カテゴリー「学問・資格」の26件の記事

2007/12/09

「学力低下」 と 「ゆとり教育」

OECD が国際的に実施した学習到達度調査 (PISA) で、日本の高校生の 「学力」 低下が浮き彫りになったという。とくに、読解力、応用力の低下が問題だという (参照)。

このニュースが流れてから、またぞろ 「ゆとり教育」 が悪者にされているが、ちょっと気を付けて考える必要があると思うのだ。

学校の週休二日制がいけないというなら、フィンランドがあんなにまで成績がいいという事実を、どう考えればいいのか。フィンランドの学校はずっと前から週休二日制で、授業の進め方も、日本の 「ゆとり教育」 に近いシステムだという (参照)。

今回の学力低下の指摘もあり、「ゆとり教育」  は見直される方向に進んでいるが、今後 「すし詰め教育」 を復活させたとしても、PISA  での日本の高校生の成績が劇的に上がるとは、私には思えない。

まず、基本的なところから考えてみよう。PISA というのは、"Programme for International Student Assessment" の略である (なぜか英国式スペルだ)。公式な日本語訳というのは確定していないようで、ニュースでも、なんとなく 「国際的な学習到達度調査」 なんて言われている。

だが、この訳し方はオブラートかぶせすぎじゃなかろうか。いっそ直訳で、「国際的学生査定活動」 と言えばいい。文字通り、学生または生徒の資質査定プログラムじゃないか。各国の学生、生徒が 「使えるかどうか」 を 「査定」 しているのである。

で、この 「使えるかどうか」 を見定める基準というのが、日本国内の受験勉強の基準とは、ちょっと違うようなのだ。日本の高校生が日頃取り組んでいるのは、国内の大学受験でいい成績をとるためのトレーニングであって、PISA 向けのトレーニングとはかなり違う。

講道館柔道の猛稽古を積んだ日本選手が、国際柔道の大会では外国選手に負けてしまうようなものである。

試しに、○×式を多用し、単純計算や丸暗記がものを言う試験ならば、日本の高校生は、多分今でもトップクラスだと思う。(もしかしたら、韓国の方が上かも知れないけれど)

これまでは、日本の高校生も 「詰め込み教育」 による基礎学力の高さで、応用問題にもなんとか対応できていた。ところが、昨今の 「ゆとり教育」 で、教育そのもののコンセプトが代わり映えしないまま、授業時間数だけが削減されてしまったのだから、そりゃ、総合的な学力が落ちるのは当然だ。

講道館柔道だって必死の猛稽古によって、まるで別種目みたいな国際柔道の大会でも上位を取れているのである。講道館柔道のシステムそのままで稽古量を減らしたら、日本の柔道は国際大会でメダルを取れないだろう。そんなようなことを、日本の教育はやってしまったのだね。

「ゆとり教育」 をやめて進学塾みたいな詰め込みをやればいいということでは決してない。根本的には、単純計算が得意で歴史の年号なんかをチマチマ暗記しているやつと、読解力、応用力があり、ものごとをきちんと論理的に自分の言葉で説明できるやつと、どっちが 「使えるやつ」 かということである。とくに国際舞台において。

最近、フィンランドの教育システムが注目されている。フィンランドでは、「勉強する」 という言葉の代わりに 「読む」 をよく使うんだそうだ。「テスト前だから読まなくちゃ」 なんてことになるらしい (参照)。

そう言えば、私は 「勉強」 なんてほとんどしなかったけど、手当たり次第に本を読んでいたよなあと思う。

おかげで、田舎の名ばかりの進学校で、高校 3年の 2学期の終わりの成績は、350人中 278番まで下がっていたが、12月と 1月の、正味たった 2ヶ月の受験勉強をしたら、なんなくワセダに入れた。入試の時、問題用紙を見て 「何年も受験勉強ばかりして、こんな簡単な試験に落ちるやつは、気の毒だなあ」 と、本気で思った。(イヤミに聞こえたら、ごめん)

どうやら、よく 読んでいれば、受験勉強用のキャパシティも自然に身に付くようなのだ。受験勉強で応用力がつくかどうかは知らないが。

そういえば、5年半以上前に、これと似たようなことを書いているのを思い出した。(参照: 「ゆとり教育」 論議への疑問

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2007/09/05

ディベートって、役に立つのか?

ディベート甲子園」 と呼ばれるコンクールがあって、正式名称は 「全国中学・高校ディベート選手権」 というらしい。

今年は 8月 4日から 6日まで開催され、中学の部は創価中学、高校の部は創価高校が優勝した。どちらも上位常連校だが、そろって優勝したのは今年初めてのようだ。

創価中学と創価高校がディベートに強いと聞くと、「その卓越したディベート・テクニックを、折伏に活用してるんだろうなあ」 と、つい考えてしまうのは、人情というものである。しかし、ちょっとググってみたら、「創価エリートは現場で折伏なんかしません 涼しい部屋から指令を出すだけです」 なんていうコメントが見つかった (参照)。

ふぅん、なるほどね。本当か嘘かしらないが、エリートは現場になんか出ないというのは、どこの世界でもありがちなことで、ちょっと説得力がある。

そもそも、ディベートが現場での折伏に有効かどうかというのは、大いに疑問がある。論理的には誰がどうみても折伏側の勝ちなのに、折伏される側が理屈もへったくれもなく、「とにかく、俺は絶対に嫌だ!」 と言い張り、暴れまわって逃げてしまえば、結果的には折伏は成功しなかったということになる。

現実社会では、整然とした理屈よりも、メチャクチャの方がずっと強かったりするのだ。(創価学会の理屈が整然としているかどうかというのは、私はかじったことがなくて知らないので、また別の問題としておく)

ディベートは所詮 「ルールに沿ったスポーツ」 なのだ。ボクシングのようなものである。ボクシングの強いものは、実際の喧嘩でも確かに強いだろうが、揉み合ううちに不意の頭突きをくらったり、ドスで刺されたりしても、「反則だ!」 とは主張できない。

実際の議論で、「そんなこと言うなら、貸した金返せ」 とか 「過去の悪事をバラすぞ!」 とか裏で脅かされても、「反則だ!」 と言えないようなものである。そこまで陰険に走らなくても、理屈で勝ち目がないので情に訴えて意見を通してしまうようなことは、世の中にいくらでもある。

それに、ディベートは結局、机の上のシミュレーション・ゲームなのである。実際の世の中がディベートの筋書きのように進むとは限らない。いくらスーパーコンピュータで膨大な計算をしても、気象庁の季節予報は当たらない場合の方が多いというようなものである。

「ディベート力は絶対に必要か」 というテーマでディベートし、「ディベート力は必ずしも必要じゃない」 と主張する側が勝ったりしちゃったら、どうしたらいいんだろう。

結論。ディベート力は、そりゃ、ないよりはあった方がいい。ずっといい。しかし、ディベートに強ければ世の中で主張を通せるというのは、とくにアジア的社会においては完全に幻想だ。

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2007/09/01

日本語検定のコンセプトって?

昨日の当欄で触れた 「日本語検定」 だが、紹介した記事の中に出ていた 2級の問題例があまりにも難しかったので、どんなものなのか、公式サイトに行って調べてみた。

なにしろ、その記事のいうには、「受検者全体の合格率が 32.7%」 という難関なので、興味をもってしまったのである。

ところが、公式サイトに載っている 「1級  社会人上級」 というページに出ている問題は、全然難しくない。中学生でもわかるんじゃないかというレベルだ。こんなんで合格率が  32.7%なんていったら、日本人のほとんどが日本語の不自由な人になってしまう。

多分、このページに出ている問題例は、受験者を増やすためにハードルを低く見せているんじゃあるまいか。だって、件の記事に載っている問題例は、次のような難問である。(以下引用)

【文の( )中に入る言葉として適切なものを一つ選びなさい】

◇今回のミスを(イ)として、早急に部内の体質改善を進める必要がある。

〈(1)奇縁(2)奇貨(3)奇特〉

◇元政治家が語った人物(ロ)は誠に興味深い。

〈(1)月旦(2)日旦(3)年旦〉

◇党内では、首相の(ハ)は必ずしも行われていないようだ。

〈(1)権威(2)威厳(3)威令〉

これ、公式サイトに載っているあまりにもとっつきやすい問題例と比較して、ギャップがありすぎる。あるいは、公式サイトではわざと易しい問題を紹介して受験者に油断させようとしているのかもしれない。合格率を下げて、検定の権威を上げようという魂胆だったりして。

で、記事で紹介された難問だが、自慢じゃないが、私自身は 3つとも正解してしまった。答えは、(2)、(1)、(3) である。「自慢じゃないが」 と断っておいたのは文字通りのことで、決して自信満々で答えたわけじゃないので、後でちゃんと辞書で確認しておいた。

ただ、「奇貨」 だの 「月旦」 だの 「威令」 だのというのは、知らなくても全然恥ずかしくない。多分、99%以上の日本人は、一生使わずに済む言葉だ。さすがに ATOK ではすべて変換できたけれど、「奇貨」 は何度変換キーを叩いたか数え切れない。

なるほど、こんな難問がぞろぞろ出てくるのなら、合格率が 32.7%というのもうなずける。ただ、そうなると、この日本語検定というもののコンセプトがわからなくなる。

日本語検定の公式サイトでは、この検定について、「自分自身の日本語をとらえなおし、日本語を正しく使えるようにするための一つの手立てとなること、それが願いです」 と、極めて漠然と説明してある。

はっきり言って、これではほとんど何も説明していないのと同じである。「実用的日本語を正しく使えるため」 なのか、「日本語の蘊蓄を極めるため」 なのか、さっぱりわからない。

公式サイトに紹介された問題例を見る限りでは完全に前者だが、件の記事で紹介された問題例を見ては、後者としか思われない。もしかしたら、「言語明瞭、意味不明瞭」 を実現するための検定なのだろうか。

というわけで、日本語検定というもののコンセプトを、もう一度しっかり検討してもらいたいと思ってしまったのであった。

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2007/03/27

「ボランティア」 を必修化だって?

学校の授業で、「ボランティア活動」 を必修化する動きが進んでいるそうだ。おいおい、それっておかしいだろう。「ボランティア」 は 「自発的」 という意味なんだから、それを必修にするというのは、少なくとも教育的じゃない。

ただ、「奉仕活動」 とかいうのなら、私はまんざら反対じゃない。

私は肉体労働が案外好きである。学生時代は、学習塾の講師なんてバイトもやったが、ほとんどは肉体労働だった。ちまちました塾の講師とか、カテーキョなんてのより、肉体労働の方がずっと楽しい。

その中でも、清掃関連は、悪いモンじゃなかった。汗を流しているうちに、受け持ち区域がすっかりきれいになるというのは、結構気持ちのいいものである。

それから、農業関連も悪くない。田植えはやったことがないが、稲刈り、雑草刈りなど、都会で育った子には、かなりカタルシス的体験になるんじゃなかろうか。どんどんやってみたらいい。私が高校生ぐらいだったら、結構楽しみにしちゃうんじゃないかと思う。

私は高校時代、授業をさぼりまくっていたが、多分、奉仕活動とかだったら、さぼらずに皆出席しちゃうだろう。だって、楽しそうじゃないか。

ただ、私みたいに、奉仕活動を楽しんじゃうことのできる子ばかりとも限らない。世の中には、人より余計に汗を流したら、一生の損みたいに考えている子もいるから、複雑である。こうした子に、「必修科目だからやれ!」 と強制したら、きっといろいろゴタクを並べて嫌がるに違いない。

奉仕の楽しさを知る前に、理屈をこねるゴネ得を知ってしまうというのは、教育の本意ではなかろう。

そもそも、学校での奉仕活動の必修化は、平成 12年に文部科学省で検討された際に、内閣法制局が 「苦役からの自由」 を定めた憲法 18条に違反する疑いがあると指摘して、ウヤムヤになってしまったという経緯がある。

私はあの時、「おいおい、ちょっとした奉仕活動が、『苦役』 かよ?」 と呆れてしまったことを覚えているが、まあ、確かに 「苦役」 と受け取る層もないわけじゃないんだろうなあ。個人的には、そう受け取るというのは、かなり不幸なことだと思うけど。

それでも、「不幸な子」 をより不幸にしないためにも、やはり少しは慎重に運用しなければならないだろう。そのためにも、「強制」 というニュアンスは避けた方がいい。強制された奉仕活動というのは、少なくとも上品じゃない。てことは、教育的でもない。

それから、極端な汚れ仕事も考え物だろう。私なんか、家畜の糞を使った堆肥作りとか、便所掃除なんて、破れかぶれになれば、結構やけくそ的に楽しいものだということを知っているけれど、今の世の中では、そう感じられる子は少数派だろう。これも不幸なことだが。

「強制」 を避けつつ、それでも楽しんじゃおうという雰囲気が作れればいいんだけれど、これが最も難しいところだ。とにかく、センスのある奉仕活動をプログラミングしてくれるコーディネーターに登場してもらいたい。

それから、こうした奉仕活動を必修化しても、ズルしてまともに働かない子というのも必ず出てくる。こうした子は、「奉仕」 を学ぶべき授業の中で 「要領」 を学んじゃうんだろうなあ。これも長い目で見たら不幸なことだと思うけど。

まあ、とにかく 「必修科目としての奉仕活動」 というのは、運用が難しいということだ。当初の何年かは、試行錯誤が必要だろう。

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2006/10/31

本当に 「生徒は犠牲者」 か?

高校の必修科目履修不足問題で、あちこちで 「生徒は被害者」 という声が上がっているが、「おいおい、ちょっと待て」 と言いたい。

「鬼畜米英、一億火の玉」 でさんざん盛り上がっていたくせに、戦争に負けた途端に、「国民は一部の軍国主義者の犠牲になった」 と言い始めたのと、似たメンタリティではないか。

この問題が報道され始めた時点では、大学受験に不必要な科目の授業をカットしたのは、「生徒の要望に応えた」 ものと説明されていたではないか (参照 以下引用)。

 ■学校側、生徒の要望で変更

 富山県立高岡南高校(篠田伸雅校長)で、3年生197人全員が、2年時に学習指導要領で2科目履修する必要がある地理歴史の授業を1科目しか受けていないことが24日、わかった。 (中略) 同校は「大学受験に必要な科目に力を入れてという生徒の要望を聞き入れ、カリキュラムの運用を変えてしまった」と釈明している。

(中略)

 同校などによると、生徒が1年生の時に「受験に必要な1科目に絞り勉強したい」という要望があり、「たとえば日本史を学べば関連して世界史の要素も入っており、世界史の履修につながる」と判断したという。

この報道には、裏があることをきちんと理解しなければならないが、生徒側としても 「受験に不必要な科目に時間を割かれたくない」 と、確かに希望し、こうしたイレギュラーな措置を歓迎していたようなのだ。少なくとも、不満を抱いていたという印象はない。

そのくせに、今になって完全に被害者面をするのは、この間の制度的な理解が不足していたとしても、ちょっとおこがましい。きちんと補修授業を受けて冬休みを潰すぐらいの覚悟はしておくべきだ。補修授業の間に、内職をするなとまでは言わないからね。

「この報道には、裏がある」 と書いたのは、学校側はいかにも生徒の要望に添った形でこうした運用をしていたと言いたいようなのだが、実は、進学校としてのステータスを上げるために、積極的に他校と情報交換をしながら、必修科目の授業をカットしてきたのがみえみえだからだ。

こんなことは、今さら言われなくても、どこでも公然の秘密だったのだろう。だって、学校現場と教育委員会は、人事的に交流しているのだから、現場の校長が知っていることを教育委員会が知らなかったはずがない。ずっと、なあなあで見逃してきたのだ。

学校側と生徒側の浅はかな利害関係の一致により、長年にわたってセコイ方策として、受け継がれてきたのである。生徒側も、その恩恵を享受してきたのだ。それが本当に 「恩恵」 といえるかどうかは、かなり馬鹿馬鹿しいレベルの議論になるが。

私の時代は、少なくとも、世界史も日本史も、地理も倫理社会も、ちゃんと授業があったという記憶がある。いくら受験に不必要な授業があったとしても、別にそれによって受験に不利になったという感覚はないのだがなあ。

私なんか、倫理社会の成績は、特別に試験勉強なんてしなくても、常に学年で断トツのトップだった。日頃から哲学書や宗教書を当たり前に読んでいたので、(高校時代に 「正法眼蔵」 なんて読んでたからね) 高校の倫理社会のレベルなんて、幼稚すぎるぐらいのものだった。

当時、大学受験では、社会の科目として倫理社会を選択することもできたはずで、そうすれば、英語と国語は元々苦労がなかったから、私にとって大学受験勉強なんて、不必要と言ってもいいぐらいのものだった。それでも、私は敢えて日本史を選択して、一応 「受験勉強」 というものを経験することにした。

倫理社会なんて、私にとっては 「知的娯楽」 だった。大学受験でそれを選択してしまっては、帰国子女が英語で当然の如くいい成績を取るようなもので、そんなアドバンテージを使ってはズルいような気がして、自らにハンディキャップを課したのである。

勉強なんて、パンツのゴムひもをギリギリに伸ばしてしまうようなやり方でするもんじゃないだろうと思うのだ。今日の結論は、これ。

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2006/10/30

「知ること」 の醍醐味

本宅サイトに 「知のヴァーリトゥード」 という名前を付けているぐらいだから、私は 「知る」 ということが本当に好きなのである。

「知ること」 の醍醐味は、いくつかの知識の断片でしかなかったものが、たった一つの新たな知識によって、突然、美しい 「体系」 に姿を変えてしまったりすることだ。

「どうして勉強しなきゃいけないの?」 という子どもの質問に、「いい大学にはいるため」 とか 「いい仕事に就くため」 とか 「いい暮らしをするため」 とかしか答えられないのは、「知の醍醐味」 を味わったことがない人である。

「知の醍醐味」 を知るためには、断片的な知識はできるだけ多くあった方がいい。一見無関係に思われるそれらの知識の断片が、一瞬にしてバチバチっと関連付き、見事な体系となるのだから、知識が多ければ多いほど素晴らしいダイナミズムを表現できる。

だから、勉強というのは、知の醍醐味を味わうためのキャパシティを広げる役に立つのである。

で、本題である。例の高校の履修不足問題だ。必修科目でも受験に必要のない科目を、履修しないで済ませているというのである。これは、「知の醍醐味」 を知る可能性を減じていることになる。生徒には気の毒な話である。

ただ、生徒には明らかに気の毒なのだが、当の生徒にとっては、多くは卒業するのに面倒な話になるという点で迷惑を感じているだけのようで、「知の醍醐味」 云々なんてことまで考えているのは、ごく一部だろうと思う。悲しいお話である。

ちなみに、履修不足問題は東北地方の進学校に集中しているというので、「もしや」 (というよりは、「多分…」 ) という思いで調べてみたら、案の定、私の母校、酒田東高校の名前も出ていた。セコイなあ。

でも、日本というのは、こういう問題はちゃんとなあなあで解決される社会だから、後輩たち、余計な心配はしないでいいからね。

「知ることの醍醐味」 を表現する言葉に、「目から鱗が落ちる」 というのがある。しかし、私がこれまでに聞いた最も感動的な表現は、こんなものではない。関西の某若手落語家がこんなことを言っていた。

それを聞いた途端、あの 「知らん」 とゆうたことのない米朝師匠が、「ああ、そうであったか!」 と膝を打ったほどですわ!

これほど 「知ることの喜び」 をダイナミックに表現した言葉を、私は知らない。何しろ、あの知識の宝庫、桂米朝師匠である。その米朝師匠が、ある対談で、思いがけなくたった一つの新たな情報を聞いたとたん、膝を打って感動したというのである。

きっと、それまでに抱いていた疑問が一瞬の間に晴れて、脳内に蓄積された膨大な知識が、閃光とともに一つの美しい体系的知識に再構築されたのだろう。その時の米朝師匠、知的エクスタシーを感じただろうなあ。

ただ、残念なことに、この米朝師匠が感動のあまり膝を打ったという貴重なウンチクが、どんな話であったかは忘れてしまった。この表現のインパクトが強すぎたせいだと思う。

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2006/10/21

学力って、そんなに低下してるだろうか?

近頃の若いモンの学力が低下していると言われる。確かに、最近の大学生のお馬鹿ぶりを見ていると、平均水準は下がってると思う。

しかし、それは誰でも彼でも大学に行くようになってしまったから、そう見えるだけではあるまいか。なまじ大学なんかに行くから、必要以上にお馬鹿扱いされるのだ。

私の父の時代は、ある程度優秀な者でなければ旧制中学には行けなかった。ましてや、高等学校や大学に進学するのは、ほんの一握りだった。だから、当然にも高等学校や大学の学生は、優秀だったわけだ。

しかし、今では大体 2人に 1人が大学や短大に進学している。昔なら、旧制中学に進めなかったレベルでも、今は大学に入っているのだ。平均的にお馬鹿に見えて、当然である。

マラソン・ランナーの中にジョギング程度の市民ランナーが大勢混じったら、平均タイムは大幅に下がり、数字だけ見たら、かなり嘆かわしいことになる。しかし、マラソンの裾野は大きく広がったことになり、その中から優秀な選手が生まれる可能性は高まる。

ただし、ジョギング程度もできない者が増えたら、そりゃ問題である。もしかしたら、そうした心配をしなければならないところまで来ているのかもしれないが、本当のところはわからない。

「若いモンの日本語が乱れている」 と言われる。しかし、それを言うなら、オッサン連中の日本語だって相当に怪しい。客観的に比べたらどっこいどっこいで、若いモンを本当に嗤えるオッサンなんて、そう多くはない。

叩き上げの社長でもっているような中小企業を訪問すると、「社訓」 とやらが麗々しく額に入って飾られていることがある。しかしそれらの少なからずは、主語と述語がバラバラだったり、係り受けが滅茶苦茶だったりして、読んでる方が恥ずかしくなるような代物である。

なんでまた、清書して額に入れる前に、まともな文章の書ける人に相談しなかったろうかと、悲哀を感じてしまう。しかし、ワンマン社長は自分の文章がおかしいなんて、夢にも思わないのだ。自分は絶対に正しいのだから。

まあ、額に入れられた社訓なんて、眺めるだけのものであって、吟味して読む人なんかいないのである。単なる雰囲気のものなので、どんなに滅茶苦茶でも、実害はそれほどないようなのだ。下手に間違いを指摘したら、野暮なことになりかねない。

明治以前は 「読み書き算盤」 さえできれば、何とかなった。頭の中のリソースを論語読みに集中することだってできたから、漢文の素養のある者がいくらでもいた。しかし、彼らは論語は読めても、フランスの首都も、ピタゴラスの定理も、2個の水素原子と 1個の酸素原子が結びついて水になることも知らなかった。

思えば、今の子は覚えなければならないことがありすぎて、ご苦労なことなのである。ただ、もう少しシステマティックな学習法を採用すれば、「一を聞いて十を知る」 ことも可能なのに、相変わらず 「十を聞かせて九つ忘れさせる」 やり方だから、今の子は、お馬鹿に見える宿命を背負っている。

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2006/10/20

「英語読み下し」 教育を巡る冒険

昨日は、「英語教育早期開始派」 と 「まずは美しい日本語を派」 の葛藤について述べ、日本人の英語使いの多くは、「カタカナ英語」 のレベルであることに言及した。(参照

そして、この日本独特の 「カタカナ英語」 というのは、実は日本文化に深く根ざしているのではないかと思い当たった。

昨日のエントリーで、「身体化された英語」 「スタイリッシュな英語」 ができるようになるには、英語教育を開始するのが早ければ早いほどいいに決まっていると書いた。それで想起したのだが、明治以前の寺子屋教育では、幼い子どもに論語を素読させていたのである。

涎くりの頃から 「子曰わく……」 を嫌と言うほどやったおかげで、昔の人は、かなりハイレベルな漢文の素養があった。これは、いわば 「英語教育早期開始」 に通じるものがある。幼い頃からびっしりと叩き込めば、嫌でもしっかり身に付くのだ。

しかし、このことがそのまま 「英語教育早期開始」 に結びつくかといえば、ちょっと違うのである。

漢文というのは、確かに中国から来たものだが、「外国語」 というわけではない。それは、日本独特の 「読み下し」 という流儀で学ぶからだ。だから、「論語」 の意味を十分に読み取れても、中国語会話はできない (中国語と漢文は、似て非なるものだということを別としても)。

日本人にとっての漢文は、コミュニケーションのためではなく、「素養」 として学ぶものだった。日本人同士の 「コモンセンス」 でありさえすればよかった。だから、日本以外では絶対に通じない 「読み下し」 で学ぶことに、何の疑問も感じなかったのである。

思えば、日本の英語教育も、実はコミュニケーションではなく、「素養」 のために学ぶものという時期が長く続いたのだ。戦前までは、いくら英語を学んだところで、外国人と英語で会話する機会なんて、一生に一度もない者が多かったから、「素養」 で十分だったのである。

だから、日本以外では奇異にしか思われない 「カタカナ英語」 が発達した。英語教師でさえ、多くはカタカナ英語だった。日本人を相手にした 「素養」 のための学問なのだから、それで十分ではないか。

いわば、「シィノタマハク……」 を英語テキストでやっているようなものだ。まさに 「英語読み下し」 教育である。英文和訳の時なんて、まさに 「レ点」 とか、返り点をふりたくなっちゃうし。

あれって、英語を英語として理解する勉強ではなく、読み下しの長い伝統に沿った極めてドメスティックな作業をさせられていたわけだ。英文和訳とは即ち 「英文訓読」 である。英語学習をわざわざ面倒なものにしている。

「英文訓読」 が必要になるのは、「翻訳」 という特殊な作業を行う時だけで、普通のコミュニケーションにおいては、「意味」 として理解すればいいのである。実際の場面では全然役に立たない (というか、使うことすらない)  「英語読み下し」  に余計な時間を割かなければ、日本の英語教育は、もっとずっと効率的なものになるはずだ。

とはいいながら、「英語読み下し」 の技術は、大学受験に威力を発揮するので、無視することはできないんだろうなあ。忌まわしいことである。大学を出ても英会話ができない日本人がくさるほどいるのも、なるほど道理である。

というわけで、日本という国では、学校で 「英語読み下し」 を勉強し、世間で 「英会話」 というお稽古ごとをするのである。「英語読み下し」 と 「英会話」 には、「漢文」 と 「中国語」 ほどの違いがある。

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2006/08/11

「読書感想文」 の傾向と対策

3日前のエントリー、「夏休みの宿題」 不人気ランキングで、堂々 2位にあげられているのが 「読書・読書感想文」 である。

何しろ、この 「読書感想文」 というのは、捕らえどころがないのである。何をどう書けばいいのかなんてことは、宿題を出した当の先生だって、本当はよくわかっていないのだ。

課題をクリアするための 「対策」 を立てるには、「何を求められているのか」 という 「傾向」 を分析する必要がある。しかし、「読書感想文」 に関しては、この 「傾向」 というのがはなはだ曖昧なのである。

とりあえず、具体的に 「何を求められているか」 がわからない。それは当然である。前述の如く、先生の方でも 「何を求めているか」 がよくわかってないのだから。

なにしろ、「感想」 という日本語の中身が曖昧なのだ。こうした曖昧な日本語の中身を具体化するには、とりあえず英訳してみるといい場合が結構多い。曖昧だったものが具体化したり、あるいは 「なんだ、結局曖昧なんじゃないか」 ということが明確になったりする。

で、Goo の和英辞書で 「感想」 というのを引いてみると、"impressions; (one's) opinion." と出てくる。「印象」 か 「オピニオン」 かというわけだ。なるほど。

「印象」 ということにすれば、読んだ本のどのあたりが印象に残ったかを書いてしまえばいいことになる。とにかく、褒めてしまえばいいわけね。「主人公の、この行動に、感動しました」 式の文書にしてしまえばいい。

ただ、このメソッドの欠点は、どうしてもありきたりになってしまいがちなことだ。感動ポイントなんて、大抵似通っているから。とはいえ、文句はつけにくいから、安全パイである。

一方、「オピニオン」 重視にする場合は、ちょっと批判的に書けばいいわけだ。「主人公はこうしたけれど、私ならこうする」 式に、ちょっと異論を唱えてしまえばいい。うまくツボにはまれば、この方がいい成績を取れるだろう。

とりあえず、「書いて提出してしまえばいい」 ということなら、「印象重視」 メソッドで、次の要領で書いてしまえばいい。

  1. その本を選んだ理由。「本屋でタイトルに惹かれた」 とか 「図書館で探していたら、表紙の絵が良かった」 とか、適当なことを書いておけばいい。要するに、行数かせぎである。
     
  2. 次に、ちょっとしたあらすじを書く。といっても、こんなことで苦労する必要はない。主人公が結局何をどうしたかを、ちょいちょいとかいつまんで触れさえすればいい。これも結局は行数かせぎと割り切る。ここまでで、原稿用紙 3枚弱ぐらいか。
     
  3. 原稿用紙 4枚目に入るあたりで、その本のハイライト部分を紹介する。「この部分に感動した」 と、最後にとってつけたようなことを書くための導入部だから、わざとらしく力を入れるとよい。
     
  4. そして、最後に 「感動した」 「涙が出そうになった」 「自分もこんなふうにできたらいいと思った」 「見習って、努力したいと思った」 「私ならこんなふうにできるだろうかと、反省した」 などと、いい子ぶったことを書き添える。これで、大体原稿用紙 5枚になる。

と、こんなもんでいい。美しい 「起承転結」 である。100点満点で、70点の取れるメソッドだ。

70点で飽き足らないという場合は、最後の 「4」 の部分を 「オピニオン重視」 メソッドで、挑戦的に書き込んでしまえばいい。もしかしたら、80点以上取れる。

あるいは、「印象」 でも 「オピニオン」 でもなく、「文芸批評」 式に、先生が腰を抜かすようなことをびっしり書いて、煙に巻いてしまってもいい。

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2006/07/31

根元的存在のビヘイビアとしての複数

作家、森博嗣氏はご自身のブログの昨年 6月 1日付エントリー 「日本語に複数形がない理由」 で、 "「2つのリンゴがある」 とは言わず、「リンゴが2つある」 というのが日本語らしい言い回し" と指摘しておられる。

これは、日本人の発想の仕方に関する根元的な示唆を含んでいると思う。

氏は、「2つのリンゴ」 などの複数形表現は、英語の翻訳によって生まれたものと推測した上で、日本語に複数形がないのは、「複数個存在することが、物体の性質としてではなく、物体の動作として受け止められていたからだ」 と述べている。

これを私流に表現すると、日本語では、「2つのリンゴというもの」 があるのではなく、「根元的存在としてのリンゴ」 が、「仮に 2つという姿で顕れている」 ということになる。つまり、「2つ」 というのは、その時のリンゴの本質ではなく、単なる 「ビヘイビア (振る舞い)」 なのだ。

同様に、日本人は古来、「2人の人がいる」 とは見ずに、「人が 2人いる」 としてきた。「2人」 を別個の存在ではなく、同じ根元からの派生として見てきたわけである。

この非常に日本的ともいえるコンセプトは、日本人のメンタリティの 「近代化」 を進める上で、最も大きな障害とされてきたフシがある。「人が 2人いる」 という発想では、「近代的自我 - アイデンティティ」 の確立が不可能だからだ。

分割しつくして、これ以上分割し得ないものを 「インディヴィデュアル (個人)」 とするコンセプトと、複数に見えるのは、一つの根元的存在の、ある種の振る舞いでしかないとする見方とは、まさに対極的なものである。

しかし私は、今さらながら日本というユニークな文化圏内に生まれたことを幸運と思わずにいられない。分割に分割を重ねて、物事をトータルでみることのできなくなった 「近代性という呪縛」 から、既に一歩踏み出していることができるからだ。

単なるプリミティブな精神性ではなく、既に近代性というものを経験しつつ、その限界をいともお気楽に超えることのできる 「すべては一体で、トータルなもの」 という実感的コンセプトを、我々がまだ失っていないという幸運に、私は感謝したい思いである。

「山川草木国土悉皆成仏」 という仏陀の悟りにも似た 「すべてが根元においては一体」 という実感こそが、地球規模の危機を救うコンセプトになりうると思うのだ。

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2006/05/08

「渋滞学」 ってのは、面白そうだ

今年は大型連休といわれただけに、高速道路の渋滞はかなりのものだったようだ。私もちょっと水戸方面の行き帰りだけで、常磐道でかなりの渋滞に巻きこまれた。

東京大大学院工学系研究科の西成活裕助教授は、「渋滞学」 という学問に取り組んでおられるそうだ。かなり面白そうである。

記者会見資料には、「渋滞学」 の内容が、以下のように述べられている。

車や人を粒子とみなすと、それらは自分自身で動くことのできる自己駆動型の粒子である。この粒子が集団になると渋滞が発生する。なぜ渋滞が起こるのかを新しい物理的アプローチで研究する渋滞学 を紹介する。

どうやら、物理学、数学のみならず、複雑系の理論まで応用されていて、なかなか興味深い分野のようだ。東京新聞などには、次のように紹介されている。(参照

車を自己駆動粒子として数学的、統計物理学的に解いたところ、最高速度が時速百キロの高速道路では、車間距離が四十メートル以下になると渋滞することが確認された。四十メートルなら十分以内で渋滞状態へと移行する。実測データとも一致した。

ただし、車間距離が四十メートル前後には、渋滞に至るかどうか「微妙な状態」が存在することも新たに分かってきた。「そのような状態では、車間は結構詰まっているが、時速七十キロや八十キロと、それなりの速度で走っている。しかし一台がちょっとブレーキを踏むだけで、たちまち渋滞になる」

なるほど、「微妙な状態」 から 「渋滞」 に移行するには、それなりのクルーシャル・ポイント (決定的瞬間) があるのだな。

私の経験でも、すいすい動くでもなく、かといって渋滞というわけでもない 「微妙な状態」 に遭遇することは案外多い。こうした状態でも、上手なドライバー同士なら、渋滞に陥ることなく、微妙なままで、それなりにさくさく動くことになる。

しかし、連休などでは、普段運転しなれないドライバーが多く高速道に繰り出すから、変なところで余計なブレーキを踏みがちだ。こうして、渋滞に陥ってしまうクルーシャル・ポイントが、容易に作り出されてしまうのだろう。

確かに、渋滞の団子状態をやっとこさ抜け出してみると、その先は何のことなくスムーズに動いている場合も、かなり多い。

そんな時、「あの渋滞は何だったんだ?」 と思うが、それは、あの団子状態の先頭にいた誰かが、期せずして 「クルーシャル・ポイント」 を創出してしまっていたのだね。

渋滞に限らず、悪気じゃなくてもみんなに大迷惑をかける人というのは、いくらでもいるのである。世の中は、そんな人の集まりなのだから、理屈通りに行かなくて当たり前なのである。やれやれだ。

そんなことでイライラする方は、私の本宅サイトの 「浮世で心地よく暮らすには」 というコラムでも読んで、鬱憤を晴らしていただきたい。

さらに、「このほかたとえば、緩やかな上り坂で速度が落ちると、車間距離が詰まり、後続車に連鎖的に伝わり、渋滞する。こうした自然渋滞が本質的で、全体の三割を占める」 と、西成助教授は述べておられる。

私は 「自然渋滞」 という言葉が嫌いだった。「自然に渋滞するような道路なんか、作るんじゃない!」 と思っていた。しかし、こうしてみると、ある意味、「自然に起こる渋滞」 というのも、確かにあるようなのである。考えを改めなければならないようだ。

ちなみに、西成助教授は、渋滞の中では追い越し車線よりも走行車線を走る方が、比較的スムーズに走れるということを、実験データで証明されている。

しかし私の経験では、こんなのは、渋滞の中だけではない。いわゆる 「微妙な状態」 にある片道 3車線の高速道路では、一番左側の走行車線がもっともスムーズに走れる。詳しくは、本宅サイトの "高速道路と 「キープレフト」" を参照されたし。証拠写真をたっぷり入れて説明してある。

ただ、この情報が行き渡ってしまうと、せっかくのノウハウが効かなくなってしまう虞れもあるのだが、まぁ、いいか。

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2006/05/03

メタファーとロジック

本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 でとりあげた 「どうして鏡に映ると左右が反転して見える?」 というテーマに関して、響 (ひびき) さんという方が、理系の視点から説明してくれている (参照) 。

今まで見た理系の視点からの説明の中で、最もシンプルでわかりやすい説明だと思う。これなら、文系の私も納得だ。

同じ X軸、Y軸、Z軸 を用いて説明するのでも、彼の説明はとても簡潔だ。

左右も上下も反転などしない。
鏡方向をZ軸とするなら、それが反転するだけである。

(中略)

反転するのは前後だけです。

要するに、たったこれだけである。これだけでわかりにくいなら、上記のリンクから彼のブログに飛んで、図をご覧頂けばいい。納得である。

しかし、「視線の方向が裏返っただけ」 という私の説明と、彼の 「鏡方向をZ軸とするなら、それが反転するだけである」 という説明は、よく考えてみると、同じことを言っている。彼の規定する 「Z軸」 というものを、私は 「視線の方向」 と呼んでいるというだけだ。

これは、どちらの言い方が馴染みやすいかという問題に過ぎないような気もする。ただ、それで済ませては面白くも何ともないから、ここでは、「馴染みやすさ」 の要因というものを、少し探ってみようと思う。

私にとっては、「視線の方向」 という言い方がとてもしっくりくる。単なる鏡像以上のことまで言及するための、哲学的第一ステップのような雰囲気すら漂うのも、気に入っている。

しかし、響さんにとっては、「Z軸が反転するだけ」 という言い方が、余計なニュアンスを取り去った純粋論理に近いもので、その方がずっとクリアな感じがするのだと想像する。

私のレトリックは、ある程度 「含み」 を持たせることによって、他のことを語る場合のメタファー (暗喩) として用いやすいという要素を、意識的・無意識的に関わらず、求めているところがある。文系の文系たる所以である。

それに対して響さんの説明は、恣意的な要素を省き、「鏡像という抽象的事実そのもの」 にフォーカスしている。余計な含みを持たせたら、「事実そのもの」 が曖昧になってしまうとみることも、確かに妥当だ。

極論すれば、メタファーとして語るか、ロジックとして語るかということに尽きるだろう。同じ事を語っても、こうした違いがある。そして、違いがあるからこそ、世の中は面白い。

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2006/04/25

マニアックな常識?

「常識力検定」 というものがある。常識力検定協会という団体が実施していて、合格率は 3級は 70%近いが,2級は 50%、1級は約 10%という難関だそうだ。

しかし、10人に 1人しか合格できない 「マニアックな常識」 なんて、本当に 「常識」 という名に値するんだろうか。

試しに、同協会のサイトで、オンライン診断テストというのをやってみた。このテスト、Firefox では正常に動作しないという、ネットの世界の常識違反を犯しているので、しかたなく IE を起動して、回答を送信したところ、結果はランク A の 100点だった。

ただ、すべてが自信満々の回答だったわけではなく、四択の中から 「多分これだろう」 と、類推で答えたのが、一つだけある。案の定、それが正解だったわけだが、四択でなかったら、答えられなかった。だから、私の正味の 「常識力」 が満点というわけではないようだ。

しかし、その問題というのは、2002年 5月実施の 1級問題から選ばれた 「地雷禁止国際キャンペーン」 の略語は何かというもので、正解は "ICBL" だそうだ。

多少英語がわかれば "International campaign" "Ban" "Landmine" を組み合わせて、自ずから正解できるが、それでも、こんなもの知らなくても、「常識知らず」 とのそしりを受けることはないだろうし、日常生活でも全然困らない。

合格率が 50% という 2級までは、一応 「常識力」 と認めるにやぶさかではない (最近は、「常識知らず」 が世間の半分ぐらいはいるような気がするので) が、合格率 10%となったら、そりゃ、「常識」 ではなく、「マニアック知識」 に近いんじゃないか。

先日、どこだかのサイトで、「名刺交換をしたら、その名刺をどうしたらいいか」 という問題があった。正解は、「テーブルの上に、役職が上の者から順番に並べて置く」 のだそうだ。そんなもん、私は全然気にしたことがないぞ。

強いて言えば、相手が 3人以上だった場合など、テーブルの向こうの名前と顔を一致させるために、実際に並んだ順にテーブルに置くということはある。しかし、その回答の説明によると、どうせ相手も役職順に座るので、結果的に同じ順になるということだった。

だが、経験から言わせてもらうが、相手がテーブルの向こうに、いつも役職順に並ぶとは限らない。そうでないことだって、いくらでもある。世の中、そうそう 「常識人」 ばかりではないのだ。

それに、相手が 1人か 2人だったら、さっさと名刺入れにしまってしまうことも多い。それでどうこう言われたことなんか、一度もないぞ。それに、国際ビジネスになると、「名刺交換」 なんていうセレモニアルな儀礼はあまりないから、無頓着で一向に構わない。

そりゃあ、敬語の使い方や、救急知識など、本当に 「常識」 として知っておきたいことは山ほどあるが、どうでもいい枝葉末節にもっともらしくこだわって、「常識」 として押しつけるというのは、世の中を住みにくくする元なんじゃなかろうか。

かく言う私も、先日仕事で、その道では国際的権威という某大学教授にインタビューした際に、先方が 「それは的を得ている」 を連発されたので、原稿を書く際には、誠に恐縮ながら、「当を得ている」 に置き換えるという、世間の薄っぺらな常識に迎合した余計なお世話をしてしまったのだが。(??? と思った方は、こちらを参照)

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2006/04/10

早けりゃいいってもんじゃなかろう

近頃にわかに英語教育の早期化に関する是非論が話題になっている。

小坂文科相が 「インターネットの約 9割は英語。近隣諸国でも積極的に取り組んでいる」 と言えば、石原都知事が 「国語の教育こそちゃんとすべし」 との持論を展開。互いに一歩も引かないバトルの様相だ。

自分の経験から言えば、中学校 1年から英語を習うというのは、結果論としてちょうどよかったかなと思っている。別に英文科に進学したわけでもなく、留学したわけでもないけれど、フツーの会話ならあまり苦労しない。

とくに英語を専門的に勉強したわけでもないけれど、以前勤務していた外資系団体の内部試験では、「英検準一級レベルの実力」 のお墨付きをもらっている。「外国の現地法人に赴任して、管理職として外国人の雇用者を使いこなせるレベル」 だそうだ。「へぇ!」 である。

元々小学校 5年生ぐらいから英語に対する興味はものすごくもっていたが、それでも、学び始めるのが 2年早かったからといって、その分、今より英語能力が高まっていたかといえば、甚だ疑問だ。

小学校 5~6年というのは、かなりいろいろなことを考えるようになる時期で、この時期に日本の文学作品というのをかなり読んだ覚えがある。人間の時間的リソースは限られているから、同時期に英語なんていう興味津々のエサを与えられたら、きっとそっちに食らいついていただろう。

その分、読書に親しむ時間はかなり削られていたはずだ。あの頃、英語なんか教えられなくて幸いだった。

どうせ小学校 5~6年の英語なんて言うのは "Good Morning." "Thank you very much." "My name is ****." に毛の生えた決まり文句ぐらいのものだろうから、そんなのは後になってすぐに覚えられる。

中学校に入ってからほんの数時間で覚えられるものに、小学校高学年の貴重な時間を百何十時間も割くというのは、やはり馬鹿馬鹿しい気がするのである。

それに、こう言っちゃあなんだが、小学校の先生程度のレベルで、へんてこりんな英語を教えられてしまった日には、悲劇である。一生取り返しがつかないことになる。何しろ、中学校の英語の先生の実力だって、かなり怪しいレベルで、それ故に英語嫌いを大量発生させているのだから。

ざっと大まかに言って、英語教育早期化推進派は、国際的な共通語は英語なのだから、早くから親しむべきだと言っている。それに対して反対派は、口先だけの薄っぺらな英語なんかできるようになっても、その内面に表現すべき何物ももたなければ意味がないと言っているのだ。

要するに、スタンスが違うのである。スタンスが違うけれど、私は後者の方が筋が通っていると思う。いくら英語教育の開始を早めたって、英語嫌いを発生させるのが 2年早まるか、"Oh, yes" "Me too" としか言えない日本人を大量発生させるかのどちらかになりそうな気がする。

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2006/02/01

立春に (限らず) 卵が立つ

昨日朝の TBS ラジオで、詩人の荒川洋治氏が 『中谷宇吉郎随筆集』 を紹介していた。中谷氏は、雪博士として有名な科学者だ。

この随筆集の中に、「立春には卵が立つ」 という中国の故事から 「人類の盲点」 というところまで論を進めたものがある。なかなか興味深い話なのである。

この 「立春には卵が立つ」 というのは、中国の古書 「秘密の万華鏡」 (この書名については、確認したわけではない) に載っていることだという。

これにインスパイアされたのかどうか知らないが、昭和 22年の 2月に、日本の新聞各社が、本当に立春に卵が立ったという記事を、写真付きで報道したのだそうだ。

これについて、某学者は 「立春には気温が低いので、卵黄が下に沈んで重心が低くなるためではないか」 などと、さももっともらしいコメントを寄せたらしい。

しかし、このコメントは、実験に基づいたものではなく、単に頭の中でこねくり上げたものでしかなかった。中谷博士の偉いところは、さっさと軽い気持ちで卵を手にして実験してみたところである。

で、中谷博士の結論は、卵は立春に限らず、立てようと思えばいつでも立つということなのであった。

世の中では 「コロンブスの卵」 というエピソードがあって、卵の下をコツンとつぶして立てるというのが、さも大発見のように扱われている。

これは、卵というのはそこまで裏技を使わなければ立たないという既成観念に立脚している。しかし、この既成観念はウソだったのだ。ストロング・スタイルで迫っても、立てようと思えばちゃんと立つのであった。

あの有名な 「コロンブスの卵」 というのは、実はナンセンスだったのである。(まあ、 「コロンブスの卵」 の場合は、ゆで卵であるということで、一律には論じられないかも知れないが)

それを中谷博士は、「人類の盲点」 と表現した。「人間の眼に盲点があることは誰でも知っている。しかし、人類にも盲点があることは、余り人は知らないようである」 と述べているのである。

詳しく言えば、卵の重心が、卵の立つ平面に接するわずかな面積の上に落ちればいい。その許容角度は、約 1度であるらしい。

というわけで、私も実験してみた。卵は本当に、立春でなくても案外簡単に立つのであった。ここに紹介した写真は、私がわずか 1分足らずで立てた卵である。

【同夕刻 追記】

私のもう一つのブログ "Wakalog" に、もう少し風情のある背景で、卵を同時に 2個立てた写真をアップしておいた。写真のできは、そっちの方がいいので、興味のある方はご覧いただきたい。 Click !

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2005/11/06

『純粋理性批判』 の印象

自慢じゃないが、私は、あの分厚いカントの 『純粋理性批判』 を完読したはずなのである。多分 20年以上前のことだ。

しかし、その内容が理解できたとは到底思っていない。そもそも、毎晩ベッドで睡眠薬代わりに読んでは、いつの間にか寝入ってしまうという繰り返しだったのである。

前日に読んだ (はずの) 部分もほとんど忘れているのに、まったく構わず、単にしおりのはさんであるところから再び読み始めるというだけだから、理解できるはずがない。そもそも、しおりをはさんであるページが、昨夜に読み終えたページという確証もないのだ。

この本は、私の睡眠導入に最高の効果を発揮しただけだったが、それでも、頭の中にはおぼろな印象とも呼べそうなものは、確かに残った。

名著というもののパワーとは凄いものである。ほとんどの名著というのは、その理解よりも、おぼろな印象を得ることの方が重要だと、私は思ってしまうのである。

『純粋理性批判』 の 「おぼろな印象」 をメタファーとして表現すると、こんなことになると思う。

算盤は電卓より優れているというテーゼがある。算盤では暗算が可能だが、電卓では不可能だからだ。

しかし、そもそも算盤の暗算というのは、実際の 「数」 のプロセスを頭の中の珠の上げ下げに還元しているというだけで、すでに 「虚構」 である。それは、電卓内部の電子的処理と同じぐらい 「虚構」 である。

じゃあ、「リアル」 とは一体何なのか? それは、「虚構」 と見えるものの狭間から、垣間見るしかないものかもしれない。

何だか禅問答じみているが、『純粋理性批判』 の字面のみを毎晩ぼんやりと追ううちに、こんなような漠然とした考えが、浮かんだのである。

私のこの印象が、「純粋理性批判」 を正しく要約しているとは思えない。しかしもしかしたら、当たらずといえども遠からずぐらいのレベルにはなっているかもしれない。

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2005/10/08

最先端技術と融合する 「生命」

一卵性双生児は、まったく同じ遺伝子から生じた別個の人間である。遺伝子は完全に同じでも、別のパーソナリティをもつということは、一体どういうことなんだろう。

"著名発明家が予測 「人類は最先端技術と 『融合』 する」 (上)" というニュースを読んで、そのことについて考えた。

コンピューター科学者としても知られるレイ・カーツワイル氏は、人類の未来について記した新刊書、『シンギュラリティーは近い』 (The Singularity Is Near) の中で、そう遠くない未来に、テクノロジーと生物学は 1つにまとまり、非生物学的な生命を生み出すだろうと予測している。

その根拠となるのは、遺伝子工学 (G)、ナノテクノロジー (N)、ロボット工学 (R)、すなわち 「GNR」 が数十年後に 1つにまとまるという予測である。

この考えに基づき、「シンギュラリティー以降は、人間と機械の区別も、物理的現実と仮想現実の区別もなくなるだろう」 と、カーツワイル氏は述べている。

彼のアイデアが実現されれば、「15年後には、新しいテクノロジーによって寿命の延長が始まり、われわれは 21世紀の終わりまで生きられるようになり、さらには永遠の寿命を手にするかもしれない」 というのだ。

彼の言う 「永遠の寿命」 というのは、「生命体」 というもののコンベンショナルなコンセプトを 「パラダイムシフト」 させたもので、つまり、「物質でできた肉体に宿る生命」 という考えから離れたものになるだろう。

ここで私は、カート・ヴォネガットという作家が 「人間はロボットであり、機械である」 「私は人間を巨大なゴム製の試験管にみたてることもある」 というコンセプトに基づいて書いた 『チャンピオンたちの朝食』 という小説を思い出す。

彼の小説にあるのは、人間は肉体構造の変化のみならず、頭の中で起こる 「想念」 とか 「感情」 とかいう現象、さらに 「誰かが誰かに恋する」 ということさえも、すべて脳内物質の化学変化によってもたらされるというアイデアだ。

世の宗教者は、こうしたアイデアに本能的に反発する。我々の営為がすべて化学変化で説明できるということになったら、「人間の尊厳」 が、守られないと感じるのだ。

むむむ。私はまたしても、ヴァルネラブル (vulnerable : 攻撃誘発性のある)なことを書こうとしている。あちこちで書かれていることだが、「政治」 「宗教」 「ジェンダー」 は、ネットの三大タブーなんだそうだ。これらについて書くと、荒れやすいらしい。

そんなことを言ったら、私なんて三大タブー冒しまくりである。これで、多少の波風が立つことがあっても、コメントがそれほど荒れることがないのだから、ウチの客種 (きゃくだね) はとてもクールでレベルが高いと、本心から感謝している。

話題を元に戻そう。この観点から見ると、いわゆる宗教者の論理には自己矛盾がある。アインシュタインは、「神はサイコロ遊びをしない」 と言って量子論を退けようとした。つまり、彼は煎じ詰めれば、「全てのことは (神の創造した) 物質の動きによって決定づけられる」 と言いたかったようなのだ。

しかし、その直後に量子論の正しさが証明されるにいたり、「神はサイコロ遊びをする」 のだということが、わかってしまった。一つのきっかけが、その後の過程において予測不能の現象を次々に引き起こすというわけだ。

とても比喩的に言えば、「サイコロ遊びをしない神」 つまり、「自由な現象を認めない神」 は否定されたが、「サイコロ遊びをする神 − 自由を認める神」  は、まだ否定されていないのである。

以前、別個の 2つのプロジェクトに関わってむちゃくちゃ忙しいときがあり、自分一人でそれをこなすのが大変な負担に思われたことがあった。

その時、私は思わず 「ああ、俺が二人いてくれたらなあ」 と独り言を言ったのである。「クローン人間開発はダメなんて、固いことは言わないからさぁ」

それを聞ききつけた知人の女性が、こう言った。「気持ちはわかるけど、それはだめよ。(遺伝子がまったく同じ) クローンでも、宿る魂が違うから、同じ人間にはならないわ」

「宿る魂が違う」 という指摘に、この時の私は、なんだか妙に納得してしまったのであった。肉体と霊魂を別個に考えるという伝統的な発想は、私の中で消えずに残っているのだ。

この発想を発展させれば、人間は肉体から離れて、より高度な自由を得てもいいではないかということになる。

カーツワイル氏の言う 「シンギュラリティー以降は、人間と機械の区別も、物理的現実と仮想現実の区別もなくなるだろう」 というアイデアは、「肉体から離れた霊魂」 とそれほど遠くない気がする。かなりリスキーだが。

彼の著書には 書名を記した広告をぶら下げたカーツワイル氏 が収められており、それは自身で 「この写真は、私が言っていることと、[キリストの再臨を信者たちが街頭で呼びかける] 千年期の予言との、表面的な類似性を茶化したものだ」 と、説明している。

このことは、とても示唆的だ。単なる 「茶化し」 ではなくなる可能性がある。今後は、宗教の 「原理的側面」 よりも 「倫理的側面」 が強調される必要に迫られるかもしれない。

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2005/10/03

インテリジェント・デザイン論

"「何らかの知的な存在」 が生物進化を引き起こしたと考える 「インテリジェント・デザイン (ID 論)」 が、随所で猛攻撃を浴びている。

曰く、「科学的でない」 「キリスト教右派の画策に過ぎない」 「迷信」 などなど。しかし私は、もうちょっと冷静に、かつ批判的に眺めてみたいと思っている。

ID 論を頭ごなしにぶった切るのはたやすい。現状では進化論が 「公認の学説」 であり、それ以外は 「非科学的」 とすることが、世間では当然とされているからである。しかし、私は 「赤信号をみんなで渡るのが一番恐い」 と思っているへそ曲がりなので、「ちょっと待てよ」 と言いたくなってしまうのだ。

何しろ、ID 論の推進者達の多くは、「インテリジェント・デザイン説は進化論に対するオルタナティヴ」 であるとしていて、進化論を真っ向から否定しているわけではないようだ。それならば、我々も ID 論を単純に否定するのはアンフェアというものではないか。

話はちょっと逸れるが、「天動説と地動説」 の経緯を、我々は知識として知っている。単純素朴な 「天動説」 は、科学的な検証を経た 「地動説」 によって覆されたわけだが、現在では、「天動説 対 地動説」 という単純な図式も、既に超えられている。

「太陽が宇宙の中心」 とする 「原初的地動説」 は今やナンセンスであり、「天動説」 も、少なくとも理論的には否定し去ることはできないということになっている。要するに、「宇宙をどうみるか」 という視点の問題だ。

ただ、天動説を採用すると、宇宙モデルがめちゃくちゃ複雑になってしまうので、普段はあまり相手にしないだけの話だ。要するに、天動説を排除するのは、ものすごく単純に言ってしまえば、「功利主義」 の産物なのである。

こうした推移を知識として知っている以上、「進化論」 と 「ID 論」 を超える理論が当たり前に認知されているかもしれない未来に生きる子孫たちに、「21世紀初頭の連中は、幼稚な議論をしていたんだね」 と嘲笑われたくないと意識しても、まんざらぶっ飛びすぎた話でもなかろう。

とはいえ、その  「進化論と ID 論を超える理論」 というのがどんなものなのか、さっぱりわからない現状においては、私は以下のような言いぐさでお茶を濁すことが、誠実な態度の一モデルだと考えている。

何らかの知的存在によって自分がデザインされたという考えは、否定し切ることはできない。そうでないという証明は困難だからだ。「科学的でない」 という言いぐさで否定されていたことが、ある日突然 「最新の科学の成果」 になったりすることだってある。

「科学の地平」 というものも、所詮は限定的なものだ。より高みに登れば、その先に開ける沃地が見えてくる。まあ、沃地でなくて荒地かもしれないが、それは解釈次第だ。

それならば、「生物的種としての人間」 を語るときに進化論がとても有効であるように、「人間の尊厳性」 ということをテーマにしたい場合は、ID 論の視点を借りて議論の出発点にすることだって、あながちナンセンスと言い切ることはできないだろう。

功利主義が重視されない哲学においては、時々 「天動説的視点」 を蒸し返すことが有効な議論の発端になったりすることもある。「ID 論」 も、現状ではそのように捉えることはできないだろうか。

現在の 「進化論」 が究極的真理であるという証拠はない。もっと言えば、それが究極的真理と考えることの方に無理がある。それならば、そのオルタナティブを闇雲に否定しさえすればいいというものではない。

もっとも、ID 論者の中には、「人間がサルから進化したという進化論では、人間の尊厳は守られない」 なんてことを言う人がいるらしいが、それはちょっとヒステリックにすぎるだろう。

人間は 「サルから進化した」 というよりは、「サルと共通の祖先から進化した」 らしいのである。それまで否定してしまったら、いわゆる 「インテリジェントなデザイン」 のプロセスまで怪しくなってしまう。

サルと共通の祖先でいいではないか。その程度で 「人間の尊厳」 が守られないというならば、ちょっとサルに失礼である。サルと一緒に、ミトコンドリアと一緒に、「生命の尊厳」 を楽しもうと思えばいい。

それ以上のことを現時点で言おうとすれば、村上和雄筑波大名誉教授のおっしゃる 「サムシング・グレート」 に言及するのも一興だが、それについてなら、私は過去に書いている (参照)。

なお、Partygirl の 「反・反進化論 (18禁)」 にトラックバックさせていただいた。

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2005/09/16

詰め込めば、頭がよくなる?

頭の良さって、一体何なんだろう? 昔は 「読み・書き・算盤」 と言われたが、これは、理解力・表現力・計算力ということだろうか。

確かに、この三つの力があると、「頭のいい人」 と言われる場合が多い。しかし、そのベースには 「記憶力」 がある。「物覚え」 というのは、かなり重要なことのようだ。

9月 15日付 asahi.com では、「勉強したら脳細胞増える」 とのタイトルで、次のように伝えている。

勉強すると脳細胞が増える仕組みの一端を、東大の久恒辰博・助教授 (脳科学) と大学院生の戸塚祐介さんが実験で突き止めた。何かを覚える時に出ると知られている脳波の一種 「シータ波」 が脳の中の海馬という部分に伝わると、将来脳神経細胞に育つ前駆細胞が刺激され、最終的に脳細胞が増えることがわかった。(中略)

実験では、マウスの脳を切り取った切片に電極を刺し、シータ波と同じような刺激を人工的に与えた。すると、海馬にある前駆細胞が興奮し、この興奮が引き金になって前駆細胞が脳神経細胞に育つことがわかった。

成人の脳の神経細胞はいったん失われると再生できないといわれていたが、98年にスウェーデンの科学者が成人の脳でも海馬で神経細胞が新しく生まれると発表し、注目された。今回の研究で、新しく生まれるきっかけを作るのはシータ波であることが示された。

このニュースの中でも触れられているが、「シータ波」 というのは、「何かを覚える時に出る」 ということのようだ。このシータ波が、海馬に伝わって脳神経細胞に育つ前駆細胞が刺激されるという。

この 「何かを覚える」 ということは、「勉強」 の基本的な要素であり、 「読み・書き・算盤」 のベースになると考えていいだろう。何しろ、文字を覚えなければ読むことすらできず、九九を覚えなければ、計算もむずかしい。

A, B, C という勉強をすれば、A, B, C という直截的な知識のみが獲得されるというわけではない。むしろそれによって、脳のキャパシティ自体が増大することの方が、より大きなメリットと考えてもいいだろう。

「こんなこと勉強して、何の役に立つの?」 と、子どもに聞かれたら、とりあえずは、「お前の能力そのものがアップするんだよ」 と答えればいい。「RPGで、ワンランク上に行くようなものさ」 と言えば、今どきの子にはわかりやすいかも知れない。

いずれにしても、 「一を聞いて十を知る」 といった 「理解力」 のアップは、「覚えること」 と、かなり直接的にリンクするような気がする。

問題は、「覚える」 ことと 「考え、表現する」 ことは、少々別のようだということだ。記憶力のいい人が皆、頭がいいわけではない。「覚える」 ことで活性化された脳も、きちんと 「考え、表現する」 ことができなければ、大して役に立たない。

「詰め込み学習」 は、確かに脳のキャパシティを増やす。しかしこれは、ベーシックな要素である。もう一歩進んで、きちんとした思考力、表現力が高められなければ、「こんなこと勉強して、何の役に立つの?」 という子どもの疑問も、確かにもっともなことになる。

「ゆとり教育」 への疑問は、「詰め込み教育」 がいいか悪いかという問題ではない。「自分で考え、表現する教育」 との、匙加減の問題だと理解すればいい。

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2005/06/18

英語力の要は中学英語

本宅 「知のヴァーリトゥード」 が、90,000 ヒット目前である。週末はややアクセスが落ちるので、日曜の夜明け頃に達成か。恒例のキリプレ和歌は、今回はなし。旧盆過ぎとみられる 10万ヒットまでお預けということで。

ところで、「英語力の要は中学英語にあり!」 という共感できる主張を見つけた。

よのなかフォーラム」 という、一種の BBS の中の書き込みで、「国際シンポジウムにおけるプレゼンの技術」 というセミナーを受講しての感想という形になっている。 講師は宇宙核物理学という分野の実力派若手研究者、望月優子さんという方だそうだ。 国際シンポジウムでのプレゼンなので、もちろん、スピーチは英語で行われた。

このスピーチで、講師の望月さんは、

  • 聴衆は英語を母語とする人だけじゃない。  
  • むしろ今はアジアやロシアなど英語圏以外の研究者に向けて 話すことの方が多いし、重要だ。

ということを指摘されたそうだ。

その上で、この書き込みをされた 「よっちゃん」 という方は、次のようにまとめておられる。(以下引用)

英語圏の人に話をするなら、気の利いたレトリックも必要かもしれないし、流ちょうな発音も必要かもしれません。
その方がインテリだと思ってもらえる可能性も高くなります。

が、英語圏以外の人に話す場合、気の利いたレトリックを使ったがために理解されない恐れ (ママ) が大きくなってしまいます。
だから、むしろシンプルに話した方がいい。
シンプルに話すための指標になるのは、中学校で習う程度の英語。
特に、中学英語程度の文法を使って話すといいのです。

この主張はもっともなことである。

国際的な会議やフォーラムなどでは、英語がデファクト・スタンダードである。このような場においては、私のようなネイティブ・スピーカーでない者が聞いてよく理解できるのは、英語圏以外の人の英語なのだ。

英語圏以外の人のスピーチは、大抵ほぼ完璧に理解できるが (もちろん、専門分野以外の、日本語でも理解できないような小難しい話を除く)、ネイティブ・スピーカーのスピーチは、7割わかれば上出来という気がしている。

私の場合、ネイティブ・スピーカーの発音が苦手というわけではない。発音だけに限れば、非英語圏の訛りの強い英語よりも、米国東部の英語の方がずっと聞きやすい。(オーストラリアやニュージーランドの英語は、かなりてこずる)

苦手なのは、とくにニューヨーカーあたりに顕著な、マシンガンのようなスピードと、気の利きすぎたレトリックである。ペラペラペラっと早口でジョークを交えられると、残念なことに何がおかしいのかわからないことが多い。

彼らの多くは、重要な本筋部分は案外ていねいにわかりやすく話しても、ジョークの部分は自分本来のリズムに戻るので、私には速すぎるのである。周りのネイティブ・スピーカーにどっとウケてるジョークにほとんど反応できないのは、哀しいものである。

上記の BBS の書き込みは、こうした自分自身の経験からも賛成できるものである。

「世界標準語」 としての英語は、文法の視点からは、本当に 「中学英語」 で十分である。言い方を変えれば、日本の英語教育は、文法の視点からは中学校の段階で必要十分なレベルまで習得できるようになっている。高校以後は、とくに目新しいことは教わらない。

中学校で十分な文法レベルに達するのだから、後は単語力だけである。

よく単語なんて何百語程度で十分などという主張を聞くことがあるが、それは 「トラベル英会話」 の世界のお話で、道案内程度以上のコミュニケーションをしたかったら、やはり数千語レベルの単語力は必要だ。

とはいえ、中学校で習得する英語の 「足腰」 部分がきちんとしていれば、単語なんていうのは単純に覚えれ