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2018年7月に作成された投稿

2018/07/31

そんなに綺麗なオネーチャンのいる店で酒を飲みたいか

文科省の汚職事件が次々にニュースになっていて、とくに 「現職幹部とコンサルティング会社の元役員が逮捕された汚職事件で、他にも複数の文科省幹部が東京地検特捜部から聴取」 (参照) を受けているという件では、「お役人も浮世の沙汰がお好きなのだね」 と思うばかりである。

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うした事件で 「腹を立てる」 というのは、私の感覚には合わない。私はそんなに絵に描いたような正義漢ではないので、とくに腹が立つというわけではなく、ただただ 「他人の金で飲み食いするのって、そんなにまで楽しいかなあ」 と、別世界のお話のように思われるだけなのである。

妻と一緒にクルマで出かけた時にラジオのニュースで 「140万円の飲食接待」 と聞き、妻は 「そんなに高い食事って、どんなの?」 なんて言うので、「メシ食っただけじゃなく、綺麗なオネーチャンの接待が多かったに決まってるじゃん」 と答えた。

毎日新聞の記事によれば 「銀座の高級クラブなどで頻繁に接待を受けていたとみられることが関係者への取材で明らかになった。接待は数十回に上っていたという」 ということだ (参照)。やっぱりね。ただ、 本当に 「数十回」 なら 140万円で足りるわけがないから、どちらかの数字がおかしいのだろう。

で、個人的にはさっぱり理解できないのが、「そんなにまで、綺麗なオネーチャンのいる店で酒を飲みたいか」 ということである。私も以前は某業界団体の事務局に勤めていたことがあるので、年に 1度の理事会総会なんかが済んだ後は、高級クラブなんかでの二次会に付き合わされたりしたが、はっきり言って、これが一番苦痛な仕事だった。

オッサンたちに付き合って嫌々ながらクラブに入り、席に座ると、ヒラヒラしたドレスを着たネーチャンがそばに座って、水割りなんか作りながら、いろいろ話しかけたりしてくる。ところが、こっちとしては全然興味のない話題 (ゴルフとか、宝石とかね) しか振ってこないので、つまらないことこの上ない。「銀恋」 のデュエットとかチークダンスなんて、死ぬほどイヤなので、ただひたすら早く帰りたいだけである。

たまにこっちの気配を察して、「こういうところにあまり興味ないの?」 なんて聞いてくれるホステスもいなくはない。そんな場合にはこんな会話になる。

「悪いけど、全然興味ないんだよね」
「どんな話題がいいの?」
「いや、放っといてもらうのが一番ありがたい。いいから、向こうのオジサンたちをかまってあげてて」

まあ、オネーチャンとしても困ってしまう客だったろうが、こればかりはどうしようもない。

「本当にちゃんとしたクラブなら、客に合わせて文学論を語れるぐらいのホステスがいるものだ」 なんて言う人もいるが、そんなオネーチャンに巡り会ったことなんて、一度もない。もしかしたら、川端和明容疑者 (及びその他の何名か) の接待された高級クラブぐらいになると、そのくらいのホステスもいたのかなあ。でも文学論を語るのに、そんな大金を使う必要もなかろうよ。

というわけで、私としてはイヤでイヤでしょうがない 「高級クラブ」 で、文科省の 「高級官僚」 は、「数十回」 も嬉々としてもてなされ、あぶない橋を渡ったのだね。現役の官僚なんだから、私より多少若いはずなのに、そんな連中が前時代のオッサンみたいな話に乗っかってたというのも、驚くばかりである。

いつの時代でも、趣味の悪いオッサンはいなくならないのかなあ。

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2018/07/30

なぜ 「困った時の再起動」 が有効なのか

今年 4月 9日に "「困った時の再起動」 という金言" という記事を書いた。Scot Adams のマンガで、PC 操作問い合わせ担当のわんこが、何を聞かれても (実は聞かれるより先に)、「黙って再起動」 と答え、それで全てが解決するのである。

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とにかく 「困った時の再起動」 という金言はまことにもって有効で、ほとんどの不具合はこれで解決する。ただ、このことは知っていたが、なぜ解決するのかはよく知らなかった。そして最近、PC ではないが、マイコンを使った家電の専門家に聞いたところ、そのわけがわかったのである。

PC に限らず、スマホでもタブレットでもルーターでも、全自動洗濯機でもエアコンでもテレビでも、一度 「原因不明の不具合」 でにっちもさっちもいかなくなったら、とにかく何も考えずに再起動してやればいい。家電でもこの金言が機能するのは、今や大抵の製品は内蔵されたマイコンでコントロールされているからなのだそうだ。

そして彼が文系人間にもわかるように説明してくれたところによると、マイコンというのは 「自分が間違っている」 とか 「自分の手には負えない」 とかいう想定は、基本的にできないのだそうだ。だから、ちょっと間違って、あるいは雷などの要因で尋常じゃない事態に陥り、回路が一杯一杯になってしまっても、それでも自分で何とかしようと必死になる。その結果、煮詰まって動けなくなってしまうのだという。

これはいわば 「仮死状態」 なので、一度電源を切って楽にしてやり、再び起動させてやれば、死ぬ前のことはすっかり忘れて、新たに生き返ることができる。なるほど、これなら私のような典型的文系人間でもよくわかる。再起動って、「生まれ変わり」 だったのだね。

マイコンは、外側から自分を見つめ直す機能をもたないので、「自分は今、どうしようもなくなっている」 という客観的判断ができない。案外 「我の強い」 デバイスのようなのである。それで、どうみても 「一から出直し」 する方がいいというケースになっても、ひたすら突き進む。そしてますますどうしようもない事態に陥る。

これを自動的に解決するには、マイコンを 2台内蔵させて、一方をメインのマイコンの監視役にすればいい。メインのマイコンがどうしようもない状態に陥ったら、「はい、無駄なあがきはそこでストップ!」 とばかりに、自分で再起動する働きをもたせればいいのだが、それはコスト圧迫要因になるので、ほとんどの製品で実現されていない。結局、人の手で生まれ変わらせてあげなければならない。

「へえ、するってえと、人間の脳ってのは自分で自分の状況を客観的に判断して、『やべ! こうなったら、一から出直し、今までのことは全部忘れてやり直しだ』 という判断ができるだけ、優秀なんだね」
「そうなんだよ。マイコンは単純だから、基本的にそれができない。諦めが悪すぎるんだね。PC でも基本的には一緒だよ」
「なるほど、我の強すぎるヤツが、いざって時には役に立たないのと同じだ」

というわけで、ちょっと処世的な勉強までできてしまったのであった。

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2018/07/29

結局、今回も晴れ男だった

昨日は、自分は晴れ男なので、今回の福島県への出張も台風の影響はほとんど蒙らずに済むだろうみたいな、まさに 「正常化の偏見」 そのものでしかないようなことを書き、結果としてはまさにその通りになったのだった。

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天気予報では 「雨のち曇り」 ということだったが、朝から雲が切れて青空が広がった。今日は野外活動を伴う仕事だったので、明るい太陽が照ったのは幸運だった。一度だけ台風から伸びていると思われる筋状の雲がかかり、短時間にざっと降ったが、それはクルマで移動中というタイミングで、仕事にはまったく影響なし。

現地では前日まで、「tak さん、晴れ男のはずなのに、今回は台風を連れてくることになったじゃないか」 なんて言ってたらしいのだが、結局 「恐れ入りました。噂通り、チョー強力な晴れ男振りですね」 ということでけりが付いたのだった。

言うまでもなく科学的根拠はまったくないのだが、「晴れ男/雨男」 伝説というのはかなりある。私の場合は、まず降らないと定評があるのだが、逆に 「あいつが顔を出すと、必ず雨になる」 という存在もいる。こればかりは本当にどうしようもない。

私は以前、某団体に勤務していた時、屋外でのプロモーション・イベントを開催するときには、直接には担当していない案件でも、「てるてる坊主代わり」 に、名前だけ運営チームにノミネートされていたほどの、「定評ある晴れ男」 である。今回もその定評は覆されず、「めでたし、めでたし」 の結果となったのだった。

まあ、どういうことなのか説明はできないが、まことにありがたいことではある。

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2018/07/28

台風の変則ルートは、私のせいじゃないからね

実は今日は出張で福島県の郡山に来ている。実際の仕事は明日 (屋外の仕事になる) なので、今日の夜までにホテルに入ればいいのだが、午後遅くなると交通機関が台風の影響を受けかねないので早めに出発し、午後 2時半頃にチェックインしてしまった。

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今回の台風は、本州の南東海上から近付いてきて、東海地方に上陸し、西日本を横切って西に抜けるという、見たことのない変則的なルートを辿る。そんなわけで、明日の仕事はギリギリで雨に降られずに済みそうだ。

私の友人は 「お前が東北に出張なんてするから、台風が西日本豪雨の災害地を直撃してしまう。少しは申し訳ないと思え」 なんて言い始めた。仲間内では有名な晴れ男の私に、台風が妙な遠慮をしてしまったのだというのである。

「いくら晴れ男でも、台風のルートまで変えられるわけがないだろうよ」 と言うと、彼は 「いや、お前の晴れ男ぶりはチョー強力だから、そのくらいのことはあり得る」 と言い張る。いやはや、こんな言いがかりまでつけられるのだから、晴れ男でいるのも大変だ。

ただ、台風のルートを変えるなんてことはできないまでも、台風が接近していると報じられた頃から、自分でも 「まあ、大丈夫だろう」 と楽観的に考えていたのは事実である。これまでも何とかなったのだから、今回も大丈夫だろうということだ。

気象情報では 「今回の台風は、これまでの常識が通じない」 などと言っていたが、自分としては 「正常化の偏見」 をしっかり抱いていたというわけだ。なんともはや、勝手なものである。

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2018/07/27

「洗濯物がたまってる」 という、独身時代の心理的負担

先日、仲間内と雑談していて、朝方に目が覚めかけて、まだ頭の中が朦朧としている時というのは、時として何十年も前の自分にタイムスリップしている時があるという話題になった。

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そんな時というのは、昔のトラウマみたいなものがよみがえってきて、「やべぇ、あれ、どうなってたっけ?」 と、一瞬パニックになりかかることがある。そしてしっかりと目が覚めて我を取り戻し、「ああ、あの時代はもうとっくに過ぎ去って、もう解決してたんだ」 と、胸を撫で下ろしたりする。そんなのは自分だけかと思っていたら、「それ、俺もあるわ!」 と、結構盛り上がってしまった。

話の発端は、友人の 1人の 「俺、朝起きてまだ寝ぼけてる時、『やべ! 洗濯物がえらくたまっちゃってるわ!』 と、アセりまくることが時々あるんだよね」 という発言だった。「そんで、しっかり目が覚めて初めて、『ああ、そういえば俺、もう結婚してて、洗濯は妻がやってくれてるんだった』 と気付いて、ホッとするんだよ」

彼の場合は、独身時代に自分で洗濯しなければならないことを、かなり負担に感じていたようだ。それに加えて、仕事が家電メーカー勤務で、主に洗濯機の開発を担当してきたというのが、そのコンプレックス心理に輪をかけてしまったらしいのである。

「ああ、そういうの、俺もあるわ」 と、もう1人が言い出した。「営業の月報をまだ書いてないという夢でうなされるんだよね」 というのである。彼は 40代で管理職になって、そんな細かな月報は書かなくてもよくなったのに、ずっとアセリまくる夢を見続けたという。「ちょっと前は、『ああ、俺、もう課長だから、そんなの書かなくてよくなったんだ』 と安心してたんだけど、最近は 『ああ、俺、もう定年退職してるから、関係ないんだ』 と気付くんだよね」

かなり身につまされる話である。こういうのは、自分が最も心理的負担と感じていたことが、夢の中でよみがえってしまうのだろう。

そして私の場合は、「やべ! 大学卒業の単位が足りない!」 という強迫観念で、冷や汗かいて目を覚ますということがよくあった。私が大学に入学した 1971年というのは、まだ学園紛争が盛んな時代で、まともに授業が行われなかった。だから単位を取るのがとても変則的で、レポート提出で間に合わせる場合もあれば、少ない授業にギリギリ出席しなければならない場合もあったりで、なかなか大変だったのである。

それに加えて私は一時、大学というものに失望して、バイトと気ままな旅に明け暮れていた時期があって、ただでさえ出席日数が不足気味だったのである。その上、急に気が変わって学部を卒業して大学院に行ったりしたので、そのあたりの心理的葛藤があったわけだ。

そんなわけで、「単位が足りない!」 と焦って目を覚まし、我を取り戻して 「ああ、そういえば俺、とっくに卒業してたんだった」 と胸を撫で下ろすことがしょっちゅうあった。まあ、さすがに最近はこんな夢は見なくなったが。

そしてこの種の話の中で一番共感を呼んだのが、最初に紹介した 「洗濯トラウマ」 の話だったのである。ちなみに私は、今でも洗濯を担当したりしているから、そのうちそんな夢でうなされるかもしれない。

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2018/07/26

「LGBT には 『生産性』 がない」 という発言について

例の杉田水脈という議員の LGBT に関する 『新潮 45』 への寄稿記事の問題だが、批判するからには一応記事をしっかり読んでからと思っていたので、タイミング的にはちょっと乗り遅れてしまったかもしれない。

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杉田議員本人も、「批判するならきちんと記事を読んでからにしろ」 みたいなことを言ってるらしいので、「そこまで言うんなら、ちゃんと雑誌買って読んだるわ!」 と、今日、あちこち用事で出かけたついでに書店に寄り、買って来たのである。上にその証拠写真を貼っておく。

ちなみに 『新潮 45』 は 「特別定価 900円 本体 833円」 と表示してあるが、書店のレジでは 1円未満切り捨てで 899円だったよ。おかげで財布の中でジャラジャラしていた小銭を使い切ることができた。

家に帰って一応ちゃんと読んだのだが、結果としては新潮社を無駄に儲けさせただけだった。要するに 「買って読むほどのレベルのものじゃない」 ってことだ。これから 『新潮 45』 を買ってみようかと思っている方は、ほかによっぽど読みたい記事があるのでもなければ、止めといた方がいい。

彼女の寄稿記事に関してまともな批判をするとすれば、既にあちこちでなされている通りのことを繰り返せばいいだけで、改めて私がどうこう言うのも馬鹿馬鹿しい。なので今回は、例によって言葉にこだわって絞り込んだ突っつき方をしてみようと思う。

杉田水脈という人は、件の寄稿記事で "LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼らは子どもを作らない、つまり 「生産性」 がないのです" と、はっきり書いている。「生産性」 と、申し訳程度にカッコ付きにはしてあるが、この単語になんらの注釈も付けることなく使っているのだ。

ここでぶっちゃけた結論を言ってしまえば、杉田議員の寄稿記事は大問題になっているが、LGBT に 「生産性がない」 というのは彼女独自のロジックではなく、お仲間内の悪趣味な決まり文句を、外部に向かってものすごく安易、かつ直接的に発信してしまっただけにすぎないのである。まあ、悪ノリしやすいタイプなんだろうね。

「生産性」 という言葉は、一般的には 「労働生産性」 を指す言葉として使われることが圧倒的に多い。試しに "Weblio" (大辞林) を引いてみると、次のようにある。(参照

せいさんせい 【生産性】
生産のために投入される労働・資本などの生産要素が生産に貢献する程度。生産量を生産要素の投入量で割った値で表す。

ここでは、「子どもを作る能力」 なんて意味は無視されている。それだけに、「同性愛カップルは 『生産性』 がない」 という言い方には、大抵の日本人は強い違和感を覚えるのである。この言い方だと、子どもだけはやたらと何人も作るが、仕事もせずにぐうたらしてるヤツにさえあるらしい 「生産性」 というものが、LGBT カップルだと、どんなに有益な仕事をしても 「ない」 とされてしまうのである。

というわけで、杉田議員は朝日新聞が LGBT を支援することに関して 「違和感を覚えざるをえません」 と書いているが、LGBT には 「生産性」 がないとする決めつけの方が、ずっと大きな違和感を醸し出す。

ここで念のため、「生産性」 という言葉の元になったと思われる "productivity" という英語について調べてみよう。例によって Weblio で調べると 「生産性、生産力、多産(性)」 とある (参照)。やはり 「子どもを作る能力」 みたいなことは出てこない。強いて言えば 「多産(性)」 の中にそうした意味が含まれるのだろうが、ビミョーである。

もう少し念を入れて、"produce" という動詞を調べると、ようやく 「産する、生ずる、製造する、生産する、作り出す、描く、作る、生む、産む、生じさせる」 という意味が表示される (参照)。ただ、英英辞書 (CUERVO) を引いてみても、「子どもを産む」 という意味は直接的には表示されない (参照)。

つまり、「生産性」 という言葉は、とても広義に捉えれば、かなり端っこの方に 「子どもを作る能力」 という意味を確かにもつようだ。それは認めよう。しかし 「LGBT カップルは 『生産性』 がない」 と、唐突に言ってしまう姿勢には、とても意図的な 「ヘイト・スピーチ」 的要素があると言うほかない。

で、さらに問題なのは、杉田議員自身が自民党の先輩議員たちに 「間違ったことは言っていない。胸をはってればいい」 と声をかけられたと tweet したらしいことである (既に削除されているが)。つまり、このようなヘイト的思想は、自民党保守派の間ではとても 「当たり前」 のこととなっているようなのだ。

頭の硬い保守派は子どもを産む能力に関して 「生産性」 という言葉を好んで使いたがる。私自身も彼らの口からこうした言葉が発せられるのを度々聞いていて、その度に不愉快になる。この言い方は、実は保守政治の世界の 「ステロタイプで悪趣味な決まり文句」 になっているのだ。

フツーに考えれば、彼女の発言は 「トンデモ」 に違いないのだが、彼女の仲間内は 「一体何が間違ってるんだ。当たり前の話じゃないか」 と擁護する雰囲気に満ち満ちている。それは間違いない。ということは、いくら批判しても彼女は絶対に反省なんかしないということである。

私としては、彼女だけでなく、彼女の属するサークルをまとめて 「馬鹿扱い」 するしかないと思っている。

さらにちょっと付け足しだが、保守派だけでなく革新派の中にも、こうした言い方を好んでする連中はいくらでも存在する (参照)。バリバリの日教組の中にさえいる。彼らは 「革新派」 の仮面を被った 「因習派」 である。

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2018/07/25

「骨壺で身代金」 は、いくら中国でも通用しなかった

"中国で多発する“死者誘拐”の恐怖……他人の骨壺を掘り起こし 「返してほしけりゃ金出しな」" というニュースがある。同じ内容を扱ったもので、"株で借金苦の中国人、骨壷を奪って 「身代金」 要求の顛末" という記事もある。

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どちらも、中国では伝統的に先祖の遺体や遺骨を大切にするので、墓地から骨壺を盗み出して 「身代金」 を要求するという事件まで生じたというトーンである。日本人とは比較にならないほどに遺骨を大切にする伝統文化というか、メンタリティが、この事件のベースにあるというのが前提のようだ。

「親の遺骨を盗まれた」 なんていうのが知られたら、「親不孝者」 のレッテルを貼られて世間に顔向けならないことになる。遺族としては、こっそり 「身代金」 を払ってでも取り戻さざるを得ない。

しかし、2つのニュースを読んだ限りでは、中国人がそこまで遺骨に執着しているという印象は残らないのだよね。

遺骨を盗まれ、身代金要求のメールが届いた遺族の反応は、いともドライに警察に届け出ただけだったのである。そして借金で首が回らなくなって犯行に及んでしまった犯人は、「メールに返信しない遺族たちにしびれを切らし、電話をかけて金銭を要求した」 ため、あっさりと身元が割れ、逮捕されてしまった。

率直に言ってこのニュースから読み取れるのは、「遺骨に執着する中国の伝統文化」 が、今では薄れてきているんじゃないかということだ。犯人は伝統的なメンタリティに期待しすぎてしまったようで、実際には 「骨壺で身代金」 なんていう犯罪モデルは、もはや通用しにくくなっていたということだ。

とはいえ、「中国の骨壺」 で画像検索してみたら、上の写真のような豪華というか、贅沢というか、私なんかには思いも付かないようなものがどっさりヒットしたのであったよ。私の父の骨壺なんか、シンプルな素焼きだったのに。

もしかしたら犯人としては 「遺骨の身代金」 なんか要求するより、掘り出した豪華な骨壺を闇で売り払う方が、ずっと金になったかもしれない。

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2018/07/24

東京の夏が 「昔より断然暑い」 ことを示すヒートマップ

東洋経済 Online に、"東京の夏が「昔より断然暑い」決定的な裏づけ -- 過去140年の日別平均気温をビジュアル化" という記事がある。圧巻なのは、下に示した 「ヒートマップ」 (クリックで拡大表示される) で、まさに最近の夏の暑さは昔の比じゃないことがいやでもわかる。

Temperature

この 「ヒートマップ」 は東洋経済編集部の荻原和樹さんの作成したもので、記事中では実際のマップの紹介に先立ち、次のように述べられている。

気象庁が今年 6月に公表した 「ヒートアイランド監視報告2017」 によると、過去 100年間で日本の気温は着実に上がってきた。その中でも特に温暖化の傾向が強いのが東京をはじめとする都市部だ。100年前と比べると、東京の年間平均気温は 3.2度上昇した。天候に関するニュースでは夏の最高気温が話題になることが多いが、上がり幅は夏よりも冬、最高気温よりも最低気温の方が大きい

「100年前と比べると、東京の年間平均気温は 3.2度上昇した」 というのはデータの語る客観的な事実であり、「最近の夏は、昔よりずっと暑い」 というのは、単なる 「気のせい」 ではないことがわかる。さらに、体感的にはあまり気付かれていないが、実は冬の季節の温暖化の方が著しいらしい。

作成されたヒートマップは、6月から 9月にかけての夏の暑さを 「見える化」 していて、その見方は、元記事に詳しく出ているが、要するに縦軸が年、横軸が月 (6月から 9月) を表し、下になるほど現代に近付く。そして 1日は小さな四角で区切られた枡だ。色が赤っぽいほどその日の平均気温が高かったことを示している。なかなかの労作である。

一目瞭然なのが、1920年代から東京の気温は上がり始めていて、とくに 1960年代の高度成長期の頃から赤の部分 (つまり気温の高かった日) の増加が目立つことだ。1990年代以後はさらに、赤の部分の横の広がりも目立つ。つまり夏の早い時期から本格的に暑くなり、しかも残暑が長引いているということだ。

このマップでは、赤い色は 「1日の平均気温が 30度以上の日」 を示している。決して 「最高気温」 ではなく 「平均気温」 なので、最高気温でいえば 35度以上の 「猛暑日」 というのもかなり多く出現しているはずである。

私の生まれ育った山形県の庄内地方は、1970年代以前は夏でも 30度になる日は珍しかった。家の中の寒暖計ではギリギリ 30度に達していても、測候所発表の最高気温は 28〜29度ぐらいのものだった。たまに 「本日の酒田の最高気温は 30度に達しました」 なんていうニュースを聞くと、なんとなく嬉しい気分にさえなっていたものである。

大学に入って上京した 1971年は、このヒートマップで見ると結構暑い夏だったようで、日中は喫茶店に逃げ込んでいた。それでもあの頃は最高気温が高くても 32〜33度ぐらいのもので、夜になれば多少は涼しくなり、最低気温が 25度以上の熱帯夜は少なかったから、エアコンなしどころか、扇風機もないアパートでもなんとか眠れたのである。「今は昔の物語」 だ。

ネット上では、「地球は過去 2年間、寒冷化の傾向を示している」 という指摘もあり、確かにこのヒートマップもそれを示しているように見えなくもない。しかし少なくとも、最近までは 「温暖化」 以外の何ものでもなかったわけだ。そしてさらに 「寒冷化」 という要素も生じているとしたら、要するに 「極端化」 ということになるんじゃなかろうか。住みにくい気候であることに間違いはない。

ちなみに私の田舎も、今では夏の最高気温が当たり前のように 30度を超える日が多くなっている。

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2018/07/23

架空請求葉書というもの

読売新聞に 「被災地にも不審はがき多数、被害防止へ緊急対策」 という記事がある。架空請求に関する相談が、今回の西日本豪雨の被災地でも増えているというのだ。私にもほんのたまに届くことがあり、11年前に初めて届いた時は、「ついに我が家にも架空請求葉書が」 というタイトルで、ブログの材料にもしてしまった。

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それにしてもずっと不思議に思っていたのは、メール (電子メールのことね。念のため) ならほとんど費用がかからずにいくらでも出せるのに、どうしてまた、1通につき 62円もかかってしまう葉書を使うのだろうということだ。1,000通出したら 62,000円かかってしまうじゃないか。

ところが今回の読売新聞の記事で、この疑問が解けた。「実際に金銭を支払った被害額は平均 44万円で、計13億円に達した」 とある。これなら 1,000通で 1人 (確率 0.1%) でもひっかかれば、平均 30万円以上の 「黒字」 が出る。

消費者庁によると、「架空請求に関する相談は 2017年度、約 20万件と前年度の 2倍以上に急増。メールではなくはがきを用いた手口が半数近くを占めた」 というのだから、相談件数に関していえばメールに関するものも葉書に関するものも、ほぼ同数のようだ。しかし個人的印象では、メールが圧倒的に多い。架空請求メールは毎月 2〜3通は来るが、葉書は 4〜5年に一度ぐらいのものだ。

ということは、架空請求メールのほとんどは順当に無視されているが、葉書によるものは相談に至る割合が格段に高いということになる。言い換えれば、葉書による架空請求はシリアスに受け取られる割合がものすごく高いということだ。

メールが一般的になったとはいえ、高年齢層を中心にメールを使わない人たちもまだまだ存在する。そして、こうした問題に関するリテラシーはメール・ユーザーの方が平均的に多少は高いだろうから、騙される確率は低い。となると、比較的 「打率」 の高い葉書は、騙す側にとってはとても魅力的なメディアなのだろう。

先日は、尾木ママこと尾木直樹氏 (教育評論家) が、ネットで振込詐欺にあったというニュースが報じられた。自身のブログに 「振り込め詐欺なんかに絶対ひかからない自信あったのにーー 先ほど 見事に PC のハッキング詐欺にやられたのです!」 と書き込んだものだ。(参照

「絶対にひっかからない自信あったのに」 という人が、ネット上でひっかかってしまうぐらいなのだから、こうした分野のリテラシーが低い老人に一見もっともらしい葉書が届いたら、結構な確率で騙されるだろう。なるほど、1通に 62円出してでも葉書を使いたくなるわけだ。

良きにつけ悪しきにつけ、初期投資をケチってはいけないということなのだね。

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2018/07/22

水と梅干しの欠かせない夏

昨日の朝、起きる前にベッドで思い切り伸びをしたら、いきなり左足がつってしまった。その朝のラジオで、「足がつるのは、熱中症のサイン」 と言っていたので、「こりゃ大変!」 とばかりに、すぐに水を飲んで梅干しを食った。

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思えばこの夏は、水と梅干しの世話になりっぱなしである。先月 28日に熱中症でちょっとだけダウンしてしまった (参照) ので、それ以来かなり慎重になって、冷やした浄水と梅干しを欠かさなくなったのだ。それにしてもこの夏は、熱中症っぽい経験をした人が少なくないんじゃないかなあ。いつもの年なら、ようやく梅雨明けした頃なのに。

この暑さのせいで、世の中ではスポーツ飲料が売れまくっていて、小学校の子どもに水筒に入れて持たせているなんて親が増えているようだ。しかし私は昔から、スポーツ飲料は敬遠している。何がいやだといって、どうしようもなく甘すぎるのだ。ものすごい量の砂糖が入っているらしい。

スポーツで失われたエネルギー補給のために、吸収の早い糖分を入れているらしいが、こちらは腹の周りの脂肪が気になっているくらいなので、要りもしない糖分を摂ろうなんて気はさらさらない。それになんだか知らないが、香料などの添加物たっぷりである。砂糖と添加物を溶かしまくった液体をを飲むぐらいなら、水の方がずっといいい。

ただ、水だけでは汗で失われた塩分などが補われないので、近頃は梅干しを 1日に 5〜6個食う。これで塩分とクエン酸の補給はバッチリのはずだ。おかげであれ以来、熱中症にはなっていないし、足がつるのも、昨日の朝の 1度きりだ。

ただ、私の体にはバッチリだからといって、誰にでも一番いいとは限らないので、皆に 「水と梅干しさえあれば大丈夫」 とおすすめしようとは思わない。それぞれが一番いい感じのものを、トライ・アンド・エラーで探し出していただきたい。「俺にはスポーツドリンクが一番!」 という人がいてもちっとも不思議じゃないし。

ちなみに上の写真で水を入れているのは、Sierra cup (日本では 「シェラカップ」 と言われていて、本来は 「スィアラカップ」 の発音の方が近いと思うが、まあ、ちゃちゃっと発音したらどうでもいいか) というもので、20代前半から 40年以上愛用している。金属製だから落としても割れないし、アウトドアではそのまま火にもかけられる。

私のはコーヒーの色が染みついていて、真水でもやや色が付いているようにみえてしまうのがご愛敬だ。

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2018/07/21

ようやく 「PC が本当に 5年もつ」 時代になったかも

昨日は見当外れの過去ログについて 「ごめんなさい」 する記事を書いたが、ごめんなさいついでに、もう一つ謝っておこう。それは、やはり 12年前の 「PC が余裕で 5年もつ時代」 という記事についてである。

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この記事の書き出しは、こんな具合だ。

以前は、PC の性能がすぐに環境変化に付いていけなくなり、3年足らずで買い換えを余儀なくされていたけれど、今使っている機種は、 2年 3か月経っても、全然不満がない。

最近は IT のハードとソフトのバランスが成熟してきたような気がする。この分だと、5年経ってもそれほど不満はなさそうだ。

この頃に使っていたのは、Panasonic の Let's Note (OS は Windows XP だった) で、使い心地には結構満足していた。引用の中でも触れているように、それ以前はソフトの進化にハードが付いていけなくなり、しかたなく買い換えるというパターンだったが、この頃はハードウェアとしての PC のスペックがようやく余裕を持ったものになっていたのである。

それで 「余裕で 5年もつ」 なんて楽観的なことを書いてしまったのだが、実際にはこの機種は2004年 4月から 2008年 3月までの、3年 11ヶ月しかもたなかった。ハードディスクの空きは十分で、スペック的にはまだまだ余裕があったのだが、急にまともに動作しなくなり、つまり物理的に 「オシャカ」 になってしまったのである。

それまでは、買ってから 2〜3年でハードディスクが一杯になったり、処理速度が遅すぎて使い物にならなくなるという 「スペック的な理由」 で買い換えていたので、ハード的に壊れるまで使ったことがなかった。というわけで、「PC って、物理的に壊れるんだ」 というのを実感したのがこの時だったのである。

自分の過去ログを見ていて思い出したのだが、この頃はデスクトップとノートの 2台体制でやっていたようだ。デスクトップは NEC のだったような気もするが、機種名は忘れてしまった。自宅のデスクトップを使うよりも、勤務先や出先で自分のノート PC を使う機会の方がずっと多かったような気がする。それで、寿命も短かったのかもしれない。

次に買ったのも、やはり Let's Note (CF-W7) で、OS は Windows Vista だった (参照)。小型軽量で持ち運びはとても楽だったが、たったの 2年 2ヶ月しか使わなかった。ハードディスクが容量不足で、動作も極端に不安定になってしまったので、「オシャカになる前に」 と買い換えてしまったのである。これはスペック的にもハード的にも不満足な機種だった。ついでに Winsdows Vista にも、いい印象はない。

そしてこの時買い換えたのも、懲りもせずに Let's Note (CF-S9) だった。OS は Windows 7 で、結構長持ちして 4年半使ったが、2014年 1月に MacBook Pro に乗り換えた。ハード的には何とか持ちこたえていたものの、ディスプレイがちゃっちくて目が疲れるのと、MS のやり方にあきれて、Windows という OS に見切りをつけたためである。

そして、この時買い換えた MacBook Pro は、ふと気付いてみればもう 4年半以上経っているが、スペック的にもハード的にも、ほとんど不満がない。前の Let's Note は 4年半使い続けるうちに、どんどん使い心地が悪くなっていたので、こんなに満足感が続いているのは初めての経験である。

というわけで、「PC が余裕で 5年もつ時代」 は、今になってようやく実現したような気がする。12年前はかなりフライングしてしまったようなのだ。というわけで、「ごめんなさい」 なのである。

ちなみに世の中には 10年前の PC をまだ使っているなんて人がいるが、それは大抵ライト・ユーザーで、「おもちゃ程度」 にしか使っていない。ハードウェアにあまり負担をかけないのだから、長持ちして当然だろう。OS のサポートがとっくに切れていることに無頓着なのが心配だが、まあ、どうせ 「おもちゃ」 だしね。

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2018/07/20

iPhone 1台あれば、大抵のことは済んじゃう時代

たまたま自分の過去ログを読み返してみると 「うむ、我ながら言えてる!」 と嬉しくなってしまう記事もあるが、「ありゃ、こんな見当外れなこと書いちゃってたのか」 と恥ずかしくなってしまうようなのも、決して少なくない。まあ、長くやってると、その時代の制約にとらわれてたってこともあるしね。

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最近、ちょっと恥じ入ってしまったのは、「1台の多機能機より、複数の専用機」 という 2006年 11月 14日の記事だ。某リサーチ会社の、消費者は 「携帯デバイスは多機能 1台より複数を持ち歩く」 という調査結果に、両手を挙げて 「そうだ、そうだ、その通り」 とばかりに賛同し、次のようにコメントしてしまっている。

消費者の多くは、ケータイ、PDA、MP3 プレーヤーと、単機能機器を複数携帯しているそうだ。かくいう私も、ケータイ、モバイル PC、デジカメ、iPod Mini を持ち歩いている。

急に懐かしく思いだしたが、そういえば iPod Mini なんてのがあったんだよね。昔は 「これで、どこでも音楽聴き放題!」 なんて大喜びしていたものだ。それに、「3倍ズーム機能付き」 なんていう程度のコンパクト・デジカメもずいぶん重宝していたような気がする。

この調査によると、"「回答者の半数は、スマートフォンを購入すれば持ち歩く携帯機器の台数は減ると思っていた」 が、実際はそうはならなかった" とある。ただこれは、12年も前の調査だから、「スマートフォン」 と言っても iPhone や Android のようなものじゃなく、それよりちょっと前の Newton とか BlackBerry みたいなものを想定していたようだ。

そうなると、やっぱり 「スマホ 1台でなんでもこなしちゃう」 ってわけにはいかなかったのである。スマホのカメラ機能も、今では下手なコンパクト・デジカメよりずっときれいな写真が撮れてしまう iPhone にしても、初期の頃は今イチだったしね。

ところがもうだいぶ前から、私は iPhone でインターネットにアクセスし、メールをやり取りし、スケジュールの確認をし、SNS の受発信をし、写真を撮り、音楽を聴き、その他いろいろ、大抵のことは済ませてしまっている。

というわけで、「12年前はあんなことを書いちゃいましたが、私が間違ってました」 と、素直に 「ごめんなさい」 するしかないようなのである。いやはや、干支が 1廻りしないうちに状況はこんなにも変わってしまうのだね。コワいコワい。

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2018/07/19

飲食店の半数以上が例外対象という 「受動喫煙防止法」

「受動喫煙対策を強化する」 という触れ込みなのに、中身はまったく不十分としか思われない 「改正健康増進法」 (いわゆる 「受動喫煙防止法」) というのが、昨日成立したそうだ。

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この法律、一応 「事務所や飲食店など多くの人が集まる施設は原則として屋内禁煙とし、違反者には罰則を適用する」 という内容ではある。しかし問題は、笑っちゃうしかないような例外規定があることで、「飲食店のうち個人や中小企業が経営する客席面積が100平方メートル以下の既存店には例外を認め 『喫煙可能』 などと標識で示せば喫煙を認める」 んだそうだ。

しかも例外対象となるのは 「厚労省の推計では飲食店のうち約 55%」 という。半数以上が例外対象なんてみっともない法案を、よくまあ恥ずかしげもなく通しちゃったものだよね。

「受動喫煙防止法を進める市民の会」 の意見広告では、上の画像にあるように 「自民党案では東京都内のレストラン等 85.7%、バー・居酒屋など 95%で喫煙可能」 になるという。まあ実際には、東京都ではより厳しく規制する法案が既に成立していて、すべての飲食店が禁煙となるのでいいのだが。

国会でも当初は 「全ての飲食店で禁煙」 という案が出されていたのだが、自民党が反発してこんな修正案が通ってしまったもののようだ。自民党のオッサンたちには喫煙者が多いから、「たばこ産業や飲食業への配慮」 を隠れ蓑にして、要するに 「自分が吸えなくなるのはかなわん」 というわがままを通したんだろう。

自民党のオッサンたちみたいな連中は、喫煙は 「昔から続いてきた既得権」 だと思っているのだろうが、きれいな空気を吸うのは 「それ以上昔から続いてきた、より重要で基本的な既得権」 である。この 「より重要で基本的な既得権」 が保証されない飲食店で食事をしようとは、私は思わない。

困るのは地方に出張した際に、昔からの中心街だと中小の飲食店ばかりで、タバコの煙が漂っている店が多いってことだ。郊外の幹線道路沿いに出れば、どこにでもある大手のチェーン店が多いから、面白くもなんともない代わりに、タバコの煙に悩まされないという点では安心である。ただ、そこまで行くにはクルマが必要だから、出張時はつらい。

願わくは、中小あるいは個人経営の飲食店でも、毅然として喫煙を認めないでいてもらいたいものである。そもそも 「喫煙可」 なんていう貼り紙を出すのは、自ら店のイメージを低下させることになるんじゃあるまいか。

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2018/07/18

命に関わる暑さ

今日も朝から、というか、夜中のうちから既に暑い! まだ昼前なのに、外を歩いているだけで、頭がクラクラする。今年の夏は、大袈裟ではなく 「殺人的」 である。

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昨日は愛知県で、小学校 1年生の子どもが校外学習から帰って来て熱中症で死亡したという (参照)。外回りの仕事をする大人たちは、汗だくになりながら訪問先に飛び込み、エアコンで涼んでようやく生き返っている。ところが多くの小学校はエアコンがないのだから、帰って来ても十分に体の熱を冷ますことができない。個人的には、こんな日の校外学習は中止すべきだったと思う。

件の小学校の校長は、「これまで校外学習では大きな問題は起きておらず、気温は高かったが中止するという判断はできなかった」 とコメントしている。しかし 「今年の夏はこれまでの常識が通用しない暑さ」 というのは、既に世間話の最大の話題なのだから、子どもの命を預かる身としては、思慮不足だったと言うほかないだろう。

このところ、熱中症が原因の死者は、年間 1000人というレベルに達しているという。これは夏の間に限られるだろうから、平均すると 1日 10人は熱中症で死んでいるということになる。まさに 「暑さは命に関わる」 のだ。

最近、複数の年配の知人に会う機会があったが、彼らは一様に 「この夏はエアコンをしっかり点けている。命あっての物種だ」 と言う。独り暮らしの老人は 「暑さで死んでるのを発見されたなんてことになりかねないから、あまり変な格好しないで寝ているよ」 なんて言っていた。

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2018/07/17

「ユニバーサルデザインフード」 というもの

もう 1週間近く前のことになる 7月 11日、ラジオで朝から 「今日は UDF の日!」 なんてことを言っていた。UDF って何のことかと思っていたら、「ユニバーサルデザインフード」 なんだという。「食べやすさに配慮した食品」 の啓発促進のために、日本介護食品協議会という団体が制定したんだそうだ (参照)。

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「日常の食事から介護食まで幅広くお使いいただける、食べやすさに配慮した食品」 を広めようという趣旨には賛成だ。それについては、何もイチャモンつけようとは思わない。ただ、食品分野に 「デザイン」 という言葉が適用されたことに、なんだか拭いがたい違和感を覚えてしまうのだよね。

「だってそうでしょ。あなた 『食品を調理した』 ことはいくらでもあるだろうけど、『食品をデザインした』 って経験がありますか?」 と言いたくなってしまうのである。「デザイン」 という言葉は、フツーは、美術、工業、建築などの分野で用いられる。食品分野に用いると、個人的にはものすごく 「据わりが悪い言葉」 という印象だ。食品は ”cocking" というべきなんだろうが、それだとカタカナにすると一般的じゃないというのかなあ。

いっそ "Universal Cocking" という言葉を作って広めようというぐらいの意気込みで始めればよかったのに、既に広く行き渡った 「ユニバーサルデザイン」 という言葉にちょっと寄りかかってしまったのかもしれないね。残念な気がしないでもない。

あるいは、当事者たちにしてみれば、「ユニバーサルデザインフード」 というのは 「工業製品」 という位置づけなんだろうか。日本介護食品協議会という団体の加盟企業をみると、スーパーの売り場で見かけるパッケージ食品のメーカーが多い。とすると、そうなってしまうのかなあ。

当事者のサイトをみると、「UDF の選び方」 というのがあり、「食べる人のことを考えて 4区分」 されているらしい。その区分というのは、「容易にかめる」 「歯茎でつぶせる」 「舌でつぶせる」 「かまなくてよい」 というものだそうだ。ただそれって、「デザイン」 なのかなあ? そうだとしたら、「ものすごく広義のデザイン」 なんだろう。

世界的には 「ユニバーサルデザインフード」 というと、パッケージを開けやすいデザインにしたものとか (例えば こんなの) いうイメージになってしまうと思うがなあ。まあ、日本介護食品協議会の考えでは、「パッケージにもひと工夫」 とちゃんと謳ってはあるようだが。

まあ、確実に言えることは、この取り組みはどこまで行ってもドメスティックなものに留まるだろうということだ。国際的な動きにしたかったら、別の言葉を考える方がいい。せっかくのいい運動にイチャモンつけるというわけではないのだが、「言葉派」 としては、つい 「うぅむ」 となってしまうのだよね。申し訳ないけど。

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2018/07/16

トランプが 「EU は敵だ」 と語ったらしいが

ラジオで 「トランプ大統領が 『EU は敵だ』 と言った」 というニュースを聞いて、「へえ、トランプもそんなことを言うまでトチ狂ってしまったのか」 と驚いた。日本語のニュースは、EU を "enemy" と言ったのかと思うような印象だったのである。ところが違った。翻訳というのは難しい。

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トランプは EU のことを "foe" と言ったというのが本当らしい。”Foe" を英和辞書で引くと、大抵 「敵」 と出てくるから、「トランプは EU は敵と言った」 という日本語の見出しは決して間違いじゃない。しかしニュアンスとなると、上に示した写真ぐらいの違いがあると言っていい。

左側は Google から産経ニュースにリンクされるもので、トランプが興奮してがなり立てている写真が添えられている (参照)。そして右のガーディアンニュース (参照)へのリンクは、ベースボールキャップ (”USA" のロゴ入りというのが彼らしいが) でリラックスした様子の写真だ。

English Language Learners というサイトの 'What is the difference between “foe” and “enemy”' ("For" と "enemy" の違いは?) というページによると、「"foe" というのは、コミック・ブックなどで 『競合相手やライバル』 という意味で使われる」 とか 「政治やニュースなどで、"enemy" という言葉があまり攻撃的すぎるニュアンスと受け取られるような時に、"foe" と言い換えられる」 というような説明がある。(参照

というわけで、トランプはいくらなんでも EU を "enemy" 呼ばわりするほどトチ狂ってしまったわけじゃなく、"foe" と言ったもののようなのである。「利益の相反する競合相手」 ではあるが、「激しく衝突するほどの敵同士ってわけじゃない」 というような意味合いを、"foe" という言葉で語ったもののようなのである。ちょっと前時代的な言い方のような気はするけどね。

それにしても、"foe" が 「敵」 という日本語に置き換えられた途端に、「EU、潰したる!」 みたいな勢いでがなり立てるトランプという、ステロタイプなイメージの写真になってしまうというのが、ちょっとコワい。言葉は慎重に扱わなければならないし、翻訳においてはなおさらである。

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2018/07/15

高齢者の運転の危うさ

先日、近くの田舎道をクルマで走っていると、目の前にやたらノロノロ、ヨロヨロと走るトヨタ車がいる。時速 30km そこそこで、しかもかなりの蛇行運転だ。居眠りならクラクションを鳴らして起こしてあげようかと思ったが、赤信号のかなり手前で停車したので、眠ってるわけじゃないらしい。

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あまり近付きたくないので、かなり間隔をおいて止まると、後ろのトランクの上に、「高齢者運転標識」 (いわゆる 「もみじマーク」) が貼ってあるのに気付いた。ただ、真後ろに貼ってくれればすぐにわかるのだが、トランクの上に (つまり空に向かって 「上向き) に) 貼ってあるので、よほど近寄らないと気付かない。一応スマホで写真を撮っておいたのだが、小さな写真じゃほとんどわからないよね。

高齢者になると運転における咄嗟の判断が危なっかしくなるので、後続車に意識させるために 「もみじマーク」 を貼るということになっているのは、今さら言うまでもない。しかし、そもそもそれを 「どこに貼るのか」 という判断からして危なっかしくなっている老人もいるのだと知った。貼った自分からはよく見えたのだろうが、後続車両からは甚だ見えにくいのである。

こうなってしまうと、「恐れ入ります。私は 『もみじマーク』 を貼る場所すらまともに判断できなくなった高齢者ですので、後続車は十分お気を付けください」 ってな意味になってしまうわけだ。しかしそのことに気付くためには、赤信号で停車してよくよく注意してみなければならないのだから、困ったものである。

このケースではもみじマークなんか見えなくても、一見して十分に危なっかしいので、誰も近付こうとすらせず、妙な意味で問題なかったと言えなくもないのだが、確かに年を取ると、いろいろな点で判断がおかしくなってしまうもののようだ。とにかく近頃、高齢者がアクセルとブレーキを踏み間違えて、歩行者の列や店舗に突っ込んでしまうなんていう事故が少なくなくて、思いやられる。

私も既に 「前期高齢者」 になってしまっているので、いつまでも 「自分は大丈夫」 なんて 「正常化の偏見」 で安心していないで、きちんと意識して気をつけようと思ったわけなのである。

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2018/07/14

健康に良い食べ物と、悪い食べ物

カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) 助教授、津川友介さんという人の 『世界一シンプルで科学的に証明された究極の食事』 という本が話題だ。先日、たまたま本人がテレビに出てコメントしているのをちらっとみたが、なかなかイケメンのお兄さんである。

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この本は、買って読むまでには至っていない。なにしろ 「東洋経済」 のサイトに著者本人が "医学的に「健康に良い食べ物」 は 5つしかない、ほとんどの健康情報はエビデンスが足りない" と、ダイジェストのような記事を寄稿しておいでだから、それを読めば十分のような気がしている。

この記事で紹介されている 5つしかない 「健康に良い食品」 というのは、「① 魚、② 野菜と果物、③ 茶色い炭水化物、④ オリーブオイル、⑤ ナッツ類」 の 5つである。これは 「健康に良いということが複数の信頼できる研究で報告されている」 ものだ。「茶色い炭水化物」 というのは、玄米や全粒粉、蕎麦などの、精白されていない炭水化物のことを言うらしい。

「ひょっとしたら健康に良いかもしれない食品」 というのもあり、これは 「少数の研究で健康に良い可能性が示唆されている」 というもので、「ダークチョコレート、コーヒー、納豆、ヨーグルト、酢、豆乳、お茶」 が挙げられている。

これ、「言われる前から知ってたし」 というものがほとんどで、とくに目新しい情報じゃない。私はかなり前から、ごく自然にこの指針に沿った食生活をしてる。

ただ一つ、迂闊なことに 「ダークチョコレート」 というのは初耳だ (妻は好きで、よく知ってたけど)。調べてみると、カカオマスが 40%以上のチョコレートで、血圧低下、HDL (善玉) コレステロール値上昇などの効果に加え、BDNF (脳由来神経栄養因子) の上昇や、炎症指標と酸化ストレス指標の低下などの 「チョコレート効果」 というのがあるという (参照)。個人的には好んで食おうという気はないけど。

さらに 「健康へのメリットもデメリットも報告されていない食品」、「ひょっとしたら健康に悪いかもしれない食品 (少数の研究で健康に悪い可能性が示唆されている食品)」、「健康に悪い食品 (健康に悪いということが複数の信頼できる研究で報告されている食品)」 というのがある。

多くの食品はメリットもデメリットもないというカテゴリーに分類されているようだが、「ひょっとしたら健康に悪いかもしれない」 というのは、「マヨネーズ、マーガリン、フルーツジュース」 で、「健康に悪い」 のは、「① 赤い肉 (牛肉、豚肉で、鶏肉は含まず) と加工肉 (ハムやソーセージなど)、② 白い炭水化物 (ジャガイモを含む)、③ バターなどの飽和脂肪酸」 となっている。

私はだいぶ前から 「赤い肉」 は食べないことにしていて、これは健康面からも正解らしい。最近は鶏肉も避けているが、「体に良い、悪い」 という観点からは関係ないようだ。ただ、食い物は体に良い悪いだけの要素で決めているわけじゃないからね。

面白いのは、サプリメントなどの、「体に良いと言われている要素だけを抽出したもの」 というのは、そんなに効果があるわけじゃなく、場合によっては逆効果になる場合もあるらしいということだ。人間の体は複雑系だから、純粋すぎる要素だけ摂れば効果があるというのは、「古い考え方」 で、つまり 「もっと古い考え方」 に立ち返る方がいい場合もあるってわけね。

なにしろ、「野菜と果物」 は健康に良いというお墨付きなのに、フルーツジュースは 「ひょっとしたら健康に悪いかも知れない」 というのだから、なかなかビミョーである。ちょっと前の栄養学の常識だったら、「こんな矛盾した話を信じてはいけません」 なんてことになりそうだ。しかし 「まるごと」 で食うのと、一見して都合のいい要素だけ抽出して口に入れるのとでは、結果が違って当然である。

ただ、今月 10日の記事でも書いたように、「人間とはとてつもなく不条理なもの」 (参照)だから、体に悪いとわかっているものでも無性に食べたがることが多い。世の中の肉好きは、「健康のためには、お肉もたっぷり食べなきゃ」 なんていう 「正常化の偏見 (normalcy bias)」 に満ち満ちちゃってるしね。

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2018/07/13

思えば 6月下旬から天気が明らかにおかしかった

思えば 6月下旬から天気が明らかにおかしかった。6月末から 7月初めにかけては、異様に風が強かったのである。6月 29日の 「和歌ログ」 では、「今日は一日中強風が吹き荒れたが、日が暮れてから少しは弱まってきた」 とあるが、翌 29日には 「今日も風の強い一日だった。風に向かって自転車を漕ぐと、まるで坂道を登っているようだ」 とある。

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とにかくずっと強風だった。関東では 「史上最も早い梅雨明け」 ということで、突然のように猛暑が訪れたが、何しろ風が強すぎるので、あんなにカンカン照りなのに水蒸気が吹き飛ばされて入道雲ができず、一見すると澄み渡った秋の空である。暑さと視覚の間の違和感が尋常ではなく、6月 30日には 「夏空に積乱雲の沸き立たぬ強風の午後自転車を漕ぐ」 なんて歌を詠んだりしている。

関東で 「早すぎる梅雨明け」 なんて言われていた時から、太平洋には台風 7号がゆっくり進んできていて、その周りから吹き込む 「暖かく湿った風」 のせいで、九州は大雨になっていたのだった。そんな情報を知りつつも、関東ではただひたすら、「無茶苦茶な暑さなのに、風だけはやったら強いなあ」 と思っていただけだったのである。

7月3〜4日に紀州に出張し、南紀白浜空港との往復では、飛行機がガタガタに揺れて気持ち悪くなるほどだった。この時の関西の天気予報は 「一日中大雨」 ということで、晴れ男の私は大した雨には遭わずに帰って来れたものの、大阪方面は既に予報通りの大雨になっていたようなのである。この頃から、「なんだか、天気がちょっとヤバいかも」 と気になり始めていた。

気象庁が 「平成 30年 7月豪雨」 と命名した今回の豪雨の本番がやってきたのは、その直後である。とにかく前線が同じ所に居座り続け、最近はお馴染みの言葉になってしまった 「線状降水帯」 が大規模に発達して、西日本の同じ場所にずっと大雨を降らせ続けた。詳しくは今さら言うまでもない。

この豪雨にようやく一段落付いたと思ったら、さにあらず、天気の不安定さにはさらに拍車がかかり、一昨日の夜はつくば周辺で猛烈な雷雨に見舞われた。遠くの方でゴロゴロ鳴っているなと思っているうちに、いきなり地響きするような雷鳴がとどろき、途切れない稲妻で真昼のような明るさが続く。あちこちに落雷し、広範囲で停電してしまったようなのだ。

夜中になってからあんなにものすごい雷雨になったというのは、少なくとも個人的には初めての経験である。我が家の裏の川が整備される前の 10年前だったら、確実に道路が膝上まで冠水していただろう。ところが夜が明けてみると、周囲の道路は嘘のように乾いていた。治水が進んだこともあるが、地面の熱がよほど高くて乾燥しやすくなっていたんだろう。

私は 2011年の震災による原発事故が発生して以来、2年間は自宅のエアコンのコンセントを抜いていた。しかしそれ以後はどうも暑さのレベルが違ってきて、大袈裟じゃなく 「命の危険」 すら感じることがあるため、控えめにエアコンを使うことにしている。我が家の屋根には太陽光発電パネルが載っているので、昼は自前の電力でエアコンを動かせるのだ。「文句あるか!」 である。(参照

それにしても、夏の本番はこれからなのだ。9月まで猛暑が続き、10月になっても台風が訪れ、一度や二度ならず大雨も降るだろう。とにかく最近は天気が極端から極端に振れ、過去の常識が通じないことは、今回の水害でわかった通りである。覚悟しておくにこしたことはない。

今日も正午の段階で既に家の中の気温が体温を上回っているようで、我が家の階段の手すりが、日陰にあるのに妙に生暖かく、トイレのドアノブは 「熱い」 と言いたくなるほどだ。いつもの年だったら、まだ梅雨明けてないのに。

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2018/07/12

「龍ケ崎」 と 「竜ヶ崎」 と 「佐貫」 のややこしさ

ローカルな話題だが、JR 東日本が、常磐線の 「佐貫駅」 を、2020年に 「龍ケ崎市駅」 に改称すると発表した (参照)。現佐貫駅は龍ケ崎市内にあるが、JR 東日本には 「龍ケ崎」 という名称の駅はない。

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その代わり、この佐貫駅を始点とする私鉄の 「関東鉄道竜ヶ崎線」 というのがあって、その終点に「竜ヶ崎」 という名の駅がある。市の名称は 「龍ケ崎」 だが、その中心地にある駅の名前は 「竜ヶ崎」 なので、ちょっとややこしい。

私が茨城県南部に引っ越して来た頃から、常磐線に 「さぬき」 と読む駅があることには戸惑っていた。「四国じゃあるまいし」 と思っていたが、表記が 「讃岐」 じゃなく 「佐貫」 と知って、一応の納得はしていたのである。しかし人口減少傾向にある龍ケ崎市の再活性化のためにも、JR 常磐線で市の玄関口にあたる佐貫駅を改称し、すっきりさせるというわけだ。

この地域に初めて鉄道が通った明治期は、龍ケ崎町と佐貫町とが隣り合っていたらしい。で、明治 33年に鉄道が通るという段になって、本来は規模の大きい龍ケ崎町を通る案が先行していたのだが、「鉄道が通ったら、鶏が卵を産まなくなる」 なんて、当時ありがちだった反対運動が起こり、佐貫の方に押しつけたいきさつがあると、まことしやかに伝えられている。

平成になる前頃から 「合併して龍ケ崎市になったんだから、駅名も 『龍ケ崎』 に変えるべきでは」 という議論になったが、旧佐貫町側の住民が 「その昔に鉄道路線を押しつけたくせに、今になって勝手なことを言うな」 と反発したなんてことも伝えられた。判官贔屓の心の琴線に触れる理窟である。

ただ、今の関東鉄道竜ヶ崎線も、明治 33年に同時に開通したという事実があるし、竜ヶ崎の中心部を通したら常磐線がやたら大きく迂回することにもなるので、押しつけられたという言い伝えは、実は疑問符だらけだ。これに限らず、この地域の歴史にはなかなか面倒な事情があったようで、この問題に関しては今回ようやく一応のまとまりがつくようなのである。

ただ、関東鉄道サイドとしては現佐貫駅の名称はそのまま残す方針という。なるほどね。もし JR 側の改称に連動してしまったら、始点が 「龍ケ崎市」 で、終点が 「竜ケ崎」 という、さらにややこしいことになってしまう。

ちなみに 「龍ケ崎」 の表記に関してはこれだけに留まらず、Wikipedia には次のようにある。(参照

本自治体の正式表記は「龍ケ崎市」 (旧漢字の 「龍」、大きいカタカナの 「ケ」) である。これは1954年に自治体ができたときに官報に載った表記であり、1996年から市の公文章 (ママ) は 「龍」 で統一されている。一方茨城県は、公文書には常用漢字を使うという文書管理規定があるため、県の施設名を 「竜」 で統一している。関東鉄道は、開業免許状などの古い文献で 「龍」、65年に合併したあたりから 「竜」 である。また、筑波銀行は 「龍ケ崎」、常陽銀行は 「竜崎」 である。

ああ、本当にややこしくて、付き合いきれない。

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2018/07/11

スタバのプラスチック・ストロー問題

スタバがプラスチック製ストローを全廃するというニュースが、結構注目されている (下の写真の左側)。なにしろプラスチック・ストローというのは、全世界でものすごい量が使われていて、捨てられてゴミになる量も大変なものらしい。これを全廃してしまえば、環境面での貢献はかなりのものだろう。

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で、そのちょっと後のニュースで、ストローを使わずに飲める新しいカップが開発されたともいう (上の写真の右側)。蓋の一部が盛り上がっていて、そこに直接口を付けて飲むらしい。それを使い捨てにしたらストロー以上の無駄遣いだが、リサイクルすると書かれてる。「だったら、初めからストローをリサイクルしろよ!」 と言いたくなるが、ストローは小さすぎてリサイクルには技術的問題があるなんて情報もあり、詳しいところはよくわからない。

このニュース、個人的にはあまり身に迫ってこないのだよ。私は半世紀近く、コーヒーショップで 「ホット・コーヒー」 以外の注文をしたことがないから、ストローなんて使う機会がない。ちなみに店ではつい、「コーヒー」 とだけ注文して、「ホットですか、アイスですか?」 なんて聞かれることが多い。

私としては 「フツー、『コーヒー』 と言ったら、ホット・コーヒー以外ないじゃん」 と思ってしまうのだが、世間一般にはそういうわけでもないらしい。とにかくコーヒー・ショップで辺りを見回すと、アイス・コーヒーを飲んでいる客がやたら多い。夏はとくにそうだが、冬でも珍しくない。

私がしょっちゅう海外出張していた 1990年代頃までは、外国では 「コーヒー」 といえば 「ホット」 以外にないといってもいいぐらいのもので、日本人が "Ice coffee, please" なんて注文してもわかってもらえないことが多かった。「海外では ”Iced coffee" って言うんだよ」 なんて言う中途半端な訳知りもいたが、そんな風に言っても、ないものはないのだから通じない。

ただ、最近は外国でも "iced coffee" が出現して、一般的になっているらしい。私にはどうしても 「奇妙で面倒な飲み物」 に感じられるのだが、まあ、世の中はそっちの方に進んでいるみたいなのだ。米国でストローが問題になっているのは、フツーの冷たい飲み物以外に、"iced coffee" が増えていることも背景にあるのかしらん。

ただ、個人的には、コーヒー・ショップに入ったら、フツーのコーヒー (つまり、ホット・コーヒーね) を飲めばいいじゃないかと、今でも思うのである。紙コップなんかも使わずに、陶器のコーヒーカップでブラック・コーヒーを粛々と飲むのが一番だし、第一余計なゴミも出ない。

ただ、世の中、そうはいかないみたいなのだね。甘ったるいものを飲みたがる客も多いようなのだ。面倒なものである。

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2018/07/10

そもそも、水害が差し迫っても 「人は逃げないもの」 らしい

今回の西日本豪雨の死者は、どうやら 120人を超えたようだ。昨日私は、災害時に避難指示が出ても、実際に非難する人は非常に少ないという現実問題について、「最悪、命に関わる問題なのに、なぜ逃げないのか、私には理解できない」 と書いた。しかしよく調べてみると、そもそも 「人は災害時でも逃げないもの」 であるらしい。

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自然災害が発生すると、テレビのニュースなどで上の画像のような、学校の体育館みたいなところで寄り集まるように避難している人たちの様子が紹介されたりする。しかし実際には、いち早くこうして避難するのは住民のごく一部で、大多数は最後まで逃げずに家に留まり、結果として孤立してしまったり、最悪死んでしまったりすることもある。

人間とは不条理なものである。危険を知らされながら、一向に逃げないのである。私のような者からすると、「どうして逃げられるうちにさっさとズラカらないのか」 と、不思議でしょうがないのだが、防災の専門家からすると、「そもそも人間というのは逃げないもの」 だというのである。さっさと逃げる私の方が 「変わり者」 であるらしい。

「水害時 何故逃げない」 というキーワードでググると、なんと約 200万件ものページがヒットして、その数はさらに刻々と増え続けている (参照:  追記 = 7月 13日正午の時点では、370万件以上に増えている)。そしてその中でトップに表示されるのは、2007年 7月 14日に開催された 「日本災害情報学会 減災シンポジウム 〈抄録〉」 の、“ひとはなぜ逃げないのか? 逃げられないのか?” という象徴的なタイトルのページである。

このシンポジウムで、災害時の避難行動をずっと研究してこられた群馬大学教授の片田敏孝さんという方は、とくに水害のケースでは 「人間は逃げられないのだという基本的な考えを持っている」 と、しょっぱなから単刀直入に述べ、次のように説明されている。

「逃げない」 「逃げない」 と議論するのは、行政、学者、マスコミから住民の行動を観察する論理。住民は逃げないと決めたわけではなく、逃げるという意思決定ができずにいる。結果として逃げなかったという事実が残る。

昨日の記事で書いたように、32年前の水害時、私はごくあっさりと家族と犬 1匹、猫 1匹を連れて避難したが、近所の人たちは誰も逃げなかった。私はそれが理解できなかったのだが、まさに 「逃げるという意思決定ができずにいた結果、逃げなかったという事実が残った」 というだけのことだったようなのである。

フツーの人たちは、「逃げる」 という行為を取るにはよほど大きな決断が必要で、なかなか容易には踏み切れないもののようなのだ。まともに考えれば 「さっさと逃げた者の勝ち」 に違いないのだが、それでも人は容易には 「逃げない」 のである。

実際に逃げてみればわかるが、それは実に簡単で、濡れては困るものを 2階に上げたら、あとは鍵をかけてひょいと逃げ出しさえすればいい。初期の段階なら自治体が用意してくれるボートで浸水地域から脱出させてもらい、後はバスに乗せてもらって実にスムーズに避難所に運ばれる。このように避難は早ければ早いほど楽で、遅くなれば混乱するばかりなのに、率先して脱出しようとする者は極めて少ない。

ここまでくるともう理窟じゃないが、それだけに研究に値するテーマではあるようで、『人はなぜ逃げおくれるのか―災害の心理学』 (集英社新書) という本まである。そしてここでも強調されているのは、昨日述べた 「正常化の偏見 = normalcy bias」 (自分だけは大丈夫という思い込み) だ。

私の経験した 32年前のケースでは、不幸中の幸いというべきか、被害は床下浸水で済んだ。しかし、仮により大きな災害になってしまっていたら、近所の人たちは、死にはしないまでも、浸水地域に取り残されたまま救助を待つという、悲惨な事態になっていたわけで、絶対にそうはならないという保証はない。

一方、さっさと逃げておけば面倒がないし、たとえ被害が軽く済んだにしても、安全な場所で心置きなく寝られるだけありがたい。これは経験上、確かに言えることである。家に留まっていたら、まんじりともせずに過ごしていたはずだ。そして結果的に、逃げても誰にも迷惑はかからないのだから、逃げない理由はほとんどない。

というわけで、私は昔から 「人間とは不条理な存在」 と思ってはいたものの、この年になって、「その不条理レベルはこれまでの自分の想定を遙かに上回る」 と知らされたのである。私の人間理解は、甚だ中途半端だったようなのだ。

ここで 「人間とはとてつもなく不条理なもの」 と知ったからにはすっぱりと諦めがついて、今後はいろいろな場面であまりイライラせずに済むかもしれない。災害時に限らず、日常生活でも、どんなにぐずぐずされても仕方ないよね。そもそも不条理な存在なんだから。

ただその上で重ねて言うが、やっぱり災害時には、早めに避難する方がいい。前述の片田敏孝先生も、こんなふうに呼びかけておいでだ。

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2018/07/09

災害時の避難勧告や指示には、早めに従う方がいい

西日本の豪雨は大変な被害になった。今回豪雨の最大の被害地である広島や岡山、高知、愛媛、京都、岐阜などの地域には、友人や知り合いがかなり住んでいるので、私としても平静ではいられない。ただ、無闇に安否確認のメールや電話をしても、向こうが停電していたりすると、ケータイのバッテリーの消耗に気を使っているだろうから遠慮している。

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ここでどうしても書いておきたいことがある。それは、自治体から 「避難勧告」 や 「避難指示」 が出るような豪雨の際には、迷うことなく速やかに安全な施設に避難した方がいいということだ。

ニュースをみると、死者が出るのは大抵 「避難勧告」 や 「避難指示」 の出た地域である。それは当然だ。そうした指示がでるような危険な地域だからこそ、死者も出るのだ。そして、被害者は避難指示が出たにも関わらず自宅に留まっている。死なないまでも、道路が寸断されて孤立してしまたり、2階や屋根の上に逃げたまま救助を求めるというケースも少なくない。

こうしたニュースに接すると甚だ気の毒ではあるが、一方で恐縮ながら 「早めに避難していれば、死んだり孤立したりする事態は避けられたのに」 と思ってしまう。「体の不自由な老人や病人は、なかなか避難しにくい」 と言う人もいるが、その言い訳はおかしい。そうした弱者ほど早めに避難しなければならない。周囲は率先して彼らの避難に手を貸すべきである。

ところが人間、えてして 「自分だけは死なない、大丈夫」 と思いがち (これを 「正常化の偏見 = normalcy bias」 という) で、ぎりぎりまで自宅に留まることが多い。過去の災害時の記録をみると、いち早く避難指示に従う人は 10%にも満たないというのが、ごく普通らしい。危険が差し迫っているのに逃げないで自宅に留まり、土砂崩れで生き埋めになったり、孤立してしまったりする人が多いのである。

私の住む地域は、今は河川の整備が進んだおかげでかなり安全になったが、実はちょっと前までは水害頻発地域だった。もう 32年前になる昭和 61年に、小貝川の堤防が決壊した時には、床下浸水の被害に遭った。この時は自治体の 「避難勧告」 に従い、幼い 2人の娘と、3人目を妊娠中の妻、そして犬 1匹、猫 1匹を連れて、早めに高台の中学校に避難するという経験をした。

この時驚いたのは、近所では我が家以外に誰も避難しなかったという事実である。我が家は小さな子どもと妊娠中の妻がいるという事情もあり、さっさと避難したのだが、 あの様子だと、たとえ 「避難勧告」 が 「避難指示」 に切り替わったとしても、住民のほとんどは自宅に留まっていただろうと思う。

つまり、現実に水害が出始めても 「誰も逃げようとしない」 のだ。最悪、命に関わる問題なのに、なぜ逃げないのか、私には理解できない。

私は自分の経験からも、避難は早めにすることをおすすめする。初期の 「避難勧告」 の段階なら比較的スムーズに移動できるが、のっぴきならない段階まで来てしまったら、混乱が生じて動きにくくなる。周囲が浸水してしまっていたら、ボートで脱出しなければならないのだから、人数が増えたら順番待ちになる。

ましてや、明るいうちならまだいいが、日が暮れてしまってたら、もうほとんどアウトだ。本当に、逃げられるうちに逃げておくに限るのである。腰は軽い方がいい。タイミングを逸したら逃げ遅れて孤立してしまうか、下手すると命を落とす。

私の場合は、一晩避難して翌日に戻ってみると被害は床下浸水程度で済んでいて、汚水は床上までは達していなかったのでやや安心したのだが、それでも 「避難してよかった」 と思った。避難する前に和室の畳などは全て 2階に上げ、しっかりと対策をしていたので、心置きなく家を離れられたし。

それに、一番雨と増水の激しい不安な時間帯に、高台のしっかりとした避難場所で、自治体の用意してくれた水と食料を支給してもらい、ある意味 「お客様扱い」 されながら、不安なく眠れたことも大きい。あのまま家に留まっていたら、まんじりともしなかったろう。

本当に本当に、避難の要請には早めに従う方が身のためである。これは命の問題なのだから。

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2018/07/08

「数十年に一度の気象災害」 が毎年ある時代

西日本の豪雨被害は、大変な規模になっているようだ。下の画像は 7月 7日時点の 72時間降水量を示しているが、その後に岐阜県などでも雨量が増し、さらに北日本にまで被害は広がりそうだ。

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ニュースによると、8日の朝の時点で死者の数が 50人を越していて、さらに増えそうだ。気象情報が発達していなかった前世紀には、このくらいの規模の被害がざらにあったが、今世紀に入ってからは記憶にない。

思えば、最近は 「記録的大雨」 とか 「過去に経験したことのない大雨」 とかいう言葉で表される気象災害が頻発している。ニュースを聞きながら、「おいおい、『数十年に一度の気象災害』 って言葉は、去年も一昨年も聞いたよな」 と、思わず呟いてしまった。そんなのが毎年起こってたまるものか。

近頃は気象の傾向が変わってしまったんじゃないかと思う。「何でもかんでも温暖化のせいにするな」 という人もいるが、これなんか温暖化と無関係とは思われない。

最近は極地の氷が溶けてしまっているという。だったら、地球上の水が氷として固定される割合が減って、「雨となる水の在庫」 が増えているのだから、ただでさえ暖かくなった地球上で蒸発して雨雲になり、地上に降り注ぐという、水の循環の総量が増えているのだろう。

CO2 削減に真剣に取り組まなければならない。野放図にクルマのエンジンをかけっぱなしにしたまま長時間駐車したり、エアコンをかけっぱなしにしたりといった行為は、確実に自分の首を絞めているのだ。

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2018/07/07

「コンパラゲ」 「ウドンゲ」 という名の花の正体

久しぶりの 『無門関』 ネタ。 今回は 「拈華微笑」 (「ねんげみしょう」 と読む) という公案を斜め方向から考察する。

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原典を書き下すと、次のようになる。

世尊、向井、霊山會上に在って、花を拈じて衆に示す。この時衆皆黙然たり。唯迦葉尊者のみ破顔微笑す。世尊曰く、吾に正法眼藏、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門あり、不立文字、教化別傳、摩訶迦葉に付嘱す。

これだと 「意味分からん」 ということになってしまうので今の言葉で説明すると、大方こんな具合になる。

ある日お釈迦様が説法に現れたが、この日は何も言わずに、ただ手に持った花を捻って、微笑されるだけだった。集まった人たちはそれを見ても釈迦の真意を理解できず、ただ呆然とするだけだったが、独り迦葉 (かしょう) 尊者のみがにっこりと笑った。お釈迦様はそれを見て、「言葉として現せない深い真理を、今、迦葉に伝えたぞ」 と宣言された。

というわけで、迦葉は釈迦の後継 (第二祖) と伝えられている。仏法の深い真理は、究極的には 「不立文字」 (「ふりゅうもんじ」 と読む。文字として表現するのは不可能ということ) とされているのだ。

で、お釈迦様が 「言葉にできない仏法のシンボル」 として用いたのが、たまたま 「手に持っていた花」 というわけで、原典には何の花かは記されていない。ただ 「花」 とあるのみだが、古来から 「金波羅華」 (「コンパラゲ」 と読む) の花だったと伝えられている。

ところがこの 「コンパラゲ」 というのは、植物図鑑にも出てこないし、手持ちの 『大辞林』 にもその項目すらない。ググってみても今イチよくわからないだけでなく、そもそも ATOK では 「こんぱらげ」 と入力しても変換されないので、単語登録が必要なほどだ。「謎の花」 である。古来から 「金波羅華とは蓮の花」 という人が多いが、決定的なものではない。

「優曇華」 (ウドンゲ) の花だったとの説もある。そしてさらに面倒なことには、この 「優曇華」 というのも、Wikipedia によると 「実在の植物を示す場合、伝説上の植物を指す場合、昆虫の卵を指す場合とがある」 (参照) ということになっている。

実在の植物としては、「日本国内では熊本県山鹿市と長崎県佐世保市のみに自生するアイラトビカズラ、南アジア原産のクワ科イチジク属の落葉高木、フサナリイチジクをウドンゲにあてる場合がある」 とされ、伝説上の植物としては 「仏教経典では、3000年に一度花が咲くといい、その時に金輪王が現世に出現するという」 とある。

ついでだから紹介しておくが、「他の物に産み付けられた昆虫クサカゲロウの卵塊をいう」 とも書いてある。さらにバショウの花をウドンゲと呼ぶことがあるというのだから、改めてその正体探りをしてもあまり意味はないだろう。

とにかく 「仏法を象徴するに相応しい、美しい花」 と思うほかないようで、「金波羅華」 や 「優曇華」 とは何かという命題そのものが、不立文字のようなのである。

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2018/07/06

オウム真理教事件での死刑執行に絡めて言ってしまう

朝っぱらからオウム真理教事件の麻原彰晃の死刑執行が報じられ、その後に残る 6人の死刑執行も発表された。これ、大方が指摘するように、このタイミングでの死刑執行にはかなり政治的な判断があったものと考えられる。

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さて、ここで私が思い出したように論じたいのは、オウム真理教事件そのものについてではない。「死刑制度」 についてである。私はこのところずっと、「自分は死刑制度廃止論者」 と思っていたのだが、このブログでは、そのことについて表明しそびれていたことに気付いた。

2008年 8月 1日の "死刑制度では旗幟鮮明じゃない私" という記事では、態度を鮮明にしておらず、2009年 12月 23日の "死刑制度に懐疑的になりつつある私" という記事でも、「死刑廃止」 とまでは言い切っていない。吾ながらズルい態度を保っている。

私が最後に死刑制度について触れたのは一昨年の 11月 28日で、その記事のタイトルは "死刑制度と被害者感情をセットで語らない" というものだった。殺人事件被害者の遺族の多くは、犯人をぶっ殺してしまいたいほど憎んでいるだろうが、だからといって、国がその代理で犯人を殺してしまうというのは、単純な 「復讐の肯定」 になってしまうと述べている。この記事は、死刑制度に関する私の考えがかなりきっちりまとめて書かれているので、よかったら読んでいただきたい。

その年の 6月 11日には、"「自殺できないので死刑にしてもらおう」 という虫のよすぎる了見"、2009年 12月 23日の "死刑制度に懐疑的になりつつある私 »" という記事で次のように書いている。

私は池田小殺人事件の宅間某のケースについて触れている。宅間という男は、「おぉ、俺は死にたいんじゃ、さっさと死刑にしてくれ」 とうそぶき、その望み通り、異例の早さでさっさと死刑を執行してもらえたようなのだ。なんというアフターケアのよさだろうか。

人生に絶望して死にたいのだけれど、自殺する踏ん切りもつかず、だったら思い切り無差別大量殺人をし、今まで自分をないがしろにしてきた世間を見返し、思う存分に騒がせて自分に注目を集め、その上でさっさと望み通りに国家の手によって殺してもらうという虫のいい犯罪が、最近いくつかみられるのである。

これでは、死刑制度が無差別大量殺人事件を起こすインセンティブになりかねない。実際に、そうとしか思われない事件が最近散見されるのである。というわけで、これらの記事を書いた時点の私は、「死刑制度の凶悪犯罪抑止力はかなり弱まっていて、逆の力になる場合も生じている」 とはっきり認識しており、最近になってやっと踏ん切りがついて、「死刑制度廃止論者」 になったのである。

遡れば私は 2006年 4月 12日の "なぜ殺してはいけないか" という記事の中で、人を殺してはいけないのは、"「殺す自由」 は 「生きる自由」 を上回らないから" と、単刀直入に書いたことがあり、この考えは今でもまったく変わらない。人を殺してしまっては、被害者の 「生きる自由」 を完全に奪ってしまい、修復不可能だから、殺してはならないのである。言い切れば単純な話だが、詳しくはリンク先をご覧戴きたい。

この記事の中で私は、次の場合だけは態度を保留すると書いている。

「崇高な覚悟の自殺 - 切腹」 などの 「介錯」
「安楽死」
「正当防衛」 (相手がこちらの 「生きる自由」を奪おうとしたので)
「戦争」 (一応は、納得済みでの殺し合いなので)

そして、"「死刑執行」 を挙げなかったのは、それは 「殺す自由」 というよりは、制度で強制的に定められた 「果たすべき業務」 とみる方がいいからだ" と付け加えているが、最近は、「死刑」 という制度を廃止すべきという考えまでまで辿り着いたということだ。

そして今回のオウム真理教関連 7人の死刑執行に関しては、そのタイミングからして言ってみれば 「死刑制度の政治利用」 とも見ることができるので、ますます嫌な感じがしてしまうのである。

【7月 10日 追記】

「死刑制度廃止」 という考えに辿り着いている私ではあるが、実際には簡単に廃止できるなんて思っていない。とても難しい問題だから、そんなに簡単に結論は出ないだろう。

というわけで、内心としては 「死刑判決が出ても、とりあえず実際には死刑執行しない」 ということで、しばらく運用すべきだと考えている。要するに 「実質終身刑」 ということで行けばいいんじゃなかろうか。今回みたいに 「一度に 7人も死刑執行」 なんていうのは、ちょっと人騒がせすぎる。

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2018/07/05

人間、普段から笑われ慣れておくことが大切

「千日ブログ」 の 「気軽に怒る・叱るをして殺される日本人・韓国人が多い フィリピンでは大使館が注意喚起するほど」 という記事を興味深く読んだ。日本や韓国では上司、上役の立場にある人間が公衆の面前で気軽に部下を叱責する傾向があるが、外国でそれをやると理不尽なパワハラと受け取られ、フィリピンなどではそれが原因で日本人、韓国人の上司がフィリピン人の部下に殺されてしまうことが少なくないという。

こうしたことが生じるのは、日本や韓国では 「上司や目上の人。お客様が偉すぎる」 からと分析されている。「お客様は神様です」 なんて言ってた国民的歌手がいたが、上司や上役も同様で、従業員や部下は逆らえない。しかし本来、客と従業員、上司と部下は、人間として 「神、法のもとに」 平等なのである。だから場所をわきまえ、理を尽くして穏やかにやるべきなのだが、日本、韓国では人前でも頭ごなしに叱責する人が多い。

「千日ブログ」 のこの記事には、「(日本代表の) 人権人道大使という肩書の方が、国連の会議で 『シャラップ!』 と怒鳴りつけた」 という、びっくりするような話も紹介されている。

これ、5年も前の話で、私はリアルタイムでは知らなかったことなのだが、上田秀明という元外交官が、政府代表として出席していた国連拷問禁止委員会という会議で、信じられないブチ切れ方をしてしまったようなのである。

コトの経緯を手短に記すと、「日本の被疑者取調べには弁護人の立ち合いがない」 などとして、アフリカ・モーリシャスの委員から、「日本の刑事司法は中世的」 と非難された。これに対して上田氏は、 「日本はこの分野では世界で最も先進的だ」 と開き直り、会場の失笑 (?) を買った直後に  「笑うな! なぜ笑うんだ」 と叫び、「シャラップ、シャラップ!」 と 2度繰り返したということになっている。

この経緯が YouTube に公開されており (上の動画参照)、それを見ると何よりまず、当時は仮にも外交官だったはずの上田氏の、英語の下手さ加減に驚かずにはいられない。この人、Wikipedia によると 「1969年(昭和44年) - ハーバード大学大学院卒業」 ということになっている (参照) が、この程度の英語では、友達できなかったろうなと思うほかない。

で、いきさつとしては、Sora News によれば、モーリシャスの委員からは、日本の刑事取り調べは “medieval” (「中世的」 とか 「古くさい」 とかいう意味ね、念のため) という単語で批判されたもののようだ (参照)。上に貼っておいたビデオによると、上田氏はそれに対して "Japan is not in the middle age." と言っている。

これ、"the Middle Ages" と複数形で言えば 「中世」 という意味になるが、単数形で言っているので、「日本は中年じゃない」 と聞こえちゃう。私としても初めは 「(自分は中年のオッサンだけど)、日本はそうじゃないからね」 というジョークをかましたんだと思ったよ。こういう場合は、お付き合いでも笑ってあげるのがマナーでしょ。

ところが当人としては 「もろマジ」 だったようで、会場に笑いが走るといきなりブチ切れて、”Don't lagh! Why you are laghing?" と怒鳴る。仮にも外交官なら "Why are you laghing?" と言って欲しかったが、なにしろ洒落の通じない人だから、頭の中がぶっ飛んじゃったんだろうね。

で、"Shut up, shut up!" (これ、「黙りやがれ!」 的なニュアンスね) と 2度繰り返すと、さすがに会場は凍り付いてしまう。そしてその後に "We are one of the most advanced country in this field, of course. That is our proud." なんて口走る。この英語も初歩的な間違いだらけだが、面倒だからくどくど書かない。

というわけで、日本の 「お偉方」 の中には、とにかく周りにペコペコされないと気が済まない人が少なからず存在するってことだ。こんなタイプの人が、自分の意に反して笑われちゃったりすると、突然トチ狂ってしまいやすい。

人間、普段から笑われ慣れておくことが大切なのだね。

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2018/07/04

「潜伏キリシタン」 ということ その2

6月 30日の記事 "「潜伏キリシタン」 ということ »" の続編である。

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私は 6月 30日の記事で、次のように書いた。

(世界遺産に) 登録する価値があるとすれば、「禁教期」 において、250年もの間、カソリックなのにバチカンの指導から隔離された信仰を継続してきたという、極めて特異な点だ。こうした状況では、日本独自のフォークロアリスティックなものに変化しないはずがないじゃないか。

私は長崎に旅行した際に隠れキリシタン関連の遺跡を結構訪問している。その印象から湧いたのは、「隠れキリシタンの信仰は、正当なカソリックとはかなり違っているんじゃあるまいか。そのあたりを、どうやって折り合いつけるんだろう」 という疑問だ。

そして、この辺りを明らかにした宗教学者、宮崎賢太郎さんの 『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』 という本があることを知り、さっそく Amazon で購入申込みをした。この記事は 「本が届いて読んでみてから、改めて書こうと思う」 と結んでいる。

で、早速詠んでみたのである。引き込まれるように読めた。この本の特徴は、第一章の 3ページ目に結論が書かれていて、それ以後はその論拠が丁寧に説明されていることだ。だから上に述べた私の疑問は、のっけから解けた。

いわゆる 「隠れキリシタン」 のほとんどは、自らの意思でキリスト教信仰を始めたのではなく、領主である 「キリシタン大名」 たちによって、強制的に洗礼を受けさせられ、改宗したことにされてしまったというのが本当のところのようなのだ。したがって彼らは、キリスト教の教義についてはほとんど何も理解していなかった。

彼らが守り通してきたものは、キリスト教信仰ではなく、日本的 「先祖崇拝」 と習合した信仰形態であり、先祖が大切にしてきたものを、自分の代で捨てるわけにはいかないという考えが、これほどまで長く続いてきた要因だった。

「神と子と聖霊の三位一体」 を根本教義とする西欧的に論理一貫したキリスト教は、潜伏キリシタンたちにはついぞ伝わらなかったもののようだ。日本にキリスト教を伝えたとされるフランシスコ・ザビエルはまったく日本語ができず、教義を具体的に伝える術を持たなかった。さらにそれを受け入れる側の日本の農民の教育水準も、ほとんど字を読めなかったので、教義を正確に理解することなど不可能だった。

彼らの理解のレベルでは、「新しい南蛮渡りの神様の御利益が大きいらしい」 という程度のもので、私としては、日本の民衆史の中で何度か繰り返された 「流行神」 の一つぐらいに捉えられたと考えると、理解しやすいのではないかと思う。。

だから、"「隠れキリシタン」 たちは当時の厳しい弾圧に耐えながら、純粋なキリスト教信仰を守り通した" というのは、ロマンに彩られた 「幻想」 で、実際には日本的な信心と習合しつつ、キリスト教本来の祈りの言葉も 「オラショ」 と呼ばれる具体的な意味のわからない呪文のような言葉に変わり、「よくわからない民間信仰」 となって受け継がれてきたというのが実際のところらしい。

つまり、「お稲荷さん信仰」 とか 「お地蔵様信仰」 というのと、本質的な違いはないようなのである。「そんなバカな」 と思われるかもしれないが、仏教にしても 「南無阿弥陀仏」 や 「仏教とは四無量心これなり」 という言葉の本来の意味を理解している日本人がどれほどいるかと考えれば、「そんなものか」 と納得がいく。いずれにしても、かなり 「雰囲気のもの」 なのである。「雰囲気のもの」 だけに正面切って捨てにくいのだ。

幕末の開国直後に日本にやってきたプチジャン神父が長崎に創建した大浦天主堂で、長い弾圧に耐えてキリスト教信仰を守り通してきた浦上の信徒たちと感動の 「再会」 を果たしたという逸話も、「飛躍しすぎ」 と断じられている。日本の信徒がプチジャンに 「吾らの胸、あなたの胸と同じ」 と告白したというのは、よく考えるとあり得ない。

実際には、日本の隠れキリシタンたちは、「自分たちが先祖から伝えられた信心の本家本元」 が、突然日本に来たプチジャン神父であるとは、急には認識できなかっただったろう。事実に基づいて推理すると、プチジャン神父が本国に感動的に報告するために、昔からある 「貴種流離譚伝説」 になぞらえて創作したとみるのが自然のようだ。

現代になって信教の自由が認められても、教会に戻らない 「カクレキリシタン」 (もはや 「隠れ」 る必要がないから、宮崎氏はカタカナで表記している) がいくらでもいる。それは、宮崎氏に言わせれば 「隠れてもいなければキリシタンでもないから」 で、「クリスチャンでもない人に 『なぜ教会に行かないのですか』 と問いかける」 ようなものだという。

宮崎氏は、「隠れキリシタンのロマン」 がいかに幻想であるかを、実証的に示してくれているが、これら 「幻想」 の元は、我々現代の日本人がキリスト教に対して抱く幻想によるものなのだろう。確かに現代の日本人は、キリスト教はお洒落でロマンチックな宗教と思っていて、そのイメージを 「隠れキリシタン」 にも投影してきてしまったようだ。

こうした 「幻想」 は、日本に本当のキリスト教が根付きにくい原因にもなっているようである。クリスマスを受け入れ、ミッション系の大学の学生は多いのに、キリスト教信者は、人口の 1%にも満たない。

キリスト教は、中世日本においては 「御利益の多い南蛮渡来の神様」 と受け取られ、現代では 「お洒落な小道具」 程度に思われているようなのである。

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2018/07/03

紀州田辺、来てよかった!

昨日は "「紀州のドンファン」 の地元に出張する" なんて、さもつまらなそうに書いてしまったが、南紀白浜空港から 1時間ほどバスに揺られて和歌山県田辺市に着いた途端に、忽然と気付いた。「そうか、ここは植芝盛平先生の出身地で、南方熊楠が終の棲家とした土地で、そしてなんと、武蔵坊弁慶の出身地でもあったのか!」

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駅前の観光案内所に立ち寄ると、このことが大々的に書かれている。そうか、忘れてたよ。恐縮だが 「紀州のドンファン」 なんてこの際どうでもいい。私のアイドル 3人のゆかりの地だったのだ。たまたま出張だから経費で来ることができたわけで、なんとまあ、ありがたいことである。

植芝盛平先生は合気道の開祖であり、恥ずかしながら私もその合気道の有段者に名を連ねる一人だから、大恩人である。田辺に来るまでその繋がりを忘れていたなんて、まことに申し訳ないことであった。

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というわけで、さっそく弘法大師の創建によると伝えられる高山寺というお寺を訪ねて、お墓参りさせていただいたよ。行ってみると、墓参に訪れる人が多いらしく、案内版がきちんと完備されていて、すぐにわかった。

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そして嬉しいことに、南方熊楠のお墓も同じ高山寺にある。こちらもすぐにわかった。とても質素なお墓で、案内版がなかったら見過ごしてしまいそうだ。いずれにしても、この 2人の偉大なる存在のお墓参りできたのは、望外の幸せというものである。

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もう 1人の弁慶の方は、どこにお墓があるのか知らない。仕方がないから、駅前の銅像の写真を載せておくにとどめることにする。私は歌舞伎の 『勧進帳』 を 何十回も見たせいか、義経より弁慶の方がずっと贔屓なのだ。

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最後の写真は、南方熊楠の住居跡の書斎である。奥の机は、手前の 2本の脚が少し短く切ってあって、やや傾斜がある。長時間机に向かっていても疲れないように、カスタマイズしちゃったものらしい。さすが南方熊楠らしいこだわりである。私も真似したくなったが、私のデスクは脚が金属製だから、無理だろうな。

さて、明日は本来の目的である仕事をして帰ることになる。晴れ男の私としてはチョー珍しく、雨になってしまうようだが、今日が天気に恵まれた (恵まれすぎてムチャクチャ暑かったが) から、よしとしておこう。

【7月 4日 追記】

天気に関しては、4日も大した雨にはならず、時々小糠雨程度のが降る程度で晴れ間の方がずっと長く、「大雨になる」 との予報は外れた。私の晴れ男伝説は、辛うじて守られたようだ。

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2018/07/02

「紀州のドンファン」 の地元に出張する

実は明日から一泊二日で南紀州に出張する。これはだいぶ前から決まっていた予定で、「せっかくだから温泉付きホテルに泊まりたいなあ」 なんて呑気なことを思っていたが、例の 「紀州のドンファン怪死事件」 で、呑気なことでは済まなくなった。

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ホテルの予約を先延ばしにしているうちに、マスコミが多数入り込んでしまったためなのか、「温泉付きビジネスホテル」 なんてのはかなりタイトになってしまって、なんだかわけのわからないホテルしか予約できないことになってしまった。どえらく迷惑な話である。

この怪死事件というのは、一時マスコミが騒ぎまくったが、今ではすっかり下火になってしまったようだ。よくわからん話である。まあ、せっかく行くのだから、多少はどんな事件なのか調べてみようと思い、ネットで検索したら、"紀州のドン・ファン悲しき虚栄 「オムツに大小漏らし、妻に毛嫌いされ…」 脱税、刺され、名字も変える" なんていう AERA の記事が見つかった。

ちょこっと読んで見ると、話題の野村幸助という人は、要するに金と女にしか興味のなかった人のようで、私みたいな者からみると 「なんてつまらん人生を歩んだんだ」 と思うほかないような生き方をしたみたいなのである。記事からは否定的教訓しか伝わってこない。

従業員にその人となりを訊ねても、「本まで出したけど、書いてある内容の半分くらいは、ハッタリです。自分で都合よく書いている」 なんて言われてしまう始末で、全然尊敬されていない。フツーは自分の務める会社の社長が死んだら、少しは殊勝なことを言うものだが、気の毒なほどの言われようだ。

まあ、紀州に行ってもこんな話とは無関係に、粛々と仕事をこなして、さっさと帰ってこようと思うばかりである。

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2018/07/01

税関での土産品押収という憂き目

神戸の朝鮮学校の生徒たちの母国北朝鮮への修学旅行で、持ち帰った土産品が税関で 「不当に押収された」 (参照) として、朝鮮総連が政府に抗議しているという記事が、左右両極の視点から話題を呼んでいる。(下の画像はクリックで拡大表示される)

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この問題で朝鮮総連の徐忠彦・国際統一局長は "「お土産まで取り上げたのは暴挙」 と述べたうえで、米朝和解の流れが出てきた中で、「唯一、日本政府だけが敵対行為に固執し、子どもの人権を踏みにじっている」 などと非難した" と報道された。

これに関して、Twitter では 日本政府の行為に関して 「怒りに震える」、「絶対に許せない」 などと非難の tweet が相次ぐ一方で、「税関は法に従っただけ」、「法律的に持ち込めないものがあることを、生徒に指導しなかった学校の責任」 などとの、政府擁護の tweet も相次いだ。

フツーに考えれば、朝鮮学校はしょっちゅう 「里帰り」 の修学旅行をしているのだから、いくら土産だろうと、北朝鮮製の品物は日本国内に持ち込めない状況になっているということは、認識していたはずだ。その上で、生徒たちが土産物として持ち込もうとしているのを 「黙認」 していたことになる。

こうした状況下では、少なくとも 「運が悪かったら税関で見つかって、押収されるリスクがあるよ」 という客観的な可能性認識を、生徒たちに了解させておくべきだったと思う。「運が悪かったら」 というのは、多分これまでも、見つからずに持ち込めたケースがいくらでもあっただろうからだ。

で、総連側はそれに関してつまびらかには触れていないが、「(今回に限って) 強引に押収というのは不当弾圧だ」 と言いたいのだろう。しかしこういうのを、フツーは 「感情論」 と言う。

一方、押収した税関の側の論理は 「法に従って粛々と任務を遂行しただけ」 ということになるのだろうが、これまでは見逃していたケースもいくらでもあるのだろうから、見方によれば 「非人間的な官僚主義」、「嫌らしい政治的な動き」 ということになる。法律論として見れば、総連側に勝ち目はないが、「人間としてどうか」 という視点に立てば、いろいろな見方が出てきても、そりゃあおかしくはない。

このニュースを読んで私が真っ先に思い出したのは、40年近く前の経験である。私はその頃、年に一度はドイツに出張していて、帰りにはいつも 1メートルぐらいあるドイツのソーセージを数本、お土産に買っていた。私は今は肉は食わないが、その頃は、ソーセージは好物だったのである。

ところがある時、税関でそのソーセージが見つかり、押収された。肉製品は国内持ち込みできないというのである。「ありゃ、これまで何度も持ち込んでたんだけど」 と言うと、税関担当者は 「まあ、それは聞かなかったことにしておきましょう」 なんて言う。まあ、妥当な反応だろうね。

で、仕方なく 「承諾書」 みたいなのにサインさせられて 巨大ソーセージ数本を差し出した。「持ち込みせずに、この場で食っちゃってもダメ?」 と聞くと、「それも聞かなかったことにしておきます」 なんて言う。まあ、ユーモアだけはある職員だった。

まあ、フツーに考えればプラスチック・フィルムで密封カバーされたソーセージが、ドイツ国内では安全に食えても、日本に持ち込んだ途端に害になるなんてはずはない。だからそれまでも、持ち込んだものをおいしく食っていたのである。ただ、私は遵法主義の立場から 「不当な押収だ」 なんて抗議はしなかった。

というわけで、税関で残念な目に遭ったことがあるのは、何も朝鮮学校の生徒だけじゃない。私だって、相当に残念な思いをしていて、その時の気持ちは今でもありありと思い出すのだよね。

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