« 2015年4月 | トップページ | 2015年6月 »

2015年5月に作成された投稿

2015/05/31

Android って、実は iPhone 頼みのところがあったのか

スマホのシェアは、日本においては iPhone が圧倒的だが、世界的には Google の提供する Android が多数を占めているらしい。PC の世界において、Mac よりも Windows がずっと多いのと似たような傾向だと、私は思っている。で、個人的には Windows や Android よりも、Mac と iPhone の方がずっと使いやすいのになあと、確信している。

これに関連して、iPhone Mania のサイトで「Google のモバイル広告収入、なんと 75%が iPhone 経由! Android はどこへ」 という記事が発表され、一部で注目されている。ちょっと引用してみよう。

2014年、グーグルのモバイル広告収入は118億ドル(約1兆4,600億円)にも達しましたが、そのうちの90億ドル(約1兆1,100億ドル)がiPhoneからのアクセスによるものだということが、ゴールドマンサックスの調べで明らかとなりました。これはユーザーの大半が、iPhoneのサーチエンジンをグーグルに設定していることが理由だと考えられます。

(中略)

iPhoneとAndroid端末とがシェアを二分していることを考えれば、75%というアップルの寄与度には驚くべきものがあります。しかし実際は、Androidベースのスマートフォンを手掛ける新興国のベンダーなどを中心に、グーグルを避けてローカル・サービスを選択する傾向がみられ、Android端末の普及度合ほど、グーグルが検索エンジンとして選ばれているわけではありません。

事実、世界最大のスマートフォン市場でもある中国でも、グーグルはアクセスを遮断されているため、中国本土のスマートフォン・ユーザーをほぼ失っていることになります。

引用部分の 2行目、「そのうちの90億ドル(約1兆1,100億ドル)」 の括弧内は 「約1兆1,100億円」 の誤りということが明らかなので、一応そのように読んでいただきたい。

いずれにしても、Google は Android を普及したいのはやまやまなのだろうが、その Android ユーザーは Google の収入にあまり寄与してくれていないというジレンマがあるようなのだ。なにしろ Google の収入のうち 1兆円以上が iPhone を経由して入ってくるというのだから、大変なパラドックスである。

その要因としては、引用記事にもあるように、Google を採用するベンダーが、デフォルトのサーチエンジンとして Google 以外のローカルサービスを採用する傾向があることが挙げられるようだ。とくにスマートフォン・ユーザーの数が圧倒的に多い中国では Google が遮断されているのだから、踏んだり蹴ったりである。

一方、iPhone ユーザーは平均的にインターネット・リテラシーが高くて、何かというとググって調べたがる傾向があり、結果的に Google の広告収入に結びつくのだろう。実際、私も何かわからないことがあったら、iPhone でググらずには気にかかって眠れなくなる性分だから、それは実感としてよくわかる。

で、Apple としては、そのうちデフォルトのサーチエンジンを自社開発のものに変えたい意向があるようなのだ。Google にとっては大変な問題である。ただこれは、iOS の地図アプリが Apple 独自開発によるものに変わった途端に、そのできの悪さにがっかりさせられ、Google Map を使い続けたのと同様、少なくともしばらくは、iPhone ユーザーといえども Google から離れないだろう。

しかし、iOS の地図アプリもだんだん使い物になってきているように、Apple 独自のサーチエンジンだって、使いやすくなるに違いない。そうなったら、Google にとっても脅威である。実際、私自身も最近は iOS の地図アプリに回帰している。地図としての性能はまだ Google Map の方が圧倒的にいいのだが、ユーザーインターフェイスの問題で Apple の地図アプリの方が使いやすいのだからしょうがない。

Google のプログラムって、機能は素晴らしいのだが、使い勝手として戸惑ってしまうことが結構ある。何をするにも一手間多い気がするのだよね 。そしてそれは、Andoroid にしても同じだという印象がある。

Apple がものすごく使いやすいサーチエンジンを開発したら、私としてもきっと乗り換えるだろうと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/05/30

今度は小笠原近海で巨大地震だと

仕事で朝から水戸方面に出かけていて、車を運転して夜の 9時前に帰宅すると、その 30分ぐらい前に地震があったという。しかも、小笠原近海の海底深くを震源とするマグニチュード 8.5 の巨大地震だという。震源があまりにも深いので、それほどの巨大地震でも津波にはならないというのだ。

地震発生時は運転していたので、揺れにはまったく気付かなかったし、周囲に変わった様子があるとも思われなかった。まあ、中規模地震が頻発する茨城では、震度 4 ぐらいでは誰も慌てないから、全然気付かなかったのも道理である。

それにしても、25日に埼玉県北部を震源とする地震で、茨城県南部で震度 5弱の揺れを観測し、昨日は口之永良部島が噴火、そして今日は小笠原近海の巨大地震と、こんなにも続いてしまうと、日本近辺の地殻はよほど不安定な状況になっているのではないかと心配になる。いつ東南海地震だのなんだのが起こっても、不思議じゃない。

小学校 6年の時 (東京オリンピックが開催された年)、新潟地震を経験して、本当に命の危険を感じた。その頃言われていたのは、日本では一つの地域は約 60年周期で大地震に襲われる傾向があるということである。それを聞いて、子供の頃の私は安心したのだった。当時 12歳だったから、もう一生大地震に遭うことはないと思ったのである。

思えば、今は昔の物語である。当時の常識からすると、人間は 70歳を過ぎたら寿命が尽きると思われていた。さらに、生まれた土地で一生暮らすのが当たり前という時代だった。まさか、他の土地に移り住んで別の大地震に遭ってしまうとか、人生 80年が当たり前になって、一生のうちに何度も大地震に遭う可能性が高くなるなんて、想像も付かなかったのである。

今は昔といえば、50年前の 「震度 5」 (当時は震度 5 に 「強」 と 「弱」 の区別はなかった) は、建物が今にも倒壊しそうなほどに揺れ、本当に命の危険を感じた。今は震度 5強でも、建物が倒れるほどの危険は感じない。それだけ、建築物の耐震性が高まっているのだろう。

昔の建物だったら、4年前の東日本大震災の揺れには耐えられなかっただろうと思う。地震国日本の地震対策は、その意味では確実に進歩している。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/05/29

口之永良部島の噴火から、横道に逸れて

口之永良部島の新岳が爆発的に噴火したというので、驚いた。噴火自体は珍しいことではないが、地震やら噴火やらがこうまで続くと、日本列島の地殻は活動期に入っているのかしらんと、心配になる。私ごときが心配しても何の役にも立たないが、やはり気にかかる。

ところで、台風情報などによく登場するので、知る人ぞ知る印象的な名前の島に、沖永良部島 (おきのえらぶじま) がある。私は口之永良部島と沖永良部島は隣同士ぐらいの位置関係で、薩摩から見て近い方が 「口」 で、遠い方が 「沖」 ぐらいのことかと思っていたが、調べてみると結構離れているとわかった。ざっと見て 400km ぐらい距離があるので、そんなに単純な話でもなさそうなのである。

口之永良部島は内地の鹿児島からそう離れておらず、硫黄島のすぐ南に、東から種子島、屋久島、口之永良部島と 3つ並び、これらは大隅諸島と呼ばれている。一方、沖永良部島はそこから転々と連なるトカラ列島 (中では諏訪之瀬島が有名だね) を経て、奄美大島、徳之島の南、沖縄返還前は日本の最南端とされていた与論島のすぐ北にある。

口之永良部島は地図上で見てもいかにも鹿児島県の島という気がするが、沖永良部島はその遙か南で奄美群島に属し、同じ鹿児島県ではあるが、位置的には沖縄にずっと近い。13〜15世紀は、琉球の北山王国 (沖縄本当の北側を支配して、あの今帰仁城を造った王様の国) に属していたと、Wikipedia には記されている。となると、2つの島は兄弟関係みたいなわけではないらしい。

で、気になるのがそのまた遙か南、沖縄本島を飛び越して宮古島の隣にある伊良部島 (いらぶじま) である。琉球では 「イ」 と 「エ」 は、東北のそれとはまたちょっと違うがごちゃ混ぜになる傾向があるので、「エラブ」 も 「イラブ」 も同じ語源なのではないかという気がする。ただ、そんな 「気がする」 人はいくらでもいて、ウェブの世界でも盛んに関連が指摘されているが、決定的な語源はわかっていない。

沖縄では有毒のウミヘビを 「イラブー」 といい、少なくとも伊良部島はそれと関連があるという説がある。また、「イラ」 というのは 「甍 (いらか)」 という言葉でもわかるように、急な斜面を指す。「いらいらする」 というのも、不安定な心持ちを指すから共通する。「急な斜面の島」 ということなのかもしれないが、口之永良部島は火山島だからいいけれど、沖永良部島は珊瑚礁が隆起した島なので、そんなに急な地形ではない。

まあ、よくわからないのである。わからないのではあるが、鹿児島から先島諸島に至るまでの文化のつながりというのは、かなり密接なものだということはうかがわれる。ああ、また沖縄に行きたいなあ。

口之永良部島が噴火で大変なことになっているというのに、呑気なことを書いてしまって、ごめん。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/05/28

FIFA の汚職問題で考える

FIFA 幹部の汚職事件が大きな広がりをみせている。FIFA 内部の腐敗に関しては何年も前から指摘され、賄賂の横行については公然の秘密みたいなことになっていたから、こうなるのは時間の問題だったと思う。ただ、ちょっと興味を覚えるのは、この問題の捜査をリードしたのは米国の FBI だったということだ。

今、FIFA を主導しているのは、南米やアフリカの新興国である。なにしろ西ヨーロッパよりも圧倒的に国の数が多いのだから、会長選挙においてはすべての加盟国が平等に 1票を投じる権利をもつ FIFA においては、当然といえば当然だ。

現会長のゼップ・ブラッターも、国籍としてはスイス人らしいが、2010年ワールドカップの開催地をを南アフリカと決定する見返りに加え、さらに金をばらまいてアフリカ票を獲得して会長選挙に勝ったと、もっぱらの評判である。ちなみにこの人、一時は 「世界ガーターベルト友の会」 という団体を主宰、パンティストッキングの普及阻止活動を行っていたという、ちょっとわけのわからん人である。(参照

とにかくサッカーというのは、多分世界で一番盛んなメジャー・スポーツで、とくに開発途上国で最も盛んである。近代フットボールの発祥の地は英国とされていて、FIFA も最初は西ヨーロッパ諸国の主導で結成されたが、今では途上国の勢いの方が強い。ヨーロッパのサッカーリーグも、南米やアフリカ出身の選手がいなければ成立しないほどだ。

そうなると、少々乱暴な言い方だが、現在の FIFA で力をもっているのは、「賄賂はもらって当たり前じゃん」 という国々なのである。そうした国から来た理事が牛耳っていたら、組織が腐敗するのも当然だ。「賄賂は悪いこと」 という倫理が一応確立している欧米のサッカー団体としては、こうした状況には我慢ならなかったようだ。

腐敗が行き着くところまで行き着いたら、その反動が起きるに決まっている。一時は欧州のサッカー連盟は FIFA から脱退すべきだなどという議論までされていたらしいが、さすがにそこまでは行かずに、否応なしに内部浄化を促す手段が講じられた結果が、今回の事態なのだろう。

それを主導したのが、サッカーがそれほど盛んではない米国だったというのが、その間の言うに言われぬ事情を物語っている。米国では、ちょっとぶつかっただけで大げさに転倒してみせるサッカーは女子供のスポーツと思われているらしい。なるほど、米国女子サッカーは世界ナンバー 1 だが、男子はマチョなアメフトに流れてしまうわけだ。

FIFA で力をもっているのが途上国の理事たちでも、スポンサーなどはほとんど欧米先進国の大企業である。こうした大企業は、FIFA の腐敗に大きな不満を抱いていたようだ。さらにワールドカップの放映権の獲得でも、広告代理店やマスコミから 「いつまでもべらぼうな賄賂を使ってはいられない」 という圧力も働いていただろう。

というわけで、粛正が行われるのはかなり前から時間の問題となっていて、ついに 「いつやるの?」 「今でしょ!」 ということになったのだろう。奢れる者は久しからずである。

ちなみに同じフットボール系でも、ラグビーは今でも先進国の方がずっと盛んで、「紳士のスポーツ」 と言われている。そのためか、組織の腐敗ということもあまり聞かない。それにラテン系の血気盛んな国でラグビーなんかやったら、団体の腐敗以前に、選手だけでなく観客まで命がいくつあっても足りないだろうなんて思ってしまう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2015/05/27

フェミニズムとミサンドリー

Hatelabo の 「フェミニズムとミサンドリーの切り分けは可能か」という記事で、恥ずかしながら 「ミサンドリー」 という言葉を初めて知った。Wikipedia によると、この言葉は次のように説明されている。(参照

ミサンドリー  (英: misandry)  とは、男性や男らしさに対する憎しみや軽侮。平たく言うと男嫌い (おとこぎらい) である。対義語には、「男性や男らしさに対する崇敬」 を意味するフィランドリー (英:philandry) と、「女性や女らしさに対する軽侮」 を意味するミソジニー( 英:misogyny) という語の二つがある。

なるほど、少しはわかった。しかしこの説明にはちょっと不備があるようだ。というのは、「女性に対する崇拝」 は何というのかという説明が抜けているのである。しかしこれは 「ミソジニー」 という言葉を調べたらすぐにわかった。次のようにある。

対義語には、「男性や男らしさに対する憎しみや軽侮」を意味するミサンドリー(英:misandry)と、「女性や女らしさに対する愛しみや崇敬」を意味するフィロジニー(英:philogyny)の二つがある。

なるほど。女性に対する崇拝は 「フィロジニー」 というのか。これでマトリックスが完成する。こんな感じだ。

                                                                                          
崇拝
軽侮
男性に対する
フィランドリー
(philandry)
ミサンドリー
  (misandry)
女性に対する
フィロジニー
(philogyny)
ミソジニー
(misogyny)

ただしかし、これだけでは単なる記号でしかなくて、とくにカタカナで考えたらすぐに忘れてしまいそうだ。ちゃんとした知識として脳内に留めるためには、語源から理解しなければならない。ちょっと英語版の Wikipedia をあたってみよう。

語源にまで遡ると、男性に対する崇拝 "philandry" は、「〜を愛する」 という意味の接頭語 "philo" と、ギリシャ語で 「男性」 を意味する "andro" の合成語である (参照)。このページには、女性に対する崇拝は、同様の語源で "philogyny" であるとも記されている。ふむ、なるほど。そういえば、「両性具有」 は 「アンドロジナス」 (androgynous) だったね。

それではというわけで、 "misandry" を調べると、「憎む」 という意味のギリシャ語の "misos" と、男性を意味する "andro" を合わせたものだとわかった。あとは以下同文的な組み合わせの合成語である。

ミサンドリーでは、男性に対する暴力などがあり、これに関して、冒頭に紹介した 「フェミニズムとミサンドリーの切り分けは可能か」 という記事では、次のように述べられている。

フェミニストは、ミサンドリー自体は悪であると認識しているものの、我々はミサンドリーを産み出していない、我々が関知するものでもはない、我々に訴えるのはお門違いであるという立場をとるわけである。ここでミサンドリーの被害者は、訴える先を見失い、泣き寝入りすることになるのである。

(中略)

この人権問題は、ミサンドリーがフェミニストに擬態することによって、フェミニストという盾に守ってもらおうとするところに構造的な難解さがある。ミサンドリーは、フェミニストの影に隠れながら一方的に男性を殴るという無敵のポジションをつくり出したのである。一般人からフェミニストがミサンドリーを煽っているように見えるのはこのためである。

女性による男性への暴力という問題を解決するためには、フェミニズムとミサンドリーを明確に切り分けて区別しなければならないというわけだ。これは同様に、男性による女性への暴力 (家庭内暴力においては、こっちのケースの方がずっと多いだろう) という問題解決のためにも、マスキュリズムとミソジニー (女性に対する軽侮) を切り分けなければならないだろう。

こうした文脈からかどうか知らないが、最近は マスキュリズム (masculism) を 「男権主義」 という意味で捉えない傾向が主流になりつつあるようだ。Wikipedia では次のように説明されている。(参照

マスキュリズム(英:masculism)とは、男性に対する性差別(男性差別)の撤廃を目指す思想や運動である。直訳すると「男性主義」であり、かつての欧米では男尊女卑という意味で使われていた言葉だが、この思想の主唱者であるワレン・ファレルがフェミニズムの対置概念として提唱してからは現在の意味で使われるようになった。主に西ヨーロッパと北アメリカで普及しており、中東や極東でも萌芽が見られる。

「マチョイズム」 がどちらかというと男性優位主義を指す言葉として使われているが、それとはまったく別の意味合いをもつ言葉としてとらえる方がいいようなのである。ふむ、なるほど、なるほど。この問題はこれからも少しずつ掘り下げていくことにしよう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2015/05/26

カモガヤ花粉症だってさ

いつもはスギ花粉の時期が終わればケロリと楽になるのに、今年はちょっと一段落してすぐにまた似たような症状が出始めた。初めはヒノキ花粉かと思っていたが、どうも様子が違う。外出先では楽なのに、帰宅するとくしゃみと鼻水が止まらないのである。目も痒い。

念のため医者に行ったところ、「カモガヤの花粉症だろう」 と診断された。カモガヤとはイネ科の植物で、畦道や土手にフツーに生えている。どうやら今年は、カモガヤの花粉が多いらしいのだが、我が家は土手際にあるので、とくに症状が出やすいわけだ。

自宅にいるときだけ症状が強まるので、一時は 「我が家には有害なダニでも発生しているのだろうか?」 と疑ったが、そうでないとわかって、少しだけ安心した。ただ安心したとはいえ、根本的な解決になったわけではない。

カモガヤの花粉は来月になるまで飛散するらしい。これで私は 2月から 6月まで、ほぼ 5ヶ月間は花粉症に悩まされる人になってしまったわけだ。ただ、花粉の飛散量は年によって差があるので、あまり多く飛ばないように願うばかりである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/05/25

久しぶりにヘビに遭遇

我が家の玄関先で、久しぶりにヘビに遭遇した。30年以上前にここに引っ越して来た頃には、少しも珍しくなかったのだが、近頃では姿をみかけることが滅多になくなっていた。だから、遭遇は 10年ぶりぐらいだったかもしれない。

Img_2617aは虫類に弱い人には恐縮だが、写真を載っけておく。模様がはっきりしていたため、初めは 「もしかしてマムシ?」 と思ったのだが、それにしては胴体が細長すぎる気がしたので、安心して何ショットか写真に収めた。これは先方も 「しつこい人間だなあ」 と辟易しつつも、必死に逃亡しようとしているところである。

写真に撮ってから安心してインターネット上の図鑑を調べてみると、これはどうやら、アオダイショウの幼蛇らしい。アオダイショウといえば、私の記憶では緑色の大きなヘビと思っていたのだが、成長する前はこんな模様があるというのだ。ニホンマムシへの擬態であると考えられているというが、こちらは騙されなかったわけね。

最近、家のすぐ裏の土手でキジを見かけたりしたこともあり、一時よりも少しは自然が戻ってきているような気がする。カエルの鳴き声も減り続けていたが、今年は盛んに鳴いているように思う。下水が普及して、あんなに濁りきっていた用水路や川の水が少しはきれいになったり、農薬の使用が少し抑えられたりしていることで、野生の動物が復活しているということなのだろう。

ただ、下水の普及という点が大きいので、一方ではカやハエは少なくなっている。本当の自然度が戻ってきたというわけではないので、ちょっと複雑な思いがないではない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2015/05/24

ドローンとインターネット

近頃 「ドローン」 というものが何かと話題というか、物議を醸している。福島の土を積んだまま首相官邸の屋上に落下したとか、三社祭にドローンを飛ばすような予告をした少年が逮捕されちゃったとか、もっぱらイメージの悪い事件がニュースになっているが、使いようによってはなかなか面白いものだと思うだけに、ちょっと残念な気もしている。

「ドローン」 (drone) という言葉自体は、元々の意味は 「ブーン」 という単調な連続音を指し、その音を出す蜂という意味もある。蜂は蜂でも、ミツバチの中で蜜を集める仕事をせずに女王蜂のお伽をする雄蜂を意味するんだそうだ。まあ元々の言葉の意味からして、そんなような感じの、ちょっと怪しいものという雰囲気が漂う。

いかにも怪しいものではあるが、うまく使えばかなりイケてるものになると思う。最近はどこにでもある監視カメラの、移動バージョンとして用いれば、かなり機動性に富んだものになるだろうし、小さなモノの配達なら人手を使わなくてもいける。もしかしたら、ピザの配達なんてドローンを使ってできちゃうかも知れない。

私はドローンはインターネットとよく似ているという気がしている。インターネットは形のない情報というものにおいて、素人でも世界に向けて手軽に発信することができるという、ある意味革命的な役割を果たしたが、ドローンは 「素人でも手軽に空中からの視点を得ることと、形と重さのある物体を空中に飛ばして移動させることを可能にしたこと」 という 2つの点で、かなり大きな意味をもつと思うのだ。

問題は、インターネットもかなりいろいろ 「負の機能」 をもつように、ドローンも反社会的な使い方がいろいろできてしまうということだ。インターネットが運ぶのは形のない情報というものだが、ドローンは物理的なモノを飛ばしてしまうことができるだけ、かなり直接的な影響がある。

例えば、インターネットはサリンの製造方法を伝えることができるが、サリンそのものは送ることができない。しかしドローンは、サリンそのものを積んで飛行し、狙った地点に落下させることができるのである。「直接的な影響」 というのは、そうした意味だ。

ドローンそのものは、「善いモノ」 でも 「悪いモノ」 でもない。使い方によって善くも悪くもなる。そうしたところも、インターネットとよく似ている。インターネットも 「怪しい情報満載」 といって一部では毛嫌いされていた時期があるが、ドローンも今、そんな状態にある。

インターネットは有効な使い道が大きいので、今では市民権を得た。ドローンは 「直接的な影響」 が大きいだけに、これから大きな社会的制約が設けられる方向に進むだろうが、有用な使い方さえも潰してしまうことにならないように望むものである。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2015/05/23

フランス人は10着しか服を持たない?

『フランス人は10着しか服を持たない~パリで学んだ“暮らしの質"を高める秘訣~』 という本が、一部で話題だ。著者はジェニファー・L・スコットという米国人女性。ネットの紹介ページにはこんなキャッチフレーズがついている。

典型的なカリフォルニアガールだった著者は、
フランスの貴族の家にホームステイすることになる。 
その家を取り仕切るマダム・シックから学んだのは、 
毎日を“特別な日" のように生きること。

そのマダム・シックのワードローブには、服が 10着しかないのだそうだ。「上質なものを少しだけ持ち、大切に使う」 のが、彼女のポリシーであるらしい。ジェニファーはそうした生き方に感銘を受ける。

しかし、へそ曲がりの私には、ワードローブの中に 10着しか服がないなんてことは。いくら何でも信じられない。

スーツ (上下で 1着とカウントする)、夏用と冬用のジャケット各 1着、シャツ (あるいはブラウス)、スカート、パンツを持つだけで 6着になる。それにコートとドレス、セーターを足したら 9着だ。そして、シャツ (あるいはブラウス) は洗濯しなければならないから、最低限もう 1着は必要だろう。それで 10着になる。

つまり、季節が変わらなければほとんど毎日同じ上着を着て、せいぜいスカートとパンツを交互にコーディネートし、たまにたった 1着のドレスかスーツを着ることになる。しかもそのドレスとスーツは、夏も冬も同じものだ。

私のように、年がら年中シャツとジーンズに、冬はジャケットを羽織るという暮らしをしていても、カッターシャツ、ポロシャツ、Tシャツが 3着ずつ (洗濯や着替えが必要だからね) で、それだけで 9着になってしまう。ワードローブが 10着というのは、針小棒大にもほどがある。

もしそれが本当だったとしたら、フランスのファッション業界はここまで発展しなかっかっただろう。たくさん買う人がいるから、パリはモードの中心と言われるのだ。まあ、輸出比率が高いことは確かだけれど、内需なしには 「ファッション・センター」 たり得ない。

「いや、そうではなく、アウターウェア (つまりジャケット、スーツ、ドレスの類い) が 10着しかないのだ」 なんてことだとしたら、私のような者からみたら、それは取り立てて大したことじゃない。「ごくフツーじゃん。それだけあったら、十分すぎるじゃん」 ということになる。

ジェニファーは結局、「パリの貴族」 という 「ブランド」 を利用しているのではあるまいか。まあファッションの世界では、「パリの貴族」 は確立したイメージがあるから、アピールしやすいのだよね。日本だったら、さしずめ京都の老舗のおかみさんのライフスタイルとか。

ジェニファーがもし、未開の地の部族の家にホームステイし、その部族の女性が、彼らにとっての 「上質」 なものを少しだけ持って大切にし、毎日を 「特別な日」 として生きていたとして、ジェニファーはどんな印象を持つだろうか。

私だったら、そうしたライフスタイルの方に感動してしまうだろう。ジェニファーがもしそうした体験をしたとして、パリでの体験と同様に、本を書くほどに感動するとしたら、それは本物だと思うのだがね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2015/05/22

しゃっちょこばらずに動作する

曹洞宗寺院の副住職さんのブログ 「つらつら日暮らし」 に 「禅宗の修行と動作システム」 という記事がある。本日付のこの記事は、「河本英夫先生 『損傷したシステムはいかに創発・再生するか―オートポイエーシスの第五領域』 新曜社・2014年、230~231頁」 からの引用から始まる。孫引きで引用させていただく。

動作の創発に意識はほとんど関与していない。この関与しないことに動作の自然性がある。手足を動かすさいに、いちいちそこに意識を向けていたのでは、とてもなめらかな動作はできない。動作の進行において、意識がそこから消えていくことに動作の自然性がある。この消えていく事態を意識の積極性と考えようと思う。そのため動作を現象学から考察していくためには、意識がそこから消えていく分だけ動作の自然性が出現し、動作がそれじたい作動するように意識が身を引く事象として成立する。こうした設定を行うことが必要である。またそれに応じた工夫が必要である。

卑近なことを言うが、慣れないことをさせられると、動作がぎこちなくなる。若い頃は、葬式の焼香をするのでさえ、しゃっちょこばっていた。前の人の手本を見て、その通りにしようとしてもまったく思いのままにならない。少しはまともにできるようになったのは 40歳を過ぎてからで、故人を追悼する気持ちでできるようになったのは、つい最近である。まあ、それだけ葬式が続いて、慣れちゃったということもあるが。

そういえば、昔習っていた合気道でもそうだった。合気道というのは徹底的に型稽古をする。型稽古しかしないのである。技の型を延々と繰り返すのだが、まともにできるようになるには結構な時間がかかる。

初めはやはりぎこちないもので、そのうちに少しはスムーズに動けるようになり、さらに進むと、ことさらに意識しなくても体が自然に動くようになる。というか、意識しているうちはぎこちない動きから抜け出せない。

武道では 「習うて、而してそれを忘れよ」 などと言う。何度も何度も型稽古を繰り返し、身につけたら、それを忘れてしまえというのだ。せっかく身につけたことを忘れてしまって、初めて本物になるというのである。「動作の創発に意識はほとんど関与していない」 というのは、それと通じると思う。

それは、「条件反射」 というのとも違う。条件反射では、一定の刺激に対して自動的に決まり切った反射的動作しか生じない。しかし 「意識の積極性」 として、動作の中から意識が消えた状態では、自動的な反射行動に留まらない無限のバリエーションが生じる。意識しないからこそそうなるのだというところが、ちょっとおもしろいところだ。

しかし、「意識しない動作」 がいくら 「自然」 だといっても、それでは 「自然の動作」 を行うにあたって、「自己表現」 という問題はどうなるのだという疑問が生じるだろう。「自己表現」 がなければ、それは単なる機械的動作に過ぎないのではないか。「自然」 には見えるかもしれないが、結局は 「決まり切ったつまらない手順」 なのではないか。

この疑問に対しては、まともに答えようとしてもしょうがない。仕方がないから、「自己表現」 しようにも、その表現すべき 「自己」 なんていうものは、実は存在しないんだから、しょうがないじゃないかとしか言いようがないだろう。

「自己」 があると思っている限りはしゃっちょこばってしまう。自己を滅しようとしても、滅しようとしている自己に囚われている。初めからないものを、表現しようとしたり滅しようとしたりしていたのが、そもそもの間違いの元だったのだ。

「動作」 をするというのは、その過程で 「自己」 はないものと少しずつ確認する修行なのかもしれない。恐ろしく手間のかかるプロセスだけれど、そうすることで、「仏性」 に気付くことができるかもしれない。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2015/05/21

「釣り師」 が 「アングラー」 であることから

釣り師のことを英語で 「アングラー」 というらしい。"angler" である。iPhone にインストールしている Wisdom 英和辞典で "angle" を調べると、同音異義語として 「角度」 の意味と 「釣りをする」 の意味の 2つの単語がある。

ただ、こうした場合には語源は共通していることが多いので、さらに調べてみるとやはりそうだった。複数のサイトにあたった結果、どうやら信用してもよさそうだとなったのは、印欧祖語の "ank" を語源としているということだ。

英語の "ankle" (かかと)、"angle"(角度) は、この "ank" から発生しており、「釣りをする」 という意味の "angle" は、釣り針を使うことから来ているらしい。釣り針は曲がった形をしているから、そうなったようだ。

なるほど、同じ魚を捕るという意味でも、"fisherman" は釣り針よりも網を使うというイメージだから、「釣り師」 というより 「漁師」 ということになる。とはいえ、毛針釣りのことは "fly fishing" というし、"fisherman" はポリティカリー・コレクトじゃないから、おしなべて "angler" と言うべきだという話もあるようなので、このあたりはわけわからん。"fisher" でいいじゃんと思うがね。

釣り針そのものは英語では "hook" と言うのだが、"hooker" というと、釣り師じゃなく、ラグビーでスクラムの中からボールをひっかけて後方に出す役割の選手だ。さらにスラングで 「売春婦」 という意味があるらしい。要するに 「ひっかけちゃう人」 ってことね。

さらにおもしろいことがわかった。"England" の国名も、同じ語源からきているらしいのである。

「コトバ雑記」 というサイトの 「釣り針の国」 というページによると、ドイツの "Angeln" (アンゲルン)という地名は釣り針の形をした地形に由来するという。この地から 5世紀頃にブリテン島に移住したゲルマン民族が "Angles" であり、彼らの住んだ場所が "Angul Land" 、"Engla Land" を経て "England" になった。彼らは同じくドイツの "Sachsen" (ザクセン) から渡ったサクソン族と融合して "Anglo-Saxon" と呼ばれる。

25歳でパリに行った時に、あまりにもフランス語で苦労したので急遽コンパクトな仏英辞書を買った。その表紙には "Français-Anglais" と書いてあって、フランス語で英語のことは "Anglais" というと初めて知ったのだが、なるほど、そういう事情だったのだね。フランス人からすると、英語は 「曲がった言語」 なんだ。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2015/05/20

オッサンは、平成の歌が歌えない

Slashdot に 「米調査、最新ヒット曲を聴かなくなるのは 30代半ば」 という記事がある。多くの人が、30代半ばを過ぎると最新のヒット曲に追いついていこうとしなくなるのだそうだ。確かに自分自身に照らし合わせてもそんなところがある。

マイケル・ジャクソンのヒット曲で振り返ると、それが如実にわかる。 "Thriller" (私が 30歳の時) まではノリノリで行けたが、"Bad" (35歳の時) でやや苦しくなり始め、"Black Or White" (39歳の時) となると、「そんな曲がヒットしてるらしいね」 と思う程度だった。それ以後は、単なる 「歴史の延長」 と化してしまった感がある。

こうした傾向が如実になる要因としては、ここしばらくの音楽が、思いっきり 「ガキっぽい曲」 の方向に振れてしまっているからだという見方もある。まあ、最近のヒット曲らしいのがラジオから流れてきても、「オジサンには関係ないもんね」 というようなのばかりという気もするから、それもあるかもしれない。

「団塊の世代」 より年上の世代にとっては、最近の曲はリズム感が違いすぎて全然馴染めないということもあるらしい。しかし私なんか、リズムは 「なんでも来い」 だが、最近の音楽はやっぱり 「ま、テキトーにやったら?」 という感じがしてしまうのだよね。単なるリズム感の話ではないと思う。

単に 「ガキっぽい歌になった」 とか 「リズムに付いていけない」 とかいう問題ではないようなのだ。例えば私の年代の同級会で同じ年の仲間が集まり、二次会でカラオケなんかに繰り出した場合、平成になってからの歌が出てくることなんかまずない。思いっきり 「昭和の歌」 のオンパレードになる。

昭和 27年生まれは、平成元年には既に 36〜37歳になっていた。ということは元号の変わり目の頃を機に、まさに 「30代半ば」 を越えてしまい、そのために昭和期のヒット曲は見事にカバーしながら、平成の歌にはまったく馴染んでいないのだ。ここで紹介した説の典型的な生き証人になれる世代である。

何しろ、これは米国での調査の結果というのだからおもしろい。日本だけの話じゃないのだ。米国でこれを紹介した記事のタイトルをみると、'“Music was better back then”: When do we stop keeping up with popular music?' (「昔の曲はよかった」: ポップスに付いていくのをやめるのはいつ?) とか "Do we stop caring about popular music in our 30s?" (30代で流行の音楽を気にしなくなる?) など、「いずこも同じ」 感覚が醸し出されてしまう。

思うに、これは音楽だけの話じゃない。ファッションにおいても同様の傾向があると、私は思っている。人は大体、自分が 30代頃までに主流だったファッション傾向を、いつまでも引きずりがちだ。

団塊の世代は今でも VAN ファッションが最高だと思っているフシがあるし、我々の世代はヒッピー・ムーブメントの影響で、Tシャツにジーンズが一番と思っている。そしてそれ以降は、あの DC ファッションと呼ばれた黒っぽい時代になり。それから下は ボディコンとか、コムサがユニフォームみたいになった時代もあって、各年代がそれぞれ今でも引きずっている。

人の感覚で 「これがカッコいい」 と思う対象が固定化するのは、どうやら 30代頃までのことという気がするのである。煙草に関しても 30代半ばまでに「喫煙はカッコ悪い」 とい意識付けが行われないと、年取って体に赤信号が灯るまで、「どうしても煙草が止められない」 なんてことになっていると思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/05/19

nifty @homepage に不正アクセスがあったんだとさ

私は自分のサイトを nifty の @homepage というサービスを使って運営しているのだが、この @homepage のサーバに不正アクセスがあったというメールが届いた。具体的な被害は確認されていないが、念のため FTP パスワードをリセットしたので、新たなパスワードを設定しろというのである。(参照

つまりどういうことかというと、このブログは同じ nifty の運営でも、ココログのサーバにあるから問題ないのだが、本宅サイトの方の更新をしようとすると、これまでの FTP パスワードでは接続できないので、新しいパスワードを設定しなければならないというのである。

私は最近は本宅サイトの方の更新はめっきりご無沙汰になっているのだが、このブログの バックナンバーをみるための index だけは遅れ気味ながら更新し続けているので、FTP パスワードの問題を解決しないと、それができないということになってしまう。

しかも、私の場合は 「知のヴァーリトゥード」 と 「和歌ログ」 という 2つのサイトをやっているので、2倍の手間がかかる。「うっとうしいなあ」 と思いつつも、nifty のサイトに表示してある手順に従って新たな FTP パスワードを設定した。

まあ、自分のウェブサイトを運営しているほどの人ならば、「そんなことを言われても、意味分からん! 一体どうしたらいいの?」 とうろたえてしまうなんてことはまずないだろうが、これがもしブログ (ココログ) の方だったら、「どうすればいいのかわからん!」 となってしまうユーザーが続出しただろう。

で、「これまでずっと、ココログでブログを書いてきたけれど、もう更新できなくなっちゃったから、乗り換える」 ということになってしまう。しかもそれまでのブログの更新ができないってことは、新しい引っ越し先の URL を周知するわけにもいかないから、一から再出発ってなことになってしまいかねない。

nifty さん、不正アクセスされたのがココログじゃなくて @homepage の方のサーバで、不幸中の幸いだったね。ココログの方だったりしたら、ユーザー数が少なくとも 30%ぐらいは減っていただろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/05/18

「ユビキタス」 という言葉

年のせいか言葉を忘れることが多くなってしまった。最近も、「えぇと、あの、『いつでもどこでもインターネットとつながってる環境』 のこと、『遍在』 って意味の横文字、何て言ったっけかな?」 と、思い出せなくなっていた。

正解は 「ユビキタス (ubiquitous)」 なのだが、そこに辿り着く前に 「えぇと、omnipresent じゃないし、何だっけ?」 と、さんざん考えてしまった。思い出せないのも無理もないことで、ユビキタスなんていう言葉は、近頃ほとんど死語状態になってしまっている。

ちょっと Wikipedia で引いてみると (参照)、ユビキタスという言葉がよく使われたのは 「1990年代後半から2000年代初頭にかけて」 のことで、最近はほとんど使われない。ネット界隈でも死語扱いされている (参照) が、これは 「ユビキタス」 という言葉で表される現象が廃れてしまったからではなく、あまりにも当たり前になってしまったからだ。

目新しい言葉というのは、目新しい最近の傾向や状態、あるいはこれから目指すべき特別の状態を意味する場合は、とてもインパクトがある。しかしそれが達成されてしまい、特筆するほどの目新しさが失われてしまうと、あっという間にそれを意味する言葉の方も勢いを失ってしまう。

今どき、家の中では Wifi 接続が当たり前になり、外出してもホットスポットはあるし、スマホはネットに繋がり放題だし、インターネットにつながっていない状態の方がよほど珍しいことになってしまった。

そうなると、ユビキタスなんていうことさらな言葉なんか使う必要がなくなる。元々ユビキタスという言葉が盛んに使われていた頃も、それほど厳密な規格があったわけじゃなく、かなり 「雰囲気のもの」 として使われていた。ところが今や、雰囲気だけじゃなくて実質的につながってしまっているので、そんな曖昧な言葉を使う必要はなくなったのだろう。

ちなみに、Wikipedia には 「ラテン語で Ubique とは、「遍く」(△「いつでも、どこでも」)を表す一般的な用語であるが、英語の ubiquitous は、もともと 「神は遍在する」 という意味である」 とあるが、これ、ちょっと疑問だなあ。

ラテン語で 「一般的な用語」 というのもちょっとわからない。ラテン語自体が、今では 「一般的な言語」 じゃないしね。そして英語では 「もともと 『神は遍在する』 という意味」 というのも、ちょっとツッコみたくなる記述である。

Longman のネット辞書では、ubiquitous は "seeming to be everywhere - sometimes used humorously" (どこにでもあるように思われる - 時にはユーモラスに」 と説明されている。さらに "omnipresense" という言葉の意味としては、"present everywhere at all times" (いつでもどこにでも存在する) となっている。

iPhone で使っている LexicEN という辞書では、ubiquitous も omnipresent も "being present everywhere at once"  (どこにでも同時に存在すること) と、同じ語義となっている。どちらの辞書でも、別に 「神は遍在する」 なんていうような説明は見当たらない。

考えようによっては 「遍在するのは神しかいない」 のだから、OK なのだが、語源となったラテン語が使われていた古代ローマでは、唯一神が信仰されていたわけではないから、この言葉に 「神の遍在」 という意味があったとは思われない。英語に取り入れられて突然 「神は遍在する」 になったんだとしたら、ちょっとした飛躍だよね。

それを信じるとしたら、ヨーロッパの他の言語についても検証しなくちゃいけないだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/05/17

山形県観光のゆるキャラに思うこと

私の生まれた山形県への観光をプロモートする 「山形山形デスティネーションキャンペーン」 というのが始まっているのを、最近初めて知った。山手線で向い側の座席に座っていた女性が、いかにも山形県顔で、彼女の持っていたペーパーバッグに、「山形日和」 というキャッチコピーと、ゆるキャラ 「キテケロくん」 の画像がプリントされていたのである。

Kitekero 「キテケロくん」 というのは、こんな感じである。山形県についてほとんど知識のない人にとっては、「何これ?」 という感じだろうが、山形県生まれの者なら、山形県の形から来ていると、すぐにわかる。山形県は人の横顔の形をしているのである。

「山形日和」 のウェブサイトで調べてみると、このキャラを考案したのは、山形県の中でも内陸に位置する市のお二人だそうだ。「なるほどなあ」 と思う。というのは、日本海に面する庄内生まれの私の感覚からすると、心の山である鳥海山のあたりが帽子で蔽われてしまっているのが、ちょっと悲しくなってしまうのであるよ。

Map1さらにいえば、人の横顔の山形県の形において最も特徴的なのは、口をポカ〜ンと開いた、ちょっと間抜けなまでの茫洋とした感じではないかと思うのである。それは、私の本宅サイトの中の  "「庄内力」 養成委員会" のページをご覧いただければわかるが、ここでは右に画像で示しておこう。

こんなところでブツブツ言ってもしょうがないのだが、私としてはこの 「ポカ〜ン感覚」 が、キテケロくんでは損なわれていることもまた、ちょっと残念に思うのだよね。

というわけで、私は横顔の形の山形県の中でも最も重要な 「目と鼻」 の位置する庄内生まれとして、「ちょっと、なんだかなあ」 と思ってしまうと、ここで表明しておこうと思うのである。山形県の中でも内陸と庄内は、やっぱり別の国なのだね。

ちなみに 「キテケロ」 は、庄内弁では 「キテクレノ〜」 になる。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2015/05/16

論理と感覚の狭間と、直観への飛躍

Kamiya English Coaching (KEC) を主催する emi さんが、「初めて見る単語を覚えるとき、私たちは文字を一つひとつ認識するのではなく、スペルのまとまりを画像として認識している」 らしいという、脳の働きを調べた研究の成果を紹介している。(参照

彼女は 「複雑な漢字が読めるけど書けなかったり、似たような文字列を見て「空目(そらめ)」が起きたりするのも、これに関係していそうですね」 とコメントしている。確かに、英語に限らず、我々は文字情報の多くを、アナログな画像として認識しているのではないかという気がする。

一時ネット界隈で話題になった、次のテキストもそんなところから了解できるかもしれない。

こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。
この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか
にんんげ は もじ を にしんき する とき その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば
じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる というけゅきんう に もづいとて
わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。
どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?
ちんゃと よためら はのんう よしろく

引用したテキストは、単語ごとに (時々は文節ごとに) 分かち書きしてあり、そこがミソなのだと思う。いくらなんでもスペースなしにずらずらっと続けて書かれたら、どこからどこまでが独立した単語なのか判別しにくくて、まともには読めないだろう。

しかし、単語としてのまとまりさえはっきりとわかる書き方ならば、文字の順序は少々でたらめでも、最初と最後の文字さえ合っていれば、確かに案外すらすらと読めてしまうのである。これは我々が文字情報としての単語を 1文字ごとに読み込んでいるのではなく、一まとまりのアナログ画像として認識していることを示しているのだろう。

あるいはこれは、単語だけではなくて一繋がりの論理のプロセスも、そんな風に認識しているのではないかという気がする。数学の証明問題なども、同じプロセスを辿るようなものは、ざっと見ただけで解けてしまったりする。私は数学が得意な人の多くは、論理的というより感覚的な人なのだと思っているが、それは案外こんなところからきているのかもしれない。

さらに、「直観」 というのは 「感覚」 をさらに飛躍させたところにあるのかもしれないと思う。ノーベル物理学賞を受賞したりする学者の中には、新発見の多くは論理というより直観から出発していると指摘する人が多い。つまり、天啓のような 「思いつき」 が大発見につながることがあるのである。

仕事でいろいろな人間と接していると、過度に論理的な人というのは、付き合うのがかなり面倒なことがある。彼が自分の考えを説明し始めると、半分ぐらい聞いてしまえばその全貌は大体つかめてしまう。だって極めて論理的なのだから、途中まで聞けば結論は簡単にわかってしまう。シンプルな三段論法は、二段目まで聞けば十分なのだ。

それで、「ああ、そういうことね。それだと、ああなって、こうなって、要するにこうしちゃえばいいよね」 と引き取ってしまうと、彼は 「人の話を最後まで聞け!」 と怒り出したりする。仕方がないから最後まで付き合ってあげても、やっぱり思った通りの当たり前の結論でしかない。

当たり前すぎる論理を、きちんとプロセスを追ってあまりにも懇切丁寧に説明されると、聞いている方としては、いらいらしてしまう。聞く方は特急列車に乗ったごとく、既に終点まで行ってしまっているのに、話す方が各駅停車でゆっくり追いついてくるのだから、じれない方がおかしい。

プレゼンをしていて、聴衆をイライラさせてしまっては失敗である。だから相手を説得するには、どこかで意外性を盛り込む方がいい。「いつもの理解のしかた」 というのを、一度裏切ってしまうと、人間は新鮮さを感じるものなのだ。

私が自分のサイトを 14年前に立ち上げた時、"知的情報の受発信に必要なのは見識ある解釈と 編集、そして最後の 「一ひねり」" というキャッチフレーズにしたのは、その意味でかなり正解だったかも知れないと、今になって気をよくしている。

ただ注意しなければならないのは、聞く方の理解力が不足していると、「チンプンカンプンだった」 と言われかねないことだ。その場合は、こちらも各駅停車で辿らなければならなかったりする。

上述のごとく、三段論法は二段目まで聞けば十分なのだが、実際には三段目まで聞いて初めてびっくりする人が多いのも事実なのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/05/15

ワインの美味しさと値段の怪しい関係

私は常々、「日本酒の味はわかるけど、ワインはわからない」 と言い続けてきた。いい日本酒、あるいは高い日本酒というのは飲んでみれば概ねわかるが、ワインはさっぱりわからない。おいしくて安いワインはいくらでもあるし、高くても 「なんじゃ、こりゃ?」 みたいなワインもある。それどころか、高いワインほど 「なんじゃ、こりゃ?」 と思う確率が高いような印象まである。

だから私は、「ワイン通」 になるなんて到底無理だととっくに諦めて、「ワインの味はわからない」 と堂々と公言している。しかしどうやらそれは、私だけではないようで、飲んだだけで 「いいワイン/高いワイン」 かどうか言い当てるなんて、フツーは無理のようなのである。

Gigazine に 「安物ワインと高級ワインの味は一般人に区別できるのか?」 というビデオ入りの記事がある。比較的ワインに親しんでいるらしい 4組 8人の素人に何種類かのワインを試飲してもらい、その値段を推定してもらうという試みを行った結果、たまたま近い値段を言い当てることもあるにはあったが、概して 「ワインのことを何も知らない」 と言っていいような悲惨な結果になってしまった。

1瓶が数ドルの安いワインを数十ドルのものと思い込んだり、実際には百ドル以上のチョー高いワインを安物だと思って酷評してしまったり、さんざんな結果だった。つまり、まんざらのど素人というわけじゃない人にとっても、試飲しただけでそのワインが高級かどうかを見定めるのは至難の業のようなのである。

この記事を読んで、私はこれまで薄々わかっていたことが、客観的にも正しいんじゃないかと、自信をもってしまった。どんなことかというと、かなり乱暴な結論だが、「ワインの美味しさと値段は、ほとんど無関係」 ということである。

ただ、ワインの 「美味しさ」 というのもなかなか奥が深くて、一般的に誰が飲んでも 「美味しい」 と感じられる初心者コースから「ちょっと抵抗があるかも知れない個性的な味わい」 という上級者コースにいたるまで、千差万別だ。そして上級者コースほど、「うーん、ちょっとビミョー!」 と言いたくなるのが多い気がする。

その 「ビミョーさ加減」 が 「美味しい!」 と感じられるようになるまでには、さんざん授業料を払っていろいろな種類の高いワインを飲み、その味わいを体に覚え込ませなければならない。フツーの人間はそんなことに金をつかいまくるほどの余裕はないから、別に「ワイン通」 になる必要もない。

大別すると世の中には、「高くて美味しいワイン」 「高くて個性的なワイン」 「手頃な値段で美味しいワイン」 「手頃な値段でそれなりのワイン」 「安くて美味しいワイン」  「安くてまずいワイン」  という、6種類のワインがあるようなのである。

私なら深く考えすぎることなく、 断然 「安くて美味しいワイン」 を選ぶ。ただ、たまにご馳走になる 「高くて個性的なワイン」 の味わいも、できるだけ脳内データベースに蓄積しておくようにはしている。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2015/05/14

日本全国お気に入りの土地と、行ってみたい土地

私は仕事で結構いろいろなところに旅行する。これまで行ったことのない県は鳥取県のみで、他はすべて行った。しかも単に通り過ぎたとか途中下車したとかではなく、ちゃんと一泊以上して、その土地の人と触れ合ってのことである。今日はその中で、私のとくにお気に入りのスポットを選んでみたい。

何と言っても筆頭にあげてしまうのは、月並みだが京都である。京都はこれまで何度行ったか数え切れない。どうせ出張がらみではあるのだが、仕事本番の翌日あたりにできるだけ予定を入れない日をつくり、夕方遅くまであちこち廻ってから帰ることにしている。一回の滞在は短くても回数をこなしているので、めぼしいところは網羅したつもりである。

とはいえ、京都はまだまだ奥が深い。何度訪れても新しい発見がある。だから何度でも訪問したいところである。やはり私にとって京都は特別な街であるといっていい。

京都の他に何度でも行ってみたいという土地は、沖縄だ。実は沖縄はまだ 2度しか行ったことがなく、それも沖縄本島以外は知らない。ただ沖縄は内地とは別の時空感覚があり、やはり特別の場所だ。振り返れば中世、見渡せば東南アジアである。何度も行ってその独特の文化に触れたいし、次はぜひ石垣島を訪れたい。ただ、京都ほど頻繁に訪れる機会がないのが残念だ。

その他のお気に入りは、まず北海道の知床だ。前回に行った時は初冬のことで、知床半島を全て見て回ることはできなかった。次は是非一周してみたいと思っている。さらに九州の博多、熊本、長崎もご贔屓である。この 3都市は、それほど迷わずに市街を歩くことができるほどになった。

改めて訪れてみたいのは、津軽である。私は青森県は東側の南部しかまともに行ったことがなく、津軽は通り過ぎたという経験しかない。しかしやはり一泊以上して探訪してみたいところである。

そして是非訪れたい鳥取県以外の未踏の地は、熊野と佐渡島である。この 2つはどういうわけか、なかなか縁がないのである。しかしこれまでも、「行きたい、行きたい」 と念願していると不思議にそこに行く仕事が舞い込んできて、いやでもその土地の人と触れ合うことができている。だから、これからは 「鳥取、熊野、佐渡島に行きたい、行きたい」 と念じ続けることにしよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/05/13

「後方支援」 に関する共産党志井委員長の tweet のお粗末

私は政府主導の 「後方支援」 を主眼とした新たな安全保障法制に、両手を挙げて賛成するものではない。しかしこれに反対する日本共産党の志位和夫委員長の tweet を見かけたところ、あまりにもお粗末なので、いくら何でもちょっと批判しておかなければ気持ち悪い。

彼はこのように tweet している (参照)。

政府のいう「後方支援」は、世界では「兵站」(ロジスティックス)という。新「ガイドライン」も、和文は「後方支援」だが、英文は全て「Logistic」。なぜ素直に「兵站」と訳さない?「兵站」と訳すと武力行使と一体とみなされるからか?「兵站」に後方も前方もない。ごまかしてはいけません!

順を追って批判しよう。まず、政府のいう 「後方支援」 を、本当に 「世界では 『兵站』 (ロジスティックス) という」 のかという問題だが、 言うも言わないも、あまりにもナンセンスな命題である。

ちょっと考えれば当然のことだが、「世界」 は 「兵站」 なんて言わない。そういうのは、多分日本と、あとは中国がもしかして同じ漢字を使って表現するかもしれないが、韓国でどう言うかは知らない。そして他の国では、「兵站」 (ロジスティックス) なんて言わない。そんなことを指摘するのさえおこがましいほどの、当たり前すぎる話である。

ちなみに "logistic" という言葉、小さな事だが、戦争時の食料や兵器の供給という意味で使う場合は、普通は単数形である。だから複数形で  「ロジスティックス」 とは言わない。複数形で言うと、広い意味の 「物資輸送」 とか 「物流」 とかいう意味になる。志井委員長がみずから tweet しているように、英文はすべて "logistic" となっているよね。だったらカタカナも、せめて 「ロジスティック」 と表記してほしかった。

そして、「兵站」 というのは "logistic" の訳語ではあるが、それが訳語として唯一の正解というわけではない。時と場合によって適切な訳語は使い分けられるのが当たり前のことである。

「なぜ素直に 『兵站』 と訳さない? 『兵站』 と訳すと武力行使と一体とみなされるからか?」 と言っているが、「兵站」 という言葉は必ずしも一般的な言葉ではないので、知らない人には意味がわかりづらい。より具体的で分かりやすい 「後方支援」 という言葉を使って、一体何が悪いのかということになる。別にごまかしているわけではないだろう。

そして最もナンセンスなのが、「『兵站』 に後方も前方もない。ごまかしてはいけません!」 という最後の結びである。そんなことをマジで言ったら笑われる。物資の補給は後方からするのが当たり前で、前方からはあり得ない。物資補給をするのに、わざわざ戦闘を展開している部隊の前方 (つまり、戦闘の真っ只中) に回り込む馬鹿が、どこにいるというのか。

志井委員長、自分が何を言っているのかわからないで、単に雰囲気だけで発言しているとしか思われない。こんなことでは、政府方針への反対論はおしなべてこんなような低レベルだと思われてしまいかねない。これがどうでもいい 「なりすましアカウント」 の発言だったら、どんなに安心するだろう。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2015/05/12

日本マクドナルドの 「ママズ・アイ・プロジェクト」

日本マクドナルドが信頼回復に母親の視点を取り入れるとして、一般の母親を生産現場に招いて公開するなどの諸策を盛り込んだ 「ママズ・アイ・プロジェクト」 を実施するという。しかしこの発表に対する反応は、甚だ芳しくないようだ (参照)。

読売新聞によると、「サラ・カサノバ社長は記者会見で  『お母様こそが最も厳しい目を持っている。直接、意見を聞いて、より良いマクドナルドにしたい』 と語った」 というのだが、これは素人目にも安易な発想だ。こんなのに乗っかる母親というのは、何にでも安易に乗っかりたがる人か、よほど文句を言いたい人かのどちらかで、フツーの母親はマクドナルドの生産現場になんか行きたくないだろう。

「まずはマクドナルドが選んだメンバーが視察するが、今後は公募の参加者も加わる」 というのが、まずガクッとくるところで、そのうち尻つぼみになるんじゃなかろうか。尻つぼみにしたくないなら、ずっとサクラに頼るしかない。

サラ・カサノバ社長が言うように、母親が最も厳しい目を持っているというなら、本当に厳しい目を持った母親は、既にマクドナルドを見放しているのだ。そんなプロジェクトにホイホイ参加して、今さらマックの共犯者になんかなりたくないと思うだろう。

マクドナルドの業績悪化は、4月 12日の記事でも書いたように、生産管理や衛生管理ごときで回復できるような単純な問題じゃない。うまいまずいは個人の感覚の問題だから別として、「言うほど安くない」 「注文しにくい」 といった基本的な問題があり、さらにマーケティングの失敗で 「安物イメージ」 まで浸透してしまった。イメージだけ安物で、実際には 「言うほど安くない」 のだから、踏んだり蹴ったりである。

さらに上述の記事では敢えて触れていなかったのだが、一番ベーシックな問題として、マックでハンバーガーを食うような若年層がどんどん減少しているというのが、実は一番大きいのだと思う。要するに、市場自体が急激に縮小しているのである。

急激に縮小している市場で売り上げを回復しようというのだから、本来なら扱う商品を転換しなければいけないのだ。いつまでも十年一日のごとくハンバーガーを看板にしているから、商売がおかしくなるのである。まあ、ハンバーガーを売るノウハウしかないのだから、仕方がないか。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2015/05/11

Adobe の独占状態が崩壊してもらいたい

私は一応業務で Adobe のソフトを使っている。ウェブページ作成のオーサリングソフト、Dreamwever、画像編集の Photoshop、DTP 関連の Indesign が主なところだが、最近ではCreative Cloud といプログラムで、月々の使用料を払えば同社のソフトが使い放題ということなので、喜んでというよりは、しかたなくそういうことにしている。

まあ、月々の使用料ならそんなに大したものではないが、1年分を計算してみるとそれなりの金額になる。それでも、昔は Dreamweaver を含む CS プログラムを一度アップデートするだけで数万円かかっていたのだから、まだ我慢できるのだが。

しかし、最近はどんなソフトでもどんどん安くなっている。シェアウエアなんかは、かなりの高機能のものでも数千円程度で、1万円以上のものはほとんどない。それを考えると、Adobe のソフトはどうみても高すぎる気がする。

これはどうも、Adobe が DTP やウェブデザイン方面のソフトを独占してきた経緯があるからだと思う。Windows 用ソフトなら、まだいくらでも安いのがあるが、Mac の場合はこれまで、なまじ 「プロ用」 だと思われてきたので、その名残だかなんだかしらないが、高止まりしている感がある。

しかし私なんかは、一応業務に使ってはいるが、それほど無茶苦茶に凝った使い方はしていない。ごくごく一般的な使い方をしているにすぎないのである。多分、Adobe のソフトの機能の 2割ぐらい (あるいはそれ以下?) しか使っていないと思うのだ。

幸いなことに、Mac も少しはシェアを伸ばしているようで、バリバリのプロでなくても使うようになっている。だったら、バリバリのプロというほどではないが、一応少しはクリエイティブな仕事をしている者向けの、ウェブオーサリングや DTP 関連のソフトが欲しいものである。

調べてみると、画像編集関連では Photoshop に劣らないほどの機能をもつシェアウェアがいくつか世に出ているようだ。オーサリングソフトにしても、だんだんそうなりつつあるような気がする。あとは DTP である。チラシや小冊子ぐらいなら、お手軽なソフトで作成可能で、Windows の世界では 「パーソナル編集長」 なんていうのが結構売れているらしい。

Mac の世界でも、バリバリのプロ用とお手軽な業務用という、ビミョーな棲み分けが進んでもらいたいと思っているところである。要するに私は、Adobe の独占状態が崩壊することを祈っているのである。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2015/05/10

自転車を始めたことによるダイエット効果

久しぶりにダイエットの話題である。かなり前から、体重 80kg になりかかると危機感を抱いてダイエットを始めていた。ところが 75kg を目前にすると油断をしてしまい、また徐々に体重が増え始めてしまうという繰り返しが続いていたのである。

昨年暮れに自転車を始める前も、何度目かの体重 80kg 目前という状態になっていたのである。そして自転車を始めたおかげで、80kg の大台は超えずに済んでいた。この自転車というのは、ダイエットにはなかなか強い味方である。なにしろ、特別に運動の時間を取る必要がない。行きたいところに行くのに、これまで使っていたクルマを自転車に置き換えればいいだけなので、三日坊主にならずに済む。

当初は、片道 15km 以内なら雨が降っていない限り、原則として自転車で行こうと決めていた。今は 15km なんて楽ちん過ぎる距離になってしまったので、片道 20km 以内なら原則自転車移動ということにしている。

行く必要のある所に行くという、ごく日常的な行為のみでダイエットになるのだから、ありがたい限りである。片道 15km 程度なら、クルマで行っても 20〜25分ぐらいかかる。時速 50〜60km/h ぐらい出しているつもりでも、信号で停まっている時間が結構あるので、結局このくらいの時間はかかってしまう。

これが、自転車で行くと大体 45分ぐらいになる。ということは、せいぜい 20〜25分ぐらい余計にかかるだけなのだ。クルマとくらべて余計にかかる時間は、往復でも 1時間以内である。1時間足らずの時間を余計に使うことで、ダイエットになって、その上に楽しみも感じられるのだから、なかなかのものである。

特別にダイエットや体力増強のための運動を始めるとすると、1日に 15〜30分ぐらいの時間を取らなければならない。しかし自転車移動をすると、クルマでの移動にかかる時間に大体このくらいの時間をプラスしただけでダイエットでき、しかも 「移動」 という日常的な目的まで達成してしまうのだから、一石二鳥である。

おかげで私の体重は今、大体 75kg まで落ちた。初めのうちは、5kg 減量なんてあっという間で、半年もすれば 10kg 落とせると思っていた。ところが、今年の 2月頃までは 「いくら頑張っても、なかなか体重が落ちないなあ」 と思っていたのである。

しかし体重がなかなか落ちないのは当たり前で、この間、体脂肪が筋肉に置き換わっていたのである。筋肉は脂肪よりも比重が大きい。だからこの 75kg は、これまでの 75kg とはちょっと違う。多分落ちた体重以上の量の脂肪を燃焼させ、同時に筋肉量を増やしたのである。

そんなわけで、今では体を動かすのがものすごく楽になった。階段は二段飛びでピョンピョン昇れるし、体を使う仕事も楽にこなせる。つまり、疲れにくくなったのだ。これはかなり嬉しいことである。

そしてこの 5か月ぐらいの推移を見ると、脂肪が落ちる期間と筋肉が付く期間というのは交互にやってきている気がする。「腹はかなりへっこんでいるのに、体重が落ちないどころか、ちょっと増えてるやんか!」 と思う時期があって、その後しばらくすると、体重が一気に 2〜3kg 落ちる時期がくる。どうも筋肉を付けるのと脂肪を落とすのとは、あまり同時並行的にはできないみたいなのである。

だいぶ前に、半年で 10kg 減らしたときは、周囲の人たちが、密かに 「tak は悪い病気になったんじゃあるまいか」 と、本気で心配したらしい。つまり、健康的な痩せ方ではなかったようなのである。ところが今回は、「スマートになったね!」 と言ってもらえる。どうやら病気には見えないらしい。これは大きな違いである。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2015/05/09

サルの名前ごときで怒る方がはしたない

大分市の高崎山自然動物園で生まれたメスの赤ちゃんザルに 「シャーロット」 と命名したことについて、「英国王女と同じ名前にするとはけしからん」 と批判が殺到しているという。この件について朝日新聞の取材に対して英王室広報は、「コメントは特にありません。赤ちゃんザルにどんな名前を付けようと、動物園の自由です」 と答えたそうである。(参照

同動物園では新しく生まれたサルの赤ちゃんの名前を例年通り一般公募していたが、英王室の王女の名前が 「シャーロット・エリザベス・ダイアナ」 と決まった途端に、メールなどで 「シャーロット」 の応募が急増し、結局最多数を占めたのでこの名前になったそうだ。まあ、フツーに考えたら、いくら最多数だったとしても、遠慮するのが常識というものだろうがね。

英国王室としても、サルの名前に同時期に生まれた王女の名前を流用されたとあっては、決して愉快な気持ちではいられないだろうけれど、さらりと受け流したのは、当然ではあるが、さすがというものである。こんなことでむやみに事を荒立てては、かえって王室の名を汚す。

ことさらに憤慨するのは、嫌でも意識されてしまうことに対してである。サルの名前ごときは、「無関係なお話」 と捉えているから、「勝手にすれば?」 ということになる。だから、日本国内でことさらに過剰対応するというのも、考えようによってはかえって失礼な話なのかもしれない。朝日新聞としても、聞くだけ野暮だった。

サルの命名直後には、県内外から  「日本の皇族の名前をサルに付けられたらどんな気分になるか想像してほしい」 と批判が寄せられたそうだが、まあ、そんなことはあり得ないからね。

どこか遠くの国で生まれたサルの赤ちゃんに、皇族の名前を付けられちゃったなんてことならあり得るかもしれないが、もしそんなことがあって、コメントを求められたとしても、宮内庁は英国王室と同じように対応するだろうと思う。ロイヤルファミリーというのは、そんな些細なことは超越しているものなのである。怒る方がはしたない。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2015/05/08

問題解決の処方箋

30年以上繊維業界に身を置いて、かなりバラエティに富んだ分野の業務に関わってきたという経験から言うのだが、政府や公的団体から発信される類いの、社会的、経済的な問題点をどう改善するかという処方箋というか、ガイドラインというか、そうしたものは、一般的にあまり役に立たない。経済産業省の発信するガイドラインに真正直に従って事業を行い、儲かったという話を、あまり聞かないのである。

政府の考え方がまったく間違っているというわけではない。定期的に発表される業界ごとの将来ビジョンなどは、個人的にはとてもよくできていると思う。例えば、平成 22年に経済産業省が発表した 「今後の繊維・ファッション産業のあり方」 というガイドラインは、「繊維産業は衰退産業と思われがちだが、我が国の強みを発揮して国際化に取り組めば、さらなる発展が可能」 というトーンでまとめられている。

総論的には、「まさにおっしゃる通り」 と言いたくなる内容だ。お役人の示すガイドライン的なものは、案外当を得たものが多い。各論的な具体策になると目を蔽うばかりのお粗末なものばかりだが、総論はたいていの場合かなりよくできている。

そりゃそうだ。総論的なものなら、まともに市場調査、状況分析を行えば、そう結論づけるほかないだろうというような内容になる。しかし現実に照らし合わせると、「おっしゃる通り」 という結果になっているのは、第1章の 「繊維・ファッション産業は衰退産業か?」 の部分だけで、「まさに衰退産業ですね」 という状況に陥っている。

第2章以降でお役人は言う。「こんなに衰退の一途を辿る産業でも、我々が提案する処方箋を実行すれば、まだまだ発展の余地がありますよ」 と。しかし業界はお約束の如く反応する。「そんなこと、できっこないよ!」。

そうなのだ。正しい処方箋ほど、実行するのが困難なのである。衰退産業には有能な人材が流入しない。有能な人材がいないからこそ、さらに衰退する。そんなところにもってきて、お役人が 「こうすれば、まだまだ発展できますよ」 とケツを叩いても、そうした処方箋を実行するどころか、理解するだけの力さえ、業界にはないのである。

本来なら、正しい処方箋を実行できない業界こそが反省すべきなのだが、業界はえてして 「お役人は状況をまったく理解していない。連中の言うことなんて、すべて 『絵に描いた餅』 だ」 という反応を示す。いくら処方箋が正しくても、まともに受け取る者がいないのだ。

実行できない処方箋は、いくら正しくても機能できない。だから私は、「正しすぎる処方箋は役に立たない」 と言うのである。

こうした図式は、マクロな経済問題ばかりではない。あらゆる方面に当てはまる。そもそも問題を抱えた国、地域、業界、商店街、会社、組織、団体、家族、個人というのは、まともな解決策が実行できないから、問題を抱えっぱなしになるのである。処方箋を示されて簡単に実行できるぐらいなら、初めからそんなに深刻な事態に陥ることはない。

つまり、問題解決のオフィシャルな処方箋は、そもそもの出発点から間違っているのである。どう間違っているのかというと、問題を分析し、それぞれの解決策を示し、「さあ、やりましょう」 というから、間違えるのだ。それにこう言ってしまってはぶちこわしかもしれないが、いくら正しい処方箋でも、実行している間に周囲の状況は変わるので、その実効性に大きなぶれが生じ、ますます混乱してしまうことも多いのだ。

つまり問題の分析なんかするからいけないのである。そんなことをするからますます深みにはまる。周囲の状況を変えようとするから、「変えられません」 と匙を投げるしかなくなる。

私に言わせれば、問題があったら、それをどうこうしようとなんかせず、あっさり諦めればいいのである。あっさり諦めて、全然別のことをすればいい。つまり 「周りは変えようとしても変わらないのだから、自分が変わるしかない」 のである。

このことについては、折に触れてちょこちょこ詳しいことを書くこともあるかもしれないが、今日の所はこれまで。ただし、今後もよくある 「自己啓発」 的なことを書くわけじゃないので、そのあたりはよろしく。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2015/05/07

日本流の「おもてなし」と、観光競争力

夕刊フジが "日本「おもてなし」世界一 総合では9位 観光競争力ランキング" というニュースを伝えている。スイスの「世界経済フォーラム(WEF)」 という団体が発表した 「観光競争力ランキング」 によると、日本は総合で 9位だった。

総合首位はスペインで、以下フランス、ドイツ、米国、英国、スイスと欧米勢が 6位までを占め、アジア太平洋地域では、オーストラリアが 7位、シンガポールが 11位、香港が 13位、中国が 17位、韓国は 29位だった。

日本の場合は 「客の待遇」 と 「鉄道インフラの質」 ではトップで、豊かな文化資源や安全性なども高く評価されたが、それだけでは観光競争力という点で十分とは言えないようなのである。とくに物価の高さがマイナス要因として大きかったようだ。

これは私見なのだが、日本独特の 「丁寧なおもてなし」 というファクターは、日本人が自分で考えるほど大きなポイントとはならないんじゃなかろうか。国際標準からすると、ごくごくフツーのホスピタリティを示してもらえば十分で、「下にも置かぬおもてなし」 なんてそれほど望まれていない。

そりゃあセレブが泊まるような超高級ホテルなどでは、それなりの丁重な接客が当然なのだろうが、ごくフツーのホテルでは、ごくフツーにサービスしてもらえばいい。チップもなしに慇懃無礼なほどに丁重な日本の接客は、ある意味 「感動的」 ではあるだろうが、ちょっとスペシャルすぎる。私なんかはかえって居心地悪くなってしまうようなところがある。

東京への 2020年オリンピック誘致で、なんとかいう女子アナが 「お・も・て・な・し」 なんてやった時も、日本国内でやたらとウケまくったほどに、対外的に実質的なアピールができたとはあまり思われないのだよね。

よく言えばフレンドリーだが、悪く言えばぞんざいな欧米流の接客でも、総合上位を独占できるし、客を客とも思わないほどのフランス流 (もしかしたら、あれはパリ流なのかな?) でも、総合 2位になれるというのは、ちょっと考えてみる価値があると思うのだよね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/05/06

今日は立夏で、連休最終日

今日は 5月 6日。立夏である。立春というのは 「春への道しるべが立つ日」 というような感覚で、2月 4日頃から春めいてくるという印象はほとんどない。それどころか、一年のうちで一番寒さが厳しい時期という印象すらある。

それに比べて立夏というのは、その 1週間ぐらい前から既に 「初夏」 という印象がある。気温が 25度以上の夏日だって、既に何度か経ているのだから、本当に立春とはわけがちがう。さらに 8月 8日頃の立秋というのも、いわば立春の裏返しのようなもので、一番暑い時期である。秋なんてどこにも感じられない。

そうしてみると、日本、とくに関東以南は夏という季節の存在感が大きな国である。夏の中でも 初夏、梅雨、盛夏、晩夏と、4つの区切りがある。なかなかのものだ。徒然草の中で兼好法師も 「家の作りやうは、夏をむねとすべし」 と、家は夏向きに造るものだと主張しているぐらいだから、古来より日本は夏の国だったのだろう。

ところで、今日はまたゴールデンウィークの最終日である。私は連休は昨日の 5日までと思っていたのだが、3日の憲法記念日が日曜と重なったので、その振替休日が今日になっているというのである。とすると、今年の連休は結構長かったのだろう。高速道路の Uターンラッシュも、夕方 4時頃にはピークを越えたと伝えられている。よかったね。

勤め人でなくなっていわば自由業になってしまっているので、曜日感覚とともに休日感覚もなくなっている。平日だろうが休日だろうが、ちょこちょこと仕事をしている感じで、今年の連休もとくに気負い込むこともなく、静かに過ごした。今月は結構いろいろな予定が入っているので、来月になったらちょっとのんびりしたいと思っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/05/05

新幹線特集の番組を見て思ったこと

今朝、NHK の BS アーカイブで新幹線の特集番組が再放送されていた。平成 23年に最初に放映されたというので、4年前のものだが、それでも画面に映る最新型の車両は N700 系で、九州新幹線もスタートしていた。

番組では東海道新幹線の開業を実現させた人たちの当時の回想もあり、なかなかジンとくるものがあったが、それよりも個人的に感慨深かったのは、私が昭和 42年、中学校 3年の修学旅行で東京に来た時には、蒸気機関車に乗っていたという記憶である。山形県酒田から新潟に向かう羽越線は、当時電化すらされていなかったのだ。新幹線が走った 3年後だというのに。

多分、途中の上越線のどこかで電気機関車に交代したはずだが、途中まではトンネルに入る度に慌てて窓を閉めていた。当時の客車は冷房がなかったので、乗客が自分で窓を開閉できたのだが、トンネルで窓を開けっ放しにしていると、蒸気機関車の煙が客車内に充満して大変なことになったのである。

私が初めて新幹線に乗ったのは、高校 3年の時だった。新幹線が開業して 6年後である。それまでは自分には関係のないものだと思っていた。ところが、夏休みに大学進学の下見という名目で東京の親戚を訪ね、ちょっと予算が余ったので、ふと予定になかった京都まで行ってみようという気になったのである。

新幹線ひかりの自由席に乗ると、それまでは 「夢の超特急」 だと思っていたものが、既に日常の特急列車だった。東京〜大阪間というのは、日本の中でも別世界だという気がしているうちに、あっという間に京都に着いた。まさにその時、目と鼻の先の大阪で開かれていた万博に背を向けていたのは、私がその頃からへそ曲がりだったことの証明である。

京都ではまともなホテルや旅館に泊まるほどの金がなかったので、一泊目はドヤ街の簡易宿泊所 (一泊 700円だったかなあ) に泊まった。汗と酒の臭いが充満する中で相部屋になったオッサンに、「万博の施設でも道路でも、あれはみんなワシが造ったんや」 と自慢話を聞かされた。当時はやっていた岡林信康の 『山谷ブルース』 の世界に、こんなに簡単に飛び込むとは、その日の昼まで思っていなかった。

京都ではふとしたきっかけで、チリとドイツから来たというねえちゃんと友だちになり、二泊目は同志社大学だったかの学生寮に (250円ぐらい払ったような気がする) 泊まり、三泊目は京都駅の通路にごろ寝した記憶がある。だんだんお金がなくなってきたので、そうするしかなかったのだ。ちなみに最初に泊まったドヤ街は、今では跡形もない。

三日目の朝は在来線の急行と鈍行を乗り継いで東京まで戻り、上野から酒田まではボックス席の夜行急行列車で、9時間かけて帰った。この頃はさすがに、羽越線も電化されていたような記憶がある。酒田の街に戻ると、タイムマシンで 10年以上時代を遡ったようなのどかさだった。

私はいわゆる 「団塊の世代」 には属していない。戦後のベビーブームが一段落した直後に生まれたので、自分では 「団塊の世代の尻尾」 だと思っている。しかしどうも、都会生まれの団塊の世代より、ずいぶん古い時代の日本を知っている気がしているのは、この 「タイムマシン」 のせいだと思うのである。

前にも書いたことがあるが、私の生まれた家は水道もガスもなく、裏の井戸で水くみをして、薪で炊事をしていた。そしてトイレが汲み取り式なのは当然として、それが庭の離れたところにぽつんとあった。だから冬の吹雪の夜にトイレに行くなんていうのは、子どもにとってはほとんど命がけだった。

さらに小学校の 4年生頃まで、今では使用禁止になっている殺虫剤の DDT を月に 2回ぐらい振りかけられていた。保健所の職員が学校に来て、有無を言わさず生徒を DDT まみれにするのである。髪の毛だけでなく、首筋から噴霧器を入れられて背中まで真っ白にされていた。私自身は体にシラミがわいたことなんて一度もないのに、お目こぼしというわけにはいかなかった。

今から思えばずいぶん乱暴な話である。都会生まれの知人は私より 5歳以上年上でも、「いくらなんでもそんなことをされた覚えはない」 と言う。私は体験的には、団塊の世代なんかよりずっと古い時代の日本を知っている。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2015/05/04

表現の自由を守るための、命のやり取り

ロイターが 「イスラム預言者風刺画展で銃撃、米テキサス警察が容疑者を射殺」 というニュースを伝えている。

米テキサス州ダラス近郊で 3日、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画展示会の会場近くで銃撃事件があり、警備員 1人が負傷した。容疑者の男 2人は警官に射殺された。

(中略)

展示会の主催団体は、展示会の目的として、表現の自由を促進するため、としている。今年1月には、ムハンマドを題材とする風刺画を掲載した仏週刊紙シャルリエブドの本社が襲撃される事件が起きている。

この問題、私は今年初めにも 2本の記事を書いている (参照 1参照 2) が、要するに、他人が嫌がることをして、「表現の自由」 もないもんだということである。私は 1月 11日の記事で、次のように書いている。

風刺やパロディが単純に 「報道の自由の範疇」 と思っているのは、ある意味、西欧的傲慢である。喩えは悪いかもしれないが、すれっからしの大人が妙に一本気な子どもをブラックジョークで挑発しても、それは洒落にならないのだ。

私は健康オタクを皮肉って、「健康のためなら命も惜しくない」 といわんばかりじゃないかと言うことがあるが、これは 「表現の自由のためなら命も惜しくない」 といわんばかりである。「イスラム教預言者風刺画展」 なんていう、別にしなくてもいい企画を実行したために、人の命のやりとりになってしまうなんていうのは、私には愚かすぎるように思われる。

ちょっと話はずれるが、「喫煙者の権利」 を主張して非喫煙者の迷惑と受動喫煙のリスクを顧みない人たちについても、私は同じような違和感を覚えるのである。私は非喫煙者として 「喫煙者の権利」 を否定しないが、非喫煙者の 「嫌いな煙と臭いに悩まされない権利」 を尊重して行使してもらいたいと願うのである。

それにしても気の毒なのは、この襲撃事件で負傷した警備員である。この警備員は別に、自分の命を捧げてまで主催者の目的に賛同していたわけではあるまい。仕事だからしょうがなくそこにいただけだろう。そこに乗り付けたテロリストに撃たれたというのだから、まったくの災難というものだ。死ななくてすんだのは、不幸中の幸いである。

こうした展示会をどうしても主催したいなら、警備は自分たちで行い、来場者には防弾チョッキを無償で貸し出すぐらいの方策を講じてもらいたいものである。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2015/05/03

「パチンコ・パチスロ」 という別世界

先月 29日の当ブログで、"「適度な運動」の「適度」がどのくらいなのか研究で判明" という Gigazine の記事を紹介した。要するに、「ごく軽めの運動でも、しないよりはする方が長生きできる傾向があり、運動のしすぎが体に悪いということはない」 ということだった。とはいえ、「いくら長時間やっても、その効果はあまり代わり映えしない」 ということでもある。

Img_2312で、今度はパチンコ・パチスロのお話である。なんでそんなことになるのかというと、先日の新聞の折り込み広告に某パチンコ店のチラシが入っていて、そのキャッチフレーズが 「パチンコ・パチスロは適度に楽しむ遊びです」 というものだったからだ。

パチンコ・パチスロの 「適度」 って、一体どのくらいなんだろう。昔のタバコのパッケージに 「健康のため、吸い過ぎに注意しましょう」 なんて表示があったが、あれと似ている。あんまり大した意味はないけど、まあ、雰囲気のものだから、一応書いておきましょうということなのだろうか。

ただ、単なる警告表示にしては文字が大きすぎる。こんなことを大々的に訴求することが、昨今のパチンコ業界では何らかのメリットにつながることなのだろうか。さらにその下に表示されている 「のめり込みに注意しましょう」 に至っては、想像もつかない奥深さである。

私はパチンコというのは、40年ぐらい前に何度かやったことはあるが、最近のパチンコとなると、全然馴染みがない。なにしろ昔の呑気なのとは違って、まったく別の遊びみたいなことになっているらしい。さらに 「パチスロ」 となると、「パチンコ・スロットマシン」 の省略形なのかなあと思うばかりで、それがどんなものなのだか、見当もつかない。

さらに、パチンコ・ファンにこの写真のような 「萌え絵」 がアピールするだなんて、ちっとも知らなかった。パチンコといえば 『軍艦マーチ』 の世界だと思っていたのだが、それはまったく前世紀のイメージらしい。そこまではわかったが、それでもパチンコ屋に出入りするオッサンと萌え絵がどうリンクするのか、全然しっくりこない。

どうやら、現代社会には私が思いもよらない別世界があるようなのである。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2015/05/02

世界のタブレット出荷台数

iPhone Mania が、「世界のタブレット出荷台数、前年同期比で 2四半期連続の減少~ IDC調べ」 という記事を載せている。調査会社 IDC の報告によると、2015年第1四半期のタブレット及び 2-in-1 ノート PCの出荷台数は、前年同期比で 5.9%減の4,710万台となり、前年同期比で 2四半期連続の減少を記録したらしい。

トップシェアを占めているのは相変わらず Apple の iPad で、出荷台数は前年同期比 22.9%減の 1,260万台ながら、市場シェアは 26.8%と、首位を堅持した。面白いのは、自社の iPhone6/6 Plus と Mac 製品の成功のおかげで、iPad 人気が低下しているという、皮肉な結果になっていると分析されていることである。

確かに私も、使用頻度が圧倒的に高いのは iPhone で、次が MacBook である。iPad はペーパーレス会議や出張中の PC 代わり、そしてたまに深々とソファに座って WOWOW on demand のサッカーや格闘技を見るためのものになってしまっている。iPhone と MacBook は 「なくなったら致命的に困るアイテム」 だが、iPad はそこまで切実ではない。

とはいえホームユーザーなら、MacBook よりも iPad を 1枚 (「1台」 というより 「1枚」 の方が実感なので) 持つ方がずっと現実的だろう。業務で PC を使うわけではないユーザーには、iPhone と iPad の併用をオススメする。しかも iPad は回線付きはいらない。家庭では Wifi でインターネットに接続し、外出先では iPhone のテザリング機能を使う。それで十分だと思う。

現実に、私の妻はそれですっかり満足している。仕事で Excel を使いまくるわけでもなく、Word で長文を作成するわけでもない。メールとインターネットができれば、ニーズはほぼ達成され、あとは写真と音楽の管理をするだけなら、「PC は難しい」 と死ぬまでストレスを感じ続けるよりも、ルンルンで iPad を使う方がずっと幸せというものだ。

ただ、タブレットのユーザーは概してヘビーユーザーではないから、新型が出るたびに買い換えるなんてことはほとんどしない。壊れるまで使い続けるということも多いだろう。そうなると、一度行きわたってしまったら、出荷台数は頭打ちになって当然だ。

iPad の伸びが止まっているのと対照的に、Windows 8 や Surface Pro などのいわゆる "2 in 1" 機種は、「市場が小さいながらも確実に成長している」 とレポートされている。これなんかは、「まだ普及が一巡していないから」 と言うほかないと、私は思っている。

ニーズは、「オフィスでも出張先でも同じように使いたい」 という層向けだろうが、確かにそんな大きな市場じゃない。私ぐらいのヘビーユーザーでも、出張先では iPad で足りるんだから、2 in 1 がどうしても必要というのは、旅先でも Excel のプログラムを組んだり、Word で長い論文を書いたりするほどの人なんだろう。

それほどのヘビーなニーズがなかったら、PC と タブレットは使い分ける方が現実的だと思うがなあ。どうしても旅先で長文を書きたかったら、外付けキーボードを買い足すという手もあるし。

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2015/05/01

太陽光発電パネルを設置して半月が経った

先月 26日の記事で触れたように、我が家でもようやく太陽光発電を開始した。設置完了して売電を開始したのが 4月 16日だったので、昨日で半月が経過したわけである。そこでこれから設置を検討する人の参考のために、この半月の経過をレポートしてみたい。

我が家の太陽光発電パネルは三菱製で、規模は 2.8kw/h と、可愛らしいものである。屋根の形状の制約で、3kw/h の規模にはできなかった。そして我が家はオール電化というわけではなく、給湯設備と台所は都市ガスを使用している。子供たちは皆独立して暮らしているので、いつもは夫婦二人だけの生活だ。この条件で、半月で消費量の 2倍近くを発電した。

設備に付属する 「エコガイド」 というモニター用タブレットでこの間の詳細をみると、半月の発電量は 170.2kw で、消費量は 93.7kw。完全に黒字である。しかしこの差し引き量を売電しているという単純なお話ではない。

太陽光発電していない夜間に使用する電気は東京電力から買っているし、昼間でもどんより曇っている間に電子レンジなどを使用したりすると、その間は我が家の発電能力以上の電気を使うので、やはり電気を買うことになる。そんなこんなで、結果的に東電から買った電力は 53.1kw で、逆に売電したのは 129.5kw だった。

別の言い方をすると、93.7kw の電気を使ったのに、買ったのはその半分ちょっとの 53.1kw で済んで、発電したうちの使い切れなかった 129.5kw を、東京電力に売ったということになる。だから東電に支払う電気代はこれまでの半分近くになり、さらにその倍以上の売電収入がある。単純にいって、払う分が減り、その上に収入があるので、ずいぶん 「お得」 になる。

この半月のデータをみると、1日の発電量が消費電力を下回ったのは、雨模様でずっと日が射さなかった 19日から 21日の 3日間だけで、残りの 12日間は発電量が大幅に上回った。ずっと薄曇りで時々日が射したという程度でも、十分に黒字になるぐらいの発電はしてくれている。

というわけで半月分のデータだけでみる限り、太陽光発電パネルを設置するために設定したローンを返済しても、多少の黒字になる。これは見積もり段階でわかっていたことなので、我が家では頭金なしで全額ローンにしたが、家計的には初めからプラスになる計算だ。

だから、パネルを設置する屋根や空き地があって、その発電量が消費量を上回って余りあることが見込まれる場合は、太陽光発電はする方がずっとお得である。そしてその条件は決して厳しいものではなく、ごくフツーにやっていれば十分だ。

たとえ売電収入がローン返済額に達しなくても、決して損というわけではない。昼間に使う電気のかなりの部分を自前で発電しているので、電力会社に支払う電気代が大幅に減ることを考慮すれば、ローンを返済しても結果的に収支トントンか、お得になることが多いだろう。

早く言えば、家計負担がまったく増えず、いや、増えないどころかむしろ軽減される形で環境に貢献できるという可能性が、かなり高いのである。我が家がそうであるように。自前の家があって、その屋根に十分に日が当たるのなら 「どうして太陽光発電しないの?」 という時代に、既になったということだ。

で、先月の記事でも書いたことだが、私としてはこうした損得勘定よりも、太陽光発電をすることでささやかながら環境に貢献しているということが、満足感につながっている。

モニタリング・タブレットの表示をみる限り、この半月の間に、我が家は CO2 排出を 58.4kg 削減し、石油消費に換算すれば 42.1ℓ を削減することができた。これは、1年当たり 4本の杉の植樹に相当するのだという。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2015年4月 | トップページ | 2015年6月 »