カテゴリー「学問・資格」の39件の記事

2018/08/20

古文漢文は社会で役に立たないか?

シャイニング丸の内という人の 「古文漢文は社会で役に立たない」 と言わんばかりの、半年前の tweet (参照) が 「文春オンライン」 で採り上げられ (参照)、それをきっかけにして、ギャグ的話題にまでなっている。実はギャグというほどでもなく、単に稚拙な tweet でしかないのだが。

180820

この tweet が 「ギャグ」 になってしまったのは、末尾の "他の学問は役に立ってますが、漢文については眠いときに 「春はあけぼの」 というくらいしか使ってない" というフレーズのせいだ。大方はすぐに気付かれるだろうが、「春はあけぼの」 の出典は決して 「漢文」 ではなく、和言葉で書かれた日本古典の 『枕草子』 であり、その文脈は 「眠気」 とはリンクしない。

「眠いときは」 ということから類推すると、この人がぼんやりとイメージしたのは多分、孟浩然 『春暁』 の 「春眠暁を覚えず (春眠不覺曉)」 というフレーズだったのだろう。結構な 「古文漢文音痴」 のようだ。

さらに言えば、この人は古文漢文に疎いだけではなく、現代文に関しても弱いようだ。「古文漢文が役に立った経験は少なくともありませんね」 というフレーズはどうにも据わりの悪い言い方で、例えば 「少なくとも私に関しては、古文漢文が役に立った経験はありませんね」 などと言い換えるべきである。

この人は 「勉強した」 と自ら言っているわけなのだが、悪いけどこちらとしては、「そんなに勉強しても、この程度の知識と文章力なのだね」 と言うほかない。やっぱり、もう少し古文漢文をしっかり勉強しておけばよかったね。

こんなような下手な言い方をしてしまったせいで、この tweet は単に個人的な印象というレベルを越えた 「一般教養」 の問題として、あちこちで批判されてしまっている。まあ、確実に言えるのは、古文漢文が役に立った経験がないというのは、そうした知識をベースとしたソフィスティケイティッドな会話をしたことも、能や歌舞伎を楽しんだこともないからなのだろう。

というわけで、この tweet は 「古文漢文を馬鹿にすると、こんなところでお里が知れてしまう」 というサンプルになってしまい、「やっぱり古文漢文もしっかりやった方がよさそうだね」 という反語的エビデンスとして機能する羽目になったようなのである。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2018/05/17

苦手なのは 「数学」 じゃなく、「数字」 なのだった

いつの頃からか数学というものにコンプレックスがあって、数字の連なりをみただけでぞっとする。7年近く前に 「「数字数式認識障害」 とでも言いたくなるほど、数字に弱いのだよ」 という記事を書いているほどだ。そんなわけで、日頃から 「因数分解なんて、きれいさっぱり忘れちゃったよ」 なんて自嘲的に言っていたのだった。

180517

ところで今日、京都駅地下街の本屋にふらりと立ち寄ったら、「中学校 3年分の数学が教えられるほどよくわかる」 という本が店頭に平積みにされていた。こんな本がよく売れるほど、数学の苦手な人が多いと見える。

「どんなんだろう。これ読めば、少なくとも因数分解まではしっかりわかるようになるだろうか?」 と手に取ってパラパラッと立ち読みしてみた。すると意外なことに、内容があまりにも簡単すぎて読んでいるのが馬鹿馬鹿しくなるほどなのだ。途中を飛ばして 「因数分解」 に関するページを読んでも、「なんだ、こんなの当たり前じゃん!」 と思うばかりなのである。

というわけで私は今日、「中学 3年で習った因数分解は、全然忘れてない。今でも当たり前に理解してるじゃん」 と、自己認識を新たにしたのだった。私が数学が本格的に苦手になったのは、高校以後のことのようなのである。

ただ、記憶を辿ってみると、中学時代でも数学の試験の点数は、他の科目に比べてよくなかった。それは、理論的にはしっかり理解していても、ちょっとしたミスが多かったからだと思い当たったのである。なにしろ、「数字数式認識障害」 と言うほど数字には弱いもので、実際の計算でミスしちゃうのだ。

というわけで、店頭で本のタイトルだけに惹かれて衝動買いしてしまったら、2000円以上を無駄遣いしてしまうところだったが、「自分は数字は苦手でも、中学 3年までの数学の理窟ぐらいは、『教えられるほど』 しっかり理解してる」 ということがわかったのが収穫だったとしておこう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2018/01/24

南方熊楠のことは 「一人ビッグ・データ」 と呼ばせてもらう

昨年暮れから上野の国立科学博物館で開催されている 「南方熊楠生誕 150周年記念企画展 南方熊楠 100年早かった智の人」 という展示会を見てきた。"An informant-savant a 100 years ahead of his time" という英語タイトルがすごくいい。"informant-savant" というのは 「資料・情報の大御所」 とでも訳したらいいのかなあ。日本語原文の 「智の人」 より具体的で相応しい言い方だと思う。

180124

南方熊楠という人をフツーの人名辞典的に理解しようとしても、まず無理で、私もこれまで、「スゴいけど、よくわからん人」 と思ってきた。で、今でもその思いは基本的に変わらないのだけれど、今回の企画展を見て、「ああ、だからこの人、『よくわからん』 のだな」 というところは見えてきた。

つまりこの人、「一人ビッグ・データ」 なのである。子どもの頃から天才的な記憶力の持ち主で、一度読んだことは後になってからそのまま筆写できたというのだからすごい。その能力を遺憾なく発揮して、古今東西の博物学などの書物を 「抜書」 という形で筆写しまくり、自家薬籠の知識として蓄えてしまった。

またその 「抜書」 というのがすごい。虫眼鏡を使って読みたくなるような細かい字で、びっしりと書き込んであるのだ。私なんか、展示された 「抜書」 の細かい字を見て、頭がクラクラしてしまったよ。よくもまあ、こんなことを日本、米国、ヨーロッパを舞台にしてまで何十年も続けられたものだ。

こんなに細かい字で百科辞書にも収まらないほどの知見を書き留め続けていられたのも、自分の 「癇癪持ち」 の性分を鎮めるためというのである。実はこれ、一種の 「ビョーキ」 が昇華したカタチなんじゃなかろうか。

で、既存の知識を 「抜書」 するだけでなく、実際のフィールドワークも精力的にこなして、結構な生物学的発見もしちゃってるのだから、またまたすごい。ただ、いくら発見しても既存のアカデミズムと別の世界で生きていたので、「発見者」 として名を残している部分は少ないらしいのである。

で、そんな 「名誉」 的なことには案外無頓着で、ひたすら自分なりの方法論でやってきたらしい。そしてその知見集積と処理の仕方が、現代のコンピュータを駆使したデータ処理の手法に通じるものだったようなのだ。そりゃそうだろう。それだけの膨大なデータを処理しようとしたら、ごくフツーの三段論法や散文的処理の仕方では追いつかない。

フツーなら 「詩的直感力」 の領分になってしまいそうなところである。例えば柳田国男なんか、かなり詩人 (歌人) だし、折口信夫となると、詩人・歌人としての資質の方が大きいと思っている。しかし南方の場合は、あくまで個別サンプルのデータをもとにして、「ビッグ・データ」 的な情報処理を行ってしまっているのだよ。

こんなのだもの、そりゃ、近代的な学問の世界からははみ出してしまったのも当然だろう。フツーのアカデミズムの世界では生きられなかったのだ。まさに 「100年早かった」 んだろうね。

それが今になって急に 「具体的な注目」 を浴びてしまっている。学問的アプローチや情報処理の仕方が、ようやく追いついてきたのだろう。で、我々に残されたタスクは、彼の残したビッグ・データをどう運用・解釈して、具体的な知見とするかということなのだろう。

ただそれに取り組むには、彼の膨大な 「抜書」 をすべて 「読み起こす」 作業を完成しなければならない。「読み取って、改めて書き起こす」 ということを、ここでは便宜的に 「読み起こす」 と言ったのだが、彼は何しろ昔の人なので、「抜書」 も変体仮名駆使しまくりで、ほとんど 「古文書」 の域に近いから、今の理科系研究者には手強いかもしれない。

このまま 「一人ビッグ・データ」 として残る期間がやたら長くなって、「スゴいけど、よくわからん人」 と思われ続ける可能性も高いよね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/05/16

論理と感覚の狭間と、直観への飛躍

Kamiya English Coaching (KEC) を主催する emi さんが、「初めて見る単語を覚えるとき、私たちは文字を一つひとつ認識するのではなく、スペルのまとまりを画像として認識している」 らしいという、脳の働きを調べた研究の成果を紹介している。(参照

彼女は 「複雑な漢字が読めるけど書けなかったり、似たような文字列を見て「空目(そらめ)」が起きたりするのも、これに関係していそうですね」 とコメントしている。確かに、英語に限らず、我々は文字情報の多くを、アナログな画像として認識しているのではないかという気がする。

一時ネット界隈で話題になった、次のテキストもそんなところから了解できるかもしれない。

こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。
この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか
にんんげ は もじ を にしんき する とき その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば
じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる というけゅきんう に もづいとて
わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。
どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?
ちんゃと よためら はのんう よしろく

引用したテキストは、単語ごとに (時々は文節ごとに) 分かち書きしてあり、そこがミソなのだと思う。いくらなんでもスペースなしにずらずらっと続けて書かれたら、どこからどこまでが独立した単語なのか判別しにくくて、まともには読めないだろう。

しかし、単語としてのまとまりさえはっきりとわかる書き方ならば、文字の順序は少々でたらめでも、最初と最後の文字さえ合っていれば、確かに案外すらすらと読めてしまうのである。これは我々が文字情報としての単語を 1文字ごとに読み込んでいるのではなく、一まとまりのアナログ画像として認識していることを示しているのだろう。

あるいはこれは、単語だけではなくて一繋がりの論理のプロセスも、そんな風に認識しているのではないかという気がする。数学の証明問題なども、同じプロセスを辿るようなものは、ざっと見ただけで解けてしまったりする。私は数学が得意な人の多くは、論理的というより感覚的な人なのだと思っているが、それは案外こんなところからきているのかもしれない。

さらに、「直観」 というのは 「感覚」 をさらに飛躍させたところにあるのかもしれないと思う。ノーベル物理学賞を受賞したりする学者の中には、新発見の多くは論理というより直観から出発していると指摘する人が多い。つまり、天啓のような 「思いつき」 が大発見につながることがあるのである。

仕事でいろいろな人間と接していると、過度に論理的な人というのは、付き合うのがかなり面倒なことがある。彼が自分の考えを説明し始めると、半分ぐらい聞いてしまえばその全貌は大体つかめてしまう。だって極めて論理的なのだから、途中まで聞けば結論は簡単にわかってしまう。シンプルな三段論法は、二段目まで聞けば十分なのだ。

それで、「ああ、そういうことね。それだと、ああなって、こうなって、要するにこうしちゃえばいいよね」 と引き取ってしまうと、彼は 「人の話を最後まで聞け!」 と怒り出したりする。仕方がないから最後まで付き合ってあげても、やっぱり思った通りの当たり前の結論でしかない。

当たり前すぎる論理を、きちんとプロセスを追ってあまりにも懇切丁寧に説明されると、聞いている方としては、いらいらしてしまう。聞く方は特急列車に乗ったごとく、既に終点まで行ってしまっているのに、話す方が各駅停車でゆっくり追いついてくるのだから、じれない方がおかしい。

プレゼンをしていて、聴衆をイライラさせてしまっては失敗である。だから相手を説得するには、どこかで意外性を盛り込む方がいい。「いつもの理解のしかた」 というのを、一度裏切ってしまうと、人間は新鮮さを感じるものなのだ。

私が自分のサイトを 14年前に立ち上げた時、"知的情報の受発信に必要なのは見識ある解釈と 編集、そして最後の 「一ひねり」" というキャッチフレーズにしたのは、その意味でかなり正解だったかも知れないと、今になって気をよくしている。

ただ注意しなければならないのは、聞く方の理解力が不足していると、「チンプンカンプンだった」 と言われかねないことだ。その場合は、こちらも各駅停車で辿らなければならなかったりする。

上述のごとく、三段論法は二段目まで聞けば十分なのだが、実際には三段目まで聞いて初めてびっくりする人が多いのも事実なのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/02/27

入試シーズンになると思い出すこと

今頃は入学試験のシーズンで、先日の大雪では試験開始を昼過ぎまでずらしたりするなど、大騒ぎになっていた。いずれにしても、入試というのは受ける方も学校側も大変だなあ。

ちなみに私は、我ながら生意気なことだが、高校でも大学でも大学院でも、入試で苦労したという経験がない。

私の田舎では、高校の選択肢なんてほとんどなくて、中学時代の成績が良かったら、ほぼ自動的に地域で一番の進学校一本で受験するものと相場が決まっていた。当時は競争率だって 1.2倍以下の呑気なもので、「滑り止め」 なんていう意識もなく、公立校を落ちた者がのんびりと私立に願書を出しても間に合った。

私の場合は、通っていた中学の教師をしていた伯父が、「あいつが落ちるようなら誰も受からないから、安心してろ」 と父に言っていたそうで、当人も全然心配していなかった。受験勉強といっても、「今さら何を勉強するんだ」 ってなもので、特別なことは何もせずにあっさりと合格した。

高校在学中も、学校以外で勉強というものをしたことがなく、ただひたすら楽しく遊び回っていた。それでも高校 3年の夏を過ぎて、さすがに大学入試のための勉強というものをしなければならないと気付いたのだが、実際には 11月の文化祭が過ぎるまではその気にならなかった。

文化祭で目立ちまくり、その後はしばらく燃え尽き症候群になったので、受験勉強を始めたのは、12月になってからである。だから受験勉強は 12月と 1月の、実質 2ヶ月しかしていない。

大学は私立文系を受験したので、文系 3科目で済んだ。たった 3科目なら、2ヶ月あれば十分すぎる。しかも社会科では 「倫理社会」 が一番得意だったのだが、それではあまりにも点数を取り過ぎて他の受験生に悪いだろうから、2番目に得意だった 「日本史」 を選択したほどである。

そもそも 「倫理社会」 は 「勉強」 というより 「道楽」 と思っていたので、そんなもので大学入試を受けるのは 「反則」 みたいな気がして、自分から遠慮したのだ。ああ、なんてまあ、呑気な私。

ワセダの入試当日、机の上に裏返しに置かれた問題用紙を、開始のベルが鳴ってひっくり返したとたん、びっくりした。ゴーマンに聞こえたら本当に本当に申し訳ないのだが、「ワセダの入試問題って、こんなに簡単でいいのか!」 と思ってしまったのである。高校入学依頼ずっと必至に勉強してきてこんなので落ちるやつが気の毒だと、心底思った。

当時の私の受験勉強なんてまったくテキトーなもので、今では常識になっているような試験対策なんてほとんどやらなかったし、「過去問」 なんてものも、ざっと流してみた程度だった。「要するに出された問題に答えさえすりゃいいんでしょ。どこからでも、かかっておいで」 という基本姿勢で臨んだのである。

だから、「受験テクニック」 なんてものは、ほとんど身に付いていなかった。当時の田舎の進学校の受験指導なんて、その程度のものだった。こう言っては、ますますゴーマンに聞こえてしまうかもしれないのが恐縮だが、私ってば、テクニックじゃなく、地力であっさり合格したのである。

そして受験テクニックに疎かったというのは、思わぬところでプラスに作用した。

ワセダの前に 「滑り止め」 のつもりで受験した R 大学は、当時珍しいマークシート方式の試験だった。この試験で最後の問題に答え終わり、「さあ、後は寝るか」 と思ったら、なんと回答欄が 1個残っていたのである。

つまり、どこかで問題を 1個飛ばしてしまったのだね。で、私はあろうことか、全部消しゴムで消して、しかも、紛れがないようにきれいに念入りに消して、のんびり最初からやり直したのである。それが礼儀みたいな気がしていた私は、まさに受験生の風上にも置けない呑気すぎる輩だったのだよね。

その結果、その科目は半分もできないうちに時間切れになり、R 大学は当然のごとく不合格となった。

R 大学の合格発表は、ワセダより早かった。だから下手に R 大学に合格していたら、入学金を無駄に支払うところだったが、幸運にも落ちていたために、払わずに済んだのである。

これが、当時の私の唯一の親孝行だったかもしれない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2013/12/24

小学校から英語を正式教科にするんだそうだが

文部科学省は中学校の英語授業を、原則として英語で行う方針を決めたのだそうだ。さらに、20年度から小学校の英語教育の開始時期を現行の 5年生から 3年生に引き下げ、5,6年生では英語を正式な教科とするという。

私はこの問題に関して、6年半ほど前に 「早けりゃいいってもんじゃなかろう」 という記事を書いていて、今でも言いたいことはほとんど変わっていない。私は要するに、安易な英語教育の早期化は、子どもたちが 「英語嫌い」 になるのを早めるだけという結果になると思っているのである。

私は件の記事の中で次のように言っている。

どうせ小学校 5~6年の英語なんて言うのは "Good Morning." "Thank you very much." "My name is ****." に毛の生えた決まり文句ぐらいのものだろうから、そんなのは後になってすぐに覚えられる。

中学校に入ってからほんの数時間で覚えられるものに、小学校高学年の貴重な時間を百何十時間も割くというのは、やはり馬鹿馬鹿しい気がするのである。

英語に限らず、人間が言語を操るには 「言葉センス」 というのが結構大きな役割を果たす。野球をする際の 「野球センスがいい」 とかいうのと同様に、「言葉センス」 というのがあるのだ。言葉センスのいい子は、別に学校で詰め込まれなくても、環境さえ整えれば、日本語でも英語でも勝手に上達する。

考えてもみるがいい。いくら学校で体育や音楽や美術を教えても、すべての子どもたちがスポーツや音楽や絵が得意になるわけじゃない。義務教育で 9年も音楽をやりながら、楽譜を読める大人がこんなにも少ない事実をみれば、小学校から英語を教え始めたところで、英語力が全体的に底上げされるなんて、期待できるわけがないとわかる。

英語を体育や音楽や美術と一緒にするなという人もあるかも知れない。それならば、同じ言語系の 「国語」 を例に取ってみよう。小学校から中学、高校まで、10年以上も 「国語」 を教えられたからといって、日本語をまともに使える日本人がどれだけいるか。

情感を的確に言葉で表現したり、ものごとの筋道を順序立てて論理的に説明できたり、人に読ませてわかるような文章を書けたりする日本人がどれだけいるか、考えてみるがいい。

学校だけでなく、日常生活でどっぷり浸かっている日本語にしてからが、学校で何年教わっても、まともに使いこなせないのである。ましてや英語となったら、「高校卒業時点で 『英検 2級か準 1級程度』 の語学力を習得させる」 なんて、ほとんどおとぎ話である。

日本という国は、何も英語なんか使えるようにならなくても、日常生活ではほとんど困らないから、他の国と比較して英語力が落ちるのは当然なのである。英語を身に付けなければ学問やビジネスができないみたいな国だったら、英語力は嫌でも高まる。

逆にこの国では、英語を学ぶ時間を処世術の修行に当てる方が、まともに出世できたりする。こつこつと英語を学んでいっぱしの 「英語使い」 になると、下手したら企業内で疎んじられ、特殊なケースでしか出番が用意されない便利屋扱いになってしまったりする。つまりこの国では、英語を必要とされるのは、「特殊なケース」 でしかないのだ。

私が期待するのは、せめて子どもたちが 「英語嫌い」 にならないように、楽しく英語に接することができるような環境を作ってもらうことだ。そして英語が 「特殊なケース」 以外でも気楽に使われる 「便利な道具」 になればしめたものだ。それだけで、日本人も多面的な思考ができるようになる。

しかしこれも他の教科と同様に、個々の教師の質によって、楽しく学べたり、苦痛でしかなかったりするのだろう。せいぜい、いい教師に巡り会えるように祈ることだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/04/17

「浸透圧の原理」 に関する誤解

「サイエンスあれこれ」 というブログの 4月 16日付 「浸透圧の原理」 という記事を読んで、私はびっくりこいた。浸透圧というのは、水が高きから低きに流れるような単純な現象ではないというのである。これに関する限り、私は今日まで完全に間違っていたようなのだ。

これは私が極端な文系 (このことについてのきちんとした掘り下げは、こちら を読んでいただくとして) だからというわけではなく、大方の人が誤解しているだろう。なにしろ、Wikipedia の説明からして間違ってるというのだ。

Wikipedia の説明は、ものすごくかいつまんで言えば、半透膜で隔てられた溶液は、「拡散の原理」 によって、溶媒分子が [高] → [低]へと、平衡状態に達するまで移動するためだとしている。(詳しくは Wikipedia のページへどうぞ。いつ変更されるかわからないけど)

しかし、米・バードカレッジ物理学教授 Eric Kramer 氏によれば、この説明は間違っているんだそうだ。というのは、水の拡散だけによる力は、浸透圧の 1/2 から 1/6 程度の力しか生み出さないことが明らかになっているからだ。

実は浸透圧の原動力は、「拡散の原理」 (両者の平衡が取れるまで高きから低きに流れるイメージ) にあるのではなく、溶質のランダムな運動、すなわち 「ブラウン運動」 なのだそうだ。

半透膜の穴は、溶質が通過するには小さすぎるので、ブラウン運動で動き回る溶質の分子は、半透膜にぶつかるたびに跳ね返されてしまう。しかし単に跳ね返されるだけでなく、その跳ね返された勢いで、周りの分子も一緒に引っ張ってしまう。これは溶質の周囲の粘性によるのだという。

この過程における勢いで、半透膜の向こう側から穴を通して顔を出しかけた溶媒分子を引っ張り込んでしまうんだそうだ。濃度の高い方がブラウン運動が活発で、半透膜に盛んにぶつかっては、反対側から溶媒分子を引っ張りこむので、結果として半透膜の両側の水溶液は濃度の平衡が取れてしまうというのである。

つまり水溶液で言えば、溶け込んでいる物質の分子が、繰り返すけれど 「高きから低きに流れるように」 半透膜の向こうに飛び出してしまうんじゃなく、逆に、跳ね返される勢いで、半透膜の向こうから水の分子を引っ張り込んでしまうのだ。

おもしろいのは、物理学の世界では 60年以上も前の 1951年の時点でこの原理が明らかにされていたにも関わらず、生物・化学系の研究者の間では、今でも誤解が多いという事実なのだそうだ。だから、文系の私が誤解してきたのは、別に恥ずべきことでもない。

Kramer氏は 「物理学者が60年以上もの間、化学者とこの問題について十分な話し合いを持たなかったことは驚きに値する」 とコメントしている。「一見して当然すぎるほど当然の現象」 ほど、思い込みを修正するのはむずかしいということなんだろうね。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2013/04/08

学校の授業は、セレモニーのようなもの

小学校の少なくとも低学年の頃、学校の授業というのは 「セレモニーのようなもの」 と信じていた。教科書を読めば一瞬で理解できることを、わざわざ大勢の生徒を集め、ばかばかしいいほどの時間をかけて説明する。そして生徒の方もわからないふりをして教師に付き合う。これが 「セレモニーのようなもの」 でなくて、一体何だろう。

だから私は、小学校の授業というものをまじめに受けたことがない。年度が始まったばかりの頃は、退屈だから勝手に教科書の先の方を読んでいた。どんどん読み進める。とくに国語の教科書なんていうのは、最初の 2~3回の授業で最後まで読み終えてしまう。授業中に半期分 (今はどうだか知らないが、昔の教科書は 「上」 と 「下」 に分かれていたので) の予習完了である。

算数だけは、教科書にある問題を一々解くのに多少の手間がかかるから、最初の 2~3時間というわけにはいかないが、まあ、4月中か 5月の半ば頃までには、教科書 1冊分の予習完了である。

授業中に予習するなんていうのも、別に勉強が好きだったからというわけではない。他にすることがないから、目の前に拡げてある教科書を先まで読み進めるほかに、退屈しのぎの方法がなかったというだけのことである。

ところが、教科書 1冊を読み終えてしまうと、それから先はもう、退屈でしょうがない。ついいたずらをしたくなる。だから私は 「授業をまじめに受けない生徒」 の筆頭格として、教師にはいつも睨まれていた。ただ、授業をまじめに受けはしないが、何しろ新年度が始まってから遅くとも 1ヶ月半で教科書 1冊分の予習ができているのだから、成績は良かった。

小学校の 3年までは、テストに 100点以外の点数があると知らなかった。ただ漫然と回答していればほぼ自動的にすべて正解になり、誤回答をするには余計なボケを考えなければならない。だったら 100点取る方がずっと楽で、人間はどうしても楽な方を選ぶ。友達が 90点を取って喜んでいるのを知って、その 「簡単に間違える才能」 がうらやましかったりした。

小学校の高学年になって、ちょっとしたケアレスミスで 98点とかを取ることもあるようになって、自分もそうした中途半端な、しかし新鮮な深みのある点数を取ることができるのだと、新しい発見をしたような気がした。自分の守備範囲が拡がったようで、逆に嬉しかった。人間、ちょっと抜けている方が楽しいと悟った。

教師には 「もったいない。ちゃんと 『見直し』 をしていれば 100点取れたのに」 と言われたものだが、慎重を期してツルンとしておもしろみのない 100点なんか取るより、陰影のある 98点をあっさり取ることの方がずっとかっこいいと思っていた。それに依然として、フツーにやれば 100点取れてしまっていたので、98点の方が新鮮だったのである。

それ以来、私は完全よりも間抜けを愛する人間になってしまったのである。困ったものである。

まあいずれにしても、小学校ぐらいの授業は、「本を読むのがちょっと得意な生徒」 にとっては、今も 「セレモニーのようなもの」 であり続けているに違いない。それだけならまだいいが、さらに今度は高校の英語の授業も、そんなようなものになってしまいそうな気がしている。

というのは、この 4月からの新学習指導要領完全実施で、高校の英語は 「英語による授業」 が基本となるんだそうだ。このせいで、どちらかといえば教師の方がとまどっているらしい (参照)。

で、英語がちょっとできる生徒にとっては、そしてまた英語が全然できない生徒にとっても、英語の授業はばかばかしい 「セレモニー」 になってしまうのだろう。ああ、どちらにとっても気の毒なことである。

ちなみに、高校の英語の授業は英語で行うことが決まった 4年前、別の視点から 「英語の授業と東京タワー」 という記事を書いているので、お時間があったらどうぞ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012/11/02

ネット予備校への危惧

日経ビジネス On Line に、"「ネット予備校」 が広げる教員格差  人気集中が招く画一化" という記事がある。こんな書き出しである。

suffice、serene、connote。

パソコン画面に表示された動画の中で、チョークを手にした講師が黒板にリズムよく英単語を書き付けていく。口調は歯切れがいい。「語尾に e がある場合は、子音の前が長母音になります。この法則を知っていれば、初めて見た単語でも、どう発音するか判ります」。

この書き出しを読んだだけで、記事が紹介するリクルートマーケティングパートナーズがネット上で配信する 「受験サプリ」 というプログラムを信用してはいけないなと判断しなければならない。

動画の中で講師が歯切れの良い口調で説明する 「法則」 というものが真っ赤な出鱈目であることは、"one" "give" "live" "bubble" "infinite"  "tackle" "practice" "requisite"  "exquisit"などの単語を挙げるだけで、簡単に証明できる。

さらに、"active" "negative"  "inclusive" "exclusive"など、あまたの "tive" "sive" という語尾の単語はどうしてくれるのだ。こんなにも 「例外」 の多い話を 「法則」 と言い切る英語教師の頭の中身は、一体どうなっているのだろうか。

日経ビジネス On Line の記事は、予備校の授業がネット配信されれば、人気講師への生徒の人気の集中が加速され、画一化につながると危惧しているが、それ以前に、もっともらしい間違いが広がることの方が心配である。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2010/10/27

「左右学」 という学問があるんだって

昨日の夕方、NHK BS をちらっと見ていたら、爆笑問題がホストをつとめる番組で、「左右学」 というのをやっていた。これは埼玉大学名誉教授の西山賢一さんという方が始められた学問で、「分子の構造や地球の自転、女性の肖像画の向き、日本文化の特殊性まで、左右が示唆する奥深い世界」 を取り扱うものなんだそうだ。

残念ながら時間が足りなくて、この番組を全部みることはできなかったのだが、なかなかおもしろい内容という気がした。

例えば納豆をかき混ぜるとき、人間は右利きだろうと左利きだろうと、右回り (時計回り) でかき混ぜる人が多いんだそうだ。そのくせ自分が走るときは、陸上競技のトラックをみてもわかるように、左回り (逆時計回り) に走るのが自然だというのだね。

劇場などでも、なぜか左側 (下手側) の座席から先に埋まっていくというから、これは人間の本能的なものなのかもしれない。本が出ていないかと調べたら、西山先生ご本人の著書で 『左右学への招待』 (知恵の森文庫) というのが見つかったが、Amazon では中古出品しかなかった。

私はこの番組の最初の方しかみることができなかったので、もうちょっと知りたいと思ってググってみたら、「井出塾」 というブログで紹介されていた (参照)。私が見たのは、どうやら 10月 21日に NHK 総合で放映された番組の再放送だったらしい。このブログに興味深い記述がある。

今から200~250万年前の原人類は、59%が右利き。5000年前の人類は90%が右利き。壁画や土器の形から分かるそうです。
道具の発達と脳の発達が、左脳を刺激・強化し、右利きを増やすこととなったと西山教授は見る。

へえ、人類は左脳の方をどんどん発達させるにともなって、右利きも一緒にどんどん増えてきたものとみることができるわけだ。壁画や土器の形から推定してわかる時代において、59%が右利きってことは、もっと遡ればほぼ半々に近かったんじゃないかなんて想像できたりする。

話はちょっと変わるが、プロ野球の長嶋さんは今、いつも右手をポケットにしまっておられる。ということは、左脳の方にダメージが残っておいでなのだろう。それに関して平成 17年 7月 10日の記事に、私は次のように書いている。(参照

長嶋さんの脳のダメージが、左脳でなくて右脳だったとしたら、大変だった。直観を司る右脳にダメージが残ったら、長嶋さんが長嶋さんでなくなるところだった。

まさにその通りのようなのである。長嶋さんの脳梗塞がもし右脳を襲っていたら、長嶋さんの、あの直観に満ちた 「動物的カン」 とまで言われたキャラクターが失われてしまうところだった。それは国民的損失と言わなければならなかっただろう。本当に不幸中の幸いだったのである。

いずれにしても、「左右学」 というのはなかなかおもしろい分野のようで、私としては西山先生の新刊が出るのを楽しみに待ちたいと思う。

それから、どうでもいいような話なのだが、西山先生が番組中で 「左右学」 と板書されたとき、「右」 という字の筆順が間違っていた。先に横線を引いていらしたのである。それを見て、私はかえって先生に親しみを感じてしまったりしたのだった。

| | コメント (4) | トラックバック (0)