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2015年10月に作成された投稿

2015/10/31

iPad の市場性について

業績が好調な Apple だが、iPhone がイケイケドンドンなのに比して、iPad が今イチ売れないらしい (参照)。既存モデルだけでなく、11月に発売開始される iPad Pro も低調なスタートになると予測されている (参照)。

私としても。最近は iPad を使う機会が減っている。ちょっと前までは、クルマを使わない出張では PC の代わりに iPad を持っていったものだが、最近は MacBook Pro を持ち歩くようになった。ただ、少々重いので、そのうち MacBook Air を買おうかなと思っている。

iPad を使う機会が減ったのは、どうしても込み入った仕事ができないからである。メールや SNS、ホテルの予約ぐらいなら、PC より手軽にできる強みがあるが、その程度のことなら、つい iPhone の方を使ってしまう。そして iPhone ではこなしきれない仕事は iPad ではなく、どうしても MacBook に頼ってしまうのである。

言い換えると、iPad でできることのほとんどは iPhone でもできてしまい、iPhone でできないことは 大抵 iPad でもできないので、MacBook でやるしかない。「iPhone の小さな画面ではやりにくいことが、iPad の画面でなら楽にこなせる」 という程度のメリットでは、わざわざ iPad を持ち歩く理由になりにくい。

これが、iPad が売れない理由のうちの、iPad そのものによるものだ。しかしその他にも理由はある。それは、本来典型的な iPad ユーザーであるべき層のコンシューマーが、「iPad をバッチリ使いこなしてやろう」 意欲に欠けるのだ。既に iPad を持っている層は、2〜3年前のモデルで十分満足しているし、まだ持っていない層は、「是非欲しい!」 と思っていないのである。

だから、iPad は買い換え需要があまり活発じゃないし、新規需要もそれほど旺盛じゃない。持つべき人は既に持っているし、新型に買い換えようというほどの積極的な使い方をしているわけでもないのである。iPad はもともと 「中途半端な商品」 であり、そこにこそ存在価値があるのだが、中途半端であるだけに、ヘビーな需要に結びつきにくいのだ。

今度売り出される iPad Pro は、中途半端から脱出してより業務的な仕事ができるような仕様になるらしいが、それでも、結局は iOS で動くのだから、大きな期待はできないだろう。それだったら、私なら MacBook Air を買おうと思う。値段だってそんなに変わらないし。

つまり、出張に持ち歩くのは iPhone と MacBook Air の二本立てということになると思う。そうなると、自宅で使うのは iMac になってしまうかもしれない。Windows マシンを使っていた頃は、デスクトップとモバイルの 2つのマシンの同期を取るのが面倒だったが、Mac なら Cloud でその問題が解決されているし。

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2015/10/30

よき師につくことについて

今朝の NHK ラジオを聞いていたら、「以前に (番組パーソナリティの) 高橋源一郎さんが 『楽しみは〜○○の時』 と続く句を紹介していたのを聞き、それをきっかけに自分も始めて、作品が千句以上になりました」 という投稿があった。

こう聞いたら、フツーは俳句の話かと思うじゃないか。例えば 「楽しみは新蕎麦の時喉鳴れり」 みたいなのを想像したのである。ところが、よく聞いてみると短歌の話なのだった。「短歌だったら 『句』 じゃなくて 『歌』 と言ってよね」 とか、「数の話でも 『千句』 じゃなくて 『千首』 と言ってくれよ」 とか、つい思ってしまうよね。

要するに、橘曙覧 (たちばなのあけみ) という幕末の歌人の 「独楽吟」 の話だったのである。天皇皇后両陛下が 1994年にがアメリカを訪問した折、ビル・クリントン大統領が歓迎スピーチで 「たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時」 という歌を引用したとかで、世間の注目を浴びたことがあった。

番組ではその投稿者の 「句」 (本当は 「歌」 なんだけどね) を紹介していたが、はっきり言って 「お下手」 である。基本的に文法の誤りが多すぎる。連体形で続けるべきところを終止形にしちゃう (例えば 「流るる○○」 とすべきところを 「流る○○」 にしちゃう) ものだから、歌がずたずたに切れまくったりしている。

普通は、短歌も 500首以上詠めばかなり上達すると言われているが、1000首以上詠んでこの程度では、「ど」 のつく素人芸でしかない。やはりよき師について習うことは必要なのだと思った次第である。それは短歌ばかりでなく、芸術一般、スポーツ、宗教的修行でも同じだ。

翻ってわが 「和歌ログ」 だが、はっきり言って師匠はいない。昔、かなり道を極めた先輩について指導していただいた時期があったが、今は離れてしまい、いろいろな本を参考にしながらの独学になってしまっている。そのせいでなかなか進歩しないのだろうが、昔の指導がなかったら、もっとヘボだったろうと思う。

ちなみに、私が短歌なんかやってると聞くと、「じゃあ、ここで一句お願いします」 なんていう人がいるが、そんな時私は、「誰が詠むか!」 と思ってしまう。短歌を 「一句」 なんていうのは、どうせ軽はずみな 「ノリ」 で言ってるだけの人なので、まともに請け合ってもしょうがない。(参照

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2015/10/29

赤城山登山レポート

昨夜は前橋市内のビジネスホテルに前泊し、今朝早く出発して、赤城山に登った。もっとも赤城山というのはいくつかの峰の総称であり、「赤城山」 という名の峰はない。今回初めてじっくりとわかったのだが、どっしりとした山塊のほぼ中央部、標高約 1400m のところにカルデラ湖の 「大沼 (地元では 「おの」 と呼ぶらしい)」 があり、それを囲む外輪山として、いくつかの峰がある。

今回登ったのは、その中の最高峰である 「黒檜山 (くろびやま)」 (1828m) と、「駒ヶ岳」(1585m)。大沼のほとりの駐車場から黒檜山まで急斜面を直登し、そこから尾根伝いに駒ヶ岳まで辿った。ガイドブックには 「中級者向けコース」 とあるが、経験者とともにゆっくり登れば、初心者でも大丈夫だろう。

今回は年配者のグループの山行の同行取材。本当にゆっくりと登ったので、3時間と設定されている標準コースタイムの 2倍近くの時間をかけた。おかげで、少しも疲れず、もう一度登り直してもいいぐらいの余裕だった。まあ、私としても還暦過ぎだから 「年配者」 の部類なのかもしれないが、体力的にはずいぶん自信をもっていいようだ。

黒檜山の斜面をぐんぐん登るにつれて、畔の駐車場にクルマを停めた大沼の姿がどんどん小さくなる。それにつれて曇っていた空もだんだん晴れ渡り、沼の水面が青く光り出した。10月中旬から晴天が続きすぎて、今日辺りは雨になるんじゃないかと心配していたが、我ながらさすがの晴れ男である。登山日和になった。

下の写真は黒檜山の頂上直下の展望台からの眺め。気持ちのいいパノラマだった。

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また時々山登りを再開してみようかと思ってしまったが、なかなか暇がない。

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2015/10/28

群馬県内で貴重な一泊

25日に 「赤城山に登る」 と書いたところ、ハマッコーさんから写真のリクエストがあった。「赤城山の姿は私の心に染みこんでいます」 とおっしゃる。その気持ち、とてもよくわかる。私も里帰りして鳥海山の姿がよく見えると、涙が出るほど懐かしく嬉しい。

今夜はビジネスホテルに前泊するために、昼過ぎまでの仕事を終え、国道 50号線をゆっくりと辿った。そして夕方に前橋に近付くにつれ、右手に赤城山が見えてきた。複数の峰からなるだけに、とても堂々とした山容である。

ハマッコーさんのリクエストに応えて、写真を載せておこう。夕暮れだけにシルエットに近くなってしまったが、明朝に天気がよければまた別の表情の写真が撮れるだろう。

Img_3882

明日はあの山に登る。楽しみである。ちなみにクルマの前方には特徴あるギザギザの山容の妙義山、そしてその向こうには富士山の姿まで見えた。今日は山の景色の大サービスだ。

ところで、群馬県というところには案外来ていないことに気付いた。鉄道で帰郷するときは上越新幹線経由が多いので、高崎を通って清水トンネルを潜り、新潟に抜ける。だから何度も通ってはいるのだが、通り過ぎるだけということが多い。

考えてみると、群馬県に一泊以上したことって、驚くほど少ない。学生時代に高崎経済大学に進んだ友人の下宿に二泊したほかは、1度しかないような気がする。なまじ近いだけに、用があって来ても、日帰りしてしまうことが多いのだ。

今夜は貴重な群馬県内の一泊である。次は草津温泉辺りで一泊したいなあ。

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2015/10/27

芸能人の結婚発表と FAX

ちょっと前のことだが、芸能人の結婚報道が相次いだ。ニュースというのは、どこかで飛行機が落ちるときっと 2〜3件続けて落ちるし、どこかで人を殺して埋めたのがバレると、必ずどこか他の場所でも死体が掘り出されるし、人混みの中に車が突っ込む事件が起きると、やっぱり別のところでも暴走事故が起きる。

しかしまあ、芸能人の結婚報道はほかのケースと比べても、後から後から、「もういい加減にしろや」 と言いたくなるほど続いたという気がする。これって、何となく結婚しそうな雰囲気にあったカップルが他のケースに刺激されて、「ウチらもここで結婚しとかないと、流行りに乗り遅れる!」 とばかりに、尻馬に乗っちゃうのだろうか。

それとも芸能プロダクション同士の協定か何かで、「今の時期にまとめて結婚の発表をすると話題になりやすいから、乗っときましょうか」 なんてことでもあるのだろうか。新聞の折り込みチラシが、曜日ごとにスーパーの宣伝がまとまって入ってたり、クルマのディーラーのが多かったり、マンションやお墓の宣伝がまとまってたりするようなものかもしれないと、私なんか思ってしまったのだよね。

それからまた、少し気にかかったのが、結婚の発表がほとんど FAX で送りつけられているらしいということである。「何で今どき、メールじゃなくて FAX なんだ?」 と驚いてしまった。そこでふと思い立って、「芸能人 FAX」 というキーワードでググってみたら、Yahoo 知恵袋に 「芸能人のコメントは何故 FAX なの?」 というページが見つかった。

この質問に対する 「ベストアンサー」 とされた答えは、「自筆で書いてある事を証明でき、尚且つ各社一斉に送ることが出来るのは FAX しかありませんからね。テレビで放映する時も見せやすいですからね」 というものだった。うぅん、全然説得力ないなあ。

自筆で書いてあることを FAX で証明できるなんて、おめでたすぎるおとぎ話みたいなものだ。さらに 「各社一斉に送ることが出来るのは FAX しかありません」 というのは、寝言としか思われない。一斉に送ることができるのは電子メールであり、FAX は 1社ずつ順番に送るしかない。仮に 20社のマスコミに送るとしたら、順番に 20回送らなければならないのだ。

FAX は、たとえ A4 一枚だったとしても、相手を 「ピーヒョロヒョロ」 と呼び出して、送信体勢に入り、送り終えるまで、少なくとも 1分近くかかる。ということは、20社に送ったら 20分かかるということだ。

まあ、実際にはそんなことはないだろうが、送るタイミングを間違えて、最初に送った社は原稿締め切りにギリギリ間に合ったが、最後の方に送った社は間に合わなかったなんてことになったら、ヤバいじゃないか。

どうしても電子ファイルのテキストでなく、自筆原稿のままで送りたかったら、それをスキャンして添付ファイルで送るという手があり、FAX を何度も送る手間を考えたら、その方がずっと手っ取り早い。それでもなぜか、こうした類いのことは、FAX というのがお約束みたいなのである。

私が思うに、マスコミのプレス・リリースを受け付けるメルアドって、案外不明確なんじゃないだろうか。個々の記者は当然のごとくメルアドを持っているが、その記者はしょっちゅう担当が変わる。発表の分野や内容ごとに最適な記者のメルアドをリアルタイムでおさえておくのは、案外難しかったりするのだろう。

それだったら、代表番号みたいな位置づけの FAX に送る方が確実だ。それに個々のプロダクションは、昔から FAX の同報送信用のセットがしてあるのだろう。FAX 機に原稿をセットして同報送信用のボタンをピッと押せば、後は順繰りに送ってくれる。

ただ、送る方は一度で済むと思っているが、送られる方が受け取るのは上述の通り、順番なのだ。さらにちょうど悪いタイミングで送られて、別の FAX 受信中だったりすると後回しにされて、最後の最後でようやく受け取れたなんてことになる。

ぞれでも FAX から離れられないというのは、これはもう、慶弔電報みたいな感覚なのではあるまいかとまで思われる。今どき、電報なんていうのは慶弔用にしか需要がないが、もしかしたら FAX もまたそんな類いの通信手段になりつつあるのかもしれない。

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2015/10/26

トルコ大使館前の騒動

トルコ大使館前でトルコ人とクルド人が乱闘騒ぎを起こして、9人が重軽傷を負ったというニュースに、いろいろなことを考えた。

トルコ大使館の前にトルコ人とクルド人が集まったのは、来月 1日のトルコ総選挙に、在外投票に来たためという。ある意味、これはうらやましい。日本で総選挙があっても、外国の大使館前にこんなに日本人が集まって熱くなってしまうなんてことはないだろう。

それと、トルコ人とクルド人はほとんど見た目では区別がつかないのに、当人たち同士だと敵味方がわかるのだろうかという疑問が湧いた。まあ、発端となった者同士だと、なんとなく流れでわかっちゃうんだろう。

ただ、周りで騒いでいる連中は区別が付きにくくて、ある程度以上の騒ぎにならないで済んだということもあるかもしれない。見た目ではっきり区別がついたら、騒ぎがものすごく大きくなった可能性もある。

いずれにしても、クルド人は 3000万人もいて、国家を持たない最大の民族なんだそうだ。これから大きな問題になることが確実だと思う。

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2015/10/25

木枯らし 1号が吹いて

東京地方で昨夜、木枯らし 1号が吹いたのだという。昨年と比べると 3日早いのだそうだ。昨年は秋の訪れが早く、晩秋の季節感が長く続いたが、今年はあっという間に冬っぽくなってしまうのだろうか。

今月 16日の記事でも書いたことだが、エルニーニョのせいでこの冬は暖冬になると予想されている割には、季節の進行が早い。これはもう、冬の初めは結構寒くなって、あとは帳尻あわせのようにだらだらと暖冬傾向になるのかもしれない。今年の夏がそうだった。エルニーニョで冷夏になると言われた割には、8月初めが猛暑になり、そしてすぐに涼しくなった。

今日は日が暮れてからかなり寒くなってきて、夜になって灯油ストーブのスイッチを入れた。いやはや、こんなに早く冬の様相になるとは思っていなかった。

明日は名古屋に出張、そして 3日後は赤城山に登る。かなり暖かい格好をしなければいけないかもしれない。

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2015/10/24

ジュンク堂渋谷店のお粗末

"丸善ジュンク堂渋谷店、「自由と民主主義のための必読書 50」 ブックフェアを中止" という記事、読んでみても今イチどういうことなのかわかりにくい。それも道理で、要するにこの書店内部がまともにマネジメントできていないのだろう。当事者自身がよくわかっていないみたいなので、外部の人間がわからないのも当然だ。

当初の報道では、同書店の展開するブックフェアで、店頭に置かれた書棚に、 「SEALDs」と作家の高橋源一郎氏による 『民主主義ってなんだ?』 や、アメリカ・ニューヨークのウォール街占拠デモを紹介した 『私たちは“99%”だ――ドキュメント ウォール街を占拠せよ』 などがあるという話だった。

そんな中で、Twitter では「ジュンク堂渋谷非公式」というアカウントが、「夏の参院選まではうちも闘うと決めましたので!」 とか 「うちには闘うメンツが揃っています。書店としてできることをやります!一緒に闘ってください」 とかいう tweet を連発するに至り、それに対して 「偏向だ」 との批判も高まっていた。

しかし私としては、「公共団体じゃなくて私企業なんだから、書店がどんな政治的主張をしてもいいじゃん」 と思っていた。その書店の政治的立場に近い人は当然それを支持するだろうし、反対の立場の人はボイコットするだろう。それだけのことだ。

書店がリスクを張って選んだマーケティング手法なんだから、いいじゃないか。それに対して 「偏向している」 などと批判してもしょうがない。気に入らなかったら、他の本屋で買えばいいと、私はごく単純に考えていた。

しかし、どうやらコトはそんなに単純じゃなかったらしい。このブックフェアの本のセレクションは、どうやら従業員の跳ねっ返りによるもので、企業としての丸善ジュンク堂は、反政府的な政治的主張を行おうという気は全くなかったようなのだ。

それで書店側は、非公式アカウントの 発言は従業員による「特定の意見を支持するツイート」で「弊社の公式な意思・見解とは異なる」と表明し、従業員の処分の可能性も示唆した。さらに選書の内容も、「本来のフェアタイトルの趣旨にそぐわない選書内容」としてご破算にしてしまった。

要するに、書店内部のマネジメントとコントロールが全然できていなかったということのようなのである。というわけで、ジュンク堂の他の店舗はどうなんだか知らないが、渋谷店はスケールが大きいだけで、内実はちょっとお粗末な本屋さんだったのねと、知れてしまったというだけのことだと、私は解釈することにした。

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2015/10/23

ビニール傘と 「予見力」

なぜビニール傘を3本以上持っている人は貧しいのか?』 という本があるらしい。 「年収 2000万円以上の金持ちのもつ財布は長財布で、二つ折りは論外」 (参照)というような類いの、新手が現れたようだ。

どういうことかというと、曇り空に眉をひそめながら「まあ、なんとかなるや」と手ぶらで外出し、雨が降ってから慌ててビニール傘を購入するような人は、未来を読む “予見力"  に欠けているので、余計な出費を重ねるようになるのだそうだ、

というわけで、この本は 「70万円の貯金を 1年で 3億円に増やした著者が明かす、予見力の重要性と今からできる実践的トレーニング法」 が示されているという。まあ、これが本当だとしたら、「予見力」 のおかげというよりは、単純に 「運がよかった」 ってことだと思うがなあ。

で、この本の値段は、Kindle 版が 1300円、単行本が 1404円だそうである。なるほど、「予見力」 に欠けた人は、こんな値段を出してもつい買ってしまうのかもしれない。そしてこの本を読んで、「これからは、こんな類いの本の触れ込みをみても、買ったりしないぞ」 という程度の 「予見力」 が養えたら、成功かもしれない。

ちなみに私は、ビニール傘を 1本しか持ってない。そしてそれをいつもクルマの中に常備しているから、でかけた先で雨に降られても、新たに買わずに済む。それでもいつもお金にピーピーしてるのは、「常備するような人は、『予見力』 を養う機会に恵まれないから」 とでも言われちゃうかなあ。

そしてふと考えたのだが、「ダウンパーカを 3着以上持つ人は、金持ちになれない」 とか、「3種類以上のシャンプーを持つ人は、綺麗な髪になれない」 とか、「どうしてブスは 3種類以上のブランドの化粧品を買ってしまうのか?」 とかいう本を出したら、柳の下のドジョウが狙えるかもしれない。

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2015/10/22

"You Light Up My Heart" と "Jesse" が似てる件

本日の記事は、本当に本当に重箱のスミをつつくような話で、ほとんどの人にはどうでもいいことだと思う。しかし私としては 20代の頃からずっと気にかかっていたことで、一度書いておかないと棺桶の中まで持っていきそうな気がしてきたので、ここに初めて書いておくことにする。

それはタイトルにもあるように、"You Light Up My Heart" と "Jesse" が似てるというお話である。

まず、"You Light Up My Heart"。オリジナルは同名の映画のタイトル曲として作られたものらしいが、一般にはデビー・ブーン (Debbie Boone) の歌で知られる。何しろ 1977年にビルボードで 10週連続 1位をとって、「70年代最大のヒット曲」 と言われているほどだから、タイトルに覚えのない人でも、下の YouTube 動画で実際に聞けば 「ああ、知ってる」 となるだろう。

デビー・ブーンは、あの "Love Letters in the Sand" (砂に書いたラブレター) のパット・ブーン (Pat Boone) の娘らしい。日本では当初、 『恋するデビー』 というダッサダサの邦題で売り出され、今でもラジオではこの邦題で紹介されがちで、かなりシラける。

ここでようやく本題に入るのだが。私は若い頃にこの歌を初めて聴いた時、デビー・ブーンという歌手が、ジャニス・イアン (Janis Ian) の "Jesse" という曲をカバーして歌っているのだと思った。聞いているうちに 「あれ、違う曲じゃん」 と気付いたものの、それほど似ていると思ったのである。

"Jesse" も 『我が心のジェシー』 という、どうでもいい邦題でリリースされていて、私としてはやはりちょっとシラけるのだが、とてもいい曲だ。下の YouTube 動画で聞けばわかる。

こちらも結構なヒット曲で、ロバータ・フラック やジョーン・バエズがカバーしている。で、こちら方が 1974年発表と少しだけだが古いから、"You Light Up My Heart" の方は、「パクリ」 とまでは言わないが、かなり  「インスパイアード」 されたのは確実だと私は思っている。

それにしても 「インスパイアード」 とか 「オマージュ」 とかいうのは、本当に便利な言葉だなあ。

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2015/10/21

テキスト派と感覚派の間の深い溝

今月 12日の 「日本語ウェブページの 5件に 1件以上が "Hallo Ween" と誤記」 とかいう実例を目にしたり、"fresh juice" (生ジュース) を "flesh juice" (肉体ジュース?) と誤表記したメニューや、"flyght (空の旅) を "fright (恐怖)" と書いちゃったりしているのを見ると、多くの人が 「どうして辞書を引かないのだろう?」 と疑問に思う。もっともな疑問である。

しかし最近、私は確信するに至った。プロモーション用のウェブページを作成したり、お洒落なメニューを作ったりというアートワーク系の 「感覚派」 の人たちは、まず辞書なんて引かないのだ。言葉を意味のある言葉としてではなく、お洒落な感覚を演出する小道具ぐらいにしかみていないためだと思われる。

せっかくのお洒落な小道具なのに、正確な意味なんか調べてしまうと 「理に落ちて台無しになる」 みたいな気がして興醒めするので、そんなことしたくないのだろう。意味や正しいスペルを調べるよりも、感覚的なテンションを維持することの方が大切なのだ。

それに対して、私を含む 「テキスト派」 は案外マメに辞書を引く。言葉をモロに言葉として使っているから、意味を間違えたら大変なことになる。だから感覚派の人たちの途方もない冒険を目の当たりにすると、ハラハラしてしまうのである。

しかし感覚派の人たちにしてみると、多少の語法やスペルの間違いなんて、大したことじゃないらしい。「何かおかしい?」 ってなぐらいにしか感じられないようなのである。「いいじゃないの。わかれば」 と言いたいみたいなのだが、テキスト派にしてみると、「いや、わからないから」 と言わざるを得ないのだ。

しかしそのテキスト派の言い分にしても、感覚派からみると 「ずいぶん意地悪な見方」 に見えて腹が立ってしまうらしい。

この溝はなかなか埋まらない。

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2015/10/20

クリーンディーゼルのコンセプトは元々無理があったのか?

先月 26日、「フォルクスワーゲンのスキャンダルは飛び火しないのか?」 という記事で、「ゴキブリを 1匹見つけたら 100匹いると思え」 という喩えをあげて、他のメーカーにもきっと飛び火するだろうと書いた。するとやっぱり出てきたようなのである。

英紙ガーディアンがスクープした英民間分析会社の最新データによると、日本メーカー 3社を含む 4社のディーゼル車の排気ガスから、規制値を大幅に超える有毒成分(NOx=窒素酸化物)が検出された。 4社というのは。メルセデス・ベンツ、ホンダ、マツダ、三菱自動車である。(参照

報道によると、ホンダの実際走行における NOx 排出は、規制値の  2.6倍から6倍の、平均 0.484g/km を検出。同様に、マツダの場合は 3.6倍、三菱は 1.5倍から3.4倍、メルセデス・ベンツは 2.2倍から 5倍の数値を計測した。

これに関してホンダは 「ヨーロッパの規制値に合わせてテストしている」 とコメントし、同様にマツダは 「法令遵守の精神に基づき、全てのディーゼル車、ガソリン車が規制に沿うよう、多大な努力をしている」、三菱は 「NEDC (新欧州ドライビングサイクル=現行の標準) は、路上環境を対象としたことはない」、メルセデスは 「路上環境下と実験室の結果は合致しないのが普通だ」 とコメントしている。

これらの 4社は、フォルクスワーゲンのように意図的な規制逃れのプログラムを搭載していたわけではないらしい。確かに燃費データでもメーカーのカタログ数値は、実際走行による実感からはかけ離れている場合が多い。ディーゼル車の排気ガスデータも同様と言われれば、「そんなものかな」 と思わないでもない。

しかし、三菱自動車の最小値の 1.5倍ならまだ話はわかるが、多くなると 6倍もの開きがあるというのは、いくらなんでも 「違いすぎるじゃないか」 と言いたくもなる。意図的な制御プログラムは搭載していないかもしれないが、エンジンそのものをテスト状態で有毒ガス排出を最小限にするように最適化してチューンしたことによる結果なのだろう。

要するに 「テストさえクリアすれば、実走行までは面倒見切れない」 という姿勢は、フォルクスワーゲンと五十歩百歩と言えそうなのである。

ヨーロッパでかなり受け入れられていた 「クリーンディーゼル」 というコンセプトは、元々無理があったと結論づけられても仕方ないのかもしれない。エコカー開発の今後は、電気自動車、燃料電池車の方向に向いてしまったとみていいだろう。

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2015/10/19

行政は放置自転車は撤去するけど、盗難車は見てみぬふり

@nifty の 「経験の達人」 というページに 「見事な縦割りに絶句」 という投稿がある。ざっとこんな内容である。

近くに放置自転車があるので警察に連絡したら、ミニパトが来て見取り図を作ったりどこかに電話したりしていたが、一向に処理してくれない。どうしたらいいか聞くと、「ここは市道だから、市の管轄になる。市へ連絡してください」 と言う。盗難登録票が貼ってあるので、「警察で持ち主を調べて連絡してもらえませんか」と言ったら、きっぱり 「できません」と言われた。

それで区役所に電話すると、「ここは市道なので市で処分しますが、横の細い道は私道ですから、市の手には負えません、本来こんな事は警察の仕事なんですがねぇ」と嘆かれた。

この顛末を新聞に投書したら掲載され、その日の午前中に警察の偉いさんが来て謝罪された。その後、ある会合で同席した警察官に、「もし私道だったらどうすればいいか」と聞くと、「そっと市道へ移動して、市へ連絡してください」と言われた。

まあ、確かに放置自転車に関する警察の対応はとてもつれない。似たような経験を私もしたことがあり、それを 7年前に 「自転車への思い入れ」 というタイトルで書いたことがある。

私も家の近くにずっと放置されていた自転車について、警察に連絡した。防犯ナンバープレートがついているから、何とかしてくれと申し入れたのである。

すると、「盗難自転車じゃなく、ただ単に、そこに置いてあるだけかも知れないので、警察が勝手に移動することはできない」 と言うのである。そこで仕方なく、無理矢理に 「拾得物」 として近くの派出所に持ち込んだ。そこまですれば、警察としても 「持ち帰れ」 と言うわけにもいかず、受け付けてくれた。

7年前のブログでは、少し省略して書いたのだが、実はもう少し込み入ったストーリーがあるので、この際、それを書いておこう。

実はその自転車には持ち主の氏名と電話番号まで書いてあったので、私は警察に持ち込む前に、自分で持ち主の家に電話し、「○○町の○○派出所に預けて置くので、受け取りに行って下さい」 と伝えた。自分でそうするほどに、警察は信用できないと思ったのだ。そしてその際に、念のために一応こちらの連絡先も告げた。

2〜3日後に取手駅前の交番から私宛に電話が入り、「あなたから連絡を受けたという高校生が、自転車を受け取りたいと言って来ているんですが、一体どういうことですか?」 と聞くのである。私は呆れ果てて、「その子には○○派出所に預けたと言ってあるんですから、そこへの行き方を教えて上げて下さい」 と返事した。

呆れたのは、警察と、持ち主の高校生の両方に対してである。私が自転車を届けた派出所は、案の定、何のアクションも取っていなかったようだし、持ち主の高校生も高校生で、まったく見当外れのところに受け取りに行っている。両方とも頭の中がアサッテの方を向いてしまっている。

この顛末で学んだことは、自転車が盗難被害にあった場合、盗難登録票なんて付けていてもあまり役に立たないみたいだということである。「チョイ乗りチョイ捨て」 で放置された自転車に、連絡先まで書いてあったとしても、まともなアクションを取ってもらえる可能性は驚くほど低い。

こんなわけのわからない 「縦割り」 のせいで、警察がまともな対応をしてくれないのである。行政は駅前に駐輪する自転車は有無を言わせず撤去してしまうくせに、そして自分の自転車に乗っている者を夜道で呼び止めて泥棒扱いするくせに、善意の市民から連絡があっても、ぐずぐず言うばかりでまともなアクションを取らないのだ。

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2015/10/18

マイナンバー制度との付き合い方について

今月中旬から例の 「マイナンバー」 の通知カードが届くというのだが、我が家にはまだ届いていない。まあ、心配しなくてもそのうち届くのだろう。とにかく国としてはこの 「マイナンバー」 の制度をスタートさせてしまっているので、それに沿って暮らしていくしかないようなのである。

「マイナンバー」 に関しては、詳しい話は誰もよくわかっていない。とにかく 「社会保障・税・災害対策」 の 3分野での行政効率化が図られることになるというのだが、一方でセキュリティ関連で間違いが生じたら、個人情報がダダ漏れになってしまうとの懸念がある。それで反対の声も大きい。

ただリスクは大きいものの、これまでよりは社会的公正を実現できるというメリットがある。とくに脱税はしにくくなる。まあ、悪いやつはどんな手を使ってでも脱税したがるだろうが、これまでよりはずっとしにくくなるのは確実だ。だから脱税なんてしていない人にとっては、あまり困ることはないだろうと思っている。

とはいうものの、お役所、とくに地方や末端の役所になればなるほどお役人の IT リテラシーは、端で見ていても 「こいつら、大丈夫なのか?」 と思ってしまうことがあるので、国がいうほど 「セキュリティ対策は万全」 というわけじゃないだろう。まともに運用すれば大丈夫なのかもしれないが、お役所の IT 運用って、決して 「まとも」 じゃなくて、かなり 「なあなあ」 なところがあるのだよ。

だから 「個人番号カード」 は当面申請しないでおこうと思う。この 「個人番号カード」 ってのは、個人の ID カードとして使えるばかりでなく、役所でのいろいろな手続きにも使えるらしく、将来的には、健康保険証、クレジットカード、ポイントカード、キャッシュカードなどに一元的に使えるものとする計画らしい。

しかしそれって、アブなすぎやしないか? 確かに、いろいろなカードで財布が分厚くなってしまっている現状からすると、たった 1枚のカードですべてがまかなえたら便利には違いないだろうが、その 1枚のカードに何か問題が生じてしまったら、病院、銀行、買い物など、すべての分野で不具合が生じてしまうだろう。

さらにそのカードを紛失なんかしてしまったら、相当ヤバいことになる。私のような、これまで何度かクレジットカードを紛失する経験をもつ (結局、クロゼットに吊されたズボンのポケットとかから出てきたんだけど) うっかり者には、かなりリスキーなカードだと思ってしまうのだよね。

というわけで、「個人番号カード」 なんて申請せずに、しばらくは (札束なんかじゃなく) 各種カードで分厚くなってしまっている財布で我慢しようと思っている。このカードは持たなくても法律的には何の問題もないようなので、放っておけばいい。ID に関しては運転免許もあるし、どうにでもなる。

個人番号カードに関しては、そのうちいろいろな問題が噴出してくるだろう。その時点で再検討されるってことになるに違いない。自分でカードを持つかどうかは、その後になってから考えれば十分と思っている。

Windows PC を使っていた頃、OS の新バージョンに飛びついたら、必ずどこかで不具合が生じて困ってしまうという経験をしていた。たかが PC でも大変なんだから、国全体で OS 新バージョンに移行するみたいな運用には、焦って乗っかる必要なんてない。

個人番号カードなんて案外まともに機能しなくて、10年後には 「そういえば昔、そんなカードがあったねえ。ウチでも引き出しの奥で眠ってるはずだけど」 なんてことにならないとも限らないし。

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2015/10/17

「一即多」 の思想による融和のコンセプト

たまたまテレビのスイッチを入れたら 『NHK スペシャル アジア巨大遺跡』 という特集をやっていて、今夜はその第1集 『カンボジア アンコール」 という番組だった。アンコールワット遺跡の紹介から始まり、9世紀から 15世紀にかけてこの地に栄えたクメール人によるアンコール王朝の反映の秘密を解き明かすという構成だった。

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(画像は NHK 番組より)

恥ずかしながら私は、アンコールワットについて、熱帯の密林の中の謎に包まれた巨大遺跡という程度の知識しか持ち合わせていなかったが、この番組のおかげで、実はこの遺跡は 70万〜100万人の人口をもつ当時の世界最大の都市の中心だったと知った。へえ! 大したもんだ。

この世界最大の都市を支えたのが、高度な水利技術により 1年に 3〜4回もの収穫が可能だった稲作を中心とした農業と、中国からイスラム圏にまで広がった交易ネットワークだったことも、初めて知った。インドシナ半島のど真ん中に、そんなすごい文明があったとは、学校の歴史の時間では習わなかったよ。

さらに、このアンコール文明がほぼ 6世紀にもわたって繁栄した最大の理由が、「平和」 だったということが、この番組では強調された。当時の世界は、十字軍遠征や元帝国建設などに象徴されるように、戦争が盛んに行われていた。しかしインドシナ半島ではアンコール王朝を中心に、平和な時代が続いていたため、高度な文明が栄えたというのである。

この平和はどうしてもたらされたのかといえば、12世紀末のアンコール王朝最盛期の王だったジャヤーヴァルマン 7世が、積極的な融和政策を敷き、周囲の民族との平和を実現したことによるという。彼自身はヒンドゥー教から仏教に改宗していたらしいが、周囲の民族に信仰されていた全ての宗教を受け入れ、融和したことが大きいらしい。

西洋社会のキリスト教とイスラム教の対立を軸とした争いの歴史を考えると、東洋の 「融和」 の思想というのは偉大なるものである。私はそれを知って感動してしまったのである。

アンコール王国の 「全てを受け入れて融和する」 という思想こそ、現代人が学ぶべきものだ。下手すると 「独断的な一神教がいけない」 という議論に持って行きたがる人もいるが、そんなことを言うから、ますます余計な対立が生じる。それを越えて 「一即多」 という思想まで高まらないと、対立は消えない。

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2015/10/16

秋の訪れが早い

今年は秋の訪れが早くて、今日は 11月中旬の気温だそうだ。私なんか、出かける時にウールのマフラーを巻いちゃったよ。

昨年の春頃までは、「最近は本当に春と秋が短い」 と嘆いていた。冬がいつまでも続き、「春はまだか」 と震えているうちにふと気付けば桜が開花して、あっという間に夏になる。そしていつまでも残暑が続き、「秋はまだか」 とうんざりしているうちに、木枯らしが吹き始める。

しかし昨年の秋は違っていて、9月 6日の時点で 「今年は秋が早く来ているが」 という記事を書いている。それに関しては、私は真夏の時点から 「旧暦では閏月で 9月が 2度あるから、秋が長くなる」 と予言していた。旧暦の 9月は晩秋だから、晩秋の季節感が長く続いても不思議はないと思っていたところ、果たしてその通りになったのである。

さらに遡れば、2009年には閏 5月があって、旧暦の 5月は 「五月雨」 というぐらいで梅雨の季節だから、梅雨が長引くと思っていたところ、まさにそうだった。旧暦は日本の季節感をよく反映すると言われるが、本当にその通りである。

で、今年の秋の訪れが早いのは、どうやらエルニーニョのせいらしい。エルニーニョが発生すると夏は冷夏に、冬は暖冬になるという。今年の 8月前半は猛暑が続き、「エルニーニョでも冷夏にならない年があるんだなあ」 と思っていたが、その猛暑はあまり長続きせず、8月下旬からやたらと雨が多くなって、気温も上がらなくなった。

そして 9月は例の豪雨になり、そのまま秋の気配が深まってしまったのである。そしてこのままエルニーニョが続けば、冬は暖冬になるはずだ。しかし夏も一時的には猛暑になったぐらいだから、この冬も短い間だけは寒さが厳しくなるかもしれない。

それに関東の雪は厳冬パターンよりも春の低気圧でもたらされるから、来年の春先に大雪があるかもしれない。覚悟しておこう。

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2015/10/15

茨城県取手市議会の 「ポロシャツデー」 を巡る田舎芝居

本日の新聞の折り込みチラシと一緒に届けられた 「取手市議会だより 第 212号」 最終面のあまりにもくだらない記事を読んで、申し訳ないけど 「ああ、隣町の出来事でよかった」 と、心から思った。こんなことが自分の住む市の議会で起きたら、ばかばかしくて税金払うのがイヤになるだろう。

1問題の記事は、「初の試み 議会ポロシャツデーを実施」 というものだ (左の画像をクリックすると、拡大して読めるようになる)。内容をかいつまんで言えば、市議会定例会初日 、議会内は 「省エネ」 のため、カラフルなポロシャツを着た議員で埋まったという話である。

取手市のウェブサイト (参照) によると、8月 31日の取手市議会第 3回定例会の議会運営委員会において、定例会初日と最終日は、議員が取手市作成のポロシャツを着用する 「ポロシャツデー」 とすると決定したことに沿うもののようだ 。

ところが、このポロシャツデーの決定に従わない議員がいた。共産党所属の 5人である。上の 「写真写真」 でも、なるほど 5人の議員はポロシャツを着ていない。

そこで公明党所属の染谷和博議員ほか 3名が、共産党の議会運営委員、遠山智恵子議員の委員辞任を求める決議案を提出した (染谷氏自身のサイトの記事に寄れば、提出日は定例会最終日の 9月 17日)。遠山議員が共産党議員をまとめきれず、「ポロシャツデー」 の議決に従わなかったというのが理由だ。

共産党の加増議員は 「ポロシャツの普及そのものは否定しないが、十分な話し合いもなく、議場でのポロシャツ着用の採決を求めるのは論外」 と反論したが、それは認められず、決議案は可決された。ただしこれは法的拘束力をもつものではなく、遠山議員は議会運営委員を辞任しない旨を明らかにした。もう、ドタバタである。

確かに、このポロシャツ着用を求める決議は不透明なところがある。繰り返すが、取手市議会が 「ポロシャツデー」 なるものの実施を決めたのが、8月 31日。しかしその 8月 31日には既に 「第 1回ポロシャツデー」 が実施されていて、共産党市議団以外の議員はポロシャツを着ていたのだ。

フツーに考えたら、それっておかしすぎるだろう。前回の定例会で既に決まっていたというなら話は別だが、議会で決めたのが当日のことで、しかもその当日には、既に先回りして実施されていたなんて、常識ではあり得ないじゃないか。

いや、それがあり得たのだ。取手市議会の裏の根回しのすごさを物語る。なるほど、こうしてみると、共産党の 「十分な話し合いもなく、議場でのポロシャツ着用の採決を求めるのは論外」 という主張は十分に理解できる。順序が逆なのだ。決める前からスタートしていたなんて、これはもう議会制民主主義ではなく、田舎芝居だね。

まあ、この 「省エネ」 のためというポロシャツデーも、既に秋が深まってしまったので、うやむやになってしまうのだろう。逆に、次の定例会初日に共産党議員団が 「やっぱり議決に従い、初日にはポロシャツを着ることにしました」 と言って、寒空にポロシャツ姿で現れ、「どうして他の議員は着用していないんですか?」 なんて追求したら、それこそ大ホームランだと思うのだが。

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2015/10/14

もし 「男性専用車両」 ができたとしても

Yahoo!! ニュースに "男性専用車両、なぜないの? 女性専用は「82路線」、男性「ゼロ」の理由" という記事がある。この記事、見出しだけは結構興味を引くのに、中身は全然つまらない。記事の結論は、"鉄道会社側が「ニーズがないから」と判断しているのが理由" という、おもしろくもなんともないオチだ。

この 「オチ」 には、多少無理もある。というのは、必ずしも 「ニースがない」 というわけではないらしいのだ。記事中にも、「国交省にも男性専用車両を求める意見が年に数件寄せられているようですが」 とある。どうしても絶対に痴漢に間違われたくないという男性が、男性専用車両に乗りたいのかもしれない。

しかし、男性を狙うホモセクシャルの痴漢だっているのである。私は美少年だった(?)学生時代に、山手線電車の中で男性専門らしいオッサンに妙に密着されて、「オッサン、やめろよな!」 と、静かに、しかし 「やめないと、次の駅で引きずり下ろしてボコボコにするよ!」 という言外の意味を込めて囁いてあげたことがある。ああいうのって、確かに迷惑だ。

まあ、いずれにしても私は男性専用車両なんてものができたとしても、乗りたくはない。件の記事中でも、「男性専用車両はむさ苦しくて、乗りたくない人が多いのでは」 という鉄道会社広報担当者のコメントが紹介されているが、実際は 「むさ苦しい」 以上に 「殺伐とする」 ということになってしまうんだろう。

普段のラッシュアワーに乗り合わせても、周囲がたまたま男性ばかりだと、妙にトゲトゲしい雰囲気になり、実感としてストレスが高まる。やはり男だけで押し合いへし合いしていると、どうしても動物的闘争本能が刺激されてしまうらしい。

そんな中で急ブレーキなどで大きく揺れ、心ならずも隣にぶつかったりすることがある。車内のほとんど全員が隣の誰かにぶつかっているのだが、中にはそれを根に持って、揺れてもいないのにわざとらしくぶつかり返してくるという、妙な 「報復手段」 に出るやつがいる。あれ、こっちが短気だったら、確実に喧嘩になる。

しかしその中に女性がチラホラ混じっているだけで、殺伐とした雰囲気はかなり和らぐ。その結果としてストレスも軽減される。そんなものなのである。これは本能的なことだからしょうがない。そんなわけだから、男性専用車両なんてものが設けられたとしても、わざわざそれを選んで乗る男は少ないだろう。

気の弱い男だったら怖じ気づいてしまい、逆に避けることになるだろうし、そうなると結果的に、車内はマチョ密度が高くなって、下手すると毎日喧嘩沙汰になってしまうかもしれない。そんな中に飛び込むのは、真っ平ご免だよね。

ただ、女性専用車両でもどうやらその傾向があるらしいのだが、フツーの車両と比べると、かなり空いてしまうらしい。てことは、押し合いへし合い状態にはなりにくいということだ。もし、ほかの車両が満員状態なのに男性専用車両だけが余裕たっぷりだったとしたら、それなら乗ってもいいと思う。

しかし乗っているうちにだんだん混んできたら、すぐに隣の車両に移ることになるだろう。

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2015/10/13

韓国の歴史教科書国定化の動きのねじれ現象

韓国では教育省が歴史教科書を国定化する方針を発表した (参照)。「正しい歴史認識」 に基づく教科書を作り、2017年までに一本化するのだという。これに対して、野党は民主主義に逆行すると強く反発しているらしい。

このニュースを読んで、一昨年の 「超党派の日韓議員連盟が韓国の韓日議員連盟との合同総会で、中国を含む 3カ国共同の歴史教科書の実現に向けた努力を日韓両政府に促すという内容の共同声明を採択」 (参照) というニュースを思い出した。これに関して私は、「3カ国共同で歴史教科書を作るなんて、無理と思うがなあ」 と、当たり前に率直な感想を述べている。

「3カ国共同の歴史教科書」 というファンタジーを作る動きは、このアドバルーンを打ち上げただけで、その後ぱったりと音沙汰なくなってしまった。ところが今回、韓国でいきなり歴史教科書国定化のニュースが飛び出してきた。

この 2つの動きは無関係なように見えるが、もしかしたら地下水脈的に少しはつながっているのかもしれないという気もする。いずれにしても、「正しい歴史認識は一つ」 というファンタジーを信奉するというコンセプトは共通している。

そして今回の動きで韓国野党は、「朴正熙(パク・チョンヒ)政権などの親日・独裁を美化するものだとして批判しているという。現在のパク・クネ政権の反日路線にうんざりしている者としては、「何が親日・独裁を美化だよ」 と、シラけてしまうのだが、なにしろ中国と朝鮮半島の文化圏は、何が敵で味方なのかよくわからんところがあって、複雑怪奇である。

私としては前述の一昨年暮れの記事で、「歴史は一つ」 というのはファンタジーだと言い切っている。歴史解釈というのは立場によって変わるのが当然なのだ。これに関しては、さらに今年 6月の 「歴史認識の落とし穴」 という記事でも論じているので、参照いただきたい。

歴史教科書を国定化するなんていうのは、そもそも民主主義に逆行するから問題だというのが、ごくフツーの見解なのだが、韓国野党はそれよりもイデオロギー的な視点で反対を唱えている。こんなような論点だと、下手すると彼らが政権を取ったら、彼らの視点で歴史教科書を国定化すると言い出しかねない。

国定教科書の動きに反対だというなら、「正しい歴史認識は一つ」 なんていう幻想からも解放されるべきなのだが、それは別問題というのが、韓国野党の立場であるらしい。私の目からは、韓国の与党と野党のどちらも、エラい 「ねじれ現象」 を抱えていると見えてしまうのだがなあ。

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2015/10/12

日本語ウェブページの 5件に 1件以上が "Hallo Ween" と誤記

昨年の 10月末日に、「ハロウィーンが、どうやら日本に定着してしまったらしい」 という記事を書いた。確かに、イベントとしては定着してしまった感がある。しかしまだ、しっかりと確立されたとまでは言い切れない。記事中でも触れているが、"Halloween" のカタカナ名称の表記と発音が、まだバラバラなのだ。

昨年の記事でも次のように書いている。

ただ、ハロウィーンは盛んになって間もない行事だけに、日本語での呼び方がまだ明確に確立していない。Halloween の本来の発音は 「ハロウィーン」 (第三音節の 「ウィ」 にアクセントがある) に近いが、日本では頭の 「ハ」 にアクセントを置く 「ハロウィン」 の方がやや優勢のようだ。

まあ、どうせ換骨奪胎してしまったんだから、ローカルな呼び方として 「ハロウィン」 でも、私としてはギリギリ許してもいいと思う。Wikipedia も 「ハロウィン」 になってしまってるしね (参照)。ただ、第二音節の 「ロ」 にアクセントを置いて 「ハローウィン」 という人がいるが、私としては、これはちょっと違和感ありすぎるなあ。

いやはや、本当に 「ハローウィン」 はちょっと違うだろうと言いたいのだが、テレビやラジオでも、さらにまたそれらの CM でも、堂々と 「ハローウィン」 (クドいようだが、アクセントは 「ロ」 にある) と言う人がまだまだ多いのである。「ウィンさん、こんちには!」 じゃあるまいし。

それだけではない。英語表記をするにも "Hallo Ween" と、2語に分かち書きする人が跡を絶たない。これは街のファッションビルでよく見るチェーン店の "Hallo Ween Fair" の看板である。

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「単語が長かったので、2行に分けただけです」 と言い訳されるかもしれないが、「だったら、ハイフン使ってよね」 と言うだけのことである。うぅむ、これではやっぱり、「定着した」 と見たのは早すぎたのかなあ。

なにしろ分かち書きはこの看板だけじゃない。"Hallo Ween" でググってみたら、なんと 23万件もヒットしてしまったよ。(参照)とくに目立つのが、"Happy Hallo Ween" てやつだ。

試しに "Halloween" というキーワードで日本語のページだけを検索したら 82万 9千件がヒットしたから、なんと  Halloween を扱った日本語のウェブページのうち、ざっと 5件に 1件以上は、"Hallo Ween" と誤記してしまっているわけなのだね。まあ、とにかくびっくりだ。「ウィンさん、こんにちは!」 が跡を絶たないわけである。

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2015/10/11

「タッグを組む」 という言葉

ペアを組んで共同作業することを、日本語でフツーに 「タッグを組む」 と言うことがあり、これをキーワードにググってみると、かなり一般的に使われていることがわかる (参照)。とくに芸能ニュースなどで、人気俳優同士が共演する場合に 「○○ と ×× がタッグを組む」 なんて表現されるケースが多いようだ。

これ、古くからのプロレスファンだと 「タッグマッチ」 から来た言葉と当然のごとく知っている。2人か 3人のプロレスラーが 「タッグチーム」 を組み、味方同士でタッチすることで交代しながら戦う試合形式だ。

最近はプロレスが下火になってしまったのに、「タッグを組む」 という言葉は妙に市民権を得てしまっているようなのだ。元々プロレス用語だったことはことさら意識されずに、しれっと使われている。

そんなわけで、「Yohoo 知恵袋」 では "「タッグを組む」という言葉は、具体的にどんな意味ですか? (中略) 男性っぽい言葉の感じを受けるのですが、女性が使うのも変ではないですか?" という質問に対して、次のような誤解が、なんと 「ベストアンサー」 とされている (参照)。

タッグは tag です。
荷札や正札などの意味もありますが、付添うとかつきまとうという意味もあります。
tag team で二人以上のチームになります。
転じて仕事などでチームを組む時もタッグを組むと使うことがあるようです。
女性が使ってもおかしくはないと思います。

この場合の「荷札/正札」 からくる英語の "tag" は 「付きまとう」 のニュアンスが強く、そこから直接にいわゆる 「チーム」 とするには無理がある。これを「ベストアンサー」 とするのは、問題ありすぎだ。

プロレスの 「タッグマッチ」 はちょっと違うのである。これは 「鬼ごっこ」 とか 「タッチする」 とかいう意味の "tag" という単語から来ている。鬼ごっこでは、タッチすることで鬼が交代するので、同じ言葉なのだろう。「荷札」 という意味の単語とは、もしかしたら語源は一緒なのかもしれないが、一般的には同音異義語と認識されている。

野球で 「ランナーにタッチする」 というのは和製英語で、本当の英語では "tag" である。「タッチアウト」 は本当は "tag out" で、犠牲フライでランナーがベースに 「タッチアップ」 するのは "tag up" である。ことほどさように、野球用語はものすごく和製英語が多い。

そういうわけでプロレスでも、選手同士の 「タッチ」 (本当の英語では "tag") で交代するので 「タッグマッチ」 (本当の英語では "tag team match" だが)という。まあ、女子プロレスでもタッグマッチはあるので、「女性が使ってもおかしくはない」 のかもしれない。

「タッグを組む」 というのは、本来はお堅い話題ではあまり使いたくない言葉だと、私は思っているのだが、政治の世界でも 「○○党と××当がタッグを組む」 なんて言い方をすることがある。先日の安保法案の時みたいに 「肉弾戦」 になることもあるので、イメージ的にはさして問題ないかもしれないが。

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2015/10/10

スタバ鳥取店をのぞいてみた

鳥取に来たついでに、今年春に開店したスタバの鳥取店をのぞいてみようと思ったのである。正式名称は 「スターバックスコーヒー シャミネ鳥取店」 という。「シャミネ」 というのは、鳥取駅の駅ビルだ。

Img_3710xところが、前回 8月に来たときも見つからなかったのである。「シャミネ鳥取店」 というからには、駅ビルの中にあると誰でも思う。で、シャミネの店内案内を見れば、ちゃんとスタバが存在する。ご覧の通りに、22番の店舗として表示してある。これを見れば、シャミネという駅ビル内のテナントとしてスタバが出店したのだと、信じない者はいない。

ところが、駅ビル内をいくら探してもスタバは見つからない。改めて店舗配置図を見ても、22番のスタバが見つからないのである。

ご覧の通り、21番まではあるが、22〜24番の店舗は見当たらない。図の一番上の列をみると、真ん中辺りの 21番の左の 2ブースが意味ありげに空白で、いきなり 25番に飛ぶ (下の画像はクリックで拡大表示される)。その空白の辺りに実際足を運んでも、何もない。一体、スタバはどこにあるというのだ?

Img_3709

謎めいている。さすが、全国都道府県の中でスタバが出店を最後まで躊躇したというだけのことはある。聞けば鳥取県というところは県民 1人当たりのコーヒー消費量がやたらと多く、コーヒーへのこだわりが半端じゃないという。「スタバ何するものぞ」 と、対抗心メラメラだったらしい。鳥取県知事も 「スタバはありませんが、砂場があります」 なんてオヤジギャグをかましてたしね。

てことは、わざとスタバのありかが混乱してしまうような、イジワル表示でもしてるんだろうか?

Img_3711_2ところが、駅の南口を出てしばらく歩いていると、彼方に見慣れたマークが見える。右の写真でいえば、ちょうど真ん中に見える建物である。あれは紛れもないスタバのマーク。駅ビルの中なんかじゃない。完全に独立した店舗じゃないか。こんなんで、どうして 「シャミネ鳥取店」 なんて紛らわしい名前を付けるんだ?

行ってみると、結構な繁盛ぶりである。一節には鳥取市民はスタバなんて見向きもしないなんて言われていたが、とんでもない。土曜日ということもあるだろうが、朝からどんどん客が入っている。写真に映っているのは、わざわざ自転車で乗り付けた高校生らしきグループだ。開店時には 1000人の長い行列ができたというし。

Img_3713それに店の造作からして単なるコーヒーショップというより、それとなく高級感を演出して、「特別なお店感」 ありありだ。なんなんだよ、これは。鳥取市民、こんなんでだまされちゃダメだぞ。

そして私は、このスタバ鳥取店をちらりと眺めただけで、きびすを返したのである。もとより話のタネにしたかっただけで、スタバでコーヒーを飲むつもりなんかなかった。だから最初から 「スタバの鳥取店をのぞいてみようと思ったのである」 と書いたのであって、「コーヒーを飲んでみようと思った」 とは書かなかった。

モンサントを支援しているような企業は、願い下げなのである。

【10月 12日 追記】

hokkaidense さんが、コメント欄に、「ところで、フロアガイドの写真ですが。/左下の隅に22番はありますよ。/しかし、どう見ても同じ建物じゃないですが」 と書き込んで下さった。

「なぬ !?」 と、写真を拡大してみたら、左下の隅っこに、確かに 22番がある。そしてそれはまさにスタバのある位置である。いやはや、ちっとも気付かなかった。

それにしても、どうしてこんなところにあるのが 22番なんだろう? 31番とかなら、まだ納得しやすいかも知れないが。

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2015/10/09

お金って、そこまで好きじゃないし

今年のエイプリルフール・ネタの元ネタにした 「年収 2000万円サラリーマンの財布の特徴は?」 というページがある。とにかく金持ちになりたかったら 「高級な長財布をお持ちなさい」 というのである。

「財布を大事にするということはすなわちお金を大事に思っていることで、お金持ちの人はお金を愛し大切にする」 のだそうだ。そうすると、お金の方から寄ってくるという。こう講釈を垂れるのは、『バカでも年収 1000万円』著者、バカリーマン日本代表の伊藤喜之という人だ。

これに類した記事は、All About というサイトで定期的に次々に紹介されるようで、今度は 「お金が自然に寄ってくる財布と新札って?」 というのが載っかっていた。書いたのは、はづき虹映 (こうえい) というお人で、要するにこの手の話は、いろんな人が手を変え品を変えあちこちで書いたり講演したりしているようなのだ。

金を儲けようと思ったら、下手に事業をするよりも 「こうすればお金が寄ってくる」 という話をあちこちでするのが、一番の近道なのかもしれない。18世紀半ばのカリフォルニアのゴールドラッシュで一番儲けたのは金鉱掘りではなく、金鉱掘りたちにインディゴ染めのパンツを売りまくったリーヴァイ・ストラウスという人だったというのを、私なんぞは思い出してしまうのだよね。

(ちなみに、ジーンズのリーヴァイ・ストラウスと構造主義人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは遠縁に当たるという説があるが、Wikipedia はそれを否定している)

それにしてもこうした話をする人って、本当に心の底から 「お金が好き」 なんだなあと思うのである。それだけお金が好きなら、そりゃあお金も儲かるだろうさ。絵が好きなら絵を描いたり集めたりするし、音楽が好きなら自分で演奏したりコンサートに足を運んだりする。同様にお金が好きなら、とにかくお金が入ってくるようなことをするだろう。

で、私自身のことを考えてみれば、そこまでお金が好きじゃないのである。そんなに四六時中お金のことを考える時間があったら、私は別のことを考えたいと思ってしまうのだよね。だから私はあまりお金に縁がないのだろう。それはそれで、別にいいのである。

「お金が好きな人」 って、音楽はあまりよくわからないけど、とにかく高いオーディオ機器を買いそろえて、ものすごくいい音で平凡なイージーリスニングとか歌謡曲とか、趣味のバラバラな CD を聞いて悦に入ってる人と共通した臭いを感じてしまうんだよね。イージーリスニングと歌謡曲が好きな人、妙なたとえ話をしてしまって、ごめんなさい。

何しろ私は、高級な長財布をもって、常に見せ金として新札を 10万円入れておき、クレジットカードを使わずに現金をわしづかみにして支払うという自分の姿を想像すらできないのだから、これはもうしょうがない。

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2015/10/08

鳥取に出張する

今夜は千葉県松戸市のホテルに泊まっている。明日の朝一番の東海道新幹線に乗り、鳥取に向かうためだ。東海道新幹線に乗るなら東京駅の近くに泊まればいいようなものだが、都内のビジネスホテルの予約が取れず、やむなく松戸にしたのである。我が家から出発したら朝イチの新幹線に乗るのは無理だが、松戸ならギリギリ間に合う。

先月 16日の記事で書いたように、最近は本当にホテル事情がタイトである。東京駅に近いホテルはおろか、北千住辺りまで満杯で、仕方なく松戸にしたのである。ホテルがタイトなのは、中国人などの外国人旅行者が多いためらしい。中国経済が悪化しているというのに、旅行者の数はまだまだ減らないようなのである。

さらに、ちょっと皮肉なのが今回の出張先が鳥取ということだ。8月 14日の 「和歌ログ」 に、鳥取県の倉吉に泊まったことを書いた (参照)。島根県に出張し、その後に京都に行くことになっていたので、わざわざその日は鳥取県倉吉のホテルに泊まった。それまで行ったことのなかった鳥取県で一泊し、全都道府県制覇するためだった。

せっかくこんな奥の手で全都道府県制覇を達成したのに、それから 2ヶ月も経たないうちに、鳥取に出張することになったのだから、皮肉である。これで日本全国 47都道府県に出張して仕事をするということを達成してしまうのだから、まあいいか。

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2015/10/07

スマホの 「モバイル・バッテリー」

私の愛用する iPhone に限らず、スマホの最大の悩みの種はバッテリーの消耗である。ごくフツーに 1日数回の音声通話とちょっとしたメールのやり取りだけに使うなら、朝から晩まで余裕でもつが、出張先で目的地までのナビに使ったり、スケジュールの詳細を確認したり、頻繁に SNS を利用したり、ややこしいメールにややこしい返信をしたりなどすると、午後 3時頃には残量が 20%台になることも珍しくない。

そこで仕方がないので、電源のないところでも充電できる予備のバッテリーを持ち歩くことになる。私はこれをだいぶ前から持ち歩いているのだが、商品名を知らなかった。それで当初は仕方なく 「予備の充電用バッテリー」 とか 「予備バッテリー」 とか 「スペア・バッテリー」 とか、テキトーに呼んでいた。

英語では "extra battery pack" とか "portable battery charger" とかいうようで、なるほど、そんな風に言わないと、単に交換用のバッテリーをもう一つもつみたいな意味になってしまうのだが、まあ、日本語でそこまで言うとかんじゃいそうなので、私としては最近、「エクストラ・バッテリー」 と省略して呼ぶことが多かった。

ところが最近、日本では 「モバイル・バッテリー」 という言い方が一般的になっていると知った。Google で検索してみると、このキーワードでどっと出てくる (参照)。ところがこれをそのまま英語にして "mobile battery" で検索しても結果はほとんど同じで、ほとんど日本語のページだけである。てことは、やっぱり和製英語なんだろうね。

私はこれまで iPhone を 2回充電できるだけの容量をもつ 「モバイル・バッテリー」 を持ち歩いていたが、ナビを長時間使ったりするとそれでも足りなくなることがあるので、そうしたケースが想定される時には、さらにもう一つの予備を持ち歩くようにしている。

そんなわけで、出張で新幹線に乗るときには、N700系の座席の足元にある電源コンセントが本当にありがたい。いちいち 「モバイル・バッテリー」 を取り出さずに済むし、新幹線を降りてからのバッテリーの消耗にも余裕で対応できる。

こうしたサービスがすべての特急列車に適用されるとありがたいんだがなあ。さらに言えば、最近は東海道新幹線のトンネルでは電波が切れなくなったが、ほかの路線でもトンネルでインターネットができるようになると、ますますありがたい。

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2015/10/06

山形県と茨城県

「都道府県別統計とランキングで見る県民性」 というサイトがあり、中でも一番人気が 「都道府県別 ベスト&ワースト」 というページであるらしい。各都道府県の日本でトップとなっている項目と、日本で最下位 (47位) となっている項目が示される。

私の生まれ育った山形県は、日本で最下位はいろいろあるだろうが、トップになれるような分野なんてないんじゃないかと思っていたが、つついてみれば案外見つかるもので、こんなような具合だった。

ざっとみれば、山形県では柔道が盛んで、県民は醤油が好き。ラーメンも大好きで、夫婦者、三世代の所帯が多く、独り者が少ない。よく眠るが、総じて血圧が高めで、脳梗塞で死ぬ確率が高い。

とにかく醤油をたくさん使い、お茶を飲むにもしょっぱい漬物をガリガリ食べながらなので、血圧が上がるのもしょうがない。ラーメンに関しては、日曜日に外食する時の 「ごちそう」 がラーメンという位置付けなのだから、自然そうなる。普通の蕎麦屋でもラーメンが当たり前に提供され、へたすると蕎麦よりラーメンの売り上げの方が多かったりする。

一方、重要犯罪や少年犯罪が少なく、平和な県である。国立・私立中学生が少ないが、そもそも、国立・私立中学なんて見当たらないんだからしょうがない。在日アメリカ人が少ないというのも 「さもありなん」 で、私は山形県でアメリカ人なんて見たことがない。独居が少ないのは、夫婦者・三世代消費者世帯が多いのだから当たり前。総じて古き良き日本というイメージである。

では、現在住んでいる茨城県はどうかというと、こんな感じである。

メロンとプリンが好きで、サッカーが盛ん。これは鹿島アントラーズが結構いい線行くからだろう。自動車盗難数が多いというのは、茨城県民が結構見栄っ張りで、ベンツの数が多いからかもしれない。ホームセンターやスーパー銭湯の駐車場でも黒塗りのベンツがやたら目立つ。何と言ってもベンツが一番盗まれやすい。とにかく、茨城県民は檜造りの豪邸に住んで黒いベンツを乗り回すのが好きだ。

研究機関数が多いのは、これはもう 「つくば研究学園都市」 があるためである。そしてやたらと博士が多い。つくばの中心街で石を投げると博士に当たるというぐらいのものだ。さらに言うと、檜造りの豪邸に住んでベンツを乗り回すのが好きな茨城ネイティブと、つくばに住む研究者とは、まったく別の人種である。

地震が多いのも茨城県の特徴で、私の住む県南西部は、まさに地震の巣窟である。もう慣れっこになってしまって、寝ている時に震度 4 ぐらいの揺れがあっても、起き上がりもしない。

一方、日本で最下位なのが 「魅力」 という項目である。毎年行われる 「地域ブランド調査」 では茨城県の最下位はほとんど定位置となっていて、5年前の私の記事でも結構詳しく触れている (参照)。

で、私としては今でも、山形県 (とくに庄内エリア) の方に愛着があるのだよね。

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2015/10/05

組み体操の 「達成感」 とは

大阪・八尾の中学校の運動会での、組み体操事故が巷の話題になっている。産経 WEST によれば、この中学校の運動会では昨年も組み体操で事故があり、さらにその前年にも練習中に事故があって、3年間で 8人が骨折しているという (参照)。そして今年は練習でも 1度も成功していないのに本番で決行するという思い切りのよさだったらしい。

ちょっとした怪我も避けようとする 「過保護教育」 が増えている中で、いくら 「生徒に達成感を知ってほしい」 なんて言っても、よくもまあ、これだけのリスクを冒したものだと、ある意味感心する。大阪の八尾という地域は、このくらいの無茶をしても学校にねじ込みに来る 「モンスターペアレント」 がいない土地柄なのだろう。

そう思って調べてみると。八尾の小中学校では昨年以降、組み体操の本番や練習中に少なくとも 12人の児童生徒が骨折していたことがわかった (参照)。同じ市内でこれだけの事故が起きても懲りずに続けていたということは、やはり八尾では多少の無茶は洒落で済まされてきたのだろう。

組み体操というのは、私も中学生時代にやった、というか、やらされたことがある。私は当時から図体が大きかったから、一番下の土台をやらされた。真っ先に四つん這いになり、その上にどんどん乗っかられるので、結構な重量を支えることになる。高さは多分 5〜6段ぐらいだったと思うが、一番上が立ち上がる頃にはかなりな重さを感じて、「おーい、さっさと終わろうぜ」 と言いたくなる。

そして 「達成感」 ということについては、一番上に立つやつはそれを感じることもあったかもしれないが、一番下で支えているだけの者には無縁だった。何がなんだかわからないうちに成功を告げる笛が鳴り、最後にはいっぺんにペシャッと潰れて一丁上がりとなる。

どういうわけか 5〜6段ぐらいの規模だと、最後にタイミングを合わせて一斉に潰れると、怪我をすることはなかった。要するにそれだけのことで、いい思い出になったとか、達成感を味わったとかいう覚えはない。組み体操というのは周りで見ている者にはある種のカタルシスを感じさても、やってる当人たちにはおもしろくもなんともない。

要するに単なるスペクタクルで、見ている者にウケてやんやの喝采を浴びると、それをやらせた教師たちがいい気持ちになるのだろう。「達成感」 が欲しかったのは、当の教師だけだったのかもしれないね。

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2015/10/04

保守派は 「不快」 な刺激に弱いらしい

昨年末にリリースされたニュースなのでちょっと旧聞だが、バージニア工科大学カリリオン研究所のリード・モンタギュー教授の研究によると、「不快な写真に対する脳の反応だけで、その人の政治的信条が十分に予測できる」という。(参照

研究では、ウジ虫やバラバラにされた動物の死骸、ひどく汚れたキッチンシンクなどの不快な写真のほか、赤ちゃんや美しい風景といった快く感じる写真や中立的な写真などを被験者に見せた。そして同時に、公立学校における礼拝は違憲かどうかという問題や、銃規制、移民、同性婚などに関する政治的な考えも質問された。

それらの写真を見たときの脳の反応には、嫌悪感や感情の制御、注意力、記憶に関連する脳の領域の活動に、人によってかなりの違いが生じる。そして結論からいうと、不快な写真に対してぞっとする傾向の強い人ほど政治的には保守的である傾向が強いのだそうだ。こうした 「脳の反応」 によって、その人の政治的傾向を 95%の精度で予測できるというのである。

これって、日常の言葉で言い換えると、「不快」 とされているようなものごとにことさらに反応してしまうようなタイプの人は、たいてい政治的に保守的ということになるのだろう。うん、何となくわかるような気がする。保守的な人って、妙に潔癖でその 「潔癖さ」 というのは、論理的というより過度に感情的なところがある。

それを延長すると、ファッションや LGBT などの性的マイノリティなどに関する反応にも共通するだろう。保守的な人は新規のファッションに抵抗感があり、同性愛などには生理的嫌悪感を示すことが多い。

こうした不快な画像に対する 「脳の反応」 の違いは、先天的な 「脳の配線」 の違いによるところが大きいという。つまり、遺伝的に引き継いだものである可能性が高いらしい。かなり生理的なものなのだね。だから性的マイノリティに生理的嫌悪感をもつ人に、論理的にセクシャルな多様性は自然なことだと説いても、彼らの反応は変わりにくい。

私は前々から、保守的な人というのはたとえ外見的にマチョに見えても、実際にはかなり 「臆病」 なところがあると思っていた。不快なものに対する耐性が低く、それだからこそ、それらを身の回りから排除しようとする。その結果、政治的には保守的に傾く。

一方、リベラルな連中は 「多様性」 を認めようとする。個人的には多少不快に感じるようなものごとでも、保守派ほどには 「おぞましい」 というレベルまで感じてしまうことが少ない。不快に対する耐性が高く、ごく自然に 「いろいろあっていいじゃん」 と思うことができる。森羅万象の存在意義を、積極的に認めようとする。

突き詰めると、リベラル派は 「多様性」 を尊重し、保守派は 「規範」 を尊重する。さらには 「なあなあで行こうや」 とするか、「きちっとやろうぜ」 とするかの違いというところまで突き詰められると思う。

私は自分の政治的考えを 「リベラル保守」 と位置付けているが、基本的には 「なあなあで行こうや」 派である。

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2015/10/03

「山場 CM」 の宿業から逃れるには

昨日の "広告、CM というものについて" という記事の中で、「山場 CM」 というものについてちょっと触れた。ところが 「まてよ、前にもそれについて書いたことがあったな」 という気がして検索してみたところ、一昨年の 8月にまさに "「山場 CM」 という業"  という記事を書いていたのだった。

このブログを始めた頃は、「決して同じことは書かない」 というポリシーみたいなものをもっていたが、10年以上も前にうっかり同じネタの繰り返しをやらかしてしまってから (参照) は、「まあ、長い間にゃ、そんなこともあるさ」 と開き直っている。同じネタでも、料理の仕方が変われば別の味がするだろう。

で、早速同じネタで料理の仕方を変えてみることにしたい。「山場 CM」 ということについて、まだ書いていないことがあるので、今日はそれを書く。

「山場 CM」 について、Wikipedia には次のような記載がある (参照)。

山場 CM に関しては86%が 「不快である」 と感じており、CM 明けのシーンの繰り返しには、74%が 「イライラする」 と回答した。山場 CM を含む番組については、84%が 「見たくない」。山場 CM の商品について 42%が 「好感が持てない」、34%が 「絶対買いたくない」 と回答。

つまり多くの視聴者が 「不快」 と思い、流された CM の商品を 「絶対買いたくない」 と回答しているにも関わらず、山場 CM は宿業のごとくなくならないのである。それはなぜなのか? そこには私が 「民放がじわじわと自殺行為をしている姿」 と言う所以があると思うのだ。そのヒントは、同じ Wikipedia にある次のようなデータである。

話の流れが落ち着いたところで出る 「一段落 CM」 と比較すると、山場 CM が 「商品を買いたくない」 で 3.8倍、「商品を覚えていない」 も 2倍と本来の効果をうち消していた。

「山場 CM」 はとても不快なので、そこで訴求された商品に関しては、「買いたくない」 とさえ思う視聴者が多い。しかしここで思い出されるのが、選挙カーの 「連呼」 である。

選挙カーで連呼ばかりしている候補者に関しては、「うるさくて迷惑なだけで、政策がちっとも訴えられていないから、絶対に投票しない」 と考える有権者が少なくないが、実際の結果は、大々的に連呼した候補者がぬけぬけと当選するケースがほとんどだ。それは、有権者は 「誰が連呼ばかりしていたか」 なんて、すぐに忘れてしまうか、忘れないまでも、投票の場面においてはそれが絶対的な基準とはなりにくいからである。

もっと言ってしまえば、ほとんどの候補者が連呼ばかりするから、実際には 「あいつには絶対に投票しない」 と狙いを定めることすら難しい。連呼ばかりの候補者を消していったら、連呼する費用も捻出できない泡沫候補しか残らないというパラドックスがある。

「山場 CM」 の商品にしても、「連呼ばかりする候補者」 と同じなのだ。上述の Wikipedia の記述でも、「商品を覚えていない」 という回答が 「一段落 CM」 の 2倍に達する」 との記述があるが、これは注目すべきことである。「反感」 よりも 「印象にすら残らない」 ということの方が、実際にはより悪く作用するのだ。

「山場 CM」 が始まるとすぐにチャンネルを変えてしまうとか、CM の間はひたすら感覚遮断してほかのことを考えながらやり過ごすとか、トイレに行くとか、録画して CM の部分だけ早送りしてしまうとかいう反応は、CM の 「無力化」 を意味する。

「否定」 よりも 「無力化」 の方が深刻だ。「嫌い」 は 「好き」 より困ったことだが、「興味がない/冷淡」 はさらに扱いにくいのと同じである。一番神経にひびく 「イジメ」 が 「シカト」 なんていうのとも通じる。選挙における投票率がやたら低いのと同じ構造が、CM の世界にもある。視聴者は CM に興味を失っているのだ。

ここまで考えると、昨年 5月の記事で触れた "「意識の95%は非言語」に広告の未来があるかも" という指摘が俄然現実味を帯びてくる。その最たるものが 「サブリミナル効果」 に訴えたりするヤバいやり方だ。

ドラマの中で特定商品を印象的な場面でさりげなく登場させるなんていう手法は、最近のハリウッド映画ではごくフツーに使われていたりする。いい場面で特定ブランドのビールが登場したりしたら、それはビール会社から金が出ているのだ。ハリウッドは映画の莫大な制作費を、この手の 「スポンサー料」 で補っている。

こうした手法は、使い方によってはかなりヤバいものにもなるから、かなり注意しなければならないのだがね。

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2015/10/02

広告、CM というものについて

iOS の Safari 上から公告を消してしまう Adblock という機能が話題を呼んでいたかと思ったら、さらに ABP (Adblock Plus) というものまで出てきて、私もついにインストールしてしまった。確かに邪魔くさい広告が消えて、しかも表示スピードが落ちたという気もしない。快適である。

そもそもウェブ上の広告はウザいと思う。Google などは広告料金で収益を得て、そのおかげで検索のみならずいろいろな無料サービスが実現されていると理解してるので、半分は申し訳ないような気もするが、やっぱりウザい。

そもそも、ウェブ上の広告なんてほとんど見ていない。目指すページに行き着いたとたんに前面に広告が表示されたとしても、私が注目するのは広告の内容ではなく、クリックして消し去るための 「×印」 だけである

Google で検索して目指す YouTube 動画に行き着いた時にも、たまに CM 動画が表示されたりするが、その間、私が注目しているのは 「○秒後に広告をスキップして動画に進めます」 の表示であり、その表示が 「広告をスキップ ▷」 に変わったら間髪入れずクリックするだけだ。だから 「今の広告、何だった?」 と聞かれても、全然覚えていない。

ちなみに、昔の広告はスキップするには惜しい力作が少なくなかった。1970〜80年代の TVCM には、番組そのものよりおもしろいものがたくさんあったと思う。しかし最近ではたまにテレビを見ても、CMがつまらない。制作に金をかけていないのだろう。

とくに 「山場 CM」 といわれるような、いいところでつまらない CM を挟むような姑息なことをやられると、さっさと別の番組に移るか、トイレに行くかする。うざい CM が終わるまでじっと待つのは、リモコンのなかった大昔の話で、今は逆効果でしかないのに、バラエティ番組では相変わらずこの手法が多用される。

バラエティ番組というのは、くだらないからこそおもしろいといえばおもしろいのだが、それでも 「山場 CM」 はその感興さえも台無しにする。不愉快な思いをしてまでくだらないものに付き合っていられるほど暇じゃない。無料の民放を見て不愉快になるよりも、有料でも CM の入らない NHK か WOWOW を見る方が精神衛生にいい。

もっと言ってしまえば、テレビの視聴者が CM を不愉快に感じるようになった原因が、あの 「山場 CM」 だとさえ思う。あれは民放がじわじわと自殺行為をしている姿かもしれない。

Apple が Adblock などの広告ブロックに力を入れるのは、広告収入によって無料サービスを提供する Google 潰しだと主張する人もいる。なるほど、それもあるかもしれないが、それならそれでもいい。Google の商売が打撃を蒙って継続できなくなるというなら、月額 2000円ぐらいなら払ってもいいとさえ思う。

昔みたいに、つい引きつけられてしまうような魅力的な CM が増えるというなら話は別だが、最近のは全然つまらないしね。

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2015/10/01

南庄内では 「終わらせる」 を 「おわす」 というらしい

昨日の記事の続きである。「出身地鑑定 方言チャート 100」 を試してみたところ、山形県庄内出身の私が、新潟県下越エリア出身と判定されてしまった件で、その誤判定のポイントは 「宿題を終わらせる」 を 「宿題をおわす」 というかどうかという問題だった。

私は 「おわす」 なんていう言い方をしたことがないので、「いいえ」 をクリックしたのだが、その途端に新潟県出身と判断されてしまったようなのである。それで、もしかしたら同じ庄内でも南庄内 (鶴岡エリア) では 「おわす」 と言うのかもしれないと思い、教示を呼びかけたところ、さっそく yukiho さんから "鶴岡では「終わす」と言います" というコメントをいただいた。

"「しゅぐではやぐおわしてままけ~」とか言われていました" とおっしゃるのである。庄内弁感覚のない方のために、念のため翻訳しておくが、これは 「宿題早く終わらせて飯喰え」 という意味である。庄内弁では 「食う」 は 「かね、(くいます)、く、くどぎ (食う時)、けば、け、こ」 と、変則四段活用になる。(ちなみに連用形の 「くいます」 はネイティブでは滅多に使われない)

なんと、やっぱり南庄内では 「終わらせる」 という意味合いで 「おわす」 と言うようなのである。「庄内弁」 とひとくくりにしてしまいがちだが、やはりそこはそれ、地域によって微妙な違いがあるものだ。そして 「小さな違いが大きな違い」 なのである。

こうした違いを目の当たりにするにつけ、「出羽国」 は庄内平野を横切る最上川によって 「羽前/羽後」 に分けられているという事実を思い出す。鶴岡市は羽前国で、私の生まれた酒田市は羽後国だ。同じ庄内藩だったのに、国が違う。

もっとも旧庄内藩が羽前と羽後という 2つの国にまたがっていたというわけではない。出羽国という律令制に基づく国は、なんと明治元年 12月 7日になって羽前国と羽後国に分割されたので、江戸時代の庄内藩は同じ 「出羽国」 だったのである。

羽前国はほぼ山形県全域だが、庄内の最上川以北は羽後国として、今の秋田県と一緒にされてしまったのである。これは戊辰戦争で最後まで官軍に逆らった庄内藩への懲罰的な措置として真っ二つに分割されたのだと、私はこれまで思っていたのだが、どうやら言葉も最上川を境として少々違っているという事情があるのだと、再認識した。

北庄内と南庄内の言葉の違いでかつて衝撃を受けたのが、「やばち」 という方言の意味合いである。私の生まれた北庄内では、「やばち」 は 「濡れて冷たい状態」 を言う。例えば道を歩いていて誤って打ち水をかけられたりした時に、「やばち!」 と言う。標準語では 「冷たい!」 などと言うところだが、それでは水に濡れた感覚を表現しきれない。「やばち」 はニュアンスに富んだ言葉である。

ところが南庄内では、打ち水をかけられたぐらいでは 「やばち」 とは言わないらしい。「やばち」 はもっと 「汚れた感覚」 がなければならないというのである。例えば油でドロドロに汚れた感じなどが、典型的な 「やばち」 という状態なのだそうだ。

だから北庄内では 「しぇんだぐもの、ひたが?」「まだやばち〜」 (「洗濯物乾いたか?」 「まだやばち = 濡れて冷たい」) という会話が成立するが、南庄内ではあり得ない。洗濯物が 南庄内流の 「やばち」 という言葉で表現されるような 「汚れた状態」であろうはずがないからである。

私は 50歳を過ぎるまでその違いを知らなかった。道理で酒田の人間がちょっと水に濡れただけであっけらかんと 「やばち〜」 なんて言うと、それを聞いた鶴岡の人間が怪訝な顔をするわけだ。「その程度で汚れたと思うなんて、酒田の連中、どんだけ綺麗好きなんだ?」 なんて思ってしまうのかもしれない。

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