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2014年10月に作成された投稿

2014/10/31

ハロウィーンが、どうやら日本に定着してしまったらしい

今日はハロウィーンの日である。私は 7年前の 10月 29日に 「ハロウィーンの換骨奪胎」 という記事を書いて、それまで日本では根付かなかったハロウィーンが、ようやく商業主義的なこなしかたが見えてきて、少し盛んになりつつあるようだというようなことを書いた。

それが 7年後の今日、私が思っていたよりさらにずっと盛んになってしまって、今や、東京のハロウィーンは世界でも注目されるほどのものになってしまったらしい。なるほどね。日本人は元々コスプレの素養があったし。

昔は、「そもそも、ハロウィーンって何なの? キリスト教圏のお祭りを日本でやって、何の意味があるの?」 なんて固いことを言う人もいたが、実際はキリスト教とは関係のないケルトのフォークロアリスティックな行事が起源だから、欧米でも宗教色の強いものとはほとんど考えられていない。

まあ、さしもの一神教のキリスト教も、ヨーロッパ全域に布教するプロセスで、すべての土着的、アニミズム的な要素を駆逐するわけにはいかなかったようなのだ。そもそもクリスマスにしても、冬至からの復活を祝う土着行事とコラボして定着しちゃったという経緯らしいし、フォークロア的コンセプトは、地下水脈的な根強さを保っている。

ということは、日本で単なる仮装のお祭りという認識で盛り上がっても、別に違和感はないわけだ。日本の盆踊りなどの行事は、そもそも共通の土壌があるのだしね。キリスト教の宗教行事的色彩が非常に濃いクリスマスがこんなにまで定着してしまったのだから、ハロウィーンがそれ以上に盛り上がったとしても、理屈をこねて否定する根拠は薄い。

ただ、ハロウィーンは盛んになって間もない行事だけに、日本語での呼び方がまだ明確に確立していない。Halloween の本来の発音は 「ハロウィーン」 (第三音節の 「ウィ」 にアクセントがある) に近いが、日本では頭の 「ハ」 にアクセントを置く 「ハロウィン」 の方がやや優勢のようだ。

まあ、どうせ換骨奪胎してしまったんだから、ローカルな呼び方として 「ハロウィン」 でも、私としてはギリギリ許してもいいと思う。Wikipedia も 「ハロウィン」 になってしまってるしね (参照)。ただ、第二音節の 「ロ」 にアクセントを置いて 「ハローウィン」 という人がいるが、私としては、これはちょっと違和感ありすぎるなあ。

さて、クリスマス、バレンタイン・デー、ハロウィーンを次々に取り込んでしまった今、残る大物は、「イースター」 である。これは 3月末から 4月初め頃の行事で、その詳細は、私の今年のエイプリルフール・ネタに詳しく書いてある (参照)。

ただこればかりは、「復活祭」 というぐらいのもので、イエス・キリストが 3日目に復活したことを記念する行事である。それをキリスト教の土壌がないところでやっても、あまり意味はない。ゆで卵 (イースター・エッグ) を食ったり、イースター・バニーのコスプレをするだけでは、ちょっと弱いだろう。

イースターまで換骨奪胎して馬鹿騒ぎするようだと、日本の商業主義恐るべしということになるだろうが、そうなってほしくはないなあ。

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2014/10/30

よほどの物好きでないと、政治家になんかなりたくはないよね

今日は昨日の 「政治家の金銭スキャンダルについて」 という記事の、政治家という商売は、金がかかるものであるということについての、いわば続編である。この 「金がかかる」 というのは、次の選挙でも落っこちないための、いわば先行投資みたいなもので、選挙が繰り返し行われる以上、引退するまでストップできない投資なわけだ。

しかも政治家の先行投資は、生産設備みたいな明確な形としては残らない。フツーのビジネスだったら、ちょっと調子が悪くなったら無駄な宣伝費と交際費と福利厚生費を真っ先に削減するが、政治家という商売はこの 「無駄遣い」 に相当する出費こそが欠かせないという、ずいぶん特殊な商売みたいなのである。

この無駄遣いに充てる金を得るために、政治家はいろいろな算段をし、おべっかも使わなければならないし、便宜も図ってやらなければならない。ずいぶんストレスの多いサービス業である。私なんか、議場の狭い席にずっと座りっぱなしでいなければいけないと思うだけで、政治家なんてしたくない。

政治家もエラくなると、裏方のストレスまみれの部分は秘書がかなり代行してくれるようだが、最近は秘書の質も落ちて、上手にごまかすという芸当ができなくなっているみたいなのである。こうしてストレスのバッファリング機能が低下し、「秘書が、秘書が……」 と言えば、それでまた責められる。

こんなにまでストレスまみれの仕事でありながら、選挙で落選すれば 「ただの人」 になり、その途端に、周りの連中は手の平を返したように離れていく。こんな馬鹿馬鹿しい商売を創業するなんて、正気の沙汰ではない。親が政治家で、それを継げばいいのでない限り、よほどの物好きでないと、政治家になんかなりたがらない。

ちょっと古い話で恐縮だが、昨年、東国原議員が国会で、「子供のあこがれの職業アンケートで、政治家は 141位でしかなかった」 ことについてどう思うかと安倍総理に質問すると、総理は 「政治家の 1つ上の 140位は刺青師だった」 ともらす一幕があった。これには笑ってしまったね。

まあ、子供に 「大きくなったら何になりたい?」 と聞いて、ケーキ屋さんとかお花屋さんとか、サッカー選手とかいう可愛らしいのと同じレベルで 「政治家になりたい」 なんていう返事が増えたら、それはそれでかなり気持ちが悪いが、それにしても、刺青師に次いで 141位というのは、確かに不人気すぎる。

政治家の人材が不足するわけである。政治家が人材不足なのだから、その秘書だって人材難になる。たまに優秀な秘書がいたとしても、そいつはそのうち自分も政界に打って出ようという物好きだから、いつまでも忠実な番頭さんでいてくれるわけじゃない。

政治家という職業を、馬鹿馬鹿しいものでなくするためには、昨日の記事でも述べたことだが、有権者が他人の金で明治座の芝居を見たり、温泉旅行をしたり、豪華な宴会で飲み食いしたりするのが嫌いにならなければならない。

ところが、フツーの人って、他人の金でいい目を見るのが大好きなのである。「いや、全ての人がそういうわけじゃない」 と言うかもしれないが、選挙が大好きな人ほど、そういうのが大好きなのである。そういうのが嫌いな人が選挙に行かないのが、もう一つの問題なのだ。

それにしても、芝居や温泉や宴会に興味のないオタクは、選挙で投票することにも興味がないからなあ。悪趣味な人に合わせて選挙運動するから、政治も悪趣味になる。そして、どこまでいっても政治には金がかかり、政治家は本来の仕事以外のことでストレスまみれになり、国の政治は停滞する。

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2014/10/29

政治家の金銭スキャンダルについて

「政治と金」 という昔から尽きることのないスキャンダルが、ついに民主党の枝野幹事長にまで飛び火して、安倍首相が 「これで撃ち方やめになれば」 と言ったとか。朝日新聞は例によって 「野党の追及が弱まることを期待した発言だが、かえって反発を買う可能性もある」 と書いているが、今回ばかりはちょっとうんざりだ。

小渕さんのケースはちょっと金額が大きいが、他はうちわを配ったとか、260万円の記載漏れとか、昔と比べるとなんとなく 「可愛いものよ」 というぐらいのスケールである。決していいことではないが、この程度のことで妙に騒ぎすぎるのも考え物という気がする。

それにしても、「内閣改造前はスキャンダルが出なかったのに、『女性登用』 を謳って女性閣僚を増やした途端に狙い撃ち的に金銭スキャンダルが出たのは、反フェミニズムによる陰謀」 なんていう人までいて、ちょっと驚いた。何でもかんでもそっち方面の話にしたがる陰謀論好きは、後を絶たない。

そこまでありがちな陰謀論ではないが、こうまで連続して金銭スキャンダルが明るみに出ると、私なんか 「政治家スキャンダル情報屋」 みたいな裏街道ビジネスがあって、そこで密かにため込まれた情報が、ここぞと言う時にどっと供出されるんじゃないかと、妙な想像をしてしまった。

スキャンダル専門の芸能ジャーナリストの、政界バージョンみたいなもので、常に政治家の裏情報にアンテナを張りめぐらしておいて、「ここぞという時には、その種の情報はいくらでも提供できますよ」 ってな人がいても、決しておかしくはない。ただ、うまくいくとずいぶんな金になるだろうが、下手すると命が危ない。

それにしても、政治と金とは切っても切れない関係にあるようで、いくら浄化を叫んでも絶対になくならない。政治家の後援会に入って明治座で芝居を見たり、冠婚葬祭の度に付け届けや祝電、弔電をもらったりするのを無上の楽しみにする人がいるんだから、しょうがない。ご祝儀や香典は秘書からもらうことになってるんだろうけどね。

ところで、私が今住んでいる家を建てて売ってくれたのは、この土地出身の社長が一代で築き上げた建設・不動産会社だった。この会社から家を買うと、自動的に 「友の会」 というのに会費無料で入ることになり、毎年秋になると、たった 5000円出すと一泊の宴会付き温泉旅行に大型バスで連れて行ってくれるのだった。

私はそんなものに参加したことは一度もないが、それを毎年楽しみにしている人もかなりいた。噂に寄れば、この会社の社長は地方政界進出の野心をもっており、地盤・看板作りのために、この 「友の会」 を最大限に利用しているという話だった。

ただ、私としては 「せっかく儲けた金をこんなところで湯水の如く使われては、従業員たちはたまらないだろうなあ」 と思っていた。友の会の温泉旅行なんかに使うより、従業員のボーナスにしてあげればいいのに。

そんなことを思っているうちに、前世紀末の不況の煽りで、この会社はあっさりと倒産してしまった。「ほうら、言わないこっちゃない」 と、私はため息をついたのである。決定的に危なくなる前から、有能な社員がどんどん他社に転職してしまい。最後まで残ったのは、腰巾着みたいな身内社員ばかりだった。

政治家とか地方の有力企業とかにコバンザメみたいにひっついて、ちょっとした金で、あるいはタダで、温泉や観劇や宴会を楽しんだり、妙なところで口を利いてもらったりするのが好きな人間が多いのだから、こればかりは、100年経っても改まらないのである。

改めるためには、他人の金で温泉に入ったり芝居を見たり、飲み食いしたりするのが嫌いな人間が増えなければならない。その意味で、人間は多少オタクっぽくなる方が、世の中が清潔になる。

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2014/10/28

7GB は、データ通信量として十分におつりがくる

昨年の春に、光回線を NTT の 「フレッツひかり」 から KDDI の 「au ひかり」 に乗り換えたところ、au 版の iPad Retina ディスプレイモデル (64GB) を 10,800円という優待価格で売ってくれるというので、7月に購入した。その間の詳細は、昨年 7月 25日付の記事で書いた通りである。

私の iPhone はソフトバンク回線で、できれば同じキャリアで揃えればいいところなのだろうが、au は iPad のデータ通信料を 1年間に限り、月額 2000円割引してくれるという。「それなら」 とばかりに衝動買いしたのである。しかもパケット定額ではなく、従量制で。

iPadは普段 Wifi 接続だし、外出時は iPhone を使うことの方がずっと多いから、よほど野放図に使いまくらなければ、au のデータ通信料が 2000円を超えることはない。つまり、1年間は実質無料でデータ通信させてもらったのである。au にしてみれば、まったく意味のない数字が、売り上げ台数として 1つ加わったというだけだ。

ところがこの夏、2000円割引期間が過ぎて、iPad で au 回線を利用すると、通信料が発生することになった。言うまでもなく、パケット定額以外の設定でデータ通信すると、結構な金額になる 。それで、夏以後は iPad の設定で 「モバイルデータ通信」 をオフにした。

au 回線専用の iPad で、その au につながらないようにしたので、SIM を抜いてしまったのと変わりないこととなり、実質 Wifi 版 iPad になったのである。インターネット接続は、Wifi 接続可能な場所以外では、iPhone でテザリングすることになる。

で、問題は iPhone 側のデータ通信量である。どのキャリアでも大体同じようだが、スマホのデータ通信量が 1ヶ月で 7GB を越えると、通信速度が 128bps に落とされる設定になっている。スマホのテザリングをメインのインターネット接続手段にされてしまったら、キャリアの回線が常時一杯になってしまうだろうから、理解できる話だ。

そのため、iPhone のデータ通信量が、7GB/月 を超えないように注意して使わなければならない。ただ、7GB といっても一体どのくらい使えば 7GB に達するのか、実感としてつかみにくい。ある日突然 iPhone の通信速度が 128kbps に落ちてしまってはたまらないから、初めはちょっとビクビクものだった。

しかし結論を言えば、7GB というのは、めちゃくちゃ使いでがある。私のように、自宅とよく訪問する先では大抵 Wifi 接続できるという条件で使えば、7GB は使い切れるものではない。私の場合は、iPad 向けにテザリングをするようになった夏以降でも、月平均で 2GB をちょっと超えるぐらいしか使っていない。

データ通信を最も頻繁に使うのは、出張時である。ビジネスホテルでは無料の LAN サービスを使い、有線 LAN でも手持ちの小型無線ルータで Wifi 化できるから問題ない。しかしホテル以外では、往復の鉄道でメールや SNS をみっちりとチェックするし、クラウドに置いてあるデータをダウンロードして編集、確認することも度々だ。

さらに初めての訪問先に行くのにマップ機能を使いまくる。タクシーに乗っても、運転手さんがすべての道を熟知しているわけじゃないから、こっちがマップを使ってナビしてあげる。さらに、Radiko もかなり使う。最近はプレミアム会員になってしまったから、日本中どこに行っても、いつもの番組が聴ける。

そんな状態で月に 2〜3度出張しても、せいぜい 2GB ちょっとしか使わないのである。単純計算で、今の 3倍使っても大丈夫なのだ。Wifi の使えない実家や温泉宿なんかに 2〜3泊するなんてことになっても、安心してテザリングしまくれる。

これは逆に言えば、一つのキャリアで iPhone と iPad を購入して、接続料金をセットで割引してもらうサービス (いわゆる 「セット割」 など) なんていらないということだ。セット割のためには、7GB 制限を 10GB に増量しなければならないなど、余計な費用がかかるようだが、大抵はフツーのテザリングで足りるのである。

最終結論。自宅では Wifi 接続しているというなら、iPhone と iPad をセットで使いこなすにしても、iPad まで独自に回線接続できなくても全然 OK である。外出時のインターネット接続は、フツーに iPhone でテザリングすれば大丈夫。iPad を使うのに、キャリアに余計な通信量を払う必要はない。

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2014/10/27

父の物欲

死んだ父は本当に物欲のない人で、買い物ということを滅多にしなかった。母が寝たきりになってからは、必要に迫られてスーパーで食料品や日用品の買い物はしていたが、それ以外の買い物をするのを見たことがない。

だから、実家にあるものは、家具から食器、寝具、タオル、座布団などに至るまで、すべて母が元気なうちに買ったか、子からプレゼントされたかのどちらかである。もっともプレゼントにしても、あまり余計な物をもらうと、決して口には出さないが、ありがた迷惑に感じていた節がある。

私の妻は割と着る物が好きだから、父の誕生日や父の日が来る度に、ちょっとお洒落なシャツなどを送っていた。きっと喜んでもらえると思っていたのである。ところがある時、父が 「着る物をこれ以上もらっても、死ぬまで一度も袖を通さないでしまっておくことになるから、もういらないよ」 と言い出した。

それ以後は、本を送ることにした。父の好きなフォークロアや魚釣りなどの本である。ところが、父も年を取ってくると目が弱って、活字を読むのも辛くなる。それでまたある時、「くれるなら、食べ物にしてくれないか。食べ物なら、口に入ったら消えてなくなる」 と言い出した。

身の回りに余計なものがあるのが、よほどストレスになるようなのである。というわけで、それ以後は、何かの時のプレゼントは食べ物ということになった。酒が好きならワインなんかを送るのが手っ取り早いのだが、父は酒を飲めないので、ちょっとした和菓子、洋菓子、珍味の類いを送ることになる。

しかし今から考えると、父へのプレゼントはそんなものより、ごく日常の食べ物にする方がよかったかもしれない。父は食い道楽という趣味はなく、食事は命をつなげるために、しかたなく食うものと思っていた節がある。だから、日常の食事以外のものをもらっても、食うのがおっくうだったかもしれない。

こんなことをいうと、「なんて味気ない人生を送った人だ」 と思われるかもしれないが、そんなことはない。父は 「モノ」 で満足するよりも、内面を深めることで満足するタイプだった。死ぬ時は、「満足した一生で、思い残すことは何もない」 と言っていた。それは私も父の子で、そんなところを受け継いでいるからよくわかる。

というわけで息子としては、父へのプレゼントは、「モノ」 じゃなくて 「コト」 にするのが一番良かったかもしれないと、今となっては遅いが、思い始めている。一番喜んでくれる 「コト」 というのは、子供や孫との触れ合いだったかもしれない。

ちなみに私も、「モノ」 がありすぎると負担にしか感じられない。しかもいかにも高級そうなブランドが付いていればいるほど負担だ。例えば、アルマーニのスーツやロレックスの腕時計やグッチのバッグなんかをもたされたら、居心地が悪くてたまらない。ただでもらえるとしても迷惑だから、要らない。

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2014/10/26

警察をおちょくったら、謝りにきてくれたというお話

「へえ、警察をおちょくると、怒られるどころか、わざわざ謝りに来てくれるんか!」 と、びっくりしてしまったニュースがある。"兵庫県警が誤認逮捕 片言で 「コンテナで韓国から来た」 逮捕後 「実は日本人です」" というものだ。

兵庫県警尼崎署の署員が今月 25日の夜中 2時 50分頃、市内のスナックからの 「無銭飲食の男性客がいる」 との 110番で駆けつけると、3人連れのうち 1人が身分証明を持っておらず、片言の日本語で 「韓国からフェリーのコンテナに入って来た」 と話したという。

というわけで、そんな夜中から夜が明けてしまうまで 5時間近くも、何があったんだかニュースでは全然触れられていないが、午前 7時半頃に任意同行を求めて事情聴取をし、身元がわからないまま、8時 20分に入管難民法違反 (旅券不携帯) 容疑で逮捕したというのである。

ところが逮捕直後にその男が、「実は日本人です。嘘をついてすみません」 と名前を告げ、母親に連絡したところ、日本人と確認されたので、即刻釈放した。そしてその日の昼前に、警察の幹部が市内の母親宅を訪れて謝罪したというのが、コトの顛末のようなのである。

想像するに、夜中から朝までは酒の勢いでテキトーなことを口走り、逮捕された頃にようやくしらふに戻って、「やば!」 と思ってしまったのだろう。そうだとすると、できの悪いコントみたいなゴチャゴチャの状況が、5時間以上も展開されていたに違いない。警察としても、さぞうっとうしかっただろうなあ。

ニュースによれば、尼崎署の副署長は、「今後、このような事案がないよう適正な手続きを徹底したい」 とコメントし、署の幹部は、「韓国人と判断できる直接証拠もなく、供述と片言の日本語という間接証拠だけで逮捕したことは甘かった」 と語った。いかにも優等生的コメントである。はい、ご苦労様。

まあ、確かに逮捕なんかしなくても、身柄拘束中にしらふに戻り、「実は日本人です」 と白状しただろうという可能性は高い。さらに、もし本当に不法入国の韓国人だったとしても、それが明確に判明してから正式に逮捕すればよかったかもしれない。

しかし無銭飲食の嫌疑で事情聴取中の日本人が、不法入国の韓国人を装うという何の得にもならないことをするなんて、そんなご丁寧な想定を警察がする方がおかしいだろう。しらふに戻るのを待って正式に逮捕しても遅くはなかっただろうが、5時間もグジャグジャしたんだから、警察としても相当イライラしてたんだろうね。

そして私が一番驚いたのは、警察が母親の家まで出向いて謝罪したということに対してである。「へえ! なんてご丁寧なこと!」 と思ってしまったのだよね。フツーは 「ウチの馬鹿息子がいけなかったんやから、来てもらうだけ恥ずかしい」 となるところだろうになあ。

まあ、そうならなかったところが、世の中、いろいろあるからおもしろいということなんだろうけどね。

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2014/10/25

日本人と砂糖

料理にこんなにも砂糖を使うのは、日本料理だけという話を聞いたことがある。西洋料理ではデザートにこってりと甘いケーキを食べるので、料理には砂糖をほとんど使わないという説もある。中華料理でも砂糖を使うが、日本料理ほどには使わないらしい。

確かに、日本語で書かれた料理のレシピ本や料理番組を見ると、多くの料理に砂糖を信じられないほどふんだんに注ぎ込む設定になっている。その通りのレシピで料理してしまうと、甘すぎて閉口してしまう。外食も多くの場合、私の口には甘すぎる。

外国のレストランで出される料理は口に合わないという日本人が案外多いが、私はどこに行っても、料理が口に合わないと思った経験がない。むしろ外国の方が 「甘くない料理」 が多いので、口に合ったりするほどだ。最後に出されるギトギトに甘ったるいデザートには閉口するが。

18歳で上京して自炊生活を始めた頃、一応砂糖というものも買い置きした。しかし料理本のレシピ通りに砂糖を使うと、かえってまずくなるし、コーヒーもブラックで飲むので、ほとんど減らない。最初に買った砂糖が、ほとんど手つかずに近い状態で戸棚の奥に 3年ぐらい残っていて、ついには捨ててしまったという記憶がある。

私の妻も、砂糖に関してはほとんど同じ考えをもっていて、現在、我が家にある砂糖といえば、来客用のコーヒーシュガーと、茶色っぽい粗糖である。粗糖はパン作りに使う天然酵母を育てるためと、たまに佃煮っぽい料理を作る時に使う。白砂糖よりも複雑な甘みがあっておいしいと思う。そばつゆにも、砂糖は使わない。

ところで、西洋料理では砂糖をまったく使わないのかといえば、決してそんなことはなく、フランス料理でも、ガストリック・ソースに砂糖を使うという。しかし、一般論としては料理にふんだんに砂糖を使うというのは、見たことも聞いたこともない。ましてや、肉料理に砂糖をぶち込んでまるで甘露煮みたいにするなんてことはない。

ただ日本にしても、砂糖がこんなにふんだんに庶民の手に入るようになったのは明治以後であり、江戸時代になるまでは貴重品扱いだった。だから、なんでもかんでも砂糖をどっさり入れるようになったのは、近代以後の話なのだと考えられる。

昔、業界新聞の記者をしていた頃、戦前生まれの編集長が、「小学校の頃、教師が 『君たち、この戦争に勝ったら、砂糖の土俵で相撲をとらしたる』 というのを聞いて、『こらぁ、頑張って是非とも戦争に勝たなあかん』 と思うたもんや」 というのを聞いた。私は思わず 「うわぁ、体べとべとになりますやん」 と反応してしまい、「そうか、君はそんな世代か」 と悲しませてしまったのを覚えている。

世代論的にいえば、日本人の砂糖消費は、1985年には 1人あたり年間 21.9kgだったものが、2010年には16.4kgにまで減ったとされている。なるほど、年配の人ほど甘い物好きで、コーヒーにも砂糖をどばどば入れたがるという印象がある。

ただ、日本人は料理には砂糖をたくさん入れたがるが、むちゃくちゃ甘いデザートをどっさり食べるという習慣はない。だから 1人あたりの砂糖消費量は、世界でも少ない方の部類に入るらしい。ブラジル人やオーストラリア人は、日本人の 3倍以上の砂糖を消費するという。

私は砂糖はあまり摂取したくないと思っているが、砂糖業界にいわせると、「砂糖が糖尿病の原因になるというのは誤りで、糖尿病は総体的なカロリーの摂りすぎによる。砂糖は即効的なエネルギーになるし、脳が活性化するので、積極的に摂るといい 」 ということらしい。

しかしそれは、「カロリーの摂りすぎはよくないが、砂糖で摂る分には、話が別」 という、ちょっと矛盾した言い方に聞こえるのだよね。この考えに沿って砂糖をどんどん摂ったら、実際にはその分だけ他の食べ物を制限しなければならない。砂糖以外においしいものがたくさんあるのだから、それはもったいないというのが私の考え方だ。

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2014/10/24

「グルジア」 を 「ジョージア」 ということについて

今日、カーラジオでニュースを聞いていると、やたらに 「グルジアがジョージアに国名変更」 とやっていた。それを聞いて私は、「グルジアって、別に国名変更なんかしなくても、元々ジョージアなのに、おかしなことを言うなあ」 と思っていた。

これに関しては、6年前に "「グルジア」 が 「ジョージア」 であること" という記事の中で論じている。つまり、「グルジア」 はロシア語の読み方であって、フツーの英語読みでは 「ジョージア」 なのである。日本はこれまで、「ジョージア」 なんて読んだら米国のジョージア州と区別が付かなくなると気を遣ったのか、ロシア語読みで言い習わしてきたのだ。

ところが当のグルジア、いや、もうジョージアと言ってしまおう、このジョージア国内では反ロシア意識の高まりによって、グルジアとロシア語読みされるのはたまらんということになっているようなのだ。そこで日本にも、「グルジアじゃなくて、ジョージアと呼んでね」 と言っているということのようなのである。

そして、今やこの国を 「グルジア」 と呼んでいるのは、ロシアと日本ぐらいしかないということになってしまっているらしい。つまり、決して 「国名変更」 なんかじゃなく、読み方の問題なのである。

ただ、日本ではアルファベットを使っていないので、「ごめん、今後は英語読みにするわ」 というほど簡単ではなく、カタカナ表記から改めるということになるわけだ。ああ、めんどうくさい。

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2014/10/23

町田市 I shall 坂上交差点?

今日は。よくもまあ、こんなにくだらない話をブログに書くものだと、呆れられてしまいそうな話である。私としてもあまりくだらなすぎて、今日まで書くのをためらっていたほどだから、本当に掛け値なしにくだらない話である。

何かというと、「町田市には、I shall 坂上交差点、I shall 坂下交差点」 という交差点があるのだと、私はずっと信じていたというお話だ。日本の交差点の名前としてはあまりにも不思議すぎる命名だが、カーラジオを聞いていると、時々交通情報で登場する交差点である。

で、「珍しい名前の交差点」 というタイトルで、ブログに書いてみようかなと、ずっと思っていたのだが、なんだかそれもはばかられたのである。「いくら何でも、何かの間違い、聞き違いに違いない」 という気がしていたのだ。

で、今日、このことをふと思い出してしまって、インターネットで 「町田市 I shall 坂上交差点」 というキーワードでググってみたのだが、「残念なことに」 というか、いや、「やっぱり」 というべきか、こういう名前の交差点は見当たらなかったのである。そりゃ、そうだよね。あまりにも突飛すぎる。

で、「ほぼ、この交差点を聞き違えていたに違いない」 というのが特定できた。それは、「町田市 相原坂上交差点、相原坂下交差点」 である。町田市相原町にある交差点で、付近には JR 東日本横浜線の相原駅という駅もある。これに違いない。

どちらも国道 16号線上にある交差点で、少し北に進むと八王子バイパスの橋本インターチェンジがあり、いかにもしょっちゅう渋滞しそうなところである。これなら、交通情報に頻繁に登場してもおかしくない。

それにしても、我ながらどうして 「相原」 を 「アイシャル」 などと聞き違えてしまったのだろう。おかげで、こんなにくだらない記事を書いてしまうことになってしまったではないか。

ただ、あまりにもくだらなすぎるので、付け足しだが、少しはまともなことを書いておこう。それは 「くだらない」 の語源である。「下る」 には 「通じる」 との意味があり、「下らない」 というと、「筋が通らない」 というようなニュアンスで、それが転じて 「取るに足りない」 という意味合いに変化したとされている。

ちなみに京都の朝廷から江戸の将軍家に下賜されるものを 「下り物」 と言ったが、価値のない物は下賜されないので、「下らない」 というようになったという説もある。しかし 「下らぬ」 という言葉は江戸時代より前から使われているので、これはどうやら俗説のようである。

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2014/10/22

iOS 8.1 へのアップデートは、さっさとした方がいい

iOS 8.1 がリリースされたので、さっそく昨日の夜、手持ちの iPhone と iPad をアップデートした。OS アップデートには慎重派の私としては、珍しい速攻である。一昨日の午後に、 iPhone 6 の不具合に気付き、「早くバグ・フィックスしてくれないかなあ」 と思った矢先に、タイミングよく新バージョンがリリースされたからだ。

不具合というのは、せっかく登録したユーザー辞書を、iPhone 6 が読み込んでくれなかったのである。前に使っていた iPhone 5 を iOS 8 にアップデートした時も、初めは読み込んでくれなかったが、再起動させたらあっさりと解決した (参照)。ところが、iPhone 6 ではどうしてもうまくいかなかったのである。

さらに、テザリングがどうしてもできない。私は出先で iPad をインターネット接続するときは、iPhone のテザリング機能を使っているので、これができないと本当に困るのである。そして、この 2つのバグに気付いた翌日に、修正版がリリースされたので、「多分、これで解決するだろう」 と、期待を込めてアップデートしたのだ。

さっさと結果を報告しよう。不具合はあっさり解決された。OS のアップデートが終わって、ユーザー辞書を表示させてみたら、300以上ある登録単語が見事に表示された。そして、手持ちの Mac と iPad でテザリングさせてみたら、なんのことなくつながったのである。当たり前のことだが、実現してみるとうれしい。

というわけで、iOS 8 の不具合に悩んでいる人がいたら、さっさと 8.1 にアップデートすることをお薦めする。私の場合は、これで問題がほとんど解決した。

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2014/10/21

夫の立ち会い出産で、出生率低下?

先週の土曜日、いつものように TBS ラジオで 『土曜ワイド』 を聞いていたら、出産に夫が立ち会うことが増えた傾向について、永六輔さんが 「僕は立ち会いたくない」 とおっしゃる。私は 「なんと意外な!」 と驚いてしまった。

まあ、実際には永さんが今後、自分の子供の出産に立ち会うことになる可能性はほとんど 0 パーセントだろうから、別に大した発言じゃないかもしれないが、おすぎとピーコに 「男のおばさん」 と言われたことのある永六輔さんとしては、まことに 「らしくない」 印象である。

「出産に立ち会うのは、男には刺激が強すぎる」 というのである。これはどうみても前世紀までの感覚としか思われない。あの永さんにしてからが、この感覚から逃れ得ていないのを知って、ちょっとショックだった。

私は 3人の娘のうち、下の 2人の出産時に立ち会っている。次女の出産に立ち会った時には、「ああ、こんなものなら、医者も産婆もいなくても、いざとなったら俺が取り上げられるな」 と思ったほどだ。まあ、ウチの妻が安産だったこともあるのだろうが。

ところが永さんは、「夫の出産への立ち会いが、出生率低下につながっている可能性もある」 とおっしゃる。知り合いの医師が、そんなことを言っていたのだそうだ。一度出産に立ち会った夫が、怖じ気づいて 「二度とごめん」 と思ってしまい、2人目の妊娠を望まなくなる傾向があるというのである。

しかし尊敬する永六輔さんには恐縮だが、こればかりは、眉唾の話だと思う。私は 2人目の出産に立ち会って、3人目にも当然の如く立ち会った。これは決して私に限った特殊な話じゃないと思う。

試しに、夫の立ち会い出産についてインターネット検索してみたが、少なくとも上位 30番めあたりまでは、出生率低下に結びつくと指摘する情報は見当たらなかった。それどころか夫の立場で 「出産に立ち会って感動した」 という肯定的な意見の方がずっと多い。

百歩譲って、「二度と立ち会いたくない」 と思った夫が多いとしても、それが出生率低下に直接結びつく要因とは思われない。出産には立ち会いたくないけれど、2人目以後の子供が欲しいというなら、立ち会わなければいいというだけの話だ。別に夫が立ち会わなければ出産が不可能というわけじゃないのだから。

「立ち会い出産で出生率低下」 というのは、「男は出産に立ち会うべきじゃない」 「出産は女の仕事」 という古い価値観から出てくる偏見なのではないかと、私は思ってしまったのである。それとも立ち会い出産で出生率低下ということを裏付けるデータが確かにあるなら、教えていただきたい。

念のため申し述べておくが、私は 「夫も是非出産に立ち会うべきだ」 と主張しているわけではない。立ち会いたければ立ち会えばいいし、嫌だったら立ち会わなければいいだけの話だ。ただ、私個人としては、立ち会ってよかったと思っている。貴重な経験だった。

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2014/10/20

Yosemite にアップグレードした

MacBook Pro の OS を Yosemite にアップグレードした。リリースされたのは米国時間の 10月 16日だったが、17日から出張を控えていたので、トラブルによる面倒を避けるために、満を持していたのである。今日おもむろにアップグレードしたところでは、トラブルは全然ないので、これだったら、さっさとやっとけばよかったという印象だ。

Marvericks から何が変わったかといって、印象としてはアイコンのデザインが例ののっぺりした 「フラットデザイン」 になっただけで、他の操作はほとんど変わらない。ただ、iCloud Drive が使えるようになったので、今後おいおい活用していこうと思っている。

とりあえず今のところ、不具合は発生していない。いつも使っているアプリケーションはさくさくと動くし、インターネットのつながり具合も問題ない。心なしかテキスト入力の反応がよくなっているような気もする。

Safari のタブをたくさん開いたとき、前のバージョンでは右端に近いタブが隠れてしまっていたのだが、新バージョンでは右から左に詰めて表示されるようになっていて、いちいち探さなくても済むようになっている。私のように一度にたくさんのタブを開くタイプにはありがたい。

それ以外では、特筆して報告するような違いは発見できていない。これはある意味、歓迎すべきことである。何が変わったんだかわからないが、そのうちじわじわと新機能が活用できるようになるというのが、一番いい。Windows 8 みたいにがらりと変わりすぎると、その後しばらく生産性が急激に下がる。

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2014/10/19

「点線国道」 って知ってる?

山梨県への出張を終えて、無事に帰り着いた。帰り道はとくに急ぐ必要もなかつたため、中央高速道を通らず、一般道を通つてきた。しかも、甲州街道 (国道 20号線) を辿ると途中で都内を経由してしまうので、えいやとばかり、国道 140号線で秩父に抜け、埼玉県の山奥から関東に降りてくるというコースを辿つてみた。

国道 140号線で、山梨と埼玉の県境を越えるのは、ちょっと前まではほとんど無理だつた。ところが、平成 10年に山腹を貫く 「雁坂トンネル」 というのができて、車で通り抜けられるようになった。

全長 6625メートルで、一般道としては日本最長のトンネルだそうだ。ただ、「一般道」 を名乗ってはいるが通行料が取られる有料道路で、私も 730円支払って通り抜けた。

このトンネルができるまでは、地図上ではもっともらしく 140号線が奥秩父連峰の途中にある 「雁坂峠」 を越えていることになっていたのだが、実際に行つてみると、車が通れるのは山の麓までで、そこから先は登山道以下の獣道のような状態だつた。噂では、便所を通り抜ける小径もあるということだった。

私は 35年ぐらい前に、奥秩父を東京都の西端、 雲取山から甲武信岳まで縦走したことがある。途中の尾根道に確かに 「雁坂峠」 という案内標識があるのだが、尾根道と峠道が交わっているという気はほとんどせず、縦走路を外れたところはほとんど草に埋もれてしまっていた。とんでもない国道である。

それがトンネルの開通によって車で通り抜けられるようになったのだから、今回はその恩恵に蒙ったわけである。天気も良く、なかなか快適なドライブ日和だったが、一方で 「俺も年を取るはずだよ」 と思ってしまったことである。

ところで、日本にはまだまだ車の通れない国道があるらしい。専門用語では 「自動車交通不能区間」 というが、地図上では点線で表示されることが多いため、俗に 「点線国道」 とも言われると、今日初めて知った。(参照

有名なところでは、青森県竜飛岬で階段になってしまう国道 339号線があるが、多いのはやはり峠道だ。車が通れないというほどではないが、対向車が絶対にすれ違いないような、とんでもない山道の国道もある。私はそんな道をあちこちで経験しているが、なかなかのスリルである。

【10月 20日 追記】

国道 140号線は便所の中を通つているという噂は、本当だつた。「国道を旅する」 というサイトに、その写真があるので、ご覧いただきたい (参照)。私が 35年前に辿つた尾根道からそう遠くないところにあるようなので、当時見逃したのが残念である。

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2014/10/18

山梨県でペンションに沈没

出張で山梨県の山の中に来ている。当初の思惑では、午後 3時半頃に仕事が終わるかと思っていたのだが、かなりずれ込んでしまい、今日中に帰るのがしんどい時間になってしまった。

急遽ネットで近くのホテルを探したが、行楽シーズンの、しかも週末台風が続いた後の久しぶりの上天気の週末とあって、どこも満室だ。周りは観光地ばかりだし、そりゃ、そうだよな。

なんとか清里の外れのペンションを探し出してしけこんだ。無線 LAN でインターネット接続可能という触れ込みだが、電波がものすごく弱くて、まともにつながらない。3G 回線も弱くて、スピードがものすごくトロい。

更新は後回しにして、宿の近くの日帰り温泉に行ったら、露天風呂が気持ちよすぎてウトウトしてしまい、のぼ上せる一歩手前まで浸かってしまった。あぁ、疲れだ。

というわけで、申し訳ないが、今夜はまともな更新をする気になれないのであるのよ。和歌ログでおわかりのように、途中の景色は最高で、十分にハッピーだったんだけどね。

たまにはこんなこともあるさと、お許しいただきたい。お休みなさい。

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2014/10/17

ロンドンの霧と、肩こりと、いじめと、セクハラ

産経新聞が 「小学校いじめ最多 暴力行為は1万件超す」 と伝えている。平成 25年度に全国の小・中・高校と特別支援学校で認知されたいじめの件数は前年度より 1万 2千件余り減少したが、小学校では約 1400件増加し過去最多を記録したというのである。

この記事では、テキストよりも添えられたグラフの画像が興味深い。こんな画像である。(産経新聞より転載)

Photo

昭和 60年度がやたら多い理由はよくわからないが、61年度以後、7年から 11年ぐらいの間隔をおいて一気に急増しては、しばらく減少し続けるという傾向を繰り返している。これは一見すると不思議な現象だ。

いじめがある年にどっと増えて、その後減少し続け、またしばらくすると急に増えるなんてことはありえない。このグラフは、「報告されたいじめ」 の背後に 「報告されないいじめ」 がかなりあるということを示しすものである。報告が時々急増するきっかけは、いじめを苦にしての自殺というニュースのようだ。

いじめによる自殺という事件があると、教育委員会や学校では本格的にいじめの調査に乗り出す。すると、それまで認知されていなかったいじめのケースが取り上げられて、どっと報告が増える。ところが翌年か翌々年になるとその熱が冷めて、また認知されなくなる。そして忘れた頃にまたいじめによる自殺のニュースが流れる。

いじめ対策が、いかに功を奏していないかを示すものといっていい。調べるだけ調べてみて、「これは大きな問題ですね!」 と警鐘を発し、その後しばらくは、その甲斐あっていじめは減っていたかのように見える。しかし何かのきっかけで、影に隠れていたいじめが再び暴き出される。

いじめを苦に自殺した子供は、自分の身を犠牲にしてでもいじめ対策を社会に呼びかけたという点で、尊い存在である。しかしこの尊い存在も、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」 式に、1〜2年経つと忘れ去られて元の木阿弥になってしまうのでは、申し訳がない。

どうも教育現場では (いや、教育現場に限らないが)、何か重大な事件が発生しないと根本的な対策が行われないという傾向があるみたいなのである。それまでは、「あっても見えず、聞こえず」 ということになる。

見えなくて聞こえないものは、「なかったこと」 にされてしまい、対策が執られないのである。なかったことにするために、敢えて 「見ず、聞かず」 という態度をとり続けるということだってあったようだ。

いつも問題にし続けないと、「なかったこと」 にされる。だから、たとえうっとうしがられても、大切なことは大きな声で言い続けなければならない。問題にしないと問題じゃなくなるのだ。

「ロンドンの霧は、詩人がそれを言葉にするまでは存在しなかった」 と言われている。人は、目の前に歴然として存在することでも、誰かがそれをしっかりと言葉にしてくれないと、まともに認識しないのだ。

「アメリカ人は肩が凝らない」 と言われるが、それは 「肩こり」 という日本語ほど端的に肩や首のこりを表現する言葉が英語にないので、たとえ肩が凝ってもそれをきちんと認識できないからだという説がある。その証拠に、「肩こりなんてしたことがない」 というアメリカ人の肩を揉んであげると、「ああ、気持ちがいい」 となって、初めて自分の肩も凝っていたことに気付くという。

「いじめ」 も同様で、いじめている子は 「いじめ」 と認識しておらず、ただ 「からかっているだけ」 とか 「付き合わないで無視してるだけ」 と思っている場合がある。それがとりもなおさず 「いじめ」 なのだという認識が薄いようなのだ。

やたら気軽に 「結婚したらどうだ」 と声をかけるのが、「セクハラ」 だと思っていないオッサンが存在するのと同じである。こうしたオッサンがやたらと無神経な発言を繰り返さないようにするには、「セクハラって、お前のやってるそれだよ!」 と思い知ってもらわなければならない。

同様に、学校の子供たちにも 「お前らが軽い気持ちでやってるそれが、実は 『いじめ』 なんだよ。やられる方の身にもなってみろ!」 と、何度も何度も繰り返して言わなければならない。そうでもしないと、よほどの暴力行為でもない限り、「自分はいじめなんてしたことがない」 と思ってしまう。「肩こりなんてしたことがない」 と思っているアメリカ人みたいに。

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2014/10/16

日本人の 「信心」

私は今月 6日付の "「宗教」 と 「信心」" という記事で、次のように書いた。

「日本人のいう無宗教」 は、国際的な常識としての 「無宗教」 とは違う。これを一緒にされると、日本人の利益にならない。日本人は、基本的にアニミズムのままで文明社会に生きているという意味で、世界でも希有な人たちなのかも知れない。

仏教では 「山川草木国土悉皆成仏」 という。山も川も草も木も、国土まで、つまり森羅万象が仏である。釈尊が最初に得た覚りが、こういうことだったというのである。そして日本人の多くが、このことにあまり抵抗感をいだかない。それどころか、「山川草木国土悉皆成仏」 を理解するという点では、日本人は世界でも有数のレベルに達しているかもしれない。

普通の神社は鳥居をくぐって進むと拝殿があり、その奥に本殿がある。拝殿と本殿は一緒ではないのが普通だ。キリスト教の教会などでは、チャペルの奥に十字架などがあり、そちらに向かってお祈りするのだが、日本の神社では拝殿と本殿とは別で、本殿は奥に隠されているのだ。

これは多分、ことさらに隠されているのではなく、元々の日本の神社では、拝殿さえあれば用が足りたのである。神は自然と一体なのだから、とくには本殿として設定する必要がない。本殿が登場したのは、ずっと時代が下ってからだ。

今年の夏、初めてお参りした奈良の大神神社 (三輪神社) は、そうした古い形をとどめた神社である。拝殿だけで、本殿がない。ご神体は三輪山だから、参拝する人は、拝殿を通してその背後にある三輪山を拝するのである。

それは私の住む茨城県の筑波神社でも同様で、拝殿を通してご神体である筑波山を拝む。筑波山には頂が 2つあり、男体山がイザナギノミコト、女体山がイザナミノミコトとされている。

西欧的な考えでは、山そのものを神とする考えは薄いらしい。キリスト教が伝わる前のアニミズムの世界では、自然崇拝があったと考えられるが、今では、「山は乗り越えるべき障害物」 としか考えられていないようだ。

とはいえ、太古の昔の記憶が心の底に残っているから、オーストラリア・アルプスのグロースクロックナーの頂上には、「カイザークロイツ」 という大きな十字架が立てられている。天気さえ良ければ麓からも見えるほどのもので、よくまああんな岩山のてっぺんまで、重い十字架を持ち上げたものだと感心する。

先日までサッカーのワールドカップが開かれていたブラジルには、コルコバードの丘というのがあり、そのてっぺんに巨大なキリスト像が建てられている。これもまた、下からみてもよく目立つ。

西欧的発想では、山そのものは神ではないが、そこに何か信仰の対象を作ってみたくなるという程度の、アニミズムの名残はあるようなのだ。別の言い方をすれば、そのくらいでっかく目立つものでないと、信仰には結びつかない。

日本の山岳信仰でも、頂上に神社があったりするが、下から見ても目立たないような造りで、山に溶け込んでいる。そのあたりが、西欧的な発想との大きな違いだ。下から見ても目立つようなでっかい人工物なんか造ってしまったら、日本ではちょっとお門違いということになる。

というわけで、日本人の 「信心」 は、あまりにも自然に溶け込んで、教義といってもウヤムヤなので、日本人自身が 「自分は無宗教」 と思ってしまうもののようなのだ。でも、諸外国ではその程度の 「信心」 でも、「自分は○○教徒」 と言うのだけれどね。

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2014/10/15

再生エネルギーそのものが破綻したわけじゃない

"再生エネ買い取り 2年で破綻 「大規模太陽光認定を凍結」" という記事が話題である。原発推進派は 「それみたことか、太陽光発電なんて、現実的じゃない」  「お前の大好きな太陽光発電なんて、しょせんあだ花なんよ」 と言わんばかりである。

しかし過去に何度も書いているように  (参照 1参照 2参照 3)、私自身は再生エネルギー推進派だが、大規模太陽光発電、いわゆる 「メガソーラー」 には、両手を挙げて賛成しているわけじゃない。「そんなにやりたければ、環境を破壊しないようにどうぞ」 という程度のことで、反対はしないが、内心では 「いささか邪道かも」 とさえ思っている。

上述の 「参照 3」 でリンクしている "「メガソーラーに暗雲」 なんだそうだが" という記事では、次のように書いている。ちょっと長いが、自分の記事から引用する。

太陽光発電の本来の姿は、「自分のところで消費する電力は、できるだけ自分のところで作る」 という、分散型発電だと思っている。せっかく発電を分散できるのに、メガソーラーなんか作って集中型にしてしまったら、またぞろややこしい利権が発生する。

というわけで、メガソーラーもあってもいいが、基本は各家庭の屋根や事業所の屋上などに設置する小型の太陽光発電パネルが、津々浦々に普及することが大切なのだと思っている。

私は何も、太陽光発電だけで電力需要を賄えと言っているのではなく、日本各地に分散した多数の太陽光発電設備で需要の多くの部分を賄えば、電力会社が原発をもつ必要はなくなるだろうと言っているのである。太陽光発電は不安定で使い物にならないという人もいるが、それは技術的には蓄電技術で解決済みのことだ。

というわけで、個人的にはメガソーラーで発電した電力を、電力会社が買い取らないなんてことに関して、「それがどうした?」 程度にしか思っていないのだが、メガソーラーで一儲け企てた人にはショックかもしれない。

ただ、太陽光発電の電力買い取りについて、電力会社が渋っているのは、利権がらみの話としか、私には思われない。ある意味、電力会社の既得権確保と一儲け狙った申請ラッシュが相まって、当初の思惑のバランスが狂ってしまった結果なのかもしれない。

はっきり確認しなければならないのは、これは政治的なぐちゃぐちゃした話なのであって、再生エネルギーそのものの展望が破綻したわけじゃないということだ。それどころか、むしろ再生エネルギーに向かわなければ、世の中がまともに回らなくなる。

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2014/10/14

日本語だと 「マッシュルーム ⊂ きのこ」 ということらしい

私は市川団十郎論で修士号を取ったくらいなので、憚りながら日本の古典的な素養はある方だと思っている。欧米かぶれという意識はまったくないのだが、一時期外資系団体に勤務して、日常的に英語で仕事していたことがあるせいか、言語感覚だけは今どきの日本人とはちょっとだけズレているところがあるらしい。

私の日本語感覚は、古典的すぎる部分と英語直訳的すぎる部分が同居しているようなのだ。それで、フツーは当たり前と思われているらしいカタカナ言葉にびっくりしてしまうことが度々ある。

例えば、「マッシュルーム」 という言葉である。スーパーで買い物をする時、他のきのこは 「しめじ」 とか 「しいたけ」 とか 「榎茸」 とか、ちゃんと種類が明示してあるのに、なぜか 「マッシュルーム」 とだけ書いてあるのがある。

いうまでもなく 「マッシュルーム」 とは日本語に訳せば 「きのこ」 のことである。「マッシュルーム (きのこ) ってことぐらい見りゃわかるし、知りたいのはきのこの種類なのに、なんでわざわざ 『マッシュルーム』 とだけ書いて、これだけ種類を明示しないのだろう」 と、私はずっと思っていた。

しかも、「きのこ」 とちゃんとした日本語で書けばいいのに、何を気取ってかカタカナ言葉で 「マッシュルーム」 だなんて、ずいぶん鼻持ちならんやり方だと、内心むかついていたのである。

だから最近になって、日本語で言うところの 「マッシュルーム」 は決してきのこ全般のことではなく、きのこの中でもある特定の種類を指しているのだと知って、ひっくり返るほど驚いた。意表をつくにも程がある。Wikipedia には次のように説明してあった。

マッシュルームは、本来英語で 「きのこ」 一般を指す語であるが、今日の日本では、ヨーロッパから導入された食用栽培種である担子菌門ハラタケ科の Agaricus bisporus (J. Lange) Imbach(英: common mushroom, White mushroom、仏: champignon de Paris)のみを指している。和名ではツクリタケと呼ぶ。

「マッシュルームというきのこは......」 なんていう、訳のわからない言い方がある理由がやっとわかった。日本ではマッシュルームときのこは同じではなく、「マッシュルーム ⊂ きのこ」(マッシュルームはきのこに含まれる」 という関係のようなのである。

でも、まあ、上述の引用にあるように、英語で "common mushroom" (普通のきのこ)、フランス語では "champignon de Paris" (パリのきのこ) というぐらいだから、いかにもカタカナの似合うきのこの代表選手ってことで、単に 「マッシュルーム」 ということにしちゃったんだろうか。

これは例えて言えば、「ビルディング」 という言葉は、英語では建築一般を指し、フツーの木造建築も含まれるのに、日本語では高層建築のことだと思われているのと似ているかもしれない。

あるいは、「味噌汁」 は 「スープ」 じゃないと思われているのと、裏返しの関係とも言える。外国人には "miso soup" なんて説明していたけどね。いやはや、まったく、なかなか込み入ったお話である。

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2014/10/13

台風をやり過ごしている

昨日の記事で書いたように、出張で富山県に来ている。仕事の本番は明日なので、今夜遅くにホテルに着けばいいと思っていたのだが、台風の影響で鉄道が止まってしまってはどうしようもないので、早めに到着した。

午後 3時過ぎに到着した時には小雨程度だったが、4時過ぎに早めの夕食をとっているうちに雨風が強まって、あっという間に嵐の様相になった。日が暮れてしまってからは、もう外に出たくないほどの風雨である。

明日は台風が通り過ぎているはずだが、天気予報を見る限りでは、結構雨が残りそうな様子である。本格的に回復するのは午後になってしまいそうだ。この分だと、仕事のけりがつくのは遅くにな可能性があり、もしかしたらもう一泊しなければならないかもしれない。

というわけで、今夜のところはおとなしく寝ることにしたい。おやすみなさい。

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2014/10/12

地震、雷、火事、台風?

実は、明日から北陸に出張に出る。仕事の本番は明後日で、明日は富山県の高岡市のホテルに入りさえすればいいので、夕方過ぎに新幹線で発とうと思っていたのだが、そんな呑気なことを言っていては台風のせいで電車が止まってしまうかもしれない。仕方がないので、ちょっと早めに昼頃の新幹線に乗ることにした。

明後日は台風に直撃されてしまうかもしれないが、前日に現地に着いてしまえばこっちのものだ。写真撮影も必要なのだが、昼過ぎには台風も通り過ぎそうなので、もしかしたら台風一過の上天気の写真が撮れるかもしれない。まさに運を天にまかせることにしよう。

というわけで、大自然の成り行きには誰も勝てないので、昔から 「地震、雷、火事、おやじ」 などという。しかし近頃、これの最後の 「おやじ」 というのは、「親父」 のことではなく、台風のことなのだというような話をあちこちで聞くようになった。どうやら気象予報士の森田正光さんが、テレビか何かでぽろりと言ったのが発端らしい。

あちこちのウェブで紹介されている話をまとめると、「おやじ」 というのは、元々は 「大山嵐 (おおやまじ)」 という台風を表す言葉だったものが、いつの間にか「親父 (おやじ)」 に変わったということのようなのである。付帯的な話として、「そもそも恐ろしい自然現象を並べて、最後だけ人間の 『親父』 になるのはおかしい」 という指摘もある。

しかし、私としては 「ちょっと待てよ」 と言いたくなるのである。台風のことを昔 「大山嵐 (おおやまじ)」 と言ったなんて話は聞いたことがない。昔は 「野分」 あるいは単に 「大嵐」 と言ったのである。「山嵐」 という言葉はあるが、それは素直に 「やまあらし」 と読むのだ。柔道の技だって 「やまじ」 なんて言わない。

それに、自然現象の後に 「親父」 が付くのはおかしいなんていうのは、いかにも野暮な指摘である。確かにおかしいが、これは、おかしいから面白いのである。最後を台風なんかで締めくくってしまえば、おかしくはないかもしれないが、そのかわり面白くも何ともない。ひねりがなさすぎである。

「地震、雷、火事だけで、台風が抜けているのはおかしい」 などと、野暮の上に野暮を塗り重ねるような指摘もある。しかしそんなことを言ったら、津波、猛吹雪、竜巻、雪崩、地滑り、日照り、噴火などはどうしてくれるのだ。

誰かがほんのちょっとだけもっともらしい俗説を言うと、妙に感心して広めたがる人が出てくるので、世の中は危ない。

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2014/10/11

iOS への忠誠度が低下?

ちょっと古い記事で恐縮だが、「iOS 8 へのアプデ率、iOS 7の半分以下に」 という情報がある。Fisku の調査によると、iOS 8 のアップデート配布開始後 20時間における、アップデート適用率は、iOS 7 が 18.49%だったのに対し、iOS 8 は 8.73%と半分以下に留まったのだそうだ。

元々、iOS のアップデート率は、Andoroid とは比較にならないほど高くて、OS への忠誠度に圧倒的な差があると言われていた。ところが今回の情報をもって、iOS への忠誠度、ひいては Apple に対する信頼が低下したと指摘する人もいる。

かくいう私も iOS 8 は 5日遅れでアップデートした。先月 23日の記事 (参照) で、「リリース直後は間近に出張を控えていたので、焦ってアップデートして不具合でも出たら嫌だなと敬遠して、帰ってきて落ち着いてから、満を持して行ったわけである」 と書いている。

私としては、これは正しい態度だったと思っている。新 OS がリリースされてすぐに、「待ってました」 とばかりアップデートするのは、「高すぎる忠誠度」 というものじゃなかろうか。iOS 7 でも十分に便利だったのだから、焦る必要はない。とくに最初はサーバも混み合うしね。

実際に iOS 8.01 へのアップデートでは不具合が出まくったという事実があるが、呑気に構えていた私は、この被害には遭わずに済んだ。OS のアップデートで先頭を切るのは、やはりリスクが伴う。様子を見てからでも決して遅くない。それに私は、8.0 にアップデートして、すぐにまた 8.01 にするほど暇じゃない。

それに、iOS への 「忠誠度」 というものが低下するのも仕方がない。ちょっと前までは、いわゆる 「先進的ユーザー」 を中心に普及率が高まっていたが、ここまで普及すると、iOS なんてものを全然意識していない iPhone ユーザーだっていくらでもいる。

近頃、企業が従業員に iPad を配布して、強制的に社内のシステム化を進展させる動きがある。いろいろな資料を印刷された紙という形で配布せずに、ネットからダウンロードさせたり、営業先でのプレゼンや契約書作成、在庫確認なども iPad で行うようにするというようなものだ。

そのやり方にすぐに馴染むのは、自分のプライベート iPhone を持っているような社員である。バッグの中にいろいろな書類や資料を持たなくていいので、楽になっているのだろう。一方、ガラケーしか使っていないタイプのオジサン社員は、なかなか馴染めないらしく、「ペーパーレス会議」 なんかでも、戸惑いっぱなしのようだ。

こうしたオジサンたちが持たされている iPad の画面をみると、あちこちに未読や未更新の赤い数字がどっさりついていて、メールをあまり確認していないどころか、Cybozu で送られた情報もちっともチェックしていないし、アプリのアップデートなんて、何のことか理解すらしていない。

「アプリのアップデートは、こまめにしといた方がいいですよ。たまってからまとめてやると、えらく時間がかかっちゃいますから」 とアドバイスすると、「それって、何ですか?」 なんて、今さらのように寝ぼけたことを言う。こんな人たちがどんどん増えているのだから、iOS のアップデート率なんて、落ちて当然だ。

私はちょっと前まで 「PC の時代は終わりを告げつつあり、今後は iPhone、iPad などの、スマホ、タブレットの時代になる。PC に四苦八苦しているオジサン、オバサンも、これで楽になるだろう」 と思っていた。ところが、これはどうやら楽観的すぎたようだ。

「PC を使えない人でも、タブレットなら使えるだろう」 というのは幻想で、実際のところは 「家庭用 FAX の送受信がようやくできる程度の人にタブレットなんかもたせても、まともに使いこなせるはずがない」 というのが現実のようなのである。そりゃそうだよね。

ただ、iPad を使えない人でも、私が戸惑いっぱなしのビデオの予約録画をすいすいこなせたりするのである。iPad を使えるようになるかどうかというのは、結局のところ、テレビよりインターネットの方がずっとおもしろいということに、実感として気付いているかどうかにかかっているのではないかと思うのである。

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2014/10/10

「アメリカンライス」 というもの

All About に 「アメリカンライス」 なる珍メニューが紹介されている (参照)。ある特定の店のオリジナル・メニューというわけでもなく、似ているようでなんとなく違ってもいて、でもやっぱりどこか似ているというような、いわく言いがたい品が、あちこちのレストランで展開されているらしい。

その名前の由来は、「アメリケーヌ・ソース」 を使っているからではないかという説が有力のようなのだ。アメリケーヌ・ソースというのは、Wikipedia によると 「アメリカ風のソース」 ということで、エビの殻を炒めることで赤い色素を強調しているものなのだそうだ。詳しい話は、Wikipedia へどうぞ (参照)。

とはいえ、各地のアメリカンライスをみると、「アメリケーヌ・ソース説」 を裏付けるものもあるが、それとは関係なさそうなものもある。単に 「ライスの上にアメリカっぽい具材を載せたもの」 としか言えなさそうなのもや、店名にちなんだだけだろうというのもある。

確実に言えるのは、米国のレストランで 「アメリカン・ライス」 と注文しても絶対に通じないだろうということだ。米国のコーヒーショップで 「アメリカン・コーヒー」 を注文しても通じないのと同様である。ただし Starbucks には "cafe Americano" というメニューがあるけどね。

それにしても気になるのは、フツーは、"American rice" と言ってしまったら、「アメリカの米」 ってことになるんじゃなかろうかということだ。無理矢理に日本語にしてしまえば、「米米 (べいまい)」 である。

そうか、あの 「米米 CLUB」 は、アメリカン・ライス・クラブであったのか。なんとなくそれで納得してしまいそうなのがコワいぐらいである。

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2014/10/09

iPhone 6 を手に入れてしまった

昨日、iPhone 6 を手に入れてしまった。2年縛りが解けるのは今月末なので、1ヶ月分の違約金 (というのかな?) を払わなければならないが、それは iPhone 5 の下取り金で十分おつりがくるからと、ちょっとフライングしたわけだ。

というのも、iPhone 5 はバッテリーがかなり弱くなっていたし、Siri が音声認識してくれなくなって、どうも具合が悪くなっていたのである。先月の 27日に予約したところでは、「1週間足らずで届きます」 と言っていたが、実際には 11日間かかってしまった。

Dscn0116

うっかり者の私のことだから、ストラップがなければ必ず落っことしてしまうので、ストラップを付ける穴の開いたケースは必需品。さらに、不器用なので気泡のできないタイプの保護シートもお約束だ。

前のデータはしっかり iTunes でバックアップを取っていたので、設定は簡単にできた。ちょっと時間はかかったが、こちらは特別何もしなくても、これまで使っていた環境をそっくりそのまま引き継いで使えるのだから、この機能はありがたい。

ただ、iTunes で新しい iPhone にデータを復元させる際に、「残り時間 あと ○分」 という表示が出るが、これがもう少しなんとかならんものかなあと思う。瞬間的に 40分とか 43分とかいう数字が出てぎょっとさせるが、すぐに 18分とかの数字に落ち着いて、それからは 3分も経たないうちに 15分、10分、8分と、急速に進展する。

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ところが 「残り時間 1分」 という表示が出てからが問題だ。毎回のことなのだが、ここから先が長いのだ。延々 5分近く、「残り時間 1分」 という表示のままになる。そしてついに 「1分未満」 となるが、それからまた 3分ぐらいかかる。時間というのは伸び縮みするものだという、相対性理論をいつも想起してしまうのだよね。

iPhone 6 の使い心地としては、これまでの画面より一回り大きくなっているので、老眼が進んでいる身としては、かなりありがたい。それから、カメラ性能が一段アップしているのもうれしい。和歌ログ用の写真を撮るには、十分すぎるほどの性能だ。もうコンデジを持ち歩く必要はほとんどない。

それから、Siri におもしろい機能が加わっていることを知った。それは、流れている曲のタイトルがわからない時に、Siri に 「これは何の曲?」 と聞くと、答えてくれるのである。

試しに手持ちの iTunes の曲を鳴らしながら問い合わせると、「もう少し聞かせてください」 なんてもっともらしいことを言う。しばらく聞かせていると、なんと、見事と言うほかないほど正確に聞き分けるのである。演奏者 (または歌い手) まで正確に言い当てるのでびっくりだ。

これはどうやら、iTunes Store にあるデータと照合させているようなのである。そのため、曲名を言い当てると同時に、iTunes で購入するように薦めてくるのである。なるほど、ただではこんなことしないよね。どこかで気に入った曲の名前を教えてもらって、そのまま衝動買いしそうでコワい。

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試しに WOWOW で流れていた、この夏の Rock in Japan のライブを聴かせると、さんざん悩んだ挙げ句に 「聞き覚えがありません」 などと言う。つい最近のライブ演奏は iTunes のデータにないから、こればかりはしょうがない。なまじ正確に聞き分ける能力をもつので、手持ちのデータと少しでも違うと、同じ曲とは判断できないようだ。

となると当然のことに、ハミングしてみて 「これは何の曲?」 と聞いても、全然聞き分けてくれない。つまり、メロディラインで聞き分けているのではなく、完全に手持ちのデジタル・データそのものに照合して判別しているようなのである。

なお、自分自身の名誉のために付け加えておくが、私のハミングは決して音痴ではないので、iPhone はメロディラインとしてはきちんと聞き取ってくれてはいると思う。

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2014/10/08

ベネッセから 「お詫びとご報告」 が届いちゃったよ

昨日、ベネッセコーポレーションから封書が届いた。「もしや」 と思って開いてみると、案の定、「お客様情報漏えいに関するお詫びとご報告」 という書類が入っていた。いやはや、すっかり忘れていたが、ウチの長女が子供の頃、ベネッセの何かのサービスを利用していたことがあったようなのである。

説明によると、漏洩が確認された情報項目は、

  • ウチの長女の名前、性別、生年月日
  • 保護者である私の名前、性別、生年月日、続柄
  • 郵便番号、住所、電話番号、ファックス番号
  • 私のメルアド

であるらしい。クレジットカード情報の漏洩は確認されていないという。

私としては 「大したことじゃないな」 という印象だ。「とんでもない、エラいことだ」 と憤る人もいるかも知れないが、「個人情報は漏れるものである」 という記事 (7月 17日付) で書いたように、この程度のことなら、ベネッセからでなくても、既にあちこちから漏れまくっている。

それだからこそ、いろいろな DM (郵便、Eメールの両方で) が舞い込み、株や住宅リフォームや電話回線変更なんかを薦める電話がかかりまくる。今どき、ケータイではなく家電 (いえでん) にかかってくるのは、ほとんど怪しい営業電話と思った方がいい。

この類いのことは、前々からうっとうしいほどあった。今回ベネッセからの情報漏洩が伝えられてから、目立って増えたなんてことはない。元々漏洩しまくっていた情報が、今回また、新たにポチッと漏れたというぐらいのことだ。

個人情報が漏洩したと聞かされると、取り返しがつかない事態になったとばかり大騒ぎする人もいるが、自分の情報なんて大量のデータの中のごく一部にすぎない。この程度の漏洩のせいで自分が 24時間ウォッチされるなんてことはないので、ことさら騒ぎ立ててもしょうがない。

多くの人のデータがごっそり大量にまとまっているから価値があるのであり、データ 1件分の単価なんて、せいぜい 1円程度のものでしかない。そもそも私のデータなんて、それほど魅力的な (金になりそうな) ものでもないしね。

よほど重要なデータが抜き取られたとかいうのでない限り、氏名、年齢、住所、電話番号ぐらいでは、個人レベルではあまり気にしてもしょうがないと思っている。というわけで、ベネッセからは 500円相当の金券・ギフト券提供の申し出があったが、そんなもの 1枚もらってもしょうがないので、例の 「こども基金」 とやらに寄付する手続きをとった。

お金も個人情報と同じで、まとまってこそ価値が出るのだろうから。

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2014/10/07

コンデジでお月様を撮るための、馬鹿馬鹿しいほど簡単な方法

先月 8日の中秋の名月は、関東は曇っていて見えなかったが、翌日のスーパームーンは写真に撮ることができた。さらに昨日の十三夜月もしっかり取ることができたので、2つ並べて紹介しておこう。

Moons

左が先月のスーパームーン、右が昨日の十三夜月である。手持ちのコンパクト・デジカメ (コンデジ) で、それなりにきれいに撮ることができた。下の写真は 10年前の中秋の名月だが、ただ白い環が光っているだけだ。写真として雲泥の差がある。

Moon

これだけ差が出た理由は、コンデジのズーム性能が飛躍的にアップしたということもあるが、それだけではない。単にズームを一杯に効かせて撮ったのでは、大きな白い環が光っている写真になるだけである。月の模様まで綺麗に撮るには、それなりの方法がある。

ウェブで 「コンデジ/月の写真/撮り方」 なんていうキーワードでググると、マニュアルモードにして、露出をどうこう設定して云々…… とやたら面倒くさい解説のページがいくらでも見つかる。しかし素人としては、そんなのを読んでもさっぱりわからん。もたもたしてる間に、月が雲に隠れてしまう。

最近になって偶然発見したやり方は、もっとずっと簡単で手っ取り早い。馬鹿馬鹿しくて泣けるほど簡単である。難しいマニュアル設定なんて、全然必要ない。本当に誰でもすぐに撮れるはずだ。

とはいっても、一応のハード面の条件はある。それはただ一つ。「できるだけズーム性能の高いカメラを使う」 ということだけだ。やはりズームが効かなきゃ、話にならないのである。できれば光学 10倍以上あるといいだろうが、これはとくに高いハードルじゃない。今どきは家電量販店に行けば、多分 4万円以下、うまくいけば 2万円台で買えるはずだ。

そしてコツもただ 1つ。それは、「ストロボが光る設定にする」 ということだ。「強制発光」 なら間違いないが、「自動」 でも、夜なのだから多分光ってくれるだろう。あとはズームを効かせて、手ぶれしないように慎重にシャッターを切るだけである。満月だったら、多分三脚もいらないだろう。

理屈を説明すると、ストロボを効かせた場合、コンデジはいわば 「余計なお世話」 で、「ストロボで明るくなるんだから、露出はずっと控えめ (あるいはシャッタースピードはずっと速め) でいいよね」 と、判断してくれる。

しかし、たかがコンデジのストロボの光がお月様まで届くはずはないから、結果としてはマニュアル・モードで露出を低く抑えるのと同じことになり、被写体が白い環のように飛んでしまうことなく、きちんと模様まで映るのだ。

これが、コンデジでお月様を撮る最も簡単な方法である。これより簡単な方法は思いつかない。私はずっと、「月を撮るのにストロボ光らせても無駄だから」 と、わざわぜ 「発光禁止」 モードで撮ってきたのだが、それがそもそもの間違いの元だったのだ。

ちなみに私のカメラは、Nikon の COOLPIX S9700 で、他のカメラで試したわけじゃないから、どんなカメラでも必ず成功するとは請け負えないが、多分大丈夫だろうと思う。

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2014/10/06

「宗教」 と 「信心」

私はかなり前から (多分 40年以上前から)、かなり意識して 「宗教」 とか 「信仰」 とかいう言葉に換えて 「信心」 という言葉を使っている。これは実は、演出家の鈴木忠志氏の言葉に従ったものである。

私が早稲田の演劇科に学んでいた頃、彼が特別講師として演劇学の講義を受け持ったことがあり、私は大喜びで受講した。この講義の中で彼は、自分の活動の拠点を富山県の利賀村に移したのは、「演劇における信心の問題」 であり、「あえて 『宗教』 と言わず 『信心』 という言葉を使う」 と語ったのである。

私は彼の言う 「信心」 という言葉に、かなり得心するものがあり、それ以後、日本におけるレリジャスな問題を語るときには、なるべく 「信心」 という言葉を使うようにしている。それはもしかしたら科学者の村上和雄氏が 「神」 と言わずに 「サムシング・グレート」 とおっしゃるのと、ほんの少し似た態度なのかもしれない。

この問題について、私は 6年前に "「信仰」 と 「信心」 は似て非なるもの" というタイトルで書いており、この中で、日本人が明治以降キリスト教的な考え方を受け入れてきたために、「宗教を信じることとは、一神教を信じることなのだ、という価値判断をしてしまっている」 という宗教学者の山折哲雄氏の指摘を紹介している。

山折氏は 「多神教が 『感ずる宗教』 だとすれば、一神教は 『信ずる宗教』 だと言える」 とも指摘している。これに関連するかどうかわからないが、私は 6年前の記事の中で、日本人が 「自分は無宗教」 と答える比率と、選挙において 「支持政党なし」 と答える比率がかなり共通していることに触れ、「日本人は旗幟鮮明にすることを好まない」 と書いている。

一つの政党を支持して、選挙運動に協力したり献金をしたりするのは、思いも寄らないほど抵抗がある。同様に唯一の神を信仰するのは苦手で、日曜の朝に礼拝に通う自分の姿なんて想像も付かないが、正月になると神社仏閣に初詣したり、盆やお彼岸に墓参りをしたり、クリスマスを祝うのは好きなのだ。

日本人は唯一の神への 「献身を伴う信仰」 を行うのは理解できないが、食事の際に 「いただきます」 と手を合わせたり、昇り来る初日の出に手を合わせたりすることにはあまり抵抗がない。

日本人の 「信心」 は、「献身」 はしない替わりに、突き詰めれば、「森羅万象に対してただ、敬ってありがたがっていればいい」 というもののようなのだ。そこには厳密な教義や戒律というものが、あまり入り込まない。

だから、「教義、戒律、献身」 といった厳密な要素のにおいがぷんぷんする 「一神教的な宗教」 というものは、できるだけ敬遠して近付かないようにする。それ故に 「自分は無宗教」 だと思っているが、ただありがたがってさえいればいいという、気楽な 「多神教的信心」 なら、自然に受け入れている。

ただ、こうした態度は日本の島国の中でやっている分にはなんの問題もないが、国際的な場で、あまりにも天真爛漫に 「私は宗教を持ちません」 なんて言うと、ちょっとびっくりされたりする。英語教育を専門とされる emi さんも、「『無宗教ですぅ』 なんて笑顔で言われたら/世界の多くの人がドン引きするか怪しんでマークする」 と指摘している。(参照

私としても、外国人と付き合うときには 「自分は仏教徒である」 と言う方がいいと、経験から知っている。さらに 「自分は仏教を信じているが、あなたの信仰する宗教をも尊重する」 と言えば、よりしっくりと付き合える。

もっと言えば、日本人が 「宗教は嫌い」 なんて言うのを聞いても、心の中では 「はいはい、そのくせ平気で初詣に行ったり、チャペルで結婚式したりするんだよね」 と思いつつテキトーに受け入れるが、外国人に「神を信じない」 なんて言われると、「こいつ、ちょっとヤバいな」 と身構える。この違いは、ちょっとしたものである。

つまり一般的な日本人の宗教観は、世界的にはちっとも一般的じゃないのである。そのことを、素養として知ることはそれほど困難ではないが、得心するためには、少なくとも自分の 「信心」 を、自分で知らなければならないのかもしれない。

emi さんは最近の記事のコメントとして、「英語教育的には、その “無宗教” と 『No religion(きっぱり)』 とは違うかもよってことを伝えていかなきゃいけない気がしてきました」 と書かれている (参照)。なるほど、そこまでは私も気付かなかった。

確かに 「日本人のいう無宗教」 は、国際的な常識としての 「無宗教」 とは違う。これを一緒にされると、日本人の利益にならない。日本人は、基本的にアニミズムのままで文明社会に生きているという意味で、世界でも希有な人たちなのかも知れない。

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2014/10/05

長時間のデスクワークで、肩こりと腰痛を防ぐには

日頃、ずっと PC に向かってひたすらキーボードをパンチし続ける仕事が多いので、肩こりと腰痛は職業病みたいなものである。とにかく首、肩、腰の筋肉はいつもコリコリなのだ。

以前、山形県酒田市の実家を車で往復し、帰ってすぐに福島県郡山市での葬儀に参列するためにまた長距離運転し、そこから帰って、たまった仕事を 3日間ぐらいで仕上げ、その後に新幹線で岡山まで往復したら、完全に腰に来てしまい、ベッドから起き上がるだけでも冷や汗をたらしてしまうほどになったことがある。

さすがにどうしようもなくなって、整骨院で治療してもらったが、その際に、プロの整体師に聞いて 「なるほどねぇ」 と思ったことがある。それは、「長時間同じ姿勢でいても大丈夫なほどの 『正しい姿勢』 なんて、存在しない」 ということだ。これは、意外でもあり、また納得のいく指摘だった。

私はそれまで、デスクワークで PC に向かう際の 「正しい姿勢」 というのがあるのだと信じていた。いつも 「正しい姿勢」 からかけ離れた姿勢で作業をしているので、肩こりや腰痛が発生するのだと思っていたのである。

そして、常にその 「本来あるべき正しい姿勢」 というものを模索していたのだ。背筋を伸ばし、肩に力を入れすぎず、首を上向きにせず、かといって俯きもし過ぎず、無理のない姿勢を保てば、肩こりや腰痛から解放されるはずと、思い込んでいたのである。

ところが整体師の先生は、「どんな正しい姿勢でも、ずっと同じ姿勢でいたら負担がかかるに決まってるんです」 と断言した。「下手に正しい姿勢なんてものを追求するより、しょっちゅう仕事を中断してストレッチするなり、柔軟運動するなりすればいいんです」

なるほど! そうであったか!

私はそれまで、非常に硬直した考えでいたのである。考えが硬直しているから、姿勢まで硬直して、それで肩こりや腰痛に悩まされることになってしまっていたのだ。要は、そんな硬直した 「正しい姿勢の追求」 なんてことはすっぱりと諦めて、柔軟な考えでいればいいのである。しょっちゅう仕事を中断して、グニャグニャしていればいいのだ。

それがわかって以来、私の肩こり・腰痛の職業病は、少しは軽くなっているような気がする。ただ、仕事に夢中になってしまうと、ついグニャグニャするのを忘れて打ち込んでしまい、気がつくとコチコチになってしまっていたりするのが困る。

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2014/10/04

朝日 OB の、大学の先生

慰安婦問題に関する記事を書いた元朝日新聞の記者が、教授やら講師やらとして勤務する大学に、「辞めさせないと学生に危害を加える」 という脅迫状が届いているという。このニュースに、私はかなり驚いた。下手な戦略だと思う。そんなことをしても、逆効果の方が大きいだろうに。

帝塚山学院大学の方では、朝日 OB の教授が脅迫状が届いた日に自ら辞職したと伝えられた。しかしもう一人の OB が非常勤講師を務める北海道の北星学園大というところでは、この講師を解雇しないよう同大を応援する 「負けるな北星!の会 (マケルナ会)」 なんていうのができて、ややこしいことになっている (参照)。

まだ残っている北星学園大の講師は、当初、吉田証言に基づいて最初に慰安婦問題の記事を書いたとされた元記者で、帝塚山学園大の方で既に辞職したのは、よく調べたら、実はその前に書いちゃってたという元記者だという。名前を出してもしょうがないから、敢えて出さない。

私は個人的には、「こんなとんでもない誤報を書いて 30年ものうのうとしていたオッサンが、大学で教鞭を執るなんて、なんだかなあ」 と思う。だから、そんな人を教授やら講師やらとして雇っている大学に抗議文を送るぐらいのことなら、十分 「あり」 だと思う。

しかしだからといって、「辞めさせないと学生に危害を加える」 なんて脅迫するのでは、誤報を書いた元記者以下のレベルのお話に堕してしまう。さらにそんなことをされたら、大学側としても動きが取れなくなる。

もし私が大学側の理事かなんかだったとしたら、ここはドライに辞めさせるべきだと判断するだろう。 ただでさえ学生数が減って経営が苦しくなるという時期に、こんな問題の人を講師にしていたんでは、評判が落ちてますます受験者が減ってしまうだろう。これは妥当な経営判断である。

しかし今のタイミングでクビにしたら、大学が脅迫に屈してしまったと受け取られ、それが既成事実になりかねない。そういうわけにもいかないから、辞めさせたくても下手に辞めさせられないというジレンマに陥ってしまう。その上、妙な応援団ができてしまっては、ますます進退窮まってしまうじゃないか。

行き過ぎた行動は、逆効果を生むのである。

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2014/10/03

Windows の 「製品名」 と 「バージョン・ナンバー」 は一致しない

昨日 「Windows 4, 5, 6 は、登場しなかったのか?」 という記事を書いたところ、もりけん さんから、私にとっては 「衝撃の事実」 ともいうべきコメントをいただいた。なんと、"Windows 7" とか "Windows 8" とかいう名称は、あくまでも OS の 「製品名」 のようなものであって、バージョン・ナンバーとは一致しないというのである。

バージョン・ナンバーと製品名が一致していたのは、"Windows 3.1" までのことで、それ以後はちっともリンクしていないようなのだ。例えば、Windows 95 は、バージョンでいえば 4.0 であり、以後、Windows 2000 が 5.0、あのしょぼい Vista が 6.0 なのだそうだ。

ということは、Windows 98 系は 95 (4.0) からのマイナーチェンジで、98 と 98 SE は、それぞれ 4.1、4.2 ということになるのかと思ったが、調べてみると、98 SE は 「4.10.2222A」 なんだそうだ。へえ!  そういえば、Windows ME なんていう、ショボすぎてほとんど忘れ去られた OS もあったが、あれはどうやら、4.9 らしい。(参照

そしてなんと、Windows として最も成功を収めたとされる XP は Windows 2000 (5.0) からのマイナーチェンジなので、5.1 であり、Vista より後は、実は 6.0 からのマイナーチェンジなので、Windows 7 は 6.1、Windows 8 は 6.2、そして Windows 8.1 は 6.3 となる。

Windows 7 が、不評だった Vista をチューンナップしたものなので、6.1 というのは理解できるが、がらりと変わってしまった印象の強い Windows 8 も、バージョンとしては Vista ベースの 6.2 だったというのは、意外や意外というところだ。

Windows 8 がどうにも使いづらいのは、実質的な中身のベースは Vista のマイナーチェンジに過ぎないのに、ユーザー・インターフェイスを大きく変えて取り繕っているという事情があるからなのかもしれない。つまり、地はそれほど変わらないのに、表面を妙に厚化粧しすぎたのだ。

まあ、あまり中身を変えすぎると、今度はアプリケーション・ソフトや周辺機器の互換が取れなくなるので、苦しいところではあるというのは、理解できないこともない。その意味でも、Windows というのはそろそろどん詰まりに近付きつつあるのかもしれない。

要するに、ユーザーとしてはこれ以上無闇にバージョンアップしないでもらう方がありがたいのだ。XP で開発したデータベース・アプリが、今年春のバージョンアップ以後使えなくなってしまったというケースもあり、OS のバージョンアップは迷惑以外の何物でもないと思っている向きも多いのである。

というわけで、製品名としての "Windows 7" や  "Windows 8" は存在しても、バージョン・ナンバーとしての Windows Ver. 7 以後は、少なくとも製品版としては、この世に存在しないのである。

これはあまりにも 「衝撃の事実」 と思われたので、もりけん さんを信用しないというわけではないが、一応裏を取らせてもらった。Microsoft 自身のサイトに 「Windows のバージョン確認方法」 というページがあり、そこにある画像で確認すると、やはり、もりけん さんのおっしゃる通り、Windows XP は、バージョンでいえば 5.1 だったのである。

そして、最新の Windows 8.1 は、バージョンでいえば 6.3 ということになる。上述のページにあった画像でも、こんなふうになっており、Microsoft 自身がそう表示しているのだから、間違いない。

Ver_win81

やっかいなことに、本文の上から 2行目で 「バージョン 6.3 (ビルド 9600)」 としながら、Microsoft 自身が余計な説明をつけて、"Windows 8.1" を 「バージョン」 としているので話が紛らわしくなっているが、開発者自身が "Windows 8.1" の Windows としての 「本来の意味でのバージョン」 は、6.3 だと明言していることに違いはない。

念のため、自分のお古の Windows 7 で、"winver" を実行させてみたら、以下のように 「バージョン 6.1」 と表示された。確かに Windows 7 のバージョンは、6.1 なのである。ああ、ややこしい。

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もりけん さんの指摘がなければ、この事実を知らずに死ぬところだった。まだ頭のボケないうちに知ることができたのはもりけん さんのおかげで、感謝しなければならない。

バージョン・ナンバーと製品名が一致しないのは、開発部門とマーケティング部門との意思が一致しなかったのだろう。売る方としては、どうしてもインパクトのある名前を付けたかったのだが、Vista 以後はその意欲もちょっと息切れしてるのかもしれないね。

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2014/10/02

Windows 4, 5, 6 は、登場しなかったのか?

昨日の記事で、Windows の次期バージョンが "Windows 9" ではなく "Windows 10" になるということに触れたが、この件に関して、私にはちょっとした疑問があった。"Windows 9" は世に現れることなく葬り去られる 「幻の Windows」 ということでいいのだろうが、それでは、Windows 1, 2, 4, 5, 6 はどうなっているんだろう?

ちょっとググったところ、英語のページ (参照) が見つかり、いろいろな解釈があるらしいことがわかった。要するに決まった見解はないみたいなのである。「Windows 4 は 95 で、5 は XP だった」 とか、「Windows NT が 4 だった」 とか、いろいろなことが言われている。なんだ、MS も案外テキトーだなあ。

Windows が日本に 「メジャーな OS」 として登場したのは、Windows 3.1 が最初だった。Windows 3.0 というのもちゃんとあったらしいが、3.1 に至って日本で大きく普及したのは、DOS−V マシンの登場とタイミングが合ったためなんだろう。

私が初めて自分の PC として購入したのも、この Windows 3.1 マシンだった。ちなみにハードディスクは 「420MB の大容量」 という触れ込みだった。遙か遠いことのように感じるが、思い起こせばたかだか 20年前のことにすぎない。その前は、会社では MS-DOS マシンをひいひい言いながら使い、プライベートではワープロ専用機 (そんなものがあったのだね) の OASYS を使っていた。

じゃあ、Windows 1 と 2 はどうなっていたのかというと、そこはそれ、ちゃんとあった。Wikipedia によると、「日本では MS-DOS Ver. 3.1と共にバンドル OS として NEC 製パソコン PC-9801VX4/WN に採用され、1986年 12月に発売された」 とある (参照)。

要するに、MS-DOS のシェルのような形で展開されていたもののようで、Windows 2 というのは、ウィンドウを重ね合わせて表示できるようになったという程度のものだった。DOS のシェルという基本は Windows 3.1 まで変わらずに続いた。

この流れでいえば、3.1 の次に出された Windows 95 というのが、”Windows 4" にあたるものだったといっていいだろう。これは、MS-DOS の上で働くシェルという基本構造から脱却して、初めて自立した OS として開発されたものだった。

その後の進展についていえば、Windows 98, 98 SE, 2000 というのは、独自の名称は与えられているものの、基本的には 95 (つまり Windows 4) のバージョンアップ版と考えていいのかもしれない。 一方では Windows NT が Windows 4 だとか、5 だとかいう議論があるが、面倒くさいし、どうせ MS 自身が案外いい加減みたいなので、敢えて深くは突っ込まない。

個人的な印象で言えば、98 SE までは動作が不安定ですぐにフリーズしてしまっていた。込み入った作業をする時は 15分に 1度は保存ボタンを押さないと、作業内容がいつぶっ飛んでしまうかわからず、これはかなりのストレスだった。

Microsoft としては、Windows 2000 まではホームユースの OS という位置づけだったので、安定性なんてあまり重視していなかったのかもしれない。その裏にビジネス向けとして Windows NT 系を展開するという姿勢だった。そして Windows 2000 で NT系と統合されるという触れ込みだったが、それは中途半端に終わった。

Windows NT は、勤務先でしばらく使ったことがある。基本的にはホームユースでしかない 9X 系とは比べものにならないほど安定していた。とはいえ 「フリーズしにくい」 というだけで、マルチメディア対応は Windows 95 ぐらいのレベルで、USB も使えなかったし、ものすごく地味な OS という印象である。

それで、9X 系と NT 系との統合が実現した Windows XP は、まさに画期的だったわけである。Windows 2000 も、それまでの 9X 系ほど簡単にはフリーズしなくなっていたが、XP の安定性は確かにレベルが違っていた。その上マルチメディア性能も高かった。

ただ、この辺が一番ややこしい時期なのだが、Windows NT を Windows 5 と規定すれば、XP は Windows 6 ということになり、そうでなければ、5 ということになる。まあ、どうでもいいや。

仮に XP が Windows 5 だったとすると、Windows 6 は、あのショボい Vista でなければ辻褄があわない。Vista は、いろいろな新機能が実現されたという触れ込みだったが、どれも中途半端で使い物にならなかった。ただ使い物にならなかったとはいえ、新機能は新機能なので、一応 "6" でもいいような気がしないでもないが、まあ、どうでもいいや。

その後は、ご存じの通り、すっきりと Windows 7、8 が続き、9 をすっ飛ばして 10 に至るということのようなのである。未確認情報だが、Windows のメジャーなアップデートは 10 で終了するというようなことも言われている。これ以上大幅にいじったら、また Windows 8 みたいなことになっちゃうだろうから意味がない。

そうなったら、まさに 「PC の時代の終わり」 ということになるのだろう。"Windows 11" にしなかったのは、そういう意味合いなのかもしれない。切りのいいところで終わるというわけだ。

【10月 3日 追記】

もりけん さんが付けてくださったコメントのおかげで、Windows 7 とか Windows 8 とかいうのは、バージョン・ナンバーじゃないということがわかった。例えば Windows 7 は、バージョンでいえば、6.1 で、Windows 8 は 6.2 なんだそうだ。

なんとまあ、ややこしいというか、紛らわしい。これについては、3日付で改めて論じる。

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2014/10/01

次期バージョンは ”Windows 10” なんだそうだ

メモリが足りない旧式の Windows XP マシンを 10年も使い続け、スイッチを入れてから起動するまで 5分近く待たされるのを当たり前と思って辛抱し、今年の春にサポートが切れるというので、仕方なく Windows 8 マシンを購入して、操作方法にうろたえっぱなしの人は、誠にお気の毒である。この購入サイクルは、どうみても大失敗だった。

早めに Windows 7 に乗り換えておいて、あとは 来年リリース予定といわれる Windows 10 を待つべきだった。Windows 8 を買っちゃった人は、大失敗作をつかまされてしまったことになる。

Microsoft は次期 Windows は "9" ではなく "Windows 10" になると発表した (参照)。「かなり抜本的な刷新であることから、次期バージョンとして広く予測されていた "Windows 9" という名称を飛ばすことが最良だと決断するに至った」 というのである。"8" があまりにも不評だったので、その忌まわしいイメージを断ち切るために、数字を 1つ飛ばすことにしたのだろう。

新バージョンでは、例の 「タイル」 型のユーザー・インターフェイスが廃止され、スタートメニューが復活するのだそうだ。これは Windows 8 のユーザー・インターフェイスが失敗だったと、自ら認めたことに他ならない。

私はこれまで、何度も何度も Windows 8 のユーザー・インターフェイスのひどさを指摘してきた。それについて、新バージョンでは起動が速くなって動作が軽くなったからいいとか、いろいろがコメントが付いたが、私はそんなことを言っていたのではない。

バージョンアップして動作が速くなるのは、それは特段強調するようなことじゃない。むしろ 「当たり前」 のことと捉えられるべきだ。問題なのは、「これまで慣れ親しんだ使いやすいユーザー・インターフェイス」 が、あまりにもぶっ飛んだ方向に変更されてしまったことである。

動作が多少軽くなったところで、ユーザーの方がうろたえっぱなしになるのでは、作業効率はドカンと落ちてしまうのである。私は何度も何度も同じ言い方をしているが、繰り返して言う。「これが自動車だったら、命がいくつあっても足りない」 のである。

Microsoft も自らの大失敗に気付いたようで、Windows 10 は Windows 7 ライクな要素を復活させるらしい。要するに、今年春から来年半ば (これまでの例から言えば、おそらく秋以降にずれ込むだろうが) にかけて、「失われた 1年半」 を経験することになるのだ。IT の世界の 1年半は取り返しの付かないほどの長い時間ともいえるが、まあ、8 のコンセプトに固執するよりはまだずっといい。

ただ、心配なことが 1つある。Windows のバージョンは、1つおきに成功と失敗を繰り返すと言われている。XP はなかなかよくできた OS だったが、その次の Vista は不評だった。そして 7 で再び成功し、8 はこれまでにない大失敗となった。

この経過からすれば、次期バージョンは ”Windows 9" として、満を持して成功にもっていくべきだったんじゃなかろうか。それを飛ばして "10" なんてことにしたら、順番からすると 「幻の Windows 9」 で達成されるはずだった成功を見ることなく、また失敗になってしまいかねない。

どうしても数字を飛ばしたかったら、 "10"  じゃなくて、 いっそ 2つ飛ばして "11" にすればよかったのに。

まあ、例え失敗作だったとしても、Vista ぐらいのレベルだったら、8 のひどさよりはマシだと思うのだが、私は既に Mac ユーザーだから、高みの見物をしていられる。どっちに転ぼうが、知ったことじゃない。

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