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2014年11月に作成された投稿

2014/11/30

還暦をしばらく過ぎて、初めて 「不惑感覚」 を知る

明日から師走である。早いものである。ついこないだ箱根駅伝を見たばかりなのに、もう今年は 1か月しか残っていないというのである。還暦を過ぎてからの 1年というのは、本当にめちゃくちゃ早い。

近頃思うのだが、還暦を過ぎたということは、当人は若いつもりでも、残された時間は少ない。これを普通の言葉では、「老い先短い」 というのである。男というのは 80歳ぐらいが平均寿命らしいから、私としても、残る人生は 20年ぐらいと踏んでもいいだろう。

たったの 20年である。別の言い方をすれば、あと 20年ぐらいで、うっとうしいことの多い人の世から、めでたく卒業できるのである。60年余り我慢してきたのだから、あと 20年ぐらいで済むなら、何とか我慢も続くだろう。とはいえ、楽しいことも結構あったけどね。

ただ、1年がこんなに短く感じるのだから、20年だってあっという間だろう。多分、40歳から 60歳までの 20年間より、ずっと短く感じるはずだ。ということは、馬鹿馬鹿しいことに関わり合って無駄な時間を費やす暇なんてないということだ。

孔子は 40歳にして 「不惑」 という心境に達したらしいが、私はぼんくらだから、60歳を少し過ぎて初めて、今後は 「惑わず」 ということで生きてみたいという気がしてきた。

といっても、それほど大したことじゃない。「もう惑ってる時間なんかあまり残っていない」 という客観的事実と、「もう、これ以上惑うのも邪魔くさい」 という主観的ずぼら感覚が入り交じったような気持ちである。この 2つがミックスされると、モチベーションとしてはかなり強い。

というわけで、「そんなこと言って、しっかり惑ってるじゃん!」 と言われることがないように、少しは心して生きていきたいと思う今日この頃である。

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2014/11/29

高齢者のエスカレーター転落事故に思う

駅エスカレーターで転倒、77歳男性死亡」 というニュースを読んで、ちょっと気分が暗くなってしまった。3人の高齢男性が 1段おきにエスカレーターに乗り、一番上の男性が後ろに話しかけようとしたところ足を踏み外し、そのまま転げ落ちて、一番下の男性が後頭部を強打して亡くなったのだという。

この 3人は一緒にゴルフを楽しんでの帰路だったというのだから、足元が覚束ないほどのよぼよぼ爺さんだったというわけでもないだろう。ただ、ゴルフの後に一緒に食事をして帰る途中だったというから、多分お酒は飲んでいたのだろうね。一日歩き回ってちょっと酔っ払ったら、足元が少しふらついていたとしても不思議ではない。

日本は高齢者がどんどん増加しているから、今後はこうした事故が増えるだろう。エスカレーターに乗っていると、上から爺さんが束になって落っこちてくる可能性があるのだから、油断ならない。

日常生活でも、高齢者の体力や判断力、認知力の衰えによる 「ヒヤリハッと」 体験が多くなってきた。車を運転していて、横道から老人の運転している車が出てきかかったら、いつでもブレーキを踏めるように準備する方がいい。

高齢者の視界はかなり狭くなっているので、こちらが近付くのを認識できず、直前に飛び出してくることが多い。私は今年になってからでも、そうした体験を 2〜3度している。

1度などは、向こうもやたら慎重に見えたので、こちらが近付いているのをちゃんと認識していると思っていたが、まるで危険な距離に十分に近付くのをわざわざ待ち受けていたかのように、あり得ないタイミングでいきなり飛び出してきた。こちらはなんとなく嫌な予感がして減速していたので、間一髪で急ブレーキをかけることができた。こんな場合の高齢者は多分、子どもより始末が悪い。

そうでなくても、最近は田舎に帰ると道路上の車の流れがやたらトロいことに気付く。昔はいくら田舎でも、こんなに遅くなかった。しかし最近は高齢者ばかりなので、制限速度 50km/h の道の流れが、45km/h ぐらいということが多くなった。それでいて、誰もイライラしている様子もなく、それが標準スピードになっている。

こうなると、日本社会はますます余計なお世話やうっとうしい規制ばかりが多くなって、自由な振る舞いがしにくくなるのだろう。例えば日本のエスカレーターでエンドレスに流されている 「手すりにおつかまりになり、黄色い線の内側に......」 なんていう類いのうっとうしいのが、世の中にあふれてくるに違いない。

最近はさらにびっくりしたのだが、あるショッピングセンターでエスカレーターに乗っているとき、英語で "Attention please" と言い出したので、何かと思ったら、”When you take a escalator, please hold the side belt, and keep inside the yellow line..." なんてのが続いたので、こけそうになった。

日本語でやられても、ただうっとうしいだけでびっくりはしないのだが、英語でいきなり  "Attention please"  なんてやられると、何事かと思うよね。

このエスカレーターのアナウンス、そのうち 「後ろを振り向く際には、足を滑らせないよう十分にご注意ください」 なんて文言が加えられるんじゃないかと、半ば本気で心配になった。

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2014/11/28

昆虫の写真が気持ち悪くてどうする

"ジャポニカ学習帳から昆虫が消えた 教師ら 「不快」 → 苦渋の決断" という withnews の記事に驚いた。製造元のショウワノートが 2年前から昆虫の写真を使うのをやめていたのだそうで、きっかけは、教師や親から寄せられた 「気持ち悪い」 という声だったというのである。

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この記事を紹介する Slashdot によると、若者の昆虫離れが進んでいるらしい。6月 14日の毎日新聞によれば、大阪府内の高校生が 「昆虫に素手で触れることができるか」 と言う質問に 「できる」 と答えたのが 1989年には 70%、2013年には 42%だったという。

「へえ!!!」 である。私としては、「どうして触れられないの?」 と聞きたくなるぐらいのものだ。ミミズや毛虫なら、まだわかるような気もするが、チョウチョやカブトムシが、しかも今回のニュースでは、実物でもなんでもない 「写真」 が、気持ち悪いなんていうのでは、まともに生きていけないだろうよ。

最近、仲間内で話題になったことに、「昆虫食」 がある。世界では虫を食う文化が結構広まっていて、南米ではアリがごく普通の食材になったりしている。私も子どもの頃はイナゴの佃煮なんてものを、日常的に当たり前のものとして食っていた。東北では、冬の間不足しがちがタンパク質を補うものとして重宝していたのだろう。

ところが、「イナゴなんて、到底食べられない」 という人間が、私の年代でも結構多いのである。私に言わせれば、「小エビが食えて、どうしてイナゴが食えないの?」 ということになるのだが、それはもう、理屈じゃない感覚のようだから、どうしようもない。

それは、私が 「ハツカネズミの躍り食いだけは絶対にできない」 と思っているのと変わらない感覚なのだろう。私なんか、近頃では霜降り牛肉のしゃぶしゃぶの方が、ずっと気持ち悪く感じるがなあ。そういえば、7年前の記事に、こんな風に書いたことがあった (参照)。

以前仕事の関係で、ちょっと高級なしゃぶしゃぶとかすき焼きなんかを食わなければならない機会が何度かあったが、私はサイドメニューの野菜ばっかり食っていた。だって、生の牛肉って食えばいくらでも食えるけど、しげしげと眺めると、ちょっと気持ち悪いんだもの。

本当に、超高級と言われる牛肉ほど脂肪だらけで、見ているうちにドロドロ溶けかかってしまうようで、かなりおぞましい。あれって、人間で言えば超メタボの不健康牛なんだろうと思う。

昆虫の写真ぐらいで気持ち悪がっていては、やがて来るであろう食糧不足の時代には、一番早く死んでいくことになるだろう。そのうち、「花の写真が気持ち悪くて触れない」 なんていう子が出てこないとも限らない。いや、絶対に出てくるだろうと思う。気の毒なことである。

【注】 写真は引用元の記事から転載。ショウワノートからの提供によるものだそうだ。

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2014/11/27

こんなにバター不足にしてまで、牛肉って食いたいかね

妻が最近のバター不足に音を上げている。 「バターがなかったら、マーガリンにすればいいじゃん」 というわけにはいかない、彼女なりのこだわりがあるようなのである。まあ確かに私も、ホテルの朝食なんかについてくるマーガリンの、あのちゃっちい食感には悲しいものを感じてしまうからね。気持ちはわかる。

私自身はバターを塗ったトーストを食べたいという欲求はまったくなくて、どちらかといえばブルーベリー・ジャムなんかの方が好きなので、最近になるまで市場でバター不足が深刻だなんて、全然知らなかった。妻に 「もしスーパーに寄ることがあって、バターがあったら買っといてね」 と言われて、初めて知ったぐらいである。

バター不足の原因は、昨夏の猛暑だそうだ。今夏ではなく、昨夏である。昨夏の猛暑で、乳牛の体力が衰えたことが原因だという。へえ、そんなに後効きしてくるものなんだ。

今年の夏はたまたま、それほど厳しい暑さではなかったが、温暖化が収まったわけじゃないので、猛暑はこれからも当たり前のことになるだろう。ということは、乳牛の体力はますます衰えて、バターの生産はますますタイトになる。これは覚悟しなければならない。

バターは超品薄でも、牛乳の供給は全然問題になっていない。乳業関係の出荷は、まず日持ちのしない牛乳を優先的に市場に出し、残った分をバターなどに加工する。だから、その 「残った分」 というのが少ないので、バターが品薄になっているんだそうだ。

さらに、最近は離農が多くて、酪農家自体が減っているらしい。うむ、確かに私の知人の関係者も、相次いで酪農を辞めている。それに最近は、高級牛肉を生産する方が儲けが大きいようで、乳牛の比率が減少しているらしいのだ。

私の個人的な価値観から言えば、牛肉なんて食う気にならないし、一度屠殺してしまったらそれっきりの肉牛よりも、継続して生産できる乳牛の方がいいように思われるのだが、市場のメカニズムはそんな風には動かないらしい。日本人、そんなにまで牛肉食いたいかね。

政府は国内酪農家を保護するために、バターの輸入は結構厳しく制限しているらしい。フードマイレージを減らすためには地消地産の方がいいから、それについて文句を言う気にはならない。もしかして中国製のバターなんて入ってきても、急場しのぎ以外では売れないだろう。

それにしても、牛肉はさんざん輸入して、さらに国内の肉牛の比率を高め、市場のバランスを崩してまで牛肉を食いたがるこの国の人間のメンタリティに、ちょっと疑問を感じてしまっている。

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2014/11/26

「イスラム国」 と、近代的国家観

Gigazine の "「ISIS 愛してる」 とFacebook に投稿した女性が逮捕される" という記事の見出しだけを読んだ時には、「そりゃ、いくらなんでもひどいなあ」 と思った。

Isis (イシス、アイシス) は、女性の名前である。元々は古代エジプトの豊穣の女神の名前だったが、女の子の名前として案外フツーにつけられる。だから、Isis という女性を愛しているレズビアンの女性が、IS (イスラム国) あるいは ISIS (イラクとシリアのイスラム国) の支持者と誤解されて逮捕されたか、あるいは同性愛を禁じる国だったために理不尽に逮捕されたか、そのどちらかだと思ったのである。

ところがこの女性、「イスラム国」 支持の (ごく素朴な) 確信犯だったらしい。Gigazine は次のように伝えている。

逮捕されたのはアメリカ・バージニア州在住のヘザー・コフマン容疑者。コフマン容疑者は Facebook 上に複数のアカウントを持っており、その中では 「アラーは偉大な功績よりもムジャーヒディーンを好む」 という文章が添えられたイスラム国兵士の写真がアップロードされていたり、「アラーのためのジハード」 という文章がシェアされたりしていました。当局は該当する Facebook アカウントの情報を得たのちに、テロリズムに関するおとり捜査を行いコフマン容疑者を逮捕したとのこと。

「イスラム国」 というのは、想像以上に影響力を拡大しているようなのである。世の中に不満をもつか矛盾を感じているか、あるいはその両方の人間にとって、自らの存在意義を見出し、孤立感を解消し、社会に対して過激なまでの働きかけ (あるいは復讐) をするための受け皿となっているようだ。

かつての過激な学生運動、暴走族、オウム真理教などと同様の機能を果たしているのだと思われるが、決定的に違うのは、彼らがものすごく潤沢な資金源をもっているらしいということだ。そのために、国際的に影響力の大きな活動を展開することが可能になっている。

今回のニュースとなったヘザー・コフマンという女性も、実際には 「 イスラム国」との具体的なパイプをもっているという証拠は何もなく、どうやら夢想的な支持者だったらしい。とはいいながらこれは、何もつながりがなくても心情的に 「ごく素朴な支持者」 となってしまう土壌が、世界中にあることを示す。

私はもちろん、「イスラム国」 に関しては否定的だが、理解すべき点がたった一つだけあると思う。それは近代的な国家観に対するアンチテーゼを、彼らが発しているということだ。これだけは彼らの無茶苦茶な行動とは切り離して、冷静に受け止めなければならない。

世界地図には国境があるが、実際の地球には国境線など引かれていない。国境は人間が勝手に引いたものである。もちろん、民族的なまとまりという心情の外縁というものが自然発生的に想定されたというのは、十分に理解できる。ここでいう 「民族的なまとまり」 というコンセプトに関しては、今年 9月に書いた "「ナショナリズム」 を巡る冒険” という記事を参照していただきたい。

しかし現在の中近東やアフリカに引かれた国境線は、それとはほとんど関係がない。西欧列強の都合で機械的に引かれたものである。単純な直線が多いということからも、それは見て取れる。「イスラム国」 はこうした勝手な国境線を無視し、新たな、あるいは復古的な国家を、受け入れがたい超原理主義に基づくとはいえ、想定している。

ただ彼らのこうした 「国家」 作りは、独自通貨や省庁、治安権力の確立と、妙に近代主義を模した形態を志向しているようだ。せっかくアルタナティブなコンセプトの国家を志向するなら、それなりに別の価値観と手法に沿ってもらいたかったのだが、そうはなっていないようだ。私はこの点においてだけでも、彼らの試みは挫折すると見ている。

結局、新たな 「国」 の確立はメタフィジカルなレベルで追求するべきものなのかもしれない。それはイエスが 「わが国はこの世のものならず」 (ヨハネ伝 18章 36節) と言ったことと通じる。

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2014/11/25

香港の自由を守る運動に心の底から共感

香港の民主派が占拠しているモンコックの道路で、警察によるバリケードやテントの撤去が行われた (参照)。腹立たしいが、天安門のような惨事にならなくてよかったということもあり、とても複雑な気持ちである。

私は前世紀の 80年代から 90年代にかけて、仕事で何度も香港に行き、香港ファッション業界の、若手デザイナーたちと交流をもった。彼らは 「どうして香港を逃げ出してヨーロッパや米国に移住しないんだ? と、多くの人たちに言われるが、僕らは香港に誇りを持っているから、ここでクリエーションを続けるんだ」 と話していた。彼らは今、怒りに燃えているだろう。

彼らは、中国人の血を持ち、狭苦しいが共産中国ではない闊達な都市で、西洋と東洋の交差点でしかなしえない、独自のファッション作りに燃えていた。彼らのクリエーションを支えているのは、「自由」 だった。自由こそが、彼らの誇りだった。それを踏みにじられたら、彼らの存在意義が否定されてしまう。

私は香港民主派の運動に、心の底から共感し、エールを送る。自由を守るために戦う彼らの姿を誇りに思う。我々の役目は、香港の地に天安門のような惨劇が繰り返されないように、しっかりとウォッチし続けることだ。

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2014/11/24

仕方のない選挙

このブログでも何度か書いているのだが、選挙に行かない若者の気持ちが、私はよくわかる。心から投票したくなるような候補者なんてほとんどいないし、支持したくなるような政党だってない。それに、投票なんてしたところで、この国が変わりそうな気もしない。

それでも選挙の度に欠かさず投票に行っているのは、「投票しても何も変わらないが、しなければますます変わらない」 という信念からだ。心から投票したい候補も政党もないが、いつも消去法と妥協の結果で、最後に残った候補者と政党に、仕方なく投票している。

そしてその 「仕方なく感」 が今回ほど強い選挙はない。なんだか馬鹿馬鹿しくてしょうがない。そりゃあ、投票には行くよ。行くには行くけど、「なんで今頃選挙なの?」 という気持ちが拭いきれない。

そもそも、絶対多数の自民党が気紛れ的に解散してくれたのは、野党としては議席を回復するチャンスなのだから、「解散、上等!」 となっていいはずなのに、口を揃えて非難している。やる気ないじゃん。このあたりからして、まったくもって馬鹿馬鹿しい。

多分投票率はものすごく低くなるだろう。投票に行くのは、仕方なくとはいえ、外せない義務と思っている私でさえ、いつもの何倍も馬鹿馬鹿しく思われて仕方がないのだから、投票したりしなかったりというような人だったら、今回は投票所に行く気がしないだろう。

投票率が低くなるのが確実だから、組織票の多い公明党と共産党が議席を伸ばすだろう。さらに今回は選挙そのものに関する反感が強いから、その批判票が共産党に流れる可能性もあり、「えっ?」 というほど伸びるかもしれない。ただ、自民党が議席を減らすのは確実とはいえ、浮動票が少なくなるのだから、それほど劇的に減ることもなかろう。

というわけで、「まあ、どうでもいいわ」 という意識が最初から勝っている。なんでこんな選挙に付き合わなければいけないのか、本当にうっとうしい。大方がそう思っているようで、へそ曲がりの私としては、敢えて 「俺はそうは思わないよ」 と言ってみたいところだが、残念なことにそう言えるだけの材料だってない。

本当に食えない選挙である。

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2014/11/23

欧州産ビールの 「非関税障壁」

多くの欧州産ビールが日本で 「発泡酒」 に分類されているのは、ブランドイメージを損なう非関税障壁だとして、EU が日本側に 「ビール」とみなすよう求めるというニュース (参照) に、初めはちょっと首をかしげた。

「発泡酒」 なら税率が低いので、非関税障壁というよりはむしろ 「優遇策」 になっているんじゃないかと思ったのである。2ちゃんねるなどでも、そんな反応が多い。イメージを重視しても税率が高くなるのでは、元も子もないじゃないかという理屈だ。しかしそれは、中途半端な理解だとわかった。

欧州産のビールは原料にコリアンダーなどの香料を使っている場合が多く、その他のスペックがすべて日本の 「ビール」 という基準をクリアしても、「規定以外の原料を使っている」 という理由だけで、「ビール」 というカテゴリーから排除される。

それだけならまだいいが、日本では麦芽の使用率が 50%以上の場合は発泡酒でもビールと同じ税率になるという規定があり、欧州産ビールの多くがこれに該当して、「イメージの低い発泡酒として分類されながら、ビールと同じ税率をかけられる」 というのが問題のようなのだ (参照)。なるほど、これは確かに 「非関税障壁」 である。

欧州でもドイツでは 「ビール純粋令」 というのがあって、「ビールは、麦芽・ホップ・水・酵母のみを原料とする」 ということになっている。これは、1516年にバイエルン公ヴィルヘルム 4世が制定した、食品関連では現在でも生きている世界最古の法律ということらしい。

ビールの本家本元と、日本人が勝手に崇拝しているドイツがこういうことになっているので、日本では余計なハーブなんかを加えたのは 「ビールまがい」 と考えられている。「ビール好き」 を自認する人ほど、ホップの効いた苦みのあるラガータイプしか認めない傾向があって、それが税制にまで影響しているとしか思われない。

そもそも、「ビール」 とか 「発泡酒」 とかいう分類は、ビールの高い税率を避けるために抜け道を探して開発した飲み物を、お国が追いかけて 「発泡酒」 なんていう妙なカテゴリーに分類して、税率をビールの次ぐらいに高くするといういたちごっこみたいな様相から生まれたもので、かなりガラパゴスっぽいものである。

実は世界にはいろいろなビールがあって、多様な楽しみ方をされているのに、「これはビールじゃない、1ランク低いんですよ」 といわんばかりに、勝手なカテゴライズをされて、そのくせ税率はビールと同じというのでは、欧州のビールメーカーはたまらないだろう。その辺の事情は理解できる。

ただ、仮にそこをクリアできたとしても、「苦みのあるラガータイプ」 が好まれる日本では、「チャラい香り付け」 なんかがされたビールは、欧州メーカーが期待するほどには受け入れられないだろうと思う。ビールという飲み物のとらえ方が、日本はかなり画一的なのだ。

発泡酒でもアルコールフリーのビールもどきでも、「うむ、これはビールに近い!」 なんていうのが評価の基準である。「独自のテイスト」 なんてものはちっとも重視されていないどころか、そんなものを追求したら、それだけで市場価値を失うだろう。

日本でもジョッキでがぶがぶ飲むというのではなく、ある種のカクテルみたいな感覚で、ちびちび飲むという飲み方が普及しない限り、欧州の個性派ビールはなかなか受け入れられないだろうという気がするのだよね。

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2014/11/22

いきなりの地震にびっくり

ブログの更新をしなけりゃいかんなあと思っていた今夜 10時過ぎ、iPhone に入れている地震情報アプリ 「ゆれくる」 が 「ピロピロピロ〜ン」 と、あの嫌な警報音を鳴らした。「やばいなあ」 と身構えていると、ほんの少しだけ体感できるほどの弱い揺れを感じた。

実は、こんな時ほど心配になる。というのは、地震の巣窟、茨城県南西部でお馴染みの、強くても震度 4程度の直下型地震とは、明らかに様相が違うからだ。直下型地震だと、特有の突き上げるような縦揺れが、いきなりズーンと来るのだが、今回はまったく違う。

この土地に住んでもう 37年になるので、直下型の揺れには慣れっこになっていて、「ああ、これが最大の揺れで、これ以上にはならない」 と、逆に安心するが、今夜の地震のように弱い揺れだったりすると、逆にうろたえてしまう。それは、どこか遠くで大地震があったことを意味するからだ。

とくに初期微動といわれる弱い揺れが長く続いたりすると、それはとりもなおさず、すぐに本番の強い揺れが襲ってくるということだから、本気で身構えなければならない。そうでなかったとしても、遠くに住む親類縁者が心配になる。

今夜の地震は、つくばの地までは本番の強い揺れは届かなかったが、慌てて階下に降りてテレビをつけると、長野県北部が震源で、最大震度は 6弱という。6弱といえば、3年半前の東日本大震災での、この辺りの震度と同じだから、結構な被害が出ているはずだ。

ニュースを見ても、白馬村で住宅倒壊という以外に大きな被害は報道されないが、何しろ真っ暗だから、どこでどんな被害が出ているか、発見しにくいし、伝えにくいのだろう。 夜が明ければ、いろいろなことがわかってくるはずだ。

長野県北部には、知り合いが結構多い。安否が心配になったが、こんな時に電話をかけるのは回線混乱の元だから、遠慮している。何人かは Twitter や Facebook で無事が確認され、ほっとしている。こんな時には、SNS が本当にありがたい。

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2014/11/21

「個性的」 であることと 「追従的」 であること

Gigazine に 「なぜ流行に敏感な人たちは誰もが同じような格好をしているのか、を数学者が解明」 という記事がある。しかし、この記事の日本語タイトルはかなり問題で、紹介している記事の内容と基本的に矛盾する。そしてその矛盾は図らずも、現代の 「流行」 という現象の重層性を表していると思う。

紹介されている内容の元記事のタイトルは、"The mathematician who proved why hipsters all look alike" というものだ。直訳すれば、「ヒップスターたちはどうして同じように見えるのかを証明した数学者」 ということになる。原文の 「ヒップスター」 を、日本語記事のタイトルでは 「流行に敏感な人たち」 と訳しているわけだ。

ところが元記事をみると、ヒップスターは 「流行に敏感な人たち」 とは捉えられていない。むしろ逆だ。元記事ではヒップスター (hipster)  と対照的な人たちのことを コンフォーミスト (conformist)と呼んでいて、むしろこちらの方が、流行を追うとされている。

ここではっきりさせておこう。"hipster" とは、「ヒップな人」 のことである。じゃあ、「ヒップ」 って何だ? ということになろうが、日本語で適当な言葉が見当たらない。 「ヒッピー」 という言葉の元になったということからも、見当をつけていただきたい。

ただ、"hipster" を英和辞書で引くと、私の手持ちの Wisdom 英和辞書では、「流行の先端を行く人」 という説明が出ている。ここが問題だ。流行には二通りあることを理解しないと、わけがわからなくなる。

早く言えば流行には、「当たり障りのない流行」 と、「ぶっ飛んだ流行」 とがあるのだ。「当たり障りのない流行」 とは、百貨店の店員などが、「今シーズンの流行は、オーソドックスなトレンチコートでございます」 なんて言って薦める場合のものだ。

ごくフツーのおばさんやおねえさんが、新しい服を買うときに流行遅れにならないように取り入れる、ごくフツーの 「はやり」 ってな意味である。そして、こうしたごくフツーの流行に従うのは、「ヒップスター」 ではなく、「コンフォーミスト」 たちなのである。ここをしっかりと踏まえる必要がある。

Conformist とは、直訳すれば 「体制順応的な」 という意味である。つまり、商業的なファッション雑誌などで 「今シーズンの流行はオーソドックスなトレンチコート」 なんていう記事を読むと、素直に受け入れて、オーソドックスなトレンチコートを買ってしまうのが、「コンフォーミスト」 だ。つまり、彼らは彼らなりに 「流行に敏感」 なのだが、別の言葉で言えば 「追従的」 なのである。

一方、ヒップスターは 「フツーのファッション情報」 には従わない。もっとぶっ飛んだ格好をしたがる。つまり 「敏感」 ではあるが、決して 「追従的」 じゃない。フツーの流行に追従するよりは、個性的でありたいという願望をもっている。ところが、「個性的でありたい」 と念願すると、結果としてみな同じような格好になってしまうのはどうしてかというのが、問題の研究の骨子なのである。

つまり、日本語の紹介記事のタイトルが間違っているのだ。文字通りに単純に考えれば、「流行に敏感な人」 が 「同じような格好になる」 のは、一定の流行に沿えばそうなるのが当たり前なのだから、「なぜ」 と問う意味がない。数学的に掘り下げる意味のない、ナンセンスな問いを、こうした記事のタイトルにしちゃいけない。

「なぜ流行に敏感な人たちは誰もが同じような格好をしているのか」 ではなく、「流行に追従しない人たちがみな同じに見えるのはどうしてか」 とすべきだったのである。こう表現すればこそ、「流行に追従しないくせに同じになってしまう」 というパラドクスが浮き彫りにされるのだ。

ここに 「流行の重層性」 というものが垣間見える。多数派が従うに抵抗を感じない程度の 「包括的ではあるが、ディテールのアレンジで多少は違いを演出できる」 というような流行と、「個性的であろう」 とする少数派がつい陥ってしまいがちな、「ぶっ飛んではいるが、結果として同じに見えてしまう流行」 とがある。

で、その 「ぶっ飛んではいるが、結果として同じに見えてしまう流行」 というのがどうして生じるかを数学的に解明したのが、元記事で紹介されている Jonathan Touboul という数学者で、彼は人間の脳のニューロンによる認識のタイムラグが、そのような現象を生じさせるとしている。

しかし私の考えでは、多分そればかりではなく、「個性的でありたい」 と願う一群ですらも、その 「個性的でありたい」 と願う志向性によって、「似たもの同士」 が集まって同じになりたがるという心理的傾向をもつのだと思う。「個性的でありたい」 ということも、一つの表面的なアイコンに陥りがちなのだ。

ラジカルな意味できちんと 「個性的」 であり続けるというのは、多分、ものすごく複雑で疲れる作業なのだろう。

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2014/11/20

日本のオフィス照明って無駄に明るすぎ

最近、「JIS 照度基準」 なるものがあると、初めて知った。工場、学校、商業施設なと、用途ごとに実にきめ細かく、必要な明るさが定められている。例えば、工場の設計室、製図室は 750ルクスなどと定められている。どうやら、事務系のオフィスは 500〜750ルクスぐらいと定められているようだ。

それで 「オフィスの明るさは 600ルクス必要」 などというのが一般的認識になっているが、省エネが叫ばれるようになってようやく 「それは神話にすぎない」 と言われるようになった。環境意識の高いオフィスでは、室内の照明は 350ルクスぐらいに設定されれていて、実感としてそれで十分である。

近頃は事務系の仕事では PC を使うのが当たり前で、ディスプレイは光っているので周りをそんなに明るくする必要はない。紙の書類を読むのでも、部屋全体をそんなに明るくする必要はなく、手元だけをタスク・ランプなどで照らせばいい。最近は LED の省エネ型のものがいくらでもある。

近頃は窓ガラスなどの開口部を広くとって、晴れた日中はさんさんと日の差し込む設計のオフィスが多いが、それでも天井の照明を全部点けている。試しにその照明のスイッチを切っても、体感的な明るさはほとんど変わらないのだが、従業員は出社するとほぼ自動的に照明のスイッチを全部オンにする。

たまに環境意識の高い従業員がいて、スイッチを入れないでおいても、後から来たオッサンが何も考えずに、バシバシ全開にする。トイレから出る時にスイッチを切ると、「なんでいちいち暗くするんだ」 と怒り出したりする。

オフィスの照明というのは、かなりの電力を使う。これをすべて LED に変えて、エアコンをちょっと節約モードで使うと、電気代はものすごく安くなる。トイレの照明を、センサー付きにして使わない時には自動的にオフになるようにすると、さらに節約になる。

「暗いのは嫌だ」 なんて言っている人でも、オフィスの照明をこっそりと半分しか点灯しないように細工しておいても、全然気付かなかったりする。日本のオフィスの照明の使いすぎを是正するには、単に気分的な 「明るい方がいい」 という思い込みを、リセットする必要があると思っている。

家の明かりでも、コンビニの店内みたいに馬鹿馬鹿しいほどあかるくする必要はない。試しにちょっと照明を暗めにしてごらん。とても落ち着くから。

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2014/11/19

ブログの時代の終わりはいつ来るのか

近頃、このブログのアクセス数が減っている。ちょっと前までは 1日に 2000 ぐらいだったのだが、最近はほぼ半分の 1000 ぐらいで推移している。減っている理由は、はっきり言って、内容がつまらなくなっているからだろう。

つまらなくなっているというのは二重の意味がある。一つは、最近ネタ不足で、自分としても快心のヒットが飛ばせたと思えるような記事が減ったように思えること。そしてもう一つは、エンタテインメントとして気軽に読みやすい記事を、あまり書かなくなったことだ。

ちょっと前までは、私もアクセス数が欲しいと思っていたので、かなりエンタテインメントを意識していたことがある。しかし最近は、「あれ、俺って、こんなに真面目なやつだったっけ?」 と、自分でも驚いてしまうほどシリアスなことを書いている。これじゃ、よっぽど物好きでもない限り、読んでもつまらないやね。

しかしもうここまできたら、アクセス数を稼ぐような記事よりも、本当に書いておきたいことを書くべきだと思うようになったのである。好きなように書いても、1日 1000 アクセスはあるのだから、もう贅沢を言わせてもらってもいいだろう。

そしてもう一つ思い当たるのは、そもそもブログの時代は終わりつつあるんじゃないかということだ。

初期の 「ウェブ・ページ」 と比較すると、作り込みもイメージも軽くて済むというのが、ブログのアドバンテージだったと思う。この軽さが受けたのだ。しかし今や、もっと軽い SNS が浸透している。書くのも読むのも、SNS の方がずっと取っつきやすい。Twitter なら 「毎日更新」なんて、当たり前だろうし。

Twitter では書ききれないようなことでも、Facebook なら書ける。だったら、わざわざブログみたいなヘビーなものに近付くことはない。なるほど、世の中は栄枯盛衰だから、ブログはいつかその使命を果たし終えて消え去る時が来るのかもしれない。

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2014/11/18

非合理には非合理で対応するのが合理的

つくばの里の田園地帯に開発された住宅地に引っ越してきて、37年を過ぎた。故郷に住んでいたのは 18の春までで、それから 30歳の夏にここに来るまでは、東京都内の 5カ所に住んだ。

12年間で 5カ所に住んだのだから、平均すると 1カ所に 2年ちょっとということになる。まあ、最初の 2カ所はそれぞれ 1年半ぐらいしか住まなかったから、残りは 9年間で 3カ所。一カ所に大体 3年ぐらいは住んだわけだ。それぞれの場所にはそれなりの思い出もあるが、37年という年月に比べれば、ほんの僅かな期間でしかない。

好むと好まざるとにかかわらず、それだけこの地域には根を張ってしまったことになり、町内自治会の役員も、順番で何度かやった。不思議なことに、私が役員をやる順番の年は大した問題が起きないが、他の年はなんだかんだと面倒が起きて、たまたまその年の役員をやった方はかなり気疲れしてしまうようである。

問題というのは、大抵は自治会の内部で、どこかのおっさんがへそを曲げてぐちゃぐちゃ文句を言い続けることだ。大抵の人は、自治会の内部でもめ事なんか起こしたくないから、なんでもかんでも執行部からの提案通りシャンシャンシャンで済まそうとするが、中には文句をいわないと気が済まない人がいる。

で、その文句の中身というのは、ほとんどは 「先日、○○について執行部に問い合わせたのだが、返事がない」 とか、「××について、俺の所には何の挨拶もない」 とかいうような、どうでもいい些細なことである。ただ、些細なことでもこじれると大騒ぎになる。

大抵の人はそんな面倒には関わりたくないから、「また始まった、あの人にも困ったものだ」 と思いつつも、自然にガス抜きされて落ち着くのを待つ。ところが中には、ごちゃごちゃ状態が好きな人もいて、尻馬に乗って余計なことを言い、延々と蒸し返しになったりする。周りはうんざりだ。

で、私が役員をしている年にはそんな問題が起きないというのは、それにはそれなりのコツみたいなものがあって、テキトーにそれを活用しているからだと思う。

文句を言いたい人というのは、ただひたすら文句を言うためだけに文句を言うのである。別に客観的な解決を望んでいるというわけではなく、自分の気が済んでしまいさえすればいいという、甚だ勝手な都合なのだ。それだったら、客観的な解決なんて求めずにガス抜きだけしてやればいい。

それには、「いや、そうじゃないんですよ」 という反応をしないことである。問題のオッサンの話をただひたすら聞き、「そうですか、そうですか。そりゃ、大変でしたね。なるほど、そりゃそうだ」 と、相づちを打ち続ける。ただ、決して 「それは申し訳ありませんでした」 と謝ることはしない。ひたすら 「そうですか、そうですか」 と聞くだけだ。

そうすると、向こうの方から 「俺だって、好んでことを荒立てたいってわけじゃないんだ。ただ、筋さえ通してもらえば、納得するんだ」 なんて言い出して、別に筋なんて通してやったわけじゃないのに、いつの間にか勝手に矛を収め、収束する。

それで、ひたすら話を聞き続けた私は 「あいつはいいやつだ」 なんて言われることになってしまう。「いいやつ」 かどうかは甚だ怪しいもので、私は聞いたことなんて片っ端から忘れ、口先で 「そうですか、そうですか」 と言っているだけなのだが。

つくづく、人間は合理的な存在なんかじゃないと思う。ただ気分で怒ったり納得したりするだけだ。単に気分で怒っているだけのオッサンに理屈で説得しようとするから、相手は自分が馬鹿にされたような気がして、ますますいきり立つのである。

相手はどうせ合理的じゃないんだから、非合理には非合理で対応して済ませてしまう方が、ずっと合理的というものなのだ。

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2014/11/17

水鳥の脚は冷たくないのか

いよいよ寒さが増してきて、近頃まれなほどにたっぷりと満喫した秋が終わり、冬にさしかかった。我が家の裏手を流れる川も、水量が減ってきて冬の様相になってきている。そしてその水量の減った川に、白鷺が頻繁に舞い降りて水の中の魚を狙っている。

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私が冬の鷺を見て感心するのは、「よく脚が冷たくないもんだなあ」 ということだ。冬の川とて水深が浅くなってはいるものの、場所によっては、あるいは雨の翌日などは、結構な深さになる。時には脚のかなりの部分が水中に没したまま、鷺はじっと立っている。

右の写真は 5年前にかなり水かさが増えた冬の朝の写真だが、かなり寒い朝で、かじかむ手でシャッターを押したと思う。よくまあ、こんな冷たい流れの中に立っていられるものだ。

ちょっと気が向いて調べてみたら、鳥類の脚は羽毛に蔽われずに剥き出しなので、寒さや水の冷たさに対応するために、特別の構造になっているということがわかった。寄崎まりをさんという鳥類専門の獣医師さんのブログによると、鳥の脚には 「脛足根血管網」 という効率的な温度調節機能があるらしい (参照)。以下に引用する。

これは体から足先へ向かう動脈と足先から体へ返る静脈が網目状に変化し隣り合わせになっています。体を流れてきた暖かい動脈血は足先からくる冷たい静脈血と脛足根血管網で隣り合わせになることにより冷やされて足先にいきます。一方、足先にからくる冷たい静脈血は暖かい動脈血と交わることで温められて体に戻ります。

つまり、足先に向かう動脈血は途中で冷やされて、外気温との差が小さくなり、そのために寒さや冷たさを感じなくて済む。そして静脈血となって再び心臓に戻る時、今度は暖められて、体幹を冷やさずに済むというのだ。要するに、血液が脚に行き来する途中で、熱交換をしているのだ。

ただ、こんなような効果的なシステムを体内に内蔵するとはいえ、それでもやはり、我慢強いものだと感心してしまうのである。野生であるということは、ちょっとしたことである。

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2014/11/16

偏差値 39の受験生が、2か月で一流大学に合格した話

Nifty News に、"受験生に朗報 「受験は3か月あれば間に合う」" という記事へのリンクがあった。私は 「うん、確かに 3か月あれば十分だよね」 と思った、それどころか、私は今年 2月に 「入試シーズンになると思い出すこと」 という記事で書いたように、大学入試のための受験勉強は、直前の 12月、1月の、2か月しかやらなかった。

冒頭のリンク先に飛んでみると、この記事を書いたのは、『偏差値 40の受験生が 3か月で一流大学に合格する本』 を書いた先生だとわかった。私はまたまた、「うん、そりゃそうだよね。偏差値 40ありゃ、十分すぎるよね」 と思った。何しろ私は上述の記事ではそこまで書かなかったが、高校 3年時の偏差値は 39しかなかった。

さらに受験ということにまったく興味がなかったから、自分の偏差値が 39ということすら全然知らなかった。後輩に 「ウチの高校の受験資料によると、前年度にワセダに現役合格したのは 1人だけで、しかもその人の偏差値は 39ってことになってるんですけど、それって、先輩のことですよね」 と言われ、それで初めて知ったのである。

ただ、「偏差値」 という言葉のちゃんとした意味や、どんなシステムでそんな数字を弾き出すのかということについては、今でも何も知らない。興味がないから、調べてみようという気にもならない。

ウチの高校はその頃、進学校とはいえまともな進学指導なんてしていなかったようで、私以外の受験生は偏差値 50〜60以上あっても、軒並み不合格だった。そしてそのはるか下の 39というところに、1つだけぽつんと○印がついていて、それが私だったのである。まったくもう、他の連中は 3年間もかけて何をさせられていたんだろう。

それをみても、冒頭のリンク先の記事を書かれた予備校の先生がいうのもわかる。フツーの高校の受験指導なんて、確かに間違いだらけなのだ。私は母校の教師に 「お前みたいなケースがあると、『受験勉強なんてぎりぎりまでしなくていい』 ということになって、指導上困ってしまうんだよ」 と言われた。

というわけで、私は 「偏差値 39の受験生が、2か月で一流大学に合格する本」 というのを書けたかもしれない。ああ、実際に書いとけばよかった。だって、本当に受験勉強なんて、ぎりぎりまでしなくていいのだもの。

ただ、上述の受験生への 「朗報」 という記事を読んでみると、なんだかいかにもつまらないのである。この先生はいわゆる 「勉強」 という行為を、一流大学の入試に合格するために 「最適化」 するのが、最も正しい方法だと言っている。

私の考えでは、「勉強」 を大学受験なんていうつまらないものに最適化させてしまったら、それ自体がとてもつまらないものになってしまう。そんなつまらないことに、若い時代の 3か月間を振り当てるなんて考えられない。かけがえのない時間の損失になる。2か月で十分だ。

もっとも、私の高校 3年時の偏差値が 39しかなかったと言っても、中学時代は常にトップだったし、とくに勉強なんかしなくても、試験で苦労したことは一度もない。家庭学習しろなんて言われても、「授業でたいていわかっちゃうんだもの、これ以上、一体何を勉強すればいいんだ?」 と思って、遊び呆けていた。

経験からいうのだが、大学入試に出てくる問題のレベルなんていうのは、中学校までの学習の土台さえしっかりできていたら、あとは簡単に身につく。だから、高校時代はさらに徹底的に遊び呆け、授業をサボりまくって、偏差値が 39まで落ちていた私も、2か月あればあっさり取り戻せた。

高校時代は遊び呆けていたといっても、いろいろな本は読んでいたから、受験勉強には全然最適化されていなかったけれど、脳内はとても活性化されていたと思う。だから私は、予備校の一流講師の助けも借りず、「最も最適化された受験勉強」 のメソッドを自力で自然に発見して、というか、ずっとわかってはいたけどあえて実行する気になれなかったことを、最後の 2か月間で、ちゃちゃっとやっちゃったわけだ。

あんなくだらないメソッドの受験勉強を 2か月より長く続けていたら、私は私でなくなっていた。きっとスポイルされてしまっていたと思う。幸運なことに 3か月も関わらずに済んだから、今の私がある。

ただ逆に言えば。高校生活のほとんどを、好きなことしかせずに遊び呆けていたからこそ、受験というものを外から客観的にみて、「要するに、こことここさえ答えりゃいいんでしょ」 というキモを自然に理解できたのだと思う。そして、2か月が限度というほどの、ちょっとした集中力を発揮したのは、確かかもしれない。

そしてそれから先は、いわゆる受験勉強的なものでないことばかり学んできているというわけなのだよね。

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2014/11/15

「無争点翼賛選挙」 で、どう投票すべきなのか

一昨日の "またしても 「解散風」 が空しく吹き始めたので" という記事で、「もし解散総選挙があるとすると、その争点は 『消費増税延期』 ということなんだそうだ」 と書いた。ところが民主党が急に 「消費増税先送り容認」 を言い出して、それもおぼろげな争点とすらならなくなってしまった。

自民党としては 「今回総選挙をしたら、多分議席は少し減る」 と見ているらしい。とはいえ、前回の選挙で大勝しているので、多少減ったところでそんなには打撃じゃない。

それどころか、「最大野党の民主党の選挙準備ができておらず、しかも増税賛成というなら、そんなに減らない。下手したら増える」 ぐらいに見ていたフシがある。しかし民主党の 「変心」 で、今度の選挙は、一見すると 「無争点翼賛選挙」 みたいなことになる。

この民主党の変身を、管官房長官は 「えーっという感じ」 なんて言っているが、そもそも自民党自身だって三党合意を翻しているんだから、驚くほどのことじゃない。今となっては増税に賛成しているのは日銀と財界しかないのだから、「方針通り増税」 なんて言い張って悪役になるほどには、民主党もぼんくらではないということだ。

ただ、まったく 「無争点」 というわけではない。毎日新聞によると、野田元首相は 「アベノミクスが失敗して景気回復が遅れていることを政権自らが認めている時に、増税しろとは言えない」 と語ったという (参照)。「論理としてのみ」 言えば、これ、増税を容認しながらも、返す刀で自民党のイタいところを突いている。

自民党としては、あんなに自信満々だった 「アベノミクス」 が、どうも雲行き怪しいどころか、実質的な景気回復にはあまり役に立っていないとは、口が裂けても言えない。しかし消費増税を延期せざるを得ない理由が 「景気回復が思わしくないので」 ということなら、フツーの言い方なら 「実は経済政策は成功してない」 ということだ。

ただ、民主党の 「正しい理屈」 も、「じゃあ、自分の経済政策はどうだったんだ?」 と切り返されたら、口を濁すしかないだろう。つまり民主党は、「自民党じゃなく、ウチに任せてくれれば大丈夫」 と言えるだけの主張も実績もない。「論理としてのみ見れば正しい」 というのは、そういうことだ。

というわけで、私は 12月実施が確実な総選挙では、「こいつに任せれば大丈夫」 という視点で投票することができないのである。候補者を片っ端から消去法で消していって、しかも自分の票が完全に 「死に票」 にならない程度の妥協を織り交ぜて、仕方なく一票を投じるという態度でしか選挙権を行使できない。

これは、今度の選挙だけに限った話ではなく、選挙権を得て投票というものをするようになってから、ほとんど例外なくずっと続いてきたことである。これは政治家のみの責任ではなく、当然ながら有権者全体の責任でもあると思っているのだが、悲しいことではある。

この調子だと、原理原則を主張してさえいれば面目は保たれるという大きなアドバンテージをもつ共産党が、また前回の選挙のようにちびっと伸びることになるかもね。

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2014/11/14

日本人はギャンブル中毒か?

ちょっと旧聞になって恐縮だが、今年の 8月に厚生労働省研究班の発表によると、パチンコや競馬などをやめられない 「ギャンブル依存症」 の疑いがある人は、国内に 536万人いると推計されるという。成人全体では国民の 4.8%にあたり、男性は 438万人 (8.7%)、女性は 98万人 (1.8%) という話である。

で、この数字は諸外国に比べて断トツに高いんだそうだ。同様の調査で、ギャンブル依存症の疑いのある人の人口比率は、米国 (02年) で 1.58%、香港 (01年) で 1.8%、韓国 (06年) で 0.8%だという。とすると、日本のギャンブル依存症かもしれない人の比率は、米国の約 3倍、韓国の約 6倍にも達するわけだ

とくに男性の 8.7%という比率はすごい。男が 50人いたら、そのうち 4人か 5人がギャンブル依存症っぽいということになる。勤勉で几帳面、真面目で額に汗してコツコツ働くという、従来の日本人のイメージは一体どこに行ったのだ。

なんでまた、こんなに高い数字になるのか、その原因の一端は、ちょっと考えればすぐにわかる。日本ではそこら中でギャンブルができるという事実が大きい。全国にパチンコ、パチスロ店は、約 13.000店あるという。これだけあれば、ギャンブルはし放題だ。。

フツーの街並みの中に、こんなにも白昼堂々と ギャンブルのできる施設があるという国を、私は日本以外に知らない。ギャンブル依存症の疑いのある人が多いのは、当然にも、ギャンブルのできる施設が身近にあるからである。なければできないのだから、こんな数字にならない。

だいぶ昔に参加した米国市場の視察ツアーで、ニューヨーク、シカゴを視察した帰りに、なぜかラスベガスに 2泊させられたことがあった。私はギャンブルにはほとんど興味がないので、真面目にラスベガスのウォルマートなんかを視察していたが、同行した連中の多くは、ホテルのカジノでスロットマシンに興じていた。

遠くから眺めただけの印象だが、ラスベガスのカジノでは、スロットマシンなんていうのは、あまり人気がないようで、マシンがずらりと並んだスペースはガランとしている。そしてそんな中で黙々とハンドルを握っているのは、日本人がやたらに多い。

どうやら英語ができないので、ディーラーが相手をするルーレットやポーカーに挑戦するのはビビってしまうらしいのだが、どうもそうした理由ばかりではないという印象だ。彼らは 「他のギャンブルにはビビるから、仕方なくスロットマシンをしてる」 というのではなく、どうみてもすっかり 「没入」 しているのである。

その顔は、「日本でパチンコしてる時もこんな顔してるんだろうなあ」 と思わせるに十分だ。私はそれまで、ギャンブルできる施設がありさえすれば、日本人に限らず一定の比率の人間はギャンブルに走るものと思っていた。ところがこの時のラスベガス滞在で、この考えは明らかに変わった。

日本人は、機械を相手に孤独なギャンブルに没入するのが好きみたいなのである。日本にはパチンコ屋が多いから、パチンコ依存症も増えると思っていたが、どうもそうじゃない。日本人はパチンコが大好きだから。自然にパチンコ屋も増えるのである。需要と供給の関係だ。

多分、米国人は日がな一日、パチンコ台の前に座って玉を弾いていることなんてできないと思う。ニューヨークの街にパチンコ店なんか開いても、多分あまりはやらないだろう。

その意味で、日本人はパチンコというギャンブルに向いていて、その需要に応じてパチンコ店も多いが故に、ギャンブル依存症かもしれない人の比率もパチンコという特殊なギャンブルによって押し上げられているのだと思うのである。

日本にカジノを作ったら、ただでさえギャンブル好きな日本人なんだから、大変なことになってしまうと危惧する人もいるが、私はそこまで心配する必要はないんじゃないかという気がする。もし日本に数カ所の公認カジノが出現したとしても、日本人の 5%近くが足繁くそのカジノに通うとは思われない。

彼らの多くは、わざわざ遠くのカジノまで行ってスロットマシンをするより、身近なパチンコ屋でパチンコをすることになるのだろう。

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2014/11/13

またしても 「解散風」 が空しく吹き始めたので

年内の解散総選挙が、既に既定事実になったような印象だ。なんでまた、急に降って湧いたような解散風なのか、本当に政治というのはよくわからないが、その背景を素人のレトリックでまとめると、こんなことになるらしい。

今回、もし解散総選挙があるとすると、その争点は 「消費増税延期」 ということなんだそうだ。今のところあまり声高ではないが、どうやら安倍内閣は、消費税を 10%にする再増税のスケジュールを、先延ばししたいようなのである。ずいぶんおぼろげな争点である。

そんなことなら、今の国会でも自民党が圧倒的多数なのだから、「景気回復が期待したほどじゃないので、再増税は延期」 と決定してしまえばいいだけのことだ。しかしそうせずに、それについての 「民意を問う」 というのが、いわゆる 「解散の大義名分」 というものであるらしい。

安倍内閣は今年初めまでは 「アベノミクス大成功」 と自信満々だったので、消費税が 8%になってからというもの、なんだか雲行きが怪しくなったとはいえ、自分からは 「景気回復が思い通りに行かないので」 とは、口が裂けても言えないのだろう。それで、争点はどうもおぼろげなものにするしかないようなのだ。

自民党はこんなにたくさん議席を取ってしまっているくせに、争点をおぼろげにしてまで総選挙をしてしまいたいのは、「今なら議席減少が最小限で済む」 という、「なるほどね」 と言えそうな、また言えなそうな、変な理由ということのようなのである。

まあ、衆議院というのはどうせ任期満了まで解散しないというのは滅多にないことなので、「勝てそうなうちに選挙しちゃう」 というのは、与党たるものの常套手段なのだろう。しかし、「来年以降になるとボロが見えてしまうから、早いうちがいい」 ということなら、年末に自民党に票を投じるのは馬鹿馬鹿しい気がするのだよね。

一方、最大野党の民主党は従来の方針通りの 「再増税実施」 にこだわるしかないと言われている。民主党は自分が政権を取っている間にそれを決めちゃったという行きがかり上、明確に 「増税延期」 とは言い出しにくいらしい。しかしそんなことを言ってしまえば、消費増税は自民党も含めた合意事項として決められたはずなのだから、立場は自民党と同じはずなのにね。

私の周囲では 「選挙にかかる金も税金から出てるんだから、無駄遣いだ」 というオッサンが案外多い。それは最近のマスコミが言いまくっているのと同じことで、まあ、はっきり言えば、マスコミの尻馬に乗っているだけの話だ。何しろこれが代表格の批判的指摘なのだから、まあ、誰でも無責任に言いやすい。

しかし私はへそ曲がりで、マスコミの言いぐさに乗りまくるのは嫌な性分だから、今さらその視点での批判はしない。だって、「選挙は税金の無駄遣い」 としたり顔でいうオッサンだって、消費税が 10%になることに関しては 「イヤだ」 と言っているんだし。

一方、解散・総選挙を批判する大マスコミはといえば、案外 「消費増税は粛々と実施すべし」 なんてことを言っている新聞が多い。これは口を揃えて 「庶民の暮らしを守れ」 なんて言いたがるいつもの様子とは、明らかに違う。

どうやら新聞は、消費増税になっても 「軽減税率」 なんていう裏技で優遇してもらえるのが確実という雲行きらしい。欧州各国でも、食料品や新聞の間接税は、他の品目より低めにされるというのが一般的で、今回の消費増税ではそれが適用されると踏んでいるらしい。

というわけで、大新聞は購読部数減少という長期傾向が、少なくとも加速せずに済むんじゃないかと期待しているフシがある。今後さらに消費税率アップという事態になっても、新聞の税率は低めにするという権益が保証されるなら、相対的な利益は確保される。「他品目の税金が上がっても、わしゃ知らん」 と言っていられるだろう。

昔から内閣というものは、前回の総選挙から 2年ぐらい経つと解散したがる持病があるのはわかり切っていることだ。争点がはっきりした総選挙では、いろんなことをあおり立てるのに、今回みたいな選挙だと 「税金の無駄遣い」 と言い出すのは、マスコミも案外勝手なものなのである。

というわけで、多分来月に実施されるであろう総選挙に、自分自身がどう臨むのかといえうと、一昨年の今頃に書いた「総選挙で投票する先が見当たらない」 というジレンマに、今から陥ってしまっている。民主党にはとっくに愛想が尽きているが、自民党は 「原発推進」 という基本路線のレベルで、投票する気になれない。

じゃあ、いわゆる 「第三極」 といわれる諸政党を選ぶべきかといっても、茨城県の選挙区に多くの政党から立候補者が出揃うことは絶対にないと、これまでの経験でわかっている。だから、「棄権はしたくないが、積極的に投票する先がない」 のである。

というわけで、「消去法」 で、最後に残った候補者と政党に、仕方なく投票するということになってしまう。これはもう、いつもの通りで、本当にもう悲しい限りである。

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2014/11/12

iOS 版 MS Office をインストールした

iOS版 MS Office が日本でもついにリリースされ、App. Store で大人気になっているらしい。私も遅ればせながらダウンロードして使い始めた。

私はメインマシンとして仕事で使っている MacBook Pro では Office for Mac (2011) を使っている。しかし、iPhone と iPad でも是非とも MS Office を使いたいという気はしていなかった。

Mac の Word, Excel, PowerPoint で作成したドキュメントは大抵 iOS 上の iWork (Pages, Numbers, Keynotes) で開けるからほぼ問題ない。最近ではプレゼンをする時でも、Mac の パワポで作ったファイルを iPhone の Keynotes で読み込んで、プロジェクターにつないでいるほどだ。

これは、「今や、複雑なファイルを作り込む作業以外では、PC なんて不要ですよ。プレゼンするためにわざわざご大層に PC を持ち込むなんて、既にナンセンスですよ」 というコンセプトを訴求するためのデモンストレーションである。もちろん iPad でもできるが、いかにもちっぽけな iPhone でやる方が、デモンストレーション効果が高い。

もう実感として、たかがプレゼンに PC を使う人の気が知れないと思うまでになった。ただ、iWork にもたった一つの不満がある。それは 「縦書き表示」 に対応していないことである。だから、縦書きでのアウトプットが必要な時だけは、仕方なく従来通りに、PC を使っていた。

私は仕事がら、Word で縦書きの原稿を書いたり、PowerPoint で伝統的なトピックのプレゼンをしたりすることがある。古典芸能や和歌に関するプレゼンをするのに横書きでは、致命的というわけではないが、やはりちょっとそぐわない。できれば縦書きで行きたいところだが、KeyNotes は横書きにしか対応していないのだ。

というわけで、iOS 版 MS Office がリリースされたと聞いて、私は縦書きドキュメントを iOS 上でも取り扱うため、ただそれだけのために、さっそくインストールしようと思った。それ以外の用途では、別にお呼びじゃないのである。

ところが、当初の情報では、iOS 版 Office は、やはり縦書き対応をカバーしていないということだった。「なぁんだ!」 と私は思った。「そんなんじゃ、わざわざインストールする意味なんてないね」 ってなもんだ。縦書きする以外で、iOS 上で MS Office を使う必要性なんて、全然感じないからね。

ところがちょっと調べてみると、iOS 版 MS Office は、縦書きドキュメントを作成することはできないが、PC で作成した縦書きドキュメントを縦書きのまま読み込んで、それを編集することなら可能だとわかった。それなら、インストールする意味は十分にある。

私の不満点は、PC で作成した縦書きドキュメントを、これまでの iOS 向けアプリではそのまま読み込むことができなかったという点に尽きるのだ。そもそも、縦書きドキュメントの作り込みみたいな、長くなりがちで七面倒くさい作業まで、iPhone や iPad でしようとは思わない、そうした作業は、PC でやる方がストレスがない。

もっと端的に言えば、PC で作った縦書きの Word ドキュメントを、iPhone と iPad でそのまま読み込み、そして、縦書きのプレゼンを、iPhone でスクリーンに映し出すことさえできれば、それで OK なのだ。そのためだけに、iOS 版 MS Office をインストールしたのである。有料だったらちょっと考えたところだが、無料ということなので、何はともあれやっちゃったのである。

試してみたところ、手持ちの縦書きファイルがきれいに再現された。無料でこれが実現されたのだから、何の不満もない。

MS がこれを無料公開に踏み切ったのは、MS Office のアカウントがなければ使用できないという縛りをかけることによって、「Windows 版と Mac 版の Office 365 は、これまで通り、どうぞご贔屓に」 ということなんだろう。うぅん、しょうがないなあ。

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2014/11/11

柔道 「講道館杯」 と、割り切れない日本

NHK BS で、柔道の 「講道館杯」 決勝の何試合かを見た。気持ちよく一本で勝負の決まる試合もあれば、男子 90kg 級のように、両者が最後までほとんど技を出せず、片方がたった 1度の 「指導」 をくらったというだけで優勝が決まるという決勝もあった。

格闘技フリークの私だが、柔道にはほとんど素人で、専門的なことは言えない。しかし素人目で言えることを言ってしまうと、講道館杯というのは、他のメジャーな大会と雰囲気がビミョーに違う。いかにも 「柔道そのもの」 というスタイルが目立つ。

早く言えば、講道館杯の試合は、両者が案外簡単に組み合ってしまうのだ。昔の柔道はたいていそんな感じだったが、今の柔道は、有利な組み手になるために、離れ、振り払い、タックルまがいのことまでするというように、離れている時点で策の限りを尽くす。だから、講道館杯はタイムマシンに乗った柔道という印象だ。

柔道には 「柔道と Judo という二つの競技がある」 と言われる。別の言い方では 「講道館式と国際式」 ということになるのだろう。伝統的に美しく一本勝ちを狙う 「武道としての柔道」 と、とにかく勝つためにポイントを狙う 「競技としての Judo」 というのがあるというのは、確かに見ているだけでわかる。

日本では高校ぐらいまでの柔道部だと、伝統的柔道が優勢のようだ。せこくポイントを狙いに行ったりすると、「若いうちからそんな柔道をしたら、悪いクセが付く」 なんて言って指導者に怒られたりするらしい。まあ、凡庸な柔道選手だったら、せこいテクニックに走るより人間形成にも役立つ 「美しい柔道」 を志向するというのもわかる。

ところが、下手に実力がついてトップクラスになってしまうと、今度は国際大会でも勝つために、急に 「Judo への対応」 をしなければならない。しかしある程度完成されたスタイルを身につけてしまってからそれを変えるというのは、かなり大変な作業である。

その意味では、ダブル・スタンダードで育てられる日本の柔道選手は気の毒である。他の国なら初めから 「勝つための Judo」 に徹すればいいのだろうが、下手に柔道の本家だけに、伝統的な価値観に縛られてしまうのだ。トップクラスになっても、講道館杯では伝統的な柔道までこなさなければならない空気があるし。

それだけに、別に講道館杯で優勝しなくても国際大会に出場できる実績のある選手は、ちょっとした怪我を理由に欠場する傾向があるような印象がある。「講道館杯で悪いクセが付いたら大変」 なんて考えているのだとしたら、かなり問題だ。

柔道をみていると、「割り切れない日本」 というのをものすごく強く感じてしまうのである。

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2014/11/10

Google の "Blogger" に障害が発生していたことについて

Google のブログサービス ”Blogger" が、今月 8日から 9日にかけてブログにアクセスできないという障害が発生していたようだ。今は完全に復旧しているようで、なによりである。

この件に関しては、Blogger を使っている友人から、「今、私のブログにアクセスできない障害が発生していますが、URL の最後の "blogspot.jp" を "blogspot.tw" に変えると、いつも通りにアクセスできます」 という連絡があり、それで初めて知った。それがなければ知らずに済んでしまうところだった。

試しにブックマークでいつもの URL にアクセスすると、確かに何も表示されない。「不具合発生中につき、時間をおいてアクセスしてみてください」 みたいな告知すらない。それではと、言われた通りに URL の最後を "tw" に変えてみたら、いつものようにきちんと表示できた。「台湾のブログじゃないのに」 という違和感はあったが。

この "blogspot.tw" というのは決して緊急避難先だったわけでもないようで、復旧後の今でも、このドメインでフツーに表示される。試しにやってみたところ、”tw” でなくても、"hk" (香港)、 "ca" (カナダ)、"de" (ドイツ)、"fr" (フランス)、"in" (インド) でもきちんと表示された。(ほかにも OK のドメインはあるだろう)

しかし "cn" (中国)、 "ar" (アルゼンチン)、"au" (オーストラリア) ではダメだった。これって、Google が Blogger サービスを実施している国ならば、どこの国コードでも OK ってことなのだろうか。オーストラリアがダメというのは意外だが、それについては時間がなくて調べる気にならない。ちなみに、最後を ".com" にすると、自動的に "blogspot.jp" にリダイレクトされるようだ。

これに関しては、Slashdot の 「Blogger で障害発生、日本からブログページを閲覧できない状況に」 という記事に次のような情報があった。

BloggerのURLは以前、すべて「[ブログ名].blogspot.com」を使用していたが、現在はアクセス元別に国別コードトップレベルドメイン(ccTLD)を使用したURLを使用するように変更されている(過去記事

ただ、Blogger の障害発生中も、友人から知らせてもらった "blogspot.tw" にすれば表示されるというような親切な案内は、どこをググっても見あたらず、かなり時間が経ってから、上記の Slashdot の記事が見つかった。友人には直接のメールか何かで知らされたのだろうか。そのあたりは、詳しく聞いていないからわからない。

そして今になってググってみても、この度の障害に関するまともな情報はなかなか検索されないし、Blogger サービスのトップページに行ってみても、何事もなかったようにシカトされている。Google って、都合の悪い情報は公開したがらない会社なのだろうか。

Blogger というサービスは、単にフツーのブログ形式のページだけでなく、タグでいろいろなページを表示させることができるという特徴があって、使いようによっては結構おもしろいサイト構築ができると思う。それで私もセカンド・ブログとして使ってみようと思ったこともあるが、何となく他の部分の自由度がないような印象で、まだ踏み込んではいない。

Google が今回のように、「都合の悪い情報は流さない」 みたいな姿勢に見える限り、私としては必要以上に深入りする気にはなれない。Gmail アドレス取得時に自動的に生成されてしまった Google + のアカウントも、全然使っていないし。

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2014/11/09

PC のキーボードは便座より汚いということについて

時々思い出したように話題になるのが、オフィスの PC のキーボードは案外汚いという話である。噂によると、トイレの便座の 5倍もの細菌が潜んでいるらしい。そんな話を聞いて、逆に 「便座って案外きれいなんだなあ」 と安心してしまう私は、大丈夫なんだろうか。

ちなみに私の使っている MacBook Pro のキーボード (写真左) は、キー同士の感覚が結構あってゴミは溜まりにくそうだ。多少の埃なら、フッと吹けば簡単に飛んでしまう。

一方、今年初めまで使っていた Let's Note はどうだったかと思って、久しぶりで開いてみた (写真右)。うぅむ、MacBook よりキーの感覚が狭く、いかにもゴミが溜まってしまいそうな作りではないか。隙間の奥まで入った埃は、吹いたぐらいでは飛んでくれそうにない。

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とはいえ、私は PC に向かって仕事をしながらコーヒーはがぶ飲みするが、お菓子をつまんだりすることはない。だからクッキーくずが机に散らばったり、キーボードの隙間にたまったりすることはない。それに私は、キーボードは案外まめに除菌ウェットタオルで掃除したりする。これだけは見かけによらないのである。

ということは、便座の 5倍汚いとされるようなキーボードと比較すれば、私のキーボードはまだ清潔なのではないかと思っている。PC で仕事をして階下に降り、つい手も洗わずにみかんの皮をむいたり、せんべいをかじったりしてしまっても、それで腹を壊したことは一度もないから、大丈夫なのだろう。

なにしろ、写真右側の Let's Note を使っている頃からそうだったから、少なくとも今の MacBook Pro のキーボードは、体に悪いほど汚れているということはないだろうと思っている。こんなことを気にしすぎても仕方がない。

ただ、実際のところはどうなんだろうなあ。

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2014/11/08

ヒツジやヤギによる除草というお話

エコの取り組みが盛んになるにつれて、従来は化石燃料を使う機械で対応していた作業を、動物に肩代わりさせるという取り組みがあちこちで行われている。近頃よくニュースになっているのが、ヒツジやヤギを飼って除草するという試みだ。

高速道路でヤギが草刈り、旅人の心を和ませる」  「レンタルヤギできれいに除草」  「ひつじさん、河川環境づくりに一役」 など、探せばもっとたくさんのニュースがあると思われる。

ヒツジやヤギは結構たくさんの草を食う。私はヒツジはあまり馴染みがないが、ヤギは昔から除草に使われていて、何も今に始まった話ではない。河川敷などにつないでおくと、つながれたロープの長さの半径以内の草はきれいに食ってくれる。毎日つなぐ場所を変えれば、かなり広い土地の除草ができる。

ヤギやヒツジに除草を任せれば、エンジン式草刈り機を使って CO2 を発生させることはない。なるほど、エコである。それに、乳からチーズなどの製品を作ることもできる。見た目にものどかだし、心を和ませる。いい話である。

子どもの頃の記憶を辿れば、ヤギという動物はおとなしいイメージがあるが、あまり構い過ぎると急に怒り出すことがあって、相手が子どもと見るや、角を振りたてて突き飛ばそうとしたりするから、注意しなければならない。ただ、放っておきさえすれば、日がな一日呑気に草を食べている。

それともう一つ気になるのは、エンジン式草刈り機による CO2 発生は抑えられるが、ヒツジやヤギ自体が排出する温暖化ガスはどうなるのだろうということだ。草刈り機が CO2 を発生するのは運転している時だけだが、動物は生きている間ずっと、CO2 を発生する。

CO2 だけではない。ヒツジやヤギなどはウシと同様に反すう動物だから、大量にゲップを発生する。このゲップに含まれるメタンガスは、CO2 の数十倍の温室効果をもたらすと言われ、知る人ぞ知る問題になっている。

このあたりの差し引き計算はどうなっているのか、誰かデータをもっていないものだろうか。それとも、これから詳しく計算してみなければならないのだろうか。それが明らかになれば、どのくらいの広さの土地で、何頭のヒツジやヤギを飼えばエコ効果があるのかがわかると思うのだが。

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2014/11/07

野球の凋落

ちょっと前のことで恐縮だが、ネットで今シーズンのプロ野球個人成績ベスト 5 というのを見て、ほとんど顔と名前が一致しないことに驚いた。いや、顔と名前が一致しないだけでなく、名前も初耳というのが多い。

そういえば、野球なんて見なくなって久しいのである。プロ野球は見る気がしないが、サッカーなら見る。そのため、選手の顔と名前が一致するということでいえば、サッカーの方がずっと上になってしまった。それどころか、BS の中継のおかげでヨーロッパのサッカー・リーグの選手の方が、ずっと顔と名前が一致するという人も多いだろう。

若い連中に聞くと、生まれてこの方、野球なんて興味ないがサッカーなら大好きという声の方が大きい。野球はオッサンのスポーツというイメージが強いんだそうだ。うぅむ、なるほど。わかる。

私は前から言っているのだが、野球がなんでつまらないかというと、試合が動かないからである。何しろピッチャーが球を投げないことには始まらないのだが、その 1球放るごとのインターバルが長すぎる。延々とサイン交換をして、なかなか投げない。

一方、それにじれたバッターが勝手にタイムをかけてボックスを外す。適当に素振りをして、唾を吐き、スパイクシューズについた土をバットでコンコンと叩いて落とし、ようやくおもむろにバッターボックスに入り直すから、ますますダレる。

守備側がピンチになると、試合の運びはますますスローになる。野手がピッチャーマウンドに集まってなにやらごちゃごちゃ言っている。テレビ解説者までが 「ここはあせらずに、十分に間を取った方がいいですよ」 なんて言う。こちらは 「馬鹿野郎、間なんか取るな、いいからさっさとやれ!」 とじれる。

サッカーの試合時間は大体 2時間ぐらいだが、プロ野球の試合時間は 3時間半を超える。これじゃ、長すぎて付き合いきれない。そもそも上述の通り、試合が動かないのだから仕方がない。トータルの試合時間のうちで実際にオン・プレイになっているのは、半分以下という印象だから、はっきり言って退屈なのである。

その意味で、野球は相撲に似ている。相撲も延々と仕切り直しをするが、野球も延々とタイムをかけるのである。選手があんなに自由にタイムをかけられるスポーツなんて、ほかに知らない。相撲だって 「待った」 し過ぎたら怒られるというのに。

コアな野球ファンならそうしたオフ・プレイの間も、相撲の仕切り直しの間にいろいろと考えを巡らせるのと同様に楽しめるのだろうが、娯楽として見ているファンははそんな見方はしない。

観戦の仕方も、相撲と野球は似ている。観客席ではどちらもテキトーに飲み食いしながらゆったりと見ている。一方、サッカーはサポーターが総立ちでピョンピョンしながら応援するスタイルが多いから、のんびり飲み食いなんてしていられない。見ている方のコンセントレーションも違うのである。

そういえば、野球はラジオで聞いていても十分わかる。試合の動きがスローだから、言葉で説明できるのである。その点、サッカーはラジオではあまりよくわからない。一瞬ごとの情報量が多すぎて、言葉はついて行けないのである。だから、少なくともテレビでしっかりと試合を追いたくなる。その分、観客の能動性を要求する。

ある意味、野球はのんびり、じっくり考えて、時々ひょいと試合が進むのでる。だからじっと見ていなくても済む。飲み食いしている余裕がある。一方、サッカーは流れの中で常に変化するから、集中して見なければならない。

よく言えば、野球は 「動と静のメリハリ」 があるわけだが、「静」 の時間が長すぎるとダレる。これを、野球は退屈と受け取るか、考えながらじっくり見られると取るかは、人によるとしか言えない。私は 「退屈」 と受け取る方である。流れの中で動的に判断する要素の多いスポーツの方が性に合う。

さらにもう一つの要素として、日本では一般的にはまだまだ野球の方の人気が高いから、ニュースでもしっかり取り上げられる。試合結果を知るだけなら、ニュースで十分だ。だからファンの方はますます受動的になる。一方、サッカーはニュースにならないから、サポーターはますます能動的に試合を追う。

私はテレビでの試合中継も、そのうちプロ野球よりサッカーの方が盛んになるのではないかと思っている。

ちなみに、野球がオフ・シーズンになると、夜に運転しながらラジオを聞いていても、ラジオ局ごとにいろいろな番組があるから楽しい。野球シーズン中はどこの局も野球中継ばかりで、しかも同じ巨人戦を中継したりしているから、馬鹿馬鹿しくなるのである。

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2014/11/06

当ブログへの 「コメントが受け付けられない」 というケースの原因判明

最近、当ブログの記事にコメントをつけても、スパム扱いされて刎ねられてしまうというメールがちょこちょこと寄せられていて、本格的にその原因究明をしなけりゃいかんなと思っていた。多分、スパムよけの設定をきつくし過ぎたんだろうなあとは思っていたが、多忙に紛れてその詳細までは調べがついていなかったのである。

実は昨年あたり、あまりのスパムコメントの多さにむかついて、禁止ワードをどっさり指定した。それまではスパム発信者の IPA を登録して自動的に削除する設定にしていたのだが、敵もさるも者で、ひんぱんに IPA を変更して発信してくるので、なかなか追いつかなくなっていたためである。

それで、スパム・コメントに含まれる代表的な単語を禁止ワードに設定した。たいてい想像がつくと思うけど、Viagra や enlargement などの 「あっち関係」 の単語は、まっ先に禁止ワードとして設定し、自動的にフィルターにかかるようにした。これらのアヤしい商品の販売サイトに誘導する英語コメントがやたらと多かったためである。

そして恐縮ながら、禁止ワードの中には Nike、Converse などのブランド名も含まれている。ナイキやコンバースには何の恨みもないが、これらのブランド商品の販売サイトに誘導するスパム・コメントもやたら多いので、仕方がない。

だから、このブログの記事に、「私は Nike が好きです」 なんてコメントを付けたら、大変申し訳ないが、さくっと刎ねられる。どうしてもそれを言いたかったら、「ナイキ」 とカタカナ表示にしてくれるとフィルターにかからない。

ところが、アヤしいキーワードを使っているわけでもないのに、スパム・コメント扱いされて刎ねられてしまうという指摘が結構あって、私としても 「何がいけないのかなあ」 と手をこまねいていたのである。ところが昨日の記事への tokiko さんからのコメントでけりが付いた。

tokiko さんのコメントによると、"you tube" という言葉を使ってコメントをした際にはスパム扱いされたが、「ユーチューブ」 とカタカナ表記にしたら問題なく表示されたということだった。これは問題解決の最大ヒントである。"you" "tube" の 2語のどちらか、あるいは両方が怪しい。

ココログのコントロールパネルをあたってみると、案の定 "you" という単語が禁止ワードとして登録してあった。これは我ながら、どうみても過剰設定である。これではコメント内に "you" という単語があるだけで、スパムと判断されて刎ねられてしまう。

これは、英語のスパム・コメントの決まり文句に "you are cool!" とか "you should be a part of a contest for one of the greatest sites!" とか、歯の浮くようなほめ殺しが多いので、つい "you" という単語までフィルターに引っかかるように設定してしまったもののようだ。当人は覚えがないのだが、その時はよほど頭に血が昇っていたのかもしれない。

勢い余ってつい過剰な設定をしてしまった結果、何の問題もないコメントが受け付けられないというケースが生じて、何人かの方にはずいぶんなフラストレーションを感じさせてしまったことになる。

【お詫び】

というわけで、ここに謹んで失礼をお詫び申し上げます。本日、"you" という単語を、他の 2〜3 の単語と一緒に禁止ワードリストから外した次第です。今後はあまりにも理不尽なフィルターは機能しなくなったと思いますので、よろしくお願いいたします。

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2014/11/05

「オバマ・チルドレン」 という言葉

米国の中間選挙に関するニュースで、「オバマ・チルドレンの去就が注目される」 などという言い方がされているが、私はこの 「オバマ・チルドレン」 というのは完全に和製英語だと思っている。試しに ”Obama children" でググってみても、ヒットするのは彼の 2人の娘についての話ばかりである。

どうやら米国では、バラック・オバマの強い影響下で初当選した民主党議員のことを ”Obama's children" と呼ぶのは、少なくとも一般的な表現ではないようだ。それではどうして日本でそのような言い方があり、さらに 「小泉チルドレン」 とか 「小沢チルドレン (小沢ガールズの方が一般的かもしれないが)」 などという言い方まであったのだろうか。

ちょっと調べてみたところ、日本で 「〜チルドレン」 という言い方がされたのは、小泉純一郎氏が行った総選挙で当選した新人議員たちのことを総称したのが最初のようなのである。そしてそのきっかけは、あの杉村太蔵氏の 「120%小泉チルドレンでございます」 という発言から広まったとされているようだ。

だがしかし、杉村氏はどうしてそうしたレトリックを使ったのか? その答えは簡単に調べが付いた。当時ヒットしていた漫画の 『エヴァンゲリオン』 で、「チルドレン」 という言葉が広まっていたようなのである。Wikipedia によると、エヴァンゲリオンにおける 「チルドレン」 というのは、次のようなものであるらしい。

エヴァンゲリオンのパイロットとなる子供たちのこと。適格者とも表現される。マルドゥック機関によって選ばれた、母親のいない14歳の子供というのが基準。

なるほど、「オバマ・チルドレン」 という言い方は、『エヴァンゲリオン』 にまでつながるようなのである。しかしそれより過去までを遡ると、多分 "Woody Guthrie's children" に行き当たる。

米国のフォークソングの元祖、ウッディ・ガスリーの影響下で歌を歌い始めた多くのシンガーのことを、「ウッディ・ガスリーズ・チルドレン」 というのである。ある人物の影響を受けて活動を始めた人たちのことを 「チルドレン」 と言うのは、多分もっと古い例もあるのだろうが、 私の知る範囲ではこれが一番古い。

ウッディズ・チルドレンが勢揃いして歌っている嬉しい動画があるので、ここに埋め込んでおく。あのポール・ストゥキーやトム・パクストンの今年の姿が見られる。

あのボブ・ディランさえ、ウッディズ・チルドレンの 1人と言われていたものである。要するに私はこの記事で、ウッディ・ガスリーを礼賛したかっただけなのだと、最後の最後で気がついた。

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2014/11/04

ウォームビズ初日

3連休が終わり、大方のサラリーマンにとって 11月の最初の出勤日となった今日は、ウォームビズのスタート日だったのだそうだ (参照)。このウォームビズという言葉は既にお馴染みだが、「暖房時の室温が 20度でも肌寒さを感じず、快適に過ごせる生活スタイル」 を指すらしい。

私は 3年前の東日本大震災の日から、かなり意地になってクールビズ、ウォームビズを実践している。震災のあった年とその翌年の秋までは、仕事部屋では一度も冷暖房を使わなかった。

「原発を稼働させなければ電気需要がまかないきれない」 なんていわれていたので、「それじゃ、電気を節約すればいいんだろ!」 とばかり、エアコンのスイッチを抜いてしまったのである。関東の気候ぐらいであれば、冷暖房はなくてもなんとか生き抜けるものである。

ただ、さすがに 2年目の冬からは寒すぎる時には暖房を入れるようになった。体を冷やしすぎると、寄る年波には勝てず、「寒冷じんましん」 という反応が出るようになってしまったので、仕方なく 気温が 10度を下回ったら暖房することにしたのである。

昨年からは暑すぎる時には、エアコンを使う生活に戻った。さすがに還暦を過ぎると、我慢しすぎは体に悪いみたいなのである。ただそれでも、エアコンは一夏で 10回も使わなかった。使ったのは、気温が高い時というよりは、湿度が高すぎる時である。単なる暑さよりも蒸し暑さの方が、人間の体にはこたえるようだ。

冬の暖房は、室温が 13度以上にならないよう設定している。暖房をみっちりする北海道の人には、「13度なんて、ウチの玄関の気温」 と呆れられたことがあるが、こればかりは意地である。

だから、一般的なウォームビズの基準であるらしい 「暖房時の 20度」 なんて、私にとっては 「贅沢すぎ」 に思われる数字である。ダウンジャケットを着込み、ニットキャップをかぶり、ユニクロのヒートテックのタイツと内側にボア付きのズボンを穿き、靴下も厚めのものにすれば、15度で 「暑すぎ」 と感じるようになる。

今年のウォームビズ初日はいい日和で、日が暮れてからもちょっと重ね着をする程度で快適に過ごしている。

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2014/11/03

「文化」 と 「文明」 の違いを巡る冒険

今日は文化の日。昔で言えば 「明治節」、もっと前の明治時代は 「天長節」 である。この日は少なくとも関東では、昔から晴の特異日ということになっていて、明治天皇の遺徳と言う人も多いが、果たして、今日もいい天気だった。

今や古典的ともなった文化の日ネタに、「文化と文明の違い」 というのがある。私は文化の日でもない一昨年の 2月 4日に 「文明と文化の違い」 という記事を書いていて、その中で、文化人類学者の梅棹忠夫氏の 「文明は腹の足しになり、文化は心の足しになるもの」 という言葉を紹介している。

この記事では、「文明は食い散らかすが、文化はその後始末までできる」 という、私自身の考えも述べている。私は 「後始末までしっかり考えるのが文化」 と思っているのだが、今日は文化の日でもあるから、このあたりをちょっと深く考察してみよう。

今日的意味で使われている 「文化/文明」 という言葉は、明治期に "culture/civilization" という言葉が翻訳されて定着したもので、それ以前は、中国の古典に基づき、「文明 =文徳の輝くこと、世の中が開け、人知の明らかなこと」、「文化 = 文徳によって教化すること」 というような意味合いだった。

もっとも、それは日本語として定着していたわけじゃない。江戸時代に 「文化」 という年号があるが、それは同様に中国古典から借りた 「平成」 という言葉を、普通の日本人は平成の御代になって初めて知ったものの、きちんと意味まで理解しているわけじゃないのと同じである。

明治期の翻訳の原語となった "culture/civilization" という言葉の成り立ちをみればすぐにわかるように、「文化」 は農耕的な発想がある。"Culture" の語源は "cult" (耕された) + "ure" (ところ) と言われている。それに対して "civilization" は "civil" (市民の) という言葉から発生していて、古代都市国家からの発想だ。

一見して、civilization (文明) の方がより物質的なニュアンスをもった言葉というのがわかる。これをもう少し別の側面から考察した論文が見つかった。京都産業大学文化学部国際文化学科 中村学氏による "近代における 「文明」 と 「文化」 の誕生とその受容と変化について" というものである。

この中で中村氏は次のように述べている。

「文明」 と 「文化」 とは始めは同じ意味であり、16世紀のヨーロッパで当時の知識階級のごく一部の人々が使い始めた。しかし初めの頃は 「文明 civilisation」 という言葉しかなく、「文化」 という言葉はなかった。「文明 civilisation」 は16世紀ごろに使われていたフランス語の 「civiliser 開花する、文明化する」 の名詞形で、これらの語は全てラテン語の 「civilis市民の」 「civitas都市」 に由来する。

文明 (civilization) に関しては、概ねこの理解で OK だと思う。問題は 文化 (culture) である。中村氏によると次のようになっている。

「文化」 という言葉はフランス語の 「culture 耕作された土地」 という意味の語からやがて土地の 「耕作」 や家畜の 「世話をする」 といった意味に変化した。そこから能力の育成や精神の修養といった意味まで派生したのである。(同書、p.133) このフランス語の 「culture」 がドイツの 「文化」 「文明」 の訳語として輸入され 18世紀後半には Kulturと綴られた。しかし最初この Kultur はドイツ知識人たちの間でマナー、反野蛮、進歩の 「文明」 とも精神の修練、能力の育成、伝統の 「文化」 としての意味にも用いられており、完全に 「文化」 としての意味で使われていたわけではなかった。

ちょっとわかりづらい文章だが、要するにフランス語の "culture" がドイツ語に輸入されて "kultur" と綴られ、「反野蛮、文明、伝統」 といった、広いニュアンスをもつ言葉として広まったということのようである。

その後、封建制が長く続いたドイツでは、物質的文明の観点ではフランスに後れをとっていたために、「civilisation というナショナリズム」 の代わりに、より精神性を重んじた 「kultur というナショナリズム」 が発達したというのである。ふうむ、なるほどね。

さて、日本では明治以後の 「文明開化」 によって、まず物質的文明が導入され、とくに明治初期においては 「文明」 と 「文化」 は厳密に区別されて用いられていたわけではなかったようである。区別されるようになったのは、中村氏によれば次のような事情のようだ。

「culture」 「Kultur」 の訳語としての 「文化」 が用いられていたのは大正時代に入ってからであった。明治20年代から現れた 「日本主義者」 なる知識人達の論説で、はじめて 「文明」 と 「文化」 との概念が区別された。彼らの 「文化」 の概念はドイツ哲学の影響を受けていた。

明治期の日本では、まず 「物質的な文明開化」 が先行し、大正期になってからドイツ哲学の影響で、精神的な意味合いの強い 「文化」 が初めて強く意識され始めたのだ。物質的なものを必死に追い求めている間は、「文化」 は後回しになってしまうのだね。なるほど、なるほど。

こうした経緯があるので、文化は後からやってくるという印象が強まって、私なんかも 「文明は食い散らかすが、文化はその後始末までできる」 なんて考えるようになってしまったのだろう。

「西洋文明の物まね」 的ニュアンスの濃いハロウィーンの行列が通った後の、渋谷の街のゴミの山をあっという間に片付けてしまったボランティアの心意気は、まさに日本的な 「文化」 なのかもしれない。

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2014/11/02

宿題代行に頼むより、自分でやる方がお得でしょ

ちょっとお茶を飲みに階下に降りると、娘が 「宿題代行サービス」 なんてものを取り上げているテレビ番組をみていた。子供の宿題代行がビジネスになっているというのである。それに対して、あの尾木ママが大反対していて、一方では現役東大生だかが、「宿題なんて受験勉強の邪魔になるだけだから、代行してもらうのもあり」 なんていう意見を吐いていた。

勉強のできない子が宿題を代行してもらったら、勉強にならなくてますます成績が落ちるだろうが、高度な受験勉強をしている 「できる子」 が、単なる 「腕の運動」 みたいな宿題をこなすのは時間の無駄だというのである。ふぅむ、なるほど、そんな考え方もあるのかね。

しかし、絵日記 1ページの代行サービスに、親に 3000円も払ってもらうぐらいなら、そんなもの自分でささっと仕上げてしまって、親が宿題代行に支払うつもりだった金額の半分ぐらいでもお小遣いとしてもらう方が、ずっといいだろうになあ。

そもそも、高度な受験勉強をしているような 「できる子」 は、いわゆるフツーの宿題なんて、あっという間にちょいちょいっとできてしまうはずなのである。そのくらいは、ちょっとした気分転換だ。それでちょっとしたお小遣い稼ぎができるなら、こんなおいしい話はなかろう。

そんなふうに思えない程度の頭のできだったら、実はその子にとっては 「高度な受験勉強」 が重荷なのである。ちょっとした気分転換にすればいい程度の負荷が 「時間の無駄」 と思われるほどのストレスになるというなら、それはどちらかといえば 「お恥ずかしい話」 である。その程度の器で、生意気を言うもんじゃない。

自慢じゃないが、私は夏休みの宿題なんて、1学期の終業式に、家に帰る前に学校で半分以上仕上げてしまい、あとは 2〜3日で余裕でほとんど完成させていた。ちょっと気分転換のつもりでやれば、ささっとできちゃうんだから、しかたながない。

残るは自由研究、読書感想文、絵日記だが、それはそれ、テキトーに仕上げて、夏休みの間、ほとんど遊び呆けていたものだ。夏休みは遊び呆けるためにあると思っていたからね。

ちなみに夏休みの宿題の不人気ワースト 3は、上述の自由研究、読書感想文、 絵日記だそうだ。これに関する批判は、2006年 8月 8日の記事に (参照)、読書感想文の傾向と対策はその 3日後の 11日の記事 (参照) に書いてある。きちんと考察すればほんのこれしきのことに、金を払って代行してもらうほどの価値があるとは思われない。

読書感想文の傾向と対策は、現実的にかなり役に立つからオススメである。受験生諸君が自分でやれば、記述式試験の対策にもなると思うしね。

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2014/11/01

ティム・クックのカミングアウトと 「神」

昨夜、Apple の CEO、ティム・クックが、自分はゲイであるとカミングアウトしたという記事を読んで、その時私は、結構寝ぼけていたこともあって、「ふぅん、そんなような雰囲気は感じてたけど、やっぱりそうなんだ」 と思っただけで、それほど大したこととは認識しなかった。これをテーマに自分がブログを書くことになるとも思わなかった。

だから、一夜明けてこんなに大きなニュースとして取り扱われていることの方に、ちょっとびっくりしている。まあよく読めば、カミングアウトの意図が 「アップルの CEO が同性愛者だと知ることで、孤独を味わっている人や同性愛者の権利を主張している人たちの力になれればと考えた」 (朝日新聞の記事上の翻訳) ということのようなので、それもありかというところだが。

しっかりと確認するために、ネタ元の Bloomberg Businessweek の記事にあたってみると、タイトルは "Tim Cook Speaks Up" (ティム・クックがはっきりと言う) とあるだけで、それ以上にセンセーショナルな見出しはついていない。さすがだね。

上述の部分、原文では次のようになっている。

I don’t consider myself an activist, but I realize how much I’ve benefited from the sacrifice of others. So if hearing that the CEO of Apple is gay can help someone struggling to come to terms with who he or she is, or bring comfort to anyone who feels alone, or inspire people to insist on their equality, then it’s worth the trade-off with my own privacy.

(自分は活動家という認識はないが、他の献身的行為によっていかに恩恵を得たかを知っている。だから、もし Apple の CEO がゲイであると知ることが、自分が容認されるために苦闘している人を支援したり、孤独を味わっている人に慰めを与えたり、平等を主張する人々を鼓舞したりできるのであれば、自分のプライバシーとトレードオフする価値があると考えた)

なるほど、そういうことなら、彼のカミングアウトをしっかりと記事にすることは、単に、「ああ、彼はやっぱりゲイだったんだね」 だけですませるよりも、意味があるのかもしれない。

「ふうん、やっぱりそうだったんだ」 と、ごく当たり前のように済ませられる社会の方が快適だとは思う。彼の sexal orientation (性的志向性) を知りながら、まったく特別視しないという Apple の多様性をきちんと認める雰囲気は、 その意味ではかなり快適なのだろう。しかし残念ながら、この社会全般は それほどには成熟していない。

とくに米国というところは、同性婚を認める州が増えているとはいいながら、キリスト教的な価値観による縛りが大きくて、ゲイを嫌う保守的傾向が強い。ニューヨークやサンフランシスコなどの自由でリベラルな雰囲気は、米国ではやや特殊なものといっていい。だから、ティム・クックのカミング・アウトは、意味を持つ。

ティム・クックは次のように語っている。

While I have never denied my sexuality, I haven’t publicly acknowledged it either, until now. So let me be clear: I’m proud to be gay, and I consider being gay among the greatest gifts God has given me.

(私は自分のセクシャリティを否定したことはないが、これまではそれを一般に公表したこともない。だから、ここで明らかにさせてもらいたい。私はゲイであることを誇りに思うし、神に与えられた最も大きなギフト (恵み) の一つであると考えている)

この部分が最も肝心なところなのだが、世界のトップを行く IT 企業の CEO が、自分のセクシャリティ、しかも旧来の価値観では否定的であったことを、「神の恵み」 と言っているのである。これはある意味、コペルニクス的転回だ。

少なくとも前世紀までは 「神の名によって」 否定されてきたセクシャリティを、「神の恵み」 と讃嘆しているのである。なるほど、これはとても大きな 「事件」 である。

これは私が先月 6日の "「宗教」 と 「信心」" という記事で書いたことにも関連する。

日本人は毎年初詣したり、盆や彼岸には墓参りしたり、チャペルで結婚式を挙げたり、死んだら坊さんにお経を読んでもらったりするくせに、「自分は無宗教」 なんて言ったりする。しかし世界では IT 企業のトップが自分のセクシャリティをカミングアウトするのに、「神」 を持ち出すのが一番説得力があると考えているのである。

そしてちょっと飛躍するが、イスラム過激派は、近代的な概念による 「国境」 なんてものよりも、「神」 の名における共同体を上位に考え、それが全世界に隠然たる影響力を発揮しつつある。

無邪気な顔をして 「私、無宗教でーす」 なんて言っているうちは、世界を理解できない。

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