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2014年4月に作成された投稿

2014/04/30

韓国民の怒りが長続きする性向を、見習いたいか?

私は車を運転しながら、ほぼずっと、TBS ラジオを聞きっぱなしという人間だが、平日夕方に放送される 「荒川強啓のデイキャッチ」 という番組だけは、聞いていてイラっとすることが多い。これまでも下記の通り 3度ほど、この番組について名指しで批判的なことを書いている。

ステロタイプの応酬と化した靖国問題
日本のマスコミとナベツネ
ラジオ・ショッピングで食品を売ろうとする時

さらに言えば、この番組の水曜日の放送というのは、ことさらにイラっとくることが多い。というのは、水曜日のコメンテーターの近藤勝重という人がもう、「趣味の悪い 護憲平和主義」 の権化みたいなのである。

今日も、例の 「セウォル号沈没事件」 で、「韓国では国民の悲しみが怒りに変わっている」 という話が語られていた。それについては私も、今月 24日に書いている (参照) が、近藤氏のコメントは、「ああ、この人ったら、何でもかんでもこんな方向にもっていかないと、気が済まないのだな」 と思わせるものだったのだよね。

近藤氏は、「韓国民が悲しみと怒りを率直に表明し、それが長続きするということに注目したい。それは、何でもほどよいところで収めてしまう日本国民との明らかな違い」 と言うのだ。それを受けて荒川強啓氏は、「そうですね。日本人も韓国を見習わなければなりませんね」 と持ち上げる。

この放送を聞きながら私は、「いやいや、こればっかりは見習いたくなんかないもんね」 と、独り言を呟いてしまったのであった。

断っておくが、これは決してヘイトスピーチではないので、宜しく。さらに 「趣味のいい護憲平和主義」 というのだって、私は認めている (参照) ので、その点も宜しく。

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2014/04/29

成功者に共通する 21の項目ってのがあるんだってさ

19世紀半ばのカリフォルニアのゴールドラッシュで一番儲けたのは、押し寄せた金鉱掘りたちではなく、彼らが身につけるジーンズを売ったリーバイ・ストラウスだったという話がある。成功したかったら、直接的に一攫千金を目指すのではなく、一攫千金を狙うやつらをターゲットにした商売をすればいいらしい。

オリソン・マーデン・プログラムズ」 というのがある。なんでも、発明王エジソンや自動車王フォードなど、歴代の成功者には 21項目の共通点があり、それを体系化した 「21のスキル」 を学べるプログラムらしい。サイトに飛ぶと、いきなり 「あの 21の成功スキル 1〜5 (18万円相当) が今なら、無料で聴ける」 とある。

で、画像をみると、1998年から 2001年にかけてカセット・テープで発売された初版は、値段が 777,000円だったとある。今はいくらするのかなあと思って、長い長い巻き紙みたいなページを最後までスクロールしてみたが、表示されていなかった。

まあ、たとえ 100万円以上しても、「スピード・ラーニング」 みたいに、聴き流すだけで成功者になるスキルが身に付くんだったら、大成功した暁の見返りに比べれば安いものということなのだろうね。

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2014/04/28

「残業代ゼロ」 なら、早く帰る理由ができていいじゃないか

「残業代ゼロ」 にする 「ホワイトカラーエグゼンプション」 というやつが、またぞろ復活している。私なんかかなり前に勤めを辞めて独立し、1人だけで仕事しているから、仕事とプライベートの時間の区切りなんて、自分でもわからなくなってしまっている。だから、個人的にはそんなことはどうでもいい。

いや、よくよく考えてみれば、勤め人だった頃から長らく 「年俸制」 ということで働いていたので、残業代なんてものをもらったことはほとんどない。で、自慢じゃないが、仕事は速い方だったから、残業なんてほとんどしないで済んでいた。

私の場合、いわば 「企業内独立事業主」 みたいな感じで、ほとんど一匹狼的な仕事をしていた。だから自分の仕事をさっさと仕上げさえすれば、いつまでも会社に残っている必要はない。

勤務時間は 9時半から 5時半までとなっていたが、いつも大体 5時頃には仕事を終えていた。ところが、いくらなんでも定時前に帰るわけにはいかなかったから、なんだかんだでグズグズして時間をつぶす。

若手の頃は、30年以上も前のことだったから、時代的なゴニョゴニョした背景もあって、5時半を過ぎても何となく帰りにくく、6時頃になってようやく退出していた。5時半きっかりにさっさと退出できるようになったのは、少し面の皮が厚くなってからである。

今の時代なら、ホワイトカラーエグゼンプションの元でならば、若手だろうがなんだろうが、定時になれば大手を振ってさっさと帰れるだろう。その方が、省エネ的にもずっといい。"「残業代ゼロ」 なら、早く帰る理由ができていいじゃないか" なんてタイトルは反発を呼ぶかもしれないが、この制度の馴染む仕事だったら、積極的に導入すればいいと考えるのである。

「ホワイトカラーエグゼンプションになったら、際限なく残業が増える」 という反対意見もあり、まあ、ブラック企業だったらそうなっちゃうのだろうが、私のやっていたような一匹狼でこなすタイプの仕事だったら、さっさと帰るための保証を与えられたようなものだから、ありがたいだろうにと思う。

逆に、チームワーク的な側面が強くて、自分さえさっさと仕事をこなせば済むというようなわけにはいかないような仕事だったら、そもそもホワイトカラーエグゼンプション制度に馴染まないのだから、導入しなければいいだけのことだ。

世の中には、「残業手当が減ったら、収入が減って生活に困る」 とか、その反対に 「最近は仕事が順調で、残業が増えてありがたい」 なんてなことを言う人がいて、私なんかは驚いてしまっている。残業手当が減ったら困るという人ほど、ホワイトカラーエグゼンプションにして、残業しなくてもそれなりの収入が確保されるベースを確保し、あとはさっさと仕事をこなせばいいなんて思ってしまうのだよね。

日本的企業風土では、いつまでも会社に残って長時間仕事をするやつが偉いなんて思われがちだ。その間違いを正すために  「成果主義」 なんて仰々しいことを言うから、妙に話がややこしくなるので、早く言えば、「さっさと仕上げて、さっさと帰ろうよ」 というだけのことなのだと、私は思うのである。

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2014/04/27

食事の意味

私は美味しいものを食べるのは大好きだが、いつもいつも美食ばかりしていたいとはまったく思わない。美味しいものが大好きという反面で、食べるのが面倒くさくてかなわないと思うこともしょっちゅうなのである。つまり、時々美味しいものさえ食べられれば、あとはさっと済ませたい。我ながら無精なことである。

そんな無精な人間向けのような食べ物の販売が開始されたという。"Soylent" (ソイレント) というもので、飲むだけで 1日に必要な栄養素を全てまかなえ、日々の食事から解放されるプロテインタイプの栄養食品という触れ込みだが、当面は米国だけでの展開のようだ。(参照

そして世の中には極端なことを考える人がいるもので、販売開始前に自らの体を使って、ソイレントだけで 30日間を過ごすとどうなるかを人体実験した人がいる (参照)。いくら無精な私だって、ソイレントのようなものは、よっぽど忙しい時に、10日に 1度ぐらいは試してみてもいいかなと思っているぐらいなのに、30日間それだけで過ごすなんていうのは、相当な物好きである。

で、その物好きな人は、30日間の実験を終えて 「肉体的な問題を抱えることはありませんでした。もしソイレントが適切な臨床試験を通過したなら、もう一度食べてみるかもしれないね。ただ、今回の実験のおかげで、食べるという行為は幸せなことだと気づきました」 と語ったという。そりゃそうだ。

食べるという行為の意味が、単に肉体が必要とする栄養を摂取するというだけだったとしたら、ソイレントのようなものだけを摂っていれば十分だろう。しかし、食事に限らず、ものごとというのは直接的な理屈の範囲に限って考えられる意味だけで成り立っているわけではない。もっと総合的なものである。なにしろ、すべては複雑系なのだ。

例えば、食べ物に含まれる食物繊維のようなものがないと、人間の消化器官はうまく働かないし、食べる際の 「噛む」 という行為は、消化を助けるというだけでなく、人間の体全体に一定の刺激を与えて活性化させるということだってある。

それに何より、「心のこもったおいしい食事」 というのは、人間を幸せにするし、食べ物を 「いただく」 ということに心をフォーカスすると、森羅万象に感謝の思いすら湧いてくるのである。

今回の人体実験を行った男性も、30日もソイレントだけで生き続ける間に結構なストレスを抱えてしまい、ちょっとうつ気味にすらなったという。直接的な効果のみを意識した効率だけで考えたシステムというのは、おしなべてそんなところがある。

人間には、一見無駄と思えるようなことが必要なのだ。ものごとをとことんまでつきつめて考えたがる真面目すぎる人が、神経症になりやすいってことも、ある意味では道理である。とことん突き詰めて、直接的な理屈にかからない要素を排除するというのは、総合的な理屈という観点からすると、困ったことなのだ。

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2014/04/26

ホテルの意味不明の張り紙

昨日まで徳島に出張して、某ビジネスホテルに一拍したのだが、そのホテルの廊下の張り紙をみて、失望感ありありになってしまった。どんな張り紙かというと、こんなのである。

Img_8622

この張り紙の下にはボックスがあり、そこにタオルを入れろということになっている。想像するに、これは 「使用済みタオル」 の回収ボックスってことなのだろう。客が使用済みタオルを自主的にこの回収ボックスに放り込めば、メイドさんが少しだけ楽になる。それが 「エコ」 とどう関係するのか、よくわからないが。

で、まあ、そんなに珍しいことではないのだが、わざわざ英語が併記してあって、その英語がかなりメチャクチャなのである。英語がメチャクチャなのはよくあることだが、この場合は元の日本語もメチャクチャなので、始末が悪い。

冒頭の 「エコをご利用のお客様へ」 というのからして、まずわからない。どんなお客様のことを言っているのか、見当がつかないのである。そしてその英訳は、さらにわけがわからない。 "Eco to a visitor of the use" 「 一定の使い道のある一人の客へのエコ」 って一体何なんだ?

空虚ながらも文法的なことを言えば、とりあえずは、“visitors" と複数形にしてほしかったところだ。まあ、その程度のことで意味の通じる英語になるというわけではないが、同様に、"put it in" も、"put them in" である。くどいようだが、その程度のことで意味が通じる英語にはならないが、文法の辻褄だけは合う。

で、そんなことは実はどうでもいいことで、そもそものことを言ってしまえば、この張り紙は 「使用済みのタオルは下のボックスに入れてください」 と一言書けば済む。それだけのお話だ。英訳も "Please put used towels into the box below." で済む。

「こちらの box」 が "box of this place" とは、あまりにも 「こちらの box」 すぎて、涙ぐましくさえある。「ゴミは入れないでください」 の英語が 「生ゴミ」 っぽいニュアンスの強い "garbage" になっているのも、涙をそそるし、意味不明の 2羽のヒヨコの絵も、ただ涙である。

客商売の日本語って、どうしてこんなにも肝心なことを言い忘れて余計な飾りをいっぱい付け、結局訳が分からなくなるという症候群に陥りやすいのだろう。そのわけのわからない日本語を、和英辞書だけで訳そうとするから、こんなにもとんでもないことになる。

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2014/04/25

徳島から戻ってきた

徳島に出張し、夜遅くなって帰ってきた。相変わらずの晴れ男振りで、昨日から今日にかけての徳島は晴天に恵まれ、仕事は順調に進んだ。

徳島というところは食い物の旨いところだと、3度目の訪問にして初めてしみじみと思った。山海の食材に恵まれ、さらに米と野菜も満遍なくおいしい。さらに、うどんではなく蕎麦が美味しいというのも、初めて知った。今度は阿波踊りを見に行きたいものである。

というわけで、今日は疲れたのでこれぎり。

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2014/04/24

セウォル号沈没事件で、韓国の対応が相当にずさんらしい

例のセウォル号沈没事件で、韓国側が日本の救助・捜索活動支援を断ったと報道され、「まったく、こんな緊急事態でも反日にこだわる韓国って、しょうがねえなあ」 という論調が高まった。しかし私は当初、「それは断って当然だろう」 と思っていたのである。

自国でなんとかできるなら、とりあえずはなんとかすればいい。韓国人で主力が組織される救助・捜索部隊の中に、言葉も通じない日本人が混じったら、混乱の元になりかねない。普通は丁重に断るだろう。

私自身、韓国に関してはいろいろと含むところがないではないが、今回の場合に限っては、そんなことまでいちいち取り上げて、嫌韓のタネにしなくてもいいだろうよと感じたのだ。それよりも、彼らの救助・捜索活動がうまくいくように、陰ながら祈っていればいい。

しかしどうやらこれは、私の買いかぶりだったようだ。韓国独自で遂行中の 「救助・捜索活動」 は、どうやら納得できるようなレベルに遠く及ばないようなのである。言葉は通じても、そもそも通じさせるべきまともな意図がなくて、みっともないほどの混乱を呈しているらしい。

日経ビジネスに趙章恩さんという在日韓国人のジャーナリストが、「セウォル号沈没事件で家族の悲しみが怒りに変わった理由 迷走する救難・捜索作業」 という記事を書いている。(参照

この記事によると、救助・捜索活動を行うべき当局の能力不足は明白で、責任逃れに終始しているらしい。ニュースではダイバーが捜索活動に当たっているというが、それは被害者家族が動員した民間ダイバーだという。そればかりか、「生存者を捜索するためのアイデアのほとんどが、救助活動を指揮する海洋警察と海軍の救助隊ではなく被害者家族が提案したもの」 というのだから驚きだ。

さらに、常識では考えられないことに、この事故の対策本部というのが、たくさんあるというのでる。ちょっと引用する。

現在、海洋水産部、教育部、仁川海洋警察、木浦海洋警察、西海海洋警察がそれぞれ、セウォル号事故対策本部を設置している。このほかにも、事故現場から最も近いペンモク港には 「事故対策本部」、安全行政部には 「中央災難安全対策本部」、被害者家族がいる珍島体育館には 「事故対策本部」、犠牲者の多いダンウォン高校がある安山市には 「合同対策本部」、安山市教育庁には 「対策本部」がある。

こんなにたくさんの 「対策本部」 があって、まともに系統だった指揮がとれるわけがない。さらに、これらの対策本部にはまともな責任者がおらず、スポークスマンもそれぞれの対策本部でコロコロ変わり、発表のたびに内容が変わるというのだから、一体何をどう信じていいいかわからない。

そしてその最高指揮官は大統領であるはずなのだが、パク・クネさんは乗船していたクルーの対応を 「殺人に等しい」 なんて非難するばかりで、自分には決して責任はないという立場のようなのである。

日本でも何か不祥事が起きる度に、その対応の稚拙さ (大阪の吉兆の例を思い出してもらいたい) が目立ったりするが、いくらなんでも、これほどひどくはない。韓国の被害者家族は、まさに怒りのぶつけどころさえ見つけられないという状況だろう。

これだったら、仮に日本の海上保安庁が仕切っていたら、こんなにもひどいことにならなかったんじゃないかと、勝手なことを思ったりするが、まあ、それはありえないだろうから、何とでも言えるけどね。

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2014/04/23

「ポエマー」 という存在

「ポエマー」 という日本語があることを初めて知った。ちなみにアクセントはあくまでも平板。巷ではどうやら 「詩人」 という意味で使われているらしいが、英語で詩人は "poet" なので、私としては 「ポエムを書く人」 ぐらいの意味で押さえておきたいと思う。

では 「ポエム」 とは何かといえば、「一見すると詩のように見えなくもないが、砂糖を入れすぎたレモンティーのような極度の甘ったるさで、詩とは区別されるもの」 というほかない。そしてそれを書く人が 「ポエマー」 である。

ちなみに "poemer" はまったくの和製英語というわけでもないようで、ほんのたまにだが、英語で書かれたテキストにも "poemer" の語が使われていたりする。 ”This Too..." というブログの管理人の Melissa Sarno という人は、自分は poet ではなく poemer だとしている。これって、ちょっと謙遜ぽいニュアンスを感じる。(参照

しかし日本のポエマーたちは、そんなような奥ゆかしい謙遜を表明することは稀で、ただひたすらナイーブな 「ポエム」 を書き続けているようだ。

ところでこの関連で、先日 「マンションポエム」 というものがあると知った。どんなものかというと、例えばこんなのだ。

FROM 神楽坂
東京を掌る すべての時は、
ここからはじまる。
(三菱地所レジデンス パークハウス牛込神楽坂)

大山顕さんという方が、マンションポエムのコレクションと分析をして、それをウェブ上で語っておられる (参照)。なかなか興味深いので、是非ご覧になることをお勧めしたい。

大山さんによると、マンション販売のために構築されたウェブサイトは、今どき珍しくいきなり Flash 動画で始まり、歯の浮くような 「マンションポエム」 が表示されるのだという。うむ、確かにそんな感じなのだね。

広告代理店には、職業的なポエマーが存在するようなのである。なかなか奥が深い。

なお、"poetaster" という言葉もあって、意味は 「へぼ詩人」。

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2014/04/22

なるほど、日本のロックは 「邦楽」 なのかもしれない

その昔、バブルの頃は日本のミュージシャンがわざわざ外国に行って、現地のスタジオ・ミュージシャンを起用してアルバムの録音をするなんてことが、ごくフツーに行われていた。日本にだって優秀なプレイヤーはいくらでもいるのに、外国の人間をわざわざ使いたがったのである。

どうしてそんなことをするのかと言えば、やはり出来上がったときの 「音」 が違うからだとしか言いようがない。欧米のミュージシャンの演奏は、やはりどこかノリが違うのだ。

今どき、日本のミュージシャンの音楽を 「邦楽」 だなんていうが、このジャンル分けは、単に 「日本製の曲」 であると言っているだけで、そのほとんどは音楽的には完全に 「洋楽」 である。

私は 3年半前に書いた "「邦楽」 と 「洋楽」 " という記事で述べたように、最近の 「邦楽/洋楽」 のジャンル分けには違和感ありまくりである。西洋人が作曲して、日本人が作詞して、日本人と西洋人の入り交じったバンドが演奏したら、邦楽と洋楽のどっちに分類されるんだろう? 日本のレコード会社から発売されたら 「邦楽」 ということにしちゃうんだろうね。きっと。

しかし、細かいことを言えば、今どきでいう 「邦楽」、つまり日本製の洋楽 (ここでは、主にロック) は、まったく初めての曲でもイントロをちょっと聞いただけで、つまり日本語の歌詞が聞こえてくる前に、案外簡単に 「日本製」 とわかる。

ちょっと聞いただけでは日本語とは気付かないような (どう聞いても英語じゃないのはわかるのだけど)、涎垂らしながら歌ってるような、かなり気持ちの悪い発音のボーカルや、歌詞の出だしが英語だったりする曲を聞いても、日本製の洋楽はすぐにわかる。そういう意味では、確かに 「邦楽」 なのかもしれない。

どこが違うのかというと、日本製の洋楽は、極端すぎるのである。ワイルドな演奏だと、単純ワイルド以外に何の芸もない。つまりワイルドでありさえすればロックだと思っているし、その対極みたいに凝ったアレンジや高度なテクに走ると、大抵 「整い過ぎ」 なのだ。今どきのアイドル路線にしても、そのアレンジは 「整い過ぎ」 に変わりはない。

何と言うか、「自然のゆらぎ」 っぽい要素が少ないのだよね。日本人はこれだけ西洋の音に慣れたようでも、自分でやろうとすると、まだどこか 「よそゆき」 なのだ。

例えで言えば、ちょっと前までの日本製の自動車のデザインって、やっぱりどうみても日本製とわかった (最近はだいぶこなれてきた) ように、どんなに尖ったことをしても、最終的にはどうもまとまりすぎてるというか、おさまりがよすぎるというか、そんなところがある。たまにワイルドなイメージに走ると、今度は稚拙過ぎてしまう。

そういえば、1950年代の白人のロックンロールってそんな感じだったかもしれない。その意味では、日本のミュージシャンは今、「洋楽」 に懸命に馴染みつつある過程なのだろうね。

ただ、モノのわかったミュージシャンは、そうした日本的洋楽なるものの特徴を換骨奪胎して、おもしろいものにする術を獲得している。その走りは、はっぴいえんどだったり、YMO だったりしたのだよね。別の種類の 「ゆらぎ」 でこなしてみたり、そもそも 「ゆらぎ」 を意識的に排除したりということになるのだと思う。

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2014/04/21

決して使わない CD-ROM

多機能プリンターとか Wifi ルータとか、ちょっと賢いマウスとかと購入すると、必ずと言っていいほど CD-ROM が付属している。ドライバをインストールするにはそれを使えと書いてあるのだが、そんなの使っても大抵バージョンが古くなっているから、インターネットからダウンロードする方がずっと確実だ。

近頃はコンピュータ関連の雑誌を買っても CD-ROM が付いたりしている。なんだか知らないが、アプリのお試し版みたいなのがたくさん入っているようだ。「ようだ」 というのは、そんなもの、何が入っているのか覗いてみたこともないので、「ようだ」 としか言えないのである。

近頃、書棚の一画を占めていた CD-ROM の束をごっそり捨てた。中身は、昔のソフトウェアのインストール用だったり、上述のごとくプリンターなんかのドライバーだったり、要するに、今となっては古すぎて使えないものばかりである。ましてや最近は晴れて Mac ユーザーになったので、目をつむってごっそり捨ててもほとんど影響がない。

一世を風靡した 「フロッピー・ディスク」 というものは、今やまったくといっていいほど使わない。近頃の若い人たちの多くは、見たこともないという。それと同様に、CD-ROM というものも、レガシー・メディアへの道をひた走っている。

音楽メディアとしての CD というのも、近頃はあまり使わなくなった。ちょっと前までは、買うか借りるかした CD の中身を iTunes ライブラリにコピーするということが結構多くて、かなり手間のかかる作業だった。しかし最近は、iTunes ストアで購入してダウンロードすれば済むようになった。

PC というハードウェアに、フロッピー・ディスク・ドライブが消えてからしばらく経ったが、今使っている Mac Book Pro というハードウェアには、CD や DVD のためのドライブがない。なくてもあまり不便はないのである。本当に要らないので、付いていないのだ。世の中、かなり変わりつつあるのだ。

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2014/04/20

私の机の上がごちゃごちゃなのは

6年近く前に 「バーチャルなデスクトップはきれいなのに」というエントリーで書いたように、私の PC の中 (当時はハードディスクだったが、今は SSD) は、人に誇れるほどきれいに整理されていて、どんなファイルも即座に開くことができるのに、リアルのデスクトップ (つまり、事務机の上) は堆積した書類でゴチャゴチャで、手がつけられないほどだ。

どうして、バーチャルのデスクトップはこんなにもきれいに整理されているのに、リアルではできないのかといえば、件の記事では次のように書いている。

まことにもって、形と重さのある現実のファイルや書類、ケーブルやコードの整理というのは、 PC の中のディジタルな符号と違って、ものすごく時間がかかる。

つまり、デジタルなファイルは一瞬にして整理できるのに、「形の重さのある現実のファイルや書類」 の整理は時間がかかるからだとしている。しかし最近、私はこの見方がはなはだ中途半端で、こんな考え方をしている限りは、机の上の整理問題は解決しないと悟った。

きちんと分析すれば、PC の中身がいつもきれいに整理されているのは、一度フォルダの中に保存したファイルは、何度開いて編集しようと、閉じさえすれば即座に元のフォルダに収まるからだとわかる。つまり、最初に保存する時に最適のフォルダを指定してやりさえすれば、後は 「片付ける」 という手間が要らないのである。

ところが、リアルの書類はそうはいかない。書類棚から取り出して開いたり閉じたりして作業を進め、その作業が終わっても、机の上にそのまま放置してしまうことが多いのだ。そうこうするうちに、うず高く積まれた書類の山の中に埋もれてしまう。

ああ、リアルの書類が、PC の中のデジタル・ファイルのように、必要になったらちょんちょんと叩いてやるだけで開き、作業が終わったら閉じてやるだけで、元の位置にさっと収納されるものだったら、どんなにありがたいだろう。

現実の書類が、「閉じる度に元の場所に戻す」 という一手間が必要である限り、私の机の上は永遠にごちゃごちゃのままである。たまに思い立って、一日がかりで整理しようとも、三日も経てば元の木阿弥だ。

一見きれいに整理された書類棚の中身は、10年に 1度も手をつけなくて済むような古い書類 (つまり 「要らない書類」) ばかりで、本当に頻繁に必要になる書類は、机の上の乱雑な堆積の中を必死に探さないと見つからないというパラドックスは、このように必然として現出する。

書類をきれいに整理しようとすれば、日常的にきちんと整理する作業を怠らないようにしなければならない。ところが人間のリソースというのは有限だから、そんなくそ面白くもない地味な作業に手間をかけすぎると、クリエイティブなことなんかできゃしないのである。

几帳面とクリエイティビティは、容易には両立しないのだ。

話は飛躍するが、例の小保方さんみたいに画期的な発見 (STAP 細胞が実在すると仮定しての話だが) をするようなタイプの人間は、細かいデータの管理が下手くそと相場が決まっている。

微妙に違うが一見同じような写真データがくさるほどごちゃごちゃあったら、整理下手の大雑把人間は取り違えて当たり前だと、私なんぞは同病相憐むみたいに、つい同情してしまうのだよね。だからといって許されるというわけでは、決してないのだが。

ああ、リアルの形も重さもあるデータ書類が、閉じたとたんにさっと元の場所に戻ってしまうような、形状記憶合金ならぬ 「保管場所記憶ファイル」 とでも言うべき画期的な仕掛けを作ったら、きっと大もうけできるだろうに。いや、これって、リアルでは実現できないから、デジタルでとっくにやっているわけなのだが。

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2014/04/19

私が 「しっかり者」 だなんて

ラジオを聞いていると、聴取者の投稿した失敗談を披露するという番組が結構多い。中には、車を運転しながら聞いていても思わず吹き出してしまうような馬鹿ウケ失敗談というのもあって、思わず聞き入ってしまったりする。笑える失敗談をお持ちの人って、世の中には結構いるものなのだ。

しかし翻って、自分が人に披露できるような見事な失敗談をもっているかといえば、甚だ寂しい限りなのだ。我ながら意外なほど、皆無なのである。

思い返してみれば、まかり間違っていたら人生でも最大級の失敗談になるところだったのが、今年の 2月 21日に 「入試シーズンになると思い出すこと」 という記事で紹介した体験である。大学入試でマークシート式の答案用紙に、問題を一つ抜かしたまま回答を記入して、終わったと思ったら回答欄がまだ 一つ残っていたというものだ。

この大チョンボが響いてその "R 大学" は不合格になったのだが、そのおかげで、滑り止めに合格して入学金を支払うという不合理な事態には、ならずに済んだのである。後々まで 「よくぞ落ちてくれた」 と言われたほどなので、結果論だが、あれは 「失敗談」 じゃなくて、「チョー成功体験」 になってしまったのだ。人生、何が幸いするかわからない。

このブログで書いた体験談で一番笑いを取ってしまったのが、8年前に書いた 「『はに丸』 で死にかけた話」 である。ただこの件にしても、私は決して失敗してしまったというわけじゃなく、周囲の連中の気の利かなさを、決死の奮闘努力でカバーして、支障なくパフォーマンスをやり遂げたのだから、死ぬ思いはしたものの、「失敗談」 どころか、むしろ 「涙ぐましい成功体験」 である。

それに、なんと、この記事には 「神田君」 役の、あの三波豊和さんからコメントが付いたのである。これが大成功でなくて、なんであろうかってなものだ。

その他にも、小さな失敗はちょこちょこあるのだが、どれもみなあっさりとカバーできてしまっていて、はなはだ面白みがない。こうしてみると、私って、自分で思っているほどグダグダなおっちょこちょいではなく、案外しっかり者なんじゃないかと思われてきたのである。

リアルの私を知っている人からすれば、「tak がしっかり者」 だなんて、冗談にもほどがあると思われるかもしれないが、結果が雄弁に証明している。いや、もしかしたら、失敗体験はきれいさっぱりと忘れてしまっているだけなのかもしれない。ただ、そうだとしても、それならそれでいいじゃないか。

「失敗なんてすぐに忘れてしまうような奴」 って、私は嫌いじゃない。むしろ好きである。自分がそうであるかどうかまでの結論は、ここでは出さないでおくが。

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2014/04/18

ヨーロッパで 「最高のでき」 といわれた CM も

結構古い話 (7年ぐらい前のことらしい) のようなのだが、最近知ったことなので、今更ながらに書く。

それはヨーロッパでは 「最高のでき」 と評価されながら、米国では散々な論議を呼んで、ついには放送禁止となってしまった CM のことだ。日本語は全然使われていないのだが、たかだか 40数秒間、見てさえいれば何の CM かわかるので、まずはご覧いただきたい。

要するに、食品スーパーでわがまま放題、傍若無人の大暴れをする憎たらしいガキん子に手を焼く哀れな父親の顔がアップになったとたんに、"Use Condoms" というテロップが出てくるという、まあ、チョー直截的な表現の CM なのである。

個人的には、この CM には、不愉快な印象をもった。とにかく、うるさすぎる。私は子どもの金切り声が苦手なので、見ているだけでうろたえてしまう。それで、3年ちょっと前に 「子どもの金切り声」 なんていう記事をかいているくらいだ。我が家の 3人の子どもは、少なくともこんなにひどい金切り声を一度も出すことなく育ってくれたのでありがたい。

で、この CM がヨーロッパでは好評だったという話に戻るが、ヨーロッパでは 「子どもは悪魔」 と思われているフシがある。教育によって矯正しないと、勝手なことばかりして世の中をメチャクチャにしてしまう存在なのだ。その背景には、キリスト教の 「原罪思想」 があるだろう。

だから 「ナイーブ」 という外来語は、赤ん坊は神のような存在と思われている日本では 「汚れない」 といういい意味で用いられるが、英語本来の意味では 「子どもっぽい」 とか 「世間知らず」 とかいうニュアンスが強い。

そんな背景があるので、この CM はヨーロッパの大人たちにとっては、ある意味では溜飲を下げるような感覚があるのかもしれない。「ああ、子どもを教育していっぱしの大人にしていくのって、大変!」 ということなのだが、「でも、コンドームを使いさえすれば、そんな悪魔と付き合わなくて済む」 という福音が与えられるのだ。

ただ、ヨーロッパではこれが好評だったのだが、さすがに米国では不評だったらしいのである。アメリカって、人間が少し単純素朴なのだね。ヨーロッパと比べれば、そんなにひねくれていないのだ。やっぱり。

ただ、ひねくれてはいないとはいうものの、「放送禁止」 というのは表現の自由と照らし合わせてどうかという気はする。しかしよく考えれば、テレビ CM というのも客商売だから、ウケないとわかれば、差し替えになるのが必至だから、突っ張ってもしょうがないというのが本当のところだろう。むしろ放送禁止になったおかげで、インパクトは残せただろうしね。

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2014/04/17

Mac でも ATOK と 「スコアメーカー」 が使いたいので

昨日は Mac と Chrome との相性が悪いので、Safar に乗り換えたという話を書いた。今年 1月に Windows 7 から Mac に乗り換えて、心配していたような問題もほとんどなく、日に日に Mac ユーザーらしくなってきている私だが、あえて言えば 2つほど不満がある。

一つ目は、日本語変換機能の問題だ。Mac のデフォルトの日本語入力システムは 「ことえり」 というもので、昔はかなりおばかだったという噂を聞くが、使ってみた限りでは 「まあまあ、使える」 という印象をもっている。ならば満足すればいいのだが、なまじ 「まあまあ、使える」 というレベルなので、ATOK に乗り換えるチャンスを逸しかけている。

「ことえり」 に関する私の 「まあまあ、使える」 という評価は、裏を返せば、今年 1月まで長年にわたって使い続けてきた ATOK に比べれば、「かなり落ちるよね」 ということだ。ことえりに大きな不満はないのだが、微妙なところで今イチ、「うぅむ、こいつ気がきかんな」 と思うことがある。

例えば上述の 「気がきかん」 というフレーズは、ATOK で入力すれば問題なく一発で 「気がきかん」 になるのだが、ことえりだと 「木が帰還」 なんてことになる。こんなようなことが頻発すると、ちょっとストレスになる。

噂によれば 「Google 日本語入力」 というのがかなり使いやすいらしいのだが、私としては 「ことえり」 を捨てるのだったら、文句なしに ATOK にしたいと思っている。それは ATOK が 「文語」 に対応しているからだ。私は 「和歌ログ」 というサイトで、古語で旧仮名使いの歌を詠んでいるので、文語モードで入力が可能な ATOK だとメチャクチャ快適なのだ。

どのくらい快適かというと、ほぼ 6年前に 「ATOK の文語モード試しみむとて 」 という記事を皮切りに連続 3日間、文語で書いたが、かなりさくさく入力できた。あの快適さが思い出されて、そろそろ ATOK に乗り換えようかなと思い始めている。問題は iPhone、iPad と登録単語共有をするのに、一手間か二手間余計にかかるのではないかということで、その辺りを見極めようとしているところだ。

二つ目の問題は、Windows で使っていた 「スコアメーカー」 という DTM ソフトが使えなくなったことだ。「スコアメーカー」 は河合楽器によるもので、自分で楽譜を入力するのが基本という、かなりアナログな発想の DTM ソフトなのだ。私は自慢じゃないが、あの佐村河内なんとかという人と違って、自分で楽譜が書けるので、作曲はアナログに近い方がやりやすいのである。

これは作曲ではなく編曲だが、私の出身校である 酒田東高校の校歌を 「スコアメーカー」 を使って器楽曲にしたのをアップロードしてあるので、こちら で試しに聞いてみていただきたい。結構使えるでしょ。

Mac でも Garage Band という DTM アプリが無料で使えるが、楽譜ベースじゃないので、取っ付きにくいのだよね。私としてはどうも、音楽に関してはかなりアナログな人なのだ。

というわけで、私は 「スコアメーカー」 を使いたいがために、Mac にも Windows をインストールしてしまおうかなどと思い始めているのである。ああ、お金のかかることだ。

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2014/04/16

Mac と Chrome は相性が悪いようだ

昨日メインブラウザーを Chrome から Safari に変えた。PC を Mac にしたのだから、とっくに Safari にしていてもよかったのだが、Windows ユーザー時代の一昨年 5月に Firefox から Chrome に乗り換えていたので、今年 1月に晴れて Mac ユーザーになってからも、ずるずると Chrome を使い続けていたのだ。

思い出したように Safari に乗り換えたのは、Mac と Chrome の相性の悪さに気付いたからである。Mac を使い始めた当初はそれほどでもなかったのだが、近頃急に Mac がクラッシュして、システム再起動しなければならない事態に陥ることが頻発するようになったのだ。

Mac はフリーズすると、レインボウ・カーソルというのが出現して、虹色の風車みたいなのが延々と回り続ける。単体のアプリがフリーズしたのなら、"option + command + esc" の同時押しで 「アプリケーションの強制終了」 というウィンドウを開き、フリーズしたアプリを終了させればいい。これは Windows の "Ctrl + Alt + Del" キーの同時押しと同じようなものだ。

ところが、近頃頻発していた不具合は、アプリ単体の強制終了で済むような生易しい話ではない。OS 自体がクラッシュしてしまっているようで、一切の操作を受け付けなくなるのだ。仕方なく電源ボタンを長押ししてシステムを強制終了していたのである。こんなことが、1日に 1度、いや、下手すると 2〜3度発生していた。

で、昨日になって、「ん? これって、決まって Chrome の操作をしてる時に発生しているんじゃないか?」 と気付き、試しに "Mac Chrome 相性" というキーワードでググってみると、なんと 「相性最悪」 という評判が続々と出てきたのである。

Gizmodo では 2012年 6月 26日に、既に 「新しい MacBook Air で Chrome を使うとフリーズするらしい」 と報告されている。いやはや、知らなかったよ。あちこちのサイトを見るとこの問題は、Chrome のアップデートで解決するらしいと書いてあるのだが、今に至るまで未解決のようなのだね。

というわけで、1年半に渡って慣れ親しんだ Chrome を捨てて、Safari に乗り換えたわけなのだ。乗り換えてみると Safari というのは、使い勝手がいかにも Apple という感じで、悪くない。ただ、このココログの記事編集機能との相性が今イチみたいで、ちょっとストレスを感じるが、これも慣れの問題程度の話のようだ。

で、システム・クラッシュの問題も、乗り換えて 30時間以上経っているが、一度も発生していない。やはりあれは、OS と Chrome の相性問題だったようだ。やはり、Mac ユーザーになったからには、ブラウザーも Safari にするのがお約束みたいなもののようなのである。

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2014/04/15

名刺の断捨離

今日は名刺の大整理をした。引き出しの中に溜まった名刺の膨大な束をみて、「こんなに多くの知り合いが必要なわけないし、付き合えるわけもない」 と思ったのである。ただでさえ顔と名前を一致させて覚えるのが苦手なのに、何千人もの人を相手にできるわけがない。

端からあたってみると、昔、繊維と IT 業界でバリバリ仕事をしていた頃に交換した名刺がどっさりある。そのうちの多くは、既に定年退職したと思われる人の名刺だ。どうせ仕事上のみの付き合いしかなかったのだから、会社から離れたらもう接点がない。バシバシ捨てる。捨てまくる。

それから多いのは、何かのイベントで一度だけ会ったと思われる人の名刺である。初対面で名刺を交換して、その後も何らかの付き合いが生じることは稀だ。一度だけしか会っていない人なんて、顔すら覚えていない。それでも 1〜2年の間には何らかのきっかけで再び会うことになるかもしれないが、3年も経ったら、会ったことすら忘れる。よって、バシバシ捨てる。

昔、業界団体に勤めていて、その関係でお役所関係の諮問会議みたいなものに付き合わされることがちょくちょくあった。ほとんどは役にも立たない役人のお仕着せプロジェクトなので、その会議の間だけ付き合いのあったという人も、今ではまったく縁が切れている。それもバシバシ捨てる。

それから、今でも仕事上の縁があって頻繁に会っている人の名刺が複数ある。その人の仕事が変わったり、役職が変わったりする度に新しい名刺をもらうので、古い名刺が何枚も出てくる。これも、最新のものだけ残して古いのはバシバシ捨てる。捨てて捨てて、捨てまくる。

そうこうするうちに、名刺の数はざっと 4分の1ぐらいに減った。それでもまだ要らない名刺が多いのだろうが、まあ、これも一つの行きがかりと思い、捨てるのはそこまでにする。名刺断捨離、ひとまず完了。

それにしても、世の中には多くの人がいるものである。多くの人の中の、ほんの一部の人と会い、その中でもほんの一部の人のみと名刺交換しているはずなのに、うっとうしくなるほどの数の名刺が死蔵されている。

当然、私の名刺もいろいろな人の机の引き出しの中に死蔵されているのだろう。お互いに顔も覚えていないのに、儀礼的に交換した名刺のみが残る。私の前の仕事、前の前の仕事、その前の仕事、さらにその前の仕事で使った名刺が、何の役にも立たない形で、何千枚と残っているのだろう。

ああ、先方でも思い切りよく私の名刺を捨ててもらいたいものである。

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2014/04/14

想念の具象化 その 3

私のブログの長年の読者でもなければ、「想念の具象化」 という記事を意識してくれている方はいないだろう。今回は 「その 3」 ということなのだが、最初の 「想念の具象化」 を書いたのは 約 8年前、そして 「その 2」 は 6年前のことになる。

さらにその発端となる記事を紹介すれば、私のコラムがココログに移管される前の、はぼ 11年前に遡る。"「パンク男」 を返上したい" という記事だ。 この頃まで、私はほぼ毎年、車のタイヤのパンクを経験する男だったのである。

この発端となる記事で、私は次のように書いている。

何の巡り合わせか知らないが、私は妙にパンクが多い。平均すると 1年に 1度ぐらいはパンクしているような気がする。

近所のタイヤ屋の親父さんともすっかり顔なじみになってしまった。「こんなにパンクの多いのも珍しいでしょ」 と聞くと、「そうですねぇ。私なんか、年に 1万 5千キロぐらい乗るけど、パンクなんか滅多にしないもんねぇ」 と言う。1万 5千キロなら、私も大体同じくらいである。一体何が違うというのだ。

タイヤ屋のお客の中には、「今の車はパンクなんかしない」 と信じ込んでいる人も多いそうだ。「そういう人たちは、『最近はタイヤの性能も良くなったから、パンクしなくて済むよねぇ』 なんて言うんですよ」 と、親父さんは笑う。「そういうわけでもないんですがね。本当にそうなら、私らの商売あがったりだ」

ただ言えるのは、「パンクしない」 と信じ込んでいる人は、本当にパンクしないらしい。タイヤ交換は、磨り減って寿命になった時だけだ。とすると、私がパンクしやすいのは、「パンクはするものだ」 と思い込んでいるからなのか。

いやいや、これはきっと 「卵と鶏」 だ。たまたまパンクしないで済んでいる人が、パンクしないと信じ込んでいるだけに違いない。いや、それとも、想念もエネルギーであるから、具象化するともいえるのか。

さすれば、今日を限りに私も 「パンクはしない」 と信じ込んでみよう。それで 「パンク男」 を返上できたら、「想念の具象化」 というエッセイでも書いてみようか。

というわけで、私はそれから無理矢理に 「パンクはしない」 と信じ込むことにしたのである。そうすると、何と本当に 「1年に 1度パンクする男」 でなくなってしまったのだ。で、約束通りそのことについて触れたのが、上述の最初の 「想念の具象化」 という記事で、「あれから 3年以上経った今日、この間、一度もパンクしていないということに気付いた」 と書くに至ったのだ。

そして 「その 2」 を書いたのが、その 1年半後である。これは、年中行事のようにパンクを経験していた私が、4年 8ヶ月ぶりにパンクしたという話を書いたものだ。つまり、想念を変えてみただけで (かどうか知らないが)、パンク率が 4分の 1以下に減ったというお話である。

そして、今回が 「その 3」 なのだが、さらにあれから 6年以上、1度もパンクしていないという報告だ。パンク率は 6分の 1以下に減り、それどころかどこまで減り続けるか知れないという状況にある。どうやら私の 「パンクしない想念」 にも、かなり身が入ってきたようなのである。

私は 「その2」 の中で次のように書いている。

因果関係は実証不能だが、「想念を変えたら、その日から急にパンクの頻度が激減した」 というのは、紛れもない事実なので、私としては個人的にハッピーになっているということだ。少なくとも、「パンクはするものだ」 という想念に戻る理由はない。

それに、「パンクしない想念の波動を移しこんだ空気」 とかいうものを、高い値段で販売しようなんていうつもりは毛頭ないので、「反疑似科学」 の人も、どうかあまりマジに突っ込まないでいただきたい。神社で交通安全祈願をしてもらってお守りをもらうよりも、ずっと安上がりなのだから。(何しろ、「ただ」 だし)

というわけで、11年前からの行きがかり上、最新のご報告をさせていただいた次第である。

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2014/04/13

「税抜き表示」 で、しれっと便乗値上げ

今月から消費税が 8%に上がったことに関しては、特別いちゃもんをつけようという気はないのだが、買い物や外食をする際に、商品価格がいわゆる 「税抜き」 とか 「外税」 で表示されることが多くなっているのに、今更ながら戸惑っている。

小売店などでの価格表示に関しては、何時頃からだったかは忘れてしまったが、消費税額を含んだ、いわゆる 「総額表示」 が義務づけられていて、私なんぞもそれに馴染んでしまっていた。ところが今回の消費税アップに伴う特別措置とやらで、2017年 3月 31日までは、「税抜表示」も認められるようになった。

事業者の値札の貼り替え作業などの負担を軽減させるために取られた措置だというのだが、これ、事業者の負担軽減にはなっているが、消費者にとっては 「負担増」 だよね。「1,980円」 と表示された商品を買うのに、つい財布から 1000円札を 2枚だけ出して 20円の釣り銭をもらおうと思っていると、実は総額 2,138円だったりして、あわてて小銭を追加することになる。

で、「消費税がたかだか 3%上がっただけなのに、実感としてはモノの値段がそれ以上に上がった気がするなあ」 と思っていたのだが、これ、「気がする」 だけじゃなくて、本当に値上がりしていたのである。数字に強い人ならすぐにわかっていたようなことだが、何しろ私は数字を見ただけで頭の中が白くなる人なので、半月もぼんやりしていたのだ。

消費増税前は税込みの総額で 1,980円だったはずの商品が、増税後はそのまま 「本体価格 1,980円」 になったりしているのである。ということは、先月までの本体価格は1,886円だったのだから、14円値上げになっているのである。

この場合の値上げ率は 0.7%にすぎないが、例えば飲食店などで、前は総額 980円だったメニューが、今月から税抜きで 980円なんてことになっている場合がやたら多い。そうすると、支払い総額は 1,058円で、本体価格だけをとっても 元の 934円から、しれっと 46円値上げになった計算になる。

こんな時、レジでの支払いで 「あ、そうか、総額だと 1,000円じゃ足りないんだね」 なんて言うと、「すみません、消費税が 8%になりましたもので」 なんて、澄ました顔で言い訳されたりするが、冷静に計算してみれば、「ふざけんなよ、ほぼ前の消費税分相当の 5%も便乗値上げしてるじゃねえか」 と言いたくもなろうというものである。これって、店側にはおいしすぎるよね。

世間では 「アベノミクス効果」 なんてことが言われているが、私の実感としては、今のところはまだ、円安でモノの値段が上がり、消費税アップで支払い総額が上がり、便乗値上げで実質値上げがまかり通っただけである。そしてアベノミクス効果が本当に浸透すると期待される頃には、今度は消費税が 10%になる。こりゃ、逃げ水みたいなもんだね。

まあ、贅沢しなきゃいいだけの話だから、別にいいんだけど。

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2014/04/12

安部さんの 「一句」

恒例の 「桜を見る会」 で安部首相が 「俳句」 を詠んだと報じられているが、あれはマスコミの見識として、誰が何と言おうと 「俳句」 ではなく 「川柳」 と言うべきだったと思う。YouTube でチェックしたところ、安部さん自身も 「俳句」 とは一言も言っていなくて、「そこで一句であります。『給料の上がりし春は八重桜』、おそまつでありました」 と、おちゃらけている。

既にネット界隈では 「春」 と 「八重桜」 は季重なりだなどと揶揄されているが、俳句と思うからいけないので、せいぜい出来の悪い川柳と思えば、その辺のことはどうでもよくなる。まあ、首相の句を 「どうでもいい」 と片付けなければいけないというのも、ちょっと悲しいことだが。

「桜を見る会」 というのは、ちょっと前までは 4月の下旬に開催されていたように思うが、何しろ温暖化で、八重桜でさえもその頃には散ってしまっていることが多いので、少し早められたようなのだ。それでこの会としては久しぶりで文字通り 「満開の桜」 が見られたので、安部さんとしてもちょっと気分が良くなってしまったんだろう。その 「いい気分」 の結果が、この 「一句」 である。

安部首相はスピーチライターを起用しているというもっぱらの噂なのだが、「俳句ライター」 を起用するところまでは思いが至らなかったみたいなのだね。残念なことに。

本来、日本国の首相たるもの、このような会に出るならば、日本の伝統に則って少しはマシな短歌か俳句を用意しておいてもらいたいものだが、どうも近頃の政治家にはそんな素養を求めても無駄なようなのである。せいぜい 5年前に当時の麻生首相が 「ふるさとにはや桜満つゆゑ問へば冬の寒さに耐へてこそあれ」 という歌を披露している程度だ。

まあ、この歌にしても、「地元・福岡県の桜が全国で最も早く開花したことを指摘した首相が不況脱出に向けた決意を示した」 ものと報じられたが、意図はどうあれ、歌としては前もって誰かに添削してもらっておくべきだったなあと、私なんぞは思ってしまう。そこで、当時のブログに次のように書いている (参照)。

桜の花が既に満ちていることの 「ゆゑ問へば」 とあるのだから、その理由を述べる結句は 「耐へてこそあれ」 ではなく 「耐へてこそなれ」 と結ぶのが自然だろう。

こんな場合、もし私だったら

ふるさとの凍ゆる冬を耐へてこそはや咲き満つる桜なりけれ

なんて、当たり障りなくステロタイプに綺麗めな歌にして、煙に巻いてしまうところかなあと思ったりする。まったくおもしろみはないけれど。

ちなみに一般論として、素人が 「俳句」 というものを作ると、季重なりになってしまうことがやたらに多い。ある催しで、素人俳句の短冊が壁に貼り出してあったが、その 8割以上が季重なりで、暗澹としてしまったことがある。「うららかに吹く春風や散る桜」 なんてまだ可愛い方で、「土手の上小春日和に桜満開」 なんていうどうしようもないものまである。

素人は 「俳句は季語を入れなきゃいけないから難しいですよね」 なんて言うが、「そんなこと考えなくても、嫌でも自然に入るもんです。下手に考えるから、二つも三つも入ってしまうんです!」 と言いたくなってしまう。

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2014/04/11

スカイマークのミニスカ制服について

朝日新聞デジタルが "スカイマークの "「ミニスカ」 制服に波紋 「業務に支障がある、セクハラ」" と伝えている。

この問題、かなり前から話題になったのだが、正確なところを言えば、制服は 「ミニスカート」 ではなく、ミニ丈のワンピース、つまり 「ミニドレス」 である。写真を見たところでは、かの有名な 「バド・ガール」 ほどパッツンパッツンじゃないが、丈で言えばそんなに変わりはない。私の目からすると、旅客機のサービスにあたる仕事の制服としては、ちょっと悪趣味だと思う。

新制服は、5月に導入する中型機エアバス A330 のキャンペーンとして、同機が就航する羽田―福岡線など3路線で導入されるのだという。「着用は同意したCAだけ」ということだが、同意しなければ A330 には乗務できず、他の機種に乗ることになるという。だったら、全員申し合わせて同意しなければいいのだろうが、そうは簡単にいかないのだろう。

これを着用する女性としては、頭上の棚の確認のために背伸びした時など、裾が気になるだろうし、実は客としても目のやり場に困る。じっと見つめていたりしたら、それこそスケベ親父そのものだろうしね。

ちなみに、タンクトップにホットパンツ姿の制服で有名な米国のレストラン・チェーンが、その昔 「フーターズ・エア」 という航空会社をもっていて、なぜか 「フーターズ・ガール」 を機内サービス要員として乗務させたなんてことがあったが、今は消滅している (参照)。ただこの時にしても、フーターズ・ガールは CA という位置づけではなかったらしい。

個人的にはスカイマークの飛行機に乗ることはあまりないだろうから、別にいいんだけど、「こんなのが制服として本格的にスタートしちゃったら、関係者でも何でもないのに、気恥ずかしい気はするわな」 というところである。多分、あまり長続きせずに終わることだろうと思う。

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2014/04/10

ニフティが身売りするらしいので

朝日新聞が 「富士通、ニフティを売却へ 会員減少で業績低迷」 と報じているので、ニフティの運営するココログで長年ブログを書いている身としては、ちょっと穏やかでない気持ちになってしまった。記事は  "富士通が、インターネット接続サービス(プロバイダー)の子会社「ニフティ」を売却する手続きに入ったことが分かった" と告げている。

もっともその後、日経が 「富士通、ニフティ売却手続き報道を否定」 と報じてはいるのだが、否定しているのはどうやら 「売却する手続きに入った」 という文言のみで、富士通の広報は 「ニフティの株式売却はかねての懸案で 『様々な可能性を検討』」 とコメントしている。つまり、具体的な手続きには入っていないが、売却は既定方針ということのようなのである。

インターネット接続サービスを行う ISP 業界は、今厳しい状況にあるらしい。MM総研の昨年秋の発表資料によると、FTTH のシェアは NTT 東日本と西日本の 2社を合わせて 3分の2 以上を占めていて、ISP シェアもその勢いで NTT 系の OCN がおよそ 4分の1 のシェアをとっている。

ISP としての @nifty のシェアは、OCN、Yahoo BB、Biglobe、Plala、So-net、eo に次いで 7位に甘んじている。いやはや、驚いた。身売りの決まった Biglobe や関西電力系の eo の後塵を拝しているとは知らなかった。ニフティさん、よっぽどの営業下手である。

ユーザーのアクティブさでいえば、ニフティはかなり上位というか、もしかしたら最上位ぐらいにいるんじゃないかと思う。なにしろ @nifty は、インターネット以前の 「パソコン通信」 と言われていたネットワーク黎明期から、NiftyServe のブランドで、Biglobe の前身の PC-VAN と並び二強を形成した老舗である。

かくいう私も NiftyServe 時代からの 20数年来のユーザーだ。PC-VAN との二強時代でも、実際のネット利用でいえば、NiftyServe ユーザーの方がずっとアクティブと言われていた。今でも還暦を過ぎたニフティ・ユーザーは、ネットに関しては筋金入りと思って間違いないと言われるぐらいのものである。光回線と抱き合わせでいつの間にか OCN でつないでいるという素人とは、訳が違う。

それだけに、質の高いアクティブなユーザーを多く抱えたニフティがこんなにも商売下手とは、悲しい限りである。やっぱり親会社が企業ユーザー主体の富士通だけに、コンシューマー・ビジネスは苦手なのかもしれない。企業イメージも、どことなくもっさりしてるしね。

まあ、私としては従来のサービスをきちんと維持してくれさえすれば、ニフティがどこに身売りしようと一向に構わないと思っている。むしろ従来のもっさり感を脱して、アクティブ・ユーザーのニーズにしっかりと応えてくれるなら、歓迎というものだ。

いや、もしかしてコアなファンが潰しかけていたプロレス同様 (参照) に、ISP もアクティブ・ユーザーに依存しすぎるとおかしくなってしまうのだろうか。

【追記】

NEC から Biglobe を買収した日本産業パートナーズが、ニフティと SONY の So-net まで買収して、経営規模を拡大したい考えと伝えられている。ふぅん、仮にこの 3つが合体するとなると、ブログサービスのウェブリブログとココログとSo-net ブログは、どうなるんだろう?

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2014/04/09

一流バイオリニストでもストラディバリウスを聞き分けられない

Slashdot が 「一流バイオリニストでもストラディバリウスと最近のバイオリンは聞き分けられない」 と伝えている。二重盲検法 (厳密な目隠しテスト) で視覚的な予断を排除した上で、ストラディバリウス、ガルネリ (ストラディバリウスと並び称される古典的名器)、現代に作られたトップレベルのバイオリンを用意して、一流バイオリニストに弾き比べしてもらったところ、その違いを判別することはできなかったという。

この記事の元になったのは、Sience というサイトの  "Elite Violinists Fail to Distinguish Legendary Violins From Modern Fiddles"  (一流バイオリニストも伝説のバイオリンと現代のものとの区別をつけられない) という記事だ。黒いゴーグルを装着してバイオリンを弾く奏者の写真入りで紹介されている。

記事によると、一流バイオリニストたちは目隠しテストではどれがストラディバリウスであるかを言い当てることはできなかったが、総じて現代のバイオリンの方を好んだのだそうである。ちなみに現代のバイオリンは、数億円のものもあるというストラディバリウスと比べると、1桁か 2桁安い。素晴らしいコストパフォーマンスではないか。

この記事を読んでまず思い出したのが、2年近く前に書いた 「高いワインは、本当においしいのか?」 という自分の記事である。カリフォルニア工科大学の神経経済学者アントニオ・ランゲル准教授の 「人はワインの味を味覚ではなく値段の高低で判断していることを実証した」 という研究成果を紹介したものだ。

ランゲル准教授の研究によると、同じワインを飲んでも、それが高価なワインだと信じている時には、快感の認識に関わる脳の領域の活動がより活発になる。つまり、「このワインは高いんだよ」 と聞かされたら、それだけで 「おいしい」 と感じてしまうというのである。

つまり、人はワインの美味しさを純粋に味覚的に判断しているわけではない。魅力的なサイドストーリーの助けによって、「美味しさ」 を感じているのである。目隠しテストをすると、ワインのエキスパートといわれる人たちですら、最も安いワインを 「おいしい」 と感じるのだそうだ。

似たようなことで、人は 「これはストラディバリウスだよ」 と言われると、いい音に聞こえてしまうということは、十分にあり得るだろうと思うのだ。ということは、「16世紀後半に作成されたバイオリンが最高の音を出す」 というのは、もしかしたら壮大な都市伝説かもしれないということである。

ストラディバリウスを超えるバイオリンは、もはや作ることができないとまで言われる 「伝説」 に、私は少なからぬ疑問を抱き続けてきた。というのは、バイオリン以外の弦楽器では、古い楽器は音が劣化するというのが常識なのである。いくら伝説的名工の作であるにしても、バイオリンだけは、400年以上前の楽器が最高の音を出すなんて、「本当かなあ?」 と疑いたくなる話だ。

そりゃあワインと違って、楽器の場合は高級品と安物の違いは歴然としてある。多分、素人でも、ある程度音楽を聞きつけている人にはわかるだろう。安物は安物の音しか出さない。しかし高級品同士で聞き比べたら、その違いは容易にはわからないだろうと思う。

おもしろいのは、この実験ではバイオリン奏者たちはストラディバリウスを聞き分けることはできなかったが、総じて新しい楽器の方を好んだという事実である。楽器の場合、高級品同士で比較すると、ワインの場合の安いワインが好まれるというのと、似た現象が生じるのだ。

ただ、今回報じられたニュースにも、盲点はある。それは、短い時間での弾き比べで比較していることである。楽器というのは弾き込まないとその違いが意識されないということがある。弾き込んで初めてその楽器の本来の音が出てくるというのは、確かにあるのだ。

そしてもう一つ、この実験では、奏者が音を判断しているということがある。楽器の音の良さを感じるのは、実は奏者ではなく聴衆である。弾き手に聞こえる音と、聞き手に聞こえる音は違うはずだ。ましてや、顎の下という不自然な位置で鳴る楽器の音は、弾き手には不自然に聞こえているとしてもまったく不思議ではない。だからバイオリニスト自身が判断するというのは、あるいはメソッドとしては不適切だったかもしれない。

ただ、いずれにしても、古典的名器といわえるストラディバリウスと、現代の名器の間には、これまで言われてきたほど大きな差異はないというのは、確実に言えると思うのである。楽器演奏者の所有する楽器というのは、かなりステイタス・シンボル的な意味がある。一流演奏者になってしまうと、音の良さとかいうよりも、それなりに高い楽器をもっていないと、とりあえずカッコがつかないのである。

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2014/04/08

「みんなの党」 のくせに、ずっとワンマン党首でやってきたから

前の総選挙の際に 「日本政治.com」というサイトの「投票マッチング」 というサイトで試してみたら、私の政治的考えからすると、最も投票するにふさわしいのは 「みんなの党」 であるという結論が出た (参照)。それだけに、今回の渡辺喜美代表のスキャンダルによる辞任劇には、複雑な思いがする。

もっとも私は、みんなの党をそんなに積極的に支持しているわけではない。そもそも、私の居住地域の選挙区では、みんなの党からの立候補者がいなかったのである。だからそれほど大きな縁がある政党というわけじゃない。

みんなの党の政策は、まあ、「投票マッチング」 で私にもっともふさわしい政党という結論になったぐらいなのだから、ほぼ共感できる。少なくとも 「そりゃ、違うだろ」 というようなことは言っていない。しかし、はっきり言って 「今イチだなあ」 という印象が抜けきらなかった。そのあたりのことを私は、民主党政権時代の 2010年 7月 13日に、Twitter で次のように tweet している (参照)。

みんなの党の好イメージは、「聞こえのいいキャッチフレーズ」 と 「過去の失点ゼロ」 の賜物。一度も政権当事者になったことがないからキープできる。自分たちでもそれはよくわかってるみたいだから、民主との連立や密度の濃い連携は、当分しないはず。

つまり政権を担当したことがないから、一度も汚れ役にならずに済んできたのだ。ところが、江田さん一派のトンズラと今回のスキャンダルの合わせ技で、せっかくの好イメージを、一度も政権を担当しないうちに棒に振ってしまった。まことにもったいないことである。

もう一つ、みんなの党を積極的に支持する気になれない要因があり、私はどこかに書き込んだような記憶があるのだが、残念ながらいくら検索しても見つからない。もしかしたら、書き忘れていたのかもしれないので、遅ればせながらここで書いておきたい。

それは 「渡辺さんの、何を聞かれても 『そういう問題じゃない』 と話をはぐらかして、きちんとした議論に入り込まないという性癖さえなくなれば、まともに支持してもいいんだがなあ」 ということだった。

本当に渡辺さん、総論として 「聞こえのいいキャッチフレーズ」 は連発するが、具体論について突っ込まれると必ず 「そういう問題じゃない」 と言い返すばかりのお人なのである。これが私は気に入らなかった。逮捕前のホリエモンとまったく同じスタイルである。このスタイルで長持ちした人を、私は見たことがない。

いずれ何かメジャーな仕事の当事者になったら、「そういう問題じゃない」 だけで切り抜けることなんて不可能なのである。ということは、「そういう問題じゃない」 を連発する人は、いつまでも 「当事者」 になる気のない人であり、大きな責任を持つ気のない人なのだと、私は思っている。

はからずも渡辺さんはホリエモン同様、金の問題で躓いた。「違法性はない」 と強引に言い張っているので、罪に問われるまでには至らないかもしれないが、いずれにしても、これで ほとんど終わりである。「みんなの党」 は名称とは裏腹に、ずっとワンマン党首でやってきたのだから。

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2014/04/07

凶悪犯罪は増加しているか

「世の中、物騒になった」 とか 「最近は凶悪事件が多い」 とか 「昔はこんな事件はなかった」 とか、いろいろな言われ方をするが、実際はどうなんだろう。本当に昔は平和で、今が殺伐とした世の中になってしまったんだろうか。

このことについて調べようと思うと、なかなか大変だ。Wikipedia に 「日本の犯罪と治安」 というページがあり、かなり信頼のおける数字がずらりと並んでいるのだが、「昔に比べてどうのこうの」 と一概に言い切る材料にはならない気がする。なにしろ一言に 「犯罪」 と言ってもちょっとした窃盗 (万引きみたいなもの) から大量殺人に至るまでいろいろあり、膨大な数字の中からそれを読み取るのはエラいことになる。

このページをざっと眺めると、犯罪発生件数の推移には波があり、時代によって増えたり減ったりしていることがわかる。考えてみればそれは当然のお話で、一本調子で推移しているはずがない。だから 「昔と比べてどうのこうの」 という言い方自体がナンセンスということになる。

とはいえ、多くの人が 「昔はこんな凶悪な事件はなかった」 という印象をもっていることも事実で、こうした感慨の裏付けとなるような数字を得るために、もっと端的にわかるような統計を探してみると、横須賀市がまとめた 「犯罪発生件数の分析」 というページがある。

このページによると、「犯罪発生件数は、全国・神奈川県・横須賀市とも平成 14年 (2002年) がピークで現在減少傾向」 ということになっている。平成 5年 (1993年) の犯罪発生件数を 100とすると、平成 14年が 160ぐらい (横須賀市は 175以上) で、平成 20年 (2008年) 以後は 100を切っている。

話を殺人、強盗、放火、強姦という凶悪事件に限っても同様の傾向で、つまり、10年前は結構物騒だったが、今はかなり落ち着いている。バブル崩壊からこっちは、やっぱりちょっと世の中が荒れたが、再びもちなおしているということなのだろうね。まあ、親切な見方をすれば、10年前に感じた 「近頃、やべぇな」 という印象が、今でも生きているということなのかもしれない。

話をもっと遡ると、昭和25年 (1950年) から 40年 (1965年) にかけての凶悪事件発生数は、最近の水準の倍ぐらいになっている。この当時は日本の人口は今ほど多くなかったから、発生率でいえば今は当時の半分以下ということになるだろう。つまり、日本の凶悪犯罪は、戦後から高度成長期にかけてはかなり多くて、その後減少傾向にあった。そしてバブル崩壊後に一時的に増加したが、再び減少しているというわけだ。

さらにいえば、終戦直後は思いのほか犯罪件数が少ないが、これは戦後の混乱がひどすぎて警察の手が足りず、実際にはいろいろな犯罪が発生してはいても、それを捉えきれなかったのかもしれない。まあ、そのあたりのことは今となってはわからないが。

少なくとも 「近頃物騒」 とか 「最近は凶悪犯罪が多い」 とかいうのは、かなり印象点的な言い方で、4〜5年前ぐらいまでは 「確かにちょっと物騒かもね」 と言えたかもしれないが、それでも戦後から前の東京オリンピック頃の様相に比べればずっとマシで、最近はさらに落ち着いているというのが、客観的な見方といえるだろう。

話は変わるが、「自閉症増加」 という印象に関してもからくりがあるという。ナショナルジオグラフィックニュースに 「自閉症“増加”のデータに警鐘」 という記事があり、これは米国のデータに基づいた話なのだが、自閉症の子どもが急増しているように見えるのは、統計上の都合によるもので、実態は昔からそんなに変わるものではないという内容である。

自閉症に関する認知度の高まりや学校でのスクリーニングの拡大があると、自閉症としてカウントされる数が増えるのだ。それで数字だけが一人歩きして、人々に強く印象づけられる。犯罪の場合は、情報伝達が発達してどんどんニュースに取り上げられるので、人々に強く印象づけられることになる。

「最近は凶悪犯罪が多い。昔はこんなことはなかった」 という人に、データに基づいて 「いや、昔の方がずっと物騒だったんだよ」 と言うと、「あんたはそう言うけどね、そんな数字は信じられないよ」 なんて、理屈に合わない反応が返って来がちだ。

このように、実態と印象の間には、結構なギャップがあり、印象というのは理屈を超えたインパクトなのである。客観的な統計数字でさえも、受け取る側の都合で印象を裏付ける根拠になったり、印象を裏切る 「信用できないもの」 になったりするのだ。人間とは相当に勝手なものである。

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2014/04/06

昔のモノの売り方

近頃、電通の 「戦略十訓」 というのが、改めて話題になっている。どんなのかというと、こんなのだ (参照

    1. もっと使わせろ
    2. 捨てさせろ
    3. 無駄使いさせろ
    4. 季節を忘れさせろ
    5. 贈り物をさせろ
    6. 組み合わせで買わせろ
    7. きっかけを投じろ
    8. 流行遅れにさせろ
    9. 気安く買わせろ
    10. 混乱をつくり出せ

消費者視点からみると、完全に踊らされているように感じてムッとしてしまうし、第一、さすがに今のご時世には合わなすぎるので、ほとんど死蔵状態というが、1970年代まではこれが錦の御旗みたいなものだったらしい。

いや、1970年代までというが、実際には 2度のオイルショックを経験した 1980年代になっても、とくにファッション業界においてはこれがそのまま金科玉条の様相を呈していた。さらに 90年代に至ってさすがにこの十訓自体が完全に賞味期限切れになってからさえ、業界人は過去の幻想にしがみつき、時代遅れのマーケティングで坂道を転げ落ちようとしていた。

使わせ、捨てさせ、無駄遣いさせるというマーケティングは、一時的にはかなり成功した。これは 8番目の 「流行遅れにさせろ」 というテーゼと密接に関連していて、要するに 「ちょっと流行遅れの服が一番ダサダサ」 という法則を利用していたのである。だから、ファッション人間はシーズンごとにどっさり服を買わなければならなかった。流行の最先端の服ほど、次のシーズンにはもう着られないのだから。

季節を忘れさせ、贈り物をさせるというのも、重要なマーケティングだった。例えば、タオルなんて品物が、ディオールだのサンローランだのというブランドを付けただけで結構な値段になり、贈答用の目玉商品となった。タオルだけでなく、シーツやパジャマ、ネクタイ、靴下など、オートクチュール系のブランドさえ付いていればいいので、季節なんてほとんど関係ない。

実際には安物のタオルほど使いやすくて、ブランド・タオルは分厚すぎて絞りにくいなんてことであまり使われず、押し入れの中は貰い物のタオルで一杯なんてことになってもいたのだが、そんなことはおかまいなしである。

「組み合わせで売る」 というのも、重要なキーワードだった。洋服は 「コーディネート」 という美名の元に、セットで売るものとなった。要するに消費者の頭の中がまだ単純でだまされやすかったから、自分で自分のスタイルを決められず、勧められるままにセットで買うしかなかったのである。

7番目の 「きっかけを投じろ」 というのは、ちょっとわかりづらいが、要するにヴァレンタインデーで義理チョコを売りまくり、ことのついでに翌月のホワイトデーなんてわけのわからないイベントまで作り出してまで、モノを売りまくるということである。

「気安く買わせろ」 というのは衝動買いしやすいムードを作り出すことで、「混乱を作り出せ」 というのは、売り場でガンガン音楽を鳴らしたりして、正常な判断ができないようにすることだ。三越の売り場がものすごくうるさかったなんてことを覚えている人もいるだろう。一見よく考えられた戦略だったのだが、今や完全に時代遅れとなった。

今や消費者は、余計なものは使わず、買わず、大事なものは捨てず、温暖化で訳が分からなくなったためにかえって 「季節感」 という無い物ねだりをするようになり、「趣味に合わないモノはもらっても嬉しくない」 と言い放ち、単品を上手に組み合わせることができるようになった。

「流行」 なんてものを意識するのは、一部のファッション人間だけで、フツーは同じものを何年着てもおかしくない世の中になった。買い物はネットで比較検討し、リアルショップで触って確かめた上で、やっぱりネットで安く買う。そして混乱には近づかない。

バブル崩壊以後、高度成長期時代のマーケティングは通用しなくなったが、それは消費者が少しは賢くなったということで、不景気が続いたというのも、まんざら悪いことだけではなかった。そして今は、この十訓の逆ばりをすれば成功するということなのかもしれない。

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2014/04/05

井の頭公園は 「いのかしら」 か 「いのがしら」 か

「井の頭公園」 の 「井の頭」 は 「いのかしら」 と清音で発音するのか、はたまた 「いのがしら」 と鼻濁音になるのかという議論がある。この問題、単純に割り切れば結論は簡単だ。「いのかしら」 という清音が正しい。

実際に、京王井の頭線の車内アナウンスははっきりと 「いのかしらせん」 と言っているし、「井の頭公園」 という名の駅の表示は、ふりがなが 「いのかしらこうえん」 で、ローマ字標記が INOKASHIRA-KOEN" である (参照)。他にも多くの文献で 「いのかしら」 ということになっている。

しかし実際には、ことはそう簡単ではない。多くの人が 「いのがしら」 と鼻濁音で発音しているという事実がある。明確な統計は見たことがないが、印象としては鼻濁音派の方が多数なのではなかろうか。とくに三代続いたような江戸っ子は 「いのがしら」 が圧倒的主流だ。「いのかしら」 なんて清音は、ちゃんちゃらおかしい感じさえする。

公式なフリガナと実際の場面での 「粋な発音」 には、ちょっとしたギャップがあるのだ。

「井の頭」 だけではない。「屋形船」 もそうした類いである。辞書で引こうとしたら、見出し語は 「やかたぶね」 と清音で引かなければたどり着けない。最近の若い世代も、ほぼ 100%近くが 「やかたぶね」 派である。

しかし、歌舞伎十八番の 『助六』 には 「鼻の穴へ屋形船蹴込むぞ」 という乱暴きわまりない台詞があるが、「やかたぶね」 とはどうも聞こえない。しかし 「が」 と濁音で言っているわけでは決してなく、清音でもない。鼻濁音と清音の間の、かなりビミョーな発音である。

ビミョーな発音といえば、「お師匠さん」 がある。小唄や三味線の師匠を、「おししょうさん」 と言うのは粋じゃなくて、「おしょさん」 と聞こえるように言うのが江戸っ子である。しかし明確に一音一拍的に 「おしょさん」 と言っているわけでもなく、そのあたりはかなりビミョーというしかない。

その類いでいえば、「百人一首」 というのもある。私の学問上の師匠である郡司正勝先生は、「『ひゃくにんいっしゅ』 なんて言っちゃだめだよ」  とおっしゃっていた。どちらかといえば 「ひゃくにんしゅ」 に聞こえるような発音が粋なのである。しかしこれも、まったく明瞭な一音一拍で 「ひゃくにんしゅ」 と言っているわけでもない。ものすごくビミョーなのだ。

つまり、この類いの言葉には 「フォーマルなフリガナ式」 と 「粋なビミョー発音」 というのがあるのだ。国語の試験で 「粋なビミョー発音」 式の読み仮名をつけたら確実に間違い扱いになるが、実際の場面では決して間違いではない。それを間違いという方が、ずっと無粋ということになる。文字では表現しきれない微妙な音というのが、確実にあるのだ。

そういえば、私の居住する茨城県も、「いばらき」 が正しいということなのだが、実際には 「いばらき」 と 「いばらぎ」 の中間ぐらいの発音が一番自然に聞こえたりする。このあたりは、本当に一筋縄では行かない。

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2014/04/04

ウィルスを取り込むという DNA レベルでの 「ブレンド (混紡)」

デニムの生地を織るための綿糸に、ほんの 2〜3%のスパンデックス (ポリウレタン) という繊維をブレンド (混紡) すると、織り上げられたデニムはとてもいい感じの伸縮性を発揮する。綿 100%のゴワゴワで粗野なイメージだったデニムが、ちょっとしたブレンドによってスキニーなシルエットの実現性を獲得し、「ストレッチ・ジーンズ」 は今やとてもポピュラーなアイテムになった。

ナショナルジオグラフィック ニュースの 「ヒトES細胞の多能性にウイルス関与?」 というニュースを読んで、唐突に混紡や交織による繊維技術の進歩のことを想起してしまったのは、繊維業界で 30年メシを食った自分のバックグラウンドによるのだと思う。メタファーとして十分に適切かどうかはわからないが、私自身の感覚としては腑に落としやすい。

この記事は、「数千万年前、ヒトの祖先のゲノムに侵入したウイルスが、今では人体のすべての細胞の元である胚性幹細胞 (ES細胞) において重要な役割を果たしていることが、最新研究で明らかになった」 と報じている。

これまでもヒトは 「レトロウィルス」 と呼ばれるウィルスのいくつかを自身の DNA の中に取り込んで進化してきたことが明らかにされている。今、レトロウィルスの中でも一番の悪玉と考えられているのが、後天性免疫不全症候群 (AIDS) を発症させるヒト免疫不全 (HIV) ウイルスだが、ヒトは将来的に、HIV だってうまい具合に取り込んでしまわないとも限らない。

「人間とは何ぞや?」 という問いに純粋に生物的に答えるとすれば、「ヒトとしての進化の途中で、ウィルスをも取り込むなどの裏技を果敢に行った結果である」 みたいなことになるのだろう。つまり 「純粋なヒト」 というコンセプトは無意味で、かなりの夾雑物をも含むのが、今ある我々、つまり 「ヒト」 なのだ。コットン 100%のトラディショナルなジーンズじゃない。

これは我々人間の身体というものを、地球上で物理的に生き延びるためにまとっている 「衣服」 みたいなものと考えると、なんとなくしっくりくる。コットン 100%のジーンズではゴワゴワしすぎて着にくいので、スパンデックスというまったく由来の異なった化学繊維とのブレンドでストレッチ性を実現したみたいなことで、人間も 、「えいや」 とばかりに外部生命であるウィルスを、自身の DNA の中に混紡してしまったのだ。

今回のニュースの中では、このあたりのことが、次のように述べられている。(引用文中の 「ブルク氏」 とは、今回の研究の研究の共著者で、モントリオールにあるマギル大学の計算生物学者Guillaume Bourque 氏)

レトロウイルスを取り込んだ生物が、自らの生体機能をよりよく制御するのに、ウイルス由来の物質を利用している可能性を示唆している。「役に立つかもしれない機能を、突然変異のみに頼るより早く手に入れられる」 とブルク氏は述べる。

我々はスピリチュアル (精神的) あるいはメタフィジカル (形而上学的) にはピュアになることができるかもしれないが、フィジカル (肉体的) には、既に全然ピュアじゃなく、なんと、ウィルスとのブレンドによって生きながらえているのである。

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2014/04/03

当ブログの通算アクセス 500万を突破

いやはや、驚いた。当ブログのアクセス・カウンターが、いつの間にか 500万を超えている。先月末に 490万を超えていたので、「4月の半ばには 500万超えができるかな」 なんて思っていたが、今日、あっさりと超えてしまった。

なんでまた、こんなに早めに超えてしまったんだろうと。ココログ純正のアクセス解析をあたってみたら、近頃、1日平均のアクセス数が 2,500を上回っている。私は長らく、自分のブログのアクセス数は 2,000/日 ぐらいだとばかり思っていたので、こんなに増えているとは知らなかった。ただ、これが長続きする傾向とは思っていない。

例えば先月 18日の 「クリミア問題って、よくわからないんだけど」 という記事を揚げた後の 3〜4日は、1日のアクセスが 5,000〜9,000 にまで増えた。なんでまたこんなに増えたのかと思い、試しに 「クリミア問題」 というキーワードでググってみると、私の記事がかなり上位に表示されている。それで、どっとアクセスが増えたようなのだ。

ちなみにこの記事は、今日になってもしぶとく 6位に粘っている。私のような素人の記事がこんなに上位にランクされていいのかしらと思ってしまう。この問題、なかなか一筋縄ではいかないので、専門家はかなり慎重に構えているのだろうね。それで私の記事とか、例のサザエさん一家に例えたのとかが、素人にはウケがよかったのかもしれない。

その後も、「春眠暁を覚えず」 とか 「花散らし」 とかのキーワードで、私の 過去記事に飛んでくる数がかなり多くて、平均アクセス数を押し上げているようなのである。ちなみに、この 2つ検索結果では、"「春眠暁を覚えず」 の意味合い" と "「花散らし」 の艶っぽい元々の意味" という私の 2本の記事が、特別扱い的に 3位に表示されている。アクセスが増えるわけだ。

というわけで、このところのアクセス増加は単なる季節要因によるものと、私は思っていて、そんなに浮かれていない。季節が落ち着けば、またいつもの 2,000/日ぐらいのアクセスに戻るのだろう。とはいえこれだけ長くブログをやっていると、季節ごとの目玉記事というのもないわけではないので、やはりほんの少しずつではあるが、アクセス増加傾向にはあるのかもしれない。

まあ、いずれにしても、500万ヒットというのは、一つの区切りにはなるだろう。

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2014/04/02

エイプリル・フールと復活祭のかぶる日

昨日の記事で、2018年の復活祭 (イースター) はエイプリル・フールとかぶってしまう計算になり、欧米では大問題になりかけていると書いたが、実はこの 2つが重なった年は過去に何度もあり、少なくともこれまでは、そのぐらいのことでは問題になっていない。

というわけで、例年以上にもっともらしい書き方をしてしまったが、あれはあれでエイプリル・フール・ジョークなので、そういうことで、よろしく。

復活祭がエイプリル・フールと重なるのは、今世紀では 2018年が初めてだが、20世紀では 1923年、1934年、1945年、1956年と、4回も重なっている。それでも大きな問題とはならなかったので、心配には及ばない。

ただ幸か不幸か、ここ半世紀以上はかぶったことがなく、戦後のベビーブーマーズ以後の世代にとっては、物心付いてからほとんど初めての経験となる。さらにインターネットの普及などで、いろいろな情報が乱れ飛ぶ世の中になっているので、前世紀と比べれば少しは混乱が生じる可能性も否定できない。

ただ復活祭自体はイースター・エッグやイースター・バニーなどが登場するなかなか楽しい祝祭である。2018年には卵やウサギをネタにしたおもしろいエイプリル・フール・ジョークがたくさん登場するものと期待していいだろう。一部では既に 「イースター・フール」 なんていうネタが企画され始めているらしい。

ちなみに復活祭は常に日曜日で、祝日とはいえ会社や学校の休みが増えるわけではないが、その代わりに欧州では翌日の月曜日を 「イースター・マンデー」 として祝日にしているところが多い。日本のハッピーマンデーみたいなものである。

さらに復活祭前の金曜日がイエス・キリストの受難と死を記念する 「聖金曜日」 (キリストは死の 3日目に復活したとされるので、日曜日が 「復活祭」 となる) で、この日からイースター・マンデーまでの連続 4日間休みになるところも多い。こうなると、ハッピーマンデーどころではない。

というわけで、本日は昨日のネタの後始末ということで、これにて失礼。

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2014/04/01

4年後のエイプリル・フールの日付が大問題に

毎年この日はエイプリル・フール・ジョークをアップしているが、今年はちょっとオモムキを変えさせてもらう。

実は 4年後のこの日は洒落では済まない話になりそうなのだ。下手すると 2018年のエイプリフ・フールは自粛ということになってしまわないとも限らない様相で、それを思うと心配で、ジョークどころではなくなってしまっている。

というのは、2018年の 4月 1日は、キリスト教で最も重要な祝祭日の一つである復活祭 (イースター) とかぶってしまうのである。キリスト教の聖職者の間では、神聖な祝祭日が馬鹿げたジョークで汚されるのはたまらないと憂慮する声が噴出しているようなのだ。

復活祭の日付というのは固定されておらず、「コンプトゥス」 と称する日付計算によって毎年異なった日に振り当てられるので、「移動祝祭日 (movable feast)」 と呼ばれている。基本的には 「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」 と規定されていて、春分の日が満月だったら、次の日曜日ということになる。

こういう決まりなので、当然ながら 4月 1日になる可能性だってあるのだが、うまいことに、近年は長らくかぶったことがない。それで、「復活祭とエイプリル・フールは、絶対に同じ日にならない」 という都市伝説まで生まれていたほどである。しかし怖れていたことが、ついに 4年後に起きるのである。

実は昨年の復活祭が 3月 31日で、エイプリル・フールの前日というニアミスが生じた。これだけで、欧米ではその前年に 「大変だ! イースターとエイプリル・フールが同日になってしまう」 というデマが乱れ飛んだぐらいのもので、実際に重なってしまったら、どうなるかわからない。

既にキリスト教関係者、とくにカソリック関係のウェブページなどでは、「2018年のエイプリル・フール・ジョークは控えるように教会が呼びかけるべきだ」 という書込みがちらほらと現われており、中には 「2018年に限り、エイプリル・フールを翌日の 4月 2日に移すべきだ」 という強硬意見までみられる。

この関連でググってみると、無宗教者や非キリスト教徒の間からは 「とんでもない、復活祭の日付が年によって違うことの方が問題なのだから、ここはキリスト教の方こそ譲って、復活祭を延期すべきだろう」 というカウンター・キャンペーンまでスタートしている。

この主張に対しては、「復活祭を 1日ずらして翌日の月曜日にすれば、三連休になる」 と、一部で賛同の声が高まりつつあり、まるで日本の 「ハッピー・マンデー」 制度みたいなことになっている。

とはいえ、長い歴史と伝統をもつ復活祭がエイプリル・フールごときに負けて日付をずらすなどということは考えられず、エイプリル・フールの方を自粛することになる公算が強い。つまり 4年後のこの日は、非キリスト教者にとってはなんとも味気ない日になるようなのである。

唯一の解決法は、2018年の復活祭を 4月 1日としている西方教会 (いわゆる西欧的なローマ・カソリックやプロテスタント) が、せめてこの年だけでも折れて、東方教会 (ギリシャ正教やロシア正教などが属する) の歴法に従うことだ。

西方教会はグレゴリオ暦を用いるため、復活祭は 3月 22日から 4月 25日の間となるが、太陰暦の影響が強いユリウス暦を用いる東方教会では、4月 4日から 5月 8日の間となり、2018年の復活祭も既に 4月 8日と決まっている。つまり、東方教会流の日付計算では、復活祭は絶対にエイプリル・フールとかぶらないのだ。

今回の 2018年問題を機に、西方教会でも今後永遠にエイプリル・フール問題に悩まされないためにも、コンプトゥスの日付計算を東方教会流のユリウス暦に変更すべきだという指摘が出ているようで、私としてはそうなることを強く期待している。そうでないと、年に一度の楽しみが失われてしまう。

【4月 2日 追記】

ええと、いつものナニということで、済ませてください。詳しくは、2日の後始末記事をどうぞ。

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