カテゴリー「グルメ・クッキング」の40件の記事

2008/02/12

ラーメン vs カレーライス

煩悩則道場の ululun さんが、 「カレーライスは日本の国民食から外れつつあるのか」 という疑問に、とても論理的なアプローチをされているが、結論は 「わからない」 だそうだ。

私の直観的な印象は、「ラーメンばかりもてはやされすぎで、カレーへの関心が逸らされている」 というものなのだがどうだろう。

近頃、うまいラーメン屋が確かに増えた。私の学生時代は、ラーメンなんていうのは 「街の中華料理屋」 で供される、いわゆる 「中華そば」 が主流で、客としてもとくに 「うまさ」 なんてものは求めてなかったような気がする。腹が満たされさえすればよかったのだ。

ところが、いつの頃からか 「ラーメン道」 みたいなものがもてはやされてきて、いわゆる 「中華そば」 のイメージは廃れ、「ラーメン専門店のラーメン」 というのが幅をきかせてきた。街を歩けばそんなような店が増えて、競合も激しくなった。おかげで、ラーメンの世界は裾野が広がり、ピークも高くなった。

ところが、その一方でカレーライスは取り残されつつある。カレーの世界は今でも、ラーメンが既に過去のものとしてしまった 「中華そば」 的なレベルから脱していない。「街の食堂の定番メニュー」 に過ぎないのである。

「こだわりのカレー」 というのを供する店もあるにはあるが、多くはその店の代表メニューというわけではない。中村屋の 「カリーライス」 にしても、今イチ、インパクトには欠けるきらいがある。

「カレー専門店」 というのも、確かにある。しかし、ラーメン専門店ほどの激しい競争に晒されていないから、店ごとのこだわりというのが、ほとんど感じられない。わずかに 「ココイチ」 がチェーン店としての存在感を発揮しているが、ラーメンの世界ほどのレベルには至っていない。

この原因は、多くのカレーが 「子供の味」 に終始しているからだと思うのだ。インパクトに欠けるのだ。多くの店でいうところの 「辛口」 を注文しても、ちっとも辛くないじゃないか。カレーはいつまで経っても、「黄色いあんかけめし」 から脱却できていない。

私は 「辛くてうまいカレー」 が食べたいのである。ココイチで言ったら 7辛レベルのもので、初めて 「カレーを食った」 という気がするのだ。カレーにこだわる客のニーズに応えるカレー店が少なすぎだ。

それから、「ご当地ラーメン」 があっても 「ご当地カレー」 というのがないというのも、カレーのマーケティングの限界を示している。イメージにラーメンほどの膨らみがない。

願わくは、本場もんの味を出せるインド人の店で修行した日本人が、「インド料理レストラン」 ではなく、「昼飯に気軽に食える本物のカレー」 といったようなマーケティングをしてくれることだ。そこからカレーの世界はどっと広がって、今のラーメンに対抗できるものになるような気がする。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2007/12/30

「正しい和食」 その後

昨年の 12月は、農水省による 「正しい和食認証制度」 の話題に花が咲いていた (参照 12)。予算が 2億何千万円だかついたはずなのに、あれから一体どうなったんだろう?

そう思って調べてみたら、どうやら今年 3月頃に、「認証制度」 から 「推奨マーク制度」 にトーンダウンして落ち着いたようなのだ。

農水省のサイトで調べてみると、「日本食レストラン認証有識者会議」 というのが、平成 18年 11月 22日の第 1回目を皮切りに、今年 3月 16日まで、3回開催されている。面白いことに、第 3回目は、名称が 「日本食レストラン推奨有識者会議」 に変更されている。

米国からは 「スシポリス」 との猛反発を受け、国内からも 「税金使ってやるほどのことか」 とか、いろいろな疑問の声が上がったことを背景に、4ヶ月足らずのうちに 「認証」 を 「推奨」 に格下げして落としどころを作ったようなのだ。

有識者会議の議論の模様は、「第1回海外日本食レストラン認証有識者会議における論点別にみた発言の概要」 という報告書をみるだけで、想像がつく。要するに、いろいろな意見がバラバラ出過ぎて、まとまりがつかなくなったもののようなのだ。

「実は日本でもきちんとした日本料理の定義はないし、認証自体は難しい」 なんていう、そもそもぶちこわし的な意見が冒頭で出されており、さらに、「国際問題にならないように留意したい」 という慎重意見もある。

また、「現在の日本食のトレンドがフュージョンであるとすれば、それを抑えるような認証はさけるべき」 というちょっとペダンチックな指摘が出される一方で、「認証にはある程度、権威を持たせるべき。中途半端はよくない」 というかなり強硬な意見もみられる。

というわけで、有識者懇談会は第 3回目の会議終了と同時に、認証制度をマイルドにした推奨計画に変更するよう松岡利勝農水相に提言し、使命を終えたもののようなのである。

この方向性は、第 2回目会議を終えて、第 3回目の予定を決めた際には、もう見えていたのだろうね。事前に有識者会議の名称が変わっていて、会議終了と同時に提言を行い、プレス発表までしちゃってるぐらいだから。(日本語では、こういうのを 「できレース」 という)

共同通信によると (元記事は削除されてるので、こちら から孫引きさせていただいた)、

提言によると、推奨マークは各国の日本食レストランから申請を受けて審査し、合格すれば交付する。(1)コメ、みそなど主要な食材 (2)調理技術 (3)味付けや盛り付け-などを総合判断する。

ということになったらしい。いつの間にか、「日本食レストラン海外普及推進機構 (JRO)」 なんていう組織が港区芝公園の一等地に設立されていて、「海外の日本食レストランに対し一定の推奨を行う取組」 を開始している。ああ、また役人の天下り先が一つ増えている。

まあ、それはそれでいいけど、実際に 「推奨を受けたい」 なんていう申請がどのくらいあがってくるものか、私ははなはだ疑問である。

本当にどこに出しても恥ずかしくない日本食レストランなら、わざわざこんな 「推奨マーク」 なんてもらわなくても、既に十分な 「のれんの力」 を持っている (船場吉兆のことは、ちょっと忘れていただきたい)。他の二流店と同じマークなんて付けたら、その他大勢と同列視されかねないから、「そんなものいらない」 ということになる。

オートクチュールのブランドが、「ウールマーク」 なんて付けないのと同じことだ。

実際には、このマークを欲しがるのは基準すれすれの二流店だろう。そうなると、マーク自体の 「ブランド力」 が、それほど大したものじゃないということになるのは目に見えている。要するに、「あんまり意味ないよね」 ということだ。

イタリア料理とタイ料理では、こうした認証制度があるらしいのだが、そんなものが実効的に機能している例を、私は 1件も知らん。あるいは、私が知らないというだけなのかもしれないが、私のような者でも知っているようでなければ、そもそも意味ないだろう。

こういうことは、ミシュランみたいな民間活力に期待する方がいいような気がするがなあ。(私は別にミシュランびいきってわけじゃないけど)

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/11/23

食い物の好き嫌いは 「記憶」 に左右される

今月 17日に、「味覚データベース」 ということを書いた (参照)。人間は、食い慣れたものの味はよくわかるが、食い慣れないものの旨い不味いは、わかりにくいという話である。

つまり、人間は食べ物を味わうにも、「味覚データベース」、つまり、「味の記憶」 に頼って味わっているようなのだ。

以前に似たようなことを書いた覚えがあって、自分のサイトの中を検索してみたら、「味覚の衰え」 という文章が見つかった。約 5年前に書かれている。「今日の一撃」 の更新にココログを使い始める前のことである。

私はこの文章の中で、"人間は 60歳になると味覚を感じる器官の 「味蕾」 が、20歳の頃の半分に減ってしまう" という説を紹介して、次のように述べている。

それを感じるのは、とても微妙な味わいのものを食べた時だ。「この食べ物は、このような味がするはずだ」 という、いわば 「味の記憶」 が働いて、それを確認しようとするのだが、その通りの味覚が得られていないような気がするのである。

私は既に 5年前に、自らの味覚の衰えを自覚してしまっていたもののようなのだ。5年前にそんなことなのだから、今となってはもっと味蕾が減って、味覚はさらに衰えているに違いない。

しかし、だからといって 「食の楽しみ」 が減っているわけでは決してない。それは、若い頃から食べ続けてきたことによる 「味覚データベース」 が、純粋味覚の衰えをカバーしてあまりあるほどに充実しているからだと思う。まさに、人は味の記憶力で食べ物を楽しんでいるのだ。

味蕾の数の減少で、純粋味覚は衰えているのだろうが、その分、他の要素には敏感になっている気がする。他の要素とは、5年前にも書いているが、「硬さ、柔らかさ、ねばり、あっさり感、喉ごし、舌触り、コシ」 などの食感だ。トータルな 「味」 は、味蕾で認識する純粋味覚だけではないのである。

私はどちらかというと、しっかりした 「歯応え」 を重視するタイプのようだ。いかそうめんの 「ぷりぷり・しこしこ感」 とか、よくできたそばの 「エッジ感」 とかは、えもいわれぬ満足感を与えてくれる要素である。

しかしその分、「舌の上でとろける感じ」 は、あまりぴんと来ない。大トロや極上霜降り牛肉などは、別に嫌いというわけではないが、あまりありがたいとも思わない。対費用効果があまりよろしくないから、自分の金で食おうとは、決して思わない。

これなんかも、実は、人間は記憶力で味わっていることの証明のような気がする。

高校時代に亡くなった祖母は、非常に病弱な人だった。晩年はとくに消化器官が弱まり、固いものは何も食えなかったのである。私は中学時代、共働きだった両親の代わりに、祖母のために、とにかく柔らかい料理をつくってあげていた。

まるで糊のようなおかゆ、箸ですくえば解けるほど柔らかいうどん、煮くずれかけた魚などである。そのくらい柔らかくないと、祖母は口にできなかったのだ。そしてこの記憶が、私の食感の好みを決定づけたような気がする。

あの時の記憶がちょっとしたトラウマとして残ったようで、私は、「病人じゃあるまいし、おかゆなんか食えるか」 とか 「舌の上でとろけるのがありがたかったら、縁日の綿菓子でも食ってろ」 とか、ちょっと極端なことを言い出す人になってしまったのである。

食い物の好き嫌いというのは、純粋な味覚とか食感とかいうよりも、「記憶」 に左右されている場合が多いのだと思う。ちょっとしたトラウマ的記憶に結びついた食べ物というのは、「そんなもの喜んで食べたら、自分のアイデンティティが損なわれる」 みたいな気になってしまうのだ。

その 「記憶」 が、潜在意識の中に埋もれていて意識化されていないほど、自分の意志ではコントロールできず、どうしても食べられないとか、食べても戻してしまうとか、ちょっと病的なことになったりするんじゃあるまいか。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/11/21

ミシュランガイド 東京版ねえ

「ミシュランガイド」 初の東京版が話題になっている。東京の星付きレストランは、1都市としては世界最多の 150店だそうだ (参照)。

東京という都市の規模と、日本料理、寿司などを含むありとあらゆる種類のレストランの集積を思えば、そのくらいの数はあっても当然だろうが、どうせ、私にはあまり縁がない。

「どうせ縁がない」 と思いつつ、紹介されたレストランの名前を追っていると、1つ星の付いた 117店のうちに行ったことのある店を 3店も発見して、我ながら驚いた。蕎麦屋 2店に、フランス料理屋 1店である。長く生きていると、それくらいのことはあるみたいなのだ。

3店のうち、蕎麦屋 2店は自分の金で食ったが、フランス料理は以前の会社の金である。自分の金で食った蕎麦は大層おいしく、満足したが、会社の金で食ったフランス料理は、あまり印象に残っていない。だから私はメシは自分の金で食うべきだと、常日頃から思っているのである。

実は、1つ星のフランス料理屋で過ごした 1時間余りは、私にとっては今でも 「無駄な時間を過ごしてしまった」 と悔やまれる時間である。それは料理が不味かったということではなく、その食事の間に、優雅な料理にふさわしい会話がちっとも弾まなかったからだ。要するに、あまり楽しい顔ぶれじゃなかったのである。

私は、旨い酒と旨い料理は、楽しい会話、談論風発と切り離しては考えられない。ただしんねりむっつりと、「さすが旨いね」 「すごい、おいしいね」 なんて、べたべたに即物的でふくらみのないことばかり言い合いながらメシを食っても、全然つまらないじゃないか。

メシというのは、気の合う仲間と、目の前の料理から飛んだ話題で盛り上がりながら食うのが、一番旨いのである。だから、3つ星だろうが 1つ星だろうが、大衆酒場だろうが、まともに料理してありさえすれば、ランク付けに頓着するなんてことは、それほど意味のあることとは思えないのだ。

話のふくらまない顔ぶれと 3つ星レストランで、接待費でメシを食うよりは、1人で静かに想像力をふくらませながら、無印のめし屋で自前で食う方がずっとましだ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/11/17

食べ物の偽装問題にはシニカルな私

船場吉兆の消費期限や産地の偽装がばれて、大変なイメージダウンの 「吉兆」 というブランドだが、蕎麦屋の 「藪 (やぶ)」 ほどじゃないにしても、暖簾分けやらなんやらで、どこに行っても 「吉兆」 という店がある。

いくら高級店でも、これだけ拡大してしまったら、そりゃあ、何かあるさ。

高級料理店なんぞにあまり縁のない私だが、一度だけ 「吉兆」 という名の店で食事をしたことがある。以前勤めていた会社で上司と一緒に米国に出張したとき、マンハッタンの 「吉兆」 という店で接待を受けたのである。上司と一緒でなかったら、こんな店には連れて行ってもらえなかっただろうが。

で、その時の印象だが、サービスはさすがに行き届いているけれど、料理は 「フツーにおいしい」 程度のものだった。やたらと高い値段だったようだが、それは料理に払った値段ではなく、「吉兆」 というブランドに払った値段だったと思う。会社の金でなかったら、誰も行かない。

しかし、世の中にはブランドと値段でだまされる人がいくらでもいる。消費者の味覚なんて、はっきり言って当てにならないのである。いくら高級料理といっても、ブラインドテストをしたら、ほとんどの人はさっぱりわからないのだ。

エビアンとヴォルヴィックとクリスタルガイザーの違いとか、北海道産と信州産の蕎麦粉の違いならきちんとわかる私でも、比内鶏とブロイラーの違いなんて、多分わからない。それは、普段、比内鶏なんて食いつけてないから、味覚のデータベースにないからだ。

「ウチの主人は料理にうるさくて、お米はコシヒカリしか食べないんですよ」 なんていう話をよく聞くが、それは、毎日コシヒカリのご飯を食べているから、体内の味覚データベースにしっかり記録されているからだ。ほかの米を使ったご飯を食べさせられると、「ん? ちょっと違うな」 とわかる (かもしれない) だけの話である。

だから、コシヒカリしか食べないご主人が、料理全般にグルメというわけでは決してない。多分、殆どの人は比内鶏とブロイラーの区別はつかないだろう。逆に、お米は何でも構わなくても、地鶏しか食ったことのない人は、ブロイラーを食わされたら、「何だ、こりゃ?」 と思うかもしれない。

高級料理店というのは、一般人の味覚データベースにない料理を、「おいしい」 という幻想付きで、高い値段で食わせる店なのだと、私は思っている。

その幻想が通用しない者にとっては、A 5 ランクの最高級牛肉でも、「ちょっとミステリアスなものを口に入れちゃった」 ぐらいの感慨しかわかないというのは、今年 9月 14日のエントリーに書いたとおりである。

だから、一連の食べ物関連の問題については、そりゃ、偽装は悪いことには違いない (「詐欺」 という立派な犯罪だしね) けれど、私個人としては、正面切って攻め込む気にはなれないのだよね。私が責めなくても、それについては世の中の大勢が責めるから、いいのである。

赤福だの白い恋人だの、比内鶏だの、但馬牛の何とか漬けだのは、どうせ、1年に 1度も食わないから、個人的にはあんまり実害ないし。牛乳の賞味期限だって頓着してないし。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/09/14

最高級牛肉って、本当においしい?

近頃、しゃぶしゃぶをメイン料理にした宴会に出る機会があった。しかも、肉は掛け値なしに最高級 (A 5 ランク) の前沢牛である。

ところが、申し訳ないけれど、私は最高級の牛肉というものに、さっぱり魅力を感じない人なのである。で、宴席ではもっぱら野菜とうどんばかり食べていた。

いや、お付き合いで、その最高級霜降肉を 2枚ばかり食べた。1枚は刺身でポン酢をつけて、もう 1枚は、さっと湯に通して醤油だれにつけて。まあ確かに、舌の上でとろける極上品ではあった。しかし、それだけのことで、3枚目を食おうという気にはなれなかった。

そりゃ、不味いとは思わない。しかし特段うまいとも思わないのである。率直に言うと、「ちょっとミステリアスなものを口に入れちゃった」 という感覚なのだ。常温で放っておくと、だんだんベトベトになっていく様を眺めているだけで、なんだか気持ち悪くなってきちゃうし。

廻りの人たちが 「おいしい、おいしい」 と感激して食いまくるので、だったら、せっかくの肉も彼らに食ってもらう方が本望だろうと思い、私の管轄からはすっぱりと外させていただいたわけだ。

前にも書いたことがあると思うのだが、そんなに舌の上でとろける食感がありがたければ、縁日の綿菓子でも食っていればいいじゃないかと、私は思ってしまうのだよ。だから、マグロの大トロなんかも、ちっともありがたくないのだ。

私は元々、あんまり牛肉を食おうという気にはならないのだが、食うなら食うで覚悟を決めて、米国中西部流のわらじみたいな歯ごたえのステーキをわしわし食う方が、ずっと性に合っている。その気になれば、1ポンド (約 450g) なんて軽い。

BSE の牛肉はもちろん食べたくないが、日本の最高級霜降り肉というのも、十分 「ビョーキの牛」 のような気がしてしまうのだ。少なくとも健康じゃない。超メタボ牛というべきか。あんまり自分の体の構成品に加えたくないと思うのである。

前沢の牛さんたちには、申し訳ないけど。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/10

男の家庭料理

最近、何かと忙しくて疲れがたまっているようで、昨夜も日付が変わる頃に、ほとんど気絶するようにばったりと眠ってしまっていた。

というわけで、日付が変わった直後の更新は今日もならず。夜中や朝イチでチェックしてくださる常連さんには申し訳ないが、「毎日更新」 だけはちゃんと続けるので、よろしく。

「忙しい」 といっても、忙しさの種類がちょっと違うが、最近、周囲に妻の介護をする男が増えている。平均的には女のほうが男より長生きだが、それでも、妻の方が先立つというケースだってないわけじゃない。身近な例では、妻の親や私の親の場合もそうだった。

私の母は今年の 5月に亡くなったばかりだが、父はそれまで 7年間も妻の介護を続けたのである。一口に 7年というが、それはそれは大変なことである。寝返りすら自力ではできない者の介護をすると、まとまった自分の時間などというのは、1日中ほとんど取れない。

老齢の妻の介護をする夫の共通した悩みのひとつは、食事の世話である。それまで台所になんか立ったことのない男にとっては、なおさらだ。なにしろ相手は病人だから、スーパーの惣菜を食べさすわけにもいかない。病人にも食べやすい献立を考え、自力で素材を買い、料理しなければならない。

そうなると、家庭料理に慣れない男のやることとて、つい手がかかりすぎるのである。料理の作り方なんていう本を買うにしても、男が選ぶのは、なぜか手の込んだしっかりした料理を作らせたがる本が多い。

レシピを読むと、材料はニンジン 1/2本とか、サラダオイル小さじ 1杯とか、赤味噌 30g とか、やたらと話が細かかったりする。「適量」 とか 「お好みで」 なんてことはあまり書いてない。そして、几帳面な男ほどしっかりとマニュアル通りに作りたがる傾向が強く、それで疲れてしまったりするのである。

「料理なんて、もうちょっと手抜きでいいんじゃないの?」 と言うと、「その手抜きの仕方がわかるようになれば、一人前なんだけどね」 なんて返事が返ってくる。気の毒に、それまでは料理が 「非日常」 だったために、ちゃちゃっと手軽に作ることができないのだ。

「男子厨房に入るべし」 なんて言って、やたらと気張った 「男の料理」 というのを推奨する向きもあるが、あれらの多くは、せいぜい半月に 1度でいい類の料理である。毎日そんな気合の入りすぎたものを食わされたら、家族はかえって気苦労である。

その辺、私なんか中学生の頃から、共稼ぎの両親の代わりに病気がちの祖母の夕飯を適当に作ったりしてたから、「日常的お手軽料理」 には慣れている。学生時代にアパート暮らしをしていた頃も、料理に手間なんかかけたくなかったから、ありあわせでちょこちょこっと作っていた。

男もフツーの家庭料理を作れるようになっておかなければならない。そうでないと、「妻に先立たれた男は 5年しか生きない」 なんてことになってしまう。まあ、妻のほうが長生きしてくれる方が、確かにずっと楽なのだが。(妻にとってはどうだかわからないけど)

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/05/29

食の 「ありがたさ」 と 「ありがたみ」

今でこそ納豆なんて、日本中どこのスーパーでも買えるが、私が学生の頃は、東京に来て初めて納豆というものを見たとか食ったとかいう関西人が、案外多かったものである。

ましてや、「辛し明太子」 とか 「ししゃも」 なんて、かなりレアな食材で、九州とか北海道に行かないと食えなかった。

昔は、大学に入って上京した関西人が、「東国で名高い 『納豆』 というものを試してみよう」 なんて思って、当時全盛を誇った 「定食屋」 というスタイルのメシ屋に入り、生まれて初めて実物の納豆を見た途端にカルチャーショックを覚えるなんてことが、ごく普通にあったのである。

さらに、そっと店のおばちゃんを呼び、「な、な、おばちゃん、この納豆、腐っとるで。見てみ、糸引いてるやん。黙っといたるからな、こっそり新しいの持ってきて」 なんてことを言って、恥をかいてしまった関西人も、一人や二人ではなかったという。

辛し明太子なんてものも、今ではどこのスーパーでも買えるが、以前は北九州に旅行した際の 「おみやげ物」 だった。だから、身近に北九州に旅行した者がいないと、辛し明太子というものも 「幻の食品」 だったのである。

私が中学の頃、北海道に単身赴任した父から届く手紙に 「今日は、ストーブで 『ししゃも』 を焼いて食べた」 なんて書いてあると、「ししゃもって、何だ? 俺も食ってみたい」 なんて強烈に思ったものである。

それが今や、日本中に広まってしまった。しかし、本物のししゃもは供給不足なので、日本で流通している 「子持ちししゃも」 の 90%は 「カベリン」 という代用品なのだということは、既に広く知られるところとなってしまった (参照)。しかも、オスの腹にまで注射で卵を入れて 「子持ちししゃも」 化させているという噂まであるが、本当のところはどうなんだろう。

最近になってにわかに全国区になったものには、沖縄の 「ゴーヤーチャンプルー」 がある。私なんか、これは大好きである。

さらに、上野駅構内の売店を覗けば仙台名物の 「ずんだもち」 が一年中売られ、東京駅構内では広島土産の 「もみじまんじゅう」 が幅をきかせる。今どき、本当に現地に行かないと食うのが難しいという食材は、あまりなくなってしまった気がする。

こうなると、食べたいものを気軽に求めることができるというのは、ありがたいようだが、「ありがたみ」 ということになると、ちょっと薄くなっているような気がする。コンビニエントな 「ありがたさ」 と 気分としての 「ありがたみ」 というのは、違うのである。

そんな中で、今でも 「幻の食品」 といっていいものに、九州の 「おきゅうと」 と 「からすみ」 というものがある。ところが、このうちの 「おきゅうと」 というものは、最近になって私にとってもお馴染みのものであるということがわかった。

というのは、「おきゅうと」 は、私の生まれた庄内地方では 「えご」 といわれるものとほとんど同じものであるようなのだ (参照)。南里商店のおきゅうとなんて、私の知っている 「えご」 にそっくりじゃないか。なんだ、「ありがたみ」 が一挙にうすれてしまったなあ。

となると、正真正銘の 「幻の食品」 は、「からすみ」 にトドメをさすように思われる。これは、博多に出張するたびに空港の土産屋でそそられるのだが、やたらと高いので、つい辛し明太子の方を買ってしまうため、まだ食ったことがないのだ。まだまだ 「ありがたみ」 度は高い。

あ、それから、宮城県の珍味 「ほや」 はとてもおいしいから、仙台に旅したらぜひ試していただきたい。まだそのへんのスーパーで買えるほど一般化してないから、「ありがたみ」 度も維持されてるし。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/02/23

「ホッピー」 というものを試してみた

ホッピー」 なる飲み物があるということは、何十年も前から知っていたが、なぜかこの年まで飲んだことがなかった。で、急に思い立って、飲んでみることにしたのである。

「ホッピー」 とは、基本的に清涼飲料水である。だが、アルコール分が 0.8%含まれていて、見た目はもろにビールのようなのだ。

いわば、ノンアルコールビアの草分けのようなものである。ただ、オッサンたちがゴルフ帰りにアルコール抜きの乾杯をするためというニーズには、ほとんど適用されない。0.8%とはいえ、アルコールが含まれていないわけでもないし。

ホッピーのニーズというのは、酔わないためというよりは、安上がりに酔うためということにある。酔わないためにアルコール抜きなのではなく、安上がりにするためにアルコールを抜いてあるのだ。飲むときに焼酎を加えて、「ビールのようなカクテル?」 に仕立てるのである。

「ホッピー」 という名称は、元々の清涼飲料水の商品名であると同時に、焼酎を加えて酔えるようにしたカクテルの名称でもある。搾菜 (ザーサイ) が野菜の名前であると同時に、その野菜を原料にした漬け物の名前でもあるようなものだ。(我ながらいい例えである)

私が昨日用意したのは、西友で買ってきた 「ホッピー 330」 (330ml、121円) と、宝焼酎 の 「タカラカップ」 (アルコール 25%、220ml、183円)。合計 304円だが、焼酎は半分ぐらいしか使わなかったので、小ジョッキ 1杯で、実質 215円ぐらい。

これらを冷蔵庫で冷やして、ついでにジョッキも冷やす。この作法を 「三冷」 というらしい。そして、まず焼酎を半分ちょっとぐらいジョッキに注ぎ、次いで、ホッピー 1瓶をどばっと勢いよく注ぐ。

本当は 焼酎 1 にホッピー 5 の割合がいいらしいのだが、ついなりゆきで、1:3 ぐらいになってしまった。で、ご覧の通り、見た目はもろにビールだが、アルコール度数はざっと計算すると、約 7%と高めである。

おそるおそる、一口飲んでみる。思ったほどへんてこな味ではない。それどころか、その辺の発泡酒なんかよりは旨い。本物のビールのようなコクとかキレとかとは無縁だが、口当たりがよくて飲みやすい。つまみは、バタピーとか柿の種とか、安っぽい乾きものが合いそうだ。でなければ、モツ煮込みとか。

あまりの飲みやすさに、二口めはほとんどイッキ飲みで開けてしまったのだが、さすがにベースは焼酎である。しかも、ビールの倍ぐらいのアルコール度数にしちゃったので、その後、5分ぐらいして、「ありゃ?」 と思うほどの酔いが急にきた。ビールの酔いは緩やかにくるが、ホッピーの酔いは急に来る。

白状するが、このおかげで、昨日の当コラムの更新はちょっとだけ難儀だったのである。

これさえ注意すればなかなかオツなものだが、単に値段だけを考えれば、今やホッピーより発泡酒の方が安上がりなぐらいである。ホッピーは、単なる安上がりに酔える酒というより、今や、趣味の酒という意味合いももちつつあるのかもしれない。

ちなみに、雑誌 「酒とつまみ」 編集発行人、大竹聡氏の 『中央線で行く東京横断ホッピーマラソン』 という本がある。書店で見つけたら読んでみよう。この本について、著者自らラジオで語っているのは、こちら (Podcast で音が出るので注意)。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2007/02/15

マックとスタバで考えた

米国の米有力消費者情報誌 「コンシューマー・リポーツ」 が、スタバよりマックのコーヒーの方がおいしいと言っている (参照)。

もっとも、これはマックのコーヒーの中でもちょっと違う 「プレミアム・ロースト」 のお話ということで、私は永らくマックに縁がないので、日本でも味わえるのかどうかも知らない。

ただ、確かにマックのコーヒーは捨てたモンじゃないということは言えると思う。特別においしいというわけでもないが、ぞんざいな感じもしない。それに、あのハンバーガーとフレンチフライのキッチュな香りと味に合わせるために、最適化されているとは思う。

一方、スタバの方は、毎日いろんなブレンドを提供してくれるので、「これがスタバの味」 というイメージを構築しにくいところがある。だから、私は何年も口にしたことのないマックのコーヒーの味は明確に想像力の中で再構築できるけれど、スタバの味はそうはいかない。

この、味覚とか風味とか口当たりなどを想像の中で明確に再構築できるというのは、できそうでできないことらしい。何しろ、いろいろな食べ物、飲み物を口にして、瞬時に判断できるというのは、なかなか難しいことのようなのだ。

以前勤めていた職場で、食品関係の営業スタッフが、ミネラル・ウォーターの試飲をさせてくれたことがあった。3種類だったかのミネラル・ウォーターと、普通の水道水を試飲して、違いがわかるかというのである。

職場の連中が試飲して、「さっぱりわからない!」 とかなんとか盛り上がっているところへ、遅ればせながら私が登場して、ちょこちょこっと飲み比べてみたら、簡単にどれがどれだかわかってしまった。

同僚たちはびっくりして、「なんでわかるの?」 と聞く。しかし私には、こんな明確な口当たり、喉ごしの違いの区別が、どうしてつかないのかの方が理解できない。赤と白が視覚的に簡単に区別できるぐらいに、明確な違いである。

「どうして、こんなはっきりした違いがわからないの?」
「わからないよ、さっぱり!」

というわけで、私はそれ以後、フツーのおっさんたちが、「あそこの店は旨い」 だの 「不味い」 だの言うのを、信用しないことにしたのである。水の違いがわからん人が、どうしてメシの旨い不味いがわかるものか。

というわけで、私は、食い物、飲み物の味がかなりよくわかるようなのである。まあ、子供の頃から酒田の旨いもので育ったのだから、舌が肥えるのも当然だ。

しかし、私は食い物に贅沢は言わない主義である。おいしいものはおいしく、不味いものも、口に入れるのもはばかられるようなものでない限り、それなりに感謝して戴くことにしている。

それに、高級なレストランでもさっぱりおいしくないところもあれば、庶民的なジャンク・フードでも、かなりおいしいものもある。食い物というのは値段じゃないのである。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/01/07

マグロにイワシ

「鮪の刺身を食いたくなったと/人間みたいなことを女房が言った」 と、詩人・山之口貘は 「鮪に鰯」 の冒頭で呟いたが、金があろうがなかろうが、マグロはだんだん食いにくくなる。

私はあんまりマグロに思い入れがなくて、イワシの方が好きというぐらいのものなので、世の中が何でそんなに騒ぐのかわからない。

私は寿司でもあんまり 「赤ネタ」 は食わない。好きなのはイカとホタテとイワシ、アジといった、地味な系統だ。いくら近頃イワシが高くなったとはいっても、依然として経済的な好みなのである。

マグロなんて、冷凍を下手に解かしたようなヤツを出されると、水っぽくてどうしようもない。近頃では、まともそうな居酒屋などでも、この類のマグロが出てくる確率が高いので、油断がならない。

さらに、「大トロ」 なんてのは高いばかりで、口の中に入れると本当に舌の上ですっと溶けてしまうのが、どうも気に入らないのである。その食感を珍重する人もいるが、私は 「そんなのがありがたかったら、綿菓子を食え」 と言いたくなってしまう。

それは、霜降り牛肉にも言えることで、私はステーキとかしゃぶしゃぶなんてあまり食う気はしないけれど、どうせ食うならあんなんじゃなく、歯ごたえのあるやつを、わしわし食いたいのだ。病人のおかゆみたいな食い物は、まっぴらなのである。

世の中には、マグロが気軽に食えなくなるのを妙に惜しむ人がいる。彼らは、食卓にあの赤身の刺身があるというだけで、心が豊かになるらしい。その気持ちはわからなくもないけど、私としては、「別に、なくたっていいじゃん」 としか思えないのである。

山之口貘の 「鮪に鰯」 は、ビキニ核実験に反対する思いを詩にしたものだといわれるけれど、私はずっと、「マグロなんて、別に食わなくていいじゃん」 という詩なんだと思っている。

本当に本当に、イワシの方がずっとおいしいと思うし。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006/12/16

酒の方面の 「グルメ」

東京都内などに出かけるときは、自宅から常磐線取手駅近くに借りている月極駐車場まで車で行き、そこから電車に乗る。帰りも車を運転するので、当然、酒は飲めない。

で、最近、めっきり外で酒を飲む機会が減った。昨日は今年初の忘年会だったが、全員食事のみで、アルコール抜きだった。

昨日集まった参加者のほとんどが、車で来ているので、自然にアルコール抜きということになったのだ。以前ならば、「まあ、ビール一杯ぐらい、いいじゃないですか」 なんて、無理にでも勧めたがる人がいたが、最近はさすがにそんな無理強いはしない。

アルコール抜きの忘年会なんて、なんと味気ないと思う人もいるかもしれないが、そんなこともない。全員、盛り上がり上手だから、飲まなくても十分に盛り上がる。アルコールの助けなしの、ナチュラルな盛り上がりだから、それはかなり充実した盛り上がりである。

考えてみれば、酒がないと盛り上がれないというのは、困ったものである。酒の力で理性や判断力を麻痺させて、べろんべろんになった姿を見せなければ信用がおけないなんていう価値観は、もうそろそろ捨てなければならない。

私なんぞは逆に、酒のせいでぐずぐずになった姿を見せられると、そいつを信用したくてもできなくなってしまう。

酒の力なしで、きちんと自分の人間性を表現し合える場というのは、なかなかいいものだ。まあ、べろんべろんに酔っぱらうのでなければ、多少の酒があってもいいのだが、なくたって、一向に構わない。

誤解しないでいただきたい。私は、酒は好きである。大好きである。一時は、毎日のように浴びるほど飲んだおかげで、かなり鍛えられて、少しはいける口になっていた。

しかし、遺伝的に言えば、アルコールにはそれほど強い体質ではない。だから、飲む量が減ると、一気に酒に弱くなる。最近では、ちょっと飲み過ぎると動悸が激しくなって、頭が痛くなる。

だから、少しの酒を味わって飲むのはいいが、飲み過ぎて酔っぱらうのは、身体的にかなり苦痛である。好きな酒を飲んで苦痛を味わうのはごめんだから、飲み過ぎたくはない。

「食」 でいえば、「グルメ」 は美食家で、「グルマン」 が大食家なのだという。だったら、私は今後は、酒の方面の 「グルメ」 で行きたいと思っている。おいしい酒をほんの少し飲めば十分なのだ。

そして、酒の力なんか借りなくても、ナチュラル・ハイになれる体質だから、心配無用である。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/12/12

「正しい和食」 は高くつく

農水省が世界中の和食レストランを審査して、 「正しい和食」 の認証を与えるシステムを検討しているというニュース (参照) を、私は複雑な思いで受け取ってしまった。

「お役所は、国際的な食文化に口出しするな」 という主張もあるようだが、結局これって、とても単純にドメスティックなお話だと思うのだ。

海外で "Japanese food" という名の珍妙な物を食べさせられて、「これのどこが日本食なんだ!」 と怒鳴りたくなったという経験は、多くの人がしているようだ。ならば、「正しい和食」 のお墨付きがあれば、日本人が渡航先で、安心してメシが食えるという発想は、理解できないこともない。

つまり、ここでしっかりと確認しておくべきは、この制度が 「日本人旅行者が安心して食える保障」 にすぎないんじゃないかということだ。ただ、認証されたレストランの多くは、お金の支払いという観点からすると、全然安心できないような高級店になるだろう。

海外で 「まともな和食」 を食おうとすると、かなり高いものにつく。それは当然で、和食は素材が命だから、希少な高級素材を使わざるを得ない。そして、調理師にしても仲居さんにしても、あまり適当なバイトを使うわけにもいかないから、人件費もそれなりに高くつく。

私に限って言えば、海外に行ってまで和食を食おうという発想がない。20年ほど前に、ニューヨークの 「スシ・バー」 で 「アボガド寿司」 に驚いたが、そんなものは、とっくの間に逆輸入されてしまっている。

ちなみに、この認証制度が、日本人旅行者のためだけでなく、「正しい和食」 の普及のためだとかいうのなら、それはまったく余計なお世話だと思う。こんな権威的な手法をとらなくても、もっと他にやり方があるだろうというものだ。

「パンにしますか、ライスにしますか?」 なんて聞かれるようなレストランが、「正しい洋食」 の店ではないことぐらい、日本人だってわかっている。わかった上で、食いにくいのを重々承知で米の飯を皿に盛り、不器用な手付きで食っている。

だったら、アメリカで供される "soy soup" (味噌汁) が、いかに変てこりんなものであっても、当のアメリカ人が喜ぶなら、それはそれでいいじゃないか。洋食の 「ライス」 ほど変じゃないかもしれない。

アメリカにあまたある "Japanese food" のレストランが 「正しい和食」 を供したとしても、売り上げの拡大にはほとんど結びつかないだろう。日本のカレー屋が下手に 「正しいインド料理」 を始めたりしたら、確実に売り上げを減らすだろうというのと同じことだ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (8) | トラックバック (1)

2006/11/06

わさびの辛さを、英語で言うと?

前々からとても気になっていることに、「"わさびの辛さ" を英語でどう言うんだろう ?」 というのがある。普通は 「辛い」 は "hot" というのだが、唐辛子の辛さは "hot" でも、わさびの辛さは違うだろうと思うのだ。

結局、答えは今でも謎のままで、なんともモヤモヤしている。

思うに、英語というのは味覚の表現がとても大ざっぱで、とてもじゃないが、繊細な味を言い表すには充分な言語ではない。これは、英語の本家本元である英国人が、味音痴であることによるものと、勝手に思っている。

英国人の多くは、せっかくおいしいと評判のレストランに連れて行っても、ほとんど甲斐がない。「どう? おいしいでしょ」 とたずねても、「そうだね」 程度の、木で鼻をくくったような返事しかないのだ。本当は、あんまりわかってないようなのである。

逆に、彼らの方からすると、「日本人てのは、なんで食い物ごときに、そんなに熱狂的にならなければならないんだ?」 なんてことを思っているようなフシがあるのである。「別に、大した問題じゃないじゃないか」 ってな感じだ。

だから、味覚をあらわす英単語も、わりとぞんざいだ。「甘い: sweet」 「しょっぱい (塩辛い): salty」 「酸っぱい:sour」 「苦い: bitter」 が、日本語とほぼ対応する言葉で、 「えぐい」 とか 「うま味」 なんてのは、英語では到底表現しきれない。

「辛い」 もそうだ。"hot" (熱い) なんていうのは、即物的すぎてまったく無粋な表現である。カレーの辛さみたいなのは、"hot and spicy" なんて言うが、これまた即物的だ。"Pungent" なんていう表現もあるが、これも、刺激的な味なら 「辛さ」 に限らず、何でも使える。

元々、唐辛子や胡椒は東洋から渡ったものだから、ネイティブ欧米人の味覚の文脈にはないのかもしれない。

で、日本原産スパイスである 「わさび」 の辛さも、"hot" と言うしかないようなのだが、英米人に 「でも、わさびと唐辛子の違いは、同じ "hot" では、表現できないでしょ」 と言うと、「確かにそうだ」 と言う。しかし、それで終わってしまう。

まあ、それを言ってしまえば、日本語も同じ 「辛い」 でくくってしまうので、偉そうなことは言えないのだが、英語で "hot" と言ってしまうと、エライ違和感なのだ。ちっとも "hot" じゃないじゃないか。ありゃ、むしろ "cool" だろうよと。

一説によると、"wasaby" という新語があるなどという話もあるが、これは未確認情報である。この言葉でググルと、多くのページがヒットするが、かなり混沌としている。ただ、なかなかうまい言い方だという気はする。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006/10/26

「ソロ米」 と 「ハーモニー米」

昨日朝の TBS ラジオで、気象予報士の森田正光さんが面白いことを言っていた。最近、お米の種類で、「ソロ米 (まい)」 と 「ハーモニー米 (まい)」 というのがあるのだそうだ。

米だけで旨いのが 「ソロ米」で、酢飯とか丼物など、他と組み合わせて旨いのが 「ハーモニー米」 というのだそうだ。

私が初耳だっただけではない。昨夜の段階で、「ソロ米/ハーモニー米」 の 2語でググっても、1件もヒットしなかったから、ネットの世界としても、かなり新しい言葉なのだろう。

ソロ米の代表格は、もちろん 「コシヒカリ」 などのブランド米である。これは、おかずなしでも米そのものがおいしいので、ソロを取れる米ということで 「ソロ米」 というのだそうだ。

一方、「ハーモニー米」 の代表は、北海道産のお米なのだという。最近、北海道がにわかに米の産地として脚光を浴びていて、質、量ともにかなり進化しているらしい。

昔は、「北海道の食い物は、米以外はみんなおいしい」 なんて言われていたが、そんな定評は既に過去の遺物になった。今や、北海道産の米も 「きらら397」 「ほしのゆめ」 「ななつぼし」 など、胸を張れる品種が登場していて、これらが代表的な 「ハーモニー米」 なんだそうだ。

私は 「ハーモニー米なんて言葉のアヤで、実際はおかずがないと食えないから、そんな言い方でごまかしてるんじゃないか?」 なんて疑ったが、 実際の食味ランキングやモニタリングでも、かなりいい成績のようなのだ (参照)。これはどうも、本物らしい。

さらに、最近は丼物や回転寿司などの外食産業が台頭しているので、「ハーモニー米」 としては、この分野の食材としてのニーズが高まっているというのである。なかなか順風のようなのだ。

それにしても、そもそも北海道産のお米が注目されるようになったというのは、地球温暖化の産物といえば言えるのであり、なんだか複雑な感慨にとらわれてしまう。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/08/30

「沖縄そば」 ってソウルフードなんだって

「沖縄そば」 という食べ物をご存じだろうか? 私がこれを初めて食したのは、昨年 6月のことだった。

日本中のそばが大集合した 「大江戸めん祭り」 というイベントで、私は、当時まだ行ったことのなかった沖縄と縁を結びたいという単純な動機で、試しに食べてみたのである。

そば好きの私は、このイベントで、江戸、信州、会津など、日本中の名だたるそばのはしごをし、最後に、「沖縄そば」 というのを食べたのである。そのときの印象は、決してはかばかしいものではなかった。

一口すすり込んで、「むむ、なんじゃこりゃ、そばじゃないじゃないか!」 これが第一印象である。確かに 「蕎麦」 ではない。沖縄そばは、蕎麦粉を全然使っていない。小麦粉のそばである。

感覚からすると、ラーメンとうどんの中間アイテムのようなもので、なんだか、妙なものを食ってしまったような印象だった。しかし、「ラーメン」 を 「中華そば」 と称するのだから、「これもありか」 と、無理矢理自分を納得させたのだった。

ところが、先日沖縄を初めて訪れてみると、沖縄というのは 「沖縄そば」 の国なのだった。外食をしようとすると、いわゆる琉球料理の店か、沖縄そば屋しかないのである。内地では 1キロ歩けば必ず 2~3軒はあるラーメン屋というものが、ほとんど見あたらない。もちろん、いわゆる 「蕎麦屋」 も、ものすごく少ない。

その辺で、ちょっと昼飯を食おうと思ったら、もう、実質的に 「沖縄そば」 を食うしかないのである。外食といえば、沖縄そばなのだ。私は沖縄に滞在した 2泊 3日の間に、沖縄そばを 5回食べた。

東京で初めて食った時は、なんだか妙なものを食ってしまったような気がしたのだが、沖縄の地で食べると、ほかに選択肢が極めて少ないということを差し引いても、とても全うなものを食している気がした。「ほかに何があるのだ!」 と言いたくなるほど、全うだった。

風土というのは大したものなのであった。私は内地にいるときには 1日に 1食以上蕎麦を食べないと物足りないような気がするのだが、沖縄では、いわゆる 「蕎麦」 を食べようという気には全然ならなかった。

ソーキそばというのが、とくに全うな気がした。これは、豚のあばら骨付きの肉をトッピングしたものである。なかなかワイルドでいいのである。なるほど 「ウチナンチューのソウルフード」 と呼ぶに値する食物であると、しみじみ思ったのであった。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006/05/19

酒田に来ると、食べ物が美味すぎる!

ああ、いかん。今、酒田の実家に来ているのだが、ここにいると、何を食べてもうまくて、つい食いすぎてしまう。太らないか、心配だ。

買い物に出かけると、その辺の普通のスーパーで買う魚が、とてもイキが良かったりする。野菜が新鮮だ。果物がうまい。酒もうまい。適当に買うものが、みんなうまい。

昨日の昼は、近所のラーメン屋、満月に行って、かの有名なワンタンメンを食した。12時から 1時の間に行っても満員に決まっているから、かなり我慢して 2時近くになってから、満を持して行ったのである。

ここのワンタンメンの、適度の透明感とコクと旨味が渾然一体となった魚貝系スープは、私の体内の血中濃度とまったく違和感がなく、体内にしみこんでくるような気がする。それに、透き通るようなエレガントなワンタンは絶品だ。

1日 24時間のうち、10時間以上は空きっ腹だった高校の頃から、私はここの店のワンタンメンがご贔屓だった。当時は単に、ラーメンだけでは足りないから、ワンタンをプラスしたワンタンメンを注文していただけなのだが、そのワンタンメンが、そんなにすごいものとは知らなかった。

高校を卒業して東京に出てからというもの、私は、「まともなワンタンメン」 を食すことができなくなったのである。高校時代は当たり前だと思っていた満月のワンタンメンは、実は世界に誇るワンタンメンだと知ったのである。

だから、酒田にきたらなんとしても満月のワンタンメンは食わなければならない。

酒田に来る途中には、西川町の一松の蕎麦がある。今回は 「かんざらしそば」 というのを食べた。この店に入ったのが、午後 4時を回っていて、かんざらしそばが二人分残っていなかったので、二八そばにサービスとして付けてもらったのである。ここのご主人は、とても気前がいい。

このかんざらしそばは、色の白い一番粉で打ったもので、蕎麦粉 10割なのにツルツルした感触。噛んでみるとものすごくギュッとしまった感じのコシ、モチモチ感がある。こんなそばは初めて食った。

ご主人は、「そばの香りは 別製の十割そばの方があるけど、これはこれで、おもしろいでしょう」 という。なるほど、そばの世界は奥深いものである。

ここのおススメは、天ざるである。うまい蕎麦屋の天ぷらは、往々にしてたいしたことなかったりするものだが、ここのご主人は以前に本格的な板前の修行をしただけあって、天ぷらも絶品だ。今回の天ぷらは、海老天二本に、山菜づくし。大満足だった。

外食が大満足な上に、素材がいいから、妻の作る料理もおいしくて、つい食べ過ぎる。ああ、帰ったら運動しなければ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/05

「にじよじ」 のまつや

最近、とんと酒が弱くなってしまった。どこに行くにも車を運転することが多いので、酒量が減っていた上に、サラリーマンを辞めて、付き合い酒まで減ったせいだと思う。

元々それほど酒に強い体質というわけでもなかったので、日常の 「鍛え方」 が鈍ると、自然に酔いの廻りが早くなる。

20代から 40代まで、私も結構酒を飲んでいた。案外行儀のいい酒飲みで、やたらと朗らかにはなるが、酔って他人に迷惑をかけたことは、ほとんどない。

一部記憶の飛んでいる部分もあるが、その間に無茶をやらかしたということもないはずだ。酔いつぶれた友人の世話をした覚えはいくらでもあるけれど。だから、私の酒酔い勘定は、大幅黒字である。

私が一時酒を結構いけたのは、ひたすら鍛錬の成果である。何度も吐くほど飲んで鍛えたのだ。しかし、その場合でもトイレでこっそり吐いて、廻りには気付かれないようにしていた。

遺伝とか血統的なことを言えば、私の父方は完全な下戸で、母方は大酒飲みである。

父の家系は全員、本当に酒を飲めない。父は辛うじてお猪口 1杯なら美味いというが、2杯飲んだら、心臓バクバクで死にかねない。一転して、母方の親類はやたらと飲む。いくら飲んでも顔色が変わらないというほどの酒豪が多い。

私はその中間を取って、「そこそこに飲む」 程度である。いや、元々は、父方 7分に、母方 3分程度のミックスで、どちらかといえば、酒には弱い方だったと思う。せっかく鍛錬で補っていたのに、近頃、地金が出てきてしまっているのだ。

先日、午後 4時前ごろに、神田のまつやに行った。老舗の蕎麦屋である。6時に仕事上で人に会う約束があり、その日は、まともな昼飯にありつけなかったので、小腹ふさぎに、もり 1枚たぐっておこうと思ったのである。

近頃、「にじよじ」 という言葉がある。午後 2時から 4時の間に、ちょっと蕎麦屋酒を楽しもうかというような時に使われる。元々は、亡くなった杉浦日向子さんが言い始めた言葉だ。

間の悪いことに、 「にじよじ族」 のオアシスともいうべきまつやに入ったのは、その 「にじよじ」 の真っ最中だった。見回すと、もり蕎麦 1枚なんていう客は少数派で、皆いかにも美味そうに酒を飲んでいる。もう少しで誘惑に負けそうになった。

しかし、今回はぐっと堪えたのである。以前の私なら、2時間近くあれば十分に酔い覚ましができた。しかし、今の私はその自信がないのである。下手したら、仕事上のミーティングに赤い顔して行きかねない。

これからは、仕事が一区切り付く前に 「にじよじ」 のまつやに行くのは、止めとこう。ちょっと誘惑が強すぎる。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/04/17

がんばれ、讃岐うどん!

「松阪牛」 という商標は OK だが、「さぬきうどん」 は認められないみたいというのは、なんとも気の毒なことではないか。

地域名と商品名を合わせた商標登録を積極的に認める 「地域団体商標制度」 が今月から始まったのだが、そこにはいろいろな軋轢や矛盾があるようだ。(参照

「さぬきうどん」 が地域ブランドとして認められない公算が強いのは、あまりに知名度が高すぎるからということらしい。

新制度では、「地名+商品名」 でも、一般的に使われる 「イセエビ」 や 「サツマイモ」 などは申請できないという。全国各地で作られている讃岐うどんもこれにあたる可能性が高いとみられるのだ。

しかし、「イセエビ」 や 「サツマイモ」 と 「讃岐うどん」 を同列にするのは、いささか気の毒だろう。さぬきうどん協同組合の大峯茂樹理事長は 「全国的な知名度は我々の努力の成果。それを利用して粗悪品を作る者がいるから登録できないなんておかしい」 と怒っているという。当然の腹立ちだろう。

美味しい伊勢エビを食うのに三重県に行こうとか、本格的焼き芋を食いたいから鹿児島に行こうとかいう人はいないが、「本場の讃岐うどん」 を食いたいと思ったら、やっぱり香川県まで足を伸ばしたいと思うのが人情だろう。ということは、立派な地域ブランドではないか。

香川県以外で作られる 「讃岐うどん」 は、 「讃岐風うどん」 というべきだろう。特許庁さん、それくらいのことは考えてやっていいんじゃないかなあ。

地域ブランドではないが、以前、「シャネルスーツ問題」 というのがあった。シャネルスーツというのは、ココ・シャネルが最初にデザインした、女性用の襟なしスーツで、以後同ブランドのラインナップでは、定番的存在になっている。

しかし、洋服のデザインなんて、真似ようと思えばすぐに真似られるので、シャネル以外のフツーのメーカーが似たデザインの洋服を作って、その名も 「シャネルスーツ」 としてバンバン売り出した。シャネル社は、それに対して断固たる態度を取ったのである。

「『シャネルスーツ』 と呼べるのは、我が社の商品だけ」 と宣言したのだ。それで、日本のメーカーは 「シャネル風スーツ」 などと言いつくろおうとしたが、それも頑として認めようとしなかった。

「シャネル」 が登録商標である以上、「シャネル風スーツ」 というのだって、やっぱり浅ましい。「ゼロックス風コピー機」 なんて言ったら、それだけで負けじゃないか。

ブランドというのは、それほど重要なものである。香川県以外の製麺会社が 「讃岐うどん」 の名称を使うのは、そりゃ、あこぎな 「のれんへのただ乗り」 というものだ。多少譲っても、「讃岐風うどん」 がせいぜいだろう。

ちょっと分野は違うが、「東横イン」 という名称のホテルを、「ちょっとずっこいなあ」 とか 「志が卑しいんじゃないか」 とか言う人が多いのと同じ感慨を持ってしまうがなあ。

がんばれ、讃岐うどん!

【4月 23日追記】

「新鮮空気」 の冬花さんが、まるでこの記事に呼応するように 「香川へ。さぬきうどんを求めて」 というエントリーを書いておられる。麺好きの私としては、写真をみるだけでムラムラしてくる。

これを見ても、りっぱな地域ブランドだと思うがなあ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (14) | トラックバック (1)

2006/01/25

肉を食わされるのは、かなわんね

昨夜は某団体の新年懇親パーティに出席。この席には片山さつき、平沼赳夫両衆院議員も参加され、それぞれ、勇ましい挨拶と、誇り高い挨拶をされたが、その内容には敢えて言及しない。大方の想像はつくだろうから。

それよりも、日本人の 「食の好み」 というものについて述べようと思う。

来賓の挨拶と乾杯が終わると、それぞれ、好きな料理を皿に取って食べるわけだが、最近はどのパーティに行っても、一番人気はローストビーフである。大きな肉の塊を切り分けてくれるシェフの前に、長蛇の列が並ぶ。

業界のパーティに出席するようなアグレッシブな人たちは、皆さん、お肉が大好きなようだ。今回の米国牛の輸入ストップについては、かなり複雑な思いがあるのではなかろうか。

一方、私が最近付き合っている人たちの多くは、「中年過ぎると、肉を食わされるのはかなわんね」 と言う。肉よりも魚、野菜の方がありがたいというのだ。実は、かくいう私もそんな一人である。

仕事で欧米に行くと、ステーキハウスに誘われることが多く、とくにベジタリアンというわけでもない私は、仕方なく付き合うのだが、本心は 「何が悲しくて、何百グラムだかの牛の肉なんかを腹に詰め込まなきゃならんのだ」 と思っている。

そりゃ、相撲取りの草履みたいな巨大なステーキでも、出された以上、私は完食する。しかし、それは食いたくて食っているというよりは、もったいないから、日本男児の誇りにかけて食っているのだ。そのくせ、私を誘った方が半分も残すんだから、困ったものだ。

そもそも、ビーフステーキとかローストビーフなんていうのは、牛より他にまともに食えるもののない、貧相な土地の食い物ではないか。ペンペン草しか生えないので、それを牛に食わして、ようやくその牛を食う。面倒な話である。

ところが、最近の牛はそうじゃないらしい。牛が人間の食物であるはずの穀物を大量に食っているのだ。「肉食は私たちをどこに導くのか?」 というページには、次のように書かれている。

NHK の番組によると、世界のトウモロコシ年間生産量約六億トンのうち、約四億トンまでが穀物飼料に使われています。その穀物飼料の一割でも人の食用に回せば、世界から餓えはなくなるというのです。もしそうした場合、肉の生産量は減りますが、それは米国人と日本人が五回に一回、肉料理を減らすだけでしかありません。

我が家は肉の割合がかなり少ない食事をしていると思うのだが、そこまでいかなくても、血の滴るようなビーフステーキへのこだわりをちょっとだけ減らせば、世界の飢餓はかなり救えるというわけなのだ。

もちろん、国際的な政治や流通の問題もクリアしなければならないだろうが、とりあえず、肉をたらふく食うということは、飢えに苦しむ何億人もの人たちの犠牲の上に成り立つ行為なのだということを、ちょっとだけでいいから認識しなければならないだろう。

「単なる個人的な好みの問題」 といえども、ほかの諸問題とまったく無関係に主張できるというほど、この世は甘くないのである。そして他との関係を意識すると、個人的な好みまで変化するということだってある。

例えば、料理屋で食事をすると、刺身のつまの千切り大根を丸々残す人が多いが、私は残らず平らげる。それは、「もったいない」 というよりは、あれを食わないと、何だか口の中が熱っぽくなって、すっきりしないからなのだ。

大上段に振りかぶったベジタリアンやエコロジストの社会運動よりも、私としては、「肉を食わされるのはかなわんね」 という意識に、ちょっとだけ変わればいいことだと思っている。

【2月 3日 追記】

このエントリー、あちこちのニュースサイトで、「米国人と日本人が5回に1回肉料理を減らすと、世界から飢餓がなくなる」 というタイトルで紹介され、かなりな反響を呼んでしまった。

アクセスがムチャクチャ増えたのは嬉しいのだが、私としては、「米国人と日本人が 5回に1回肉料理を減らすと、世界から飢餓がなくなる」 なんて、一言も言っていないのである。ただ、NHK の番組を紹介したウェブのページの引用をしただけである。

その引用だって、計算上の話を紹介しているだけで、「米国人と日本人が5回に1回肉料理を減らすと、世界から飢餓がなくなる」 なんて単純なことを言っているわけではない。

しかし、「米国人と日本人が5回に1回肉料理を減らすと、世界から飢餓がなくなるなんて、間違いだ」 との反論があちこちでなされているみたいなのである。

そんなの当たり前である。政治、経済、流通の問題を抜きにして、そんな単純なことは言えない。

トラバしてくれればまだいいのだけれど、それもないんで、まあ、私としては放置しているのだけれど、「米国人と日本人が 5回に 1回肉料理を減らすと、世界から飢餓がなくなる」 というタイトルは、ちょっとありがた迷惑だったような気がしている。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006/01/07

正しい 「生玉子かけご飯」

TBS ラジオ 「ストリーム」 に、日本人の行動のスタンダードを探るという趣旨の 「えびしゃけ」 というコーナーがある。

このコーナーの昨年最後のテーマは、「卵かけごはんは、卵を混ぜてからかける?それとも、ごはんにかけてから混ぜる?」 というものだった。(参照

「えびしゃけ」 というタイトルは、「海老の尻尾やシャケの皮を食べるか、否か」 ということで、日本人のちょっとした行動パターンを、聴取者の反応を元に探るというのが狙いである。

卵に関しての結果は私の予想通り、

  1. 卵を混ぜてからかける・・・69%
  2. ごはんにかけてから混ぜる・・・31%

ということで、やはり、「卵を混ぜてからご飯にかける」 派が、ほぼ 7割近くに達した。かくいう私も 「混ぜてからかける」 派である。

ただし、このテーマは、単にこれだけで済ませてしまうのは甚だ心残りである。もっと追求したいことがある。

それは、「卵を混ぜてから醤油を入れる」 か、「醤油を入れてから卵を混ぜるか」 ということである。実際に番組を聞いていたところでは、「醤油を入れてから卵を混ぜる」 という人が少し多かったような気がする。

しかし、私は断然 「卵を混ぜてから醤油を入れる」 派である。その理由は、その方がずっと卵と醤油がしっくりとミックスされる感覚があるからだ。醤油を入れてからかき回しても、いつまでも分離されている気がする

だから、私にとっての正しい 「生玉子かけご飯」 は、玉子を割って器に入れ、よくかき混ぜてから醤油を入れる。そして、それをおもむろに暖かいご飯にかけて食べるのである。これが一番美味しいやり方だと思う。

お気づきだろうか? 私は正しい 「生玉子かけご飯」 と表記した。TBS ラジオのウェブページでは 「卵かけごはん」 となっているが、このテーマ、正しさにこだわったら、表記と言葉遣いからして 「生玉子かけご飯」 なのである。

"卵" と "玉子" の使い分けに関しては、「生物学的には "卵"、食材としては "玉子" 」というのが一般的のようだ。あるいは、「生の場合は "卵"、料理されたら "玉子"」 という説もある。

「生玉子かけご飯」 に関しては、「醤油を入れる」 というプロセスを経た以上、生であっても「生玉子」 という名の立派な 「料理」 であり、それ故に、「生玉子かけご飯」 と表記されるべきだと信じるのである。

私は週に一度ぐらいの割で、朝食として無性に 「生玉子かけご飯」 を食べたくなる時がある。これは最高に洗練された朝のメニューの一つである。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2005/11/21

庄内柿のパラドックス

毎年この季節になると、庄内柿が家の中にあふれる。ところが、この柿は食べ頃がとても短く、放っておくと、グニャグニャになってしまう。だから、さっさと食べなければならない。

だが近頃は、どの家でも子どもはあまり柿を食べたがらない。それで、一家の主は毎日 5〜6個ほどの 「柿責め」 に遭うのである。

庄内柿については、mago さんの 「まったり田舎暮らし」 というブログで、きっちりと説明されているので、ご覧いただきたい (参照)。

何しろ、庄内柿というのは不思議な果物である。買ってきた覚えもないのに、なぜか家の中の至る所に柿が鎮座ましますのだ。

いどさんの 「庄内弁な日々」 というブログでもひとしきり話題になっている (参照) が、そこでも、「買わなくても、向こうから来てくれる庄内柿」 なんて、コメントに書かれている。

とくに農家でなくても、庭に柿の木があれば、自然に家の中は柿だらけになる。そうでなくても、大抵は頼んだ覚えもないのに、親戚や知り合いから、食いきれないほどの量が送られてくる。

さらに、もらいすぎて処理に困った隣近所の家が、半ば強制的に押しつけてくる。その上、コンビニなんかで 「ご自由にお持ち下さい」 なんて、どっさり盛ってあったりすることまであるらしい。世の中に豊富にありすぎて、庄内ローカルでは値が付かないのだ。

我が家でも、先日実家から送ってもらった庄内柿のうち、半分以上を隣近所や知り合いに配り、残ったのをようやく食い終わったと思ったら、先週帰郷した際に、実家の 2軒先の奥さんから、またどっさり押しつけられた。

庄内柿というのは基本的に渋柿で、焼酎につけて渋抜きをする。これを庄内では 「さわす」 という。さわす期間は、大体 1週間で、それを過ぎると、今度は加速度的に熟してしまい、あっという間にグニャグニャのゼリー状になってしまう。

世の中には、そのゼリー状になったものの方を好むという変わり者もいるのだが、大抵の者には、そうならないうちの方がおいしい。だから、庄内柿の賞味期間というのはとても短く、一気呵成に食わなければならない。

庄内人というのは、大抵は柿好きである。しかしいくら柿好きでも、毎日毎日 5個も 6個も押しつけられては食傷してしまう。毎年食傷するくせに、それでも季節になると、庄内柿が恋しくなるというパラドックスが現出する。不思議な果物である。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ </