« 2016年10月 | トップページ | 2016年12月 »

2016年11月に作成された投稿

2016/11/30

"Mindfulness" と 「マインド・フルネス」

今年の初め頃に義理で参加した、ある講演会のことを急に思い出した。その講演会では、講師がのっけに 「最近、『マインド・フルネス』 というのが注目されておりまして、読んで字の如く、『心をフルに活性化させる瞑想』 です」 なんて言い出したので、「あ、こりゃダメだ」 と思い、すぐに席を立って帰ってきたのだった。

Budda

「マインド・フルネス」 と 「ナカグロ」 入りで表記したのは、その講師がそのように発音したからである。「マ」 と 「フ」 にアクセントを置いて、「マインド」 と 「フルネス」 の 2語の組み合わせにしか聞こえない言い方をした上で、ダメ押しのように 「心をフルに活性化」 なんてことになっちゃったから、「これ以上付き合っても、勝手な解釈の通俗処世術を聞かされるだけ」 と判断せざるを得なかったわけだ。

言うまでもなく 「マインドフルネス」 というのはナカグロ入りの 「マインド・フルネス」 なんかではなく、"mindfulness" という 1語の英語のカタカナ表記である。"Mindful" (〜を心がけて、〜に留意して) という形容詞に "ness" という接尾語を付けて名詞形にした言葉だ。直訳すれば 「心がけること、留意すること」 というようなことである。

瞑想などによって心を一つのことに集中させる (これがまさに "mindful" の状態) メソッドを通じ、ストレスが解消されるとされている。それによって結果的に 「心をフルに活性化させる」 という効果を生じることがあるかも知れないが、元々の指し示すところとはビミョー以上に違う。

で、ここで論じたいのは 「マインドフルネス」 の実践などではなく、その言葉そのものについてだ。

「もしかして……」 と思い、"マインド・フルネス” というナカグロ付きのキーワードに限定してググってみると、出てくるわ出てくるわ、日本語のウェブの世界には、まさにナカグロで区切った 「マインド・フルネス」 と、スペースで区切った 「マインド フルネス」 がうじゃうじゃ存在するのである。(参照

51gbidjb2pl_sx341_bo1204203200_ この言葉が 2語の組み合わせと誤解される元になった材料の一つに、『グーグルのマインドフルネス革命』 という本が挙げられるかもしれない。なにしろ表紙のデザインが、いかにもそんな風に誤解させるに十分な表記で、「マインド」 と 「フルネス」 が 2行に分かち書きされてしまっているのだ (左図参照)。

これ、結構売れた本なので、書店で平積みにされているのを見ただけの人は、「マインド・フルネス」 と思ってしまってもしょうがないだろう。私がデザイナーだったら、こんな紛らわしい表記は絶対にしない。

ほかにも 「マインド・フルネス (mindfulness)」 などと、正しい英語を併記しながら、カタカナではなぜかナカグロ付きにこだわっている意図不明の表記のページもある。世の中というのは、本当にいろいろあるものである。

ここまで来て我ながらさらにもの好きなことに、英語そのものでも調べてみる気になった。日本語同様に "mind fullness" という 2語のキーワードに限定してググってみたのである。

するとグーグルとしては当然の如くに、「こいつ、"mindfulness" という言葉を知らねえんでやんの! しょうがねえなあ」 と気を利かせて、「次の検索結果を表示しています: "mindfulness"」 というのが表示されるが、「やかましい、余計なお世話だ!」 とばかりに、その下に表示される 「元の検索キーワード: "mind fullness"」 をクリックする。

すると、なんとまあ、英語の検索結果でも "mind fullness" と表記したページがいくらでもあることがわかる (参照)。その多くは英語のネイティブ・スピーカーではない人のページようだが、やっぱり誤解されがちな言葉のようだということは十分に確認できる。

そんなこともあって、「まあ、日本人が 『マインド・フルネス』 と誤解しちゃうのも、無理ないか」 と思え、ちょっと優しい気持ちになれたのである。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2016/11/29

粗悪ガソリンについて、続報

2ヶ月半ほど前に "「粗悪ガソリン」 というのは、どうやら存在するようだ" という記事を書いた。いつもガソリンを入れていたセルフのガソリンスタンドが店舗改修のために休業状態になってしまい、仕方なくその筋向かいのガソリンスタンドでガソリンを入れたら、やたらと燃費が悪くなったという経験から、混ぜ物をして売ってるガソリンスタンドがあるという噂は本当だと確信するに至ったお話である。

Img_7544

とにかくそのガソリンスタンドで連続 3回ぐらい給油すると、リッターあたりの燃費が 3〜4km も悪くなるのである。で、他のスタンドで給油すると、燃費が戻る。もっとも 1度の給油ではタンクの中のガソリンがすべて入れ替わるわけではないから、徐々に燃費が戻って、3度目ぐらいで 「おぉ、やっと本来の燃費になった」 と実感するのだ。

そして先月、それまで贔屓にしていたガソリンスタンドの改装工事がやっと終わり、華々しく再オープンされた。「やれやれ、やっとまともなガソリンが便利に入れられる」 と、喜んで給油したのだが、なんと思うような燃費が出ない。「おかしいなぁ」 と思いつつ、3度連続して給油したところ、向かいのスタンドより少しマシ程度の、 19~21km/ℓ ぐらいの燃費しか出ないのである。

「なんだ、改装工事が終わって再オープンしたとたんに、ガソリンの品質を落としやがったか!」 と失望し、それ以後は別のスタンドで給油することにした。おかげで今は 22〜24km/ℓ の本来の燃費をコンスタントに叩き出している。

この秋の経験があったせいで、最近はガソリンスタンドごとの燃費の良し悪しをだいぶ気にするようになった。それでわかったことだが、粗悪ガソリンを扱っているスタンドというのは、結構多いようなのである。居住するつくば周辺で、どのスタンドが信頼できて、どのスタンドで給油すると燃費が落ちるかというデータは、かなり頭に入った。

石油業界から広告をもらっていないポータルサイトが、日本全国の 「ガソリンスタンド信頼度」 といクチコサイトを作ったら、ものすごく参考になると思う。なにしろ、リッターあたり 3km も燃費が落ちたら、30ℓ の給油で走行距離に 100km 近くの差が出てしまうのだから、1円や 2円の価格差なんてぶっ飛んでしまう。

ちなみに、上の写真は新装開店を機にガソリンの質を落としたとしか思われない ESSO のスタンドで、その奥の左側が、ものすごく燃費が悪くなる出光のスタンドである。つくば地区在住のわかる人にはわかると思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/11/28

死刑制度と被害者感情をセットで語らない

世界的には廃止の方向に向かっている死刑制度だが、日本では相変わらず容認派が多い。下のグラフは、朝日新聞の調査によるものだが、死刑制度容認は 5年前よりはわずかに減っているが、20年前に比べると多くなっている。今世紀に入って容認派が 8割を越えているというのは、私には異様に思える。

Photo

本日夕方の TBS ラジオ 「デイキャッチ」 で、ジャーナリストの青木理氏が 「“死刑制度” と “被害者感情” をセットで語ってはならない」 という主張を語っていた。私としてはこれに大いに納得したので紹介してみよう。

詳しくは YouTube で聴けるので、こちら に飛ぶのがお薦めだが、まあ、ざっとまとめてみると、死刑制度廃止について語る時にいつも 「被害者 (遺族) 感情にも配慮しなければ」 という議論が出てくるのは、考え物だということである。被害者感情に配慮して犯人を死刑にしてしまうのは、要するに 「復讐」 であって、それはかなり前近代的な発想だというのだ。

一般に死刑の対象となる残忍な複数殺人の場合と、被害者が 1人の殺人の場合で、被害者感情がどう違うのかということを考えると、結構矛盾が生じる。例えば飲酒運転などでひき逃げされてしまったなどという言語道断なケースでは、遺族としては殺してしまいたいほど犯人が憎いだろうが、現実にはこうしたケースでは滅多に死刑にはならないのである。これをどう考えればいいのか。

そこで青木氏としては、「死刑廃止」 を論じる場合には 「被害者感情」 をセットにしないことが大切だと主張しているわけだ。「被害者は犯人を殺したいほど憎んでいる」 というようなことを必要以上に重視してしまったら、結局は 「復讐肯定」 になってしまうというのである。

青木氏としても被害者感情に配慮する必要性は十分に認識しているが、それは残された遺族の感情的、経済的なケアを社会制度としてしっかりしなければならないということであり、短絡的に 「犯人を死刑にしてしまえ」 というのではない。死刑にしてしまえば鬱憤晴らしにはなるかもしれないが、例えば一家の大黒柱を失ってしまったというようなケースでは、遺族の経済問題の解決にはならない。

さらに、「死刑は凶悪犯罪抑止効果がある」 という主張に関しても、私は今や懐疑的である。4年前にも書いている (参照) が、要するに 「世をはかなんで自殺しようと思ったが、自分では死ねないので、世間を見返すためにも大量殺人をしてしまえば、確実に死刑にしてもらえると思ってやった」 なんていう虫のいい殺人事件が出てきているのがその理由だ。

大阪心斎橋通り魔事件」 や 「池田小殺人事件」 などがその例で、むしろ死刑制度が結果的に凶悪殺人事件を犯すインセンティブになってしまっているのである。こうした事件の犯人は、「おぉ、俺は死刑になりたいんじゃ。だからどう間違っても懲役刑なんかで済まないように、できるだけ残虐に多くの命を奪って、世の中に意趣返しをして、その上で国の手で殺してもらうんじゃ」 と考えて犯行に及んだのだ。

そしてこれらの事件では、犯人の希望通りにあっという間に死刑が確定し、さっさと死刑も執行されてしまっているのだから、ある意味、アフターサービスが良すぎるほどだ。個人的にはこんな事件の犯人は、望み通りに死刑になんかしないで、延々と無意味に監獄暮らしさせる方が厳罰に値すると思う。

死刑制度を考え直すには、「被害者感情をセットにしないこと」 と、「凶悪犯罪抑止効果があると思われてきた死刑制度には逆効果もある」 という 2点をしっかりと考慮する必要がある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/11/27

TPP は死んでしまったみたいだから

ドナルド・トランプが 「大統領に就任したらすぐに TPP を脱退する」 と明言しているのだから、まともに考えたら既に 「TPP は死んだ」 のだろう。

2

私はこのブログで、TPP 賛成の態度表明をしてきた。ただそれは、積極的な賛成というわけではなく、しぶしぶながらというところだった。その理由は、2013年 3月 16日の記事で書いているように、「中国の影響がやたら強い経済圏で暮らすよりも、いろいろと問題はあるだろうが、TPP の中で暮らす方が、少しは気分が良さそうだ」 ということである (参照)。

TPP が死んでしまったら、それとばかりに中国が環太平洋経済圏での主導権を握ろうとするだろう。ドナルド・トランプに考え直させることができるとすれば、「それでもいいの?」 と迫ることだ。「そんなこと、知ったことじゃない。米国は米国の中の雇用が安定しさえすればいいのだ」 というなら、それはそれでしょうがない。

よく言われることだが、米国経済における第二次産業の占める比率というのは、既に 4分の 1を切ってしまっていて、工業製品なんかより技術やノウハウ、特許などの方がずっと稼ぎになるのだから、自動車産業の雇用が多少増えてもしょうがないということもある。でも、トランプは 「そんなこと知ったことじゃない」 という立場のようだから、これも仕方がない。

トランプがどうしても態度を変えないというなら、この期に及んで TPP にこだわり続けていては周回遅れランナーになってしまう。お笑いぐさだ。

元々 TPP というのはビミョーな問題をはらみすぎるほどはらんでいて、民主党政権時代は首相を務めていた野田さんが積極的に推進していて、自民党なんて 「断固反対」 なんて言っていたのだ。それがいつの間にか両方とも過去のいきさつを忘れてしまったかのように立場を 180度入れ替えた議論になっている。

要するに日本の政治というのは、政権に就いてしまったら米国の腰巾着をし、野党になったら何でも反対するのがお約束なのだ。ところが政権党がずっと忠義立てしてきたはずの米国が、いきなり 「TPP 脱退」 なんてことを言い出したので、はしごを外された格好になってしまっている。

選挙戦ではトランプだけじゃなく、ヒラリーまでそんなことを言っていたのだから、まったく世の中、何が起きるかわからない。間違いなく言えることは、世の中の振り子が大きく逆方向に触れ始めたらしいということだ。

とりあえずしばらくは、TPP よりちょっと居心地が悪いだろうと思われる、中国に引きずられた形の経済の中で我慢するしかないのだろう。その中で、多少は居心地改善の努力をしなければならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/11/26

インフルエンザが流行り始めたらしいのだが

早くもインフルエンザが流行り始めたらしい。今月 14~20日に全国約 5000か所の定点医療機関から報告のあった患者数が、1医療機関当たり1.38人となり、流行の目安となる 1人を超えたのだそうだ。

1

ここでいきなりだが、私はインフルエンザという病気にかかった覚えがない。もしかしたら自覚しないうちにかかったことがあるのかもしれないが、そもそもここ何年も、大した風邪をひいてしまったということがない。

「いや、もしかして忘れてるだけかもしれない」 と思い、「風邪」 というキーワードで自分のブログを検索してみたら、ありゃ、決してひいてないわけじゃない。ただ大事に至っていないので、自分で覚えていないだけのようだ。

自分の過去記事をみると、夏風邪の方が多い。「夏風邪は馬鹿しかひかない」 というが、自分に照らし合わせれば 「なるほどね」 と思うばかりである。ただ一昨年の 5月の夏風邪について書いた記事をみても、決して寝込んだわけでもなく、フツーに仕事を続けてるうちに治っていた (参照)。

さらに検索してみると、4年前の今頃に 「胃腸風邪」 というものにかかって寝込んだと書いている。ただ寝込んだと言っても昼から夕方までの半日足らずのことで、珍しく医者にかかって処方してもらった薬が劇的に効いて、なんのことなく復活しちゃってる (参照)。

「風邪気味かな?」 と思うことは、年に何度かある。ただそんな時は、常備してある葛根湯を 1〜2回飲んでフツーに暮らしてさえいれば、知らぬ間に治ってしまっている。「葛根湯様々」 である。そんなわけで、私はインフルエンザの予防接種を受けようなんていう発想がない。予防接種なんかに頼らなくても、何十年もかかっていないのだから、必要ないのである。

ただ世の中には、「自分の都合だけで考えてはいけない。インフルエンザにかかって周囲にうつさないためにも、予防接種は受けるべきだ」 なんていう人もいる。しかしこれは、ちょっと疑わしい論理だ。ワクチン業界の回し者なんじゃないかなんて思ったりする。

そもそもインフルエンザの予防接種というものは、「感染を防ぐ」 というよりは 「かかっても発症を抑える」 とか 「重症化を抑える」 とかいうのが本当の目的であるらしい (参照)。だったら、予防接種をしたからといって、他人にうつさないで済むというのは甚だアヤシい。だから予防接種を受けないからといって、他人の迷惑を顧みない自己チューってわけじゃない。

私としてもこれから年をとってよっぽどのじじいになってしまったら、もしかしたらインフルエンザをこじらせてしまうこともあるかもしれない、ただそんな時は、いいチャンスだからあっさり死ねばいいのである。そんなことでもなかったら、いつまで生き長らえてしまうか知れたものではなく、それこそ世の中に迷惑をかけてしまう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2016/11/25

ウールの洋服と羊の虐待を結ぶ関係

米国のアリシア・シルヴァーストーンという女優が、PETA  (People for the Ethical Treatment of Animals = 動物の倫理的扱いを求める人々) のウール反対キャンペーンで、「ウールを着るぐらいなら裸で行くわ」 と宣言している。

1

PETA の同様のキャンペーンでは、毛皮に関するのが有名だ。世界中のセレブが 「毛皮を着るぐらいなら、裸で行くわ」 と言ってヌードになった。日本でも杉本彩がやっていたはずだ。そして今度はウールがターゲットになった。

実は私は 30年ほど前にウール関係でメシを食っていたことがあるので、今度のキャンペーンには少なからずショックを受けている。羊毛産業がそんなにまで羊を虐待しているとは、恥ずかしいことに知らなかったのだ。

羊の毛を刈ることをシアリング (shearing) というが、当時は手動式のバリカンから電気バリカンに移行して間もない頃で、毛が長く伸びた羊をちょこんと座らせて、まるでどてらを脱がせるように刈っていた。結構牧歌的な風景で、むしろ暑い季節を前に、羊としてもすっきりと涼しくなるのだと思っていた。以下のビデオのような感じである。

このように子どもにも見せる 「毛刈りショー」 なんてものが成立するぐらいだから、決して残酷なものではない。ところが最近は、相当に乱暴なやり方になっているところがあるようだ。次のビデオは、PETA が撮影したものというのだが、なるほど、確かに目を覆うほどの残酷さである。

私としては、すべてのシアリングがこんなにまで残虐な行為の上に成り立っているとは決して思わない。むしろこんなのはほんの一部だろう。牧羊農家としても羊は毎年ウールを生み出してくれる財産だから、大切に扱ってもらいたいはずなのだ。

しかし腕のいい職人が減って、素人が毛刈り現場に入ってきたことにより、こんなようなことも発生しているのかもしれない。ただ、あまりにもわざとらしい残虐さで、もしかしたら 「やらせ」 かもしれないとの疑念も浮かんでしまう。そのあたりは何とも言えない。

というわけで私としては、世界のアパレル企業に 「残虐な工程で生産されたウールは使わない」 という宣言をしてもらいたいのである。きちんとした工程管理をして、羊を虐待せずに生産されたという認証付きのウールだけを使用するのである。そのための認証制度を整える必要があるだろう。

もしかしたら中国などの新興国でウールスーツなどの需要が高まっていることが、シアリングの牧歌性を奪って残酷なものにしてしまっているのではないかと思う。だとすれば、我々としてはウール製品を毎年買うなんてことはせずに、同じ服をできるだけ長く着続けることが、羊に対する残虐行為を減らすことにつながると考える。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2016/11/24

雪と学び

予報通りに雪が降って、11月の降雪としては東京では 54年ぶりで、しかもこの月の積雪記録としては観測史上初ということになった。まあ、何があっても不思議じゃない。ただ、それほどの積雪にはならなかったので、栃木県境近くでの仕事の往復は何のことなく終えることができてほっとしている。

Img_7507

上の写真は途中で写したものだが、田んぼでこの程度の積雪では、幹線道路にはほとんど積もらずに済む。もし田んぼに真っ白な雪が分厚く積もるようだと、道路上でも少なくともシャーベット状になり、関東のドライバーはどうしようもなくなってしまう。

1 ところで、帰宅してから Twitter 上でおもしろい動画があちこちで retweet されているのを見つけた。「窓を開けて雪をスローモーションで撮影してたらカーテンレールの上に飾ってあった人形が落ちて来ました」 というテキストと動画のセットである (参照)。

ふわふわと舞い落ちる雪とともに、一瞬生身の人間と見まごう物体が、ゆっくりと落ちていく動画が、なかなかシュールである。そしてよく見ると、雪と人形の落ちるスピードがほとんど変わらないことに気付く。

人間の意識としては、雪というものはゆったりと舞い落ちるもので、カーテンレールに載せていた人形は一瞬の間にストンと落っこちるものと思い込んでいるが、こうしてみると、両者のスピードはそれほど変わらない。

まあ物理の授業で物体の落ちる速さは重かろうが軽かろうが同じと教わっているので、「そりゃ、まあ、そうだわな」 と納得するが、それでもちょっとだけ違和感は残る。それでさらに注意深く見つめると、やはり雪の方がほんの少しだけゆっくり落ちているように見える。なかなかビミョーなものである。

そこはそれ、やっぱり雪の方が複雑な気流の影響ってものを受けやすいのかもしれないが、もしかしたら単なる錯覚かもしれない。このあたりは極端な文系ゆえ、厳密なところはよくわからないので、詳しい方のご教示を求む。

というわけで、自然現象というのは虚心になって見つめると、なかなかおもしろいものである。損得勘定だけで見ていると、うんざりしたりしてしまうのだが、まあどうせ人間の力の及ばないことなのだから、多少寒かろうが、交通機関が遅れようが、楽しんでしまえばそこにいろいろの学びがあるのだよね。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2016/11/23

白鷺の冬支度

寒々しい一日だった。明日はもっと寒くなって雪が降るかも知れないという。関東で 11月に雪が降れば 54年ぶりだというし、都心で積もるようなことになると観測史上初めてということになるらしい。まあ、いずれにしても私の郷里の冬の初めみたいな陽気である。

Heron

そんなわけで、今日はスタッドレス・タイヤに交換した。明日は栃木県の県境辺りまででかける用があるので、もし雪が積もったら大変なことになる。降らなければ、いや、降ったとしても積もらなければ儲けものというつもりで、念のために履き替えたのである。

本当は、こんな時期にスタッドレスにしたら、来年の 3月初めまで 3ヶ月以上もずっと付けっぱなしになるので、長持ちしなくなる。いつもの関東の冬なら、年明けに交換すればいいので、2ヶ月ぐらいで済むのに。まったく物入りなことである。

明日の運転で心配なのは、雪による渋滞の発生だ。私自身はスタッドレス・タイヤで出かけることになるので、多少の雪は全然大丈夫なのだが、回りのクルマが何の対策もしていないと、やっぱり動きが取れなくなる。とくに橋の手前で土手に昇るちょっとした登り坂にさしかかったとたんに、スリップで動けなくなるクルマが多く、そうなったらこちらは降りて 1台ずつ押してやらなければならない。

極端にいえば 1台動けなくなったら、その後ろは軒並み動けなくなってしまうので、大迷惑なのである。関東のドライバーは雪を甘く見すぎている。ウチの田舎では考えられないことである。

とにかく昨日の地震といい、早々の雪予報といい、天と地はかなりの変動期に入っているのだろう。裏の川に舞い降りた白鷺は、冬を生き延びる体力を今のうちにつけておこうと、いつにも増して熱心に魚をついばんでいた。鷺が魚を捕らえる一瞬の早業を、生まれて初めて写真に撮ることができた。上の写真がそうなのだが、小さな魚をくわえているのがわかるかなあ。

9年前の大晦日に 「水鳥として生まるれば水に棲む鮒を喰らふに鵜はためらはず」 という歌を詠んだが、まあ、当然ながら鵜だけでなく、白鷺だってためらわないんだね。生きとし生けるものの冬支度である。

それにしても当時のコンデジでは目一杯望遠を効かせても小さくしか写せなかったが、最近のはこんなに大きく撮れるようになったのがちょっと感慨深い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/11/22

5年経って発生した 「余震」

今朝 6時前、地震を感じた。最初からちょっと強めの揺れだったので、てっきり 「つくば特有の、いつもの直下型地震」 と思い、軽い気持ちでやり過ごそうと思っていると、突然さらに大きな揺れが来た。その時初めて 「こりゃ、直下型じゃなくて、離れた震源地で起きた大地震だな」 と気付いた。

Cx0ovd0ukaaho4y

直下型だったら、P波と S波がほぼ同時ぐらいに伝わってくるから、いきなり突き上げるような激しい揺れになるが、慣れてしまえば 「この揺れが最大で、これ以上は強くならない」 と、慌てずに済む。ところが今朝の地震はそれじゃなかった。

初めから結構な揺れがきて、それがしばらく続き、その後にいきなり大きな横揺れが来たというのは、相当大きな規模の地震が発生したということである。おもむろに iPhone にインストールしてある 「ゆれくるコール」 というアプリを立ち上げると、福島県沖を震源地とする大きな地震と告げている。

しばらくしてテレビのスイッチを入れると、NHK のアナウンサーが興奮気味の声で 「津波が来ます。すぐに避難して下さい」 と呼びかけている。我が家は海から遠いので津波被害の心配はないが、5年前の東日本大震災の記憶がよみがえり、思わず緊張してしまった。

その後の情報を聞けば、なんとこれは 5年前の地震の余震だというではないか。いくら大地震だったとはいえ、5年経ってもまだ余震を引き起こすとは思ってもみなかった。しかし大きな地球の営みからすれば、5年という時間はほんの一瞬みたいなものなのかもしれず、驚くほどのことではないのだろう。

とにかく、5年前の 「あれ」 は、それほどまでに大きな地震だったということであり、地球は大きな変動期に入っているということだ。物騒なことだが、日本人はその中で生きていかなければならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/11/21

政治家の妻は 「ウッカリ夫人」 を演じなければならない

宮城県議会議長が 2代続けて白紙領収証問題で引責辞任するという (参照)。辞任した中山氏によると、クルマの運転代行の料金を支払った際に業者から金額が空欄の領収証を受け取り、その領収証に妻が金額を誤って記入したのだという。

Receit

私は運転代行というサービスを利用したことがないので、領収証発行についてどんなシステムになっているのか知らない。ただタクシーに関していえば、今はスーパーのレシートみたいなのに金額が自動的に印字されて出てくるシステムが多いが、昔は当たり前のように白紙領収証をくれる運転手が多かった。

私は数字に弱くて支払金額なんてすぐに忘れてしまうから、「ちゃんと金額書いてよ」 と要求すると、運転手は 「こっちは忙しいから、そちらで記入してください」 なんて言うのだった。今から考えれば、妙な顧客サービスのつもりだったんだろう。「当社はいつも白紙領収証を出しますから、次回もよろしく」 ってなもんだ。

ところが 「そちらで記入してください」 なんて言われても、こちらはタクシーの料金体系を知らないから、あり得ない金額を記入して会社の経理に文句を言われたくない。だからいつもその場で、「ちょっと待ってよ、忘れないうちに書いちゃうから」 なんて言って、正直な金額を自分で書いていた。

こちらとしては、「だから初めからそっちで書いてくれる方が、結局のところ手っ取り早く済むんだよ」 と言いたかったが、運転手としては 「時々こういう馬鹿正直な客がいるから、手間がかかるんだよ」 と、苦々しく思っていたに違いない。

同僚の中には、タクシーの料金体系をきちんと知っていて、いつももっともらしい多めの金額を記入しているやつもいたが、私はせいぜい 200〜300円余計にせしめるためにそこまで面倒なことをする気はなかった。10回やっても 2,000〜3,000円の違いにしかならないことで、自分の品性を卑しめたくはないじゃないか。

ところが世の中には、そんなちゃっちいことをする人が案外多いのだね。ずいぶんマメなことである。昔 『チャッカリ夫人とウッカリ夫人』 というラジオドラマがあったが、バレちゃった時に 「ウッカリ夫人」 を演じなければならない政治家の妻というのは、思えばずいぶん気の毒なことである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/11/20

アクセルとブレーキの踏み間違い事故を防ぐには

近頃、老人がアクセルとブレーキのペダルを踏み間違えて事故を起こしたというニュースが相次いでいる。この傾向をみると、老人のペダル踏み間違いが一番多いように思えるが、実は件数ベースでみると 18歳から 29歳という年齢層によるものが最も多いらしい。

Pedal01

ただ、それは若年層の運転者数が多いことによるもので、交通事故件数に占める踏み間違い事故を起こす比率は、70歳以上が他の年齢層より明らかに高くなっているという。そしてあまり注目されていないが、男女別にみると、女性の踏み間違い事故の比率が明らかに多い (参照)。ということは、女性のお年寄りは結構危ないということになる。

踏み間違い事故を起こさないためには、アクセルペダルとブレーキペダルを離れた所におけばいいような気がするが、それだといかにも運転しづらそうだ。だったら、モーターバイクみたいに、アクセルは手で動かすスロットルにしちゃいばいい。ただそうすると、運転しながらちょっとペットボトルの水を飲んだりするなんてことも難しくなる。

ほかに方策はないものかとググってみたら、上の写真の 「ワンペダル」 というシステムが見つかった。これはナルセ機材有限会社という会社の製品で、アクセルとブレーキを一つのペダルに集約し、縦に踏み込めばブレーキになり、横に踏む (というか、足をずらす感じかなあ) と、アクセルになるというものらしい。車検も問題なくクリアするという (参照)。

人間は咄嗟の時には足を突っ張ってしまう傾向があるから、このメソッドだと、確かに踏み間違い事故はなくなるだろう。なるほど、考えたものである。

とはいいながら、私はこれ付けるのはやだなあ。長時間運転したら使い慣れない筋肉が疲れそうだし。そして運動神経的にはまだまだ大丈夫そうだしね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/11/19

地震の震度階級の最大が 「震度 7」 ということについて

ちょっとだけ古い話になってしまうが、今年 4月の熊本地震から 2週間ぐらい経った頃、評論家の山根一眞氏が "テレビ報道者も間違う 「震度最大10」 の誤解" という記事を日経に寄稿している。テレビの報道番組で複数の出演者が、「震度7以上の地震が来たら〜」 とか 「今後、震度8の地震が来たら〜」 とか口走っていたというのである。

Photo

これ、ごくフツーの常識問題だから、現在の震度階級では 「震度 7」 が最大というのを知らないジャーナリストがいるというのは、ちょっとビックリである。しかしもっとビックリの事実がある。

山根氏が教鞭を執る獨協大学で、それを学生に話したところ、「震度は 10 まであると思っていた」、「ニュースで震度 7 と知ったが、震度 10 ほど大きい地震ではないという誤った認識をしていた」 などの感想が多く寄せられた。震度 7 が最大であると知らない学生が圧倒的多数だったというのである。何だかなあ。

というわけで、山根氏は震度階級をわかりやすくするために、10段階に規定し直すことを提案している。現在の 「震度 0」 から 「震度 7」 までを数えると、ちょうど 10段階ある。これは 1996年以後、震度Ⅴ と 震度Ⅵ が、それぞれ 「弱、強」 に分割されたためだ。だったら、「震度 1〜10」 までの 10段階で表す方がわかりやすいというのである。

これ、上の図で見れば一見合理的でわかりやすいように思えるが、私としては 「いかがなものか」 と思ってしまう。というのは、「震度7以上の地震が来たら〜」 という無知なジャーナリストの発言も、決して完全無視していいとも思われないからだ。

事実、戦後しばらくまでは 「震度Ⅵ 烈震」 が最大と規定されていたのだが、1949年に 「震度Ⅶ 激震」 が加えられた。しかしすぐにはそんな大きな揺れは観測されず、実際にその 「震度Ⅶ」 の地震が起きたのは、それから 46年も経った 1995年の阪神淡路地震 (今は 「兵庫県南部地震」 というのが正式名称らしい) が最初だったのである。

ところがそれ以後、2004年の中越地震、2011年の東日本大震災、2016年の熊本地震 (2回) と、干支が一回りのうちに 4回も 「震度 7」 が発生してしまった。日本列島だけでなく、どうやら世界が大きな地殻変動期に入ってしまったらしいのである。

ということは、近い将来に 「震度 7」 では表しきれないようなとんでもない地震が発生しないという保証は、どこにもないのである。山根案に沿ってすっきりと 10段階の震度階級にしてしまってから、想定以上の大きな震度の地震が起きてしまったら、どう対応すればいいのだ。

現在の震度階級が 「数えてみれば区切りのいい 10段階」 になっているというのは、「たまたまそうなっているだけ」 なのだ。今後どう変わるかわからないことを、現在の常識のみですっきり規定してしまうと、その常識が覆された時の対応が難しい。

自然現象を必要以上にすっきりまとめたいという発想は、自然破壊につながる人間の浅知恵であるとすら思ってしまうのだよね。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2016/11/18

カタカナ言葉は 「魔法の呪文」

毎日新聞の日曜版目次で 「スリザーリンク」 という言葉を目にして、「そりゃ、いったい何じゃ?」 と思った。さっそくそのページを開いてみると、問題のとなりに以下の写真の説明がある。

Sl

要するに、数字で示された数だけの線を引いて、それを結んで全体で一つの輪を作るというゲームらしい。時間に追われていない人なら、いい暇つぶしになるだろうが、悪いけど自分でそれをやろうとは思わない。

私はこのパズルのルールなんてことよりも、まず最初に興味を持ったのは、「スリザー」 という言葉についてだった。「スリザーって、一体どういう意味なんだ?」 ということである。どうみても英語のようで、しかもそんなに複雑な言葉じゃないのは明らかだが、恥ずかしながら私のボキャブラリーにない。

辞書で調べようにも、カタカナの 「サ行・ザ行」 と 「ラ行」 は英語のスペル候補が複数ある。 "S" だったり "TH" だったり、そして、"R" だったり "L" だったりするので、かなりうっとうしい。そこで辞書で調べるよりもまず、ググってみることにした。

すると Wikipedia ですぐに "slitherlink" だと知れたのである。"slither link" という 2語ではなく、1語なのだね。そこでようやく Wisdom 英和辞典に移ることができて、"slither" の意味がわかった。

まず自動詞として 「1. (不安定にずるずると) ≪...を≫ すべる、すべりながら進む ; <ヘビなどが> するするとすべるように進む <through, across> 2. ≪...を≫ すべり落ちる [降りる] ≪down≫」 という意味があり、次に他動詞として 「... をずるずるとすべらせる」、そして可算名詞として 「ずるずるとすべること」 という意味になる。

なるほどね、ヘビがスルスルと這い進むイメージみたいで、上の画像をみても、スリザーリンクの回答はヘビの這った跡みたいに見えないこともない。「スリザー」 とは要するに、スペルからしても 「スリスリ、ズルズル」 である。

ここまで知れて、ようやく気が済んだ。「スリザーリンク」 という言葉は 「なんだかわからない魔法の呪文」 から、「ちゃんとした意味のある言葉」 に変わったのである。気が済んでしまったので、パズルに挑戦しようなんて気はさらさら起きない。

思えば、「カタカナ言葉はわからない」 という人は、「魔法の呪文からちゃんとした意味のある言葉」 への変換をしない人である。

例えば "hybrid" (交配種) という単語を知らず、「ハイブリッドカー」 という言葉しか知らなければ、それはクルマの特定の駆動方式以上の広がりを持たない 「魔法の呪文」 でしかない。ましてや次のようなアルファベットだけの略語の IT 用語となると、その世界でメシを食ってる人間でも元の言葉を知らないことが多く、そのへんのオッサンが 「IT 用語はわけがわからん」 と嘆くのも道理である。

DPI: Dots Per Inch (1インチあたりのドット = ドット密度の単位)
FTP: File Transfer Protocol (ファイル転送プロトコル)
LAN: Local Area Network (構内ネットワーク)
OCR: Optical Character Reader (光学式文字読み取り装置)

思いっきり文系人間の私が、曲がりなりにも PC を使いこなし、インターネットの世界に気軽に出没していられるのは、カタカナ言葉やアルファベットの略語が、私の中では 「魔法の呪文」 ではなく 「意味のあるフツーの言葉」 として理解されているからである。もし私が英語が苦手だったら、キーボードに触ることもできなかっただろう。

ただ、私は英語以外の外国語をほとんど知らないので、一昨年の正月の記事で書いたように、フランス語やイタリア語や韓国語由来のカタカナ名前の食べ物が、さっぱりわからない。「フォンデュ」 とか 「テリーヌ」 とか 「カルパッチョ」 とか 「ビビンバ」 なんて何度聞いてもすぐに忘れて、どんなものか想像もつかなくなる。

それらは私にとってはまさに 「魔法の呪文」 そのもので、なるほど、これが IT 用語の世界だったら、さぞかし困るだろうなあと思う。IT 用語がほとんど英語の世界で本当によかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/11/17

時間の経つのは早いものだ

もう 11月の半ばを過ぎてしまった。今年はあと 1ヶ月半しないうちに終わる。こうして 11月後半に入ったあたりが、時の経つのを最も早く感じてしまう時期である。12月に入ってしまうと、もう開き直りというか、あせりも感じなくなってしまう。

Img_7438

11月の段階ではまだそこまで開き直っていないから、「正月を迎えたのはつい先日みたいな気がしているのに、もうこんな季節になってしまったのか!」 という想いにとらわれる。「まだ何にもしていないのに、年が終わってしまう。勘弁してくれ!」 と思うのである。それで、ついじたばたしたくなってしまう。

ところが 12月に入ってしまうと、開き直れるというか、まあ、あきらめがつく。「今年もこれといって何もできなかったけど、また来年があるさ」 と思えるのである。だから 「できなかったことども」 は放り出して、正月の準備をする。

つまり大掃除をしたり、年賀状を書いたりするのである。するとある意味、気が紛れるのだ。「何もできなかったけど、とりあえず、やらなきゃいけないことを片付けちまおう」 と、ごちゃごちゃやってる間に、大晦日はやってきて、年は明けてしまう。年が明けたら、また 「いろいろやんなきゃね」 なんて思いながら、何にもできないうちに時間ばかりが過ぎていく。

こんなことを繰り返すうちに、時の経つのがますます早く感じるようになる。やれやれ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/11/16

昔のビデオでもの悲しい郷愁に浸る

BS 放送に力が入っているのは、NHK と WOWOW などの BS 専門局ぐらいのもので、フツーの民間放送はショップチャンネルや QVC などのテレビショッピングの他は、韓国ドラマや昔の時代劇の再放送なんかでお茶を濁している。で、たまたま昔の時代劇なんかをちらっと見ると、その解像度の低さにびっくりしてしまう。

我々は今、ハイビジョンやらフル・ハイビジョンやらの高解像度の映像に慣れてしまっているが、昔のテレビの解像度なんて、めちゃくちゃ低かった。試しに YouTube で昔の CM なんかを見てみると、その画像の粗さとコピーのダサさに唖然としてしまう。

レナウンの 「イエイエ」 なんて、名 CM として語られたりするが、改めて見てみれば、こんなものである。「これがニットのトータルルック、上の色と下の色がぴったり」 とか 「ボンネルで作ったヤング・カジュアル」 とかのダサダサ・コピーとそれに見合うお笑いみたいな振り付け、それにレナウンの現状を重ね合わせると、もの悲しさが先に立つばかりだ。

上にはめ込んだ小さな画面だと、粗さは辛うじて目立たないが、直接 Youtube のサイトに行って (参照) 全画面モードにしてみると、これがもう、どえらい粗さなのだ。画像表示というのは恐ろしいもので、「そんなに解像度上げたって、シワが目立つだけでしょ」 なんて言ってても、慣れてしまうと元の粗さには戻れない。

とくに昔のビデオを今の大きなテレビ画面でみると、その粗さがますます目立ってしまい、もの悲しいまでの想いにとらわれる。テクノ社会では、昔のイメージに積極的な意味を付加する努力を怠ると、ペシミスティックな方向にのみ流れてしまいがちだ。

その点、音楽は強いもので、60年代のビートルズの曲が今でも新鮮に聞こえたりするし、クラシック音楽なんて不朽の輝きをもっている。動画というジャンルは、テクノロジー的にはごく最近になってようやく使い物になる段階に到達したのかもしれない。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2016/11/15

ジャイアント馬場の 『満州里小唄』 というレア版

今日の午前 9時頃だったろうか。クルマを運転しながら TBS ラジオの 「伊集院光とラジオと」 という番組を聞くともなしに聞いていると、超レア版レコードの紹介というのがあって、なんと今は亡きジャイアント馬場の 『満州里小唄』 (まんちゅりこうた) というのが紹介されていた。

Manchuri

これはなんでも旧日本プロレス時代に、ソノシートで限定配布されたもののようで、今となっては入手すら困難となっているらしいのだが、聞いてみると紛れもない、あのジャイアント馬場の声である。しかも、上手とは言わないが、決して下手というわけでもない。少なくとも歌い慣れている。

帰宅してググってみると、なんとニコニコ動画で見つかったので、リンクしておく。上の画像をクリックすると、ニコ動のページに飛ぶ。YouTube と違ってログインしないと再生できないのだが、新規アカウントを作らなくても Twitter や Facebook のアカウントでもログインできるみたいなので、興味のある方は聞いて戴きたい。

で、ラジオの方はといえば、なにしろ伊集院光の番組だから、ただでは済まない。「じゃあ、この録音を早回ししてみるとどうなるか」 ということになって、実際にやってみたのである。私としてはそんな稀な機会を逃す手はないので、慌てて iPhone を取り出して 「ボイスメモ」 で録音した。下のアイコンをクリックすると、そのサワリが聞ける。

Man_2_2

なんと、ジャイアント馬場ではなく、「フツーの人の歌」 になってしまった。音というのはまことにも不思議なものである。ということは、フツーの人の歌をスローに落として聞いたら、ジャイアント馬場になってしまうのかしらん。「あなたもジャイアント馬場になってみませんか」 というビジネスが成立したりして。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/11/14

「幸福」 と 「幸せ」 とは、ビミョーに違ってる

小学校 6年の頃だったと思うが、「幸福」 というテーマで作文を書かされたことがある。何かの作文コンクールの、その年のテーマがそんなことだったように記憶している。年端もいかぬ子どもに幸福論を語らせるとは、コンクールの主催者もなかなかいい度胸だが、あるいは 「僕はいい両親のもとに生まれて幸せ」 みたいな、プリミティブな予定調和の内容でも期待したのだろうか。

Maneineko

当時の私はずいぶんませていて、「なんだか知らないが 『僕は幸せです』 みたいな見え透いたことは金輪際書かんぞ」 と思っていた。そこでまず、「幸福とはなんぞや」 というところから論を始め、「一時的な 『幸福感』 みたいなものを覚えることはしょっちゅうあるが、そんなのは長続きしたためしがない」 と書き進めたのである。

「長続きする 『完全な幸福』 というのは、すべてが完全に満たされ、それが他との衝突や自己矛盾を一切生ぜず、しかも永続するものでなければならない」 と思い当たり、そして即座に、「そんなことは不可能である」 と断定せざるを得なかった。子供心にも、「そんなのあり得ん」 という結論に達するのに時間はかからなかったのである。

というわけで、私は 「この世に本当の幸福なんてあり得ないから、別に期待しない」 という、まったく可愛げのない作文を提出し、当然ながら教師には全然ほめられなかった。教師としてはやっぱり、子どもらしく可愛らしい作文を期待していたんだろうなあ。

念のために言っておくが、子どもの頃の私が妙に根クラだったなんていうわけじゃない。むしろ快活な性格だった。ただ、大上段に振りかぶって 「幸福」 なんてものを語らせられたから、そう結論せざるを得なかっただけの話である。

だから作文では 「幸福なんてあり得ない」 と書きながら、実際には 「僕は幸福です」 なんてことを白々しく書いた子たちより、ずっと楽しく暮らしていた。「自分は不幸だ」 なんて思ったことは一度もなかったし、「別に 『完全なる幸福』 なんてものに恵まれなくても、人生はまんざら捨てたもんじゃない」 と、ポジティブに考えていたのである。

で、あれから約半世紀、とっくに還暦を過ぎてしまった身としては、「そんな風に思えるってことは、要するに 『幸せ』 ってことじゃないの?」 と思い至る程度に、性格が丸くなってしまったのを感じる。「こんな感じで暮らせるってことは、ありがたいことだわな」 と思えることは、すなわち 「幸せ」 なんだろう。

小学生の頃に 「幸福」 なんて熟語で迫られてしまったから、こちらとしてもムキになって大げさに反応してしまったが、「幸せ」 という和言葉で書けと言われたら、案外 「自分は幸せなのかも」 と素直に書けたかもしれない。「幸福」 と 「幸せ」 とは、ビミョーに違ってる。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2016/11/13

"Poco a poco" を巡る冒険

"Poco a poco" というスペイン語がある。発音は 「ポコ・ア・ポコ」 とカタカナ読みで通じる。昔、この名前の喫茶店があって、悪い友達が 「あの店の名前の意味は 『ここはどこ?』 ということだ」 と言うので、一瞬信じそうになった。ずっと信じてしまったやつもいるらしい。

Poco

本当は音楽用語として使われることが多い言葉で、「徐々に」 とか 「だんだんと」 とかいう意味である。上の画像では "poco a poco accelerando" という指定があるが、"accelerando" (アッチェレランド) というのは 「次第に速く」 という意味で、英語なら "accelerate" (加速する) だろう。

この場合はその前にある "poco a poco" との合わせ技で、「徐々に」 プラス 「次第に」 とくどいほどに意味が強められている。単なるアッチェレランドと、加速具合がどのくらい違うのか、私としてはよくわからない。結局のところ演奏者や指揮者のお好み次第なのだろう。

そして "poco a poco rit." となると、"rit." というのは "ritardando" (リタルダンド) の略で、意味は ”accelerando" の反対の 「次第に遅く」 だから、逆方向の合わせ技になる。印象では  "poco a poco rit." の方がよく多く見られる気がするが、調べ尽くしたわけじゃないから、本当のところはわからない。

ちなみに上の画像の真ん中辺りにある "poco cresc" というのは 「ポコ・クレッシェンド」 で、「ちょっと次第に強く」 ということになる。「ポコ」 は 「ちょっと」 で、「ポコ・ア・ポコ」 は 「ちょっとずつ」 である。こうなると、その厳密な違いなんてまったくよくわからない。

このあたりで想像がついたと思うが、イタリア語、スペイン語の "poco" は英語の "little" であり (この場合は "a little" という方が正確かな?)、"poco a poco" は "little by little" ということになる。なんだ、初めからそう言ってくれればわかるのに、音楽用語はイタリア語やドイツ語が混在するのでわかりにくい。(でも、主流はイタリア語かな?)

論理的なドイツ語だと、「ちょっとずつだんだん速く」 なんて、妙にくどい言い方はしなさそうから、情緒的なイタリア語にして、初めて恥ずかしげもなく言えるニュアンスなのかもしれない。このあたりはまったく感覚の世界だけで通用するお話だと思う。

それにしても、"poco a poco" が 「ここはどこ?」 というのは、とてもよくできたデタラメだと思う。音韻の共通加減が絶妙だ。もしかしたら、まだ信じ続けてるやつがいるかもしれない。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2016/11/12

「東京一極集中」 について考える

今に始まったことじゃないが、「東京一極集中」 なんだそうだ。人口ばかりでなく、日本中の富が東京を頂点としたヒエラルキーの中にあるらしい。

Cimg8412

昔々、「僕は泣いちっち」 という歌があった。前の東京オリンピックより 5年も前の、1959年の歌である。作詞作曲はあの 「バラが咲いた』 の浜口庫之助。「僕の恋人東京へ行っちっち」 という歌い出しで、「なんで、どうしてそんなに東京がいいんだろ」 と嘆き、そのくせ最後は 「僕も行こう あの娘の済んでる東京へ」 と結ばれる。

してみると、「どうしてそんなに東京がいいんだろ」 と呟きながら、それでも結局東京に出てしまうという心情は、昔から変わらないのだとわかる。東京一極集中は結局のところ、この日本共通の心情がもたらしているのだ。

かくいう私も、昭和 46年に山形県酒田市の高校を卒業して上京し、ワセダに通い始めた。とにかく家を出たかったし、家を出るならとりあえず、東京に出るしかないだろうと思っていたのである。そしてそのまま中央線沿線を転々とし、結婚してしばらくしてから、現在の茨城県つくばあたりに引っ越して来た。

茨城に移転したのは、東京都内に家を持つほどの金がなく、そして千葉県内でもしんどくて、常磐線を下って茨城県に辿り着いたのである。都内の会社に通勤しているうちは、遠距離通勤が大変だったが、定年前に独立して自分で仕事を始めてからは、「千葉をスルーして茨城まで来てよかった」 と思うようになった。

今となっては自分が東京で暮らすのを想像できない。まあ、茨城県南部も 「首都圏内」 と一括りにされてしまうことが多いが、それでもやっぱり東京とは違って呑気なところがある。私は根が呑気だから、東京とは波長が合わない。

東京というところは、とりあえず一度暮らしてみるならいいが、いつまでもいるところじゃない。だから比較的若年層が多く、日本の中では平均年齢が比較的低い。他県のようにじいさんばあさんばかりじゃないから、多少はエネルギッシュな雰囲気は感じさせる。

「東京は何でも買えるから便利」 なんていう人がいるが、今どきは必要なものならネットでいくらでも買える。東京でなければ買えないものなんてないし、あるとすれば 「なくても済む余計なもの」 ばかりである。

思えば、東京は 「なくても済む余計なもの」 を人に売りつけて富を集中させてきた。田舎では 「なければ済まない必要なもの」 しか扱わないから、富も集中しない。富が集中しないから、呑気に暮らせるのである。

東北の田舎に行くと、軽自動車が多いことに気付く。所得が少ないから、軽自動車が分相応で、そしてそれで十分なのである。ただし日本海側では四輪駆動が多い。四輪駆動の軽自動車で、必要十分の域に達する。

必要でもない高級車の需要を作ることで経済成長を促進させるよりも、必要十分な軽自動車で実現する呑気な暮らしの方にメリットを感じるようになれば、東京一極集中は緩和する。しかし私としては、フツーの人たちが東京に集中してくれる方が、フツーでない人たちが呑気な田舎のメリットを享受できると考えたりもしてしまう。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2016/11/11

要するに Mac は楽に使えるのだ

Gizmodo が、"「Mac で仕事すれば、Windows より安くつく」 と、まさかの IBM が絶賛" という記事を伝えている。

20161109_02103

IBM の Workplace as a Service 部門の副社長 Fletcher Previn 氏が、「4年間トータルで考えるならば、Windows マシンを導入したときと比較して、Mac 1台につき最低でも 265ドル (約2万7500円)、モデルによっては最高 535ドル (約5万5000円) もの節約になると、IBM では試算されている。初期導入費用こそ Windows マシンのほうが安いものの、導入後の値打ちはMacが勝る」  と語っているのだそうだ。

Mac の方が下取りバリューが高い上に、社内でテクニカル・サポートを求める割合が、Mac ユーザーでは 3.5%に過ぎないのに、Windows ユーザーだと 4人に 1人 (つまり 25%ね) に跳ね上がるのだそうだ。つまり Mac は Windows マシンより圧倒的に扱いやすいってことだね。それ、私も実感としてよくわかる。これじゃあ、社内での PC 導入コストに明らかな差が出るよね。

Mac は結果的に導入コストが安くなるというだけなら、経営側の都合にしか過ぎないことになるが、IBM では 「次にパソコンを新調するときは Mac を選びたいとの社員が、全社で 7割を超えた」 という情報も紹介されている。つまり経営側にも社員の側にも、明らかなメリットがあるというわけだ。

そして Mac は継続的に使うにもいい。何年後になるかわからないが、次の Mac に乗り換えたとしても、乗り換えたことすら意識しないうちに、すいすい仕事を始められるだろう。これが Windows マシンから別の Windows マシンに乗り換えるとすると、ソフトのインストールとデータの移行だけで、1日では終わらないに違いない。

つまり Mac は使い始める前にかかる手間が、ものすごく省けるのである。さらに使い始めてからもいろいろやっかいな設定を繰り返す必要がないので、ありがたい。というわけで、次に使うのも Mac 以外には考えられないまでになっている。Windows に戻ったりしたら、その面倒くささで気が狂いそうになるだろう。

いろいろ余計な手間をかけるのが好きな IT オタクなら、Windows であちこちいじくり回したくなるだろうが、私はそんな趣味はなくて、「IT はひたすら楽をするためにある」 と思っているので、Mac 以外の PC を使うなんて考えられないまでになっている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/11/10

ポスト・グローバリズムを本気で考えなければ

いやはや、昨日は米国大統領選のドナルド・トランプの勝利で、つくづく身の不明を恥じたわけだが、総得票数で言えばヒラリー・クリントンの方が少しだけ多かったという事実が報じられたのは、ちょっとした救いだった。2000年のジョージ・ブッシュ対アル・ゴアの選挙戦同様に、得票数が少なかった方の候補が、妙な選挙制度のおかげで選挙人獲得数では上回り、勝ってしまったのである。

Se_2

ジョージ・ブッシュはさらに 4年後の選挙でもジョン・ケリーと大接戦を演じ、この時は総得票数でもケリーを辛うじて上回って 2選目を果たした。しかしこの時、米国の民主党支持者たちは 「米国の 49%は彼に投票したわけじゃない」 として、"Sorry, everybody" (ごめんね、みんな) というサイトを作ってキャンペーンを立ち上げた。

このサイトにはものすごく多くの米国人が、”Sorry" というカードを掲げた顔写真をアップロードして、世界に謝りまくったのである。このことは同年 11月 18日に、「米国の半分は申し訳なく思ってるらしい」 という記事で紹介した。

そして今回も、米国民の半数は世界に対して謝りまくりたい心境になっているらしく、例のサイトは 11月 9日の時点で、「逃げ隠れせず、近くアップデートされます」 という予告を掲げている。おそらく 12年前よりもずっと痛恨の面持ちで謝りまくる人たちの写真とコメントが、続々とアップロードされるだろう。

ただ今回に関しては、”Sorry" と謝りまくるよりも、既に激しい抗議運動が始まっている。12年前よりも事情はずっと深刻だ。

今回の結果は行きすぎたグローバリズムからの揺り戻しが、我々の思っていた以上の激しさで世界を席巻していることを示しているだろう。「隠れトランプ」 が多かったというのは、要するにそういうことだ。ヨーロッパ各国における排他主義的な極右政党の躍進、英国の EU 離脱などといった動きと、軌を一にするものと考えていい。

つまりトランプの勝利は、実は伏線がたっぷり張られていて、驚くに足るものじゃなかったのだ。多くのジャーナリストは、その伏線を軽く見過ぎていたのである。

グローバリズムは途上国の中間層に富をもたらしたが、一方で割を食っているのが先進国の中低所得層である。彼ら (いや、私自身を含めて、「我々」 と言った方がいいのかもしれない) の生活はちっともよくならないどころか、むしろ苦しくなっているのだ。それは 11月 6日の痛恨の記事で書いたとおりである (参照)。

「排外主義、孤立主義では、経済は成長しない」 なんて言われても、「そんなの関係ねえ。どうせ俺たちは株なんか持ってないんだから、株価が暴落したって構わない。それより目先の仕事が欲しい」 というわけだ。実現可能だろうが不可能だろうが、中身があろうがなかろうが、とにかくこれまでの政治家が決して口にしなかったような、耳に心地良く響くだけの底の浅いアジテーションを受け入れてしまうのである。

この動きは必ず日本にも波及するだろう。安倍内閣の 「日本万歳」 だけでは大衆は動かなくなり、一方で 「ネット右翼」 はより先鋭化する。

今回の民主党予備選でヒラリー・クリントンの対立候補となったバーニー・サンダースは、この辺りの事情にうまく対応できる人だったと思うのだが、いかんせん、周囲がそのことについてまだまだ無自覚で、彼の主張は十分な広がりを持つに至らなかった。グローバリズムからの揺り戻しをどうコントロールするかなんてことを、誰もまともに考えず、「英国は愚かな選択をしたものだね」 と冷笑しているだけだったのだ。

ここまで来ると日本としても、「TPP を推進する」 なんて呑気なことを言っている場合じゃない。それに代わる枠組みを考えなければならないことに、早く気付くべきなのだ。その点でも、安倍内閣はこのままでは周回遅れになってしまう。でもまあ、日本人全体が周回遅れ気味なんだから、しょうがないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/11/09

米大統領選挙に関する記事では、めちゃくちゃ反省だ

ああ、めちゃくちゃ反省している。何かって、もちろん米国大統領選挙直前の、自分の記事の誤りについてだ。

Img_3468

私は 今月 6日の記事 で 「どうやら世界は大きく変わってきているようなのだ。今回はおそらくヒラリーが勝ってしまうんだろうが、次はわからない」 なんて書いてしまった。「世界が大きく変わってきている」 ときちんとわかっておきながら、どうして 「今回はおそらくヒラリーが勝ってしまうんだろうが」 なんて書いてしまったんだろう。

もっと言えば私は昨年あたりまで、「ヒラリーはただスマートなだけ」 とか、「賞味期限切れのヒラリー」 とか、散々書いてきた。とくに後者の記事では、「米国初の女性大統領になるのは、ヒラリー以外の誰かだろう」 とまで言い切っている。

せっかくまともに正しい予言をしていたのに、我ながらどうした気の迷いか、昨年 7月に 「生き返ったヒラリー・クリントン」 なんて記事を書いて、少々期待するみたいなことを言ってしまった。ただ、それでも自分で書いた記事を自分で信じきれず、何度もくさしてきた。

今年 2月には 「ヒラリーの悪いクセ」  という記事で、「何かツッコまれると典型的にステロタイプな反応をして、それで解決したつもりになっている」 と指摘した。その悪いクセのせいもあって、8年前の民主党候補指名争いでオバマに負けたのに、ヒラリーは全然わかっていなかった。(それで今回も繰り返したというわけだ)

さらに 6月に、典型的なエスタブリッシュメントに過ぎない言動を繰り返しているだけでは、「党内でサンダースに競り勝っても、本選ではトランプのハチャメチャに勝てない」 (参照) と書いている。ああ、ここまで決定的なことを書いたのに、それでもまだ今回の結果を見通せなかった。

いや、見通せてはいたのに、あえてそれを自分で信じようとしなかったのだ。まったく痛恨の限りである。

それは選挙終盤に世間に流布した 「ヒラリーがややリード」 なんていう情報を、疑いもなく受け入れてしまったからだ。どうして自分の直観を最後まで信じようとしなかったのだろう。世論調査がいつも実態を正しく反映してるなんて、あり得ないと知っていたはずじゃないか。

端的に言ってしまえば、ヒラリーよりもトランプの方が 「より嫌い」 だから、ちゃんと見えていたはずのことに目をつむってしまったのである。私は好き嫌いでの判断は極力しないと決めているのに、肝心なところでやらかしてしまった。そしてそれは、世界中のジャーナリズムが陥った罠でもある。

たとえトランプのスタイルが嫌いでも、あのスタイルで単なる泡沫候補の扱いから共和党の正式候補に上り詰めた事実とその要因をきちんと分析し、認識すべきだったのだ。いくら気に入らない事実であってもね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2016/11/08

「モバイルアンカー広告」 という、ただ邪魔なだけの代物

近頃、iPhone でインターネットにアクセスすると、表示されたページの下に妙な広告が表示されることが多くなったように思う。かくいう私が自分の 「本宅サイト」 と呼んでいる 「知のヴァーリトゥード」 というサイトのトップページにも、いつもわけのわからない広告バナーが表示されるようになってしまった。(PC でのアクセスでは表示されない)

1

上に示したのは、自分のサイトを iPhone で横向きにして表示し、画面をキャプチャーしたものだ。下の赤い楕円で囲んだのが、そのウザい広告バナーである。私は自分のサイトにこんな広告が表示されることを許可していないし、ましてや広告表示の契約を結んだ覚えもない。Yahoo Japan は、私のサイトにただ乗りしてるってことになる。多分 Nifty の方にはいくらか払ってるんだろうが、私には一銭も入らない。

いや、問題なのは銭金の話じゃない。テキストの多いページは、縦向きでは字が小さくなって読みづらいので、横向きにする場合が多いのだが、突然こんなのが現れるので、邪魔でしょうがないのである。他人のサイトならいざ知らず、自分のサイトにこんなのが無断で表示されるというのは、かなりムッとしてしまう。

これは 「モバイルアンカー広告」 というらしい。なるほど、スマホのようなモバイル・デバイスで、ページを表示した瞬間には表示されないが、2〜3秒すると、にゅる〜っと現れて、下の方に 「錨」 のように固定されるので、「モバイルアンカー広告」 なんだろう。

で、これが表示されないような設定にすべく、ちょっといろいろ当たってみた。すると、「設定」 画面から 「Safari」 を選び、さらに 「ポップアップブロック」 をオンにすればいいとわかったのである。下の図を参照していただきたい。

Img_7332_2

ところがこの作業をやってみても、こんなところでちょっといじくっただけでは、この妙な広告は消えないのである。iOS 純正の設定では、モバイルアンカー広告をちゃんとブロックするには弱すぎるみたいなのだ。ならばと、App Store で検索し、"Adblock Plus" というアプリを入れてみたのである。

2

これをインストールし、再び iPhone の 「設定」 に戻って "Adblock Plus" を選択し、「App のバックグラウンド更新」 というのを、どういう意味なんだかよくわからないが、 「オン」 にする。すると、めでたくうっとうしい広告は表示されなくなった。

とにかく、このモバイルアンカー広告というのをやっている企業 (この場合は、Yahoo Japan ね) に言ってやりたいのだが、こんなの邪魔なだけで、広告効果というよりも、逆に反感を生じさせるばかりである。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2016/11/07

茨城の言葉に、まだ馴染めない私

40年近く茨城県に住んでいるのだが、生まれて育ったというわけじゃないので、この辺りの言葉にはまだ馴染めていない。たまに行く関西の上方言葉の方が、まだずっと親しめる気がするというぐらいだ。

Img1131_1_2

よく言われることだが、私の生まれた山形県酒田市というところは、江戸時代から西回り航路の海運で栄えたところなので、上方言葉との親和性が育まれているのかもしれない。一方、茨城の典型的な北関東訛りは、どうも私の身体性にしっくりこない。

上の写真は、日本各地で 「ありがとう」 をどんな風に言うかというのを日本地図上に表したものだ。去年の今頃の読売新聞に出ていたものである。これによると、山形県では 「おしょーしな」 と言うことになっているが、これは県内でもかなり内陸方面の言葉で、米沢辺りで聞かれるという印象がある。私はそんな言い方をしたことは、生まれて一度もない。

私の生まれた酒田では、11年前の今頃の当ブログで触れたように、「もっけだ」 と言う (参照)。これは人に何かしてもらって 「儲けた」 なんていうような言い方ではなく、「もっけの幸い」 というような場合の 「もっけ」 であり、「滅多にない」 ということだ。つまり 「有り難い」 と同じ意味合いである。

「おしょーしな」 というのは、漢字で書けば 「お笑止な」 ということのようで、まず 「笑止千万」 というような意味から 「お恥ずかしい」 というニュアンスが生じ、そこから 「ありがたい」 という意味に転じたもののようだ。「御賞詞名」 であるとの説もあるが、それは後からもっともらしい漢字を当てただけに決まっている。

で、酒田では 「恥ずかしい」 という意味が残っていて、「しょしのぅ」 と言ったら 「恥ずかしいなあ」 という意味である。同じ山形県内で、「笑止」 から生まれた言葉がまったく違ったシチュエーションで使われるのだ。

で、「ありがとう」 の方言だが、上に掲げた画像には、茨城の言葉はとくには載っていない。じゃあ、フツーに 「ありがとう」 と言うのかと思われそうだが、どうもそうじゃない。この辺りの人は、「どーもねぇ」 なんて言うことが多いようだ。「どうもありがとう」 を略して 「どうも」 なんて言うのは、関西弁の 「おおきにありがとう」 を略して 「おおきに」 で済ませるのと共通している。

ただ、茨城では 「どうも」 だけで済ませてはあまりに愛想なしに感じられるようで、多くの人が 「どうもねぇ」 と言うようなのである。「ねぇ」 をつけて柔らかくしているのだろう。

ところが、この 「どうもねぇ」 というのは、酒田ではあまり使われないが、山形県の内陸では 「なんでもない」 みたいなニュアンスで使われることが多いように思う。「どうもありがとう」 からきたのではなく 「どうということもない」 の省略形だ。

まあ、そんなこんなで、何年住んでも茨城の言葉には馴染めないのである。酒田に帰れば、一瞬にして完全な庄内弁の人になってしまうというのに

ところで NHK の次期朝ドラが、茨城県を舞台としたものになるようで、ヒロインの有村架純という関西出身のタレント (私は名前すら知らなかった) が、茨城弁に苦労しているらしい (参照)。関西出身では、どうせ自然な茨城弁なんかにはならないだろう。

NHK 朝ドラは、どうしてネイティブのタレントを使わないんだろうと、いつも不思議に思うが、そこはそれ、芸能事務所は出身地なんか関係なく、ただ特定のタレントを押したがるのだろうね。それで、朝ドラはいつも学芸会レベルになってしまうわけだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/11/06

米国大統領選の裏に潜む 「象チャート」

米国の大統領選挙がいよいよ近付いてきた。今回の選挙はヒラリーとトランプの 2人とも嫌われ者だから、見ていて馬鹿馬鹿しくなるまでの様相を呈してしまっている。しかしいくら馬鹿馬鹿しくても、2人のうちどちらかが、世界で大きな影響力をもつ米国の大統領になってしまうのだから、関心を持たざるを得ない。いや、それでもやっぱり馬鹿馬鹿しいのだが。

Photo

今年になってから、米国大統領選関連で、案外結構な本数の記事を書いた。そのうちの主なものだけを以下に挙げてみよう。

1月 7日 ドナルド・トランプと 「本音主義」 の危なさ
5月 14日 近頃台頭している 「ぶっちゃけ本音主義」
6月 9日 米国大統領選挙について書く
8月 11日 米国って人がいないのか
10月 10日 トランプのオウンゴールで……
10月 11日 わかりやすいアイコンでないと、選挙に勝てない

こうしてみると、8月以降、とくに 10月の 10日と 11日の記事なんて、ちょっと表面的なものになってしまっていて、より本質的なことは 1月 7日の "ドナルド・トランプと 「本音主義」 の危なさ" と、5月 14日の "近頃台頭している 「ぶっちゃけ本音主義」" の 2本で書いているような気がする。イベントが近付いてくると、大事なことが見えなくなってしまうのだね。

要するに、当初は冗談たっぷりの泡沫候補と思われていたドナルド・トランプが、「ふたを開けてみてびっくり」 の正式な共和党候補になってしまったのは、世界が 「ぶっちゃけ本音主義」 に傾いていることを現すのだ。私自身は、そういうの好まないんだけどね。

その裏付けとして、「象チャート」 というものがある。この記事の上の方に図で紹介してあるのは、"Knowledge Forum" というサイトの 「低成長の環境を乗り切る投資」 という記事から拝借しているのだが、要するに、昨今のグローバル化は世界の経済を満遍なく潤しているわけじゃないってことを端的に示すものだ。

最もグローバル化の恩恵を蒙っているのは、新興国の中間所得層 (図の中の 「A点」) と世界の富裕層 (C点) で、一方で富裕国の中間所得層の所得は実質的に低下してしまっている。ぶっちゃけて言えばこの 「富裕国の中間所得層」 というカテゴリーには、日本の吾々の多くが含まれているのだから、「そう言えば、近頃暮らしがしんどくなったよね」 と実感されている通りなのである。

このグラフの形状が、あたかも鼻を高く上げている象のような形に見えるので、「象チャート」 と呼ばれているわけだ。なるほど、グローバル化の結果として唯一著しい経済的不利益を蒙っているのが、富裕国の中間所得層なのだから、ヨーロッパで 「反グローバリズム」 の影響下にある極右政党が支持を伸ばしたり、英国で EU 離脱が決まったりしているのも道理と言えば道理なのだよね。トランプがここまで支持を伸ばしたのも、その一環である。

で、もうちょっと言っちゃえば、今回の米国大統領選では、リベラルな民主党と、保守的な共和党という従来の図式が崩れてしまっているようなのだ。2人の候補の言ってることを聞く限りでは、「ヒラリーは変わり映えのしないエスタブリッシュメント代表で、トランプはラジカルな庶民代表」 みたいに思われてしまうのだよ。あの田中角栄が 「庶民派の英雄」 みたいに思われていたように。

どうやら世界は大きく変わってきているようなのだ。今回はおそらくヒラリーが勝ってしまうんだろうが、次はわからない。トランプの主張をもう少し上手に訴えられる候補が現れたら、きっと大きく支持されるだろう。その意味で民主党のバーニー・サンダースの登場は、半歩早すぎたのかもしれない。

それにしてもヒラリーは例の 「私用メ—ル」 問題で、「自分のメルアドを自分で使って、何が悪いのよ」 程度の浅はかな意識でいるようなのだが、それってデジタル音痴のゴーマンなオバサンと変わらない危なっかしさだよね。ホワイトハウスのサーバに残したくないような、ビミョーなメールのやり取りをしていたと勘ぐられるのは当然のことである。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2016/11/05

下手の考え休むに似たり

この時代になっても、まだ FAX (正しくは 「ファクシミリ」 なんだろうけど) というものを使っている。用件の 90% 以上はメールで済ませるのだが、相手によっては FAX 対応しかできなかったりする。向こうとしては FAX が使えさえすれば、新時代に十分に対応していると思っているようで、たとえメールができても 「添付ファイルって何?」 なんて人もまだいるのである。

Img_7315_3

とはいえ、近頃は FAX を使う機会がめっきり減った。頻度は月イチにも届かず、1年に 10回あるかないかという程度である。早く 1年に 1度も使わずに済む世の中になってもらいたいものだ。なにしろ受信する FAX の半分以上は 「宛先違いの FAX」 か 「迷惑 FAX」 で、ということは、1年にたった 2〜3度の 「まともな受信」 のために、今でも FAX と手を切れないでいるのだ。

困ったことに我が家の電話番号 (FAX 兼用) は、同じ市内の某企業の FAX 番号と似ているため、忘れた頃にその企業宛の 「発注票」 というのが我が家に送信されてくるのである。10年前頃までは、それこそ月イチぐらいのペースで届いていたこともあり、最近はめっきり減ったというものの、やっぱり皆無にはなっていない。

10年前の間違い頻発時代は、こちらも 「注文したはず品物が届かないのでは、気の毒」 と思うから、親切に転送してあげていた。ところが、間違い FAX の多くが同じ会社からだと気付くのにそれほどの時間はかからなかった。

そこである日、「そちらの会社から、いつも○○社宛ての間違い FAX が届くので、多分 FAX の番号登録が間違っているんだと思います。確認してみて、間違っていたら修正しておいて下さい」 と電話を入れた。「これで安心」 と思っていたのだが、その会社からの間違い FAX は全然減らない。

おそらく電話を受けた女子事務員が、こちらの言ったことを理解できなかったのだろう。FAX 機に予め登録された番号ではなく、自分の手書きの電話帳なんかを見て、「なによ、間違ってないじゃん」 なんて呟いて済ませてしまったのかもしれない。

というわけで、こちらとしてはもう余計な親切はしないことに決めた。それどころか、それまで何度も電話代負担で転送してあげたのだから、お礼に菓子折持って挨拶に来てもらってもいいぐらいのものだ。

注文票が届かなくなっても、向こうにしてみれば単に自分の責任である。こちらとしては、もう付き合いきれない。そうこうするうちに、間違い FAX はやがて来なくなった。

多分当事者間で、「注文した品物が届かないぞ! どうなってるんだ?」 「いや、こちらは注文なんて受けてません。そう言えば、前にも御社からの間違い FAX が、何度か転送されてきてましたよ」 「えっ、そうだったのか!」 なんていうやり取りがあって、ようやく登録番号の間違いに気付いたのだろう。

やれやれである。こんなんだったら、初めから転送なんてしなければよかった。その方がずっと話が早く済んだのだ。こうして私は、余計な親切は相手のためにならないだけじゃなく、全体の流れのためにも役に立たなかったりすると学んだのである。

「下手の考え休むに似たり」 というのは、本当のことである。そういえば、「あのオッサン、メールを送ってもちっとも開いてくれないけど、FAX ならすぐに見てくれるから」 なんて言って、いつまでも FAX 送信してあげたりするのも、そんなことをするから、いつまで経ってもメールを開いてみる習慣がつかないのかもしれないよね。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2016/11/04

「モバイル Suica」 というできの悪いアプリ

このほど、めでたく iPhone 7Plus に機種変更した。iPhone 7 ではなく 7Plus だから、画面がちょっと大きいので、老眼の目にはありがたい。いや、そんなことよりも、7Plus にしたのはカメラ機能が大幅にアップしているというのが気に入ったからなので、そのうち慣れたら Wakalog なんかにもこれまでより少しましな写真を載せることができるかもしれない。

Suica

カメラ機能の向上のほかに、iPhone 7 系は Apple Pay が大幅に改善されたというのが売り物である。ところがこの部分では、ちょっと期待外れなところがある。これは Apple の責任というよりも、JR 東日本の方がバタバタしているせいだと思うのだが、要するに 「モバイル Suica」 というアプリが最低なのだ。

カードとしての Suica そのものを iPhone の Apple Pay に取り込むことすら難儀している人も多いらしい。私はなんのことなく取り込めたが、これは今考えれば、相当の幸運だったようなのだ (参照)。

今後は改札口で iPhone を読み取り口にかざして 「ピッ」 と鳴らせば電車に乗ることができる。カードとしての Suica をもつ必要はない、そもそも、それまでのカタチある Suica は iPhone に取り込んだ時点で使えなくなってしまうというのだから、もう要らないのである。定期入れが少しは薄くなる。

そして Suica のチャージが切れそうになってしまったら、同様に iPhone に登録したクレジットカードからチャージする。そもそもカードそのものが使えなくなってしまったのだから、駅の券売機でチャージすることは、一部を除いてできなくなったわけなのである。

ところが、そのチャージを管理する 「モバイル Suica」 というアプリのできが悪くて、インストールして半日経ったらログインできなくなってしまったのだ。「パスワードが違う」 という表示が出てきてしまうのである。それまで何度か同じパスワードでログインできることを確認しているのに、突然こんなことを言われるのだから、ちょっとムッとしてしまう。

仕方がないから、アプリ上でリクエストして、パスワードの再設定の画面に入る URL を送ってもらい、そこで要求された 「氏名」 「生年月日」 「郵便番号」 「秘密の質問への応え」 を入力した。ところが 「入力された会員情報が登録済みの会員情報と一致しません」 と言ってくる。ちょっとキーを間違えたかなと思って、何度かやり直すのだが、まったく同じ結果になる。

かなりムッとしながら、指定されたコールセンター (050-2016-5077) に電話すると、ものすごく混み合っているらしく、全然つながらない。そりゃそうだ。私みたいなトラブルが頻発して問い合わせ電話が殺到しているのだろうから、よほどの奇跡でも起こらない限りつながるなんて期待しない方がいい。

というわけで、私が iPhone に登録した Suica は、チャージされている金額を使い切ってしまったら、問題が解決されるまではクレジットカードからピピッとチャージすることができないのである。どうも自分が生きているうちには、それが解決されるような気がしない。

「これじゃ、Suica を使い切ってしまったら、代わりに Pasmo でも買って乗り切るほかないじゃないか。結局カードは減らないのね」 と嘆いていたのだが、よく調べてみると、コンビニのレジでチャージすることはできるようなのだ (参照)。

やれやれ一安心だが、それでもやっぱり iPhone の画面上でピピッとチャージするのに比べたら手間がかかりすぎる。まったく困ったものである。現在、トラブルが頻発しているのはアクセスが殺到しているためとの情報もあるので、1〜2ヶ月経って落ち着いた頃にもう一度トライしてみようかとも思っているが、あまり期待しないでおこう。

ちなみに、交通系カードは Suica 以外は当面は Apple Pay に対応する気配がないらしい。PASMO も ICOCA も Kitaca も TOICA も、全然蚊帳の外のようなのだ。もっとも JR 東日本でこんな状態なのだから、全国で対応したらどんな悲惨な状態になるかしれたものではない。迂闊に動かない方がいいだろう。

というわけで、JR 東日本以外の地域に住んでいる人が iPhone で ピピッと電車に乗りたかったら、仕方がないから東京などへの出張のついでに Suica を購入するしかない。Suica は日本全国たいていの路線で使えるので、関西に住んでるから Icoca でなければならないなんてことはない。ただ、「モバイル Suica」 はクソだけどね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2016/11/03

肉を食いつくせない私

サブマリン型サンドイッチのチェーン、サブウェイは割と贔屓にしているのだが、私は最近牛肉と豚肉を食べないことにしているので、この 「肉を食いつくせ!」 というチラシには、ちょっと腰が引けてしまった。「お肉がたっぷり」 の写真は、ちょっと生々しすぎる。

Img_7299

で、こんなことを考えてしまった。

最近、某ラーメン・チェーンで、従業員が誤って切り落としてしまった指の一部が、ラーメンに混入してしまったというニュースが話題になったが、どうして人間の指のスライスのほんの一部だと気持ち悪くて大騒ぎになるのに、牛や豚の肉なら平気なのだろうか。考えれば不思議なことである。

私は厳格なベジタリアンというわけでは全然なく、鶏肉ならたまには食うというなまくらなのだが、それでも今ではたっぷりの肉を見ると、気持ち悪さを感じるようになってしまった。牛だろうが豚だろうが、人間の指だろうが、肉は肉である。鶏はちょっと魚寄りのような気がして、まだ大丈夫だ。勝手な感覚ではあるが。

今の世の中、どういうわけか 「肉食系」 がもてはやされているようなのだが、私はその価値感が全然わからない体になってしまったようだ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2016/11/02

「アフター還暦感覚」 には馴染んでしまったが

突然妙な言い方だが、最近になって 「アフター還暦感覚」 とでもいうべき気分に、ようやく慣れてきてしまったような気がする。

Img_7058

4年前の夏に初めて還暦を迎えた時 (って、ナガシマさんみたいなことを敢えて言ってしまうが) は、まるでファンタジーのような気がしていた。しかし近頃は 「うん、俺も還暦過ぎてるもんね」 というのが、案外抵抗なく実感されるようになったのである。4年経ってやっと馴染んだといえばそれまでだが。

とはいえ、体力が衰えたとかいうわけでもなく、それどころか、最近はガンガン自転車に乗りこんでいるので、50代後半の頃よりはずっとスタミナがあるんじゃないかとさえ思っている。それなのに自分が還暦過ぎたことを抵抗なく受け入れられるようになった最大の要因は、周囲に年上が減ってきたからなんじゃなかろうかと思うのだ。

仕事上で付き合う範囲の人間に、自分より年上というのがめっきり減ってしまった。私より年上といったら、65歳以上ということになるが、その年になった人間は仕事の現場からどんどんリタイアしているのである。見た目が私より年上そうな老け顔のやつでも、よく聞いてみれば還暦前だったりして、私に対して 「年長者」 として気を使ってくれてるみたいな時があるのだ。

実に妙な心持ちである。ふと気付いてみれば、私がその場の最年長だったりすることさえあるのだ。

一方で仕事モードから離れると、自宅のある町内会でも、実家にもどっても、周囲は一挙に年寄りばかりになり、バリバリやっていた頃よりめっきり背中の小さくなったじいさんが増えてしまっているのだ。そして私はといえば、まだまだそうした年寄りの仲間入りしてしまったような気はしない。彼らとの間には、まだ越えられないラインが存在する。

「アフター還暦」 と 「70歳前後のじいさん」 とは、明らかな差異が感じられるのだが、それは単なる年齢差ではない。そんなことではなく、どうやら 「世代差」 であるらしいのだ。今や 「団塊の世代」 の価値感がずいぶん年寄りじみてしまったように思われるのである。

前にも書いたように (参照)、私は 「団塊の世代」 とは馴染めないところがあるのだよね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2016/11/01

"Halloween" の語源は "Hallow E'en" であるらしい

昨日の 「まだまだ多い "Hallo Ween" という誤記」 という記事に、山辺響さんがとても興味深いコメントを付けてくださった。「あえて分かち書きにするなら、Hallow e'en が (語源的には) 正解みたいです」 というのである。

Hallow1

「なぬ? そうであったか!」 と驚いて調べてみると、確かにそのようなのだ。英語版 Wikipedia の Halloween のページにあたってみると、Etymology (語源) という項目に次のようにある。

The word "Hallowe'en" means "hallowed evening" or "holy evening". It comes from a Scottish term for All Hallows' Eve (the evening before All Hallows' Day). In Scots, the word "eve" is even, and this is contracted to e'en or een. Over time,  Hallow(s) E(v)en evolved into Hallowe'en.

このスコットランドでの言い方 (ゲール語というわけでもなさそう) を語源とした英単語を説明した英文を日本語に訳すというのは、やたらとややこしいので、あえて直訳ではなく単純化して言ってしまうと、「聖なる夜」 という意味の英語 (Hallowed evening) をスコットランドでは "Hallow e'en" と言っていたのだが、それが縮まって "Halloween" になったというのである。

というわけで、"Hallo Ween" ではやっぱり台無しということのようなのだ。

で、もうちょっと検索してみると、Mary E. Blain という人の書いた "Games for Hallow E'en" という本が見つかった。ずいぶん昔に出版された、ハロウィーン向けの遊びを紹介した本であるらしい。興味があれば、上の画像をクリックすると、Amazon のページに飛んで購入できる。私自身は購入する気にまでは至っていないのだけどね。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

« 2016年10月 | トップページ | 2016年12月 »