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2015/01/11

「言論・報道の自由守る」 なんて、単純なことを言ってるけど

ムハンマドを風刺した漫画を載せたフランスの新聞社、シャルリー・エプドが、イスラム過激派からのテロを受けて死傷者まで出したことについて、西側の政府やマスコミは異口同音に 「報道の自由」 を守るために戦うといった声明を出しているが、このケースって、そんなに簡単な図式で片付けられるのかなあと、私は疑問に思っている。

ブラック・ジョークや風刺、パロディというのはなかなか面白いものではあるが、ジョークや風刺、パロディの対象となった当事者にしてみれば、それはかなりムッとくるものである。その 「ムッとくる」 ところをぐっと堪えて、あえて笑って受け入れることができるのは、それなりに成熟した文化背景がなければならない。

「そんなことで本気で怒るのは大人げない」 「笑ってジョークで返すぐらいの方がずっと洗練されてる」 と思えるのは、私のみるところ、西欧文明の一部だけである。世界のマジョリティは、実はそんな文化とはほど遠いところにいる。

日本はかなり頑張れば、笑って受け流すぐらいのことはできるが、ジョークで返すというのはまだ至難の業だ。ましてや、韓国、中国、イスラム圏となると、本気で怒り出す可能性の方がずっと高いと、私は思っている。

日常生活においても、冗談が通じない相手というのはいくらでもいて、他愛もないことで妙にぶち切れて怒り出す手合いは決して珍しくない。それは 「洗練された文明圏」 であるはずの西欧社会においてすら同様である。

どういうことかというと、洒落の通じない相手には、無闇な洒落を言うもんじゃないということだ。それがもし、洒落の通じる者同士で洒落の通じないやつを嘲笑うというスタンスで発信されたものだったなら、ますます悪趣味である。

その意味で、風刺やパロディが単純に 「報道の自由の範疇」 と思っているのは、ある意味、西欧的傲慢である。喩えは悪いかもしれないが、すれっからしの大人が妙に一本気な子どもをブラックジョークで挑発しても、それは洒落にならないのだ。

本当に洗練された大人ならば、そのあたりの人情の機微をきちんとわかって、その上で上品なユーモアを発信しなければならない。洒落の通じない相手をわざわざ趣味の悪い洒落で挑発したら、相手がぶち切れるのは当然だ。しかも、相手の側には名うての過激派がいることが、わかりきっているのである。

そのぶち切れた相手に対して 「言論・報道の自由を守る」 なんてステロタイプの決まり文句で渡り合うなんていうのは、実は大した大人じゃなかったんだねと、化けの皮が剥がれる行為というものだ。

昔から、権力をもったやつが 「正しすぎること」 をことさらに叫ぶ場合ってのは、裏側に (ここでは敢えて詳しくは触れないが)、何かもやもやしたものがどっさりあるのである。

日本でも政府が 「言論・報道の自由を守る」 なんて言い出しているが、そもそもそのお膝元ですら、そっち方面の自由なんてありそうで、実は全然保証されていない。妙な圧力によって表沙汰にされず、闇から闇に葬られる事案がいくらでもあるじゃないか。ないとは言わせないよ。とくに原発関連では、そんなことがやたら多い。

念のために断っておくが、私はテロを擁護するためにこんなことを言っているわけじゃない。しかし、わざわざテロを誘発しておいて、「言論・報道の自由を守る」 もないもんだろうと思うのである。

私は言論の自由を最も大切なことと認識するものだが、あえて "Je ne suis pas Charlie." と言う。

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