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2014/10/16

日本人の 「信心」

私は今月 6日付の "「宗教」 と 「信心」" という記事で、次のように書いた。

「日本人のいう無宗教」 は、国際的な常識としての 「無宗教」 とは違う。これを一緒にされると、日本人の利益にならない。日本人は、基本的にアニミズムのままで文明社会に生きているという意味で、世界でも希有な人たちなのかも知れない。

仏教では 「山川草木国土悉皆成仏」 という。山も川も草も木も、国土まで、つまり森羅万象が仏である。釈尊が最初に得た覚りが、こういうことだったというのである。そして日本人の多くが、このことにあまり抵抗感をいだかない。それどころか、「山川草木国土悉皆成仏」 を理解するという点では、日本人は世界でも有数のレベルに達しているかもしれない。

普通の神社は鳥居をくぐって進むと拝殿があり、その奥に本殿がある。拝殿と本殿は一緒ではないのが普通だ。キリスト教の教会などでは、チャペルの奥に十字架などがあり、そちらに向かってお祈りするのだが、日本の神社では拝殿と本殿とは別で、本殿は奥に隠されているのだ。

これは多分、ことさらに隠されているのではなく、元々の日本の神社では、拝殿さえあれば用が足りたのである。神は自然と一体なのだから、とくには本殿として設定する必要がない。本殿が登場したのは、ずっと時代が下ってからだ。

今年の夏、初めてお参りした奈良の大神神社 (三輪神社) は、そうした古い形をとどめた神社である。拝殿だけで、本殿がない。ご神体は三輪山だから、参拝する人は、拝殿を通してその背後にある三輪山を拝するのである。

それは私の住む茨城県の筑波神社でも同様で、拝殿を通してご神体である筑波山を拝む。筑波山には頂が 2つあり、男体山がイザナギノミコト、女体山がイザナミノミコトとされている。

西欧的な考えでは、山そのものを神とする考えは薄いらしい。キリスト教が伝わる前のアニミズムの世界では、自然崇拝があったと考えられるが、今では、「山は乗り越えるべき障害物」 としか考えられていないようだ。

とはいえ、太古の昔の記憶が心の底に残っているから、オーストラリア・アルプスのグロースクロックナーの頂上には、「カイザークロイツ」 という大きな十字架が立てられている。天気さえ良ければ麓からも見えるほどのもので、よくまああんな岩山のてっぺんまで、重い十字架を持ち上げたものだと感心する。

先日までサッカーのワールドカップが開かれていたブラジルには、コルコバードの丘というのがあり、そのてっぺんに巨大なキリスト像が建てられている。これもまた、下からみてもよく目立つ。

西欧的発想では、山そのものは神ではないが、そこに何か信仰の対象を作ってみたくなるという程度の、アニミズムの名残はあるようなのだ。別の言い方をすれば、そのくらいでっかく目立つものでないと、信仰には結びつかない。

日本の山岳信仰でも、頂上に神社があったりするが、下から見ても目立たないような造りで、山に溶け込んでいる。そのあたりが、西欧的な発想との大きな違いだ。下から見ても目立つようなでっかい人工物なんか造ってしまったら、日本ではちょっとお門違いということになる。

というわけで、日本人の 「信心」 は、あまりにも自然に溶け込んで、教義といってもウヤムヤなので、日本人自身が 「自分は無宗教」 と思ってしまうもののようなのだ。でも、諸外国ではその程度の 「信心」 でも、「自分は○○教徒」 と言うのだけれどね。

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