを 「佐藤クン」 と名字で呼べることに軽いショックを覚えた。ウチの田舎で 「佐藤クン」 なんて呼んだら、10名以上が自分のことだと思って振り向くから、意味をなさない。私は今でも佐藤さんを 「佐藤さん」 と呼ぶことに、軽い違和感を覚える。

先日京都府とはいえ、日本海側の陸の孤島ともいえる山間に、「田中さん」 という人を訪ねて行ったら、そこらじゅう 「田中」 という表札ばかりで往生した。多分、あの集落の 3割以上は田中さんだろうし、ざっと見渡しても 4種類の名字しか見当たらなかった。うちの田舎以上である。

翻って、私が今居住しているところの自治会は新興住宅地とて、日本中のあちこちから来た人たちの集まりである。名字のバラエティに富んでいるのも道理で、「へぇ~!」 と思うような珍しい名字もいくつかある。

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2013/02/20

Firefox が PDF ビューアー を内蔵したらしいが

私がメイン・ブラウザーを Firefox から Chrome に変えて、まだ 9ヶ月である。もうずっと前から Chrome だったような気がしているが、まだそんなものだ。変えたきっかけは、去年の 5月に、世界では Chrome が最大シェアのブラウザーになったというニュースが流れたことである。「どれどれ、どんなんだ?」 と使ってみたら、軽快で使いやすかったのだ。

翻って、日本国内のブラウザー・シェアを調べてみると、依然として IE の天下である。今年 2月 1日に出された StatCounter の統計によると、1位と 2位を占める IE 9.0 (ほぼ 35%) と IE 8.0 (ほぼ 12%) を足すと、47%になり、10.0 と 7.0 のシェアを足せば、ほぼ 50% になる。 (参照)。

一方、Chrome は 24.0 と 23.0 が 3位と 4位を占め、足して 20%弱のシェアとなる。次いで 5位と 6位が Firefox の 18.0 と 17.0 で、合わせてほぼ 12% だ。Chrome が躍進したとはいえ、まだ IE のシェアの半分にも満たない。回りを見渡しても IE ユーザーばっかりで、それ以外のブラウザーを使っている人を見たことがない。

どうも日本人はあてがい扶持が好きで、IE 以外のブラウザーをわざわざダウンロードして使おうという発想が薄いようなのだ。甘んじて IE を使おうという発想がない私みたいなのは、少なくとも日本人としての多数派ではないらしい。

私が 9ヶ月前に卒業した Firefox が近頃ヴァージョン 19.0 を出して、その売り物が、「内蔵 PDF ビューアー」 なんだそうだ。Acorbat Reader をダウンロードしなくても、PDF をそのまま見ることができるというのである。確かに、ウェブの世界では PDF で表示されるページが多いから、便利かもしれない。

しかし私としては、バージョンアップを重ねるたびに重くて重くてどうしようもなくなっている Firefox が、この上また、余計な機能を備えてますます重くなるのだろうかと思うと、「卒業しといてよかった」 と思うばかりである。

「Acorbat Reader をダウンロードしなくても PDF が見られる」 と言っても、何の疑問も抱かず IE を使い続けているユーザーが、それではとばかりに Firefox をダウンロードするとも思われない。

彼らの多くは必要に迫られて、やっとこさの思いで Reader をダウンロードし、PDF を開いている。ならばそれでいいじゃないかということになるだろう。Reader のダウンロードさえしていないユーザーは、Firefox なんてますますダウンロードしないだろう。

私としては、IE でしかまともに見られないサイトが、Chrome にもきちんと対応してくれるのを待っているのだが、こんな状況では、国内ではなかなか対応が進まないのだろうなあ。

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2013/02/19

神田のやぶが焼けちゃったらしいが

神田のやぶが火事でやけちゃったらしい (参照)。

蕎麦好きの私だが、神田のやぶには 20年ぐらい前に 1度行ったきりである。何だか妙に風情が先走った店という印象が残っている。行ったのはお昼をちょっと過ぎた頃で、忙しい時でもあり、さらに 「お試し」 のつもりだったから、とりあえず 「もり」 を 1枚注文した。

すると、店の奥のカウンターの上にもりが 1枚置かれていて、それをさっと持ってきた。老舗の蕎麦屋にして、牛丼屋より素速い対応である。それは多分、ちょっと前に何かの間違いで余計に作ってしまったものらしく、既にノビノビになっていて、食えたもんじゃなかった。それでがっかりして、それっきり 2度と行っていない。

はっきり言って、客として軽く見られちゃったというわけで、こっちとしては当然ながら、めっちゃ印象悪かったわけね。立ち食い蕎麦屋じゃあるまいし、老舗のくせにあんな対応をしたら、20年以上経って、しかも災難にあったばかりという気の毒なタイミングで、急に思い出したようにこんなこと書かれるってこともあるわけなのだよ。

神田 (というより小川町だが) でご贔屓なのは、やぶのすぐ近くの 「まつや」 である。こっちは裏切られたことがない。だから私としては甚だ恐縮ながら、「まつやでなくてよかった!」 と思ってしまったのであった。

薄情でゴメン。まあ、けが人がなくてよかった。

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2013/02/18

夫婦別姓論議を巡る冒険

夫婦別姓に関して、いろいろ議論されているが、大まかには 「夫婦は同姓であるべきだ」 という保守派と、「選択的別姓が認められるべきだ」 というリベラル派の対立が主軸となっていると思う。で、意識調査をするとどちらも 30数パーセントの支持を得て、拮抗している。

ここではっきりさせておく必要があるのは、「夫婦別姓を容認する」 という立場の人のほとんどは、「夫婦はおしなべて元々の名字を名乗るべきだ」 と主張しているわけではなく、「別姓の夫婦がいてもいいんじゃないの?」 と言っているだけなのである。だから、法律的に夫婦別姓が認められたとしても、全ての夫婦が別姓になるわけではない。

現状の社会では、夫婦は同姓である方が何かと便利なことが多いから、多くのカップルは結婚したら同姓を名乗ることになるだろう。ただ同姓を強制されることがなくなるというだけである。

私は個人的には、夫婦は同姓である方がいいと思っている。社会的にもその方が何かと便利で、家族としても同姓の方が一体感を生じやすいし、何よりも、子供が混乱しなくて済む。夫婦が別姓である方がいいという積極的な理由を、私は見つけることができない。

それでも、そこはそれ、人にはそれぞれのこだわりがあって、「私は結婚したからといって、相手の 『家』 に従属するわけじゃないんだから、元の名字のままで一生を過ごしたい」 と主張する人がいても、それはそれで、否定するには忍びないという気がする。「だったら、勝手にすれば?」 と思うのである。それでどうなっても知らないけどね。

ただ、男の子がいない家庭が、娘を嫁にやっても元の名字のままでいてくれて、生まれた子供のうちの 1人でもそれを継いでくれたら、「お家断絶」 しないで済むから、夫婦別姓に賛成するなんていう人もいるが、それはいかがなものかと思う。

名目的な 「家」 というものを大切にするあまり、「家族」 の中に実質的な 「家」 が 2つあるという変則事態を容認することになる。これでは、私がよく言う 「健康のためなら命も惜しくない」 というパラドックスに陥ってしまうではないか。

というわけで、私は 「個人的には夫婦同姓を支持するが、どうしても別姓でいたいという人にまでそれを強制するのは忍びないので、『夫婦別姓』 を消極的に容認してもいい」 という立場である。なんだかどっちつかずのようだが、結婚というのは基本的に 2人でするものなので、自分の主張だけに固執するわけにもいかない。

というわけで、「絶対同姓派」 「別姓容認派」 「絶対別姓派」 の 3つの主張があるとして、それぞれの組み合わせでどうなるかというのを、以下にマトリックスで考えてみた。

男性\女性 絶対同姓派 別姓容認派 絶対別姓派
絶対同姓派 同姓 同姓 調整余地なし
別姓容認派 同姓 (ほぼ) 同姓 別姓
絶対別姓派 調整余地なし 別姓 別姓

ご覧のように、「絶対同姓派」 同士の結婚は何の問題もなく 「同姓」 に落ち着き、その裏返しとして、「絶対別姓派」 同士の結婚は、これも何の問題もなく 「別姓」 に落ち着く。そして、「別姓容認派」 は、相手の主張に引きずられるだろうし、「別姓容認派」 同士の結婚といっても、実際には同姓に落ち着くことが多くなるだろうと考えられる。

問題は,「絶対同姓派」 と 「絶対別姓派」 のカップルで、これはもう調整の余地がない。しかしそもそも、こんな基本的な部分で価値観が一致しない者同士が結婚を望むなんていうこと自体が稀なケースだろうから、あまり心配する必要もないと思うのである。

世間では 「絶対同姓派」 と 「別姓容認派」 が圧倒的多数で、「絶対別姓派」 は極少数だろうから、結果としては、同姓の夫婦の方が圧倒的多数になるだろうと考えられる。というわけで、保守派が言うほど、日本中で 「伝統的な家族の価値観が崩壊することになる」 というような心配は、ないんじゃなかろうか。

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2013/02/17

二条城を初めて訪れた

関西方面への出張で、大阪に一泊、宮津に一泊、京都に二泊した。当初は京都では一泊で帰るつもりだったのだが、急遽もう一泊加わり、一泊目のホテルが翌日は満室だったので、近くの別のホテルに移るというドタバタぶりだったのが、ご愛嬌である。

私はどういうわけか、真夏のくそ暑い時期と真冬の凍えそうな時期に京都を訪れることが多い。今回の旅も、連日雪が舞って底冷えがした。

たまには桜の咲く頃とか紅葉の頃とかの、京都らしさを満喫できる頃に訪れたいと思うが、その頃はその頃で、やたらと混雑するだろうから、この巡り合わせもまんざら悪くないのかもしれない。

京都にはかれこれ三十回以上来ているので、見るべきところはあらかた見てしまったような気がしていたが、見落としというのはあるもので、二条城と北野天満宮が未踏の地として残っていた。

今回はこの二つに清明神社、護王神社、千本釈迦堂という渋めのスボットを加えて廻ってみた。二条城だけでずいぶん時間がかかったので、半日以上つぶれた。

二条城は前に来た時に訪れたが、「定休日」で閉じていた。ここはお役所が管理しているので、週に一度と年末年始はきっちりと休むのだそうだ。本当にもう、民間委託すればいいのに。

Img_5065

今回初めて訪れた二条城は、京都の中の異質なスボツトである。他はみないかにも京都という中で、あそこだけが京都らしくない。堀と石垣に守られた権現様の趣味の世界である。

それも含めて、京都というところは底知れない深みをもった街である。

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2013/02/16

妙に感情的にならず、言葉をそのままきちんと受け取れば

私はいつも自分が 「アスペルガー症候群一歩手前の人間」 であると言っている。アスペルガー症候群の最も顕著な特徴は、「言葉で言われたことは額面どおり真に受けることが多い」 ということだ。私がまさにそれである。

しかし、真に受けすぎるのは問題だが、「言葉で言われたことをそのままきちんと受け取る」 のは、人間として身に付けなければならない素養だと思っている。日本人の中には、言葉をそのままクールに受け取らず、妙に感情的に解釈して怒り出し、まともな議論にならないという人が多すぎる気がしている。

私がこんなことを急に言いだしたのは、"中野美奈子アナがフジテレビをボロクソに批判 !!!「フジ時代は地獄の日々だった」 衝撃の告白に社員が大激怒 !!!" という、結構衝撃的なタイトルの記事を読んで、「ちっとも 『ボロクソに批判』 なんてしてないじゃん」 と思ったからである。さらにフジテレビ関係者も、「大激怒」 なんてしてないのだ。

中野美奈子という女子アナが、フジテレビ時代を振り返って 「地獄の日々」 だったと告白したのは、ファッション誌 『Numero TOKYO』 3月号のインタビュー記事内らしい。私はこの元記事を読んでいないのであまり断定的なことは言えないのだが、次に引用するような発言内容をみる限り、「ボロクソに批判」 というのは全然当たっていない。

なかでもつらかったのは先輩アナからの叱咤。番組の終了後、VTR をチェックした先輩から、「おまえには本当にニュースを読むセンスがない」 と事細かにダメ出しされ、しまいには、「あまりにも下手だから辞めろ」 とニュース読みから外されたことも告白。

<怒られた記憶しかなくて (中略)、早々に自信喪失してメンタルもガタガタ。ストレスでひどく肌荒れしてしまって、人に会うことすら避けてしまったり…。ちょっと鬱っぽかったんでしょうね>

当時は、局内のトイレにひとりでいるときがいちばん楽しかったといい、これまで語られなかった本音を赤裸々に明かしている。

この告白の、どこが 「ボロクソに批判」 なのだろうか。普通に読めば、自らの至らなさを正直に告白しているだけである。ちょっと深読みしても、「少し恨みがましい」 という程度だ。「批判」 というのとは、全然違うだろう。

この中野発言に対して、フジテレビ関係者は次のように 「怒り心頭の様子」 なのだという。

「自分の未熟さを棚に上げています。原稿が読めず、語彙力もないからいつも間違いだらけ。収録後にいくら注意しても上手くならなかった」

「プロ意識が希薄で、技術も未熟な新人を厳しく指導するのは当然で、それを "地獄だった" と言われたら、たまったもんじゃありません。しかも、体罰やいじめが社会問題になっているこのタイミングで、わざわざ古巣批判をするところが不愉快です」

この発言にしても、「怒り心頭」 というのは言い過ぎだ。言葉をそのまま受け取る限りは、「このタイミングで、わざわざ古巣批判をする」 というところを除けば (だって 「批判」 になんて、なってないから)、ごく当然のクールな反応に近い。

どうも 「衝撃の告白に社員が大激怒」 という記事には、「煽るだけ煽って話題にしてやろう」 というセンセーショナリズムのみが目立つ。

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2013/02/15

SBM が LTE で優位に立ちそう

昨年の 10月 1日に 「SBM が E-mobile を買収するというので」 という記事を書いたが、どうやらそれからの動きが徐々に具体化し始めているようで、GIZMODE に 「ついに! ソフトバンク版 iPhone 5 でイー・モバイルの LTE 網も利用可能へ」 という記事が載っている。

今後、Softbank の iPhone 5 で、E-mobile の LTE 網を使う環境が整ったのだそうだ。これで、Softbank がつながりにくいなんていうのは昔の話になり、とくに LTE では日本一つながりやすいということになるかもしれない。従来回線では Docomo が圧倒的優勢だが、LTE では立場が逆転しそうだ。

ただこうなると、私が前にも書いているように、E-mobile の優位性が 「7GB に縛られないテザリングが可能」 という以外になくなってしまい、契約者が激減してしまうのが必至だ。かくいう私も、3月で 2年縛りが解けたら、E-mobile を解約してしまおうと思っている。

E-mobile としては、回線貸しを主要業務とするしかなくなってしまうだろう。そして自社製品の売上げは激減するだろうが、SBM との相互乗り入れで販売を継続すれば、それなりに稼ぐことはできそうだ。

私としては、他と比べるとちょっとつながりにくいという不満を抱きながらも、SBM を使い続けてきた甲斐があるというものである。ただ、孫さんのいいとこ取り過ぎるやり口は、ちょっとズルイという気もするけどね。

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2013/02/14

国内メーカーは 「ガラスマ」 を作ればいいのに

Slashdot によると、国産携帯のシェアが 50%を下回ったのだそうだ (参照)。スマホ対ガラケーの勝負という話ではない。ガラケーもスマホも全て合わせた販売において、Apple、Samsung、LGなどの外国製の合計シェアが半数を超えたというのである。

まあ結果としては、スマホが増えたということには違いないのだが、国内メーカーのスマホは苦戦しているということだ。富士通もシャープも東芝もアンドロイド・スマホを展開しているのに、外国メーカーに敵わない。日本勢のスマホ開発は、よっぽどお下手のようなのだ。

日経ビジネスの記事によると、Docomo は国産アンドロイド・スマホの低品質のせいで、ユーザーの iPhone への流出を止められないことに悩んでいるという。そして自社でも iPhone の取り扱いを始めたいと思いつつ、それをすれば国産メーカーが総倒れになるのではないかと危惧しているらしい (参照)。

私は Docomo もおっつけ iPhone を販売し始めると見ている。そうしないという決定的な理由がない以上、そうなるに決まっている。しかしそうなれば、国内での iPhone のシェアはますます高まり、国内メーカーのアンドロイド・スマホ開発のモチベーションはガタガタになるだろう。

私自身は iPhone ユーザーだから、アンドロイド・スマホがどうなろうと一向に構わないが、そう思ってはいても、国内メーカーのあまりの低迷振りにははがゆい思いがする。日本のメーカーが日本のユーザーに売るのに、日本人のニーズに合わないものしかできないというのは、いくらなんでもおかしいではないか。

これはもう、「テキトーなもの」 しか開発できていないという、「そもそもの姿勢」 の問題か、そうでなければ、彼らがまだアンドロイドという OS を本質的に理解できていないからではないかと思うのである。

どうせ国内メーカーのほとんどは海外で勝負なんかできないのだから、これはもう、「ガラスマ」 (ガラパゴス・スマホ) を作るつもりでやるしかないだろう。そうしたら、「これまでのケータイは使いやすかったのに、スマホって難しい」 と悩む日本人ユーザーにぴったりのスマホができるだろうに。

でも、それをしたら結局はこれまでのガラケーに落ち着いてしまったりして。

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2013/02/13

スポーツと体罰、鉄拳制裁

桜宮高校バスケットボール部での事件を機に、スポーツの世界でやたらと体罰問題が取りざたされるようになって、女子柔道の全日本代表監督までそれで辞任するまでに発展している。

ちょっと前まではスポーツの世界での体罰や鉄拳制裁なんて当たり前という風潮があったように思うが、さすがに世の中は変わってきているようだ。多くの団体で、体罰を行わないように指導し始めている。

そうなると、これまで当然のごとく鉄拳制裁を行ってきた部長とか顧問とか監督とかコーチとかが、どんな顔して態度を翻しているのか、興味津々である。急に拳骨を振り上げなくなったのか、少しはこれまでのことを詫びたのか、どうなんだろう。

もし詫びたんだとしたら、どんな顔をして詫びたんだろう。詫びもせず、とぼけたままおとなしくなってしまったんだとしたら、そのわざとらしい態度の変わり方を、部員たちはどんな風に受け止めているんだろう。

鉄拳制裁を行わなくなって、選手たちのレベルはどう変わるのだろう。あるいは変わらないのだろうか。もしかして、鉄拳制裁がなくなった後の方が選手たちがのびのびとプレーして強くなってしまったりしたら、指導者はなんと言い訳するのだろう。下手すると、自分のこれまでのやり方を正当化するために、レベルを落としてしまったりして。

私は個人的には、体罰や鉄拳制裁でスポーツのレベルが上がるなんてあり得ないとは言わないが、それが必要なものだとは決して思わないがなあ。鉄拳制裁なしではまともに練習に取り組まない選手だとしたら、そんなのはもともと素質がないのだ。

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2013/02/12

ラジオ・ショッピングで食品を売ろうとする時

昨日もラジオ・ショッピングのことについてちょっと触れたので、ことのついでにもう一つ書いておく。それは食べ物のラジオ・ショッピングに関する不快感である。

ラジオ・ショッピングはテレビと違って画面が出ないので、音だけが勝負である。しかしだからと言って、「おいしそうでしょう、どうぞ試食なさってください」 と言われて、パーソナリティが 「それでは失礼して、いただきます」 と、商品を食べる時に、ことさらに音を立てないでもらいたいのである。

もう言っちゃうけど、とくにひどいのが TBS の 「荒川強啓 デイキャッチ」 という番組のパーソナリティを務める荒川強啓という男である。食い物を口に入れると、「クッチャ、クッチャ、ピッチャ、ペッチャ」 と音を立てるのである。

先日も、超大玉の梅干しだが、ちょっと表皮に傷が付いているので贈答品にならないという触れ込みの、高級梅干しを紹介した時、「強啓さん、どうぞ召し上がってみてください」 と言われ、またしても始まった。私はあわててダイヤルを回したが、最初の 「クッチャ」 だけ聞こえてしまって、この梅干しは絶対買うまいと思った。

多分この人、画像のないラジオで臨場感を出すために、意識して音を立てているんだと思う。しかしそれが、やっぱりきったならしい。止めてもらいたいのである。しかしラジオのこちら側で 「止めてくれ!」 と叫んでも通じないので、仕方がないから即刻別の局の番組に変える。

この番組で食品を売ろうとしているメーカーさん、止めた方がいいと忠告しておく。私は彼の発する汚らしい音を聞いただけで、その商品のイメージまで悪くなってしまう。

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2013/02/11

宝石や宝飾品は、邪魔くさいだけ

テレビ・ショッピングやラジオ・ショッピング、はたまた雑誌や新聞などの通信販売において、宝飾品というのはかなり大きな分野なのだそうだ。そういえば、ラジオを聞きながら運転していると、ラジオ・ショッピングにダイヤや真珠のネックレスなんかが登場して、スタジオ中があざといまでに口を極めて絶賛して売ろうとしているのを、よく聞く。

かくいう私は、宝石とか宝飾品にまったく興味のない人である。こう見えても、婚約指輪や結婚指輪というのも一応交換したはずだが、身につけたことはない。そしてどこにしまってあるのかも知らない。

身に付ける気になれないのは、興味がないということもあるが、身につけたら最後、必ずどこかに落としたりなくしてしまったりするからである。それを考えると、恐ろしくて身につけられない。6,000円以上の腕時計をする気になれないのも、2,000円以上の傘を持つ気になれないのも、同じ理由からである。

もっと言えば、高いスーツを着る気になれないのは、必ずどこかに引っかけてかぎ裂きにしてしまったり、ドレッシングやスープをこぼしてシミを作ってしまったりするのが確実だからである。私のスーツはほとんど、クリーニング屋でも落とせなかったシミが付いてしまっているし、一番高いのは、3回目に着た時にかぎ裂きを作ってしまって、それっきりだ。

そんなわけで、金目のものを身に付けるのは極力避けたいのだ。中でも指輪とか腕時計とか万年筆とかいうのは、どこかに忘れたり落としたりする確率がものすごく高い。そんなものを身に付けていたら、ストレスで死んでしまいそうだ。

誰にも言えない話だが、結婚祝いに恩師にもらったカフスボタン (名前はわからないが、緑っぽい大きな石が付いている) は、初めてそれを付けて誰だかの結婚式に出席した時、帰宅して片方落としてしまっていることに気付いた。それっきり、カフスボタンというのは金輪際付けないことに決めた。

すぐになくしたり、シミを作ってしまったりするのは、それを大事に思う気持ちがないからだろうと思う。はっきり言えば、全然好きじゃないし、興味もないし、魅力も感じないものは、持っているだけでストレスを感じるので、潜在意識の中では、どこかに緒としたり忘れたり、使い物にならなくしたりして、厄介払いしたいと思ってさえいるのだろう。

逆に無造作に取り扱えるものなら大好きだし、気を付けて取り扱わなければならないものなら、ある程度の大きさがあるとありがたい。少なくとも本やギターぐらいの大きさがあったら、ちゃんと大事にできる。ところが、指先でつまむようなチマチマしたものを後生大事にしなければならないなんて、うっとうしくてしょうがない。

だったら、宝石や宝飾品は財産として大事にしまっておけばいいじゃないかと言われそうだが、私としては、使いもしないものをしまっておくためだけに所有するなんて馬鹿馬鹿しいことは、ストレスの極地である。だから私にとって、宝石とか宝飾品とかいうものは、どこまでいっても 「邪魔くさい」 だけだ。

宝石の王様といわれるダイヤモンドだって、私にはただのガラス玉と変わらない。「本物に親しめば、本物の良さがわかる」 と言われても、私は 「宝石の本物をわかるために割く時間と金がもったいない」 と答えるのみだ。他の分野の本物を見分けるだけでも忙しいのに、宝石なんかに関わっている暇はない。

要するに、よくよく安上がりの人間のようなのである。

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2013/02/10

中途半端な 「丸刈り」 がお詫びのシルシにならない理由

例の 「丸刈り謝罪」 の話がまだ世間で話題になっていて、あちこちで議論になっていることに驚く。何だかんだといいながら、日本は平和だ。

かくいう私も今月 5日に "AKB の 「異界度」" という記事を書いたのだが、書きながらなんとなく気が晴れなかった。彼女たちの 「異界度」 とは別の違和感が、どうしても拭いきれなかったのである。ところが昨日、その違和感の正体がふとしたはずみでわかったので、ここに書いておく。

私の覚えた違和感とは、「丸刈りで謝罪」 という言い回しだったのである。そもそものことを言えば、「丸刈りになって詫びる」 などという言い回しはない。「丸刈り」 なんていうのは、単にそこら中で見られるヘアスタイルの一種でしかなく、謝罪のシンボルにはなり得ない。

じゃあどうすればいいのかと言えば、「坊主頭になって詫びる」 のである。「剃髪」、つまり 「刈る」 のではなく 「剃る」 のである。スキンヘッドになることだ。そのまた本来のことを言えば、不面目なことや残念なことをしてしまった後に、その代償として仏門に入るというのが、オリジナルの精神である。本当に 「坊主になる」 のである。

この件に関して米国の CNN などは 「体面を失って名誉を回復しようとする武士のよう」 などと、いっぱしの文化論的論評を加えている。しかし本来の武士道精神からといえば、合戦などで心ならずも命を取ってしまった敵方の武将の菩提を弔うために仏門に入るなどというのが、最も典型的なモデルであって、「自ら対面を失う」 というのは二義的なことだ。

熊谷直実は源平合戦で、平清盛の息子である敦盛の命を取るという武功を立てたが、若く、教養にもあふれた武将の命を無惨に取ってしまったことで耐え難い世の無常を感じ、仏門に入って敦盛の菩提を弔い続けたといわれる (参照)。このエピソードは日本人の心の琴線に触れるものとして語り継がれ、能にまでなっている (参照)。

つまり元々の意味は、すべての世俗的欲望を捨て去って仏門に入り、心ならずも犯してしまった業を悔い改め、関係者の菩提を弔うということなのである。もっとも実際には、そう簡単に仏門に入るわけにもいかないから、「世俗的欲望を捨て去って、しばらく謹慎します」 という決意の象徴として、頭を丸めるということが行われるようになった。

ということは、お詫びのために頭を丸めるということは、単なる 「丸刈り」 ではなく、「剃髪」 つまり、スキンヘッドにまでならなければいけないのである。ところが、昨今の 「お詫びのシルシとしての丸刈り」 というのは、あまりにも中途半端だ。あれではお詫びにならない。

振り返ると、不祥事を起こしたスポーツ選手や芸能人が頭を丸めたというケースがかなりあったが、そのニュース画像を見るたびに私は、「この程度の丸刈りだったら、そこら中にいるじゃん。ちっともお詫びのシルシになってないじゃん」 と思ったものだ。

最近では ボクシングの亀田大毅、野球の二岡智宏 のケースがある。やっぱりここはスキンヘッドにまでならないと、お詫びにはならない。

「坊主になって反省するのは男だけで、女にはそんな習慣はない」 という指摘もあるが、そんなことはない。女だって剃髪して尼さんになることがいくらでもあった。峰岸みなみという子は、頭の丸め方が中途半端すぎてモロに貧相になってしまったが、思いっきりスキンヘッドにしてしまえば、いっそかっこよかったかもしれないのに。

もっとも、前に "「世間の空気」 と一体化している人" という記事で書いたように、彼らの 「謝罪」 ということ自体もずいぶん不思議な行為であるわけで、そこまで考えるといろいろなことがナンセンスすぎて、付き合いきれないことになるわけだが。

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2013/02/09

Google って、少なくとも楽しくはないよね

ずっと Yahoo メールを自分のメインとして使っていた知人が、Gmail に変えたいと言ってきた。近頃、Yahoo メールで不具合が相次いで、メールの送受信ができなくなることがあったのだという。

それで、「Gmail、いいですよ」 とオススメしておいた。で、彼はさっそくアカウントを取得して、新しいアドレスを知らせてきたのだが、あれから半年も経つのに、相変わらず Yahoo メールをメインにして使っている。その後、再度 Yahoo メールの不具合が生じて、アカウントにアクセスできなくなったりもしたのだが、まだ離れられないでいるらしい。

一体どうしたのかと聞いてみると、「だって、Gmail って、何だか難しいんだもの」 とこぼすのである。彼は Gmail を真っ正直にウェブメールとして使っていて、ブラウザーでウェブの送受信をしようとしているらしい。ところがこのやり方だと、Yahoo メールは簡単だが、Gmail は今イチやり方がわからないというのである。

私はメールを送受信するためにブラウザーを開くなんていう面倒なことはゴメンだから、Gmail を含むすべてのメールを Thunderbird で管理し (当然、iPhone と iPad は別の話)、それで十分楽々に使いこなしている。ところが、Gmail をブラウザーでやろうとすると難しいというのだ。

「どれどれ」 と、私もブラウザーで自分の Gmail アカウントにアクセスしてみた。実はこんなことをするのは、最初にアカウント取得の作業をして以来、winmail.dat という添付ファイルを開こうとした時の数回だけである。(参照: "winmail.dat" の一番簡単な開き方)

それでわかったのだが、確かにブラウザー上での Gmail の取り扱いは、ちょっとクセがあるというか、なるほど、やりにくい。とくに数人に同報メールを発信するのが、とてもやりにくい。連絡先リストから相手をクリックして宛先に加えていくという作業ができないみたいなので、「グループ」 を造るしかない。ところがその作業手順もまた面倒である。

なるほど、これでは彼が音を上げるのも道理だ。本来ならば使い慣れたメーラーでやるのが一番なのだが、彼は昔から Yahoo メールをウェブ上でやりとりするのに慣れていしまって、メーラーを使おうという発想がないらしい。そもそも連絡先のリストを Yahoo から Gmail にインポートするという作業すらできていない。

今度訪問した時に、Thunderbird をダウンロードして、アドレス帳の設定までしてあげなければならないだろう。やれやれ、面倒なことである。

それにしても、Google って本当に機能が豊富で便利なのだが、使い心地が今イチというところがある。ものすごくデジタルそのものというか、IT 発想に忠実で、それに沿えばしっかりと使えるのだが、手順がきっちりし過ぎているというか、直観で操作しようとすると戸惑うことだらけだ。

とくに YouTube のインターフェイスなんかかなり面倒で、ビデオを探して見るだけならなんということもないが、ちょっと込み入ったことをしようとすると、あちこちクリックしまくってようやく目指すメニューに辿り着く。上級者になるまでのハードルが、ちょっと高い気がする。

そしてそんな感じが、スマホやタブレットなどのアンドロイド端末にもあるように思えてならない。そのことについては、今月 2日の 「カタログ・スペックは魔物」 という記事でも書いた。

理屈にはきちんと沿っていて、破綻はないのだが、少なくとも操作していて楽しいという気分には、あまりならない。操作手順が無意味に正統的すぎるというか、味も素っ気もない。その味も素っ気もない感覚は、Google のトップ画面によく現われていて (時々ロゴで遊んでるようだけど)、何というか、社風なんだろうなあと思うのである。

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2013/02/08

シニア市場とは

降る降ると言われた雪が降らずに済んだ。気温が当初の予想ほどには下がらなかったので、雪にならずに済んだのだという。

近年は冬が長引いてなかなか本格的な春にならず、寒さに震えながら 「春はまだか」 と呟くのがお約束になっていたような気がするが、もしかして今年の春は早いのかもしれない。北陸では昨年より 1ヶ月以上も早く春一番が吹いちゃったというし。

そもそも、関東に雪が降ること自体が、冬ではなく春先の現象なのである。日本海側の雪と関東の雪は、降るメカニズムが違うのだ。関東に雪が降るという予報が、気温が下がらなかったので外れたというのは、まさに春の訪れそのものである。とはいえ、一転して冬型に戻って、日本海側では暴風雪になるらしいのだが。

実は今日はこんなことを言いたかったのではなく、今シーズンの冬山で、高齢者の遭難が目立ったということを取り上げたかったのに、つい話の 「マクラ」 的に 「春が早いかも」 なんていう希望的観測を言ってみたくなったのである。まあ、人情としてお許し頂きたい。

冬山で高齢者の遭難が相次ぐなんていうのは、私が若かった頃はなかった話である。世間では 「どうしてまた、年寄りが冬山なんかに登るんだろうねえ」 なんて不思議がる人もいる。昔、とくに 1960~70年代には、冬山での遭難といえば、若い者の専売特許だった。例えば大学の山岳会みたいなのが、盛んに冬山に挑戦して遭難していたのである。

しかし、よく考えてみていただきたい。昔遭難していた人たちと、近年になって遭難している人たちというのは、別物ではない。同じ人たち、というと誤解が生じるから言い直すが、同じジェネレーションの人たちなのである。あの頃の大学生が、今、「高齢者」 と呼ばれるようになって、まだ冬山に登っているのだ。

ちょっと視点を変えると、今の 「高齢者」 は、年寄りじゃない。「年寄りの皮をかぶった団塊の世代」 なのだ。彼らはまだまだ意気盛んであり、徒党を組んで突進するパワーというのは、半端じゃない。道がちょっとでも開けさえすれば、どっと繰り出すのだ。そういう世代である。

そもそも、今の高齢者は、波平さんやフネさんではない。それどころか、サザエさん、マスオさんですらない。サザエさんがスタートした 1950年代初頭に小学生だった世代、つまり 60年前の小学生は、既に 70歳を越えている。カツオ君なんて、実は戦中派だ。

今のシニアの中身は、タラちゃん、イクラちゃんなのである。「年寄りのくせに山登りする」 世代ではない。「昔から山登りしていた人たち」 が、たまたま年寄りっぽい外見をまとっただけである。

ここを見誤って、波平さん、フネさんをイメージしてしまうと、シニア向けマーケティングは破綻する。

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2013/02/07

雪は降らなかった

仕事で山梨県の甲府に行った。先週からの雪という予報で、予定を少し早めて昨夜から前泊していたのだが、予報は空振り気味で、甲府では雪は全く降らなかった。朝から小雨模様だったのだが、傘もささずに済むぐらいで、仕事は問題なく進んだ。

晴れるというほどではなかったが、「大雪」 という予報が見事に外れたのだから、晴れ男の 「準功績」 として認めていただけたら嬉しい。ただ昼食の時、「どうして大雪予報が見事に外れたんだろうね」 という話題が出て、「それは tak さんが出張したからさ」 ということでみんな納得してしまったのは、今後のプレッシャーになりかねないなあ。

今日は疲れたので、これにて失礼。

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2013/02/06

ネット選挙が実現しそう

ようやく来年夏の参院選から、選挙キャンペーンでインターネットが使えることになりそうだ。日経新聞の見出しでは 「ネット選挙 全面解禁へ」 となっているが、ネットで投票できるというところまで一足飛びに進むわけじゃなく、選挙運動に使えるということだ。

私は 4年以上前から 「選挙で web を使わせろ」 という一人キャンペーンを展開していて、それがようやく叶いそうというわけだ。遅すぎるといえば完全に遅すぎるが、解禁されないよりはずっといいので、少しは嬉しい。

それにしても、この法案に反対しているという社民党は、一体何を考えているのだろうか。彼らの主な支持層のネット・リテラシーは、確かにあまり高そうにも思われないけどね。

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2013/02/05

AKB の 「異界度」

AKB 48 の峯岸みなみという子が、誰だかとの恋仲がバレて、 「丸刈り」 になって詫びたビデオが YouTube に載っかり、これがエラく話題になったらしい。英国でも報じられたと言うから、ちょっとしたものだ。

私はこの峰岸みなみという子の名前も顔も知らなかったので、ちょっと Google で画像検索してみたら、髪の長かった頃と 「丸刈り」 になってからの印象が全然違うので、もう本当に 「素直にびっくり」 した。まるで、「使用前/使用後」 である。最近は素直にびっくりしっぱなしだ。

このニュース、世間では批判的に受け止められているようだ。「どうして恋愛して丸刈りにならなければならないのか」 というのである。私もそう思う。だが、あの世界というのはそもそも 「異界」 であるから、そういうことになってしまうのだ。隣のおねえちゃんの集まりみたいだった AKB も、年経てしまって、かなり 「異界度」 が上昇してしまっているようなのだ。

これって、AKB もそろそろ賞味期限が近づいてきていることをうかがわせるエピソードである。この手の 「女の子大勢のユニット」 というのは、古くは 「おニャン子クラブ」 に始まり、それから、えぇと、なんだっけ (と、マジにググりまくり) ……、そうそう、「モーニング娘。」 を経て 「AKB 48」 に至っているわけだが、やっぱり寿命というものがあるのだろう。

何しろ、上のパラグラフを書いている途中で、本当に 「モーニング娘。」 という名前を失念して、ググりまくってようやく思い出したぐらいだから、この類のグループの栄枯盛衰は、本当に激しい。そのうち、AKB 48 だって、「えぇっと、何だっけ、アルファベットが、確か 3つのやつ」 とか言われかねない。

共通しているのは、隣のおねえちゃん的雰囲気の女の子を大勢集めて大々的プロモーションを行い、あっという間に 「知らない人はいない」 というほどの存在にしてしまうという手法だ。そのプロモーション・メディアは、おニャン子とモー娘の場合は完全にテレビだったが、AKB の場合はちょっとはみ出しているというのが、時代性である。

そしてこれらのグループのライフスパンにおいて、初期から最盛期にいたる間での間は、初々しい 「素人っぽさ」 という幻想がアピールするわけだが、それを通り過ぎると、「素人っぽい」 とはまったく言えなくなる。すっかり 「芸能界のおねえちゃん」 になる。

しかもその芸能界という広大な海を、徒党を組んで渡っているわけだから、かなり独特の世界を構築することになる。芸能界自体が既に 「独特」 な世界なのに、輪をかけた独特さをもって、「ピュア異界」 となり、規模の小さな宝塚みたいなことになってしまう。これはごく当然の流れというものである。

そうした意味で、今や AKB 48 の 「異界度」 も相当なものになっているようなのである。今回の 「丸刈り騒動」 は、それを世間に認識させてくれた。

ちなみに、異界度では相当なものの宝塚がなかなか風化しないのは、一時的なブームになりすぎるのを巧妙に避けて、ある意味での 「古典」 に昇華させてしまったからかもしれない。

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2013/02/04

「死ぬならがんに限る」 というのは、本当のようだ

相変わらず葬式に出席することが多い。平均すると月に 2回以上は、黒いスーツに黒いネクタイを締めて香典を持っていくということになっている。

先日も知人が 70歳で亡くなった。彼は昨年の冬から食欲がなくなり、春に病院で検査を受けたところ、末期の胃がんが見つかった。余命 3ヶ月と言われたが、10ヶ月生きて痛みもなく、亡くなる 3日前まで杖を突きながらとはいえ自分の脚で歩き、最期は自宅のベッドで妻と娘に看取られ、安らかに息を引き取った。

自宅で死ぬと警察が入って大変なことになるから、病院で死ぬ方が面倒がないといわれるが、彼の場合はかかりつけの医師が往診して死亡診断書を書いてくれたので、何の問題もなかった。

彼は胃がんと診断されてから抗がん剤による治療を受けたが、それによる副作用がひどく、「がんで死ぬ前に抗がん剤で殺されるのはまっぴらだ」 と、一切の治療を断った。医者からは副作用の穏やかな治療をするとの申し出があったが、「どうせいずれは死ぬのだから、苦しむ期間を延ばすだけの治療は要らない」 と、自宅でのんびりと暮らした。

病院からは何度か治療の申し出があったが、「もう結構です。これは自己責任ですから」 と、きっぱりと断り、病院のベッドで副作用に苦しむよりも、自宅で好きなことをして最期を迎えることを選んだのだった。「もう少し世の中の役に立ちたかったところだが、仕方がない。死ぬのは少しも恐くない」 と、さばさばしたものだった。

その間、精神世界の本を読みあさり、税金関係の申告を済ませ、身辺の始末を済ませた。かなり前から食が細り、死ぬ 3日前からは何も食べていなかったので、体の中には未消化物が何もなく、きれいなものだった。まったく始末のいい人である。

最近読んだ、『大往生したけりゃ医療とかかわるな』  (幻冬舎新書 中村仁一・著)  という本には、「死ぬのは 『がん』 に限る。ただし、治療はせずに」 と書いてある。Amazon のページにあるこの本の紹介は、こんな感じだ。

3人に 1人はがんで死ぬといわれているが、医者の手にかからずに死ねる人はごくわずか。
中でもがんは治療をしなければ痛まないのに医者や家族に治療を勧められ、拷問のような苦しみを味わった挙句、やっと息を引きとれる人が大半だ。
現役医師である著者の持論は、「死ぬのはがんに限る」。
実際に最後まで点滴注射も酸素吸入もいっさいしない数百例の「自然死」を見届けてきた。
なぜ子孫を残す役目を終えたら、「がん死」 がお勧めなのか。
自分の死に時を自分で決めることを提案した、画期的な書。

70歳での死は、ちょっと早すぎるという気もするが、がんで死ぬ死に方のお手本を見せてもらったような気がする。見事な最期だった。

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2013/02/03

カタログ・スペックは魔物

最近知人がスマホを買って、慣れない操作で難儀しているという。操作に難儀するスマホと言ったら、多分 iPhone じゃなくてアンドロイドだろうと思っていたが、実際に会って確認したら、やっぱりそうだった。

iPhone の場合は、操作に迷っても大抵の場合はホームボタン (何しろ、とりあえず押したくなるボタンはそれしかないので) を押せば直前の状態に戻ることができるが、アンドロイド・スマホだとボタンがいくつかあって、それぞれ別の機能が割り振られている。だから元に戻るだけでも迷うことがある。

知人に 「○○をしたいんだけど、どう操作したらいいのかなあ」 と聞かれ、「それって、多分、こうすればいいんじゃないの?」 と、実際に操作してみるのだが、どうやら違っている。直観的にいろいろやってみても、すぐには正しい操作にたどり着けない。

「こうかなあ? いや、違うなあ。じゃあ、こうかな? う~ん、これも違うみたいだなあ ……」 と、いろいろ試行錯誤しているうちに、やっとうまくいく。iPhone の場合は、「こうかな? うん、やっぱりそうだ」 となることがほとんどなので、かなり違った印象だ。

アンドロイドだって、慣れてしまえばなんていうこともなく使いこなせるのだろうが、慣れるまでがちょっと面倒なような気がする。「自分はアンドロイド・スマホを使っているけど、親にプレゼントするなら、iPhone 以外の選択肢はない」 と言う人が多いのもうなずける。

カタログ・スペックをみると、アンドロイド・スマホにはなかなか魅力的な製品が多い。だが実際の使い勝手というのは、カタログ・スペックとは別物だ。どんなに豊富な機能がついていても、使うのが面倒だったら、邪魔なだけである。

Windows 8 みたいに、「デスクトップから詳細が一目でわかる」 という機能のために、インターフェイスが細かい字だらけになったら、そんなものは邪魔である。カタログ・スペックが充実していても、それを引っ張り出すのにゴチャゴチャした操作が必要なら、面倒なだけだ。

実際に 「いいな」 と思うのは、カタログ・スペックに現われない使い勝手の部分であることが多い。詰め込みすぎて重くなるよりは、シンプルで軽快な方がいい。

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2013/02/02

人差し指での高速タイピング

先月 30日の 「カッコよく快速タイピングできるようになりたいという幻想」 という記事に、米国在住の emi さんから、「人差し指 2本で高速タイプする人を 2人知っています」 というコメントがあった。そうなのだよね。米国人には、人差し指だけでものすごく速く打鍵する人が少なくないのだ。

私の印象では、米国のジャーナリストに多いという気がしている。昔、タイプライターの時代に、力の弱い小指で打つと文字がかすれてしまうので、原稿の正確を期すために、全部力任せに人差し指で打ったのだという説がある。その伝統が、打鍵の強弱はあまり関係ない PC の時代になっても続いているというのだ。

それで、人差し指の超高速タイピングを "press typing" というのだと聞いたこともあるが、本当にそんな言い方をするのか、定かではない。(「僕は press typing が得意だよ」 なんて言うのを聞いたことは、一度もないし)

昔、繊維業界専門のジャーナリストをしていて (今でもしていないというわけでもないが、還暦を過ぎてかなり贅沢に仕事を選んでいるので、繊維業界の仕事は極端に減った) よく取材で海外出張をしていた頃のことを思い出す。

米国のプレスルームは、パンやコーヒーが置いてあることが多く、朝イチで行きさえすれば無料で朝食にありつけるので、かなりありがたかった。そしてこのプレスルームで、PC を開いて原稿を書いている米国人記者のかなり多くが、この 「人差し指での高速タイピング」 だったのである。

それを見ながら私は、「ふぅん、なるほどね」 と感心したものである。とにかく、米国人の PC はやたらに大きい。いわゆる 「モバイル PC」 の範疇には絶対に入らない。重さが 4kg ぐらいありそうな、立派なやつである。まさに "laptop" ならぬ "lap breaker" とはこういうのを言うのだと実感する。それをガバッと開いて、人差し指で打ち始める。

あんな重いものを持ち運んで、さらにあんな打ち方をして、腕が疲れないのだろうかと思ったが、そういえば、米国人は肩が凝らないのだったね。

こちらは Panasonic の 小型 Let'sNote (重さは 1kg そこそこだ) を取り出し、指をホームポジションにおいて、ごく正統的に打ち始める。しかしちんまりした PC で行儀良くタイピングするのが、何だか 「お坊っちゃまの優等生」 みたいでカッコ悪い気がするほど、米国のプレスルームは 「力技」 の世界だったという印象がある。

ちなみにタイピングの音だけ聞けば、彼らの人差し指タイピングがいかに速いといっても、私のタイピングとほとんど差はない。しかし何しろ、向こうは英語で打っているのである。それに対して、こちらは日本の新聞のために日本語で打っているのだから、打鍵の速さは同程度でも、生産性がまるで違う。

誰が何と言っても、QWERTY 配列というのは、欧米の言語を打ちやすいように並んでいるのである。ローマ字で日本語を入力するなんていうのは、まったく想定外のイレギュラーな使い方なのだ。だから打鍵の速さそのものではなく、生産されるテキストの効率で言ったら、英語と日本語では扇風機と団扇の違いぐらいは確実にある。

それを思うにつけ、人差し指だけの力技の方が、私の正統的タッチタイピングよりも、単位時間当りで情報量の多いテキストを生産しつつあるであろうことに、ちょっとむかつく。「くっそー、やっぱりパソコンってやつは結局、気の利かないアメリカ人なんだよなあ」 と思う。

それにしても、emi さんがご存じの人差し指タイピングの達人は学者だというし、これって米国におけるある種のプロフェッショナルの伝統なのかもしれない。ちょっとした 「バンカラ振り」 というか、Bill Gates も人差し指だけで打つという、もっぱらのウワサだし。

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2013/02/01

大前さん、老朽化してしまったんだろうか?

1月 25日の "駆け込み退職、123人が 41人だったら 「想定内」 というのか?" という記事で、埼玉県知事の言い草に 「素直にびっくり」 したと書いたが、今回はそれ以上で、「チョー素直にびっくり仰天」 した。

何かと言えば、週刊ポスト 2月 8日号に掲載された大前研一氏の主張である。既にネットでも読めるので、「アベノミクス ブレーンも名称も小泉時代の繰り返しと大前氏」 という記事をご覧いただきたい。

この中で大前氏は、アベノミクスは小泉時代と同じブレーンで政策を踏襲しているに過ぎず、効果は期待できないとしている。前段の 「日本経済はバブル崩壊から 20年以上も低迷し、その85%の期間は自民党政権だったのだから、この人たちに日本経済を再生できるアイデアがないことは、すでに明白だ」 という指摘には、ある程度共感できる。

ところが問題は最後の部分だ。大前氏は 「10年間で総額200兆円をインフラ整備などに集中投資するという計画 『国土強靭化』 も、経済効果は見込めない」 として切り捨てている。その理由というのが、こうだ。

なぜなら、トンネルがないところにトンネルを掘ったり、橋がないところに橋を架けたりすれば経済効果はあるかもしれないが、老朽化した既存のトンネルや橋を修繕・補強しても経済効果はゼロだからである。

これに 「チョー素直にびっくり仰天」 しないで、何にびっくり仰天したらいいのだろう。この人、老朽化したインフラが壊れてしまった時の経済損失というものを、考えていないようなのである。さらに、「人命よりも経済効果が大切」 と言わんばかりなのも、「びっくり仰天」 の大きな要因だ。

この人こそ、老朽化して壊れかけてしまっているんじゃなかろうか。

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