カテゴリー「ニュース」の137件の記事

2008/07/04

食品の産地とブランドについて

飛騨牛とか国産ウナギだの、産地偽装の発覚が題になっている。電車内の 「週刊文春」 の吊り広話告は、「信州そば、越前ガニ、芦ノ湖ワカサギ」 も疑えと煽っている。

「だったら、『讃岐うどん』 はどうなるんだ?」 と、私は言いたいのである。今、「讃岐うどん」 は日本中で作られてるじゃないか。

この問題に関しては、2年前に書いている (参照)。地域名と商品名を合わせた商標登録を積極的に認める 「地域団体商標制度」 というのがあって、この制度では、「松阪牛」 は保護されるが、「さぬきうどん」 は除外だという。あまりにも知名度が高くて一般名詞化されているので、伊勢エビやさつまいもと同じ扱いなんだそうだ。

私は 「そりゃ、ないだろう!」 と、疑問を呈しているのである。讃岐うどんは讃岐の国の業者の努力の成果でこんなにも知名度を上げたのだ。他の地域の業者が 「讃岐うどん」 を名乗るのは、そりゃ文字通り名前のただ乗りじゃないか。努力の成果が徒になってしまうようでは、困りものである。

まあ、商品名やブランドと、産地表示はまた別物なので、「青森県産の讃岐うどん」 といのも許されるというわけなのだが、私としては釈然としないのである。この釈然としない感覚を許す風土が、飛騨牛だの比内鶏だのの偽装を軽い気持ちでやっちゃうというメンタリティを生んでいるんじゃないかと思うのだ。

いずれにしても、食品に関しての表示は、私は昔からあまり信用していない。なにしろ、シシャモじゃないシシャモとか、魚沼産コシヒカリがちょっとブレンドされただけの魚沼産コシヒカリとか、わけのわからないものが多すぎる。

そして、ブランドだけでだまされて、「さすがにうまいね!」 なんて言って喜んで食うやつが多すぎる。団塊の世代以前の人間なんて、どうせ子供の頃にまともなものを食ってないんだから、いくらグルメを気取ってもまともな味覚をもっているのは珍しいのである。

さらに、若い連中はファーストフードとレトルト食品で育ってるんだから、ますます味覚がおかしくなっている。「やわらか~~い!」 なんていうだけで美味しいと感じる程度のものなのである。

だまされるやつばっかりだから、だますやつも出てくるのである。だが、本物の讃岐うどんはさすがに違うのだから、がんばってもらいたいのである。ヘンな結論だが。

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2008/07/01

「一ひねり」 なしで呆れてしまった

「居酒屋タクシー」 というもののニュースを聞いて、「そんなのがあるなら、私も乗り合わせたいものだ」 と思っていたら、どうやらそんな簡単なものでもないらしいのである。

夜中に 霞ヶ関から埼玉の果てぐらいまで乗るヘビーユーザーの類しか、その恩恵にはあずかれないようなのだ。

それを聞いて 「そりゃ、そうだろうな」 と納得した次第なのである。せいぜいワンメーターとか、乗っても 1,000円とか 2,000円程度の客に缶ビールを 1本サービスしていたら、儲けが出ないだろう。私は永久に居酒屋タクシーでビールをごちそうになれそうにない。

で、私は正直なところ、ヘビーユーザーがビールを 1本ごちそうになるぐらいは、そんなに目くじらを立てるほどの問題じゃなかろうと思っていたのである。そのくらいは、サービスとして認めてあげてもいいんじゃないかと。

ところが、問題は缶ビール 1本程度のことではすまないというのだ。出てくるわ出てくるわ、米だの現金だの、商品券だの、もらい放題だったというのである。こうしていろいろな便宜をはかってあげて、次からはケータイで直接呼び出してもらい、客待ちの列に並ばずに、こっそり乗っけることにしていたというのが、私がつい最近知った真相だ。(参照

何しろ、月末はなんだかんだと忙しかったので、情報不足の極致にあり、そんなことも知らずにいたのだ。「たまたま乗った客に現金だの商品券だのをあげて、どんな見返りがあるのだろう?」 と不思議に思っていたのである。

で、知ってしまって初めて、「それって、立派な、いや、決して立派とは言えないが、完全に 『収賄』 じゃん!」 と、今さらながら呆れてしまったのである。居酒屋タクシー側は 「贈賄」 ということになる。

前述の参照先の MSN 産経ニュースには 「公務員が特定の運転手と癒着することになり、行き過ぎると、汚職の温床にもなる」 なんて呑気に書いてあるが、誰が考えたって、これ自体既に 「行き過ぎ」 であり、既に 「汚職」 ではないか。

ああ、そうか、新聞記者やテレビ関係者諸君も、たまにこうした恩恵にはあずかっているので、あまりまともには書いたり言ったりできないのかもしれないね。下手すると、我が身に火の粉が降りかかる。

ヘビーユーザーにそれなりのサービスを提供するのは、そりゃ、お店のスタンプカードだってあることだし、そんなに悪いことじゃないと思うが、「役人が税金で乗ったタクシーで現金なんかもらうのは、やっぱりヤバイだろう」 と、とっても当たり前のことを今さらながら思っているのであった。

このブログは 「一ひねり」 きかせた書き方を身上としているつもりなのだが、この件に関しては、私としたことが、何のひねりもなしに、ただ素直に呆れてしまったのである。

気の毒なのは、まともな商売をしていたタクシー会社で、公務員が急にタクシー券を使いづらくなったために、水揚げが大幅に減ってしまっているだろう。まあ、これまでが野放図に使いすぎだったといえば、その通りなのだが。

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2008/06/21

鳩山法相のエキセントリックな怒り

鳩山法相が、アサヒに 「死に神」 呼ばわりされたことに、ひどくご立腹のようだ。確かに、公務を遂行しただけの人を捕まえて、全国紙のコラムで 「死に神」 とはひどい。

ただ、それに対する鳩山法相の抗議というか、反論というか、それがちょっとエキセントリックで、やっぱりこの人らしい。

時事ドットコムによると、鳩山さんは 「斎戒沐浴して (死刑囚に関する) 記録を読む心境は穏やかではないが、社会正義実現のためにやらざるを得ないという思いでやってきた」 と述べられたそうだ (参照)。斎戒沐浴とは、なかなか大時代的で驚いた。

ちょっとした揚げ足とりをさせてもらうと、私としては娑婆のゴタゴタを去って穏やかな気持ちになるために斎戒沐浴をするんだと思っていたが、それでも心境が穏やかにならないというのでは、鳩山さん、あんまり意味のないことをしているようだ。

揚げ足とりでなく、正真正銘わけがわからないのは、「彼ら (死刑囚) は 死に神に連れて行かれたのか。違うだろう。執行された方に対する侮辱で、軽率な記事に抗議したい」 という発言である。

「死に神に連れて行かれた」 と言ってしまうと、死刑を執行された人間に対する侮辱になるのだそうだ。そうかなあ。私が死に神だったら、「俺が死刑囚を連れて行って、なんで侮辱になるんだ !?」 と、名誉毀損で怒るところである。死に神がいるとすれば、それこそまさに、粛々と公務を執行しているだけのことだ。

「死に神」 呼ばわりされたことに対する怒りなら、「公務を執行しただけの大臣に対して、『死に神』 とは何だ!」 とフツーに怒ればいいのに、「彼らは死に神に連れて行かれたんじゃない」 なんて、エキセントリックなレトリックで、机を叩いて怒ってみせるというのは、まあ、この人らしいということなんだろうなあ。

さすが、「友人の友人がアルカイダ」 とか 「秘書時代はペンタゴンにご馳走になってた」 とか、エキセントリック発言の名手であると、ちょっと感じ入ってしまったのである。

記事を書いた記者たちも、法相の発言にまともなストーリーが通らないことに、少しは戸惑ったんじゃないかと思う。とはいえ、とくにサンケイなんか、怨敵のアサヒ叩きのためにしっかり書いたんだろうが、それでも発言に関しては、「まあ、言ったとおりに書いとくか」 ってな感じだったと思う。

私の記者経験に照らしてみても、エライ人の子供じみた発言の取り扱いって、ちょっと困ってしまうことがある。

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2008/06/16

歩行者天国中止の意味

秋葉原の歩行者天国が、例の事件の影響で 「当分の間」 中止になった。この 「当分の間」 というのが、なかなかのくせ者である。

歩行者天国を中止にするだけの十分な理由、つまり、歩行者天国のデメリットが大きいなら、恒久的にやめてしまえばいい。しかしそうではないのは、ビミョーなところだからだろう。

歩行者天国は、休日の秋葉原の集客に少しは貢献していたのだろう。しかし、集まるのはオタクが多いから、セレブとか小金持ちオバサンのように金を使いまくってくれるわけじゃない。売上げ増加に貢献してきたかといえば、それはかなり疑問だ。

さらに、歩行者天国で変てこなパフォーマンスをする連中も多くなってきていたので、公序良俗を乱すととして反対してきた人も結構いる。お膝元の千代田区議会議員にもいる (参照) ぐらいだから、一定の勢力ではあるのだろう。

こうした 「方向者天国反対派」 は、恒久的な廃止を求めているのだろうが、そうはならずに、「当分の間、中止」 となっているのは、やはり歩行者天国が秋葉原の 「顔」 となって、一定のプロモーション効果を発揮してきたからだろう。

ただ、その 「プロモーション効果」 というのは、ものすごく 「気分の問題」 というのがある。それだけに、例の事件で 「秋葉原コワイ」 「ホコ天コワイ」 というイメージが生々しいうちは、止めといた方がいいだろうと、これまた 「気分の問題」 的なものが、「当分の間」 の背景にある。

それに、最も大きいのは、歩行者天国を管理する都公安委員会の立場である。あれだけの事件が起きて何もせずにいたというのでは、ちょっと聞こえが悪いので、一応、「それなりの対処はしましたよ」 というアリバイ作りのためにも、中止決定をしないわけにはいかなかったのだろう。

つまり、都公安委員会と地元の都合がなんとなく一致したための 「クールダウン」 期間と思えばいい。

しかし、都公安委員会といういかめしいお役所の決定である以上、歩行者天国歓迎派が今後再開を求めるためには、公安委員会を納得させるだけのもっともらしい条件を付けて意思表示をしなければならないだろう。

その 「もっともらしい条件」 のさじ加減次第では、秋葉原を中心とする 「オタク文化」 の、今後の発展が左右されかねない。今の秋葉原のかなりの部分は 「オタク文化」 に依存しているのだから、これをつぶしてしまうような形での歩行者天国再開では、あまり意味がない。

私自身はオタクじゃないから、どうでもいいようなことだけれど、つぶしてしまうのはもったいないような気もする。それに、オタク文化は既に、これだけのベクトルをもってしまったのだから、発信のためのステージを用意しておいてあげないと、妙にアングラ的でダークな方向に沈殿してしまいかねない。

それって、かえって危ないんじゃなかろうか。校則が厳しくて、何でも禁止という学校ほど、実際には乱れているというのと同じである。

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2008/06/14

一生地震に遭わずにいるのが難しいなら

今や宮城県民は、日本一大地震の経験豊富な人たちになってしまった。この 10年間に、宮城県内で震度 5以上を記録した地震は、数え切れないほどある。

その中でも、今日の地震は震源が浅いところにあったため、被害が大きくなってしまったようだ。本当に気の毒なことである。

私は茨城県南西部に住んでいるが、ここも知る人ぞ知る地震の巣窟である。震度 4程度の地震なら、日常茶飯事だ。そのかわり、いわゆる大地震は少なく、震度 5以上の地震というのは、30年前にここに引っ越してきてから、5年前の 2月に一度あっただけである (参照)。

つくば周辺の地震には、もう慣れっこになってしまった。ほとんどが直下型なので、突然ズーンと突き上げがあり、かなり強い縦揺れになる。しかし、それ以上強い揺れというのはこない。だから、「突然のズーン!」 だと、かえって安心する。

怖いのは、しばらくカタカタと初期微動が続いた時である。その後におもむろに 「ゆっさゆっさ」 と大きな横揺れがくる。その横揺れが大したことがない場合でも、それはどこかほかの地域で大地震があったということだから、「震源地が実家の方なんじゃあるまいか」 と、すぐに心配になる。

今回の地震はまさにそれで、テレビを付けたら震源は岩手と宮城の県境に近いところで、最大震度は 6強、仙台市宮城野区でも震度 5強を記録したという。仙台市宮城野区といえば、妻の実家のあるところである。

こういう場合、すぐに電話をかけたいのはやまやまだが、ぐっとこらえる。テレビのニュースを見る限りでは、仙台市の被害はそれほど大きくないようだし、それに下手に回線を使ってしまうと、より緊急を要する通話の妨げになってしまう。

夜になってから、満を持して妻が電話をしたら、被害はないとのことだったので、安心した。それでも、ニュースを聞いていると、各地で被害が次から次に拡大している。余震も続いているようなので、震源近くの人はまだまだ安心して寝られないだろう。

地震国日本に住んでいる以上、誰でも大地震に遭遇する可能性がある。私は小学校 6年の時に新潟地震に遭っている。その時は折しも廊下に立たされている時だったというのは、先月の四川大地震のときに告白した (参照)。

地震に遭わずに一生を終えるというのがむずかしいなら、せめて、大地震の時にはすぐに危険回避できるところにいたいものである。おんぼろ木造校舎の廊下に立たされているときに大地震に遭遇したりすると、本当に死ぬ思いになる。

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2008/05/10

大根役者と千両役者

福田首相という人は、状況の先の先まで鋭く読むことのできる人だなあと、私は近頃、えらく感心しているのである。

前々回の自民党総裁選を降りたのだって、「どうせすぐにお鉢が廻ってくる」 と読んでいたのだろうし、今回の対中国媚びへつらいも、将来の国益を見越してのことだろう。

中国は今、世界中から批判を浴びている。各国の聖火リレーで、超特大の赤い国旗を掲げて気勢を上げていた中国人留学生たちも、「俺たちの国って、実はこんなに嫌われてたのか」 と、内心はかなりのショックだったろうと思う。

こうして集中砲火を浴びる中国に、涼しい顔をして、いけしゃあしゃあと好意的なコメントを述べておけば、ちょっとした恩を売ることができる。

向こうが実際に恩義に感じてくれるかどうか、あるいは多少は恩義に感じたとしても、その恩義をいつ忘れるかわかったものではないということは全然別として、少なくとも 「恩を売った」 という気になることはできる。

中国が近い将来、世界最大の経済市場になることは明らかだ。その有望な市場に対して、否定的な態度でいることはない。今のうちから、きっちりとお客様扱いしておくに越したことはない。相手がどんなにつけあがろうとも、お客様は神様だから、奉っておけばいい。

今回のパンダの問題にしても、「2頭で年間 1億円は高すぎる」 などというけちな連中もいるが、日本は弱小国じゃあるまいし、出そうと思えば 10億円だってポンと出せる。1億円ぐらいでガタガタ言われることはない。

だから、中国中央テレビのインタビューには、「メディアの一部でいろんなことを言う人がいるが、これはごくごく少数派。ほとんどはかわいいパンダを見たいと思っており、手放しで喜んでいる」 と、心にもない外交辞令で応えておいた (参照)。

まあ、リップサービスが過剰なのは、そこはそれ、相手は神様なのだから、大目に見ればいいだろう。福田さん、役者である。ただ、結局は大根役者のレベルでしかないというのが悲しい。大根役者というのは、「消化がいいから当たらない」 というココロである。

そこに行くと、千両役者は天皇陛下であらせられる。

7日の会見で胡錦濤氏は、「上野動物園のパンダのリンリンが死んだのは残念です。日本の人に引き続きパンダを見て喜んでもらえるように、共同研究用にパンダのつがいを提供することにしました。日本の子どもたちに見ていただきたい」 と述べた。

う~ん、「提供することにしました」 は、誤訳と信じたい。本当は 「貸与することにしました」 だろうから。あるいは、現代中国語では 「提供」 という語に 「金取って貸す」 という意味もあるのだろうか。

そしてこの発言に対し、陛下は 「子どもたちが喜ぶと思います」 と応えられた。さすがだなあ! しかしこのウィットの妙を指摘している人は少なく、見たところでは、わずかにカトリック生活の Christina さんぐらい (参照) というのが残念だ。

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2008/05/09

食べ残しを捨てりゃいいってものでもない

資料的裏付けは見つけていないが、日本では輸入される食料品とほぼ同じ量の食品が、残飯として捨てられているという説がある。

捨てるためのみに食料を輸入しているというわけでは、決してないにしろ、捨てられる残飯がため息の出るほど多いというのは、この国に暮らしていての実感である。

船場吉兆の 「客の食べ残し使い回し」 のニュースを聞いて、複雑な気分になってしまった。船場吉兆を責める前に、私は、「食わないもの (あるいは、「食わせないもの」) までも食卓に出される文化」 というものを、悲しく思ってしまったのである。

使い回しにしていたのは、刺身のつまなどだそうだ。あれなんか、ほとんどの人は食わないものなあと思う。私は食いたいけど。

私はお偉方という立場にいないから、料亭で食事をすることなんて滅多にないが、それでも、年に数回はそういうところでメシを食うことになる。で、そういうところでは、ほぼ 100%、刺身が供される。

刺身の盛りつけは、大体において、刺身を食い終わらないとツマの大根が食えないようになっている。大根を大葉かなんかでカバーして、その上に刺身が乗っかっているからだ。

で、当然ながらまず、刺身を食う。刺身を食い終えて、さあ、大葉と大根を食おうと思っていると、仲居さんが出てきてさっと皿を下げてしまう。下げていいか聞きもしないで。

その場の雰囲気によっては、「あ、まだ下げないで」 と小声で言うこともあるが、多くの場合はこちらがそれをいう間もなく、電光石火の早技でさっと下げられるので、仕方なくツマを食うのを諦めている。とてもとても残念である。

私としては、刺身だけ食うと口の中に生臭さが残るので、ツマを食って中和したいと思っているのだが、現代日本の底の浅い文化は、それをさせてくれない構造になっている。

下げられた大根は無惨にも捨てられてしまうのかと思っていたが、船場吉兆は、それを再利用していたわけだ。大根を大葉でカバーしているのは、一応気休めの衛生を確保するためだったのかもしれない。

というわけで、私としてはなるべく刺身のツマは食うようにしているのだが、多くの人は、どうせ食わないものを再利用しているということに関して憤慨しているのである。私はそれが、悲しい気がするのである。

船場吉兆を擁護するつもりはさらさらないが、「それ言うなら、ちゃんとツマまで食えよ!」 と言いたいのである。「大事な食い物、無駄にするなよ!」 と。

さらに言うならば、食いきれないほどの量の食い物を供するという文化に、疑問を呈したいのである。中国あたりでは、ゲップが出るほどの大量の料理を出さないと、けち扱いされるらしいが、それは、貴人の食べ残しを使用人が食うという 「裏の文化」 があってのことだ。

私も貧乏学生時代、厨房のバイトをしていた頃は、手つかずに戻ってきた料理は構わずどんどん食っていた。客と調理場では感覚が違う。従業員感覚としては、確かに 「もったいない」 と思うのだ。だからといって、食べ残しを客に出していいというものではないのだが。

それでも、「高い金を出してるんだから、食い物の使い回しなんかするな!」 というのは、「高い金を出してるんだから、ちゃんと捨てろ!」 ということの、別の言い方である。ちゃんとツマまで食わずにそれを言うのは、かなり傲慢な話だと、私は思ってしまうのだ。

立食パーティで、あっという間に食い物がなくなってしまうことがある。出席者の多くは文句を言うが、私なんか、それは好ましいことだと思っている。メシなんか、慎ましやかの方がずっといいじゃないか。私は捨てられるとわかっているメシを残して帰る方が、ずっと気持ちが悪い。できることなら、ちゃんと食って供養してやりたい。

そして最後に自信をもって断言しておくが、客の食い残しの使い回しは、船場吉兆だけではないはずだ。ゴキブリが一匹見つかれば、隠れたところに百匹はいるのである。我々も使い回しを食わされたことは、一度や二度じゃないはずなのだ。

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2008/04/27

光市の事件の判決について

山口県光市の母子殺害事件判決に関して、いろいろな人がいろいろなことを書いているが、私は昨年 9月下旬の三部作 (参照 123) で、書き尽くしたように思うので、これ以上あまりくどくどとは書きたくない。

こここで触れようと思うのは、例の青学の准教授の 「事件の死者は 1.5人説」 だ (参照)。

この准教授 (名前も明らかにされてるようだけど、あえてここには書かない) のブログは、私もどこかの個人ニュースサイトからのリンクでアクセスして、直接読んだ記憶がある。(該当記事はもう削除されているようだ)

直接読んだときは、「赤ん坊はちょっとしたことですぐ死んでしまう」 ので、殺された母子のうち幼児を 1人と数えず、「永山事件の死者は 4人。対してこの事件は 1.5人だ」 との記述に対して、「こりゃ、ヤバイぜ」 と思った。「こいつ、炎上を自分で呼び込んでるぞ」 と。

死刑廃止論者としての立場から、ちょっと筆が滑って、「死者は永山事件の半分にも達しないのに」 と言いたかったのかも知れない。その気持ちはわからないでもないが (「共感しないでもない」 ということではない)、いくら何でも思慮がなさ過ぎる。

赤ん坊殺しは成人殺しより罪が軽いと言わんばかりだが、この論理を裏返して、残された平均余命の視点からみれば、成人を殺すよりずっと罪が重いとみることだって可能だ。より大きな可能性を奪ったわけだから。

そうなると逆に、「老人はどうせ老い先短いから、1人殺しても 0.2人分だ」 なんてことにもなりかねない。やっぱり、そりゃやばいだろう。

そしてその上で確認しておきたいことは、案外あちこちで主張されている 「遺族感情を考慮して極刑に処すべし」 という論理は、やっぱりおかしいだろうということなのだ。

これは 「遺族がいる人の死は、天涯孤独の人の死より重い」 と言っているようなものである。それは 「幼児の死は 0.5人分」 という論理から、そう遠くないんじゃなかろうか。私は遺族感情と量刑は切り離して考えるのが当然だと思う。

「この判決で死刑に対するハードルが下がったことに対してどう思いますか?」 というアサヒの女性記者の質問が、世間では非難されているようだが、私はむしろ、本村さんとしては 「よくぞ聞いてくれました」 という類の質問だったと思う。アサヒの記者の質問意図とはまったく違う意味でだが。

そして最後にもう一度だけ触れておく。私は死刑廃止論者ではなく、今回の死刑判決についても当然と受け止めているが、本村さんの執拗に死刑を求めた活動には、今でも共感していない。業に対して業で報いたいとは、私はどうしても思えないのだ。

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2008/04/21

中国共産党の綱渡り

私はよく 「知らずに犯す罪は知って犯す罪より重い」 というお釈迦様の説法を引用するのだが、これとは別の文脈で、「知らせない罪」 というやりきれない罪がある。

中国ネチズンたちのカルフールやケンタッキー・フライド・チキンの不買運動 (参照) をみると、その罪の重さを感じる。

読売新聞の記事は、「ネット民族主義はエスカレートする一方」 と伝えている。なるほど、「ネット民族主義」 とは、言い得て妙かもしれない。

そもそも、インターネットというツールは世界の幅広い情報を入手するのにとても便利にできている。その便利な機能のかなりの部分を削り、都合の悪い情報にアクセスできないように最適化したのが、中国のインターネット事情だ。

そのせいで、中国ネチズンたちはせっかくインターネットを使いながら、世界のスタンダードにアクセスできない状況におかれている。頭の中のバランスが崩れるのは当然で、それで、フランス国旗にナチスのマークを描いたり、燃やしたりしている。

さすが 「知らずに犯す罪」 の真っ最中だけに、歯止めがきかずに、「ようやるわ!」 というほどの無茶なレベルである。しかしこの件に関しては、罪の重さは少しだけ割り引いてあげなきゃいけないだろう。だって、彼らは知りたくても知らされないのだから。

一方、欧米滞在中の中国留学生らも、それぞれの滞在地でチベット独立反対のデモを繰り広げている。彼らは知ろうと思えばいくらでも知ることができるのに、そして、多分知っているんだろうが、もろに中国共産党の立場に立った主張をしている。

そりゃ、欧米に留学できるなんていうのは党幹部とか、党と癒着した企業経営者の子弟なんだろうから、そうした行動に出るのも当然といえば当然だ。ただ、彼らの場合は 「知って犯す罪」 だから、それなりに歯止めがかかっていて、滞在国の国旗を燃やすなんていう暴挙までには至らない。

そして内心は、「中国、今のままじゃ、やばいかも」 ぐらいは思っているだろう。しかし彼らが帰国して指導者になった時、その危機感を反映した行動を取れるだろうか。おそらく、多くは外国での経験に目をつむって、体制側にきっちりと組み込まれてしまうのだろう。

しかし、彼らは 「知って犯す罪」 を犯すわけなので、今の中国のような、どうしようもない状態を現出するほどの無茶は、避けようとするだろう。ただ、その避け方の程度が問題で、あまり真っ正直に避けようとすると、自らの存在意義まで否定してしまう。さじ加減が難しい。

いずれにしても、中国は共産党独裁を維持しようとする限り、難しい綱渡りを強いられるわけだ。いくら 「知らせない」 システムを構築しても、情報というのは少しずつ漏れ入ってくる。無理な体制が自己崩壊に向かうのは世の道理である。

中国に限らず、まことに難儀なことである。

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2008/04/19

2,000円の政教分離

石川県白山市長が白山比咩神社の大祭の関連行事に公用車で出席し祝辞を述べた件で、高裁の違憲判決が出たのが今月 7日だったが、白山市は上告を決めたようだ。

元々、16,000円の公費を返還しろという訴えに対し、判決は 2,000円返還しろというものだが、金額以上の大騒ぎになっている。

このニュースのあらましは、こちらこちら で読むことができるが、リンク先はそのうち消えてしまうだろうから、肝心な部分を引用しておこう。(改行は tak-shonai による)

問題になった白山比咩神社 「御鎮座二千百年式年大祭奉賛会発会式」 は 05年 6月、同市内のホールで開かれた。角市長は随行の市職員と公用車で訪れ、祝辞を述べた。

昨年 6月の金沢地裁判決は、式が神社とは別組織の大祭奉賛会の行事で、神社外の施設で行われたことを挙げ 「宗教色は希薄で出席は儀礼の範囲内」 と認めていた。

だが控訴審判決は一転、大祭奉賛会を宗教団体、発会式を宗教行事と認定。

とまあ、要するに、こうした経緯なのである。地裁判決は慣例重視、高裁判決は政教分離原則の厳格な適用という色彩なのである。

公用車運転手の超過勤務手当 2,000円を返還せよという、大問題の割にはちゃっちい判決だったこともあって、角市長は 7日の高裁判決直後は、「2,000円やそこらで上告して金つこて……、市民になお迷惑がかかる」 と、上告には消極的だったようだ。うんうん、そうだろうなあ。気持ちよくわかる。

しかし、神社仏閣のおかげで観光収入の大きい自治体は全国にあり、今回の判決が判例となると全国の自治体に与える影響が大きいというわけで、上告に踏み切ったようだ。上告を勧める投書が多数寄せられたという背景もあるという。

そもそもこの訴訟を起こしたのは同市在住の池上宏さん (69) という人で、「市長の行動は公私混同」 と主張している。そして控訴審判決でも請求額約 16,000円に対し、2,000しか認められなかったわけだが、「違憲判断を勝ち取ることが出来たので満足」 と語っているという。

原告の 「市長の行動は公私混同」 という主張だが、はっきり言って、「公私混同」 という言い方は当たらないと思う。もし角さんが白山市長じゃなくて、その辺のおっさんだったりしたら、この会合へのお呼びがかかったかどうかはとても疑問だ。その意味で、半分は公務である。

「半分は公務」 という微妙な言い方になるのは、「政教分離」 という原則があるからである。そしてこの原則があるからこそ、神社側も 「大祭奉賛会」 という形式的には別個の組織を作ったのだろう。

そして、この別組織は神社側だけの勝手な都合ではなく、白山市の中にも強い意向があったのだと思う。公的色彩の入った大きなイベントとすることで、観光収入も増えることだろうし、このせいでアンハッピーになる人は、池上さんみたいな人を除いてはあまり多くないだろうし。

問題は、「神社とは別組織なんだから、いいじゃん」 と取るか、「別組織とはいえ、それは名目上の隠れ蓑で、実質は神社と一心同体じゃん」 と取るかである。高裁は 「神社と一心同体」 と見て、政教分離の原則に反するとしたわけだ。

でも、気持ちはわかるけど、そうした 「厳格な」 見方を認めてしまったら、「便宜上の別組織」 がすべてダメになってしまうような気がするがなあ。プロ野球選手の節税だけが目的の個人会社とか、もっと言っちゃえば、「独立行政法人」 という名の実質お役所とかね。

で、最後に個人的な感想を述べるとすれば、えぇと、まあ、何というか、恐縮だが、「池上さん、ずいぶん暇なのかなあ?」 といったような感じのものだ。 (暇じゃない人だったら、ごめんなさい)

あと、それから、角市長もタクシーで行くというぐらいの慎重さをもてばよかったのに、つい、いつもの癖が出ちゃったのね。

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2008/04/15

入学式に出られなかった生徒の件

千葉県の県立高校で、入学金を持参しなかった生徒を、入学式に出席させなかったというニュースが話題になっている。(参照

世間は、学校の対処は当然という原則派と、生徒がかわいそうという人情派に二分されているが、私が驚いたのはむしろ、生徒に 9万円もの現金を持参させるというシステムだ。

今どき、どこの企業でも金のやりとりは銀行振り込みが普通になっていて、あまり現金ベースでのやりとりは歓迎されない。しかもニュースをみると、この学校は入学式当日に合計 9万円を持参するようにしていたらしい。これって、普通のことなんだろうか?

学校にしてみたって、一度に 100人以上の現金処理をするのは面倒だろう。私が学校側の担当者なら、そんな処理方法はうっとうしいと思うし、親の立場なら。「なんで銀行振り込みじゃいけないんだ」 と思うだろう。

とにかく、中学校を卒業したばかりの子供に 9万円もの現金を持たせて平気というのは、日本の治安もまだまだ捨てたもんじゃないということだ。とはいえ、問題ないとは決して言えないと思うぞ。

そして、入学式に出席させないという措置に関しては、個人的には一応出席させたっていいじゃないかと思う。だって、わざわざ別室に待機させるなんて、学校側としても面倒じゃん。うんざりしちゃう。誰もハッピーじゃない。

入学式に出席してしまったら、法的に入学が保証されなければならないなんてこともないんだから、2~3日待っても入金されなかったら、入学取り消しにしてしまえばいいだけの話じゃないかと思うがなあ。

入学金未納というのは、日本中でこの高校だけなんてこともあるまいから、普通はそんな感じでやってるんじゃないかと思う。この高校、校長さんが石頭なんだろうか。

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2008/03/22

なんで 「新東京タワー」 じゃいけないの?

東武鉄道が新東京タワーの名称公募を開始したというニュース (参照) で、「新東京タワー株式会社」 って、東武鉄道が出資しているのだと、今頃になって初めて知った。

有識者による 「新タワー名称検討委員会」 が選定した 6つの名称案だが、これはまたお約束のように、はなはだ評判が悪い。

そもそもこの種の名称を、「何とか名称検討委員会」 みたいな組織が決定すると、大体において評判が悪く、下手すると誰も使わないということになりがちである。その最たるものは、JR 東日本の 「E電」 だ。

今や、JR の駅構内にさえ 「E電」 という表示は皆無になった。完全に捨て去られたと言っていい。以前にも書いたが、小林亜星氏がもし文化勲章をもらえなかったとしたら、それは一重に 「E電」 という名称を決定した委員会の代表なんか務めた汚点によるだろう。

後楽園ドームの 「ビッグエッグ」 なんかも、あまりにも取って付けたようで、今ではほとんどの人が覚えていない。

さて、今回の新東京タワーの名称案は、以下の通りである。

  • 東京EDOタワー
  • 東京スカイツリー
  • みらいタワー
  • ゆめみやぐら
  • ライジングイーストタワー
  • ライジングタワー

いずれも、なんだかセンス悪いなあという感じの案だ。

「東京スカイツリー」 なんて意味わからんし、想像力でおぎなってやると気持ち悪い。「みらいタワー」 は言うもこっ恥ずかしい。「ゆめみやぐら」 は、都営地下鉄大江戸線につけられた愛称 「ゆめもぐら」 の失敗の轍を踏む悪夢になりそうだ。

「ライジングイーストタワー」 は長すぎてかんじゃいそうだし、「ライジングタワー」 も言いにくい。結局のところは、一番無難な線の 「東京 EDO タワー」 で決まるんだろうなあ。他の 5案がひどすぎるから。

それにしても、なんで 「新東京タワー」 じゃいけないんだろう。会社の名前にまでなっているというのに。

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2007/12/08

言わなくてもいいことを言っちゃうと

北京五輪組織委員会 (BOCOG) が、表彰式の女性プレゼンターを募集するにあたり、「極めて明確な条件と要求」 をアナウンスしたことが話題になっている。

その 「極めて明確な条件と要求」 とは、「選手にメダルを授与するため身長が 168 - 178センチ」 であることだという。(参照

体重に関する明確な条件はないが、「概して言えば、太り過ぎはだめ。プロポーションはよくなければならない」 んだそうだ。

さらに、その他の目安として、「18 - 25歳の大学生で、支給されるユニフォームのサイズに合うこと、健康で練習に参加でき、五輪精神やオリンピック・ムーブメントについて明確に理解していること」 が挙げられた。

この声明を発表したのは、同委員会の趙東鳴・文化活動部長という人らしい。これに対して、国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチ (本部ニューヨーク) が敏感に反応し、「女性差別だ」 と批判する手紙を、同部長宛に出したことを明らかにした (参照)。

「女性差別」 批判に関するニュースの見出しは、"「美人の起用」 は差別と批判 五輪メダル授与者選考で" ということになっている。

とはいえ、ニュースで読む限りは、趙東鳴部長のコメントには、「プレゼンターの条件は "美人" であること」 という文言は見当たらない。ただ、長身でプロポーションがよく …… 云々」 とあるだけだ。

しかし、実際には、「長身でプロポーションがいいけど、顔の造作は明らかに不細工」 という女性が選ばれることはないだろう。きっと、それなりの美人が選抜されるんだと思う。

このケースで問題なのは、一重に 「選考の第一条件は容姿」 なんてことを、アナウンスしちゃったことだ。これでは 「女性差別」 と批判されても仕方がない。フツーの世の中では、こんな条件なんてものを声高に言わなくても、結果としてそれなりの容姿の女性が選ばれてしまうものなのである。

そこはそれ、阿吽の呼吸だ。要するに、趙東鳴部長は 「言わなくてもいいこと」 を言っちゃったのである。「言わなくてもいいことを言っちゃう」 というのは、往々にして 「言うべきことを言わない」 ことよりも、もっと好ましくない結果につながることがある。世の中とはそういうものである。

私の知っている某社の社長も、「ウチの女性社員の採用基準は "見た目" が第一」 と、言わなくてもいいことを公言する一人である。「社内にいる女の子がブスよりゃ美人の方が、男の社員のやる気も出るってもんだろうよ」 だそうだ。

確かに、この会社の OL の容姿は、平均点が (とびきりってわけじゃないが) 高いような気がする。ただ、そのことが男性社員のやる気を左右するほどのことかというのは、私はかなり疑問である。というか、全然関係ないんじゃないかと思う。

正直に言うけど、そりゃ、私だって美人は好きである。しかし、こんなことを堂々と公言する社長の会社に、居心地よく勤められちゃう美人というのは、ちょっと違うんじゃないかと思う。私としては、進んでお付き合いしたいとは決して思わないのである。

それに、最も重要なポイントとして、そんなところがこの会社の限界という見方をされても仕方ないわけである。

本日の結論。女性に限らず、男だって、「容姿も能力の一部」 というケースも時にはあるだろうが、それは一般的な仕事の場においては、「言う必要のないこと」 である。繰り返すが、それを言っちゃったら、「言うべきことを言わない」 よりもまずいことになりやすいのである。

そもそも、「選手にメダルを授与するため」 に、身長が 168 - 178センチでなければならないなんていうのは、ほとんどお笑い草である。だって、メダル受賞者の身長は、多分、150センチぐらいから 220センチぐらいまでの幅があるだろうから。

このくらいの身長の女性が、趙東鳴部長の 「好み」 なのかもしれないね。

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2007/12/04

「謝罪会見」 を巡る冒険

不眠症カフェ」 の alex さんが、ここ一連の 「謝罪会見」 オンパレードに、「そんなに 『謝罪』 させたいのか? 日本人は」 と、疑問を呈しておられる。

確かに、形ばかりの 「謝罪」 で頭を下げるところを見せられても、彼らの 「誠実さ」 を見せられているような気はしないしね。

向こうだって嫌々ながら仕方なく詫びているのが見え見えなのに、日本人はそれを見ないことには気が済まないのである。昔から、「そんなことをしたら、世間様に顔向けできない」 と言われたものだが、何かあると、その 「世間様」 の代表みたいな顔をしたがる人が、その辺にいくらでもいるのである。

以前私は、西欧人と日本人の 「謝るツボの違い」 について書いている。西欧人の多くは、道を歩いていてちょっと肩がぶつかっただけでとても丁寧に詫びるが、大きな法的問題に関したこととなると、軽はずみな謝罪は頑としてしない。

逆に日本人は、混雑した電車内でかなりなぶつかり方をしても、「済みません」 の一言もない場合が多いが、何か重大なことをしでかしてしまったら、とにかく大げさに平身低頭しておきさえすれば少しは情状酌量してもらえると思っている。

それが高じてか、日本人の多くは他人が何か悪事をしでかしたときには、そいつに平身低頭して謝られないと、気が済まなくなっている。その悪事がテレビに乗って公共に流されるようなものだったりしたら、別に直接被害をこうむったわけじゃなくても、日本中が、とりあえず謝られる側に身を置きたがるのである。

私なんか、朝青龍や亀田大毅に謝られたところで、嬉しくも何ともないし、そもそも、謝られるような悪さを、彼らにされた覚えもない。だから、「こいつら、謝り方下手だなあ」 とは思っても、だからといって腹が立つということもない。

多くの日本人が何かというと 「謝罪」 を求めるのは、結局のところ、自分は謝られる権利があると思っているからである。なんでそんな権利があるかというと、なんとなく自分も関係者の一人のような気になっているからである。

日本人は、何かに成功すると、「おかげさまで」 という。自分一人の力で成功したんだなんて顔をしていたら、そいつは総スカンを食う。殊勝な顔をして 「これもひとえに、皆様のおかげです」 と言わなければならない。それがあって、初めて周囲に 「よかったね」 と祝福してもらえるというお約束になっている。

成功するのが 「皆様のおかげ」 なら、反対にヤバイことに手を染めてしまったら、それは 「皆様」 を裏切ってしまったことになる。だから、謝らなければならない。範囲がちっとも明確でない 「世間の皆様」 という存在に対して。

「お前が成功するとしたら、それは俺たちの好意や応援のおかげなんだし、それを裏切ったら、とりあえずは詫びを入れに来い」 ってなもんである。明確にそう意識していなくても、無意識でそう思っているから、何だか知らないけれど、執拗に 「謝罪」 を迫るのである。

西欧のキリスト教文化圏では、成功を収めると、まず最初に神に感謝する。その次に、具体的に協力してくれた人たちの名前を挙げて感謝する。不特定多数の 「皆様のおかげ」 なんてことは、あまり言わない。

とにかく、まずは "Thank God!" である。英和辞書的には、この言葉の訳語は単に 「ありがたい!」 である。普通の文脈で、これを 「神様、ありがとう」 なんて訳したら、ちょっと奇異な感じがするだろう。それでも文字通りに受け取れば、まず感謝するのは、神に対してであることには違いない。

そして、その裏返しとして、罪を犯してしまったら、神に 「懺悔」 する。感謝するのも懺悔するのも、とりあえずは神に対してである。

このことに気付くと、そうか、日本では 「世間様」 が 「神様」 なんだとわかる。キリスト教文化圏における 「神」 の役割を、「世間様」 が果たしているのだ。だから、西欧での (神に対する) 「罪」 は、日本では (世間に対する) 「恥」 に相当するのである。だから、神に懺悔する代わりに、「謝罪会見」 をしてまで世間に詫びなければならない。

これって、謝罪会見で平身低頭するという 「恥ずかしい姿」 を自ら進んで見せることによって、その前に犯したチョンボによる 「罪 = 恥」 をチャラにしてもらうという、とてもプリミティブかつ民俗的儀礼行為なんじゃないかなあ。

だから、その程度のフォークロア的な問題を、妙に近代的に解釈して、「謝罪になってない」 だの 「誠意が見えない」 だのと立腹してみせるのは、どうも違うような気がするのである。

「おかげさま」 は、とても美しい言葉である。しかし、そのベクトルが裏返ると、ちょっとへんてこなややこしいことになる。

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2007/12/02

「日米関係良くない」 が 2割超す?

"「日米関係良くない」 が 2割超す 内閣府 「外交に関する世論」" というニュースがあるんだけれど、この種の世論調査の意味というのが、今でもよくわからない。

決して 「意味がない」 と言ってるわけじゃない。だが、それをどう解釈していいのかというのが、今イチよくわからないのである。

この調査は内閣府によって、10月 4~14日、全国の成人 3000人を対象に実施され、有効回収率は 58.6%だったんだそうだ。てことは、1758人分の回答を分析しているというわけだ。日本の総人口の、たった 0.0015%である。

そんなんで何がわかると言いたくなりそうだが、統計の専門家によれば、この程度のサンプル数で、傾向値は十分に導き出せるらしい。となれば、選挙の開票速報で、開票率 1%で 「当選確実」 が出るというのも、驚くほどのことではないのだろう。

この調査では、現在の日米関係を 「良好」 と思わない人が 20.4%に達したんだそうだ。「良好だと思う」 と 「まあ良好だと思う」 の回答を合わせると76.3%なので、「良好と思わない人」 は少数派なのだが、昨年同時期の調査の 2倍近くに増えたというのが注目ポイントだ。

で、こうしたニュースを聞くと、よくまあ、そんなに、「良好と思う」 とか、「思わない」 とか、偉そうに判断して答えられる人 (街場の外交評論家?) がいるもんだなあと、私なんかごく素朴に感心してしまっていたのである。

「現在の日米関係は良好か?」  なんて聞かれたら、私なら手に余る。そんな重大な問題を的確に判断するに十分な材料を、素人の私が持ってるはずないじゃないか。辛うじて言えるのは、「決して険悪ってわけじゃないよね?」 という程度のことである。

ところが、こうした調査の常道としては、私みたいな反応は、ほとんど 「まあ良好だと思う」 という回答に組み込まれてしまうんだろうなあ。それはまあ、仕方ないことだろうとは思うけど。

しかし、「良好と思わない」 と答えた 20.4%の人に、「じゃあ、日米関係は 『険悪』 ってことですね?」 と再確認したらどうなるだろう。日本の成人の 5人に 1人が、「日米関係は、『険悪』 だ」 と、本気で考えているんだろうか。

で、念のため、内閣府のサイトで昨年度の (今年度のはまだサイトに載ってなかったので) 調査結果 (参照) を調べてみると、こんなふうなことになっている。

現在の日本とアメリカの関係は全体として良好だと思うか聞いたところ,「良好だと思う」 とする者の割合が 82.7%(「良好だと思う」 36.0% + 「まあ良好だと思う」 46.7%),「良好だと思わない」 とする者の割合が 11.6%(「あまり良好だと思わない」 9.8% + 「良好だと思わない」 1.8%)となっている。

なんだ、「良好だと思わない」 という回答の中身は、「あまり良好だと思わない」 という、いわば曖昧な回答がそのほとんどを占めているんじゃないか。

てことは、「それほど 『蜜月関係』 ってわけでもないみたいだよね」 という程度の印象で答えたサンプルの多くは、「あまり良好だと思わない」 に組み込まれているのだろうと、想像するに難くない。

このケースに関しては、多分、「まあ良好」 という答えは、「険悪ってわけじゃない」 というのとそれほどの違いはないだろうが、「あまり良好だと思わない」 という答えは、「ちょっと険悪」 というのとは、ずいぶん違うだろう。

それは、「非常にいいってわけでもない」 程度のことなんだろうと思う。これが 「まあ良好」 とどう違うんだと言われたら、ものすごく微妙だ。

はっきり言って、判断基準が楽観的か悲観的か、あるいは単に、米国好きか嫌いかという程度の違いなんじゃなかろうか。だって、繰り返すけど、的確な判断を下す材料なんて、持ってないんだもの。素人なんだし。

今回の結果にしても、「良好だと思わない」 という中身は、「あまり良好だと思わない」 (≒ 「非常にいいってわけでもない」) が圧倒的多数なんだろうと思われる。それが新聞の見出しになると、"「日米関係良くない」 が 2割超す" になってしまうというのは、ちょっと恐い。ニュースとはそういうものと知りながらも。

この調査では、いろいろな国に対する 「親近感」 と、その国との 「関係」 の 2点を質問しているようだ。個人的には、「素人に聞くんだったら、親近感について聞く程度に止めて欲しいよなあ」 と思ってしまう。

「内閣府ともあろうものが、外交関係が良好かどうかなんてことを素人に聞いてくるより、専門家の視点できちんと判断しろよ」 と言いたくもなる。

好意的に判断すれば、時系列変化に沿った世論推移というのが重要なポイントなんだろう (きっとそうなんだろう) 。そして、「親近感」 というイメージ的なものより、「関係」 という具体的な言葉で質問する方が、直近の要素がよりタイムリーに反映されやすいんだろう。それは十分に理解できる。

そして、政府としては 「私どもが思ってるわけじゃ決してないんですけど、国民全体としてのおたくの国に対する意識って、近頃、こんなんですよ」 と、外国に対する微妙なメッセージを送ることができる。多分、これも (日本政府の期待としては) 大きいんだろう。

それでも、「日米関係は良好か?」 なんて正面切って聞かれたら、私なら悩む。ましてや、「現在の日本とアフリカ諸国との関係は全体として良好だと思うか」 (昨年度の調査報告をみると、こうした質問もあるようなのだ) なんて聞かれても、笑っちゃうしかないよなあ。

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2007/11/17

食べ物の偽装問題にはシニカルな私

船場吉兆の消費期限や産地の偽装がばれて、大変なイメージダウンの 「吉兆」 というブランドだが、蕎麦屋の 「藪 (やぶ)」 ほどじゃないにしても、暖簾分けやらなんやらで、どこに行っても 「吉兆」 という店がある。

いくら高級店でも、これだけ拡大してしまったら、そりゃあ、何かあるさ。

高級料理店なんぞにあまり縁のない私だが、一度だけ 「吉兆」 という名の店で食事をしたことがある。以前勤めていた会社で上司と一緒に米国に出張したとき、マンハッタンの 「吉兆」 という店で接待を受けたのである。上司と一緒でなかったら、こんな店には連れて行ってもらえなかっただろうが。

で、その時の印象だが、サービスはさすがに行き届いているけれど、料理は 「フツーにおいしい」 程度のものだった。やたらと高い値段だったようだが、それは料理に払った値段ではなく、「吉兆」 というブランドに払った値段だったと思う。会社の金でなかったら、誰も行かない。

しかし、世の中にはブランドと値段でだまされる人がいくらでもいる。消費者の味覚なんて、はっきり言って当てにならないのである。いくら高級料理といっても、ブラインドテストをしたら、ほとんどの人はさっぱりわからないのだ。

エビアンとヴォルヴィックとクリスタルガイザーの違いとか、北海道産と信州産の蕎麦粉の違いならきちんとわかる私でも、比内鶏とブロイラーの違いなんて、多分わからない。それは、普段、比内鶏なんて食いつけてないから、味覚のデータベースにないからだ。

「ウチの主人は料理にうるさくて、お米はコシヒカリしか食べないんですよ」 なんていう話をよく聞くが、それは、毎日コシヒカリのご飯を食べているから、体内の味覚データベースにしっかり記録されているからだ。ほかの米を使ったご飯を食べさせられると、「ん? ちょっと違うな」 とわかる (かもしれない) だけの話である。

だから、コシヒカリしか食べないご主人が、料理全般にグルメというわけでは決してない。多分、殆どの人は比内鶏とブロイラーの区別はつかないだろう。逆に、お米は何でも構わなくても、地鶏しか食ったことのない人は、ブロイラーを食わされたら、「何だ、こりゃ?」 と思うかもしれない。

高級料理店というのは、一般人の味覚データベースにない料理を、「おいしい」 という幻想付きで、高い値段で食わせる店なのだと、私は思っている。

その幻想が通用しない者にとっては、A 5 ランクの最高級牛肉でも、「ちょっとミステリアスなものを口に入れちゃった」 ぐらいの感慨しかわかないというのは、今年 9月 14日のエントリーに書いたとおりである。

だから、一連の食べ物関連の問題については、そりゃ、偽装は悪いことには違いない (「詐欺」 という立派な犯罪だしね) けれど、私個人としては、正面切って攻め込む気にはなれないのだよね。私が責めなくても、それについては世の中の大勢が責めるから、いいのである。

赤福だの白い恋人だの、比内鶏だの、但馬牛の何とか漬けだのは、どうせ、1年に 1度も食わないから、個人的にはあんまり実害ないし。牛乳の賞味期限だって頓着してないし。

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2007/10/09

「取調べ可視化」 を巡る冒険

近頃 「取調べ可視化」 というのがトピックになっているらしい。警察での容疑者取調べの様子を、ビデオに録画しておくということだ。

警察での取り調べは、密室で行われる。そして、供述調書は、警察の係官が書き、後で容疑者がそれを読んで、「はい、私は確かにこう供述しました」 とサインする。

これって、かなりアブナイお話である。容疑者が話したとおりに係官が調書を書くなんて事は、まずあり得ない。ワセダ速記の名人とかいうなら別だが。フツーは、容疑者の言ったことを適当に整理して調書を 「作成」 することになる。

その 「供述調書作成」 の過程で、容疑者の供述の、些細だが実は後になって重要なファクターとなるかもしれない部分は削り取られ、作成者側の都合のいい思い込みが混じりこみ、さらに、容疑者が絶対に使わないであろう専門用語に置き換えられ、「もっともらしい」 調書になる。

その各部分だけをみれば、回りくどい話し言葉を簡潔な書き言葉に置き換えただけなのだろうが、全体を通してみると、元の供述とはかなりニュアンスの違ったものになるということが、いくらでもあると思うのだ。

私は業界記者の経験が長いので、新聞記事なんていうのは元ネタがどんなものだろうと、書きようによって、いろいろなニュアンスにしてしまえるということを、体で知っている。

さらに、こちらが取材を受けた場合、意図した内容と微妙にずれた記事になっているという経験も、いくらでもある。むしろ、こちらの意図がストレートに表現されているということの方が珍しい。

とくに、三段論法なんてほとんど伝わらない。「A=B で、さらに、B=C であり、よって、A=C である」 という論理は、単なる数式なら誰でも知っているが、それを日常の事例で語ると、こちらがいくら論理的に語っても、記事になると、字数制限のためもあって、単なる印象論で済まされたりする。

また、「必ずしも、そうしたことがないとも言えない」 なんて言い方をついしてしまうと、記事の段階では 「必ずあるだろう」 になってしまったりする。こちらは 「だから気をつけないとね」 と言ったつもりなのに、反対にそうした状況を期待しているようなニュアンスになる。それを読む読者は、「そんなの、ありえねぇよ!」 と思い、反感さえ覚えるだろう。

人の言った言葉を要領よく正確に文章化するというのは、実はかなり難しいことなのだ。

だから、「供述調書」 なんていうのもそのほとんどは、取り調べられる側のウソと取り調べる側のウソが交錯して織りなされたフィクションと思って間違いない。それだけに、そのフィクションのどのあたりが問題なのかを検証する材料として、録画があるというのは望ましい。少なくとも、ありもしないことを無理やり自白させられるなんてことはなくなるだろうし。

警察はこれまでの誘導尋問や (ちょっとした、あるいはギリギリの) 暴力などの手法が使えなくなるので、抵抗が大きいだろうが、時代が変わったんだから、今の時代に最適化した取調べのテクニックを磨けばいいだけのことだ。

取調べの録画をうまく使えば、場当たり的な言い逃れに終始する容疑者の信用置けないキャラを浮き彫りにするというやり方だってできるだろうし。

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2007/09/29

杉村大蔵議員の投票 「盗撮」

近頃、死刑なんていう、ちょっと自分にはヘビーすぎるお話にかまけてしまったので、ちょうどいい小ネタに触れるタイミングを逸していたのだが、今さらながら書こうと思う。

この度の総裁選挙における、杉村大蔵議員が麻生氏に投票したのを日テレが 「盗撮」 しちゃったというお話だ (参照)。

どうやら本当に盗撮して、ニュースショーで流しちゃったらしい。YouTube にも載っけられちゃってる。これに対して、2ちゃんねるあたりで非難囂々ということになってしまったようだ。

しかしこの件、玄倉川さんが指摘しておられる (参照) ように、私も大したことじゃないと思う。少なくとも 「やっちゃいけないこと」 なんて言って騒ぐのは、かなり気恥ずかしい。だって、相手は日テレと杉村大蔵議員のセットなんだよ。

多分、裏で話がついてたんだろう。状況証拠だが、杉村議員はちっとも怒ってないし、アナウンサーの福沢さんが泣いて謝ったという話も、この件に関しては聞こえてこない。そもそも、あの投票の現場にご大層な超望遠レンズをセットしたカメラを持ち込んで、投票ブースを狙うのを黙認している時点で、ほとんど出来レースである。

そして、相手が杉村議員だからこそ、「盗撮」 して電波に乗せたんである。盗撮された杉村議員は、元々小泉チルドレンの申し合わせにケツをまくって麻生支持を表明していたのだから、実際の投票がばれたところで、痛くも痒くもない。むしろ、しっかりと話題になったので、どちらかといえば満足だろう。

これは Win - Win の関係である。少なくとも、日テレと杉村議員との間での了解事項としては。

ただ、両者ともちょっとエキセントリックだったため、効果というよりは反感の方がずっと大きかったのが誤算といえば誤算だろう。で、「ありゃりゃ、すべったかな?」 と、ちょっとだけ後悔しているかもしれないというだけの話なんじゃないかなあ。

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2007/09/23

死刑で罪は償えるのか

光市母子殺人事件の裁判が、世間の注目の的で、あちこちのブログでも、いろいろな視点から語られている。

被告人のいかにも無反省な態度、被害者遺族の強硬な死刑要求、世間の反感買いまくりの弁護団の法廷戦術、どれをとっても、私には極端すぎるように思える。

三者がそれぞれ 「極端すぎ」 なのだが、まず第一に、被告人の態度があんな風に超不愉快な極端さなのは、これはもう仕方がない。あんなような子だからこそ、あんなような犯罪に手を染めてしまったのである。それはもう、動かしようのない既成事実である。

被告が 「反吐の出そうな嫌な奴」 というのは、前提として織り込むしかない。彼に対して 「誠実に反省しろ」 とか、「自ら進んで罪を償え」 とか要求しても、始まらない。ナンセンスである。今さら急に 「普通の感性」 を持てという方に無理がある。

それから、弁護団の手法がいくら気に入らないからといって、それに対してヒステリックにどうこう言うのも憚られる。公式的に言えば、彼らは彼らで、被告人に対する判決を少しでも軽くするのがビジネスなのであり、「死刑廃止」 という主張が極端に混じり込んでいるのは見え見えではあるけれど、かといって、その手法が明らかに違法というわけでもない。

この 2つの要素は、どうしようもないことなのである。で、消去法的にいって変わり得る可能性があるのは、被害者遺族の態度だけなのである。そして、本村さんがあのように極刑を要求するのは、玄倉川さんの表現を借りれば、「復讐の鬼」 と化している (参照) ように見える。

この事件をきっかけとして本村さんは犯罪被害者の権利確立に尽力されており、それはそれで尊いことである。しかし、そのことと、この裁判において被告の死刑を執拗に求めることは、私の考えでは結びつかない。

凶悪犯罪裁判の被告に死刑を求めることは、被害者及び遺族の 「希望」 ではあり得ても、「権利」 かと言えば、それはちょっと別だ。

本村さんが 「人の命を奪った者は命もって償うべき」 として、被告の死刑を強く求めるのは、無理からぬことではある。それを否定するつもりはない。しかし、被告が死刑になったからといって、その罪は果たして本当に償われるのだろうか。そして本村さんはそれで気が済むのだろうか。

私は死刑に決して反対ではない。積極的な賛成論者ではないが、かといって、強力に反対するための根拠をもっているわけでもない。だから、今回のケースで死刑にすべきでないと言うつもりはない。

しかしそれでも、被告が死刑になったからといって、その罪は償われるのだろうかと疑うのだ。私は死刑というのは決して 「償い」 ではなく、純然たる 「罰」 なのだと認識している。

さらにその上で、本村さんが最も重い 「罰」 を要求する気持ちもわかる。同情もする。それでも、もし自分が本村さんの立場になったとしても、あのような主張はしないだろうと断言する。

自分がその立場にないから、気楽なことを言えるのだと言われるかもしれない。確かに、私は妻子を殺されたわけじゃない。その意味では幸せである。だからといって、「私ならそうはしない」 という自由を持たないわけじゃない。

そしてさらに、これだけは言っておかなければならないが、私は本村さんを非難しているわけでもない。本村さんはご自分の意志であのような行き方を選択されたのだから、それはそれで尊重する。私はただ、「私ならそうはしない」 と言うだけだ。

犯罪者が罰せられるのは、対社会的な問題であり、刑罰と被害者の救済は、別の問題だ。凶悪犯罪の判決として、無期懲役なら被害者は救われず、死刑なら救われるということはない。あるとしたら、被害者の 「納得の仕方」 の違いだけだ。

死刑なら納得できるというのは、ある種の幻想だろう。もっともそれこそが 「納得」 であり、「救い」  なのだと言われれば、それに対して言い返そうとまでは思わないが、それでも、「幻想」 による納得や救いでは、本当の救いにはならないと、私は心の中で呟くだろう。

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2007/09/13

ベストジーニストの 「綾戸智恵」 さん?

安倍首相の突然の辞任表明には、目が点になってしまったが、アパレル業界では突然の天災のようなニュースのせいで、昨日発表になった 「ベスト・ジーニスト」 が霞んでしまったのが気の毒と、もっぱらの評判だ。

安倍さん、日本のジーンズ業界のために、もう 1日ぐらい待ってくれてもよかったのに。

と思いつつ、発表された今年のベスト・ジーニストの受賞者をみると、一般選出部門は亀梨和也と倖田來未のご両名で、どちらも去年に引き続いて、2年連続の受賞だという。うーん、この 2人、ベクトルが圧倒的右肩上がりの段階を、既に過ぎてしまってるんじゃないかなあ。今回のタイミングの悪さが象徴的だ。

そして、今年のベスト・ジーニストの特徴は、協会選出受賞者が 綾戸智絵北原照久久保京子の 3人で、やや渋めの人選だったということだろうか。

「おや?」 と思ってしまったのは、ジーンズ協議会の公式サイトの受賞者発表で、綾戸智さんの名前が、「綾戸 智」 と標記されていたことだ (魚拓は こちら)。

Wikipedia によると、彼女の本名の表記は 「智恵」 なんだそうで、敢えて本名の智恵さんの方に賞を上げたということなのか。それとも、単なるチョンボだったのか。何だか、よくわからんところである。

Google のニュース検索であたってみると、読売中日日刊スポーツデイリーも、「綾戸智恵」 になっている。プレスリリース通りに書いちゃったということなんだろう。でも、「ジャズ歌手の」 という枕詞付きなんだから、芸名の 「綾戸智絵」 にすべきだと思うのだが、誰も疑問を差し挟まなかったのかなあ。

とにかく、今年のベスト・ジーニスト、なんだかお気の毒である。特別貢献賞が、ニューアルバム "Denim" を出した竹内まりやというのは、かなり納得だが。

【同日 追記】

「綾戸 智」 という標記の疑問が解けた。SANSPO COM の記事によると、こういうことだそうだ。(以下、引用)

今年デビュー10周年で50歳を迎えた今月10日の誕生日を機に、芸名を綾戸智絵から本名の綾戸智恵に改名したといい「50歳は人生の中間地点。再出発という意味でこれを機に頑張ります」と意気込んだ。

ふーん、そうだったのか。知らなかった。

それならそれで、他のメディアもきちんと触れてもらいたかったなあ。それにしても、「50歳は人生の中間地点」 とは、意気盛んだなあ。ヒップもぷりぷりだそうだし。

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2007/09/10

武道とダンス

中教審が武道とダンスを中学校で男女とも必修にするという答申を出して、どうやら実現されてしまうらしい (参照)。

で、世の中では、安倍内閣の 「戦後レジームからの脱却という復古主義」 の色合いををダンスで薄めるナンセンスだとか、お約束通りの反論が渦巻いている。

この件に関しては、私はややシニカルなスタンスだが、頭っから反対というわけじゃない。中学で武道やダンスを習うということには、少しはメリットだってあるはずだ。

完全に個人的な趣味だけで言ったら、中学で武道とダンスを習うのも、悪くはないと思う。私が中学生なら、単純に楽しめるだろう。だけど、もちろん楽しめない中学生も少なくないだろうし、さらに、楽しめない大人はもっと多いだろう。

外国を旅行すると、日本人というだけで、何かの武道をやっているものと思われることが、案外少なくない。さすがに 「ニンジャ」 なんていうのは論外だが、「ジュードー」 や 「カラテ」 を身に付けてるんじゃないかなんて、勝手に思われたりする。

そんな時、「ジュードーは学校で習ったよ」 ぐらい言えたら、少しはカンバセーション・ツールになる。多分、その程度では喧嘩になったら使い物にはならないけれど。それから、これからの世の中、ダンスぐらいできた方が何かと役には立つかもしれない。

武道を必修化することの中教審的な意味は、「日本の伝統や文化を知るために役立つ」 ということになっている。これを好意的に意訳すると、「礼儀作法が身に付く」 というあたりに落ち着くんじゃないかと思う。中教審の具体的な本心は、多分ピンポイントでここにあるのだ。

いくら中教審でも、中学生が週に 1~2時間、授業で武道をやったぐらいで 「日本の伝統や文化を知る」 ことになるとは、本気で思っていないはずだ。ただ、「礼に始まり礼に終わる」 という武道を必修化すれば、挨拶ぐらいはまともにできるようになるかもしれないと期待しているんだろう。

しかし、実際にはそれだってあぶないものだ。町道場の子供クラスに通う子どもたちを見ても、本当に礼儀作法が身に付くのは一握りである。ましてや、必修化で水で薄めたような指導をしたところで、期待通りの成果なんて現われない。そんなものである。いくら学校で英語教育をしても、なかなか身に付かないのと同じことだ。

それに、学校で武道をやっても、すぐさま 「復古調」 の色合いが強まるというほど、今の子どもたちはヤワじゃない。それに、今の武道は 「スポーツ」 なのだから、「伝統文化教育」 という旗印にあまり期待してはいけないし、逆に、無闇に反発するほどのことでもない。

それに、私だってこう見えても、ちゃんとした武道の黒帯をもらっているけれど、上下関係が絶対的ないわゆる 「体育会的雰囲気」 には、かなりの反発を覚える。それだけはきちんと表明しておこう。

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