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2015年2月に作成された投稿

2015/02/28

「同窓会のお知らせ」 というスパムメール

最近、「同窓会のお知らせ」 というスパムメールが頻繁に来る。文面はいつもこんなものだ。

拝啓 時下ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。

同窓会の幹事代行を行っております吉井と申します。

今回、田中様よりご依頼を頂き、同窓会を企画しております。

土曜日、日曜日を軸に日程調整を行っておりますが、ご予定はいかがでしょうか?

大変恐縮ではございますが、ご都合の悪い土曜日、日曜日をお教え頂ければ幸いにございます。

ご連絡をお待ちしております。 敬具

一体どこの学校の時の同窓会か書かれていないし「田中様よりご依頼」 と言われても、田中という名前の知り合いはいくらでもいるから、特定しようがない。さらに、「土曜日、日曜日を軸に日程調整」 といきなり言われても、いつ頃の土日だかわからない。

一度に不特定多数に発送するスパムメールの典型的なやり口で、うっかり者は信じてしまうが、フツーはすぐに削除してしまう類いのものだ。

ただ、よくあるスパムメールは、訳の分からないリンク先が書いてあって、それをクリックすると、多分出会いサイトかなにかに誘導されるか、いきなり 「6万円お支払いください」 みたいな架空請求されることになるのだろうが、このメールにはリンク先がない。単に都合の悪い日を知らせろというだけである。

返信先のメルアドをみると、"dousoukai-kannji.com-yoshii@vljqcend.link" となっている。ややこしいのは、幹事代行を業務とする会社がちゃんと存在していて、このメルアドの初めの方だけみると、その類いの会社なのかと誤解しかねないことだ。実際のアドレスは "vljqcend.link" というドメインである。

で、この "vljqcend.link" というのを PC でググってみると、長野県の諏訪の近くにある会社ということになっている。いかにもテキトーなドメイン名なので、まともな会社とも思われず、URL も明示されているが、行ってみる気にもなれない。

このスパムメール、一体何が目的なのだろう。うっかり返信する者がいたら、そのメルアドは 「かなり信じやすい純朴な人」 の実効アドレスということになるから、もしかしたらフィッシング詐欺の 「おいしいターゲット」 のリストを作るのに役立つのかもしれない。あるいは返信してから、いよいよ怪しいメールがどんどん来るというのも考えられる。

その先の展開がどうなるのか、興味がないわけではないが、実際にやってみるほど暇ではないので、どなたか分け入ってみた人がいたら、レポートしていただきたいと思う。

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2015/02/27

『自転車の安全鉄則』 を読んで

5日前の 「自転車乗りになって 3か月」 という記事へのコメントで山辺響さんが薦めてくださった『自転車の安全鉄則』 (疋田智著・朝日新書) という本を、さっそく Amazon で注文して読んだ。まんまと Amazon の策略に乗って同時に注文した 『自転車が街を変える』 (秋山岳志著・数映写新書) の方は、これから読むので、とりあえず 『自転車の安全鉄則』 の方について書く。

Img_1484

帯にある 「左側通行さえ護れば、年間 400人の命を救える!」 というコピーは、驚きでもなんでもなく、「まさに!」 と納得する。内容としては、日本は世界第 3位の自転車王国でありながら、自転車に関する社会的インフラ整備などがものすごく遅れているという現状指摘から始まり、自転車は車道を走るという原則論と、それを徹底する際の日本における矛盾についても述べている。

そしてヨーロッパ、とくに自転車先進国といわれるオランダの例を紹介しながら、こうすれば、安全でエコで都市生活においては最も効率的な移動手段である自転車が普及し、活用されるに違いないという結論に導かれる。この内容については、いちいちもっともなことと納得する。特別画期的なことではなく、既に知っていることの方が多いが、まとめて確認すると 「なるほどね」 ということになる。

ただ、疋田氏が自ら 「理想論」 と、やや斜に構えて指摘せざるを得ないほど、日本においては矛盾のフォーカス・ポイントとなっている 「自転車の車道走行」 ということに関しては、私は 「それはまさにその通りなのだけれど、実際には田舎の道では歩道通行の方がいい場合もあるんだよね」 と言わざるを得ない。

それに関しては、"「自転車は車道」 の原則は、地方都市ではまったくの愚策" という 4年ちょっと前の記事で書いたとおりである。誤解のないようにこの記事の中のセンテンスを以下に引用しておく。

歩道上で歩行者と自転車がぶつかりやすいのは、歩行者がぞろぞろ歩く中をぬって自転車が走る都会に限ったお話で、地方都市では限られた繁華街以外では、歩道なんて誰も歩いておらず、ガラガラなのである。どうせガラガラなら、それを無駄にせず、自転車に使わせてやる方がいいというのは、誰が考えてもわかる。

さらに、自転車が歩道通行すると、クルマから自転車の存在を確認しにくく、その結果自動車との事故も増えるということに関しても、地方の県道なんかでは車道と歩道とは一列の縁石で区切られているだけということが多く、車道のクルマから歩道の自転車が確認しにくいなんてことはない。

都会では自転車は歩道を通行すべきではないというのは、私としても両手を挙げて賛成である。しかし、地方では様相がかなり違っている。車道は大型トラックなどは常にセンターラインを右側のタイヤで踏みながら走らなければならないほど狭い。そして歩行者なんて 1時間に 2〜3人いるかどうかという程度なので、歩道は常にガラガラである。だったら、そのガラガラで、しかも車道から丸見えの歩道を、自転車に解放してやる方がずっといい。

とはいいながら、私自身のことをいえば、原則として車道を走っている。常に時速20キロ以上 (平坦路なら多分 25キロ以上) で走っている身としては、歩道を走ると、トロトロと (2列並んで走る中高生も多い) 行くママチャリを常に追い越さなければならないので、かえって危険である。車道の方がまだ安全だ。

車道を走るクルマの側からも、スポーツタイプの自転車でヘルメットをかぶり、ぐいぐい走っている私をみれば、ヨロヨロと蛇行するママチャリとは違うとすぐに認識して、邪魔者扱いにされることもない。しかしながら、大型トラックがビュンビュン走っている細い県道では、私としても仕方なく歩道を通ることもある。

トラックだって自転車をはね飛ばしたくはないから、慎重に避けて追い越してくれるのだが、何しろ道路の幅が狭いので、本当にすれすれの間合いですり抜けるのである。そんな時はさすがにゾクゾクするほど恐ろしいが、とくにトラックのマナーが悪いわけではなく、物理的にそんな追い越し方しかできないのである。そんな時は、ガラガラの歩道に避難したくなるのも人情というものと、理解していただきたいのである。

こうなると、日本の道路インフラの問題に帰せざるを得ない。車道に自転車が安心して通れるほどのレーンがありさえすれば、問題ないのである。そうなってくれることを、私は切に望む。

しかし、自転車用レーンがありさえすれば全ての問題が解決するかというと、そうではない。あとは自転車に乗る側の問題だ。昨年 7月に書いた 「無法自転車について、さらに論じてみる」 という記事で指摘したように、「自転車は左側通行」 という当たり前のルールを知らない自転車乗りが多すぎるというか、多分ほとんど知られていないのである。私の居住する地域では、ママチャリは 100%近く右側通行している。

何度も書いていることだが、私は 「当たり前の情報がすべての人に行きわたることなんて、期待できない」 と思っている。振り込め詐欺や、闇夜に無灯火で右側通行する自転車や、正月にもちをワシワシ食って窒息死する老人が後を絶たないという事実をみるだけで、当たり前の情報を絶対に受け取らない人がかなり多いということは否定できない。

だからこの問題に関しては、私はかなり悲観的な思いを抱いている。

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2015/02/26

明日の東北・北海道は荒れそうだ

昨日の夕方過ぎに鹿児島から帰ってきた時は、関東も九州に負けないほど春っぽい陽気だったのに、今朝目が覚めたら一気に季節が逆戻りしたような寒さだった。おかげで花粉症の症状もぐっと軽くなった。

2 春先の天気はこれだから油断がならない。明日の午前 9時の予想天気図を見ると、青森県の辺りに低気圧が 3つも横並びになっていて、等圧線がやたらに密に立て込んでいる。右端 (いや、東端) の低気圧からは、寒冷前線が長く延びている。

登山をやっていた若い頃、天気図の見方で 「二つ玉低気圧には気をつけろ」 というのがあった。これは 2つの低気圧が日本列島を挟むように、日本海と太平洋の沿岸を発達しながら進むもので、強風や雷雨になりやすい。ところが明日の朝の天気図は、二つ玉どころか三つ玉である。

東北と北海道の日本海側は、猛吹雪になりそうだ。私の生まれ故郷の酒田の天気も荒れ模様で、吹雪か横殴りの雨になると予想されている。真冬の間とくらべてなまじ気温が上がっているから、大雨だとずぶ濡れになるだろう。山は雪崩に気をつけなければならない。

「一雨ごとの暖かさ」 なんていうが、春になりきっていない時の嵐はなかなか厄介である。吹雪なら、家に入る前に体についた雪を払い落とせばいいが、雨でずぶ濡れになると体が冷え切ってしまう。関東も寒暖の差が激しいから、風邪を引かないように気をつけよう。

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2015/02/25

花粉症が一気に進行

昨年花粉症デビューしたばかりの末娘が、先月末あたりからしきりに鼻水が出て目が痒いとこぼしていて、私も 「そろそろ来てるな」 とは思っていた。ただ、思ってはいたものの、まだそれほど深刻ではなかったのである。

ところが、出張で出かけた鹿児島は、さすがに季節の進行が早かった。昨日の昼過ぎに空港に降り立った途端に、鼻がムズムズし、目が痒くなった。妙な水っ鼻が流れて、ティッシュペーパーの出番が増える。時々くしゃみが連発される。

やばい。完全に本格的花粉症モードに突入してしまった。ああ、また 4月上旬まではこのうっとうしさに耐えなければならないのか。

私は花粉症対策としては、ひどい時にはマスクをすることもあるが、とくに薬を処方してもらうわけでもなく、鼻の粘膜をレーサーで焼くだのといった乱暴なことをする気もない。まあ、その程度の症状で、死ぬほどイライラするわけでもないから、なんとか耐えられるのだろう。

それに今回の症状悪化は、季節の進んだ鹿児島に来たから急に顕れただけであって、関東に帰れば和らぐだろうと、タカをくくっていた。まだまだ大丈夫だろうと楽観視していたのである。

ところが、今日の午後 7時前に羽田空港に降り、空港モノレールに乗ったところで気付いた。「やばい、東京も十分に暖かくなってる!」

浜松町で山手線に乗り換える時、ホームを歩いているだけでくしゃみが止まらない。目が痒い。鼻がグシュグシュする。1日遅れで、関東も九州に追いついてしまったようなのである。

こればかりはしょうがない。薬を使う気はないが、症状を軽減するコツは長年の経験でわかっている。酒を控え、体を温め、よく眠り、運動してストレスを溜めないようにすればいいのだ。

ただ、最近は酒もほとんど飲まないし、自転車を始めたから運動もしている。風呂もしっかりと入って体を冷やさないようにしているし、あとはよく眠るしかない。

これが難しいんだよなあ。いろいろな仕事が重なって、寝るのがつい夜中過ぎになってしまう。

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2015/02/24

身に付いていた、不自然なスピード感覚

3ヶ月前に自転車に乗り始めてから、自分のスピード感覚に異変が生じている。30年以上クルマに馴染んで身に付いたスピード感覚が、自転車では役に立たないどころか邪魔になっているためだ。

例えばクルマを運転していて前方の信号が青信号の時、このままのスピードで行ってそのまま通過できるか、あるいは交差点に差し掛かる前に赤信号に変わってしまうか、大体は予想がつく。もし、ギリギリで赤信号になってしまいそうな時は、ややスピードアップして通過できるようにコントロールする。

どう見ても青信号のうちに通過できそうにないタイミングだったら、あえてスピードを落として、次の青信号で交差点を通過できるようにする。このようにして燃費を節約しながら、ストレスも軽くする。

ところが自転車で走っていると、クルマで鍛えた感覚が全く役に立たないのだ。目の前の青信号に、十分に間に合うと思っていても、交差点の直前で、無情にも黄色になり、赤信号になる。自転車のスピードは、クルマのスピードとは比較にならないほどトロいのだ。

いや、実はそうではない。クルマの方が速過ぎるのだ。クルマのスピードは不自然で、自転車の方がノーマルなのだ。軽くアクセルを踏むだけで、あっという間に時速 60キロを超えてしまうのは、ガソリンを燃やし二酸化炭素を撒き散らすことで得られる不自然なまでの現象なのだ。自転車のスピードの方が、ずっと 「身の丈」 に合っているのだ。

近頃、ようやくそう思えるようになった。そして、クルマに乗っても今までよりずっと安全運転になった。これはきっと、いいことに違いないのである。

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2015/02/23

今の時代に、紙を使う量で文化度を計る人

中学校時代の地理の教師は、授業の度に自作のレジュメを配布するというとても熱心な教師だった。彼は 「人間の文化度は、どれだけ紙を使うかで計られる」 と言っていたのを思い出す。とにかく紙をたくさん使う教師だった。

当時はコピーマシンなんてない時代だったから、あの懐かしの 「ガリ版印刷」 である。手間がかかっているのである。ただ手間はかかっているものの、私としては、「教科書に書いてあることを要領よくまとめているだけで、そこから一歩も踏み出してないじゃん」 と思っていた。だから正直言って、そのレジュメをありがたいと思うこともなく、「労力と紙の無駄遣い」 と思っていた。

そして今や、「人間の文化度は、どれだけ紙を使うかで計られる」 なんて言ったら炎上しかねない 「ペーパーレス」 の時代になっている。どれだけ紙を節約できるかで文化度が計られる世の中になったのだ。

だが、今でも紙の書類がないと機嫌を損ねてしまう人がいる。何かあったら、すぐに数十ページの資料がさっと出てこないのは、部下の怠慢だと思っている人を、何人か知っている。だから部下は、多分使われない紙の資料を、何百ページ分も常に用意してピリピリしている。

私なんかは、余計な紙の資料を作るのは罪だとさえ思っている。プレゼンをする時でもなるべくプロジェクタでスクリーンに映して説明し、紙の資料配布を希望されても、最小限のスライド・ページに絞り込み、A4 用紙 1枚に スライド 2枚分をプリントしたものを配る。本当は 4枚分プリントしたいぐらいだが、それだと 「字が小さくて読めない」 なんて贅沢をいう人がいるから仕方がない。

さらに言えば、紙に印刷して配るなんてことは止めにして、「サイトにアップしてあるので、必要な人はダウンロードしてください」 ということにしたいぐらいだ。面白いのは、プリントした紙の資料を欲しがる人に 「ダウンロードしてください」 と言っても、半数はアクセスすらしてこないという事実である。だったら、紙の資料をあげたところで、結局はきちんと使いもしないのだろう。

こうした人たちは、何らかの 「モノ」 の形で持ち帰るものがありさえすれば、金を払った価値があると思っている。それをきちんと活用するかどうかは、価値判断にほとんど関係がない。だから、見せかけの満足感を与えたかったら、分厚い資料を渡すのが手っ取り早い。

用紙 1枚に 1スライドをプリントして、60ページ分ぐらいになる分厚い資料を配付するプレゼンターがいたりするが、私には信じられない思いがする。もらった人がちゃんと古紙回収に出してくれればいいが、単に 「燃えるゴミ」 として捨ててたりしたら目も当てられない。

「地球資源保護のため、紙の使用は最小限に控えている」 と説明しても、単なる怠慢と思われてしまうことがある。まあ、そう思ってしまうような人を相手にしてもしょうがないから、思わせておくだけである。

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2015/02/22

自転車乗りになって 3か月

昨年の暮れにスポーツタイプの自転車乗りになって、ほぼ 3か月が経った。購入したのはロードバイクとマウンテンバイクの中間型の、クロスバイクというカテゴリーに入るもので、値段からいうとほんの入門機である。とはいえ、24段変速で重量はわずかに 10.2kg。ママチャリとはわけが違う。

最近は、20km 以内なら雨が降っていない限り自転車で行くようになった。冬だというのに、ユニクロのヒートテック肌着の上にウィンドブレーカーを 1枚重ねただけでペダルをこぐ。体にかなり負荷をかけてワシワシこぎまくるから、5分も経たないうちに汗をかく。目的地に着いて汗が引いたら、すぐにリュックの中に用意しておいたダウンパーカを着る。

おかげで 10数年来の運動不足が解消されて、体がかなり健康になった。まず皮下脂肪が減ったことを実感する。ちょっと前までは立ったままで靴下を穿こうとして片足を上げると、お腹の脂肪が邪魔になって 「うっ!」 と息が詰まったりしていたが、今は全然問題ない。ウェストが目に見えて減ったのに、体重はあまり減らない。皮下脂肪が落ちた分、筋肉が付いているみたいなのである。

以前はどこに行くにもクルマで、楽をしまくっていた。楽をしまくってその上で、「運動をする時間がない」 なんて嘆いていたわけだが、今は必要な移動を行うのに自分の体力を使っているので、それがそのまま運動になる。こんなにいいことはない。高校時代までは田舎でどこに行くにも自転車だったが、あの頃の感覚がよみがえりつつある。

ありがたいのは、私より年上で自転車にはまっている先輩が何人かいて、いろいろアドバイスしてもらえることだ。「あまり無理をしないでぼちぼち体を作っていく方がいいよ」 と言われているのだが、ついムキになってワシワシこぎまくってしまうのが、問題と言えば問題だ。無理をして体を壊さないように、自分で必死にブレーキをかけている。

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2015/02/21

未踏の地、鳥取県と鹿児島市

2010年 12月の「未踏の地、山陰と四国」 という記事で、山陰の鳥取県、島根県、そして四国の香川県、徳島県、愛媛県の、計 5県にはまだ行ったことがないと書いている。しかしその後の 4年ほどの間に、島根県、香川県、徳島県、愛媛県には足を踏み入れることができた。しかも島根県には 3回、徳島県、愛媛県には各 2回行った。行ける時には行けるものである。

そして、行ったことはあっても一泊もしたことのない県というのがあって、それが私の場合、佐賀県だった。他の都道府県は、行ったからには一泊以上しているのに、佐賀県だけは通り過ぎるだけで、トイレ休憩しかしたことがなかったのである。しかしこれも、昨年の夏に出張で佐賀市を訪れて解消した。

これで足を踏み入れたことのない県は、鳥取県だけになった。この鳥取県だけは人口も 60万人以下と日本一少ないし、なかなか用事ができないのである。お隣の島根県には近頃 3回も行ったのに、すべて飛行機で出雲空港を利用したので、鳥取県の上空は通過したが、着地していないので敢えて 「通過県」 としてもカウントしない。

さらに言えば私にとっての弱みに、鹿児島県というのがあった。これまで鹿児島県には 3回足を踏み入れたことがあるが、最初に行ったのは鹿児島県は鹿児島県でも、奄美大島だった。大島紬関連の仕事で行って大歓迎を受け、夜のスナックで島の踊りを無理矢理覚えさせられた。覚えないうちは帰さないというのだから、嫌でも曲がりなりには踊れるようになった。

そして残り 2回は鹿児島空港に降り立ったのだが、目的地はお隣の熊本県にある人吉市だった。人吉に行くには、熊本空港よりも鹿児島空港の方が便利なのである。だから私は、鹿児島県には 3度行ったことがあるとはいえ、まともには奄美大島を訪問しただけで、あとは空港を素通りしただけだったのである。だから鹿児島県の九州本土 (と言ったらいいのかな?) にはまともに足跡を印していない。

しかし来週、ついに仕事で鹿児島市に行けることになった。天気が最悪でさえなければ、桜島も拝めるだろう。ついに 「鹿児島県は、行ったことがあります」 と、何の後ろめたさも感じないで言えるようになる。

それにしても、鳥取砂丘を拝めるのはいつになるだろうか。

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2015/02/20

中国人の 「爆買い」 を巡る冒険

中国人の 「爆買い」 というのが、エラい話題になっている。とくに銀座のラオックスがものすごいらしく、今は旧正月 (中国でいう 「春節」) 休みの時期なので、大型バスでどんどん乗り付け、電化製品をばかすか買いまくっているという。

中国内で買うのではなく、わざわざ日本に来て、あれだけ大量の商品を買いまくったら、帰りの飛行機で手荷物の量が半端なことではなくなって、エクストラ・チャージを払わなければならない (ANA の場合は手荷物超過 1個につき 2万円だという) 。それでもひたすら買いまくって持ち帰るというのだから、日本で買うというのは、よっぽどのメリットがあるのだろう。

まず考えられるのは、日本で買う方が中国内で買うよりずっと安いということだ。調べてみるとまさにその通りのようで、Serchina というサイトに "中国人観光客の「爆買い」は当然か・・・日本で買えば、こんなに安い!=中国メディア調査" という記事がある。

この記事によると、中国人観光客が日本で購入する 4大商品は 「魔法瓶、セラミック包丁、洗浄便座、電気炊飯器」 で、日本では中国国内の半額もしくは 3分の1の価格で購入できるというのである。

具体例として、タイガー魔法瓶の製品は日本で約 356元(約 6,770円)だが、中国のネット通販サイトでは 680元(約 12,940円)になり、東芝の洗浄便座は日本で 734元(約 13,970円)だが、中国では 2,769元(52,700円)もすると伝えている。なるほど、中国で買うと 2倍から 3倍ぐらいの値段になる。

どうしてこんなことになるのかというと、「価格はコストによって決まるものではなく、市場の競合製品の価格によって決まる」 という中国の日系企業社員のコメントを紹介し、「中国人の消費能力からすれば、価格が日本より高くても売れる」 と結論づけている。

ただしここでいわれる 「中国人の消費能力」 というのは、平均的中国人ではなく、「富裕層の中国人」 ということだろう。中国人の金持ちは、日本の 2〜3倍の価格でも買えるということで、こうした商品を売る業者は、そもそも平均的中国人は相手にしていないのだろう。つまり、日本の商品は 「贅沢品」 という位置付けなのだね。

中国で平均よりちょっと上の収入を得ている層は、「ちょっとした贅沢」 としてやたら高い値段の日本製品を買うこともあるのだろう。しかしそれよりもずっと金持ちの層は、そもそも中国内で買おうとなんかせず、日本に旅行して、金に糸目を付けずに 「爆買い」 するというわけだ。

ただ、1人で 3つも 4つも電気炊飯器を買いまくるらしいから、自分で使うだけでなく親類縁者に頼まれたりしているのだろうし、あるいはもしかしたら、ちょっと利鞘を稼ぐために、こっそり転売しちゃったりもするのだろう。

このあたりは、バブルの頃の日本人が、「ヨーロッパ買い物旅行」 でヴィトンのバッグなんかを買いまくっていたのを彷彿とさせる。高級ブランドの商品は輸入代理店がマージンをとりまくるので、日本国内で買うとやたらと高くなるが、海外の免税店で買うとずいぶん安い。それで、親類縁者に頼まれてまで買いまくっていたようなのである。

中国人の 「爆買い」 は、多分これと同じ図式だね。ヴィトンのバッグが炊飯器に置き換わっているだけのことだ。ただ炊飯器なんて、日本のブランドでも実は "Made in China" が多いんじゃないかと思うのだが、中国で作られた家電製品でも、日本で買う方が安いというのは不思議というか、ちょっとあこぎな現象である。

日本的発想では、中国内でもリーズナブルな価格で売ればもっと売れて結局は儲かるということになるのだろうが、今の中国では炊飯器の値段が半額になっても、やはり買えない人は買えないのだろう。だったら、買える層に高く売りつける方がいいということだ。「爆買いツァー」 の登場で多少は販売機会損失になることがあっても、今のところはそうした図式なのだろう。

もう何年かしたら、中国人の平均所得も上がり、炊飯器がリーズナブルな値段だったら買えるという層が出てくるだろうと思う。そうなれば中国内での価格対応もきちんとしてきてこなれた値段になり、日本で爆買いする意味なんてなくなるのだろう。

そうなったら今度はいよいよ、ヨーロッパでの 「ブランド品爆買いツァー」 の段階に突入するはずだ。ただし、それまで中国経済がもてばの話だが。

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2015/02/19

崎陽軒のシューマイは、なぜ 「シウマイ」 と表記される?

Li_shinku_02崎陽軒といえばシューマイだが、そのパッケージに表記されているのは 「シューマイ」 でも 「シュウマイ」 でもなく 「シウマイ」 というカタカナである (左の画像は崎陽軒のサイト直リンク)。「何故に 『シウマイ』 なのか?」 ということについての 「回答」 (?) を近頃初めて知ったが、それがちょっとアヤしいので、書かずにはいられなくなってしまった。

その 「回答」 (?) は、「気になるアレを大調査ニュース しらべえ」 というサイトに載っている 「崎陽軒のびっくりネタ 6選!なぜ 「シウマイ」 と表記? シウマイ結婚式って?」 という記事の中で紹介されている。引用してみよう。

巷では諸説ウワサされているようですが、本当の理由は初代社長の「訛り」が中国語の発音に似ていたから。シウマイを横浜名物にした社長は栃木県出身で、「シュウマイ」と言おうとすると「シーマイ」になってしまったそうです。それを聞いた中国人に「とても発音がいいですね。中国のシュウマイの発音にすごく似ている」と褒められて、中国語に似せて商品名を「シウマイ」としました。

まず本当は余計なことなのだが、中国語の発音が本当に 「シーマイ」 に似ているのかということから検証してみよう。フツーは、中国語では 「シャオマイ」 に近い発音だと認識されているので、「本当かなあ?」 と思いつつ、とりあえず Wikipedia に当たってみると、次のようにある。(参照

中華人民共和国の広州や香港では広東語で「シウマーイ」と発音されている。日本語は広東語の発音を外来語として取り入れている。北京語では「シャオマイ」と発音し、同音の「燒麥」の字を当てる場合がある。

なるほど、「しらべえ」 の説に沿うならば、栃木県出身の社長の発音を褒めたのは、広州か広東出身の人ということになる。もしかしたら、香港の人だったかもしれない。

しかし、初代社長の栃木訛り発音とされる (これもかなりアヤシいといえばアヤシいのだが) 「シーマイ」 と、フツーの日本語 「シューマイ」 の 2つの発音を冷静に比較したら、どちらかといえば、「シューマイ」 の方が 「シウマーイ」 に近いと感じるのは、私だけではないだろう。とにかくいずれにしても 「シーマイ説」 はアヤシ過ぎるのである。

うじゃうじゃ言うのも面倒だから、あっさりと結論を書いてしまおう。崎陽軒が 「シウマイ」 の取り扱いを開始したのは戦前の話 (上述の 『しらべえ』 のページによると、1928年とされている) だから、当時の日本語では 「シューマイ」 と発音される単語でも 「シウマイ」 と表記するのが一般的だった。それだけの話である。

例えば 「州」 という漢字に 「しゅう」 というルビを当てはめるようになったのは、戦後の話で、旧仮名では 「しう」 と書いていた。「秀」 「周」 「週」 「醜」 「囚」 も 「しう」 である。「執」 は 「しふ」 だが、それは中国から漢字が渡来した頃の本来の読みが、「しふ」 に近かったためだろう。

「衆」 は珍しく 「しゆう」 (「しゅう」 ではない)  だが、これは漢音より先に渡来した呉音による 「衆生」 という熟語が 「しゅうじょう」 ではなく 「しゅじょう」 と発音される (旧仮名では 「しゆじやう」) ように、「しゅう」 と発音されることが少なかったので、「しう」 という仮名を当てはめるわけにいかなかったのだろう。ただ 「しゅう」 という発音の旧仮名表記で、圧倒的マジョリティは 「しう」 だ。

とまあ、このように、戦前の日本語表記の慣習では、「シュウマイ」 と発音されるものでも、仮名で書くときには 「シウマイ」 と表記するのがごく自然というか、当然のことだったのだ。敢えて奇をてらって 「シウマイ」 と表記したというわけではないのである。

敢えて言えば、「シューマイ」 の漢字表記とされる 「焼売」 の 「焼」 という字の旧仮名表記は 「せう」 だから、機械的に読みを当てれば 「セウマイ」 が正しい。しかしさすがにその表記だと、当時はまだシューマイがそれほど普及していなかっただけに、文字通り 「せうまい」 あるいは 「しょうまい」 と発音されて、「ギョエテとは、わしがことかとゲーテ云い」 みたいなことになってしまうところだった。

さらに当時は文献の文字情報としてよりも、「シウマーイ」 だろうが 「シャオマイ」 だろうが、口語としての 「音」 優先で入って来て広まりつつあったのだろうから、表記として馴染みやすい 「シウマイ」 に落ち着いたのだろうと思われる。

で、崎陽軒は戦後になっても社の伝統に沿い 「シウマイ」 のロゴを変えずに採用しているのある。「どうして 『シューマイ/シュウマイ』 じゃなくて 『シウマイ』 なの?」 という疑問は、初めてこのように表記された戦前には生じる余地がなく、戦後になって初めて出てきたのだと言うほかない。

余談だが、どじょう鍋で有名な 「駒形どぜう」 という江戸時代から続く店があるが、「泥鰌 (ドジョウ)」 の本来の旧仮名表記は 「どぢやう」 である。それを 「どぜう」 としたのは、文化 3年の大火で類焼した後、縁起のいい三文字 (奇数文字) に変えたということらしい。

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2015/02/18

パワースポットの御利益

日本三大パワースポットというのがあって、それはいつ誰が決めたのか知らないが、石川県珠洲市の 「聖域の岬 」、「富士山」、長野県伊那市の 「分杭峠」 ということになっている。中でも、「ゼロ磁場」 で知られる分杭峠のパワーは強烈なものであるらしい。

何だかよくわからないが近年はパワースポット流行りで、パワースポット巡りが好きなんていう若い女の子も多い。で、パワースポットって、どんなのかというと、そこはそれ、古くからの神社仏閣というのが定番のようなのだ。

そうなると、私なんかは昔から神社仏閣好きで、出張を含めて旅行に出ると、時間の許す限り地元の神社仏閣をお参りすることにしている。こんなことを長年続けているのだから、相当に御利益があって、パワーに満ちあふれていてもいいはずなのだが、どうもそんな気もしない。ただ淡々とその日その日を生きているというだけである。

淡々とその日その日を生きていられるということこそが、パワースポットの御利益なのだと言われればその通りなのかもしれないが、まあ、何だかよくわからない。

ところで 「パワースポット」 (power spot) というのは和製英語であるというのが、一般的な定説である。Wikipedia の 「パワースポット」 の項目には、「用出典」 との注釈付きながら、"「power spotは和製英語である為、海外では通用しない」と言った人がいる" との記述がある。

AllAbout で紫月智子という人が書いた 「パワースポットって何? 導かれ方と心構え」 という記事では、「パワースポットという言葉は、実は和製英語です。この言葉を初めて使ったのは、スプーン曲げ少年として有名になった、日本を代表する超能力者の清田益章氏でした」 と、明確に断言されている。

だが私としては、「だから、AllAbout の記事って、眉唾ばっかりと言いたくなるんだよなあ」 と言わざるを得ない。"Power spots” ("power places" ということもある) という言葉は、ネイティブ・アメリカン関連の英語の記事なんかを読んでいると、案外良く出てくる言葉である。嘘だと思うなら、ググってみた結果をご覧いただきたい。(参照

私としてはパワースポットというのは、そこを訪れて御利益を頂戴するというより、「この土地に来させていただいてありがとう」 と感謝するための窓口みたいな場所だと思っている。一体誰に感謝するのかと訊ねられれば、それは 「神仏に感謝する」 のだとしか答えようがない。

つまり、パワースポットと呼ばれるほどの素敵な場所を訪ねることができたというのが、既に 「御利益そのもの」 なのだね、きっと。

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2015/02/17

東日本大震災の余震はまだまだ続くらしい

今日、岩手県沖を震源とする比較的大きな地震が 2度も発生した。午前 8時過ぎの地震は、青森県、岩手県の各地で震度 4を観測して、津波も発生し、午後 1時 46分頃の地震青森県階上(はしかみ)町で震度5強となった。気象庁によると、いずれも東日本大震災の余震とみられるという。さらに、午後 4時 20分には震度 2と小さかったが、茨城県沖を震源とする地震もあった。

茨城県在住の身としては、震度 4程度の地震にはもうすっかり慣れっこになってしまい、「ああ、また揺れてるな」 程度の感慨しかない。それにしても、4年近く経った今でもこんなにまともな余震があるのだから、あの大震災がいかに大きなものだったかが改めて思い知らされる。

思い出せば、平成 23年 3月 11日の後、毎日のようにぎょっとするような余震があった。とくに本震から 1週間ぐらいの間は、揺れていない時間の方が短いんじゃないかというぐらい、常に揺れていたような気がする。

あの頃は冬の季節風が 3月末頃まで吹きまくったから、地震で揺れているのか、風で揺れているのか、はたまた目まいしているのかわからないような状態になっていた。あれを称して 「地震酔い」 というのだそうだ。

地震の翌月に仕事で四国徳島に出張した時は、ビジネスホテルで久しぶりに一晩中 1度も地震で揺り起こされずに済む眠りを経験し、「ゆったりと眠れるのは、なんて幸せなことなんだ!」 と感激した覚えがある。

地震国に生まれて、そのままずっと住み続けている以上、一生大地震に遭遇しないで済むという確率はとても低い。私は小学校 6年の時の新潟地震、4年前の東日本大震災と、2度もまともな大地震を経験した。一方私の父は、新潟地震の時は北海道に単身赴任中だったし、80年以上の生涯で大地震に被災したことがないという、まことに幸運な人だった。

これから、東海、東南海と、東日本大震災に劣らない規模の地震が来ると想定されている。なんとか生き延びようと思っている。

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2015/02/16

曽野綾子というゴーマンな世話焼きおばさんの、裏返しのお花畑

産経新聞の曽野綾子氏のコラム 「透明な歳月の光」 の 「適度な距離保ち受け入れを」 というタイトルのコラムが大炎上している。私もこのコラムを読んだ時、「このおばさん、調子に乗って滅茶苦茶アブないことを書いてるなあ」 と思ったのだが、案の定、あちこちから突っ込まれまくっている。

コラムの内容は、介護のための労働力として、移民を受け入れようというものである。ところが彼女の言い分はそれだけに止まらず、受け入れた移民の居住場所に関して、「南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった」 というのである。

彼女がこういうのは、彼女なりの言い分があってのことのようだ。南アフリカでは人種差別が撤廃されてから、それまで白人が居住していたマンションに黒人が移り住むようになり、そうなると生活習慣が違うので、共同生活が崩壊してしまったというのである。だから、白人、アジア人、黒人は、居住区を分けるべきだというのだ。

自信たっぷりに 「どう見ても、そうした方がいいですわよ」 と言っているわけだ。彼女の主張のスタイルは、大抵いつも同じである。「私は世界のあちこちを見てきて、『綺麗事じゃない現実』 というものをよく知っているんだから、私の言うことに従えば間違いないのよ」 ということなのだ。

彼女の 「綺麗事じゃない現実主義」 はそれなりに貴重なもので、そうした視点から見れば単純に人道的なリベラル主義などは、およそノー天気な 「お花畑」 に思われて苛立ってしまうのだろう。その気持ちもわからないではない。しかし、今回の彼女の発言は 「裏返しのお花畑」 でしかない。

本来、人はどこに住もうが勝手である。勝手だが、収入やライフスタイルの違いで、その居住地はおのずから決まってくる。田園調布に住む人と、高円寺に住む人と、新小岩に住む人は、やはりライフスタイルが違う。違って当然である。これは別に差別というわけじゃなく、ましてや誰に強制されたわけでもなく、自然にそのような棲み分けができる。

つまり、どこに住もうと勝手だが、自然に自分のライフスタイルに見合った所に、人というのは住むのである。そのことについては、自分で選択するのだから、他から強制されるいわれはない。そして、自分で選んで気に入ったところに住めば何も問題が発生しないというわけでも決してなく、結構何だかんだと軋轢は生じるもので、それを適当にやり過ごしながら、人は暮らしていくものなのである。

ところが曽野氏の言い分は、肌の色によってライフスタイルが違うのだから、軋轢が生じないように、初めから居住区を分けろというのである。これは 「自信たっぷりのゴーマンな世話焼きおばさんの余計なお世話」 である。どこにでも、よくいるでしょ、「自信たっぷりのゴーマンな世話焼きおばさん」 が。そしてそういう人って、大抵近所の厄介者でしょ。

ゴーマンな世話焼きおばさんが、「肌の色によって居住区を分けろ」 と言ったって、そんな制度、この日本の中で、誰がどうやって作って、どう運用しろというのだ。できるわけないじゃないか。私が曽野氏の発言を 「裏返しのお花畑」 と言うのは、そうした意味合いである。

それとも彼女は、「私が言うんだから、とにかくおやんなさいよ!」 と、あくまでも言い張るのだろうか。あるいはできないとわかりつつも、「本当はそうするべきなのよ、できないのは、制度の欠陥なのよ、だから、日本はいつまでたってもダメなのよ!」 と、勝ち誇ったように言いたいのだろうか。

そもそもアパルトヘイトというものの根幹は、「居住区を分ける」 というコンセプトからスタートしている。肌の色によって居住区を分けろという彼女の主張は、彼女自身がどう言い訳しようとも、結論的にアパルトヘイトなのである。

無理矢理に居住区を分ければ、確かにライフスタイルの違いによる軋轢は減少するかもしれない。南アフリカのアパルトヘイトも、当初はそれを目的として始まり、それから徐々にシステムが拡大し、確立されていった。

しかしそれによって生じた社会的不正義と経済的損失というデメリットは、少々の軋轢減少というメリットというものがあったとしても、それとは比較にならないほど大きかったのである。だから南アフリカも、ついにはそれを捨てざるを得なかったではないか。

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2015/02/15

リアル書店とネット書店

東京新聞に "10代は「リアル書店」好き 本ネット購入、40代が最多" という記事が載っている。日本通信販売協会のアンケートによると、ネットに親しんでいるとみられる 10代の若者が本を購入するのは、実はリアル書店が多く、ネットでの購入が最も多いのは 40〜50代なのだそうだ。

よく考えてみると、これは不思議ではない。10代がリアル書店での購入が多いのは、彼らがまだ自由に使えるクレジット・カードを持っていないことが多いからだろう。それに時間も体力もたっぷりあるから、大型書店の店頭でじっくりと本選びをすることができる。

一方、40〜50代は忙しい上に案外出不精になってしまっているから、本屋で時間を潰せない。彼らが本を購入するのは、「決め打ち」 が多いから、手っ取り早く購入するには、ネットが一番なのである。

本をネットで買うのは、ほとんどが 「決め打ち」 である。買う本が決まっていさえすれば、ネットが一番早い。街の小さな本屋に行っても、ベストセラーとコミック、雑誌しかないし、大型書店に行けばあるかもしれないが、膨大な品揃えの中から見つけ出すのが大変だ。私の場合も、面白そうな本を紹介されたり書評で読んだりしたら、その場で Amazon にアクセスし、ワンクリックで買ってしまうことが多い。

大型書店の楽しみはただ漠然と立ち寄って、「何か面白そうな本がないかなあ」 と、ゆっくり立ち読みすることにある。だから、時間がたっぷりなければ、大型書店に立ち寄ってもあまり意味がない。少なくとも 30分ぐらいかけなければ、この醍醐味は味わえないと思う。

ただ最近、私は大型書店でじっくりと時間をかけて立ち読みしながら、本選びをする時間があまりとれなくなってしまった。どうしても Amazon で決め打ちしてしまう。これは本選びの醍醐味から遠ざかっているということで、もう少し時間が欲しいなあと思ってしまう。

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2015/02/14

『プンプンポルカ』 のトラウマ

『プンプンポルカ』 という歌をご存じだろうか? NHK 『みんなのうた』 は 1961年に始まったが、その年の 8月から 9月に放送されたというのだから、まさに草分けの歌である。サトーハチロー・作詞、高木東六・作曲という、当時のゴールデン・コンビの作品で、歌は芦野宏。九里洋二のアニメが独特の味を醸し出していた (参照)。

どんな歌かというと、「あの子とあの子と ジャンプンプン/朝もケンプンプン 夜もポンプンプン」 という歌い出しで始まり、要するにジャンケンの歌なのだが、延々と 「あいこ」 になり、勝負がつかない。それで朝も夜も、声をからし、汗を流し、延々とジャンケンをし続けるのである。

当時のビデオは NHK でも保存していないようで、見ることはできないが、歌詞、楽譜、楽器による演奏 (歌なし) を紹介したページがある (参照: いきなり音が出るので注意) ので、興味のある方はリンク先に飛んでみていただきたい。

私は 『みんなのうた』 はスタート時からの大ファンで、小学校 3年生の頃から毎日楽しみに見ていた。スタート時の最初の歌、『おお牧場は緑』 には、大感激したものである。ところが、この 『プンプンポルカ』 はちょっと苦手だった。

私は飽きっぽいのである。一つのことをずっと続けるのは大の苦手なのだ。だから、たかがジャンケンなのに、いつまでも 「あいこ」が続いて、逃れることができないなんていうのは、当時の私にとって大変な恐怖に感じられた。

あまりの恐ろしさに、「自分から負けてでも、さっさと切り上げたい」 と思ったものだが、ジャンケンばかりは、勝ち負けをコントロールできない。負けたくてたまらないのに、いつまでも 「あいこ」 が続いてジャンケンから解放されないという悪夢を、何度か見てうなされたほどである。

あの頃のトラウマのせいか、私は今でもジャンケンが苦手なのである。

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2015/02/13

ネットの個人アカウントの相続人

米国の Facebook が、「利用者が自分の死後に自身のページ (アカウント) を管理してもらう 「相続人」 を指定できる機能を導入したのだそうだ。相続人は利用者本人のアカウントに遺言を載せたり、追悼文や葬儀の日取りを表示したりすることができるのだという。このシステムは米国以外でも順次スタートするらしい (参照)。

この記事を読んで、昔々に書いた 「ホームページの永代供養」 というコラムを思い出した。日付を見ると、12年近くも前に書いた文章である。へえ、私もずいぶん長くネットの世界に関わっているものである。

個人サイトや Facebook の個人アカウントなんていうのは、当人が死んでしまったらもうどうしようもなくなるのである。私はまだまだ元気だが、明日どうなるかは誰にもわからない。人の命と個人サイトなんて、はかないものである。

Facebook の 「相続人」 指定システムは、そのあたりの問題を解決する助けにはなるだろう。「あの人、最近ちっとも更新しなくなっちゃったね。どうしたんだろうね」 と思われたまま、ついに忘れ去られるという事態を避けるために、「○○は、△月×日に亡くなりました。葬儀の日取りは以下の通り」 なんていう記事を、相続人が載せてくれるというなら、ありがたいことである。

個人のアカウントの ID とパスワードなんて、多分家族も知らないのだから、相続人を指定しておいて、その相続人が死語のすべてを取り仕切ってくれるというなら、ひとまず安心である。問題は、その相続人が依頼者の死を迅速に把握して、素早く対応してくれるかどうかだ。

結局は、「俺が死んだら、ネット相続人の○○さんに連絡してくれ」 と、家族に頼んでおくしかないのだろう。だったら、相続人機能そのものを家族に頼んでおく方が近道かもしれない。件の記事も、「相続人を指定せず、従来通り遺族らに削除してもらうことも可能だ」 と結んでいる。

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2015/02/12

「その道の権威」 の考えを我田引水で解釈するというスタイル

新潮社の 「チーム縁の下」 の管理による 「村上さんのところ」 というサイトが一部で話題になっている。広く募集した質問に、作家の村上春樹氏が答えるというもので、質問の受付は既に終了したが、回答は 3月頃まで更新され、増えていくらしい。

この中の 「文章を書くのが苦手です」 というタイトルの Q&A に、AllAbout newsdig の 笹田裕嗣という人が注目して 「村上春樹さんのコメントを見て、ビジネスマンも考えないといけないと思ったこと」 というコラムを書いている。

この Q&A は、レポートや発表原稿、教授へのメールなど、とにかくたくさんの文章を書かなければならないのに、「なにぶん文章を書くのがとても苦手」 なので、「村上さんの 『文章読本』 的な考えをぜひお聞きしてみたいです」 という大学院生 (23歳の女性) の質問に答えたものである。

村上氏の回答は、「文章を書くというのは、女の人を口説くのと一緒で、ある程度は練習でうまくなりますが、基本的にはもって生まれたもので決まります。まあ、とにかくがんばってください」 という、とても素っ気ないものである。これをコラムで取り上げた笹田氏は 「ほぼほぼ才能です、という非常に残酷な回答」 と言及している。

その上で笹田氏は、「一朝一夕では無理! 本気でやりたいなら、覚悟を持ってやれ! ということを言いたかったのではないかと思います」 と書かれている。そして、「プロとしてやっていくなら、それなりの覚悟をもって、多いに努力せよ」 という結論にもっていっている。

私は笹田氏のコラムを読んで、「へえ、村上氏は 『本気でやりたいなら、覚悟を持ってやれ!』 なんてハードなことは言ってないし、匂わせてもいないがなあ」 と、ゆる〜い違和感を抱いた。どこをどう解釈すると、そんなにまでコッチンコッチンのビジネス人生訓的な結論になるのだろう。

何しろ、村上氏は 「ある程度は練習でうまくなりますが、基本的にはもって生まれたもので決まります」 と初めから言っているではないか。だから、文章が苦手というならそれはそれでしょうがないから、「ある程度」 のレベルぐらいまでには行くために、「まあ、とにかくがんばってください」 と、いかにもゆる〜く結んでいる。それ以上のことは言っていない。

昔っから 「我田引水」 という喩えがあるが、笹田氏のコラムはまさにそれじゃないかなあと思った次第なのである。「あの村上春樹がそう言っている」 と言いたいのだろうが、どうみても言ってないのだから、しょうがない。

ちなみに、「基本的にはもって生まれたもので決まります」 という村上氏の指摘は、文章に限らず大抵の分野について言える。練習すれば 「ちょっと上手なアマチュア」 レベルにはいけるが、真っ当なプロとしてやっていくには、やはり 「才能」 というものが必要だ。

仮にもこの世で 「プロ」 としてやっている人は、「天才」 ではないにしても、それなりの 「才能」 はもって生まれてきたのである。その上で、きちんと努力しているのだ。

私は 9年前に 「日本語と逆上がりの関係を巡る冒険」 という記事で、「いくら大学を出ても、言葉センスのないやつは、まともな文章ひとつ書けない。しかし、言葉センスさえあれば、中卒だって、すごく魅力的な文章を書ける」 と書いている。

ここでは 「言葉センス」 と言っているが、どの分野にもその分野でやっていくに必要な 「センス (才能)」 というものがある。「彼は 『野球センス』 がある」 なんていう言い方をよく聞くではないか。「運動センス」 のないやつは、逆上がりだって容易にはできない。

がんばって練習して、ようやく逆上がりができるようになったやつに、「覚悟をもって努力して、ゆくゆくは 『月面宙返り』 を目指そう!」 なんて言っても、それは気の毒というものである。

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2015/02/11

「日本が建国された日を知っている日本人は2割未満」 という記事

建国記念の日の今日、産経新聞が 「日本が建国された日を知っている日本人は2割未満」 という、一見ショッキングなニュースを伝えた。一方、中国、カナダ、米国などでは、「自国の建国・独立の日」 を、9割以上が正しく答えたという (参照)。

ところが、記事をよく読んでみると、この調査はかなりいい加減なものだとしか思われない。以下に記事の核心部分を引用する。

調査は 1月、北海道から沖縄まで全国 10都市の街頭で 18歳以上の男女約 1万人にヒアリングした。「日本が建国された日はいつか」との問いに「2月 11日」と答えたのは 19.3%で、年齢別の内訳は 25~39歳が 14.9%で最も低く、18~24歳が 16.2%、40~59歳が 19.4%。最も高い 60歳以上でも 44.3%だった。

「『建国記念の日』は、何月何日か知っていますか?」 と聞かれたら、 いくらなんでも、もっと多くの人がきちんと答えただろう。しかし街頭でいきなり 「日本が建国された日はいつか」 なんて聞かれたら、愛国者を自認する私でも 「わからない」 と答えるだろう。

「建国記念の日」 が 2月 11日と知っていても、それは神話という伝承に基づく記念日であり、実証的な意味での 「歴史的事実」 とは異なる。実際に建国された日なんて、あまりにも遠い昔過ぎて、誰にもわからないのだから、これは聞き方が悪いというほかない。

中国、カナダ、米国など、比較的新しく成立した国家 (「中国三千年の歴史」 なんていうが、「中華人民共和国」 の成立は第二次世界大戦後の 1949年である) なら、明確な記念日が特定できるが、日本は成立が古すぎて、神話に頼るしかないのである。神話というフィクションに基づくなんて欺瞞だという人もいるが、私は神話に頼るしかないほど長い歴史をもつというのは、誇らしいことだと思う。

産経新聞の記事は、わざと正解が出ない聞き方をして、「正解率が低すぎる」 と、センセーショナルに危機感をあおり立てるためのものとしか思われない。

もっとも、「建国記念の日はいつか?」 とフツーに聞いても、9割以上が正しい日付を答えるなんて、期待できないのも確かだと思う。ただそれを言ってしまったら、外国人への質問はメールを通じているのだから、うろ覚えだった正解を検索して答えた可能性だって高い。つまり、日本人の 8割以上が 「建国記念の日」 を知らないわけではなく、外国人だって 9割以上が正しく知ってるわけじゃないだろうということだ。

そしてもっとうがった見方をすれば、多くの日本人が 「建国記念の日」 という祝日を知ってはいても、その内容をよく理解していないということは、疑いようのない事実だと思う。 「初代神武天皇が 『建国の詔 (みことのり)』を発して即位されたと伝承される日付を西暦になおしたもの」 ということと、「建国記念の日」 がきちんとリンクされていないのである。

だから、どちらの立場からしても 「日本が建国された日はいつか」 なんて乱暴な質問をすること自体、ジャーナリズムとしていかがなものかと言うほかない。

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2015/02/10

ガラケーはあと 20年滅びない

7年ぶりにガラケーの出荷が増加したのだそうだ。不思議でもなんでもない。世の中にはスマホなんて使わなくても全然不便を感じないで済む人がいくらでもいる。初めて iPhone を買った 6年前、私は次のように書いている (参照)。

iPhone ユーザーの先輩である I 氏は、「これ、電話としては、むしろ使いづらい」 と言っていた。単に通話とメールだけしか使わないなら、フツーのケータイの方がずっといいようなのだ。それ以外の総合的な機能を使うつもりでないと、iPhone ユーザーになる意味がないという。

これを書いた当時、まだ 「ガラケー」 という言葉は一般化していなかったようで、「フツーのケータイ」 なんて言っている。

今でもネットの世界では、「ケータイで音声通話とメールしかしない人にとっては、ガラケーの方が使いやすい」 という声が大きい。しかし、これはほんのちょっとだが違うと思う。本当のところは、ガラケーが使いやすいのは 「完全に音声通話主体で、ほんの時々ショートメールを使う程度」 という人にとってである。ガラケー・ユーザーは、いわゆるインターネット・メールとはほとんど縁がない。

私はガラケーを使っていた頃、メール機能はショートメールですら滅多に使わず、ほとんど音声通話オンリーだった。家族からショートメールが届くと、あの使いにくいテンキーでものすごいフラストレーションを感じながら返事を打っていたものである。メールは PC でするものだと思っていた。

PC のキーボードで快速入力する時の心地よさと、ケータイのテンキーでチマチマ入力する時の落差がありすぎて、到底積極的には使う気になれなかったのである。ところが iPhone を買ったとたんに、すっかりメールでもヘビーユーザーになった。文字入力にフラストレーションを感じないで済むからである。今では iPhone のない生活なんて考えられない。

ただ、中にはガラケーとタブレットの二刀流で、音声通話はガラケー、その他の機能はタブレットという人もいるらしい。これなどは、相変わらず 「音声通話だけなら、ガラケーの方が使いやすい」 ということを物語る材料になるかもしれない。

ケータイ・ユーザーは今、完全に二極化している。「音声通話もできるインターネット端末」としての機能を享受するスマホ派と、「あくまで音声通話主体」 のガラケー派だ。ガラケー派にとっては、ショートメールすら 「貴重な機能」 である。ほんのたまにしか使わないのだが。

ただ、ガラケー・ユーザーにしても時計とカレンダー機能ぐらいは意識している。といっても、アラーム機能やスケジュール管理機能まで深入りするわけではなく、あくまで単なる 「時計と暦」 である。朝起きる時には枕元の 「目覚まし時計」 を使い、スケジュール管理は手書きの手帳で行う。そして写真はデジカメで撮る。

多くのスマホ・ユーザーが、電話、カメラ、音声レコーダー、スケジュール管理、電卓、メモ帳、ラジオ、辞書、地図、ゲーム機、列車時刻表、インターネット端末、ブックリーダーなどの多機能をスマホ 1台で済ませているのとは、大違いである。

しかしかくいう私も、実は iPhone ユーザーになる 1年半ぐらい前には、「1台の多機能機より、複数の専用機」 なんていう記事を書いていたのである。いや、私だけでなく、世の中全体が、多機能機 1台ではなく、専用機数台を持ち歩くのが主流という時代だった。

当時の調査では 「スマートフォンのおかげで生産性が向上していると回答したのは43%のみ」 で、「多くの携帯端末利用者は、現在使用している端末に新機能が追加されても、それは単なる 『おまけ』 のようなもので、ツールとしては役立たないと考え」 ていた。カメラ付きケータイ所有者の 80%が日常的にデジタルカメラを携帯し、スマートフォン利用者の 75%は PDA を持ち歩き、マルチメディア携帯利用者の 50%が MP3プレーヤーを携帯していたのである。

わずか 8年ほど前の話だが、今とは隔世の感がある。この状況をがらりと変える契機になったのは、やはり iPhone の出現だったといって間違いなかろう。そしてこの 8年ほどの間に、スマホがない生活は考えられないというライフスタイルに転換した人と、しなかった人がいるというだけの話だ。

スマホがなくても全然不便じゃないというライフスタイルは、その人の年齢とほぼ同じだけの長い間続いてきたのである。もし 60年間そうしたライフスタイルが続いたのであれば、残りの人生の 20年ぐらい、ガラケー 1台あれば十分すぎる。そうした人に無理矢理スマホを持たせても、それは単に気の毒というものだ。

だから、ガラケーは少なくとも 20年は滅びないと思っている。

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2015/02/09

毎日新聞朝刊の 「サクラダ・ファミリア」(聖なる桜田家)

毎日新聞で、いしかわじゅんさんの 4コマ漫画 『桜田です!』 が始まっている。1月 22日に "「桜田です!」新・朝刊漫画 いしかわじゅんさん作 来月1日スタート" という 「社告」 (なんだか大げさな気もするが) があり、嘘紛れもなく、今月 1日にスタートした。

最近は紙の新聞なんてあまり見ないのだが、私は 「薔薇の木に薔薇の花咲く」 以来のいしかわじゅんファンなので、なんと、毎朝楽しみに新聞を開くようになった。

漫画は東京都武蔵野町に住む桜田家の人々を中心に展開する。ごくフツーのサラリーマンぽいお父さん、漫画家であるらしいのだが、まだそれらしき動きをみせていないお母さん、長女は小学 6年生の美少女、カレンちゃん、その弟の小学 3年生のハル。そして猫の正ちゃんもいる。この正ちゃんは、作者の飼っている実在の猫そのままのようである。

さらに新連載にあたっての記事 "桜田です!:「登場人物の動き楽しみ」 新連載、いしかわさん意欲" という記事によると、近所には陶芸家のおばあちゃんも住んでいるらしい。桜田家の全貌が明らかになり、さらにそれぞれが勝手に動き出すようになるには、もう少し時間がかかるようだ。

最初の週は、桜田家の朝から始まる。第 1回の 1コマ目は、てきぱきと家族の朝食の世話をするお母さん。しかし 2コマ目であっさりとそのイメージは裏切られ、それはベッドの中で朝寝を貪るお母さんの夢だったと知る。実際の家族は淡々と、朝食抜きで会社と学校に出かける。

2回目は、長男のハル。授業で 「一番興味をもっていること」 を発表することになり、ハルはつい 「今日の給食のオカズは何かです」 と口走る。その一言で、周囲の友だちには 「今日も母ちゃん起きられなかったんだな」 と覚られ、女の子には優しく 「チョコ食べる?」 なんて声をかけられる。

3回目は、長女のカレン。美少女だけに、女の子には 「カレンちゃん、うちのクラスのファッションリーダーよね」 と噂になり、男の子には 「俺のタイプ」 などと言われているが、その実態は、「昼までもたん」 とつぶやきつつ、授業中に教科書の陰で黙々と早メシをする少女なのであった。

4回目は、お父さん。会社で 「桜田さんの奥さん、漫画家なんだって?」 「漫画家って、締め切りに追われて何日も寝られない日が続いたりするんでしょう」 などと声をかけられるが、家に帰ればいつも 「くかー」 と寝ている妻しか見たことがなく、「本当に漫画家か?」 とつぶやく。

5回目は、問題のお母さん。ベッドで目を覚ますと、時計は 7時半を指している。必死に飛び起きてバタバタと朝食の支度をし、「朝ご飯お待たせ〜、セーフ!」 と言うが、すぐに夜の 7時半過ぎと気付き、へたり込んで落ち込む。家族は優しく 「いいんだよ、晩ご飯として食べればいいんだから」 と慰める。

6回目、夜になって寝る時刻になると、家族は猫の正ちゃんと一緒に寝たがり、奪い合いをする。朝になると、正ちゃんは布団の外に押し出され気味だが、家族の足だけが正ちゃんの体温を求めて集まっている。正ちゃんは 「おれはコタツか」 と心の中で呟いている。

で、第 2週目に突入した昨日 (7回目) は、ハルの学校での休み時間のお話。かくれんぼに関する脱力極まりないエピソードである。お母さんがかくれんぼの鬼になっても、あっという間に全員を見つけ出せる秘密とも言えない秘密が明かされるが、その秘密というのが詳しく書くのも馬鹿馬鹿しいほどの脱力加減である。

とまあ、何ともユルい桜田ファミリーである。私はこの漫画を密かに 「サクラダ・ファミリア」 (聖なる桜田家) と呼んで毎朝の楽しみにしている。

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2015/02/08

ISIL という呼称採用と、大相撲の野次の問題

一昨日の記事にいただいた basara さんのコメントに心を動かされて、これまで 「イスラム国」 と呼んでいた集団を今後 "ISIL" と呼ぶことにした。決してしっくりくる選択ではないが、エジプト出身の大相撲力士、大砂嵐に 「おい、イスラム国!」 という野次がとんだということを知り、ぐずぐずしている時ではないと思ったためだ。

それにしても大砂嵐に心ない野次を飛ばした客は、とんでもないやつである。今となっては遅いかもしれないが、大相撲協会はそいつを特定して、厳重注意すべきだろう。サッカーで "Japanese Only" という横幕を掲げた連中を、浦和レッズが出入り禁止にしたのだから、大相撲もそのくらいのことをすべきと思うが、実際には無理だろう。

例えば私は、大相撲力士の紹介をする場内アナウンスに、そこはかとない違和感を覚えていた。日本人力士の場合は、原則 「○○県出身、××部屋」 というスタイルで紹介するが、曙や小錦の場合は、「ハワイ・オアフ島出身、○○部屋」 なんて言っていた。

しかし例えば、日本人力士の紹介で 「新潟・佐渡島出身」 とか 「沖縄・宮古島出身」 みたいなことを言うか? 言わないだろう。フツーに考えたら曙、小錦の場合も 「アメリカ合衆国ハワイ州出身、○○部屋」 だろうよ。そう言わないところに、相撲協会の安易な 「見世物興業体質」 を感じていたのである。

そりゃあ確かに、大相撲はスポーツというよりは芸能に近いものだと、私も思っている。芸能に近いからこそ、異様な髪型が強制されるし、勝ち負けにはまったく関係ない土俵入りとか弓取式とかを力士自身が演ずる。さらに地方巡業の相撲なんかは、本場所とは似ても似つかないほど、「見ようによってはおもしろい」 取組が多い。もろにエンタテインメントの 「しょっきり」 なんていうのもあるし。

また、スポーツじゃないからこそ、ウェイト別の取り組みなんてあり得ないし、「立ち合い」 のタイミングにしても、あんなにも 「ビミョーすぎ」 (何しろ、行事に強制力がないのだから) というシステムのままで運営されている。

ただ、「大相撲はスポーツじゃない」 からといって 「真剣勝負じゃない」 ということではない。過去にいろいろ八百長疑惑はあったにしても、個々の勝負のほとんどは (地方巡業を除き)、確かに真剣勝負である。大相撲は 「真剣に勝負する芸能」 だと、私は思っている。そもそも、芸能とは本来シリアスなものなのだ。

「真剣に勝負する芸能」 であるからこそ、私はそれに民族差別的な野次を飛ばすようなやつには、厳しく対処すべきだと思うのである。なんなら出入り禁止にしてもいいほどだ。こんなことを相撲協会に望んでも、ほとんど無駄とはわかっている。しかし 「公益財団法人 日本相撲協会」 なんだから、それをやらないのは本来怠慢ではないかと思うがなあ。

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2015/02/07

『ひみつのアッコちゃん』 の 『スキスキソング』 と 『庄内おばこ』

知ってる者にとってはあまりにも当たり前すぎて、どうってことのないお話でも、それを初めて知った者にとっては、「大発見」 になり、大はしゃぎしたくなったりする。

今では滅多に聞かなくなったが、昔々のアニメ、『ひみつのアッコちゃん』 のエンディングテーマ、あれって、題名は 『スキスキソング』 (歌は、懐かしの水森亜土) というらしいんだが、私は半世紀近く前に、この歌を初めて聴いたときから 「ファンキー・バージョンの 『庄内おばこ』 じゃん」 と、ごくフツーに思っていた。

私はどういうわけか、子どもの頃から民謡や落語など、シブい芸能の類いには結構詳しかったのである。『スキスキソング』 が 『庄内おばこ』 であるのは、私にとってはあんまり当たり前すぎたので、自分の別宅サイトの 『庄内力養成委員会』 <「庄内力チェック」 の質問 25 で、あっさり触れるぐらいに済ませていた。

ところがこれについて、あたかもちょっとした発見のように書いてあるページがいくつか見つかった。今や庄内生まれでも大多数は 『庄内おばこ』 の歌詞なんて知らず、たまたま気付いたら 「おいおい、知ってるか!」 と言いふらしたくなるようなお話になってしまっているようなのである。それで私としても、改めてここで書いてみる気になったわけだ。

『庄内おばこ』 というのは、私の故郷、庄内の民謡で、「おばこ」 とは 「若い娘っこ」 のこと。庄内弁では 「あねちゃ」 が年長の女性 (姉妹なら姉) で、「おばちゃ」 は年少の女性 (姉妹なら妹) を意味する。決して 「オバちゃん」 のことではない。

日常の庄内弁では 「おばちゃ」 が普通で 、「おばこ」 なんて滅多に言わないのだが、何にでも 「こ」 を付けたがるお隣の秋田県の 『秋田おばこ』 にひきずられてか、庄内でも 『庄内おばこ』 を作ったんだろう。いずれにしても、仕事歌の類いじゃなくて座敷歌だと思う。

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YouTube で検索しても、手頃なパフォーマンスが見つからなかったが、NHK の 「みちしる」 (『新日本風土記』 アーカイブ) でいい雰囲気のがあったので、左の画像をクリックしてご覧いただきたい (別ウィンドウで開く)。故郷の映像が見られて、私としても懐かしかった。

よく知られた (いや、今となっては 「知る人ぞ知る」 というレベルか?) 1番目の歌詞は次のようなものである。

おばこ来るかやと(アコリャコリャ)
田ん圃のはんずれまで出てみたば(コバエテコバエテ)
おばこ来もせで(アコリャコリャ)
用のないたんばこ売りなどふれて来る(コバエテコバエテ)

「田ん圃のはんずれまで出てみたば」 は 「田んぼのはずれまで出てみたら」ということで、「たんばこ売り」 は 「煙草売り」 の庄内弁発音。囃子詞の 「コバエテ」 は 「来ればいいなあ」 といった意味だが、これは庄内弁の中でも古語である。現代庄内弁では 「来いばいちゃ」 になる。

で、『アッコちゃん』 の 『スキスキソング』 だが、「アッコちゃん来るかと団地のはずれまで出てみたが/アッコちゃん来もせず用もないのに納豆売りが」となって、「おばこ → アッコちゃん」 「田ん圃のはんずれ → 団地のはずれ」、「たんばこ売り → 納豆売り」 と変わっただけである。

作詞者の井上ひさしは山形県育ちの人なので、庄内おばこのインスピレーションで行こうと思ったんだろうね。『スキスキソング』 を知らない人、忘れちゃった人は、下のビデオで聞いて戴きたい。

ちなみに庄内弁では、「おばこ/おばちゃ」 は 「オバちゃん」 のことではないと書いたが、じゃあ、正真正銘の「オバちゃん」 は何というのかといえば、「ががちゃ」(「かあちゃん」 の意味もある) になる。ちなみに、兄、弟、オジさん (とうちゃん) は、「あんちゃ」 「おんちゃ」 「だだちゃ」 で、日本一おいしい枝豆、 「だだちゃ豆」 は、「オヤジ豆」 ということになる。

ついでだが、上の 「みちしる」 の動画に出てきた酒田舞娘のパフォーマンスの完全バージョンが YouTube にある。「相馬楼」 というところの出し物で、ちょっと歌に入るまでの前段階が長いが、浮世を忘れて異次元の時間にまったりと付き合うならいいかもしれないので、下にリンクしておく。

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2015/02/06

「イスラム国」 という呼称について

最近、ネット上で 「イスラム国」 という言い方をなんとかしろという主張が多く見られる。国際的に承認された 「国」 ではなく、結局はごろつきの集まりなんだから、そんな呼び方をしたら誤解の元というわけだ。昔からイスラム教徒が多数を占める国々を、慣用的にイスラム国とかイスラム諸国とか言い習わすことがあったから、その地域の人にとってはさぞ迷惑だろう。

そんなわけで、最近は日本政府も米国政府に倣って "ISIL" (「アイスィル」 または 「アイシル」) という呼称を用い始めている。これは "Islamic State of Iraq and the Levant" (イラクとレバントのイスラム国) の略称で、Levant というのは中東の地中海沿岸地域を指す。

私としては、カッコ付きの 「イスラム国」 という言い方をこれまではしてきた。この場合のカッコは、「なんちゃって」 的なニュアンスを表現するのに便利な道具である。もっとも昨年まではあまり厳密に考えていなかったので、カッコを付け忘れたこともあり、先ほどブログ内検索をして修正しておいた。ただし他からの引用部分などにおいては、そのままカッコなしで記述しているところもある。

「イスラム国」 と記述し続けてきたのは、"IS" だの "ISIL" だの "ISIS" (イラクとシリアのイスラム国) だのという言い方が、定着していないと判断したためである。また、アルファベット略称にしても、"IS" は "Islamic State" を縮めたものだから、結局 「イスラム国」 と言ってるのと同じことになる。というわけで、今のところは仕方なく 「イスラム国」 と表現し続けている。

フランスでは "Daesh" (ダエッシュ) と呼んでいるらしい。これはアラビア語の音をフランス語的に縮めて言うとそうなるというのだが、どこをどう変換してどう縮めたのか、説明を読んでも今イチよくわからないので、パス。

国際的にみると多くのメディアは "IS" という呼称を用いているようだが、AP 通信は最近、国家であるかのように聞こえるという問題を回避するため、"Islamic State group" と呼ぶことにしたらしい (参照)。日本でも 「イスラム団」 と呼ぼうと言っている人もいる。おもしろいが、「ムスリム同胞団」 なんかとごっちゃになってしまいかねない。

私としては、そのうちに妥当な呼び方に固定されるんじゃないかと期待していて、その判断ができたら大勢に従おうかなんて思っている。今のところは渋々ながら 「イスラム国」 と言っているわけで、早くこの呼称から卒業できる日がくることを望んでいる。できればその実態が消滅するのが一番望ましいのだが。

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2015/02/05

YouTube のデフォルトが Flash から HTML 5 に

YouTube、メイン再生プレーヤーを Flash から HTML5 にようやく移行」 と報じられている。これに関してGIZMODO が「YouTube が Flash から HTML 5 に移行した今こそ振り返るスティーブ・ジョブズの 5年前のレター」 と報じ、Apple の先見性を改めて評価している。

思えば 7年半前に初めて iPhone 3GS を買った当時は、iOS が Flash をサポートしていないことについてかなり否定的な評価が多かった。その頃は確かに、トップページに派手な Flash 動画が置いてあるサイトがかなりあって、iPhone ではそれが表示されないので、ちょっと物足りない思いがしたものである。

しかしそれから 2年ちょっと経った頃には、「トップページの Flash 動画で、度肝抜いたれ!」 的なサイトは既に時代遅れになっていた。私もこの頃、「Flash を使わないという選択」 という記事で、次のように書いている。

これまでは、ファッショナブルを売り物にするサイトほど、意味もなく Flash を使いたがった。Flash で絵を動かして見せさえすれば、なんとなくそれなりの雰囲気を醸し出せたような気になっていた。

しかし今後はそういうわけにいかなくなるだろう。何が何でも Flash で絵を動かして見せてくれといっていたクライアントも、「iPhone や iPad で見られないんですよ」 と言えば、「そりゃ、ヤバイね」 と、納得するだろう。

これまでも 「Flash なんて、重くなるだけで大して意味ないですよ」 と、まっとうな ウェブ・デザイナーは言っていたのだが、それがようやく受け入れられるようになるという気がする。

私も 7〜8年前までは 「自分も Flash を扱えるようにならないといけないかなあ」 と、漠然と思っていた。しかし、iPhone を買った頃から、「そんな古い技術を学ぶほど、自分は暇じゃない」 と思い直し、無視するようになった。今から思えば、余計な時間を費やさずに済んで、正解の判断だった。

思えばテキストと静止画像が主体だったインターネット初期においては、「画像が動く」 というのはちょっとした差別化要因だった。「インターネットってすごい!」 という雰囲気を醸し出せたものである。しかしそれもすぐに陳腐化した。今や動画なんて珍しくもなんともないから別に感動しないし、はっきり言ってすぐに飽きてしまうから、重いだけ余計な負担になる。

意味のある動画を見てもらいたかったら、YouTube に置いてリンクするのが手っ取り早いし。その YouTube も今回明確に、Flash がデフォルトではなくなったというわけだ。

近頃は PC 画面に Flash のバージョンアップをしろという表示が出るたびに 「まったくもう、面倒だなあ!」 と思うようになっていた。Flash なんて、まめにバージョンアップしなくても全然影響ない世の中に、既になってしまっているが、一応作業をちょこっと中断して最新バージョンにしていた。

しかしこれからは、そんな表示はテキトーに受け流すことにしよう。

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2015/02/04

豪華な結婚式は離婚につながりやすい?

ちょっと旧聞だが、ウォールストリート・ジャーナル日本版に 「豪華な結婚式、結婚生活の破綻につながる?」 という記事がある。米アトランタ・エモリー大学経済学部の 2人の教授の研究によると、結婚式にかけた費用や婚約指輪の値段が高いほど離婚率が高くなる傾向が見られたと、次のように紹介されている。

結婚式に 2万ドル(約210万円、婚約指輪除く)以上かけたカップルは、平均に比べ離婚する確率が 46%も高かった。式の費用が 1万ドルから 2万ドルまでのカップルは、その比率が 29%高かった。一方、費用が 1000ドルから 5000ドルの場合には離婚する可能性が 18%、1000ドル未満の場合には 53%、それぞれ低かった。

記事では豪華な結婚式が離婚につながりやすい理由として、「お金をかけた派手な結婚式から生じる金銭的な負担が、その後、家計を圧迫し、離婚に至る可能性がある」 と紹介している。しかし、それはにわかには信じがたい。

フツーに考えれば、経済的余裕のあるカップルが豪華な結婚式を挙げ、余裕のないカップルは質素な結婚式を挙げるのだろうから、その後の金銭的負担はどちらも大した違いはないんじゃなかろうか。

私は、お金をかけた結婚式を挙げるカップルは、「結婚式そのものが好き」 なんだと思う。派手なパーティをして、その中心的存在となり、周囲に祝福してもらうのが好きなのだ。結婚式が好きなんだから、また結婚式をあげるために離婚する。それはほとんど無意識の領域での話なのだろうけれど。

一方、質素な結婚式を挙げるカップルは、結婚式そのものにはあまり魅力を感じておらず、その後に続く結婚生活の方を大切に考えているのだろう。離婚なんかしたら、また結婚する時に面倒な結婚式をしなければならないから、なるべく今の結婚生活を大切にする。

とまあ。そんなような気がするのだが、どうだろう。

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2015/02/03

私の 「イスラム国」 理解をチョー駆け足で書くと

例の 「イスラム国」 問題が大きくなって以降、ようやく日本でもイスラム教やムスリムへの具体的な関心が大きくなっているような気がする。それまでは、イスラム教というのは日本人にとって最も縁遠い宗教だった。

それは私自身にとっても同様で、まあ、フツーの日本人よりはイスラム教に関する書籍は読んでいる方だと思っている(『コーラン』 は持ってないけどね) が、具体的には何も知らなかった。スンニー派とシーア派の違いなんて、いくら解説書を読んでわかったつもりになっても、一晩寝てしまうと 「ありゃ、どっちがどっちだっけ?」 となってしまっていた。

ところが、「イスラム国」 問題がここまで切羽詰まってきてしまうと、いくらなんでも 「スンニー派とシーア派がごっちゃになっちゃう」 なんて呑気なことを言っているわけにもいかなくなり、初めて解説書を読んで以来、ほぼ 10年ぐらいぶりに、どっちがどっちかぐらいはわかるようになった。

要するに、圧倒的多数派はスンニー派で、シーア派はイランとイラクに多い。根本的な違いはムハンマドの後継者に関する立場の違いだが、それを言うと長くなるので、ここでは省略しておこう。それ以外の違いは、シーア派の方がより内面性重視であるらしいが、そうとも言い切れないケースが多々あり、はっきりいって、よくわからん。

イラン革命を担ったホメイニという人は現代のシーア派の代表的な人で、民衆にやたら熱狂的に支持されたため、周囲のスンニー派諸国は、「あんなのがウチの国に入ってきたらたまらん」 と、反イランになった。

その反イランの急先鋒だったのがイラクのサダム・フセインという人である。イラクはイランのお隣だけにシーア派住民が多いので、スンニー派のフセインとしてはナーバスにならざるを得なかったのだろう。一時は反米的なイラン革命の波及を恐れた米国の支援を受けて、やたらと軍事力を伸ばし、国内ではシーア派住民を圧迫した。

原爆保有国のイランと対抗するため、フセインは 「大量破壊兵器」 なんて持っていないくせに、持っているように受け取られてもいいような素振りをし続けた。これに関して私は 2005年 8月 20日の記事で次のように書いている。

イラク戦争が始まるときにしたって、サダム・フセインは、「大量破壊兵器」 なんてものを持っているような、いないような、のらりくらり戦術で、世界を煙に巻こうとしていた。この 「のらりくらり」 は、アラビア商人の常套戦術だな。

ところが、ジョージ・ブッシュは、そんなゲーム感覚に付き合えるほど、頭の中が洗練されていなかった。根がカウボーイだもの、仕方がない。いきなりテーブルをひっくり返して頭をぶん殴るという無粋の挙に出たのである。

サダム・フセイン自身は、米国の 9・11 テロ事件を引き起こしたオサマ・ビンラディンのアルカーイダとは直接のつながりはなかったようなのだが、同じ穴のむじな扱いされてしまったわけだ。まあ、米国のイラク侵攻はジョージ・ブッシュの犯した大間違いだったわけだが、フセインにしてみれば、相手が単純すぎるオッサンであることを理解していなかったための大失敗である。

ちなみに、アルカーイダにしても、スンニー派である。同じスンニー派でも、極めて柔軟な人たちもいれば 『コーラン』 の記述に厳格に沿うことを信条とする原理主義的な人たちまで、中身はいろいろだ。スンニー派の中でも原理主義の代表格とされるのが、ワッハーブ派だが、なんとこれが親米派の代表格であるサウジアラビアの国教になっている。

同じイスラム教のスンニー派の原理主義的な派閥でも、反米になったり親米になったりする。このあたりのところは、系統樹的な分類原則で捉えようとするとよくわからないことになるが、どうやらイスラム教というのは、いわゆる 「原理原則」 で運用される宗教ではないようなのである。(「原理主義」 というのはあるが、それとは別の問題として)

イスラムには、カソリックのローマ教皇みたいな存在がない。だからそれを説く人によって、『コーラン』 で説かれるあっちの部分を強調したり、こっちの部分に従えと言ったり、かなり多様なことになるようなのだ。どちらかと言えば 「内面的な信仰」 よりも 「外に存在する神 (アッラー) の声」 を、現実の場面ごとにあてはめて実践するという、とてもプラクティカルな性格が強いようなのである。

このあたりが、宗教とか信仰とかいうと、精神的、内面的な世界を重視すると考える日本人が、よく理解できないところなのだと思う。キリスト教は 「悔い改めよ」 と説き、仏教は 「覚れ」 と説くが、イスラム教は 『コーラン』 の中で具体的に 「ああしなさい、こうしなさい」 と説く。それに従い、現実的に実践するのだ。

「ああしなさい。こうしなさい」 と具体的に説かれると、『コーラン』 の中ですら、どうしても矛盾した表現が出てくる。それをどう解釈するかが大きな問題だから、イスラム教は多様なのだ。ローマ教皇が一切を包括的に指導するカソリックとは、えらい違いである。

ちなみに、キリスト教の神も、イスラム教のアッラーも、同じ神である。「アッラー」 は特定の神の名前 (固有名詞) ではなく、「神」 という意味のアラビア語の普通名詞である。同じ地域から出た唯一神だもの、別の神じゃないのは当然のことだ。だからムハンマドは、ユダヤ教徒もキリスト教徒も 「啓典の民」、つまり同じ神を信じる同胞だから無駄な争いはするなと説いている。

いずれにしてもイスラム教世界の圧倒的多数は平和な人たちである。問題を起こしているのは、ほんの一部の過激派だ。ほんの一部の過激派が、世界中のごろつきや食い詰め者を集めて、彼らに居場所を与える代わりに、「アッラーのために死ね」 と言っている。

イスラム過激派の標的は、十字軍以来の対立的関わりのキリスト教世界であり、パレスチナ問題で対立するイスラエルである。キリスト教世界の代表格であり、イスラエルの後ろ盾となっているのは米国だから、「反米」 が最大の旗印となるのは自然のことである。ひいては 「西欧的価値観」 「近代的価値観」 が憎悪の的となる。

西欧的、近代的価値観が圧倒的優位を占める現代世界で、彼らは最もワリを食っている弱者と自認しているから、そうした価値観をぶっ潰せとなる。ただ、それらをぶっ潰したところで、アッラーの栄光が顕れるというわけでもないのだから、彼らは自己崩壊するしかないのだが。

とまあ、私の 「イスラム国」 問題に関する理解をチョー駆け足で書くと、こんな具合になる。

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2015/02/02

「イスラム国」 対策のかみ合わないご意見

報道番組、新聞、野党発言などで、安倍首相の一連の発言が 「イスラム国」 を刺激して硬化させ、2人の日本人人質の生命を奪い、さらなるテロの標的とするという脅しにまでつながっているという指摘が目立っている。一方それに対し、「悪いのはイスラム国なのに、テロを利用して政権批判をするのは本末転倒」 という批判の声も大きく、議論はかみ合わない。

これを煎じ詰めると、やや乱暴な言い方かもしれないが、「2人の人質が殺されたのは自己責任で、安倍政権はよくやった。悪いのはテロリストなのだから、日本としてテロとの戦いを表明するのは当然のこと」 という主張と、「こんな時に中東歴訪して 2億ドル支援を大々的に表明したから、イスラム国の怒りを買い、敵に回してしまい、テロの標的に加えられてしまった」 という主張に分けられる。

どちらもそれぞれの政治的立場からほぼ自動的に導き出される主張であって、客観的にまったく妥当だと思わせるような内容じゃない。

「悪いのは安倍首相」 と言わんばかりの主張は、いくらなんでも付き合いきれない。誰が見ても悪いのはテロリストの方で、「首相の言動が彼らの怒りを買った」 などというのは、「お前、どっちの味方なんだよ」 と言いたくなる指摘である。

しかしだからといって、「テロリストたちの行動は許せない。テロとの戦いを推し進める」 と高らかに宣言するのは、「欧米対イスラム原理主義」 という他人の喧嘩に、わざわざおおっぴらに飛び入りするようなもので、はしゃぎすぎという印象がないでもない。こんなだから、「この機会を利用して、集団的自衛権の行使にひた走っている」 なんてことまで言われる。

どうも、政権側もそれを批判する側も、ちょっと調子に乗りすぎている気がしてならないのである。今回は日本人人質の命が犠牲になったという事実はあるが、基本的に日本は直接の当事者というわけではない。「他人の喧嘩」 に首を突っ込みすぎない立場にとどまっている方がいいと、私は思っている。

それと同様に、「今回の事態は安倍首相のせいだ」 と言わんばかりの一方的な批判も、他人の喧嘩の一方の当事者に利する行為である。「日本がテロの標的になるのは、首相の失敗のせい」 と、相手の無茶な主張を追認してしまうことになりかねない。つまり、どっちも一方的すぎるのである。

お互いに今回の事態を利用して自分の政治的立場のプロパガンダをしたがるだけだから、本質的な議論につながらず、国際問題なのにドメスチックなケチの付け合いになってしまっている。

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2015/02/01

「ワイングラスのボウル部分を持つのが国際的常識」 という嘘

近頃ネット界隈で、大方の日本人はワイングラスの正しい持ち方を知らなかったんじゃないかというのが、ちょっとした話題になっている。ことの発端は、NOMOOO (ノモー) というサイトの 「実はみんな勘違いしている? ワイングラスの正しい持ち方について」 という記事だ。

この記事は次のように指摘している。

ワイングラス、あなたはどこを持って飲んでいますか?
グラス部分でしょうか?それともステム(脚の部分です)でしょうか?
実はグラス部分を持つのが国際的な公式マナーなのです!

(中略)

ちなみにソムリエがステム部分を持つのはグラスの横からワインを観察する為です。
実のところ海外ではワイングラスのボウル部分を持つのが一般的です。
国際的なパーティーではむしろボウル部分を持つのがマナーとしては正しいのです。

というわけで、ソムリエがステム部分を持つのは、ワインの色をよく見るためで、ソムリエでもないフツーの人間は、ボウル部分を持つのが国際的な常識であるとしている。さらに、その証拠とでも言うように、米国のオバマ大統領がワイングラスのボウル部分 (グラス部分) を持っているこのような写真を、誇らしげに掲載している。

ところが、私はこういう一方的な決めつけをされることに関しては、昔っからかなりのへそ曲がりである。「ワイングラスの持ち方ぐらい、好きにすればいいじゃん!」 と、心の底から反発してしまったのだ。

その昔、「洋食のライスは、フォークの背に乗せて食べるのがマナー」 と、エラソーに教えられた時の反発を思い出す。「一体、どこの誰が欧米のレストランで 『パンにしますか? ライスにしますか?』 なんて聞かれたことがあるってんだよ!」 と、叫びそうになったものだ。

で、さっそく "how to hold a wine glass" (ワイングラスの持ち方) というキーワードで、画像検索してみた。英語で検索したのは、日本以外の画像も広く表示させるためである。すると、なんと、なんと、いろんな持ち方の画像が表示されるが、ステム部分を持っている方が圧倒的多数ではないか。嘘だと思ったら、こちら を自分の目で確かめてもらいたい。

要するに、いろいろな持ち方があって、「どうぞお好きなように」 ということなのだが、少なくとも 「ワイングラスの持ち方」 なんていう大上段のキーワードで検索すると、ステム部分を持つ画像の方が多数表示されるというのは、結果が雄弁に示している。

念のため、画像検索だけでなく、ウェブ検索もしてみた。すると次のようなページが上位にヒットした。(英語のページなので、要約を加えておく)

How to Hold a Wine Glass Civilized
「文明的にワイングラスを持つには」 という意味のタイトルのページだが、初めに 「ステムを親指、人差し指、中指で持て」 と写真付きで主張しているものの、すぐに 「本当のところは、好きなように持てばいいのです」 と続けている。

Wine 101
「ソムリエ、ワイン・ディレクターの Michael Greenlee は、『ワイングラスの形、サイズ、ワインの種類に関わらず、ステムを持たなければならない』 と言っている」 と書いてあり、強硬なステム派だ。「ボウル部分を持つのは、最も多く見かける間違いだ」 としている。どうして間違いかというと、体温で飲み物が温まってしまうからだという。

The Way You Hold Your Glass Shows Your Class
「グラスの持ち方でお里が知れる」 というような意味のタイトルのページ。なかなか傑作な持ち方のいろいろが、写真付きで説明されている。「言えてるかも!」 という気もするが、ただ、これはほとんどジョークのページなので、あまり真に受けないように。

それから、ボウル部分を持つと、指の指紋がグラスに付きやすいからアウトという指摘も、いくつかの英文のページでされている。さらに、白ワインは温まったらアウトだが、赤ワインの場合は暖まっても OK だから、ボウル部分を持ちなさいなんていう面倒くさい指摘もある。

要するに、英語圏の専門家も概ねステム部分をお持ちなさいとオススメしているようなのだが、「そんな細かいこと、どうだっていいじゃん!」 と思っている人が、オバマ大統領やロイヤルファミリーを初め大勢いるというのが、実際のところのようなのである。

つまり最初に紹介したページの 「実はグラス部分を持つのが国際的な公式マナーなのです!」 というエラソーな指摘は、「どうでもいいじゃん!」 と思っている人が大勢いるという事実をもって、そっちの方を 「国際的公式マナー」 と言い立てているだけと思えばいい。

従来の日本の常識の 「ステムを持つのがマナー」 ということに従うにしろ、その反対に 「ボウル部分を持つのが国際的公式マナー」 と言われて 「そ、そうだったの?」 と慌てふためくにしろ、いずれにしても、日本人、こういうことにナイーブ過ぎなんじゃあるまいか。

以上、これが結論である。

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