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2014/12/05

「底解の井 (そこぬけのい)」 を巡る冒険

私はまだ訪れたことがないのだが、鎌倉に海蔵寺という寺があ。その山門の手前にある井戸は 「底解の井 (そこぬけのい)」 と名付けられ、鎌倉十井の一つに数えられている。この井戸に関するエピソードが興なかなか味深い。

この井戸が 「底解の井」 と呼ばれるようになったのは、昔、この井戸で水を汲んだ時に桶の底が抜けたからだと言われる。井戸の説明板に鎌倉青年会議所が立てた説明の看板があり、そこにはこのように書かれている。

中世の武将の安達泰盛の娘・千代能がここに水を汲みに来た時、水桶の底がすっぽり抜けたため、「千代能がいただく桶の底脱けて、水たまらねば月もやどらず」 とうたったところからこの名がついたといわれています。井戸の底ではなく心の底が抜けて、わだかまりが解け、悟りが開けたという投機 (解脱) の歌です。

いやはや、甚だ恐縮ではあるが、この説明ではさっぱりわからない。桶の底が抜けて水がたまらなくて、「月が宿らない」 って、それがどうした? それで、「心の底が抜けて、わだかまりが解け」 って、どういうことなんだ? どうして悟りに関係があるんだ?

まあ、禅の悟りの境地なんて、そんなものはどうせ一生わからないんだといえばそれまでだが、とはいえ、少しはその境地に近付いてみたいものではないか。そのためには、禅のメソッドとしてはいささか邪道だが、とりあえず、ちょっと論理的に解釈してみよう。

まず基本的な問題として、「月もやどらず」 とは、手桶の底が抜けて水がたまらないので、月がその水面に映ることもないという意味である。これだけはしっかりわかっておかないと、そこから先、一歩も進めない。

そもそも、禅の世界で 「月が水面に映る」 とは、心が平静かどうかを問題にする時に、よくる使われる喩えである。心が揺れ動いている時には、水面が波立っている時のように、月がきれいに映らない。心が平静な時は、見事にくっきりとした月の像が浮かぶ。

多分、千代能という女性は、夜にこの井戸で水を汲む度に、桶の水面に映る月を、我が心の反映のように思いながら注目していたのだろう。桶に汲んだばかりの水だから、当然波打っている。月もきれいに映らない。揺れ動く月は、悟りに遠い自分の心と思いながら、どうすれば悟りに到達できるものかと、思い悩んでいたに違いない。

ところがある夜、水を汲んでいた桶の底がすっぽりと抜けた。当然、水もたまらず、月の映像も結ばれない。その時に、彼女は忽然と悟ったのだろうね。自分はこれまで、水に映った月ばかりに心を奪われていた。水に映った月をどうすればすっきりときれいにできるものかと、考え悩んでいた。

ところが、底が抜けてしまったら、それまで心が囚われていた水に映る月がなくなった。こだわる対象がなくなって、一挙に心が解き放たれた。そして上を見上げると、綺麗な月が皓々と照っている。揺れ動くしかない心に囚われていた時には見えなかった、見事な月である。

道元禅師が鎌倉に赴いた時、北条時頼に 「池に映った月を切ってみよ」 と言い、時頼は勇猛果敢にばっさりと切ったが、依然として月は水面に映っていたというエピソードも、その類いといえる。昔のコマーシャルに 「クサい臭いは元から絶たなきゃダメ」 というのがあったが、まあ、元を見ないで、そこから発する臭いを問題にしている限りは浮かばれないのである。

なるほど、なるほど。我々は、注目すべき対象をいつも間違えているのである。心なんてものに映る前の、「本物」 を見ようとは、なかなかしないものなのだ。まあ、水面に映る月も、風情としてはなかなかいいものではあるけれどね。

人生における 「本物」 なんて、ちょっと顔を上げれば見えるお月様より、ずっと見るのが難しいものなので、「あまり簡単に言ってくれるなよ」 と言いたくもなる。しかし、そんなことを言っているうちは、心の底が抜けていないのだろうね。

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