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2013年11月に作成された投稿

2013/11/30

「毎日更新」 を続けるための 「新境地」 とは

江草乗の言いたい放題」 という、ちょっと過激な意見が売り物の社会派 Web 日記がある。ブログというわけじゃなくて、一時期かなりはやった 「エンピツ」 という日記サービスで運営されており、約 11年にわたって毎日更新されてきた。私は来月に 「毎日更新 10年」 となる予定だから、上には上があるものである。

この web 日記の 11月 26日付に、「言いたい放題日記終了のお知らせ」 という記事が載った。びっくりである。この記事の中に、こんなことが書いてある。

オレが最初にWEB上に発表したテキストは 「100万回生きたねこ・試論」である。そのテキストを書いたのはもう20年以上も前のことである。(中略) その頃のオレには書きたいことはいっぱいあった。オレはそのほとばしる執筆意欲をただパソコン上にぶつければよかったのである。

それらのテキストを読み返して思うのは、今よりもずっと面白いということである。オレはもう峠をすぎてへろへろ球しか投げられない暗黒時代の阪神の中継ぎ投手のようになってしまったのである。

(中略)

とにかく今日、オレはこの日記の「毎日更新」というスタイルを捨てることを宣言する。タイトルには「言いたい放題日記終了」と書いたが、本当に辞めるわけではない。オレが宣言することは「毎日更新」というスタイルをやめることであり、これが「日記」ではなくなるということなのだ。

これ、他人事ではない。この気持ち、私にも実によくわかる。私の 「知のヴァーリトゥード」 というサイトは ほぼ 12年近く前にスタートした。当時は書きたいことは山ほどあった。まさにテキストがほとばしり出るぐらいのものだったから、どんどん書けた。

5~6年前の自分の記事を読み返して、自分で感動してしまうことだってある。しかし今となっては、そんなようなテキストが 「ほとばしり出る」 なんてことは、めっきり減ってしまった。以前はブログを書くまでは眠れなかったが、今は 「眠いのに、ようやく絞り出す」 なんてこともある。

とりあえず、今のところは 「毎日更新」 というスタイルは継続している。生きてフツーに暮らしている限り、ネタが枯れてしまうなんていうことはない。しかし正直言うと、「10年連続毎日更新」 を達成したら、それを花道にすっぱりとブログを止めてしまおうかと思ったこともあった。

今はまた思い直して、せっかくだから更新は続けようと思っているが、この 「せっかくだから」 というのが、自分でも気に入らない。「せっかくだから」 とか 「行きがかかり上」 とかというような安っぽい理由で更新を続けても、テキストの質は落ちてしまうだろう。

現に最近、何を書いても 「同じことの繰り返し」 になっているという気はする。とはいえ、これはそんなに悪いことでもない。

コラムの達人といわれた故・山本夏彦は、「寄せては返す波の音」 と評されたほど同じことを何度も繰り返し書いた。浪曲の名人・広沢虎三だって、晩年は 『森の石松』 しかやらなかったが、それで大喜びされた。大学教授の講義だって、大御所になればなるほど、間にはさむジョークまで毎年同じになったりする。

「何を書いても同じ」 なのは、基本姿勢が 「ブレない」 からだと、開き直ることだってできる。しかし、ブレる一歩手前までの新機軸を打ち出すことのスリルってものもあって、私はそんなのも大好きだったはずなのだ。それが近頃、ちょっと低調になってしまっていることを自覚している。

今後の選択肢は 2つ。新たな境地を開拓するか、枯れた境地を深めるかのどちらかだ。いや待てよ、もしかしてこれら 2つをアウフヘーベンしちゃって、「チョー枯れた境地」 というものに新たな発見を求めるという道があるかもしれない。

ほほう、なるほど。それ、案外いいかもね。

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2013/11/29

11月 29日が 「いい肉の日」 であることを巡る冒険

本日 11月 29日は、まあ、ありがちすぎるほどありがちな語呂合わせなのだが、「いい肉の日」 なんだそうだ。

ググってみると複数のページで、この記念日は 「より良き宮崎牛づくり対策協議会」 というところが制定したとあるが、同協議会のサイトに行ってざっと見渡したところ、「いい肉の日」 という記述は見つからない。

そもそも、同協議会がいつの年からこの記念日を制定したのかという情報も、インターネットでは検索できなかった。

私は当初、「より良き宮崎牛づくり対策協議会」 という団体は、かなり太っ腹の団体なのだなあと思っていた。フツーのスーパーや肉屋、レストランが、「いい肉の日」 にただ乗りして宮崎牛のみならず、他の産地の牛肉も一緒くたにキャンペーンしているのに、ちっともクレームを付けないのだから。

しかしここにきて、現在の状態は次の 2つのうちのどちらかなのだろうと思い当たった。

  1. 「いい肉の日」 を制定したのは、確かに 「より良き宮崎牛づくり対策協議会」 だが、単に宮崎牛のみのキャンペーンに終始するよりは、肉全体のプロモーションとなってくれる方が、結果として宮崎牛の消費も促進されるので、商標登録はせず、他の 「ただ乗りキャンペーン」 もむしろ歓迎している。
     
  2. 「より良き宮崎牛づくり対策協議会」 が 「いい肉の日」 を制定したというのは単なる都市伝説で、同協議会としては 11月 29日が来るたびに宮崎牛が話題になるので、打ち消しもせず 「しめしめ」 と思っている。

この 2つのうちのどちらが真相なのかは、宮崎県の協議会まで電話して確かめてみるほど私はマメじゃないから、今の段階ではナゾである。知っている人がいたら、教えてもらいたい。

まあ、私としては 1番目の可能性の方がずっと高いと思っているのだが、そうだとしたら、「より良き宮崎牛づくり対策協議会」 には、せっかくでもあるので、この記念日制定に関するストーリーをサイト上で紹介してもらいたいものだ。

それをしてくれないから、へそ曲がりの私なんかは 「もし 2番目だったとしたら、この協議会にとってはものすごくおいしい話だなあ」 なんて、ちらっと思ってしまうのである。

ちなみに私としては、「いい肉の日」 だからといってことさらに 「いい肉」 を食おうとは思わない。貧乏学生時代は 「たまには肉を食わんと、力が出ないかなあ」 なんて思っていたが、近頃ではレストランのメニューを眺めて 「肉以外のメニューがめちゃくちゃ少ないから、さくっと選べて、逆にありがたいわ」 なんて思っている。

つまり、若い頃からずっと、あまり肉は食わずに現在に至っているというわけだ。

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2013/11/28

2020年は 「壮大な終わり」 の確認の年になりそうだ

あれだけ熱狂した (いや、そんなにしたかな? という気もするが) オリンピック招致だが、もしかしたら、東京開催の決まった今年の 9月初旬が熱狂のピークで、後は徐々に冷めていくんじゃなかろうかという気がする。既に猪瀬都知事のスキャンダルでも、ちょっと水を差されちゃったことだし。

まあ、開催本番には嫌でも盛り上がりをみせるだろうが、それでも、「そういえば、8年前に決める時には、『お・も・て・な・し』 なんて、ちょっと気恥ずかしいこと言ってたよね」 なんてことを言ってるような気がする。

このブログの読者は既におわかりと思うが、私は今回の東京オリンピック開催について、決して喜んでいない。むしろシニカルである。「そんなにやりたければどうぞ」 という感じだが、もっとぶっちゃけて言えば 「反対」 だ。ただ、それをあまり鮮明に打ち出すほどの思い入れもないというだけだ。

開催決定後の、次の 2本の記事を読んで頂ければ、私の大体のスタンスがわかると思う。

オリンピックの東京誘致成功を巡る冒険 (2013/09/08)

オリンピック開催は決まっちゃったことだし (2013/09/12)

まあ、一番正確に表現できる言葉は、「反対」 よりも 「冷淡」 なんだと思う。申し訳ないけど。

ところがこんな記事を書いていると、「せっかく東京開催が決まって、みんな喜んでいるのに、どうしてそんなに後ろ向きのことを言うのだ」 と、怒る人がいる。中には、「東京オリンピック開催が決まったとたんに、そんなぶち壊しのことを言うのは、性格が悪すぎる」 なんて非難されることまである。

で、私は自分の名誉のために言っておくが、オリンピックにシニカルなのは今に始まったことじゃなくて、かなり前からなのである。昨年以前にも、こんな記事を書いている。

北京で終わってしまったオリンピック (2008/08/05)

オリンピックへの無関心 (2012/07/23)

ここらでちょっとまとめてみると、私とて初めからオリンピックに冷淡だったわけじゃなく、1964年の東京オリンピックの時には本当に心から熱狂した。あの時は小学校 6年生という多感な時期だったし。

そしてそれですっかりお腹一杯になってしまって、あれからこっち、オリンピックに熱狂したことは一度もないのである。開会式や閉会式の中継に見入ったこともないし、競技にしても、興味のある種目をちらちら見るというだけだ。

本当に、「オリンピックは、もういいんじゃない?」 という感じなのである。1964年の東京オリンピックの熱狂にしても冷静にみれば、その後に続く高度成長に伴う負の要素に、誰も気付いていなかっただけという気もするし、もう先進国は開催地への立候補なんて回避すべき (AKB 的な言い方をすれば 「卒業」 すべき) なんじゃないかなあ。

とくに今回の東京オリンピック開催決定では、開催を成功させるために原発を再稼働させなければならないという議論になってしまうだろうことが、個人的には最も気にくわないところである。

私の感覚では、オリンピックは、百貨店みたいなものである。この 2つに象徴される文明は、もうほとんど使命を負えたんじゃないかという気がするのだ。私にとっては 1964年が 「始まり」 で、2020年は 「壮大な終わり」 をゆっくりと、そして嫌というほど確認する年になると思う。

私としては、そろそろ 「別の始まり」 を楽しんでいきたい。もう還暦を越えているのだから、「別の始まり」 は、早い方がいいのだ。2020年に終わりを確認してから始めるのでは、遅すぎることになるからね。

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2013/11/27

「死」 というものへの距離感

近頃、毎日のように喪中欠礼葉書が届く。思えば今年はずいぶん葬式に出席したから、このくらい届いても不思議ではないが、それにしても多い。多分これまでで一番多い。年賀状を出す数は、いつもの年よりずっと少なくなってしまいそうだ。

喪中の内容で一番多いのは、親が亡くなったというものだ。私の知人・友人・従兄弟/従姉妹は、当然ながら同年代が多いので、親の年齢は 80代後半が最も多い。ということは、もう死んでもおかしくない。私の両親だって、とっくに死んでしまったしね。

次に多いのが、先輩の配偶者が亡くなったという知らせだ。私の先輩は団塊の世代より上の世代で、そろそろ 65歳を超えて、70歳にさしかかる層が多い。実際問題として、このあたりで死ぬ人は死ぬ。今では 70歳前に死ぬと 「早死に」 扱いされてしまうが、昔ならとっくに死んでいておかしくない年だ。

還暦を過ぎて、「死」 というものが昔よりずっと身近に感じられる。とくに持病というものはなく、健康ではあるのだが、「死」 というものに確実に近づいていることを思うのである。20代の頃の 「死」 は、パタゴニアぐらい遠くにある感じがしていたが、今はサンパウロぐらいに近くなったというのが実感だ。

まあ、それでもまだ地球の裏側なのだから、我ながら呑気なものだが。

ついでに言えば、私は 「死」 というものが恐いとはちっとも思わない。どうせいつかは死ぬのだし、これまで結構好き放題に生きてきたから、思い残すほどのこともない。むしろ、生き長らえることの方が死ぬよりずっと苦労だ。

ただ、このくらい呑気だと、なかなか死なないんじゃないかという気もする。こんなパラドックスが生じるから、人生というのは面白いのだが。

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2013/11/26

千葉県の 「習志野」 という地名のややこしさ

昨日の京急線 「品川駅/北品川駅」 問題から、ふとした行きがかりで、新京成線の 「習志野駅」 問題を思い出してしまった。JR・京急線の品川駅は品川区ではなく港区にあるのだが、新京成線の習志野駅は、習志野市ではなく船橋市にある。

さらにややこしいことに、習志野駅の所在地は習志野市ではないが、船橋市習志野台というところなのだ。これだったら、あながち無茶振りの駅名というわけにもいかない。

そしてまたまたややこしいのは、習志野駅から習志野市までは、品川駅のように、ちょっと一駅行けば本当に品川区になるというわけじゃなく、駅で言うと 3つも先だということだ。なんだか唖然としてしまう。

そして、さらにさらにややこしいことに、習志野市の中心地の駅には 「習志野」 の文字はなく、JR の 「津田沼」 駅なのである。さらにさらにさらにややこしいのは、この他に 「京成津田沼駅」 と、新京成線の 「新津田沼駅」 というのがある。そしてかなり離れた所に、JR 京葉線の 「新習志野駅」 というのがあるのだ。

この地域の地名と鉄道路線のややこしさには、私はかなり辟易している。例えば私の最寄り駅である常磐線取手駅から、有明の国際展示場 (通称 「ビッグサイト」) に武蔵野線を使って行こうとすると、京葉線直通の関係がものすごくややこしい。よほど精通しないと、どこに連れて行かれるかわからないのである。

あまりややこしいことが多すぎるので、ここではあえて地名に限って言えば、本来の 「習志野」 というのは、習志野市のみを指すわけではなく、現在の船橋市・習志野市・八千代市にまたがる広い地域の広域地名なんだそうだ。だから船橋市に 「習志野台」 という地名があっても不自然なことではない …… ということになっている。

とはいいながら、「だったら、船橋市の新京成線 『習志野駅』 は、かなり後になってできたんだから、習志野市に少しは遠慮して、せめて 『習志野台駅』 ぐらいにしてくれてもよかったんじゃないか」 と言いたくもなるではないか。地名が 「船橋市習志野台」 なんだから。

地元の 「わかってる人にだけわかる」 という命名は、よそからこの土地を訪ねる者にとっては、不親切極まりなく思われるのである。

【平成 26年 8月 28日 追記】

習志野権兵衛さんからの 「習志野市より習志野駅のが古いみたいです」 とコメントがあり、一応裏を取るために Wikipedia で調べ、次のように判明した。

1948年(昭和 23年) 10月 8日 京成線習志野駅開業

1903年(明治 36年)  3月 3日(6月3日)  津田沼村が町制を施行し津田沼町となる。
1954年(昭和 29年) 8月1日  津田沼町が千葉市の一部 (旧幕張町北部:実籾、愛宕、安生津、長作、天戸)を編入して習志野町と改称、即日市制を施行し習志野市となる。

つまり、「習志野市」 誕生の 6年近く前から 「習志野駅」 は存在していた。旧津田沼町が、後から 「習志野町」 — 「習志野市」 を名乗ったのである。それで、習志野市の中心の駅が 「津田沼駅」 となっている疑問も解消した。

個人的には、現習志野市が 「津田沼市」 を名乗ってくれていたら、ややこしさがかなり軽減されていたと思うのだがなあ。何かややこしい事情でもあったんだろうか。

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2013/11/25

京急線では品川駅の南に北品川駅があるって、知ってた?

20日から 3日間、九州に出張し、22日の夜に帰宅して新たな旅支度をし、4時間の睡眠。23日は早朝に関西に向けて出発。これは日帰り出張で、その日のうちに東京まで戻り、そのまま大森海岸のホテルに泊まった。翌 24日朝一番(6時50分)の飛行機で、北海道の女満別空港に飛ぶためである。

還暦過ぎにはちょっと忙しすぎるスケジュールだったかもしれないが、なんとか無事にこなし、今日の夜になって、久しぶりにまともに自宅に戻った。羽田に着いたら、結構な強風だったので驚いてしまったが。

で、今日は何の話かというと、23日の夜に新幹線で京都から品川に戻り、京浜急行線 (京急線) に乗り換えて宿泊地の大森海岸駅に向かった時のことだ。

京急線は私にとって、とても縁の薄い鉄道である。今日に至るまで、乗ったことは 10回にも満たないだろう。とくにこの 5〜6年は全然乗っていないので、駅名もさっぱり馴染みがない。

一昨日の夜、新幹線から降りて慣れない品川駅をとぼとぼ歩き、京急線に乗り換え、京急蒲田方面に向かう電車に乗った。そして一つ目の駅に着くと、「北品川」 と表示してあるではないか。

蒲田は品川から南寄りだから、私は確かに、南に向かう電車に乗ったのである。それなのに 1つ目の駅が「北品川」 である。てっきり逆方向の電車に間違えて乗ってしまったのかと思った。

しかし、よく確かめてみると決して逆方向ではない。京急線では、品川の 1つ南の駅が 「北品川」 なのである。紛らわしいことこの上ない。

どういうことなのか気になってたまらないので、クグってみると、すぐに謎が解けた。まず第一におさえておくべきなのは、「品川駅」 という駅が、品川区ではなく港区にあるということだ。そしてそこからほんの少し南に下って、ようやく品川区に入る。

そして 1つ目の 「北品川」 という駅は、品川区北品川 1丁目にある。この 「北品川」 という地名は、江戸時代からあるという。つまり、「北品川」 という駅名の方が正当なのであり、「品川」 という駅名の方に無理があるのだ。

さらに、京急線開業当時は、今の北品川が起点であり、「品川駅」 と称していたが、国鉄 (現 JR) が品川でもないところに無理につくった現在の品川駅まで伸ばして、京急線としてもそっちを 「品川駅」 としたため、元々の京急の品川駅は、地名に準じて 「北品川駅」 と名を変え、現在に至った。

「品川駅」 のすぐ南が 「北品川駅」 というのはいかにもややこしいが、地名が 「品川区北品川」 なのだから、「南品川駅」 というわけにもいかなかったのだろう。「新品川駅」 という名称にするよくある手も、こっちの方が古くからあるのだから使えない。

というわけで、根元的な問題は、旧国鉄が品川でもないところに 「品川」 という名の駅を作ってしまったことなのである。これは、明治時代の品川宿が自分の街に鉄道なんて怪しげなものを通すのに反対した (よくある話) ため、ちょっと離れた土地に 「品川駅」 を作らざるを得なかったという事情もあるらしいので、一概に責めるわけにもいかないが。

とまあ、今の品川駅が 「品川」 と称することの方が、ある意味無茶振りなのだが、今や新幹線停車駅にまでなってしまうと、本来は正当な 「北品川」 の方が 「紛らわしい」 なんて言われてしまう。歴史を調べてみると、とても気の毒なことのようなのである。

私だったら 「本品川駅」 という名称にするところなんだがなあ。

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2013/11/24

「しがらみ」 という言葉

元々の意味の方はほとんど忘れ去られて、二義的に派生した意味の方が生き残っている言葉というのがある。「しがらみ」 というのはその代表格なんじゃないかと思う。

「しがらみ」 というのは、「浮世のしがらみ」 とか 「 恋のしがらみ」 など、なにかとうっとうしいもののことと思われているが、辞書で引くと 「柵」 あるいは 「笧」という漢字が出てきて、意味は次のようになっている。

1.水流をせき止めるために、川の中にくいを打ち並べて、それに木の枝や竹などを横に結びつけたもの。

2.引き留め、まとわりつくもの。じゃまをするもの。「世間の―」

つまり本来は川などの流れをせき止めるための仕掛けだったのだ。ところがそんなような仕掛けはあまり見られなくなったので、いつの間にか忘れ去られて、「浮世のしがらみ」 的な意味ばかりが生き残ってしまったようなのである。

百人一首に 「山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり」 という歌がある。これなどはもろにもとの意味として歌われていて美しいものである。

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2013/11/23

自分ではゴミを拾えないゴミ箱ロボット

ICD Lab が、自分ではゴミを拾えないゴミ箱ロボット ”Sociable Trash Robot" というのを紹介している。このロボットは豊橋技術科学大学の岡田研究室で 「チープ・デザイン」 というコンセプトに沿って開発された。ゴミ箱の役割はするけれども、ゴミを拾うためのアームなんていうのは装着せず、拾う作業は人間に任せるのだそうだ。

ビデオを見ると、ゴミ箱ロボットはゴミを見つけるとよたよたと頼りない足取りで近づき、拾ってくれるように周囲にいる子供に頭を下げてお願いする。子どもたちは、初めは戸惑っている様子だが、恐る恐るゴミをぽいと捨てる。その様子がなかなか可愛らしい。

ここで可愛らしいと言うのは、子供たちの様子だけではなく、ゴミ箱ロボットそのものも、なかなか可愛らしいのである。このロボット開発は、「弱さを通じて生まれるコミュニケーション」 や 「共生」 への注目から生まれたという。なかなか面白い。

ちょっと心配になったのは、乱暴な子供がロボットを蹴飛ばしたり倒したりしてしまわないかということだ。「弱いものいじめ」 の現象が生じたら、「共生」 のコンセプトが阻害されてしまう。

しかしビデオの最後に登場した子供は、ついロボットを倒してしまうが、考え直して助け起こしてあげるのである。この様子をみて、「これはイケル!」 と思ってしまった。

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2013/11/22

音楽は好きだが、ムード歌謡と 『四季の歌』 が苦手

私は音楽はたいてい何でも好きで、クラシックからロックンロール、古いブルースやカントリー、世界各地の民族音楽から日本の長唄や端唄、浄瑠璃、声明に至るまで、ほとんど何でも来いだ。だから私の iPhone の中の音楽ファイルは、ものすごくバラエティに富んでいる。

ただ、やっぱり苦手なジャンルというのはあるもので、私の場合はいわゆる 「ムード歌謡」 というのが、かなり苦手だ。男性歌手が女の立場になって、過剰なまでに情感たっぷりに歌う (これを 「クロス・ジェンダー・パフォーマンス」 という) のを聞くと、申し訳ないけどどんなに上手に歌われても、気持ち悪さが先に立つ。

私はゲイを嫌悪するということはまったくないし、歌舞伎の女形は素晴らしいと思う。クロス・ジェンダー・パフォーマンスでも、さらっと、あるいはジョークっぽく歌うのならあまり問題ないが、性同一性障害でもないだろうに、あんなにもあざといまでに、じめっとした女心を切々と歌うというのが、ちょっと信じられない。

まあ、言ってしまえば、私が苦手なのはあの手の歌というよりも、「こんなに尽くした私だけれど、あなたのために涙で去るわ」 みたいな、あのじめっとした世界なのかもしれない。それほどまでに男にとって都合のいい女を、当の男が 「だって女ですもの」 ってな演じ方で歌うなんて、恥ずかしすぎると思うのだよね。

それから、これはもろに 1曲限定なのだが、『四季の歌』 というを聞かされるのが苦手だ。あの 「♪ は~るを愛するひ~と~は~」 ってやつである。作詞作曲者の荒木とよひささんという人には何の恨みもないのだが、恐縮ながら 「この歌の一体どこが面白いんだ?」 と思ってしまう。

素人コーラスの会などで、おばさんたちがこれをうっとりとした目で歌い始めると、「ああ、またこれ、4番まで聞かされるのか!」 と、いたたまれない気持ちになる。そんなに長い歌でもないし、歌詞だってきれいといえばきれいなのだが、歌として歌われると 「頼むから、さっさと終ってくれよ~!」 と思う。

この歌、やっと 4番まで終わったのでほっとしていると、さらに 「ランララランララ、ランランラ~」 なんてしつこく続けられるものだから、もう身悶えしてしまうのである。一説によると、元々の歌詞は 5番まである (参照) というのだが、そこまでやられたら、私はきっと悶え死にしてしまう。

多分、予定調和の極致のような歌詞を、途中で盛り上がるサビがあるわけでもない、単調この上ないメロディでだらだらっと歌われるのが性に合わないのだと思う。これが中国などでは、日本の代表的な歌として受けていて、知らぬ人とてないというのだから、世の中というのは本当にわからないものである。

もしかしたら、予定調和的な歌詞と音域の狭い単調なメロディだからこそ、抵抗なく歌いやすいってことで受けてるのかなあ。しかし、そんなことで受けるのか? 歌ってものは。

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2013/11/21

右脳と左脳のバランス

sommer-sommer.com の 「あなたは脳のどちら側がより優勢でしょうか? 30秒でわかる脳テスト」 というのをやってみた。やる前から、「俺はどちら側がより優勢ってことはないんだろうな」 という気はしていたが、案の定、「おめでとうございます。あなたは脳を両方同じくらい使っています」 という結果が出た。

私の場合は左脳を 53%、右脳を 47%使っているのだそうだ。わずかに 3%ほど左脳が優勢だが、このくらいは誤差の範囲だろうし、そもそもいきなりそんな数字を突きつけられても、全面的に信用してしまう気にもなれないが、まあ、かなり大雑把にいえば、そんなところなのだろう。

私は普段はかなり左脳を使って論理思考をするという自信があるが、どうせいくら考えても結論が出ないような複雑かつ面倒な問題の場合は、ある程度考えた後で、いきなり右脳を発動させて直観で決断することが多い。「どうせ思考の筋道によって結論が違ってしまうんなら、直観の方が信頼できるわい」 ってなもんである。

論理的思考というのは、喩えて言えばレンガを積み重ねる作業のようなものだと思っている。5段目のレンガを積むためには 4段目まで積まれていなければならず、4段目を積むにはその下の 3段目まで積まれている必要がある。本当にチマチマした作業だ。

私は 3段目まで積んで、何となくその先が見えたような感じになったら、あとはえいやっと 5段目に飛んでしまう。論理の世界ではそんなことは不可能だが、直観の世界では当たり前にできてしまうのだ。

最初から直観だけに頼った結論だったら、かなり危なっかしいだろうが、ありがたいことに私は右脳と左脳のバランスが取れた人間らしいので、ある程度の論理思考の土台からジャンプできる。おかげで、そんなに大間違いをしでかすことはない。

私は徹底的に論理で突き詰める人と付き合うと、「いつまで座って考えてるんだよ!」 と、イライラしてしまうことがある。「そろそろ作業に取りかかって、微修正しつつ進めようぜ」 と言いたくなってしまうのである。

逆に、思いっきり直観だけで走り出したがる人とは、恐くて付き合いきれない。「おいおい、そりゃ、ちょっと違うだろうよ!」 と、ブレーキをかけたくなってしまうのだが、そんな人は決して人の言うことなんて聞かない。

私の場合は、バランスが取れているとはいえ、それほど強烈な個性を発揮するというわけじゃないから、いわゆるカリスマ性には欠けてしまうんだろうなということは、よく自覚している。

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2013/11/20

iPhone のシェアが圧倒的すぎて

家電量販店の実売データを集計した BCN ランキングの携帯電話ランキングで、2013年11月第1週(11月4~10日)に、iPhone 5s/5c が、1位から 10位を占めるという快挙が成し遂げられた (参照)。

このランキングは iPhone が圧倒的トップに位置づけられるのを防ぐために、容量別の小分けにした経緯があるらしいが、そのおかげで、今度は トップ 10 独占ということになったわけだ。iPhone 5s/5c のシェアを合わせると、50.2%に達してしまう。2台に 1台が iPhone ということだ。

確かに、電車などでスマホをいじっている連中の手元をみると、結構なオッサンからギャルまで、ほとんど iPhone である。たまにアンドロイドをいじっているのがいるが、私にはそれが Galaxy なんだか Xperia なんだか見分けがつかない。それほど iPhone の存在感は圧倒的である。

ついでに言ってしまうと、Galaxy と Xperia のどっちが Samsung で、どっちが SONY なんだかすらも、島根県と鳥取県の位置関係みたいに、私の中ではアヤフヤである。多分多くの人もそんなところだろう。その点でも、Apple の iPhone というブランド力はものすごいものだ。

ところで、自分の着ている服と同じ服をみかけると、案外居心地が悪いものである。私は滅多にネクタイをしないが、エレベーターで同じネクタイをしている人と乗り合わせたりすると、それはそれはムズムズしてしまうらしい。

これと似たような感覚だと思うが、電車内で、隣りに座ったギャルが iPhone をいじり始めると、私は自分の iPhone を取り出してメールのチェックをするのを、ちょっとだけためらってしまったりする。まあ、最終的には自分も iPhone をいじり初めてしまうのだがね。

同じ iPhone でも外側にかぶせるケースによって多様な外観になっていて、ネクタイが同じというほどの居心地の悪さじゃないから、まあ、いいか。

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2013/11/19

自己流せんべい汁を試してみた

先日仕事で八戸に行った時に、せんべい汁用の南部せんべいというものを頂いてきたのだが、涼しくなったら食べようとしまっておくうちに忘れてしまっていた。「涼しくなったら」 どころか、すっかり寒くなってしまったが、ふいに思い出したので、さっそく作って食べてみることにした。

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Wikipedia で調べると、一般的には醤油ベースで、鶏や豚の出汁で、具はごぼう、きのこ、ネギ等と書いてある。しかしこれをくれた人は、「何でもいいから、テキトーにおつゆに割って入れて、5分ぐらい煮立てたらいいんですよ」 と言っていたから、軽い気持ちでパリパリと割って味噌汁に放り込んだ。

放り込んでしまってから 「しまった、味噌汁を煮立ててしまったら、味噌の香りが飛んでしまう」 と気付き、火を止めて蓋をしたまま 10分ぐらいおいてみた。そして再び蓋を取ると、ちょっと厚めの麩が浮かんでいるというイメージである。

このせんべいのメーカー、いずもりさんの推奨する、せんべいたっぷりのすいとんみたいな汁 (参照) を、はふはふ言いながら食べるという感じからはほど遠い。かなり自己流というか、まあ、本場のイメージからしたら上品すぎるものになってしまったかもしれない。

結論。味噌味でも、煮立てなくても、たっぷりのすいとん風でなくても結構イケる。さすがに、2012年 B1 グランプリ優勝というだけのことあって、守備範囲が広い。自己流でも十分カバーしてくれている。私はこっちの、コシのある麩が浮かんでいるという方が好きかもしれない。南部の人からは 「そんなのせんべい汁じゃない」 と言われるかもしれないが。

ちなみに、せんべい汁用の南部せんべいは、そのまませんべいとして食べても、無味乾燥でおいしくもなんともない。

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2013/11/18

楽して金儲けしたい心情

"ロト 6 「当選番号教える」 と詐欺容疑 1.5億円被害か" というニュースに、「ああ、人というものは、よくよく楽して金儲けをしたいものなのだなあ」 と、かなりネガティブではあるが感動的な思いすら抱いてしまった。

「世の中に、おいしい話なんて、そうそう転がっているわけがない」 という常識が、どこの馬の骨とも知らぬ人物から 「ロト 6 の当選番号を教えてあげる」 という電話をもらっただけで、見事に吹き飛んでしまうのである。どんなに言葉巧みにもちかけられたかは知らないが、そんなことで 1000万円以上の金を易々と渡してしまうのである。

こうした被害に遭うのは、失っても惜しくない金をもっている金持ちのお年寄りだけというわけではない。中には無理矢理借金してまで都合した金を、あっさりと持って行かれてしまう人だって少なくないのだ。

以前勤め人をしていた時、都心のオフィスに 1人残って残業をしていた時、見目麗しいおねえさんが訪問セールスに来て、「中国のリゾート株を買え」 と言い始めたことがあった。そのことに関しては 10年以上も前に こちら に書いているが、要するに値上がり確実な株を特別に売ってあげるから、銀行から金を借りてでも買えというのである。

初めはフツーに相手をしたが、聞けば聞くほど話がうますぎる。まともな話じゃないと判断して丁重にお引き取り願ったが、確かにセールスのストーリーは細部に至るまでよく練り上げられていて、トークも見事なまでにお上手だった。ちょっと気を許したら、本当にまことしやかに聞こえかねないのである。

純朴だが欲の皮だけは突っ張っているという人 (実はこういう人は、そこら中にうじゃうじゃいる) なら、あっさり信じても不思議じゃないという気がした。あいにくだが私は純朴でもなく、欲の皮は突っ張らすだけ面倒と思う人なので、ころっと騙されることはなかったというだけのことだ。

こんなケースで引っ掛からずに済むには、ただ一つ、先に述べた 「世の中に、おいしい話なんて、そうそう転がっているわけがない」 という常識を尊重するしかない。ところが欲に目がくらんでしまうと、自分に限っては常識はずれのおいしい話に遭遇することがあっても、決して不思議じゃないと思い込んでしまうのである。

冷静になれば、本当においしい話なら、初対面の他人になどもちかけるはずがない。縁もゆかりもない他人に話を持ち込むことこそが、詐欺の証拠みたいなものである。それに気付かないのだから、「強欲 (ごうよく)」 という言葉は 「業欲」 と書いてしまいたいほどのものだと思うのである。

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2013/11/17

大御心というもの

山本太郎氏の園遊会での 「直訴」 事件に関しては、私は静観を決め込んできた。当の天皇陛下御自身が受け取った手紙をすぐに侍従に手渡され、その後、公式的には何の反応も示されないのだから、我々が無闇に騒ぎ立ててどうする。

こうした問題に関しては、千の処分よりも、山本氏自身の自発的で真摯な反省の方が意味がある。彼は天皇の存在を軽んじたわけではなく、むしろかなり尊敬していることが窺えるので、後は浅はかな了見違いの行動についてきちんと自己批判すればいいと、私は思っていたのである。

ところが、世の中には過剰な反応を示す人がいて、山本氏には刃物入りの郵便が送られ、それについて鴻池祥肇という議員が、「切腹用の刀が送られたそうだ」 「私は近くに寄って、すぱっといくから。間接的な殺人はしない」 なんて発言したらしい。フツーに考えれば、こっちの方がずっと穏やかじゃない。

こうした空気に対し、宮内庁は 「天皇陛下がかなり心配されている」 と発表した。これこそ 「大御心」 である。我々は天皇陛下の深い慈愛のタイムリーな表明を、ありがたく受け取るべきである。

平成 16年秋の園遊会で、将棋の故・米長邦雄氏が、天皇陛下に 「日本中の学校に国旗を上げさせ、国歌を斉唱させるのが私の仕事」 というようなことを言うと、天皇陛下は 「強制にならないように」 と諭された。米長氏は 「ありがたいお言葉」 とかしこまった。

我らの天皇陛下はファナティシズムを好まれないのだ。強制による崇拝を受けたところで、喜ばれるはずがないではないか。それを知った私の天皇敬愛の念は、逆にますます強まったのである。

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2013/11/16

ナイジェリア人から預かった荷物に覚醒剤が入ってたって?

愛知県稲沢市というところの市議会議員が、中国で覚醒剤所持の疑いで逮捕されたという (参照)。その後のニュースで、この桜木琢磨という市議は、覚醒剤の入ったスーツケースをナイジェリア人から預かったと言っているらしいということが報じられた (参照)。

桜木市議は貿易会社を経営しており、仕事上の取引で会ったナイジェリア人から荷物 (その後の報道によると、靴のサンプルらしい) を受け取ったが、まさか覚醒剤が入っていたとは知らなかったと主張しているようだ。そして現地で接見した日本の外務省関係者に、「私は無実なので、議員は辞めない」 と言っているらしい。

この人、ずいぶん呑気だなあと思う。中国では麻薬所持は重罪なので、「議員は辞めない」 どころか、客観的には死刑になってしまうことをマジに心配しなければならないところだ。他人から預かった荷物の中にたまたま覚醒剤が入っていたなんていう話を、中国当局が信用するかどうか、悲観的にならざるを得ないではないか。

というのは、この市議は貿易会社を経営しているというのだから、国際的な常識に欠けるとは考えられない。そんな人間が、他人から、ましてやナイジェリア人から預かった 「製品サンプル」 を持って、軽い気持ちで通関できると思ったなんていう非常識なストーリーは、フツーは信じてもらえないだろう。

こう言っちゃナンだが、貿易業務に携わるような人なら、ナイジェリア人と聞いただけで、「詐欺」 とか 「麻薬販売」 とかいうヤバイ話を想起しなければならない。私だったら、預かった物の中にヤバイものが入っていないか、必死に調べる。

いや、そもそも預かったりなんかしない。必要だというなら荷物便で送ってもらう。預かったサンプルを手荷物で持って帰国するなんていうのは、本来は面倒な通関上の手続きが必要になるから、ナイジェリア・ケースでなくても、私なら避けたいところだ。

大多数の真面目なナイジェリア人には甚だ恐縮だが、中国みたいな面倒くさい国で、評判の悪い国の人から預かった 「サンプル」 を手持ちで出国するなんて、考えるだにうっとうしい。そんな常識に当てはまらないリスクを敢えて冒す貿易会社の経営者なんて、「何かある」 と思われても仕方のないところがある。

いや、ここまで考えてふと思い当たったのだが、この市議さん、もしかしたら本当に、相手を信じて荷物を預かってしまったのかもしれない。これだけ 「振り込め詐欺に注意」 と言われながら、わけのわからない口座に大金を振り込んでしまう年寄りが絶えない国の、地方都市の一市議だもの、そんなことがまったくないとは言えない。

30年ほど前、私の上司 2人が出張先のニューヨークで、「ピック・ポケット」 (スリ) の被害に遭いかかったことがある。朝、ニューヨークの町を歩いていてふと振り返ると、上司 2人が何やら怪しい 2人組に引っ掛かっている。どうしたのかと見ていると、上司 2人のジャケットの背中には、チョコレート・アイスクリームがべっとりとなすりつけられている。

怪しい 2人組は、言葉巧みに 「おやまあ、ひどいことになっている。お貸しなさい。私がハンカチで拭ってあげましょう」 みたいなことを言っている。で、信じられないことに、上司 2人はそいつらに言われるままに、ジャケットを脱いで渡そうとしているのである。おいおい、正気かよ、まったく!

慌てて駆け寄って、怪しい 2人組に 「止めろ! それはお前たちがやったんだろう!!」 と怒鳴ると (もちろん、英語でだよ)、そいつらは脱兎の如く逃げ去った。それはまあ、見事なスピードだった。逃げられる前に 2~3発ぶん殴りたいところだったが、まあ、上着の内ポケットの財布だけは、危ういところで取られずに済んだ。

出張前に 「ニューヨークは物騒な街だから、決して怪しいヤツの口車には乗らないように。知らないヤツに物を預けるなんて、絶対にしないように」 と、あれだけ口を酸っぱくしてレクチャーしておいたのに、2人の上司、全然わかっていない。その場になると、いい大人がまるで催眠術にかかったようにあっさり騙されるのを、目の当たりにしてしまった。

「人を見たら泥棒と思え」 なんていうのは、とても悲しいお話ではあるが、世知辛い世の中で身を守るには必要なことだ。善人が圧倒的に多いありがたい国に暮らして、その中にどっぷりと浸かっていると、悪いヤツからは 「カモ」 にしか見えなかったりするのである。

今回の問題では、中国側がこの市議の言い分を聞いて、荷物を預けたというナイジェリア人を取り調べようとしても、多分そいつは出国してしまった後だろうし、万が一中国内に残っていたとしても、「知らぬ存ぜぬ」 で貫き通さないはずがない。この市議さん、本当に大丈夫かなあ。

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2013/11/15

廃油精製工場の爆発事故

今日は山梨県方面から中央道、首都高を通り抜けてつくばの里に戻る途中、陽が沈みかけた頃に野田市の廃油精製工場の爆発事故のニュースを聞いた。死者 2名、重軽傷者 18名という痛ましい事故だったようだ。

自宅に帰ると、末娘が 「ねえねえ、爆発事故のニュース、知ってる?」 と興奮冷めやらぬ表情で言う。彼女の勤務地は野田市に近い柏市なのだが、勤務中に突き上げるような振動があったという。不思議なことに、爆音は聞こえずに振動だけだったらしい。

「本当に音は聞こえなかったのか?」
「音というよりは、下からズーンと突き上げる振動だったんだよね。初めは地震かと思ったけど、それにしてはほんの一瞬だけだったから、上の階で太ったオジサンが転んだのかと思った」

ニュースを聞いて、発生時刻からして、あの振動は爆発事故の影響としか考えられないという結論になったらしい。上空はヘリコプターが何機も飛んでいたという。それにしても結構遠くまで振動が伝わったものだ。事故現場の近所の人たちは、さぞかし驚いただろう。

この話を聞いて私は、20年前の取手市の花火工場爆発事故のことを思い出した。この話は 7年前に 「シャケ弁当とキノコ雲」 という記事に書いているが、とにかくものすごいきのこ雲が上がるのを見て、私は 「あっ、原爆が落ちた。俺はどうして生きてるんだろう?」 と思ってしまったほどだ。

あの時の事故は、死者・行方不明 3人、重軽傷 51人、周辺民家の全焼 10 、全壊 4と報告されたから、今回の事故よりさらに大きいが、問題は被害の大小よりも、そうした危険物を扱う工場での管理である。大は原発から小はリサイクル工場まで、爆発のリスクというのは、結構なもののようなのである。

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2013/11/14

茨城県板東市の 「神田山」 という地名の読み方

茨城県板東市に 「神田山」 という地名がある。昔は猿島郡 (さしまぐん) 神田山村だったが、明治 22年に大口村、猫実村と合併し、神大実村(かみおおみむら)」 となった。何のことはない、それぞれから 1文字をとってつないだだけの地名である。こういうの、昔からあったんだなあ。

その後、昭和 30年に周囲の 8町村と合併して岩井町となり、平成の大合併で板東市となった後も 「神田山」 という地名は存続し、今でも国道 354号線を行くと、「神田山」 という名の交差点がある。これを私はずっと 「かんだやま」 と読むのだと思っていた。素直に読んだら、フツーはそうなるだろう。

ところが 15~6年前にこの近くに住む友人の家を訪ねることになり、電話で道順を聞くと、「そっちからだど、354号線をずっと来て、『かだやま』 交差点を右折して……」 と言う。

「ちょっと待って、『かだやま』 ってどこ?」
「ああ、『神田』 に 『山』 って書く交差点があるだろ」
「あぁ、あるね。でもあれって、『かだやま』 って読むんだったの?」
「うん、『かだやま』 ね」

その交差点の信号には、漢字で 「神田山」 と表記されているだけで、ローマ字表記はないのである。それで彼があまりにあっさりと 「かだやま」 と言うので、それ以来私は、板東市の 「神田山」 は 「かだやま」 と読むのだとばかり思ってきた。

ところがこの夏にちょっとした調べものをしたついでに、板東市の 「神田山」 の本当の読み方は 「かどやま」 だとわかったのである (参照)。私は茨城県に引っ越してきて以来、「神田山」 を 10年ぐらい 「かんだやま」 と誤読し、その後 15~6年にわたって 「かだやま」 と誤読してきたわけだ。

それにしても、どうして私の知人は 「かどやま」 を 「かだやま」 なんて誤読していたんだろう? 地元の住人のくせに、本当の読み方を知らなかったんだろうか? この謎を聞こうにも、彼は早死にしてしまってもうこの世にいないので、確かめようもない。

しかしつい最近になって気付いたのである。あの辺りの人たちは大抵、「神田山」 を 「かだやま」 と言うのである。しかし本来の読みを知らないわけでは決してなく、意識の中では 「かどやま」 と、きちんと認識しているようなのだ。正確に言うと、彼らが 「かどやま」 と発音すると、フツーの耳には 「かだやま」 と聞こえるのである。

それどころか、自分で言うとどうしても 「かだやま」 に聞こえる発音になるばかりでなく、私に 「あれって、『かだやま』 って読むんだったの?」 と聞かれても、「うん、『かだやま』 ね」 と答える。

これって、「かどやま」 の発音の中の 2音目の 「ど」 が、その前後に連なる 「あ列」 の発音に引きずられて、「だ」 に変化してしまうのだとしか考えられない。

そして発音が 「かだやま」 に変化した後でも、当人はあくまでも 「かどやま」 と言っているつもりなのである、さらに、他人が明確に (あいまい母音なしに) 「かだやま」 と発音するのを聞いても、それが 「神田山」 の文脈である限り、何のことなく 「かどやま」 と聞こえるようなのだ。

うちの田舎の庄内人が、「寿司」 と言っているつもりで 「すす」 と言い、「梨」 と言っているつもりで 「なす」 と言い、「父」 と言っているつもりで 「つづ」 と言うのも、こんなようなものなのだろうか。「言文一致」 などと簡単に言うが、発音のレベルまで踏み込んだら、完全な一致なんて、かなり難しいのである。

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2013/11/13

「山崎」 の読み方と、天ぷらの醤油/ソース問題

9月 22日の 「韓国語と東北弁のイメージが似ていることを巡る冒険」 という記事で、「東北では地名でも第二音節以後が濁音、半濁音となることが多い」 と書いた。例えば山形県の地名では、「山形 (やまがた)」 「米沢 (よねざわ)」 「小国 (おぐに)」 「寒河江 (さがえ)」 「尾花沢 (おばなざわ)」 「新庄 (しんじょう)」 「遊佐 (ゆざ)」 など、みな訛る。

一方、九州では 「宗像 (むなかた)」 「福津 (ふくつ)」、「日田 (ひた)」 「宇佐 (うさ)」 など、東日本生まれなら 「むながた」 「ふくづ」 「ひだ」 「うざ」 などと訛りたくてたまらない地名でも、そうはならないのである。どうも東北と九州では、「発声音」 に関するコンセプトが違うようなのだ。

今日になって、「そういえば、名前でもそうだよな」 と気付いた。『釣りバカ日記』 で主人公の浜崎伝助 (ハマちゃん) が東日本流に 「はまざき」 と呼ばれると、急に不機嫌な顔になって 「チッチッ、『はまさき』 っす」 とダメだしするのは、お約束の場面である。そういえばハマちゃんの出身地は、宮崎県都城市だった。

古い記事で恐縮だが、日経新聞に 「山崎ってどう読む ザ?サ? 名字の不思議」 という記事があり、この中に 「専門家によると、東日本では濁音が多く、西日本では清音が多くなるという不思議な法則があるそうだ」 という件がある。

この記事によると、例えばお笑い芸人の山崎邦成 (兵庫県出身) は 「やまさき」 だが、アンタッチャブルの山崎弘也 (埼玉県出身) は 「やまざき」 と濁る。冒頭で触れた 「浜崎」 も、さらに 「中島」 や 「中田」 も同様らしい。そして第二音節以後が濁りやすいのは、どうやら東北だけではなく、東日本全域で共通しているらしい。

この区別は、大体フォッサマグナを境目としていて、面白いことに、天ぷらにかけるのは醤油かソースかということの境界線とかなり共通している (参照)。どうやら、天ぷらにソースをかける土地では、「山崎」 は 「やまさき」 とさらっと発音するようなのだ。音感と味覚って、逆バリ的に出るのかしらん。

そういえば、「ジャパネットたかた」 の高田明社長も、長崎県出身で 「たかた」 だ。なかなか面白い問題である。

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2013/11/12

どうして単語登録の手間を惜しむ?

私の PC に入っている ATOK には、自分でもどのくらいあるかわからないぐらいの膨大な単語登録がしてあって、ものすごく重宝している。たまに他人の PC を使って 「平成 25年」 と入力する時、いつものように 「へせ」 とやっても 「平成」 に変換されないのにがっくりきて、ものすごく気の利かない PC だと思ってしまう。

この他にも、仕事や個人的付き合いでの交友関係が、200人以上登録されている。苗字を入力すれば正しいフルネームに変換されるようにしてあるので、ミス表記がなくなるのがありがたい。人名を間違える (「隆史」 「隆志」 「孝史」 などの変換ミス) のはかなり失礼にあたるので、このくらいはしておく方がいい。

それから、ビジネスメールで必ず使う 「お世話になっております」 という出だしは、「おせわに」 で、「よろしくお願いいたします」 は 「よろおね」 で変換される。こんなに決まり切ったフレーズを入力するのに、いちいちまともにキーボードをパンチするのは、私としては信じられない。

それから、ちょっと入力しにくい単語なども、迷わず登録してある。例えば 「発表」 は 「はp」、「プレゼンテーション」 は 「ぷれぜん」 ではなく 「ふれせん」 (P、Z よりも、F、S の方がパンチしやすい)、「つくばエクスプレス」 は 「tx」 だ。

ここで急に思い出したが、「tx」 と入力すると、「つくばエクスプレス」 の他に 「テキスタイル」 という単語にも変換される。最近は 「つくばエクスプレス」 の方が圧倒的に優先されるが、前に繊維業界の仕事をしていた時は、まず 「テキスタイル」 と変換されていた。

そうえいば私の登録単語は、繊維業界用語がかなり多い。「ふぁぶ」 と入力すれば 「ファブリック」 「ファブリケーション」 が出てくるし、「ぽり」 と入れるだけで 「ポリエステル」 になる。「w」 の一文字だけで 「ウール」 が出てくるのは、前にウール関連の仕事をしていた名残だ。ちなみに 「ウールブレンド」 は 「wb」 で登録してある。

この関連では 「あ」 で 「アパレル」 「ふぁ」 で 「ファッション」、「ふぶる」 で 「ファッショナブル」、 「こーで」 で 「コーディネーション」、「かじ」 で 「カジュアル」 、「md」 で 「マーチャンダイジング」 など、かなりの数の単語が登録してある。

関係先や文中によく出てくる企業名、団体名、固有名詞でも、よく使うのはほとんど登録してある。例えば 「経済産業省」 は 「めち」。これは 英語の略称 "METI" からきている。「こむで」 はもちろん 「コム・デ・ギャルソン」 、「すかつり」 は 「東京スカイツリー」 だ。

私が驚いてしまうのは、ビジネスで PC を使っている人の多くが、あまりにも単語登録を利用していないことである。例えば自分の部署名が 「マーケティング開発部」 だったら、私なら躊躇なく 「まけかい」 で登録するのだが、そんなふうにしている人はあまり見かけない。

「だって、『負け会』 って変換されちゃうでしょ」 なんて言われるのだが、一度 「マーケティング開発部」 で変換してしまえば、次からはこれが優先されるので問題ない。これをやらないというのは本当に信じられない。

「だって、登録するのが面倒なんだもの」 という人もいる。しかし私にしてみれば、たった一度の手間を惜しんで、同じ長ったらしい言葉を死ぬまで指がからみそうになりながら入力する方が、ずっと面倒だ。PC という道具は、面倒を回避して楽をするためにあるというのに。

ここでふと気付いたのだが、「PC は面倒なもの」 と思っている人ほど、実際に PC を面倒に使っているという傾向がある。それで結局は PC に使われてしまっているのである。「楽するためのもの」 と思っていれば、徹底的に楽ができるような算段をして、PC を使いこなす。

私が Windows 付属の MS-IME ではなく ATOK を使っているのは、好きなだけ単語登録ができるからでもある。Windows のおまけにすぎない MS-IME では、これができない。登録単語のファイルサイズが 64KB を超えると、ある日突然消えてしまうのである (参照)。

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2013/11/11

「北東の風、強く、のちやや強く」 の意味

前から気になっているのだが、天気予報での風の強さの予報で、「北東の風強く、のち、やや強く……」 と言ったような言い回しが、かなり紛らわしく感じるのである。子供の頃は、北東の風が強い上に、後になって、さらにやや強まるのかと思っていた。ところが、どうやら違うらしいのである。

風の強さを表すには風力の数字以外に、言葉による表現がある。「強い/やや強い」 に関しては、気象庁のサイトによると 「強い風」 が 「風速が 15m/s 以上 20m/s 未満の風」 で、「やや強い風」 が 「風速が10m/s 以上 15m/s 未満の風」 と規定されている。当然ながら、「強い風」 の方が 「やや強い風」 よりも強い。

つまり、「強く、のち、やや強く」 というのは、初めは 「強い風」 であって、後に 「やや強い風」 に変わるという意味で、要するに相対的には少し弱まるのである。ところが言葉をそのまま聞いてしまうと、継続的な気分のせいで、後になって 「やや強まる」 というようにも聞こえてしまうのだ。

このように、「公式的言葉」 は 「日常的言葉」 とはやや異なっているのである。それをとくに感じるのは、法律用語や法律の条文だ。日常的な感覚からはかなりかけ離れた言い回しが多い。

公式的言葉を読み解くには、単語を 「部品」 として捉え、文章はその部品の組み合わせとして、機械的に理解しなければならない。つながり具合が多少気持ち悪くても、感性を封印し、機械的に整合性がとれさえすればいいと考える。つまり 「強く、のち、やや強く」 も、ほとんど符丁みたいなものぐらいの感覚で理解しなければならない。

ただそれにしても、公選法 第141条の 3 「選挙運動のために使用される自動車の上においては、選挙運動をすることができない」 (参照) というのは、シュールすぎると思うのだがなあ。

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2013/11/10

再び地方分権について

昨年 6月に 「バイオミミクリーの可能性」 という記事を書き、その中で 「昆虫脳」 「ファーメンテーション・セオリー」 に学ぶということを強調しておいた。

昆虫脳については、次のように書いている。

昆虫の脳は、人間の脳の 100万分の 1 程度の質量しかないのに、立派に機能しているのは、頭の中にあるのは半分程度で、残り半分は 「神経脳」 として、体中に分散しているからなのだそうだ。これによって、時には人間の脳よりも優秀な機能を発揮したりできる。

昆虫脳を人間社会に応用すれば、コンベンショナルな中央集権制を越える機能分散的なシステムを想定できる。事実、アメリカのカトリーナ台風や日本の東日本大震災などの危機的状況においては、中央政府の機能はあまり役に立たず、現場の情報をネットワークで結んだ分散的な NPO の働きが、効果的に機能した。

「ファーメンテーション・セオリー」 というのは、酵母菌の発酵 (fermentation) にヒントを得たもので、「酵母菌はどんなに増殖しても、余計なものは生み出さない」 ことに注目している。人間社会では組織が肥大化すればするほど、総務部とか管理部とか人事部とかいう、直接業務に携わらない間接部門が増える。

過度の中央集権システムにおいては、間接部門に携わる人間は、自分の仕事を失わないために、そして自分の昇進ポストを増やすために、わざわざ必要もない間接部門を増設したがる。こうした愚はそろそろ卒業したいものだが、力を持ってしまった人間の過度の欲望の問題なので、なかなか難しい。

私は 7年前の 「日本の改革が進まないわけ」 という記事で、その理由は、「日本は、自由主義を標榜する先進国で、人口が 1億人をはるかに越えていながら、地方分権が進んでいないという点では、世界でたった一つのケース」 だからと指摘した。要するに、小回りが利かないのである。

大まかな方向性さえ示されていれば、あとは個々人、あるいは個々の組織が、現場目線で自分のなすべきことをさっさとやるのが、仕事を進める上で最も効果的なのである。現場から遠く離れた中央にお伺いを立てなければ何もできないというシステムでは、どうしようもないのだ。

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2013/11/09

薬は 「対面販売なら安全」 なんて、誰が信じる?

一般用医薬品のネット販売に関して、「医療用医薬品から一般用医療品に転用した医薬品 23品目については、最長 3年間は対面販売のみ」 ということになりそうだ。これに対して、楽天などのネット業界は猛反発している。

楽天の猛反発に対するさらなるカウンターとして、甘利経済財政・再生相は 8日の記者会見で、「政府は専門家にどのようにリスクを管理し、(ネット販売への) 手順を踏んでいくか検討してもらった。回答を無視することの方が説明が付かない」 と答えた。要するに 「専門家が言ってるんだから、文句あるか」 という、子供じみた反論である。

しかし一般消費者の立場からすると、大臣のおっしゃる 「専門家」 というのは 「医薬品とその流通の専門家」 が含まれてはいても、恐縮ながら日常の買い物のことは、あまりよくわかっていらっしゃらないのではないかという気がする。何しろエラい人たちばっかりだからね。

この人たちって、近所のドラッグストアで、二日酔いに効く胃薬とか葛根湯とかを、ティッシュペーパーやカップラーメンと抱き合わせで買い物することなんて、ないんじゃあるまいか。どうも、「対面販売」 を買いかぶっているとしか思われないのである。

私の自宅の近所に、かなり広く (多分全国ベース) チェーン展開しているドラッグストアがあり、この辺りの人は、薬ばかりでなくいろいろな日用品までそこで買い物している。それで周囲の薬局は、医者の隣の処方箋専門みたいな所を除いて、みな潰れてしまった。

このドラッグストアで薬の買い物をする時は、スーパーマーケットと同様に、自分で棚から選んだ薬をバスケットに放り込む。バスケットの中では目薬や風邪薬が、ティッシュペーパーやカップラーメンばかりでなく、出汁の素、飴ちゃん、乾電池、白髪染め、ババシャツなどと一緒くたになっている。

そんなわけで、ドラッグストアで薬を買っても 「対面販売」 という気はしない。しかも、レジ係はパートのおばちゃんと、いかにも高校生という雰囲気のバイトだ。薬剤師もいないことはないみたいだが、いつも奥に引っ込んでいてあまり顔を見ないから、相談しようにもしにくい。どうせ誰も相談なんてしないけど。

それからもう一つ、「最長 3年間」 という期間の根拠はどういうことなのか。3年もあれば大抵、安全確認がとれるということのようだが、その 「安全確認」 ってどういうことなのか。最初の半年は問題がなかったが、2年 11ヶ月目で突然のように問題が露見するなんてことがあるのか。そうだとしたら、もし 3年 1ヶ月目で問題が露見したらどうするのか。

これは 「薬品」 ではないが、カネボウの美白化粧品のように、対面販売でも被害が発生するなんてことは、どう説明するのか。同じ商品でも、ネット販売だと被害発生率が高くなるとでもいうのか。

一方で、件の 23品目に含まれる 「ロキソニン S」 や 「アレグラ FX」、「コンタック鼻炎 Z」 などが手放せず、それらをリアル店舗で買う時でも、「店から 『ちょっと一言、注意』 なんてあった試しがないぞ!」 と憤っている人もいる。

上述の 「アレグラ FX」 なんて、私が 3日の記事で触れた日経トレンディの 「2013年ヒット商品ベスト 30」 の 17位にランクインしている。既にそれほど売れていて、リアル店舗で買う時に 「ちょっと一言」 も何もないなら、ネット上できちんと警告表示して売る方が、ずっとマシだという気もするのだけどね。

私自身は個人的にはどうでもいい問題だが、近所に薬局がない山奥や離島に住んでいて、しかも杉花粉症の季節になると 「アレグラ FX」 が手放せないというような人が、ちょっと不憫である。

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2013/11/08

Mac mini を買っちゃいそう

Windows 8 を使うのは死ぬほど嫌だし、そもそも iPhone と iPad を使い続けてリンゴのエキスが体に染みわたってしまったので、次に PC を買い換える時は Mac にしようと決心してから、結構時間が経ってしまった。そろそろ 1年近くになろうとしている。

で、当初は、新たに買うのは MacBook Pro Retina の 15インチ・モデル (512GB フラッシュストレージ) しかないと思っていた。持ち運びのためにはブック型しかないし、近頃目がショボショボしやすいので、13インチではなく、15インチの Retina ディスプレイしかない。それに、512GB の保存容量は欲しいところである。

買い換えようと決心し、モデルも 1つしかないと決めているのに、何をこんなにぐずぐずしているのかといえば、まず今使っている Let's note が大した問題もなく長持ちしていることと、MacBook Pro Retina の 15インチ・モデルの値段が結構高いので、そう簡単に買っちゃうのがためらわれるためなのだ。

とはいえ、来年 4月には消費税が上がってしまうことだし、そろそろ本当にアクションを起こさなければならないと思っていた矢先、友人知人に 「Mac mini がいいですよ」 と薦められ、心が揺れ動いている。

確かに、上述の MacBook Pro でなければならない理由は、Mac mini でも置き換え可能なのである。

まず、持ち運びに関しては、そもそも最近は PC を持ち運ぶことはあまりなく、外に出る時は iPad にすることの方が圧倒的に多い。どうしても iPad では用が足りない時は、Mac mini の本体のみを持ち運べばいい。iPad を臨時の外部ディスプレイとして使える (参照) ので問題ないし、車での移動が多いので、重さも全然苦痛じゃない。

性能的にはほとんど不足はないし、モニターにしても、Apple 純正にするかどうかは決めていないが、Retina じゃなくても大型にすれば目の負担は軽い。それに、何と言っても値段が安くて済む。これが大きい要素だ。

というわけで、近日中に Mac mini を買っちゃうことになる可能性が高まっている。ついに Mac ユーザーになる日も近い。

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2013/11/07

機械採点による 「一人句会」 システム

Kanimaster さんが 「カラオケみたいに俳句を機械で採点することが出来れば、一人カラオケみたいに一人句会も出来るはず。(少なくとも練習にはなるはず。)」 と tweet しておられる (参照)。うん、これ結構名案かもしれない。実現可能性だって、捨てたものじゃない。

まず、五七五というシラブルに合致しているかなんていうのは、とても機械的に判定できるし、多少の字余りや字足らずを減点することもできる。それから俳句の重要ポイントである 「季語」 にしても、歳時記をデータベースにしてインプットしておけばいい。「季重なり」 だって、機械的に判定できる。

文法的な部分の整合性は案外簡単に判定できるだろし、直接的すぎて膨らみを減衰してしまうタイプの形容詞 (例えば 「美しい」 とか 「懐かしい」 とか) を安易に使ったら減点みたいなこともシステム化できるだろう。こうした機械的な判断の可能な部分は、案外簡単にシステム化が可能だと思う。

それから、「趣き」 とか 「風情」 とかいうのも、かなり乱暴を承知で数値化してしまえば、できないこともない。「風情を感じさせる単語」 というのをデータベース化して、それぞれにざっくりとした印象に基づく点数を割り振ってしまえばいい。「美しい日本語」 みたいなものは高得点にしてしまうのだ。

ただ、こうしたシステム化による判定システムは、あまりフェイクを多用した玄人っぽい歌唱になると、カラオケの点数がかえって低くなるみたいなもので、高度な句に高得点を与えるほどの理解力をシステムに期待するのは、やはり無理だろう。

それに 「こんな感じの俳句にすれば、点数が高くなるのよね」 といったようにシステムに慣れすぎると、点数は高いけれど、深みは全然ないみたいな句になってしまうような気もする。

俳句の機械的判定は、やはり 「初歩の初歩」 の練習用みたいなものと割り切って、ある程度慣れたら、あとは人間の感性に任せなければならないと思うのである。

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2013/11/06

「病葉 (わくらば)」 という言葉

「わくらば」 という言葉がある。この言葉を知ったのは、その昔に中曽根美樹という歌手が 「川は流れる」 という歌を歌った時で、たった今ググってみたら、昭和 36年の歌だというから、私が小学校 3年の時だ。

その歌は、「病葉 (わくらば) を/今日も浮かべて/街の谷/川は流れる」 という歌い出しだった。当時の歌謡曲としてもなかなかきれいなメロディで、結構ヒットしたと思う。ただ、小学校 3年生の子供のことだから、耳から聞こえてくる歌詞が詩的すぎてさっぱりわからなかった。

子供の耳には 「ワクラバを今日も浮かべて、マチノタに川は流れる」 と聞こえて、「ワクラバってなんだ?」 「マチノタって、どんなにのたくってるんだ?」 と思っていたのである。

「ワクラバ」 に関しては、国語辞典で調べると 「病気で枯れた葉」 とある。「へぇ、そんな意味だったのか!」 と、いっぺんにしらけた。通学路の途中に 「和倉」 という表札の家があり、その家のしわくちゃばあさんが思い出された。要するに、かなり興醒めなイメージをもってしまったのである。

ところが後に知ったのだが、文芸の世界では、「病葉」 という言葉はかなり風情のある言葉としてイメージされているようなのだ。俳句では夏の季語として定着しており、「夏に散る落ち葉」 という意味で、その奥に 「夏に散るのは何らかの病気を得ているのだろう」 という 「はかなさ」 を浮き彫りにしているような気がする。

単なる 「しわくちゃばあさん」 のイメージではないみたいなのだ。そりゃそうだろう。そうでなければとても叙情的な歌の文句、しかも最初の歌い出しに使われたりしない。高浜虚子の俳句に 「病葉や大地に何の病ある」 「病葉にたまれば太し雨雫」 というのがある。やはり夏という季節の中の、ある種のはかなさを感じさせる。

こだわった迫り方をすれば、「病葉」 の 「病」 という字を 「わくら」 と読ませるのは、少なくとも私の手持ちの 『大辞林』 では、他に例がない。つまりかなり特殊な言葉なのである。

ググってみると、「赤らむ葉 (アカラムハ)」 が転じて 「わくらば」 になったとする説と、古語の 「わくらばに」 (「偶然に、まれに」 という意味で、今でも 「邂逅」 を 「わくらば」 と読むこともある) が、「夏なのに秋のように散る」 という意味合いに通じて 「病葉」 に転じたという説がある (参照)。

後者は、言葉の最後の 「ば」 という音が 「葉」 に通じるので、なるほどそういうこともあったのかもしれないと思わせる。日本語というのはかなり叙情的に奥の深い言語のようで、「病葉」 を単に即物的に 「病気で枯れた葉」 と説明するのでは全然足りない。

辞書で調べただけで言葉をわかった気になるのは、とてもアブナい。

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2013/11/05

出雲大社に詣でた

仕事で出雲に来ている。昨日は前泊するだけなので夜に着けばいいのだが、仕事とはいえせっかくの出雲なので、昼前に着いて出雲大社に詣でた。今年は平成の大遷宮が伊勢神宮の遷宮との相乗効果を発揮して、大変な参拝客だった。去年の 10月に来た時はそれほどでもなかったのに。

なにしろ、飛行機が完全に満席である。キャンセル待ちの人もかなりいるようだった。さらに、出雲空港から出雲大社行きのバスに乗ったら、終点のかなり前から渋滞で一寸刻みになった。それで、終点の前で降りて、歩いて向かった。参道も人の波である。

出雲では、10月は 「神無月」 ではなく 「神在月」 ということになっている。何でも、日本中の神様が出雲に集うので、全国的には 「神田月」 だが、出雲では 「神在月」 なんだそうだ。もっとも、これは後世に作られた 「俗説」 のようだが。

「神在月」 は旧暦の話なので、まだ続いているらしい。それで今回はこんなに混んでしまったわけだ。飛行機が満席なら、ホテルもすっかり埋まっていた。朝食の時間、テーブルの空きを待つ行列ができたほどだ。

3日の 「2013年ヒット商品ベスト 30」 でも 「伊勢・出雲」 は 5位にランクインしていたほどだから、かなりのものである。日本の神社の底力をみたような気がした。

とはいえ出雲大社の場合は、伊勢のように完全に建て替えるわけではなく修繕に近いものだから、遷宮の間はいわば 「工事中」 である。私としては、遷宮でない普通の時にもう一度来て、ゆったりと全体を見渡しながら参拝したいと思ったのであった。

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2013/11/04

旧国名をしっかりモノにしてみたい

山形県生まれで茨城県在住の私は、西日本の人たちが山形県と秋田県の区別がつかなかったり、群馬県、栃木県、茨城県の位置関係がわかっていなかったりすることに、内心ムッときていたのだが、考えてみれば、私だって前は島根県と鳥取県、徳島県と香川県の位置関係がアヤしかったりしていたのだから、おあいこである。

近頃は仕事で日本中に出かける機会が増えたので、都道府県はしっかりわかった。とにかく一度自力で行ってしまえば、地理関係は整理が付くし、土地柄も少しはわかる。3度か 4度行けば、いくら方向音痴の私でも、中心街は迷わず歩ける。

先月は香川県に出張したので、日本全国 47都道府県のうち、46都道府県を踏破した。残るは鳥取県だけである。お隣の島根県は既に行ったし、他ならぬ今日も訪問中なのだが、鳥取県はなかなか行く機会がない。しかしここまでくれば、なるべく早いうちに 47都道府県すべてを踏破してみたいものだ。

で、話を元に戻すが、都道府県レベルでの日本地理はしっかりわかったのだが、旧国名での理解が、今イチなのである。念のため説明しておくが、旧国名とは日本が律令国家だった頃に決められた地名で、長野のあたりが 「信濃」、新潟のあたりが 「越後」、静岡のあたりが 「駿河」 というような呼び方のことである。

私はもう一つのブログ 『和歌ログ』 で、旧かな使いで文語の歌を作っているので、行く先々で読む歌は旧国名を使うことが多い。広島に行けば 「安芸の地は浄めの雨の降り止みて旅路の我に薄日差し来る」 なんてことになるし、宮崎に行けば 「日向なる国の陽射しをついぞ見ぬ旅にしあればまた訪ね来む」 てなことになる。

こんなわけで、旧国名に関しては、同年代の連中よりはずっと詳しいという自負がある。ところが東日本生まれの哀しさで、西日本の旧国名は、まだすっかりわかったわけではない。

この件に関しては、西日本生まれの人はずっと有利である。なにしろ東北方面は、太平洋側の 「陸奥 (むつ)」 と日本海側の 「出羽 (でわ)」 の、2つしかない。畿内からみれば地の果てというわけで、明治になる前はこんなチョー大雑把な区分けで済ませられていたのである。

もっとも明治になってからは、「陸奥」 が 「陸前」 「陸中」 「陸奥」 の 3つに分けられ (一番奥は 「陸後」 ではなく、漢字が漢字だけに 「陸奥」 のまま)、「出羽」 も 「羽前」 と 「羽後」 の 2つに分けられたが、その後すぐに廃藩置県になったので、その実効期間は哀しいほど短い。

東北の大雑把さに比べると、西日本は今の府県よりもずっときめ細かく分けられていて、覚えにくくてたまらない。とにかく今の大阪府という狭い地域に、「摂津」 「河内」 「和泉」 という 3つの国が存在していたのだ。大阪人なら感覚で違いがわかるだろうが、東北生まれにはなかなか理解しにくい。

今日訪れている島根県だって、昔は 「出雲」 と 「石見 (いわみ)」 の 2つの国に分かれていたのだ。今となっては、東北より人口が少なくなっているというのに。

さらに難読国名というハードルがある。「但馬 (たじま)」 「因幡 (いなば)」 「播磨 (はりま)」 「安芸 (あき)」 「長門 (ながと)」 ぐらいなら、まだなんとかなり、「周防 (すおう)」 も、ぎりぎり大丈夫のラインだが、そんなものでは済まない。

「遠江 (とおとうみ)」 (今の静岡県西部)、「伯耆 (ほうき)」 (今の鳥取県西部)、「美作 (みまさか)」 (今の岡山県北部) なんてもろに難読もいいところで、地元以外でちゃんと読める人は本当に少ないだろう。

さらに、正式の国名以外に 「略号」 というのがある。例えば、「信濃」 が 「信州」、「甲斐」 が 「甲州」、「尾張」 が 「尾州」 となる。「上州」 や 「長州」 なんて、「上野 (こうずけ)」 「長門」 よりも馴染みがあるぐらいだろう。ここまで覚えるのはかなり大変だ。

いずれにしても、旧国名を理解した上で現地を訪ねると、現在の都道府県の区分けでは反映されない地域性の差がしっくりと理解できるところがあって、なかなかいいものである。時間をかけてでもしっかりモノにしてみたいと思っている。

【業務連絡 (2013.11.28)】

近頃この記事に外国からのスパムコメントが集中するので、しばらくコメントを受け付けないという設定にさせていただきました。折を見てコメント受付を再開する予定ですので、ご了承ください。

なお、他の記事は原則としてコメントを受け付けます。

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2013/11/03

「2013年ヒット商品ベスト 30」 の 3分の 2 以上を知らない私

Slashdot の タレコミさんが、日経トレンディの発表した 「2013年ヒット商品ベスト 30」 に関して、知らないものだらけで、「10位以下に至っては 7割くらいがよく分からないものであった」 とコメントしている (参照)。

そんなに知らないものばっかりなのかと思って行ってみたら、なるほどその通りだった。「よく知ってるもの」 「辛うじて知ってるもの」 「名前だけは聞いたことがあるが、詳しくは知らないもの」 「知らないが、ネーミングからなんとなく想像のつくもの」 「全然知らないし、見当も付かないもの」 の 5項目に分けてみた。

1. よく知ってるもの (たったの 5商品)

コンビニコーヒー (1位)
アベノミクス消費 (3位)
伊勢・出雲 (5位)
Nexus 7 & iPad mini (6位)
富士山 (30位)

2. 辛うじて知ってるもの (哀しくなるほどの 3商品)

半沢直樹 (4位)
あまちゃん (7位)
風立ちぬ (21位)

3. 名前だけは聞いたことがあるが、詳しくは知らないもの (驚きの 1商品)

ノンフライヤー (9位)

4. 全然知らないが、ネーミングからなんとなく想像のつくもの (たいしたもんだ、9商品)

セブンゴールド 金の食パン (11位)
ルック おふろの防カビくん煙剤 (12位)
くつろぎ時間の SLIMWALK 足指セラピー (18位)
ブルートゥーススピーカー (19位)
ヘルシアコーヒー (20位)
目もとエステ (23位)
グルメポップコーン (24位)
ネイルシール (25位)
〈ブレンディ〉スティック ティーハート (27位)

5. 全然知らないし、見当も付かないもの (4割の 12商品)

パズル&ドラゴンズ (2位)
レイコップ (8位)
グランフロント大阪 (10位)
アイカツ! (13位)
ヨナナスメーカー (14位)
鍋キューブ (15位)
ベジップス (16位)
アレグラFX (17位)
フルメーク ウォッシャブル ベース (22位)
アンチスタックス (26位)
ASOKO&フライング タイガー コペンハーゲン (28位)
林 修 (29位)

というわけで、この私としても日経トレンディの選んだ 「2013年ヒット商品ベスト 30」 のうち、 「ネーミングからなんとなく想像の付くもの」 を含めて、全然知らないものが 21商品。「名前だけは聞いたことがある」 というのまで含めれば、22商品もあったのだ。

なんと、3分の 2 以上を、知らなかったのである。Slashdot の記事のタレコミさんとほとんど変わらない。

さらに言えば、「よく知っているもの」 でも、1位の 「コンビニコーヒー」 は一度も買ったことがないし、3位の 「アベノミクス消費」 も、あまり実感していない。6位の 「Nexus 7 & iPad mini」 に関しては、iPad mini はお馴染みだが、Nexsus の実物は見たことがなく、Nexsus ユーザーにもまだ遭遇したことがない。

「辛うじて知ってるもの」 でも、9月 1日の 「テレビドラマを巡る冒険」 で書いたように、「あまちゃん」 はちらちらっと見たことがあるが、「半沢直樹」 は漫画家の浦沢直樹と区別がついていなかったほどで、今でもあんまりよくはわかっていない。さらにジブリの 「風立ちぬ」 は、つい最近まで堀辰雄の小説のアニメ化だと思っていた。

いやはや、人には 「物知り」 と思われている私だが、知っているのはイニシエからのウンチクばっかりで、新しめのことはかくまで知らないことだらけなのである。そんなに世捨て人みたいな暮らしをしているわけでもないのに。

もしかしたらこれって、ヤバイことなんだろうか。新しいことに興味を失うのは、老化の始まりというではないか。

いや、安心しておこう。よく考えれば私は、新しいこと全般に興味を失っているわけでは決してないのだ。たまたま 「ヒット商品」 といわれる薄っぺらな分野に興味が湧かないだけで、それはカウンター・カルチャーに染まった若い頃から一貫した話である。

「知る人ぞ知る」 みたいなマイナーなことなら案外敏感に反応するのは、このブログの読者ならわかっていただいていると思うので、まあ、今後もこの路線でやっていくことにしたい。「えっ、そんなことも知らないの?」 なんてびっくりされることがあるかもしれないが。

最後に付け加えると、全然知らないものでも、ネーミングからなんとなく想像が付く商品が 9つもあるというのは、結構なものだと思うのである。ネーミングは本当に大切な要素だ。

逆に、「ヨナナスメーカー」 だの 「ASOKO&フライング タイガー コペンハーゲン」 だのなんて、想像力を駆使してもさっぱりわからない。いくつかはググってみてわかったけどね。まあ、ググってみるだけ、新しいものへの興味が失われたわけではないみたいなのだ。

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2013/11/02

シェイクスピアの 『十二夜』 の意味

実は大変な思い違いをしていたことに、還暦過ぎて初めて気が付いた。シェイクスピアの 『十二夜』 ("Twelfth Night, or What You Will") という芝居を見たのは確か 20歳の頃で、それ以前に戯曲を読んではいたはずだから、42~3年ぐらいずっと知らずにいたことになる。

このタイトル、「普通は 十五夜とか十三夜とかいうけど、十二夜なんてあまり言わないよなあ」 と、ほのかな疑問を感じてはいても、結局なんのことなく月齢のことだと思っていたのである。

いやはや、よく考えれば、月齢のはずがないではないか。英国人が太陰暦ベースのタイトルを採用するなんて、不自然ではないか。これが 「あり」 だったら、「十五夜」 というタイトルの文芸作品ががほかにいくつもなければおかしいではないか。ちょっと考えれば気付いていたはずなのに、なんで 40年以上もほったらかしておいたのだろう。

昨日ふと思いついて調べたら、Wikipedia に "「十二夜」とは、12月 25日から 12日目、一連のクリスマス祝いの最終日にあたる 1月 6日の顕現日の夜のこと" と、あっけらかんと書いてある (参照)。なんだ、そうだったのか、お月様の形とは別の話だったのか。

そしてその 「顕現日」 というのを調べると、「公現祭」 とも言われ、東方教会と正教会ではイエス・キリストの洗礼を記念する行事だが、西方教会では主の洗礼の意味が失われ、幼子イエスへの東方の三博士の訪問と礼拝を記念する意味が大きくなっているという (参照)。

そんなこととはちっとも知らなかった。しかし言い訳に聞こえるかもしれないが、Wikipedia の 「十二夜」 の項にもあるように、「劇中に十二夜の行事に関わるような台詞はない」 のだ。つまり、劇中では十二夜そのものについては、全然触れられていないのである。

これでは、「十二夜って、どうやら月齢のことじゃないんだな」 と推量するチャンスがないではないか。そもそも原題は 『十二夜、あるいはあなた次第』 という、無茶苦茶ユルいものなのだから、日本人が月齢のことだと勘違いしても、それほど責められなくてもいいだろう。

ともあれ、『十二夜』 の本当の意味も知らずにあの世に行くことが避けられたのだから、とりあえずはよしとしておこう。

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2013/11/01

業務連絡

本日、ココログの管理画面で確認したら、当ブログの累積アクセス数は、既に 450万を越えていて、これまでの Ninja 提供のアクセスカウンター (370万なにがしと表示していた) との開きがありすぎという状態にまで達していた。

それでちょっと面倒だったが、ココログのサーバがカウントしている数字をそのまま反映するように、ココログ純正のカウンターに取り替えた。これまでは 「少々の誤差は、どうでもいいや」 と思っていたが、「少々の誤差」 どころじゃないことが判明したための措置である。

いきなりアクセス数が増えたように見えるが、実数を反映したもの (それでも、ケータイ、スマホ画面へのアクセスまでは反映されないが) になったので、驚かれないようにしていただきたい。

それにしても、ココログ純正のカウンターは、どうも表示が間延びしてしまう。そういえばこれまでは、それを嫌って Ninja 提供のカウンターにしていたんだと思い出した。

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ほうらやっぱり、そこら中 「虚偽表示」 だらけ

先月 29日付の 「阪神阪急ホテルズの件での違和感」 で 、"「やべぇ! ウチの車海老だってブラックタイガーじゃん。でも、みんなやってるはずなのに、今さら何で責められるの?」 と思いつつも、口を拭って知らんぷりしている業者は、日本中にくさるほどあるはずなのだ" と書いたが、ついに口を拭いきれずにカミングアウトする業者がボロボロ出てきた。

「ゴキブリを 1匹見つけたら 100匹いると思え」 というが、こうした問題では、昔からまさにこんなような様相となる。今回の場合、すぱっと割り切れば、それはもちろん 「虚偽表示」 という結論にはなるのだろうが、現場の意識としてはほとんど 「誤表示」 と 「だってそんなこと、深く考えなかったんだもん」 の間の、いわく言い難いところなんだろうと思う。

そもそもホテルや飲食店の業界では、こうした表示にものすごく無頓着で、ブラックタイガーを車海老として扱うなどの 「代用魚」 という慣行以外でも、例えば 「地場産」 とか 「手作り」 なんていう表示でも、単なる 「雰囲気のモノ」 ぐらいに思ってきたフシがある。「こう言っとけば、何となくいい感じだよね」 ってな軽い気持ちで、テキトーな表示をしちゃう。

そもそもコンプライアンスなんてことはあまり意識したこともない。たまたま一度 「手作りパン」 なんていう手書きの POP を作って飾ると、それがいつの間にか印刷されて、手作りでなくてもずっと使い続けられてしまったりする。雰囲気だけはいいけどビミョーな名称のメニューを作り、それを 「ロマン溢れるオリジナリティ」 なんて思い違いをする。

そんなようなことが、現場ではなんとなく見過ごされ、客の方も、その 「雰囲気」 に安易に乗っかって、「やっぱり、ホテルの 『手作りパン』 はおいしいよねえ」 なんて、いい気持ちになる。普段 「手作りパン」 なんて食ったことがないから、違いなんて実はさっぱりわからない。(* 注)

雰囲気でころりとだまされていい気持ちになっていたのに、後になってスペック的に明らかに 「表示と違う」 ことがわかると、急にいきり立つ。これって、「なんだかなあ」 と思ってしまうのである。

いや、あるいは、客の方も決して 「いい気持ち」 になんてなっておらず、高い金を払っているのだからと、なんだかわからないが 「おいしい」 ということにして、無理矢理納得していただけなのかもしれない。さらにもう少し突っ込むと、あまり 「無理矢理」 でもなかったりするから、話はますますややこしくなる。

昨年 6月の 「高いワインは、本当においしいのか?」 という記事でも書いたように、ワインなんかその道の専門家でも、「これは高いワインですよ」 と言われ、信じて飲めばおいしく感じてしまったりするという実験結果が出ている。だから高い金さえ払えば、それだけでおいしいと自然に納得してしまうこともあるようなのだ。

無理矢理納得したという自覚があるなら、「信じた私がバカだった」 で済むかも知れないが、自然に納得してしまったんだとすると、「騙された」 といきり立つのも、少しはわかるような気もする。

私なんかへそ曲がりだから、高い料理ほど 「この値段でこの程度か?」 と思うことの方が多いぐらいで、逆にリーズナブルな値段で本当においしい料理を発見することの方に、食の喜びを感じる。リーズナブルな値段の理由が、車海老でなくてブラックタイガーだったとしても、「まあ、おいしきゃいいか」 なんて思っちゃったりするから、困ったものだが。

「日本人は舌が肥えている」 なんていうのは、実は都市伝説レベルのお話だと、私は思っている。だって仕事上で会食なんかすると、大したことのない料理を 「おいしいねぇ!」 なんていう、自称グルメのオッサンがやたら多いのだもの。

それで、昔の歌の文句に 「どうせ私をだますなら だまし続けてほしかった」 というのがあったのを、急に思い出してしまった。

【注】

「手作りパン」 についていえば、私は 30年近く天然酵母のパンを自分でこねて手作りしているベテランなので、大見得を切って言わせてもらう。(参照 12

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