カテゴリー「ファッション・アクセサリ」の45件の記事

2009/11/04

ユニクロの 「過剰品質」

文藝春秋 9月号に載った 「ユニクロ栄えて国滅ぶ」 というエコノミストの浜矩子氏による論文が、まだあちこちで話題になっている。

私はその論文を読んでいないし、読もうという気にもならないが、アパレル業界ではユニクロを目の敵にする人が少なくない。それで、その論文のタイトルだけが一人歩きしている。

私自身は、アパレル業界でメシを食ってはいるのだけれど、ユニクロをことさらに否定しようとは思わない。「ユニクロ大好き」 というわけでもなく、かといって、「大嫌い」 というほどの理由もないという立場だ。そして気付いてみれば、私自身、ユニクロで買った品物が結構な数になっている。

はっきり言って、ユニクロ、商売がうまい。ちょっと前までは、「やっぱり田舎から出てきたカジュアル屋のおやじの発想だなあ」 というところがあったが、最近はそうした欠点が見えにくくなった。品番を絞ってスケールメリットで迫る企画と、もう少し多品種にまで広げてファッション性をぎりぎり確保する企画のメリハリがついてきている。

それに、ユニクロの製品を 「安かろう悪かろう」 の代表のように言う人がいるが、はっきり言ってそれは間違いだ。ユニクロの製品は、値段の割には 「慇懃無礼なほど」 品質がいい。「そこまでするか」 というほどである。

例えば、値段がやたらと安いのに、チノパンに使っている素材が 「エクストラファインコットン」 だったり、ニットに使っているのが 「ファインメリノ」 だったり 「カシミア混」 だったりする。チノパンなんて、定番のゴワゴワ・コットンで十分だし、安物のセーターなんて中番手ウールで十分なのに、ユニクロはことさらに高級素材を使いたがる。

ただ、ユニクロの 「過剰品質」 は、それなりの戦略に裏打ちされているのではないかという気もする。

まず、あれだけの 「過剰品質」 を訴求すれば、「安かろう悪かろう」 では決してないというイメージを定着させることができる。今、ユニクロを 「安かろう悪かろう」 と言っているのは、ユニクロを着たことのない人だけである。

それから、素材に細番手の高級素材を使いたがるのは、ちょっとパラドキシカルな効果がある。細番手素材というのは、見た目が滑らかで、感触がソフトで、なかなかいいものなのだが、物理的にはそれほど強度がない。そりゃ、細い糸で薄くできているのだから、当たり前と言えば当たり前だ。

だから、細番手素材の服やパンツをカジュアルに、もっと言えばラフに着倒したら、型くずれしやすいし、それに何より、裾や縫い目がすり切れやすい。だから、ユニクロのチノパンは回転が早まる。回転が速いから、安くても数が売れる。それに 「品質はいい」 という既成観念ができているから、買う人の多くはリピーターになる。

というわけで、ユニクロの 「過剰品質」 は、回転を速めることを狙った戦略なのではなかろうかと、私はちょっとひねくれた見方をしているのである。回転さえ速まれば、ちょっと高めの素材を使っても、あれだけの規模なのだから利益的にはおつりが来るだろう。

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2009/10/27

みんな、おしゃれがしたいはず?

「おしゃれ」 という言葉のイメージがプラスかマイナスかといえば、相対的には、プラス方向に振れているのは確実だと思う。

ただそれは、おしゃれでありさえすればいいということでないのは当然で、あまり構わなすぎるよりは、少しはおしゃれである方がいいだろうぐらいのレベルだと思う。

そして中には、他人がおしゃれをする分には一向に構わないが、自分がおしゃれをさせられるのはかなわんという人もいる。とくに戦前生まれの男には、こういう意識の人が多い。自分の身に降りかかってしまうと、気恥ずかしさが先に立つのだ。

私の妻が舅 (つまり私の父) のそうした意識を理解するまでには、ちょっとした時間がかかった。妻は自分の父がおしゃれなので、私の父もおしゃれをしたいに違いないと思っていたフシがある。

だから、父の日とか誕生日とかに、「お父さん、これ、おしゃれよ」 とか言って、洋服をプレゼントする。ところが父にしてみれば、贈られた服は、なんというか、ちょっとだけ ("a little bit" 程度なのだが) おしゃれすぎるのである。自分がそれを着るのかと思うと、少し気恥ずかしい。

しかし、嫁がせっかく好意でくれたのだから、いらないとも言えない。それにもらってしまったのだから、着ないわけにもいかない。それが少なからぬプレッシャーになる。

妻も数年経ったらなんとなくそんな空気を察して、あまり着るものは贈らなくなった。実際問題として、父の着るものなんて、3年前に亡くなった母が元気な内にずいぶん買いためていたので、「もう、一生分ある」 ということになっている。物欲皆無の父は、これ以上持ちたくないのだ。

というわけで、今は父へのプレゼントは 「食べればなくなるもの」 に限ることになっている。父としてもそれが一番うれしいようだ。

一般的な老人用の服、とくに介護を意識した服についても、似たようなことが言えると思う。

ユニバーサル・ファッション関連で企画側の陥りやすい罠は、「いくら年を取って体の自由が効かなくなっても、機能一点張りでおしゃれじゃない服なんて、着たくないはず」 という思いこみだ。

それで、妙に 「デザインされた」 老人服が押しつけられたりすることがある。「まあ、おしゃれね!」 と、それをよろこぶおばあさんも多いかもしれないが、こと男性用となると、私の父のように気恥ずかしさが先に立って、居心地悪い思いをするということもある。

しかし、あまりにもじじくさいものばかり着ていても、脳に刺激が与えられないので老化が早まる。だからその頃合いが難しい。

ところで、アパレル業界でメシを食っているくせに、私は 「おしゃれ」 というものをあまりしたくない。私の服装は、かなりアメリカ人である。つまり 「全然構わない」 格好が好きなのだ。下手に 「おしゃれ」 なんてすると、居心地が悪くてしかたがない。

そりゃ、あんまりもっさりした格好もしたくないが、「みんな、おしゃれがしたいはず」 なんて思いこみで妙なものを着せられたりしたら、自分のアイデンティティが損なわれてしまうほどの違和感に襲われるということもあるのだ。

「ちょっといいもの」 を着たいと思って百貨店なんかにいくと、妙にデザインされた、しかもばか高い服が並んでいる。一方、値段の安い服をみれば、いくら何でも 「磯野波平さんの服じゃあるまいし」 というようなものばかりだ。中間がないのである。

ユニクロが一人勝ちしているのは、その 「中間」 を狙ったからだ。気恥ずかしくもなく、かっこ悪くもなく、しかも値段が安く、その上、そうした服は他に行っても案外見つからないというのだから、ユニクロは売れて当たり前である。

「みんなことさらにおしゃれがしたい」 というわけではないということを、ファッション業界は理解するべきである。ことさらにおしゃれじゃないけど、十分にかっこいいフツーの服というのが、とくに今の時代でなくても、売れて当然なんだと思う。

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2009/10/05

ジル・サンダーとユニクロとオンワード

先週金曜日の、ユニクロとジル・サンダーの話の関連でもう一本書かせてもらう。ジル・サンダー本人は、今は ブランドとしての 「ジル・サンダー」 を使えない身の上だったのだ。

「ジル・サンダー」 という会社は、日本のオンワード樫山のものになってしまっていたのを、一昨日、記事を書き上げてから思い出した。

Google で検索してみたら、昨年 9月に、オンワードがジル・サンダーを買収した際のリリースが見つかった (参照)。オンワードのホールディング・カンパニーである (株) オンワードホールディングスが、ジル・サンダーの持ち株会社を完全子会社化していたのである。

じゃあ、日本におけるオンワードとユニクロの関係はどうなるのかというと、実は、全然関係ないのだ。というのは、ジル・サンダー自身は今、自分の作った 「ジル・サンダー」 という会社から離れていて、つまり、自分の名前である 「ジル・サンダー」 を、自分の作った商品のブランドとしては使えないという境遇なのだ。不憫な話である。

この間の事情は、ざっと次の通り。

ジル・サンダーは 1973年にデザイナーとしてのキャリアを開始してパリ・コレにデビュー、87年にミラノ・コレクションに舞台を移した。彼女の会社は 99年にプラダに買収され、当初は自身がディレクションを担当したが、方針の相違から自分で創立した会社を去り、2003年に一度は復帰したものの、翌年には再び離れざるを得なかった。

プラダという会社は、よくこういう無茶をする。一人のデザイナーが丹精込めて作り上げたブランドを買収し、そのコンセプトをスポイルしてしまうのだ。まあ、スポイルしたのではなく、ビジネスとして発展させたのだという人もいるわけだが。

ところがプラダは、2006年にジル・サンダーをチェンジ・キャピタルという投資会社に売却し、昨年になって、そこからオンワードが買い取ったというわけだ。同社の商品のデザイン・ディレクションは現在、ラフ・シモンズが担当しており、名前以外は、創業者のジル・サンダーとは無関係になっている。

こうした例は別に珍しいことではなく、ケンゾーやヘルムート・ラングなんかもそうだ。前者は LVMH に、後者はプラダに買収されたためである。70年代に一世を風靡した米国のホルストンは、経営戦略の失敗のために自分で作った会社から追い出されて、自分の名前を冠したブランドを使えなくなり、間もなくエイズで死んだ。

今や、ファッション・ブランドは、金融商品みたいに取引きされるものになってしまった感がある。ジル・サンダー関連でいえば、オンワードは大金を投じて名前とステータスを取り、それに対して、ユニクロは実体に近いところを取ったというわけだ。

この件に関しては、私はユニクロの方が利口だと思う。少なくとも、今のマーケットにずっとマッチした手法だ。それは、一人勝ちと言われるユニクロの好調とオンワードの不振という事実が雄弁に証明している。(参照

今後、ユニクロの "+J" というブランドに関連して、ジル・サンダーというデザイナーの名前はしばしば登場するだろう。ブランドとしてではなく、デザイナーの個人名なのだから、「使うな」 というわけにはいかない。これはパブリシティの強みになる。

で、今のジル・サンダー社が 「ユニクロとは無関係」  (参照) と強調すればするほど、同時に 「本家本元のジル・サンダーとも無関係で、『要するにブランドを名乗ってるだけ』 なのね」 とバレバレになるのだから、ちょっと興醒めなところである。

ちょっと前までだったら、"+J" の取り組みは 「ハイファッションの舞台を失ったデザイナーが、安物のデザイン稼業に落ちぶれた」 と言われかねないケースだが、今や誰もそんなふうには思わない。新たなマーケットの創出という側面の方がずっと大きいだろう。

最後にまったく別件だが、前に書いた記事の関連で 2点。

今年 2月 17日付の 「中川さんの仏頂面」 という記事

いみじくも pfaelzerwein さんがコメントの中で 「あの政治家もおかしな薬を常用しているのでしょう」 と指摘しておられるが、実は私も同じような疑いをもっていたところである。これが見当はずれであってくれればいいと思う。見当はずれでなかったら、親父の二の舞になってしまう心配さえある。

ああ、心配したとおり、親父の二の舞になっちまった。

2007年 3月 7日の 「石原慎太郎は、これで終わりということで」 という記事

北京の後の後に、またしても東アジアでの開催なんて、難しいに決まってるじゃん。そんなことに無駄金使って、どうしようというのだ。

石原慎太郎の 3期目は当選になってしまったが、東京オリンピックはダメだったので、おあいこである。あの近年では最低の北京オリンピックの次の次にまた東アジアに招致するなんて、当の日本人のシンパシーも得られなかったんだから、落選も当然だ。

2016年でなく、2020年だったらまだ可能性があったのに、自分の任期のうちにオリンピック招致を成功させたかったんだろうなあ。これがエゴでなくてなんだというのだろう。

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2009/10/02

「ジル・サンダース」 って誰?

ユニクロの 9月の売上げは、速報値で前年同月比の 31%増 (既存店ベース) となったそうだ。このご時世にすごいなあ。「一人勝ち」 と言われるのも、無理もない。

しかも、あのジル・サンダーとのコラボによる "+J" というブランド (参照) がやたらと好評で、一つ壁をぶち破ってしまった感もある。

私が感心したのは、ユニクロが選んだコラボ相手が、ジル・サンダーだったということである。この人、ネーム・バリューとしては日本では 「知る人ぞ知る」 というぐらいのレベルで、同じドイツ人でも、カール・ラガーフェルドほどの華々しさはない。しかし、昔からずっと安定した実力を発揮してきた。

デザインの傾向としては、堅実でシンプルで上品で、しかもパターンがしっかりしていて洋服としての出来がいいということになっている。ドイツのデザイナーの多くは、そうした評価を得ていて、車に喩えればメルセデス・ベンツということになるんだろう。

まあ、ジル・サンダーは女性だから、ベンツというと無骨すぎるかもしれないが、少なくともフェラーリというイメージじゃない。そしてなぜか、ドイツのファッション・デザイナーには、ポルシェ的な人があまり見当たらない。強いて言えば、カール・ラガーフェルドなのかなあ。

で、何が言いたいかというと、ユニクロがコラボする相手として、ポルシェ的じゃなくてベンツ (をぐっとフェミニンにした?) 的なデザイナーを選んだというのは、なかなかのヒットだと思うのだ。あくまで喩えだが、ポルシェを安く売るんじゃなくて、ベンツを安く売るというのは、ユニクロだからできることだからだ。

ここからちょっと横道にそれるが、ジル・サンダーというデザイナー、そりゃ前述の如く、カール・ラガーフェルドほどの超ビッグ・ネームじゃないが、それでも、日本では思った以上に知られていなかったのねというのが確認されて、ちょっとびっくりした。

だって、あちこちのサイトで、「ジル・サンダース」 という誤表記が目立つんだもの (参照)。人の名前なんだから、書く前にもう少しきちんと確認してもらいたいものである。念のために書いておくけど、この人の名前は "Jil Sander" であって、Sanders じゃないからね。

間違えた人の頭の中には、多分、あのケンタッキー・フライド・チキンの 「カーネル・サンダース」 が刷り込まれていたのかもしれない。あるいはポケモンかな?

報知新聞まで 「ジル・サンダース」 と書いちゃってる。多分これを書いた記者は、ファッションにうといオジサンだったんだろうけど、それならばなお、きちんと確認してもらいたいという意味をこめて、ちょっと意地悪っぽいけど、スクリーンショットをさらしておく。

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2009/09/03

ユニクロのネオレザー商品

ファッション業界では既に秋冬シーズンの商戦がスタートしていて、店頭では、夏物はバーゲンの棚に山積みされ、ちゃんとしたところは秋物で埋められている。

ただ、今年はやや秋の訪れが早いとはいえ、例年は 10月の声を聞かないと、秋物なんか買う気になれないのである。なんだかなあ。

そんな中で、話題先行とはいえちょっとだけ注目を集めているのが、ユニクロがメンズで展開する 「ネオレザー」 製品だ (参照)。リンク先のニュースから、ちょっとだけ引用しておこう。

“ネオレザー”は特殊加工を施し本革に近い質感で軽量かつ通常のドライクリーニングが行える点が特徴。合革ジャケット類は1万円を超えるものが多いが、“ユニクロならではの価格”を意識し、ベストが2990円、ライダーズジャケットが5990円、エアテックコートが7990円など、全6アイテムすべてを1万円以下に抑える。

本皮に近い質感で、しかも軽くて普通のドライクリーニングができ、そのうえ安いのだから、本皮の品物を買うよりずっと利口のように思われるが、ネックがある。ポリウレタンコーティングによる合成皮革素材というのは、長持ちしないのだ。大体 3年ぐらいで 「経時劣化」 という現象が現れ、表面がヌメヌメ、ボロボロになって、コーティングが剥げてしまう。

これについて私は今年の 3月に、「合成皮革の寿命は 3~4年と覚悟すべし」 という記事を書いて警鐘を発しているので、時間があればご覧いただきたい。

店頭の合成皮革商品のほとんどは、経時劣化に関する警告表示を付けているのだが、なにしろ小さな下げ札でそれについて触れているだけなので、消費者は購入に際してほとんど注意を払わない。店員だって聞かれない限りは、わざわざ 「3年でダメになりますよ」 なんてことは言わない。

ちなみに、ユニクロのネオレザー商品も場合も、店頭で確認したらちゃんと警告表示の下げ札が付いていた。ただ、やっぱり小さな下げ札なので、きちんとそれを確認して買う人は少ないかもしれない

だから、これまでの合成皮革製品では、消費者からのクレームが多発していた。「3年で着られなくなるなんてひどい」 「安い買い物じゃなかったんだから、納得できない」 というのである。

本来なら、ちゃんと警告表示が付いているんだから、それを見ないで買う方に責任があるし、「安い買い物じゃなかった」 と言われても困る。「合皮なんだから安いんですよ。本皮だと、値段 10倍しますよ」 なんて答えたら、喧嘩になる。私は今年 3月の記事で、以下のように書いている。

この問題はメーカーの説明不足と消費者の無知の合わせ技であり、もう本当に付き合いきれないお話なのである。私としては、今さら衣料品に合成皮革なんて悪趣味なものは使うべきじゃないと思っている。そんなものを使うから、後で馬鹿馬鹿しい問題を起こすのだ。

というわけで、ユニクロのネオレザー、大丈夫かなあと、少し心配になったのだが、まあ、多分大丈夫だろうと思うことにした。なにしろ本当に安いし、それにユニクロの顧客は買ってから翌シーズンまでに着倒してしまう。3年着れば OK で、4年着ようという人は珍しいだろう。

それでも中には、「およそ行き」 みたいに誤解して、1年に 2~3度しか着ないうちにボロボロになり、ショックを感じてしまう人がいないとも限らない。そういう人はもう、気の毒な限りと言うほかない。

何度も言うけれど、合成皮革製品は、買ったら三年以内にどんどん着倒して、早めに元を取ってしまうことだ。

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2009/07/30

「ミス・ユニバース」 というビジネス

ミス・ユニバース日本代表のナショナル・コスチュームとやらが、「まるでポルノ女優」 とまで言われて、甚だ不評らしい。

こちら に飛べばどんな衣装なのかわかるが、なるほど、かなり悪趣味っぽい。ファッションの世界の方程式で言うと、「話題になりさえすれば、目的は達せられる」 という類のものだ。

この衣装が制作された背景には、イネス・ログリンというフランス人のおばさんが重要な役割を果たしているらしい。このおばさんが、「和服再興を目指して東京・原宿を中心に展開するデザイナーズブランド 「義志」 (よしゆき) の緒方義志社長」 (ニュースからそのまま引用) を起用してデザインさせたという。

ちなみに、この緒方義志という人は、「2006年準優勝の知花くららや、07年優勝の森理世の衣装も担当した実力者」 なのだそうだが、やはりイネス・ログリンからの指名で制作したもののようだ。つまり、この二人は相当しっかりとコラボする関係みたいなのだ。

報道によると、「ミス・ユニバースの世界ではイネス氏の権限は絶大」 ということで、つまり、もうやりたい放題できる地位にあるということのようだ。それは、2006年と 07年に、続けざまに日本人をミス・ユニバース準優勝と優勝に導いたという実績によるのだろう。

大方の見るところでは、この実績は 「外国人の目からみたジャパニーズ・ビューティ」 というものを的確に理解・把握していて、それを効果的に演出できる才能による。つまり彼女がやると、しっかりと 「ミス・ユニバース審査のツボ」 にはまるらしい。

別の言い方をすれば、「彼女の目」 を借りないと、日本人のセンスだけではミス・ユニバース国際大会の 「傾向と対策」 ができないのだ。どうも日本人のセンスだと淡泊すぎるようなのである。グローバル・スタンダードとローカル・スタンダードの違いだ。

国際舞台に出たら、しっかり肉を食って 「濃すぎるぐらい」 のアピールをしなければいけない。かくまでに 「美の基準」 が違うから、ミス・ユニバース準優勝の知花くららや優勝の森理世は、日本に戻るとそんなに受けるわけじゃない。

とはいいながら、今回の衣装はいくらなんでも国際的にも評価が芳しくないようだ。ニュースは次のように伝えている。

ミス・ユニバースの最新情報を伝える米サイト 「ビューティーイン ページェンツ」 は 「世界中のファンは一様にポルノ女優のようだという反応を示した。イネス氏以外は、この衣装が 優勝の機会を損なうと考え失望した」 などと論評。

こうした悪評に対してイネス・ログリンは自身のブログで、「ファッションの保守主義者や流行遅れの "恐竜" たちは彼女のコスチュームを批判していますが、ファッショニスタたちはそれを愛しています。私が気にするのはファッション産業の有力者の評価だけ」 (夕刊フジ訳) と応えているそうだ。なかなか勇ましいことである。

どうやら今回、彼女はミス・ユニバース国際大会での上位入賞は諦めて、ひたすら話題になることの方を狙っているように見える。

これまで優勝 1回、準優勝 1回の実績を作っても、その実績に見合うだけのビッグネームを獲得できていないという不満があるのではなかろうか。確かに、世間的にはほとんど知られておらず、私だって今回初めて彼女の名前を知ったし、デザイナーの 「緒方義志」 という名前も同様だ。

それならばいっそ、今回は名誉よりも話題を取ってしまおうと彼らが考えたとしても、理解できないストーリーではない。名誉だけでは不十分だった部分を、話題を得ることで補ってしまおうというわけだ。どんな話題だろうと、世間に名を売っておく方が、今後のビジネス・チャンスはずっと拡大する。

とまあ、それだけのお話で、それについてどうのこうの批判しようとは、私は思わない。さらに、あの衣装でことさらに 「日本が誤解される」 とも思わない。どうせ誤解はされまくってるのだし。

【8月 1日 追記】

どうやらあのデザインは不評すぎて、変更されることになったようだ。帯を提供した呉服店や職人が 「あのデザインを知っていれば提供しなかった」 「変更しない限り使用を認めない」 などと拒否反応を示したことで、変更に追い込まれたらしい。(参照

イネス・ログリン、緒方義志両氏は、ずいぶん勇ましいことをおっしゃっていた割には、あっさりと折れてしまったようで、逆にがっかり。

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2009/07/29

女子高生のスカート丈

女子高生のスカート丈が長くなる傾向にあるようだというようなことを書いたのは、ほんの 1ヶ月ちょっと前である。(参照

その時は奈良発のトレンドで、全国的にはまだまだ超ミニ丈全盛だったような気がする。しかし近頃では、つくば周辺でも女子校生のスカート丈がどんどん長くなってきた。

私は 1ヶ月前の記事を 「これはウォッチする価値があるかもしれない」 という一文で結んでいるが、たかだか 1ヶ月足らずでこんなに明確な変化が現れるとは、思っていなかった。ギャルたちの流行への敏感さには、おじさん、びっくりである。

実はスカート丈の変化には、その記事を書いた 1週間後ぐらいには気付いていた。常磐線取手駅近くにある某有名私立校に通う女の子たちのチェックのスカート丈が、明らかに長くなっていたのである。膝小僧がちょっと出るぐらいの子が多いが、中には膝下丈の子もいる。

しかし、その時点では他の公立校に通う女子高生たちは、相変わらず超ミニだった。だから学校間のスカート丈の落差は、かなりのものだった。

感覚の変化というのは恐ろしいものである。スカート丈がどんどん短くなっていた頃は、膝丈ぐらいだと 「もっさり」 とした印象があり、超ミニが確かにけっこう可愛らしくみえたものである。しかしその傾向が分水嶺を越してしまうと、逆に超ミニだともろに頭悪そうに見え、 膝丈だとちょっと上品そうに見える。

いつの時代にもファッションのトレンドとは、こんな風に同じスタイルを見ても、受け取る方の感覚が全然変わってしまうことで変化してきたのである。どうして変化するかというと、人間という生き物が飽きっぽいからである。

飽きっぽいからといって、次に来るものが明確でないうちは、ずっと続いてきたスタイルがそんなにダサダサに見えてしまうわけではない。しかし、ネクスト・スタイルがある程度しっかり見えてきたとたんに、それまでのスタイルは急速に陳腐化してしまうのだ。

「ちょっと前の流行」 ほど 「流行遅れ」 を感じさせてしまうものはないから、ファッションに敏感な子ほど、できるだけ早くそこから脱却したくなってしまうのである。こうしてファッションというのは、ある時を境に目に見えて新しいものに移り変わってしまうのだ。

というわけで、近頃では取手駅で乗り降りする女子高生のスカート丈が、総じて長くなってきているのである。ちょっと前まではパンツが見えそうな娘ばっかりだったのに、今はほとんど消え去った。

とはいえ、日本中からミニスカートが消えてしまうわけではない。圧倒的に少なくはなるだろうが、ミニスカートが自分のスタイルになりきっている層 は、決してそれを捨てない。だから、1960年代までのように日本中がユニフォームのごとくに一つのスタイルに染められてしまうということは、もはやあり 得ない。

ただ、よく言われる 「ファッションが多様化した」 というテーゼは、ある意味では幻想である。実は、多様化したのはファッションではなくライフスタイルである。

ライフスタイルは多様だが、同じようなライフスタイルの人々は、驚くほど同じような格好をしている。つまり、同じ仲間内ではファッションは相変わらず一様なのであり、日本人のユニフォーム好きは今でも健在である。

だから女子高生のスカート丈も、一度長くなる方向にスウィングバックし始めたので、ほとんど 「右に倣え」 で、一様に長くならざるを得ない。世の良識派の大人たちは歓迎するだろうが、もしかしたら一部では、昔のスケ番みたいなエクストリームにまでいってしまう かもしれない。

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2009/06/22

ナマ足・ミニスカ、もうダサい?

痛いニュースの "「ナマ足・ミニスカ、もうダサい」 女子高生はロングスカートブーム" というエントリーに、とても興味をもってしまった。

いや、別にナマ足・ミニスカを惜しむとかいう話ではない。ウチは 3人の娘を育てて、ナマ足・ミニスカは身近にいやというほど見てきたから、それはもういいのだ。

私が興味をもったのは、女子高生たちがどんな発想で 「ナマ足・ミニスカ」 を 「もうダサい」 と思うようになったかということである。しかも、その発生源が奈良の女子高生というのも、なんとなく奥が深いような気がする。

3人の娘を育てた経験からすると、女子高生のスカート丈は、20世紀末から今世紀初めにいたるまでの間に、どんどん短くなってきたような印象がある。長女が女子高生だったのは平成 7年 (1996年) からの 3年間だが、その頃には今ほど短くなかった。ごくフツーのミニスカート丈だったように思う。

ところが、末娘が高校に在籍した平成 3年 (2003年) からの 3年間は、それはそれは短いものになっていた。ちなみに、次女はその中間的な長さだったように思う。つまり、少なくとも 7年の間に (というのは、多分もっと前からだろうから)、連続的に明らかに違いがわかるほど短くなったのである。

一度、末娘が朝寝坊をして遅刻しそうになった時、車で学校に送っていったことがあるが、その時高校の正門への坂道を上りながら、運転席で目のやり場に困ったことがある。それはもう、エロティシズムとかいうものではなく、「お前ら全員、風呂上がりかよ!」 とツッコミを入れたくなるような、ダサダサ感覚にあふれたものだった。

これはもしかしたら、末娘の通ったのが女子校ということもあるのかもしれない。これは個人的な偏見かも知れないが、女子校というのはよほどのお嬢様学校みたいなのは別として、色気もへったくれもなくなる傾向がある。

ちょっと横道に逸れかかったが、ファッションというのは固定化されることはない。絶対にない。どんなファッションでも必ず変化する。ということは、女子高生のスカートというのは、見たところこれ以上短くなりようがないから (なったとしたら股上何センチなんてことになる)、今後は長めの方向にスウィングバックするしかないのである。

問題は、奈良の女子高生が何ゆえに長めのスカートを選択し始めたかだが、件の記事では彼女らは以下のような理由を挙げたとある。

「チョンチョン (短いスカート) はもうださい」
「スカートの形がかわいく見える」
「ポッキー焼け (靴下の跡がつく焼け方) をしたくないから、靴下とスカートをつなげてはく」

なるほど、そろそろミニスカがださく見え始めるサイクルに突入し始めたのだろう。「チョンチョン」 なんていう言い方が出てきたからには、それは確実だという気がする。ただ、発信地が奈良というのは、一体どういうことなんだろう。これまでの流行の発信地というのは、大抵東京の山の手とか、神戸とかだった。

奈良から始まったファッションが、はたして全国に広まるのだろうか。あるいは、東京か神戸に飛び火してから (飛び火するとしたら、多分神戸だろうが)、初めて拡大するのだろうか。はたまた、ミニスカと共存することになるのだろうか。例えばギャル系ミニスカと、お嬢様系膝丈に分化するとか。

これはウォッチする価値があるかもしれない。

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2009/06/18

百貨店の衣料品売り上げ

衣料品の小売市場に関する調査によると、ユニクロの一人勝ちという様相を呈している。値段の割に品質も安定しているので、日常的な洋服としては文句なしというわけだ。

一方、衣料品販売チャネルとしての百貨店は、かなりの落ち込みだ。一体誰が百貨店で服なんか買ってるんだろうと思うほどである。

繊維業界で最もメジャーな専門紙である 「繊研新聞」 の調べによると、小売市場における百貨店の売上シェアは、婦人服で 53.0%、紳士服で 32.3%、子供服で 29.8%だという。この数字を見て、私は 「ウソだろ!」 と思った。

日本中の婦人服の売上の半分以上が百貨店だなんてはずがない。同様に、紳士服と子供服のそれぞれ約 3分の 1が百貨店の売上だなんてはずもない。いくら百貨店の品物が他のセクターの倍ぐらいの値段であったとしても、そんなシェアになるはずがない。

で、この記事をよく読み返したら、繊研新聞社が実施した 08年度の小売業衣料品売上高調査で、婦人服・紳士服の上位 50社、子供服の上位 30社の数字をもとにはじき出した比率のようなのである。道理でね。

個別の百貨店の売上は相対的に大きいから、上位 50社とか 30社とかには多くがランクインしている。一方、売上の小さい専門店 (街の用品店を含む) の数字は、初めから無視されている。つまり、数字のマジックなのだ。上位にランクインした企業だけをベースにシェアをはじき出して、一体何の意味があるのだろう。統計手法として疑問が残る。

実感として、私の知り合いでこの 1~2年に、百貨店で服を買ったという人なんて、ほんの数人である。あとはほとんど専門店で買っている。だって、値段が全然違うのだもの。

例えば、紳士スーツを百貨店で買ったら、何とかセールを別とすれば、安いゾーンでも 38,000円、普通は 48,000円以上する。ちょっとしたブランド品となれば、平気で 10万円以上になる。

ところが、ショッピングセンターなどに入っている専門店チェーンの店で買えば、大体 2万円台、安ければ 19,800円なんていう値段で買える。ちょっと見た感じなら、百貨店のものとほとんど変わらない。近頃は、廉価品でもちょっと着たらヨレヨレなんてことはあまりなくなった。

よほどのこだわりのある人でなければ、スーツなんて単なる仕事着だから、安い方がいいに決まっている。だから百貨店でスーツを買う人なんて、ちょっとした小金持ち以上のクラスということになる。

女性にしても、よほどのキャリアウーマンとか小金持ちの奥さんとか、水商売のおねえさんとかでもなければ、百貨店でスーツなんか買わない。フツーの OL は、専門店で大体 1万円ちょぼちょぼで買えるものに、3万円も 4万円も、あるいは 10万円も 30万円も投資したりしない。

ということは、繊研新聞の調査で、婦人服売上高のシェアで百貨店が 53%というと、数量ベースでは、多分 30%以下になるだろう。さらに上位 50社というしばりを外したら、10%台になってしまうのではなかろうか。

思えばバブル最盛期には、百貨店は我が世の春という状況だった。その辺の OL のおねえさんが 100万円近いボーナスをもらい、百貨店でシャネルや D&G のスーツを買ったりしていた。

「一度高級品の着心地を知ってしまうと、もう安物には戻れないわよねぇ」 なんて言っていたバブリーなおねえさんが、今や 40歳をとっくに過ぎて、ユニクロでバーゲンハンターをしている。そして、高級スーツなんて着るのは馬鹿馬鹿しいと思っている。まさに諸行無常である。

ファッション業界人の多くは、「着るものにこだわりをなくしたら、人間おしまい」 みたいに思っているが、それは幻想だ。人間、生活に余裕がでるとファッションなどに気を使うようになるが、ある程度のレベルに到達したら、さらにファッションで突き進むか、別の分野にこだわりを見いだすかは、人それぞれなのである。

私はアパレル業界でメシを食っているが、人間が着るもの以外にも広範な興味を持てる世の中で生きる方が、ずっとハッピーだと思っている。

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2009/03/15

合成皮革の寿命は 3~4年と覚悟すべし

全国クリーニング生活衛生同業組合連合会は今年 1月にクリーニング綜合研究所が鑑定した事故衣料 38件の分析結果を発表した。

いわゆる 「クリーニング事故」、つまり、クリーニング屋さんに出した衣料品で、何らかの問題が発生したケースについて分析し、その結果をまとめたものである。

その中でちょっと注目したいのが 「経時劣化」 による事故が 3件あったということだ。時が経つにつれて品物が劣化したことによるクリーニング事故ということである。この 3件はいずれも、ポリウレタン・コーティングを施された品物の事故だ。

ポリウレタン・コーティングといっても、素人にはピンとこないだろうが、要するに、合成皮革のことである。布の表面に、一見レザーにみえるようにポリウレタン・コーティングしたものだ。人造レザーなんていわれることもある。

このポリウレタン・コーティングは、3~4年経つと 「経時劣化」 (「経年劣化」 といわれることもある) という現象が生じる。まず空気中の水分と反応して加水分解が進み、表面がぬるぬるした感じになる。この段階でクリーニングしたら、確実にコーティングがひび割れてボロボロになってしまう。

クリーニングしなくても、自然に表面のひび割れが進んで、コーティングが剥がれてしまうのだ。これはポリウレタンという物質の性質で、避けられないことなのである。つまり、合成皮革の寿命は 3~4年ということなのだ。

大抵の合成皮革製品には、その旨が注意書き表示として付いているはずなのだが、消費者はそんな表示には頓着しない。それに、店としても売れさえすればいいと思っているから、売る際に 「寿命は 3~4年ですよ」 なんてことは、聞かれない限り白状しない。さらに、元々そんな知識のない販売員も多い。

だから消費者はそんなことは知らずに購入してしまい、3~4年経って表面が剥がれてしまってからクレームをつけることになる。そして、「合成皮革はそういうものなんです」 と説明しても、多くは 「そんなこと言ったって、安い買い物じゃないんだから」 と、納得しない。

そこで、「いや、それは、合成皮革ですから、『安い買い物』 なんです」 なんて言おうものなら、火に油をそそぐことになる。

本物のレザーと比較したら 10分の 1程度の値段のものが多いのだから、本当に 「安い買い物」 以外の何物でもない。長く着られる物が欲しかったら本物のレザーを買えばいいだけのことなのだが、それを言ったら喧嘩になる。

合成皮革の衣料品を買ったら、どんどん着倒して早めにモトを取ってしまえばいいのだが、中には見た目にごまかされて 「よそ行き」 なんて思ってしまい、「3年で 2~3回しか着てないのに」 と泣きつく人もいる。

そんなことで泣きつかれても、メーカーもクリーニング店も、困ってしまうのである。その品物を買った時点で、「本物のレザーじゃないから、こんなに安いのよね」 と思ってくれないのは、想定外なのだ。

ただ、メーカーとしても痛し痒しなのは、「安いものですから、3年しかもちませんよ」 というのは、あまり大きく表示したり、大きな声で言ったりはしにくいことである。正直に言いすぎると売れなくなってしまうからと、あまり伝わらないように言うから、後でクレームを受けて困るのである。

というわけで、この問題はメーカーの説明不足と消費者の無知の合わせ技であり、もう本当に付き合いきれないお話なのである。私としては、今さら衣料品に合成皮革なんて悪趣味なものは使うべきじゃないと思っている。そんなものを使うから、後で馬鹿馬鹿しい問題を起こすのだ。

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2009/03/01

天然繊維と静電気

ある肌着メーカーに、消費者から不可解なクレームが寄せられた。シルク 100%と表示された肌着を着ているのに、静電気で悩まされているというのである。

その消費者は、「天然繊維は静電気が起きない」 とテレビ番組で聞いたので、きっと虚偽表示に違いないと言うのである。

こういうクレームというのは、メーカーとしては本当に困ってしまうのである。まず、「天然繊維は静電気が起きない」 というのは、どのテレビ番組で聞いたんだか知らないが、そっちの方こそ 「虚偽」 である。

確かに天然繊維は合成繊維に比べて静電気を生じさせにくいが、「静電気が起きない」 というわけじゃない。乾燥したウールはポリエステルと同じくらいの静電気を生じさせることがあるし、シルクもその半分ぐらいだが、静電気を起こす。コットンはかなりましだが、それでも皆無というわけじゃない。

だから、静電気が起きるからといって、「シルク 100%」 の表示がウソだというのは、濡れ衣 (濡れ絹 ?) である。

それと、もう一つ、こっちの方がより重要なポイントだと思うのだが、その消費者は、「シルク 100%」 と表示された肌着だけで、あちこち歩き回っているわけではあるまいと思うのである。多分 (というか、そうでないと困るのだが)、肌着の上にいろいろな服を重ねているはずだ。

肌着の上に着ている服は、たとえウールやコットンなどの天然繊維でできていても、裏地はポリエステルという場合がとても多い。そうなると、湿度の低い状態では静電気が起きて当然なのである。

それなのに、どうして 「静電気に悩まされるから、『シルク 100%』 というのは虚偽表示に違いない」 という結論に短絡するのか、理解に苦しむのである。世の中というのは、思いこんでしまったら、その他の考えは浮かばないという人が、案外多いようなのだ。

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2009/02/25

ファッションと個性

私の 「絶好調のユニクロ」 という記事に alex さんが敏感に反応して 「オシャレという自己表現」 という記事を書いておられる。

alex さんはブリティッシュ・トラッドの高級品しか身に付けない人と思っていたが、意外にもユニクロの XL サイズ商品もご贔屓なんだそうだ。いやはや、意外だった。

alex さんは体が大きいので、全ての商品で XL サイズが当然のように供給されているユニクロが、大変ありがたい存在だという。ということは、alex さんは身長は 6フィート (約 183cm) ぐらいあるんだろうなあ。私は日本人としては長身の部類にはいるとはいえ、5フィート 10インチ 1/8 だから、L サイズで十分である。

ちなみに、183cm ぐらいの身長を一言で表現するのに 6フィートというのはとても便利なのでつい使ってしまったが、私の身長を表現するのは、フィート・インチはやたらと面倒くさい。止めときゃよかった。

その alex さんだが、ファッションと個性表現について、次のように書かれている。

Tak-shonai さんのブログのコメントで
「ユニクロの衣類は個性がないのでオシャレが出来ない」
と言う意見があった
これは私にとって「眼からウロコ」だった

実際には、ユニクロ商品の氾濫について、 jeienne さんが 「個性のあるおしゃれができない人達が余計に個性を失っている感じ」 とコメントを寄せてくれたのだが、それについて alex さんはちょっと意外な印象をもたれたようなのだ。

alex さんはご自分のファッションを 「定番主義、没個性主義」 とおっしゃっている。着るもので個性を表現するなんてことは考えたことがなく、むしろ個性を抑える服装を心がけているというのである。それでも、数年前、米国で姪の結婚式に出席した際に、数多い参列者の中で「一番オシャレだった」 とみんなに言われたという。

だから、ファッションで個性を表現することと、「オシャレ」 ということは、ちょっと別の次元のことのようなのだ。

もちろん、alex さんのようにブリティッシュ・トラッドの高級品が身に付いていれば、それはそれで 「個性」 と見てもらえるので、まったく別の次元というわけではないのだが、個性表現とオシャレのレベルは正比例ではない。

私も個人的には 「敢えて 『個性的ファッション』 なんてものを志向する気にはなれない」 派である。洋服なんて、フツーに着ていればそれでいい。ただでさえちょっと変わってると思われてる気配があるのに、その上ファッションまで無理に個性的にしちゃったら、浮き上がり過ぎてしょうがない。

ファッション業界の中には、さすがに 「個性的なスタイル」 をしている人が大勢いらっしゃるが、いくらファッションでメシを食っているにしても、「がんばり過ぎ」 の人も多い。申し訳ないけど、私の目には 「あそこまでやったら、むしろお笑いだね」 ってな感じに映ってしまうのである。誰とは言わないけど、あの人とか、あの人とか ……。

とくに今、ファッションで 「個性」 だの 「斬新さ」 だのを追いすぎるのは、ファッションも含めたトータルな 「トレンド」 の中においては、ちょっと外れかかり始めていると思う。ファッションは今、「個性表現」 のためのメディアとしては、手垢が付きすぎているんじゃなかろうか。

ファッションというコップの中の嵐に集中しすぎると、コップの外からはむしろ 「かっこ悪い」 ことのように見えかねない。私は 「個性の奴隷」 にはなりたくないと思っているのである。

いずれにしろ、意識して表現しなきゃいけないようなのは、「個性」 の世界においてもまだ 「はな垂れ小僧」 のレベルで、それとはなしに自然ににじみ出るぐらいにならないと、お話にならない。

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2009/01/09

フードの縁のファー (毛皮) で考える

前の冬シーズンから、ダウン・コートやパーカのフードの縁に、貧相なファー (毛皮) のくちゃくちゃっとついたのが大流行である。

若い子たちの着ているものを見ると、大抵そんなデザインで、しかもそのファーがいかにもみっともなさげに付いており、見るだにおいたわしやという気になってしまう。

昨年の秋に 「ダウン・コートを買うときの注意」 という記事を書いた時、「今年もフードの縁に毛皮が使われているタイプが流行りそう」 と書いたが、その通りというか、思った以上の流行だ。まるで 「フードは安っぽいファーで縁取りするものです」 と言わんばかりの 「右へ倣え」 現象である。やれやれ、何が 「ファッションの多様化」 だ。

一方では、「毛皮を着るぐらいなら裸で行くわ」 と、盛大にヌードを公開してまで毛皮反対運動を行っている PETA  (動物の倫理的扱いを求める人々の会) という団体もある。昔は人の着ている毛皮にいきなりスプレーでペンキをぶっかけてしまうなんていう強硬手段をとることもあったようだが、今はそこまで過激じゃないようだ。いろんな噂もあるけど。

確かに、毛皮というのはけっこう残酷である。毛皮に傷つけないために、生きたまま吊した動物の毛皮をいきなり生はぎしてしまう映像が、インターネットで公開されたりしている (リンクは敢えてしない)。少なくとも愉快な映像ではない。

同じ動物を殺して得るのに、どうして毛皮だけが目の敵で、レザーなどの皮革はお構いなしなのかと疑問を呈する人もいる。その答えとして、皮革業界は 「皮革は肉を食べる牛などの動物の皮を利用するので、野生動物を毛皮のためだけに殺すのとはわけが違う」 と説明している。

野生動物の毛皮だけ取るのも家畜の肉を食って皮まで利用するのも、五十歩百歩という気もするが、まあ、確かに 50歩と 100歩の違いぐらいはあると言っていいだろう。

北極圏などの極寒の地域に暮らす人たちは、昔から毛皮を着て寒さをしのいだ。それは狩りをして肉を食い、残った毛皮を利用するのである。現在の皮革業界の言い分とそれほど変わらないし、彼らにしてみればそれしか生きていく方法がなかったのだから、責められることではない。

しかし現代の毛皮を着る人たちは、別に野生動物を (毛皮のための養殖もあるようだが) 殺さなくても、寒さで凍えることはないのである。私はミンク 50数匹分なんていう豪華な毛皮を着ている人をみると、「この人、きっとろくな死に様しないぞ」 なんて余計なことまで、ちらりと思ってしまうのである。

ヌードになってまで動物を無駄に殺さないことを訴えている勢力がある一方で、平気で毛皮商品を作って売るメーカーがあり、それを嬉々として買う消費者もいる。情報とは、かくも偏在するものである。いくら強力に情報発信しても、受ける気のないところには決して届かない。

温泉や銭湯に 「タオルを浴槽に浸けないように」 と、いくら大きく注意書きがしてあっても、湯につかりながら平気でどっぷりとタオルを浸し、ぎゅーっ、ジャブジャブっと絞って顔なんか拭いているおっさんが絶えないのと、その構図は変わらない。

ただ、最近はフェイクファーの使用が増えているようだ。ユニクロで売られているダウンコートのフードの縁は、フェイクファーである。さすがユニクロ、その辺はきちんと考えているようなのだが、それならそれで、もうちょっときちんと訴求しないと意味合いも半減するだろうに。

私個人としては、どうせ毛皮なんてイメージ良くないのに (いいと思っている人も多いのだが)、フェイクファーを使ってまで毛皮みたいにみせなくてもいいじゃないかと思ってしまうんだがなあ。まあ、この考えを押しつける気はないけど。

正直なところ、私は PETA みたいに 「倫理的」 とやらの見地を押しつけるというより、単に 「他に着るものがいくらでもあるのに、わざわざ殺された動物の毛皮を着るなんて、夢見が悪くない?」 という、かなり個人的な感覚で言っているのだが。

あるいは、これは昨日付で触れた 「フルーガリスタ」 感覚に近いかもしれない (なんて言っておこうか)。

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2008/10/25

ダウン・コートを買うときの注意

本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 の 50万ヒットが、日曜日に達成されそうと書いたら、普段はブログだけ読んでる人も本宅を見に来てくれたようで、妙にアクセスが増えている。

そのため、到達予想は 「本日中」 ということに変更されたので、キリプレ和歌狙いの人はよくウォッチしていただきたい。

ところで今日はダウン・コートのお話である。中国製のダウン (羽毛) が安く入手できるので、昨年の秋冬シーズンから、婦人物のダウン・コートがずいぶん市場に出回っている。暖冬傾向で、特別寒いわけじゃないのに、流行りというのは怖いものである。

このダウン・コート、買うときは注意して頂きたい。あまり安いものを買うと、着ているうちに生地の表面からダウンが飛び出してきて、大変なことになる。表からも裏からも飛び出すので、コートの下に黒いセーターなんか着ていると、飛び出したダウンがこびりついて、目も当てられなくなる。

昨年暮れから今年の初春にかけて、アパレル・メーカーにはこの手の苦情が相次いだ。実際にクレームをつけるのは購入した人の一部で、多くはがっかりして着るのを諦めたか、バホバホに飛び出した羽毛に無頓着のまま着続けるかしたわけだが。

前々からダウン・パーカなんかを作ってきたスポーツウェアのメーカーは、取り扱いに慣れているので、目の詰んだナイロン生地を使うだけでなく、さらに念を入れて、ダウンを一度不織布などで包み、それをパーカの生地の中に詰め込んだりする。だから、ダウンの飛び出しは皆無というわけじゃないが、かなり防げる。

しかし、単に流行に乗って作ってみたという一部のの婦人服メーカーは、ダウンの取り扱いに関するノウハウがないので、安物の生地に軽い気持ちで直接ダウンを詰め込んでしまう。すると、生地の縦糸横糸の隙間から、ダウンがどんどん飛び出してきてしまうのだ。

今度の秋冬シーズンは、量販店が大挙してダウン・コートの取り扱いを増やすらしい。柳の下のドジョウを狙っているわけだ。だが、流行りに乗りやすい層は昨年既に買っちゃったし、今年買うのは 1年遅れで流行を追う層だから、ますます安物買いに走る人たちである。

そうなると、ダウン飛び出しの苦情が昨年以上に増えるんじゃないかと心配だ。

ダウンコートを買う際には、よ~く手で触って感触を確かめていただきたい。頼りなげな薄い生地の内側に、いかにも直接ムニュムニュの羽毛の感触のあるやつは、ちょっと危ないので避ける方が賢明だ。なんとなくゴワゴワめの感触のある方が安心なのである。

それから、今年もフードの縁に毛皮が使われているタイプが流行りそうだが、私は個人的には毛皮は嫌いである。PETA という団体があって、ちょっと過激な活動もしているのだが、「毛皮を着るぐらいなら、裸の方がまし」 という主張だけは、ちょっと共感してしまう。いや、本当に裸で街を歩けというわけじゃないんだが。

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2008/07/31

大人の半ズボン

「痛いニュース」 で、「大人の半ズボン」 が話題になっている。書き込みをみると、悪評フンプンなのだが、「オフィスで半ズボンはけたら、いいなあ」 と思う私は、変なのだろうか?

ただ、この記事の写真のように、半ズボンにジャケット、ネクタイ、ビジネスシューズを合わせるというのは勘弁してもらいたいが。

私は 「クールビズ」 なんていう言葉が作られるずっと前から、自主的にクールビズである。ネクタイをする日なんて、年に 10日もないし、仕事着だって、夏はポロシャツにチノパンと決めている。それで苦情を言われたことは一度もない。

その上、夏になったら仕事以外ではほとんどショートパンツである。さすがに、仕事着としてはショートパンツは控えているが、それでいけたらどんなに楽だろうと思う。私はすね毛が薄いし、わが家の娘が 「お父さん、美脚だね」 と言ってくれるほどだから、そんなに見苦しくはないと思うのだ。

それでも、さすがに仕事でのショートパンツを控えてしまうのは、どうはきこなしていいかわからないからである。これまでフツーのチノパンでやっていた男が突然ショートパンツをはいたら、やっぱりバランスがおかしいだろう。背景が山の中とか海辺とかなら別だが。

「痛いニュース」 に掲載された写真だって、はっきりいって滑稽である。当人たちは進んだファッションのつもりだからいいが、やっぱりまだ 「枯れて」 いない。

ビジネスではく 「大人の半ズボン」 は、まだまだ 「用途限定」 の特殊なファッションなのだろう。「用途」 というのは、ここに登場したセレクトショップの広報部門など、まあ、「ちょっと変わった格好」 が、「許される」 というより 「少しだけ求められてもいる」 といったような職場か、そっち方面のフリーランスだ。

実際には、ファッション関係とか、一部のマスコミ関係に限られるだろう。Tシャツにジーンズが当たり前という、よほど服装に自由な社風の会社でも、ウールジャケットにネクタイ、半ズボン、ビジネスシューズなんていう格好で現れたら、周囲がきょとんとしてしまう。

ちなみに、ウールジャケットにネクタイという格好に合わせたエアコンの設定だと、脚の膝から下が冷えるだろうなあと、余計な心配をしてしまうのである。膝掛けを用意するようだと、まったくのナンセンスになってしまうし。

やっぱり、半ズボンにウールジャケットというのは、私としては、あざとすぎると思うほかないのである。

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2008/02/09

安物の中国製ダウンウェア

巷は中国製毒餃子の話でもちきりだが、問題は食品ばかりではない。衣料品は口に入るものではないだけに、それほど騒がれないが、やっぱり問題が多いと言わざるを得ない。

私は中国製の安物のダウン・ジャケットやダウン・コートは買う気がしない。中身が見えないだけに、ちょっと気持ち悪い。

最近、中国製のダウン・コートなどで 「臭いが気になる」 という苦情が増えている。薬品系の目にしみるとか鼻の奥を刺激するとかいうような類ではなく、むっとするような有機的な臭いで、甚だしくは吐き気を催すほどだという。

そんな臭いのなら、購入するときに気付きそうなものではないかと、普通は思うだろうが、店で買うときには気付かないことが多いのだそうだ。着用して体温で暖まると、なんだかむっとしてくるというのだから、始末が悪い。

ダウンにはグース・ダウン (ガチョウの羽毛) とダック・ダウン (アヒルの羽毛) があり、一般的にはグース・ダウンの方がずっと高級だと言われている。しかし、中国製はダック・ダウンが圧倒的に多い。食料としてのアヒルからむしった羽毛が豊富に供給されるのだろう。

しかし、ダック・ダウンはグース・ダウンより臭いがきついと言われ、きちんとした洗浄が必要になる。だから、臭いのきついダウン製品というのは、羽毛がよく洗われていないことを示す証拠でもある。

いい加減な洗い方で残ってしまった不純物といえば、まず考えられるのが、アヒルの体から分泌される脂分である。水鳥は自分の体から出る脂分を体中の羽根にすりこんで水を弾いているのだが、そうした脂分は有機物であるだけに、特有の臭いがある。

脂分が残っているとすれば、他の不純物だってこびりついている可能性があり、衛生的にみてもちょっとどうかと思う。ウンコなんかついてないことを願うばかりだ。

臭いはきつくないとしても、安物のダウン衣料品は、生地の織目の隙間からダウンやフェザーが飛び出してきて、中に着ている服にびっしりとついてしまうという苦情も多い。ダウン・ウェア用の生地というのは、目のびっしりとつんだものが望ましいのだが、適当な安物の生地を使うとこうなる。

本来なら、一度不織布などで包んでから、衣料品の中に詰め込むという手順を踏めば、ダウンが飛び出すという不具合は滅多になくなる。しかし、中国製の安物にそこまでのていねいな処理を要求しても無理だろう。

今や、日本で流通する衣料品の約 80%が中国製と言うのだから、中国製を避けたら着る物がなくなってしまうのだが、安物のダウンウェアはお奨めしない。

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2008/01/17

「ロシアリス」 を 「ロリス」 って言うなよ!

いやはや、近頃一番驚いてしまったのは、毛皮製品のタグに 「ロリス」 と表示されていたことだ。ロリスといえば、あの可愛らしい顔のおサルの仲間で、絶滅危惧種じゃないか。

それに、「ロリス」 の毛皮は高級品として流通しているようだが、熱帯に棲むおサルの毛皮が、防寒用の高級品になるわけなかろう。

アパレル業界でメシを食っている私としては、これは放っておくわけにはいかないと、さっそく調べてみたのである。そしてわかったことは、毛皮業界で 「ロリス」 と言ったら、あのおサルの仲間のロリスじゃなく、「ロシアリス」 (ロシア産のリス) の略称だというのである。

「ロシアリス、ロリス」 の 2つのキーワードで検索すると、こんなにたくさんのページがヒットする。ほとんどは、「ロシアリス」 の略称として 「ロリス」 という呼称を何の疑いもなく用いている。

これはひどい。ひど過ぎる。業界内部で 「ロシアリス」 を略して、符丁的に 「ロリス」 と呼び習わすなら、趣味悪すぎだけど、まあ、今さらしょうがない。しかし、それは業界内部にとどめておくべきだろうよ。

品質表示のラベルに堂々と 「ロリス」 と表示してしまったら、まったく別の動物を指すことになる。しかも、可愛らしい顔が子どもたちにも人気のおサルさんで、絶滅危惧種の毛皮だなんて誤解されてしまう。いくらなんでも、人騒がせにもホドってもんがあるだろう。

フランスの踊りを 「フラダンス」 なんて言ったら、ハワイの人たちが怒るだろう。毛皮業界は、それと同じことをして、本物のロリスの面目を潰しているのである。

まったくもう、「ロシアリス」 なら、ちゃんと 「ロシアリス」 と表示しろよ! (本当はこれも通称で、本来は 「キタリス」 という種類らしいけど) 「ロリス」 なんて書いたら、誰にとってもおいしいところのない、まったく無意味で馬鹿馬鹿しい偽装表示じゃないか。

これはプロでも誤解している人がいる (参照) ぐらいだから、過激な環境団体が誤解して、その結果つるし上げをくらったとしても、それは身から出た錆ってものである。こんな風だから、アパレル業界の体質はいい加減だなんて後ろ指をさされるのである。私は怒るというより、呆れてしまっているのである。

ちなみに、ロシアのリスは腹をすかすと犬をもかみ殺すそうだ (参照)。なんと空恐ろしいことである。

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2007/11/29

毛皮市場のタヌキとラクーン (アライグマ)

日本毛皮協会というところの出している "「ラクーン」 の表記に関して" というプレスリリースが面白い。かなりすったもんだしたようで、第 2 弾第 3 弾まで出ている。

品質表示ラベルで、タヌキの毛皮の表示を 「ラクーン」 としていいかどうかという問題が、かなり論議を呼んだようなのだ。

最近、とくに女性物のコートの襟や袖口に毛皮をあしらったものが増えている。流行りというのはコワイもので、あまり値段の張らないものでも毛皮の ディテールは重要ポイントの一つになっていて、そうした毛皮は、当然ミンクとかテンとかいう高級なものではなく、「ラクーン」 と表示されていることが多い。

「ラクーン」 (raccoon) というのは、辞書で引けばすぐにわかるように、アライグマのことである。で、フツーの日本人は、自分の着ているコートの襟や袖口についているのは、アライ グマの毛皮だと思う。しかし、実はそれはアライグマではなく、タヌキの毛皮であることが多い。

日本の品質表示法では、毛皮製品については動物の種類を表示する義務がない。だから、単に 「毛皮」 と表示すればいいということになっている。ところが、そこはそれ、せっかく高級な毛皮を使っているのだからと、普通はミンクとか、シルバーフォックスと か、テンとか、動物の種類まで誇らしげに表示するのが慣習になっている。

しかし、だからといって、タヌキの毛皮に 「タヌキ」 と表示するのでは、ちょっとイメージが悪い。というわけで、流通業界では 「ラクーン」 という表示にしておこうという意向が強かったようなのだ。

元々、タヌキは東アジア特有の動物で、欧米にはいなかったから、英語には 「タヌキ」 に相当する単語がない。だから、しかたなく "raccoon dog"  なんて言っているようなのだ。

世界の毛皮市場の流通においては、1970年代までは日本産タヌキがかなりのシェアを占めていて、業界では "tanuki" が国際語になっていた時代もあったようだ。しかし今では円高と鳥獣保護法の指定により、日本産タヌキの毛皮は、ほとんど姿を消してしまった。

一方、ロシアでは昔からタヌキを "Russian raccoon" の呼称で輸出しており、それを養殖したフィンランドが "Fin raccoon" の名で安定供給し始めた。さらに最近では中国産のシェアが高まり、"Chinese raccoon" として流通している。

そんな状況を背景に、日本の毛皮業界でも、タヌキだろうがアライグマだろうが、両方とも 「ラクーン」 でいいじゃないかということになり、毛皮協会では、上述の方式、つまり 「原産地 + ラクーン」 という表示にしちゃおうということになったようなのである。

ところが、公正取引委員会から、「それでは日本国内の消費者段階で混乱を生じる」 との危惧が表明されたようなのである。確かに、「チャイニーズラクーン」 はタヌキだが、「アメリカンラクーン」 はアライグマであるというのでは、わかりにくい。「要するに、『タヌキ隠し』 じゃん!」 と言われかねない。

そこで、結局は、11月 15日付のプレスリリース第 3 弾で、「タヌキ (チャイニーズラクーン)」 のように、タヌキであることを明記した上で 「何とかラクーン」 の名称を併記するという指導になったようなのだ。なかなか大変なことである。

まあ、この背景には伝統的日本語より横文字の方がなんとなくファッショナブルな感じがするという幻想がある。

「輸入品」 だと中国製の安物だが、「インポート物」 だとイタリア製の高級品みたいなイメージがある。「長靴」 だと調理場のゴム長だが、「ブーツ」 だとオシャレな靴になる。そんなようなことで、「タヌキ」 よりは 「ラクーン」 の方が歓迎されそうだったのだが、やっぱり 「タヌキはタヌキ」 で落ち着いたようなのである。

キツネは 「フォックス」 という単語があるが、タヌキに正確に相当する英単語が存在しなかったのが、致命傷だった。

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2007/11/22

「お友達と同じ服が欲しいの」 という女性

洋服の売り場とかブティックに、「お友達の着てるのをみて、あんまり素敵だから同じものが欲しくて」 と、品番指定で買いに来る女性というのが少なからずいる。

中には、わざわざ自分でアパレル・メーカーに在庫確認の電話をしてくる女性までいる。それはそれは、大した執念なのである。

私は、そんなことは夢にも思わないが、世の中には 「お友達と同じ服が欲しい」 と、本気で思ってしまう女性というのが、少なくないようなのである。

そういう女性は、「まぁ、その服、素敵! どこで買ったの? いくらしたの?」 と聞きまくり、果ては、洋服の裏側に縫い込まれたケアラベルまで点検して、メーカーと品番まで手帳に控えてしまうようなのだ。

これって、私には本当に信じられない行為なのだ。その理由を以下に挙げてみよう。

  1. まず第一に、友達と同じ服を着るということを、ちょっと恥ずかしいと思わないのだろうか?
  2. さらに、友達には似合っても、自分には似合わないということもあるということを、想定しないのだろうか?
  3. そしてまた、自分は友達と同じ服を着ることに抵抗がなくても、その友達の方が、同じ服を着られることに抵抗があるかもしれないということを、想定しないのだろうか?

一番問題なのは、友達というのが、「知人に同じ服を着られることに抵抗があるけれど、頼まれたら断り切れない性格」 だったりする場合である。

「まぁ、その服、素敵ね!」 と言われるのは、何の問題もない。しかし、同じ服を買うためにケアラベルに印字された品番まで控えさせてと頼まれたら、心中おだやかではないだろう。放っておいたら、自分と同じ服を着て、嬉々として街を行く女性が、身近に存在するということになってしまう。それって、普通、やだよね。

定番的なブレザーとかセーターとかなら、まだ抵抗はないが、そんな品物ならわざわざ品番まで聞かなくても、普通に探せばすぐに見つかる。ちょっと変わったデザインだから、問題なのである。

だから、本当はどこで買ったかとか、ましてやメーカーや品番なんてことまでは教えたくないのだが、そんなことを言い出す女性というのは、基本的に図々しいから、断ったらどんなしっぺ返しがあるかしれない。

聞かれた方は、実はいやいやながらだが、表面上は喜んで、品番をメモさせてあげ、買った店まで教えてあげる。そして次の瞬間、店、果てはメーカーの在庫まで切れてしまっていることを、密かに、しかし強烈に祈るだろう。

そして幸か不幸か、同じ服の在庫があり、友人が嬉々としてそれを買い求め、その日のうちから、それを着て外出するようになってしまったら、悲劇である。いやいやながら教えてあげた女性は、先に買ったお気に入りの洋服を、もはや身につける気がしなくなってしまうだろう。気の毒に。

というわけで、私は 「お友達と同じ服が欲しくて」 なんてノー天気なことを言い出すタイプの女性とは、あまりお近づきになりたくないと思う。こうした類の女性にとって大事なのは 「自分の都合」 だけで、「相手の都合」 なんてことは、どうでもいいようなのである。

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2007/10/04

ビニールも塩ビもビニールのうち

シャネルの 「ネイキッド・バッグ」 なるものが、一部で熱烈に話題になっている。なんでもテロ対策で最近とみに厳しくなった空港の手荷物検査に対応し、中身が見えるスケスケのビニール素材にしたんだそうだ。

素材はビニールとはいえ、値段はシャネルらしく、12万円というのが笑える。

「テロ対策で厳しくなった空港の手荷物検査云々」 というのは、当然にも、取って付けたようなジョークのようなものなんだろうなあ。だって、それだったら、飛行機に乗るわけでもないのに、その辺にお出かけするときに持つ意味がないから。

要するに、単に 「見せたがり」 なのである。おへそだろうが、ブラのひもだろうが、胸の谷間だろうが、バッグの中身だろうが、「見たきゃ、見れば?」 ってなものである。で、意識して見せているくせに、露骨に見られると不愉快そうに睨み返す。

このあたりが、今をときめく 「女王様メンタリティ」 における基本の基本である。

ネットの世界での反応をみると、「だって、それって、要するにビニール・バッグでしょ?」 という疑問というか、冷笑というか、そんなトーンが多い。確かに、海水浴に持っていく 500~600円ぐらいのビニール・バッグと比べたら、そりゃあちょっとは細部に金をかけて、オシャレな作りになってるんだろうが、それにしても、12万円とはね。

で、この 「要するにビニール・バッグでしょ?」 という反応だが、私としては、同じことをあのルイ・ヴィトンのバッグにも言ってみたい気がするのである。だって、あれって、要するに 「塩ビ」 でしょ。

塩ビ、塩化ビニール、PVC、ポリ塩化ビニル …… どう言い換えようと、塩ビは塩ビ。どんなものかは、Wikipedia でどうぞ (参照)。「スモモもモモも桃のうち」 というが、塩ビもビニールもビニールのうちである。(組成的には別物だけどね)

塩ビのバッグが 30万円とか 40万円とかするなら、ビニール・バッグが 12万円でも、まんざらおかしくないかもしれない。でも、実際に市場で売れているのは、せいぜい 5000円ぐらいの安物コピーらしい。「安物」 とはいえ、利益率から言ってもかなりおいしいと思うけど。

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2007/09/12

「見た目」 と 「安全」

ちょっと古いニュースだが、今年の春に東京都が 「子ども用衣類の安全確保について」 という報告書をまとめている (参照)。

報告によると、フードやひもが遊具に引っかかって首つり状態になるなどのケースが少なからずあり、安全対策が求められているのだが、実際にはなかなか難しい問題だ。

業界に対しても安全基準の策定などが求められているわけだが、子供服業界ではフードやひも (ドローストリングス) などがデザインポイントになっていることもあって、「あんまり杓子定規にやると、デザインが制約される」 という反発の声も上がっている。

私はこの問題で、昔の 「白すぎる食品」 の問題を思い出した。

あれって、いつ頃のことだったのだろう。白すぎるパンやうどんやかまぼこが問題になったことがあった。要するに、小麦粉や魚肉を漂白して真っ白にしていたのだが、健康への影響を考えたら、漂白なんてしない方がいいんじゃないかという声が上がったのだ。

ところが、当時の食品業界の反応は、「消費者は真っ白な食物を求めている」 「白くないと売れない」 という声が圧倒的主流だった。今では信じられないような話だが。

私なんぞは、「あんまり白い食い物は、かえって気持ちが悪い」 と思っていて、わざわざ 「漂白剤不使用」 という表示のある、自然な色のものを選んで買ったりしていたので、「食品業界って、なんてアホなことを言ってるんだ?」 と呆れていた。

結論から言うと、その頃から徐々に食品添加物への関心が高まって、余計なものは入れない方がいいということになり、今ではスーパーの売り場を見ても、パンもうどんもかまぼこも、自然な色の食品が増えている。

要するに、消費者がちょっとだけ利口になったのだ。子供服だって、同じような道をたどるだろうと、私は案外楽観的に考えている。

今では、必要もないフードやドローストリングスでコチャコチャ飾ったデザインが人気だが、なまじそんなものが付いているせいで、滑り台に引っかかって首が絞まったり、テーブルの脚に引っかかって、ガラガラドッシーンになったりすることがあるとわかれば、フツーの考えの親なら自然に避けるようになる。

「可愛らしいデザインでなきゃ、売れないんだもの」 と言っている業界も、「やっぱり、安全の方が大事だよね」 という消費者が増えてくれば、そうしたニーズに応えざるを得ない。そもそも、「可愛らしいって何か」 というコンセプトだって、その時々でずいぶん変わるのだ。

要するに、消費者が利口になりさえすればいいのだ。中国製の危ない薬や食品や衣料だって、怪しげな謳い文句や安さに目がくらんだ消費者にも、責任がないとは言えないのだから。

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2007/09/11

オジサンの半袖シャツ、袖口が広すぎ

私は 「クールビズ」 なんていう言葉が出てくるずっと前から、夏はジャケットとネクタイを着用しないことに決めてきた。

ネクタイは一年中しないし、6月中旬から 10月に入るまでの約 3ヵ月半は、ポロシャツ 1枚で通す。汗をかいても、布帛 (織物) のシャツより、「べったり感」 がなく、快適だ。

それに、ポロシャツというのは半袖の袖口が広くないので、周りに迷惑をかけない。それにしても、オジサンたちが好んで着用する布帛の半袖シャツというのは、どうしてあんなに袖口が広いんだろう。

あの類の半袖シャツの袖は、腕が 2本通るぐらいの広さである。そして、無闇にきちんとプレスしてあるので、袖口がぴんぴんと両側に広がっている。

あの半袖シャツを着たオジサンに、電車の座席で隣に座られると、こちらはかなり迷惑なのである。私は背が高いので、自然 (もしかして自然以上に) 座高も高い。だから、こちらの半袖でむき出しになった二の腕の中間あたりに、隣のオジサンの半袖の袖口が当たる。

何しろ、あの広すぎる上に、プレスが利いてピンピンに張った袖口である。相手がじっとしていてくれればまだいいのだが、新聞や雑誌を読んで、ページをめくろうとすると、当然腕も動くので、半袖の袖口の先っちょで、私の二の腕を絶妙にコチョコチョとくすぐる。

これは、とてもくすぐったいのである。イライラするほどくすぐったいのだ。本当にやめてもらいたい。オジサン、頼むから、そのピンピンに張り出した半袖の袖口を、輪ゴムか何かで縛っておいてくれ。

しかしオジサン、まさか自分の半袖の袖口でこちらの二の腕をくすぐるなんていう変態的行為を働いているとは気づかないものだから、全然平気である。こちらがいくら迷惑そうに腕を動かしても、もぞもぞしても、一切動じない。これって、あまりにもデリカシーなさすぎじゃないか。

日本中のシャツメーカーにお願いしたい。あの外側にピンピンと張った広すぎる袖口の半袖シャツは、何とかして欲しい。迷惑以前に、デザインだってダサダサでおかしいぞ。

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2007/08/06

偽カシミヤセーターのお話

カシミヤ製品の虚偽表示が問題になっている。またしても、中国製である (参照)。

近頃、ずいぶん安い値段のカシミヤ・セーターが出回っているなあとは思っていた。しかし、よく考えれば、1万円以下でカシミヤ 100%のセーターができるわけない。それは、自ら 「偽者です」 と公言しているようなものだ。

「いくらなんでも、安すぎ。虚偽表示に決まってるじゃないか」 というと、「いや、あれは、カシミヤはカシミヤでも、紡績の際に床に落ちた、カシミヤのクズ繊維を使っているので、カシミヤであることには間違いないんだ」 なんて言い訳をする人もいた。

馬鹿を言っちゃいけない。「クズ繊維を使ったカシミヤ 100%糸」 なんてものは、矛盾なのである。それ自体、 「真っ赤なウソ」 と公言しているようなものだ。

床に落ちるようなクズ繊維ということは、「紡績にかからなかった」 ということだ。繊維長が短すぎて、いくら縒り合わせても糸になりようがないということである。つまり、「クズ繊維」 は、合繊などと混紡しないとまともな糸にならない。要するに、値段のものすごく安いカシミヤ 100% の商品なんて、あり得ないということだ。

毛製品検査協会に提出されたものは、特別に作った検査用のサンプルだったらしい。なかなかやるもんだ。こうなったら、中国製の製品は抜き打ち検査をするしかない。

そもそも、安いセーターを買いたかったら、初めからカシミヤ 100%なんていう選択肢はないと割り切らなければならない。あり得ない商品を信じて仕入れてしまったというのは、ちょっと問題だと思う。

詐欺にひっかかるメンタリティには、「うますぎる話にまんまと乗っかる」 という共通点がある。「うますぎる話」 なんてないんだといくら言われても、乗っちゃう人は乗っちゃうのである。

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2007/07/23

東京ガールズコレクションを巡る冒険

一昨日のエントリー、「ファッションとウェブのお話」 の、はてな版 (ココログのリザーブに位置づけてる) が、kumi, the Partygirl のはてぶに載っけてもらえてるのに気付いた。

「東京ガールズコレクションは携帯やPCと連動してるよ」 と、彼女はコメントしてくれている。もっともな指摘だ。

東京ガールズコレクションというのは、とても頭のいい人の考えた企画だと思う。従来のファッション常識からしたら、こう言っちゃ悪いけど、B級のそしりを免れないコンセプトを堂々と表面に押し出して、 ちょっと別の次元で成功しちゃってる。

モデルだって、身長 175センチなんか全然必要ない。だって、フツーの女の子が買う服なんだもの。ショーのために市場には出さない服を特別にデザインするなんて、手間と金ばかりかかる手法は採用しない。だって、売れなきゃしょうがないんだもの。

そして、ターゲットとなるのは、徹底的に日本独特な 「若い女の子」 という市場だ。彼女らをメインターゲットとして、ステージでショーをしてみせるなんてのは、欧米の発想ではちょっとマイナーすぎる。だが、おっとどっこい、日本では最もメジャーなファッション・マーケットなのだ。

だから、東京コレクションは、多少なりとも、あるいは建前だけでも、インターナショナルな市場を志向しているけれど、東京ガールズコレクションは、あっけらかんとドメスティックだ。その独特のドメスティックさゆえに、アジア地域では親和性があって、北京でも開催されたりしているのだが。

東京ガールズコレクションというのは、頭のいい人の企画と書いたが、どんな点がそうなのかというと、徹底して 「雑誌的」 なのである。若い女の子向けのファッション雑誌の雰囲気を、ステージ上に、ウェブ上に移植しているのだ。

雑誌の手法なら、こうした企画の関係者は、すっかり手慣れている。お手の物なのだ。余計な背伸びをしないですむ。で、すっかり自分たちの土俵上で勝負していて、余計なところに手出ししない。だから、破綻しない。

本当に、頭のいいマーケッターの考えたことである。なかなかのものである。

と、ここまでさんざん褒めておいて、なんなのだが、私としては、個人的にこれ以上のシンパシーを表明するのが、とても気恥ずかしい。

というのは、どうせドメスティックなビジネスなんだから、どうでもいいようなことなのだが、「東京ガールズコレクション」 (Tokyo Girls Collection) というネーミングは、ちょっとね、ということなのだ。

どういうことかというと、先月の "「ヤンキー」 が、好きラー!?" というエントリーで、レッドソックスの岡島は 「ヤンキース・キラー」 じゃなく、正しくは 「ヤンキー・キラー」 なのだと書いたのと同様のことなのだね。(英語では名詞を形容詞的に用いるときは単数形になる)

つまり、「東京ガールズコレクション」 (Tokyo Girls Collection) じゃなく、「東京ガールコレクション」 (Tokyo Girl Collection) と言ってもらいたかったのだよ。「ジーンズ・ショップ」 というのも、本当は "jean shop" なんだしさ。

本当に本当に、どうでもいいことだけど、ここにこだわらなかったら、tak-shonai というブロガーの存在意義は、ほとんどなくなっちゃうじゃないか。

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2007/07/21

ファッションとウェブのお話

昨年の 5月 12日 「ファッションとウェブは、水と油」 というエントリーを書いた。要するに、ファッションはビジュアルの世界で、ウェブはテキストの世界だと書いたのである。

で、このほど RinRin王国 経由で、「アパレル業界が web に手を出さない理由」 という興味深い記事を見つけた。

この記事は、東京コレクションに参加しているデザイナー・ブランドを中心にして、彼らのウェブサイトがどんなものかを紹介している。

で、まず、驚くべきことに、52のデザイナー・ハウスのうち、公式ウェブサイトがみつかったのは、32しかない。たったの 61.5%。東京コレクションに参加するデザイナーのうち、3人に 1人以上は、ウェブサイトを持たないのである。

ほぼ、3人に 2人がウェブサイトを持っているんだから、そんなに驚くほどのことじゃないといえるかもしれないが、やっぱり、ちょっと変なんである。どんなに変なのかというと、上記の記事から、デザイナー達のウェブサイトに飛んでみればわかる。

はっきりいって、ほとんどのデザイナーのサイトは、極端にというか、異常に使い勝手が悪い。で、不思議なことに、その作りはとてもよく似ていて、非常に共通した使い勝手の悪さが際立っている。デザイナー・ハウス御用達みたいな感じの、同じ制作会社が作ってるんだろうと創造してしまうほどだ。

多くのトップページは、真っ暗闇の中でなにやらもぞもぞとフラッシュが動いて、ブランドロゴがようやく浮き上がってきたり、動いたりひっくり返ったり、消えたり現われたり、シンボルマークがくるくる廻ったりするだけで、ほとんど意味のない時間を取られてしまう。

で、フラッシュが動き終わっても、きちんとしたメニューが表示されないということが多い。何とか見当を付けてあちこちクリックしてみても、さらに画像 (多くはコレクションのビデオか静止写真) がフラッシュでゆっくりと現われては消えるだけで、とにかく時間がかかる。「さっと見せてくれよ、さっと!」 と言いたくなる。

とにかく、これらのウェブサイトは、「他のサイトになんか目もくれず、じっくりと時間をかけて付き合ってくれる人」 だけを想定して作り込んでいるもののようなのだ。実際には、よっぽどのファン以外は (多分、10人中 7~8人は)、すぐに焦れてウィンドウを閉じてしまうだろう。

はっきり言って、ウェブの世界で常識とされる 「見やすい構成」 とか 「わかりやすい表示」 とか、「ユーザー視線に沿ったインターフェイス」 なんてことは、ことごとく無視されている。ということは、ファッションの世界に馴染んでいない人にとっては、かなり 「異様なサイト」 ということになる。

まあ、あちこちクリックすればなんとか画面が変わるなら、まだいい。中には、トップページのフラッシュが終わると、それだけで他には何のコンテンツもない (もしかしたら、あるのかもしれないが、どうしたら表示されるのか見当もつかない) というサイトもある。一体、何のためにドメイン取得したんだ?

で、私はまた、したり顔に言いたくなってしまうのだ。「ほぉら、だから 1年以上も前に言ったでしょ。『ファッションとウェブは、水と油』 だって」 と。ほんと、そうなんだから。

「アパレル業界が web に手を出さない理由」 という記事では、デザイナーがウェブサイトに関心を示さない理由は、「単純に web にかけられるお金がない」 「ブランドコンセプトであえてweb に力を注いでいない」 「大衆的なイメージをもたれたくない」 という 3点ではないかと言っている。

デザイナーの多くが、金銭的にはそれほど潤沢じゃないことは確かだ。バブル以前なら、いろいろなスポンサーが付いて、どんどん資金を提供してくれたものだが、そんな 「古き良き時代」 はとっくに過ぎ去った。しかし、それでも、デザイナー達は、コレクション (いわゆる 「ファッション・ショー」 ね) には、かなりの金をかけるのである。

ファッション雑誌の片隅に写真で紹介されるために、少なくとも数人のモデルをフィーチャーし、会場、ディレクション、音楽、設備、メイキャップ、ヘアメイク等々に、惜しげもなく投資するのだ。そんな投資に比較したら、今どき、気の利いたウェブサイトを作るぐらいは、お小遣い程度の金額でできる。

でも、それはしない。だったら、やっぱり 「ブランドコンセプトであえてweb に力を注いでいない」 とか、「大衆的なイメージをもたれたくない」 ということなのだろうか。

まあ、この世の中には、ファイブフォックスのように、リクルートサイトしか持たないという大企業もあるぐらいだから、そうであっても不思議じゃないが、中小ブランドなら、ウェブで訴求しても、損はないだろう。

それに、大衆的なイメージを嫌ったようなそぶりを見せても、日本のデザイナー・ブランドの多くは、それほどエスタブリッシュメントに向けたファッションであるというわけでもないし。

というわけで、私はやっぱり、ファッション (とくに、東京コレクション系のデザイナー・ブランド) とウェブは、「馬が合わない」 のだと思っている。親和性に欠けているのだ。

多分、デザイナー側はウェブ制作会社に、ロゴと画像をどっさり渡して、それで素材は提供したものと思っているのだろう。ところが、そこには 「テキスト」 が欠けているのだ。だから、制作会社としては、フラッシュで絵を動かすぐらいしか、できることがない。

雑誌なら、ライターという存在もいるし、また、端から順にページをめくらせさえすれば、何とか伝わるものがある。しかし、ウェブはそう単純じゃない。ファッション・デザイナー達は、ウェブ上で自分を表現するという手法を、ほとんど身につけていないように見える。

多分、服作りのように、みっちりと集中して作り込むということは得意なんだろうが、キャッチボールのように言葉をやりとりするインタラクティブな表現というのは、苦手なんだろう。

ウェブ技術が進化して、ファッションの感性を、ストレスを感じさせることなく表現することが可能になったら、「ファッションとウェブは水と油」 というのは 「過去のお話」 ということになるのかもしれないが。

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2006/08/18

「かりゆしウェア」 がうらやましい

「クールビズ」 なんてことが言われ始める 20年も前から、ずっと自主的にクールビズなので、何を今さらという気もするが、沖縄で 「かりゆしウェア」 を 1着、衝動買いした。

これはアロハシャツの沖縄バージョンみたいなもので、沖縄ではこれさえ着ていれば、どんな公式の場でも、文句は言われない。

クールビズがスタートしたばかりの頃、確か、小泉首相も着ていたような気がするが、今ではあまりセンスの良くない長袖ワイシャツにノーネクタイというスタイルに落ち着いてしまったようだ。

沖縄では、本当に誰でもかりゆしウェアを着ている。官公庁だろうが、会社だろうが、サービス業だろうが、立派なビジネスウェアとして完全に認知されている。ホテルのフロントのお兄さんも、かりゆしだった。

内地では、ホテルのフロントがノーネクタイというのは、あまり考えられないが、沖縄では、そんなことでどうこういうような無粋な人間は、皆無である。

確かに、沖縄の夏にネクタイをしてジャケットを着ていたら、死んでしまう。からっとしていて、日陰に入れば、蒸し暑くてたまらないということはないのだが、日の当たる外を歩いたら、それはもう大変で、汗が吹き出すだけでは済まない。頭がくらくらする。

沖縄でも、かりゆしウェアの普及にはかなりの時間を要したようだが、平成 11年から県議会議場内での着用が容認されたことが決定的な契機となったようで、今ではすっかり定着している。

沖縄のかりゆしウェアは、けっこう派手な色柄のものが多くて、まあ、確かに沖縄の風土だからこそ、あれが似合うのかもしれず、内地で着たらちょっと浮き上がってしまうだろう。しかし、ちょっと地味目の色柄なら、十分通用すると思う。

私の衝動買いしたのも、写真のように藍染めっぽい色で、地味な小柄である。これなら、東京でも全然違和感がないだろう。

しかし、実はこれは 「フェイクかりゆし」 なのであった。本物の 「かりゆしウェア」 は沖縄県工業連合会の登録商標で、このブランドを使用するには、以下の条件に適合しなければならない。

  1. 沖縄県内で縫製されたもの (布地は県外で生産されたものでも良い)
  2. 沖縄観光をピーアールする柄のもの

私の買ったのは、"Made in India" で、柄がかろうじて沖縄絣調であるというにすぎない。要するに 「かりゆしもどき」 である。道理で安いと思った。

だが、内地で着るには、このくらいの 「もどき」 の方がいいかもしれない。どうしても本物にこだわりたい場合は、ミンサー柄がシックでいいだろう。ミンサーというのは、帯などに使われる細幅の織物である。これがなかなかいい。

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2006/06/23

葬式に着る服は面倒くさい

アパレル・メーカーには、消費者からのクレームや問い合わせの電話が、案外頻繁にかかってくる。某月某日、あるメーカーに、こんな電話がかかってきた。

「おタクのレースのジャケット付きのスリーピースのブラック・フォーマル・スーツ、買ったんだけど、葬式に着てって大丈夫かしら?」

品番を聞いて照合すると、黒の半袖ブラウスに黒のスカート、その上に、黒の総レースのジャケットというデザインだ。その消費者は、お店で 「結婚式にも、葬式にも着ていけます」 と言われて買ったのだが、いざ、葬式の前日になって、「総レースのジャケットは、ちょっと派手過ぎないか」 と、不安になったらしい。

問い合わせを受けたアパレル・メーカーの担当者は、自信満々答えた。「大丈夫です。葬式にでも着て行けます。黒のレース使いは、元々そういうものです。むしろ、葬式の場には、それこそが正式な着こなしなんです」

うぅむ、立派な教科書通りの回答だ。文句なしである。ただ、教科書通りということなら、これでいいのだけれど、私はそれを聞いて、少しだけ取り越し苦労をしてしまったのである。

というのは、葬式に集まる一族郎党の中には、決まって口うるさいバアサンがいるものなのである。そして、そうしたバアサンに限って、ファッションの教科書なんて知ったこっちゃないのだ。

「まあ、あそこんちのヨメは、葬式にあんな派手なレースの服なんか着てきちゃって!」 と言い出すに決まっているのである。「半袖ブラウスの上にレースの服なんか着たら、腕が透けて見えちゃってるじゃないの!」

その日一日で済めばいいが、何年経ってもくどくどと同じことを言われるのである。たかが、レースの服で葬式に出たというだけで。

もし、そんな雑音をシャットアウトできるだけの自信と威厳を持って、堂々と着こなしていけるなら、何の問題もない。しかし、わざわざメーカーに電話をかけて聞いて来るという自信のなさで、そんな格好をしていったら、いびりのネタになりかねない。

ファッションによっぽどのポリシーがあるのでなかったら、葬式に着ていく服なんていうのは、思いっきり当たり前の地味なブラック・スーツにしておくのが、一番間違いないのである。

電話をかけてきた消費者は、店員のセールス・トークに、まんまと乗せられてしまっただけとしか思われない。

その葬式に集まる一族郎党に、意地悪で口うるさいオバサンがいないことを祈るのみである。

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2006/06/15

「スパンコール」 は日本語

ドレスのスパンコールがピラピラ~っと飛んで、おへそが見えてしまうというジンジャーエールの TVCM が受けているらしい(参照)。

スパンコールだけでできたドレスなんて、初めて見たというツッコミはおいといて、「スパンコール」 という言葉は実は日本語で、英語圏では絶対に通じないという話をしよう。

スパンコールは、英語では "sequin" (普通は、複数形で "sequins") という。発音は、「スィークウィン」 という感じに近い。それで、いわゆる 「スパンコール・ドレス」 のことは、"sequined dress" という。

私は長い間、どうして "sequins" のことを日本では 「スパンコール」 なんて言うようになったのか、ずっと疑問だった。ところが、昨日ググってみたら、あっけなくわかってしまったのである。

「スパンコール」 は、英語の "spangle" の訛りだというのである (参照)。"Spangle" を Goo 辞書の英和辞典で引いてみると、「スパングル, スパンコール (舞台衣装などにつける光る飾り); ぴかぴか光る小片 (星・雲母・霜など)」 と出てくる。

へぇ、「スパンコール」 を英語で "spangle" ともいうなんてことは、初めて知った。しかし、私としては、実際の会話や文書で、スパンコールの意味で  "spangle" という単語が使われるのは、見たことも聞いたこともないぞ。

普通は、"sequins" だろうよ。これは、永らく繊維・ファッション関係のニュースを横文字にしたり日本語にしたりしてメシを食ってきた私のいうことだから、信用してもらっていい。

試しに、Google で検索してみると、"sequined dress" では約 51,600 件ヒットしたが、"spangled dress" では、わずか 514件と、1%以下だった。"Sequined dress" の圧倒的優勢勝ちである。ほうらね。

しかも、"spangled dress" でヒットした中には、日本発の 「ドラゴンクエスト」 関連のページが 100件以上紛れ込んでいて、「スパンコールドレス: Supanko-rudoresu (Spangled Dress)」 とか、「Shimmering Dress = Spangled Dress」 (光るドレス = スパングル・ドレス) とかいう、英語的にはちょっと怪しいのが多い。

よくわからんが、Supanko-rudoresu (Spangled Dress) というのは、3000 トークンで手にはいるらしい。

また、"star-spangle dress" というアイテムも多くて、それは、どうやら星の形をした飾りをチョコチョコと縫いつけた子供服のようなのだ。いわゆる 「スパンコール・ドレス」 からはほど遠いのである。

そんなこんなで、やっぱり、「スパンコール・ドレス」 は "sequined dress" とする方が無難のようだ。

そうなると、"spangle" が 「スパンコール」 の語源であるとする説も、アクセントの位置も全然違うし。本当かなあという気がする。でも、まあ、ほかに根拠となりそうな材料もないので、必要以上のツッコミは自粛しておこう。

とは言いながら、まるで 「ワイシャツ」 が "white shirt" から来たと言われて、なんだか、うまく煙に巻かれたような気がするのと似た感覚である。だって、あれ、普通は "dress shirt" であって、"white shirt" なんて言わんもんね。

ちなみに 「ぐっすり」 という日本語が、英語の "good sleep" からきたという説が、巷の一部でとても有力なのだが、これは、はっきり 「ガセビア」 である。すでに、トリビアで沼に沈められてもいるようだ。詳細は こちら

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2006/06/02

クールビズは、ネクタイから解放されるための錦の御旗

クールビズが 2年目に突入した。今年の市場規模は約 1500億円 (昨年比 6割増) という予測もあるが、本当の目的である省エネや CO2 削減は、あまり進んでいないようなのだ。

昨年も指摘した (参照) のだが、クールビズは、「ネクタイから解放されるための錦の御旗」 としてしか機能していないのだと思う。

百貨店などでは昨年、クールビズは商売になっても、ウォームビズは、鳴かず飛ばずだった。当たり前である。またしてもうっとうしいネクタイに逆戻りするウォームビズなんて、何の魅力もないのである。

日本の男は、毎年夏になると、「女はいいなあ」 と思ってきた。「半袖で会社に来ても怒られないんだから」 と。オジサンたちは、背広にネクタイ姿で炎天下を歩かなければならない身の不運を嘆いてきたのだ。

ところが、昨年になって急に、夏になったらノーネクタイで会社に出ろと、お上が認めたのである。何と素晴らしい善政ではないか。やれうれしや、これで、暑苦しい姿から解放される。

というわけで、日本のオジサンたちの多くは、夏にはネクタイをしなくてもよくなって、あまり表には出さないが、内心では大喜びしたのである。

しかし、根が暑がりなのは相変わらずだから、会社の冷房の設定温度を上げることまでは、忘れたふりをした。その辺は、ちょっとズルイのである。

だから、「クールビズが成功」 というのは、ファッション業界だけの話で、省エネだのいう話とはまったく無縁のことなのだ。あまり誇れるようなことではないのである。

ちなみに、昨年は大打撃を蒙ったネクタイ業界だが、今年はメッシュなどの軽い素材、はたまた、シャツの第一ボタンにくっつけるだけの姑息なタイプなど、かなりいろいろな商品開発をしていて、少しは売れ行きが回復しているらしい。

まあ、いろいろな商品を売っちゃえばいいのである。ほとんどの人は、試しに買ってはみても、実際には着用しないだろう。だって、ノータイの方がずっと快適なのは、身体にしみこんでしまったのだから。それでいいのである。

アイデア商品の 「クールビズ・ネクタイ」 は、ワンシーズンに、1度か 2度の着用のためだけに売れればいいのである。それでも、売上げは売上げだから、業界はハッピーになる。資源の無駄といえば、確かに無駄だが。

私個人でいえば、サラリーマン時代から 10年以上も、自主的にクールビズしていた。もちろん、冬になってもネクタイなんかしなかった。それでも、別になんの苦情も出なかったから、それでいいのである。

参考

クールビズの背景 : ネクタイ好きは出世好き、ネクタイ嫌いは現場好き

クールビズ その2 : 「相手がある」 ことを妙に気にする日本の営業マン

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2006/05/12

ファッションとウェブは、水と油

ululun さんBBS で、ウェブ化・ネット化されていない業界の代表格として、ファッション業界を挙げる記事を紹介してくれた。

「ファッション」 は、「医療」 「政治」 「宗教」 をしのいで、その筆頭に挙げられている。「されていない」 とは言い過ぎだと思うが、確かにその度合いはものすごく低い。

私のビジネス上のバックグラウンドは繊維・ファッション業界なので、この問題については、いつも意識せざるを得ない。本当に、ファッション業界というのは、ウェブとの親和性がものすごく低いのである。

上記の記事は、ファッション関連の媒体が雑誌に片寄っていて、ファッション雑誌は腐るほどあるのに、ファッション・ウェブが極端に少ないということを言っている。確かにその通りである。

これに関して、ululun さんは、ファイブフォックス (あの 「コムサ」 の会社) が自社のホームページすらもっていないことに 「興味がある」 とおっしゃっている。

ファッション雑誌に相当するファッション・ウェブが少ないことと、ファッション企業があまりウェブの世界に積極的に関わっていないということは、多少別の問題だが、根っこの部分は共通していると思う。

それを語るキーワードは 「テキスト」 だろうと思う。今回は、「ファッション人間におけるテキスト感覚の欠如」 という仮説を語ってみたい。

ファッション人間の代表格、デザイナーにインタビューを試みると、彼ら/彼女らの多くは、自分を表現する 「テキスト」 を持ち合わせていないことがわかる。「作品を見てもらえばわかる」 というのが、その常套的なコメントである。

確かに、ファッション・デザイナーなのだから、第一義のメディアが 「作品」 であるというのは当然だが、それらはあくまでも 「商業デザン」 なのだから、「テキスト」 でフォローする方法論がないのは寂しい。

欧米のデザイナーの多くは、このあたり、かなり意識していて、自分のデザイン・コンセプトを言葉として (つまり 「テキスト」 として) 説明するのは、当然の義務と思っているようだ。しかし、多くの日本人デザイナーは、そのことにほとんど無頓着である。

このことを前提とし、翻って、ウェブの現状をみてみよう。誤解を恐れずに言えば、ウェブは ("Web 2.0" はどうだかしらないが)、ほとんど 「テキストの世界」 なのである。検索エンジンの要は、「キーワード」 であり、それは画像検索においてすら例外ではない。

ありていに言って、現状のウェブの世界は、ファッション人間にとって、とても違和感があり、入りにくい世界なのだろう。「見てもらえばわかる」 が通じないのだから。「見てもらう」 までには、否応なくテキストの世界をくぐり抜けなければならない。

ウェブの世界に居心地よく定住するには、そのコンセプトをキーワードに置き換えなければならないのだが、彼ら/彼女らは 「テキスト感覚」 が欠如しているので、「ピタピタ」 とか 「テレンテレン」 とか、感覚的なオノマトペに頼るのがせいぜいのところだ。

それならいっそ、それでもいいのだが (ファッション雑誌なんか、それで押してきてる部分がある)、 それで開き直る技量もなかったりするので、テキストの世界を自由に泳ぐのは、荷が重すぎる。

それで、「ファッション」 における 「テキスト」 の構築という役割は、ファッション雑誌が果たしている。さまざまな 「キーワード」 「キャッチフレーズ」 を提案し、それに適合する商品を見繕ってきて、画像として紹介するのが、ファッション雑誌の役割だ。

ということは、ファッション人間は 「テキスト」 の世界においては、徹底的に 「受け身」 でしかない。自ら能動的に 「テキスト」 の切り口で表現するということに関しては、赤子同然である。

ファッション業界のウェブ・ページは、やたらと Flash が多い。ファッション企業のウェブサイト作成を請け負うと、トップページに重い Flash をもってくることを要求されたりする。

いくら、Flash は今どき流行らないと言っても、彼らは、テキスト表現が苦手なので、画像 (しかも押しつけの強い画像) をもってくるほかないのである。それで面目躍如だと思ったりしている。いきなりスキップされるなんて、よもや思っていない。

こうして、現実世界ではオタクはファッション人間にさげすまれる一方だが、ウェブの世界では、ファッション人間の方がオタクに呆れられる側にまわるのだ。両者は、それほど水と油の世界なのである。

このギャップを埋めるには、ファッション人間の感覚を 「テキスト」 にきちんと翻訳できる能力のある人間が、コーディネーターの役割をしっかりと務めなければならない。ファッション雑誌編集者には、この能力のある人材がいるだろうが、彼らが ウェブを作れるかといえば、それはまた別の問題だ。下手したら、二重の通訳が必要になる。

なお、当然ながらテキストで、さらにウェブででも自己表現のできる貴重なファッション人間も、決していないわけではないということを、最後に付け加えておく。

【平成 19年 7月 19日 追記】

アパレル業界がwebに手を出さない理由」 という興味深い記事を見つけた。東京コレクションに出ているデザイナーの中で、公式サイトを持っているデザイナーが少なく、あってもフラッシュばかりで、使い勝手が 「?」 なものが多いということがわかる。

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2006/04/27

ファッションは無駄の固まり

今年の 4月は、いかにもといった感じの新入社員が、5~6人も寄り集まって昼飯を食いにいく姿を、神田近辺でもよくみかける。

この何年も、中小企業の多い街で、新入社員がそんなに連れ立って歩く姿など、あまり見かけなかった。なるほど、少しは雇用環境が好転しつつあるのだと実感する。

彼らがいかにも新入社員とわかるのは、顔立ちがまだ青臭いからでもあるが、スーツ姿が、まだ全然こなれていないということもある。それが半年もしないうちに、どこから見ても 「サラリーマン」 になってしまうのだから、世間というものはおそろしい。

ところで、スーツのサイド・ポケットについているふた、いわゆる 「ポケット・フラップ」 は、外に出しておくべきなのか、それとも内に入れておくのが正しいのか。着こなしにかんする疑問の定番だが、正解をご存じだろうか。

ポケットの中の物を入れたり出したりすると、ポケット・フラップは、自然に内側に入ってしまう。そもそも、作り自体が内側に入ってしまっても全然おかしくないようにできている。

若かりし頃、初めてスーツを買ったときだったろうか、ポケットフラップは、初めから内側に入れておくのが正しいのだと、誰かに教わった。そのために、あのような面倒な作りなのだというのである。

それを聞いて私は、内側に隠しておくためのものに、わざわざ余計な工程を費やして値段を高くしているとは、紳士服というのは何とあほらしいものかと思った。江戸時代の羽織の裏地じゃあるまいし。

まず、あのラペル (折り返した襟) からして妙だ。これは、昔の軍人が詰め襟を楽に着こなすために折り返したのが始まりで、あの会社のバッジなんかが付けられる穴は、第一ボタンホールの名残なのだという。

コートを着ないで出た秋の夜など、急に強まった木枯らしに向かって帰り道を辿りながら、このラペルの折り返しを戻してボタンで留めることができたら、首廻りと胸元が覆われて、凍えるような風を少しは防げるのにと思ったことはないだろうか。

本来できていたこうした機能を切り捨てて、デザイン優先に走ってしまったのが、テーラード・ジャケットの今日の姿なのである。

ラペルの穴は、「フラワーホール」 などと称され、花を挿すためのものであって、決して会社のバッジを付けるためのものではないなどと、偉そうなことを言うファッション評論家もいる。しかし、それだってどうせ 「こじつけ」 だ。元々はボタン穴だったんだから、

袖口のボタンにしても、今ではほとんどが 「偽装」 デザインになっていて、実際にあのボタンを外して袖口を広げることのできるジャケットなんて、滅多に見当たらない。

メンズ・ファッションは、女のファッションに比べると機能的だといわれるが、よく見れば、テーラード・スーツ、とくにジャケットというのは、ほとんど無駄なデザインばかりで成り立っている。

ところで、ポケット・フラップを内に入れるか外に出すかは、「どっちでもいい」 が正解だそうだ。ただ、出すなら出す、入れるなら入れるで、両方を揃えさえすればいい。(参照 : 「のんびりとまったりと」  4月 14日付のリンクより)

なるほどね。改めてクローゼットの中の私のジャケットを確認したら、ほとんど右側だけが内に入っていた。右側のポケットの中身を入れたり出したりすることが多いからだろう。ああ、我ながら無神経なことである。

そもそも、サイドポケットは物を入れるためのものではないというのが定説なのだが、男のジャケットは女のハンドバッグ替わりなのだから、物を入れるなといっても、土台無理な話である。

試しに、安物の貸衣装のタキシードみたいに、サイドポケットを見せかけだけにして、物を入れられないようにしたジャケットを売り出してみるがいい。誰も買わないから。

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2006/02/03

「テトロン」 という名称のベタな由来

今日はトリビア・ネタ。「テトロン」 という繊維があるのをご存じだろう。これはポリエステル繊維の日本での商標の一つである。

衣料用の合成繊維として最もよく使われているのがポリエステルで、女性のドレスやブラウスなどは、シルクでなければ、あとはほとんどがポリエステルと言ってもいいぐらいだ。

ポリエステルを最初に工業生産したのは米国のデュポン社で、1953年から 「ダクロン」 の商標で展開している。日本では 1958年に、帝人と東レが共同で、ICI 社から技術導入し、「テトロン」 の商標で展開開始した。

察しのいい人なら、ここまで読んだだけで、「なーんだ、そうか!」 と思うだろう。「なんて、ベタなネーミングなんだ」 と。

そう、帝人と東レの合成繊維だから、「テトロン」 なのである。これ以上説明したら、野暮になってしまうので、はい、これでおしまい。

「テトロン」 があまりにもポピュラーになったので、日本の繊維業界では、ポリエステルの別名として 「テトロン」 を使うようになってしまった。ステープラーのことを 「ホッチキス」 というようなものである。

だから、日本の繊維業界では、「TC」 と言ったら、トラベラーズチェックではなく、ポリエステル/コットンの混紡を指す。「TC 65/35」 などと言ったら、ポリエステル 65%/コットン 35% の混紡素材である。

ただ、最近は 「テトロン」という名称は手垢が付きすぎてダサダサのイメージになってしまったため、当の帝人、東レでも、この商標を表に出したマーケティングはしたがらなくなってしまった。

米語では (イギリスではどう言うか知らないので、あえて米語という) 「ナイロン」 を複数形にして "nylons" というと、女性のストッキングのことである。パンストは、pantyhose という。これは、かなり英語に強い女性でも、案外知らなかったりする。

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2006/01/12

冬物は売れても、ウォームビズは不透明

読売新聞が 「ウォームビズ、寒波で不発、ネクタイ業界がっかり」 と、ちょっとわかりにくいストーリーを記事にしてくれている。

要するに、消費者は寒さのために厚着はしているものの、環境省が推進する 「暖房を抑えて省エネを」 という運動には結びつかず、冬物商戦も不透明ということらしい。

だから言ったでしょ。私は 11月 1日付の記事で、ウォームビズについて、「こんなもん、成功するだろうか」 と、疑問を呈し、今月 8日の記事でも、ちょっと皮肉を述べている。

環境省には、「この寒さでは暖房を我慢するのは無理」 との声が寄せられているというが、それもおかしな話である。ウォームビズの趣旨は、暖房の温度設定を上げすぎず、20度にしろということだ。それは、暖冬だろうが厳冬だろうが関わりないお話である。

本来関係ない外気温の低さを持ち出して、室内暖房の設定温度を金輪際下げたくないというのは、要するに、ウォームビズはやりたくないと言っているのと同じである。

クールビズは、ネクタイの束縛から解放されるという、とても明確な訴求ポイントがあった。いまさらネクタイに逆戻りするウォームビズなんて、あまりそそられない。つまり、そういうことだ。

百貨店などの冬物商戦も、昨年同期よりはずっといいが、ウォームビズのプロモーションによるというよりは、単に、寒さと景気回復のおかげである。三越本店の広報も、「売り場で 『クールビズにしたい』 と尋ねてきたお客様は多かったが、『ウォームビズにしたい』 という相談はほとんどない」 と言っているという。

つまり、昨年夏のクールビズのヒットは、省エネの謳い文句を隠れ蓑とか免罪符のように利用した 「ネクタイの呪縛からの逃亡」 にすぎなかったと解釈すれば、概ね納得がいく。男たちの積年の怨念の賜物なのだ。

その証拠に、ウォームビズで起死回生を狙ったネクタイ業界は、「結局、ネクタイの売上高にはほとんど影響なかった」 と明かしているというではないか。

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2006/01/04

男のファッションと 「私の中の乙女」

「煩悩即道場」 の ululun さんが、「男がファッションの事を (あまり) 考えたくない理由」 というエントリーを書いておられる。(参照

彼はその中で 「メンズファッションを否定する男性の中身は乙女である」 という大胆な推論を述べておられるのだが、これは、かなりの慧眼ではないかと思うのだ。

この、かなり直観的な、しかもメタファー要素たっぷりのレトリックに何事かと思う方も、彼の "所謂マニュアル本に書かれた 「こうすれば、こうなる」 を試しても自分の中の乙女が満足出来ないからと言って諦めてはいないだろうか" という言辞を吟味すれば、感じるところがあるかもしれない。

かくいう私も、最近妻から 「もう少し、着るものに気を遣ってもいいんじゃない」 と意見される日々である。「昔は、もう少しちゃんとした格好してたじゃないの」

そう。今や、ファッションに気を遣わないオジサンの典型 (?) と化した私も、昔はそれなりに、ファッション人間の端くれだったのだ。なにしろ、繊維関係の業界紙の記者として、アパレル関係を担当していたのだから、少なくとも知識だけは人後に落ちない。

1980年代前半からのほぼ 10年は、毎年の東京コレクションを最前列のプレス席で取材して、レポートを書いていたぐらいのものである。凄いだろ! カタカナのファッション用語なんて、その辺の今どきの女の子よりずっと詳しいのだ。

それに、コレクション会場に出入りしても、それなりに恥ずかしくないような格好はしていたのだ。今とはエライ違いだ。

年間にデザイナー・コレクションを何十本も取材していた頃は、見たばかりのショーを、頭の中でさながらビデオのごとく再生しながら、レポート記事を書けた。その脳内ビデオは、2日後ぐらいにはフェイドアウトして、要所要所しか残らないのだが、それでも、我ながら大したものだった。

その私が、妻 (彼女も元はファッション・デザイナーの端くれである) にもっとファッションに気を遣えと苦言を呈されるまでに零落してしまったのは、ululun さんのいうところの 「自分の中の乙女」 によるところが大きいのではないかと、忽然と気付いたのだ。

私はある意味、ファッションにはお腹一杯になってしまったのである。それに、ファッション業界でそれなりに 「我こそはファッション人間である」 みたいなことを言う男のほとんどが、実はチンケなオッサンにしか見えないことに、「私の中の乙女」 は絶望してしまっているのである。

「ファッションに気を遣いまくっているチンケなオッサン」 より、「ファッションに気を遣わないように見えるいっぱしのオッサン」 でいる方が、「私の中の乙女」 は安心していられるのである。これは、形を変えたナルシシズムかもしれないのだが。

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2005/11/01

ウォームビズの成否を占う

もう 11月。古い言い方では 「霜月」 で、いかにも寒そうだが、旧暦でいえばまだ 9月 (長月) 30日で、明日からようやく 10月 (神無月) になる。急に冷え込んできた気がするが、本格的な寒さは、まだまだ先だ。

今日は 11月 7日の立冬を前に、「ウォームビズ」 の成否を占ってみよう。

この夏、「クールビズ」 はヒットして、アパレル業界でも多少は潤ったようだが、これ、本来の 「省エネ」 を実現するためというよりは、別の要素が大きい気がする。それは、「クールビズ」 を大義名分に、男たちがネクタイの束縛から解放されたということだ。

それで、今度は 「ウォームビズ」 である。こんなもん、成功するだろうか。なにしろ、ネクタイ着用に逆戻りなのである。積極的な開放感がないではないか。いっそ、冬でもネクタイしなくてもいい提案にしてくれ。

何しろ、近頃の都会の冬は、それほど寒くない。それどころか、場合によっては 「暑い」 のである。朝夕の通勤ラッシュに乗り合わせてみるがいい。ただでさえ人いきれでむんむんしているのに、座席の下からは暖房の熱気がこれでもかというように迫ってくる。

窓ガラスは外気との温度差で曇り、満員の乗客は額と鼻の頭に玉の汗をかきながらふうふう言っているのが、都会の朝夕の通勤風景である。電車の中は、夏が寒いほどで、冬になると、逆に暑苦しくてたまらなくなるのだ。

こんな時に、「ウォームビズ」 なんかで、暖かい下着にウールのベストを着て、その上にコートなんか重ねてみるがいい。会社に着くまでに大汗かいて消耗してしまう。ただでさえ、オジさんたちは暑がりの汗っかきなのだ。

もしかして需要があるとすれば、レディスの 「ウォームビズ」 である。冬でも厚ぼったくならないために、保温性のある機能性肌着かなんかは売れるかもしれない。さらに夏のオフィスの過剰冷房対策に、年間通して需要があったりするかもしれないではないか。

「ウォームビズ」 が大ヒットするとしたら、石油価格という要因が考えられる。石油高騰で暖房コストが大幅に上がったりしたら、どこもかしこも暖房設定温度を下げる。そうなったら、オジさんもネーチャンも関わりなく、皆 「ウォームビズ」 に走るだろう。

ただ、これって、実は本末転倒である。本来は CO2 削減のために 「ウォームビズ」 を促進するはずだったのだが、結果的には、背に腹は代えられないということで、暖かい服を着ざるを得ないということになるかもしれないのだ。

でもまあ、それならそれで OK と言っておこう。通勤電車でサウナ状態を我慢しなくて済む方がありがたい。

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2005/08/01

街の洋品店は、本当はよく潰れてる

私は見たことがないのだが、「世界一受けたい授業」 というテレビ番組があるらしく、その番組で、今年の 5月頃 『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』 の著者・山田真哉氏が、講師として登場したらしい。

その中で彼は、「街の洋品店はなぜ潰れないのか?」 という質問にも答えたという。

いつ見ても誰一人として客の入っていないような街の洋品店が潰れないのはなぜかという質問に、彼は、「彼らは地元の金持ち夫人を相手にしたダイレクトセールスで生計を立てているのです。つまりは外商ですね」 というような答え方をしていたらしい。(詳細は、こちらのブログ

つまり、彼らは街のお金持ちマダムを固定客としてがっちりと抱えていて、いわば 「ソフトな押しつけ販売」 をすることで商売を維持しているのである。そういえば、私の母なんかも、たいしてお金持ちというわけでもないのに、お友達のブティックのおばさんが持ってくる洋服を、言われるままに毎シーズン買っていた。

その代わり、そのブティックのおばさんも、うちの実家の商売物をしょっちゅう買っていたので、狭いサークル内でお金が行ったり来たりしているだけである。「そんなことなら、毎月の売った買ったの差額だけ、月末にどちらかが請求すればいいんじゃないの?」 と言ったことがある。多分、1万円以内の請求額で済むだろう。

しかし、すべての洋品店がそうして商売を維持しているわけではない。

これは、kumi, the Partygirl のブログのコメントにも書いたのだが、自分のブログでもきっちりと書かせて頂こう。

街の洋品店は、実はよく潰れる。本当によく潰れる。この方面に特化した資料は経済産業省にもないので、だれも正確にはわからないが、実感としては多分、毎年、全体の 2割以上の店が潰れている。私は以前、アパレル関係の団体に勤務していたので、その辺は詳しいのだ。

昭和 40年代のアパレル発展期に開店した街の洋品店のオーナーの多くは、既に 60歳を越え、70歳に近づいた。このあたりの店は今、バタバタと店を閉めている。ただでさえ物が売れない時代なのだから。息子や娘が後を継ぐというのは稀だ。

ところが、世の中には、頭は悪いけど、お金と暇だけは余ってるというオバサンがいくらでもいて、「あたくしも、ブティック経営なんか、してみたいわぁ」 というおばかな夢を持っていたりする。

アパレル団体に勤務してた時、「あたくし、子どもの手も離れたので、昔からの夢の、ブティックを開きたいんですけど、さしあたり、商品はどこから仕入れたらよろしいんですの?」 なんて、ノー天気な問合せ電話が、しょっちゅうあった。

普通の感覚なら、「どこから仕入れたらいいかも知らずに、よく商売始める気になるなぁ」 と思うところだが、何しろ、「ファッション」 のお話である。そんな生臭いことより、夢の方がずっと大切ということのようだ。

「あたくし、世の中の流行よりも、自分のセンスで、本当にいいと思ったお洋服だけを取りそろえて、自分の好きな人たちに売りたいと思ってるんですの」 なんてことを、いともあっさりと言う。「武士の商法」 も真っ青なのが、「ファッション・オバサンの商法」 だ。

こうした金持ちのオバサンの好きそうな一流ブランドは、昨日や今日オープンしたばかりの店になんか、絶対に品物を卸さない。だから、本当に気に入った商品を仕入れるには、自分の足で探し廻らなければならない。電話一本で済まそうなんて、了見違いも甚だしい。

こちらとしては、「失っても諦めのつくお金がどっさりあるのでなければ、止めときなさい」 というような意味の返事を、失礼のないように、遠回しに言うのだが、ほぼ 100%のケースで、こちらの真意は通じなかった。

というわけで、この市場の実体は、頭の悪い小金持ちのおばさんが次から次に参入して、次から次に挫折し、撤退していくのである。撤退しないまでも、赤字をこきながら見栄と体裁で続けていたりするのである。

このようにして、亭主、あるいはどこやらの 「悪いパパ」 の稼いだ尋常ならざる額の金の一部は、世間に還元されるのである。世間に還元されるならまだいい。多くの場合は、仕入れ先のアパレル・メーカーへの支払いが滞ってしまうので、メーカーは大迷惑なのである。

店は潰れても、別のオーナーが引き継いだりするので、潰れたとは気付かれない場合も多い。よく見ると、店の名前が変わっていたりする。

この分野では、「おしゃれの店 絵留座」 とか 「モード 真美衣奈」 とか、「族」上がりかと思うような名前の多いのも大きな特徴だ。(これらの名前は、思いつきで挙げただけで、同じ名前の店があったとしても、他意はないので、そのあたり、夜露死苦)

いずれにしても、全体としては街の洋品店は急激に減少しつつあるのである。これで、こちらのブログ の管理人さんの疑問にも答えられたと思う。

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2005/07/09

おへそとパンツ

先日、電車の座席でちょっと居眠りをして、ふと目を覚ましたら、目の前におへそがあって、何事かとまじまじ見つめてしまった。

実は、私の前に立っていた女の子が、網棚に荷物を載せているところだったのだが、最近の女の子は、へそを出したりパンツを覗かせるのに、全然平気である。

とにかく、シャツが短めでパンツがローライズだから、伸び上がればおへそが見えるし、しゃがみ込めば後ろからパンツ (こっちは下着の方) が見える。それでも、まったく頓着していない。

私は若い子がおへそを出したからといって、妙に道徳ぶって 「はしたない」 などと眉をひそめたり、逆にもろにオヤジ丸出しで喜んだりということはないのである。

何しろ、我が家には妻の他に年頃の娘が 3人もいるので、若い子のへそだの尻だのは見慣れてしまっていて、特段の思い入れはなくなってしまった。

ところで、最近は 「付け乳首」 というのがあるらしい。英語では "nipple enhancers" という。直訳すれば、ぽっちん増大器というところか。ちなみに、複数形であることに注意である。

要するに、ノーブラでいるときに、ぽっちんが強調されるというやつだ。最近の子たちは、へそを直接出してみせるのを気にしないのだから、間接的なぽっちんぐらいは全然平気なのかと思ったが、実は日本ではほとんど売れないのだという。

欧米の街を歩くと、ぽっちんなんか珍しくも何ともないが、日本の心理ではかなり抵抗があるらしい。わからないものである。だったら、しゃがみ込んだときにパンツが見えることこそ、何とかしてもらいたいもんである。

おへそは見慣れたが、パンツの方は見せられる方が嫌になるのである。

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2005/07/05

キャットウォークとキティウォーク

「キティちゃん」 は、固有名詞になってしまった観があるが、本当は "kitty" というのは、英語の幼児語で 「子猫ちゃん」 という意味の一般名詞だというのは、ご存じの通りである。

猫好きの米国人が子猫を 「キーリ、キリキリ」 なんて呼んでいたりするが、あれは、"kitty, kitty, kitty" と言っているわけだ。

毎日新聞に渡辺明日香さんが連載しているファッション・コラムは、タイトルを 「東京 Kitty Walk」 という。「キティウオーク」 とは洒落たタイトルだ。

というのは、ファッション・ショーで、ステージの真ん中から突き出した花道のような誂えを、英語では 「キャットウォーク」 という。「猫歩き」 である。このキャットウォークを、モデルがしゃなりしゃなりと、あるいは、スタスタと、またはぶらぶらと歩くわけだ。

ごくおおざっぱに言って、しゃなりしゃなりと歩くのは、オートクチュール系かコンサバ・ファッション系、スタスタと歩くのは、コンテンポラリー・ファッション系、ぶらぶらと歩くのは、ストリート系だ。

東京のファッションというのは、欧米系に比べると、ものすごくヤング系であることに特色がある。ヨーロッパのファッションというのはバアサンのためのもので、アメリカのそれがオバサンのためのものであるとすれば、東京のファッションは、「女の子」 のためのものである。

それだけに、欧米のファッションが歩く道をキャットウォークとすれば、東京のそれは、確かに 「キティウォーク」 なのだろう。

ファッション関係の仕事をしている米国人の知り合いに、なぜ "catwalk" なんて名前がついたのかと聞いたことがあるが、彼女も "No idea" (わからない) と言っていた。なんでも、ファッションショーに限らず、高い所にある細い通路は大抵 "catwalk" というらしい。猫が塀の上を歩くのを連想させるからかもしれない。

試しにググってみたら、キャットウォークというのは、ファッションよりも建設関係で一般的な言葉のようだ。ダムの前面に設置されたものなど、高いところにある狭い通路のことをキャットウォークというらしい。

ちなみに、英語で "kittywalk" をググると、文字通り、ペット用の網で覆われた散歩道のような道具が出てくる (参照)。

東京の女の子たちは、あんな中を歩かないだろうが。

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2005/06/14

クールビズでトレーニング

昨日、某アパレル関連団体の懇親会に平沼赳夫衆院議員が出席、祝辞を述べた。司会の女性は 「テレビで素敵なクールビズ姿を拝見しました」 と、にこやかに紹介。

しかし、演壇に立った平沼先生、悠然と 「自慢じゃないが、その格好は一度もしたことがありません」  これは大受けだった。

とまあ、当のアパレル業界でもクールビズは妙な形で話題になっている。見た目を意識する業界だけに、話題の行き着く先は 「着こなし」 だ。

共通した認識は、「ネクタイをして初めて完成するスーツスタイルから、ネクタイを取っただけでは、間が抜けて見えて当たり前だろう」 ということ。ネクタイを外せばそれで済むというわけではないのだが、案外このことに気づいていないオジサンが多い。

それで、「着替えの最中」 だの 「草むしりのおっさん」 だの 「刑務所から出てきたばかり」 だのと揶揄されることになる。私は 6日前の当欄で、それでも旧態依然よりはマシといったことを書いた。

初めは草むしりのおっさんでも、着ているうちに板に付く。板に付かない人は、スーツにネクタイをしていても元々カッコ悪い。

というわけで、アパレル業界にとっては確かにビジネスチャンスではある。ネクタイとスーツは売れなくなるかもしれないが、一年中売れないわけじゃあるまいし。夏の服を別に売ると考えればいい。

この関連で問題になっているのは、ネクタイ業界の反発である。確かに、ネクタイという商品は究極まで特殊化したものなので、新商品開発などと言っても容易なことではない。

とはいえ、ネクタイの市場は縮小に向かっていることは確かなのだ。クールビズなどやらなくても、今のままでは徐々に売り上げは落ちていく宿命にあるのだから、やはり新商品開発はしなくてはならない。

例えば、いくらクールビズでノーネクタイを決めていても、急にエライ人と会うときなどは、やはりネクタイをしなければならないことがある。社内にいるときはロッカーから引っ張り出してくればいいが、外出先ではままならない。

そうしたケースを想定して、カバンに丸めて入れておいてもシワにならないポリエステルのネクタイなどは、需要が出るかもしれない。あるいは、襟に隠れる部分は細いメッシュになっているネクタイとか。

そうした商品は、以前にもあるにはあったが、どうも安物かキワモノかのどちらかで、デザイン的にもちょっと買う気になれない代物だった。単なるアイデア商品ではなく、まともな取り組みをしなければ、売れるはずがない。

クールビズは、単なる涼しい格好ではない。いろいろな意味でトレーニングになる。

ところで、蛇足だが、「裸足で散歩」 という映画を思い出した。ロバート・レッドフォードとジェーン・フォンダが夫婦役で出ている。

ロバート・レッドフォードの夫は、律儀な堅物。ジェーン・フォンダの妻は自由奔放な性格で、それが気に入らない。

ある日、二人は言い争いをする。台詞は正確には覚えていないが、大体以下のようなものだったと思う。

「あなたって、本当に面白みがない男ね!」
「きちんとしていて、何がいけないって言うんだ!?」
「それがイヤなのよ。あなたって、寝るときだってネクタイをするんでしょ!」
「ああ! 正式に寝るときにはそうするね!!」

いいなあ、こういう台詞廻し。

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2005/06/07

クールビズ その2

昨日に引き続いて、クールビズ・ネタ。日本の夏にスーツとネクタイは合わないし、省エネの観点からもナンセンスと言われ続けて久しいが、なかなか改まらない。

改めれば効果は明らかなのに、遅々として進まないこのもどかしさ。何かに似ていると思っていたが、ふと気が付いた。

私は以前、某団体事務局に勤務していたことがあるが、当時はインターネットが普及し始めて間もない頃で、団体加盟企業の約 20%ぐらいしか E-メール対応ができなかった。

いくらインターネットによるメールが効率的にも、コスト的にも、事後処理的にも、どの視点から見ても、既存の手法と比較して格段のメリットがあると説明しても、当時はなぜか拒否反応が強かったのである。だから、同報送信は FAX に頼るほかなかった。

「こっちばかりがメール対応できても、こればかりは、相手あってのことだからねぇ」 と深いため息をついていたのだが、当時の感慨が、夏場のノーネクタイと同じ感慨であると思い至ったのである。

健康、省エネ、省コスト、副次的経済効果等々、どの視点から見てもメリットの方がずっと大きいのが明らかなのに、遅々として導入が進まないのは、「相手あってのこと」 だからである。

「相手あってのこと」 というのは、どうしても保守的で頑固な方が強いのだ。先進的であろうとするものが、ぺこぺこ頭を下げて言い訳しながら進まなければならない。

これから面会する相手が、こちらが 「ネクタイをしていない」 ということだけで 「失礼だ」  などと言って腹を立てるような石頭でないという保証はない。それなら、多少の暑苦しさは我慢しても、「保険の意味」 でネクタイをしている方が無難ということになる。

だから、クールビズを促進するためには、「環境保全」 を錦の御旗にしてでも、意識改革から入らなければならない。

ノーネクタイ姿が、「だらしがない」 とか 「着替えの途中みたい」 とか 「草むしりのオッサン」 とか 「刑務所から出てきたばかりの姿」 とか、そりゃあ、いろいろ言いたくなるのはよくわかる。しかし、そんなことばかり言っていては、新しい試みは進展しない。大丈夫、そのうち板についてくるものだ。

考えてみると、夏場でもしっかりネクタイを締めてスーツを着ているオッサンというのは、別に、だからといってどうというわけじゃないが、それに、多分偏見に過ぎないのだろうが、いかにもパソコンをいじれなそうな印象ではある。

だいたい、夏場にパソコンの前に座っていると、放出される熱で、ネクタイなんて締めていられないんだがなあ。

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2005/06/06

クールビズの背景

「クール・ビズ」 というのが、官公庁主導で進んでいる。今度こそ、あの暑苦しいスーツの呪縛から脱却できるだろうか。

戦後の日本人は、神を信じないで、スーツとネクタイを信じてきた。まさに 「信仰」 にまで高められたが故に、それを捨てるのに、こんなにまで抵抗があるのである。

しかしよく見てみると、日本のビジネス社会においても、スーツとネクタイがそんなにまで必要とされているわけではない。それらが 「必要条件」 である業種と、そんなものとはとっくの昔におさらばしてしまった業種とは、はっきりと分かれている。

スーツが必要な業種というのは、ある意味、社内での出世が大好きな業種である。銀行、商社、百貨店、その他諸々・・・。仕事そのものよりも、地位が上がることに喜びを見出すような業種の人は、とても仕立てのいいスーツを着るのが好きである。基本的には、顧客よりも自分たちの方がエラいと思っている人たちである。

一方、出世するよりも、現場で専門的な腕前を発揮することの方が楽しいといった業種、マスコミ、クリエーション、研究等々の人々、いわゆる 「プロフェッショナル」 は、昔からネクタイなんかしない人が多い。「エライ、エラくない」 より、「デキる、デキない」 を価値基準とする人たちといえばいえるかな。

いわば、「上昇志向のジェネラリスト」 と、「掘り下げ志向のプロフェッショナル」 の違いか。そして、スーツとネクタイは、ジェネラリストのシンボルである。

ある意味、日本のビジネス社会は 「プロフェッショナル」 を作らないような環境を作ってきた。エンジニアとして採用した人材をこともあろうに事務職にまわしたり、クリエーション現場と営業現場を行き来させたりといった無茶を、平気でしてきた。

一度入社してしまうと、どんな部署にまわされるかわかったものじゃない。これは日本の労働組合が企業単位であって、ユニオン制でないこととも関係している。そんなわけで、「社会に出て何をしたいのか」 より、「とりあえず、大学さえ出ておけば」 といった風潮にもつながったのだが。

そんなこんなで、日本のサラリーマンは、「つぶしの利く人」 となるために、スーツとネクタイのヨロイをまとわなければならなかったのである。日本のビジネス社会の信仰とは、会社に都合のいい 「つぶしの利く人材」 でいることだったといっていい。

しかし、最近はやや様子が違ってきた。信仰は迷信と化し始めている。ようやく、「デキる、デキない」 の世の中に近づきつつあるのかもしれない。

私だって、サラリーマン時代の最後の10年近くは、自主的にノーネクタイで過ごしていたのだが、それに対して誰も文句は言わなかった。「つぶし」 なんか利かなくたって構わないと開き直ってしまえば、なんてことはないのである。

「エライ、エラくない」 の基準から離れてしまうと、スーツとネクタイなんて、単純に邪魔くさいだけなのだ。

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2005/03/29

欲しい服が見つからない

気に入っていた服がヨレヨレになるか擦り切れるかして、着られなくなってしまった時、それとまったく同じものが欲しいと思ったことがないだろうか。

あるいは、まったく同じものではないにしても、よく似た色とデザインの服を探して、足を棒にしたことはないだろうか。

実際には、かなりベーシックなデザインのものでも、まったく同じ洋服というのはなかなか探しにくい。それは、毎シーズン新しいデザインの服を作って売るという商売がある以上、同じものというのは出てこないのである。バーバリーのトレンチコートといった 「変わらないこと」 に価値があるような商品でも、ディテールは結構変化している。

私は、ウィンドウズの新バージョンが出る度に 「要りもしない余計なお世話機能」 が増えてしまうのにうんざりするのと同じ程度には、毎シーズン洋服のデザインが変わってしまうのに、内心うんざりしている。

よく 「欲しいデザインの服がない」 とか 「気に入る服が見つからない」 とかいうのを耳にする。悲しいことである。世の中にこれほどの服があふれかえり、「多品種小ロット」 の時代などと言われながら、実は、皆同じようなトレンドを追いかけているだけなので、大同小異のものしかないのである。

昨年の夏には店頭にあったあの色が、今年の夏の店頭からは姿を消すのである。「あの色」 が欲しいのであって、今年の店頭にあふれかえっている色など、どれも欲しくはないということが、とても多いのである。

私の服の好みなんていうのは、25歳の頃からちっとも変わっていない。要するに 「身に付けて気恥ずかしくない服」 が着たいというだけなのだが、それがなかなか見つからない。流行のサイクルに沿って、7~8年に一度ぐらいしか市場に登場しないのである。

デザイナーは流行を追う。ところが、消費者の多くは、流行なんて追わないのである。追ってもいない流行を押しつけられるだけである。それを着ないと、人間の価値が下がるかのように思いこまされているだけなのである。本当に身に付けたいものが見つからないから、しかたなく店頭にあるもので妥協するのである。

私はアパレル業界の端っこでメシを食っている身なので、トレンドの変化でビジネスを維持していく業界の構造は、とてもよく理解している。それでもなお、毎年毎年同じものだけを提供し続けるメーカーがあってもいいと思っているのである。

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2005/03/27

毛皮とレザーと人間の業

動物愛護団体の PETA (People for the Ethical Treatment of Animals) が、J. Lo ことジェニファー・ロペスの毛皮好きをやり玉にあげるサイトを立ち上げた。その名も、"JLoDown.com"。

高級毛皮に身を包んだ J.Lo の写真と、むごたらしく毛皮を剥がれる動物の写真を並べて掲載している。

アライグマとおぼしき動物を地面に叩きつけて気絶させ、まだ息のあるうちに皮を剥いでいくという生々しいビデオまでみせて、毛皮を着ることがいかに動物の虐待で成立する行為であるかをアピールしている。

毛皮に関しては、私もあまり好きではないので、自分ではあまり着ようという気になれないが、他人にまでそれを着るなと強要する気もない。しかし、満員電車に揺られて通勤するような身分で、毛足の長い高級毛皮を着るのは遠慮した方がいいと思う。

いや、別に 「貧乏人は毛皮を着るな」 と言うわけではない。単に、高級毛皮を着て満員電車に乗り込まれると、襟足の毛が隣に立つ乗客のほほをなでて、くすぐったくてたまらないと言いたいのである。毛皮を着るような人は、ぜひ、運転手付きの車を使っていただきたいものだ。

欧米でも毛皮に反対する人はかなり多く、一時は、高級毛皮にスプレーでペンキを吹き付けるのが流行ったことがある。そんなことをしたら、使い物にならなくなった毛皮の代替品が買われるので、毛皮の需要がますます増えることになると思うのだが。

一方、レザーに関しては、毛皮ほどの反対運動は起きていない。レザー製品で有名なスペインの業界団体首脳に聞いたところ、「毛皮はわざわざ野生動物を殺すのでよくないかもしれないが、レザーは、食肉用に飼育された動物のものなので、動物虐待というわけではない」 と釈明していた。

食いもしない動物をわざわざ殺すのは虐待だが、肉として食うために人間が育てて殺した動物の副産物としての皮を使うのは、虐待ではないという論理である。

もっと端的に言えば、食うために育てた動物なら、殺しても虐待ではないということだ。昔から肉食を常としてきた民族は、このくらい割り切らなければ、アイデンティティがおかしくなってしまうのかもしれない。

ところがこの論理では、クジラは食うために育てたわけではないので、殺して食うのは残酷だということになる。だったら、クジラを養殖してしまえば (もし可能ならば) いいのか。

このあたりは、どう屁理屈をこねたところで、他の生物の命を奪うということに変わりはない。人間の業である。牛を食いながらクジラを食うなというのは、業に無自覚な者の戯言である。

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2004/10/15

セレブ

流行りの言葉を軽い気持ちで使い捨てにする広告・ファッション業界だが、最近のキーワードは、どうも 「セレブ」 のようだ。

バブル勃興期には 「クラッシー」 というのが流行り、その頃創刊された女性ファッション誌もまだ残っているが、「セレブ」 はそれ以上の流行り方である。

そのファッション誌の 「クラッシー」 が創刊された時、死んだ景山民雄がエッセーの中で 「『階級的な』 などという名前の雑誌なんて」 と噛みついていたのを覚えているが、"classy" とは単に 「高級な」 とか 「上品な」 という意味合いで口語的に使われることが多いようだ。

"Classy" は、イメージとしては、最低でも田園調布とか芦屋に住んでいるような階級である。もっと言えば京都あたりの旧家とか、東京でいえば目白や麹町あたりにお屋敷を構えたりしているような、少なくとも三代続いたお金持ちといった感がある。

今回の 「セレブ」 は、"celebrity" の短縮形で、研究社新英和中辞典では 「名声, 高名.、 (マスコミなどをにぎわす)名士, 有名人.」 とされている。「儀式などを挙行する」 とか 「賞賛する」 とかいう意味の "celebrate" と関連した言葉である。

ただ、"celebrity" というと、上院議員やミリオネアの家族とかいったイメージだが、"celeb" と縮まると、一発当ててマスコミに頻繁に登場しさえすれば、それでもう立派に資格保有者という感じになる。

ちなみに、"celeb" の最も古典的な使われ方は、ゴシップ誌の終わりの方にある、各種のパーティに出席した有名人のスナップを紹介したりするページで、「今週のセレブ」 などと銘打たれたりしている。誰が誰と同伴で現れたとか、誰のファッションセンスが良かったとか悪かったとか、案外下世話なトピックだ。

ちょっと金のかかったファッションでいろいろなパーティに出席し、カメラマンにポーズするようになりさえすれば、 「セレブ」 なのである。日本では、こないだまでヤンキーしてたような娘でも、ちょっと当てればセレブである。仲間内でちやほやされるだけでも、「プチ・セレブ」 と呼ばれるに十分である。

「クラッシー」 の流行った後にはとんでもないバブルが来たが、「セレブ」 ぐらいなら、「プチ・バブル」 で済むという感じなのである。

 

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2004/09/04

ビューグルボーイ

引き出しの奥から大きなバンダナが出てきた。 "BUGLE BOY U.S.A. INC," のロゴマークが染め抜いてある。

米国のジーンズ・メーカーである 「ビューグルボーイ」 が、かつてのバブル前に日本進出を狙った時、記者会見で配った記念品だ。これで思い出したことがある。

「インポート・ジーンズ」 がブームになっていた時期ということもあり、その記者会見は、米国ビューグルボーイ本社の社長まで列席して、かなり力の入ったものだった。当時業界紙の記者をしていた私は、その記者会見に出席していた。

会場には、その頃まだ珍しかった大型プロジェクターが設置され、米国で放映されている同社のテレビCM がエンドレスで流れていた。それはこんな CM だった。

見渡す限りの荒涼たる西部の砂漠を走るハイウェイの道端で、車が通るのを待つヒッチハイクのイケメン青年。

そこに、1台の見るからに高級そうなスポーツカーが通りかかり、ちょっと行き過ぎてから、乱暴に急ブレーキをかけるとバックで戻ってくる。パワーウィンドウがスルスルと開くと、運転席にいるのは、絶世のモデル顔の美女である。

女はセクシーな声で訊ねる。

"Are those Bugle boy Jeans you are wearing?" (あなたがはいてるそれ、ビューグルボーイ・ジーンズ?)

「ラッキー!」 とばかりに、青年は嬉しそうに答える。

"Yes, they are." (その通りですよ)

女が 「やっぱりね」 と納得した顔をして、"Thank you." と言うと、パワーウィンドウがスルスルと上がり、スポーツカーはそのまま悠然と走り去る。呆気にとられたようにそれを見送る青年。

なかなか洒落て印象的な CM だった。米国でもかなり話題になったらしい。

記者会見は進み、最後に質疑応答の時間になった。米国流の記者会見では、最後に気の利いたジョーク気味の質問をして、それに気の利いた回答をするのが習わしである。私は、ビューグルボーイの社長に対する最後の質問を用意していた。

"Are those Bugle boy trousers you are wearing?" (あなたがはいてるそれ、ビューグルボーイのズボンですか?)

こう聞こうとして、手ぐすね引いて待っていたのだが、司会者が 「それでは時間ですので、このへんで記者会見を終わらせて頂きます」 と、唐突に終了させてしまったのである。

おかげで、私の用意した質問は発せられずに終わり、なんだか尻切れトンボになってしまった。今でも心残りである。

ちなみに、その記者会見で同社の社長が身に付けていたのは、ラルフ・ローレンか何かの、いかにも高級そうなスーツだった。多分、日本のビジネス・シーンではスーツを着用しないとイメージが落ちると入れ知恵をする者がいたのだろう。

今なら、カジュアルウェア・メーカーの人間が高級スーツで記者会見に現れるなんてことは、コーポレート・アイデンティティの観点からして、あまり考えられないが、当時はまだそんな時代だったのである。

【平成 18年 11月 21日 追記】

ベーグルボーイ・コンドームの CM というパロディが見つかった。一見に値する。

【平成 18年 11月 21日 追記】

ビューグルボーイ・ジーンズの CM がやっと見つかった。ぜひご覧いただきたい。

 


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