カテゴリー「グルメ・クッキング」の50件の記事

2009/10/19

アルケッチャーノ 讃

今、10月 19日の午後 9時半。酒田に帰郷して、さっき戻ってきたばかりなので、遅い更新で恐縮である。

実は昨夜、あのアルケッチャーノでディナーを堪能してきたので、レポートしてみたい。とにかく、「深ウマ」 だった。その旨さは、風呂に入って寝るまで持続していた。

知らない人のために、ちょっとだけ説明しておこう。アルケッチャーノは、我が郷里、庄内は鶴岡市にあるイタリアン・レストランで、素材のほとんどは庄内産のものを使っている。なにしろ、庄内は食の宝庫であるからして、素材からして旨い。その旨い素材の味をしっかり生かした独特のイタリア料理が食える。

私たち夫婦は、田舎の母が寝たきりだった頃にずっと、2月に 1度は介護をする父の応援で帰郷していて、その度に月山街道沿いにあるアルケッチャーノを横目で眺めていた。帰郷は母の介護と父の応援が目的だったので、外でゆっくりと食事をする時間が取れなかったのである。

しかし、今年の 5月に 母の三回忌を済ませ、時間的にも余裕ができたので、今回、父を連れて 3人でディナーを食べたのだ。80歳になる父は、洋食はあまり口に合わない性分 (その代わり、和食はちとうるさい) なのだが、「だまされたと思って食べてみて」 と誘ったところ、「これは旨い!」 とえらく満足していた。

今回のディナーは、5000円のお任せコース。順を追ってレポートしよう。

Cr091019a まず最初は、アジの刺身を載せた冷たいパスタ。皿の端にはカツオの叩きも載っている。いやはや、私は庄内人であるから、アジの刺身ぐらい何度も食べているのだが、一見してアジとは気付かなかった。

そして、口に含んでみて、「アジって、こんなにも膨らみがあったのか」 と感動。「この手があったか!」 ってな感じである。のっけからやられてしまった。

Cr091019b 次は、庄内浜のエビの刺身を載せたリゾット。お米は庄内米の 「ひとめぼれ」。ぷりぷりでいながらしっとりのエビと、ボディのある庄内米の取り合わせは、これまた、「うぅむ、やられたなあ」 という感じ。

後効きする旨さと言っておこう。

Cr091019c お次は、マコモダケというものである。それを (多分) オリーブオイルであえて蒸したのかなあ。何も味が付いていない。それをちょいと添えられたカリカリのベーコンの塩味だけで食べる。

何しろお茶目なことに、山形新聞の新聞紙に油を吸わせて供されるから、一見すると、「こんなもの食えるんか?」 という感じなのだが、いやはや、旨いのである。ワイルドな歯応えで、ちょっとした苦みの背後に 「おぉ、何じゃこりゃ?」 と言いたくなるような、不思議なうま味がある。私ははまってしまったね。

父は子どもの頃、川原に生えているマコモをかじって育ったという。それが、本来の野趣も残しつつこんな洗練された料理になっていることに驚いていた。

Cr091019d次は庄内浜で取れた鯛と (多分) アサリのアクアなんとか。なんとかというのは、説明を聞いたが忘れてしまった。さすが庄内の鯛。身がしっかりしていて、口に含んだときの 「おぉ、タイだ!」 感がうれしい。

さらに出てくるのは、月山の野趣あふれるキノコを添えたパスタ。

パスタが洗練されているのに、そこに一見無造作に添えられたキノコが (多分) 塩味だけなのに、素材自体の苦みのあるワイルドさが効いていて、その対比がいい。で、見るからに旨そうだったので、つい写真を撮るのを忘れてしまった。残念。

Cr091019e段々フィニッシュに近付いてきた。この辺で、案外お腹が一杯になってくる。庄内の食材はしっかりした腹応えがある。だめ押しの一品は、庄内の豚と藤沢カブの組み合わせ。

豚とカブが不思議に合うというのは、知る人ぞ知るところである。しかも、このカブは藤沢というところでしか取れない在来種の洗練されたもので、歯応えがいいのである。味わいもくせがなくていい。

さらに豚がいい。庄内に来ると、「豚ってこんなにおいしかったんだ」 と思うだろう。サクッとしたまるで果物のような歯触りとジューシーなコク。庄内人の私は、牛より豚の方がずっと旨いと思っている。

Cr091019f デザートは、イチジクを載せたチーズケーキとアイスクリーム。エスプレッソでいただく。もう、味も量も大満足。アルケッチャーノで 5000円コースのディナーを食べようと思ったら、お昼過ぎに間食なんかしちゃいけない。食べきれなくなってしまう。しっかりお腹をすかせて行くべきである。

とにかく、アルケッチャーノの料理は、素材の旨さを最大限に引き出すためのあっさりとした塩味が基本。塩しか使ってないと言ってもいいぐらいの、絶妙のシンプルさである。これが、「後効きする旨さ」 「深ウマ」 につながっている。

私は今年 7月 21日の記事で、次のように書いている。

おいしい料理は、一番幸せだった日々の記憶を蘇らせてくれる。いや、実際には 「一番幸せだった日々」 なんてない。蘇るのは、これまでの幸せの記憶を凝縮したエッセンスなのだ。だから本当においしい料理を食べると、至福が訪れるのである。

アルケッチャーノの料理は、そんなような料理である。また 11月に食べる予定。今度はどんな食材のディナーになるか、今から楽しみである。

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2009/10/06

決して不味いってわけじゃないのだが……

既に何度か書いていることだが、私には 「嫌いな食べ物」 というものがない。メロンはアレルギーのせいで口の周りが痒くなるので遠慮するが、味は嫌いというわけじゃない。

一番最近 (ちょっとした気の迷いで) メロンを食ったのは 30年も前のことだが、その時だって、別に不味いとは思わなかった。

本当に私は何でも食べる。食わず嫌いというのはしたことがない。見た目がいかにも気持ち悪そうでも、そういうものこそうまいと思っている。そりゃ、ハツカネズミの躍り食いとかはイヤだけれど、大抵のゲテモノなら挑戦してみる。ハチノコとかイナゴの佃煮なんて、大歓迎だ。

しかしその一方で、「目の前に出されて勧められたら、そりゃ、食わないではないけれど、そして、食ってしまっても別に不快にはならないけれど、自分で金を払ってまで食おうとは決して思わない」 というものもある。「嫌い」 とか 「不味い」 とかいうわけじゃないが、とりたてて 「好き」 というわけでは全然ないというカテゴリーである。

そういうものをざっと挙げてみよう。

  • ブドウの巨峰
    ブドウは好きで、いくらでもたべる。しかし、巨峰はあの皮をむく面倒くささ故に、自分で金を出してまで食おうとは全然思わない。それは妻も同様のようで、我家では巨峰を買ったことが一度もない。
     
  • 霜降肉/トロ系
    「舌の上でとろける食感」 というのが、世の中では大変にありがたがられるようだが、歯応えのあるのが好きな私は、肩透かしをくらったような気がしてしまう。「そんなにとろけるのが好きなら、縁日で綿菓子でも食ってろ」 と言いたくなる。
     
  • 焼き芋
    焼き芋は、食えばおいしいと思う。しかし、食った後に喉がつっかえたような気がして、ちょっと胸焼け気味になる。だから、あまり進んで食いたいとは思わない。食ってしまったら、直後にたっぷりお茶を飲んでおきたい。
     
  • ハンバーグ
    ただでさえあまり肉は食わないので、たまに食うなら、ハンバーグなんてわけのわからないものは避けたいと思う。いったんばらしたものの寄せ集めなんてね。それは妻も同感のようで、我家でハンバーグが食卓に供されたことは、結婚以来一度もない。
     
  • お好み焼き/もんじゃ系統
    こればかりは、食文化の問題のようだ。私の生まれた山形県というのは、秋田県、岩手県、沖縄県などと並んで、全国でもお好み焼き屋の非常に少ない県なのである。作ってもらって目の前に出されれば食べるし、おいしいとも思うが、進んで食べようという発想自体がない。
     
  • 幕の内弁当
    細かく区切られたところに、いかにも合成着色料たっぷりのちまちましたものが入っているのをみると、それだけで疲れる。何かの集まりで 「昼食でぇす」 と言って配られれば、フツーに食べるが、自分で買って食べようとは決して思わない。

こうして挙げてみると、世間では結構好まれているものを、私は遠ざけているような気がしてきた。ウチの読者諸兄はどうなのだろう。コメントが楽しみだ。

最後に、30年前に 「(ちょっとした気の迷いで) メロンを食った」 時のことを書いておこう。

その日はとても暑い日で、私は午後一番に予定されていた某社の新商品発表記者会見に遅刻しそうになり、汗水たらして会場のホテルに飛び込んだ。かなり力を入れた新商品だったために記者会見もはり込んでいて、テーブルの上にはいつものコーヒーだけではなく、メロンまで用意されていたのである。

私はメロンを食べると口の周りが痒くなるアレルギーがあるので、いつもは手を付けないのだが、その日は汗だくで飛び込んだということもあり、喉がカラカラに乾いて、グラスの水とコーヒーだけではその渇きは癒されなかった。そして、目の前にはとても瑞々しいメロンがある。

私の目にはそれがこの上なく魅力的に映った。そして、「最後にメロンを食べたのは 10年以上も前のことだし、この間にタバコだってすっぱりやめてるのだから、体質だって変わってるかもしれない」 と、都合のいいことを思ったのである。

そんなわけで、つい誘惑に負けて食べてしまったのだが、おかげで喉の渇きは癒されたものの、その数分後から口の周りがイガイガと痒くなり、その不快感は夜まで続いた。それ以来、私はメロンを一口も食べていない。食事会で私の隣に座った人は、デザートのメロンを二人前食べることができて喜ぶのである。

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2009/07/21

本当においしいのは 「深ウマ」 である

母が一昨年の 5月に亡くなるまで、私は妻とともに 2ヶ月に 1度は車で帰郷して、寝たきりの母の介護をする父のヘルプをしていた。

毎回通る月山街道沿いに 「アル・ケッチャーノ」 というレストランがあり、その佇まいの良さもあり、ずっと気に掛かっていたのだが、ついぞ立ち寄ることができていない。

何しろ、このところの帰郷はずっと母の介護が目的で、母の死後も四十九日や一周忌、三回忌など、あわただしい旅だったので、いくら気に掛かっても、立ち寄ってゆっくりと食事をする時間の余裕がなかった。そうこうするうちに、アルケッチャーノはいくつかの新聞や雑誌に取り上げられ、「知る人ぞ知る」 という存在になってきていた。

そして最近、ノンフィクション作家の一志治夫氏が 『庄内パラディーゾ アル・ケッチャーノと美味なる男達』 (文藝春秋刊・定価 1,714円 + 税) という本を出してくれて、実際に立ち寄ってその料理を味わう前に、その素晴らしさを知ることとなった。

この本を読んで改めてわかったことなのだが、庄内はおいしい食素材の宝庫なのだ。道理で 18歳で東京に出てから、関東の食い物で本当に旨いものに巡り会ったことがないと、ずっと思われたわけだ。何しろ、元々の素材が違うのだ。

戦後我々が口にする野菜のほとんどは、在来野菜とはまったく別種の、大量生産向けに品種改良されたものなのだ。ところが庄内は、陸の孤島のようなロケーションで都会向けに日持ちする画一的品種を出荷することができなかったので、奇跡的に昔からの在来種が残っていたのだ。

そういえば、枝豆の王様 「だだちゃまめ」 は、今や関東あたりまでその名声が広がってきたが、その他でも庄内でなければ食べられない野菜は多い。

高校時代まで食べていたカラトリイモ (ズイキイモの一種で、実際には 「カラドリ」 と言っていたが)、表面がぶつぶつで粉を吹いたようなキュウリ (皮が薄くて独特のしなっとしながらもコシのある食感がある)、カブ、小松菜など、本当においしいものばかりなのだ。

関東の地に暮らしていると、「ああ、どうして関東の野菜には、あの庄内の味がないんだ」 と思ってしまう。なまじ元々の素材からしておいしいという感覚を知ってしまっているので、東京でどんなに高級な料亭やレストランで食事しても、「ふぅん、うまいといってもこの程度なのね」 ぐらいに思えてしまうのだ。

で、アル・ケッチャーノのシェフ、奥田政行氏は、滅びかけていた庄内の在来野菜にふたたびスポットを当て、イタリア料理として生き返らせた。彼のレストランが継続的に買い付けをし、そのために世に広まって絶滅を免れた品種は多いのだという。これは庄内の福音である。ありがたいことである。

庄内にあるのはおいしい野菜ばかりではない。もちろん米もうまいし、さらに庄内浜の魚介類がある。私は高校まで毎日、朝に取れた新鮮な魚をその日の夕方に食べていた。その当時は当たり前のことだったが、今では贅沢な話である。知らないうちに舌が肥えていたわけだ。

「死ぬほどうまい」 なんてものは、この世にない。そもそも、毒でもない限り、食い物では人は死なない。しかし、「泣くほどうまい」 というものはある。確かにある。『庄内パラディーゾ』 の中に、次のような件がある (P82より引用)。

イタリアに行くことになったのは、客が連れてきたイタリアのオリーブオイル会社の社長から誘われたためである。

オリーブオイル会社の日本支社に勤めるその客は、初めて 「アル・ケッチャーノ」 で食事をした日の帰途、新幹線の中で泣いていた。奥田の料理の感動が時間をおいて蘇ってきて、心震え、涙がとまらなくなってしまったのだ。

その客は、その後何回か、「アル・ケッチャーノ」 を訪れ、イタリア人社長を連れてくることを約束し、実際ほどなくして社長とともに食べに来た。食事を終えると、イタリア人社長は 「お前の料理をイタリアで披露してほしい」 と奥田に言ってきた。

奥田シェフは、これによってイタリアに招かれて彼独自の料理を披露し、大絶賛を得たのである。と、こんなことを書いている私自身が、まだ 「アル・ケッチャーノ」 で食事をしたことがないのだが、この秋頃には、念願かなって食べに行くことができそうだ。今から楽しみである。

おいしい料理は、一番幸せだった日々の記憶を蘇らせてくれる。いや、実際には 「一番幸せだった日々」 なんてない。蘇るのは、これまでの幸せの記憶を凝縮したエッセンスなのだ。だから本当においしい料理を食べると、至福が訪れるのである。

そうした料理を、私はひそかに 「深ウマ」 と称している。

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2009/07/12

食い物のおいしさ

実は今、仕事で北海道の小樽に来ている。札幌までは何度も来たことがあるが、小樽は初めてだ。来てみて、人口 14万の地方都市にしてはあか抜けしているのに驚いた。

あか抜けしているのも道理で、この街は日本有数の観光都市であるらしい。そういえば、石原裕次郎記念館なんていうのまである。

仕事でバタバタしてしまっていて、ブログ更新の時間をとるにも苦労しているが、なかなかいい街である。私は気に入ってしまった。港町というのは、人間が 「気楽になんでも受け入れ型」 にできているから、こちらも構えずにいられる。食い物も、海の幸を初めとしておいしいし。

ただ、なまじ観光都市として開けてしまうと、ちょっと荒れてしまうところもある。昨夜、有名な倉庫街の中の、倉庫を改造して造られたいかにも観光客向けの店で海鮮丼を食べたら、高いばかりで期待からはかなりかけ離れていた。あれだったら、東京のフツーのスーパーで買える食材と変わらない。

今朝、ホテルでビュッフェスタイルの朝食で、海鮮の食材がたっぷりあったので、ご飯に乗せて海鮮丼もどきにして食べたら、こちらの方がずっとおいしかった。値段は観光客向けのお店の 6割程度である。これでカニ汁だのサラダだの漬け物だのフレッシュジュースだのコーヒーだのも付く。いったいどうなってるんだ。

実は、私はこう見えても舌はずいぶん肥えているのである。なにしろ庄内平野というおいしい食材の宝庫で育ったし、父は脱サラで海産物問屋をして、北海道から高級食材を仕入れていたから、母が忙しくて晩飯を作れなかったときなど、けっこう高いウニだのいくらだのをわしわし食っていた。だから、そんじょそこらの味音痴の観光客とはわけが違うのだ。

人と食事をして、「ここの店は相変わらず旨いねぇ」 なんて言われても、内心では 「いや、前回来た時よりも、かなり味が落ちたんだけど、こんな明白な違いに、この人、どうして気付かないんだろう?」 なんて思うことが度々ある。

あくまでも個人的印象かも知れないが、自称 「俺は食い物にはうるさいよ」 なんて言う人ほど、実は違いがわかっていないように思う。彼らはただ、ブランドと値段にだまされているだけだ。

庄内で育ってしまった私は、かなりおいしいものを、「フツーのメシ」 として食べていたもので、東京に出てきてうまいと評判の店で食事をしても、「ふぅん、まあ、この程度なのね」 なんて思ったりする。ただ、私はよっぽど出来損ないの料理でない限り、「まずい」 とは決して言わない。ちゃんと感謝していただくことにしている。

そして本当においしいものを食べると、その感謝の度合いがアップして、とても幸せな気分になるのである。

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2009/04/29

のほほんとシュガーレス

食工房の mikio さんのブログに、「ノーシュガーです」 というとてもおいしそうなお菓子の写真入りの記事がある。

どれもみな砂糖を使わないで、素材のもつ自然の甘味だけでお菓子のおいしさを作りだしている。こういうのを食べると、砂糖の甘味って、かなりしつこいものなのだとわかる。

「ノーシュガー」 とか 「ノンシュガー」 とか 「シュガーレス」 について、ひいき目のことを言ったり書いたりすると、ちょっとびっくりするような批判を浴びることがある。こういうのって、とても欺瞞的なことと思われることがあるようなのだ。

「砂糖不使用を謳っていても、糖類全般を使用していないわけではない」 とか、「砂糖を使わなくても、どうせ人工甘味料をたっぷり使用している」 とか 「砂糖不使用がダイエットに即結びつくわけではない」 とか、「砂糖は頭を使うときのエネルギーになる」 とか、いろいろなことを言われてしまうのだ。

そして、「砂糖不使用なんて欺瞞的。素直に砂糖を使えばいいのだ」 と言わんばかりの結論にもっていこうとされてしまう。

しかし、私は別に、砂糖を使わないくせに他の糖類を使ってまで甘味を得たいと思っているわけでもなく、砂糖を控えればダイエットできると思っているわけでもなく、砂糖を使わずに頭をフル回転させたいと思っているわけでもない。

要するに、「砂糖なんて使わなくても、おいしいものって作れるよね」 とか、さらに進んで、「のほほんとおいしいものに、なんでまた砂糖なんてしつこいものを加えて、せっかくの 『のほほん』 風味を害する必要があるのか」 とか思っているだけなのである。

スペックとしての 「ノンシュガー」 にこだわって、それを追い求めているわけじゃないので、甘味を得るために砂糖の代替として蜂蜜やみりんや甘味料を使おうなんていう気にもならない。ただ自然に 「砂糖って別に要らないよね」 と思っているのだ。

この問題で思い出すのは、大学に入って上京し、独り暮らしを始めた頃のことだ。独り暮らしだから、自炊しなければならない。それで、独り暮らし用の料理の作り方の書かれた本を買ってきた。その本に紹介されたレシピのほとんどは、調味料として多少の砂糖を加えることになっている。

初めの頃は何にもわからないから、書いてあるとおりの量の砂糖を加えて作っていた。ところが、そうして作られた料理の味には、どうにも馴染めないのである。なにしろ、甘ったるすぎなのだ。そう感じてから、加える砂糖の量をどんどん減らしていった。

例えば大さじ一杯の砂糖を加えると書いてあったら、小さじ一杯にする。小さじ一杯だったら、ほんの一つまみにする。ほんの一つまみと書いてあったら、いっそのこと全然なしにする。そうしているうちに、「砂糖なんて要らないじゃん!」 という単純なことに気付いたのだ。

大抵の料理 (甘煮とか佃煮とかは除く) は、買ってきた料理本に書いてあるレシピを無視して、砂糖なんて全然加えなくても十分においしいのだ。それに気付いたものだから、最初に買った砂糖 (1kg 入りの袋) は、半分ぐらい消費してから全然減らなくなり、棚の奥でガチガチに固まって 3年ぐらい後に捨てられた。

それ以来、私は白砂糖というものを買ったことがない。我が家の台所にも、来客用のコーヒーシュガーを別にすれば、白砂糖はない。いや、探せばどこかにあるのかもしれないが、少なくとも日常の料理で使うことはない。使わないから買わない。買わないから使わない。

砂糖の使用を推奨する立場の議論は、基本的に 「甘味を得るには、素直に砂糖を使うのが一番」 ということに帰結するように思われる。しかし私の立場は、その基本的前提の 「甘味を得るには」 というのが要らないので、話がすれ違うのだ。

「だって、砂糖なんか使わなくても、ちゃんと甘いじゃん」 で済んでしまうのである。「なんで、これ以上甘くするの?」 ということなのだ。だから、余計なものを金出して買うこともない。単にそれだけの話なのである。

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2009/01/12

本格的インドカレーに期待

昨年の 2月に 「ラーメン vs カレーライス」 という記事を書いた。外食としてのラーメン専門店の裾野は圧倒的に広がっているのに、本格的なカレーライスを食わせてくれる店が極端に少ないと嘆いたのである。

その解答はどうやら、インド・レストランの増加ということで示されつつあるようだ。

件の記事に、ヒロさんが次のようなコメントを寄せてくれている。

大人のカレーは、密かに本場インドカレー、ネパールカレーなど、インド人、ネパール人等の店に、取って代わられています。そして、ランチには、女性がカレーにナンという組み合わせで、ライス(サフランライス含)を凌駕しております。(中略) 彼らには、チェーン展開をする力がまだなく、2年後くらいに、商社がどこかの有力インドカレーを経営するインド人と組み、チェーン展開をするでしょう。

確かに近頃、街を歩いているとインド・レストランというのが目に付く。ランチ・メニューとしてお手頃な値段で、カレーとナン、そしてちょっとしたサラダと飲み物というセットが提供されているので、軽い気持ちで入れるようになった。

このカレーとナンの組み合わせというのが、従来の 「カレーライス」 というものに馴染みすぎた日本人にはちょっとハードルが高いかもしれないが、慣れてしまうとやみつきになってしまう人もいる。かなり旨いのである。

私の居住するつくば近辺でも、とくに筑波大学の周辺にインド・レストランが増えてきて、かなり繁盛しているようだ。新しもの好きのウチの次女が何軒か開拓していて、その中でもオススメという店に何度か行ったが、確かに旨い。ランチ・タイムだと、1,000円以下の出費で十分満足できる。私は 「ニュー・ミラ」 という店が気に入っている。

私はチャレンンジングにも、本格インド・レストランでも辛口とか激辛とかを注文するが、中辛程度なら日本人の口にもマイルドに馴染むようだ。ちなみに、インド・レストランの激辛カレーというのは、立ち昇る湯気を吸いこむだけでむせそうになったりするものもあるので、なめてかからないように。

なんでもつくばには、あのタイガー・ジェット・シンだか、彼の甥だかが経営するインド・レストランもあるようなのだ (どうも ここ らしい) が、まだ行っていない。たまにシン本人も顔を出すというウワサなので、一度ご尊顔を拝したいと願っている。

ヒロさんはコメントの中で、有力インド・レストランに商社が資本参加してチェーン展開するだろうと予言しておられるが、なるほど、あり得ると思う。ラーメンほどのスケールは期待できないだろうが、そこそこの市場を形成するんじゃなかろうか。

日本のカレー市場は、「家庭の味」 としてのカレーライスと、「本場の味」 の本格的インドカレーの両極に分化していきそうな気配を見せている。ただそうなると、せっかく独自の地位を築いたココイチは、どう対応することになるのだろうか? もしかして別ブランドで本格カレーとナンの店を展開しちゃったりして。

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2008/10/31

コーヒー派? それとも、紅茶派?

昨日は缶コーヒーをさんざんけなしてしまった (参照) が、私は別に缶コーヒーに恨みがあるわけじゃない。ただ、自分で金出して買う気がしないというだけのことである。

で、その記事のコメント欄に、「紅茶が好き」 という書き込みがあった。実は私の妻も、かなり紅茶が好きらしい。

私は個人的には断然コーヒー派である。紅茶は決して嫌いというわけじゃないのだが、取り立てて好きというほどでもない。それに、お茶は日本式の飲み方が一番うまいと思っているので、発酵なんて余計な手間をかけることに、少しだけ心理的な抵抗感があったりする。

そういえば私は、この 20年ぐらい、紅茶というものを飲んでいないと思う。コーヒーか紅茶かのチョイスでは、「別に嫌いじゃない紅茶」 よりは、いつも 「好きなコーヒー」 の方を選択するし、お茶を飲むなら緑茶を飲んでしまうので、紅茶の入り込む余地がないのだ。

国際線の飛行機で、フライトアテンダントのお姉さん、あるいはおばさんが、飲み物をサーブしに廻ってきてくれると、私はほぼ自動的に "coffee, please" と頼む。何しろ、私は こちらの記事 で告白しているように、飲んだり食べたりするものを選択するという行為が、ものすごく苦手なのだ。だから、いつも決まり切ったものしか注文しない。

ただ、帰りの機内での最後のサービスだと里心がついてしまっている頃なので、つい "Japanese tea, please" と頼んじゃったりしてしまう。まあ、私の選択のバリエーションなんて、この程度のものなのだ。

ちょっとネット上で調べてみたら、昨年 4~5月にアメーバニュースがネット上で行った 「コーヒーと紅茶、どちらが好き?」 という投票企画の結果が発表してあって、それによると、51%対49%という僅差で、コーヒー派が上回ったそうだ。

その投票企画の結果記事には、コーヒー、紅茶、それぞれを好きな理由というのが紹介されていて、これがちょっと面白いので、以下に引用しておこう。

「コーヒー」 と答えた人の理由として、「軽い麻薬」 「日常すぎてこれしか考えられない」 「香りが良い」 「眠気覚ましに一杯」 「甘くないから!!!!」 「にがみがいい!」 「むくみがとれる気がするから」 「中毒だから」 「黒いから」 「紅茶入れるのめんどくさい。茶殻の始末もイヤ」 「うんちがすぐ出るから」 「男は黙ってコーヒーだ」 という声があった。

一方 「紅茶」 と答えた人は (中略) 「お茶が好きだから」 「崇高な紅茶様をドブ水と比較するんじゃない!」 「コーヒーは息がくさくなる」 「コーヒー飲めないので」 「あややがCMしてるから」 「コーヒー苦い」 「コーヒー飲むと夜眠れなくなるから」 「おしゃれ」 「コーヒーは胃がもたれます」 「男は黙ってアッサムのストレート」 と理由を挙げている。

「紅茶入れるのめんどくさい。茶殻の始末もイヤ」 という回答は、「こいつ、インスタントか缶コーヒーしか飲んでないな」 というのがばれる。レギュラーで飲んだら、コーヒーだって出しがらが出る。

ただ、全体的なトーンとして、コーヒー派は 「コーヒー飲むのが日常」 と 「苦みがいい」 というややハードボイルドな理由に集約され、一方、紅茶派は 「コーヒー苦手だから」 と 「紅茶の方がおしゃれ」 という、ちょっとソフトな理由に大別されるように思われる。

こうしたコーヒーと紅茶のイメージについて、私は 3年半前に 「英国人の紅茶離れ」 というエントリーに、「紅茶は上品でコーヒーは庶民派みたいな感覚があるが、もとはと言えば、それは英国の負け惜しみだったという説がある」 と書いている。

詳細は面倒だから、元記事に飛んで読んで頂きたいが、要するに、英国は 18世紀のコーヒー利権争いでオランダに負けたので、仕方なく、ここ、敢えてもう一度繰り返すが、仕方なく、インドから大量に入ってくる紅茶に乗り換えたということである。

で、この説について、私なんぞは 「さもありなん、そりゃ、コーヒーの方が美味しいもの」 と、あっさり納得してしまっているわけなのだ。紅茶派には申し訳ないけど。

世の中には、いろいろなものを幅広く楽しまなければ損だと思っている人がいる。しかし私は、余計なことに手を出して一番好きなものを楽しむ機会の減る方が損だと思うタイプのようなのである。

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2008/10/30

コーヒーと缶コーヒーは全然別物

世の中ではかなり大量に流通しているのに、個人的には一度も買ったことがないという商品が、誰でも一つや二つはあると思う。

私の場合、その代表的なのが 「缶コーヒー」 というものだ。昨日の話題の 「カップ麺」 は、年に 1度ぐらい買うこともあるが、缶コーヒーだけは買ったことがない。

そりゃ、飲んだことはある。最初に飲んだのがいつかというのはとっくに忘れてしまったが、とにかく かなり若い頃である。何かのイベントに参加し、飲み物として配給されたものを飲んだのだと思う。

一口飲んで、「うっ、あまっ!」 と思った。残しては処理に困るので、仕方なく飲みきったが、もう二度と飲むことはあるまいと思った。

私は Mikio さんのように商売にしてしまうほどのこだわりではないが、一応かなりのコーヒー好きである。コーヒーショップではホット・コーヒー以外のものを注文するという発想がない。多い日は、1日に 5杯も 6杯も飲むことがある。そして、飲むときはほとんどブラックである。

たまに気が向いてミルクを入れることもあるが、砂糖は絶対に入れない。基本的に、「どうして苦みのおいしい飲み物を甘くして飲む必要があるのだ?」 と思っている。それに、砂糖なんか入れたら、後で口の中がべとべとして不愉快になるじゃないか。

その後、10年ぐらい前に、また何かのイベントで缶コーヒーを配給された。缶には 「微糖」 と書いてある。これなら飲めるかもしれないと思い、一口飲んでみたが、やっぱり甘すぎる。世間ではこの程度で 「微糖」 というらしい。じゃあ、普通の缶コーヒーなんて、どんなに砂糖が入っているかしれたものではない。恐ろしい限りである。

さらに、4~5年前に 「無糖」 というのを配給された。砂糖が全然入っていないなら大丈夫と思い、一口飲んだら、今度は 「まずい」 のである。出がらしの味しかしない。何が悲しくてこんなものを飲まなければならないのかというような味である。

というわけで、私は自分の金を出して缶コーヒーなる商品を買おうという気には、全然なれないのである。

私はこれまで、コーヒー好きの中の一部が、缶コーヒーを買うのかと思い、それが不思議でしょうがなかったのだが、その認識がどうやら間違っていたようだと、近頃思い当たった。コーヒーと缶コーヒーは別のカテゴリーに属するものだと理解する方が、世の中の不思議な現象を解釈しやすい。

実際には、「ブラックコーヒー好き」 「フツーのコーヒー好き」 「缶コーヒー好き」 というのがいて、2番目と 3番目は少しはオーバーラップするかもしれないが、基本的にはそれぞれ別の人たちなのではなかろうか。

ブラックコーヒーと缶コーヒーの両方好きな人というのがいるとしたら、それは多分、まったく別の飲み物と割り切っているのだろう。缶コーヒーをコーヒーと思っていては、到底手が出せない。

表示を見ても多くは 「乳飲料」 になってるみたいだしね。念のため Wikipedia で缶コーヒーの表示の定義を調べたら、次のように説明されていた。(参照

製品内容量100グラム中の生豆使用量

コーヒー
5グラム以上
コーヒー飲料
2.5グラム以上5グラム未満
コーヒー入り清涼飲料
1グラム以上2.5グラム未満

喫茶店などで供されるコーヒーの場合、100グラム中の生豆使用量は約10グラム程度とされるため、濃度規格をもっと上げるべきだという意見も挙げられていた。しかし、飲用するシチュエーションが異なる缶コーヒーとレギュラーコーヒーを同列で比較するのは無理があるという観点から、当範囲内に収めるのが妥当という結論に至っている。

「コーヒー」 と表示された商品でも 「生豆使用量 5グラム以上」 と規定されているということは、かなり太っ腹に使ったとしても 7グラムいくかいかないかだろう。フツーの喫茶店は 10グラムというのだから、半分もけちっては、出がらしの味しかしないのも道理である。

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2008/10/27

「野沢菜昆布しょうが入り」 というのが旨い

どうということはないのだが、それでも、やっぱり 「これは旨い!」 と感動してしまった。「野沢菜昆布しょうが入り」 というベタなネーミングの総菜である。

製造元は、新潟県新発田市の片山食品 (株) という会社。、「国内産原料使用」 との表示があり、それは一応信じたいと思う。

どんなものかというと、細かく刻んだ野沢菜に、これも細く刻んだ昆布としょうがを混ぜただけという、至ってシンプルなものだ。その辺のスーパーで売られている。商品紹介のページは こちら

味付けは醤油味がちょっと濃いめ。だから、ほんの少しあればご飯が進む。野沢菜のぴりっとした味に、昆布のとろみとしょうがの風味が加わって、口当たりは絶妙だ。

ご飯のおかずだけじゃなく、酒のつまみとしてもなかなかいける。動物質が入っていないので、ベジタリアンにもおすすめだ。

それにしても、野沢菜に昆布としょうがを加えるなんて、誰が考えたんだろう。やってみればこんなに旨いのに、どうして今まで気付かなかったんだ?

近頃私は、松阪牛とか上トロとかいうジャンクフード (と言い切ってしまう!) よりも、こうしたシンプルな食い物の方がずっと旨いと思うのである。タダで食わせてあげるから、どっちを選ぶ? と言われても、私は、牛肉や上トロよりこっちを選びたいと思う。

片山食品という会社は、エコ意識も高くて、割と早い時期に ISO 14001 を取得しているようで、そのあたりも好感をもってしまった。えぇと、別に片山食品から宣伝料をもらっているわけじゃなく、単純に 「旨い!」 から出発した紹介なので、そのあたり、よろしく。

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2008/07/16

「差し水」 という迷信

そうめんや冷や麦の季節になった。いや、それに限らなくても、そば好きの私は、家でもしょっちゅう乾麺のそばを茹でて食べる。

ところで、麺類の袋に書いてある 「茹で方」 に、吹きこぼれそうになったら、「差し水」 をするとおいしく茹で上がると書いてあったりするが、私は、これは迷信だと思っている。

「差し水」 は 「びっくり水」 ともいって、麺をおいしく茹で上げるために必要と、もっともらしく書かれているものがある。ネットの世界でも、例えばこちらなどは、「絶対必要」 と言い切っている。「麺の外側を締め、中まで均一に茹で上げる為に絶対必要です。びっくり水を忘れると、コシのない、だらっとした素麺になってしまいます」 というのである。

まあ、そう信じておられるなら、「びっくり水」 をするぐらいは大した手間でもないので、続けていかれればいいのだが、私個人としては、そんなことをしなくても 「コシのない、だらっとした素麺」 になるなんてことはないと、長い経験によって知っているので、やらない。

単純に考えれば、「差し水」 「びっくり水」 は、薪などの燃料しかなかった昔、火力調節が簡単にできなかったので、吹きこぼれを防ぐために水を足していたというだけの話なのだと思う。ガスコンロなどを使っていれば、火力調節は簡単にできるので、ちょいとつまみで調節すればいいだけのことだ。

差し水に麺の外側を締める効果があるといっても、沸騰する湯の中にちょっと水を差したところで、湯温がそれほど劇的に下がるわけでもない。その程度のことで麺が締まるなんていうのは、幻想だろう。

たとえ、微妙の上にも微妙に締まるなんてことがあったとしても、そもそもそれは一瞬のことで、またすぐに沸騰してしまうのだから、ほとんど意味がない。

確かに麺を 「締める」 ということは重要である。しかし、そのためには、茹で上がってからいかに素早く冷水に浸すかということの方が、ずっと重要だ。それに尽きる。

あらかじめ大きなボウルに冷水をたっぷり用意しておくのは当然だが、ざるですくい上げた麺をそれに浸す前に、思いっきり水道水をかけ、その後にボウルの水に浸すと、効率よく冷えてよく締まる。ボウルの水は最低でも 2回、うどんのように太めの麺なら、3回以上換えて締めなければならない。

専門店では氷水でキンキンに冷やしたそうめんや冷や麦を供してくれるところもあり、真夏の昼などにはとてもうれしい。しかし、そばの場合はそこまで冷やしてしまうと香りの立ち上るのが犠牲になるので、やりすぎだと思っている。

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2008/02/12

ラーメン vs カレーライス

煩悩則道場の ululun さんが、 「カレーライスは日本の国民食から外れつつあるのか」 という疑問に、とても論理的なアプローチをされているが、結論は 「わからない」 だそうだ。

私の直観的な印象は、「ラーメンばかりもてはやされすぎで、カレーへの関心が逸らされている」 というものなのだがどうだろう。

近頃、うまいラーメン屋が確かに増えた。私の学生時代は、ラーメンなんていうのは 「街の中華料理屋」 で供される、いわゆる 「中華そば」 が主流で、客としてもとくに 「うまさ」 なんてものは求めてなかったような気がする。腹が満たされさえすればよかったのだ。

ところが、いつの頃からか 「ラーメン道」 みたいなものがもてはやされてきて、いわゆる 「中華そば」 のイメージは廃れ、「ラーメン専門店のラーメン」 というのが幅をきかせてきた。街を歩けばそんなような店が増えて、競合も激しくなった。おかげで、ラーメンの世界は裾野が広がり、ピークも高くなった。

ところが、その一方でカレーライスは取り残されつつある。カレーの世界は今でも、ラーメンが既に過去のものとしてしまった 「中華そば」 的なレベルから脱していない。「街の食堂の定番メニュー」 に過ぎないのである。

「こだわりのカレー」 というのを供する店もあるにはあるが、多くはその店の代表メニューというわけではない。中村屋の 「カリーライス」 にしても、今イチ、インパクトには欠けるきらいがある。

「カレー専門店」 というのも、確かにある。しかし、ラーメン専門店ほどの激しい競争に晒されていないから、店ごとのこだわりというのが、ほとんど感じられない。わずかに 「ココイチ」 がチェーン店としての存在感を発揮しているが、ラーメンの世界ほどのレベルには至っていない。

この原因は、多くのカレーが 「子供の味」 に終始しているからだと思うのだ。インパクトに欠けるのだ。多くの店でいうところの 「辛口」 を注文しても、ちっとも辛くないじゃないか。カレーはいつまで経っても、「黄色いあんかけめし」 から脱却できていない。

私は 「辛くてうまいカレー」 が食べたいのである。ココイチで言ったら 7辛レベルのもので、初めて 「カレーを食った」 という気がするのだ。カレーにこだわる客のニーズに応えるカレー店が少なすぎだ。

それから、「ご当地ラーメン」 があっても 「ご当地カレー」 というのがないというのも、カレーのマーケティングの限界を示している。イメージにラーメンほどの膨らみがない。

願わくは、本場もんの味を出せるインド人の店で修行した日本人が、「インド料理レストラン」 ではなく、「昼飯に気軽に食える本物のカレー」 といったようなマーケティングをしてくれることだ。そこからカレーの世界はどっと広がって、今のラーメンに対抗できるものになるような気がする。

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2007/12/30

「正しい和食」 その後

昨年の 12月は、農水省による 「正しい和食認証制度」 の話題に花が咲いていた (参照 12)。予算が 2億何千万円だかついたはずなのに、あれから一体どうなったんだろう?

そう思って調べてみたら、どうやら今年 3月頃に、「認証制度」 から 「推奨マーク制度」 にトーンダウンして落ち着いたようなのだ。

農水省のサイトで調べてみると、「日本食レストラン認証有識者会議」 というのが、平成 18年 11月 22日の第 1回目を皮切りに、今年 3月 16日まで、3回開催されている。面白いことに、第 3回目は、名称が 「日本食レストラン推奨有識者会議」 に変更されている。

米国からは 「スシポリス」 との猛反発を受け、国内からも 「税金使ってやるほどのことか」 とか、いろいろな疑問の声が上がったことを背景に、4ヶ月足らずのうちに 「認証」 を 「推奨」 に格下げして落としどころを作ったようなのだ。

有識者会議の議論の模様は、「第1回海外日本食レストラン認証有識者会議における論点別にみた発言の概要」 という報告書をみるだけで、想像がつく。要するに、いろいろな意見がバラバラ出過ぎて、まとまりがつかなくなったもののようなのだ。

「実は日本でもきちんとした日本料理の定義はないし、認証自体は難しい」 なんていう、そもそもぶちこわし的な意見が冒頭で出されており、さらに、「国際問題にならないように留意したい」 という慎重意見もある。

また、「現在の日本食のトレンドがフュージョンであるとすれば、それを抑えるような認証はさけるべき」 というちょっとペダンチックな指摘が出される一方で、「認証にはある程度、権威を持たせるべき。中途半端はよくない」 というかなり強硬な意見もみられる。

というわけで、有識者懇談会は第 3回目の会議終了と同時に、認証制度をマイルドにした推奨計画に変更するよう松岡利勝農水相に提言し、使命を終えたもののようなのである。

この方向性は、第 2回目会議を終えて、第 3回目の予定を決めた際には、もう見えていたのだろうね。事前に有識者会議の名称が変わっていて、会議終了と同時に提言を行い、プレス発表までしちゃってるぐらいだから。(日本語では、こういうのを 「できレース」 という)

共同通信によると (元記事は削除されてるので、こちら から孫引きさせていただいた)、

提言によると、推奨マークは各国の日本食レストランから申請を受けて審査し、合格すれば交付する。(1)コメ、みそなど主要な食材 (2)調理技術 (3)味付けや盛り付け-などを総合判断する。

ということになったらしい。いつの間にか、「日本食レストラン海外普及推進機構 (JRO)」 なんていう組織が港区芝公園の一等地に設立されていて、「海外の日本食レストランに対し一定の推奨を行う取組」 を開始している。ああ、また役人の天下り先が一つ増えている。

まあ、それはそれでいいけど、実際に 「推奨を受けたい」 なんていう申請がどのくらいあがってくるものか、私ははなはだ疑問である。

本当にどこに出しても恥ずかしくない日本食レストランなら、わざわざこんな 「推奨マーク」 なんてもらわなくても、既に十分な 「のれんの力」 を持っている (船場吉兆のことは、ちょっと忘れていただきたい)。他の二流店と同じマークなんて付けたら、その他大勢と同列視されかねないから、「そんなものいらない」 ということになる。

オートクチュールのブランドが、「ウールマーク」 なんて付けないのと同じことだ。

実際には、このマークを欲しがるのは基準すれすれの二流店だろう。そうなると、マーク自体の 「ブランド力」 が、それほど大したものじゃないということになるのは目に見えている。要するに、「あんまり意味ないよね」 ということだ。

イタリア料理とタイ料理では、こうした認証制度があるらしいのだが、そんなものが実効的に機能している例を、私は 1件も知らん。あるいは、私が知らないというだけなのかもしれないが、私のような者でも知っているようでなければ、そもそも意味ないだろう。

こういうことは、ミシュランみたいな民間活力に期待する方がいいような気がするがなあ。(私は別にミシュランびいきってわけじゃないけど)

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2007/11/23

食い物の好き嫌いは 「記憶」 に左右される

今月 17日に、「味覚データベース」 ということを書いた (参照)。人間は、食い慣れたものの味はよくわかるが、食い慣れないものの旨い不味いは、わかりにくいという話である。

つまり、人間は食べ物を味わうにも、「味覚データベース」、つまり、「味の記憶」 に頼って味わっているようなのだ。

以前に似たようなことを書いた覚えがあって、自分のサイトの中を検索してみたら、「味覚の衰え」 という文章が見つかった。約 5年前に書かれている。「今日の一撃」 の更新にココログを使い始める前のことである。

私はこの文章の中で、"人間は 60歳になると味覚を感じる器官の 「味蕾」 が、20歳の頃の半分に減ってしまう" という説を紹介して、次のように述べている。

それを感じるのは、とても微妙な味わいのものを食べた時だ。「この食べ物は、このような味がするはずだ」 という、いわば 「味の記憶」 が働いて、それを確認しようとするのだが、その通りの味覚が得られていないような気がするのである。

私は既に 5年前に、自らの味覚の衰えを自覚してしまっていたもののようなのだ。5年前にそんなことなのだから、今となってはもっと味蕾が減って、味覚はさらに衰えているに違いない。

しかし、だからといって 「食の楽しみ」 が減っているわけでは決してない。それは、若い頃から食べ続けてきたことによる 「味覚データベース」 が、純粋味覚の衰えをカバーしてあまりあるほどに充実しているからだと思う。まさに、人は味の記憶力で食べ物を楽しんでいるのだ。

味蕾の数の減少で、純粋味覚は衰えているのだろうが、その分、他の要素には敏感になっている気がする。他の要素とは、5年前にも書いているが、「硬さ、柔らかさ、ねばり、あっさり感、喉ごし、舌触り、コシ」 などの食感だ。トータルな 「味」 は、味蕾で認識する純粋味覚だけではないのである。

私はどちらかというと、しっかりした 「歯応え」 を重視するタイプのようだ。いかそうめんの 「ぷりぷり・しこしこ感」 とか、よくできたそばの 「エッジ感」 とかは、えもいわれぬ満足感を与えてくれる要素である。

しかしその分、「舌の上でとろける感じ」 は、あまりぴんと来ない。大トロや極上霜降り牛肉などは、別に嫌いというわけではないが、あまりありがたいとも思わない。対費用効果があまりよろしくないから、自分の金で食おうとは、決して思わない。

これなんかも、実は、人間は記憶力で味わっていることの証明のような気がする。

高校時代に亡くなった祖母は、非常に病弱な人だった。晩年はとくに消化器官が弱まり、固いものは何も食えなかったのである。私は中学時代、共働きだった両親の代わりに、祖母のために、とにかく柔らかい料理をつくってあげていた。

まるで糊のようなおかゆ、箸ですくえば解けるほど柔らかいうどん、煮くずれかけた魚などである。そのくらい柔らかくないと、祖母は口にできなかったのだ。そしてこの記憶が、私の食感の好みを決定づけたような気がする。

あの時の記憶がちょっとしたトラウマとして残ったようで、私は、「病人じゃあるまいし、おかゆなんか食えるか」 とか 「舌の上でとろけるのがありがたかったら、縁日の綿菓子でも食ってろ」 とか、ちょっと極端なことを言い出す人になってしまったのである。

食い物の好き嫌いというのは、純粋な味覚とか食感とかいうよりも、「記憶」 に左右されている場合が多いのだと思う。ちょっとしたトラウマ的記憶に結びついた食べ物というのは、「そんなもの喜んで食べたら、自分のアイデンティティが損なわれる」 みたいな気になってしまうのだ。

その 「記憶」 が、潜在意識の中に埋もれていて意識化されていないほど、自分の意志ではコントロールできず、どうしても食べられないとか、食べても戻してしまうとか、ちょっと病的なことになったりするんじゃあるまいか。

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2007/11/21

ミシュランガイド 東京版ねえ

「ミシュランガイド」 初の東京版が話題になっている。東京の星付きレストランは、1都市としては世界最多の 150店だそうだ (参照)。

東京という都市の規模と、日本料理、寿司などを含むありとあらゆる種類のレストランの集積を思えば、そのくらいの数はあっても当然だろうが、どうせ、私にはあまり縁がない。

「どうせ縁がない」 と思いつつ、紹介されたレストランの名前を追っていると、1つ星の付いた 117店のうちに行ったことのある店を 3店も発見して、我ながら驚いた。蕎麦屋 2店に、フランス料理屋 1店である。長く生きていると、それくらいのことはあるみたいなのだ。

3店のうち、蕎麦屋 2店は自分の金で食ったが、フランス料理は以前の会社の金である。自分の金で食った蕎麦は大層おいしく、満足したが、会社の金で食ったフランス料理は、あまり印象に残っていない。だから私はメシは自分の金で食うべきだと、常日頃から思っているのである。

実は、1つ星のフランス料理屋で過ごした 1時間余りは、私にとっては今でも 「無駄な時間を過ごしてしまった」 と悔やまれる時間である。それは料理が不味かったということではなく、その食事の間に、優雅な料理にふさわしい会話がちっとも弾まなかったからだ。要するに、あまり楽しい顔ぶれじゃなかったのである。

私は、旨い酒と旨い料理は、楽しい会話、談論風発と切り離しては考えられない。ただしんねりむっつりと、「さすが旨いね」 「すごい、おいしいね」 なんて、べたべたに即物的でふくらみのないことばかり言い合いながらメシを食っても、全然つまらないじゃないか。

メシというのは、気の合う仲間と、目の前の料理から飛んだ話題で盛り上がりながら食うのが、一番旨いのである。だから、3つ星だろうが 1つ星だろうが、大衆酒場だろうが、まともに料理してありさえすれば、ランク付けに頓着するなんてことは、それほど意味のあることとは思えないのだ。

話のふくらまない顔ぶれと 3つ星レストランで、接待費でメシを食うよりは、1人で静かに想像力をふくらませながら、無印のめし屋で自前で食う方がずっとましだ。

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2007/11/17

食べ物の偽装問題にはシニカルな私

船場吉兆の消費期限や産地の偽装がばれて、大変なイメージダウンの 「吉兆」 というブランドだが、蕎麦屋の 「藪 (やぶ)」 ほどじゃないにしても、暖簾分けやらなんやらで、どこに行っても 「吉兆」 という店がある。

いくら高級店でも、これだけ拡大してしまったら、そりゃあ、何かあるさ。

高級料理店なんぞにあまり縁のない私だが、一度だけ 「吉兆」 という名の店で食事をしたことがある。以前勤めていた会社で上司と一緒に米国に出張したとき、マンハッタンの 「吉兆」 という店で接待を受けたのである。上司と一緒でなかったら、こんな店には連れて行ってもらえなかっただろうが。

で、その時の印象だが、サービスはさすがに行き届いているけれど、料理は 「フツーにおいしい」 程度のものだった。やたらと高い値段だったようだが、それは料理に払った値段ではなく、「吉兆」 というブランドに払った値段だったと思う。会社の金でなかったら、誰も行かない。

しかし、世の中にはブランドと値段でだまされる人がいくらでもいる。消費者の味覚なんて、はっきり言って当てにならないのである。いくら高級料理といっても、ブラインドテストをしたら、ほとんどの人はさっぱりわからないのだ。

エビアンとヴォルヴィックとクリスタルガイザーの違いとか、北海道産と信州産の蕎麦粉の違いならきちんとわかる私でも、比内鶏とブロイラーの違いなんて、多分わからない。それは、普段、比内鶏なんて食いつけてないから、味覚のデータベースにないからだ。

「ウチの主人は料理にうるさくて、お米はコシヒカリしか食べないんですよ」 なんていう話をよく聞くが、それは、毎日コシヒカリのご飯を食べているから、体内の味覚データベースにしっかり記録されているからだ。ほかの米を使ったご飯を食べさせられると、「ん? ちょっと違うな」 とわかる (かもしれない) だけの話である。

だから、コシヒカリしか食べないご主人が、料理全般にグルメというわけでは決してない。多分、殆どの人は比内鶏とブロイラーの区別はつかないだろう。逆に、お米は何でも構わなくても、地鶏しか食ったことのない人は、ブロイラーを食わされたら、「何だ、こりゃ?」 と思うかもしれない。

高級料理店というのは、一般人の味覚データベースにない料理を、「おいしい」 という幻想付きで、高い値段で食わせる店なのだと、私は思っている。

その幻想が通用しない者にとっては、A 5 ランクの最高級牛肉でも、「ちょっとミステリアスなものを口に入れちゃった」 ぐらいの感慨しかわかないというのは、今年 9月 14日のエントリーに書いたとおりである。

だから、一連の食べ物関連の問題については、そりゃ、偽装は悪いことには違いない (「詐欺」 という立派な犯罪だしね) けれど、私個人としては、正面切って攻め込む気にはなれないのだよね。私が責めなくても、それについては世の中の大勢が責めるから、いいのである。

赤福だの白い恋人だの、比内鶏だの、但馬牛の何とか漬けだのは、どうせ、1年に 1度も食わないから、個人的にはあんまり実害ないし。牛乳の賞味期限だって頓着してないし。

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2007/09/14

最高級牛肉って、本当においしい?

近頃、しゃぶしゃぶをメイン料理にした宴会に出る機会があった。しかも、肉は掛け値なしに最高級 (A 5 ランク) の前沢牛である。

ところが、申し訳ないけれど、私は最高級の牛肉というものに、さっぱり魅力を感じない人なのである。で、宴席ではもっぱら野菜とうどんばかり食べていた。

いや、お付き合いで、その最高級霜降肉を 2枚ばかり食べた。1枚は刺身でポン酢をつけて、もう 1枚は、さっと湯に通して醤油だれにつけて。まあ確かに、舌の上でとろける極上品ではあった。しかし、それだけのことで、3枚目を食おうという気にはなれなかった。

そりゃ、不味いとは思わない。しかし特段うまいとも思わないのである。率直に言うと、「ちょっとミステリアスなものを口に入れちゃった」 という感覚なのだ。常温で放っておくと、だんだんベトベトになっていく様を眺めているだけで、なんだか気持ち悪くなってきちゃうし。

廻りの人たちが 「おいしい、おいしい」 と感激して食いまくるので、だったら、せっかくの肉も彼らに食ってもらう方が本望だろうと思い、私の管轄からはすっぱりと外させていただいたわけだ。

前にも書いたことがあると思うのだが、そんなに舌の上でとろける食感がありがたければ、縁日の綿菓子でも食っていればいいじゃないかと、私は思ってしまうのだよ。だから、マグロの大トロなんかも、ちっともありがたくないのだ。

私は元々、あんまり牛肉を食おうという気にはならないのだが、食うなら食うで覚悟を決めて、米国中西部流のわらじみたいな歯ごたえのステーキをわしわし食う方が、ずっと性に合っている。その気になれば、1ポンド (約 450g) なんて軽い。

BSE の牛肉はもちろん食べたくないが、日本の最高級霜降り肉というのも、十分 「ビョーキの牛」 のような気がしてしまうのだ。少なくとも健康じゃない。超メタボ牛というべきか。あんまり自分の体の構成品に加えたくないと思うのである。

前沢の牛さんたちには、申し訳ないけど。

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2007/07/10

男の家庭料理

最近、何かと忙しくて疲れがたまっているようで、昨夜も日付が変わる頃に、ほとんど気絶するようにばったりと眠ってしまっていた。

というわけで、日付が変わった直後の更新は今日もならず。夜中や朝イチでチェックしてくださる常連さんには申し訳ないが、「毎日更新」 だけはちゃんと続けるので、よろしく。

「忙しい」 といっても、忙しさの種類がちょっと違うが、最近、周囲に妻の介護をする男が増えている。平均的には女のほうが男より長生きだが、それでも、妻の方が先立つというケースだってないわけじゃない。身近な例では、妻の親や私の親の場合もそうだった。

私の母は今年の 5月に亡くなったばかりだが、父はそれまで 7年間も妻の介護を続けたのである。一口に 7年というが、それはそれは大変なことである。寝返りすら自力ではできない者の介護をすると、まとまった自分の時間などというのは、1日中ほとんど取れない。

老齢の妻の介護をする夫の共通した悩みのひとつは、食事の世話である。それまで台所になんか立ったことのない男にとっては、なおさらだ。なにしろ相手は病人だから、スーパーの惣菜を食べさすわけにもいかない。病人にも食べやすい献立を考え、自力で素材を買い、料理しなければならない。

そうなると、家庭料理に慣れない男のやることとて、つい手がかかりすぎるのである。料理の作り方なんていう本を買うにしても、男が選ぶのは、なぜか手の込んだしっかりした料理を作らせたがる本が多い。

レシピを読むと、材料はニンジン 1/2本とか、サラダオイル小さじ 1杯とか、赤味噌 30g とか、やたらと話が細かかったりする。「適量」 とか 「お好みで」 なんてことはあまり書いてない。そして、几帳面な男ほどしっかりとマニュアル通りに作りたがる傾向が強く、それで疲れてしまったりするのである。

「料理なんて、もうちょっと手抜きでいいんじゃないの?」 と言うと、「その手抜きの仕方がわかるようになれば、一人前なんだけどね」 なんて返事が返ってくる。気の毒に、それまでは料理が 「非日常」 だったために、ちゃちゃっと手軽に作ることができないのだ。

「男子厨房に入るべし」 なんて言って、やたらと気張った 「男の料理」 というのを推奨する向きもあるが、あれらの多くは、せいぜい半月に 1度でいい類の料理である。毎日そんな気合の入りすぎたものを食わされたら、家族はかえって気苦労である。

その辺、私なんか中学生の頃から、共稼ぎの両親の代わりに病気がちの祖母の夕飯を適当に作ったりしてたから、「日常的お手軽料理」 には慣れている。学生時代にアパート暮らしをしていた頃も、料理に手間なんかかけたくなかったから、ありあわせでちょこちょこっと作っていた。

男もフツーの家庭料理を作れるようになっておかなければならない。そうでないと、「妻に先立たれた男は 5年しか生きない」 なんてことになってしまう。まあ、妻のほうが長生きしてくれる方が、確かにずっと楽なのだが。(妻にとってはどうだかわからないけど)

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2007/05/29

食の 「ありがたさ」 と 「ありがたみ」

今でこそ納豆なんて、日本中どこのスーパーでも買えるが、私が学生の頃は、東京に来て初めて納豆というものを見たとか食ったとかいう関西人が、案外多かったものである。

ましてや、「辛し明太子」 とか 「ししゃも」 なんて、かなりレアな食材で、九州とか北海道に行かないと食えなかった。

昔は、大学に入って上京した関西人が、「東国で名高い 『納豆』 というものを試してみよう」 なんて思って、当時全盛を誇った 「定食屋」 というスタイルのメシ屋に入り、生まれて初めて実物の納豆を見た途端にカルチャーショックを覚えるなんてことが、ごく普通にあったのである。

さらに、そっと店のおばちゃんを呼び、「な、な、おばちゃん、この納豆、腐っとるで。見てみ、糸引いてるやん。黙っといたるからな、こっそり新しいの持ってきて」 なんてことを言って、恥をかいてしまった関西人も、一人や二人ではなかったという。

辛し明太子なんてものも、今ではどこのスーパーでも買えるが、以前は北九州に旅行した際の 「おみやげ物」 だった。だから、身近に北九州に旅行した者がいないと、辛し明太子というものも 「幻の食品」 だったのである。

私が中学の頃、北海道に単身赴任した父から届く手紙に 「今日は、ストーブで 『ししゃも』 を焼いて食べた」 なんて書いてあると、「ししゃもって、何だ? 俺も食ってみたい」 なんて強烈に思ったものである。

それが今や、日本中に広まってしまった。しかし、本物のししゃもは供給不足なので、日本で流通している 「子持ちししゃも」 の 90%は 「カベリン」 という代用品なのだということは、既に広く知られるところとなってしまった (参照)。しかも、オスの腹にまで注射で卵を入れて 「子持ちししゃも」 化させているという噂まであるが、本当のところはどうなんだろう。

最近になってにわかに全国区になったものには、沖縄の 「ゴーヤーチャンプルー」 がある。私なんか、これは大好きである。

さらに、上野駅構内の売店を覗けば仙台名物の 「ずんだもち」 が一年中売られ、東京駅構内では広島土産の 「もみじまんじゅう」 が幅をきかせる。今どき、本当に現地に行かないと食うのが難しいという食材は、あまりなくなってしまった気がする。

こうなると、食べたいものを気軽に求めることができるというのは、ありがたいようだが、「ありがたみ」 ということになると、ちょっと薄くなっているような気がする。コンビニエントな 「ありがたさ」 と 気分としての 「ありがたみ」 というのは、違うのである。

そんな中で、今でも 「幻の食品」 といっていいものに、九州の 「おきゅうと」 と 「からすみ」 というものがある。ところが、このうちの 「おきゅうと」 というものは、最近になって私にとってもお馴染みのものであるということがわかった。

というのは、「おきゅうと」 は、私の生まれた庄内地方では 「えご」 といわれるものとほとんど同じものであるようなのだ (参照)。南里商店のおきゅうとなんて、私の知っている 「えご」 にそっくりじゃないか。なんだ、「ありがたみ」 が一挙にうすれてしまったなあ。

となると、正真正銘の 「幻の食品」 は、「からすみ」 にトドメをさすように思われる。これは、博多に出張するたびに空港の土産屋でそそられるのだが、やたらと高いので、つい辛し明太子の方を買ってしまうため、まだ食ったことがないのだ。まだまだ 「ありがたみ」 度は高い。

あ、それから、宮城県の珍味 「ほや」 はとてもおいしいから、仙台に旅したらぜひ試していただきたい。まだそのへんのスーパーで買えるほど一般化してないから、「ありがたみ」 度も維持されてるし。

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2007/02/23

「ホッピー」 というものを試してみた

ホッピー」 なる飲み物があるということは、何十年も前から知っていたが、なぜかこの年まで飲んだことがなかった。で、急に思い立って、飲んでみることにしたのである。

「ホッピー」 とは、基本的に清涼飲料水である。だが、アルコール分が 0.8%含まれていて、見た目はもろにビールのようなのだ。

いわば、ノンアルコールビアの草分けのようなものである。ただ、オッサンたちがゴルフ帰りにアルコール抜きの乾杯をするためというニーズには、ほとんど適用されない。0.8%とはいえ、アルコールが含まれていないわけでもないし。

ホッピーのニーズというのは、酔わないためというよりは、安上がりに酔うためということにある。酔わないためにアルコール抜きなのではなく、安上がりにするためにアルコールを抜いてあるのだ。飲むときに焼酎を加えて、「ビールのようなカクテル?」 に仕立てるのである。

「ホッピー」 という名称は、元々の清涼飲料水の商品名であると同時に、焼酎を加えて酔えるようにしたカクテルの名称でもある。搾菜 (ザーサイ) が野菜の名前であると同時に、その野菜を原料にした漬け物の名前でもあるようなものだ。(我ながらいい例えである)

私が昨日用意したのは、西友で買ってきた 「ホッピー 330」 (330ml、121円) と、宝焼酎 の 「タカラカップ」 (アルコール 25%、220ml、183円)。合計 304円だが、焼酎は半分ぐらいしか使わなかったので、小ジョッキ 1杯で、実質 215円ぐらい。

これらを冷蔵庫で冷やして、ついでにジョッキも冷やす。この作法を 「三冷」 というらしい。そして、まず焼酎を半分ちょっとぐらいジョッキに注ぎ、次いで、ホッピー 1瓶をどばっと勢いよく注ぐ。

本当は 焼酎 1 にホッピー 5 の割合がいいらしいのだが、ついなりゆきで、1:3 ぐらいになってしまった。で、ご覧の通り、見た目はもろにビールだが、アルコール度数はざっと計算すると、約 7%と高めである。

おそるおそる、一口飲んでみる。思ったほどへんてこな味ではない。それどころか、その辺の発泡酒なんかよりは旨い。本物のビールのようなコクとかキレとかとは無縁だが、口当たりがよくて飲みやすい。つまみは、バタピーとか柿の種とか、安っぽい乾きものが合いそうだ。でなければ、モツ煮込みとか。

あまりの飲みやすさに、二口めはほとんどイッキ飲みで開けてしまったのだが、さすがにベースは焼酎である。しかも、ビールの倍ぐらいのアルコール度数にしちゃったので、その後、5分ぐらいして、「ありゃ?」 と思うほどの酔いが急にきた。ビールの酔いは緩やかにくるが、ホッピーの酔いは急に来る。

白状するが、このおかげで、昨日の当コラムの更新はちょっとだけ難儀だったのである。

これさえ注意すればなかなかオツなものだが、単に値段だけを考えれば、今やホッピーより発泡酒の方が安上がりなぐらいである。ホッピーは、単なる安上がりに酔える酒というより、今や、趣味の酒という意味合いももちつつあるのかもしれない。

ちなみに、雑誌 「酒とつまみ」 編集発行人、大竹聡氏の 『中央線で行く東京横断ホッピーマラソン』 という本がある。書店で見つけたら読んでみよう。この本について、著者自らラジオで語っているのは、こちら (Podcast で音が出るので注意)。

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2007/02/15

マックとスタバで考えた

米国の米有力消費者情報誌 「コンシューマー・リポーツ」 が、スタバよりマックのコーヒーの方がおいしいと言っている (参照)。

もっとも、これはマックのコーヒーの中でもちょっと違う 「プレミアム・ロースト」 のお話ということで、私は永らくマックに縁がないので、日本でも味わえるのかどうかも知らない。

ただ、確かにマックのコーヒーは捨てたモンじゃないということは言えると思う。特別においしいというわけでもないが、ぞんざいな感じもしない。それに、あのハンバーガーとフレンチフライのキッチュな香りと味に合わせるために、最適化されているとは思う。

一方、スタバの方は、毎日いろんなブレンドを提供してくれるので、「これがスタバの味」 というイメージを構築しにくいところがある。だから、私は何年も口にしたことのないマックのコーヒーの味は明確に想像力の中で再構築できるけれど、スタバの味はそうはいかない。

この、味覚とか風味とか口当たりなどを想像の中で明確に再構築できるというのは、できそうでできないことらしい。何しろ、いろいろな食べ物、飲み物を口にして、瞬時に判断できるというのは、なかなか難しいことのようなのだ。

以前勤めていた職場で、食品関係の営業スタッフが、ミネラル・ウォーターの試飲をさせてくれたことがあった。3種類だったかのミネラル・ウォーターと、普通の水道水を試飲して、違いがわかるかというのである。

職場の連中が試飲して、「さっぱりわからない!」 とかなんとか盛り上がっているところへ、遅ればせながら私が登場して、ちょこちょこっと飲み比べてみたら、簡単にどれがどれだかわかってしまった。

同僚たちはびっくりして、「なんでわかるの?」 と聞く。しかし私には、こんな明確な口当たり、喉ごしの違いの区別が、どうしてつかないのかの方が理解できない。赤と白が視覚的に簡単に区別できるぐらいに、明確な違いである。

「どうして、こんなはっきりした違いがわからないの?」
「わからないよ、さっぱり!」

というわけで、私はそれ以後、フツーのおっさんたちが、「あそこの店は旨い」 だの 「不味い」 だの言うのを、信用しないことにしたのである。水の違いがわからん人が、どうしてメシの旨い不味いがわかるものか。

というわけで、私は、食い物、飲み物の味がかなりよくわかるようなのである。まあ、子供の頃から酒田の旨いもので育ったのだから、舌が肥えるのも当然だ。

しかし、私は食い物に贅沢は言わない主義である。おいしいものはおいしく、不味いものも、口に入れるのもはばかられるようなものでない限り、それなりに感謝して戴くことにしている。

それに、高級なレストランでもさっぱりおいしくないところもあれば、庶民的なジャンク・フードでも、かなりおいしいものもある。食い物というのは値段じゃないのである。

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2007/01/07

マグロにイワシ

「鮪の刺身を食いたくなったと/人間みたいなことを女房が言った」 と、詩人・山之口貘は 「鮪に鰯」 の冒頭で呟いたが、金があろうがなかろうが、マグロはだんだん食いにくくなる。

私はあんまりマグロに思い入れがなくて、イワシの方が好きというぐらいのものなので、世の中が何でそんなに騒ぐのかわからない。

私は寿司でもあんまり 「赤ネタ」 は食わない。好きなのはイカとホタテとイワシ、アジといった、地味な系統だ。いくら近頃イワシが高くなったとはいっても、依然として経済的な好みなのである。

マグロなんて、冷凍を下手に解かしたようなヤツを出されると、水っぽくてどうしようもない。近頃では、まともそうな居酒屋などでも、この類のマグロが出てくる確率が高いので、油断がならない。

さらに、「大トロ」 なんてのは高いばかりで、口の中に入れると本当に舌の上ですっと溶けてしまうのが、どうも気に入らないのである。その食感を珍重する人もいるが、私は 「そんなのがありがたかったら、綿菓子を食え」 と言いたくなってしまう。

それは、霜降り牛肉にも言えることで、私はステーキとかしゃぶしゃぶなんてあまり食う気はしないけれど、どうせ食うならあんなんじゃなく、歯ごたえのあるやつを、わしわし食いたいのだ。病人のおかゆみたいな食い物は、まっぴらなのである。

世の中には、マグロが気軽に食えなくなるのを妙に惜しむ人がいる。彼らは、食卓にあの赤身の刺身があるというだけで、心が豊かになるらしい。その気持ちはわからなくもないけど、私としては、「別に、なくたっていいじゃん」 としか思えないのである。

山之口貘の 「鮪に鰯」 は、ビキニ核実験に反対する思いを詩にしたものだといわれるけれど、私はずっと、「マグロなんて、別に食わなくていいじゃん」 という詩なんだと思っている。

本当に本当に、イワシの方がずっとおいしいと思うし。

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2006/12/16

酒の方面の 「グルメ」

東京都内などに出かけるときは、自宅から常磐線取手駅近くに借りている月極駐車場まで車で行き、そこから電車に乗る。帰りも車を運転するので、当然、酒は飲めない。

で、最近、めっきり外で酒を飲む機会が減った。昨日は今年初の忘年会だったが、全員食事のみで、アルコール抜きだった。

昨日集まった参加者のほとんどが、車で来ているので、自然にアルコール抜きということになったのだ。以前ならば、「まあ、ビール一杯ぐらい、いいじゃないですか」 なんて、無理にでも勧めたがる人がいたが、最近はさすがにそんな無理強いはしない。

アルコール抜きの忘年会なんて、なんと味気ないと思う人もいるかもしれないが、そんなこともない。全員、盛り上がり上手だから、飲まなくても十分に盛り上がる。アルコールの助けなしの、ナチュラルな盛り上がりだから、それはかなり充実した盛り上がりである。

考えてみれば、酒がないと盛り上がれないというのは、困ったものである。酒の力で理性や判断力を麻痺させて、べろんべろんになった姿を見せなければ信用がおけないなんていう価値観は、もうそろそろ捨てなければならない。

私なんぞは逆に、酒のせいでぐずぐずになった姿を見せられると、そいつを信用したくてもできなくなってしまう。

酒の力なしで、きちんと自分の人間性を表現し合える場というのは、なかなかいいものだ。まあ、べろんべろんに酔っぱらうのでなければ、多少の酒があってもいいのだが、なくたって、一向に構わない。

誤解しないでいただきたい。私は、酒は好きである。大好きである。一時は、毎日のように浴びるほど飲んだおかげで、かなり鍛えられて、少しはいける口になっていた。

しかし、遺伝的に言えば、アルコールにはそれほど強い体質ではない。だから、飲む量が減ると、一気に酒に弱くなる。最近では、ちょっと飲み過ぎると動悸が激しくなって、頭が痛くなる。

だから、少しの酒を味わって飲むのはいいが、飲み過ぎて酔っぱらうのは、身体的にかなり苦痛である。好きな酒を飲んで苦痛を味わうのはごめんだから、飲み過ぎたくはない。

「食」 でいえば、「グルメ」 は美食家で、「グルマン」 が大食家なのだという。だったら、私は今後は、酒の方面の 「グルメ」 で行きたいと思っている。おいしい酒をほんの少し飲めば十分なのだ。

そして、酒の力なんか借りなくても、ナチュラル・ハイになれる体質だから、心配無用である。

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2006/12/12

「正しい和食」 は高くつく

農水省が世界中の和食レストランを審査して、 「正しい和食」 の認証を与えるシステムを検討しているというニュース (参照) を、私は複雑な思いで受け取ってしまった。

「お役所は、国際的な食文化に口出しするな」 という主張もあるようだが、結局これって、とても単純にドメスティックなお話だと思うのだ。

海外で "Japanese food" という名の珍妙な物を食べさせられて、「これのどこが日本食なんだ!」 と怒鳴りたくなったという経験は、多くの人がしているようだ。ならば、「正しい和食」 のお墨付きがあれば、日本人が渡航先で、安心してメシが食えるという発想は、理解できないこともない。

つまり、ここでしっかりと確認しておくべきは、この制度が 「日本人旅行者が安心して食える保障」 にすぎないんじゃないかということだ。ただ、認証されたレストランの多くは、お金の支払いという観点からすると、全然安心できないような高級店になるだろう。

海外で 「まともな和食」 を食おうとすると、かなり高いものにつく。それは当然で、和食は素材が命だから、希少な高級素材を使わざるを得ない。そして、調理師にしても仲居さんにしても、あまり適当なバイトを使うわけにもいかないから、人件費もそれなりに高くつく。

私に限って言えば、海外に行ってまで和食を食おうという発想がない。20年ほど前に、ニューヨークの 「スシ・バー」 で 「アボガド寿司」 に驚いたが、そんなものは、とっくの間に逆輸入されてしまっている。

ちなみに、この認証制度が、日本人旅行者のためだけでなく、「正しい和食」 の普及のためだとかいうのなら、それはまったく余計なお世話だと思う。こんな権威的な手法をとらなくても、もっと他にやり方があるだろうというものだ。

「パンにしますか、ライスにしますか?」 なんて聞かれるようなレストランが、「正しい洋食」 の店ではないことぐらい、日本人だってわかっている。わかった上で、食いにくいのを重々承知で米の飯を皿に盛り、不器用な手付きで食っている。

だったら、アメリカで供される "soy soup" (味噌汁) が、いかに変てこりんなものであっても、当のアメリカ人が喜ぶなら、それはそれでいいじゃないか。洋食の 「ライス」 ほど変じゃないかもしれない。

アメリカにあまたある "Japanese food" のレストランが 「正しい和食」 を供したとしても、売り上げの拡大にはほとんど結びつかないだろう。日本のカレー屋が下手に 「正しいインド料理」 を始めたりしたら、確実に売り上げを減らすだろうというのと同じことだ。

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2006/11/06

わさびの辛さを、英語で言うと?

前々からとても気になっていることに、「"わさびの辛さ" を英語でどう言うんだろう ?」 というのがある。普通は 「辛い」 は "hot" というのだが、唐辛子の辛さは "hot" でも、わさびの辛さは違うだろうと思うのだ。

結局、答えは今でも謎のままで、なんともモヤモヤしている。

思うに、英語というのは味覚の表現がとても大ざっぱで、とてもじゃないが、繊細な味を言い表すには充分な言語ではない。これは、英語の本家本元である英国人が、味音痴であることによるものと、勝手に思っている。

英国人の多くは、せっかくおいしいと評判のレストランに連れて行っても、ほとんど甲斐がない。「どう? おいしいでしょ」 とたずねても、「そうだね」 程度の、木で鼻をくくったような返事しかないのだ。本当は、あんまりわかってないようなのである。

逆に、彼らの方からすると、「日本人てのは、なんで食い物ごときに、そんなに熱狂的にならなければならないんだ?」 なんてことを思っているようなフシがあるのである。「別に、大した問題じゃないじゃないか」 ってな感じだ。

だから、味覚をあらわす英単語も、わりとぞんざいだ。「甘い: sweet」 「しょっぱい (塩辛い): salty」 「酸っぱい:sour」 「苦い: bitter」 が、日本語とほぼ対応する言葉で、 「えぐい」 とか 「うま味」 なんてのは、英語では到底表現しきれない。

「辛い」 もそうだ。"hot" (熱い) なんていうのは、即物的すぎてまったく無粋な表現である。カレーの辛さみたいなのは、"hot and spicy" なんて言うが、これまた即物的だ。"Pungent" なんていう表現もあるが、これも、刺激的な味なら 「辛さ」 に限らず、何でも使える。

元々、唐辛子や胡椒は東洋から渡ったものだから、ネイティブ欧米人の味覚の文脈にはないのかもしれない。

で、日本原産スパイスである 「わさび」 の辛さも、"hot" と言うしかないようなのだが、英米人に 「でも、わさびと唐辛子の違いは、同じ "hot" では、表現できないでしょ」 と言うと、「確かにそうだ」 と言う。しかし、それで終わってしまう。

まあ、それを言ってしまえば、日本語も同じ 「辛い」 でくくってしまうので、偉そうなことは言えないのだが、英語で "hot" と言ってしまうと、エライ違和感なのだ。ちっとも "hot" じゃないじゃないか。ありゃ、むしろ "cool" だろうよと。

一説によると、"wasaby" という新語があるなどという話もあるが、これは未確認情報である。この言葉でググルと、多くのページがヒットするが、かなり混沌としている。ただ、なかなかうまい言い方だという気はする。

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2006/10/26

「ソロ米」 と 「ハーモニー米」

昨日朝の TBS ラジオで、気象予報士の森田正光さんが面白いことを言っていた。最近、お米の種類で、「ソロ米 (まい)」 と 「ハーモニー米 (まい)」 というのがあるのだそうだ。

米だけで旨いのが 「ソロ米」で、酢飯とか丼物など、他と組み合わせて旨いのが 「ハーモニー米」 というのだそうだ。

私が初耳だっただけではない。昨夜の段階で、「ソロ米/ハーモニー米」 の 2語でググっても、1件もヒットしなかったから、ネットの世界としても、かなり新しい言葉なのだろう。

ソロ米の代表格は、もちろん 「コシヒカリ」 などのブランド米である。これは、おかずなしでも米そのものがおいしいので、ソロを取れる米ということで 「ソロ米」 というのだそうだ。

一方、「ハーモニー米」 の代表は、北海道産のお米なのだという。最近、北海道がにわかに米の産地として脚光を浴びていて、質、量ともにかなり進化しているらしい。

昔は、「北海道の食い物は、米以外はみんなおいしい」 なんて言われていたが、そんな定評は既に過去の遺物になった。今や、北海道産の米も 「きらら397」 「ほしのゆめ」 「ななつぼし」 など、胸を張れる品種が登場していて、これらが代表的な 「ハーモニー米」 なんだそうだ。

私は 「ハーモニー米なんて言葉のアヤで、実際はおかずがないと食えないから、そんな言い方でごまかしてるんじゃないか?」 なんて疑ったが、 実際の食味ランキングやモニタリングでも、かなりいい成績のようなのだ (参照)。これはどうも、本物らしい。

さらに、最近は丼物や回転寿司などの外食産業が台頭しているので、「ハーモニー米」 としては、この分野の食材としてのニーズが高まっているというのである。なかなか順風のようなのだ。

それにしても、そもそも北海道産のお米が注目されるようになったというのは、地球温暖化の産物といえば言えるのであり、なんだか複雑な感慨にとらわれてしまう。

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2006/08/30

「沖縄そば」 ってソウルフードなんだって

「沖縄そば」 という食べ物をご存じだろうか? 私がこれを初めて食したのは、昨年 6月のことだった。

日本中のそばが大集合した 「大江戸めん祭り」 というイベントで、私は、当時まだ行ったことのなかった沖縄と縁を結びたいという単純な動機で、試しに食べてみたのである。

そば好きの私は、このイベントで、江戸、信州、会津など、日本中の名だたるそばのはしごをし、最後に、「沖縄そば」 というのを食べたのである。そのときの印象は、決してはかばかしいものではなかった。

一口すすり込んで、「むむ、なんじゃこりゃ、そばじゃないじゃないか!」 これが第一印象である。確かに 「蕎麦」 ではない。沖縄そばは、蕎麦粉を全然使っていない。小麦粉のそばである。

感覚からすると、ラーメンとうどんの中間アイテムのようなもので、なんだか、妙なものを食ってしまったような印象だった。しかし、「ラーメン」 を 「中華そば」 と称するのだから、「これもありか」 と、無理矢理自分を納得させたのだった。

ところが、先日沖縄を初めて訪れてみると、沖縄というのは 「沖縄そば」 の国なのだった。外食をしようとすると、いわゆる琉球料理の店か、沖縄そば屋しかないのである。内地では 1キロ歩けば必ず 2~3軒はあるラーメン屋というものが、ほとんど見あたらない。もちろん、いわゆる 「蕎麦屋」 も、ものすごく少ない。

その辺で、ちょっと昼飯を食おうと思ったら、もう、実質的に 「沖縄そば」 を食うしかないのである。外食といえば、沖縄そばなのだ。私は沖縄に滞在した 2泊 3日の間に、沖縄そばを 5回食べた。

東京で初めて食った時は、なんだか妙なものを食ってしまったような気がしたのだが、沖縄の地で食べると、ほかに選択肢が極めて少ないということを差し引いても、とても全うなものを食している気がした。「ほかに何があるのだ!」 と言いたくなるほど、全うだった。

風土というのは大したものなのであった。私は内地にいるときには 1日に 1食以上蕎麦を食べないと物足りないような気がするのだが、沖縄では、いわゆる 「蕎麦」 を食べようという気には全然ならなかった。

ソーキそばというのが、とくに全うな気がした。これは、豚のあばら骨付きの肉をトッピングしたものである。なかなかワイルドでいいのである。なるほど 「ウチナンチューのソウルフード」 と呼ぶに値する食物であると、しみじみ思ったのであった。

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2006/05/19

酒田に来ると、食べ物が美味すぎる!

ああ、いかん。今、酒田の実家に来ているのだが、ここにいると、何を食べてもうまくて、つい食いすぎてしまう。太らないか、心配だ。

買い物に出かけると、その辺の普通のスーパーで買う魚が、とてもイキが良かったりする。野菜が新鮮だ。果物がうまい。酒もうまい。適当に買うものが、みんなうまい。

昨日の昼は、近所のラーメン屋、満月に行って、かの有名なワンタンメンを食した。12時から 1時の間に行っても満員に決まっているから、かなり我慢して 2時近くになってから、満を持して行ったのである。

ここのワンタンメンの、適度の透明感とコクと旨味が渾然一体となった魚貝系スープは、私の体内の血中濃度とまったく違和感がなく、体内にしみこんでくるような気がする。それに、透き通るようなエレガントなワンタンは絶品だ。

1日 24時間のうち、10時間以上は空きっ腹だった高校の頃から、私はここの店のワンタンメンがご贔屓だった。当時は単に、ラーメンだけでは足りないから、ワンタンをプラスしたワンタンメンを注文していただけなのだが、そのワンタンメンが、そんなにすごいものとは知らなかった。

高校を卒業して東京に出てからというもの、私は、「まともなワンタンメン」 を食すことができなくなったのである。高校時代は当たり前だと思っていた満月のワンタンメンは、実は世界に誇るワンタンメンだと知ったのである。

だから、酒田にきたらなんとしても満月のワンタンメンは食わなければならない。

酒田に来る途中には、西川町の一松の蕎麦がある。今回は 「かんざらしそば」 というのを食べた。この店に入ったのが、午後 4時を回っていて、かんざらしそばが二人分残っていなかったので、二八そばにサービスとして付けてもらったのである。ここのご主人は、とても気前がいい。

このかんざらしそばは、色の白い一番粉で打ったもので、蕎麦粉 10割なのにツルツルした感触。噛んでみるとものすごくギュッとしまった感じのコシ、モチモチ感がある。こんなそばは初めて食った。

ご主人は、「そばの香りは 別製の十割そばの方があるけど、これはこれで、おもしろいでしょう」 という。なるほど、そばの世界は奥深いものである。

ここのおススメは、天ざるである。うまい蕎麦屋の天ぷらは、往々にしてたいしたことなかったりするものだが、ここのご主人は以前に本格的な板前の修行をしただけあって、天ぷらも絶品だ。今回の天ぷらは、海老天二本に、山菜づくし。大満足だった。

外食が大満足な上に、素材がいいから、妻の作る料理もおいしくて、つい食べ過ぎる。ああ、帰ったら運動しなければ。

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2006/05/05

「にじよじ」 のまつや

最近、とんと酒が弱くなってしまった。どこに行くにも車を運転することが多いので、酒量が減っていた上に、サラリーマンを辞めて、付き合い酒まで減ったせいだと思う。

元々それほど酒に強い体質というわけでもなかったので、日常の 「鍛え方」 が鈍ると、自然に酔いの廻りが早くなる。

20代から 40代まで、私も結構酒を飲んでいた。案外行儀のいい酒飲みで、やたらと朗らかにはなるが、酔って他人に迷惑をかけたことは、ほとんどない。

一部記憶の飛んでいる部分もあるが、その間に無茶をやらかしたということもないはずだ。酔いつぶれた友人の世話をした覚えはいくらでもあるけれど。だから、私の酒酔い勘定は、大幅黒字である。

私が一時酒を結構いけたのは、ひたすら鍛錬の成果である。何度も吐くほど飲んで鍛えたのだ。しかし、その場合でもトイレでこっそり吐いて、廻りには気付かれないようにしていた。

遺伝とか血統的なことを言えば、私の父方は完全な下戸で、母方は大酒飲みである。

父の家系は全員、本当に酒を飲めない。父は辛うじてお猪口 1杯なら美味いというが、2杯飲んだら、心臓バクバクで死にかねない。一転して、母方の親類はやたらと飲む。いくら飲んでも顔色が変わらないというほどの酒豪が多い。

私はその中間を取って、「そこそこに飲む」 程度である。いや、元々は、父方 7分に、母方 3分程度のミックスで、どちらかといえば、酒には弱い方だったと思う。せっかく鍛錬で補っていたのに、近頃、地金が出てきてしまっているのだ。

先日、午後 4時前ごろに、神田のまつやに行った。老舗の蕎麦屋である。6時に仕事上で人に会う約束があり、その日は、まともな昼飯にありつけなかったので、小腹ふさぎに、もり 1枚たぐっておこうと思ったのである。

近頃、「にじよじ」 という言葉がある。午後 2時から 4時の間に、ちょっと蕎麦屋酒を楽しもうかというような時に使われる。元々は、亡くなった杉浦日向子さんが言い始めた言葉だ。

間の悪いことに、 「にじよじ族」 のオアシスともいうべきまつやに入ったのは、その 「にじよじ」 の真っ最中だった。見回すと、もり蕎麦 1枚なんていう客は少数派で、皆いかにも美味そうに酒を飲んでいる。もう少しで誘惑に負けそうになった。

しかし、今回はぐっと堪えたのである。以前の私なら、2時間近くあれば十分に酔い覚ましができた。しかし、今の私はその自信がないのである。下手したら、仕事上のミーティングに赤い顔して行きかねない。

これからは、仕事が一区切り付く前に 「にじよじ」 のまつやに行くのは、止めとこう。ちょっと誘惑が強すぎる。

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2006/04/17

がんばれ、讃岐うどん!

「松阪牛」 という商標は OK だが、「さぬきうどん」 は認められないみたいというのは、なんとも気の毒なことではないか。

地域名と商品名を合わせた商標登録を積極的に認める 「地域団体商標制度」 が今月から始まったのだが、そこにはいろいろな軋轢や矛盾があるようだ。(参照

「さぬきうどん」 が地域ブランドとして認められない公算が強いのは、あまりに知名度が高すぎるからということらしい。

新制度では、「地名+商品名」 でも、一般的に使われる 「イセエビ」 や 「サツマイモ」 などは申請できないという。全国各地で作られている讃岐うどんもこれにあたる可能性が高いとみられるのだ。

しかし、「イセエビ」 や 「サツマイモ」 と 「讃岐うどん」 を同列にするのは、いささか気の毒だろう。さぬきうどん協同組合の大峯茂樹理事長は 「全国的な知名度は我々の努力の成果。それを利用して粗悪品を作る者がいるから登録できないなんておかしい」 と怒っているという。当然の腹立ちだろう。

美味しい伊勢エビを食うのに三重県に行こうとか、本格的焼き芋を食いたいから鹿児島に行こうとかいう人はいないが、「本場の讃岐うどん」 を食いたいと思ったら、やっぱり香川県まで足を伸ばしたいと思うのが人情だろう。ということは、立派な地域ブランドではないか。

香川県以外で作られる 「讃岐うどん」 は、 「讃岐風うどん」 というべきだろう。特許庁さん、それくらいのことは考えてやっていいんじゃないかなあ。

地域ブランドではないが、以前、「シャネルスーツ問題」 というのがあった。シャネルスーツというのは、ココ・シャネルが最初にデザインした、女性用の襟なしスーツで、以後同ブランドのラインナップでは、定番的存在になっている。

しかし、洋服のデザインなんて、真似ようと思えばすぐに真似られるので、シャネル以外のフツーのメーカーが似たデザインの洋服を作って、その名も 「シャネルスーツ」 としてバンバン売り出した。シャネル社は、それに対して断固たる態度を取ったのである。

「『シャネルスーツ』 と呼べるのは、我が社の商品だけ」 と宣言したのだ。それで、日本のメーカーは 「シャネル風スーツ」 などと言いつくろおうとしたが、それも頑として認めようとしなかった。

「シャネル」 が登録商標である以上、「シャネル風スーツ」 というのだって、やっぱり浅ましい。「ゼロックス風コピー機」 なんて言ったら、それだけで負けじゃないか。

ブランドというのは、それほど重要なものである。香川県以外の製麺会社が 「讃岐うどん」 の名称を使うのは、そりゃ、あこぎな 「のれんへのただ乗り」 というものだ。多少譲っても、「讃岐風うどん」 がせいぜいだろう。

ちょっと分野は違うが、「東横イン」 という名称のホテルを、「ちょっとずっこいなあ」 とか 「志が卑しいんじゃないか」 とか言う人が多いのと同じ感慨を持ってしまうがなあ。

がんばれ、讃岐うどん!

【4月 23日追記】

「新鮮空気」 の冬花さんが、まるでこの記事に呼応するように 「香川へ。さぬきうどんを求めて」 というエントリーを書いておられる。麺好きの私としては、写真をみるだけでムラムラしてくる。

これを見ても、りっぱな地域ブランドだと思うがなあ。

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2006/01/25

肉を食わされるのは、かなわんね

昨夜は某団体の新年懇親パーティに出席。この席には片山さつき、平沼赳夫両衆院議員も参加され、それぞれ、勇ましい挨拶と、誇り高い挨拶をされたが、その内容には敢えて言及しない。大方の想像はつくだろうから。

それよりも、日本人の 「食の好み」 というものについて述べようと思う。

来賓の挨拶と乾杯が終わると、それぞれ、好きな料理を皿に取って食べるわけだが、最近はどのパーティに行っても、一番人気はローストビーフである。大きな肉の塊を切り分けてくれるシェフの前に、長蛇の列が並ぶ。

業界のパーティに出席するようなアグレッシブな人たちは、皆さん、お肉が大好きなようだ。今回の米国牛の輸入ストップについては、かなり複雑な思いがあるのではなかろうか。

一方、私が最近付き合っている人たちの多くは、「中年過ぎると、肉を食わされるのはかなわんね」 と言う。肉よりも魚、野菜の方がありがたいというのだ。実は、かくいう私もそんな一人である。

仕事で欧米に行くと、ステーキハウスに誘われることが多く、とくにベジタリアンというわけでもない私は、仕方なく付き合うのだが、本心は 「何が悲しくて、何百グラムだかの牛の肉なんかを腹に詰め込まなきゃならんのだ」 と思っている。

そりゃ、相撲取りの草履みたいな巨大なステーキでも、出された以上、私は完食する。しかし、それは食いたくて食っているというよりは、もったいないから、日本男児の誇りにかけて食っているのだ。そのくせ、私を誘った方が半分も残すんだから、困ったものだ。

そもそも、ビーフステーキとかローストビーフなんていうのは、牛より他にまともに食えるもののない、貧相な土地の食い物ではないか。ペンペン草しか生えないので、それを牛に食わして、ようやくその牛を食う。面倒な話である。

ところが、最近の牛はそうじゃないらしい。牛が人間の食物であるはずの穀物を大量に食っているのだ。「肉食は私たちをどこに導くのか?」 というページには、次のように書かれている。

NHK の番組によると、世界のトウモロコシ年間生産量約六億トンのうち、約四億トンまでが穀物飼料に使われています。その穀物飼料の一割でも人の食用に回せば、世界から餓えはなくなるというのです。もしそうした場合、肉の生産量は減りますが、それは米国人と日本人が五回に一回、肉料理を減らすだけでしかありません。

我が家は肉の割合がかなり少ない食事をしていると思うのだが、そこまでいかなくても、血の滴るようなビーフステーキへのこだわりをちょっとだけ減らせば、世界の飢餓はかなり救えるというわけなのだ。

もちろん、国際的な政治や流通の問題もクリアしなければならないだろうが、とりあえず、肉をたらふく食うということは、飢えに苦しむ何億人もの人たちの犠牲の上に成り立つ行為なのだということを、ちょっとだけでいいから認識しなければならないだろう。

「単なる個人的な好みの問題」 といえども、ほかの諸問題とまったく無関係に主張できるというほど、この世は甘くないのである。そして他との関係を意識すると、個人的な好みまで変化するということだってある。

例えば、料理屋で食事をすると、刺身のつまの千切り大根を丸々残す人が多いが、私は残らず平らげる。それは、「もったいない」 というよりは、あれを食わないと、何だか口の中が熱っぽくなって、すっきりしないからなのだ。

大上段に振りかぶったベジタリアンやエコロジストの社会運動よりも、私としては、「肉を食わされるのはかなわんね」 という意識に、ちょっとだけ変わればいいことだと思っている。

【2月 3日 追記】

このエントリー、あちこちのニュースサイトで、「米国人と日本人が5回に1回肉料理を減らすと、世界から飢餓がなくなる」 というタイトルで紹介され、かなりな反響を呼んでしまった。

アクセスがムチャクチャ増えたのは嬉しいのだが、私としては、「米国人と日本人が 5回に1回肉料理を減らすと、世界から飢餓がなくなる」 なんて、一言も言っていないのである。ただ、NHK の番組を紹介したウェブのページの引用をしただけである。

その引用だって、計算上の話を紹介しているだけで、「米国人と日本人が5回に1回肉料理を減らすと、世界から飢餓がなくなる」 なんて単純なことを言っているわけではない。

しかし、「米国人と日本人が5回に1回肉料理を減らすと、世界から飢餓がなくなるなんて、間違いだ」 との反論があちこちでなされているみたいなのである。

そんなの当たり前である。政治、経済、流通の問題を抜きにして、そんな単純なことは言えない。

トラバしてくれればまだいいのだけれど、それもないんで、まあ、私としては放置しているのだけれど、「米国人と日本人が 5回に 1回肉料理を減らすと、世界から飢餓がなくなる」 というタイトルは、ちょっとありがた迷惑だったような気がしている。

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2006/01/07

正しい 「生玉子かけご飯」

TBS ラジオ 「ストリーム」 に、日本人の行動のスタンダードを探るという趣旨の 「えびしゃけ」 というコーナーがある。

このコーナーの昨年最後のテーマは、「卵かけごはんは、卵を混ぜてからかける?それとも、ごはんにかけてから混ぜる?」 というものだった。(参照

「えびしゃけ」 というタイトルは、「海老の尻尾やシャケの皮を食べるか、否か」 ということで、日本人のちょっとした行動パターンを、聴取者の反応を元に探るというのが狙いである。

卵に関しての結果は私の予想通り、

  1. 卵を混ぜてからかける・・・69%
  2. ごはんにかけてから混ぜる・・・31%

ということで、やはり、「卵を混ぜてからご飯にかける」 派が、ほぼ 7割近くに達した。かくいう私も 「混ぜてからかける」 派である。

ただし、このテーマは、単にこれだけで済ませてしまうのは甚だ心残りである。もっと追求したいことがある。

それは、「卵を混ぜてから醤油を入れる」 か、「醤油を入れてから卵を混ぜるか」 ということである。実際に番組を聞いていたところでは、「醤油を入れてから卵を混ぜる」 という人が少し多かったような気がする。

しかし、私は断然 「卵を混ぜてから醤油を入れる」 派である。その理由は、その方がずっと卵と醤油がしっくりとミックスされる感覚があるからだ。醤油を入れてからかき回しても、いつまでも分離されている気がする

だから、私にとっての正しい 「生玉子かけご飯」 は、玉子を割って器に入れ、よくかき混ぜてから醤油を入れる。そして、それをおもむろに暖かいご飯にかけて食べるのである。これが一番美味しいやり方だと思う。

お気づきだろうか? 私は正しい 「生玉子かけご飯」 と表記した。TBS ラジオのウェブページでは 「卵かけごはん」 となっているが、このテーマ、正しさにこだわったら、表記と言葉遣いからして 「生玉子かけご飯」 なのである。

"卵" と "玉子" の使い分けに関しては、「生物学的には "卵"、食材としては "玉子" 」というのが一般的のようだ。あるいは、「生の場合は "卵"、料理されたら "玉子"」 という説もある。

「生玉子かけご飯」 に関しては、「醤油を入れる」 というプロセスを経た以上、生であっても「生玉子」 という名の立派な 「料理」 であり、それ故に、「生玉子かけご飯」 と表記されるべきだと信じるのである。

私は週に一度ぐらいの割で、朝食として無性に 「生玉子かけご飯」 を食べたくなる時がある。これは最高に洗練された朝のメニューの一つである。

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2005/11/21

庄内柿のパラドックス

毎年この季節になると、庄内柿が家の中にあふれる。ところが、この柿は食べ頃がとても短く、放っておくと、グニャグニャになってしまう。だから、さっさと食べなければならない。

だが近頃は、どの家でも子どもはあまり柿を食べたがらない。それで、一家の主は毎日 5〜6個ほどの 「柿責め」 に遭うのである。

庄内柿については、mago さんの 「まったり田舎暮らし」 というブログで、きっちりと説明されているので、ご覧いただきたい (参照)。

何しろ、庄内柿というのは不思議な果物である。買ってきた覚えもないのに、なぜか家の中の至る所に柿が鎮座ましますのだ。

いどさんの 「庄内弁な日々」 というブログでもひとしきり話題になっている (参照) が、そこでも、「買わなくても、向こうから来てくれる庄内柿」 なんて、コメントに書かれている。

とくに農家でなくても、庭に柿の木があれば、自然に家の中は柿だらけになる。そうでなくても、大抵は頼んだ覚えもないのに、親戚や知り合いから、食いきれないほどの量が送られてくる。

さらに、もらいすぎて処理に困った隣近所の家が、半ば強制的に押しつけてくる。その上、コンビニなんかで 「ご自由にお持ち下さい」 なんて、どっさり盛ってあったりすることまであるらしい。世の中に豊富にありすぎて、庄内ローカルでは値が付かないのだ。

我が家でも、先日実家から送ってもらった庄内柿のうち、半分以上を隣近所や知り合いに配り、残ったのをようやく食い終わったと思ったら、先週帰郷した際に、実家の 2軒先の奥さんから、またどっさり押しつけられた。

庄内柿というのは基本的に渋柿で、焼酎につけて渋抜きをする。これを庄内では 「さわす」 という。さわす期間は、大体 1週間で、それを過ぎると、今度は加速度的に熟してしまい、あっという間にグニャグニャのゼリー状になってしまう。

世の中には、そのゼリー状になったものの方を好むという変わり者もいるのだが、大抵の者には、そうならないうちの方がおいしい。だから、庄内柿の賞味期間というのはとても短く、一気呵成に食わなければならない。

庄内人というのは、大抵は柿好きである。しかしいくら柿好きでも、毎日毎日 5個も 6個も押しつけられては食傷してしまう。毎年食傷するくせに、それでも季節になると、庄内柿が恋しくなるというパラドックスが現出する。不思議な果物である。

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2005/11/17

「モー味噌。」 を試食した

ラーメンチェーン花月の新作 「モー味噌。」 を試食した。何しろ私は 「花月マスター」 に認証されているので、新作ラーメン 1年間無料試食という特権を行使したのである。

せっかくの特権公使なので、その印象を書かないと、落とし前がつかないだろう。結論。意外にうまい。シチュー・ラーメンという感じ。

モー味噌。」 というのは略称で、正式には 「モーモー味噌ラーメン。」 というのだそうだ。私は味噌ラーメンはあまり好まないし、他のブログの試食レポートを見ても、「甘口すぎる」 といった感想が多いので、はっきり言ってそれほど期待していなかった。

ところが、逆の意味で期待を裏切った。結構いける。

文字通り牛乳を加えた味噌ラーメンだが、味噌感覚は奥に引っ込んでいて、ポタージュかシチューかといった感じのスープ。上にたっぷりと白菜が添えられて、季節感が醸し出される。

ポテトなんか使ってないはずなのに、口の中の感覚が妙にポテトっぽい。この風合いを 「甘口すぎる」 と感じる人もいるのだろうが、決して 「甘い」 というわけではない。微かな酸味さえある。

妻の言うには、味噌に牛乳というのはとても合うのだそうだ (それにしては、食わせてもらったことがないが)。Google で検索してみると、なるほど、あちこちで 「味噌と牛乳は意外に合う」 というのが見つかる。例えばこれ

こんなのは今までのラーメンの常識にはなかったが、キワモノ的な感覚が勝っているわけでもない。一応、きちんとしたラーメンである。

花月といえば、ガツンとくるインパクトのあるラーメンが特徴だが、これは、かなり 「ほんわか」 としたラーメンという印象が強い。ぬるめの温泉に入って、ゆったりと肩でも揉んでもらっているような感覚で、「ほぇ〜〜」 と気持ち良くため息つきたくなる。

これで白菜がもう少しきちんと処理してあって風味があれば、かなりのモノなのだが。

花月もついに米国進出するらしいが、ラーメンの基本にこだわらないアメリカ人には、もしかしたら受けるかもしれない。

来月は、もう一つの新作ラーメン、「真骨頂」 が試食できるらしい。これは、ヤフーとのコラボレーションで作ったものという。どんなものやら、ささやかに期待しておこう。

今日は、酒田に帰郷する。途中、新蕎麦の田舎蕎麦が食える。実は、ラーメンより蕎麦の方が心躍る。

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2005/11/10

寒い盛岡で蕎麦を食す

昨日書いたとおり、盛岡に来ている。新幹線ホームに降りた途端、「うわっ、顔が冷たい !」 と思った。ここは完全に冬である。

午前中は雨が降っていたようだが、私が着いた昼過ぎには止んで、青空が広がった。私の 「晴れ男伝説」 は健在だったが、とにかく寒い。岩手山はしっかり雪化粧している。

日が暮れて一仕事終え、徒歩でホテルに向かったが、赤信号で止まって待っているとき、足踏みしたくなるほど寒い。ホテルのテレビを点けると、「現在の盛岡の気温は 4.6度」 なんて言っていた。寒いはずだ。関東では真冬の気温である。

夕食は同行したカメラマンと一緒に、蕎麦料理を食べに行った。地元では有名な蕎麦屋、東家である。「そば振舞い」 という蕎麦会席、一人前 2,500円に、地酒を注文。冷酒を勧められたが、恐縮ながらあまりの寒さに 「お燗にして」  と、軟弱な所望。

メニューは、そば菓子、そばの実とろろ、そばの和風クレープ、そば掻ぇ餅 (そばがき)、そばかっけ一升漬添え、そばの鬼揚げ、季節のそば二種 (きのこ種のかけそばと、きのこの天ぷらを添えた盛り)、揚げそば饅頭というそば尽くし。

そばかっけというのは、そばをのして三角に切ったものをしゃぶしゃぶにして冷やしたもの、そばの鬼揚げは、そばがぎの揚げ物と言ったらいいだろうか。

蕎麦好きの私も、これほど一度にいろいろな蕎麦料理を食したのは、生まれて初めてである。うぅむ、蕎麦は奥が深い。カメラマンと二人で、「こりゃ、当たりだったね」 と満足していると、斜め向かいのテーブルで、若い女性 2人が、「わんこそば」 に挑戦し始めた。

実際の 「わんこそば」 進行場面に遭遇したのは、これが始めてである。2人で呆然と見とれてしまった。

とにかく、店員さんが付きっ切りで、客の椀にそばを放り込んで行く。放り込んで空いた小さな椀は、テーブルにどんどん積み重ねていく。

店員さんは 「さあ、がんばってぇ」 「はぁい、どんどん」 「そぉれ、じゃんじゃん」 と、のどかながらも有無を言わせぬ迫力で、どんどん蕎麦を放り込む。それに応えて、かの 2人の女性も、かなりな勢いでどんどん食っていく。

しかし、80枚を過ぎたあたりからペースが目に見えて落ちる。それでも店員さん、容赦がない。「はぁい、逃げちゃいけませんよぉ」 なんて言いながら、どんどん食わす、食わす。無理やりでも食わす。

蕎麦というのは消化がいいから、食いすぎて腹を壊したというのを聞いたことがない。それで、とにかく量を食わすというのは、伝統的な発想では最大のもてなしなのだなと思い当たる。

ついに、2人とも 100枚ちょっとずつ食べた。拍手拍手。ずらりと積み重ねられた 200枚以上の椀を前にして、記念写真のシャッターを押してあげた。もちろん、シャッターを押したのはプロのカメラマンの方である。彼女たち、かなりの幸運だった。

我々も俄然、挑戦意欲を掻き立てられた。「次に来たときには、ぜひ挑戦して、200枚食おうな!」 と誓い合った次第である。

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2005/10/19

「花月マスター」 に認証された

こう見えても私は文学修士の称号をもらっていて、これは英語では Master of Arts というのだそうだ。直訳すると 「芸術マスター」 である。ちょっとカッコいい。カッコいいだけで、メシの種にはならないのが痛恨だが。

そして近頃、二つ目のマスターの称号をいただいたので、ここに報告する次第である。

新しいマスター号を獲得するのに費やした時間は、ほぼ 4か月。今年の 6月から 9月にかけてである。改めて計算してみると、1万円弱の費用がかかった。

このマスター号の取得者は、全国でほぼ 5000人だと言われている。多いとみるか少ないとみるかは、意見の分かれるところだろう。ただ、全国の文学修士の数よりずっと少ないことは確実だ。

私が今回取得したのは、「花月マスター」 という称号 (認証番号 05757) だ。認証元は、にんにくげんこつラーメンというかなり特色あるラーメンを売り物にするラーメンチェーン、「花月」 である。

花月マスター認定証「はがき1枚(15杯)」第05757号 庄内 拓明 様私が花月マスターに認定された証拠は、右のバナーをクリックすれば見ることができる。なんだか見せびらかしたい気分なので、ぜひクリックしてみていただきたい。正式の認定証も、先日郵送されてきた。

今年の 6月から 9月末までの 4か月の期間に、花月でラーメンを食べるたびに、クーポン・シールを 1枚もらえた。それを 15枚ためて葉書に貼り、応募すると、「花月マスター」 という称号をくれるというので、つい乗ってしまったのである。

ここで何度も書いているとおり、私はそば好きである。しかし、ラーメンも好きなのだ。食べる頻度で言えば、そば > うどん > ラーメン となってしまうが、それでも、4か月で 15杯食うぐらいのことは普通にしてしまうのである。

花月のラーメンは、スープににんにくをたっぷり使うところに特徴がある。すり下ろしにんにくをしっかり煮込んでいるためか、匂いはほとんどない。インパクトがあって、しつこくはないという点では、なかなかのスープである。

この夏、私は 1週間に 1度、この 「にんにくげんこつラーメン」 を食したことになる。一夏を通して飽きずに食べたということは、ちゃんと美味しかったということだ。これは、信用してもらっていい。

私は 4か月で 15杯ということだが、世の中にはかなりの花月ファンがいるらしく、90杯という猛者マスターも 6人登録されている。単純計算でも、3日に 2杯以上食べたことになる。こういう人たちは、マスターではなくドクターにしてあげてもいいのに。

私のオススメは、「にんにくげんこつ塩ラーメン (620円)」 と、新たに定番メニューに加わった 「豚そば銀次郎 (680円)」 である。とくに後者は、豚骨と濃厚魚貝系をミックスさせたスープが独特だ。

花月のチェーン店は、全国で 200店舗以上あるということだ。もしかしたら、読者諸兄のご近所にもあるかもしれないので、どんなものか試してみても、失望することはないと思う (マスターの称号のお礼に、ちょっと宣伝をしてみた)。

それにしても、私としたことがこんな単純に喜んでしまうんだから、花月のこのキャンペーン、マーケティング的に見てもかなりの成功なんだろうと思う。

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2005/10/17

蕎麦を打つのはむずかしい

蕎麦好きの中には、病膏肓に入って自分で蕎麦を打つのを楽しみにしている人もいるが、私はそれはとうに諦めている。

「蕎麦は誰でも簡単に打てる」 などと言う人もいるが、それはウソか、そうでなければ、その人とその周囲の人のみが、蕎麦打ちの神に特別に祝福されているのである。

私だって、過去に何度か蕎麦打ちに挑戦した。地元主催の 「蕎麦打ち教室」 なんてものに参加したことだってある。しかし、一度としてまともな蕎麦を打てたことがない。

そりゃ、蕎麦粉の比率を 7割以上にしているから、きちんとした香りの立つ蕎麦にはなる。しかし、香りだけである。まともにはつながらない。麺の長さが 15センチ以上になった例しがない。短いのは 3センチ以下のぶつ切れである。

家族に食わせても、「確かに美味しいけど、短いねぇ」 と言われるだけである。ツルツルっとすする醍醐味がない。「ツルッ」 にも達しない。せいぜい 「ツ」 ぐらいで、「ル」 になる直前に、麺はすべて口の中に収まってしまう。これでは、蕎麦を食った気がしない。

何をかくそう、私は粉をこねるのは得意なのである。我が家は自家製天然酵母のパンを作っていて、私はパン生地をこねる役割である。もう20年近くこねているから、そのへんの駆け出しのパン屋よりは上手という自信がある。(参照

その私にして、蕎麦打ちには匙を投げているのである。

蕎麦は、うまい蕎麦屋で食うに限る。自宅で食いたかったら、ちょっと値段の張る乾麺を調達してきて茹でることだ。なまじ自分で打とうなんて気を起こすより、ずっとまともな蕎麦が食える。

餅は餅屋なんていうが、私は結構まともな餅をつける。しかし、蕎麦打ちの神の特別な祝福に浴していない身としては、「蕎麦は蕎麦屋」 というテーゼには、ひれ伏すしかないと思っているのである。

ところで、そろそろ新蕎麦の食える時期が近づいてきた。今現在、「新蕎麦始めました」 なんて貼り紙を出している蕎麦屋は、北海道産の早出し品種を打っているのだと思っている。私は内地の蕎麦の方が好みだから、もうほんのしばらく、新蕎麦にはこだわらないのである。

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2005/09/22

調味料バトン

ブログ 「庄内弁の日々」 のいどさんから、「調味料バトン」 を渡された。

いどさんのブログは、かなりオススメなのだが、庄内弁のわからない人には、難解を極めると思う (私はスラスラ読めるけどね)。漢字が手がかりになるはずなので、興味のある方は、トライしてみていただきたい。

食い物ネタはベタベタの自己満足になりやすいから、書くときには注意が必要だ。その点、いどさんは、さすがセンスがよくて、ちゃんと最後まで読ませてくれる (ああ、庄内弁のわからない人が気の毒)。

で、私もベタベタにならないように気を付けて答えてみよう。

Q1.次のメニューにどんな調味料をかけますか?(薬味は含みません。)

  • 目玉焼き: 醤油と、ラジオから流れる朝のニュース − なんて、最初はちょっと意表を突いて洒落てみる (近頃、バトンずれしてしまったかな?)

  • 納豆: 醤油。最近は捨てるのがもったいないので、添付の 「タレ」 を使うことも増えたけど、本来は、あれ、余計なお世話 (と、素に戻る)。

  • 冷奴: ほんのちょっとの醤油。おかかもいらない。

  • 餃子: 醤油+酢+ラー油たっぷり (餃子の王道)。

  • カレーライス: とりたてて何にもいらない。ただ、旅先の田舎のどうでもいい食堂で、甘口過ぎるお子様カレーが出されたりした場合は、思いっきりだぼだぼソース (瓶の 3分の 1以上) すると、かなり食べられるようになる (というか、信じられないだろうけど、時には 「絶品」 になったりする)。

  • ナポリタン: ナポリタン単品では、この10数年食べたことない。安物の幕の内弁当のすみっこにある、ちまちまっとしたナポリタンに、そのとなりのアジフライにかけたはずの醤油が飛んじまった (あのビニールの袋がくせもの) 状態で食べることが多いかな。

  • ピザ: そのまま。タバスコなし。辛いのは好きだけど、タバスコの 「酸っぱ辛さ」 は、ちょっと違う気がしてるので。

  • 生キャベツ: 醤油。文句ある?

  • トマト: そのまま。何も付け加える必要なし。

  • サラダ: 妻特製の和風ドレッシング。外食の場合も、そのお店の和風ドレッシング。要するに、ベースは醤油。

  • カキフライ: これも醤油。

  • メンチカツ: もちろん醤油。

  • コロッケ: ひたすら醤油。

  • 天ぷら: 何はともあれ醤油。ただし、そば屋の場合は、蕎麦つゆ。天ぷら専門店の場合は、敬意を表して、そのお店の天つゆ。これも和風ドレッシングと同じで、要するにベースは醤油。

  • とんかつ: 申し訳ないけど、醤油。とんかつ専門店の場合のみ、敬意を表して、そのお店の特製ソース。

  • ご飯(おかず無しの時): 生卵かけご飯じゃだめ? これもおかずになっちゃう?
    昔の日本映画で、昼飯のご飯に醤油かけてかっこむ場面があったけど、こればっかりは、塩か味噌のおむすびになってしまうかなあ。

Q2.周囲に意外だと驚かれる、好きな組み合わせはありますか?

  • 番茶に、だぼだぼ醤油 (梅干しも入れて)。これ、風邪を引いたときにいいみたい。

  • 大根おろしの絞り汁に生醤油を混ぜただけの蕎麦つゆ。湯島の 「古式蕎麦」 というお店でやっているスタイル。初めはビックリするけど、これがクセになるほどイケル。

  • 「ヨシギュー」 をしばくとき、牛丼 (最近は豚丼か) と味噌汁の上に、七味どばどば (表面が真っ赤になるくらい)。ツユの甘ったるさを、ごまかすため。

Q3.それが一般的なのだとは知っているが、苦手な組み合わせはありますか?

  • コーヒーと砂糖。口の中でべとつく感じがして。

  • 蕎麦つゆも、できれば砂糖を使わないでもらいたい。山形県西川町の 「一松」 の蕎麦つゆは、その点で、最高。(もちろん、蕎麦もいい)

  • お酒とフェロモン (「フェロモンって調味料だったけ?」 なんて、言いっこなし)。お酒の席に、なまじフェロモンむんむんのおねえさんがいると、水を差される。ただし、酸いも甘いもかみ分けた風情のおねえさんなら OK。

Q4.バトンをまわしたい5名は誰ですか?

  • いつもの通り、その辺に転がしておくので、拾いたい方はご自由に拾ってくださいということで。

解答の舞台裏 ・・・ はあはあ、食い物ネタのバトンにまともに答えるのって、本当にむずかしかった。設問が即物的なだけ、ちょっとひねりを加えないと、ちっともおもしろくならない。以前、「ファーストフードバトン」 に答えたときは、ひねり具合がまずかったと、反省。

このバトンを拾うときは、心して拾った方がいいとだけ、最後に書いておこう。

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2005/08/04

そばのニューウェーブ

雑誌 「男の隠れ家」 9月号が、そばの特集をしている。この手の雑誌のそば特集は、秋口がお約束みたいになっていたが、今回は、一番乗りを狙ったか。

この特集、定番の、並木の藪とか、神田のまつやとかは出てこない。いわゆるニューウェーブのそば屋に焦点が当てられている。

そば好きの私だが、このニューウェーブのそば屋というのは、実は案外疎い。どこからどこまでが 「ニューウェーブ」 なのかということも、定かではない。私が時々食べているあの店も、この店も、もしかしたら、ニューウエーブなのかもしれないし。

山形県で生まれた者は、大抵がそば好きなのだが、私の父は 「そばはあまり好きじゃない」 という。寺の生まれの父は、子どもの頃、近所のオバサンたちが集まる 「念仏講」 で振る舞われる手打ちの田舎そばを食わせられた。それで、そばが苦手になったという。

「つなぎの入らない、太くてモソモソしたヤツを食わせられたからなあ」 というのだが、同じものを食わせられた父の兄弟姉妹は、そば好きなのだから、それは理由にならないだろう。

その父も、たまにうまいと思うそばがあるらしい。よく聞いてみると、粗挽きで香りの高いそば粉を使って、細打ちにし、きりっとした辛めの汁で食うのであれば、大丈夫のようなのだ。そばが嫌いな割には、かなり贅沢なことを言う。

それは、この雑誌の特集で、「食べ歩きの達人」 として紹介されている大野祺郎氏のおっしゃるところの 「ニューウェーブ蕎麦屋の最新キーワードは、『粗挽き』 と 『手挽き』。粗いそば粉ならば十割でなくても美味しい」 というトーンに通じる。

へぇ、うちの親父、図らずも、ニューウェーブだったのか。

私もあちこちでそばを食うが、細かく挽いたそば粉を使ってきっちりとした打ち方をする一茶庵系のそば屋が台頭している中で、どちらかというと、少々 「やんちゃ」 な趣のあるそばの方が好きだ。そのあたり、山形の田舎そばの系譜を引いている。

人間の舌で味を感覚する味蕾は、50歳を超えると、20代の頃の半分もなくなるのだという。つまり、歳をとると味がどんどんわからなくなるのだ。我々は、実際のところは 「昔の記憶」 でものを食っているのである。

子どもの頃から馴染んだ食べ物が一番旨いというのは、実はそういうことなのではないかと思っている。

うちの親父は、そのあたりでもやはりちょっと変わっている。

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2005/07/23

「深川めし」 に 2種類あったなんて!

昨年末、東京の名物駅弁 「深川めし」 の内容が落ちたと書き、昨日、その落ちた内容が元に戻ったと書いた。(参照 12

しかし本日、驚愕の事実を知ってしまった。なんと、「深川めし」 には元々、穴子の蒲焼き二切れと三切れの、二つのバージョンが併存しているというのである。

それを知ったのは、「深川めし」 について書いている他のサイトがないかと、Google で検索し、「深川めし対決」 というページに行き当たったおかげである。

このサイトによると、「深川めし」 には NRE (日本レストランエンタプライズ) のものと、JRCP のものの 2種類あり、前者は 830円、後者は 850円なのである。そして、850円の JRCP バージョンは、東海道新幹線の改札内でしか買えないらしい。

つまり、私はずっと東海道新幹線を利用する機会が多かったため、その度に新幹線の改札内で 850円の JRCP バージョンを買って満足していたのだ。

ところが、最近になってにわかに東北新幹線や上越新幹線を利用する機会が増え、昨年末に初めて 830円の NRE バージョンを買い求めて、てっきり内容が落ちてしまったものと嘆き悲しんでしまったのであった。

そして、一昨日、愛知県の一宮市に出張することになり、久しぶりで東海道新幹線の改札内で JRCP バージョンを入手し、一度落ちてしまった内容が元に戻ったものと勘違いして感激していたのである。なんだか、独り相撲を取ってしまったような気がする。

値段については、以前は 850円で買い求めていたことをすっかり忘れてしまい、ずっと 830円だったものと信じ込んでしまったのである。我ながら、お恥ずかしい勘違いである。

それにしても、たった 20円の違いならば、850円の JRCP バージョンの方が、穴子の蒲焼きが 一切れ多いというだけでなく、味や風味を含めた総合評価でもずっと上を行く。コストパフォーマンスという視点からさえもも、JRCP バージョンの方が上回るだろう。

願わくは、NRE 版の 「深川めし」 も 850円に値上げしてでも、JRCP バージョンのレベルに追いついてもらいたい。

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2005/07/22

「深川めし」 の復活を祝う

昨年暮れのこのコラムで、東京の名物駅弁 「深川めし」 のトレードオフを嘆いた (参照) のだが、製造販売元がそれを読んでくれたのかどうか、以前の中身に戻っているのを、昨日確認した。

二切れに減らされていた穴子の蒲焼が、めでたくも、三切れに復帰していたのである。

fukagawa.jpg先週、岩手県に出張したときは、まだ二切れのままだったのだから、三切れに復帰したのは、ごくごく最近のことである。うれしいことだ。

その他の具も、ケチらず、ほぼ以前の状態に戻っていた。その代わり、値段がこれまでの 830円から 850円に上がっていたが、私は昨年末のコラムで、「中身を維持するために値段が 850円や 900円になったとしても、浮気なんかしない」  と書いていたので、まずはめでたしめでたしである。

既に書いたことだが、私は東京の駅弁の中で 「深川めし」 は秀逸だと思っている。江戸前の 「粋」 を感じさせるこの弁当は、合成着色料たっぷりの幕の内弁当的なものの数倍素晴らしい。

そのご贔屓弁当の中身が、一時とても淋しいものになってしまったのは、非常に残念なことだったのだ。写真の上段が昨年の秋頃のもの。中段が年末からの 「淋しいバージョン」 である。

そして、一番下のものが、昨日買い求めた 「復活バージョン」 だ。

もう一つうれしいのは、以前の 「深川めし」 は、せっかく趣のある蓋の絵に、品質表示シールがべったりと貼ってあったのだが、今回のバージョンでは、このシールは密封ビニールカバーの方に貼ってあって、蓋の絵は邪魔するものなく眺められるようになっていたことだ。

製造販売元は、私の年末のブログを読んでくれたに違いないと信じる。そして、期待に応えてあまりある対応をしてくれたのである。ありがたい。拍手拍手である。

(平成 17年 7月 23日 追記)

この記事は、実は勘違いに基づいているということが判明した。詳細は、こちら

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2005/07/08

「おばんざい」 を巡る冒険

「おばんざい」 という言葉がある。何だか知らないうちは、「何でまた 『万歳』 に "お" を付けるんだ?」 なんて思っていたが、どうやら、メシ関係の京都弁らしいと知ったのが、30歳を過ぎてからのこと。

35歳を過ぎた頃に、「おばんざい」 を売り物にした店で実食デビュー。結構おいしかった。

その時の印象から、「おばんざい」 とは、会席料理のような肩肘張ったものではなく、要するに京都の家庭料理なのだなと思ったのだった。私はそうした料理が好きなので、歓迎である。

というわけで、私は 「おばんざい」 とは、日常の晩ご飯のお総菜ということで、「お晩菜」 なんだろうなあと、勝手に思いこんでいた。

ところが、このほど本宅リンクページの 「今月のお薦めサイト」 で、萌野さんのブログ 「むしやしない」 にリンクさせてもらったのを機に、「おばんざい」 の意味をちゃんと知ろうとしてみたところ、一筋縄ではいかないということに気付いたのである。

そもそも、この 「むしやしない」 という京言葉からして、なかなか奥が深い。小腹が空いたときにちょっと食べるものという意味のようで、漢字で書けば 「虫養い」 なのだろう。京都人というのは、「腹の虫」 と、長年の共存共栄関係を築いているもののようだ。

いやいや、今回は 「おばんざい」 の話なのであった。「虫」 の話はまた今度にしよう。

「おばんざい」 の漢字表記は 「お晩菜」 のほかに、少なくとも 2つの説があるということを発見してしまったのである。

まず、「お番菜」 である。これは、善右衛門さんという方が、ご自身のブログで紹介されている。(以下引用)

おばんざいというのは「お番菜」と書きます。この番というのは「番茶」などに使う字で、「通常の」とか「上等じゃ無い」という意味があり、常日頃に食べるおかずの事で、本来はお客様には絶対食べさせられない「おはずかしい」おかずだったのです。
  (中略)
京の織物業界を代表とする商人の家では奥様も働き手ですから、少しの時間を見てそのとき安い物(旬のもの)で作り置きできるおかずを用意する必要がありました。そこから生まれた料理法や工夫が今に伝えられているのです。

ということだ。なるほど、雰囲気はものすごくよく伝わる。まさにそうしたものなんだろうなあ。

しかし、「番茶」 の 「番」 は、Goo 辞書によれば "古くは 「晩茶(遅くつんだ茶)」の意で品質が劣るとされた" とされており、「上等じゃない」 というのが本来の意味というわけではない。だから、まったく外れているわけではないが、ちょっとだけ苦しい気がしないでもない。

「晩茶」 説に従えば、本来は 「お晩菜」 ということになってしまうが、「晩ご飯のお総菜」 という意味からはちょっとずれてしまう。

もう一つの説は、「お万菜」 である。ORBIS PICTUS というサイトの 「京都駆け足紀行」 というページに、以下の記述がある。

おばんざいとは「お万菜」と書きまして、要は煮物などの和風のお惣菜をいいます。ただ、京都らしく薄味で仕上げてあり、関東風の煮物よりは上品な感じ。

ふぅむ、「よろずの菜」 というわけか。必然性の観点から言うと、別に 「万」 でなくてもいいような気もするが、もしかして、「お総菜」 の 「総」 の代わりに 「万」 なのかもしれない。似たような意味だし。

ちなみに、Google の検索結果は、 「お晩菜」 617件、「お番菜」 590件、「お万菜」 367件だった。

しかし、圧倒的に強いのは何といっても 「おばんざい」 で、84,200件である。やはり、漢字で決めつけたりせず、「おばんざい」 は 「おばんざい」 なのかもしれない。ところが試しに、にごらない 「おばんさい」 でも調べたところ、4,200件もヒットした。

うぅむ、またわからなくなってしまった。

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2005/06/11

欲しい商品が買えないパラドックス

以前にもコラムに書いたが、我が家では天然酵母の自家製パンを作っている。こねるのは私で、焼くのは妻の役割。全粒粉を 50%ブレンドした素朴な風味が特徴だ。

しかし、なにぶん手作りなので、生産が追いつかず、仕方なく市販の食パンを買うこともしょっちゅうである。

市販のパンは、ライ麦パンか発芽玄米食パンというのを買うことにしている。我が家の自家製パンの素朴な風味に近いからだ。

真っ白なふわふわすぎる定番の食パンは、あまり好みではない。あんなのは、カリカリにトーストしないと食えたもんじゃないと思っている。

しかし、どこのスーパーでも、ライ麦パンと発芽玄米食パンというのはすぐに売り切れてしまって、夕方近くに行っても手に入らないことが圧倒的に多い。一方、白い食パンは、いつ行っても豊富に品揃えしてある。

それで、10回のうち 9回は、しかたなく白い食パンを買って帰る。車で足を伸ばせばパンの専門店もあるのだが、そこまでするのもおっくうだ。今日の物が溢れる時代で、希望の商品が手に入らないというのは、ちょっとした悲哀である。

元々、ライ麦パンと発芽玄米食パンは、仕入れる量が圧倒的に少ないようだ。普通の白い食パンと比べると、多いところでも、せいぜい 5%以下ではないかと思われる。これでは、あっという間に売り切れるのも道理である。

しかし、これほどまでに品薄になりがちな商品を、どうしてもっと仕入れようとしないのか。私は、店の担当者のデータ分析力不足だと思う。売上げを分析する POS システムによって吐き出されたデータを、きちんと読み取る力がないからだ。

ライ麦パンと発芽玄米食パンは、仕入れ量が少ないから、当然、売上げも圧倒的に少ない。それで、ただでさえ 「売れ筋」 とは認識されにくい。

さらに、ライ麦パンを買いに来た消費者も、それが品切れならば仕方なく白い食パンを買って帰ることが多い。これによって、「仕方なく買った白い食パン」 でも、コンピュータには 「積極的に買った白い食パン」 とまったく区別されずにインプットされ、「販売好調」 の商品としてアウトプットされる。

そのデータベースを見た担当者は、どう分析するだろうか。

「なんだ、ライ麦パンなんて、これしか売れないのなら、力を入れる必要なんて、まったくないな。それに比べて、定番の食パンの売れ行きは好調だから、今後もこっちを重点的に仕入れよう」

と、こうなるに違いない。ちょっとした誤解である。

しかし、もう少し突っ込んで分析したら、ライ麦パンは一日のうちの早い時間に完売してしまって、午後は 「販売機会損失」 となっていることに気付くはずである。決して 「売れない」 のではなく、「売らない」 から数字にならないだけなのだ。

さらに、定番の白い食パンは、常にかなりの量が売れ残って、翌日の値引き販売につながることにも気付くはずだ。

閉店間際になっても売れ残っている定番食パンの、2-3 割でいいから、ライ麦パンと発芽玄米食パンだったら、値引きしなくてもその日のうちに正価で売れるはずなのに。このことに気付く担当者は少ないようだ。

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2005/01/31

「丸ごとアイスバイン」 の恐ろしさ

どういうわけか、急にドイツ料理の 「アイスバイン」 を思い出してしまった。アイスクリームの一種ではない。初めて食うまでは 「ドイツの豚足と思えばいい」 と聞いていた。

ところが、実際フランクフルトの下町の酒場で食べた本場のアイスバインは、日本の 「豚足」 とは似て非なるものだった。

初めてドイツに出張したのは、1981年の 5月のことだった。織物の国際見本市 「インターストッフ」 の取材を終えて、同行した日本人 3人で、ビアホールに繰り出した。日本を代表するテキスタイル・デザイナーである Y氏が 「アイスバインというものを食べてみよう」 と言い出した。それはいい、ぜひ食べましょうと、意見が一致した。

ビアホールの中で太い腕に何杯ものジョッキを抱えて忙しそうに立ち働くオバチャンを呼び、「トライ・アイスバインズ」 と頼んだ。「トライ」 とはドイツ語で 「スリー」 の意味である。つまり、「アイスバインを三つくれ」 と言ったつもりである。(ちなみに、私はドイツ語では 3より大きい数は言えない)

すると、オバチャンは我々にドイツ語でなにやらまくし立てる。どうやら、「あんたら、アイスバインて何だか知ってるのか?」 と言っているようだ。我々は 「ヤーヤー」 と答える。知らないで注文なんかするものか。知ってるとも。ドイツの豚足だろう。

英語で "pig's leg" というと何となく通じたらしく、うなずきながら、自分のぶっとい太ももを、「これよ、これ!」 と言う感じで、パンパンと叩いて見せる。うんうん、そうそう、脚ね、脚。わかってるよ。

しばらくして出てきた料理をみて、我々はひっくり返るほど驚いた。日本の豚足といった可愛らしいものではない。まさに 「豚の脚」 である。

そう、「豚の脚」 でありすぎる。あのオバチャンが、自分の見事な太ももをパンパン叩いて見せた意味が、初めてわかった。本当にあのオバチャンの太ももぐらいある、大層立派な 「豚の脚」 が、どーんと 3本出てきたのだ。

妙な言い方だが、豚の脚の尾頭付きである。それを  1人 1本である。

他の 2人は半分も食べられなかったが、私は出されたものはプライドに欠けても全部食べる主義である。必死に食べた。その上にビールのジョッキをぐいぐい空けると、腹がはち切れそうになったが。さすがに 20歳代だった。きっちり食った。

ワイルドな塩味で、不味くはなかったが、途中から味なんかどうでもよくなった。

あれ以来トラウマになってしまって、ドイツに行ってもアイスバインを注文しようという気になれない。日本のドイツ料理店で出されるアイスバインなんて、いわば切り身をちょっとだけ小分けしたようなものだ。本場の 「丸ごとアイスバイン」 を知る者としては、ちゃんちゃらおかしいのである。

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2005/01/03

餅はリスキーな食品と認識すべし

餅って危ないなと、しみじみ思う。1日から 2日にかけて、関東各地で餅を喉に詰まらせて窒息死する事故が相次ぎ、老人 4人が死亡、15人が重体になった。(参照

毎年正月になると、同じようなニュースが何件も報じられる。季節限定で言えば、フグの中毒死より多いだろう。

餅は、とくに老人にとってはフグ以上にリスキーな食品であると認識しなければならない。

しかし、実際には老人ほど餅をありがたがって食べるのである。全国の老人に 「正月に餅を食うな」 と言ったら、総スカンを食うに違いない。それほど伝統文化に根ざした慣習というのは、抜き差しならないものである。正月の餅というのは、信仰そのものと言っていい。

老人の 「飲み込む力」 というのは、かなり衰えるもののようなのだ。このニュースを聞いて、私は冗談ではなく、「歳を取ったら、餅は小さく切り分けて、ちまちまとゆっくり食べよう」 と思ったのである。

しかし、実際に歳を取って適当にボケが入ったらどうなるかわかったものではない。

何しろ、餅を喉につまらせて大変な目にあうのは、圧倒的に男の方が多いようなのだ。都内では 2日午後 10時までに救急車で搬送されたのは、男性 20人、女性 5人の、計 25人、そのうち重体になったのは、男性 13人、女性 2人の計 15人、そして、死亡したのは 4人とも男性である。

「おじいちゃん、もう年なんだから、お雑煮はゆっくり召し上がってくださいよ」 なんて言われても、「ふん、正月の餅を食うのに、なんでそこまで言われなきゃいかんのだ!」 などと、妙に意固地になって、ついわしわし食ってしまうおじいちゃんが多いのだろう。私なんかも危なそうだ。気を付けなければ。

それにしても、これほどまでにリスキーな食物を、なんとか改良しようという試みはないのだろうか。「粘りはあるが、粘着力のない餅米」 なんていうのが困難なら、 「老人向け雑煮用サイコロ大のお餅」 とかなら、すぐにでもできそうではないか。煮ても焼いても隣の餅とくっつかないように、表面には身体に無害の特殊加工を施すと、なおいい。

もしどこかの食品メーカーがこれを読んで商品化するようなら、菓子折の一つぐらいもって挨拶に来てもらいたいものだ。

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2004/12/12

「深川めし」 のトレードオフを嘆く

今日のネタは、我ながらみみっちいお話である。みみっちいけれども、見過ごせない気がして、書かせていただくわけだ。

私は東京駅から新幹線に乗る時は、「深川めし」 という駅弁をずっと贔屓にしてきた。 値段は 830円と、駅弁にしてはお手頃で、しかも中身がシンプルでうまい。

どんな中身かというと、あさりご飯に穴子の蒲焼とハゼの甘露煮を乗せ、小茄子の漬物、べったら漬けなどを付け合せたものだ。いかにも 「江戸、深川」 を感じさせる粋な献立である。合成着色料たっぷりの幕の内弁当的なものの並ぶ中で、 「深川めし」 はとても魅力的な選択なのだ。

しかし、一昨日岐阜方面への出張で、東京駅でいつものように 「深川めし」 を誂え、頃合を見て蓋を開けたとたん、私は驚いてしまったのである。先月、神戸に行った時までは、確かに穴子の蒲焼は三切れ乗っていて、私は満足して食したのである。ところがなんと、今回は二切れに減ってしまっているではないか。

fukagawa.jpg最近、自分の好きなものを食ったときはデジカメで記念の映像を残しておく習慣なので、穴子の蒲焼が三切れだった頃の証拠写真もちゃんと残っている。上が先月までのバージョンだ。少しわかりにくいが、右端にもあさりの身がびっしりと並んでいたのである。

下が今回のバージョンである。ご覧の通り、視覚的にもずいぶん貧弱で淋しくなってしまった。心なしか、メシが少なくなっているような気もする。

製造元の日本レストランエンタプライズは、どうやら 830円という価格を優先して中身を犠牲にするという 「トレードオフ」 を行ってしまったようなのだ。これは甚だ残念なことである。少なくとも私に関しては 「深川めし」 を選択する要因は価格ではなく中身である。だから、中身を維持するために値段が 850円や 900円になったとしても、浮気なんかしないのだ。

値段を優先するというのなら、何も駅弁なんか買わない。構内に入る前に、コンビニで 350円ぐらいの弁当を買えばいいのだ。つまり駅弁というのは、今や値段ではないのである。「深川めし」 の場合は、トレードオフをするなら、中身を優先して値段を犠牲にした方がよかったと思う。これは、マーケティングの視点からも重要な問題だと思うのだ。

(平成 17年 7月 23日 追記)

この記事は、実は勘違いに基づいているということが判明した。詳細は、こちら

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2004/11/23

「原口そばや」 礼賛

昨日の昼頃に酒田を発ち、夜遅く筑波の里に着いたが、途中、山形県の上山 (かみのやま) で、初めての蕎麦屋に立ち寄った。「原口そばや」 という田舎蕎麦屋である。

大正時代から脈々と続いているという店で、村山の 「あらきそば」 に勝るとも劣らない、実に立派な田舎蕎麦だった。

このところ、連続の酒と食い物ネタで恐縮だが、何しろ山形県というところは美味いものばかり揃っているので、自然そうなってしまう。

実はこの 「原口そばや」 という店は、西川町の 「一松」 のご主人に教えてもらったのである。美味い田舎蕎麦が食いたかったら、行ってみたらいいというのである。それではと、酒田からの帰路に足を伸ばしたのだ。

国道 13号線から上山の中心街とは反対側に、ぐんぐんと山裾に入っていくと、「原口」 という集落があり、その集落の入り口に 「原口そばや」 という看板が立っている。看板の矢印に沿って進むと、古くからの農家の作りの蕎麦屋に行き着く。

玄関を入ると、靴を脱いで座敷に上がる前に、注文をするというシステムになっている。注文といっても、盛りと大盛りとそばがきしかないので、迷うことはない。座敷には低い座卓が並べられ、近郷近在のお客と、はるばる遠くからやってきたお客が入り交じり、適当にゆったりと座って、太い田舎蕎麦をたぐっている。

食べ終わって寝そべっている客もいる。ものすごく気楽な雰囲気だ。

壁には、山形県知事や山形市長、上山市長の揮毫が額に入れて飾られている。私が高校時代に県知事だった我孫子藤吉氏の 「以和為貴 (和を以て尊しと為す)」 の書もある。こんないい字を書く人とは知らなかった。

出てきたのは、平清水焼き (多分) の四角い皿にたっぷりと盛られた、ひきぐるみ蕎麦粉十割の香り立つ蕎麦である。「あらきそば」 ほどには太くないが、それでも十分に太い。というか、ちょっと平たく切られているのが特徴だ。もしかしたら、「一松」 の別製そばは、この原口そばの影響で、あの平たい形になったのかとも想像した。

噛み応えのある蕎麦は、口の中にふんわりと蕎麦の風合いを広げる。のんびりといい気持ちにさせられる。なるほど、これなら、わざわざ遠回りをしても立ち寄る価値がある。これからはレパートリーに加えなければならないと思った。

山形の田舎蕎麦といえば、「あらきそば」 ばかりが有名だが、あるところにはあるものである。蕎麦好きは、是非両方を試してみるといい。


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2004/11/22

「満月」 のワンタンメン礼賛

同じ山形でも、酒田は蕎麦の街ではなく、ラーメンの街である。蕎麦屋もないではないが、魚介類が豊富すぎるためか、ツユのダシが効きすぎて、せっかくの蕎麦の香りを損なってしまうことが多い。

しかしラーメンでは、すっきりしてコクのある魚貝系スープが、俄然強みを発揮する。

酒田のラーメンで特徴的なのは、ワンタンメンである。高校時代には、単なるラーメンでは腹一杯にならないので、よくワンタンメンを注文していた。酒田のワンタンメンのワンタンは、とても薄く繊細にできていて、そのふわりと溶ける感覚が、コシのある麺とのコントラストで、絶妙の食感を生み出す。

東京のワンタンメンになると、そのワンタンはいかにも 「餃子の皮」 風でかなり興醒めになるのだが。

久しぶりで、「満月」 のワンタンメンを食した。以前からここのワンタンメンはうまいと思っていたが、さらに進化したその姿に、私は感動してしまったのである。

いろいろな具を入れてインパクトを強めたラーメンが全盛を極める中で、酒田のラーメンは、どちらかと言えば 「昔ながらの中華そば」 的な風情を強く残している。しかし、独特の魚貝系スープは、透明感があるすっきり味ながら、しっかりとしたコクがあり、「只者ではない」 感覚を与える。

その上、麺は 「酒田のラーメン屋の 8割は自家製麺」 というだけあって、よく研究されて微修正が効いている。多くは打ち終えたばかりの麺に向かって、合掌礼拝するそうである。心して食わなければならない。

そして、あの絶品のワンタンである。ラーメン好きなら、満月のワンタンメンを食うためだけに、酒田を訪れてもいいぐらいのものだ。

 

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2004/11/21

「一松」 の蕎麦礼賛

山形県は 「そば街道」 なんてものがあるので、うまいそば屋がさぞかし多かろうと思われているが、正直なところ、本当にお薦めのそば屋はそれほど多くはない。

私が帰郷する際に立ち寄るのは、村山の 「あらきそば」、西川町の 「一松」、酒田の 「弥右衛門」 ぐらいのものである。

今回は、国道 112号線沿いに月山街道を越えたので、西川町の 「一松」 に立ち寄った。午後 4時前だったので、店はがらんと空いていて、ご主人が一人で新聞を読んでおられた。

こうなると、ここのご主人はお話好きである。蕎麦談義に花が咲いた。このご主人、「一松」 の二代目で、先代は東京の浅草で修行をされたのだそうだ。道理で、この家のつゆは江戸前である。もっとも、このあたりでは蕎麦つゆのことを 「タレ」 というのが一般的なのだが。

ここの 「タレ」 は独特で、出汁をまったく感じさせないくせにコクがある。それは先代からの口伝のようで、「どんなダシを使ってるかわからないほど生臭さがなくて、蕎麦湯がスルッと飲める」 ものを理想としているという。確かに、その通りのものが供される。もっとも、以前の 「タレ」 はもっと辛かったそうだが。

ちなみに、この店のそばは、二八と、蕎麦粉十割の 「別製そば」 がある。このところ、ずっと 「別製」 にありついていたのだが、今回は時間が遅かったこともあって、売り切れていた。仕方なく 、二八そばをたぐる。二八は二八で、モチモチ感があってうまい。

そうしていると、「別製は一人前の量はないんですが、よかったら食べてください」 と言って、半人前ぐらいの量を盛って出してくれた。これはうれしいもてなしである。やはり、別製はすすった途端に口の中に広がる蕎麦の風味のレベルが違う。

こちらの蕎麦は、つゆが江戸前で、蕎麦は江戸前の上品なものと、田舎のぶっといものとのほぼ中間といった風情。別製はやや平たいのが特徴だ。ちょっとやんちゃな感覚を残しつつ、口に入れると本格的な味わいが広がる。私はあまり上品な蕎麦より、こういうのが好きである。

今回知ったのだが、ここの二代目は、本格的な板前修業をした経験があって、天ぷらを始めとする日本料理も本格的に作れるのだそうだ。だから、天ざるがお薦めという。

道理で、妻はここではいつも天ざるを食べるのだが、私にほんのちょっとの 「おすそ分け」 も寄こさない。ほかで天ぷらを食べると、自分では食べきれないので、「ちょっと食べて」 と言って、少しはこちらにもくれるのに、この店の天ぷらだけは、一人でさっさと食べてしまう。

「・・・ そういうことだったのか」
「今まで食べたどんな天婦羅屋さんのよりおいしいわよ。いつの間にか、全部食べちゃう」

何でそれを早く言ってくれないのだ。よし、次は私も天ざるを頼もう。

それから、ここに立ち寄るときはいつも車の運転をしているので、酒を飲めないのが残念なのだが、ここの酒はいいのが置いてあるようだ。ここのご主人は、お酒は飲めないそうだが、それだけに、味はわかるという。


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2004/11/20

「上喜元」

酒田に帰郷している。実家に着いたら 折りよくNHKテレビで山形の酒の特集番組が流れていた。

今年の日本酒品評会の金賞受賞は、山形県が最も多かったらしい。二番目が新潟だ。番組で特にフィーチャーされていたのは、酒田の 「小さな酒蔵」 である。

NHK だけに、酒蔵の名前は直接言及しないが、それが 「上喜元」 であることは明らかだ。私の子供の頃に住んでいた家のほど近くにある。

近頃 「上喜元」 がとてもおいしいと思っていたら、やはりそれなりの努力をしているのだった。努力は報われる。

今回、NHK に取り上げられたことにより、 「上喜元」 のブランド価値は否が応でも上がってしまうだろう。新潟があんなことになってしまったので、代わりの銘柄に何があるかということになると、これはかなりの注目を集めることになるかもしれない。

最近、酒田のおみやげにちょくちょく 「上喜元」 を買って帰っていたが、やはり目に狂いはなかったと満足してしまった次第。今回も買って帰ろう。

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2004/09/02

もうすぐ新蕎麦の季節

大人の男のための雑誌というジャンルがあるが、毎年この時期になると、判で押したように 「蕎麦」 の特集が組まれる。

今年も、「男の隠れ家」 9月号で 「大人のそば処」 という特集が組まれ、「サライ」 2004年 17号でも 「 日本の名蕎麦」 を特集している。

毎年この季節に蕎麦特集ということになるのは、もう少し経つと新蕎麦が出回るからだろう。旧盆の過ぎた頃から、早くも 「新そば」 のポスターをこれ見よがしに貼っている蕎麦屋があるが、それはかなり怪しい。

確かに、北海道あたりでは 8月頃から収穫の始まる蕎麦があるらしいが、それでも出荷されるのは早くても 9月になるだろう。8月から 「新そば」 のポスターを貼っているのは、駅ビルや地下街のどうでもいい 「食堂蕎麦屋」 みたいなところが多い。そんな店が苦労して早出しの新蕎麦を入手してるとは考えにくい。

そもそも 8月に収穫される 「夏蕎麦」 は、寒冷地仕様であり、一般に 「新蕎麦」 といえば、秋に収穫される 「秋蕎麦」 のことだという説も根強い。

ちゃんとした蕎麦屋に聞けば、いつから新蕎麦を打ってくれるのか、きちんと教えてくれる。私の経験からすると、それはやはり 11月に入ってからということが多い。ちゃんと天日で乾燥させた玄蕎麦の出荷を待てば、自然、それほど早くは入手できないのかもしれない。

ただ、きちんとした新蕎麦を出してくれる店というのは、概して新蕎麦でなくてもちゃんとおいしい。昔は、夏場を過ぎた蕎麦はかなり品質が落ちたらしいが、今は保存技術も進歩したので、ちゃんと気を遣っていればそれほど劣化しないと聞く。

1年中安定した蕎麦を提供してくれるのが、本当にいい蕎麦屋である。秋が深まった頃に香り高い蕎麦を食して、「新蕎麦ですか?」 と聞くと、「いえ、新蕎麦は来週からです」 などと言われることがあるほどだ。いい蕎麦屋の新蕎麦は、かなりの部分 「気分の問題」 というところがあるかもしれない。


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