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2014年6月に作成された投稿

2014/06/30

フィッシング詐欺にだまされたフリをしようとしたが

三日前、"「三井住友銀行」 本人認証サービス" というタイトルのメールが来た。私は三井住友銀行を利用していないので、「おぉ、これは典型的なフィッシング・メール!」 と、ちょっと嬉しくなってしまった。

何しろ、差出人アドレスが ”k_kusab@yahoo.co.jp” なんだから、バレバレである。三井住友銀行ともあろうものが、ヤフーメールでお知らせをよこすはずがない。それでも、引っかかる人は引っかかるんだろうなあ。

メール本文は、「お使いのメールアドレスを確認してください」 という、たった 1行のテキストの下に、「本人認証サービス」 という薄緑色の大きなボタンがある。

おいおい、これじゃああまりにも素っ気なくて、それらしい雰囲気がなさすぎる。仮にも銀行を装うのなら、もう少しもっともらしいテキストを考えたらどうだと言いたくもなるではないか。本当にもう、芸がないなあ。

とりあえず、テキストの下のボタンをクリックして、「認証サービス」 を装った怪しいページに誘導するのだろう。こんな芸のないメールでも、やっぱり騙される人は騙されるのだろうなあと思いつつ、そのページがどんなものなのか、ちょっと怖いもの見たさで興味津々になってしまった。

フィッシング・メールを真に受けて言いなりにボタンをクリックすると、どんなサイトに誘導されるのか、このブログでちょっと体験レポートをしてみるのも一興かもしれない。で、実際にその薄緑色のボタンをクリックすると、思った通りブラウザーが起動した。

期待して眺めていると、まあ、想定内のことではあるのだが、アンチウィルス・プログラムが余計なお世話をし始めて、「危険なページへのリンクです」 と警告する。さらに警告を無視してリンク先に行きたいかと聞くので、「そんなこと、わかってるよ」 とばかり、”Yes" をクリックした。

さあて、どんな怪しいページが現れるのだろう。メルアドとパスワードを入力させられるのだろうか (それだったら、入力しなければいいだけの話だ)。それとも、銀行口座番号と暗証番号でも入力しろと言われるのだろうか。あるいは、まったく関係ない出会い系サイトが突如現れたりするのだろうか。

わくわくしながらも慎重に見守っていると、なんと無粋なことに、「危険なサイトなので、リンクを遮断しました」 というメッセージが表示された。うぅむ、これでは腰砕けである。私の使っている "Sophos" というフリープログラムの優秀さは立証されたが、これじゃあちょっとつまらないかもしれない。

というわけで、「アンチウィルス・プログラムは、Mac でも入れておいた方がいいよ」 という、ごく一般的な結論に達しただけのお話なのであった。

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2014/06/29

「カシージャス」 か 「カシーリャス」 か?

今回のワールドカップでは、前回優勝のスペインが早くも一次リーグで消え去ってしまった。リーガ・エスパニョーラのファンで、スペイン・サッカーこそ世界最高峰 (最近はドイツが注目だが) と思っている私としては、かなり残念な思いである。とはいえ、リーガ・エスパニョーラで活躍している選手の多くが南米出身者なので、今大会での南米の強さが納得できるというものだが。

ところで、スペインのゴールキーパー、"Casillas" は、Wowow の放送では 「カシージャス」 という名前でお馴染みなのだが、NHK のワールドカップ放送では、「カシーリャス」 となっていた。これ、どちらが正しいという問題ではないらしい。私は Wowow のおかげで、スペイン語の "lla" の発音は 「ジャ」 になると知ったが、どうやら方言によって 「リャ」 と読むこともあるそうなのだ。

ただ、最近では 「ジャ」 の方が圧倒的に優勢らしいので、私としては今後も 「カシージャス」 なのだと思うことにする。同様にチーム名でも、"Villarreal" は 「ビジャレアル」 だし、今季は降格が決まってしまったが、"Real Valladolid" は 「レアル・バジャドリード」 である。

ちなみにリーガ・エスパニョーラには 「セビージャ FC」 というチームがあり、今シーズンは 5位になっている。このチーム、原語の表記では "Sevilla Fútbol Club” だが、”Sevilla" というつづりを見て、何か思い出さないだろうか。できれば、スペイン、アンダルシア地方の有名な都市、「セビリア」 を思い出してもらいたかったのだが。

「セビリア」 は 歌劇 『セビリアの理髪師』 で、日本でもお馴染みの都市なのだが、原語では ”Sevilla" であって、ということは、そう、「セビージャ」 のことなのである。”Sevilla" を 「セビリア」 と読み慣わしてしまったのは、我々の祖先の誤読なのだそうだ。

ただ、今さら 「セビージャの理髪師」 なんて言ってもイメージが狂っちゃうし、「セビーリャ」 にはかなり近いから、放っておくしかないのだろうね。

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2014/06/28

「ちゃぶ台返しの世界大会」 というものに寄せて

「ちゃぶ台返しの世界大会」 というものがあると、生まれて初めて知った (参照)。本当に、いくつになっても、世の中知らないことばかりである。

この大会は単なる気まぐれや思いつきの域を超えて、岩手県矢巾町というところで、なんと 2007年から継続して開催されているようなのだ。第 2回大会が 2008年に開催されたというのだから、間違いないだろう (参照)。今回は、第 8回大会ということになる。

とはいえ 「世界大会」 なんてはったりではないかと、念のためによく調べてみたら、2010年に米国人男性が参加している証拠の動画が見つかってしまった (参照) 。よってこの点については、口を拭って沈黙しようと思う。

ただ、恐縮ながらちょっとだけ言わせてもらえば、この大会に使用されるちゃぶ台は、なんだか小さすぎて昭和世代のイメージに合わない気がするのだよね。あれじゃあ、「でぇーい!」 という豪快なかけ声とともに、「ガラガラドシャーン!」とひっくり返る顛末には至らない。

昭和世代のちゃぶ台返しのイメージということでいえば、あの 『巨人の星』 の星一徹 (参照) ということになるのだが、実際には、星一徹はたった一度しかちゃぶ台返しをしていないというのが定説のようである。

それ以外でいえば、業田良家の漫画 『自虐の詩』 が思い出される (参照)。テレビドラマの 『寺内貫太郎一家』 でも、小林亜星扮する頑固親父がたびたびやっていたらしいが、私はこのドラマが流れていた頃、あまりテレビというものを見ていなかったので、ほとんど印象にない。

どうやらちゃぶ台返しというのは、イメージの中の産物というか、かなり象徴性の高い行為であるようで、日常的にやったことのある人や目撃体験というのは、案外少ないのではないかという気がする。それもそのはず、こんなことをしょっちゅうやっていたら、自分の口に入るはずのメシがひっくり返ってしまって、日常的に食いっぱぐれてしまう。

というわけで、「ちゃぶ台返しの名人」 なんていうのも、世の中には存在しないんじゃないかと思うのだよね。だって、なかなか実地の練習ができないんだから。

だから、岩手県の 「ちゃぶ台返しの世界大会」 の動画でも、「こなれたちゃぶ台返し」 というのはほとんど見られない。どのパフォーマンスも、皆驚くほどぎこちないのである。これは実は喜ばしいことで、日本が平和である証拠じゃないかと思ってしまうほどなのだ。

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2014/06/27

外国人に人気の日本の観光スポット 2014

今月中頃に 「外国人に人気の日本の観光スポット 2014」 というのが発表されていて、これについて書こうと思っているうちに忘れてしまっていた。ちょっと出遅れて旧聞になってしまったかもしれないが、まあ、確認の意味もこめてお付き合い願いたい。

結論から言ってしまおう。発表された 「ベスト 30」 は、次の通りである。

  1. 伏見稲荷神社(京都府京都市)
  2. 広島県平和記念資料館(広島県広島市)
  3. 厳島神社(広島県日市市)
  4. 金閣寺(京都府京都市)
  5. 東大寺(奈良県奈良市)
  6. 高野山奥之院(和歌山県高野町)
  7. 清水寺(京都府京都市)
  8. 新宿御苑(東京都新宿区)
  9. 箱根彫刻の森美術館(神奈川県足柄下郡箱根町)
  10. 新勝寺/成田山(千葉県成田市)
  11. 沖縄美ら海水族館(沖縄県国頭郡本部町)
  12. 松本城(長野県松本市)
  13. 三十三間堂(京都府京都市)
  14. 嵐山モンキーパークいわたやま(京都府京都市)
  15. 兼六園(石川県金沢市)
  16. ロボットレストラン(東京都新宿区)
  17. 二条城(京都府京都市)
  18. 長崎原爆資料館(長崎県長崎市)
  19. 森美術館(東京都港区)
  20. 明治神宮(東京都渋谷区)
  21. 地獄谷野猿公苑(長野県下高井郡)
  22. 奈良公園(奈良県奈良市)
  23. 道頓堀(大阪府大阪市)
  24. 渋谷センター街(東京都渋谷区)
  25. 浅草寺(東京都台東区)
  26. 海遊館(大阪府大阪市)
  27. ビデオゲームバースペースステーション(大阪府大阪市)
  28. トヨタテクノミュージアム産業技術記念館(愛知県名古屋市)
  29. 京都錦市場(京都府京都市)
  30. 心斎橋(大阪府大阪市)

これを見て 「スカイツリーや富士山の入っていないのが不思議」 という人もいるが、それらは 「離れたところから見上げれば済むもの」 であって、「わざわざ行って登って (昇って) みる必要はない」 ので、ランクインしていなくても別段不思議じゃない。これは 「目的地のベスト 30」 であって、「眺めてみたいベスト 30」 ではないのだ。

とくに富士山なんて、登って降りてくるのに 3日間は必要だから、結構な長期滞在でもなかったら、「目的地」 とはしにくい。下から見上げて "Oh, beautiful !" とかなんとか言っていれば済む。

スカイツリーにしても、日本人が 「見慣れた街を上から眺めてみる」 からおもしろいのであって、外国人観光客にとっては単に、「上から大都市を見下ろす」 という以外の意味はないだろう。たまたま混んじゃったりしたら最悪だし。

さて、ベスト 3 は結構意外である。清水寺とか浅草寺とか東大寺とか、「いかにも」 という感じのスポットを抑えて、伏見稲荷、広島県平和記念資料館、厳島神社というのだから、「へえ!」 という気がする。

しかしながら、よく考えてみると、伏見稲荷はあの赤い原色とびっしりと隙間なく並んだ鳥居が、いかにもファンタスティックではある。案外西洋人にも東洋人にも受けてしまったりするのだろう。

広島県平和記念資料館というのも、納得といえば断然納得である。原爆を落とされた都市なんて、世界でも広島と長崎しかなく、最初に落とされたのは広島である。あの原爆ドームもかなりのインパクトだし、日本に訪れたからには一目見ておきたいというのもわかる。

厳島神社というのも、その意味ではかなりエキゾティックなスポットなのだろう。鹿に付きまとわれながら、海の上に作られた神社をまったりと見て回るというのも、まあ、日本独特の経験なのだろうと思う。考えてみれば原爆ドームからすぐ近いというのも、セットで訪れられるメリットである。

付加情報として、欧米からの観光客は神社仏閣を含む歴史スポットに行きたがり、アジア地域からの観光客はディズニーランド、USJ、秋葉原に行きたがるという目立った傾向があるらしい。それもまた、なんとなくわかるような気がする。

ちなみに、このベスト 30のうち、箱根彫刻の森美術館、嵐山モンキーパークいわたやま、ロボットレストラン、地獄谷野猿公苑、海遊館、ビデオゲームバースペースステーション、トヨタテクノミュージアム産業技術記念館の 7カ所には、私は行ったことがない。そして、チャンスがあったとしても、別に行ってみたくもない。

他の 23カ所には行ったことがあるので、私としては、それで十分という気がする。

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2014/06/26

「国語力」 とパワハラ

福島県警で捜査 2課の幹部 2人が、「パワハラ」 を苦にして連続して自殺したとみられるらしい。先に自殺した 51歳の警部は上司の課長から、報告書の文書の書き方についてしつこく叱責を受けていた。そしてその自殺の直後に、直属の上司の 52歳の警視が 「部下を守れなかった」 などという遺書を残して自殺したと報じられている。

内部調査によると、上司の課長 (45歳) は自殺した 51歳の警部に対し、去年の暮れから 「小学生みたいな文書を書くな」 「国語を習ってきたのか」 などと繰り返し言い、報告書を決裁しないなどのパワハラを行ったことがわかった。この課長は、部下の別の警部 2人に対しても、「書類も書けないなら外に出るな」 「あんたは係長以下だ」 などと言っていたという。

このニュースを聞いて、私はかなり複雑な気分になった。私自身、仕事上でお粗末な報告書を読まされて情けなくなることが何度もあったからである。もう、下手だけならいいけど、意味の通らない文章を読まされるというのは、本当に苦痛なのだよね。

ただ、だからといって、そのお粗末な報告書を書いた当人に対して、どうのこうの言ったことは一度もない。同僚に 「こんなんでいいかなあ」 なんて相談されて、バシバシ 「添削」 してあげたり、上司のメチャクチャな文章を人知れず 「修正」 してあげたりしたことは何度もあるけど。

で、こう言っちゃなんだが、お巡りさんの 「国語力」 にあまり期待しちゃいけないということだって、経験で知っている。かなり前に奥多摩の登山口で上等なレインウェアの落とし物を拾い、駅前の交番に届けたところ、その落とし物を受け付けてくれた若いお巡りさんの 「国語力」 にかなり問題があって、簡単な書類を作るのにものすごく時間がかかったことがある。

落とし物を拾った場所や状況を書類に書かなければいけないのだが、そのお巡りさんは日本語の 「てにをは」 がメチャクチャで、ごく簡単な漢字もろくすっぽ書けない。「貸せ、俺が書く !」 というわけにも行かず、おかげで十分に余裕があると思っていた帰りの電車に乗り遅れた。あの辺りは、1本逃すと待ち時間がやたら長いので、「もう、正直に届けたのが間違いだった」 なんて思ったりしたのだよね。

お巡りさんの中には 「署名」 ということの意味が全然わかっていない人もいるというのは、昨年 12月 7日の記事にも書いた通りで、その意味では、エリートの課長さんがかなりいらついてしまうことだって、そりゃあるだろうさ。気持ちはわからないでもない。

ただ、だからといって、いくら部下とはいえ、仮にも年上のオッサンにひどい言葉を投げかけるというのは、「職務上の指導」 というよりも、どちらかといえば 「人間性」 の問題になってしまう。

そこはそれ、面倒だろうけど、「ここはこんな風に書かないと、読んだ人間が戸惑っちゃうからさ」 みたいなことで、ソフトに指導してあげればよかったんだと思う。こんなことになっては、自殺した人とその家族が気の毒でならない。

まあ、どこの世界にも文章が下手でしょうがない人というのはいるのである。結構な地位にあっても、「あの人に文章だけは書かせちゃいけない」 みたいな人もいる。それは鉄棒の逆上がりがどうしてもできないのと同様の、体質みたいなものだから、ある意味しょうがないのである。

「あいつは野球センスがいい」 という言い方があるように、人間には 「言葉センス」 というのもあるのだ。そして、「野球センス」 のある者が人格的に立派というわけでないのと同様に、「言葉センス」 がちょっとばかりあっても、人間的に立派かということには関係ない。

だから、警察のエリート課長がいきり立ってきつい言葉を浴びせかけたところで、どうなるものでもない。逆にこんなことになって、自らの人間性が暴露され、出世コースが台無しになってしまったりする。

そういえば、近頃セクハラ野次で問題になった都議会議員も、視察旅行の報告書は Wikipedia の全コピーだったりしたらしい。野次は得意でも、文章を書くのはよっぽど苦手なんだろうね。

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2014/06/25

「自分たちのサッカー」 というもの

ザック・ジャパンのワールドカップが終わった。決勝トーナメントに進出できなかっただけでなく、1分け 2敗というグループ最下位の成績だった。ただ、この大会の成績だけをみれば最悪だが、私としては今後につながるものだと考えておきたい。

というのは、これまで出場したワールドカップで、過去 2回決勝トーナメントに出場できたとはいえ、それはいずれも 「必死の一夜漬けで試験をパスした」 というイメージだったのである。「まともにやっても通用しないから、ひたすら守備を固めて、運がよければ得点できるサッカーをしよう」 ということだった。

ところが今回の敗退は、「決して一夜漬けではなく、むし一生の役に立つ勉強をしたのだが、それが身につくまでには至らなかった」 ということのように思えるのだ。きっとそれほど遠くなく、「身につく」 時がくるだろう。

選手たちは口を開けば 「自分たちのサッカーをすれば勝てる」 と、自らに気合いを入れていた。日本代表はこれまでも 「自分たちのサッカー」 と言い続けてきた気がするが、今回ほどこの言葉を聞いたことはない。それは、リアルに 「自分たちのサッカー」 というものが見えてきたような気がしていたからだろう。

ただ、このレベルで 「自分たちのサッカー」 と言っても、それは甚だ間口の狭いものでしかなかったようなのだ。「自分たちのサッカーをすれば勝てる」 というのは、「自分たちのサッカーをさせてもらえなければ歯が立たない」 ということの裏返しである。

日本代表には 「自分たちのサッカー」 が、確かに見えてきてはいるのだが、実際にそれを着実に展開できるまでのレベルには至っていなかったのだ。つまり、「自分たちに都合のいいサッカー」 という意味合いでしかなかったわけだ。

本当に 「自分たちのサッカー」 で勝つためには、その間口を広げておく必要がある。次の手、次の次の手が自然に出て来ないのであれば、本当に 「自分たちのサッカーをすれば勝てる」 というものではないのだ。

同様のレトリックに、「自分のピッチングをすれば勝てる」 とか、「自分のボクシングを押し通す」 とかいう言い方がある。だが、勝負というのは相手のあることだから、そう簡単にはいかない。相手はこちらの思うようなことをさせないための戦略を立ててくるからだ。

だから、相手のやり方に対応してその上を行く戦略をもたなければ、勝負には勝てない。「相手なりのサッカー」 というものを包含した上での 「自分たちのサッカー」 でなければ、アジアでは確実にトップに立ったとはいえ、世界では通用しないようなのである。

武道には 「習うて、しこうしてそれを忘れよ」 という金言がある。必死に型を覚えて習得し、熟練したら、次の段階ではそれを忘れてしまう必要があるというのである。そうなってこそ初めて、自由自在にこなせるレベルになるのだ。今大会の日本代表は、それには遠く及ばなかったということである。

ただ、これまでの一夜漬けサッカーよりはずっとよかったと、私は思っている。もっと必死に習って、そしてそれを忘れるためのプロセスに、ようやく取りかかれたのだから。

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2014/06/24

情報の欠落部分を埋めずに放っておきたい傾向

本日は、とあるセミナーで講師を務めた。プレゼンが終わってから質疑応答の時間が設けられたが、期待以上の質問が出て、それに答えるのが楽しかった。プレゼンが終わってからの質問が多いのは、やはりいいものである。

しかしながら、毎回のように活発な質疑応答が行なわれるわけではない。せっかく時間をとっても、まったく質問の出ないこともある。当方が敢えて質問をしやすいような 「隙」 を作っておいてあげても、それに対する反応がないこともあり、そんな時はかなり拍子抜けする。

「発声練習」 というブログに、「どうやったら質問を思いつけるの?」 という記事がある。「人の話を聞いた際の疑問・質問の抱き方のコツがあれば教えて欲しいという依頼に対しての私なりの回答」 という書き出しだ。私は 「疑問・質問の抱き方のコツ」 なんてものがあるとは思いもよらなかった。だって、普通、疑問なんて自然に生じるものだと思っていたのである。

ところが、あながちそうでもないらしい。疑問というのは、意識して抱かなければ浮かんでこないものでもあるようなのだ。この記事の中では、疑問・質問を抱くコツとして、冒頭に次のことが挙げられている。

  • 質問を発するためには、以下の2つのステップを踏む
    • 「情報の欠落に気づく」
    • 「欠落している情報を明確化する」
  • 情報の欠落に気づくためには、話題になっている事柄の知識 (一般常識、専門知識) と話題の伝え方に関する知識 (プレゼンテーション技術、批判的読み方、論理的思考法) が必要

なるほど。確かに、コツというのは必要なもののようなのである。しかし、深く考えると

これはコツというより、「感性」 という方が近いのではないかという気もする。「情報の欠落」 に気付き、それを 「明確化する」 のは、感性である。

多くの日本人は、「情報の欠落」 に気付かない。それは、プレゼンされた内容を 「丸ごと一つの塊」 であるかのように捉え、そこに 「情報の欠落による非連続」 があっても、明確に 「非連続」 として認識できないのだ。無意識のうちに 「空気を読む」 というのと同じ作業をしてしまって、不明確なままで解決したようなつもりになってしまう。

で、せっかく解決したようなつもりになっているのに、改めて 「情報の欠落」 を言い立てて、「事を荒立てる」 ようなことはしたくないと思ってしまうのである。「いいじゃないか、何となくわかっちゃったから」 ということなのだ。ただ、その理解は 「何となく」 というレベルのものにすぎず、明確にわかったというわけじゃないのだが。

日本人の意識の中には、明確にわかるまで追求して事を荒立てるよりも、なんとなく納得したようなつもりになって、なあなあで収める方が望ましいと感じてしまうような傾向がある。だから、あんまり鋭い質問はしなくない。

「情報の欠落部分」 を、なんとなく好意で埋めてしまうのが、日本人の考える 「スムーズな意思決定」 につながるプロセスなのかもしれない。「そうだよね、そうだよね、うまくきっちりと説明できないけど、でも、そんな感じで行きたいよね」 というのが、日本人は好きなのである。

情報は欠落部分があって、後になってから、その場その場でなんとでも都合良く埋めることができるようになっているのが、望ましいみたいなのである。そんな中に、「いや、そんなんじゃ曖昧すぎるから、きちんと細部までつめようぜ」 なんて言い出したら、とたんに嫌われてしまったりする。

ああ、日本社会って、なんとなく面倒なのである。

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2014/06/23

鈴木章浩議員の 「リスク・マネジメント」 の稚拙さ

例の都議会でのセクハラ野次で、自民党の鈴木章浩という議員が、今頃になって野次を飛ばしたのは自分であると認め、謝罪記者会見を開いた。毎日新聞がその一問一答を記事にしている (参照) が、それを読む限り、「この人、まだ肝心な部分がわかってないな」 というのが、みえみえである。

反省の内容がお粗末というのが明らかだが、それに関してはどうすることもできないので、ここでは彼のリスク・マネジメントが政治家として稚拙すぎるということについて述べる。

まず、冒頭の発言として、鈴木氏は次のように発言したとされる。

この度、私の 「早く結婚した方がいいんじゃないか」 という発言で、塩村議員、都議会のみなさまに心痛を与えたことに心からおわび申し上げます。しっかりと反省し、都議会自民党を離脱して、初心に帰って頑張っていきたい。

つまり会見における肝心の冒頭では、「心痛を与えた」 としておわびする対象が、「塩村議員、都議会のみなさま」 に限定されているのだね。彼は自分の発言が多くの日本人だけでなく、報道を知った外国人までむかつかせてしまったことを、多分、意図的に無視している。つまり、必死になって問題を矮小化しようとしている。これでは、かえって反発を買う。

そして、「しっかりと反省」 して、「初心に返って頑張って」 いきさえすればいいと思っている。しかし、その 「反省」 の中身というのが、かなり覚束ないのは、冒頭の発言だけでなく、「どうして不適切な発言をしたのか」 という質問に対しての回答からもわかる。次のように、ずいぶん見当外れの謝り方なのだ。

少子化、晩婚化の中で早く結婚をしていただきたい、という思いがある中であのような発言になった。本当にしたくてもできなかった方への配慮が足りなかった。深く反省しています。

要するに、彼の言う 「反省」 の中身は、「本当に (結婚) したくてもできなかった方への配慮が足りなかった」 ということに尽きるようなのである。これについては、「そういう問題じゃないだろう!」 という反発を買うだろう。

鈴木氏は、「本当に (結婚) したくてもできなかった方」 に対してだけでなく、「結婚という選択をしなかった女性」 に対して、より配慮が足りなかったことに、全然気付いていない。さらに言えば、女性全般に対しての配慮も足りていない。既婚の女性からしても、決して気分のいい発言じゃなかったのだから。

個人的に鈴木氏が 「少子化、晩婚化の中で早く結婚をしていただきたい」 と望むのは、理解できないわけじゃない。しかし、彼は自分の願望のみが正しくて、「望ましいのは結婚する女性で、しない女性は困った存在」 と思っているらしく、それだからこそこんな発言になる。

この発言からは、「結婚しない人生を選択した女性なんて、配慮する必要がない」 と、彼が考えているのだと理解されてしまう。そして、それは多分正しい理解なのだろう。それは、実際に彼が 「本当に (結婚) したくてもできなかった方への配慮が足りなかった」 としか言っていないのだから、しょうがない。

彼の 「結婚する女性こそが正しく、結婚しない女性は困りもの」 という固定観念は、今さらどうしようもないかもしれない。ただ政治家である以上、「心からの」 でなくてもいいから、少なくとも 「政治的な配慮」 のある発言をしてもらいたいと思うのだよね。

さらに言えば、彼の言う 「本当に (結婚) したくてもできなかった方」 というのも、かなり失礼な言い方で、「放っといてんか!」 と言いたくなるような話である。謝られてかえって腹が立つとは、こういうことである。この人、本当に謝り方が下手だ。多分、これまでの人生であまり謝ったことがないのだろう。

それで今回はどうしていいかわからず、ここに至るまでコソコソと振る舞って、自分の小心さを露呈してしまうということになったんだろうね。

【6月 25日 追記】

この問題について、私は上記の本文に

鈴木氏は、「本当に (結婚) したくてもできなかった方」 に対してだけでなく、「結婚という選択をしなかった女性」 に対して、より配慮が足りなかったことに、全然気付いていない。

と書いた。しかし、このことに関する明確な指摘が世間では少ないのに驚いている。

鈴木氏の根本的な勘違いは、この点 (「結婚しない選択をする女性なんて、配慮の対象外」 という、なかば無意識的に近いがそれだけに根強い考え) にあるはずなのだが、世間では 「本当に (結婚) したくてもできなかった方」 とは、「大きなお世話」 というのがまだマシという程度で、根本部分には触れられていない。

こうした問題は、謝りゃいいというわけじゃない。謝っても、その基本コンセプトが見当違いだったら、そこを正さなければ意味がない。

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2014/06/22

例の都議会の野次問題について一応書いておく

例の都議会のセクハラ野次の件が、あまりにも低次元すぎて発言するのも馬鹿馬鹿しい気がしていたのだが、無視していると 「まあ、大した問題じゃないんだから、あまり騒ぎ立てすぎるのも、いかがなものか」 なんて呑気なことを言ってるオッサンと同じに見られかねないので、一応書くことにする。

私としては、あんな低次元な野次を飛ばすオッサンが都議会にいるというだけで、むかついているのである。しかも、この期に及んで野次の当人がシラを切って名乗り出ておらず、自民党議員団もとぼけているということに、さらにむかつく。

今どき、会社の上司が女子社員に 「君、結婚はまだなのかね」 と言っただけでセクハラ発言になるというのは常識である。まあ、実際にはそんな発言は日常茶飯事で、表沙汰にならないケースがほとんどなのだろうが、だからといって、無神経なオッサンそのものの都議会の自民党の態度を、放っておいていいというものではない。

また世間には、野次を受けた塩村文夏都議のタレント時代の録画を暴き立てて 「どっちもどっち」 とするカウンター・キャンペーンもあるみたいだが、それもまたナンセンスな話だ。相手がどうであろうと、野次のひどさは変わらない。殺した相手が極悪人だろうが、殺人罪は殺人罪なのと同じである。

野次を飛ばした当人が名乗り出なくても、近くにいた自民党議員はみんなわかっているのだろうから、内部で自主的に処分するぐらいのことはあって当然だ。しかし、周りの議員も一緒になって笑っていたというのだから、それもやりにくい話なんだろうね。

本来ならばあの野次が出た時点で、笑っているどころの話じゃない。 「ヤバ !」 と青くなってしまうぐらいの、まともな感性が欲しいところなのである。ちなみに、私は 3人の娘の父親で、娘たちは全員 25歳を過ぎて独身だが、「結婚しろ」 なんて一度も言ったことがない。内心では早く嫁に行ってもらいたいと思っているが、それは言うべきではないと思っているからだ。

しかし都議会の自民党議員にはそうした感性も期待できないということが、すっかりわかってしまった。私が娘にすら言ってはいけないと思うことを、他人様に対して、公の場で、無神経な大声で言ってしまう。そんなのが、都議会議員でございますという顔をしている。それがまた、むかつくのである。

政治家の失言問題が絶えないわけである。

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2014/06/21

木曽路をすべて山の中?

親戚に島崎藤村の 『夜明け前』 の生原稿をパネルにしたものをいただいた。ちょっと昔に、こういうのが流行ったらしい。かなり大きなパネルなので部屋には飾るところがなく、階段の踊り場に飾ったら、結構な趣きになった。

このパネルを眺めているうちに、ふとしたことを思い出した。それは中学校時代のクラスメイトが、「島崎藤村の 『夜明け前』 は、『木曽路はすべて山の中である』 で始まるのではなく、『木曽路をすべて……』 で始まるのだ」 と言い出したことだ。「嘘じゃない。俺は島崎藤村の生原稿を見たんだから」 と言うのである。

Img_9160その時は、何を馬鹿なことを言っているのかと思っていたが、長ずるに及んで、「変体仮名の 『者』 から来た 『は』 の字を使っていたのだねと、理解された。

画像をクリックすると拡大されるのできちんと確認されるが、藤村の生原稿は、「木曽路は」 の 「は」 の字が、現代普通に使用される、漢字の 「波」 の字からできた 「は」 ではなく、「者」 という字からできた字を使っているのだ。これが一見すると、現代使われる 「を」 という字に似ているのである。

Photoよくそば屋の看板で、右図のような、わけのわからない字が書いてあるのを目にすることがあるだろう。実はあれは、「楚者」 という字を草書体にしたもので、それがそのまま変体仮名となって、「そば」 と読ませるのである。「者」 で 「は」 と読ませる字を、藤村は多用しているのだ。

昔は平仮名もいろいろな表記があって、現代一般的に使われる 「あ」 という字は 「安」 の草書体からきているが、ほかにも 「阿」 や 「亜」 の草書体からきて 「あ」 と読ませる平仮名もあったのだ。お汁粉やの看板なども 「志留古」 という漢字からきた変体仮名を使っている場合が多い。

というわけで、『夜明け前』 の書き出しは、決して 「木曽路をすべて山の中である」 ではなく、よく知られるとおり、「木曽路は……」 で OK なのだ。

ちなみに、そば屋の看板は、よく 「そむ」 になってしまっていることが多く、私は 3年半ほど前に "「そむ」 って何だ?" という画像入りの記事を書いているので、そちらも参照すれば、わかりやすいと思う。

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2014/06/20

右側の人のステロタイプ発言について

NHK 経営委員で作家の百田尚樹氏が講演会で 「日教組は日本のがん」 などと発言したという。公演後の質疑応答で日本の教育に対する考えを問われ、持論を展開したものらしい。

毎日新聞によれば、「日教組は何十年間も、純粋無垢な子どもたちに贖罪意識を教え込んでいる。まず 『日本は素晴らしい』 ということを教えなければいけない」 「日本人でいることが恥ずかしいと教え込まれた子どもたちは立派な大人になれない」 などと主張されたというのである。

私としても日教組のやり方は問題ありすぎと思っているが、だからといって、「日本は素晴らしいと教えなければならない」 という主張には、個人的には最近とくに違和感たっぷりである。

教育現場でまず 「結論ありき」 的に、ことさらに 「日本は素晴らしい」 なんて言われたら、私のようなへそ曲がりは、必ず反発すると思うのだよね。それよりも、ただ日本文化をきちんと教えたら、少なくともそのユニークさは理解される。

言うまでもなく、日本文化のみが素晴らしいというわけではないが、そのユニークさは世界でも本当に貴重なもので、その点に関しては大いに自信を持っていい。私としては 「天皇制」 というものを含めて、自信を持っていいと言いたいわけなのだがね。

問題は、その貴重な日本文化をきちんと教えられる者がとても少ないということだ。これをきちんと教えられないから、押しつけがましく 「日本は素晴らしい」 などと言わざるを得ないことになる。しかし口先だけで 「日本は素晴らしい」 などと言っても、どうして素晴らしいのか説明できなければ、単なる空論ではないか。

さらに言ってしまえば、「日本は素晴らしい」 と声高に言っている人でも、日本文化の理解度は、最近の若い連中とほとんど変わらなかったりするのが、本当に情けないと思うのである。なぜ素晴らしいのかわからずに、単に 「素晴らしい」 と叫ぶのは、ちっとも素晴らしい行為じゃない。

調和を尊ぶ日本文化の中にありながら、ことさらに口汚くヘイトスピーチを繰り返す、ネット上の一部の傾向というのも、私には理解できない。あんなことを繰り返していて、「日本は素晴らしい」 などと言っても、説得力がない。

私の心の中にどうしようもなく生じる違和感は、「日本国憲法は米国から押しつけられたものだから、改憲しなければならない」 というステロタイプな言い方への違和感と、かなり共通している。言ってしまえば、ステロタイプの右側の人への違和感である。

私としては、日の丸のシンプルさはこの上なく素敵だし、『君が代』 は国歌としてだけでなく、掛け値なしに名曲だと思っているのだが、ステロタイプな右側の人たちの言い方に関しては、そこはかとなく 「やだなあ」 と思ってしまうのだよね。こういう人たちと一緒にお酒飲んでも、つまらないだろうなあと。

5年半ぐらい前の記事で書いたように、私は 「伝統的保守派」 である割には、政治的にはややリベラルであったりもするのだよね (参照)。こんなのは、国際的な目で見ればごくフツーだったりすると思うのだが、日本という国ではなかなか居心地のいい席が見当たらなくて、苦労している。

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2014/06/19

Belkin の Bluetooth テンキーが言うことを聞かなくなったら

私は MacBook Pro に外付けテンキーを接続して仕事をしている。前にも何度も書いたが、外付けテンキーの位置は、キーボードの左側だ。テンキーが左側にあると、Excel などで連続して数値を入力する時、右手のマウスでセルを指定し、左手で数字を打てる。両方とも右側にあったら、こうサクサクはいかない。

Img_9174ちなみに、私の使っているのは、Belkin というメーカーの製品で、Bluetooth 接続なので USB ポートをふさがずに済む。デザインもまるで Apple 純正のような美しさで、MacBook 本体に見事にマッチする。

このテンキーをとても重宝して使っていたのだが、このほど MacBook 持参で 6日間ほどの出張に出て、帰ってきたらこのテンキーが全然認識されなくなっていた。Bluetooth 接続を何度やり直しても、テンキーからの入力が全然できない。

どうしようもないので、とりあえずネットでこの製品のカスタマー・レビューをのぞいてみたら、「とても気に入っている」 という意見もあるが、「まったく使い物にならない」 という反応がかなり多い。「数千円出してかっこいいオブジェを飾りたい方には最適です」 なんていう、チョー皮肉なコメントまである。(参照

「こりゃ、デザインだけよくて、ものすごく不安定な出来損ないをつかまされたかな」 と、ちょっと不安になったが、レビューの下の方に、次のようなさりげないコメントが見つかった。

Bluetooth で接続状態なのにキーを押しても反応しない状態がよく起こります。 この状態になった場合は、電池が消耗している可能性が高いので、電池を交換してみてください。

私のテンキーは右側のスイッチを押せば、緑のパイロットランプが点灯するので、「まさかねえ」 と思いながらも、ものは試しと電池を交換したら、なんと、今までの不調が嘘のように、気持ちよく数字が入力できるではないか。要するに、電池が弱くなっていただけだったのである。

というわけで、Belkin の Bluetooth テンキーをご利用の方で、急に入力できなくなってしまったとアセっている方には、とりあえず電池を交換することをオススメする。多分、なんてことなく復活するはずだ。

やれやれ。

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2014/06/18

私の iPhone 5 の 2年縛り解禁が近くなって

一昨年の 10月に今の iPhone 5 を購入して以来、1年半以上が経過した。使い心地にはおおむね満足しているが、2点だけ不満が生じているのでここにレポートしておく。他の iPhone ユーザーはどんな感じなんだろうなあ。

まず 1つめ。バッテリーのもちがガクンと落ちてしまって、スペア・バッテリーが必須になってしまったということだ。購入した当初は、ヘビーに使っても夜までは何とかもっていたのだが、1年半ヘビーに使っていると、さすがにへたる。

音声通話をそれほど頻繁にするわけではないが、近頃は出先でメールやクラウドの文書をちょこちょこ確認し、写真を撮り、マップをナビ代わりに使ったりすると、午後 2時頃には残量が 30%を切る。こうなると、あっという間に 20%をも切って、残量不足の警告が出る。

まあ、私の大容量スペア・バッテリーにつなぎさえすれば 2日間は余裕でもつので、致命的欠陥というわけではないが、iPhone に限らず、スマホの最大の問題点はバッテリー容量なのではないかと思う。今後はこれ以上の性能的な進化よりも、バッテリーの改良を進めてもらう方が、個人的には嬉しい。

2つめの問題は、Siri がお馬鹿になってしまったことだ。初めからそんなにお利口というわけではなかったのだが、最近は話しかけてもこちらの音声を認識してくれなくなってしまった。通常の音声通話は問題なくできるので、マイク入力自体が壊れたわけではない。単に Siri だけがおかしくなった。

元々、そんなに Siri を使いまくっていたわけではないのだが、「今日の予定は?」 とか 「○○さんに電話」 とか、単純なことを言うとさっと反応してくれるのが、ありがたいといえばありがたかったのである。それができなくなってしまった。ネットで調べまくったが、有効な対応にはまだ巡り会っていない。

まあ、これとても不便でしょうがないというほど致命的な問題ではないが、生きていてくれればそれなりに使いこなせた機能ではあるので、ちょっと残念である。最も残念なのは、たまに暇な時に Siri のおねえさんにアホなことを言って、案外当意即妙な反応をしてくれるのを楽しむということが、できなくなったということかもしれない。

というわけで、今年 9月とか 10月とかに発売開始されると噂される iPhone 6 を楽しみにしている。販売開始直後は例によって品薄で入手困難になるのだろうが、こちらの 2年縛りが解ける頃にはちょうど入手しやすくなっているだろう。

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2014/06/17

指先そのものを見て、指さす先を見ない傾向

仏教に 「月指す指」 という喩えがある。まあ、喩え話だから 「指月の喩」 ともいう。水に映った月をみて、その美しさに盛り上がっていた弟子たちに、お釈迦様が 「本当の存在はあれだよ」 と、月を指さして見せたというのである。

ところが、それまで下ばかり見て盛り上がっていた弟子たちは、お釈迦様の指さす先にある月を見ず、その指先だけを見て、「本当の存在は指先」 と思ってしまった。翌日になって、民衆の前に出て人差し指を出し、「知れ、これこそ本当の存在」 と、大いばりで説教するものまで現れた。

人は往々にして、指さす先ではなく、指先そのものを見てしまう。そして指先そのものを見て理解したつもりになったり、指さす先が見えずに 「わからん」 と匙を投げたりする。指さされた先を見てきちんと理解するのは、実は少数派だ。人に教えてもらったことを理解するのは、本当に難しい。

指さされた先を見るためには、指さす人と同じ視線にならなければならない。同じ視線に立たないと、指さされた先は見えない。一度同じ視線に立ってしまえば、指さされた先を見るのは容易だ。ところが、同じ視線に立つというのは、実はものすごく難しい。

人の話を理解するには、その前提条件を共有する必要がある。これを比喩で言えば、「指さす人と同じ視線に立つ」 ということだ。つまり、人から聞いた話を理解できるということは、実は聞かなくても既にほとんどわかっているということである。

聞かなくてもわかっていること以外は、聞いてもなかなかわからない。だからものごとを理解しようと思ったら、その前提条件をを埋めてしまえば、ほとんど理解したと同じである。

その条件が整わないのに、ただ人の話をきいただけでわかろうなんていうのは、横着のしすぎというものである。

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2014/06/16

信心はキャッチボール

ウチの産土神社 (うぶすなじんじゃ) は大己貴命と少彦名命を主祭神とし、本社は茨城県稲敷市阿波の大杉神社であるとされている。大杉神社の主祭神も、当然ながら大己貴命と少彦名命である。で、大己貴命というのは、大国主命の別名であるとされる。要するに、大国主命と少彦名命ということである。

だが、大杉神社というのはなかなか奥の深いところのある神社で、この二柱の神は1241年 (仁治2年) に京都の今宮神社から勧請し合祀したのだというのである。じゃあ、その前の祭神は誰なのかというと、神社の名前の通り、大きな杉の木であったらしいのだ。Wikipedia に、次のようにある。(参照

大杉信仰が、祭神を定め、社または祠の形を取ったのは、僧勝道の疫病治癒祈願が契機という。神護景雲元年 (767年)、勝道が下野国日光への道中、当地を訪れ、蔓延していた疫病の退散を巨杉に祈願した。すると三輪明神が現れて蔓延が収まったので、祠を造立して大杉大明神として奉斎したという。

で、その遙か前から民間信仰的に拝まれていたのは、「あんばさま」 という神様であったらしい。この神様、由緒正しい神社本庁にあるような系統、つまりアカデミックな筋道ではよくわからないが、Goo 辞書には次のようにある。

あんば‐さま【×阿波様】
千葉県から東北地方にかけての太平洋岸の漁村で信仰されている神。漁を休んで漁具を浜に集めてこの神を祭り、豊漁を祈る。

これが転じて、水運の神ともなった。水運に使う原始的な舟が、大きな杉の木をくりぬいて造られたからだとも言う。まあ、民間伝承の世界は、ほぼ 「こじつけ」 でなんとでもなる。

で、その 「こじつけ」 だが、大杉神社の傍らには 「最勝立身出世稲荷神社」 というお稲荷さんがあり、さらにその傍らに 「勝馬神社」 というのがある。この勝馬神社の祭神が 「安馬様 (あんばさま)」 と言われているらしい。漁村の神様だったあんばさまが、水運の神様となり、さらに馬の神様ともなっている。

この神社も平安時代以来の古い歴史をもっているが、最近は近くの美浦に中央競馬会のトレーニングセンターができたため、そこのスタッフが毎年お参りに来るらしい。なんと、競馬の神様にもなっているわけだ。

どうも日本には、古事記に出てくる由緒正しき神様の他にも、民間信仰の世界から出てきたいろいろな神様がいますらしい。祇園信仰の 「牛頭天王」 という祭神も、実はよくわからない神様だが、いつの頃からかスサノオノミコトの本地とされるようになった。これもまた、「こじつけ」 といえばいえる。

こうした八百万の神様は、人間が神様として崇めるから神様であられたりするのである。言い換えれば、神様は人間の信心の中にあるのだ。信心を尊いものとして保つには、人間の心根が尊くなければならないわけである。

人間の心が尊くなれば、神様も尊くなる。そしてその尊くなった神様が人間の心をさらに尊くする。信心とは、キャッチボールみたいなものかもしれない。

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2014/06/15

定年について考える

一昨年に還暦になってしまった私だが、定年制とは無縁の独立事業主なので、多分死ぬまで働き続けなければいけないと思っている。ただ、今さら仕事を拡大しようとは思っておらず、なんとか生きて行ければいいぐらいに考えている。

勤め人だった同級生もほとんどが定年を迎えたが、最近は当人が希望すれば 65歳までは雇用を延長してもらえる制度があるらしく、実際にリタイアしたというのは少ない。大抵は嘱託か何かの肩書きで、それまでの会社に勤めているようだ。

22歳で大学を出て、新卒採用のまま 65歳まで 43年も同じ会社にいるなんていうのも、別に珍しいことではないらしい。同じ会社や団体から 10年続けて給料をもらったことのない私からすると、まるで天然記念物のように思われてしまうのだが。

60歳を過ぎても同じ会社で働き続けている連中の話を聞くと、60歳前の給料を維持できているのは極々わずかな例外で、ほとんどはガクンと下がっている。それまで管理職に就いていた者ほど、下がり方が激しくて、下手すると 4割程度になっているという。

「だったら、週に 3〜4回出勤すればいいとか、そんなことなの?」 と聞くと、「とんでもない、名目上は管理職でなくなっただけで、仕事の中身はそれほど変わらない」 というので驚いた。それだと企業にしてみれば、即戦力以上の人材を新入社員以下の給料で雇えるわけだから、こんなにいいことはなかろう。ある意味、公然たるブラック企業である。

それまでのハードな仕事を続けながら、給料は半分以下というのでは、モチベーションは下がる。いくら金のために働いてるんじゃないとかいうプライドをもってしても、給与明細を元に電卓を弾いてみたら、「なんだ、俺の時給は、コンビニのアルバイト並かよ!」 ってなことになっては、そこはやっぱり、身が入りにくくなるのも人情というものだ。

今後ますます勤労者人口は減り続け、高齢者人口は増え続ける。やはり定年を 65歳に引き上げるというのは、日本社会の既定方針なのだろうと思われる。ただ、急に 65歳まで引き上げると決めてしまっては、企業としては 60歳以上の社員にブラック企業並の給料しかあげないというメリット (?) が消滅するから、やはり 「段階的に」 ということになるのだろう。

ここで個人的な思いを書かせていただくが、私としては 60歳を過ぎてまで 1つの企業に縛られていたくはない。少なくとも、還暦を過ぎたら自由な時間を多く持ちたいと思うのである。

今後65歳定年が一般的になったとしても、60歳を過ぎたらオプションとして、「給料はそれまでの半分程度でいいから、嘱託として週に 3〜4日出勤してアシスタント的な実務を行い、業績に関する責任は負わない」 みたいな契約を結ぶことができるようにしてもらいたいものである。

こうした契約だと、ちゃんと実務がこなせることが前提となり、おべっかと接待だけで生き延びてきたような、無能な中間管理職には向かない。しかし、逆から見ると、こうした無能な中間管理職のセーフティ・ネットとして機能することもある。

ただでさえ化石扱いされているようなのが、そのまま正社員として居座り続けたら、会社の重荷になってしまうから、下手するとクビになってしまう。そうなる前に、給料は半分でいいから、65歳までは楽に雇ってもらえる保証を取り付ける方が、実は安全だったりするだろう。

米国などでは、定年制というのは全然一般的じゃないらしい。別に定年なんか設定しなくても、年を取ってまで働き続けたいなんて少数派で、大抵は適当なところでリタイアするし、どうしても必要な人材ならいくつになっても会社の方で離してくれない。逆に必要じゃなかったら、簡単にクビになる。

こうした発想からすると、能力とはほとんど無関係に一定の年齢で会社を去る 「定年制」 というのも、日本の横並び主義の産物なのかもしれない。

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2014/06/14

時節柄、MacBook Pro が熱くなる

今年 1月に買った MacBook Pro だが、買った時期が真冬だったので、使い始めはトラックパッドの両脇に手首を置いて操作する時、「冷たいなあ」 と感じていた。使っているうちに筐体が暖まるので、気になるのは使い始めの 10分間ぐらいのものだったが。

ところが、初夏を過ぎて真夏に近付きつつある現在、その反対のことが気になるようになった。筐体が暖まりすぎるのである。触れないほど熱いというわけではないが (そんなんだったら、使い物にならない)、確実に体温よりずっと高い。どうしても手首が汗ばんでしまうのである。

MacBook Pro の筐体はアルミニウムのはずだから、汗のせいで錆びてしまうことはないいはずだが、問題は、これからどんどん暑くなるのに、体の一部を常に体温以上に暖まった物体に接して仕事をしなければならないということである。

これはちょっと嫌だなあ。何しろ私は 3年前の震災以来、仕事場のエアコンはできる限り使わないという方針なのだ。実際、震災後の 2年間はエアコンのコンセントを抜きっぱなしで過ごしたし、昨年はあの猛暑に降参して何度かエアコンのスイッチを入れたものの (参照)、つけっぱなしということはなかった。

アルミニウムというのは、熱伝導が低い方の部類に入るんだと記憶している。それで、山登りの際の水筒も、アルミ製が多いのだ。プラスチック材の水筒だと、あっという間に温くなってしまうが、アルミ水筒だと水がいつまでも冷たいままというのは、実感として知っている。

これを PC の筐体として使用すると、冬場はいいのだが (とはいえ、最初はヒヤッとするが)、夏場は内部で発生した熱を外に伝えにくいので、結局は暖まりすぎるということになるのだろう。Apple ともあろうものが、エアコンをキンキンに効かせたオフィスしか想定していないのだろうか?

というわけで、トラックパッドの両側に、水で濡らしたおしぼりをおくことにした。これだと、おしぼりが水冷装置の役割も果たして、筐体もあまり暖まりすぎないようなのである。ただ、時々おしぼりを水で洗って冷やし直してあげなければならなないが。

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おしぼりを使う前に、「こんなに熱を帯びてしまうのに、他の人は苦にならないんだろうか?」 と不思議でしょうがなかったが、「そういえば、手首を固定してキーボードを操作する人は案外少数派で、多くは手首を浮かしてタイプしているんだった」 と思い出した。このことに関しては、ほぼ 4年前の 「タッチタイピングとリストレスト」 という記事に書いた通りである。

この件に関してググってみても、CPU の辺りが熱くなりすぎるとか、熱暴走が心配とかいう言及ばかりで、手首が熱くなるなんていうのは思いの外に少数だ。ふぅん、やっぱりそんなものなのかね。

関連で、保冷剤を使うと表面の水滴が Mac の内部に入り込んでショートさせてしまうという警告が見つかったが、トラックパッドの両側なら隙間も何もないし、大丈夫だろう。そもそも、手首の汗で濡れてしまう箇所なんだから。

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2014/06/13

武蔵小杉の駅員さんの気持ちがよくわかる

去年の夏の話題を今さらながら取り上げるのも、旧聞過ぎて恐縮だが、JR 武蔵小杉駅の長い連絡通路の 「武蔵小杉駅からのお願い」 という掲示が凄すぎると話題になっていた。

どんなのかというと、朝夕のラッシュ時の 2番線ホームは大変な混雑になるので、「4列で並ぶように」 というお願いが、しつこくしつこく、何度も何度も、「もうわかった!」 と言いたくなるほど繰り返されるのである。何より写真をみればよくわかるので、こちらのブログ に飛んでみていただきたい。

本当に笑いたくなるほどのしつこさなのだが、これ、駅員の気持ちがよくわかる。とにかく日本人は行儀よく行列を作るのは得意なのだが、横に 3人以上並ぶのが苦手みたいなのである。

どこの駅でも、「3列にお並びください」 との表示があるが、大抵は横に並ぶのは 1人か 2人である。3人で並ぶのは、なぜか心理的抵抗があるらしい。3列に並べと書いてある列が 1列でしか並んでいない場合、「だったら、3列になるよ」 とばかりに先頭の人の隣に並んだら、割り込みをしたみたいで顰蹙をかうだろう。それもはばかられるから、割り切れない思いで後ろに並ぶ。

そんなわけで、電車の来るのを待つ列は、どうしても無駄に長くなって、ホームの通行の妨げになりがちである。こればかりは、通り一遍のよびかけでは絶対に改善されない。

こうした日本人の習性をよくよくわかった上で、しつこくしつこく呼びかけなければならないと、武蔵小杉の駅員はしっかりと理解したのだろう。それでこんなふうなことになった。本当に気持ちがよくわかるのである。

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2014/06/12

PC 操作で、いつも 「プチ遭難」 する人

  登山に関する知識も経験もなく、まともな装備もなしに山に入って遭難するケースを、人は 「なんと愚かな!」 と非難するが、PC を使う際に同じようなことをしても、あまり非難されない。「だって初心者なんだから、仕方ないじゃん」 で済まされてしまう。

まあ、PC 操作で死んだり大けがをしたりすることはないから、それほど強く言うほどのことでもない。しかし PC の世界でしょっちゅうプチ遭難して救助を求めるのは、ほとんど決まりきった人たちである。

何かを始めるならば、きちんと準備し、基礎知識を得てからというのは、どんなことにおいても常識だ。しかし PC の世界では、なまじ命の危険がないだけに、そのあたりが緩すぎる。しょっちゅう遭難する人は、何度救助してもらっても、そこから学んだり装備を調えたりしようとは思わない。このあたりが、私には不思議でしょうがない。

多分、PC の世界というのは、山登りや車の運転などと違い、特殊な雰囲気に満たされたものなのだろう。山登りでしょっちゅう遭難したり、車でいつも事故を起こしたりしたら、恐縮で堪らないということになるだろうが、PC ではそうはならないというのは、前もって発行されている免罪符がものすごく豊富な世界なんだろうと思う。

初心者はその免罪符を駆使して、大して責められることもなく、人に頼り、助けを求めて、当然のような顔をしている。「私はこの分野に疎いから、明るい人に助けを求めるのは当たり前」 という空気が強すぎる。よほど 「特殊な分野」 という認識が強すぎるのだ。

いつもプチ遭難する人は、「自分は少しは PC を使えるのだから、使えない人よりはずっとマシ」 と思っているフシがある。そして永遠にその 「少しは使える」 (というより、実際は 「触れる」 程度なのだが) というレベルに安住しようとする。で、他から見ると、このレベルの人が一番手間がかかるのである。

よく考えるとこうした人たちは、山登りに喩えたら、リーダーについていくだけの初心者なのだろう。自分では大した知識や経験がなくても、リーダー任せで山には登れる。しかし単独行はまず無理だ。

PC の世界では、必死にもがきながら単独行を繰り返さなければ、まともに使えるようにはならない。

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2014/06/11

スタートメニュー復活は、2015年の Windows 9 からになる?

Microsoft は Windows のスタートメニューを復活させる方針を打ち出しているが、それが実現されるのは現行の Windows 8 の中ではなく、2015年に展開開始される Windows 9 からとなるのではないかとの見通しが打ち出されている。(参照

どうやら Microsoft は Windows 8 で打ち出した、あの 「スタート画面」 の失敗を認め、Windows 7 ライクなデスクトップに回帰する方向にあるようなのだ。Windows 8.1 によってスタートボタンは復活させても、それは子供だましのようなもので、スタートメニューまで復活されてはいなかったのだ。

PC と タブレットを同じ OS で運用するというコンセプトにはやはり無理があるようで、PC 上での操作が行いやすいユーザー・インターフェイスの方が、現状では優先されるべきとの認識の上に立ったようなのである。

それはあまりにも当たり前すぎると言わざるを得ない、Windows ユーザーの多くが、タブレットではなく PC 上で動かしているのだから、タブレットを重視して PC での扱いを面倒にしてしまうというのは、愚かしいにもほどがあるというものである。

私はあまりにも使いにくい Windows 8 はマーケティング的にみて完全な失敗であるという記事を、これまでに何度か書いたが、それに対する批判的なコメントも、お約束のようについた。いわく、「自分には使いやすい」 「使いにくいんじゃない、新しいことに挑戦しようとする意欲がないだけ」 「文句言ってんのはじー様達でしょ」 等々。

こんなことだからこそ私は、総まとめ的に書いた記事のタイトルを 「Windows 8 を高評価するのは、PC 大好き人間に限られる」 としたのである。「PC 大好き人間」 とは、上記のごときお約束的ステロタイプのコメントを寄せた人たちのことである。

いうまでもなく、Windows 8 のマーケティング的評価における問題は、一部の 「PC 大好き人間」 に歓迎されるかどうかではなく、PC が大好きなわけでもなんでもない大多数のユーザーに受け入れられるかどうかなのだ。そこにこそ 「マーケティング的な成功/失敗」 の評価の分かれ道がある。

そして、Windows 8 の失敗の最も根源的な要因は、「PC 大好き人間」 が 「PC 大好き人間」 の感性と理屈で作った OS であるということである。MS-DOS 時代じゃあるまいし、今日の PC ユーザーは、PC が好きで使っているわけじゃなく、単なる仕事の道具として使っているだけなので、そうした OS には全然馴染めない。

Microsoft も、CEO が変わってようやくそのことに気付いたらしく、車で言えば、イグニッション・キーとアクセル、ブレーキのペダルの位置が変わってわけがわからなくなってしまっていたものを、やっと元の位置に戻して、せめて動いたり止まったりすることだけでも元の慣れた感覚でできるようにする方向にあるようなのである。

これによって、Windows のバージョンはまともなものと駄作が一つおきに交互に出現するという伝統は、しっかりと守られるようなのだ。ただ、Windows 8 の駄作ぶりは、過去の ME や Vista と比較しても、圧倒的にひどすぎたと思うのである。

私は先々月に書いたように、仕方なく自分の Macに Windows もインストールしようかと思っている (参照) のだが、それは来年になるまで待ってもいいようなのだ。

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2014/06/10

関東の大雨と九州の空梅雨

昨日まで九州の熊本にいたのだが、あのあたりはこのところ空梅雨で雨不足なんだそうだ。テレビで流れてくる関東の大雨のニュース映像をみて、「まるで去年の九州みたいだね」 と話しているらしい。

まことにもって今年の関東は、いくら梅雨と言っても雨が多すぎる。雨の日が連続しすぎるし、降る量もやたら多い。昔は 「梅雨はしとしと雨が続き、秋は時々台風による大雨に見舞われる」 というのが常識だったが、今は梅雨でも降ったらしとしと雨どころじゃない。

我が家の周囲は、10年ぐらい前までは洪水地域だった。もともと地盤が低いところではあったのだが、常磐道建設の影響で降った雨の流れていく先が変わったとやらで、ちょっと大雨が降ると道路が冠水するようになった。たった一度だけだが、避難勧告が出て、高台の中学校で一晩過ごしたこともある。

ところが、我が家の裏の川の拡幅と遊水池の整備によって、そこそこの雨では道路冠水しなくなった。以前は夜に大雨が降るとまんじりともしない夜を過ごしたものだが、最近は枕を高くして眠れる。

この辺りの治水対策が進まなかったら、今頃引っ越しを考えていなければならなかったかもしれない。

昨日まで熊本にいて、明後日からは長崎である。だったら、そのまま九州にいればよかったじゃないかと言われそうだが、今日は東京都内で仕事があるので、行ったり来たりだ。週間天気予報をみると、長崎でもそれほど雨の心配はないらしい。日本の天気はどうなっているのだろう。

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2014/06/09

全国チェーンのビジネスホテルで

昨日から 1泊 2日で熊本に出張して、多少は名の売れた全国チェーンのビジネスホテルに宿泊した。温泉と朝食付きで 6,200円だから、かなりリーズナブルだと思う。

全国チェーンのビジネスホテルに泊まると、時に 「待てよ、俺、今どこにいるんだっけ?」 と思ってしまうことがある。こうしたホテルのあるところだから、ある程度都市化されたロケーションであり、ということは、どこに行っても同じような風景である。そして、ホテルの内部も全国的に画一的デザインだ。

これでは自分がどこにいるんだかわからなくなってしまうのも、仕方のないところである。

ただ、私はそれがいけないとか悲しいとか言いたいわけではない。ビジネス・トリップである以上、過度の風情を求めているわけでもないのだから、これで十分である。ただ、十分とはいうものの、いつもディスオリエンテーション (自分がどこにいるのかわからなくなること) に陥るのは、何かが足りないからだとも思われるのである。

風情を求めるわけじゃない。機能的には十分なのだから、不足はない。ただ、オリエンテーションが自然に確認できる、何かちょっとした特色を感じさせるデザインがあってもいい。それが、「十分以上の安心感」 につながり、地域振興的なアピールにもなる。

私がホテル関係者だったら、そうした要素を付け加えたいと思うがなあ。

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2014/06/08

iPhone の 「三大悩み」 を解決する保護ケース

ASCII.jp の "ストレージ&バッテリー付き iPhone ケース 「mophie space pack」 を試す" という記事が気になった。「落とすと傷つく」 「バッテリーが持たない」 「ストレージが足りない」 という、iPhone ユーザーの三大悩みを解決する製品なのだそうだ。

記事に飛んでみると、この "mophie space pack" というのは、世界初の 16GB/32GBストレージ付きのバッテリーケースなのだそうだ。バッテリーケースとはいえ、iPhone 本体をガードするケースとして使える。

ストレージとしての機能は、ほぼ外付けストレージ的なもので、これにセーブしたファイルにアクセスするには、iPhone に専用アプリを入れなければならないようだ。iPhone 自体には、ファイルを表示する Explorer 的な機能はないから、追加してやらなければならない。

バッテリーケースとしては、1700mAh という容量をもつ。これで外出先でのバーテリーの残量不足にも悩まされなくて済みそうだ。なるほど、これなら 「三大悩み」 をもつユーザーのニーズに応えられるだろう。

ただ、自分が欲しいかと言えば、結論として 「要らない」 ということになる。

そもそも私はここで挙げられた 「三大悩み」 の 一つしか悩んでいない。TUNEWEAR eggshell for iPhone 5 というスタイリッシュなケースを使っている (参照) ので、落としても傷が付かないどころか、このケースはストラップが付けられるので、滅多に落とさない。

ストレージ不足というのも、それほど切実な問題とはなっていない。私は音楽は大好きだが、iPhone の中が音楽で埋まってしまうというほどの使い方はしていない。よく聞く曲はほとんど決まり切っているので、そんなにべらぼうに入れてしまう気にはならないのである。

それに、iPhone 自体のストレージはそこそこあればいいと、私は思っている。時々開いてみる必要のあるファイルは、クラウドに保存しておけば、いつでもどこでもアクセスすることができる。いつもローカルに置いておく必要はない。現在の趨勢は、こっちの方だろう。

Img_9036残る悩みはすぐにバッテリーがもたなくなるということだが、これに関しては、Elecom の Mobile Battery というのを常に持ち歩いて、本体のバッテリーが 30%を切ったらさりげなくつないでいる。要領が 4700mAh もあるので、2回フル充電し直せるぐらいだ。これがあれば、かなり安心できる。

私としては、せっかくのコンパクトで薄型の iPhone を、分厚く無骨にしてしまいたくはない。バッテリーが淋しくなった頃に、ひょいと予備バッテリーをつないでやればいいのだから、現状で満足している。

とはいえ、分厚くなるのは構わないから、バッテリーとストレージの容量を常に豊富に確保しておきたいという方には、オススメかもしれない。

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2014/06/07

世知辛いスパム・コメント

近頃、私のもう一つのブログ 「和歌ログ (Wakalog)」 に頻繁にスパム・コメントが付く。ひどい時には、1日に 3〜4件付くこともある。そのたびにそのスパム・コメントの IPA を禁止リストに登録して、二度と付かないようにしているのだが、敵もさるもので、次々に IPA を変えてコメントしてくる。

で、まあ、こちらも半分意地になって IPA を範囲指定したり、特定ブランドの単語などをどんどんブラックリストに登録したりしているので、相手がいくらコメントをつけても自動的に非表示になる確率が高くなった。ただ管理ページを確認すると、裏では非表示コメントが 今でも 1日に 3〜4件付いている。

で、私は 「和歌ログなんて、メインの "Today's Crack" に比べたら、アクセス数が 100分の 1程度のマイナーブログなのに、どうしてこんなに狙い撃ちにされるのだろう」 と、いぶかしく思っていた。ところが、今日その疑問が晴れた。

よく調べると、この "Today's Crack" には、自動的に非表示になっているスパム・コメントが、1日平均で 30件近く付いているのである。それがあまりにも見事に自動的に非表示として処理されているので、これまでは自分でも気付かなかっただけなのだ。

つまり、和歌ログが狙い撃ちにされているわけではなく、実際には Today's Crack の方がずっとスパムコメントのターゲットにされているのである。ただ、Today's Crack に付くのは、スパムの中でも結構メジャーなものなので、こちらが何もしなくても、ココログのシステムがどんどん非表示にしてくれているようなのだ。

ということは、和歌ログの方につくスパムはマイナーなのが多いので、ココログのシステムの網の目をくぐって表示されやすいということのようなのだね。どうやらマイナーはマイナー同士でくっつきやすいのだ。

スパムコメントは、99%以上が英語で、「あなたのブログは素晴らしい」 とか 「示唆的な内容に富んでいる」 「またこのブログを訪れたい」 などと、歯の浮くようなお世辞が書いてある。ただ、どのブログにも同じコメントを付けているのがみえみえなので、嬉しくもなんともない。そして、しっかりと自分の怪しい物販サイトに誘導するリンクが張ってある。

リンク先は、ほとんどが海外のスポーツブランドの物販サイトである。中にはヴィトンの偽ブランドを売るサイトへの誘導なんてのもある。私のブログの読者が、こんな怪しすぎるサイトで喜んで買い物するとは到底思われないのだが、まあ、数打ちゃ当たるということもあるのかもしれない。

数年前までのスパム・コメントは、おもしろくもないブログやサイトに誘導するといった、いわば純朴なものが多かったのだが、最近はそんなのはすっかりなくなって、利益目当てのものばかりである。世の中、ずいぶん世知辛くなったものだ。

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2014/06/06

ノート PC のテンキーは、邪魔以外の何物でもない

2年半近く前に 「IT 業界では文系ヘビーユーザーのニーズが届かない構造」 という記事を書いて、その中で、ノート PC にテンキーは要らないというようなことを書いた。その理由は、次の 2点である。

  1. ノート PC にもマウスを接続して使うことが多く、右側にテンキーがあると、マウスを操作する右手が遠くなってしまい、肩が凝ってしまう。
  2. 右側にテンキーがあると、キーボードの正中線とディスプレイの正中線がずれてしまって、体が歪む。(キーボードをタッチ・タイピングしながら画面に向かうと、どうしても体が右側にねじれる)

試しに 「ノートパソコン/テンキー/邪魔」 という 3つのキーワードでググると、私と同じようなことを感じている人がかなり多いということがわかる (参照)。私が極端なへそ曲がりというわけではなく、逆に、テンキー付きのノート PC を使っていると、上記の 2番目の理由で、物理的な 「へそ曲がり」 になってしまいそうだ。

先日、家電量販店のノート PC 売り場をのぞいてみて驚いた。今やほとんどのノート PC に、テンキーが付いていて、そうでないのは完全に少数派なのである。あれらを買う人は、上述の 2点に気付かないほど体が鈍感なのだろうか。

私はテンキー付きの ノート PC は、それだけの理由で到底使う気になれない。そこへ行くと、MacBook はさすがにわかっていて、テンキーなんて付いていない。私は MacBook の左側に外付けテンキーを置いて使っている。

こうすると、とくに Excel を使うときに快適なのだ。右手のマウスでセルを指定しながら、左手で数字を入力しまくることができる。かなり前にある女性にこの方法を奨めたところ、彼女は 「だって、左手でテンキーなんか打てない」 と言った。これには、普段両手でキーボードを打っているのに、テンキーだけは左手で打てないはずがないじゃないかと、指摘しておいた。

それからしばらく経ってその人のオフィスを訪問すると、彼女は左側に外付けテンキーを置き、快速で会計入力をしていた。「これ、楽ですねぇ。もう、右側にテンキーのあるキーボードなんて、戻れません」 という。ほらね、だから言ったでしょ。

まあ、どうでもいいけど、私はノート PC のキーボードの右側にテンキーをつけるなんて、悪魔の所行だと思っているのである。

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2014/06/05

ビールの飲み方の比較文化学

"Pouch[ポーチ] / Be Wise Be Happy" に、"ビールは 「土の中で冷やす」 のが1番!? 電力要らずで超エコ、地中に埋め込んで使用する斬新なビールクーラーを見つけたよ!" という記事を見つけた。デンマーク在住の 4人の男性が開発した "eCool" という名のビールクーラーの話である。

簡単にいえば、土の中に埋め込んでビールを冷やすというもので、キャパは缶ビール 24本というから、まあ、ちょっとしたホームパーティぐらいなら大丈夫だろう。何しろ、電気を使わないから超エコである。

ただ、ドイツやデンマーク辺りの人というのは、キンキンに冷やしたビールを飲むってことがあまりないんじゃないかと思う。だから、土中で冷やすぐらいで十分なのだが、日本人や米国人にはどうかなあという気はする。どうも、日本と米国のビール温度というのは、国際スタンダードからみると 「冷やしすぎ」 なんじゃないかと思うのだ。

ただ、米国人のビールの飲み方を見ていると、あまり一気飲みしないで、案外ちびちび飲むのが一般的なようで、つまり飲んでいるうちにだんだん温くなる。ということは、キンキンに冷えたやつを一気呵成にグビグビ飲むのは、案外日本人の得意技なのかもしれない。

私が初めて行った外国は、ドイツである。そして仕事の関係で、30歳を過ぎるまでほぼ毎年、フランクフルトに出張していた。

ドイツのバーでビールを注文すると、サーバーからジョッキに注ぐのに結構な時間をかける。最初にドバーッと注いで、全体の 3分の 2以上を泡にしてしまい、それをしばらく放置して泡が減ってくると、またしてもドバーッと注ぐ。これを 3度ぐらい繰り返すと、きめ細かいクリーミーな泡が、全体の 3分の 1弱ぐらいになって、見るからにおいしそうになる。

私は初め、これが待ちきれなくて、「そんなに時間をかけないでいいから、さっさと出してよ。日本人とアメリカ人は、ウォーム・ビアーはダメなんだから」 と言っていたが、ドイツ人のバーテンダーは誇りにかけても、そんな無粋な注文には応じない。

人差し指を出してチッチッチと左右に振り、”Cold beer, no good." と、下手くそな英語で講釈を垂れるのだった。私もついに降参して、時間の経った生ぬるいビールに親しむようになった。

それと対照的に、英国の 「エール」 ってやつは、ジョッキの縁まですっかりビールにしないといけないんだそうだ。泡でごまかすなんてのは、許せないらしい。味音痴の英国人らしい話である。ただ、泡が消えるのを待つために、やはり時間がかかり、生ぬるくなる。

日本のビールの CM をみると、ジョッキで豪快にグビグビやって、感極まったような表情を浮かべて 「プハーッ!」 とやるのが、なかばお約束みたいになっている。しかしあれは、実は高温多湿の気候風土で醸成された独特の 「日本文化」 なのかもしれない。

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2014/06/04

工業製品の性能は上がったが

近頃、工業製品の性能がものすごく上がったと感じる。品質のばらつきということに関しては、何しろ中国製品が多くなったので、正直言って昔より目立つようになった気がするが、スペック的な面での向上はめざましい。

例えば自動車である。私が車の運転を始めた 30年以上前は、走行距離が 10万km を越えたら寿命と言われたものだが、今は 15〜16万km 以上平気で乗り回せる。装備にしても見事な進歩だし、「今どき、『チョーク』 なんて知ってるのは、オッサンだよね」 と笑い話になるほどだ。

身近な身の回りのもので言えば、靴がある。昔の靴は、よほど保革油をまめに塗り込んでやらないと、ちょっと雨に濡れると水がしみ込んできて足がびしょ濡れになってしまったものだが、今の靴は、よほど安物でないと水濡れの心配は減った。ファッション優先の婦人靴のことは知らないが、紳士靴に関しては、昔は高級品仕様だったグッドイヤー・ウェルトが当たり前になってきてためかもしれない。

それから、洗濯機の性能もものすごく上がった。我が家では、洗濯表示に 「ドライクリーニング」 と指定してあっても、ほとんどは平気で洗濯機で洗う。アパレル・メーカーは乱暴に水洗いした結果、型崩れや縮みが発生してクレームとなってはたまらないので、大事をとって多くの製品をドライクリーニング仕様としてるが、丁寧に洗えば大抵は大丈夫である。

はっきり言って、水で洗えないアパレル製品はほとんどない。あるとすれば、水に溶けてしまう素材を使っている場合だが、そんなもので服を作ったら、汗で溶けてしまうので、まずあり得ない。

昔は、ドライクリーニング仕様の品物は丁寧に手洗いしていたものだが、今は洗濯機の 「ドライモード」 にすれば、まず大丈夫だ。洗剤も 「エマール」 みたいなのがあるし。

よくアパレル・メーカーの消費者相談室に、「ドライクリーニングと指定してありますが、エマールで洗えば大丈夫ですよね」 と電話で問い合わせてくる消費者がいるが、これは無駄な行為だ。アパレル・メーカーは 「はい、表示はサバ読みですから大丈夫ですよ」 となんて言うはずがない。

アパレル・メーカーの消費者相談室が 「洗濯は表示通りの方法でお願いします」 というのは、公式的なマニュアルに沿っているにすぎないので、そんなことに構わず、水洗いしても大丈夫である。30年以上アパレル業界でメシを食った私が言うのだから、信じてもらっていい。

水洗いが危険なのは、「フェルト化」 してしまいやすいウール製品だ。ウールの表面のスケール (ウロコみたいなもの) が、一方向にのみぎゅぎゅっと圧縮されて、縮んでしまいやすいのである。これもゴシゴシ洗うからいけないのであって、丁寧に押し洗いすれば大丈夫だ。最近の洗濯機は、丁寧な押し洗い的な洗い方ができるようなのである。

こんなわけで、なんでもかんでも性能が飛躍的にアップしたのに、昔の常識による 「サバ読み表示」 が今でもまかり通っていて、道路の制限速度はその最たるものだと思う。車のブレーキ性能は昔と比べて格段に向上しているのだから、現行の制限速度はおよそ現実的じゃない。制限速度が 40km/h の道路を本当に 40km/h で走ったら、周り中の顰蹙を買う。パトカーだってプラス 10km/h で走っている。

しかし建前的な制度と実際の運用とは別物のようで、高速道路の最高速度を 100km/h から 120km/h にしようという気運が一時盛り上がりかけたことがあったが、いつの間にか立ち消えになった。一度決めた制度を変えるのは、なかなか難しいもののようなのである。誰だって、最悪のケースの責任は取りたくないからね。

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2014/06/03

致命的な鈍感さから回復するために

環境省は先月 23日、全国の湿原や干潟がもたらす自然の恵みの経済的価値の合計は、年間約 1兆 4000億~1兆 6000億円に上ると発表した (参照)。これは公的なものとしては初めての試算であるらしく、前々から言われていた湿原や干潟の高い価値がオフィシャルにも認められる形となった。

まだ誤解している人が多いので、念のために書いて置くが、これは 「眠っている資産の価値」 ではない。つまり、開発によって手に入る価値ではなく、我々が知らないうちに自然が果たしてくれている機能を、経済価値に換算するとこうなるということである。ということは、下手に開発してしまったらその価値は失われるから、しっかりと保全しなければならないのだ。

これまではそれを知らずに、「放っておいたら何の価値もないが、農地や工業用地や観光地として開発すれば金を生む」 などと誤解して、どんどんぶちこわし放題にぶちこわしてきてしまったのだ。

注目すべきは、発表されたのは年間の価値であるということだ。もし、全国の湿原や干潟の 10%を失ってしまったら、毎年 1400億〜1600億円が失われるということになり、10年で  1兆 4000億~1兆 6000億円の損失となる。

しかも単なる損失にとどまらず、失われた水質浄化や食料供給の機能を補完するために、その分の投資をしなければならないから、税金の無駄遣いを促進させることになる。つまり、毎年 1400億〜1600億円を失い、それに近い額の金を、毎年毎年使わなければならなくなるのだ。

むやみやたらな開発行為が、自然破壊であるだけでなく、実は莫大な経済損失にもつながるということは、これによっても明らかである。しかも、一度失われた自然を復活させるには莫大な費用と時間がかかるから、永遠の無駄遣いの引き金となる。

環境経済学の視点からすると、国土で最も資産価値の高いのは干潟であり、最も価値の低いのは都会の宅地なのだそうだ。都会の宅地は環境面から見ると、ロス以外の何物も生み出さないようなのである。

環境資産価値のバロメーターは、生物多様性だ。干潟は生物多様性に富んでおり、都会の宅地は、どんなに貧弱な自然でもなんとか生き延びることのできる、しぶとい (言葉を換えれば鈍感な) 生物 (ネズミとかカラスとかゴキブリとか、人間とか) しか生き延びられないお寒い限りの環境なのだ。

つまり人間は、自分の鈍感さを基準にして開発行為 (というか、自然破壊行為) を続けてきた結果、同様に鈍感なネズミとかカラスとかゴキブリとかと共存するしかなくなってしまったのである。なんか悲しいよね。

これは、昨日の記事 「田舎暮らしの良さ」 を、別の視点から書いたものである。田舎暮らしは、致命的な鈍感さから回復するための感性を取り戻すトレーニングにもなるのである。

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2014/06/02

田舎暮らしの良さ

あの東日本大震災の年の前までは、都心にある事業所の仕事を請け負って、週に 3〜4日は、片道ほぼ 1時間半かけて神田まで通っていた。その仕事を切り上げて、オフィスを自宅の仕事場に集約し、月に何度かいろいろなところに出張して仕事をするというスタイルに切り替えて、まだ 4年も経っていない。

ところが、毎日都心に通っていた時代が、遙か昔に思われるのである。今では上野まで行くのが結構遠く感られる。ましてや新宿や渋谷なんてちょっとした旅行で、吉祥寺なんて、地の果てだ。

我が家はつくばの田園地帯の中にちょこちょこっと開発された宅地の外れにあり、2階に上る階段の踊り場から眺めると、今の季節は緑の田んぼが眺められる。なかなかのんびりした風情である。こんな土地に暮らしていると、都心に出るのがなんとも億劫でたまらなくなる。

若い頃は、文化の中心は都会だった。芸術でもファッションでも、新しい本でも音楽でも、都心に出かけなければ触れることができなかった。だから私は、高校を卒業すると当たり前のように東京の大学に入り、東京に住んだのである。

だが今は、東京に住む必要がない。田舎に住んでも東京の情報はいくらでも手に入るが、東京に済んだら田舎の情報はなかなか手に入らない。都会の情報は基本的にハイテクだから、バーチャル化しやすく、インターネットに向く。だが田舎の情報はハイタッチだから、田舎に住まなければ手に入らない。

つまり、田舎と都会の情報の両方を手に入れたいと思ったら、田舎に住むほかないのである。実際、やっぱり田舎は住みやすいし、自然の情報に満ちている。田舎暮らしの良さに気付いたら、都会には住めない。

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2014/06/01

仙台でも 31.7度とは

宮城県への出張から帰ってきた。宮城県も暑かった。今日の仙台市の最高気温は、摂氏31.7度に達したらしい。昨日は 29.7度と、辛うじて 30度を下回ったが、6月の声を聞いたとたんに、あっさりと真夏日になってしまった。

私の生まれた酒田市は、東北の日本海側で、仙台の反対側にあたる。で、高校時代までは、酒田の夏はほんのたまに 30度になるが、仙台は絶対にならないと思っていた。ところが、最近では 6月の初っぱなで、何気なしに 30度を超えてしまう。

今頃からこんなに暑くては、梅雨が明けて本格的な夏になったら、どれだけ暑くなってしまうのかと思う。ところが今年はエルニーニョの発生で、冷夏になる可能性があると伝えられている。地球温暖化とエルニーニョの合わせ技で、「フツーの夏」 になってくれればありがたいのだが、最近の天気は極端に振れがちなので、どうなるかわからない。

それにしても、今日は半袖からむき出しになった腕が、日焼けでヒリヒリする。半日車を運転して疲れたので、今日はこの辺りで失礼。

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