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2019/03/17

筑波山の姿と、ニュージーランドの大量殺戮事件

東海道新幹線に乗って見ればわかるが、富士山は三島付近から眺めるのが一番迫力がある。そして先月 19日には "「自分の家から見る富士山が最高」 という三島市民" という記事を書いた。

190317

三島ではただでさえ富士山がきれいに見えるのに、その中でも 「我が家から見える富士山が最高」 と言い張る市民が多い。なにしろ 「我が家から見る富士山はちゃんとポーズを決めてくれるし、光線の具合がいいと、スマイルだってしてくれますから」 なんてマジに言う大人が少なくないのである。

これ、ある意味自然なことで、山というのは 「見慣れた姿」 が一番美しく感じるものだ。先月の記事の中でも次のように述べている。

例えば我が故郷の鳥海山は、反対側の秋田県から望むとまったく別の印象になる。さすがに北斜面だけに、山形県から望む穏やかな姿とは異なる厳しさを感じさせるのだ。それで秋田県人は 「山形側から見る鳥海山は間が抜けてる」 なんてことを言う。それに対してこっちは 「秋田から見るとちょっと貧相だ」 なんて言うわけだ。

それは筑波山にしても同様で、「つくば市内からの角度が最高」 と言う人が多いが、他から見るのも変化があってなかなかいいというのも事実である。

ところで今日は、茨城県内の筑西市にある下館 (「しもだて」 と読む) というところに用があって、クルマで行って来た。片道約 50km、往復で 100kmちょっとの運転になるのだが、この下館まで行くと、いつも眺めている筑波山をほぼ裏側から望むことになる。上に掲げた写真の上がいつも見ている筑波山で、下が下館から見る筑波山だ。

そしてご多分に漏れず、私の印象としては 「あれ、下館から見る筑波山って、『裏返し』 になっちゃうなあ」 なんて感じてしまったのである。しかし下館に住んでいる人間に言わせると、「つくば市側から見る筑波山って、アンバランスだよね」 ってなことになるようなのである。

かくの如くに、人間の感覚というのは 「慣れ」 とか 「馴染み」 とかいう要素に大きく左右されてしまうものなのだ。「絶対的な美しさ」 とか 「絶対的な価値」 なんて幻想に過ぎないのである。筑波山は見る角度それぞれに異なった美しさをもつのだが、自分の馴染んだ姿のみに執着すると、多様な価値がわからなくなる。

うどんの例をもち出せば、讃岐うどん派は 「博多うどんはコシがない」 と言い、博多うどん派は 「讃岐うどんみたいに硬いのは、うどんじゃない」 などと断じる。よそ者の私からすれば 「両方それぞれのおいしさがあって捨てがたいのになあ」 と思うのだが。

と、まあ、回りくどく卑近なことを言ってきたが、この度のニュージーランドの大量殺戮事件の容疑者の抱く 「白人至上主義」 というのも、「要するに幻想に過ぎない」 と言いたいわけなのだ。自分の属する狭い世界に異常に執着し過ぎて、他の世界が認められなくなったことの極端すぎる結果である。

馴染んだ価値観を重んじるのはごく自然なことだが、他の価値観の否定につながってはならない。視野は広く持ちたいものだと、つくづく思う。

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