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2014/08/14

妙に美し過ぎる理想を掲げたブラック企業の落とし穴

いわゆる 「ブラック企業」 に関する話題で、最近 2本の記事を書いた。「従業員を大切にしない会社は生き残れない」 と 「ブラック企業が頓挫する原理」 である。どちらも、ワタミとゼンショーについて批判的に論じたものである。

2本ももっともらしい記事を書いてからこんなことを言うのもナンだが、後者の記事にきっしーさんがコメントを付けてくれたように、どちらも  「デフレ経済のあだ花みたいなビジネスモデル」 である。そう一言で言う方が、あっさりと納得できる。

きっしーさんはさらに、 「(ベンチャー企業ならば) シリコンバレーのハイテク企業のように、ある程度の規模になったところで経営の専門家に経営を任せれば良かった」 とおっしゃっており、常識で考えれば、まさにそういうことになる。私がゼンショーの創業者だったら、さっさと会社を売り飛ばして責任を免れ、のんびりと老後を楽しむ。

ところが、彼らにはそうできない理由があった。どちらも 「妙に美しすぎる理想」 を掲げていたかららである。ワタミの創業者、渡邉美樹氏 (「ワタミ」 って、自分の名前の省略形だと、最近初めて気付いたよ) なんかはその典型で、やたらと美しい精神論をぶちたがる。

彼の精神論好きは、Wikipedia によると、次のような活動につながっている。

公益財団法人みんなの夢をかなえる会の理事長を務め、「夢溢れ、ありがとうが飛び交う社会の実現」 を目的に、2010年4月より講演活動として「みんなの夢シンポジウム」 を仙台から沖縄まで、日本各地で開催した。また、2010年12月には、若者の夢を支援する 「みんなの夢アワード2010」 を東京の日比谷公会堂にて開催した。

渡邉氏の講演なんか聞くと、彼が愛と理想にあふれた素晴らしい人物のように感じられて、多くの人は感動しまくるそうである。またゼンショーの小川氏にしても、「世界から飢餓をなくす」 などと高らかに公言し、フェアトレード事業にも関わっておられるようだ。

こんなような 「美しすぎる理想」 を掲げてしまうと、自分の創業した会社を経営のプロにまかせるなんてことはできなくなる。そんなことをしたら、自分の掲げた理想なんかあっさり忘れ去られてしまうだろうから。

ところが現実には、渡邉氏は若者を 「夢も希望ももてない状態」 に追い込み、小川氏は 「世界から飢餓をなくす」 前に、日本のバイトを搾取しまくったことになる。彼らにしてみれば、こうした言われ方はもろに心外だろうが、このような理想と現実のギャップは、一体どういうことなのだろう。

ある意味、彼らの 「美しい理想」 は、実際に行っているブラックな企業活動の 「隠れ蓑」 として機能していたのだろう。「ウチの会社は、こうした理想実現のために邁進しているんです!」 と思えば、少々の理不尽なんか、彼らにとっては大した問題じゃない。理想実現のために多少の自己犠牲が求められるのは当然だ。

ところが、別の視点からすると順序が逆で、彼らの掲げる理想は初めから 「あこぎな経営の隠れ蓑」 として用意されたものと見ることができる。不平や不満を抑え込むための必殺兵器、水戸黄門の印籠みたいなものだ。

純粋な理想論が先にあったのか、あるいは元々は従業員の不平不満を抑えるための目くらましのようなものとして、周到に用意されていたのか、それは今となっては誰にもわからない。

「ブラック企業と呼ばれるのは心外」 とコメントしている本人たちは、今でも、少なくとも意識的には 「純粋な理想」 と思っているのだろう。だが無意識的には、あこぎな経営の免罪符として利用していなかったとは言わせない。

まあ、美しい理想がこうした 「隠れ蓑」 や、「めくらまし」 「免罪符」 として利用されるというのは、とても主観的な問題で、世間的にはそんな機能はちっとも果たしていなかった。果たしていたとすれば、それは経営者自身のメンタリティの中だけである。

ただ、経営者のメンタリティにこんなような免罪符がしっかりとあるものだから、会社が大きくなって社会的な責任を果たすべき存在になってからも、当然気付くべきところに気付かないできてしまったのである。

「美しすぎる理想」 を恥ずかしげもなく公言し、その実現のために他人にまで自己犠牲を求め、過重な仕事を押しつけ、多様な価値観をもつ余裕を軽んじる人に対して、私は自然に身構えてしまうのだよね。

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マーケティング・仕事」カテゴリの記事

コメント

この問題、龍谷大学の竹中治先生が面白い考察をされています。
(以下すき屋に関する部分を引用)
不思議に思うのだが、料理の美味さと安さを売りにするならば、大学の食堂などで一般化しているセルフサービス方式をなぜ採用しないのだろうか。顧客が機械で食券を買って、厨房前のカウンターに並び、料理を受け取って席に座る。食事が終ったらトレイに載せたまま食器を戻す。こうすれば店員は厨房仕事に専念できるので、労働量はかなり減るはずだ。

推測だが、店員が顧客に注文を聞く、料理を運ぶ、顧客は座っているだけで良いというサービス内容に対して、すき家は何かしらの価値を期待していたのかもしれない。しかし、それは価格競争の中で付加価値としては実現せず、ただ店員の労働量の増加、過酷さという結果を生んでいるだけではなかろうか。

投稿: きっしー | 2014/08/15 18:04

(続き)
考えてみると、不思議なことにビュッフェ形式はホテルとかの比較的高価な場所では一般的なのに、500円以下で食べられるような(まさにすき屋のターゲットである市場)ではあまりないような気がします。

まあ、食券を使うカウンターオンリーのラーメン店とか、マックをはじめとするファストフードも、労働力的な効果はセルフサービスと同じようなことなのかもしれませんが。

投稿: きっしー | 2014/08/15 18:19

きっしー さん:

あまり大きな声では言えませんが、すき家の客層は、セルフサービスを受け入れるのが困難なのではないかという気がします。

あ、いや、これ以上具体的なことは言いません ^^;)

投稿: tak | 2014/08/15 18:29

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