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2016年4月に作成された投稿

2016/04/30

GDP に反映されない富

近頃 「GDP に反映されない富」 というものについて考えることがある。この季節、田舎に行くと山菜採りが盛んだ。田舎の人のほとんどが山に入って山菜採りをするわけではないが、好きな人はしょっちゅう山に入って山菜を採り、この季節ならではの味わいを楽しんでいる。

で、この山菜というのは人間の体の摂理にとても合っているようで、冬の間に体の中に溜まってしまった老廃物などを排出させる働きをしてくれる。体が求めているからおいしくも感じられるのだろう。ゼンマイやワラビ、コゴミ、タラの芽など、しみじみとしたおいしさは、金をかけた豪華な食事とは別の種類の贅沢である。

ただしかし、こんな素晴らしい贅沢は、GDP には全然反映されない。インスタントラーメンなんてものを大量に消費すれば GDP は上がるのに、山菜を食して心豊かな楽しみを得ても、国家的な豊かさの指標となる GDP とは無関係なのである。

その昔、PC が生活にも仕事にも浸透し始めた頃、業務上の年賀状を PC で印刷するのが当たり前になりつつあった。年末に差し掛かった頃、年賀状を自前で印刷していると、出入りの印刷業者の営業さんが顔を出して、「あ、年賀状を自分で作ってる! だからウチらは儲からなくなったんだ」 なんて言っていた。印刷業者には申し訳ないが、年賀状なんてものは、自分で手作り的にやる方が安いし、楽しい。

年賀状ばかりではない。自分で手作りを楽しめるものはいくらでもある。高度成長期からこっち、自分で作れるモノでも大量生産されたものを金を出して買ってくるのが 「豊かさ」 だと思われてきた。しかしその馬鹿馬鹿しさに、人々は気付き始めている。

一頃、電車に乗ればルイ・ヴィトンのバッグで溢れていた。そのへんのフツーのおばさん、おねえちゃんが、誰も彼もルイ・ヴィトンのバッグをぶら下げていたものである。しかし最近、そんなこともなくなってきた。相変わらずフツーの身なりをしてバッグだけはどえらいプレステージの象徴という、妙な姿のお人はいるが、どうやらそれはアウト・オブ・トレンドになってきたようだ。

妙に不釣り合いなバッグが大量消費されると GDP は上がるが、ごく当たり前のものに乗り換えれば GDP は下がる。それで、何の不都合があるのだろう。

若者がクルマを買わなくなったといわれて久しい。田舎に住めばクルマは必需品だが、人口の都会への集中が顕著な今の世の中では、クルマはなくても済む。不必要なモノを買って、余計な駐車場の賃貸料を払い、無駄にガソリンを消費するのは馬鹿馬鹿しい。必要なければ買わなければいいのである。時々必要というなら、レンタカーを利用するとかカーシェアリングという方法もある。

しかし余計なクルマを持たなくなると、自動車メーカーの売り上げは伸びない。税収入も減る。GDP 的にはマイナスである。

GDP という指標が減ると、マクロの視点ではあまりいいことはないと言われる。しかしその裏側まで子細にみれば、悪いことばかりでもない。これまでの世の中が GDP に象徴される 「見せかけの豊かさ」 に最適化されすぎてきただけなのではないかとわかる。その最適化が崩れて、別のプロセスが現れ、それがある程度の規模になれば、今の GDP という指標は 「全然実態にそぐわないもの」 となるだろう。

私自身は、もう還暦を過ぎたことでもあり、「GDP に反映されない富」 を楽しみたいと思うようになってきた。団塊の世代が高齢者となった今、それぞれのやり方で 「手作り的生活」 を楽しむようになれば、「GDP なんて、別にどーでもいいもんね」 という人が増えるだろう。

そう言える人が少ないうちは、「GDP はやなり重要なのだ」 というマクロな視点が力をもつが、増えてしまえば 「別の指標がないと、本当の豊かさってわからないよね」 ってなことになる。経済の構造は変わる。歴史をみれば変わらない構造なんてなかった。ミクロも積もれば山となる。

その積もり方は、これまでの歴史のスピードより速いはずだ。なんと、3D プリンターなんてものも出てきたしね。

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2016/04/29

田舎の道は、歩行者なんていない

昨日、本当に久しぶりに東京下町をクルマで走った。そこで如実に感じたのだが、茨城県の道路と東京下町の道路の最大の違いは、「人が歩いているか/歩いていないか」 ということである。東京の下町 (まあ、下町に限らないのだろうが) の道路は本当に多くの人が歩いているが、茨城県内のフツーの道路は、歩いている人なんか滅多にいない。

交差点で左折とか右折とかする時に、横断歩道の歩行者のために止まって待たなければならないのは、東京の街である。茨城県では、横断歩道を渡る歩行者なんて、主要駅前でもない限り滅多にいない。ちょっと小さな駅だと、大抵家族の誰かがクルマで迎えに来ているから、駅前といえども歩行者なんていない。

田舎の人は歩かないのである。ちょっと近くのコンビニに行くのでもクルマに乗る。歩いて行こうなんていう発想はハナからない。一方、都会の人間はよく歩く。自宅から最寄りの駅まで、10分以上の道を歩くのは珍しくないし、駅にたどり着いたら階段の上り下りが待っている。最近はエスカレーターが増えたが、それでも階段の上り下りが皆無になったわけじゃない。

だから 1日の平均歩数は、都会人の方がずっと多い。田舎で暮らしていたら、1日 2000歩も歩かないかもしれない。それで田舎の人間は、案外体力がない。

というわけで、私は最近よく自転車に乗るのだが、田舎では自転車は歩道を走る方がいいと思っている。だって、田舎の歩道には人間なんていないのだから、放っておくのはもったいない。それに田舎の県道なんて大抵道幅が狭く、バスがすれ違うにも大変だ。そんなところを、ママチャリがのらりくらり走ったら、確かに危ない。

私自身は田舎道でも自転車で車道を走るが、あまりにも道幅の狭いところを大型トラックがビュンビュン通り過ぎるような区間では、歩道に避難することもある。そうでもしないと、本当に命の危険を感じてしまうのだ。どうせ歩道を通る歩行者なんていないのだから、「歩道は自転車専用道」 と割り切るのが現実的だ。

本当に都会と田舎では、道路の存在意義がかなり違っている。

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2016/04/28

「おもてなし」 の 「語源」 について、再び

私は自分でも 「アスペルガー一歩手前」 というほどだから、言葉をずいぶん文字通りに解釈する傾向が強い。例えば 「ラジオの音を低くして」 と言われたりすると、「このラジオ、トーン・コントロールがないから、低くはできないんだけどなあ」 なんて思ってから、「ああ、そうか、ボリュームを小さくするってことね」 と、ようやく気付いたりする。音の 「大小」 と 「高低」 を、言葉の上でしっかり区別しちゃうのだ。

フツーの人はそこまでビョーキじゃないだろうが、「語源」 という言葉をものすごくテキトーに使っている人が多いようだということに、4日前の "「おもてなし」 の語源が 「裏表がない」 とは、乱暴すぎる" という記事を書いていて気がついた。ネットを検索すると、"「おもてなし」 という言葉の 「語源」 が 「裏表がない」 ということ" としているページが、やたらと多いのである。本当に数え切れないほどだ (参照)。

例えば検索結果の筆頭に来ている、もっともらしい名称の某協会のページには、次のように書かれている。

「おもてなし」 とは、「もてなし」 に丁寧語 「お」 を付けた言葉である。「もてなし」 の語源は 「モノを持って成し遂げる」 という意味です。お客様に応対する扱い、待遇とも言われます。「おもてなし」 のもう一つの語源は 「表裏なし」 です。つまり表裏のない 「心」 でお客様をお迎えするという意味になります。

「モノを持って成し遂げる」 という説に関しては後述することにして、ここではまず、"「おもてなし」 とは、「もてなし」 に丁寧語 「お」 を付けた言葉である" と、きちんと説明しておきながら、そのすぐ痕に "「おもてなし」 のもう一つの語源は 「表裏なし」 です" なんて言うことについて触れよう。このテキストを作成した人は、こんなことを書いて矛盾も気持ち悪さも感じなかったんだろうか?

なんとなく教え諭す風に書いてあるところから察すると、この人は 「語源」 という言葉の意味を知らずに書いているので、矛盾も気持ち悪さも感じていないとしか思えない。「語源」 という単語を、「言葉を (無理矢理に) 解釈したところの深イイ意味」 ぐらいのつもりで語っているようなのである。

今さら言うのも馬鹿馬鹿しいが、「語源」 を Goo 国語辞書で引くと、このようにある。(参照

個々の単語の本来の形や意味。また、個々の単語の成立の由来や起源。

「おもてなし」 という単語の 「本来の形」 は 「もてなし」 なのだから、その 「語源」 に 「表/裏」 という概念が介在する余地はない。つまりこの単語の 「成立の由来や起源」 に 「表/裏」 なんて、まったく関係がない。ということは、しつこく繰り返すが、「裏表なし」 は 「おもてなし」 の 「語源」 であるはずがない。後からこじつけた解釈を 「語源」 なんて言っちゃいけない。。

誤解されないように言っておくが、私は 「裏表のない心でもてなす」 ことに意義を唱えているわけではない。そのように解釈してそのように実行するのは、なかなかいいことである。ただし、"「おもてなし」 の 「語源」 は 「裏表なし」" などという寝言を言うのだけはやめてもらいたい。「語源」 とさえ言わなければ問題ないが、それを言った時点で、おのれの無知をさらけ出したことになり、せっかくの 「深イイ」 が台無しになる。

例えば 「『働く』 とは、傍 (はた) を楽にすることですよ。周囲のために働くという気持ちが大切ですよ」 とか言うのは素敵だ。しかし、"「働く」 の 「語源」 は 「傍を楽にする」" なんて言ってしまったら、その瞬間、アウトだ。まあ、この誤解もネット上に溢れていて、かなり気持ち悪いのだが。

さて、再び例の 「某協会」 のページにもどると、次のようにある。

「おもてなし」 には、目に見える 「モノ」 と、目に見えない 「コト」 があると言われます。

(中略)

おもてなしとは 「思い遣り」 を出来る限りの 「モノ」 と 「コト」 で、表裏の無い心で誠実に伝えることです。

おいおい、"出来る限りの 「モノ」 と 「コト」 で云々" と言う前に、あなたは "「もてなし」 の語源は 「モノを持って成し遂げる」 という意味です" と言っていたではないか。急に 「コト」 が加わってしまったことに何の説明もないのは、いくらなんでも唐突すぎる。このテキストを書いた人が、ここでもう一つ気持ち悪くならなかったというのも、やっぱりおかしい。

私が 3日前の記事で書いたように、「おもてなし」 は 「モノを以て」 ということとは関係がない。だから、「裏表なし」 「モノを以て成し遂げる」 という妙ちくりんな語源説は、はっきり言ってデタラメである。

このデタラメがこんなにも広まってしまったのは、ネット上のコピペや引用あるいは勝手に取り込むことで広がったという要素が大きいと思われる。一見もっともらしく、「深イイ」 みたいな気がしてしまうので、あちこちで (敢えて言わせてもらうが) 無知な人たちが、いい気持ちになって安易に広めてしまったようなのだ。

おかげで 「語源」 という言葉の意味をちゃんと踏まえてる人間には、気持ち悪くてしょうがない状態になってしまっているのである。上記の 「働く = 傍を楽にする」 と合わせて、「二大気持ち悪い語源説」 と言っていいかもしれない。

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2016/04/27

蛙と環境 2

田植えのシーズンになり、田んぼに水が張られたので、今年もついに蛙が鳴き始めた。蛙は雨が降りそうに鳴ると喜んで鳴き始めるといわれるが、ここ、つくばの地はさすがにガマガエルの本拠地みたいなところで、ガマガエルに限らずアマガエルまで天気に関わらずひっきりなしにゲコゲコ鳴いている。

ただ、この地に引っ越してきた 35年前の蛙の鳴き声は、こんなもんじゃなかった。蛙の鳴き声をテーマにした 「筑波山麓合唱団」 という歌があるが、あの頃は 「大合唱団」 といった様相で、毎日毎日大変な大音響だったのである。

この蛙の大音響を 「うるさい」 と感じるようだと、この辺りの人間は生きていられない。どうやら人間には、蛙の鳴き声を 「聞こえても聞こえない音」 とする DNA が組み込まれているようで、どんなに大音響でもちっとも苦にせずに、夜もしっかり寝られる。このことに関しては、10年以上前に 「蛙と環境」 というタイトルで書いている。

ただ、この 10年前の記事でも書いているが、近頃蛙の鳴き声がめっきりおとなしくなってきた。つまり蛙が減ってきているのだろう。今、我が家の周囲で聞こえる蛙の鳴き声も、何匹いるのか、しっかり聞き分けられる。ちなみに今は、5匹の蛙が鳴いているとわかる。30年前は無数の蛙の声が一塊となって、個別の鳴き声を聞き分けるなんてとてもできなかった。

蛙の減少はここだけでなく世界的な傾向のようで、これには除草剤と化学肥料の使用が関係していると、南フロリダ大学 (University of South Florida) の研究チームが発表している (参照)。ただ私としてはそれだけでなく、紫外線の増加が、体表面に毛がなく丸裸の両生類にとって、かなり悪影響を与えているのではないかとみている。

オゾン層の破壊が止まり、農薬や化学肥料の使用が控えられれば、生物多様性の維持という視点からはかなりいい影響があると思う。蛙の鳴き声が個別に聞き分けられる昨今、環境破壊はまだまだ進んでいると如実に感じてしまうのである。

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2016/04/26

東京オリンピックのデザインをダイナミックにするには

東京オリンピックとパラリンピックのエンブレムが決定した。「組市松紋 (くみいちまつもん)」 というんだどうだ。「市松模様」 といえば、日本の伝統柄として十分にお馴染みで、その意味ではなかなか乙なデザインなんだろう。少なくとも前に決定しかけてたのよりはずっとマシだ。

前に決定しかけてた 「アレ」 は、作者が 「見かけは似ていても、発想や成り立ちが違うのだから、『盗用』 ではない」 と言い張っていたが、プロセスは違っても結果があんなにも似ちゃってたんだからしょうがない (参照)。プロセスさえ違えば結果が似てても盗作じゃないなんて論理が通ったら、世の中似たデザインの洪水になってしまう。

もっともこのデザインの原型となった 「市松模様」 は、決して日本独特ってわけじゃない。西洋でも 「チェッカー柄」 として定番となっているものと、基本的には同じだ。日本でも昔から 「石畳模様」 と言われて定番だったらしい。それが江戸時代中期の佐野川市松という女形が衣装に取り入れて大ヒットしたことから、後に 「市松模様」 と呼ばれることとなった。

とまあ、そんなわけで、藍色を使うことで日本らしさを強調しているが、元々は必ずしも日本独特の発想ってわけじゃない。しかしそのことがかえって、オリンピックという国際大会のエンブレムとしてほどよく馴染むということになるのだろう。いわく言いがたいほどほどのところがいいってわけだ。

ただ、このデザインに関しては 「地味すぎる」 とか 「躍動感がない」 とかいう批判もあったらしい。まあ、そう言われてみれば確かにそんな気もする。少なくともダイナミックという感じはしない。

20160426_204238しかし私は毎日新聞の紙面の写真で、「あれ、角度によっては結構ダイナミックじゃん!」 と思ってしまった。エンブレム発表式で、作者の野老朝雄氏と作品を斜め下から煽って撮った写真の印象である。パラリンピックのデザインが、斜め下から見たためにデフォルメされて映っており、それがかなりダイナミックに見えちゃったのだ。(写真は毎日新聞より)

「これ、市松模様を変形したんだから、いっそのこともう一歩の変形を加えて、斜めにしちゃったらよかったのに!」 と思ってしまったのである。まあ、デザインというのは好きずきだから、「斜めじゃダメじゃん!」 という人もいるだろうが。

試しに妻に、「少なくともパラリンピックのエンブレムは、斜めにしちゃった方が雰囲気いいと思わない?」 と聞いてみると、「う〜ん、そうかもね」 と言っていた。

デザインの世界って、なかなか面白いものと思った次第である。

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2016/04/25

地震予知というもの

台湾の 「地震予測研究所」 というところがブログに、2016年 4月 22日までに、マグニチュード 8 クラスの大地震が起こると書いたらしく、その噂が広がっていたが、結果的には当然にもそんな予測は当たらず、それに伴う騒動は収束に向かった。

「22日」 という予測の日に先立ち、NHK の公式ツイッター 「NHK 防災・生活」 は 20日の時点で、「現代の科学では時間や場所を具体的に特定する地震予知は確立されていません。日本はどの地域でも地震への備えが必要ですが、あやふやな情報にはくれぐれもご注意下さい」 と警告を発していた。これに関して、"「地震予知は科学ではない」 と NHK が注意喚起" という記事が流れたが、NHK は 「科学ではない」 と直接言ったわけではない。

「地震予知は科学ではない」 というのは、ビミョーに言い過ぎだろう。噂の台湾の研究所というのは、本当に 「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」 レベルのものらしいが、世の中には真面目に地震予知を行おうとしている人もいる。ただし、それがまだ科学としての確立に至っていないという話であり、少なくとも地質学などの知見を総合することには、意味はあるだろうと思われる。

ただ本当に地震予知というのは難しい話で、身近な 「土砂崩れ」 の予測すらできないことからも、その困難さが推測できるというものだ。「土砂崩れの危険性の高い区域」 というのは、既に特定できている。しかしそれが具体的にいつ発生するかというのは、特定できない。それが特定できていたら、土砂崩れによる人的被害なんてなくなるだろうが、それすらできていないのである。

同様に、「大地震の可能性の高い地域」 というのも、既に特定されている。最近とみに話題になっている 「南海トラフ地震」 なんていうのは、太古の昔から周期的に発生しているのだから、「可能性が高い」 どころか、「必ず」 と言っていいほど確実に発生する。それは前提なのだが、具体的にいつ発生するかというのは、特定できていない。

それもまた当然の話で、何十年、何百年という時間は人間にとってはかなり長い時間だが、地球的なレベルで考えれば 「一瞬」 みたいなものである。地球の方が 「一瞬」 と思っていることを、人間のせっかちすぎる物差しで時間的な特定をしようとしても、それは無理というものだ。

しかし、地震発生の日時までは特定できないまでも、「その時はかなり近付いてきている」 というところまでは、言うことができるようになるだろう。現在のレベルでは、まだまだ漠然としたことしか言えないだろうが、データを集積することにより、その時間の幅を徐々に狭めていくことならできるだろう。もっとも、それもまた先の長い話だろうが。

何しろ大地震というのは頻発するとはいいながらも、数年に一度の出来事である。ケースが少ないのだ (もっとも、それより多くては危なくてこの国には住めないだろうが)。それに地下深くの地質構造にしても、詳細なデータがそんなにあるわけじゃない。研究の進み方が遅々としたものになるのも当然だ。

とはいいながら、「どうせ地震予知なんてできないんだから、そんなインチキ研究は止めてしまえ」 というのも、私には暴論に思える。科学か科学でないかの判断は、きちんとした科学的手法で行っているかどうかによる。その歩みは遅々としているし、きちんと科学的であろうとすればするほど急な進展は期待できないだろう。しかしまったく意味のないこととは思わないのである。

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2016/04/24

「おもてなし」 の語源が 「裏表がない」 とは、乱暴すぎる

写真は先日 JR 電車内で見かけた某コーヒー業者のポスターの一部である。"おもてなしの語源とは/「裏表がない」/「モノを以て成し遂げる」” というコピーに、ちょっといらっときた。「おもてなし」 の語源が 「裏表がない」 とは、いくらなんでも乱暴すぎる。そんなものが 「語源」 であるはずがない。

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わざわざ言うのも馬鹿馬鹿しいが、「おもてなし」 は 「もてなす」 の名詞形に 接頭辞 「お」 を付けたものだから、「表/裏」 とは関係がない。あとからこじつけで 「裏表のない心で、おもてなしします」 とかいうなら、まあ、ちょっと気の利いた洒落にはなるかもしれない。「深いい」 なんて思う人も、中にはいるだろう。しかしそれを 「語源」 なんて言った時点でそれも台無しで、単なる無知に成り下がる。

「モノを以て成し遂げる」 という方はまだマシに思えるかもしれないが、これもまたかなりこじつけだ。「モノを以て」 というのは、関係がない。「モノ」 が必ずしも介在しなくても、「もてなし」 は成立する。また 「成し遂げる」 とは、ちょっとヘビーすぎる。

「おもてなし」 の接頭辞をとれば 「もてなし」 で、その元々の形は 「もてなす」 という動詞である。そしてその頭の部分の 「もて」 というのもまた接頭辞で、「もてあそぶ」 とか 「もてはやす」 とかいうのと同様に、「以て」 から来ているのは間違いないが、それほどの意味はなく、動詞に付いて意味を強めたり語調を整えたりする働きをする。

「もてあそぶ」 が 「モノを以て遊ぶ」 というわけじゃないし、「もてはやす」 が 「モノを以てはやす」 という意味でもない。だから 「もてなし」 だって 「モノを以て」 というのが条件になるわけでもない。ことさらに 「モノ」 なんて持ち出さなくても、さりげない心遣いだけで 「もてなす」 ことだってできる。

「裏表」 の話に戻って文字通りにこだわれば、「おもてなし」 は 「裏表がない」 じゃなくて 「裏しかない」 ってことになるなんて、シュールな揚げ足取りをされかねない。先だっての東京オリンピック招致以来、「おもてなし」 が一人歩きしすぎているような気がする。

もしかしたら、「語源」 の意味を知らない人が多いのかなあ。

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2016/04/23

炎上の構造

近頃またぞろ 「炎上」 というのが話題になっている。日清のカップヌードルの CM で、矢口なんとかが 「二兎を追う者は一兎をも得ず」 と言っただけで、視聴者から 「不愉快」 との声が 「殺到」 したんだそうだ。私としては、ずいぶん暇な人が多いのだなあと思うばかりである。

そうかと思うと、みのもんたが Twitter アカウントを開設し、2番目の tweet で速くも炎上したという。その原因は 「自衛隊きちんとして欲しいね」 と書いただけだそうだから、彼には決して好感を抱いていない私としても、ちょっと気の毒に思えてしまう。

さらにまた、毎日放送のアナウンサーが地震関連の取材で熊本入りし、Twitter に弁当の写真入りで 「やっと今日の一食目。食料なかなか手に入りにくいです」 と書いて炎上した。まあ、これなんかは、私だったら写真入りの tweet なんかしないだろうなと思うほど、揚げ物たっぷりのコテコテ弁当で、「ちょっと悪趣味かもね」 と思ってしまうのだが、「被災者の分を横取り」 という批判は、的外れだろう。報道関係者だって、メシは食わなければならない。

こうしてみると、炎上というのは 「炎上しやすい下世話なシチュエーション」 で発生するとわかる。先日も 「原爆ドームと、カップラーメンの CM」 という我ながら奇妙なタイトルの記事で書いたが、米国のケリー国務長官が広島の平和記念公園で献花したということで、「花を一度捧げるぐらいでごまかすつもりか!」 という声が噴出してもちっとも不思議じゃないと思う。しかしそれで 「炎上」 するなんてことはまったくなかった。

あれは 「下世話なシチュエーション」 というにはハイブロウすぎたので、炎上するわけがなかったのだと、私は解釈している。炎上を引き起こすタイプの人というのは、矢口なんとかや、みのもんた、毎日放送のアナウンサーといった、「かみつきやすい下世話感覚たっぷりの相手」 にはここぞとばかりにかみつくが、ケリー国務長官みたいなヘビーすぎる相手はスルーしちゃうのである。

こんなことを言うと、こっちが炎上しかねないが、まあ、言っちゃうことにしよう。要するに炎上という現象に関しては、批判する方もされる方も、その下世話感覚においてかなり似たもの同士なのである。

前述の私の記事には、ハマッコーさんが 「私はあの永〇園の思いっきり下品な食べ方 (ズルズルと汚い音を立てる) を見せる CM が嫌いなので、永〇園の商品は買わないことにしています」 とコメントしてくれた。私もそれに関しては同感である。あの CM は暑苦しすぎるので、私はテレビのスイッチを切る。

ハマッコーさんは永○園の品物は買わないと言い、私はテレビのスイッチを切ると言う。しかし永○園に電話して苦情を言うなんてことまではしないから、あの CM が不愉快と思う我々は、「サイレント・マイノリティ」 なのだろう。しかしマイノリティとはいえ、日清にカップヌードル CM に関する下世話な苦情を入れた連中よりも少数であるとは、私は決して思わない。

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2016/04/22

テキストを書くスピード

読みやすいきれいな文字で手書きすることができない体になってしまった。私が文字を書くのは、キーボードを使った 「デジタル・データ」 としてのテキスト入力と、自分の憶えのための 「手書きメモ」 の 2種類がほとんどである。仕事柄か、そのどちらもフツーの人たちよりずっと速い。

「手書きメモ」 は自分が読めさえすればいいので、いわゆる 「つづけ字」 や 「くずし字」 に慣れない若い人には読めないような文字に、自然になってしまう。とにかく 「速く書く」 ことが優先なので、見た目や体裁にはまったくこだわらない。世の中のノートというのは大抵罫線入りだが、私の場合はその罫線にまったくとらわれず、大抵は罫線 3行分に 5行ぐらいの大きさになる文字で書き殴る。横書きと縦書きが混在するのも日常茶飯事だ。

世の中には、メモや日記などのまったく個人的なテキストを手書きするのでも、ノートの罫線にきっちり沿った几帳面な文字を書く人もいる。ところがそうしたタイプの人が文字を書いているのを見るともなく見ていると、とにかく遅い! 私のスピード感覚からすると、かなりイライラする。彼らが 10文字書く間に、私なら 40〜50文字は書く。

「その気になれば、いくらなんでももっと速く書けるだろうに」 と、何十年も思い続けてきたが、その考えはどうやら間違っているようだと、最近気付いた。というのは、人は考えるスピード以上の速さで文字を書くことはできないのである。ゆっくり考える人は、速く書けないのだ。

「そんなことを言っても、講演の内容の筆記など、人の話を書くことなら、速く書くことはできるはずじゃないか」 という疑問もあるだろう。しかし話す内容を一言一句そのまま機械的に書き取る口述筆記的な特殊技術を除けば、人の話をメモする場合でも、頭の中でずいぶん考えながら書いているのだ。

話の内容を手短に要領よくまとめて書けるか、そのまま書き取ろうとして付いていけなくなるかは、瞬間的な 「編集能力」 に左右される。瞬間瞬間で編集しながら書いていけば、その人の話をほぼ網羅したメモを残せるが、それができない場合は、書き落としがかなり多くなるだろう。

「考えるスピード」 に左右されるというのは、手書きだろうがキーボードでの打ち込みだろうが同じである。そして普通は、書くよりも考えるスピードの方が速いと思われるだろうが、それは逆だ。慣れさえすれば、考えるスピードよりも速く書ける。だから物を書く時には、筆を休めたり、キーボードの上で指が止まっている時間というのが、案外長い。

しかし時に、何のストレスもなくひたすらキーボードを叩き続けられることがある。書く内容が次から次に噴出してくるのだ。スポーツでは 「ゾーンに入る」 という言い方をするが、物を書く場合でも時としてそんなことがある。私はそれは 「物書きの神が降りてきている」 状態だと思っている。

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2016/04/21

「笑顔で接客します」 というステッカー

どこの店とかは言わないが (物販ではなく、サービス業ってことだけは言っておこうかな)、店内あるいは車内 (あ、これを言っちゃ、タクシー会社が含まれるとバレるか) に、「私たちは笑顔で接客します」 とか 「明るい笑顔で応対します」 とか書かれたステッカーがわざとらしく 貼られていることがある。しかし実際にはそんな店 (あるいはクルマ) で 「笑顔での接客」 なんて、受けた覚えがない。

店員たち (あるいはドライバーたち) は決して無愛想過ぎるというわけでもなく、ただ淡々と仕事をこなしているだけなのに、ステッカーの文言との落差のせいで、必要以上に愛想なしに見えてしまうのが痛恨である。こんなことなら余計なステッカーなんて貼らなきゃいいのに、貼っただけでサービスになると勘違いしているマネジメントが案外多い。

そういえば、店員が自然な笑顔で愛想よく対応してくれる店で、「私たちは笑顔で接客します」 なんていうステッカーを見たことがない。そんなステッカーなんてない店の方が、気持ちよくサービスを受けられるというのは、経験が雄弁に物語る。

人間はえてして 「ないものねだり」 をするものである。店の経営者やマネジメントもその習性から逃れられないどころか、実はもっともその傾向が強かったりする。

技術を売り物にするサービス業で、職人気質の店員が多かったりする店には、客としても必要以上のお愛想なんて求めない。威勢のいい寿司屋で職人が妙な作り笑顔で 「いらっしゃいませ〜♪」 なんて言うようだと、かえって気持ちが悪い。JAL の CA が自らの顔面に貼り付ける恐ろしいまでの作り笑顔に、私はぞっとしてしまうのと同様の感慨である。

だったら余計なステッカーなんて貼らなきゃいいのに、マネジメントは 「ないものねだり」 で、従業員に無理な 「作り笑顔」 を要求するのである。そして 「ないもの」 を 「ある」 ように言ってしまうので、その 「ないこと」 がかえって浮き彫りにされ、滑稽な様相を呈してしまうのだよね。

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2016/04/20

災害時の支援物資オペレーション

今回の熊本の地震でも、届けられた支援物資が必要とされる被災地になかなか届かないという現象が起きているらしい。物資の集積ポイントには、全国の企業や一般人から届けられた物資が山積みにされているのだが、なにしろ仕分けする手が足りず、周囲の道路も寸断されたりしているので、なかなか分配できないという。入り口には溜まる一方だが、なかなか捌けて行かないのだ。

5年前の東日本大震災でも同様のことは指摘されていた。赤十字やら県庁やらを通して届いた物資は、あるところには山積みにされるほどあるが、それが実際に必要とされるところにはなかなか届かない。単に人手不足とか道路事情とか言う前に、「公平を期すために十分に溜まるまでは保管する」 なんて、「なんだかなあ」 と言いたくなるような理由で、分配を送らせたりしていたらしいのである。

あまりにも中央集権的なオペレーションをすると、とかくこんなことになる。

私の 5年前の経験では、「よっしゃ、俺にまかせろ!」 みたいな気になった 「やる気のある」 個人、あるいはグループが、物資をかき集めるだけ集め、自主的にトラックに満載して、届けたい先にピンポイントで届けるというのが、とてもありがたがられていた記憶がある。とにかく、「やる気」 の問題だ。

公式的には 「赤十字などのしっかりしたルートを通さないと、混乱の元になる」 とか 「勝手にモノを運んだら、現地の交通が大渋滞になる」 とか言われる。しかし経験上、言わせてもらう。少なくとも初期の段階では、私の知る限りそんな心配はほとんどなかった。

周囲でも、自主的に軽トラの荷台に積載重量オーバーの水タンクを積んで、毎日のように潮来の被災地に配りまくったやつや、東京で支援物資をかき集められるだけかき集め、トラックをチャーターして関係先に配りまくりながら岩手県まで行ったやつがいる。彼らが支援体制を混乱させたとか、交通渋滞の元を作ったとかいうことは、まったくなかったと言っていい。

そもそも被災地ではガソリンが入手しにくいのだから、交通渋滞なんてあまり発生しない。通行できないほどの被害を蒙った幹線道路の周囲は混乱するが、現地の草の根情報を頼りに行けば、抜け道は案外見つかる。というわけで、ゲリラ的支援物資配送は、案外ありがたがられる。

それにつけても思い出すのは、昭和 39年 (東京オリンピックの年) 6月に発生した新潟地震の時のことだ。被害の復旧が一段落し、みんな地震のことなんか忘れかけていた夏休み過ぎ、私の通う小学校に、どかっと支援物資が届いた。段ボール箱を開けると、毛布、古着などの他、古本、鉛筆、クレヨンなど、「なんでこんなものを支援物資として送ろうと思ったかなあ?」 と言いたくなるようなものが入っている。

これぞ中央集権的すぎる支援物資分配の、典型的ピンぼけである。天災も支援物資も、忘れた頃にやってくるのだ。

みんな嬉しくもなさそうな顔をして、そんなガラクタを山分けし、私は誰ももらい手のなかったソノシート (といっても、若い人はわかるかなあ) を持って帰った。それは 「東京オリンピックのための英会話レッスン」 というものだった。案外良くできた会話集だった。これがなんで 「支援物資」 なのか、今でもわからないが。

ただそのおかげで私は、中学校に入る前に妙に英語が得意になってしまったのだった。人間の運命というのは、どこでどう変わるか、わからないものである。

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2016/04/19

カメラマンの共通した特性

仕事でカメラマンと一緒に行動することが結構多く、おかげで何人ものカメラマンと親しくなった。 ちなみに今どきは 「フォトグラファー」 という方がシャレオツで、「カメラマン」 というのは和製英語だが、ネイティブの英語話者にも "camera man" は案外通じてしまうことが多く、とくに日本に馴染んでいる人は自分でもこの言葉を使ったりする。

普段の会話でも、彼らは自分のことを 「報道カメラマン」 ということが多く、「報道フォトグラファー」 というのは、日本語としてまだ馴染んでいないと思う。まあ、そんなこともあって、ここではあえて 「カメラマン」 で通すことにしたい。

カメラマンたちとの長い付き合いのうちに、彼らにはある共通した特性があると思うようになった。それは 「固有名詞を覚えない」 ということである。一緒に仕事をして、私は取材したことをテキストにまとめるのが仕事だから、行った先の地名、そこで会った人の名前、神社仏閣の名前など、固有名詞を少なくともしばらくは憶えて忘れない。

人の名前などは時間が経つと忘れてしまうことが多いが、行った先の地名などはまず忘れない。集落の名前となると記憶から漏れてしまうこともあるが、少なくとも市町村レベルの地名は忘れるはずがない。しかしカメラマンたちは、自分の行った土地の名前を覚えていないことが多い。県庁所在地クラスの街なら忘れないが、地方の中小都市レベルだと憶えていられないみたいなのである。

一緒に〇〇県△△市に出張し、列車の中などで 「△△市って、行ったことある?」 と聞くと、彼らは大抵 「ええと、多分初めてだと思いますよ」 なんて言う。ところが目的地に着いて駅前の景色を眺めるやいなや、「あ、ここ、来たことある!」 なんて言い出すのである。

つまり彼らは、自分の行った先の土地を、地名ではなく視覚情報で記憶しているのだ。さすが映像を商売にするだけのことがある。

私が驚いてしまうのは、そんなに特徴的な風景でなくても、彼らの記憶にはしっかりと画像情報として記憶されているということだ。地方都市の駅前の風景なんて、どこに行ってもそんなに変わり映えするようなものじゃない。私に言わせれば、どこも似たような呑気な風景である。しかし彼らには訪れた地方都市の駅前風景が、一つ一つ差別化された個別情報としてしっかり記憶されているのである。

そして彼らは、撮影する時に多少の危険は厭わない。高層ビルの窓の外に身を乗り出してみたり、断崖絶壁から身を乗り出したり、背丈ほどの荒波が打ち寄せる岸壁に立ったりすることに、それほどの恐怖は感じないみたいなのである。

ところがよく聞いてみると、「カメラを持たなかったら、そんな危ないことはできないかも」 なんて言ったりする。彼らはカメラを持ちさえすれば、かなりの命知らずになれるようなのだ。

さらに人物のスナップ写真を撮るのに、前景や背景などの 「余計なモノ」 をさりげなく取り去ってしまったりするのは 「当然のこと」 のようだ。だから部屋の中の灰皿や額縁、カレンダーなどがいつの間にかどこかに消えてしまっていることが多い。そして驚くことに、撮影が終わるとそれらのものを元通りの位置に、ささっと戻す。元の位置を正確に覚えているのも、彼らの 「視覚記憶」 のなせるわざだろう。

「テキスト派」 の私としては、一緒に仕事をする 「映像派」 の彼らの行動が興味深くてしかたがない。彼らと接していると、世界が広がるような気がするのである。

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2016/04/18

熊本のことを思うと、平静ではいられない

東北出身で関東在住の私だが、実は九州には案外知り合いが多い。中でもとくに熊本周辺に知人がたくさんいる。これまで連絡が取れたところによると、知人のほとんどは無事ということだが、半分以上は本人に直接確認できたわけではなく、「無事らしい」 とか 「避難しているらしい」 とかいう伝聞情報だ。

何しろ熊本在住者の中でも情報不足で、直接無事を確認し合えているわけではないようなのである。電話回線の状況はかなり回復しているようだが、避難しているために家デンはいくら呼び出しても誰も出ないことが多く、ケータイはバッテリー切れなのか、なかなか通じないらしい。

というわけで、死んだり大きな怪我をしたりした知人はいないと踏んでいるのだが、小さな怪我ぐらいはあるかもしれない。また避難所で不便な暮らしをしながら、頻繁に襲ってくる大きな余震で、ストレスを抱えてしまっていることもあるだろう。

私は 5年前に東日本大震災の 「被災者」 となってしまったこともあって、他人事とは思えないのである。ただ私の場合は、「被災者」 といってもその中では一番軽いもので、家の中はいろいろなものが散乱して大変なことになったが、電気と水道は止まらずに済み、ガスは当時 LP ガスだったので、ライフラインは確保されていた。ただ食料品の供給がかなりタイトだったので、あの時何を食って生き延びていたのか、よく覚えていない。

さらに常磐線が動かず、ガソリンも入手できなかったので、仕事することができず、半月以上は 「プチ失業状態」 となった。サラリーマンなら給料はもらえたようだが、私は独立事業主なので、2ヶ月後の入金が限りなく 「ゼロ円」 に近づきそうだったので、正直なところかなりあせった。

今回の熊本の場合は直下型地震だけに、純粋に 「揺れ」 による被害はどう見ても 5年前の東日本大震災より大きいようだ。さらに 5年前は首都圏から近かっただけに、ボランティアや支援物資の到着が、案外早かった。今回は交通網がずたずたになっていて、物資の輸送もままならないという。被災者の不安は、とても大きいだろう。

今できることは、「熊本のためにみんなで祈っている。できるだけのことはしたい」 と伝えることだけだ。東日本大震災の時も、多くの人が思いを馳せてくれていると知るだけで、大きな心の支えとなった。今度は恩返しする番だ。

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2016/04/17

大津で思ったこと

京都への出張から戻ってきて、一日おいて今度は新潟への出張である。そして明日新潟から戻ったら、一日おいてまた京都に行く。一昨日の京都行きとはまったく別の用件なのだが、できることなら連続した日程でアポイントが取れれば楽だった。

ところが、間に今回の新潟での案件が割り込んでしまったので、京都からは一度帰ってまた出直すということになってしまった。新潟が割り込まなければ、少なくとも三泊四日ぐらいで京都に滞在できて、これまでの未踏の地に行くこともできたのに、ちょっと残念である。

もっとも京都にはこれまで何度も訪れて、観光客が行ってみるべきところはほとんど行ったといっていい。まだ行ったことのないところといえば、かなりの 「穴場」 となる。それで前回は京都市内ではなく、京都駅から電車で 10分以内でいける滋賀県大津に泊まり、前々から気にかかっていた三井寺 (みいてら) を参拝した。

三井寺というのは通称で、本当の名前は長等山園城寺 (ながらさんおんじょうじ)。天台宗寺門派の総本山である。琵琶湖のほとりの長等山の広大な敷地に、金堂や観音堂など、多くの由緒ある建物がある。また仏像などの文化財も多い。

この三井寺、天台宗ではあるのだが、その本山の比叡山延暦寺とは長い間、敵対関係にあった。9世紀に円珍 (智証大師) を中興の祖として発展し、その円珍は天台座主の地位にまで昇ったが、その死後、円仁 (慈覚大師) 派との抗争が始まった。

円仁派は 「山門派」、円珍派は 「寺門派」 と呼ばれ、山門派の僧兵が比叡山内の円珍派の建物を焼き払ったりしたために、寺門派は比叡山を下り、円珍以来のゆかりがある三井寺を根拠とした。しかしその三井寺も、山門派によって何度も焼き払われ、昔からそのまま残っている堂塔はほとんどないのだという。

Photo 仏門に帰依しながら、しかも同じ天台宗の中で相争うというのも悲しいものだが、白河天皇が 「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」 と嘆いたというほどだから、叡山の僧兵は相当に荒っぽい存在だったようだ。その荒っぽい僧兵たちの本拠である比叡山から見下ろすと、眼下の琵琶湖の手前に目障りな三井寺があるのだから、焼き払ってしまいたくもなったのだろう。

写真は三井寺参拝から下山して琵琶湖畔に降り、そこから比叡山を望んだところである。こうしてみると、比叡山にとって三井寺は、目の上ではなく、眼下のたんこぶだったのだと、実感としてわかる。

もし三井寺が琵琶湖の畔ではなく、もっと遠くにあったのだとしたら、そこまで対立しなくて済んだのではないかという気がする。しかし、例えば鎌倉なんてところを本拠とするにはもう少し時代を下らなければならなかった。歴史の運命というのは、なかなか大変なものである。

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2016/04/16

熊本の地震に驚いた (その 2)

熊本の地震が厄介な状況になっているようだ。今日未明に、14日の地震 (マグニチュード 6.5) を大きく上回る地震 (マグニチュード 7.3) が起き、死者が 32人にのぼった。14日に発生した地震と合わせて 41人の死者となるが、本日未明の地震による死者の方が圧倒的に多い。

被災地の方々が 1日も早く普通の生活を取り戻せるように、及ばずながらお祈りする。これは東日本大震災の後、世界中の人々に祈り、支援してもらった (pray for Japan) ことへのお返しでもある。

私は今日という今日まで 「本震より大きな余震はない」 と信じていたので頭の中が混乱したが、気象庁は今日未明の地震の方が本震で、14日のは本震に先立つ 「前震」 と位置付けた。大きな地震の直後に、さらに大きな 「本震」 が起きたなんて、少なくとも私の記憶にはない。その意味で今回の熊本の地震はこれまでの常識を覆すものといっていい。

こんなことを言うといたずらに不安を煽るようで心苦しいのだが、私は、東日本大震災に先だって、宮城県北部を中心に大きな地震が続いていたことを思い出す。私の妻は仙台が実家だが、あの辺りの人たちは、当時日本で一番大地震を経験している人たちだった (参照)。

2003年 7月 26日 (まさに私の誕生日) の宮城県北部地震、2005年 8月 16日の宮城県沖地震、2008年 6月 14日の岩手・宮城内陸地震と、立て続けに震度 6 クラスの地震が来る度に、仙台周辺の人たちは 「来る来ると言われていた 『例のやつ』 が、遂に来たか」 と肝を潰したが、震源地からみて 「まだそれじゃなかったのか!」 とストレスをためていた。

「例のやつ」 というのは、ずっと前から予測されていた東北沖の太平洋を震源とする巨大地震のことである。それはついに 5年前の 3月 11日に起きてしまったのだが、今回の熊本の地震は、4月 1日の紀伊半島沖の地震と合わせて、「来る来ると言われている南海トラフ地震」 に繋がるものなんじゃないかと、いやぁな気持ちがするのである。

そんな気がしてググってみると、同じようなことを言っている専門家もいるようで (参照)、まんざら素人の取り越し苦労とばかりも言えないようなのである。

まあ、南海トラフ地震とか、東南海地震とかは、別に 「今回の熊本が予兆だった」 なんて言わなくても、周期的に確実に起きるとわかっているので、余計なことは言わなくてもいいようなものだが、なんとなく関連性を感じてしまい、「迫ってきてるな」 という気がしてしまうのである。

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2016/04/15

保育所が不足しているのは

保育園不足伝えられて久しい。私は子育ての時期をとっくに終えたので、当事者として考えたことはほとんどないのだが、傍観者として不思議でしょうがないのは、子供の数が減っていて、小学校や中学校は統廃合が進んでいるというのに、どうして保育園は足りないのかということだ。

私の卒業した小学校も、今は別の学校に吸収合併されて既にない。今住んでいる地元の小学校も、私の子供たちが通学していた頃と比べると、クラスの数も減っているようで、余った教室が何とか資料室になったり、かんとか実習室になったりしている。とにかく、小中学校はガラガラなのだ。

それなのに保育園は足りなくて、入れない子供が多いのだという。これはもう、政治の怠慢としか思われないではないか。

もちろん行政側としては、「そんなに簡単なものじゃない」 と言い訳するだろう。まず想定される言い訳は、小中学校や幼稚園は文科省管轄だが、保育園は厚労省管轄だから、一律に言うことはできないということだ。しかしそうしたことを前提にしても、やっぱり行政が保育所不足の問題をまともに考えていないのは確かだ。何だかんだ言っても、学校が余っているのに保育所が足りないというのは、単純におかしい。

私としては結局のところ、政治家や官僚たちが、「家庭は夫が働いて、妻は家事と子育てをすべきだ」 と考えていて、両親が共働きをしなければならない家庭の事情をシリアスに考えていないというところに落ち着くのではないかと思っている。彼らは心の底では、学校は何があっても行くべきで、不登校児童なんてもってのほかだが、保育所なんて行くべきじゃないと考えているに違いない。子供を保育所に預けて親が二人とも働くなんて望ましいことじゃないと思っているのだろう。

彼らが本当に保育所の必要性をひしひしと感じていたら、何がどうあっても保育所を充実させる政策を実現するはずなのだ。そして子供を保育所になんて預けるべきじゃないとの考えを優先させるなら、それはそれで、少なくとも子育て期間中は共働きなんてしなくて済むような福祉政策を実現すべきなのである。

そのどちらも中途半端だから、いつまでたってもこんな状況なのだ。

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2016/04/14

熊本の地震に驚いた

京都に出張している。出張が決まったのは今月第 2週になってからだったので、もう当然の如く京都市内のホテルは取れない。しかたなく隣の滋賀県大津市のホテルにたどり着いたのが昨夜。風呂に入ってテレビを付けてみると、熊本で震度 7の大地震があったと告げている。

どうやら直下型の地震のようで、大変な揺れがあったようだ。なにぶん夜のことなので、テレビの画面では被害の状況がよくわからない。熊本市内の画像はそれほど大きな被害ではないようだが、震度の大きなところではそんなものでは済まないだろう。

朝になってから被害の状況がくわしく報道されるだろうが、熊本は何人か知り合いもいるので、心配だ。

【15日 朝 追記】

夜が明けてテレビを見ると、被害はかなり大きいようだ。7時の時点で 9人の死亡が確認され、けが人も多いようだ。熊本城の瓦や石垣も崩れている。SNS で何人かの友人の無事は確認されたが、まだ連絡の取れない友人もいる。心配している。

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2016/04/13

頼むぜ、ニフティさん

今月 5日の記事で 「Apple は MacBook Air から iPad Pro への移行を促進したいのだろうと思われるフシがある」 と書いたが、いよいよ本当に MacBook Air シリーズは終了となりそうな雲行きである。iPhone Mania が "「MacBook Air」ブランド、現行モデルで終了か!?" と伝えているのだ。

「今後はコンパクトな MacBook と高性能な MacBook Pro に統合される模様」 というのである。Apple って、ラインナップを絞り込むことによって倒産の危機を脱し、V字回復を遂げたのだが、もう倒産の心配がなくなっても展開品種を最小限にしておきたいみたいなのだ。

よりライトなユーザー、あるいはモバイル用途のセカンドマシンを求める場合には、iPad か iPad Pro を使えばいいということなのだろう。まあ、トヨタみたいに 「これでもか!」 というほど市場の隙間を埋める車種を展開して、どんなニーズにでも応えてしまおうというマーケティングもあるが、Apple はそこまでシェアを広げているわけじゃないから、展開機種を絞り込むのは、多分正解なのだろう。細分化されたニーズの全てに余裕で対応するほどのジャイアントじゃないのだ。

ただ、私としては MacBook Air が欲しいなあと思っていた矢先なので、ちょっと残念な気持ちである。とはいえ、Apple がトヨタみたいになっちゃったら、さらに残念だろうから、それはそれで仕方がない。

とにかく、私が出張にもっていくモバイル用として、iPad じゃなく MacBook Air が欲しいのは、前にも書いたように、このココログの編集画面が iOS にきちんと対応していないことと、iOS で動くワープロが縦書きに対応していないことという、たった 2つの理由からなので、この 2点が解決されたなら、私は喜んで iPad Pro にカバー兼用のキーボードを付けて、出張に持って行くだろう。

まあ、縦書きに対応しなくても、横書きで原稿を書くことも可能なので、究極的には、このココログが iOS 上でしっかり編集できるようになってくれさえすればいい。とにかく iOS で動く現行の 「ココログ」 アプリは、使いにくくてしょうがないのである。

要するに、私が Apple のマーケティング方針に付いていけるかどうかは、ニフティ次第なのだ。頼むぜ、ニフティさん。

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2016/04/12

ひたちなか海浜公園のネモフィラの見頃が近付いているらしい

日本一の没イメージ県として君臨する茨城県の、数少ない売り物に、ひたちなか海浜公園のネモフィラがある。広大な面積の海辺の公園に 「みはらしの丘」 というものがあり、4月下旬から連休明けに至るまでの期間、そこがネモフィラという小さな紫っぽい花で埋め尽くされるのだ。絶景と言われていて、最近は海外からの観光客にまで知れ渡り始めているらしい。

Img_2406実は私も去年、知り合いに付き合ってこのネモフィラの絶景を眺めに行ってきた。写真はその時に撮ったものである。この写真は、ちょっと奥の方まで行って撮ったので、奇跡的に人の姿があまり映っていないが、他の場所は基本的に人、人、人の行列である。

このポイントは人が写りにくい穴場であるらしく、ネットで検索すると、この木が移りこんだアングルの写真がやたら多い。まあ、どの観光地でもいいアングルというのは決まり切ってしまうのだね。

そして驚いたことにこの 「みはらしの丘」 は、ネモフィラの季節が終わると人海戦術で植え替えをして、コキアという植物に模様替えし、秋にはそのコキアが紅葉するのが見ものなんだそうだ。一粒で二度おいしいみたいなところなのである。

まあ、美しいといえば、確かに美しい。しかし私はへそ曲がりだから、美しいだけではなんだか物足りなさを感じてしまうのである。そしていくらネモフィラが一年草であるとはいえ、季節ごとに植え替えして早変わりさせるという演出にも、「それはまあ、ご苦労さん」 としか言えない気持ちになってしまうのだね。

何が不満なのかと言えば、それは 「サイドストーリーの不在」 ということになる。どうしてネモフィラなのか。どうしてコキアなのか。そこにどういう歴史的なストーリーがあるのか。そうしたことがまったく語られなくて、ただただ 「どうです、綺麗でしょう!」 というのでは、視覚的要素よりテキスト重視の傾向がある私としては、「はい、確かにきれいですね」 と呟くだけで、シャンシャン! 終わり! となってしまう。

吉野の桜とか、富良野のラベンダーとか、沖縄のハイビスカスとか、ちゃんとしたサイドストーリーが語られると、なんとなくいい気持ちになるのだが、ひたちなかのネモフィラは、「たまたまこういうことです。綺麗なんだから、いいじゃん!」 みたいなことのようで、しかも花の季節が終わると、さっさと撤去して衣替えというのも、都合がよすぎて、複雑な気分になってしまうのだよね。

まあ、「綺麗なんだから、いいじゃん!」 ということでいいなら、文句を言っても仕方ないのだけれど。

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2016/04/11

原爆ドームと、カップラーメンの CM

広島で開かれていた G7 外相会合は、核廃絶への決意を示した 「広島宣言」 を採択して閉幕した。これに伴い、米国のケリー国務長官が平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に献花したことが話題となっている。さらにオバマ大統領も広島を訪れたい意思を示しているが、米国としては 「謝罪外交」 にならないようにとの配慮で、かなりデリケートな対応をしている。

原爆投下について私としては 「米国はとんでもないことをしてくれたもんだなあ」 と思っている。そして 「そりゃ、謝罪の一言ぐらいあってもいい」 とも思っているが、それについては必要以上にこだわるつもりはない。日本全体としても、どっかの国みたいに執拗に謝罪を迫るなんてことはなくて、ただ 「惨禍を二度と繰り返さない決意」 に繋がればいいという立場のようで、それは私も同感だ。

平和記念公園には 12年前に訪れて、とても大きな衝撃を受けた。そのことについては、当時の 「和歌ログ」 に次のように書いている。(参照

これは、すべての人が訪れて生で見るべき世界遺産だ。我々のすべての遺伝子の中に、こんなことをしでかした資質が組み込まれているのだと思うと、悲しささえ覚える。

すべての暴力的遺伝子の、最大限に発揮された結果がこれだ。小さな 「いじめ」 から 世界戦争に至るまでの元になる遺伝子の象徴だ。こんな遺伝子情報を発動しないように、常に 「スイッチ・オフ」 にしておかなければならないと思った。

「すべての人が訪れて生で見るべき世界遺産だ」 という考えは、今でも変わっていない。だから当然にも、オバマ大統領にも訪問してもらいたいと思っている。謝罪するとかしないとかいう問題は、原爆ドームの前に立てば、小さなことに思われるだろう。ただ、「暴力的遺伝子」 をスイッチ・オフにしておかなければならないと、心深く感じることが重要なのだ。

それから、話はちょっと変わるが、例の日清カップラーメンの 「オバカ大学」 CM が、一部視聴者からのクレームに負けて放映中止になったという。私はテレビをほとんど見ないから、YouTube にあったダイジェスト版みたいなの (参照) を見ただけだが、これにクレームをつける人というのは、よほどヒマをもてあましたマメすぎる人なのだろうと思った。

この CM にとってつけたような文句を言うような人なら、「広島まで来て慇懃無礼に献花だけで済ませられるのは、国民感情として不愉快!」 ぐらいのことを言ってしかるべきだと思うが、彼らはそんなことはまずしないだろうね。日本は平和である。

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2016/04/10

スポーツマンとギャンブル

先月 23日の "「勝った負けた」 の世界に入れ込みすぎると" という記事は、プロ野球の世界の 「勝敗に伴う金銭のやりとりに関する問題」 について書いたものだ。その中で私は、いろいろな新聞記事などで 「野球選手は日頃から勝負の世界にいるので、勝った負けたの賭け事が好きな傾向がある」 というようなことが書かれていることに、疑問を呈した。

私はこの記事の中で、次のように書いている。

ビジネスとして勝ち負けの世界にいるなら、仕事を離れた時ぐらい、勝負とは無関係の世界にいたいと思うのが人情だと思っていたが、どうもそうじゃないらしいのだね。

(中略)

「勝った負けたの世界に入れ込みすぎると、頭がおかしくなるみたい」 なんて偏見まで抱いてしまうのである。

ところが今回のバドミントン選手の闇賭博事件に関連して、この 「偏見」 が当のスポーツ選手自身から語られてしまった。リオデジャネイロ五輪でメダル獲得が期待されていたという桃田賢斗という選手が記者会見で、「自分もスポーツマンで、勝負の世界で生きている以上、ギャンブルというものに興味があり、抜けられない自分がいました」 と語ったと報じられている。

この発言は既に多くの人に批判されているようで、あの 「尾木ママ」 が自身のブログで 「バドミントンの競技の勝負とギャンブルの勝負/同じ「勝負事」と同列に捉えていることにびっくりです」 「想定外の理屈?/弁明/聞かされるとは!?/思いませんでした!」 と書かれた (参照) のがあちこちで話題になっている。

まさにその通りなのだが、実はあの 「弁明」 は決して 「想定外の理屈」 ではなかった。それは冒頭に書いたように、「野球選手は日頃から勝負の世界にいるので、勝った負けたの賭け事が好きな傾向がある」 と、あちこちのスポーツ新聞で書かれていたことからも明らかである。「野球選手」 を 「スポーツ選手」 と置き換えて読めば、ジャーナリズム自身が 「想定外の理屈/弁明」 の種を用意してあげていたことがわかる。

こうした種を用意してあげていたジャーナリストは、今回のバドミントン選手の事件に関しても、「お前もか !? しょうがねえなあ」 ぐらいの、スタンスにならざるを得ない。その上で、「そんな傾向があるからこそ、気をつけなければならなかったのに」 と言うなら、まだ許せる。しかし多くは、そんなことを言ったことを忘れたかのように、ストレートに批判している。

スポーツ選手だけでなく、ジャーナリズムに至るまで、「勝った負けたの世界に入れ込みすぎると、頭がおかしくなるみたい」 なのである。

「スポーツマンがギャンブル好きな傾向がある」 のではなく、「ギャンブル好きがスポーツの世界でたまたま成功することがある」 というのが、本当のところなんじゃなかろうか。まあ、ギャンブル好きと相性のいいスポーツ種目というのも、どうやらあるみたいで、その代表が野球と相撲とみられても仕方ないかもしれないけどね。

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2016/04/09

「文字を書く」 という行為を巡る冒険

「文字を書く」 ということは、どんなことだったのだろうかと考えてみることがある。今でこそ我々は何でもかんでも文字にして記録したがるが、太古の昔はそんなことはなかった。文字を書くという行為には、かなり重々しい意味があったのだろうと思うのである。

そもそも人間は、大抵のことは頭の中に、というか、体の中に記録した。元々は身体化されたデータのようなものが、いつしか 「言葉」 となり、大脳皮質の中に蓄えられるようになった。だから元々人間は、多くのことは身体的な彩りをかなり残したままで、頭の中に蓄積していたのだろうと思うのである。

だから稗田阿礼は膨大な 『古事記』 を記憶して語ることができた。歴史をかなり下っても、文字を持たない民は長大な叙事詩を民族遺産として受け継いできた。アイヌの 『ユーカラ』 も、身体的彩りを残した言葉の宝庫である。こんなのは脳みその表面にある大脳皮質の働きだけでは無理なことで、身体性と不可分のところで初めて可能になっていたのだろう。

落語だってハッつぁん熊さんらの身体性と不可分だから成立する。講演なんかも聴いていて退屈しないのは、随所に適度な身体性を取り混ぜるスタイルだ。高尚な理屈だけで淡々と続けられたら、大抵途中で眠っちゃう。だから私のブログでも、時々 「眠っちゃう」 みたいな身も蓋もない口語を滑り込ませるのは、実は計算ずくの異化効果なのだよ (などと、文章の行儀悪さを正当化する)。

稗田阿礼の口述を太安万侶が筆記して 『古事記』 という書物にしたように、昔は 「言葉」 を 「文字」 として記録するというのは、誰でもできるようなことではなく、ある種呪術的なまでの 「特別な行為」 だった。かなりの部分を語り手の身体性に依存し、時には自在に変形されることも可能だったデータを、文字というメディアによって固定する。それは 「世界を固定化するための行為」 であったろう。

それはある意味とてつもないことで、神の天地創造を受け継いだ 「二次創作」 みたいなものだったから、初期の文字遺産の多くは 「神話」 として記され、その後の文字は 「歴史」 の固定化のために機能した。言葉は世界を造り、文字は造られた世界をオーセンティックに固定化させる試みであったのかもしれない。

しかし、いくら文字として固定化しても、世界はその固定化をいとも簡単にすり抜け、思いがけない方向にどんどん変わり続ける。変わり続ける世界を必死に追いかけながら記録するうちに、「文字」 は初期の呪術性を失い、その代わりとても世俗的で便利なメディアになった。

そして膨大な量で文字化されてしまうと、「世界そのもの」 もその反作用を受けて韻文的な性格を薄め、いとも散文的なものとなった。まあ、早く言ってしまえば、世界は昔には考えられなかったほどの利便性を獲得したものの、その反面ではとても味気なくなってしまったというわけだ。

私がこの "Today's Crack" というとても散文的なブログの裏側で "Wakalog" (和歌ログ) という韻文的なブログをやらないと、精神的なバランスが取れないような気がしているのは、そんなところからも来ているような気がしているのだよね。

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2016/04/08

古レコードを処分して楽になりたいのだが

我が家の押し入れの奥には、100枚以上 (もしかしたら 150枚以上?) の LP レコードが眠っている。10代の頃から買い集めて、しかも 3枚買ったら 2枚は古レコード店に売り払ったりしていたから、結果として残っているのは、厳選に厳選を重ねた名盤ばかりだと思っている。

ジャンルはロック、ブルースが中心だが、その他にもフォークソング、ジャズ、クラシック、能楽、浄瑠璃、長唄、端唄・小唄、民族音楽など、自分で 「俺、こんなアルバム持ってたんだ!」 と驚いてしまうほど、やたら広範囲に広がっている。中にはお経や落語のアルバムまである。

我が家にあったアナログ・レコード再生用のプレーヤーは既に修理不能のレベルまで壊れてしまったので、とっくに処分してしまった。だから、LP レコードはあってもそれを再生して聞くすべがない。私としては、そのうちデジタル録音可能のプレーヤーを購入して、すべて MP4 かなにかの形式のファイルに変換し、iPhone で聞こうと思っていた。

しかしなかなかそれだけの時間がとれないことがわかっていたので、プレーヤーを購入するまでに至らず、デジタル形式への変換もできずにいたのである。そして時はさらに流れ、今や iTunes などで、定額で音楽をいくらでもダウンロードできる時代になってしまった。

こうなると、昔買った LP レコードもそのほとんどが苦もなく iPhone で聴ける。わざわざ専用のプレーヤーを買って、デジタル変換なんかしないで済む。まったくもって、身も蓋もないほどに便利な世の中になってしまった。

というわけで、押し入れの一画を埋めている LP レコードは、単なる 「邪魔モノ」 と化してしまった。私は 「やっぱりアナログ音源で聴くのが一番だよね」 なんて言うほどのマニアなんかじゃなくて、「まあまあの音」 で聴くことさえできればいいというタイプである。さらに、「モノ」 としての LP レコードのコレクションに入れあげるほどペダンティックでもない。

なにしろ、書棚を埋める 「紙の本」 がすべて、iPhone の中に収まってくれたら嬉しいと思っているほど、「モノ」 のコレクションにはほとんど興味がない男である。別の方法でいくらでも聞くことができる音源で、押し入れの中を占拠しておくのは、単に馬鹿馬鹿しく感じてしまうのである。CD だって、既に iPhone に入れちゃったのだから要らないと思っているぐらいだし。

そのうち古レコード屋に売り払ってしまおうかとも思っているが、いざとなるとその手間も面倒に思われて、まだ押し入れの中に眠らせてしまっている。早く処分して楽になりたいのは山々なのだが、モノのコレクションも面倒であると同様に、いつの間にかたまったものを処分するのも面倒という不精者なので、なかなかアクションを起こせないでいる。

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2016/04/07

「独自の工夫」 って、そんなに途方もないことかなあ?

私は基本的に 「論理通りにものを考えること」 なら得意だが、「その論理に忠実に従って細かい計算したりすること」 は不得意である。つまり、筋道を示す役どころならいくらでもこなせるが、「筋道は示したんだから、あとはそれに従って処理してちょうだいね」 と言いたいのである。

もっと言えば、「大体の筋道に沿ってくれれば OK なんだから、細部はやりやすいように適当に処理してもいいよ」 というタイプなのだ。しかしそんなことを言うと、「そんなテキトーなこと言われても困る。細かく指示してください」 なんて反応が返ってきたりして、私としてはびっくりしてしまう。

私は 「適当に処理して」 と言ったのであって、「テキトーにやって」 と言ったのではない。「適当に処理して」 というのは、「細かい部分はそれぞれ独自に工夫してやってちょうだい」 という意味なのだが、多くの人にとって 「独自に工夫する」 なんてことは、「途方もない要求」 に思われるようなのだ。

「細部まで指定されたプロセスに従って、決められた通りに処理する」 というのは、私は苦痛でしょうがないのだが、少なからぬ人が 「きっちり指示してくれないと処理できない」 なんて言い出すのである。それは多分、望まれる結果をきちんと想定しないから、そこに至るまでの工夫をするなんてこともできないのである。

私なら事に当たる前に、求められる結果に行き着くためのプロセスを検討し、そして実際にプロセスを処理しながら、さらに微修正を重ねていく。しかしそれは、見る人によっては 「甚だ勝手なやり方」 と思われてしまうようなのだ。

「そのやり方には付いていけない」 なんて言い出す。私としては 「それなら付いてこなくていい」 という。他人が付いてこれるように細々説明なんかしているより、自分で突っ走った方がずっとうまく、速くすませられる。

しかし多くの人にとっては、「公式的な手順に沿って生真面目に作業する」 というのが、望ましく思われるようなのである。それは、「みんなでそろって仕事ができる」 からだ。

というわけで、日本では大抵の業界で、「ホウレンソウ」 というのが求められる。「報告、連絡、相談」 だ。しかし、私のように独自に工夫して事に当たる方がずっとうまくやれると思っているタイプにとっては、そんなまだるっこしいことに時間を割くのは馬鹿馬鹿しく思われる。ホウレンソウなんてやってる時間があったら、その間にさっさと仕事を済ませることができる。

仕事の進め方をどう見るかというのは大きな問題で、「ホウレンソウ」 を重視しすぎる日本のビジネス社会は、実は国際的には 「非効率の典型」 と思われている。ガラパゴス的ビジネスモデルなのだ。

要するに、「さっさと仕事を済ませて定時に帰る」 有能な社員よりも、「ぐだぐだ残業ばかりしている」 無能な社員の方が 「マジメな社員」 と思われる。そして仕事が終わればさっさと消えて自分の時間を大切にする社員は 「勝手なヤツ」 と思われ、「いつまでも残業したあとは部署の仲間内だけの飲み会に付き合って、チマチマした不平不満を共有できるヤツ」 が 「協調性のある社員」 と思われるのである。

これ、もうそろそろ止めにしないと、日本経済はいつまでもこのまま停滞するだけなのだが、周囲の軋轢をモノともせず 「独自の工夫」 のできるヤツが少ないので、なかなか変われない。しかし 「独自の工夫」 って、そんなに途方もないことかなあ?

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2016/04/06

日本で FAX が今でも幅をきかせているのは

NewSphere に 「ハイテク日本はなぜファックスを使い続ける? 高齢者の執着が要因と海外紙分析」 という記事がある。確かに、日本では今でも FAX を使う機会が多い。私自身は E-mail でいきたいと思っても、受け取る側が FAX しかできないとなると、こればかりはしょうがない。

受け取る側がケータイ・メールしか対応しておらず、添付ファイルを開けないというケースも案外多い。そんな場合は、プリントアウトしたイメージをFAX で送るしかなかったりする。そうした人が 3人いると、メールで一括同報送信した後に、3人に向けてそれぞれ FAX を送らなければならない。エラい手間である。

そうかと思うと、我が家の FAX に真っ黒につぶれた写真の画像を送付してくる人もいる。「地元紙に掲載された孫の写真です」 なんて説明が付いているのだが、その孫は怪物状態で何が何だかさっぱりわからない。先方は 「画像なんだから FAX で送るのが当然」 なんて思っているようだが、「きちんとスキャンしたイメージを添付ファイルで送ってくれよ」 と言いたくもなる。いや、もっと率直にいえば、そんな写真、別に要らないし。

そんなケースでなくても、FAX が幅をきかせることがある。芸能人の結婚、離婚の報告なんかは、今でもマスコミに FAX で送られる場合が多いらしい。

これに関して私は昨年秋の記事で、何故なのか考察している (参照)。インターネットの Q&A サイトで検索すると 「自筆であることを証明するため」 とか 「一斉に同報送信するため」 とかいう、おめでたすぎる回答が幅をきかせていて、まあ、送る側はそのように信じている場合もあるのかもしれないが、ナンセンスにもほどがある。

私としてはこの記事の中で、次のように推理している。

私が思うに、マスコミのプレス・リリースを受け付けるメルアドって、案外不明確なんじゃないだろうか。個々の記者は当然のごとくメルアドを持っているが、その記者はしょっちゅう担当が変わる。発表の分野や内容ごとに最適な記者のメルアドをリアルタイムでおさえておくのは、案外難しかったりするのだろう。

それだったら、代表番号みたいな位置づけの FAX に送る方が確実だ。それに個々のプロダクションは、昔から FAX の同報送信用のセットがしてあるのだろう。FAX 機に原稿をセットして同報送信用のボタンをピッと押せば、後は順繰りに送ってくれる。

多分、これが正解だと私は思っている。日本のマスコミでは頻繁に人事異動、配置転換が行われるので、「個人」 をベースとしたメール・システムではこの日本スタイルに対応できないのだ。「○○ 様」 ではなく、「ご担当者様」 で送るには、FAX が手っ取り早いのである。

マスコミに限らず、日本の企業では何をするにも 「個人」 ではなく 「チーム」 が窓口になることが多い。この 「チーム」 に送るには、着信したら誰でも見ることができる FAX の方が、「馴染み」 がいいのである。つまり、日本では 「個人」 に立脚したビジネス・スタイルが根付いていないのだ。

逆に海外では、特定個人に送った通信文でも周囲に丸見えになる FAX なんて、とても抵抗があるんだろうね。そんなこともあってか、1980年代の欧米では、FAX の普及が日本に比べてものすごく遅れていた。新聞記者時代に海外出張して原稿を送るのに、郵便局まで行かないと FAX が送れないということが珍しくなかったのを記憶している。

そして欧米では E-mail が普及すると、普及の中途半端だった FAX は急速に廃れた。日本はなまじ FAX 先進国だったし、それが日本のビジネススタイルに妙にフィットしていたこともあって、今でも幅をきかせているというわけだ。

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2016/04/05

ポスト PC の時代だから、iPad Pro で身軽にいきたいのに

「ポスト PC」 の時代は、既に始まって久しいようなのだ。Apple は iPad Pro の展開に力を入れるらしい。

私自身は先月 19日の記事 (参照) で書いたように、iPad Pro よりも MacBook Air を買いたいのだが、Apple は MacBook Air から iPad Pro への移行を促進したいのだろうと思われるフシがある。確かに、ライトユーザーなら iPad があれば十分だし、業務で使うユーザーでも込み入った作業をするのでなければ、iPad Pro の方が楽だろうという気がする。

そうなるとヘビーユーザーとしては PC としての Mac に、次の 2点の機能をもたせることになる。

  1. iPhone と iPad のホストマシン的な役割をさせる。
  2. かなり込み入った作業をしなければならない時に、専門的なソフトを立ち上げて使う。

フツーに考えれば、普段は軽い iPad を持ち歩けばいい。ちょっとした長文を書く時でも、外付けキーボード (iPad 本体のカバーを兼ねるやつ) があれば楽だ。

Apple としては iPad の性能を上げて普遍的なマシンとし、これまでは Windows というトゥマッチなシステムを買うしかなかったユーザーに、身の丈にあったマシンを提供するという路線なのだろう。この路線は多分正解だ。これで 「ポスト PC」 の時代は明確に確立する。

あとは Mac の方で iOS との連動性を高め、本当のヘビーユーザーがシームレスな作業を行うための機能を充実させることになるだろう。Windows 7 から 8 に変わった時のような混乱を作り出す必要はない。あくまでも iOS との連動をしやすくすればいいのである。

Windows 10 で動くノート PC のキーボードを取って持ち歩けばタブレットになるなんていうようなコンセプトでは、「ポスト PC」 の時代にそぐわない。そんなのでは、「キーボードを外した PC」 にすぎない。

そうでなくても、若年層では PC をもたずにスマホだけというユーザーが増えている。新しいユーザーにあくまでも Windows のようなヘビーすぎるシステムを押しつけ続けるのは、もはや時代錯誤といっていい。

というわけで、私としては先月 19日の記事で述べた個人的事情の解決のために、次の 2点を期待する。

  1. ココログのシステムを、iOS にきちんと対応させて、iPad でのブログ更新や管理を、ストレスなくこなせるようにしてもらいたい。
  2. iOS のワープロ (Word でも Pages でもどっちでもいいが) で、縦書き編集に対応してもらいたい。

ココログを毎日 2本更新し、縦書きの文章で原稿料を得る身としては、この 2点が実現しないと、iPad の進化を横目で見ながら 「外出時もやっぱり MacBook でなきゃね」 なんて言い続けることになる。ポスト PC の時代だから、身軽にさくさくいきたいのに。

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2016/04/04

自分で自分の近所のことを 「お膝元」 なんて言うなよ

昨日の昼頃、TBS ラジオを聞いていると、赤坂の某老舗の紹介をする際に、女性アナウンサーが 「TBS のお膝元、赤坂の老舗」 と言っているのを聞いて、ちょっとびっくりした。「自分で自分の近所のことを 『お膝元』 なんて言うなよ!」 ってことである。

まあ、彼女は原稿を忠実に読んでいただけなのだろうが、たとえ原稿にそう書いてあったとしても、私だったら咄嗟のアドリブで 「TBS の地元、赤坂の老舗」 ぐらいに読み代えるだろうと思った。そうでないと、言ってる自分が気持ち悪くなる。

念のため。「お膝元」 をネット辞書で調べると、次のようにある。(Goo 辞書

お‐ひざもと【▽御膝下/▽御膝元】

1 貴人のおそば。
2 天皇や将軍などのいる土地。首都。「幕府の―を騒がす」
3 権力者の直接の支配下。「家元の―で起こった不祥事」

言葉通りに聞いてしまうと、TBS は自分で自分の会社を貴人、権力者扱いしているということになる。要するに、「驕り高ぶり過ぎ」 か、そうでなければ 「言葉を知らなすぎ」 ということだ。

それとも最近は 「お膝元」 を単に 「地元/近所」 という意味で使うようになったのだろうか? いや、いくら 「言葉は生き物」 といっても、そこまで変わってしまったわけじゃなかろう。これはやっぱり、言葉の誤用としか思われない。

言葉のプロであるはずのラジオ局の制作者としては、少しは気をつけてもらいたいと思ったのであった。

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2016/04/03

都内のホテルは当日予約が狙い目らしい

去る 1月 17日の日曜日、夜中から翌朝にかけて関東地方が雪になりそうとの予報になったので、翌日の出張のため、急遽都内のホテルに前泊した。18日の朝に出発したのでは常磐線が動かず、予約した新幹線に乗れなくなるおそれがあったからだ。

前泊する方がよさそうだと判断したのは、当日の午後 4時頃。しかし、最近の都内はホテルの予約が取りにくい。当日の予約なんて、いくら日曜とはいえ到底無理だと思ったが、とりあえずダメ元で 「楽天トラベル」 で検索してみた。東京都内がダメなら、ギリギリ近い松戸辺りに泊まり、翌朝はなんとかして東京駅までたどり着こうと思ったのである。

すると、なんとまあ、当日宿泊可能のホテルが山手線沿線に数軒見つかったのである。信じられない思いで早速予約を入れた。急遽旅支度を整えて雪が降り始める中を出発し、日のとっぷりと暮れた都内に入ると、いつもよりずっと静かだった。日曜の夜というだけでなく、雪になりそうとの予報で、多くの人が早めに家路についたからだろう。午後 8時過ぎに数時間前に予約したばかりのホテルに到着した。

フロントで 「今どき、都内のホテルを当日に予約できるとは思わなかった」 と告げると、フロントマンは 「実は当日が狙い目なんです。キャンセルがしょっちゅう発生しますので」 と教えてくれた。彼が言うには、急増する中国人旅行客の予約は、ホテル側にとってはかなりリスクが高いのだそうだ。

「平気でドタキャンしてくるんですよ」 と彼は苦々しそうに言う。「実は今夜もどっとキャンセルが入ったんです」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、1週間前に予約できなくても、当日になればなんとかなる可能性が高いというわけですね」
「そうですね。当日はかなり狙い目です、私どもとしては、本当に困るんですけどね」

フロントマンの愚痴は、さらに続く。
「いやあ、本当に困るんですよ。あの人たち、夜中に騒いで苦情が入るし、部屋の中のモノを持って行くし……」

中国人団体客の泊まっているホテルが夜中になっても騒がしいことが多いのは、実際私も経験してよく知っているが、フロントマンから直接こんな風に愚痴を聞かされるとは思わなかった。これはホテル側が客に対して客の悪口を言っているようなものである。本当のことなのだろうが、それをあからさまに聞かされるのは、あまり愉快な気分じゃない。

というわけで、このホテルは二度と泊まることがないだろうと思った次第である。ただ、「都内のホテルは当日予約が狙い目」 という情報は、覚えておいて損はないだろう。

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2016/04/02

陶器と磁器の違いを、この年になって初めて知って

まことに恥ずかしながら、陶器と磁器の違いというのを、この年になって初めて知った。「陶器 磁器 違い」 というキーワードで検索してみて、トップにランクされている 「陶器と磁器は違います - 全国やきもの案内・日本六古窯」 というページを読んで見ると、なんのことはない。すらすらとわかってしまった。

要するに原料の違いということのようなのだが、感覚的には、陶器というのは備前焼に代表されるような、ちょっとラジッドな表面感のやつで、磁器というのは有田焼に代表されるような、地が真っ白で洗練された感覚のやつと思えばいいようなのである。なんだ、わかってみれば実に単純なお話じゃないか。

私がこの年になるまで陶器と磁器の違いをわかっていなかったのは、決して調べてみなかったからというわけじゃない。実はかなり前に調べてみたことはあるのだ。それはインターネットが普及していなかった頃だから、30代前半のことだったろう。多分、どこかの図書館に行ったついでに、百科事典で調べてみたんじゃないかと思う。

私はその時、「陶器」 と 「磁器」 の項目をそれぞれ読んでみたんだと思う。その時は 「陶器と時期の違い」 を調べようなんて思って図書館に行ったわけじゃなく、何かのついでだったはずだから、じっくりと読み込んで両者の違いを比較検討するなんて余裕はなかった。それで、それぞれの項目のかなり長い説明をざっと流し読みして、「違いは、結局よくわからん!」 と、あっさり匙を投げた。

そしてそのまま 「陶器と時期の違いというのは、よくわからんものである」 と、ほぼ 30年間にわたって思い込んでいたのである。実はこんなに簡単なことだったとは、何十年もにわたって思いもしなかった。

30年前と今との違いは、結局は調べてみる時の 「項目の立て方」 によるものだ。30年前は 「陶器」 と 「磁器」 に関する長々とした説明を、ざっと流し読みした。そこにはそれぞれの歴史、材料、技法、種類、代表的産地・作家、流通、用途など、「これでもか」 というほどの情報がてんこ盛りだった。てんこ盛りすぎて、両者の違いを端的にフォーカスすることまでに至らなかった。

ところがインターネットの時代となった今、自分の知りたい 「陶器と磁器の違い」 というただ一点にフォーカスして調べることができるようになった。ありがたいことである。おかげで他の豊富すぎる情報に埋没することなく、知りたいポイントに絞り込んだ情報に、さくさくっと行き着くことができたのである。

18世紀フランスの百科全書派のような啓蒙主義、教養主義をひょいとパスしながら、我々は知りたいことをとても楽に、いながらにして調べることができる世の中に生きている。だから我々の 「知識の平均点」 は、3世紀前に比べれば少しは高いところにあると思う。しかし気をつけなければならないのは、「知識の深さ」 がどうかという点だ。

私は 「陶器と磁器の違い」 について簡単に知ることができたが、「陶器そのもの」 「磁器そのもの」 について詳しく知ったわけじゃない。それぞれについての知識は、甚だおぼつかないものである。それは知りたいポイントを、まさにピンポイントで楽に知ることができたために、その周辺の情報をせっせと読み込むことをパスしたからだ。

1つのことを知るために、その周辺の膨大な情報の山に分け入り、さんざん遠回りをした挙げ句にようやくゴールにたどり着いた者は、簡単に 1つのことを知ってしまった者とは比較にならないほどの 「知識の深み」 を身につけているだろう。ピンポイントで得た知識は、大きなバックグラウンドに裏付けられた知識に太刀打ちできない。

時には回り道をすることも、とても大切なことなのだ。私も及ばずながら、陶磁器の世界の迷路を折に触れて、これまでより深く楽しんでみたいと思う。

最後にちょっとした付録。私はこれまで、英語の china, pottery, porcelain は 「陶器」 の同義語かと思っていたのだが、ものはついでと調べてみたら、陶器は pottery で、china と porcelain は磁器を指すのだとわかった。へえ! ちっとも知らなかったよ。ちなみに総称としての 「陶磁器」 は "ceramics" なんだそうだが、"ceramic industry" は、ガラス、セメント、煉瓦、タイルの業界も含むという。

ふうむ、なるほど。英語とセットで考えると、頭の中の整理がつきやすい。粉を練ったのが paste で、練って熱して固めたのは ceramics なのだね。

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2016/04/01

企業にとって最も効果的な IT セキュリティ対策

昨年、日本年金機構の職員がうっかりウィルスメールを開いたばかりに、百数十万人の個人情報が流出する事件があった。この事件をきっかけに、怪しいメールをこともなく開いてしまうという、役人の IT リテラシーの低さが問題になったが、それは決して役人ばかりではない。

私の関連する IT 企業、M社でも、クライアントの 某社 (日本人なら大抵知っている大手アパレル企業) の社員の IT リテラシーの低さが大問題になっていた。考えられないようなドジが頻発し、基幹システムまで影響されておかしくなりかけることもあったので、思い切った対策が求められていたのである。

それで昨年秋、M社の発案で、業務上のお知らせを装った数種類の偽装メールを その会社の全社員に送付するという実験を、秘密裏に行った。

偽装メールといってもとくに実害はないが、添付されたメールを開くと同時に 「ブーッ!」 と警告ブザーが鳴り、「差出人の明らかでない添付ファイルを無闇に開いてはいけません!」 という警告が表示される。その裏では 「お馬鹿な私は、やっちゃいました (T_T)」 というメールが自動的に返信される。

このメールは敢えてフリーメールのアカウントから発信された。常識さえあれば、そんな怪しい送付元からのメールに添付されたファイルを開く社員は、極々少ないと踏んでいたのである。

ところがその期待はあっさりと裏切られた。ウィルス・メールが送付された翌朝、社内のあちこちで警告ブザーが響き渡り、300人余りの社員の 7割近くから 「お馬鹿な私は……」 の返信メールが届いたのである。この方面ではプロのはずのお膝元、情報管理部員の 1人までが 「お馬鹿な私」 と判明してしまったのは、痛恨の出来事だった。

さらに、残りの 3割は大丈夫だったというわけでもなく、その半数以上は 1週間以上もメールをチェックしなかったために無事だったというケースで、その多くはデザイナー、パタンナーなどの専門職だった。果ては、情報管理部に添付ファイルの開き方を問い合わせてきた社員が数名いた。つまり、社員の 8割以上が 「問題あり」 だったのである。

同社の情報管理部は大変な危機感を抱き、急遽翌月を「IT リテラシー向上月間」 と定め、全社員を対象に、M社の担当者を講師とする 「IT セキュリティ講習」 を実施した。その甲斐あって社員のリテラシーも少しは向上したらしく、問題発生件数は目に見えて減少した。

「理屈に弱い感覚派のデザイナーたちが、この講習のおかげで下手に IT の便利さに目覚めてしまうと、逆に面倒なことになるのが確実なので、デザイン部門対象の講習では敢えてものすごくうっとうしい話をして、PC が嫌いになるように仕向けた」 と、M社の担当者は苦笑する。その効果は確かにあったようで、彼女らが無闇に PC に触らなくなっただけで、情報管理部のヘルプ対応出動の負担が激減した。

しかしまだ安心はできない。M社ではほとぼりが冷めたと思われる 3か月後、効果の再確認のため、かなり大胆な実験を試みることにした。ある夜、別のプログラムを組み込んだ偽装メールを全社員に送りつけてみたのである。

翌朝、多くの役員室で突然悩ましい女性のあえぎ声が響きわたり、大騒ぎになった。東京本社だけでなく、大阪支社、札幌、名古屋、博多の支店でも同様の騒ぎとなった。

前夜に発信された偽装メールのタイトルは 「あなただけに、こっそり ♡」というもので、「松坂○子の秘密」 という名前の音声ファイルが添付されていた。

先に開かれたセキュリティ講習に、この会社の役員は誰も参加していなかったので、彼らへの厳重注意は見送られた。「別に注意しなくても、十分に懲りたみたいだし」 と、M社の担当者は語る。事実、ほとんどの役員はそれ以後、PC に指一本触れなくなった。この類いのことはすべて秘書任せになったのである。

結果的に この会社のセキュリティ上の問題は劇的に減少した。一通りの講習の後は、デザイン畑の感覚人間と年寄りのお偉方を PC から遠ざけることが、最も効果的なセキュリティ対策であることが判明したのである。

そして彼らが PC に触らなくても、以前と比べて業務が滞るなどということはまったくなく、むしろトラブルが減った分、業務が円滑になったというのも、予想通りの効果だった。

【4月 2日 追記】

ええと、恒例のエイプリルフール・ネタということでご了解下さい。「いかにもありそうな」 という tak-shonai 流を推し進めたい思っておりますが、なにぶん年に 1度しかトライできないので、なかなか極めるまでに至りません。

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