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2015年6月に作成された投稿

2015/06/30

ならば私は「¥記号をつけた数字で表示:¥1,200」 の店を選ぶ

脳科学マーケティング100の心理技術』 という本が話題になっている。脳科学的アプローチによって、売り上げを増大するマーケティングの紹介である。ネットの世界では、次のようなクイズが散見されて、この本を売るための巧妙な宣伝になっている。

レストランのメニューからクイズです! 次の3つの料金表示うち、一番多く注文が取れたのはどれでしょう?

① ¥記号をつけた数字で表示:¥1,200

② ¥記号をつけない数字表示:1200

③ 文字で説明:千二百円

このクイズの正解は ② なんだそうだ。他の 2つは 「お金を出す」 ことを強くイメージづけるため、脳に 「痛み」 を感じさせ、人を実際の購買行動から遠ざけてしまうというのである。

ちなみにこの本によれば、「回転寿しやタクシーの料金など、1回1回の消費で料金が上がっていくのをお客さんが目にする販売方法は最悪です!」 ということになるらしい。なるほど、寿司を一皿食うごとに、タクシーで約 300メートル行くごとに支払金額が上がっていくシステムは、脳にある種のストレスを与える。

しかし、この 「ある種のストレス」 のおかげで、客は別の安心感を得る。自分の支払う金額がきちんと把握されるので、「一体いくら取られるんだ?」 という不安感から逃れられる。つまり小さなストレスのおかげで、より大きな安心感を得られる。

この 「安心感」 というのは、要するに 「余計な金を支払わなくて済む」 ということだ。具体的には、消費者が設定した 「ここまで!」 というリミットに達する前に 「自らストップをかけることができる」 という意味である。

つまり裏側からみると、『脳科学マーケティング100の心理技術』 という本は、「消費者が自らストップをかけることができなくなる巧妙なマーケティング・メソッドを指南する本」 ということになる。つまり、客に余計な金まで使わせるための本だ。

ということは、これは品物やサービスを提供する側のために書かれた本で、消費者のために書かれた本ではないということに気付かなければならない。つまり、この本に書かれたメソッドを実行している店は、「賢い」 かもしれないが、それは甚だ 「中途半端な賢さ」 であり、決して 「顧客志向」 ではないということだ。

だから消費者の立場に立てば、メニューの価格表示に、「¥」 マークの付いている店の方がありがたい。そうした店を選べば、余計なものまで注文した挙げ句、レジで 「しまった、飲み食いしすぎた!」 と後悔しなくて済むかもしれないということだ。

逆に 「¥」 マークのないメニューを出す店は、手前の利益ばかり考えて、客に余計な金を出させようとするあこぎな店かもしれないから、警戒しなければならないというわけだね。

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2015/06/29

労働時間と生産性に関する身近な実感

「ニュースの教科書」 サイトに 「米国人は仕事中毒? 休暇中もノートパソコンを叩く人が増加中」 という記事があった。仕事中毒なのは日本人だけと思っている人には意外だろうが、米国人は本当に朝から、というか、夜明けから晩まで仕事をしている。

日本のオフィス街で、夜明け前からビルの窓に明かりが灯っているなんてことはほとんどないが、ニューヨーク、マンハッタンのホテルに泊まって、どうせ時差ボケだから夜明け間に起き出してゴソゴソやっていると、隣のオフィス・ビルの窓のいくつかには既に皓々と明かりが点いて、誰かが当然のようにデスクに向かっているのが見えたりする。

もっとも、そんな人はプロフェッショナルなキャリアの人に限られていて、フツーの労働者は決まった勤務時間だけである。例えばオフィスのおねえちゃんなんかは、夕方にコピーを頼まれると、作業している間に退社時刻になりそうな場合は、それがたった 10分ぐらいの作業でも翌朝に延ばすのが当たり前だったりする。

しかし米国の会社役員とか、プロフェッショナルな人たちは、フツーの労働者とは仕事の意欲が違う。そもそもかなり強烈な競争社会を勝ち抜こうとしているし、成果を上げれば挙げるだけ報酬としての見返りがあるということもある。そうこうしているうちに、確かに 「仕事中毒」 みたいなことになる。

一方、日本の労働者の労働時間の長さは、ちょっと異質な気がする。一般的に労働時間のみが長くて、生産性は少なくとも米国、英国、ドイツなどに比べてかなり劣る。要するに、だらだらと長時間労働をしているということになる。

メンタリティとしては、一つには、いくら成果を上げても報酬としての見返りは大した違いはないから、だったらせめて、残業手当で稼ごうかという妙な心得違いをする傾向がある。これって、結果的には成果は大して違わないのに残業手当だけがかさむということだから、企業としてもムダだと思うがなあ。

もう一つ、顧客のわがままを聞きすぎて、納期寸前のスペック変更などをしなければならなくなり、大慌てでサービス残業をしてでも帳尻あわせをするなんてこともある。「お客様は神様」 と思いすぎている結果である。

ビジネス契約というのは本来、発注者も受注者も平等の立場で約束しているのだから、発注者が後になってイレギュラーな注文を加えたら、その分納期をずらすか、エクストラ料金を支払うかしなければならないはずなのに、日本では受注者に 「泣いてもらう」 ことが平気でまかり通っている。これが事前の計画がいい加減なままで走り出して、生産性を落とす原因となる。

要するに 「なあなあの契約」 が多いから、労働時間だけ延びて、成果はあまり上がらないということになるわけね。まあ、その分 「顧客満足度」 は高かったりするが、本来発注者側の責任とされる分も、受注者が 「発注者の身になって」 考えて引き受けてくれてるんだから、そりゃ発注者側の満足度が高いのは当然だ。高い満足度は、受注者に 「泣いてもらう」 ことで実現されている。フェアじゃないよね。

ビジネスというのは、同じ企業がある場合は発注者でも、別の場合は受注者になるのだから、結局それは 「負の連鎖」 になって、日本全体の生産性を落とす結果になる。だから日本人は、勤勉に長時間仕事をするのに、実は好きでやってるわけじゃない。酒飲みながら仕事の愚痴ばかり言っている。

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2015/06/28

東北がやっと梅雨入り

気象庁は一昨日の 26日に東北南部が、昨日の 27日に東北北部が梅雨入りしたとみられると発表した。平年より半月近く遅く、記録的な遅い梅雨入りだったらしい。

一昨日まで 2日間、仕事で秋田に滞在したが、土地の人は 「梅雨入りしないうちから真夏になってしまったようで、水不足で田んぼや畑が心配」 と話していた。そんなところに一部では有名な晴れ男の私が顔を出したものだから、「これでまた梅雨入りが遅れる」 なんて言われてしまった。

「大丈夫、帰ったらすぐに雨が降って梅雨入りしますから」 と冗談を言っていたのだが、それが本当になり、私の晴れ男伝説にまた新たなエピソードが加わってしまったのだった。「ここまで来ると、空恐ろしい」 なんてジョークも出ている。

ただ、天気図をみると梅雨前線は相変わらず九州南部に停滞しっぱなしで、東北が梅雨入りしたからといって、鹿児島の大雨の心配がなくなるというわけでもないようなのである。一体どうなっているのか、これもまた、エルニーニョのせいなのか。そろそろ日本の真ん中辺りで梅雨前線を引き受けないと、今度は梅雨明けの遅れる心配をしなければならないだろう。

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2015/06/27

広告を出さなければマスコミの 「懲らしめ」 になるか?

"「経団連に働きかけ、マスコミ懲らしめを」 自民党勉強会" という馬鹿馬鹿しい話が、ヒステリックなまでに話題になっている。こんなヨタ話にマスコミはマジになったり、ムキになったりし、それに煽られて日本中が騒いでいる。

そもそもいくら経団連に働きかけたところで、企業が広告を出さなくなるわけがない。まず第一義的には、企業は自社のために広告を出しているのであって、マスコミのために出しているわけではない。それを 「出すな」 というのは、マスコミの言論統制以前に、自由な企業活動の妨害である。

もっと言えば、企業が広告を出すのが 「自社のため」 というのも、いろいろな意味合いがあり、真っ正直に商品を売るための広告もあるが、それだけではない。第二義的には、広告を出す企業とマスコミは、「相身互い」 なのだ。マスコミは広告費をもらって収入とし、その広告を出した企業にとっては、不利益な報道をされないための保険をかけているという側面がある。

だから景気が悪くなると企業は広告費を削るのだが、まったくゼロにはできない。いきなり広告をしなくなってしまったら、何を書かれるか知れたものではない。清廉潔白な企業なんてないのだから、どこをどう突かれてしまうか不安になる。企業がマスコミに広告を出すのは、「運命共同体だから、仲良くしようね」 というアピールでもあるのだ。

という事情からか、今回の馬鹿話に関しては、マスコミはここぞとばかりにヒステリックに騒ぐが、経団連はただ静観するのみである。こんなアホらしいことに反応して何かを言い出すほどには、企業は焼きが回っていない。

もし仮に企業が広告を出さないなんてことにしてしまったら、小規模でアナーキーなジャーナリズムばかりになってしまい、もろにセンセーショナルな記事だけで売ろうとするようになる。これではまるでネットの世界みたいであり、コントロールが効かなくなる。逆効果だ。広告費は 「ジャーナリズムの飼い慣らし費」 でもあるのだ。

もし何だったら、自民党ももっと広告費を使ってマスコミを飼い慣らすがいい。

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2015/06/26

太陽光パネルのゴミの同時的大量発生はあり得ない

Sankei Biz が 「40年度の太陽光パネルごみ 77万トン」 と報じている。「耐用年数を過ぎて、ごみとして排出される太陽光パネルが 2040年度に 77万トンに達する」 と、環境省が推計を公表したというのである。しかしこの発表はかなり無茶苦茶なので、「そらみろ、太陽光発電なんて役に立たん」 という言い方をするのは当たらないと言っておこう。

この推計の根拠は、太陽光パネルの耐用年数が約 25年で、大体 25年ぐらい経つといきなり使い物にならなくなって、即廃棄処分になるという前提に立脚している。それが本当なら、確かにゴミの大量発生になるだろう。しかし実際は、その前提自体が誤りだ。

太陽電池モジュールは駆動部分がないので、故障しにくいと言われている。壊れるのは大抵動く部分であって、動かないのは故障しようがない。問題は 「故障」 ではなく 「経年劣化」 だが、これに関しても、パネルの素材であるシリコン結晶は非常に安定的なので、劣化も遅い。

太陽光パネルは普及後間もないので、耐用年数に関しては未知数と言われているが、一般には 25〜30年とされている。しかしこれも 「推測的な一般論」 であり、事実の語るところをみれば、1966年に長崎県の灯台に設置されたシャープ製の太陽電池モジュールは半世紀近く発電を続けているし、 京セラの住宅用太陽光発電は 1984年から 30年以上稼働し続けている。

京セラの発表によれば、経年劣化に関しては 「25年で 9.62%発電量が下がった」 とされている。つまり、25年経っても 90%の能力をキープしているのだ。当然ながら個体差はあるだろうが、いきなり壊れて使い物にならなくなるわけではない。経年劣化で能力が 80%程度に落ちたとしても、即廃棄処分してしまうユーザーはごく少数だろう。しかも最新のパネルはさらに経年劣化が抑えられている可能性がある。

早めに設備更新される可能性があるとしたら、現在の技術水準を大幅に上回る製品が、大幅に安い価格で提供された時だ。それが実現すれば、従来の古い製品を撤去してでも、高機能で安い新製品に更新するユーザーが出てくるだろう。しかしその場合でも一斉にそうなるわけではなく、漸進的な動きとなるだろう。

さらに撤去された古いパネルが即廃棄処分となる可能性は極めて低く、途上国に非常な低価格で (タダでもいいぐらいだ) 輸出してリサイクル使用 ( reuse : 再使用) してもらうことになるはずだ。まだ 90%ぐらいの、悪くても 70%以上の能力を残して稼働可能なものが非常に安価で入手できるなら、使わない方が損だ。

「エコ」 を標榜して展開されているのだから、リサイクルしなかったら、世論の袋だたきに遭う。つまり、25年後に太陽光パネルのスクラップが同時大量発生するというのは、あまりにも乱暴な推論というほかない。ゴミは一度にどっとではなく、徐々に少しずつ発生するのだ。最終的にはどのパネルも廃棄処分されなければならないが、それは誰が考えても核廃棄物に比べればずっと始末がいい。

よりによって環境省がどうしてこんな馬鹿なことを言い出したのか、理解に苦しむ。ゴミの山になるから問題だという理屈を称えるなら、まず最初に警告を発しなければならないのは、より有害な廃棄物を発生し続けている原子力発電に対してだろう。

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2015/06/25

歴史認識の落とし穴

英国ロックのレジェンド、ポール-ウェラーは 1970年代にセックス・ピストルズを聞いて大きくインスパイアされ、「新しい時代はすでに始まっていて、自分もその一部なんだ」と気付いたという。新しいことを始められる人間は、この 「新時代の始まり」 に関するアンテナがとても鋭く、しかもアクションが早い。

だが、このアンテナの鋭い人はそう多くないどころか、実は圧倒的に少数派だ。表面的な流行に振り回される人間は少なくないが、時代を変えるほどの大きな潮流を見定めるのはなかなか難しい。だから、同じ時代に生きていても時代感覚を共有できる人は少ないのだ。

音楽の例で話を始めたので、次はビートルズを例に挙げよう。彼らの曲は今では中学校の音楽の教科書に載っているらしいが、デビューしたての頃は大人たちの多くに 「社会に害毒をまき散らす不良グループ」 と思われていた。こんなことを言った人は、彼らが後に英国女王からサーの称号を与えられるまでになるとは、想像もしなかっただろう。

今まさに生きている同時代の認識が、人によってまるで違うのだから、ましてや過去の話である歴史認識を一つにするなんてことがいかに無理な話か、ちょっと考えればわかることだ。人の数だけ歴史がある。

「そんなことを言っても、事実は一つじゃないか」 という人もあるが、それもまたおめでたすぎる。「事実とは何か」 ということさえ様々な考え方があるのだから、事実も人の数だけあるのだ。裁判などで認定される事実も突き詰めれば甚だ怪しいもので、一応の結論を出すための前提が必要だから、さんざんこねくり回して最大公約数的なものを設定しているだけでしかなく、だから時々誤審が生じる。

「認識はいろいろあっても、その元となる事実は一つだろう」 と、あくまでも抵抗する人もいて、とてもうっとうしいのだが、「元となる事実」 なんていう途方もないものは厳密には認識不能なのである。

例えば 「A と B が C 地点でぶつかった」 という単純事故に見えることでも、突き詰めると、単純な話ではないかもしれない。もしかしたらどちらかに故意にぶつかる意識があったのかもしれず、あるいは 「未必の故意」 というややこしい事情が隠されているかもしれない。さらに、そうした意識が潜在意識内で働いていたとすると、やたら複雑なことになる。

単純事実とみえることでも、ほじくり出したら結構複雑な事情がいくらでも出てくる。だから、単純な事実の積み重ねで問題が決定的にこじれたりするのである。熟年離婚なんて、大体そんなところがあって、妻にとっての耐えがたい不満が、夫にはまったく理解できなかったりする。

単純事実の奥に潜む複雑な事情をほじくり出す努力にも限界があり、さらにいえば、よっぽど努力してほじくり出しても、今度はそんな複雑でデリケートな問題を理解できる人の数が限られる。どうしても一定以上のことは認識不能になるのだ。

認識不能なものは論じようがなく、大方は感情論の爆発になる。それを避けるために、認識された範囲内で論理的に議論しようとすると、お互いの認識の違いを埋められないことに気付く。堂々巡りのパラドックスだ。

何が言いたいのかというと、異なる歴史認識をしていても、それを乗り越えて未来志向で和解することが大切なのだ。和解の条件に歴史認識を挙げていたら話は永遠に進まないが、当事者の一方、あるいは両方が、話を進めることよりも過去にこだわることの方が大切という価値観をもっていたりしたら、それはもう、どうしようもない。

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2015/06/24

マクドナルドの "McBike" は、本当にチャリ好きに朗報か?

マクドナルドが自転車用のドライブスルーするための専用容器、"McBike" を開発したという。「地球環境に優しく、健康にいい移動手段である自転車に乗る人が増え」 ていることに対応したらしい。AdGang の "チャリ好きに朗報!マクドナルドによる“自転車乗り”専用持ち帰り容器「McBike」" という記事に、こんな CM 動画入りで詳しく紹介されている。

マクドナルドのドライブスルー窓口で、自転車のハンドルにひっかけることのできる専用パッケージで品物が提供されるということらしい。移動手段として自転車がメジャーな地位を占めているデンマークのマクドナルドでスタートし、近々東京でも開始されると告げられている。

CM ビデオを見ると、いかにも健康そうな自転車乗りがマックのドライブスルー窓口でこのパッケージを受け取り、ハンドルにひょいと引っかけて走り出すという、ちょっとお洒落っぽい映像が映し出されるのだが、そこに表示される英語メッセージが、ツッコミどころ満載だ。

まず、こんなメッセージが表示される。

"The World is moving towards sustainable energy." (世界は持続可能エネルギーの方向に向かって動いています)

うむ、確かにその通りではあるのだが、「持続可能」 のテーマに対する同社のソリューションが、この "McBike" と称する 「使い捨てパッケージ」 というのでは、かなり悲しいものがある。「おいおい、そりゃ違うだろう」 と言いたくもなるではないか。

次に表示されるのは、これだ。

"People cherish and choose a healthier lifesyle."(人々はより健康的なライフスタイルを、信念をもって選択しています)

これには笑うしかない。マクドナルドはどうみても、このセリフが最もお似合いじゃない企業の一つである。本気で 「より健康的なライフスタイル」 なんてものを志向したら、メニューの全面改定が必要だ。あまりの落差に腰砕けになりそうだ。

ネット界隈の反応を見ても、パッケージ・デザインに関しては肯定的に評価する向きもあるが、 「レジ袋でいい」 とか、「ちょっとした段差でこぼれそう」 「そもそも店内で食べればいいじゃん」 とかいうコメントの方が目立つ。さらに 「商品そのものを健康的にするのが先だろう」 という、真っ当な指摘も多い。

マクドナルドの最近のプロモーションは、先月触れた 「ママズ・アイ・プロジェクト」 というのにしてもそうだが、ピント外れ過ぎる。市場における自社のポジショニングやイメージがきちんと分析把握できていないから、こんなことになる。

さらに細かいことを言えば、この 「ハンドルに引っかけるパッケージ」 は、日本では道交法第55条に反する疑いがある。

第55条 車両の運転者は、当該車両の乗車のために設備された場所以外の場所に乗車させ、又は乗車若しくは積載のために設備された場所以外の場所に積載して車両を運転してはならない。(以下略)

自転車においては、カゴや荷台などの積載装置以外の部分に、荷物を積載してはならないということになっていて、ハンドルにひょいとぶら下げるのは違反である。個人的にはこのくらいいいじゃないかという気もするが、この 6月から自転車の道交法違反が厳しく取り締まられることになったこともあり、コンプライアンス (遵法) の点でちょっとアブない。日本マクドナルドはこの企画実施を見送るべきだと思う。

いずれにしても、本当に再生可能エネルギー活用に価値を見出し、健康なライフスタイルを志向する自転車乗りなら、マックなんか食べないと思うがね。

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2015/06/23

ココログがメンテするらしいので

本日 23日に、ココログがメンテナンスをすると言っている。 「システム安定化のため、サーバー、データベースの移行を実施」 するのだそうだ、(参照)。

本当にシステムが安定するのなら喜ばしい限りだが、過去のメンテに関する状況を思い出すにつけ、「またきっと、なにか不具合が生じるんだろうなあ」 と、そこはかとなく覚悟する心境になっている。なにしろココログのシステム・メンテというのは、つつがなく終了することが案外少ない。

これまでにも、メンテを行ったためにかえって深刻なトラブルに見舞われるということがあった。とくに 2006/03/102006/12/082009/07/01 は、ちょっと腹に据えかねるような状態にまでなったのである。ここしばらくはあまり深刻なトラブルはないが、一応覚悟しておくほうが精神衛生にいい。

今回のメンテは 「6/23 (火)  9:00 - 15:00」 と予告されていて、その間は 「PC 閲覧のみ可能」 ということらしい。まあ長引いてもあまりカリカリしないように、心の準備をしておこう。それにこの文言にしても 「PC での閲覧のみ可能」 と、正しい日本語を使って貰いたいと思うが、まあ、それはいつものことだからしょうがない。

というわけで読者の皆様も、もし何か不具合が生じても復旧するまで気長にお待ちいただきたいので、よろしく。

【同日 追記】

今回のメンテは、9:00〜15:00 とされていた割には案外早く済んでしまい、昼頃には完了したようだ。とくに何の問題もなく推移している。一時の失敗に懲りて、最近は慎重な準備の元にメンテを実施しているようで、その努力の成果を評価しなければならないようだ。

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2015/06/22

現代の方丈生活

Wired の本日付記事 "カプセル型の自給自足型マイクロハウス「Ecocapsule」" というのがとても気になった。そのまんま 「エコカプセル」 と読むんだろう。下の写真は Wired の記事の直リンクで、本当に小さなカプセルである。ちょっとした 1ボックス車ぐらいのサイズにみえる。

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スロバキアの首都、プラチスラヴァにある建築スタジオ、Nice Architects が発表したもので、「キッチン、バス、寝室を備え、屋根に設置した風車とソーラーパネルにより、自力で電力をまかなうことができる」 とある。屋根のソーラーパネルと風車によって発電した電力は 9.744Kwhバッテリーに蓄電され、飲料水は降水をフィルターで浄化して得る。

電力会社と水道局との契約は要らないし、ガスも灯油も使わないから、自動車を持たなければ、エネルギー代は 1円もかからない。電気に関しては、ソーラーパネルの他に風車とバッテリーがあるので、雨の日や夜でも停電が避けられるのだろう。環境へのインパクトを最小にして生活することができる。

それにこのマイクロハウスは、土台も電線も水道もいらないので、多分 「不動産」 としての登記が要らない。小さな土地さえあれば、いや土地がなくても、ビルの屋上とかにちょこんと置いて住むことができる。その場合の排水処理さえしっかりすれば、ずっと住み続けられる。

内部は写真によればこんな感じだ。左がダイニング兼作業用のカウンター・テーブルで、右が折りたたみ式ベッド。その奥にキッチンが見え、壁の向こうはトイレ兼シャワールームだ。写真では見えないが、手前に収納スペースがあり、さらにキッチンの奥が外から開けられる倉庫である (上の写真の左端のドア)。

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鴨長明は方丈 (一丈四方、大体四畳半の広さ) の宿に住んで 『方丈記』 を著したが、これはさしずめ、現代の方丈である。生活に必要な機能は最低限揃っているし、あとはインターネット接続のための WIMAX かなんかがあれば、仕事にも困らない。

もし私が独身だったら、どっかの屋上を借りてこんなカプセルに住み、ミニマリズム生活をするのもいいなあと思ってしまう。あるいはリゾート地にこんなのをいくつかちょんちょんと置いてしまえば、手軽なロッジ村ができる。建物を建てる必要がないから、コスト的にも有利かもしれない。

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2015/06/21

貧すれば鈍する

初来日した韓国のユン・ビョンセ外相が、岸田外相との会談に先立ち、記者団の質問に答え、日韓国交正常化 50年の記念行事で、パク・クネ大統領からの、「信頼と友愛のメッセージ」 を伝えると述べたと伝えられている (参照)。フツーに言ったら、「へえ! 変われば変わるものだね!」 というのが、率直な印象だろう。

これまでは世界中のあちこちで 「告げ口外交」 と揶揄されるほどの悪口を言いまくって、いきなり 「信頼と友愛のメッセージ」 と言われても、こちらが当惑するばかりではないか。基本的姿勢を貫き通してくれる方が、いっそ清々しいというものである。

こうした変化を見るにつけ、政治や外交というものは、経済状況に大きく左右されることを感じる。経済の調子がいいと大きく出て、具合が悪くなるととたんに低姿勢になるのは、国に限らず、人間でも同じだ。そしてその周囲も、羽振りのいい者には小判鮫のようにくっついてさんざんおべっかを使い、金がなくなると途端に手の平を返したように散らばっていく。

韓国経済は今、下降線を辿る一方の状況で、それに MERS が追い打ちをかけている。どこまで沈むかわからない。日の出の勢いだった頃はあちこちで大きく出て、日本に対しても無茶苦茶な言い様をしていたが、それができなくなった。その途端に 「信頼と友愛のメッセージ」 と来るので、ある意味、とてもわかりやすい国である。わかりやすすぎて、わかるのが気恥ずかしくなるほどだ。

しかしそれは、わが日本にも結構共通している。バブルの頃は日本も相当に勝手な振る舞いをしていた。

「東京 23区の土地価格で、アメリカ全土を買える」 などと言い放ち、ニューヨークのランドタワー的なビルを買いまくっていた時期があった。さらに米国企業を買収しまくり、「既にアメリカに学ぶことは何もない」 などと言って、日本的ビジネス感覚を押しつけてヒンシュクを買うこともかなりあったのである。

もっと遡れば、戦前には 「鬼畜米英」 なんぞと言い、英語は 「敵国言語」 だからとて、野球の 「アウト/セーフ」 という言い方すらできなくしてしまっていた。そのくせ戦争が終わったとたんに、進駐軍のジープに群がって 「ギブミー・チョコレート」 なんてやっていたのだから、お恥ずかしいものである。

私としては、人にしても国にしても、飢えるほどの困窮は論外だが、金を持ちすぎてもろくな事がないと、しみじみ思うのである。

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2015/06/20

投票しろというなら、酒ぐらい飲ませてやれ

選挙権年齢を 18歳に引き下げる法案がついに全会一致で成立して、来年夏の参院選から 18歳以上の日本人も選挙ができるようになった。これについては今月 3日に 「18歳で選挙ができるようになると」 という記事を書いている。

ちょっと前までは野党が選挙権年齢の引き下げを主張していたが、昨今は若者の保守化傾向によって、案外自民党に有利に働くだろうというようなことを書き、さらに投票率は下がるだろうと予想した。

「若者の政治意識を高める教育が大切」 というマスコミのステロタイプ的な指摘に関しては、イデオロギー対立に終始しているこの国の教育界では難しいだろうということも述べた。日本人、政治と宗教をまともに取り上げるのは苦手なんだよね。

で、今回はちょっと別の視点から取り上げてみたいと思う。それは、選挙権年齢のみを引き下げて、成人年齢は 20歳のままというのは、ちょっとおかしいんじゃないの? ということだ。

世界的に見れば、選挙権年齢と成人年齢が一致していない例はないわけじゃないが、圧倒的多くは同じになっている。そりゃそうだよね。「いっぱしの大人として、責任ある存在なんだから、選挙にも関わって当然」 というのが、当たり前のコンセプトだろう。

「選挙はさせてやるけど、まだまだ大人ってわけなじゃいんだからな」 というのでは、「何だよ、そりゃ!」 と言いたくもなるではないか。こう言っちゃなんだが、若者としては 「投票しろって言うんだったら、酒ぐらい飲ませろ!」 と叫んでも、バチは当たらないんじゃないかと思う。

もうとっくに時効だから言ってしまうが、私の頃は 18歳で大学に入ったら、クラスのコンパで酒を飲むのは当たり前だった。「大学 3年になって 20歳になるまでは、酒は飲むな」 なんていうヤツは誰もいなかった。個人的には、最近は飲酒から卒業っぽい気がするのでどうでもいいのだが、18歳の人間にしてみれば、割り切れない気持ちだろう。

成人年齢の引き下げは、実際には民法などのからみでいろいろな手続きがあって大変らしいのだが、本来は選挙権年齢引き下げと同時にすべきだったろうと思っている。選挙権を得るということは、例えば犯罪を犯した場合でも、いっぱしの大人として責任をとるべきだろうしね。

逆に言えば成人年齢を 20歳のままにして、それまでは酒を飲んじゃいかんというなら、「酒も飲ませられないような半人前のヤツに、選挙権与えてどうする?」 ってことだ。

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2015/06/19

どうやら本当にエルニーニョらしい

今年はエルニーニョが発生しているために、梅雨明けが遅れ、冷夏になる可能性があるという。しかしこれには 「待てよ」 と言いたくなるではないか。エルニーニョって、去年の夏から発生しただの、まだしてないだの、いろいろ言われていて、まるで狼少年である。

調べてみると、気象庁は昨年 4月 10日に、「夏から冬にかけてエルニーニョ現象が 5年ぶりに発生するとみられる」 と発表している (参照)。この時も冷夏、暖冬になる可能性があるとされたが、結局は夏の時点ではエルニーニョにはならず、昨年末の冬にずれこんで発生すると、情報修正されていた (参照)。

ところがこれは但し書き付きで、「弱いエルニーニョ」 になる可能性があり、その場合は逆に厳冬になることもあるという、かなり玉虫色の情報だった (参照)。

そしてそのままうやむやにされてしまった感があり、ふと気付けば、Wikipedia の 「エルニーニョ・南方振動」 というページによると、2014秋〜冬は、エルニーニョどころか、まさかのラニーニャだったいうことになっているではないか (参照)。あの騒ぎは、一体何だったんだ。

どんでん返しの内容としては 「西日本~北日本の日本海側で 10月を中心とした暖秋、および 12月 - 翌年(2015年)の 2月上旬までを中心とした寒波と長期的な降雪」 となっている。しかし率直な印象としては、決して暖冬ではなかったが、その前の冬ほどの大雪になったわけでもなく、「フツーに寒い冬」 だったんじゃなかろうか。

そして今年の 5月 12日に、気象庁は思い出したように 「エルニーニョ監視速報」 を発表し、「4月時点でエルニーニョ現象が発生したとみられる」 との見解を示した (参照)。「今後、秋にかけてエルニーニョ現象が続くとみられ、冷夏になる可能性も高まった」 と言う。

確か去年も聞いたような話なのだが、違うのは、去年は 「発生するとみられる」 という話だったのに対し、今年は 「発生したとみられる」 という文言なので、少なくとも去年よりは確実性が高い。「ごめんね、やっぱり発生してなかった」 とひっくり返る可能性は低くなった。

さらに今月 10日になって、気象庁はこのエルニーニョが 「さらに強まる可能性がある」 と発表している (参照)。ここまでくれば、確かにエルニーニョを信じてもいいだろう。そして実際にも、まさにエルニーニョらしい状況になっている。

沖縄では早々に梅雨が明けたが、梅雨前線は素直に北上を続けず、南九州に停滞したままで大雨をもたらし、東北はまだ梅雨入りしていないという異常事態である。

私は近頃、Radiko の有料版 (エリアフリー) で、しょっちゅう沖縄の放送を聞いているのだが、あまりの暑さに一雨欲しいという声で溢れている。そのすぐ北の鹿児島あたりで、いつもの梅雨の 5倍ほどの大雨に見舞われているというのに、どえらい違いだ。

関東でも梅雨入りはしたものの、近頃の雨は梅雨前線によるものではなく、上空の冷気によってもたらされる局地的な大雨である。これから本格的に梅雨前線が上がってきたら、梅雨明けは遅れる可能性が高いだろう。その前線がさらに東北でぐずぐずしたら、米が不作になる可能性だってある。

ここまできたら、どうやら 「冷夏」 は覚悟した方がよさそうだ。情熱的な夏物語は、来年以後に待とう。

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2015/06/18

「日本三大火防神社」 の謎

茨城県の笠間市というところに、愛宕山という山がある。標高 300m 余りの、英語なら "mountain" ではなく "hill" と言わなければならない程度の山なのだが、頂上に愛宕神社というちょっと大きな神社がある、

この神社は創建が 1200年以上前の大同元年(806年)と伝えられ、かなり由緒がある。秋葉神社と同様、火伏せの霊験があると伝えられ、看板には 「日本三大火防神社のひとつ」 と記されている。立派なものである。

「日本三大火防神社」 というからには、「じゃあ、残る 2つはどこなんだ?」 と思うのは当然だ。しかしどうも合点がいかない。どうググっても、「日本三大火防神社のひとつ」 と高らかに訴求しているのは、この笠間の愛宕神社のみで、他の 2つは見当たらないのである。

ようやく見つけた 「日本三大チョメチョメ」 を集めた 「お国自慢 旅の心」 というサイトの 「2 神社、寺院、宗教」 というページに、「日本火防三山 日本三大火防神社」 という項目があり、そこには 「愛宕神社(岩間町・茨城)、秋葉神社(春野町・静岡)」 の 2社が挙げられている。おいおい、「日本火防三山 日本三大火防神社」 なのに、2つしかないとは、どういうことなんだ?

(ちなみに (岩間町・茨城) というのは古い情報で、今は友部町と合併して笠間市になっており、静岡県春野町も、今は浜松市に併合されている)

ここで挙げられたもう一つの方の 静岡県浜松市の秋葉神社のサイトをみると、正式な名称は「秋葉山本宮秋葉神社」 となっており、創建は笠間の愛宕神社よりさらに古い和銅 2年(西暦 709年)とある。その上、「火伏せの神として知られる全国の秋葉神社の総本宮」 というから、こっちの方が格が高そうだ。

しかしサイトをざっとみたところでは、「日本三大火防神社のひとつ」 などとは謳っていない。「秋葉神社の総本宮」 という唯一の存在なんだから、別に 「三大何とか」 なんていう称号は不必要なのかもしれない。「オンリー・ワン」 は、「ベスト・スリー」 なんて目じゃないみたいなのだ。

こうなると、「日本三大火防神社のひとつ」 という謳い文句は、笠間の愛宕神社の独り相撲なのかもしれないという気がしてきた。しかしそうさせないために、強いて 「残る 1つ」 を挙げるとすれば、京都市右京区の愛宕山にある愛宕神社あたりがいいかもしれない。

この愛宕神社は落語の 『愛宕山』 の舞台にもなっており、「全国に約900社ある愛宕神社の総本社」 ともいうから、格的には十分である。「愛宕の三つ参り」 として、3歳までに参拝すると一生火事に遭わないと言われる (参照)。むしろそうなると、笠間の愛宕神社が一番見劣りしてしまうぐらいのものだ。

しかしこの問題は、なかなか一筋縄ではいかない。愛宕神社の総元締めということになると、同じ京都府の亀岡市にある愛宕神社も名乗りを上げる。Wikipedia によると、「社伝では愛宕山の愛宕神社(京都府京都市)は当社からの勧請とし、そのため「元愛宕」や「愛宕の本宮」とも称される」 とある (参照)。こちらでも、「愛宕の三つ参り」 の謂われがある。どうやら 「本家」 の他に 「元祖」 があるみたいな様相なのだ。

となると、こっちも入れたら 「三大」 ではなく 「四大」 にしなければならなくなる。もしかしたら、この辺りの複雑な事情もあって、「日本三大火防神社」 は 2つしか挙げられていないという変則事態が生じたのかもしれない。

ちなみに、笠間市の愛宕神社は 「悪態祭り」 という祭りでも有名らしい。古くから愛宕山に住み着く 「十三天狗」 に扮した人たちに、ひたすら悪態というか、罵声を浴びせる祭りなのだという。しかし、これがまた面倒なことに、「日本三大奇祭」 の一つを自称しているのだ。

「またかよ、笠間市ってところは  『日本三大稲荷の一つ、笠間稲荷』 もあるし、よっぽど 『日本三大チョメチョメ』 の好きなところだなあ」 と思いながらググってみると、とんでもないことになっている。「日本三大奇祭」 は 3つどころじゃないのだ。以下、Wikipedia の 「日本三大一覧」から引用する。

御柱祭(長野県諏訪市、諏訪大社)、なまはげ(秋田県男鹿市)、吉田の火祭(山梨県富士吉田市、北口本宮冨士浅間神社)
その他諸説として、島田帯祭(静岡県島田市)、会陽(裸祭り)(岡山県岡山市、西大寺)、黒石寺蘇民祭(裸祭り)(岩手県奥州市、黒石寺)、吉良川の御田祭(高知県室戸市、御田八幡宮)、鍋冠祭(滋賀県米原市、筑摩神社)、裸押合大祭(新潟県南魚沼市、普光寺毘沙門堂)、悪態まつり(茨城県笠間市、愛宕神社)

なんと、悪態祭りは 「諸説」 あるうちでも最後に挙げられている。なんだかなあ。しかし、神社としてのありがたさには変わりないので、きちんと参拝させていただいた。

ちなみに Wikipedia の 「稲荷神」 によると、「日本三大稲荷」 も、京都の伏見稲荷を別格として、それ以外は諸説あるのだという。私は、伏見稲荷、豊川稲荷、笠間稲荷だと思っていたので、ますますわけがわからなくなってしまったのである。

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2015/06/17

気付いてみれば iPhone は高性能な 「ルーペ」 でもあった

還暦を過ぎても、まあ、元気は元気で、最近はどこに行くにも自転車にまたがり、かなりのスピードで突っ走っている。しかし目だけは真っ正直に老眼が進んでしまって、小さな字が読みにくくてしょうがなくなった。渡された名刺にあるメルアドや電話番号などが判別しにくい。

とくになんとかディレクターとか、プランナーとか、デザイナーとか、カタカナ文字の職業の人ほど、名刺の文字は小さい方がオシャレと思っている傾向があるようで、オジサンとしては本当に困る。「お前らだって、年取ったら 『名刺の文字は大きい方がありがたい』 と思うようになるぞ!」 と言ってやりたいが、まあ、それも無粋なのでじっと堪えている。

名刺をもらって、そいつにメールを送らなければならない時など、まるで針穴に糸を通す時のような顔をして、細かい字を必死に読み取る。自宅のデスクには最近、常にルーペを備えているが、外出時まで持っているわけじゃないから、一苦労だ。端から見たら、何を百面相しているのかと思われるだろう。

ところが最近、とても簡単で有効な解決策を発見した。iPhone のカメラで名刺を撮影し、画面上で拡大して読むのである。気付いてみれば当たり前のことだが、ちょっとした盲点だった。ここでは人の名刺を使うのもなんだから、新聞紙面を拡大している画像を載せてみよう。

Img_2821

小さな文字も、写真に撮り、表示画面で二本指を使って拡大してみれば、十分に読める大きさの文字になる。さらに言えば写真に撮る必要もない。シャッターを押さず、そのまま iPhone を移動させれば、新聞のように大きなものもリアルタイムで読み進める。まさにデジタル・ルーペである。

これまでは 「iPhone はコピー機やスキャナー代わりになる」 と言って、紙の書類を真上から撮影していた。「コピーを取ってなくて、これ 1枚しかないので、差し上げられないんです」 なんて言われても、「別にいいですよ、写真で頂いて帰ります」 と、パシャリと取ってしまえば、案外コピーよりもきれいな画像データになる。

これなんかは A4 ぐらいの紙を、iPhone の画面に縮小してゲットするという発想だった。つまり、持ち運びの負担を減らすために、iPhone を使って大きなものを小さくしていたのである。しかし 「ルーペ代わりに iPhone を使う」 というのは、その逆の発想だ。「小さいものを写し、大きくして見る」 のである。

これで、これからは小さな文字を読むのに困らないで済む。

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2015/06/16

ビジネスマナー屋の妄言

ネット界隈で "ビジネスマナー屋「謎理論提唱して儲けるンゴ!」" という 2ちゃんねる のスレッドが話題になっている。最初のコメントは、こんなようなのだ。

「面接室のドアのノックは3回です。 2回のノックはトイレの時です。」

就活生 「身に付けなきゃ (使命感)」

ビジネスマナー屋「やったぜ。」

これに対して、「ワイの職場でもこの手のセンセイ呼んでるわ なんの免許も持ってないただの口八丁や」 という、言い得て妙のレスが付き、あとは怒濤の如く、もっともらしさを装ったどうでもいいテーゼが挙げられている。誰でも 「はあ?」 と思ったことのあるであろう、こんなのだ。

「ご苦労様は目下の人に対して使います。目上の人に対してはお疲れ様です」
「あと 『了解しました』 は失礼理論もあるで」
「名刺交換の方法を教えて飯を食うンゴ!」
「ビールを注ぐ時はラベルを相手に見える様にとかいう謎マナーあったけど」
 などなど……

こんなのは、「常識」 だと信じ込んでいる輩にとってのみ、常識なのであり、本当は 「非常識」 か、よくてせいぜい 「どーでもいいこと」 だ。そもそも、ほとんどの人が 「へぇ、そうだったの? 知らなかったわ!」 と思ってしまうという、まさにそのことが、「常識でもなんでもない」 ことの証明であり、単に「言い出した者勝ち」 という世界になっている。

このようにして、「ビジネスマナー屋」 のまき散らす 「非常識」 を信じる人が増えて行くにつれて、馬鹿馬鹿しい滑稽な言い回しや仕草が「常識」 のように思われるというプロセスが進行している。「いらっしゃいませ、こんにちは」 という妙な挨拶は悲しいことに、既にコンビニの定番となってしまた感がある(参照)。

それに加えて、みぞおちの前で手を組んでお辞儀するという滑稽な仕草が広まりつつあり、さらに 「了解メール」 を気軽に返信できなくなるという困った世の中になるかもしれない。これも皆、無責任なビジネスマナー屋が口から出まかせで儲けようとしているためである。

最近では、「グラスの脚をもつのはNGマナー!? ワイングラスの正しい持ち方を伝授!」 というくだらない話が注目された。これに関しては、私が今年 2月 1日の "「ワイングラスのボウル部分を持つのが国際的常識」 という嘘" という記事で、きっちり粉砕しておいた。

ビジネスマナー屋ではないが、細木数子という趣味の悪いオバサンが、テレビで 「神社で柏手 (かしわで) を打つときは、女性は音をさせないのがマナー」 と口走って、この時はさすがに、全国の神社から苦情が殺到したという。音をさせずに柏手を打つのは 「忍び手 (「短手」 という表記もある)」 と言って、神道式の葬式や年祭 (仏教でいう 「法事」) の時の作法だから、普通の時にそんなことをしたら、「縁起でもない」 と怒られる。

まあ、この手の人たちの言い草というのは、せいぜいこの程度のものなのだ。ビジネスマナー屋や思いつきのデタラメでメシを食っている人の妄言をいちいち粉砕するだけで、 ブログのネタには困らないかもしれないとさえ思えてきた。

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2015/06/15

「杜の都」仙台のジレンマ

昨日、所用で仙台に日帰りで行ってきた。仙台には妻の実家があるから、今まで何度も行っているのだが、いつも車で行って帰ってくるだけで、仙台の街をゆっくり歩いたことはここ 30年ぐらいなかった。今回はたまたま西公園の隣にある宮城県美術館から定禅寺通を経て、一番町まで歩く機会があり、見事なケヤキ並木を満喫した。

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仙台が 「杜の都」 といわれるのには、この見事な並木も一役買っているのだろう。これは戦後から昭和 40年代にかけて植樹し、今は樹齢が 50〜110年ぐらいの見事な大木に育っているのだそうだ。そういえば、学生時代に仙台を訪れた時には、こんなには大木じゃなかったという記憶がある。あれからどんどん大きく育ったのだろう。

ただ、これだけ大きくなってしまうと、維持管理も大変なはずだ。ちょっと調べてみると、やはり問題が出てきているようで、平成 18年 3月に仙台市がまとめた 「青葉通再生基本構想」 には、次のように報告されている。

昭和 40 年頃より、異常落葉や枝枯れ、病虫害発生などの不健全さが目立つようになっ てきたことから、昭和 50 年より 5 年毎に調査を実施し、平成7年(1995 年)の調査では、 ケヤキの維持管理に限界がきているとして「樹形の乱れが避けられない。ケヤキ街路樹の 間伐、更新が必要」と報告されています。

今から 20年も前に、既に 「維持管理に限界がきている」 と報告されているのである。ということは、もう限界を超えているかもしれないわけだ。相手は生き物だから、「きれいだねえ」 と感心して眺めているだけでは済まない。

ケヤキ並木で有名な青葉通と定禅寺通は、交通量の多い (ということは、排気ガスが多い) 中心街のため、ケヤキの生育には決していい環境とはいえない。樹齢の割に幹が細いという問題があるらしく、幹が空洞化しているものもあるという。過去には倒木も何件かあったようだ。あんなに大きな木がまともに倒れたら、ただじゃ済まない。

あれだけ高く成長してしまうと、剪定もままならないだろう。ハコ物行政で、大きな建物や施設を造ってしまったものの、その後の維持管理に金がかかってしょうがないというケースが全国にあるが、仙台の場合は、ケヤキ並木が大きくなりすぎて手に余ってしまう状態になってきているようだ。

葉の生い茂る時期になると、日陰をつくって暑さを和らげてくれるという効果もあるが、一方で 「ケヤキのトンネル」 状態になるので、車の排気ガスが滞留してしまい、健康被害が心配されるという指摘もある。いいことばかりじゃない。

自然に近い環境で人間の営みと調和しながら生育したわけじゃないので、これからの維持管理が大変なことになる。一度 「杜の都」 という看板をあげてしまったので、ツツジなどの低木に変えてしまうわけにもいかず、アクロバチックな命がけの剪定作業や、大がかりな植え替えが必要になるだろう。

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2015/06/14

ダスティ・ローデスの死は、20世紀プロレスの終わり

ダスティ・ローデスが死亡したというニュースが入ってきた。享年 69歳だった。知らない人は知らないだろうが、往年の名レスラーである。ただ、名レスラーと言っても、私の好きなタイプではなかった。

ちなみに 「ダスティ・ローデス」 というのは 「ギョエテとはわしがことかとゲーテ言い」 みたいなもので、英語のつづりは "Dusty Rhodes" だから、本当の発音は 「ダスティ・ローズ」 に近い。野球の 「タフィ・ローズ」 は "Tuffy Rhodes" だから、同じ名字だが、もっと有名な 「ピート・ローズ」 の方は "Pete Rose" らしい。ややこしい。

まあ、しょうがないからここでは 「ローデス」 と言っておこう。ダスティ・ローデスのニック・ネームは 「アメリカン・ドリーム」。ぶよぶよした感じの肉体とはおよそ釣り合わないが、まあ。自己演出が上手だったんだろう。「派手で陽気で荒っぽい」 という、アメリカの男の一典型を演じていた。

ただ、私の好きなタイプのレスラーではなかった。テキサス・アウトローズを組み、一緒にタッグマッチで活躍していたディック・マードックの方がずっと良かった。ガチンコでやったら、マードックの方がずっと強かったろう

プロレスは原則的にはシリアスな勝負ではないが、肉体的の酷使という点では結構シリアスである。だからプロレスラーはあまり長生きしない。相棒のディック・マードックなぞは肉体の酷使に加えて深酒もたたったのか、50歳になる前にハート・アタックで死んでいる。

力道山は 39歳で刺されて死に、ジャイアント馬場は 61歳で肝不全で死んだ。あの 「大巨人」 アンドレ・ザ・ジャイアントが死んだのは 47歳である。私がプロレスに夢中だった頃のレスラーの多くは、40〜50代で死んでいる。死なないまでも肉体がボロボロで、車椅子に乗っているなんてことも多いようだ。

その点では、69歳まで生きたダスティ・ローデスは、まだいい方だ。アントニオ猪木は 70歳をとっくに越えているから、プロレス界では 「憎まれっ子、世に憚る」 の部類と言っていいだろう。

私はダスティ・ローデスをレスラーとしてはあまり評価していないが、彼が死んだと聞いて、20世紀のプロレスはすっかり終わってしまったのだと、しみじみ思ったのである。

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2015/06/13

安保法制論議は難しいよ

安保法制論議が盛んである。私は「今の憲法が未来永劫正しい」 なんてことはあり得ないと思っているから、昔から改憲論者なのだが、今の安保法制論議は、安倍政権の提唱する 「集団的自衛権の行使」 が、合憲か違憲かで揉めている。

私のスタンスは、「集団的自衛権が合憲か、違憲か」 よりも、「必要か、不必要か」、そして 「必要だとしたらどの程度にコミットすべきか」 を論議すべきだという点にある。本当に必要ならば改憲してでも進展させればいいし、不必要なら止めとけばいい。テキトーに必要なら、テキトーに運用すべきだろう。

必要か不必要か、どの程度にコミットすべきかという具体的な論議の前に、全てか無かみたいな感覚で 「違憲だからダメ」 というのは、「健康のためなら死んでもいい」 という健康オタクの論理と一緒である。

そもそもの話をすれば、「自衛のための軍備を持つのは合憲か、違憲か」 という議論があった。今の自衛隊の存在については、「憲法解釈」 によって 「合憲」 とされているが、私個人としては 「どう見たって、違憲じゃないか」 と思っている。ただ、「違憲だから自衛隊はダメ」 というのではなく、「必要なのに、どうみても違憲なんだから、憲法の方を変えなきゃいけないでしょ」 という、ごく単純なスタンスである。

ただ、世の中には 「戦争放棄という美しい理想」 を掲げた日本国憲法は、世界遺産にしてもいいほどのレアものなのだから、大切にしなければならないという考え方もある。自衛隊の存在に関しては 「うーん、ごにょごにょ」 でやっていきましょうという現実論が、今の主流だ。私としては原則改憲派だが、「確かに、『ごにょごにょ』 も手だよね」 と思う程度の柔軟さは持ち合わせていて、ゴリゴリの右翼ってわけでもない。

単純素朴な議論という点で言えば、「家を留守にするのに鍵をかけるのと同様に、国だって他国からの侵略を受けないために、軍備を持つのは当然でしょ」 という言い方もある。それに反対する人は、「家の鍵と軍備を一緒にするな」 というが、「馬鹿野郎、一緒じゃねえか!」 という強硬派もいる。

憲法に立ち返れば、その前文にある 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」 というテキストがベースとなっている。だから本来は、「我が国は軍備を持たずに、戦争放棄しましたよ」 という建前なのだ。

ところが 「平和を愛する諸国民の公正と信義」 なんてことは、到底 「信頼」 するに足りないというのは、現実が示す通りである。だからそんなことでは 「われらの安全と生存を保持しよう」 なんて言っても、不可能である。

私が住んでいるつくばの里も、30年以上前に引っ越して来た頃は、妻が買い物に出かけようとして玄関に鍵をかけていると、近所から 「そんな余計な心配しなくても……」 と言われるほどにのどかな土地柄だった。ところが最近では空き巣が頻発して、自治体が 「戸締まりをしっかり」 なんてキャンペーンするほどになっている。それと同様に、安保環境も時代とともに変わるのだ。

何しろ天安門事件の歴史的総括を拒否している国が、こちらにばかり 「正しい歴史観」 なんてものを強要しつつ、頻繁に領海侵犯してくるのだから、呑気ではいられない。「船が通り過ぎるぐらい、いいじゃないか」 なんて、呑気なことを言う人もあるが、軒先を借りたら、きっと母屋まで欲しがるのが、世界というものである。

ただ、だからといって 「集団的自衛権の行使」 なんてものを 「いいね、いいね」 と推進してしまったら、世界は余計な戦争まで起こしてしまう。問題は必要な国防を行うが、余計な戦争にまでは参加しないという 「線引き」 なのだが、その判断にしてもなかなかビミョーで、そんなことで侃々諤々をやっていたら、下手するとアクションを取るのが手遅れになったりすることもある。

「いつでも、やってやるぜ」 という姿勢は、かなり現実的な抑止力になる。ただ、「とはいえ、容易にはやらないけどね」 という原則は守らなければならない。「使わないための準備をする」 というパラドックスの上で綱渡りをしている程度に、人類は賢くもあり、愚かしかしくもある。

ビミョーな賢さがちょっと失われただけで、世界は紛争になる。私は何度か "戦争がなくならないのは、「平和は総論で語られ、戦争は各論で説かれる」 から" と言っていて、次のように指摘している。

総論は抽象的だが、各論は具体的だ。世の中というのは、せっぱ詰まってしまうと、抽象論は具体論に敵わないのである。腹が減ってしまう抽象論は、満腹にさせてくれる (という幻想を与える) 具体論の前では、無力だ。

「幻の具体論」 に惑わされないように、性根を据えなければならない。

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2015/06/12

使う言語によって、人間が変わる

Wired に "使う言語が 「世界の見え方」 を決めている:研究結果" という記事がある。端的に言うと、以下のようなことだ。これは、「我が意を得たり!」 と言いたくなるお話である。

『Psycological Science』 誌で発表された新しい研究は (中略) バイリンガルの行動と周りの世界の捉え方は、その瞬間に話している言語に依存する。そして彼らは、使用する言語を変えると、同時に行動や物事の捉え方も変化させるというのだ。

つまり、「使う言葉によって人間が変わってしまう」 ということだ。記事は主に英語とドイツ語の比較によって論じられているが、それは他の言語同士の比較によっても似たようなことがありえるだろう。

例えば私の英語は 「ペラペラ」 というほどではなくて 「ペラ」 程度なので、日本語と英語ということになると、まったく 「バイリンガル」 とはいえないが、「日本語と庄内弁」 となったら、それはもう、「完全なバイリンガル」 である。

「そんなの、同じ日本語じゃないか」 と言われるかもしれないが、それは当たらない。日本語 (共通語) と庄内弁は、例えばスペイン語とポルトガル語以上の差がある。友人の日系ブラジル人はポルトガル語を母語としているが、スペイン語を聞くと苦もなく意味がわかるという。イタリア語でも、ちょっと想像力を働かせればわかるらしい。

しかし、庄内人同士が使い慣れた庄内弁で話しているのを東京生まれの人間が聞くと、「一言もわからない。英語の方がずっとわかる」 と言う。それほどの違いがあるのだ。

そして、前にも書いたことがあると思うが、私は庄内弁でものを考えたり、会話したりすると、「俺って、なんていいやつだ!」 と、自分で感動してしまったりする。庄内弁では理屈っぽいことは表現できないが、素朴な人情の機微が散りばめられて、ずる賢い悪党には決してなれない気がする。

一方共通語で話すと、庄内弁では不可能だった 「論理的な話」 が可能になる。話していてわかるのは、「論理的な内容」 を表現するための語彙の多くは、多分、明治以後に日本語に加えられた 「翻訳語」 (欧米の語彙を日本語に翻訳したもの) に依存しているということだ。純粋の庄内弁には、それがないのである。

つまり庄内弁は 「近代以前」 のコンセプトしか語れないが、その代わり、とても素朴で豊かな人情や感覚を表現することができる。「共通語」 という 「人造語」 は、多分それが苦手になりつつあるのだ。

そして私の英語がもし、「バイリンガル」 と言えるほどに達者だったら、より 「論理的」 な内容で思考したり、会話したりできるだろうかと考えると、それは疑問だったりする。私の 「共通語」 は、もしかしたらナチュラルな英語以上に 「論理的」 たり得るかもしれない。

私の 「共通語」 は、後天的に学んだものだけに、無意識的ではあるだろうが、かなり人工的で論理的なところがあると思うのだ。だから、庄内弁で考えたり語ったりする時には不可能な 「小賢しいやつ」 になるのが可能だったりする。結構アブない。

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2015/06/11

Apple の定額制音楽配信サービスは、いいかも

Apple が定額制の音楽配信サービスを本格的に開始すると発表した。月額 9.99米ドル(日本円で約 1,200円) で会員になれば、3,000万曲以上のライブラリーの中から好きな曲をストリーミングで聴けるのだそうだ。当初は日本でも開始されるかどうかは不明と報道されたが、Apple の日本語版サイトに 「まもなく登場」 として紹介されているところをみると、期待してもよさそうだ。

問題は、日本円で 1,200円という費用である。ほぼ毎月アルバム CD を 1枚買っているという人なら全然問題ないが、年間に 3枚ぐらい買うという程度のごくフツーの音楽ファンは、消費税を入れたら多分、年間 15,000円以上になるだろうという金額を払うだろうか?

これはもう、完全に考え方次第である。私としては、「コーヒー 4杯ぐらいの値段で好きな音楽聴き放題」 と考えれば、かなり 「お得」 だと思う。というのは、これまでのように、CD を買うなりダウンロードするなりして、自分のライブラリーに入れるのとは、払う金額の価値が全然違うのだ。

これまで我々はずっと、「限られた予算の中から、あっちを我慢して、こっちを買う」 という購買行動をとってきた。しかし、月額アルバム CD 1枚の半額程度で 「我慢しなくてよくなる」 というなら、音楽の視界は一変する。「聴けば聴くほどお得」 というのは、音楽好きにはたまらない。

さらにもう一つ、別の意味合いもある。私は 100枚以上の LP コレクションを 「死蔵」 している。レコード・プレーヤーはとっくの昔におシャカになってしまったので、まさに「死蔵」 でしかない。再生した曲を MP4 形式で保存できるプレーヤーを買うという手もあるが、100枚の LP を 1枚ずつ再生してデジタルに変換するための膨大な手間を思い浮かべるだけで、ずっと二の足を踏んでいた。

しかし、Apple の音楽配信サービスを利用すれば、私の LP コレクションの多くは多分 3,000万曲以上というライブラリにも含まれているだろうから、「死蔵」 していたコレクションが別の形で復活して、好きな時に聞くことができるようになる。

先月 20日の 「オッサンは、平成の歌が歌えない」 という記事で書いたように、多くの人は 30歳を過ぎると最新の音楽に付いていくよりも、昔の曲の方がいいと思うようになる。これまで私はそうした曲を 「持っているのに聴けない」というフラストレーションを抱えていたが、これからは 「持たなくても好きな時に聴ける」 ようになる。

それだけでも、1,200円は払う価値があると思う。

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2015/06/10

絶対に浮気したくなくなる理論?

ネット界隈では、「愛妻家芸人、土田晃之の絶対に浮気したくなくなる理論」 というのが知られているというので、どんなものかググってみた。するとさすがに 「知られた理論」 らしく、いくつものページがヒットしたのだが、トップにランクされていたページから引用すると、次のようなものであるらしい。(参照

先日放送された 『ブラマヨとゆかいな仲間たち』 で、小杉に 「浮気をしないのか」 と問われた土田は 「単純に浮気がバレて離婚になってもいいの?」 と切り出したあとに理詰めの理由を展開する。

「もしそうなれば、大好きな4人の子供や嫁と一緒に暮らせなくなる。家も持っていかれるだろう。そして子供たちが成人するための養育費や慰謝料を全部合わせたら総額で2億円くらいになるのではないか。そんな2億の価値のある SEX って何?」

これがやたらと肯定的な反響を呼んだらしく、このページには次のように書かれている。

納得する人、共感する人、土田晃之さんの魅力に目覚める人…など、反応はさまざまですが、彼の“浮気しない理由”に感銘を受けた人は多数いるようで、放送から数年経った今でも SNS 上で定期的にシェアされています。

というわけで、この 「定期的なシェア」 のおかげで私は今頃になって初めてこの 「浮気しない理論」 を知ったのだが、正直言って 「何だかなあ」 と思ってしまったのである。これって煎じ詰めれば、いわば 「夫婦生活の損益分岐点」 を論じているだけの話じゃなかろうか。ここにはちょっとした論理のすり替えが ある。

1つめのすり替えは、浮気が必然的に離婚につながって、養育費や慰謝料で 2億円払わなければならなくなるというストーリーの構築である。しかし実際のところ世間一般の浮気には、そうした最悪の結果にはつながらずに済むケースの方が、ずっと多いではないか。

ということは、これは 「絶対に浮気したくなくなる理論」 たり得ない。「浮気すると、2億円払わなければならなくなるかもしれないというリスクがあるぞ」 という警告にすぎない。

2つめのすり替えは、「そんな2億の価値のある SEX って何?」 と問うているように、彼は 「浮気」 を単なる火遊び的な性行為だけに限定していることだ。ということは、この限定を離れて、「この女と一緒になるためなら、俺は喜んで 2億円払うぞ!」 と思わせるような女性にもしかして出会ってしまったら、彼は浮気しちゃうかもしれないということだ。

このような 「最悪の結果」 のみを想定した 「経済的視点」 からの理論は、実際は条件次第で結論が何とでも変わってしまうのである。もっとも 「2億円払うぐらい、どうってことないわ!」 ということになったら、「これは 『浮気』 じゃなく、『本気』 です」 と言ってしまえばいいだけかもしれないが。

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2015/06/09

Apple Watch は買う意味があるかも

例えば会議をしている時に、ジーンズの左側尻ポケットに入れてある iPhone がブルブルッと振動する (私ってば、最近は重要な会議でもジーンズで臨んだりするのだよね)。左手で尻ポケットから iPhone をちょっと取り出し、後ろ手のまま腰の左側辺りまで持ってきて、斜めにうつむいて、画面をちらっとのぞき、バイブレーションで通知された内容を確認する。

それは Facebook の書き込みにコメントが付いたという通知で、待ちかねているメールではないことがわかる。そのメールが届いたら、私は会議を中座してでもすぐに返事をしなければならないのだが、Facebook のコメントなら後でゆっくり読めばいい。私はさりげなく iPhone を尻ポケットに戻す。

とまあ、こんなことが時々あるのだよね。こんなような一連の動作を 「スマート」 と思う人もいるだろうが、私個人としてはあまり気に入ってない。会議の途中で自分の隣に座ったやつがそんなことをしたら、「気障なヤツ」 と思ってしまうだろう。私としてはなるべく 「気障なヤツ」 じゃないように、さりげなくやっているつもりなのだが、なんとなく複雑な思いになる。

iPhone よ、さらば/Apple Watch とジョブズのいない革命」 という記事を読んで、私はこの 「複雑な思い」 によるちょっとしたストレスが、Apple Watch で解消されるかもしれないと思った。Apple Watch のプロジェクトは、「スマートフォンがみんなの人生をダメにしている」 という直観からスタートしたらしい。

そして 「ユーザーがテクノロジーに没頭しないように」 というディレクションで細部にわたる UI を検証し、「大切な時間を取り戻すテクノロジー」 として完成されたというのである。それって、なかなかいいじゃないか。

例えば冒頭のシチュエーションで、私が Apple Watch を身につけていたとしたら、ジーンズの尻ポケットから iPhone を後ろ手に取り出して、斜め後ろ下をのぞき見るなんていう気障な動作をしなくて済む。腕時計をさりげなくごくフツーに見ればいいのだ。

届いた情報が重要なものか、後でゆっくり見ればいいものか、腕時計をちらっと見るだけでわかる。それに出張先で初めて行くオフィスに、iPhone のナビゲーションを見ながら行く必要もなくなる。腕時計がナビをしてくれるのだから、「あいつ、いい年して 『歩きスマホ』 なんかしやがって」 などと誤解され、白い目で見られることもない。

それに外出先でしょっちゅう iPhone を取り出してみる必要もなくなるから、バッテリーの消耗も軽減されるだろう。iPhone と Apple Watch で、バッテリー消費をシェアし合えるのだ。いろいろな面でストレスが減るだろうなあ。それだけで、Apple Watch を買う意味があるかもしれない。

自分の人生は、多分あと 20年ぐらいは残されているだろうと思う。その中で現役として世の中に関わって行けるのは、10数年ぐらいのものだろう。その 10数年を、「いつものストレス」 を感じながら過ごすのと、さりげなく過ごすのではかなりの差が生じる。私はきっと Apple Watch を買うだろうと思うのだ。

ただ、それは初代 Apple Watch ではない。もう少し技術がこなれた バージョン 2 か 3 になるはずだ。それは新しい製品を購入する時の、私のいつもの態度である。それでも、残された時間を最後まで妙なストレスと共に生きるよりはずっとマシだ。

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2015/06/08

クールビズとノーネクタイ

もう 10年以上前からやっていることになるらしいが、「クールビズ」 という取り組みが、ようやくそれほど大きな掛け声で推進しなくても、近頃少しは定着しているんじゃないかと感じる。テレビに登場するキャスターなどのノーネクタイ姿が、まったく当たり前になったし、時々顔を出すオフィスをみても、ネクタイをしていない人の方が多い。

もっとも昨今のクールビズは、「涼しい格好で省エネする」 という本来の目的よりも、「堅苦しいネクタイから解放されるための口実」 みたいなところがある。その証拠に、ネクタイを外してもエアコンの設定温度を高めにするというオフィスは、とても少ない。相変わらずキンキンに冷やして、女子社員がカーディガンと膝掛けで防寒対策している。

私なんかは比較的自由な雰囲気の職場ばかり渡り歩いたという幸運さもあるが、「クールビズ」 なんてことの言われ始める 20年も前から、夏だけでなく 1年中ネクタイなんて締めなかった。時々はどうしても必要になることもあるので、バッグの中にシワになりにくい安物のポリエステル素材のネクタイを忍ばせてはいたが、それも滅多に使わなかった。

とはいえどうしてもネクタイをしないと気が済まない人も中にはいるようで、そういう人は頑固にスーツにネクタイ姿を死守している。いわゆる営業職の男性社員も自発的ではないようだが、同様の格好だ。

以前いわゆるサラリーマンをしていた頃、いつも訪問してくる営業が、夏の暑い盛りになると、スーツにネクタイ姿で、真っ赤に上気した顔で頭から湯気を立てる勢いでやってきた。それを見ると、私は 「頼むから、もう少し涼しげな格好で来てくれないか」 と声をかけていたものである。

彼らは 「いえいえ、そんな格好では失礼ですから」 なんて言うのだが、「ノーネクタイが失礼」 だなどいうのは、向こうの勝手な思い込みに過ぎない。私は 「失礼もへったくれもなく、あんたの汗だらけの顔を見るだけで、こっちまで暑苦しくなってしまうから、ウチに来る時はノーネクタイの方がありがたい」 と言っていた。

夏でもスーツにネクタイ姿がなくならないのは、「ネクタイさえしていれば許される」 と思っているタイプの人が、ほとんど免罪符のような意識で締めている結果なのだ。何を許してもらいたがっているのかは知らないが。

私の個人的な思い込みでは、仕事帰りの飲み会で酔っ払って、よりグダグダにだらしなくなってしまうのは、いつもネクタイしているタイプの人に多い。もしかしたら彼らは、あんなにグダグダになっても、ネクタイさえしていれば許されると思っているのかもしれない。

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2015/06/07

恐縮ではあるが、JR-East Free Wifi がうざい

取手駅から常磐線に乗って都心に向かい、電車内でメールやインターネットのチェックをしていて、上野駅に着くと、iPhone のインターネット接続が突如として切れる。初めのうちは何事かと思っていたが、もう慣れてしまった。それまで 4G 回旋で接続していたのが、上野駅の JR-East Free Wifi に自動で接続してしまうのである。

この JR-East Free Wifi というのは、JR 東日本が無料で提供している Wifi 接続で、私の iPhone は前にこの Wifi でインターネット接続したことがあるので、エリア内に入ると自動で接続しようとする。ところがいかんせん、素直に接続させてくれるのではなく、ログイン手続きが必要なのだ。それで、もう一度 ID (メール・アドレス) を入力して 「同意」 ボタンをぽっちりしなければならない。

ところが Safari で接続している時は、再ログイン・ページが表示されるからいいのだが、Twitter や Facebook の専用アプリを使っている時には、このログイン・ページが出てこないまま、急に接続ができなくなるのである。裏で Wifi へのログイン直前のまま止まっているので、急に接続が切れたように見えてしまうのだ。

このサービス、元々は外国人旅行者から 「日本は Free Wifi スポットが少ない」 との不満が寄せられたため、外国人向けに設定されたサービスというので、デフォルトのログイン・ページは英語表記である。日本語ページにも切り替えられるのだが、いずれにしても日本人のために作られたサービスじゃない。

まず、1回の接続は連続 180分までとなっており、それを過ぎると切断される。まあ、3時間も駅にいるわけじゃないし、1日何回でも接続できるというから、それはいいのだが、問題は再接続する度に再ログインしなければならないのである。

だから、4G 回線で快適に接続している最中に、前に接続したからというわけで、iPhone が自動で JR-East Free Wifi の電波を拾って、ログインしようして、自動ではログインできずに、接続がストップしてしまう。これがうざいのである。

時々街中で、どうでもいい Wifi 電波を拾ってしまい、無駄にログインを求められて、その度に 「キャンセル」 をタップしなければならないことがある。その度にウザくてしょうがなくなるが、JR の都心駅ではそれがしょっちゅうなので、ぶち切れそうなほど面倒なのだ。

JR East には、どうせ Free Wifi なら、面倒なログイン手続きなしに、さくっと自動的に接続できるようにしてもらいたいのだが、それをやると接続が多すぎてパンクしてしまうのだろうね。それでわざわざ、ハードルを設けているのだろう。

iPhone の設定 - Wifi の画面で、「接続を確認」 という項目を 「オフ」 にしておけば、無駄にログインを求められることがないので、少しは面倒さがなくなるが、JR-East Free Wifi の場合は、ログイン画面までは時々勝手に入ってしまうので、こればかりは本当に嫌になってしまう。

いっそこの接続設定項目を削除してしまいたいのだが、やろうと思っているうちに接続エリアから抜けてしまうので、いつも削除しそびれてしまうのだよね。

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2015/06/06

PC の時代の終焉

昨年 1月に MacBook Pro を買い、晴れて Mac ユーザーになってから、もうすぐ 1年半になろうとしている。実感からすると、まだ 1年半も経っていないことが信じられない。もう何年も Mac を使い続けているような気がするほど、すっかり馴染んでしまっている。

今日、久しぶりに大手家電量販店の売り場を覗いてみたが、もう 「これ、欲しいな」 と思うものがまったくない。手持ちの MacBook、ルーター兼バックアップ装置の Time Cupsul、A3 サイズ対応の多機能インクジェット・プリンター (FAX 付き)、A4 サイズ対応のレーザー・プリンターがあれば、もうほとんどの用は足せる。

思えば PC 本体は、Mac にするまでは、ほぼ 3年ごとに買い換えていた。3年も経つと、新開発された機能に PC が追いつかなくなるか、ハード的に具合が悪くなるかのどちらかで、買い換えなければ済まなくなっていた。しかし MacBook は、まだ 1年半足らずしか使っていないので何とも言えないが、もう 1年半で機能が古くなるか、ハードが壊れるかというような気がしない。

例えば、Window 3.1、95、98 の頃までは、PC の内蔵ハードディスクの容量が、すぐに足りなくなった。私が最初に購入した Windows 3.1 マシンは、ハードディスク容量が 「余裕の 420MB」 という謳い文句だったが、余裕どころかすぐに容量不足に悩みまくった。

2台目の Windows 95 マシンは、1GB。「これなら使い放題かもしれん!」 と思っているうちに、あっという間に足りなくなり、Windows 98 マシンに買い換えても、空き容量を確保するために、不要のファイルを削除するのが日課みたいになっていた。

ハードディスクの容量を気にしなくても済むようになったのは、Windows XP マシンを買った頃からである。この頃には 200GB 以上のハードディスクが当たり前になり、なんでもかんでも保存しまくっても空き容量が十分確保できるようになっていた。

以前は PC だけでなく、それに伴って周辺機器やアクセサリーもしょっちゅう買い換え、買い足しをしていた。ところが最近では、「そろそろ買い換えないと、どうしようもないな」 というようなことがなくなった。市場が成熟して、これ以上の革新が必要なくなってきたのである。

PC や周辺機器は、壊れてどうしようもなくなるまでは、買い換えずに済むようになった。そしてそもそも、マシンがそれほど簡単に壊れなくなった。これでは、PC 市場の成長が止まるのも当然である。それに伴って、Microsoft の成長が止まるのも自然の成り行きなのだ。Windows 8 で無理に買い換え需要を作ろうとしたが、完全に失敗だった。

PC の市場は急成長期から安定期に入ったという人もいるが、それは楽観的すぎる見方で、本当は既に衰退期に入っているのだと思う。これまでが身の丈以上だったのだ。「PC ぐらい使えなければ」 と、背伸びして買った PC を使いこなせず、さも自分の能力が低いような気がして落ち込んでいた人たちが、けろりとタブレットに乗り換える時代が来ている。

それはまだ大きな潮流にはなっていない。そもそも、PC を十分に使いこなせない人は動きの遅い消費者だから、今頃になって 「パソコン教室」 なんかに通い、それでも使いこなせなくてウジウジしている人がいくらでもいる。しかし、そのうちに彼らもようやく 「PC なんて使えなくても、全然困らないじゃん!」 と気付く日がくる。

その時こそが、正真正銘の 「PC の時代の終焉」 である。PC は業務上で本当に必要な人にしか必要のないものになる。そうなったら、「無理に需要を作り出しても甲斐がない」 ことになり、地道なフォローアップだけで済む市場になる。

実はその方が、ユーザーにとってもありがたい。Windows XP のサポート終了で、多くの企業のシステムがおかしくなってしまったのは、記憶に新しいところである。普通のユーザーにとって、Windows 8 なんていう慣れないものを押しつけられるより、XP をサポートし続けてくれる方が、ずっとありがたかったのだ。

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2015/06/05

ブレーキとアクセルの踏み間違い事故を避けるために

ブレーキとアクセルを踏み間違えたことによる交通事故が、時々ニュースになる。先日のニュースなどは、火葬場に向かう遺体を見送る列に、ブレーキと間違えてアクセルを踏んでしまった僧侶の車が突っ込んでしまったというもの (参照) で、新たな死人が出ないで済んだだけ不幸中の幸いだった。

だいぶ前の話だが、実家が新築したばかりの時に、80歳を過ぎた伯父 (父の兄) が、やはりブレーキと間違えてアクセルを踏んでしまい、物置の外壁をぶち破ってしまったことがあった。伯父は昔から車の運転には自信を持っていただけに、その現実に直面してえらく落胆していたのを思い出す。

ペダルの踏み間違いで事故につながるのは、やはりブレーキと間違えてアクセルを踏んでしまった時である。アクセルと間違えてブレーキを踏んでも、それほど大変なことにはならない。元々アクセルはそんなに急に踏んづけるものではないから、間違えてブレーキを踏んでも、やんわり減速してしまうだけで済む。

それに比べると、急ブレーキを踏んだつもりでアクセルを踏んでしまうのは、悲劇になりやすい。停まると思っているのに加速してしまうのだから、焦ってさらに強く踏んでしまったりする。そうなると、まさに突っ込んではならないところに突っ込んでしまい、事故につながってしまう。

私もそろそろ年だから、そんな間違いをしないように気をつけなければならない。ただ、ヒューマン・エラーというのは避けられないものだから、不幸にして万が一ペダルを踏み間違えた時でも、決して強く踏んでしまわないような状態を維持するのが望ましい。つまり、「急ブレーキ」 が必要になるような運転をしなければいいのだ。

要するに、普段から安全運転を心がけるということである。あんまり当たり前すぎる結論で拍子抜けするほどだが、大切なことというのは、たいてい当たり前のことなのである。

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2015/06/04

フード・ロスを避けるために

Huffington Post が 「売れ残り食品の廃棄を禁止する法律、フランスが全会一致で可決」 という素晴らしいニュースを伝えている。

フランスのスーパーマーケットでは、販売できなくなった食品の多くを化学薬品で処分してきた (これは英国でも同様らしい) が、今後は売れ残った食品は慈善団体に寄付するか、家畜の飼料や肥料に転用しなければならなくなった。そのため、スーパーマーケットは慈善団体と契約を結ぶことが義務付けられるという。

フランスのレクスプレス誌によると、フランス国民 1人あたりの食品廃棄量は20~30キログラム/年に達する。トータルの金額換算では 120億~200億ユーロ(約1兆6000億~2兆6700億円) という膨大な無駄遣いになる。フランス政府は食品の廃棄量を 2025年までに半減させる目標を立てており、今回の法律はその一環だ。

翻って我が日本をみると、食料の60%を輸入しながら、その裏で、年間 2000万トン以上の食品が廃棄されている。これは食品全体の 3分の 1 に達すると言われる無駄遣いであり、さらに自然環境破壊につながる行為でもある。

このうちいわゆる「フード・ロス」 (本来食べられるにも関わらず廃棄される食品) は 500~800万トンと試算されている (平成21年度農林水産省推計)。少なく見積もられた 500万トンという数字を採用しても、日本の人口 1億 2000万人で割ると、1人当たり 約 42キログラム/年となり、フランスの 1.4〜2倍に相当する。実際に日本のフードロスは、世界で断トツの 1位なのだ。

フランスの農産食品業担当大臣ギヨーム・ガロ氏は 「まだ食べられる食品が廃棄処分され漂白剤がかけられていることは、恥ずべき事態だ」 とコメントしたと伝えられているが、それなら日本の状況は 「恥ずべき以上」 である。なにしろ、世界の食料援助量(平成 23年で年間約 390万トン)を軽く上回る量の食品が、まだ食べられる状態で廃棄されているのだから、それはもう 「罪」 と言っていい。

日本のフードロスを大きくしているのは、「3分の1ルール」 という食品流通業界の商慣習と言われている。食品の製造日から賞味期限までを3分割し、「納入期限は、製造日から3分の1の時点まで」「販売期限は、賞味期限の3分の2の時点まで」 を限度とするものだ。

例えば賞味期限が 6カ月である場合、残り 2カ月を切った食品の多くは、十分食べられるのに店頭から消えて廃棄されてしまう。このルールは緩和される方向で検討されているが、まだまだ生きているようなのだ。

こんな馬鹿馬鹿しい商習慣が維持されているのは、消費者の責任でもある。主婦の多くは例えばスーパーで牛乳を買う場合、手前に並べられた賞味期限間近のものを避け、奥の方に手を突っ込んで新しい商品を買おうとする。そのため、手前に並べられた商品は賞味期限の前に 「売れ残り」 として処分されがちだ。

コンビニを経営する知人は、「陳列された手前の方から買ってもらえるだけで、どんなにありがたいか」 としみじみ言う。どんなに奥の方の商品を買っても、実際には賞味期限を十分残して消費してしまうか、反対に冷蔵庫の奥に忘れ去ってしまうかのどちらかなのだから、全くナンセンスなのだ。

「素直に手前の商品から買う」 習慣にするだけで、フードロス軽減に大きな効果を発揮する。日本人はまず、スーパーで奥の方に手を突っ込んで買うのは 「恥ずべき浅ましい姿」 として共通認識する必要がある。

それから、日本でフランスのように 「売れ残り食品を慈善団体に寄付する」 ことを義務づけたりすると、「いくら何でも売れ残りを食べさせるのは失礼だし、食べさせられる人が気の毒」 などと、見当外れを言う了見違いがきっと出てくる。まだ食べられるものを食べさせずに捨てる方が、よっぽど気の毒なのだが。

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2015/06/03

18歳で選挙ができるようになると

選挙権年齢を 「18歳以上」 に引き下げる公職選挙法改正案が昨日、衆院政治倫理確立・公職選挙法改正特別委員会で、なんと全会一致で可決した。今月中に法案が成立する見通しで、来年夏から、高校生でも選挙ができる時代になる。

もっとも 18歳以上になると選挙権が与えられるのは、世界的にはずっと前から当たり前の話で、20歳以上なんていうのはかなりレアなケースである。それだけに日本でも、野党を中心に年齢引き下げの要求があったが、従来は自民党が頑として拒んでいた。

それは 「若年層になるほど革新票が増えて、野党に有利」 という 「都市伝説」 があったからだと思う。事実、1970年代までは、若者は左がかっているのが当たり前で、自民党は田舎のじいさんばあさんに支えられていた感がある。しかし、時代が変われば変わるもので、今の若者は右傾化が顕著と言われている。「都市伝説」 が崩壊したのである。

昨年末の総選挙直後、BLOGOS に 「18歳選挙権を導入していたらもっと自民党が勝っていたという衝撃データ」 という記事が掲載された。筆者は松戸市政策推進研究室長、中央学院大学客員研究員の高橋亮平氏。2002年から NPO 法人 Rights が実施している 「未成年“模擬”選挙」 の、同年末の実施結果によると、「実際の選挙以上に自民党の支持が多かった」 というのである。

実際の選挙では自民党が 「圧勝」 したとはいえ、得票率は全体の 33.1% にとどまった。しかし未成年者による「模擬選挙」での得票率は、36.7% だった。つまり今の未成年者は、少なくとも昨年末の段階では、成人以上に自民党支持の傾向が強かった。

つまり今の世の中では、選挙年齢を引き下げる方が、自民党にとっては 「おいしい結果」 をもたらす可能性が高いのである。そんなことでもなければ、今頃になって取って付けたように選挙年齢の引き下げを自民党が言い出すはずがない。そしてこれに関しては野党の方が (「幻想」 に沿って) 昔から熱心だったから、賛成するほかなかったのだろう。

問題は、ただでさえ低い投票率がさらに下がってしまうだろうということだ。若年層ほど投票率が低いのは昔からのことだが、さらに若い層に投票権を与えてしまったら、母数が拡大するのに投票する者の数はそれほど増えないので、投票率は惨憺たる数字になってしまうだろう。

マスコミは判で押したように 「教育による政治意識の育成が大切」 と言っているが、日本の教育がこの方面においてまったく無力というのは、これまでの経験で分かっていることである。

「卒業式では国旗を掲揚し、『君が代』 を歌え」 という体制側と、「やだもんね!」 という日教組が、今の時代になっても前世紀そのままの不毛なイデオロギー対立の様相を示しているだけだから、実のある政治教育なんてほとんど期待できない。

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2015/06/02

越中富山の薬売り

昨日まで富山に出張したついでに、富山市の 「民俗民芸村」 を訪ねた。富山市の中心からみて西にある呉羽山の斜面に造られた施設で、富山の民俗・民芸がいくつかの伝統的建築の博物館で展示されている。こういうの、大好きなので、私は 4時間かけてじっくり見物した。

「民俗資料館」 という建物は旧山田村にあった民家を移築したもので、昭和の半ばまで実際に使われていた生活用具、農機具などがぎっしりと展示されている。眺めていると、「あ、これ、懐かしいなあ」 なんて思えるものもかなりあって、自分も結構年をとったのだと実感してしまった。

何しろ東北の陸の孤島みたいなところに生まれて、半世紀プラス一回り生きてしまったのだから、ずいぶん昔の生活を体験している。先月 5日の記事でも書いたように、私は都会生まれの団塊の世代なんかより、ずっと古い時代の日本を知っている。

Img_2715

この民俗民芸村の中では、さすがに富山だけあって 「売薬資料館」 という施設の展示がおもしろかった。子供の頃は年に何度か 「富山の薬売り」 のおじさんが訪問してきて、置き薬の補充と、使った分の精算なんかをしていた。死んだ祖母はこのシステムと薬売りの人を一緒くたにして 「イッチョトヤマ」 と言っていた。「越中富山」 の庄内訛りである。

薬売りのオジサンは、訪問する家庭の子供のために、いろいろなサービス・グッズを持ってきてくれた。その中でも紙風船は定番中の定番で、これをもらうと 2〜3日は遊んでいられた。

Img_2714「売薬資料館」 では来場記念にこの紙風船をくれたので、嬉しくなってしまった。知らない人のために、写真を載せておこう。ぺたんこに畳まれた風船の真ん中の穴から空気を吹き込むと、立方体の風船になる。畳めばぺたんこになって運ぶのにスペースをとらないというところが、行李で薬を売り歩くには便利だったんだろう。

この富山の薬売りの紙風船を知っているのは、結構な年配である。今は富山の薬売りの数も激減してしまって、置き薬を置いている家庭は少ないが、私の父は死ぬまで富山の風邪薬なんかを重宝して飲んでいたようだ。何しろ医者嫌いだから、置き薬は便利なのである。

今は街のドラッグストアが全盛だが、今後高齢化が進んだら、向こうから常備薬を持ってきてくれて、使った分だけ後払いすればいいというシステムは、見直されてもいいと思うがなあ。

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2015/06/01

私がじいさんになる頃には

仕事の関連で、時々老人福祉施設を訪問することがある。老人がずっと住んでいる施設もあるが、デイケア的に、一日滞在して楽しんでいるところを訪問することもある。先日訪問した施設はデイケア的なところで、老人たちがカラオケに興じていた。

カラオケで歌われるのは、もうほとんど演歌、それもド演歌ばかりである。結構上手なパフォーマンスもあるが、大抵は下手くそだ。それでもみんな楽しそうに手拍子を打ったりして、和気藹々である。

こうした光景を見るとなかなかいいものではあるが、翻って自分自身が年寄りになって、こうした施設で一日過ごすなんてことを考えると、申し訳ないが、「ちょっと違うな」 と思ってしまう。心の底から楽しめるような気は、全然しないのだよね。

私がそうしたデイケア施設にお世話になり始める頃は、多分もうちょっと年上の 「団塊の世代」 が依然として幅を利かせているだろう。彼らはどうも演歌大好き世代のようなのである。だから、新参者の私は、先輩の年寄りたちに合わせて、いかにも楽しんでいる風を装いながら、手拍子を打ったりしてしまうのだろう。そして、帰宅した時には気疲れでぐったりしているような気がする。

で、時代はさらに進んで団塊の世代が消え去り、我々の世代が長老中の長老となった頃には、さらに若い世代が乗り込んでくるだろう。彼らは演歌なんか歌わない。その代わり、いわゆる "J-Pops" の世界になる。しかしそれも、昭和 27年生まれで、しかもかなり最先端を気取っていた私のような男には、ちゃんちゃらおかしくて、全然ノレない。

どうやら私のような人間の音楽センスというのは、日本の音楽史の中でもかなり特殊なところに位置するようなのである。演歌でもないし、"J-Pops" でもない。ギンギンのビートで歌う日本語の歌を 「邦楽」 だなんていわれると、「そんな馬鹿な!」 と思ってしまう。邦楽というなら、『かっぽれ』 とか 『梅は咲いたか』 とか、清元なんかをやれと言いたくなる。そっちの方が、まだノレる。

私の音楽センスは、日本人の中ではかなりニッチなのである。ユーミンなんか気恥ずかしいが、「はっぴぃえんど」 ならしっかりノレる。しかし、このノリは老人福祉施設なんかでは完全に浮いてしまうだろう。かといって、今どきの演歌好きの年寄りでも、『かっぽれ』 なんか知らないし。

それに私は、誰かが歌い出したらハモらなければ気が済まない。しかし、日本人の中で自然にハモれてしまうというのは、極々限られた世代であるらしい。アメリカン・フォークソングを英語で歌うのが当たり前だった時期に青春時代を過ごした者でないと、自然なハモり感覚はないみたいなのである。フツーの日本人は基本的にユニゾンしかできなくて、ハモられたりするとメイン・メロディすら覚束なくなり、「余計なことをするな!」 と怒り出す。

というわけで、私が年寄りになった頃には、デイケア・ハウスなんてものよりも、もっと別のマニアックな年寄りの集まる施設が必要になるような気がするのである。年寄りたちがシカゴ・ブルースやアメリカン・フォークソングで盛り上がるような施設を造るって、難しいかなあ。

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