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2016年3月に作成された投稿

2016/03/31

ワシントン条約によるウナギの輸出入規制に、私は賛成

ニホンウナギの稚魚 (シラスウナギ) の漁獲高が長期的に減少していて、宮崎県では 2015年度の実績が、347kg で、統計を取り始めた 1994年度以降、3番目の不漁となったと伝えられる、この傾向は宮崎県のみならず全国的な傾向で、とくに今期は西日本の不良が目立つと、読売新聞は報じている (参照)。

これに関し日本経済新聞は、ニホンウナギの輸出入がワシントン条約によって規制させるおそれがあると、次のように報じている。

日本は国際的な枠組みづくりを急いできたが、中国などとの溝が広がり、昨年9月に予定していた会合は中止し、再開のめどは立っていない。野生動植物の取引を規制するワシントン条約会議で輸出入規制を受ける恐れが出ている。

日本はシラスウナギによる養殖の量を減らす方向での国際協力を、中国、韓国、台湾に呼びかけたが、4カ国の利害が対立し、会議は中断されたままになっている。ウナギの最大の消費国である日本が、養殖量の規制を呼びかけながら、その消費量を減らさずに推移しているのだから、輸出で利益を得ている周辺国が、同意しないのもある意味当然だ。養殖すればするほど売れるのに、どうしてその量を減らさなければならないのかと考えるのも、ある意味当然である。

さらにシラスウナギの確保は、かなりの部分が密漁によって賄われている。中央大学法学部/ウナギ保全研究ユニットのリサーチによれば、我々が密漁ウナギに出会う確率は 50%と推定されるという (参照)。つまり、市場に流通しているウナギの半分は、密漁に依存しているのだ。

とまあ、ウナギの資源確保はかなり悲観的な状況になっている。このままではワシントン条約の規制によって、ウナギの輸出入が規制されても全然おかしくないし、私としては。当然そうすべきだと思っている。ところがマスコミ各紙は、遠回しながらそれを歓迎しない論調なのである。

日経は 「日本国内で流通するウナギのうち、輸入は2万トンと5割を超える。ワシントン条約で取引が規制されれば、さらなる価格上昇を招く可能性もある」 と報じ、読売は 「今秋に開かれるワシントン条約の締結国会議で輸出入の規制対象となれば流通量が激減し、ウナギの価格高騰につながる可能性がある」 と警鐘を鳴らす。

新聞記者諸君としては、「なにはどうあれ、ウナギの値段が上がっちゃ困るんだよ!」 という本音を伝えたいんじゃないかと疑いたくなるほどだ。よっぽどウナギを食いたいとみえる。

私は 3年近く前に、「ウナギのことを何も知らずに食べる罪 東京大学農学生命科学研究科の海部健三・特任助教に聞く」  という日経ビジネスの記事を紹介した。この記事の中で海部氏は、ウナギの現象は生態学的な警鐘であるとし、「それでも食べ続けるかどうかは、消費者が決めること」 と述べている。彼は 「食うな」 と押しつけはしないが、「問題を知っていながらこれまでのように食べ続けるのは、いかがなものか」 と言外に述べていると、私は受け取っている。

私自身は絶滅の危機にある魚を食うのは夢見が悪いから、この記事を紹介する 2ヶ月ほど前から 「当面、ウナギとマグロは食わないことにする」 と宣言し、それをずっと守っている。ウナギとマグロを食わなくても死ぬわけじゃないから、全然気楽なものである。日本人の多くがこうした気楽な宣言をして実行すれば、種の多様性は確保されるのだが、なぜかそういうことにはならない。

「生態系を破壊してまでウナギとマグロを食いたい」 というのは、私から見ると 「餓鬼道に落ちた者のおぞましい言い草」 にしか思われないのだがなあ。

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2016/03/30

「コアなゲームマニア」 と 「フツーのゲーム好き」 の絶妙な棲み分け

Wired に "モバイルゲーム 「課金」 の半分はわずか 0.19%のユーザーから" という記事がある。モバイルゲーム売上の48パーセントは、わずか0.19パーセントのユーザーから生み出されているというのである。この数字はモバイル・マーケティング会社スワーヴ (Swrve) が報告したものであるらしい。

これはゲームに多額の金をつぎ込む極々少数のゲームマニアによって、市場全体が支えられていることを意味する。何しろ 0.19% というのだから、ハンパなゲームマニアじゃない。そしてこの数字は 2年前からほんのわずかしか変わっていないというから、ずっとこんなもののようなのだ。

「上位 20%で、全体数量の 80%を占める」 というパレート法則どころじゃない。いや、もっと大ざっぱにみると 20% で 80% になるのかもしれないが、いずれにしても、ものすごく極端なデータである。Wired の記事は、モバイルゲームのターゲットは 「語弊はあるかもしれないが、いわゆるゲーム依存症のプレイヤー」 と言い切っている。

ここで思い出すのが、現在の新日本プロレスの親会社、プロシードの、木谷高明社長のコメントだ。「すべてのジャンルはコアなファンが潰す」 というのである (参照)。彼はまさに、「コアなファン」 の思い入れによって市場性を狭めていたプロレスを 「フツーのにいちゃん、ねえちゃん」 に解放し、「ライトなプロレスファン」 を作り出すことで、再生させたのである。

1000人のうちのたった 2人ぐらいに支えられているにすぎないモバイルゲームなんて、極々小さな市場というように聞こえる。そんな極端にオタクっぽい小さな市場がどうして潰れずにすんでいるのか、摩訶不思議に思われてしまう。

なんで潰れずにすんでいるのか、よく考えてみればそれは多分、モバイルゲームの市場は全然狭くなんかないからなのだろう。電車に乗ればかなりの乗客がスマホでゲームに興じている。モバイルゲームの市場は実はものすごく広いのだ。

このものすごく広いモバイルゲームの市場は、圧倒的に 「無料アプリ」 によって支えられている。彼らは電車内での時間つぶしにちょうどいいモバイルゲームを、金を出して買おうなんて、あまり思っていない。あるいは、一度金を出して買ったゲームでずっと長くプレイする。コンスタントに金を出すのは、極々少数の 「コアなゲームマニア」 なのだが、金を出さない 「フツーのゲーム好き」 は、その何百倍もいる。

つまりコアなファンなんて、全体からみればほんの少数派に過ぎないので、逆に市場としての健全さが保たれている。「金を出すのがほんの少数なのに、どうしてやっていけるんだ?」 ではないのだ。「ほんの少数のコアなマニアの外側に、ものすごく広大な裾野がある」 からこそ、モバイルゲームは潰れないと考えるのが、多分正解なのだろう。

言い方を変えると、「コアなゲームマニア」 と 「フツーのゲーム好き」 が、絶妙な形で棲み分けているのだろう。これって、マーケティングのケーススタディとして、なかなか面白い分野と言えるんじゃなかろうか。

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2016/03/29

組み体操の 「達成感」 とは何かを、再び問う

昨年の秋、大阪・八尾の中学校の運動会で発生した組み体操事故に触れた 「組み体操の達成感とは」 という記事の中で、私は 「大阪の八尾という地域は、このくらいの無茶をしても学校にねじ込みに来る 『モンスターペアレント』 がいない土地柄なのだろう」 と書いた。しかし組み体操の死亡事故は、八尾に限ったことではなかったらしい。

3月 25日の NHK ニュースは、「組み体操の練習中などに起きる事故は年間 8000件を超えていて、昨年度までの 46年間に 9人が死亡、障害が残った子どもは 92人に上る」 と伝えている。いやはや、学校というところはつまらないことに関してはすぐに 「危険だから禁止」 なんて言い出す割に、こんなに事故の多い組み体操を生徒にやらせるのは、大好きのようなのだ。

運動会などで組み体操をやらせたがる学校側の理屈は、いくつかのニュースを読んだ限りでは、「生徒に達成感を知ってほしい」 ということのようなのである。しかし私は昨年秋の記事で、その昔に組み体操をやらされた者の実感として次のように書いている。

「達成感」 ということについては、一番上に立つやつはそれを感じることもあったかもしれないが、一番下で支えているだけの者には無縁だった。何がなんだかわからないうちに成功を告げる笛が鳴り、最後にはいっぺんにペシャッと潰れて一丁上がりとなる。

どういうわけか 5〜6段ぐらいの規模だと、最後にタイミングを合わせて一斉に潰れると、怪我をすることはなかった。要するにそれだけのことで、いい思い出になったとか、達成感を味わったとかいう覚えはない。組み体操というのは周りで見ている者にはある種のカタルシスを感じさても、やってる当人たちにはおもしろくもなんともない。

要するに単なるスペクタクルで、見ている者にウケてやんやの喝采を浴びると、それをやらせた教師たちがいい気持ちになるのだろう。「達成感」 が欲しかったのは、当の教師だけだったのかもしれないね。

組み体操というものに関しては、半年経った今でも、結論はこれと同じである。あれはやらせる側の教師たちの方が 「達成感」 を味わいたいだけなのだ。やる側の生徒、とくに一番下の段で重さに耐えるだけの者にとっては、あんなもの、面白くも何ともないのだ。端で見ている教師は妙な 「達成感」 をもってしまうのかもしれないが、やらされてる生徒たちがそんなことを感じるかといえば、はなはだおぼつかない。

毎年何人もの生徒が怪我をして、そのうち、障害が残るほどの怪我が年間 2人のペースで発生し、5年に 1人が死ぬというほどの無茶を続けてきたのは、教師の側の 「達成感」 を満足させるためだったのではないかと、私は疑っているのである。

そして運動会の観客となる親たちも、それを見ることで何となくいい気持ちになってしまい、いつものように 「子供たちに危険なことをさせないでもらいたい」 とクレームをつけるのを忘れてしまっていたのだ。ある種のカタルシスは魔物である。当たり前のことから目を逸らさせてしまう。

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2016/03/28

「子供を 2人以上産むこと」 という校長発言

「女性にとって最も大切なことは子どもを 2人以上産むこと」 などと発言した大阪市立中学校の校長が、3月末で退職するという。この発言を問題視した市教育委員会が処分を検討していたが、学校などに賛否両論の電話が殺到したため、「学校や教育委員会に多大な迷惑をかけた」 として、自ら任用の辞退届を提出したものらしい。(参照

これ、単純発想からすると 「性差別的発言」 で言語道断となるわけだが、「学校などに賛否両論の電話が殺到」 という報道からも察せられるとおり、この発言を歓迎する向きもかなりある。なかなか複雑な問題なのだ。

確かに女性が 2人以上子供を産まないと 「日本絶滅」 になりかねないと心配している人たちにしてみれば、「最も大切なこと」 と言いたくなる気持ちもわからないではない。しかしそれは、「少子化対策が日本にとって最重要課題」 とする観点からのお話で、それ以外の価値感もあるのだということを忘れている。

「個人の能力を活かすこと」 を重視する人にとっては、「2人以上産むこと」 なんて、一律に強制されてはかなわないだろう。これはもう、「遠い将来の日本絶滅」 を避けるか、「現時点での個人の能力発揮」 を優先させるかという、二律背反の争いである。

つまり価値感の問題なのだ。なにしろ当の女性の中にも、「子供を産むことができるのは、私たち女性だけ」 なんて、「生物学的優性は、我が方にあり」 というような勢いで、やたらと誇らしそうに言い立てる人たちもいる。フェミニズムにもいろいろあるみたいなのだ。

そんなことを言われると、こちらとしてはおずおずと 「その妊娠に至らしめることができるのは、男性だけなんですけど」 と、言いたくもなるのだが。そんなことを言ってもあまり発展性がない。ただそうしたタイプの女性たちにとっては、今回の校長先生の発言は 「任せて頂戴!」 ってなことにもなるのだろう。

で、またしてもおずおずと、当たり前を言わせてもらえば、今回の校長先生の発言の最大の問題点は、「一般論として女性にとって最も大切なことは、子供を 2人以上産むこと」 と受け取られてしまう言い方をしちゃったことなんだろうと思うのである。確かにそう聞こえてしまうのだから、これは問題だ。単純理屈と人情ベースのみに立脚した発言をしたがる人は、現代の教育者としてふさわしくない。

私としてはその校長先生に、「別に全ての女性が 2人以上産まなくても、平均で 2人以上ってことでいいんでしょ?」 と確認してみたいところである。もしかしたら。「あ、そうか。それで OK です」 なんて言われるかもしれない。しかしそうした平均値を可能にするのは、さらに複雑な問題になる。

まったく当たり前のことだが、1人の女性が産む子供の数は、ゼロだったり、1人だったり、2人だったり、それ以上だったりする。産みたくない人は産まなければいいし、産みたい人は何人でも産めばいいのである。ただ、その 「産みたい人は何人でも産む」 ことが無理なく可能となる社会を作るのは、政治と教育が責任を持つべき問題だ。単に 「2人以上産め」 と言い放つだけでは、教育者としては甚だ配慮不足だろう。

ちなみにこうした発言への批判として、「産みたくても産めない人への差別発言だ」 という言い方がいつも出てきがちで、気持ちとしてはわかるのだが、私としてはそうしたステロタイプは避けたいと思っている。それはまた別の議論が必要になる問題だからだ。

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2016/03/27

「暑さ寒さも彼岸まで」 の、本当とウソ

よく 「暑さ寒さも彼岸まで」 といわれるが、それは半分ウソで半分本当である。冬から春への大きな変化で言えば、立春あたりを寒さの底として、そこからだんだん春らしさが現れ、彼岸頃には、いくら寒の戻りになっても、真冬の寒さほどにはならない。

しかし細かいことを言っちゃうと、今年みたいに彼岸の入りの頃にゴールデンウィーク頃のような暖かさになり、彼岸の中日を境にしてまた冬の寒さがぶり返すなんてことがある。おかげで今週初めに開花宣言が出された東京の桜も、その後の冷え込みで花が長持ちしている。

よく春先の天候変化を 「三寒四温」 なんていうが、これ本来、大陸では、冬の間の天気の変化を言ったものだというのは、結構知られているお話だ。中国や朝鮮半島の冬は、1週間単位で寒さと温かさが繰り返すことが多いらしいのである。ところが日本の冬ではそんな現象は滅多にないので、春先に寒さと温かさを繰り返しながら、だんだん本格的な春になるという意味で使われるようになった。

しかしこの日本流の 「三寒四温」 が、近頃妙に極端なような気がするのである。今年の春彼岸みたいに、暖かいと言ったら、外を歩いているだけで汗ばむほどの温かさになるし、それが一転して、一度しまったダウンパーカをまた引っ張り出すほどの寒さになる。

まあ、地球全体の気候が 「温暖化」 という名の 「極端化」 に向かっているのだから、これはもう 「そんなもんだ」 と認識して体を慣らしていかなければならないだろう。もう 1週間足らずで 4月になってしまうが、そうなるともう、25度以上の 「夏日」 とか 30度以上の 「真夏日」 なんていうのが、平気で出現するに違いないのである。

私なんか、うだるような暑さを今から覚悟しちゃってる。このままのペースで気候変化が続いたら、そのうち日本の夏は地獄の一丁目みたいなことになるだろう。

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2016/03/26

私の場合、学歴詐称ではなかったので、よろしく

私は自分のサイトのプロフィル欄に 「MA (文学修士)」 と記している。それでほんのたまに、自分が 「40年近く前に、ワセダで多分最初にデイパックで通学した男」 だとか (参照) 、「正味たった 2ヶ月の受験勉強をしたら、なんなくワセダに入れた」 とか (参照) 生意気なことを書いているので、まあ、一応はワセダの大学院 (前期課程だけどね) を出たと思われていると思う。

それは決して出任せじゃないのだが、「あれ? 俺、ずいぶん時間かけて修士論文書いて、それがちゃんと通ったってのは、確か本当のことで、記憶違いってわけじゃないよね」 なんて、頭の中がグルグルしてしまった。なにしろ 36年も前のことなので、「単に中退だったなんてことじゃなかったと思うんだけどなあ」 なんて、うろたえてしまったのである。

おりしもショーンなんとか氏の学歴訴訟がエラい話題になって、「学歴なんて、テキトーなこと言っていても滅多にバレないし」 なんて言われている。そんなこんなで、tak-shonai にしたって、本当のところはどうなんだか、知れたもんじゃないと思われても仕方のないところではあるだろう。

Img_5204 とまあ、そんなことを考えつつ、MacBook の外付け DVD ドライブを探していたら、書庫の奥から 「早稲田大學 學位記」 というのが出てきた。「これって、学部の卒業証書だったかなあ」 なんて思いながら開いたら、大学院の方のものだった。どこかにしまい込んだまま行方不明になったと思い込んでいたが、案外どうでもいいところからひょいと出てきた。

開いてみると、「本大學大學院文学研究科委員會において学位を授けるべきものと認め本大學院學則により文學修士の學位を授ける」 とある。それで、「ああ、間違いなかった。学歴詐称にならずに済んでよかった」 と、胸をなで下ろしているところである。

ちなみに、この 「文学修士 (MA)」 という学位は 「経営学修士 (MBA)」 なんかとは違い、世の中ではほとんど役に立たないもののようである。英語では "Master of Arts" (直訳すると、「芸術のマスター」) というので、個人的にはよほどカッコいいと思っているのだけどね。

それにしても、肝心の DVD ドライブの方はまだ見つかっていない。とりあえず今は 「文学修士」 なんていう学位より、ずっと必要としているのだが、一体どこにしまっちゃったかなあ。

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2016/03/25

「巫女さんのくせに」 発言への、的外れな批判

大西英男衆院議員(自民党所属) の 「巫女さんのくせに」 発言 (参照) が、「女性蔑視につながりかねない」 とか 「職業蔑視」 とか言われて批判されているが、それってあまりにも的外れなステロタイプだと思う。これ、文脈からみれば、女性や巫女という職業を蔑視しての発言ではないとわかる。

じゃあなんでまた 「巫女さんのくせに」 なんて言ったのかと想像するに、これはもう、「巫女さんは神社関係者なんだから、当然にも自民党支持であるべきなのに、『自民党はあまり好きじゃない』 とは一体どういうことなんだよ!」 と言っているのだとしか思われない。つまり 「蔑視」 という文脈ではなく、自分の政治的思い込みが外れたことによる 「軽率発言」 と解釈すべきだろう。

一般的傾向として、神社関係者は政治的には右側で、とくに 「右翼バネ」 発揮しまくりの安倍政権をかなり積極的に支持する人が多い。もちろん全員がそうというわけじゃないけど、その傾向が圧倒的に強いというのは、多くの人が認識しているだろう。

だから大西議員の 「私は神社関係を中心に回ったが、私の世話を焼いた巫女さんが 20歳くらいだった。投票が初めてだということだから、ひとつ口説いてやろうと思った」 という発言も、「投票が初めてということだから」 という文脈からすれば、まあ、言い方はオヤジ趣味丸出しで不愉快ではあるが、モロに下世話なことを狙っていたとも考えにくい。「自民党をヨロシクね」 というネタをダシにして、ちょっと仲良くなりたいぐらいのことは思ったのかもしれないけどね。

要するに大西発言は 「女性蔑視」 や 「職業蔑視」 という観点からではなく、「巫女さんなんだからさあ、『自民党大好き』 と言ってほしいよね」 という因習的思い込み、別の言い方をすれば、「職業的立場は政治的自由に先立つべき」 との理不尽な考えをポロッと白状しちゃったことによってこそ批判されるべきなのだ。

大西議員はもしかたら、「巫女さんが 『自民党があまり好きじゃない』 なんて、おかしいよね。神社関係者は身内みたいなものなんだからさあ」 という見解が、世間的にも共感されるだろうと考えたのかもしれないが、言い方のセンスがないせいで、おかしなことになってしまったわけだ。本来は 「自民党が好きじゃない」 という巫女さんがいてもいいのである。身内にとっては不愉快かもしれないが。

とまあ、ここまではポリティカル・コレクトネス (政治的公正) の視点からの見解を述べたわけだが、ここから先は、ちょっと 「下世話な人情論」 の視点でものを言う。

それはただ一言、「自民党はあまり好きじゃない」 と発言した巫女さん、「20歳にもなって、あまりにも率直すぎるものの言い方をしちゃったみたいだよね」 ということだ。政治家先生に仕事で接したんだから、もう少し配慮とかお愛想とかがあってもよかったよね。

一般企業でそんな言わなくてもいいことをお客に対して口走ったら、上司に怒られるレベルの馬鹿正直さである。トヨタの重役を案内した関連企業の女子社員が、「トヨタはあんまり好きじゃない」 と言ってるようなものだものね。

要するに 「どっちもどっち」 というお話なのだが、そこはそれ、本来なら酸いも甘いもかみ分けた大人の方が、上手なオチをつけてあげればよかったのである。大西議員、あまりにも芸がなさすぎだったのだ。

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2016/03/24

本宅サイトの移転中

2月 16日付の "「@homepage」 が終了してしまうとのことなので" という記事で触れたとおり、私が 「本宅サイト」 と呼んでいる 「庄内拓明の知のヴァーリトゥード」 というサイトを置いている 「@homepage」 というサービスが、ニフティの都合で終了してしまうので、La coocan というサイトへの移転を開始している。

@homepage の終了は 9月なので、まだ間があるのだが、間際になってあせりたくないし、せっかく上位を占めている Google 検索の結果もきちんと維持したいので、早めに開始しているわけだ。旧サイトのトップページには、新サイトへのリンクを入れているので、まあ、ご参考までにご覧頂きたい。

旧サイト: http://tak-shonai.la.coocan.jp/

新サイト: http://tak-shonai.la.coocan.jp/

どちらもほとんど同じように見えるが、同じものを別の 2つのサイトにおいているのだから、そりゃ当然だ。ただ旧サイトの方には、移転を知らせる案内を加えてある。というわけで、旧サイトにリンクを張ったり、ブックマークに登録したりしている方は、早めに新サイトの URL に変更していただければ幸いである。

ついでに言ってしまうと。本宅サイトのトップページに行くと、このココログの記事があたかもページの一部のように表示される。ココログのなかった昔は、サイトの中にエッセイを書いてそんなように表示していたので、その名残なのだ。このように表示されるというところが、私がいつまでも 「本宅サイト」 と呼んでこだわる所以でもある。

旧サイトはどうせ 9月以後は消えてしまうので、今後はこのブログのインデックスなども新サイトの方で更新して、旧サイトは放りっぱなしにするつもりである。旧 URL はなんだか懐かしい気もするが、新しい URL の方が、独自ドメインでもないのに "tak-shonai" の文字が前に出てくるので、ちょっとカッコいいかもしれない。まあ、見かけだけだけど。

これからは新サイト内のリンクの修正など (まあ、ほとんどは相対リンクなので、あまり苦労はしなくてすむだろうが) をしなければならないし、さらにもう一つのサイトである 「和歌ログ」 も、本宅サイト内のサブサイトにすることに決めたので、そっちの調整もしなければならない。まったくもって難儀なことである。

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2016/03/23

「勝った負けた」 の世界に入れ込みすぎると

遅ればせながら、プロ野球の勝敗に伴う金銭のやりとりに関する問題について書く。

読売から昨年のうちに 3人の野球賭博関与者が出て、それで一件落着かと思われたが、今年になってもう 1人発覚した。そのせいでナベツネの読売最高顧問 (だったっけ?) 辞任という効果まで生じて、一部では歓迎されたなんてこともあった。

しかしそれだけじゃなく、「声出し」 なんていう妙な慣行での金銭のやり取りなんていうのまで発覚して、ややこしいことになっている。これは 12球団で 7球団がやっていたんだそうだよ。「JCAST テレビウォッチ」 というページによると、こういうことなんだそうだ。(参照

円陣組んだ選手が 5000円を出し合い、巨人が勝てば先頭に立って声出しした選手が総取り。負けると声出しした選手が他の選手すべてに 1000円ずつ払っていた。

私としては 「へえ、そんなことやってたのか!」 と驚いた、というか、「そんなうっとうしいこと、ようやるわ」 と、馬鹿馬鹿しさを感じてしまった。球団としては、「ゲン担ぎ」 とか 「ご祝儀」 とかいう認識で、とくに問題になるとは思っていなかったらしい。まあ、確かにいわゆる 「賭博」 とは言いづらいかもしれないけどね。

しかし Diamond Online というサイトには、スポーツライターの相沢光一氏が、読売のケースを次のようにより詳しく紹介している。(参照

まず野手全員が、ひとり 1000円ずつ出し合う。試合に勝った場合は試合前の円陣で声出しを行なった選手がご祝儀として、その総額を受け取るというものだ。次の試合も同じ選手が声出し役を担当。ひとりが出す金額も連勝だと 3000円、3連勝だと 5000円と上がっていく。ベンチ入りの野手の人数は 17~18人程度。17人だとしても声出し役の選手は 1勝で 1万7000円、3連勝すれば 8万5000円が入るわけだ。

ここまでくると 「馬鹿馬鹿しい」 とか 「うっとうしい」 とかいうより、「頭悪いんじゃないの?」 というレベルである。ごくフツーに考えたら、少なくとも試合に勝つためのインセンティブになんかなっていないと思う。

だって、試合に勝ったら報奨金がもらえるとかいうならともかく、逆に勝つ度に 1人の野手が出さなければならない金額が増えて、それがたった 1人の選手に総取りされるなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがあるじゃないか。私なんかみみっちいから、連勝なんかしたくなくなっちゃうと思うぞ。それに、負けると 1000円もらえるなんて、厳密に言えば八百長の可能性を疑われても仕方がない。

ははあ、そうか、これで理解できた。プロ野球は 3試合のうち 2勝すれば勝率的にたいてい優勝できてしまうが、逆に言えば、優勝チームでも 3回やれば 1度は負けるということだ。これはきっと、野手の中で無意識的な 「連勝したくないシンドローム」 が蔓延しているせいなのだろう。まあ、これはもちろん冗談だが。

野球賭博の問題に関しては、いろいろな記事に 「野球選手は日頃から勝負の世界にいるので、勝った負けたの賭け事が好きな傾向がある」 なんてことが書かれている。しかし私はこれも理解できない。ビジネスとして勝ち負けの世界にいるなら、仕事を離れた時ぐらい、勝負とは無関係の世界にいたいと思うのが人情だと思っていたが、どうもそうじゃないらしいのだね。

このあたりは、「勝った負けた」 にあまり興味がなくて、自分でやるのも、試合形式の存在しない合気道とか登山とかいうことばかりだった私ごときには、理解を超えたお話なのかもしれない。理解を超えてしまうだけに、「勝った負けたの世界に入れ込みすぎると、頭がおかしくなるみたい」 なんて偏見まで抱いてしまうのである。

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2016/03/22

久しぶりで差出人が自分のアヤシいメールが届いた

久しぶりに自分から自分に送信されたように見える妙なメールが届いた。Thunderbird で開いた感じは下の画像。私は自分の Nifty アドレスを 「本人@nif」 という名前で 「連絡先」 に登録してあるので、そのように表示されている (おかげでスミで塗りつぶさずにそのまま表示できる)。ご覧のように、差出人も宛先も、同じ 「本人@nif」  だ。

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タイトルは "Document 2" というもので、見たとおり本文はなし。ただ、同じ名前の添付ファイル (zip 形式の圧縮ファイル) が付いている。一瞬、「ありゃ、自分宛てに何か大事なファイルを送ったっけかなあ?」 なんて思ってしまうが、そんなわけはない。どうやら、こんな感じの Document に 1〜2桁の数字のついたタイトルの迷惑メールが、最近やたら増えているらしい。

添付された zip ファイルを解凍するとどんなことになってしまうのか、ちょっと調べてみたら、「Document数字迷惑メールは自分宛て? JavaScriptファイル起動でウイルス感染!」 という記事が見つかった。

この記事によると、zip ファイルを解凍すると、JavaScript ファイル (拡張子 .js) が現れ、これをうっかりダブルクリックして実行させてしまうと、「Windows パソコンをターゲットにするランサムウェア (身代金型ウイルス) の1つ Locky (ロッキー) が外部ネットワークからひっそりと裏でダウンロードされてきて起動」 してしまうらしい。

なんだ、最近話題の Locky で悪さをさせるものだったのか (参照)。Windows パソコンでうっかり開いてしまうと、PC がロックされて操作を受け付けなくなり、それを解除するために、身代金を払えと要求されてしまうものらしい。さらに今回のは、自分の PC の中の住所録などをごっそりと抜き取られてしまうという噂もある。うっかり感染したら、踏んだり蹴ったりである。

さらにググってみると、「iPhone で開いてしまったけど、大丈夫?」 などという質問がのっかってたりするが、基本的に Windows PC で悪さをするものなので、iOS、Android、Mac などで開いても大丈夫。最近の若い人は PC を持たずに iPhone で何でもかんでも済ませてしまう人も多いらしいが、これに関しては心配するに及ばない。

さらに最近は 「アヤシいメールの添付ファイルは開かない」 というのが常識になっているし、大抵の人は差出人が自分自身なんていうわけのわからないメールは無視してしまうだろう。一方、こうした常識のない超初心者 (何年経っても初心者のままという人もいる) は、そもそも添付ファイルを開くということすらわかってないので、このウィルスに感染する可能性は低い。

ただ、中途半端に PC に慣れた非常識ユーザーだと、うっかりするとひっかかってしまうだろう。上述の 「iPhone で開いてしまったけど、大丈夫?」 なんて問い合わせをするユーザーもこの類いだが、このケースでは実害はないから、よかったねというほかない。

私の経験では一番厄介なのが、この 「中途半端に慣れた非常識ユーザー」 である。時々とんでもないことをして、泣きついてくる。

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2016/03/21

リュックサックとの長い付き合い

昔からある議論に 「男は外出時にバッグを持つべきか、持たざるべきか」 というのがある。男は小物類はポケットに入れて出歩くものであって、バッグなんか持ち歩くのは女々しいと主張する人が、まだ結構いるのだ。

しかし私は近所の散歩以外は基本的に用があって外出するので、その用を足すために持たなければならない道具立ては、ポケットには入りきれない。ジャケットを着る季節でも、財布、定期入れ、キーホルダー、ハンカチ、ポケット・ディッシュ、スマホ、ペン、名刺入れぐらいはポケットに入れるが、それ以上詰め込んで、ポケットをパンパンにしたくない。

小物だけでもスマホのモバイル・バッテリー、マイ箸、マイボトル等々、ポケットに入りきれないものがある上に、大抵の場合は書類やノートなども必要だから、バッグは必需品である。とくに夏場はジャケットを着ないから、ポケット・ティッシュ、ペン、名刺入れなどもバッグに入れなければならない。まともに用があって外出するのにバッグを持ち歩かないというのは、到底無理だ。

そんなわけで、私は電車に手ぶらで乗っている人を見ると、「特段の用もないのに、電車で出かけるのかなあ」 なんて、ちょっと不思議な思いがしてしまう。ジャケットやパーカなどを着ているなら、まだポケットにいろいろ入れているんだろうが、ジーンズにシャツといった軽装で手ぶらの男を見ると、いかにも無防備のように思えて仕方がない。

ちょっと前までは、「男は茶封筒を持ち歩けばいい」 なんて言う人もいた。会社のロゴの入った A4 書類の入る茶封筒に、他のモロモロも入れて持ち歩くというのである。しかしあれって、基本的に手に持たなければならないよね。私は 「手に何か持って出歩く」 というのに抵抗がある (ぶら下げられるならまだ OK) ので、茶封筒は敬遠する。そもそもあんなもの剥き出しで持ち歩いたら、それこそ 「社畜」 そのものだ。

さらにメンズ・クラッチバッグ (こんなやつ) なんていうのは、茶封筒以上に抵抗がある、どうもチャラいというか、こればかりは 「男のくせに……」 なんて、アンチ・バッグ派に共感してしまったりする。それにあんなものを抱えて外出なんかしたら、私は絶対にどこかに置き忘れてきてしまう。

私が普段持ち歩くのは、リュックサック・タイプの背中に背負えるものだ。私は40年近く前に、ワセダで多分最初にデイパックで通学した男で、それからずっと、荷物は背中に背負うのが一番だと思っている。外出の途中でちょっとした買い物 (本や雑誌など) をした時にも、手に持つのはうっとうしいから、リュックに入れてしまうし、とくに最近は駅まで自転車で行くので、背中に背負うスタイルは不可欠なのだ。

リュック・タイプのバッグとは、思えば長い付き合いである。

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2016/03/20

Apple 信者になりきれない私

14年 1月に Windows 7 搭載の Panasonic Let's Note から MacBook Pro に乗り換えて、2年以上が経過した。結論としては、「乗り換えてよかった」 と思っている。Mac ユーザーになりそこねて Windows 8 や 10 を使い続けている自分を、まったく想像できない。

Mac を買ったとたんに 「自分のマシン」 としてサクサク使い始めることができたという経験も、Apple ユーザーとしてはごく当然のことだが、買った時点ではとても新鮮なありがたみを感じた。iCloud のおかげで iPhone や iPad との同期が自動的にとれていたおかげである。Windows マシンを買い換えたら、引っ越し (使用環境の設定のことね) だけで 1日以上かかる。

Mac ユーザーになってまだ 2年しか経っていないのに、もうずっと前から馴染んでいるような気がする。この感覚自体が、「Mac は、というか、Apple のコンセプトは自分の性分に合う」 ことを証明していると思う。私は文系ユーザーは多分 Mac の方が使いやすいと感じるはずだと思っている。

今でも仕事場で Windows 7 のマシンを使い続けながら、「そのうち、イヤでも Windows 10 とかに乗り換えなきゃいけないんだよね。そうなったら、慣れるまで手間がかかるんだろうなあ」 なんてストレスを抱えている連中が不憫である。

ただ、私はいわゆる 「Apple 信者」 というわけではないと自己認識している。上述のごとく大変ありがたい iCloud というクラウド・システムだが、自分で作成したデータ・ファイルの保存という点では甚だ不便だ。だから私は、データの保存には "SugarSync" というクラウドを、多少お金を払って使っている。iCloud がごくフツーにデータ保存に対応してくれていたら、こんな無駄はしなくて済むのだが。

また、Apple の企業動向というのも、万全ではないと思っている。過去数年間は iPhone の大ヒットに伴って絶好調だったが、最近ではやや陰りが見えてきていると伝えられる。そりゃそうだ。Apple はここ数年の IT の状況にかなり最適化してきたのだから、その状況が変わったら対応しきれないというのは自然なことである。

とくに iPad の販売が不振と伝えられる。新発売の iPad Pro は好調らしいが、エンタープライズ市場で一巡したら、動きが止まるだろう。タブレットというのは、スマホほど頻繁に買い換えるものじゃないから、ある程度市場に行きわたったら、販売が減少するのは当然のことだ。

私自身の現状からすると、昨日の記事で書いたように、iPad はそれほどの 「必需品」 というわけじゃなくなっている。MacBook と iPhone の 2本立てで十分にやっていくことができる。とくに iPad は前述のように頻繁に買い換えるものじゃないから、比較的新しい iPhone と比べると動きが遅く感じられる。

そうなると、「画面が小さくても、サクサク動く iPhone の方がいいわ」 というわけで、ますます iPad を使わなくなる。私の場合、iPad はソファに寝転んで WOWOW on Demand の配信を見るための道具になってしまっている。サッカーや格闘技の番組を見るには、やはり iPhone の画面は小さすぎるし、ストリーム配信の映像を見る分には、動作が多少遅くても影響がない。

というわけで、私としては将来的には、メインマシンとしての iMac (デスクトップ) と、サブマシンとしての MacBook Air、そしてスマホの iPhone という 3本立てで行きたいという気がしているのだが、Apple としては、MacBook Air の位置づけを iPad Pro に統合していきたいのではないか思われるフシがある。そうなると、私としてはちょっと困る。

マーケット状況として 「我が世の春」 は過ぎ去ろうとしているのだから、Apple としては製品ラインナップの統合化を図って、利益効率を維持したいところなのだろうが、その方向性は私の個人的都合とちょっとずれてしまいそうだ。

あまりにもずれてしまったら、今度は Google さんに鞍替えして、サブマシンとして Chromebook を持ち歩くことになるかもしれない。Apple と Google のいいとこ取りをしてうまくコーディネートして使ったら、最強の組み合わせになるかもしれない。

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2016/03/19

私が 「旅先では iPad があれば十分」 と言えないのは

かなり前のことだが、PC はデスクトップとモバイル・ノートの 2台持ちだった時代がある。いつ頃かというと、OS が Windows 98 から Windows 2000 の時代だった。つまり前世紀末から今世紀初頭にかけてのことなので、まさに 「かなり前」 のお話に違いない。

当時のノート型はハードディスク容量が限られていることが多かったので、メインマシンはデスクトップにし、外出先での仕事用に小型のノートを持つというのが、なかなか便利だったのである。我ながらスタイリッシュなやり方だと思っていた。

ところがノート型も次第に進化し、メインマシンとして十分に使えるほどの性能とディスク容量になったので、Windows XP から 7 までは、Panasonic の Let's Note の 1台ですませてきた。軽量なので持ち運びも苦にならなかったし、2台持ちの頃はデータの同期が面倒だったが、1台で済むのだからそんな心配もない。

そして Mac ユーザーになってからは、しばらくは自宅で MacBook Pro を使い、出張にはもっぱら iPad を持ち歩いていた。iPad は PC と比べれば軽量だから、荷物は本当に軽くなる。MacBook、iPad、iPhone の 3台体制だが、中身は  iCloud でいつの間にか同期されてしまっているから、面倒がない。

ところが最近は、旅先でも iPad ではなく MacBook を持ち歩くようになった。本当は iPad の方が軽くてありがたいのだが、これはひとえにこのブログの更新のためである。ココログというブログ・サービスは、iPad では今イチやりにくくて、ストレスが溜まるのだ。これは iPad に外付けキーボードをつないで、テキストを入力しやすくすれば解決するというレベルの問題ではない。

ココログの編集画面は、iOS (iPhone と iPad の OS) のブラウザーへの対応が不十分で、記事の作成がやりにくい。画像の挿入にしても、実際の表示通りにできないのだ。これは iOS のデフォルト・ブラウザーである Safari だけの問題ではなく、ほかのブラウザーをインストールしてやってみても同じなので、既に諦めてしまった。

@nifty からは iPhone や iPad 向けに、ココログ編集用のアプリも提供されているが、これも同様の問題があり、決して使いやすいものではない。「こんなんだったら、Safari 上でやる方がまだマシじゃん」 と思ってしまう程度のものだ。そのせいで、「そのうち、デスクトップの iMac と、モバイル・ノートの MacBook Air の 2台持ちにしようかな」 なんて思っている。

近頃、「iPad Pro があれば、外出先では PC は必要ない」 とする記事があちこちで発表されている。それはあまりにも当然のことで、「外出先では iOS で十分。小難しい専門的な作業は、家やオフィスで PC を使ってやればいい」 ということになる。しかし私の実感としては、「そんなこといっても、やっぱり PC でないとやりにくいことがあるよね」 ということなのだ。

毎日 2本のココログ (この "Today's Crack" と 「和歌ログ」) を更新する私の場合は、「別に専門的じゃなく、ごくフツーにココログの記事を書くにも、iPad だとやりにくくてストレスが溜まっちゃうのだよ」 ということになるのだ。これは私の特殊事情ということになるのかもしれない。

つまり私が旅先に iPad ではなく MacBook を持ち歩くのは、Apple の問題というより @nifty の対応不十分のせいだといっていい。そのせいで下手すると、前世紀末のような、デスクトップとモバイル・ノートの 2台持ちということになってしまいそうなのだ。

ココログの編集画面が iOS に完全対応してくれれば、iPad でストレスなく記事更新作業ができて、私も 「旅先では iPad があれば十分」 と笑って言えるはずなのである。それが叶わないのは、個人的事情なのか、それとも @nifty の怠慢のせいなのか、心の中にちょっとしたモヤモヤがあるのだよね。

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2016/03/18

ショーンなんとかいう男のスキャンダル

ショーンなんとかいうおっさんが学歴詐称をして、ニュースショーを降板したというスキャンダルをラジオで聞いて、単に 「ふぅん」 と思っていた。全然知らない名前である。なにしろテレビは BS のサッカーと格闘技しか見ないし、たとえ名前を知っていたとしても、顔と一致することがほとんどない。

というわけで、全然 「知らんおっさん」 と思っていたが、たまたまネットのニュースで顔写真を見て、「あ、こいつなら知ってる!」 と思った。いつもガソリンを入れる近所のセルフのスタンドで、お馴染みの顔だったのだ。

自前で給油する度に、目の前の給油機の液晶画面に登場して、やたらキザな態度でクレジットカードをもつように薦めてくるのが、そのショーンなんとかだったのである。その画面を視界の端っこで眺め、私はいつも 「うっせーな! こいつ、一体何なの?」 と思っていた。

寒空の下で自前で給油する度に目の前に現れて、必要もないクレジットカードをエラソーに薦められるので、恐縮ながらちょっと不愉快な印象を抱いてしまっていたのである。少なくとも楽しく酒を飲み交わせそうなタイプじゃない。

てっきりチャラいタレントか何かとばかり思っていたが、MBA の資格をもつ経営コンサルという触れ込みだったとは、ちっとも知らなかった。まあ、それがウソとバレて、私の第一印象通りのチャラいタレントに成り下がっちゃったわけだが。

この件に関して小田嶋隆氏は連載するエッセイ 「ア・ピース・オブ・警句」 の中で、「ネット内の評判では 『そんな気がしていた』 という声が、意外なほど大きい」 と書いている。私自身はそこまで確かめたわけじゃないのだが、「最初からあやしいと思っていた」 「一目見てうさんくさいヤツだと確信していた」 なんていう書き込みがやたら多いんだそうだ。(参照

もちろん小田嶋氏自身はそうした声に、安易に 「そうだ、そうだ!」 と同調しているわけじゃなくて、多くの人に 「そこはかとなく怪しまれていた」 ようだと示唆した上で、次のように書かれている。

私自身は、なんとなく奇妙な印象を抱いてはいたものの、「怪しい」 とまでは思っていなかった。
というよりも、絵に描いたようなイケメンに偏見を抱きがちな自分の偏狭さをいましめていたりした。

とまあ、このように 「自分の偏狭さをいましめ」 つつも、何だかんだ言いながら 「なんとなく奇妙な印象を抱いてはいた」 というところまでは、控えめながら認めておられる。そして私自身となると 「奇妙な印象」 どころじゃなくて、上述の通り 「ちょっと不愉快な印象」 を抱いてしまっていたわけだ。

遺憾ながら、私の人を見かけで判断しちゃう傾向は、小田嶋氏よりずっと強いようなのである。これはもう、相当に反省しなきゃならない。

とはいえそのシェーンなんとかいう男は、どうやら 「人になんとなくうさんくさそうな印象を与える傾向」 があるらしいということは言えるだろう。ただ、いかにもイケメンで弁舌爽やかなので、素直に 「カッコいい!」 と思ってファンになっちゃう人もいたようで、印象が二分されちゃいがちな人物である。

まあ、要するに 「取扱注意」 ということだ。

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2016/03/17

ラジオ・ショッピングを巡る冒険

ラジオ・ショッピングでよくある手法に、さんざん値引きをして元の値段の半額ぐらいにし、その上で 「さらにもう一つお付けして、二つセットでこのお値段!」 というのがある。あまりテレビは見ないのだが、多分テレビ・ショッピングでも同じやり口があるのだろう。こんなのに出くわすと、私なんか 「2つもいらないから、1つでさらに半額にしてくれればいいのに」 と思ってしまう。

そして 「よっぽど在庫がだぶついていて、半分の手間ですっきり処分したいんだろうなあ」 なんて邪推する。さらに 「そんなにしてまでだぶついた在庫を処分したいなんて、どうせ大した商品じゃなかろう」 とまで考える。一見ウマい話には、とことん疑り深くなるところがあって、多分詐欺には引っかかりにくい性格だと思う。

また、「大好評につきなかなか入荷しにくい商品なので、今回は 200台限定での販売になります。これを逃すと、あとはいつご提供できるかわかりません!」 というのもある。そんなに受給が逼迫しているなら、安売りなんてする必要がないのに、不思議なことに思いっきり値引きしている。

そして 「なかなか入荷しにくい」 はずなのに、1ヶ月ちょっと経つと、同じ品物がまたまた 「200台限定で!」 という触れ込みで、しかも前回よりちょっと安い値段で売られたりする。大好評商品を台数限定で売っていても、あっという間に値崩れしてしまうのだね。

また、新製品のおまけに周辺商品を山ほど付けて、さらに値引きという売り方もある。これなんかは少しは売れそうな商品に、もうまともには売れそうにない型落ちの不良在庫をコバンザメのように引っ付けて、思いっきり厄介払いしてしまおうという魂胆なのかもしれない。ご苦労なことである。

とにかく、この手の売り方というのはよくわからないところがある。郊外のアウトレット・ショップなんかでも、「アウトレット用の別企画の商品 (つまり粗悪品)」 をわざわざ作って売ったりしているのだから、必ずしも 「お得」 というわけじゃない。もしかしたら、ラジオやテレビ・ショッピング用の特別企画商品なんていうのもあるのかもしれない。いや、きっとあるのだろう。あるのだとしか思えない。

聞こえのいい 「お買い得商品」 も、ある程度疑ってかかる方がいいだろうと、私は思っている。

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2016/03/16

「誘」 と 「誇」 の漢字の成り立ちから覚える

昨日の記事で 「誘う」 と 「誇る」 を手書きできないと告白したのを機に、この 2つをきちんと書き分けられるようにしようと思い、まずは漢字の根本からアプローチすることにした。そして 「OK 辞典」 というサイトで調べてみたところ、意外な事実がわかった。この 2つの漢字、似ているように見えて、実はまったく別の成り立ちだったのである。

とにかく 「へえ!」 とびっくりしてしまったのが、この 2つの部首は 「言偏 (ごんべん)」 なのだが、「誘」 という字の方は、結果的にそうなってしまっただけで、元の形はあんまり関係ないようなのだ。

まず、「言偏」 の成り立ちを調べると、こういうことのようなのである。(以下、画像はいずれも OK 辞典より)

1

そして、「誇」 の方の 「言偏」 は、これをまんま踏襲している。なるほど、ここまでわかればこの漢字はむしろ覚えやすい。「大きなことを言って、両手両脚を広げ、体を弓のようにふんぞり返らせた姿」 とイメージすればいいのだ。

Photo

ところが 「誘」 という字は、かなりややこしい。元々は 「言偏」 とは別の発想のようなのである。

Photo_2

この漢字の成り立ちの元々の発想は、羊に背後から近付いて小さく取り囲み、別の場所に移動するように導く」 ということのようなのである。言偏が付いているからといって、「言葉巧みに誘う」 というようなことじゃないみたいなのだ。物事というのは、本当に調べてみないとわからないものである。

ただ、この漢字を覚えるに当たっては、便宜的に 「秀でた言葉で誘惑する」 と覚えることにしよう。「羊をどうのこうの」 というより、こっちの方がずっと手っ取り早くて楽だ。

これで、これまで苦労してきた 2つの漢字の手書きはあっさりクリアできそうだ。めでたし、めでたし。

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2016/03/15

「誘う」 と 「誇る」 を手書きで書き分けられない

ビジネス文書はワープロで書くようになって久しい。私が社会に出て働くようになった 1980年代初頭頃までは、企画書なんかも手書きで書いていた。鉛筆で書いて、書き損じたところは消しゴムで消して修正し、それをコピーすると 「もっともらしい体裁になる」 なんて思われていた時代である。今からすればお笑い草だけど。

当時の私は英文を書く仕事をしていたから、必要に迫られてタイプライターを使い、その流れで 82〜3年頃には日本語を書くにもワープロ専用機 (富士通の OASYS ってやつだった) を使い始めた。そして Windows になる前の、MS-DOS という魔法の呪文みたいなのをキーボードで打ち込む時代に、既に PC に移行していた。

ビジネス文書の手書きからワープロへの移行を、当事者としてリアルタイムで (しかも割と早めに) 経験したというのは、ある意味貴重だろう。私より年上の世代の多くは定年を迎えるまでキーボードを敬遠し、もっと若い連中は手書きのビジネス文書なんて見たこともないだろうから。

というわけで私は 30年以上、メモ以外の文書を手書きで書くことがほとんどないライフスタイルである。そのせいで 「漢字を読めるけど書けない症候群」 が、どんどんひどくなっている。メモの時は時間の勝負だから、アヤシい漢字にはあえてこだわらず、カタカナで済ませてしまい、改めて調べ直すなんてこともない。だから、ますます漢字を忘れる。

この問題は、若い人ほどペーパーテストで手書きをしていた学生時代からさほど離れていないので、大きな問題になっていないんじゃないかと思う。ただ、安心してはいけない。時が経つにつれて、どんどん漢字を書けなくなる。

私の場合。とくにアヤシいのは 「誘う」 と 「誇る」 である。この 2つはちゃんと読み分けることができるのに、書く段になると 「ありゃ?」 となってしまって、カタカナで済ませる代表例になってしまっている。

まあ、メモなんて自分しか読まないし、人に読ませる文書にする時は PC を使うから、書けなくても全然実害はない。「tak-shonai は 『誘う』 と 『誇る』 を手書きできない」 と気付いているのは、私自身以外に世の中に一人もいないだろう。そんなことをわざわざこうして自分からバラしてしまうというのも、我ながら困った性分である。

ただ。こうして自らバラしたことをきっかけに、これからは 「誘う」 と 「誇る」 をきちんと手書きできるようになりたいものだと、殊勝にも思っているわけなのである。

40歳を過ぎてから島根県と鳥取県、さらに 50歳を過ぎて香川県と徳島県の位置関係を正確に把握できたのだから、還暦を過ぎて 2つの漢字を明確に書き分けることができるようになるというのも、できないことじゃないだろう。

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2016/03/14

「民進党」 というもの悲しい党名

"民主・維新: 新党は「民進党」" というニュースの見出しを見て、「ふ〜ん」 と思った。というか、「ふ〜んとしか思わなかった」 という方がより正確な表現だ。

これをブログに書こうかと思って、「民主党と、維新……、あれ、『維新』 って、正式な党名は何だっけ?」 なんて思ってしまい、ネットで調べたら 「維新の党」 というのが正解だった。知ってたような、知らなかったような、まあ、要するに 「維新」 の系統って、いろいろゴタゴタがあったのよね。

そしてとどのつまりは、「民主党と維新の党が寄り集まって 『民進党』 になる」 ということになって、ゴタゴタが拡大する方向にあるってことなのね。

いわゆる 「55年体制」 が崩壊してからこっち、日本新党とか、新進党とか、自由党とか、太陽党とか、みんなの党とか、いろいろな政党が現れては消えてきた。で、今回の 「民進党」 って、こう言っちゃナンだが 、イメージ的には 「ああ、またしても、『その類い』 の政党ができちゃったのね。そして、どうせ長続きしないのね」 と思わせてしまうに十分な名前である。

しかもこの名称は、図らずも台湾の 「民進党」 (正式には 「民主進歩党」 というらしいが) と同じで、向こうの方が 「元祖」 とか 「本家」 とか思われかねない。向こうからは  「同じ党名でうれしい」 との外交辞令的メッセージが届いたらしいが、「なんだかなあ」 と思ってしまうよね。

「自由党」 とか 「民主党」 とか 「社会党」 とか 「共産党」 とかは世界中にあって、それは別に当たり前の話だが、「民進党」 という造語っぽいのが二番煎じでは、ちょっともの悲しい。しかも 「民進党」 で略称じゃなく正式名称だというのも、いかにも苦し紛れみたいで、具体的な中身は 「う〜ん、ごにょごにょ……」 っぽいし。

まあ、これは単に無責任な 「イメージ」 でモノを言っているに過ぎないので、10年とか 20年経ってから 「最初は長続きしないと思ってたけど、結構しっかりやってくれて、十分馴染んじゃったよね」 なんてことにならないとも限らないし、できればそうあってもらいたいものだ。しかしどうしても、「そうはならないんじゃないかなあ」 という気がしてしまうのは、ちょっと幸先悪い。

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2016/03/13

「保育園落ちた日本死ね」 を巡る冒険

例の 「保育園落ちた日本死ね」 発言が国会で取り上げられ、それに対する自民党議員の野次がお粗末過ぎてますます話題になり、野次が一番目立った平沢勝栄議員が、テレビに出演して謝ったりしちゃってるらしい。昨日と今日は山口県まで長旅していたので、そんなことにまでなっていたとは知らなかったよ。

ホテルのテレビででちょっと見たところでは、民主党の山尾志桜里議員の質問に 「やめろよ、やめろ!」 「誰が書いたんだよ」 「匿名じゃないか」 「出典を明らかにしろ」 など、まあ、次元の低い野次が飛びまくっていた。この日本の国が、堂々と本名を名乗らないと何を言っても通らない国だったとは、初めて知った。

頭の古い議員たちにとっては、匿名ブログでの発言なんてわけのわからないものは、唾棄すべきものなんだろう。そしてそれに対する野次のヒステリックさは、自民党議員たちのこの問題に関する理解のなさを物語っていた。

彼らは要するに、女性は外に出て働かずに、家にいて家事と子育てをすべきで、自分の率直な考えをブログや SNS に書くなんて、大和撫子らしくないことと思っているのである。その価値感に真っ向から勝負を挑む 「匿名の口汚い発言」 なんて、ますます口汚くののしって 「なきもの」 にしなければならないと思っているのだ。

それだからこそ問題の本質を見ずに、「日本死ね」 という言葉が汚いなどと、枝葉末節に反応しまくってしまうのである。人は自分の理解できないことに対しては、沈黙して無視するか、無駄にヒステリックになるかのどちらかだ。

あの野次を飛ばした議員は、「私は今の世の中に付いて行けてません」 と、大声で宣伝しているようなものだったのである。だったら国民としては、「ああ、やっぱりそうなのね」 と理解して、次から票を投じなければいい。

それから、「保育園落ちたの私だ」 デモに関して、「落ちてないやつまで参加してる」 「詐欺だ」 なんて、次元の低いことを言う発言がネット上で相次いだというのにも、やっぱり笑ってしまった。

「落ちたの私だ」 というのは、「私はこの問題に関する怒りを共有する者である」 との意識を象徴的に示すレトリックである。「落ちてねえじゃねえか」 なんて非難するのは、これまた 「私は頭悪くて、単純事実以外は理解できません」 と告白しているようなものだ。

今回 「落ちてねえじゃねえか」 と言うなら、例のシャルリー・エプドの新聞社襲撃事件で "Je suis Charlie" (私はシャルリーだ) と書いたプラカードを掲げて行進した人たちにも、「お前、シャルリーじゃねえじゃねえか」 と言うべきだった。

私は別の意味で "Je ne suis pas Charlie" (私はシャルリーじゃない) と言ったけどね。(参照

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2016/03/12

またしても旅烏

またしても旅烏である。近頃、妙に山口県に来ている。先月は寒の戻りの激しい瀬戸内海に出て、寒風に震えたので、今回は 「多分無駄だろう」 と思うほど、ヒートテック肌着とダウンウエアを用意してきた。

それにしても、岡山県より先は移動に時間がかかる。飛行機は便数が限られて微妙に時間が無駄になるので、新幹線での移動を選ぶことが多い。島根県あたりだと飛行機の方が早いが、山陽路は新幹線が便利である。とはいえ 6時間ぐらいかかるので、ちょっとした長旅だ。

今回は仕事が溜まっていたので、新幹線車内で MacBook を開き、必死にキーボードを叩いた。新幹線はさすがに揺れが少ないので、車内で細かい仕事をしても気持ち悪くならずに済む。これが在来線の特急だと結構揺れるので、PC の画面を見つめ続けたら乗り物酔いするところだ。

一仕事して帰ったら、来週は島根県。今度は飛行機である。

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2016/03/11

東日本大震災から 5年

5年前のこの日、2時 46分頃、突然の大きな揺れに襲われた。その時のことを、当日の 「和歌ログ」 ではこう書いている。(参照

実は今日は昼過ぎまで自宅で仕事をしていて、5時頃に都内に用事があるので、ちょっと早めだが 2時半頃に家を出て、車で取手駅に向かった。そして途中で忘れ物に気付いて引き返し、家に戻って車から降りようとしたら、車が嘘のようにバウンドして降りられない。

一瞬、車がどうにかしてしまったのかと思ったが、すぐに地震と気付いた。ずいぶん長く揺れたように感じ、収まって家の中に飛び込むと、妻と末娘がテーブルの下に身を潜めて青くなっていた。

本当にあの時は、車のエンジンがどうにかなって爆発してしまうのではないかという気がして、「早く脱出しなきゃ!」 なんて思ってしまったよ。ところが実際には脱出しても家や電柱が波打って揺れているのだった。昭和 39年の新潟地震の時、私は小学校 6年生で廊下に立たされていて、あまりの揺れに一瞬 「思えば短い一生だった」 とまで思ったが、あの時よりも確実にすごい揺れだった。

我が家のある茨城県南部の震度は 6弱だった。近所では地割れが起き、家が傾き、瓦が落ち、塀が倒れ、惨憺たる有様だった。我が家は本棚の中身が落ち、床に落ちた食器が粉々に割れてしまっていたが、ありがたいことに被害は近所でも一番軽く済んだ。

電気と水道は止まらなかったし、地震直後の何も情報が入らなかった時点では 「今後 1週間は大きな余震に悩まされることになるだろうな」 ぐらいに考えていた。すぐに大津波が来ることや、そのせいで原発事故が起きるなんてことまでは、まったく考えが及ばなかった。地震そのものでは人はそんなに簡単には死なないが、津波は手の下しようがない。さらに原発事故の影響は延々と続く。

あの東日本大震災の発生を境として、日本は確かに変わった。最近、立て続けに福島に行く仕事があったが、現地ではあの日の記憶が今でも生々しい。そしてそればかりでなく、原発事故の後始末が遅々として進んでいないことを目の当たりにする。

安倍首相が東京オリンピック招致の際に、原発事故について誇らしげに "the situation is under control" (事態は統御されている) とスピーチしたが、「よく言うよ!」 と多くの人が思った。世の中、恥ずかしげもなく大きな声で言いさえすれば、でたらめでも通るのだ。まったくもって教育によろしくない。

さらに宮城県に行けば、仮設住宅に暮らす人がまだまだ多いことを知る。私の知り合いも何家族かがいまだに仮設住宅住まいだ。津波で亡くなった人も多い。震災後 1週間ぐらいかかって、私の身内や知人はほとんど無事と確認が取れたが、最後の最後に、妻の実家の身内の 5人が津波に呑まれたと知った(参照)。夫婦が両方とも東北出身だと、親類縁者のうちで誰か犠牲になっているケースが多い。

地震そのものは自然現象だから、罪はない。問題にすべきなのは、人間の側の防備や対策の甘さである。被害がここまで大きくなったのは、人間の営みとの合わせ技だ。その中でとくに大きな問題は、やはり原発であると言わざるを得ない。

世の中には 「原発事故が原因で死んだ人は一人もいないから、安全なのだ」 などと寝言を言う人もいる。しかし死ななきゃいいってもんじゃないのは、今に続く深刻な影響を見れば誰だってわかる。さらに言えば、原発事故が原因で死期を早めた人も多いことは明らかだ。

それがわからないのは、人間に対する愛情が足りないのである。はっきり言って、付き合いたくない人たちである。原発に関しては、「よく言うよ!」 という発言がやたらに目に付く。

あれから 5年経った。私個人と家族についていえば、被災者といえば被災者で、その後 1年ぐらいは高速道路を無料で利用する特権を与えられたが、被災者の中では一番軽いレベルである。

とはいえ、都内の山の手あたりに済んでいる人たちの体験とは、ちょっとレベルが違うほどに大変な思いをした。杉並区や世田谷区辺りにいた人の話を聞くと、「へえ、あの地震がその程度の印象で済んだんだ!」 と思ってしまうのである。

それだけに、いっぱしながらこの体験を風化させてはならないと思う。

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2016/03/10

ナビスコ プレミアム クラッカーを巡る冒険

山崎製パンは米ナビスコ社 (現モンデリーズ・インターナショナル) とのライセンス契約終了のため、子会社の 「ヤマザキナビスコ」 の社名を 「ヤマザキビスケット」 に変更し、今年 8月末で 4つの製品の製造を中止するのだそうだ。それで 「オレオ」 「リッツ」 「プレミアム」 「チップスアホイ」 の 4製品が消えるらしい。

おいおい、そりゃ悲しいなあ。私は 「オレオ」 「リッツ」 「チップスアホイ」 の 3つはどうでもいいが、「プレミアム」 (正しくは、「ナビスコ プレミアム クラッカー) には、ちょっと思い入れがあるのだよ。

Img_5081

「プレミアム」 は写真の通り、薄型の四角いクラッカーで、さりげない塩味がなかなかイケる。私はスナック菓子はほとんど食べないが、これだけはどういうわけか、昔から大好きなのである。

とくに 20代から 30代にかけて盛んに山登りをしていた頃は、ずいぶん重宝した。昼飯をゆっくり食っている時間も惜しいほどの駆け足の縦走をしている時など、シャリバテ寸前の体を、小袋 1パック (6枚入り) のプレミアムクラッカーが何度も救ってくれた。

腹ぺこのあまり、もう一歩も足を踏み出せないんじゃないかと思うような時も、リュックからこの小袋を取り出し、ポリポリと 1枚かじるだけで、元気が出て歩き始めることができる。あとは歩きながら残りの 5枚を食べれば、夕方まで体力が続く。

(食べたばかりのスナック菓子がすぐにエネルギーに変わるわけでもないのに、即効的に元気が出てしまうことの不思議に関しては、想定される脳内メカニズムを 10年前に 「ビスケット 1枚で元気が出る不思議」 という記事で書いている。ただし私はこの方面の専門家じゃないので、間違っていたらご指摘いただきたい)

私は山登りの時には決まって、このプレミアムクラッカーをリュックに入れていた。それは味と食感が好きだからという他にも、形が四角なのでリュックの中のスペースが無駄にならないという、ものすごくセコい理由もあった。丸が四角に変わっただけで節約されるスペースなんて、微々たるものなのだろうが、まあ、気は心である。

というわけで、私はこのプレミアム クラッカーに関しては特別の思い入れがあるのだ。9月以降は、モンデリーズジャパンが製造販売するというので、「なんだ、その会社?」 と思って調べたら、リカルデントとかクロレッツとかを売ってる会社らしい。その会社は、ちゃんとしたプレミアムクラッカーを作って、そしてきちんと流通経路に載せてくれるんだろうな。

まかり間違って新会社ヤマザキビスケットの作る二番煎じ商品に負け、日本市場から消えてしまったりしないよう、祈るばかりである。

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2016/03/09

広島の 「指導死」 の考察

「広島の中学 3年生が、進路指導で万引きの濡れ衣着せられて自殺」 というニュースで、かなり気分が悪くなった。近頃は 「指導死」 という言葉があるのだそうだ。学校の指導のせいで、生徒が死に追い込まれることがあるというのである。

学校側は、この生徒が万引きしておらず、非行記録は誤っていると 2年も前に認識していたが、書面上で訂正しただけで、サーバの元のデータはそのまま放置していたという。こんな 「データ管理の、いろのは 『い』」 もわかっていない教師たちに、「指導」 されたいと思う者はいないだろう。

しかし私の疑問の中心はそこにあるのではない。恐縮ながら、学校の教師の多くが 「常識をわかってない」 のは元々承知しているから、今さら驚かない。わからないのは、自殺した生徒は 「自分は万引きなんかやってない」 と主張しなかったのだろうかということだ。

いや、身に覚えのない万引きを理由に志望校への推薦ができないと言われて、「はい、そうですか」 と黙って引き下がったとは、到底考えにくい。少なくとも 「自分はそんなことはしていない」 と、一言ぐらいは言ったと思うのである。もしかしたら、「2年も前に濡れ衣と判明してるじゃないか」 ぐらいのことも言ったかも知れない。

もし生徒が潔白を主張していたのだとしたら、教師はそれを聞く耳をまったく持たなかったのだと考えるほかない。生徒が冷静に説明しようとしても、「言い訳なんか聞きたくない、黙れ!」 とばかり、受け付けなかったのかもしれない。いずれにしても、その教師は思い込みの激しい高圧的なキャラだったのだろうと想像する。教師として一番いやなタイプだ。

疑問はさらに続く。もしその教師が聞く耳を持たなかったのだとしても、生徒は親なり他の教師なりに、それを訴えなかったのだろうか。高校進学という大きな問題なのだから、普通はそれくらいするだろう。ましてや濡れ衣なのだもの。怒りまくって大声で皆にそれを訴えても、少しもおかしくない。

普通に想定されるアクションを何も取らないままに自殺を選んでしまったのだとしたら、この生徒は世の中によほど深く絶望してしまっていたのだろう。自殺の直接のトリガーは、この進路指導のミステイクなのかもしれないが、それ以前に、世の中への絶望感を限界近くまでため込んでいたのではなかろうか。

進路指導やデータ管理の問題以前に、この中学校の基本的な教育のあり方がどんなものだったのかが問われる。それはだんだん漏れてくるだろう。要するに教師と生徒の間に信頼がなかったのだ。

【3月 10日 追記】

実はこの記事の背景に関して自分なりに推理してみて、「なるほど、こういうことなら疑問が解決する」 と思ったことがある。よっぽどそこまで書いてしまおうかとも思ったが、まあ、それを書いたところで誰もハッピーにならないし、ブログ炎上になってしまいそうなので、止めておくことにした。

思わせぶりでごめん。

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2016/03/08

今日の暑さと、また来る寒さ

今日の関東は連休頃の暖かさになってしまったらしい。茨城県南西部は朝のうちの霧がなかなか晴れず、昼前頃になってようやく日射しが届き始めたので、午前中はそんなに暖かいとは思わなかった。しかし午後 2時過ぎになると、昨日までのような服装では汗だくになってしまうほどの暑さになった。

しかし週の後半は再び真冬のような寒さが戻るらしい。いくら三寒四温などと言っても、あまりにも変化が激しすぎる。

そういえば、東日本大震災はもう 5年前のこととなってしまったが。あの年の 3月も寒い春だった。とくに震災以後の半月ほどは、いつまでも冬の季節風が北西から吹き付けて、冷え冷えとしていた。

当時は 「避難所で寝泊まりしている人も多いのに、なんて非情な木枯らしなんだ」 と思っていたが、後になって考え直すと、あれは原発事故で発生した放射性物質を陸地と反対方向に押し出す 「神風」 だったのではないかと思える。春の東風が吹いていたら、内陸部の放射線量はずっと高くなってしまっていたに違いない。

今年は、冬の季節風がそんなに長く吹き続ける必要はないのだが、いつまでも思い出したように木枯らしが吹く。原発事故から 5年経った今、あの年の感覚を風化させないように、こんなような天気になっているのかもしれない。

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2016/03/07

単語登録って、本当に難しかったりするようなのだ

2013年 11月 12日に 「どうして単語登録の手間を惜しむ?」 という記事を書いた。PC を使って仕事をしているくせに、日常的に使用する業界用語や決まり文句、固有名詞などを単語登録するということを、まったく意識していない人が多いことに驚いたのがきっかけだった。

いつも使う単語を登録しないと、舌を噛みそうな (キーボードで入力する場合は、指がもつれそうな) 社名や業界用語を打つのに苦労したり、人名の変換ミス (隆史/孝/貴志 など) で失礼なことになってしまったりしがちだ。最初に単語登録する手間さえ惜しまなければ、後は一生楽ができるのに、どうしてその手間を惜しむのか、まったく理解できなかった。

しかし最近、少し理解できたような気がする。多くの人が単語登録のやり方を知らないのだ。

「そんなことはなかろう。言語バーの 『単語登録』 というのをクリックしさえすれば、簡単にできるよ」 と言う人も多い。実は私も最近までそう思っていた。というのは私は、Windows ユーザーだった頃から、Mac ユーザーとなった今に至るまで、PC 画面にはいつも 言語バーを表示させている。こんなようなヤツだ。

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この言語バーのメニューから 「単語登録」 というのを選んでクリックすれば、すぐに処理できる。おかげで 「明けましておめでとうございます」 という単語を、「あけおめ」 と入力するだけで変換させたり、「よろおね」 で 「よろしくお願いいたします」 にしたり、「めち」 で 「経済産業省」 (英語略称が "METI" なので)と変換させたりできる。

ところがこの言語バーの表示というのが、最近は案外難しい設定になっているようなのだ。そのせいで、「単語登録って、どうすればいいのかわからない」 なんて言うのである。なるほど、言語バーが表示されていなかったら、「単語登録するのが面倒で……」 というのもわからないではない。

最近、「じゃあ、表示させて上げるよ」 と言ってやってみたのだが、「あれ、どうするんだ?」 と戸惑ってしまった。Windows から離れて久しいので、設定の仕方を忘れてしまったのかと思ったのだが、どうもそういうわけでもないらしい。Windows 8 では (さらに Windows 7 でも設定によっては)、言語バーが容易には表示されないようなのだ。

Windows 7で言語バーが表示されなくなった場合の対処方法

Windows 8 / 8.1で言語バーが表示されない場合の対処方法

上記のページを参照すれば、言語バーを表示させる方法が記されているのだが、そもそも、どうしてこんな不親切なことになっているのか、Microsoft の気が知れない。

こんな無粋な OS のせいで、単語登録をすることによる快適さを体験することなく、「PC って面倒なもの」 と一生思い続ける人が多いことを、私は本当に不憫に思う。

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2016/03/06

新国立競技場の聖火台を巡る冒険

新国立競技場の設計案で、聖火台設置に関する問題がすっぽり抜けていたというのは、かなりウケた。

そうだよね。あまりにも当たり前のことって、人間は案外忘れてしまう。いや、すっかり忘れてしまうわけじゃないが、「自分自身にとって差し迫った案件」 とは誰も認識しないまま、薄ぼんやりと 「誰かが対応してくれてるはず」 と思い、気付いた時には誰も手を付けていなかったってなことになる。

私にも似たような経験がある。ある案件でパンフレットを作ろうということになり、内容については検討に検討を重ね、何度も見直して 「これで問題ない」 という最終段階にまでこぎつけて印刷を発注した。しかし納品されたパンフレットを見ると、表紙のタイトルが完全な変換ミスになっていた。

印刷された完成品を見れば誰もがすぐに気付くのに、原稿段階では全員が内容にばかり気を取られて、表紙の間違いに気付かなかった。そのタイトルがあまりにも専門用語すぎたもので、印刷屋にしても疑問を感じて確認しようという発想に至らなかったらしい。

というわけで、私は 「そういうことって、あるよねぇ」 と、「面白ネタ」 として半分は喜んでしまったのだが、周囲を見るとそんな反応は案外稀で、中には怒っちゃてる人もいる。「役人の質の低下」 とか 「無責任体質」 とか、あるいは 「役人も建築家も馬鹿ばっかり!」 とか言って、本気で怒りまくっているのだ。

マスコミ関係には、こういうことに関して怒りまくってみせるのが仕事と思っている人も多いので、まあ、別にいいのだが、ごくフツーの民間人にまで怒りまくっているというか、そのココロは鬼の首でも取ったように喜んでる人がいる。そんな人を見ると私なんか、この人よっぽどストレスが溜まっているのかなあと、心配になってしまう。

それから、もう一つウケてしまったのは、「どうするの? 一度決まっちゃったんだから、もう変更きかないんでしょ」 と、本気で心配しちゃう人もいるってことだ。まあ、純真すぎる人なんだろうね。振り込め詐欺にひっかかりやすいんじゃないかなんて、心配になったりしてしまう。

こういうことが起きると、起こってしまった事実そのものよりも、それを受け止める人の反応をウォッチする方が面白かったりする。

私は 「テロ対策のため、遠く離れた箱根山の上に聖火台を造り、競技場ではそれを大型液晶画面で眺めるという方式にしました。聖火リレーは、箱根駅伝の再現で盛り上げます!」 なんてのが、設計変更も最低限で済むし、いいんじゃないかと思ったりするのだが、多分、IOC 側の仕様条件に合わなくてボツになっちゃうだろうね。

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2016/03/05

インターネット広告の印象

インターネット広告の額は 2〜3年前に新聞広告の額を上回るようになり、近年ではテレビ広告に次いで 2番目の地位を占めるようになっているそうだ。そしてある試算によると、2020年頃にはテレビ広告をも上回るようになるという見方もある。つまりインターネットは近い将来、最大の広告メディアになるということだ。

実感としては、近頃テレビ CM がやたらうっとうしく感じる。とくに 「山場 CM」 と呼ばれる、いいところで突然 CM に変わってしまうというやり方にはうんざりしていて、そのような CM が入ると、スイッチを切ることにしている。どうせ続きなんか見たって、大したもんじゃないんだから。

というわけで、私はテレビはあまり見ないのだが、見るとすれば BS NHK と WOWOW がほとんどだ。CM がないので、いらいらせずに済むからね。とくにボクシング中継などではラウンドの合間にも広告が流れずに、それぞれのコーナーでの選手の様子がわかり、セコンドがどんなことを言ってるかまでわかるので、なかなかいい。

そうでなくても、テレビ番組は録画で、CM の部分は飛ばして見るという人も多い。昔は飛ばしてしまうには惜しいほどの力作 CM も多かったが、最近ではそんなようなのはめっきり減った。それだけ CM 制作に金をかけられなくなっているのだろう。スポンサーからの収入が減るのだから番組製作費も削られて、テレビ自体がつまらなくなった。

そんな状況だから、広告の主要メディアがインターネットに移行するというのもわからないではない。

ただ、私の場合はインターネット上の広告なんてほとんど注目しない。日経のサイトによくある、記事を読もうとするとその前に広告が現れるというスタイルでも、広告の内容なんて全然見ないで、ひたすら画面の右上に注目する。そこに表示される 「広告をスキップする」 の文字をさくっとクリックするためだ。

要するにインターネット上の広告なんて、ほとんど印象に残らない。それは新聞広告のほとんどが印象に残らないのと同じことで、広告なんてしょせんその程度の効果しかないのだろう。とはいえ、広告のクライアントも代理店も、もう少し印象に残るインターネット広告の手法を開発すべきかもしれない。

インターネット上での広告の見せ方は、テレビ以上のインパクトを発揮することだって可能だろう。しかもこちらとしては、見たくなければクリックしてさっさと別のページに移ればいいのだから、おしつけがましさやうっとうしさもない。

広告媒体としてのインターネットの可能性は、案外大きいかもしれないね。

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2016/03/04

クルマの運転で眠くてたまらなくなったら

近頃、クルマを運転して仕事の現場に向かうことが続いて、ちょっと疲れ気味である。往復 150km から 450km ぐらいのロングドライブを 1週間に 4回も 5回もこなしては、神経が疲れるし、腰にも来る。

若い頃だったら、往復 500km ぐらいのロングドライブを週に何度もこなして、割と平気でいた。「運転は座っていさえすればいいのだから、疲れるわけが亡い」 なんて、半ば本気で考えていた。しかし還暦を過ぎてみると、やはり疲労が溜まり、一晩寝たぐらいでは完全には回復しなくなる。

若い頃と最も違うのは、運転していて睡魔が襲ってくることである。眠くてたまらなくなるのだ。そりゃ、若い頃だって眠気は襲ってきたが、ほっぺたを叩いたり太股をつねったりして、起きていられた。しかし最近は、眠いといったら金輪際眠い。本当に起きていられないのである。

運転していて、一瞬だがぼうっと気が遠くなることがある。「眠っちゃいかん、目を閉じちゃいかん」 と思っていると、目は開いたままで、いつの間にか目玉だけがひっくりかえって白目になってしまっているような時もある。

いずれにしてもそれはほんの一瞬なのだが、やはりぞっとする。このまま運転し続けていたら、命がなくなるかもしれないと思う。自分が死ぬのはいいが、他人にまで危害を及ぼすような死に方はしたくない。

というわけで、最近は 「この眠気はかなりのものだな」 と思ったら、とにかくクルマを停めて寝るようにしている。高速道路だったら、パーキングエリア、一般道だったらコンビニの駐車場とか、道の駅とか、まあ、停めるところは結構どこにでもある。そこでリクライニングシートを倒して眠ってしまうのだ。

幸いなことに私は、どこででも眠れるタイプである。ただでさえどこででも眠れるのに、とにかく眠くてたまらないのだから、あっという間に眠りに落ちる。そしてうまくしたもので、大体 20分から 30分ぐらい寝ると、自然に目が覚める。

もちろんエコ派の私としては、エンジンをかけっぱなしてエアコンを効かせて寝るなんてことは絶対にしないから、今の時期なら寒くて目が覚めるし、夏なら暑くて長くは寝ていられない。春や秋でも、リクライニングシートに仰向けになっているのは案外楽なものじゃなくて、自然に目が覚める。時には自分のいびきにびっくりして目が覚めたりもする。

この 20分から 30分ぐらいで目が覚めるというのがいいのである。このくらい寝てしまうと、かなりスッキリして眠気は吹っ飛ぶ。まかり間違って 40分以上寝てしまうと、今度は体がすっかり本格的な睡眠モードに移行してしまい、ちょっとやそっとでは起きられなくなってしまう。だから、寒さや暑さで目が覚めるぐらいがちょうどいい。

というわけで、私は死にもせずにしぶとく生き残っている。まだまだこの世で果たすべきミッションが残っているらしい。

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2016/03/03

私が寿司にそそられないのは

大方の人は寿司 (ここでは江戸前の寿司に限定したお話とさせていただく) がお好きのようで、「大好き」 という人も多いのだが、私はそれほどそそられない。いや、いつも言うように、私は嫌いな食べ物がないので、寿司にしても 「嫌い」 ってわけじゃない。ただ、「そんなに騒ぐほどのものかなあ」 と思ってしまうのである。

私にとっての寿司というのは、「仕事の途中などでゆっくり食事している時間がない時に、ささっと済ませるのにちょうどいいよね」 という程度のランクである。だから大抵は回転寿司で済ませてしまう。

そりゃ、たまには高い寿司だって食うことがある。そんな時には友人知人と一緒の会席が多いので、一応気を遣って 「おいしいですね」 みたいな顔をする。しかし内心では、 「やたら高い金を払っても、寿司ってこの程度のものなんだよなあ」 と思ってしまうのだ。世間で高級とされる店で食うほど、その思いは強まってしまう。申し訳ないけど。

で、最近気付いたのだが、私は刺身とメシは別々に食いたいのだ。あるいは、海鮮丼みたいな食べ方ならものすごくおいしいと思ったりする。つまり、私が寿司に対してあまりホットになれないのは、あの 「酢飯」 というやつのせいなんじゃないかと思い当たった。

調べてみると、寿司に使う 「酢飯」 というのは、酢だけじゃなく結構な量の砂糖をぶち込むらしいのである。道理でおかしいと思ったよ。私はケーキやお菓子以外に砂糖を使うというのが、信じられないというタイプなのだ。できれば蕎麦汁だって砂糖なんて使って欲しくないのである。

ところが最近では、海鮮丼の類いまで酢飯を使う店が出てきたようなのだ。ちらし寿司じゃあるまいし、海鮮丼はごく普通の白いおまんまにしてもらいたいものなのである。

「寿司は世界に誇るべき食文化」 と礼賛する風潮に洗脳されて、「寿司はおいしい」 と思い込んでいるだけの人って、実は多いんじゃないかなあ。冷静に味わってみれば、酢飯なんかとカップリングしておいしい魚を食うのは、ちょっともったいないとわかるんじゃないかと、私は思っているのである。あまり大きな声で言うと、「お前は寿司をわかっていない」 と非難されてしまいそうだが。

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2016/03/02

スギ花粉症がひどくなってきた

2月中旬頃までは、「今年は花粉症の症状が軽く済みそうだな」 と思っていた。しかしそれの淡い期待は 2月下旬から裏切られた。

とくにこの 2〜3日はかなり辛い。鼻がつまり、つまるだけならまだしも、鼻水が止まらない。目の縁が痒い。いや、目の縁だけじゃ泣く、顔全体まで痒い気がする。そして時々、くしゃみが止まらなくなる。

昨年秋に 「カモガヤ花粉症」 を発症した妻は、スギの花粉は全然平気のようで、涼しい顔をしている。しかし、一度は辛い思いを経験しただけに、少しは同情心が芽生えたようで、「大丈夫?」 なんて言ってくれる。いや、大丈夫なわけないのだが。

今日はとみに風が強いので、花粉がことさらに舞っているらしく、かなり大変なことになっているので、「アレグラ FX」 という薬を飲み始めた。ああ、あと 1ヶ月ぐらいの辛抱である。毎年のこととはいえ、気が重い。

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2016/03/01

「色」 は脳内にある

"「色」は光にはなく、脳の中にある" という日経ビジネスの記事を、とても興味深く読んだ。我々が知覚している 「色」 というのは、物質 (物質からくる光の波長) 固有のものではなく、我々の脳が波長に応じてそこに 「色」 として塗って見ているというか、貼り付けて見ているというか、まあ、そんなようなものであるというのだ。

このことについては、前から知ってはいた。もっと言えば、あまりよくは知らなかった頃から、「色」 というのは人間が人間の都合で認識しているのだということは、何となくそんなようなものとはわかっていた。とはいいながら、それほどしっくりきていたわけじゃなかった。

例えば大学の哲学の授業などで、教授がもったいぶって 「ここに花がある。赤い花である。しかしそれは本当に 『ここに赤い花がある』 と言えるのか」 なんてことから講義を切り出す。こちらとしては 「なるほど、哲学のとっかかりとしては、そういうところから入るわけね」 なんて思いながらも、遠い世界の話のような気がする。

凡人は 「だって、赤い花。あるじゃん」 なんて思いがちなのだ。そんなこんなで、哲学というのは役にも立たない暇人の知的遊戯なんてことに落とし込まれてしまう。

ところが脳科学の視点からこのように 「色は脳内にある」 と立証されてみると、哲学は俄然プラクティカルなものになる。「へえ、哲学ってその辺りのことを、ずっと昔から問題にしてたんだ」 と、凡人にもやっと理解される。

ただ、哲学の立場からこの辺りの認識論にあまりに深入りすぎると、哲学の醍醐味である存在論や形而上学に行けなくなってしまうような気もするのだよね。もうここまでくると好き好きの問題のような気もするのだが、認識論は存在論の入り口として考えるのがしっくりきてしまうのだよね。

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