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2014年9月に作成された投稿

2014/09/30

梅干しと味噌汁

私の居住する茨城県は、梅干しの産地である。県庁所在地の水戸といえば 「梅」 が思い浮かぶほどで、日本三庭園の一つ、偕楽園には、多数の梅の木が植えられていて、春先には観梅の客で賑わう。

梅干しといえば、茨城県よりも名高いのが紀州で、「紀州梅」 のブランド価値は水戸の梅を凌駕する。考えてみれば、水戸も紀州も、徳川御三家である。もう一つは尾張だが、やはり水戸や紀州ほどではないにしろ、昔から梅が大切にされてきたらしい。

どうして徳川御三家のあった地域で梅干しが名物になったのかというと、戦時の非常食料として大切にされていたからだという。梅干しさえあれば何とか食いつないでいけるというので、徳川御三家は梅の栽培と梅干し作りを奨励したと伝えられる。徳川家康は医学者並みの知識をもち、梅の効用を熟知していたらしい。

つまり、梅は戦時の非常食と考えられていたのだ。

ただ、尾張においては、梅よりもむしろ八丁味噌の方が重要視されていたのではないかと思われる。握り飯に梅を仕込むか、あるいは表面に味噌を塗って焼くかすると、質素だがとりあえずの栄養食になる。

今でも御飯に梅干しと味噌汁があれば、何とか生きていける。梅と味噌、なかなかのものである。

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2014/09/29

「アジアトップクラスの英語」 を目指すんだそうだが

英語教育の在り方に関する有識者会議」 というのが、文部科学省によって設置されていて、このほど 「アジアトップクラスの英語力育成」 という目標を達成するための提言書をまとめたのだそうだ。大学入試での評価方法を見直し、具体的な学習到達目標を定めて小学校から一貫した教育に取り組むなどの内容だという。

日本の英語教育をどうこうするという問題については、私は昔から 「きちんとしたニーズがあって、英語ができれば高収入につながるというインセンティブさえあれば、放っておいても英語のできるやつは育つ」 と思っている。日本人の英語力が育たないのは、そうしたニーズもインセンティブもないからだ。

私は以前、外国向けの繊維情報誌に英語で記事を書いたり、外資系の繊維プロモーション団体でパブリシティ文書の翻訳を専門にしていた時期がある。海外出張では英語をしゃべりまくって、そのおかげで日が暮れる頃には神経がどっと疲れまくって、夜遊びする余裕もなくベッドに倒れ込んだりしていた。

今は英語の最前線から離れて久しいので、かなりさび付いてしまっているが、まあ、商売のタネにできるほどの英語力は保持していたのである。発音だって、自慢じゃないが、日本人離れした流ちょうなものである。

ただ、あまり流ちょうに聞こえすぎるのも考え物で、相手のネイティブが安心してすごい早口でしゃべり出すので、こっちは焦ってしまうという逆効果が生じる。だから私は、意識してあまり流ちょうに聞こえない程度の話し方をしていた。その方が、相手がスピードを手加減してくれて、聞き取るのが楽なのである。

そんな程度の英語力でも日本では、私が英語圏への留学経験があるとか、少なくとも英文科出身なのだろうとか誤解されていた。ところが私は、留学なんてしたことがないし、大学では日本の古典芸能 (主に歌舞伎) なんていう専攻で修士号をもらったのである。英語とはまったくかけ離れた分野が専門だったのだ。

せいぜい中学校の頃に英語塾に通っていた程度で、 専門的な英語教育を受けた経験なんて全然ない。ただ 「英語が好き」 で、英語の授業が苦にならなかったというだけである。私の場合は、それで金を儲けようなんていう欲がなかった分、楽しく学べたのかもしれない。

そんなわけで、私の英語は特別な高収入になんて、全然結びつかなかった。大した金にならなかったから、あっさりと別の分野に転職してしまったのである。仮にもっと高収入があったら、私はずっと自分の特技を生かした仕事を続けていたことだろうと思う。

とまあ、最初の話に戻るが、日本では英語が多少できたからといって、それほどの見返りなんてないのである。逆に 「英語使い」 というのは 「専門職扱い」 されて、特別な目でみられがちだ。つまり、「翻訳が必要な時に、ちょっと呼んでくればいい存在」 と、一段低く見られてしまいかねないのだ。

さらに、「英語使い」 というのは 「欧米かぶれ」 しているので、日本型のビジネスに使えないとか、「酒の席での話題が合わずに、場持ちが悪い」 とかいって、敬遠されてしまうことさえあるのである。そんなわけで私は、「俺は、単なる 『英語使い』 ってわけじゃないからね!」 とばかり、英語の仕事から離れたのである。

必死に金をかけて学んだわけじゃなく、「フツーにやってるうちに、いつの間にか仕事に使えるぐらいには身についちゃった」 程度のことなので、何の未練もなく転職することができた。こんなのは、英語教育を語る際に参考になるケースとはいえないだろうなあ。

他のアジア諸国のように、英語ができないと、対外的なビジネスができないとか、そもそも自国語の高度な専門書がないので、英語が読めないと専門技術さえ学べないとか、さらに言えば、自国に高度な学問をする場がないので、海外留学するしかないとか、そんなようなことがあれば、嫌でも英語は上達する。

日本では、外国のニュースがすぐに翻訳付きで紹介されるし、外国で話題になった書物はちょっと待てば翻訳出版されるし、そもそも日本人だけを相手にしていても、十分に食っていける。フツーに暮らしている限りは、英語を話す必要に迫られることなんて、1年に 1度もない。

米国の名前も知らない大学を出たなんていう学歴だと、「日本ではまともな大学に入れなかったやつ」 と思われてしまう。まあ、「お前、何年も米国の大学にいた割には、簡単な英語もわかってないみたいだなあ」 と言いたくなるようなやつも多いので、なんとも言いようがないが。

とまあ、こんな環境では、必死になって英語を学ぶ必要なんて、さらさらないのである。だから、「聞き流すだけで、知らないうちにペラペラしゃべり出せる」 とかいう神話が生まれるのだ。日本人にとっての英語は、こうした神話が発生してしまうほど、全然身近じゃない存在なのである。

「アジアトップクラスの英語」 というのも、私にとっては神話にしか聞こえないのだがなあ。本気でそれを目指すなら、英語を神話の領域から引きずり落として、身近な存在にするしかない。「有識者会議」 なんて開いているうちは、全然身近じゃないよね。

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2014/09/28

iOS 8 へのアップデートでユーザ辞書が消えても慌てないこと

今月 27日に、手持ちの iPhone と iPad の OS を iOS 8 にアップデートして、その後は快適に使っていたが、昨日になってから iPhone の方のユーザ辞書が消えてしまっていることに気付いた。300語近く登録していた単語が、すべてなくなってしまったのである。

念のために iPad の方を調べてみると、ちゃんと生きているので、慌てるほどのことでもない。iCloud に保存された辞書をちゃんと読み出せばいいのだが、OS アップデートの際に、読み損なったままになっているのだろう。

ただ、「設定」 画面を開いてみても、iCloud から改めて辞書を読み込ませるというメニューは見当たらない。さて、どうしたものかと、ちょっと考えたところ、Windows を使っていた頃に、PC でフォトストリームの同期ができなくなった時は、一度 iCloud からログアウトして、もう一度ログインすればよかったことを思い出した。

それで今回は、iPhone 上でそれと同じことをすればいいのだろうと思い当たった。これで多分いけるだろうが、ただ、今回は敢えて iPhone 本体の再起動を試してみることにした。iOS のアップデートの時に再起動が求められるが、もしかしたら、その際に読み込みを失敗したのかもしれない。それならば、もう一度再起動し直してやるだけだ。

試してみると、ユーザ辞書はあっけなく生き返った。改めてウェブで調べてみると、iCloud のログアウト/ログインでも大抵は読み込めるが、それでもダメな場合は再起動すればいいというようなことが書いてあるページが見つかった。

まあ、私は初めから最後の手段を使ったわけなのだが、もし、あなたが iOS のアップデートでユーザ辞書が消えてしまうなんて自体に見舞われても、焦らないで、iCloud のログアウト/ログイン、あるいは再起動を試していただきたい。大抵はあっさりと復活すると思う。

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2014/09/27

閏 9月が続くので

3日前の 9月 24日から、旧暦の長月、つまり 9月に入っている。今年は閏 9月があるので、延々と 2ヶ月、新暦の 11月 21日まで、旧暦の 9月が続く。旧暦の 9月は晩秋にあたるので、晩秋を思わせる季節感が長く続くということになるのかもしれないと、前に書いた (参照) が、まさにその通りになろうとしている。

今年は秋の訪れが早かった。中秋の名月というのは、旧暦の 8月 15日だが、今年は 9月 8日がそれに当たった。9月の上旬、しかも 1桁の日付に中秋の名月になるというのは、38年ぶりだそうだ。いつもは 9月の中旬から 10月上旬にかけての時期になる。

旧暦では、7、8、9月が秋で、8月はその真ん中になるので 「中秋」 という。しかもその真ん中の 15日は 「真ん中の真ん中」 なので、「中秋の名月」 だ。湿気が多く、ぼんやりとしか見えない夏と違い、空気が澄んできれいに見えるので、特別扱いされる。

つまり、今年は 9月上旬の時点で既に 「中秋」 だったのである。新暦で暮らしているから 「今年は秋が早い」 なんて感じただけで、旧暦で暮らしていれば、紛れもない 「中秋」 なのだから、秋らしくなるのは当然だったのだ。我々の知らぬ間に、季節は半年も先を行っていたのだ。

最近は季節が極端で、春と秋が短くなっていたが、今年は 「秋の季節感」 をたっぷりと感じる千載一遇のチャンスである。これを逃したら、また 30数年先まで待たなければならないが、その頃には地球温暖化が進んでいるだろうから、どうなるかわからない。

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2014/09/26

「パクリ」 はほとんど常習犯であることを巡る冒険

「パクツイ」 という言葉があることを初めて知った。「他のユーザーが Twitter に投稿した写真や投稿内容を、あたかも自分のもののように再投稿する行為」 で、「パクリツイート」 の省略形なんだそうだ。いわゆる "RT" (リツィート) とは違う。

これがなんで急に問題になっているかというと、ITmedia がある tweet を 「パクツイ」 と知らずに自分のサイトの記事でまともに紹介してしまい、思わぬ騒動になったのがきっかけらしい。

ことの顛末は、「【どうしてこうなった】 パクツイを勝手に転載許可してねとらぼがとばっちり」 という Togetter の記事をみるとわかる。あの iPhone のしっかりとしたコンパクトな箱が、お弁当箱に使われてしまっているという写真付きの tweet で、パクりでさえなければ、なかなかの傑作といっていいぐらいのものだ。

ITmedia はそのパクツイの投稿者に記事を掲載してよいか確認を取り、その投稿者が OK したために記事にしてしまったのだが、当然ながらバレてしまい、その記事は削除されて、今はお詫びのテキストが掲載されている。(参照

インターネットの世界では 「パクリ」 という行為が後を絶たないようで、かくいう私も過去に記事を盗用されたことが何度かある (参照 1参照 2参照 3)。そして、その経験から、「パクリはほとんど常習犯である」 という記事も書いており、その中で、次のように述べている。

パクリ記事を 1本発見したら、そのブロガーの他の記事の中から任意の 1行ぐらいをコピーし、それをキーワードにしてググってみるといい。たいていすぐに、パクリの元記事が検索される。

実際、私の記事をパクったブロガーの記事は、ほとんどすべてが 「パクリ」 だった。「よくまあ、やるよ」 というぐらい、他のブログやウェブページの記事を、ちょっと 「てにをは」 を変えるか、「だ、である」 を 「です、ます」 に変えるかして、自分の記事にしてしまっていたのである。

それを指摘すると、「とてもいい記事だったので、つい転載させていただきました」 なんて言い訳をするのが、お約束だ。しかし転載元を明らかにせずにあたかも自分のオリジナルであるかのような体裁で記事を書くことを、「パクリ」 というのである。

「パクリ」 をする人というのは、他人のテキスト、あるいは画像を使って注目され、「ちょっといい気持ち」 になりたいみたいなのである。いずれはバレることなのだが、そんなことには無頓着という特徴もある。

私は彼らが 「虚言癖」 の人間と共通した特徴をもっていると思う。世の中には 「あいつの言うことには、絶対に乗っちゃいけないよ」 と言われるような人物が存在し、ガセネタを垂れ流して一種の 「快楽」 を得ているようなのだ。それについては、「虚言癖のオジサン」 という記事にしている。

そしてさらに、こうした傾向は 「サイコパス」 にもつながるんじゃないかと、私は思っている。私の記事をパクった連中は、少しは良心というものがあるらしく、一応わびを入れてきたが、サイコパスになると 「逆ギレ」 する。

ちなみに今回騒動になったパクツイの主は、「パクツイして何が悪いんだよ、お前らだってしてるだろ」 と逆ギレしている。ここまでくると、もしかしたらサイコパスに近いかもしれない。

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2014/09/25

Windows 9 が発表されるそうで

近頃は使ってるのが MacBook Pro、iPad、iPhone と、なにやらアップル信者みたいな様相になってしまった。さらに、家族も iPhone や Mac を使っているので、もはやすっかりアップル・ファミリーである。そんなわけで、早くも Windows 9 が発表されそうというニュース (参照) を聞いても、遠くの国のお話のような気がしてしまう。

ただ一歩外に出ればまだまだ Windows の世の中で、とくに一般の事業所の PC はほぼ 100%が Windows マシンである。その気になって探せば、6〜7万円ぐらいで買えるのだから、編集・印刷や画像処理などの用途を除けば、なかなか Mac に置き換わりそうにはない。

今年 4月に Windows XP の サポートが切れたため、多くの事業所で PC の入れ替えが必要になった。いくら何でも長年使った時代物の PC の、OS のみをバージョンアップするのは無理がある場合が多かったからである。その際、私は自分と関連する事業所には、Windows 8 ではなく Windows 7 のマシンにすることを薦めた。

Windows 8 は、前に何度も触れたように、ユーザー・インターフェイスの変更が大きすぎるので、従業員が慣れるまでに時間がかかり、その間の生産性が大きく下がることが必至だったからである。フツーの会社のフツーの社員が、すべて新しい OS に嬉々として取り組むなんてことはあり得ない。ほとんどはうろたえてしまい、少なくとも 2〜3日はまともな仕事にならない。

私のアドバイス通りに、Windows 7 マシンにした会社では大きな混乱もなく、スムーズに PC の入れ替えが行われた。しかし私としては、次の入れ替え時にどうなるか、ちょっと心配だったのである。OS 変更による混乱がちょっと先延ばしになっただけというのでは、数年後にはどうしたらいいんだ?

しかし、それは杞憂だったようだ。Windows 9 は、Windows 7 への回帰的な側面が大きいようなのだ。とくにスタートボタンが復活するのは朗報である。上述のリンク先の情報では、スタートメニューで表示されるのはあの無骨な 「タイル」 らしいのだが、多分オプションで変更も可能だろう。

コントロール・パネルを表示するのに、ちっともチャーミングじゃない 「チャーム・バー」 から入るという設定も、変更になりそうだ。「スタート画面」 と 「デスクトップ画面」 の二本立てというややこしさは継続されるようだが、デスクトップ画面をデフォルトに設定すれば、あのうっとうしさから少しは解放されるだろう。

ただ、このデスクトップ画面というのがちょっとややこしくて、Windows 9 は 「マルチデスクトップ」 というスタイルになるらしい。つまり、デスクトップがいろいろ選択できるようになるのだ。

これ、パワー・ユーザーにとっては嬉しい新機能だろうが、フツーの会社のフツーの社員にとっては、混乱の元になるか、そうでなければ意識されることもなくスルーされるだけという気がする。まあ、その一環でいわゆる 「デスクトップ画面」 が失われずに済むというのが、一番のメリットなんだろうが。

ちなみにネット上では、「マルチデスクトップの中に 『仮想 Windows 7 画面』 をデフォルトで入れてくれ」 という声が上がっていて、私としては 「それ、名案!」 と、マジで思ってしまったよ。

とりあえずこれで、オフィス・ユースでの Windwos のシェアはしばらくはそれほど落ちずに済みそうである。しかし、ホーム・ユーザーのうちの、インターネットとメールと写真の管理ができればいいという人たちなら、もう PC なんて必要なく、iPad を 1枚買っておけばいいという時代に、既になっている。

とくに、スマホ慣れしてしまった若い人たちは、「PC は会社で使うもので、プライベートでは要らない」 という意識になりつつある。どうしても必要なら、日本では iPhone のシェアが高いから、PC も Mac にするというケースが増えており、ホーム・ユースの Windows マシンのシェアは、嫌でも減り続けるだろう。

というわけで、ここ 10年足らずの間に、Windows PC を使うのは、オフィス・ユーザーと、ちょっとマニアックなホーム・ユーザーだけになると、私はみている。いずれにしても、10年も経ったら私も第一線にいるというわけじゃないだろうから、Windows にはだんだん疎遠になっていこうと思っている。

【10月 1日 追記】

その後のニュースで、Windows 8 の後継バージョンは、なぜか 9 をすっとばして Windows 10 という名称になると判明した。

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2014/09/24

「朝日叩き」 が盛り上がるのは

一昨年の 1月、「仕事より出世が好きな人種」 という記事を書いた。仕事そのものよりも、出世が好きな人間というのが、確実に存在する。彼らは仕事そのものによってというより、出世によって自己実現をする。そしてその多くが、客よりも自分の方が偉いと思っている。

私はそうしたタイプの人間が多い業種の代表として、役人、商社マン、百貨店社員を挙げた。彼らと晩飯をともにすると、 「誰それが本部長になった」 とか 「役員なった」 とか 「局長になった」 とかいう話題がやたらと多い。とにかく、「地位」 や 「肩書き」 にものすごく執着が強いようで、「生涯一○○」 みたいな職人タイプは、ほとんどいない。

そして近頃、 「朝日新聞社員」 にもそうしたタイプが多いと知った。井上久男さんというフリー・ジャーナリストが、Business Journal の 「朝日誤報騒動の元凶・木村社長の責任逃れと保身 社内派閥抗争と出世主義の末路」 という記事で、そのことについて書かれている。

元朝日新聞記者の井上氏は、「社員同士が足の引っ張り合いを得意とする」 というのが、朝日の社風であるという。さらに、「朝日記者にはジャーナリストとしての矜持を持っている人よりも、『株式会社朝日新聞』 の社員であることを自慢に思っている人が多い」 と指摘している。そして現役の朝日新聞記者が、次のように語っているという。

「いま、部長クラス以上の中堅幹部の中には、池上彰氏のコラム掲載見合わせや 『吉田調書誤報問題』 によって社内に多くの処分者が出ることで、玉突き人事で代わりに自分が昇進して新たなポストが得られるとか、今の地位が最終ポジションだったのが、さらに良いポストが得られるかもしれないと思っている人が少なからずいます」

うぅむ、彼らはジャーナリストとしての仕事を愛するというより、「エリート集団」 である (あるいは、自分たちでそう思っている) 朝日新聞に属していることを自慢に思っていて、いい記事を書くよりも、社内で出世することに意味を見出しているようなのである。

そのことについては、昔、一応ジャーナリズムの隅っこに身を置いていた者として、薄々感じていた。こう言っちゃなんだが、朝日の記者というのは、他社と比較して抜群に 「エラそう」 な印象がある。別の言葉で言うと、「態度がでかい」 というか、とにかく、概して 「かわいくない」 のが多いのである。(中には 「かわいい」 やつもいるけどね)

今、「朝日叩き」 がやたらと盛り上がっているが、これも、ジャーナリズムに身を置く者の多くが、朝日の記者の態度にむっとくることが多々あったことも大きな要因かもしれないと、私は思っている。

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2014/09/23

iOS 8 と ATOK

遅ればせながら、iPhone と iPad を iOS 8 にアップデートした。日本版のリリースは 9月 18日だったから、5日遅れの対応である。リリース直後は間近に出張を控えていたので、焦ってアップデートして不具合でも出たら嫌だなと敬遠して、帰ってきて落ち着いてから、満を持して行ったわけである。

さすがにメジャー・アップデートだけあって、かなり時間がかかった。始めに iPad でトライして、不具合が生じないことを確認してから iPhone のアップデートをしたので、合わせて 2時間ぐらいかかってしまった。

事前に iCloud の iCloud Drive への切り替えに関する情報を得ていたので、その辺りは慎重にパスしてアップデートした。iCloud Drive は今のところ、iOS 8 と Windows 7, 8 にしか対応していないので、Mac ユーザーは次期 OS の Yosemite にするまで待つのが得策なのだそうだ (参照)。いやはや、うっとうしいなあ。

iOS 8 の最大の目玉は、サードパーティの日本語 IME が使えるようになったことである。これまでは iOS デフォルトの IME しか使えなかったので、ちょっと使いづらいところがあったのだ。

私は自分の Mac でも ATOK を使っているので、iOS でも ATOK にすれば、ATOK Sync を利用して登録単語などがすぐに同期できるものと思っていたのだが、それはまだ対応できないらしい。ジャストシステムとしてはこの時期のリリースに間に合わせるため、超特急で開発したらしく、ATOK Sync への対応は今後のバージョンアップに待つことになるようだ。

私としては、Mac の ATOK と同期できないのでは、あまり意味がないので、ATOK for iOS は、まだインストールしていない。なにしろ、値段も 1500円と、結構お高いしね。

というわけで、私の場合、iOS 8 はまだ未消化の状態である。いずれにしても、今年の 11月に iPhone 5 の 2年縛りが解けるので、機種変更という形で iPhone 6 をゲットすることになる。今は、単に 「つなぎ」 の状態にあるわけで、本格的に使いこなすのは、11月からでいい。

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2014/09/22

行列を作ってまで新製品を買う、新たな理由

今月 19日付の 「iPhone 6 を買うための行列」 という記事で、私は、話題の新製品の発売開始日に行列ができるのは、企業が行列要員のバイトを雇って並ばせることもあるからだと指摘して、次のように書いた。

企業がバイトを雇ってまで長い行列を演出したがるのは、それが大変な宣伝になるからだ。とにかく長い行列ができれば、テレビや新聞がこぞってニュースにしてくれる。広告料に換算したら、何億円の効果があるか知れない。それに要するバイト料なんて安いものである。

しかし世の中はさらに進化して、次のステージに進んでしまったようなのだ。発売元の企業とは無関係のところからバイト代をもらって行列に並ぶという新しい現象が発生しているのである。

例の iPhone 6 の発売開始日、世界中の Apple Store 前で、中国人の異常なまでの行列が発生し、周囲の顰蹙を買ったらしい。Gigazine は、「iPhone 6を購入するために大勢の中国人がニューヨークの Apple Store 前に集結、やりたい放題の末に最後は iPhone を闇市に流した模様」 と、日本語解説付きのビデオで告げている。

iPhone なんかには何の興味もなさそうな、中国人のオカンやオッサンたちが、発売日の 2日も前から大挙して Apple Store 前に並び、通りをゴミだらけにして、あげくには喧嘩騒動まで引き起こし、ようやく 2台の iPhone 6 (判で押したように 1人が 2台買っていたらしい) を入手すると、そのまま元締めに製品を渡して現金を受け取っていたというのである。

似たような騒ぎは日本でもあり、並んだ行列に中国人が集団で割り込みして騒動になるという事件を引き起こしていたようである (参照)。まあ、こう言っちゃナンだけど、中国の人たちって、割り込みするのは当然と思っているフシがあるからね (参照)。

今回の世界各地でのトラブルは、iPhone 6 の発売日が未定の中国で高値で横流しするために、各国にいる中国人ブローカーが暗躍したようなのだ。中国でも、話題のアイテムはいち早く入手したいという、金に余裕のありすぎる連中が増えているのだね。そして今回のケースに限っては、Apple としては行列要員なんか雇う必要なんてさらさらなかったわけだ。

こまでくると、長い行列を作ってもらってマスコミの記事にしてもらい、新製品のキャンペーンに最大限に利用するというパブリシティ戦略は、もう風化しつつあるとみてもいいだろう。下手すると、逆効果でイメージダウンになってしまう。

Apple としては、次の iPhone 発売日には、何か対策を考えるか、あるいはまったく別のシステムで販売するしかないんじゃなかろうか。

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2014/09/21

カタルーニャの独立機運

スコットランドの独立は否決されたが、スペインのカタルーニャは、11月 9日に独立の是非を問う住民投票を実施することになったという。これに関する関連法案を、カタルーニャ自治州議会が可決したのである。

ところが、スペインの中央政府はこれを 「違憲」 として、憲法裁判所に訴える方針であるらしい。見たところ、スコットランドよりはカタルーニャの方が独立機運が高いようなので、中央政府はその動きを何とかして抑えたいのだろう。

言うまでもないが、カタルーニャの住民も独立賛成派ばかりではない。中には、「自治州が独立のための法整備をするのは違法であり、米国の州が合衆国憲法を無視して勝手な州法を作るようなもの」 と言っている大学教授もいるらしい。

しかしよく考えてみれば、そんなことを言うなら、憲法に 「植民地と構成自治体の独立は認めない」 なんていう条文を作ったら、あるいは、独立の手続きなんて無視して、一切言及せず、「そんなことはあり得ない」 という態度に徹したら、その国では憲法改正か独立戦争をしない限り、永遠に独立できないことになってしまう。

しかし独立なんていうのは、早く言えば、独立宣言をして、他の多くの国からそれを認めてもらいさえすれば果たせるのだ。それは、クリミアの独立がウクライナ憲法に違反するから認められないなんて言っても、ロシアとしては強引にやっちまえば何とかなると思っているようなものである。

つまりカタルーニャが本気で独立しようというなら、独自外交をして、独立の国際的支持を獲得するのが先決だ。十分な準備と根回しをして、その上で独立宣言すればいい。ただし、それには長い時間がかかるだろう。

それから、もしカタルーニャが独立するとしても、サッカーのリーガ・エスパニョーラは名前を変えて連合リーグとしてでも、とにかく存続させてもらいたい。

英国のように、プレミア・リーグがそれぞれの国にあって独立しているなんてことになったら、バルサ対レアル・マドリードの 「クラシコ」 (伝統の一戦) がなくなってしまう。それはあんまりだ。

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2014/09/20

スコットランドの独立は否決されたが

スコットランドの過半数の人たちは、「スコットランドの国民であると同時に、連合王国の一員でもありたい」 という意思表示をした。他国のことだから、私ごときがどうこう言っても仕方がないが、個人的には賢明な選択だったと思う。

住民投票で独立は否決されたが、いずれにしても大幅な自治権拡大を約束されている。この約束が反古にされることは、まずないだろう。あとは、どのレベルまでの自治権を得られるかで、それは今後のネゴシエーションにかかっている。

私が面白いと思ったのは、スコットランドの住民が投票前のキャンペーンでアピール用に使っていたプラカードである。賛成派が "Yes" のカードを掲げていたのに対し、反対派は "No Thanks" のカードを持っていた。

"No Thanks" (あるいは "no thank you")は、普通には 「結構です」 と訳すことになっているが、直訳的には 「ありがたくない」 という意味では決してなく (日常の会話でそんなこと言ったら、喧嘩になるでしょ)、「いらないけど、まあ、いずれにしても気にかけてくれてありがとうね」 といったニュアンスである。

このプラカードを見て、「独立しなくても、自治権が大幅に拡大されるんだから、いずれにしても我々の勝ちさ」 と言わんばかりと、私は感じてしまったのだった。

さすが、「大人の 対応」 である。

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2014/09/19

iPhone 6 を買うための行列

iPhone 6 の発売開始の今日、表参道の Apple Store には 1000人以上の行列ができて、隣の外苑前の駅までつながったと伝えられ、銀座店にも 1000人近い行列ができたと報じられた。世の中には、新製品は夜通し並んででも他人に先駆けて入手したいという人が、一定数いるようなのである。

私は一昨年 5月、東京スカイツリー開業の直前に 「行列に並んでもホットスポットに行きたいか?」 という記事を書いた。TBS ラジオがこのテーマで聴取者対象のアンケートをとったら、「並んででも行きたい」 派は、僅か 15%だったというのである。圧倒的多数は、「並んでまで行きたくない」 派だった。

時事通信はスコットランド独立を問う住民投票の結果を、「予想外の大差」 と報じている (参照) が、55:45 がどうして 「大差」 なのかよくわからない。本当の 「大差」 というのは、この 「並んででも行きたいか」 アンケートの結果ぐらいの、圧倒的なものでなければならないと思うがなあ。

話を元に戻そう。話題のスポットに行列してでも行きたいという人と、iPhone 6 を行列してでも入手したいという人とは、多分それほどカブらないとは思うが、メンタリティとしてはかなり共通するものがあると思う。「ホットな話題の渦中に、最初に加わることに意味がある」 と考えているらしいということだ。

同じメンタリティの、発揮される分野が違うというだけのことだ。ターゲットが、東京スカイツリーだったり、ゲームソフトだったり、iPhone だったり、人気のアイドルだったり、評判のラーメン店だったりする。

ただ、こうした行列情報は、ちょっと眉に唾を付けて受け取らなければならない。世の中には、アルバイトで行列に並ぶという仕事が存在するからである。行列要員の求人は表立って行われることがないため、世間ではあまり知られていないが、そこはそれ、蛇の道は何とやらいうもので、専門の業者に登録しておけば、求人が発生する度にメールで知らせてくれるらしい。

企業がバイトを雇ってまで長い行列を演出したがるのは、それが大変な宣伝になるからだ。とにかく長い行列ができれば、テレビや新聞がこぞってニュースにしてくれる。広告料に換算したら、何億円の効果があるか知れない。それに要するバイト料なんて安いものである。

IT 技術というのは、小さなハードウェアの入手のために前夜から行列に並ぶなんてことをしなくて済むようにあるはずなのだが、Apple みたいな会社が行列のできることが必至の売り方を続けるのは (私は今回の行列のほとんどがバイトだなんて、言ってないからね)、それがものすごくいい宣伝になるからなんだろうね。



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2014/09/18

「結婚したらどうだ」 発言を巡る冒険

東京都議会の 「男女共同参画社会推進議員連盟」 野島善司会長の 「結婚したらどうだとは、私も平場では言う」 発言が問題になっている。まあ、この人も言わなくてもいいことを言ってしまったものである。産経ニュースによると、こんな具合になっている。(参照

野島都議は 「(プライベートでは) 結婚したらどうだと言う」 との発言は取り消さず、「かつて地域には世話を焼く人が多くいたが、今はその機能がない。政治信条というよりも、私の生きざまだ」 と強調。「議連会長という立場を切り分けせずにご迷惑を掛けた。申し訳ない」 と陳謝した。

プライベートだろうがなんだろうが、「結婚したらどうだ」 と言われるのは、人によってはうっとうしく感じるものである。そりゃ、全然気にしない人もいるだろうが、目の前の人がそのどちらのタイプなのかをいちいち判断するのは大変だから、とりあえずは、そんなことは無闇に言わない方がいいに決まっている。

つまり、公的な場だろうがプライベートだろうが、「結婚したらどうだなんて、無闇に言わないものよ」 というのが、最近ではマナーということになっているのである。ただそれだけのことだ。だから、まあ、「平場では自分も言う」 なんていうのは、とくに公職にある人の発言としては、ナンセンスということになる。

まあ、この野島さんという都議会議員は、公式の場では言ってはいけないことでも、プライベートでなら、なんと 「生きざま」 として堂々というというのだから、他にも 「生きざまとしてのダブルスタンダード」 をいろいろ持っている人なのだろうと推測される。

少なくとも私は、自分の娘 (3人とも 25歳以上で独身) にだってそんなことは言わない。父親にそんなことを言われたら、娘としてはうっとうしい気がするに決まっているからだ。

別に 「娘を嫁に出したくない」 なんて、メロドラマでありがちなことを思っているわけでもない。ただ、そんなことを言おうが言うまいが、当人が結婚したくなったらするだろうし、その気がないうちに押しつけても、多分幸せにはならない。無理に変な男とくっつかれるよりは、独身でいられる方が、まだいい。

「世話を焼く人云々」 の話では、「私、結婚したいんですよぅ、誰かいい人、紹介してください!」 と言われたら、私は喜んで世話を焼く。今までもそんなケースがあったしね。ただ、「結婚したらどうだ、いい人を紹介するよ」 なんて、こちらから言うことは、決してない。そんな 「余計なお世話」 で、相手を居心地悪い気持ちにさせたくないからね。

冒頭でリンクした記事は、共産党の大山とも子幹事長 (58) が 「あらゆる場で言ってはいけない発言で、議連会長にふさわしくない」 と批判したと伝えている。これに関しては、いくら私でも 「あらゆる場で言ってはいけない」 ってのは極端すぎるなあと思ってしまう。そんなことを言うから、ますます余計なナンセンス議論に陥るのだ。

それとも、「そんなことは言わないのがマナーよ」 程度の済ませ方では、野島さんのような 「生きざまとして言いたくてたまらない人」 が、あちこちでポロポロ言っちゃうので、アブなくてしょうがないってことなんだろうか?

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2014/09/17

日本人の新聞への信頼度が、ようやくフツーの先進国並みに下がる

2010年の 「世界価値観調査」 で明らかになった日本人の新聞に対する信頼度は、「非常に信頼する」 と 「やや信頼する」 を合わせて 70.6%にのぼったというのが、今さらながら話題になっている (参照)。これは先進国の中では断トツに高い数字であるらしい。

同年に行われた電通総研のメディア信頼度についての調査でも、日本人の 72.5%が新聞や雑誌を信頼しているという結果が出ている。これは、アメリカの 23.4%、ドイツの 28.6%、フランスの 38.1%、イギリスの 12.9%と比較すれば、ものすごい数字であることがわかる。

日本の 「メディア情報鵜呑み度」 がこんなにも高いのは、「日本人は情報の取捨選択を行う訓練を受けていないから」 というのが理由だと言われてきた。しかしこれは、もっともらしいが、「ちょっと待てよ」 と言いたくなるお話だ。というのは、日本のマスメディアには 「取捨選択」 して意味があるほど、多様な価値観による情報発信があるとは思われないからだ。

大手マスコミの情報は、ほとんど 「どれをとっても大した違いがない」 ものでしかない。ちょっと 「違いを感じさせる」 のは政治的な記事で、今回問題になっている朝日の 「従軍慰安婦記事」 はその典型だ。しかしこれが報道された当時は、朝日の報道を真に受けるのが 「正しい進歩的文化人」 の姿で、それに異を唱えたら 「右翼」 扱いされていた。

当時の世の中では、朝日の報道を 「鵜呑み」 にせず、今から思えば 「まともなこと」 をまともに主張してしまうと、大音響の街宣車で走り回る人たちと同じ扱いをされかねなかったのである。なるほど、それまでに 「メディア情報鵜呑み度」 が高い国だったのである。

皮肉なことに、メディア情報を鵜呑みする傾向が最も高かったのは、最も 「情報の取捨選択を行う」 ための訓練を受けていたはずのインテリたちだったのだ。というか、朝日的メディアと、進歩的文化人といわれる人たちが、同じ価値観をもって 「政府の暴走をチェック」 しているつもりになっていたのである。

こういう構造だったら、そりゃもう、「メディアを信頼」 しちゃうよね。ある意味、運命共同体みたいなものなんだから。

ところがその後の調査で、こうした傾向が崩れ始めていることが明らかになっている。「経済広報センター」 が昨年 8月に発表した 「情報源に関する意識・実態調査」 によると、新聞を 「信頼できる」 と答えた人が、ようやくというか何というか、60%を割り込んだのである (参照)。

この調査では、新聞への信頼度は常に 70%以上をキープしていたのだが、2012年に 68.9%となり、昨年は 57%にまで落ちた。今年の結果は、私はまだ知らないが、いずれにしても、例の朝日の誤報問題が反映されるのは来年の調査になるだろうから、まあ、1年待てば惨憺たる数字になるだろう。

とはいいながら、ようやく 「普通の先進国並みの数字」 になるだけのことなのだが。

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2014/09/16

年寄りばかりで子供がいない世の中になると

昨日の敬老の日ネタとばかりも言い切れなかったのが、「75歳以上 「8人に1人」 に  65歳以上も 3296万人で過去最多」 というニュースである。今や、65歳以上の高齢者が 25.9%に達し、4人に 1人以上が年寄りという世の中になってしまったのである。

近頃では、それをしみじみと実感する。先月 20日の記事でも書いたように、田舎に還れば、実家の周りは年寄りばっかりだし、今住んでいる家の周囲も、住人の多くが 70歳を過ぎた人ばかりになってしまった。

この傾向はどんどん進展する。前回の国勢調査のデータから類推した 「日本の将来の推計人口」 といのが総務省から発表されており、それをグラフにしたのを眺めると、ちょっと背筋が寒くなる。

まず、2020年の推計である。そんなに遠い未来ではない。この年、東京ではオリンピックが開催されるが、老齢化はかくの如く進行している。

2020x

今回、団塊の世代が 65歳以上になったと報じられたが、2020年には全員が 70歳を越えるのである。そして、依然としてこの団塊の世代は人口ピラミッド (いや、ピラミッド型はとっくに消滅しているから、もう完全に死語だな) の中で突出した世代となっているので、どこを見渡しても年寄りばかりということになる。

さらに、その 10年後の 2030年を見てみよう。

2030

団塊の世代はさすがに少しはあの世に行っているようだが、それでも 30〜40代の人口より多い。それに 「団塊の世代ジュニア」 といわれる年代が、確実に年を取って還暦に近付く。もう本当に、後期高齢者とアラ還ばかりの世の中になる。

それがどんな光景か見たければ、地方都市に行ってみるがいい。とっくに 10数年後の状態を先取りして、年寄りばかりが寄り添って、まあ、案外平和に暮らしている世の中が、リアルに体験できる。

で、さらにその 10年後となると、90歳、100歳以上の人間がかなりたくさんいて、団塊の世代ジュニアが 70歳にさしかかって、それより年下の連中はもう、ちらほらしかいないという世の中になる。なかなか大変な状態だ。

そうなると、子供の数は今よりずっと少なくなって、小学校なんてやってられないから、家庭にいてネット授業になり、リアルの学校には週に 1度通えばいいなんてことになっているかもしれない。そうなると、不登校とかいじめとかいう問題も様変わりする。いじめ方すら知らない子が出てくる。

「人間とはいかなる存在なのか」 を、しっかり突き詰めて探求しないと、まともな精神をキープして生き残るのが大変な世の中になるかもしれない。

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2014/09/15

”Thank you for your patience" という言葉が、日本語にも欲しい

NAVER の "「全盲なら乗るなよ」 「相当イラつくのは確か」 川越線での全盲女子負傷 加害者への同調がツイッターで続出” というまとめ記事に、かなり驚いた。

基本的に、タイトルにもなっている 「全盲なら (ラッシュ時に) 電車に乗るのは、控えるべきだ」 という、ややおとなしい意見と、「ただでさえ混んでるのに、全盲の人が紛れ込んだらイラつく」 という感情的発言が多いが、さらに 「障害者だからといって、無条件に被害者ヅラするのはおかしい」 という攻撃的発言もある。

まあ、正直言ってわからんでもない。似たような気持ちに、自分がちらっとでもなったことがないと言ったら、それは嘘になる。でもそれをぶっちゃけた話として言うってのは、まともな人間として恥ずかしいという感覚をもつ方が、世の中の多くのことは円滑に運ぶんじゃないかと思うのだよね。

まあ、実際にはラッシュ時の駅構内の雑踏や満員電車の中で、白い杖をついた人や妊婦や、足の不自由な人がいたりしたら、私はいつも自分の体を盾にしてでも、彼らを守ってきた。だって、行きがかり上、そうするしかないじゃないか。様子がわからないうちは私が不自然に体を突っ張っていることで憤る人もいたが、隣の誰かを守っているのだと知れば、「そうだったのか」 と納得してくれた。

私は常々、英語の ”Thank you for your patience" と同じニュアンスの言葉が、日本語にないことを、とても残念に思っている。これは直訳すると 「あなたの忍耐に感謝します」 ということだが、実際の場面では、日本語だったら 「お待たせいたしました」 なんて言うだろうというケースで、案外気軽に使われる。

何かのオープニングで、朝から長い列ができて、ようやく開場になったというような場合なんかの、決まり文句みたいなアナウンスの言葉と私は理解しているが、用例はそれだけではない。例えばバスから降りる時に料金を支払う場合など、全然要領を得ないお年寄りなんかが、もたもたしてものすごく手間のかかることがある。

そんな時、日本だったら列の後ろの方であからさまに舌打ちしたり、これみよがしにため息をついたり、下手すると 「早くしろよ!」 なんて声が上がったりすることもあるが、欧米だと、別に紳士淑女ばかりでなくても、案外みんな呑気に待つ。

それがごくフツーのことのようなのである。そしてようやくことが済んで列が動き始めると、運転士が  ”Thank you for your patience" と、決まり文句を言ったりする。

まあ、並んでいる人たちは、そりゃあ、少しもストレスを感じないわけじゃないだろう。多少はイライラしたりするはずだ。しかしそれをあからさまに態度に表したりするのは大人げないし、相手の尊厳を傷つけるようなことをするのは、人間としていかがなものかという共通認識があるんじゃないかというような気がする。

それで、いらついた素振りは見せず、解決するまでおとなしく待つ。いくらなんでも 10分も 20分もかかることなんかないから、待ち時間なんて実際には知れたものだ。そして、そのちょっとした 「我慢」 に対して  ”Thank you for your patience" (あなたの忍耐に感謝) と言われるのだから、そりゃあ、悪い気はしない。いい言葉である。

ところが日本では、運転士が 「忍耐に感謝」 なんてことは言わない。感謝せずに、一方的に 「大変お待たせして済みませんでした」 なんて、謝ったりする。本来は、彼が謝る筋合いではないのに、なぜか謝るのである。

こんな場面で謝られちゃうから、客の方は何か悪いことをされて、被害を被ったような勘違いをする。その悪いことをしたのは、あの多少ボケかかったじいさんだと思えば、「料金の払い方も知らない年寄りは、バスに乗るな!」 なんてことを、つい言いたくなる。

これが年寄りじゃなくて、視覚障害者で、バスを降りる時に多少手間取ったりした時に、「全盲なら、バスに乗るな!」 なんて、口汚い言葉をわめいたりしたら、それがもし米国だったら、いきなり隣の客に殴り倒されても文句は言えない。

川越線で全盲の女子高生の膝の裏を蹴っちゃった奴は、ここが日本だったおかげで、周りからボコボコに袋叩きにされずに済んだのである。まったく命冥加な奴である。

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2014/09/14

ブログの文体 − 段落ごとの行数の変化

「ワープロで書くと文体が変わってしまう」 なんて言う人は今どき少なくなったが、それでもまだ、根強く生き残っている。私はこのことについて、11年も前に次のように書いている。(参照

ワープロで文体が変わってしまうのは、それはワープロを使っているのではなく、ワープロに使われているというだけの話である。

これに対して、毛筆で書くのとボールペンで書くのとでは、確かに文体が変わるのであり、同様にワープロで書く場合でも変わるはずだと主張する人がいる。しかし、これも虚言である。

毛筆で書く時に文体が変わるのは、毛筆という道具によるのではない。改まった文体で書く必要がある時に、毛筆を使う場合が多いというだけのことだ。

文章を書く道具、筆、万年筆、ボールペン、鉛筆、ワープロ等々によって、文体が変わってしまうのではない。人は文章を書く目的によって、道具を使い分けるのである。書く目的が違うのだから、文体が変わるのは当然だ。道具によって文体が変わるというのは、順序が逆である。

私は改まった手紙を書く時には、Word で下書きし、それを和紙の便箋に毛筆 (実は筆ペンだが) で清書することがある。いきなり筆で書いたりしたら大抵途中で書き損じてしまい、紙の無駄遣いになる。毛筆で清書する文章の下書きを Word でするのだから、「書く道具によって文体が変わる」 なんていうのは、お笑い草である。

上述の記事の最後を私は、「はっきり言わせてもらえば、ワープロごときで文体が変わってしまうなどというのは、実は、その人は 『文体』 と称するに足るスタイルを、元々持ち合わせていなかっただけなのである。単にそれだけのことだ」 と結んでいる。この考えは今でも変わらない。

この ”Today's Crack" というテキストは、10年以上前は現在の 「ココログ」 というブログ・システムを使っておらず、「知のヴァーリトゥード」 という自分のサイトの中で、「日記」 的なものとして書いていた。

この当時から、基本的に行の最初の字下げを行わず、段落ごとに少し行間が空くというスタイルである。これはブログとしてはもっともスタンダードなスタイルではあるが、ブログが誕生する前から、私は同じスタイルでテキストを書いていたことになる。

これは私が、外資系勤務時代にこのスタイルに慣れてしまったということが大きな要因だ。インターネットの標準は英語のテキストであり、私はそのスタイルにどっぷりと使っていたので、英語だろうが日本語だろうが、自然にこうなったのである。

ただ、冒頭のリンクをたどって 11年前のページを見てもらうと気付かれると思うのだが、当時のテキストは段落ごとの行数が短い。大抵は 3行以内で段落を切っている。時々 4〜5行に渡ってしまう時があるが、それはなるべく控えるようにしていた。

それは 「読みやすさ」 に配慮したからである。当時の PC ディスプレイは SVGA (800 × 600) が主流になっていたが、VGA (640 × 480) というのもまだまだ残っていた。

この程度の解像度だと文字は大きく表示されるが、その分、画面が文字でべったり埋まってしまう感覚になる。文字が大きいからといって読みやすいというわけでは、決してない。このうっとうしい 「べったり感」 を和らげるため、なるべく段落を変えて、空間を作るように心がけていたのである。

しかしその後、XGA (1024 × 768) を経て、今では UXGA (1600 × 1200) 以上が当たり前になり、横幅の広いワイド画面も増えた。これだと、別に頻繁に段落を変えなくても、そんなにべったりとした感じにはならない。そしてフォントやスタイルシートの改良もあり、適度の行間も考慮されて、段落が長くなってもそれほど読みにくくはなくなった。

それで近頃は、4〜5行の段落になっても、安心して書き進めている。ただ、6〜7行以上の段落になるのは、できるだけ避けている。紙媒体だとかなり長い段落でもそれほど読みにくいということはないが、ディスプレイだと、長すぎるのはやはりうっとうしい。老眼が進んできている自分を基準にしていることもあり、やはり段落は 5行までに抑えたいのである。

ただし、スマホの狭い画面だと、平気で 10行ぐらいになることがあるのは、お許しいただきたい。この場合は、1行あたりの字数が少ないので、行数が増えても、それほど読みにくくはならないと思う。

というわけで、発表するメディアによって、意識して少々文体を変えるというのは、十分に 「あり」 だ。書く手段によってではなく、読む手段に合わせるのだから、私としては当然のサービスと思っている。

ちなみに、文語のブログ記事という実例があることを紹介しておく。私の 2008年 4月 11日から 13日までの、3本の記事である (参照 1参照 2参照 3)。これくらいのことは、何のストレスもなくすらすらとできた。文体が道具によって規定されるわけではないという、何よりの証拠である。

それに、私は ATOK の文語モードを知る以前から、ブログ上で古語の和歌を詠んできたわけでもあるし (参照)。

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2014/09/13

「ナショナリズム」 を巡る冒険

実は昨日の記事に追記的に 「ナショナリズム」 について書き加えようとしたのだが、あまりにも長くなってしまいそうなので、改めて本日の記事として書こうと思う。

Wikipedia によると、「ナショナリズム」 のある程度のコンセンサスを得た定義は、 アーネスト・ゲルナーによる 「政治的な単位と文化的あるいは民族的な単位を一致させようとする思想や運動」 というものだそうだ (参照)。

元々の "nation" という言葉は、本来は民族とその固有の文化を前提としたものだから、「ナショナリズム」 は 「民族主義」 と訳す方がより正しいようなのである。このあたりところは、「ナショナリズム = 国家主義 (あるいは国粋主義)」 と思ってきた日本人にとっては、ちょっと意外なニュアンスなのではなかろうか。

60年代末期だったかなあ、日本共産党系の民青が 「うたごえ運動」 の一環で妙に日本的な民謡や楽器を取り入れて 「民族、民族」 と声高に言っている時代があった。労音のパンフレットに、「民族の祭典」 なんて言葉が使われていることまであったけど、あれって、かなりアブなかったよね (参照)。

あの頃の共産党って、民族主義? てことは、インターナショナリズムから離れたナショナリズム? ああ、ややこしい。仮にあれを 「ナショナリズム」 の一種とすれば、「国家主義」 という言い方は、完全に間違いということになる。

日本で ”nationalism" が一般的に 「国家主義」 「国粋主義」 と思われているのは、「民族主義」 の及ぶ範囲が、うまい具合に現在の日本の領土とほぼ一致しているので、ざっくりとそう言っても、あまり違和感がないというだけなのかもしれない。それで日本のナショナリストは、シンプルに自分を 「ナショナリスト」 と思うことができる。

ただ、Wikipedia では 「ナショナリズム」 について次のようにも解説されている。

ナショナリズムには二つの大きな作用があり、文化が共有されると考えられる範囲まで政治的共同体の版図を拡大しようとする作用と、政治的共同体の掌握する領域内に存在する複数の文化を支配的な文化に同化しようとする作用がそれである。

この考えでいうと、戦前の日本はかなり後者の色彩を強くもっていたということになる。明治以来の中央集権的政治体制を、朝鮮半島や台湾の植民地にまで単純に当てはめようとしたんじゃなかろうか。

ヨーロッパ人がアジアやアフリカを植民地とした時には、人種が全然違うので、民族主義の適用という発想すらなかっただろう。しかし日本人は、朝鮮半島においてそれをやってしまったのである。

もっともそれは、日本だけのことではない。隣接した "nation" を侵略、あるいは併合する時には、多かれ少なかれその傾向があるではないか。実際にスコットランドとカタルーニャでは、英語とスペイン語が押しつけられている。固有文化の破壊にまでは至っていないが、今になって独立運動が盛り上がっている。

日本の韓国併合は、同様のことをかなり遅れてやってしまったのだ。日本は植民地経営の経験が決定的に不足していたから、国際的な空気を読めなかったんだろうね。ある意味、間が悪すぎたのだ。

その結果論について、日本の右翼勢力はハード面に注目し、「朝鮮半島のインフラが飛躍的に整備され、教育水準も上がり、経済も発展したではないか」 と強調し、韓国側は 「日本文化を押しつけて、朝鮮の尊厳を傷つけた」 と言い立てる。どちらも本当なんだろうが、現状はどちらも自分の主張を大声で言い立てるだけで、まともな論議になっていない。

話が行ったり来たりするが、スコットランドやカタルーニャの独立運動は、紛れもない 「ナショナリズム」 であり、「文化が共有されると考えられる範囲まで政治的共同体の版図を拡大しようとする作用」 である。「独立運動」 であって 「侵略」 ではないので、国際社会から口を極めて非難されるということはない。

そして一方、韓国では独立が実現してしまってから、ナショナリズムが極端に盛り上がり、今になってかつての宗主国にガンガン攻撃的にぶつけている。独立戦争してないので、普通とは順序が逆だが、必要なプロセスなのかもしれない。とはいえ、いつまでも続きすぎるようだと、お互いのためにならない。

私はもう一つの "Wakalog" というサイトで、古語の和歌を作っているぐらいで、かなり 「日本文化」 にこだわり、日本人が日本文化を忘れかけていることを憂慮している。それでも 「ナショナリスト」 とは呼ばれたくないなあ。だって、西洋文化も大好きで、自分としてはうまくバランスをとってやれていると思っているから。

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2014/09/12

国、Country、State、Nation

今月 7日の 「スコットランド独立の住民投票が迫って」 という記事で、「ほぼ単一民族で構成され、しかも明治以来、強固な中央集権体制を維持してきた日本からみると、西欧の 『国』 という概念は、かなりわかりづらい」 と書いた。

何しろ、英国という 「国」 の中に イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドという、紛れもない 「国」 が存在する。これらの 4つの国は、それぞれ "nation" なのだという。これは 「共通した文化をもつ民族による国」 という意味なんだそうだ。

日本語の 「国」 を表す英語として、上述の "nation" の他に "country" と "state" がある。"Country" は 「国」 を表す言葉として最も気楽に包括的に使える言葉だ。"State" は、米国の 「州」 であって、「国」 じゃないだろうという人もいるだろうが、フツーは 「国」 である。

米国の "states" は、日本語でたまたま 「州」 と言っているだけで、”United States of America" は、直訳すれば 「アメリカの連合国家」 なのである。"State" というのは、「国」 を表現する場合の、最も政治的な意味合いを前面に出した場合の言い方のようなのだ。

何しろ 「国」 なのだから、それぞれの "state" には、ちゃんと 「政府」 がある。それらが、軍事と外交と通貨を連邦政府に任せているだけなのだが、まあ、英国なんかよりは、ずっと 「一つの国」 だと、米国人は意識している。星条旗を掲げた時のまとまり方なんて、半端じゃない。

英国のケースに戻る。4つの nations が集まって作っているのが何かといえば、"United Nations" ではなく "United Kingdom" (連合王国) である。"United Nations" と言ったら、「国連」 のことになってしまうから、ややこしい。あれって、第二次大戦の時の 「連合国」 が大きくなったものだと思えばいい。

"Kingdom" というのは 「王国」 なのだが、それが "nation" であるのかといえば、「共通した文化をもつ民族による国」 という定義からすると、英国は 4つの異なった民族と文化の寄り集まりだから、ビミョーにいいづらいところがあると思われているフシがある。

日本では "nation" という言葉は 「国家」 と訳されているが、このあたりは、もう少し深く立ち入って考えてみる必要があるようなのだ。"The British nation" (単数形) と言ってしまうと、「英国民」 という意味合いになる。ああ、ややこしい。もうちょっとすっきり割り切れるといいのだが、何しろ昔から使ってきた言葉だから、境界線が引きにくい。

強いて言えば、日本語の 「お国なまり」 という場合の 「お国」 が、"country" に近いと思う。そういえば、明治以前の日本の 「律令制」 や 「幕藩体制」 は、ある意味 「連合国」 に近いところがあったのかもしれない。現実に 「武蔵国」 とか 「信濃国」 とか言ってたしね。

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2014/09/11

「行楽」 という言葉のイメージ

「行楽」 という言葉は、日常生活の中ではほとんど死語に近くなった。「今度の週末、どこか 『行楽』 に行こう」 なんていう言い方は、今どき誰もしない。ところが 「完全に死語になった」 というわけではないのは、重要な用法がまだ残っているからである。

今日の天気予報では、「週末は天気が回復して 『行楽日和』 になるでしょう」 と伝えられている。また交通情報では日曜の夕方の高速道路などで、「行楽帰りの渋滞」 が伝えられる。

思えば 「行楽」 という言葉は、天気予報と交通情報のために生き残っていると言っていいぐらいのもので、あとは 「行楽客」 「行楽シーズン」 という言い方が細々と続いているだけだ。他にはほとんど使い道がない。

そもそも 「行楽」 とは何かといえば、『大辞林』 によれば 「山野に出たりして、遊び楽しむこと」 ということになっている。ずいぶん漠然とした言い方だ。「旅行」 というほど遠くまででかけるわけではなく、「観光」 というほど大げさではない。しかし、「ちょっとショッピング」 程度の軽さでもない。

それではどんなものなのかと言えば、伝統的な行楽の代表は、「花見」 と 「紅葉狩り」 だろう。なるほど、昔はちょっと足を伸ばせば 「花見」 と 「紅葉狩り」 がいくらでもできた。手甲・脚絆みたいな旅支度をしなくても、普段着で出かけられる自然が、すぐそこにあった。

毛氈とお重とお酒をぶら下げ、懐には短冊と筆をもって歩いてでかければ、季節の酒肴をたしなみながら、和歌俳諧、ちょっとした歌や手踊りを楽しめたのである。思えば風流な世の中ではあった。

ところが時代は変わってしまった。「花見」 程度は近場でもできるが、「山野」 というイメージではない。花見の名所の東京・上野公園では、周りを見渡せば間近にビルがそびえ、すぐ近くに売店が立ち並ぶ。そこまで都会でなくても、ほとんどの花見の名所は、すぐそばを車がビュンビュン通り過ぎるところである。

紅葉狩りとなると、もう大変だ。相当遠くまで行かなければならない。東京近郊で言えば、高尾山ぐらいのところだろうか。

都会では郊外に至るまで開発されて宅地化し、もうちょっと足を伸ばせば、そこには大規模なショッピングセンターやアウトレットストアが建ち並ぶ。つまり現代日本では、「気軽にちょっと出かけて楽しめる山野」 というものが、容易に存在できなくなってしまったのだ。

「行楽」 というものを行う 「山野」 という空間を 「都市」 と 「山中」 の間の緩衝地帯とすれば、今それがものすごく貧弱になったのである。だから、「山中」 から熊や猿や猪が、ひょいと都市の中にまで現れてきてしまう。その裏返しで、都市の人間が自然に親しもうと思ったら、山懐深くまで分け入らなければならなくなった。

近頃では、自然に触れて楽しもうと思ったら、それなりの 「アウトドア装備」 が必要だ。レジャー用の車、バーベキュー用品、もっと自然の中に行こうとすれば、キャンプ用品が必要になる。そうなると、漠然とした 「行楽」 というより、れっきとした 「アウトドア・アクティビティ」 ということになってしまう。

今、週末に気軽に出かけて楽しむといえば、「ディズニーランド」 が一番ポピュラーなんじゃなかろうか。しかし、ディズニーランドに行くのを 「行楽」 と言っていいのかどうか、本来の意味からすれうば、かなりビミョーなところだろう。

それでも、天気予報と交通情報では、「遊びでのちょっとしたお出かけ」 をざっくりと 「行楽」 という便利な言葉でくくってしまっている。これはもう、この 2つの分野の 「業界用語」 と化していると思えばいいのかもしれない。

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2014/09/10

Apple Watch のデザインが 「フツー」 っぽくてありがたい

Apple が iPhone 6 と Apple Watch を発表した (参照)。iPhone 6 は 5 より画面が少し大きくなって、4.7 インチになり、さらにそれより大きな 5.5 インチの iPhone 6 plus との二本立てとなる。まあ、私は 4.7 インチで十分かな。ポケットに入らないと困るし。

iPhone 6 以上に注目なのは、Apple Watch だ。発表されるまでは iWatch という名前になるのかと思っていたが、Apple Watch とはちょっと意外だった。これ、前々からいろいろな噂が飛んでいたが、私はあえてあまり注目しないように、無関心を装ってきた。だって、注目してしまったら欲しくなるに決まっているじゃないか。

しかし、発表記事を読み、さらに Apple のサイトで製品紹介のビデオなんぞを見てしまったら、やっぱり、かなり欲しくなってしまったのである。ああ、困った。今使っている腕時計には、何の不満もないのに、また出費につながってしまいそうだ。

正直なところ、今日ビデオを見るまでは、それほど期待していなかった。「何だか、Apple の社運を賭けた新製品になるみたいだけど、スベってしまわなければいいがなあ」 ぐらいに思っていたのである。だが、ビデオを見て 「さすが Apple だね!」 と感心した。

中には 「フツーじゃん!」 とか 「どこが斬新なの?」 なんていう声もあるようだが、それは IT フリークたちのお約束の反応に過ぎない。IT フリークはいつも機能やスペックや、「最先端っぽさ」 に注目するが、私のような 「IT は役に立ちさえすればいい」 と思っているユーザーは、それ以外のポイントを重視する。

まず、デザインである。いや、別に 「画期的なデザイン」 なんて求めていない。逆に、ウェアラブル端末なんだから、街に出て浮いてしまいそうなデザインには、まず手を出さない。「これ、最先端のデジものです」 ってなデザインではなく、「フツーに生活に溶け込んで、さりげなく役に立つ」 というものが欲しいだけなのだ。

その観点からすると、Apple Watch はかなりイケる。ある意味、一見すると 「フツーにちょっとおしゃれな腕時計っぽい」 のだ。よくぞここまで 「フツー」 に徹してくれた。他のいわゆる 「スマートウォッチ」 (参照:画像の両側をクリックすると、いろいろな製品の画像がみられる) と比較すると、その 「フツーさ」 がありがたい。

さらに、リストバンドに至るまでデザイン・バリエーションが豊富で、好きな組み合わせで選べるのも嬉しい。ウォッチは 「個人的な好み」 に即したデザインが大切ということを、さすが Apple はよくわかっている。押しつけデザインは要らないのだ。

そして、iPhone との連動で使い倒せるのが、またまた助かる。例えば、iPhone をジーンズの尻ポケットに入れて賑やかな街を歩いていると、電話の受信に気がつかない場合がかなりある。しかし Apple Watch と組み合わせれば、手首にピコピコっと知らせてくれて、電話に出そびれることもなくなるだろう。

知らない街を歩く時に、ナビ代わりに使うこともできる。iPhone をナビとして使った場合の、荷物を持って、雨の時には傘を差して、iPhone をもって……といううっとうしさからは解放されるだろう。当然にも画面は小さいだろうが、よっぽどややこしい時には、要所要所で iPhone を取り出して、大きな画面で確認すればいい。

Apple Watch を 「iPhone の子機」 という位置づけにして、iPhone をいちいちポケットから取り出さなくても、手首からいろいろな操作ができるのは、無精な私としては、かなりありがたいと思う。

3年前に iOS 5 になるまでは、iPhone は独り立ちできなかった。PC という母艦が必要だったのである。しかし今後は、iPhone が Apple Watch の母艦になるようなのだ。まさに 「PC の時代」 は終わっているのだと実感する。

と、ここまで、いかにも発売されたらすぐに買ってしまいそうな書き方をしてしまったが、実際には、1年ぐらい様子をみることになると思う。バッテリーの持ち具合など、実際に使ったユーザーの反応を確かめてみたいのだ。その上で、1度バージョンアップされてからの製品を買いたいと思っている。

私は、iPhone も iPad も、1〜2度バージョンアップを経てから買ったという、案外な慎重派なのである。

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2014/09/09

「エンタテインメント」 という言葉を巡る冒険 その 2

昨日の "「エンタテインメント」 という言葉を巡る冒険" に、米国在住の emi さんから早速コメントがついた。彼女は 5年も前に、自分のブログで 「エンターテインメント」 を気になる言葉として挙げている。

そして今回のコメントで、"ちなみに私は日本語表記は日本人の発音を反映させたい気持ちがあり、カタカナで書く場合は 「エンターテイメント」 を使っています" と書かれている、時代の違いをそこはかとなく感じてしまう指摘である。

彼女は 1970年代半ばの 「ザッツ・エンタテインメント」 の時代には、多分この世に存在していなかっただろうし、もし存在していたとしても、とても幼くて、ちょっとマニアックなハリウッド映画のことなんか意識していなかっただろう。

彼女がこの言葉をフツーに使い始めた時代、多くの日本人は 「エンターテイメント」 と言っていたようで、そしてそれを聞いても、70年代に刷り込み完了していた私の耳は、無意識に 「エンタテインメント」 とアジャストして聞いていたのだろう。無意識の反応とは恐ろしいものである。

彼女はさらに、"「アタッシュケース」 や 「ナルシスト」 みたいなもんだと思っています" とも述べておられる。なるほどね。これらが 「あり」、というか、普通に使われているのだから、「エンターテイメント」 だって十分に 「あり」 なのだろう。私にはちょっと違和感だけどね。

そういえば私は、"attache case" の英語の 「正しい発音」 が、未だによくわかっていない。「アタシェィ」 みたいな感じとは思っているのだが、アクセントが 「タ」 にあるのか、あるいは原語のフランス語みたいに平板に言うのか (あるいはビミョーに 「シェィ」 にあるのか?)、よくわからないのである。

自分ではアタッシュケースなんて絶対に持たないからどうでもいいのだが、英語の話の行きがかり上では、テキトーにぼやかして言っていたように思う。ぼやかしても、さすがに話の行きがかりだからちゃんと通じるのだが、こっちとしてはモヤモヤしてしまう。

ちなみに英米人でも、「おフランス語こだわり派」 的な人と 「外来語だけど、既に英語だもんね派」 的な人の間でビミョーに違うような気がしていて、誰をお手本にしていいのかわからない。ただ、私がよく英語を使っていたのはほぼ 20年も前の話だから、今はどうなっているのか、これもよくわからない。

そういえば、私は "concierge" (日本語では 「コンシェルジェ」? それとも 「コンシェルジュ?) も、また "parfait" (パフェ) すらも、英語の発音がよくわかっていないまま、テキトーに通じてきてしまっている。どうもフランス語からきたような言葉には、相当に弱いらしい。日本語でも、カレーライスとハンバーグ以外のカタカナ名前の食べ物に疎いし (参照)。

「ナルシスト」 に関して言えば、私が 10代の頃までは 「ナルシシスト」 の方がやや優勢だったように思う。英語は "narcissist" だから 「ナルシシスト」 の方が確実に近いが、これだと日本語としてちょっと違和感が生じやすいので、今では 「ナルシスト」 に落ち着いたのだろう。

ただ、「ナルシシズム」 は、さすがに今でも 「ナルシズム」 より優勢だと思う。しかし、もしかしたらそう思っているのは私だけで、若い人たちにとっては既に 「ナルシズム」 なのかもしれないから、コワくて言い切れない。

外来語の中でも日本語の音感としてちょっと違和感のある単語は、どんどん日本語として言いやすいように変化しちゃう力が働くのだろう。この力は、多分自動的なものなんだと思う。”Studio” は 「スタジオ」、”radio" は 「ラジオ」 だし、先月 13日の記事で触れたように、"diversity" なんて、"diver city" に聞こえるほどだ。

それどころか、日本語としてあまりにもそぐわない語感の言葉は、外来語として入ってくることすらない。例えば 「冷蔵庫」 は英語では "refrigerator" だが、あまりにも言いにくくて舌かんじゃうから、絶対に入ってこない。

これはさすがに、ネイティブでもうっとうしいらしく、普段の会話ではぐっと縮めて "frige" が多用される。ただ、これも日本語としてはちょっと違和感だから、いくらオシャレにカタカナ語を多用したがる電通や博報堂でも、今さら 「エコに強いパナソニックのフリッジ」 なんて言い方はしないだろう。

もう一つ、絶対に入ってこないだろうと思われるのは、"smorgasbord" という言葉である。「スモーガスボード」 って、ガス台の上で相撲を取るわけじゃなく、いわゆる 「バイキング形式の料理」 のことだ。

英語で "viking style" なんて言っても、日本語ではそう言うのだと知っている人以外には、絶対に通じないし、たとえ知っていても、それを思い出してもらえるまで、ちょっとしたタイムラグが生じる。それほどに、英語的にはものすごい違和感のある言い方なんだろうね。

咄嗟には 「バイキング料理」 と 「ジンギスカン料理」 の区別がつかなくなってしまう私のような人は、あんまりいないだろうが、最近では日本でも 「バイキングという言い方はちょっとダサいかも」 と思われ始めたようなところがあって、代わりに 「ビュッフェ・スタイル」 なんていう言い方が広まり始めた。

これ、フランス語と英語の折衷なのかなあ。英語では 「バフェィ」 である。

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2014/09/08

「エンタテインメント」 という言葉を巡る冒険

またまたどうでもいいような細かい話で恐縮だが、今回は 「エンタテインメント」 という言葉についてである。

この言葉、元々の英語 (entertainment) では、最初の音節の 「エ」 に弱目のアクセントがあり、「テ」 の部分に強いアクセントがある。まあ、大ざっぱに言えば、アクセントは 「テ」 にあると言っていい。その昔 (第 1作は 1974年)、「ザッツ・エンタテインメント」 という映画がヒットしていた頃は、大方の日本人もそのようなアクセントで発音していた。

ところが最近、「テ」 のすぐ後ろの 「イン」 の音節にアクセントを置いて発音する人が多いような気がする。その結果、まるで 「エンター・テンメント」  という言葉があるように聞こえるのである。

巷でそんな言い方がちらほら聞かれるぐらいならまだ我慢もするが、テレビやラジオで、若手のレポーターが、「これは、最高のエンター・テンメントですよね〜!」 なんて言うのを聞くと、かなり気持ち悪くなってしまう。

この言い方で、「エンタテイナー」 (entertainer) という言葉でも 「イ」 にアクセントをおいたら、輪をかけて気持ち悪くなってしまいそうなのだが、そこはそれ、よくしたもので、いや、全然よくなんかないのだが、彼らはこれを 「エンターティナー」 (「テイ」 ではなく 「ティ」 ) と言うのである。

「さすが、エンターティナーですよね!」 なんて言うのを聞くと、私としては別の気持ち悪さに襲われるのである。彼らにとっては、どちらの言葉も同じ 「エンタテイン」  (entertain: 「もてなす」 「楽しませる」 という意味の動詞) から来ているなんてことは、どうでもいいことなのかもしれない。

「エンター・テンメント」 と聞こえる発音になってしまったのは、もしかしたら 『エンタの神様』 から影響を受けてしまったのかも知れないと、私は常々思っていた。「エンタ」 が日本語として定着してしまったようなので、改めて言うと 「エンター・テンメント」 になってしまうんじゃなかろうかと。

しかし、ここまで書いて、私は 『エンタの神様』 という言葉を知っていても、それがどういうものだか知らないということに、初めて気がついた。そこでググって調べてみると、それは日本テレビでやっていたお笑い番組だったらしい。

ところが Wikipedia の  『エンタの神様』 の項をみると、「究極のエンターテインメントを追求する 『総合エンターテインメント番組』 として放送開始」 とある。ここで私は、「おやおや」 と腰が抜けそうになってしまったのである。実は、そのココロは 「エンターの神様」 であったのか。なるほど、「エンター・テンメント」 になるわけだ。

さらに驚いたことには、本文の第 2段落目で紹介した 「ザッツ・エンタテインメント」 という映画も、Wikipedia では、「ザッツ・エンターテインメント」 という項目名で紹介されており、そのくせ、本文では 『ザッツ・エンタテインメント』 と、正しい邦題標記になっているといういい加減さである (参照)。

Wikipedia にはだめ押しのように、 「エンターテインメント」 という項目があり、そこには、「表記や発音の利便性を重視し、エンタメとも、ンが抜けたエンターテイメントなどとも言う」 とある。私は、「エンタメ」 は知っていたけど、「エンターテイメント」 なんて知らなかったよ。

さらに、さらに、さらに驚いたことには、「実際の英語の発音では entertainment の 9文字目の n は殆ど聞き取れないため、エンターテイメントの方がまだ実際の英語の発音には近くなる」 なんてことが書いてある。

よく言うよ。"n" はちゃんと聞き取れる。Goo 辞書の "entertainment" の項目で、「発音を再生」 ボタンをクリックすれば、それはすぐにわかる。聞き取れないとしたら。耳がどうかしているのである。

まあ、Goo 辞書ではことさら明確な発音となっているので、第 2音節の "t" と "r" が強調されており、実際の会話の中ではこの 2つの発音は紛れがちになるのだが、"n" まで紛れるなんてことはない。

1970年代に、ハリウッド映画とともに "entertainment" という言葉が大々的に入ってきた頃には、カタカナでも 「エンタテインメント」 と妥当に表記されていたのだが、その後、日本語化されるに従って 「エンターテインメント」 になり、さらに 「エンタメ」 とか 「エンターテイメント」 とか、ゴチャゴチャになってしまったようなのである。

最近はさらに、「エンターティメント」 という発音も聞くことがある。もう、どこまでバリエーションが広がるか、見ものである。ここまで来ると、言語学のサンプルとして貴重なケースになるかもしれない。

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2014/09/07

スコットランド独立の住民投票が迫って

今月 18日に、スコットランドの独立を問う住民投票が実施されるのだそうだ。英国政府としては、元々この住民投票実施を認めたのは、当然にも独立反対票が上回るものと見込み、順当な結果が出れば、しばらくは独立派もおとなしくせざるを得ないだろうと見ていたかららしい。

しかし世論調査では、独立賛成派がじわじわと増加してきており、最新の調査では僅かながら独立派が上回っているという。英国政府としては、ちょっと想定外の状況になってきているわけだ。

ここまで 「英国政府」 と書いたが、本来の呼称は "Her Majesty's Government" というもので、直訳のしようがないが、まあ 「女王陛下の政府」 という意味合いである。つまり、スコットランドとしては 「女王陛下の連合王国」 から抜けたいということのようなのだ。

ほぼ単一民族で構成され、しかも明治以来、強固な中央集権体制を維持してきた日本からみると、西欧の 「国」 という概念は、かなりわかりづらい。日本では 「イギリス」 と呼ばれる国 (私は 「英国」  あるいは "UK" と呼ぶことにしているが) は、本来は "The United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland" (グレートブリテン及び北アイルランド連合王国) という連合国家なのだ。

共通の元首、女王陛下を戴き、一つの 「連合国家」 を形成し、EU や国連には便宜上、連合王国として加盟しているとはいえ、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドは、あくまでも 4つの 「国」 なのだ。

だからご存じの通り、サッカーやラグビーのワールドカップでは、4つの 「国」 がそれぞれ代表チームを組んで参加している。サッカーではいつもイングランドしかヨーロッパ予選を勝ち残らないが、ラグビーではウェールズも結構いいところまで行く。

だいぶ前に、仕事上でつきあっていた英国人 (イングランド人) に、「あなたたちはどうして、ワールドカップに 『統一チーム』 (United Kingdom team) として参加しないのか?」 と聞いたことがある。「統一チームなら、サッカーではブラジルやドイツ、ラグビーではニュージーランドやオーストラリアと、いい勝負ができるだろうに」 と。

彼は私の質問に、「何をまた、くだらんことを言うのか」 といった顔をして、まともには答えなかった。彼にしてみれば、「ずっと別の国として予選を争ってきてるんだから、今さら統一チームなんか、できるわけないじゃないか」 ということだったのだろう。

つまり、軍事的、外交的には、一応 「連合王国」 として対処しているが、それは極めて政治的な 「便宜上」 の話であって、正直な気持ちがもろに表れるスポーツでは、「やつらとは、別の国なんだよ」 ってなことらしいのである。

で、「別の国」 ではありながら、「連合王国」 を形成し、さらに他のヨーロッパ諸国と一緒に EU (欧州連合)  まで形成する。英国は伝統的にポンドという独自通貨だが、他の EU 諸国は、通貨まで同じにしてしまっている。

この辺りが日本人にはわかりづらいところで、ヨーロッパでは歴史的にも地理的にも、「国」 という単位はかなりとぐろを巻いていて、英国は 4つの国が今でも張り合っているし、スペインでもカタルーニャが独立したくてうずうずしている。そのくせ、EU なんかを形成して 「ヨーロッパは一つ」 なんてことも言っている。

今回、スコットランドが 「独立」 ということになってしまったら、カタルーニャはとんでもなく元気づくだろう。しかし例えカタルーニャが独立しても、サッカーの 「リーガ・エスパニョーラ」 は名前を変えてでも存続して、レアル・マドリードとバルサの 「クラシコ」 (伝統の一戦) は、ますます熱狂的に継続するだろう。

ロシアとしてみれば、「そら見ろ、スコットランドが英国じゃないように、クリミアだって、ウクライナの一部じゃないんだ」 と言うだろう。しかしそれを言い過ぎると、今度はロシア内部の民族主義が台頭するだろうから、諸刃の剣である。なかなか大変な事情を抱えているものである。

つくづく、日本はシンプルで平和だなあと思ってしまうのであるよ。

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2014/09/06

今年は秋が早く来ているが

先月末は 「もう、夏は終わったね」 と言いたくなるほど秋の気配が漂っていたが、月が変わってからは急に暑さがぶり返している。急に夏が戻ってきたような蒸し暑さだ。とはいえ、日が暮れてしまえば涼しい風が吹き始め、寝苦しい熱帯夜を過ごすなんてことはない。

去年と一昨年は、9月の声を聞いても猛烈な暑さが続いた。昨年の気象データをみると、9月の東京の平均気温が 25.2度となっている。念のために断っておくが、これは最高気温の平均ではなく、一日を通じた平均気温である。ちなみに 9月の最高気温は 35.7度という、思い出したくもない数字が残っている。

とにかく、去年は (一昨年も) 「いつになったら安眠できるんだ?」 と言いたくなるほど、9月になっても 10月になっても暑さが続いた。それを思えば、今年は確かに秋の訪れが早い。

ここで思い出してもらいたいのが、今年 8月 18日付の 「エルニーニョと季節感」 という記事だ。この記事の中で、私は次のように書いている。

今年は旧暦では 「閏 9月 (長月)」 があって、つまり 9月が 2度あることになる。新暦でいえば、今年は 9月 24日の秋分から、11月 21日まで、延々と 2ヶ月近くも旧暦の 9月が続く。

旧暦の 9月といえば、季節感としては 「晩秋」 にあたる。旧暦というのはなぜか日本の季節感に沿うようにできていて、どういう理屈かはよくわからないが、閏月があると、その季節感が長く続く傾向がある。

そういえば、2009年のエルニーニョで冷夏になった時は、閏 5月があって、五月雨の季節、つまり梅雨がなかなか明けなかったのだった。今年、旧暦 9月が長く続くということは、晩秋を思わせる季節感が長く続くということになるのかもしれない。趣きのある秋になれば幸いである。

これを書いた時点では、単なる 「希望的観測」 で、「当たるも八卦当たらぬも八卦」 みたいなつもりだったのだが、本日現在、既にずいぶん秋らしくなっている。

去年の 9月 6日は、旧暦ではまだ 8月 2日だった。ところが今日は旧暦では既に 8月 13日になっている。ということは、我々は知らないうちに、昨年対比で半月近く先の季節感の中にいるのだ。新暦で暮らしているから、それにピンと来ないだけのことである。

日本の季節感をよく表すといわれる旧暦の進行が早いのだから、季節の進行が早くても不思議はない。いや実際は、旧暦の進行の方が、季節に引きずられているという方がいいのかもしれない。

これだけ秋が早く来ているのだから、晩秋だって長引いてもおかしくないという気がする。おもしろいことに、閏月はどこにはさんでも帳尻は合うはずなのだが、9月と 10月の間にはさむというのは、それ相応の必然性があるのである。梅雨が長引いた 2009年は、閏 5月があったように。

さて秋分以後の天候がどんな推移となるか、楽しみである。本当に今年の晩秋が長ければ、私の旧暦重視主義にはますます筋金が入るだろう。

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2014/09/05

従軍慰安婦問題で朝日が謝罪しないのは

朝日新聞が掲載を見送っていた、「池上彰の新聞ななめ読み 慰安婦報道検証」 というコラムを、改めて掲載したという。私は朝日は読んでいないので、HUFF POST でその全文を読んだ (参照)。

池上さん、ずっと前からのことだが、かなり客観的な解説の衣の下から自らの考えをやんわりと出すという匙加減が、本当に上手だ。これなら、「間違いを認めるけど謝罪はしない」 という朝日の態度が 「決して良心的じゃない」 とアピールするには十分だ。

思えば朝日は、「従軍慰安婦の強制連行に関して、日本は謝罪すべし」 という主張をずっと継続してきた。しかし、そんな事実があったというのは間違いだったと自ら認めた今、フツーに考えれば 「ありもしなかったことで謝罪する必要はない」 という理屈になる。

一方で、32年間ずっと報道してきたことが間違いだったと認めながら、それについて謝罪しないというのは、「ちょっと勝手すぎるよね」 と言われてもしかたのないところだろう。相応の誤報をしてしまったら 「お詫びして訂正いたします」 というのが、報道の常識だからだ。

ましてや、本当にあったのかどうか議論の分かれていた (そして、結局はなかったと自ら認めた) 「従軍慰安婦の強制連行」 という問題で、あれだけ 「謝罪すべし」 と主張してきた新聞社なのだから、なおさらである。

議論の分かれる曖昧なことで、国に対しては 「とにかく謝れ」 と主張しておきながら、自ら 「誤報」 と決着を付けたことで、自分はなお謝らないというのだから、批判されてもそれは仕方のないことだろう。

まあ、私としては、朝日に謝ってもらったところで別に得になんかならないから、個人的にはどうでもいい。しかし朝日の報道をすっかり信用して、これまでいろいろなところでいろいろなことを言い過ぎてきた人たちにとっては、いきなり降って湧いたような災難だろう、

「朝日の報道を鵜呑みにしちゃったからとはいえ、従軍慰安婦問題で私はこれまでいろいろ言ってきましたが、それらはほとんど見当外れですから、きれいさっぱり忘れちゃってください」 と言わなければならない進歩的文化人が、ゴマンといるではないか。まあ、彼らのほとんどは今、沈黙しているが。

そんな人たちにしてみれば、これはもう信用失墜につながる大損害であり、朝日には謝ってもらいたいどころか、「謝って済むなら、警察は要らないわい!」 と言いたくなるぐらいのことのはずだ。ところがどういうわけか、彼らはあんまりそんな風にも思っていないようなのが不思議である。

朝日としては、「強制連行はなかったと認めるが、従軍慰安婦そのものが人間の尊厳を踏みにじる大問題であり、謝罪は必要」 ということに論点を移行させたいというのが見て取られる。しかしそれだったら、当の韓国を含む世界中の多くの国々が、こぞって謝りまくらなければならない。

「一億総懺悔」 ならぬ 「世界総懺悔」 につながるのなら、確かに話は別だが、そうなる可能性は極めて低い。

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2014/09/04

デング熱を巡る冒険

例のデング熱の件で、代々木公園が閉鎖になったんだそうだ。デング熱が急に大きな話題となったせいで、調べてみるといるわいるわ、今日現在で 59人の感染者が確認されたのだという。

確認されただけでこれだけいるのだから、「夏風邪だと思ってた」 とか 「何だかわからないうちに治っちゃった」 とかいうのを合わせれば、この 10倍以上はいるだろうという気がする。ゴキブリに例えたら申し訳ないが、「1匹見つけたら 100匹いると思え」 みたいなもので、今や日本でもデング熱はそれほど稀な病気じゃなくなったんだろう。

温暖化と国際化が進展しているせいで、熱帯や亜熱帯特有の病気が、日本でも流行するリスクが高まっている。デング熱の予防に関しては、「蚊に刺されないように注意する」 なんてことが言われているが、私のように田園地帯の一角に居を構えていると、蚊に刺されないなんていうのは、ほぼ不可能だ。

今の季節、ちょっと庭仕事をするだけで 2〜3カ所は蚊に刺される。長袖長ズボンという姿でも、首の周囲を刺される。虫除けスプレーなんかしても、すぐに汗で流れてしまう。

こんな環境で 「蚊に注意」 なんていっても、あまり意味がない。田舎の山道で 「落石注意」 という標識があっても、「どうやって注意するんだよ」 と言いたくなるようなものだ。下手に注意しすぎたら、よそ見運転になってしまうしね。

まあ、我が家の半径 100メートル (蚊の行動範囲といわれる) 以内にデング熱の感染者がいる可能性は低いので、感染の心配はそれほどしていない。蚊の多い田舎で感染リスクがそれほど高くなく、蚊の少ない都会で、公園などでの感染リスクが高まるというパラドックスが生じているわけだ。

ただ、正しい知識を得れば、デング熱はそれほど恐ろしい病気じゃないとわかる。ほとんどは知らないうちに治ってしまい、重症化する例もあるにはあるが、稀だと報告されている。無闇に恐れて騒ぎ立てる方が、ストレスになって健康に悪いだろう。

今後は都会の公園の立ち入り禁止措置や広範囲にわたる蚊の駆除作業が進むんだろうが、個人的にはちょっと過剰反応じゃないかという気もする。都会ならそこら中が蚊だらけというわけじゃないから、公園でも藪に近付かなければ、刺されることはあまりないだろう。

それに放っておいても、蚊は冬になれば死に絶える。そして来年の夏になれば、新たに発生した蚊の一部が、デング熱感染者の血を吸ってウィルスをもつことになるに決まっている。これって、近年は毎年繰り返されながら、今年になってようやく気付いたことなんだろう。それが嫌なら、夏になる前から蚊の駆除作業をすることだ。

ただ、大規模に蚊の駆除作業をすれば、生態系への影響は嫌でも高まる。殺虫剤は蚊だけに作用するわけじゃないから、蝉や蝶など、虫全体が減る。今問題になっているミツバチの減少にはますます拍車がかかるだろう。虫にとって住みにくければ、実は人間にとっても住みにくかろう。

都会はますます人の暮らす場所じゃなくなっていく。

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2014/09/03

納豆ラーメンに再チャレンジ

8月 30日に "「納豆ラーメン」 というものを創作してみた" という記事を書いたら、ルイ・フェルデイナン・下衆兵衛さん、tokiko6565さん、ほそぷさんからコメントが付いた。下衆兵衛さんとほそぶさんのお二人は、ずっと前から 「納豆ラーメン」 を食しておられるらしい。

というわけで、「創作してみた」 というタイトルは完全に私の思い上がりとわかった。上には上があるものである。街のラーメン屋で見たことがないといっても、消費者が専門業者の先を行くという事例があるのだ。

そして、人の声には耳を傾けるものである。tokiko さんからはネギを入れた方がいいと助言され、ほそぶさんからは味噌味が一番合うという情報をいただいた。確かに、30日はネギを入れるのを完全に忘れていた。そして庄内地方の 「納豆汁」 が、味噌汁に納豆を入れるのだから、味噌味が美味しくないわけがない。

というわけで、今日の昼食に再チャレンジしてみた。今度は満を持して、味噌味、ネギ入りの納豆ラーメンである。

麺は中野食品 (本社・埼玉県八潮市) の 「時計台生ラーメン」。これ、なかなか美味しいが、フツーのスーパーではなかなか見かけなくなったのが残念だ。スープが付いていないので、自分で好きなように作れるのがいい。化学調味料や合成着色料たっぷりのスープを避けたいむきには、最適だ。

スープは、鰹と昆布の和風出汁をベースに味噌を適量加えて作る。そして麺をゆでるのだが、私は袋に印刷されているゆで時間より 30秒ぐらい短時間にする固ゆでが好みだ。

ゆで上がった麺を、前もって作っておいた味噌スープに入れ、おもむろに納豆をトッピングして、ネギを加える。こんな感じである。うむ、前のより数段美味しそうに仕上がった。

Img_9881

食べてみると、実際に前のよりずっと美味しく進化している。やはり味噌味の方が合うし、薬味のネギもしっかり利いている。何よりも、納豆のとろみが絶妙に麺に馴染み、それでいてしつこくないのがいい。時計台生ラーメンの適度の縮れとコシが功を奏していると思う。

妻も試食してみて、「あら、美味しいじゃない。我が家の定番になりそうね」 と、お墨付きをくれた。

ほうれん草やゆで卵をトッピングするのも一案だが、私としては敢えて、納豆とネギだけでシンプルに味わう方を選択する。それから、チャーシューは要らないと思う。きっと風味が喧嘩してしまう。

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2014/09/02

飛行機内での電子機器使用制限緩和

9月になってから、国内でも飛行機内での電子機器の使用制限が大幅に緩和された。8月までは、飛行機のドアが閉まってから水平飛行に移るまで、すべての電波を発する電子機器の使用が禁止されていたが、今月からは 「機内モード」 に設定されていれば電源を切る必要がなくなった。

告白するが、私はケータイのスイッチを切り忘れたままで飛行機に乗ったことが何度かある。もっと言えば、飛行機を降りたあとで、「あ、しまった、ケータイの電源入れっぱなしだった」 と言っている人がいるのを何度も目撃している。それでも何の支障もなかった。

特段の根拠はないが、私は飛行機に 100人の乗客がいれば、そのうちの 5〜6人以上はケータイの電源を入れっぱなしだったと思っている。というのは、着陸して飛行機のドアが開くと、すぐにメールのチェックを始める人がいるが、スイッチを入れてあんなに早く起動するわけがないじゃないか。

今年に入って、いつ頃だったか、9月 1日以後は、機内での電子機器使用制限が緩和されるというニュースが流れて以来、正直に言うが、私は飛行機に乗る時、自分の iPhone を機内モードに切り替えて、スイッチは敢えて切らないことにしていた。9月 1日からは安全になるが、それ以前は危険なんていうわけがないからね。

今月からは、堂々とこのやり方で飛行機に乗ることができる。離陸の時にも窓から下界の景色を写真に撮ることができるし、iTunes で音楽を聴きっぱなしでいることもできるし、ゲーム好きは乗ってから降りるまでゲームに熱中することもできる。

これと連動した動きなのかもしれないが、電車内の優先席付近では電源を切るようにというアナウンスについても、見直しを求める声が出始めている (参照)。「電源オフをうたうことが 『携帯電話の電波は危ない』 というメッセージとなり、携帯電話の電波や医療機器への正しい理解の妨げになっている」 との指摘があるのだ。

これについて、私は 昨年 9月30日の記事で次のように書いている。

現実に、「そばでケータイを使われると、心臓にドッキン!と大きな衝撃を受けて、命の危険を感じる」 と主張するペースメーカー装着者もいる。テレビやエアコンのリモコンには無頓着で、ケータイの時だけ 「心臓に大きな衝撃」 なんていうのは、「気のせい」 と思うほかない。

「気のせい」 で、「どっきん! と大きな衝撃」 なんてことになったら、その方が危ないではないかと思うのである。

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2014/09/01

がんの告知について

ちょっと前までは、がんの患者に病名を告げることは滅多になかった。私の妻の母は、23年前に肺がんで亡くなったが、当時は本人への告知はほとんどタブー扱いだった。告知したとたんに患者は絶望し、自暴自棄になってしまうと信じられていた。

しかし当時、妻の家族は自分の病名も知らずに死んでいくことがとても理不尽なことに感じられ、本人に告知したいと病院に申し入れた。病院側は当初、かなり驚いたようだったが、家族のたっての望みと知り、「それでは極めて稀なケースですが、患者の精神的状態がいい時を見計らって告知しましょう」 ということになった。

で、告知してみると、義母は少しも取り乱すことなく 「まあ、やっぱりそうだったのね」 と受け入れ、絶望することなどなかったという。病院側の心配は、とても大げさすぎることのように思われたのだった。

そして今は、ほとんどのがん患者に、病名を告知するようになっているらしい。私の父が 3年前に肺がんで亡くなった時も、当然のように告知した。変われば変わるものである。

この変化の要因は、医学の進歩によってがんが決して 「不治の病」 ではなくなってきたことが大きいと言われている。5年後の生存率がかなり高まったので、告知しても患者を絶望の淵に突き落とすことがなくなったというわけだ。

しかし、決してそればかりではないのではないかと思う。というのは、治癒の可能性が極めて低い末期がんの患者にも、平気で告知するようになったからだ。私の父も既に末期だったのだが、当然のように告知された。

父は何が何でも生きていたいという妄執には無縁の人で、かなり前から 「自分の人生には満足していて、思い残すことは何もない。いつ死んでもいい」 と言っていたぐらいなので、心静かに告知を受け入れた。絶望なんてことは少しもなかった。

まあ、父は少し変わっていたのかもしれないが、それほど特殊なケースでもないと思う。治癒の可能性が低くても、がんと告げられてどうしようもないほど取り乱す人は少ないのではなかろうか。

それは、がんという病気が全然珍しくないものになって、日本人の 2人か 3人に 1人はがんで死ぬようになったということが大きいのではないかと思う。「自分だけじゃない」 ということが、「皆さん、そうなさってますから」 と言われれば素直に従う日本人の特質にマッチしているのだろう。

昔の日本人は今ほど平均寿命が長くなかったから、大抵はがんで死ぬ前にほかの病気で死んでいた。しかし今は、多くの病気が治せるようになり、半数以上の人はがんになるまで死ななくなったのである。言い換えれば、人はがんで死ぬまで待たなければならなくなったのだ。

こうなると、ある程度の年になってしまえば、がんを告知されても別に身の不運を嘆くようなことでもない。「ついに自分の順番が回ってきたか」 ぐらいの感慨で済んでしまう。つまり、がんを告知するようになったのは、それが 「とてもありふれた死因」 になったからだと思うのである。

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