カテゴリー「学問・資格」の36件の記事

2015/05/16

論理と感覚の狭間と、直観への飛躍

Kamiya English Coaching (KEC) を主催する emi さんが、「初めて見る単語を覚えるとき、私たちは文字を一つひとつ認識するのではなく、スペルのまとまりを画像として認識している」 らしいという、脳の働きを調べた研究の成果を紹介している。(参照

彼女は 「複雑な漢字が読めるけど書けなかったり、似たような文字列を見て「空目(そらめ)」が起きたりするのも、これに関係していそうですね」 とコメントしている。確かに、英語に限らず、我々は文字情報の多くを、アナログな画像として認識しているのではないかという気がする。

一時ネット界隈で話題になった、次のテキストもそんなところから了解できるかもしれない。

こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。
この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか
にんんげ は もじ を にしんき する とき その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば
じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる というけゅきんう に もづいとて
わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。
どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?
ちんゃと よためら はのんう よしろく

引用したテキストは、単語ごとに (時々は文節ごとに) 分かち書きしてあり、そこがミソなのだと思う。いくらなんでもスペースなしにずらずらっと続けて書かれたら、どこからどこまでが独立した単語なのか判別しにくくて、まともには読めないだろう。

しかし、単語としてのまとまりさえはっきりとわかる書き方ならば、文字の順序は少々でたらめでも、最初と最後の文字さえ合っていれば、確かに案外すらすらと読めてしまうのである。これは我々が文字情報としての単語を 1文字ごとに読み込んでいるのではなく、一まとまりのアナログ画像として認識していることを示しているのだろう。

あるいはこれは、単語だけではなくて一繋がりの論理のプロセスも、そんな風に認識しているのではないかという気がする。数学の証明問題なども、同じプロセスを辿るようなものは、ざっと見ただけで解けてしまったりする。私は数学が得意な人の多くは、論理的というより感覚的な人なのだと思っているが、それは案外こんなところからきているのかもしれない。

さらに、「直観」 というのは 「感覚」 をさらに飛躍させたところにあるのかもしれないと思う。ノーベル物理学賞を受賞したりする学者の中には、新発見の多くは論理というより直観から出発していると指摘する人が多い。つまり、天啓のような 「思いつき」 が大発見につながることがあるのである。

仕事でいろいろな人間と接していると、過度に論理的な人というのは、付き合うのがかなり面倒なことがある。彼が自分の考えを説明し始めると、半分ぐらい聞いてしまえばその全貌は大体つかめてしまう。だって極めて論理的なのだから、途中まで聞けば結論は簡単にわかってしまう。シンプルな三段論法は、二段目まで聞けば十分なのだ。

それで、「ああ、そういうことね。それだと、ああなって、こうなって、要するにこうしちゃえばいいよね」 と引き取ってしまうと、彼は 「人の話を最後まで聞け!」 と怒り出したりする。仕方がないから最後まで付き合ってあげても、やっぱり思った通りの当たり前の結論でしかない。

当たり前すぎる論理を、きちんとプロセスを追ってあまりにも懇切丁寧に説明されると、聞いている方としては、いらいらしてしまう。聞く方は特急列車に乗ったごとく、既に終点まで行ってしまっているのに、話す方が各駅停車でゆっくり追いついてくるのだから、じれない方がおかしい。

プレゼンをしていて、聴衆をイライラさせてしまっては失敗である。だから相手を説得するには、どこかで意外性を盛り込む方がいい。「いつもの理解のしかた」 というのを、一度裏切ってしまうと、人間は新鮮さを感じるものなのだ。

私が自分のサイトを 14年前に立ち上げた時、"知的情報の受発信に必要なのは見識ある解釈と 編集、そして最後の 「一ひねり」" というキャッチフレーズにしたのは、その意味でかなり正解だったかも知れないと、今になって気をよくしている。

ただ注意しなければならないのは、聞く方の理解力が不足していると、「チンプンカンプンだった」 と言われかねないことだ。その場合は、こちらも各駅停車で辿らなければならなかったりする。

上述のごとく、三段論法は二段目まで聞けば十分なのだが、実際には三段目まで聞いて初めてびっくりする人が多いのも事実なのである。

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2014/02/27

入試シーズンになると思い出すこと

今頃は入学試験のシーズンで、先日の大雪では試験開始を昼過ぎまでずらしたりするなど、大騒ぎになっていた。いずれにしても、入試というのは受ける方も学校側も大変だなあ。

ちなみに私は、我ながら生意気なことだが、高校でも大学でも大学院でも、入試で苦労したという経験がない。

私の田舎では、高校の選択肢なんてほとんどなくて、中学時代の成績が良かったら、ほぼ自動的に地域で一番の進学校一本で受験するものと相場が決まっていた。当時は競争率だって 1.2倍以下の呑気なもので、「滑り止め」 なんていう意識もなく、公立校を落ちた者がのんびりと私立に願書を出しても間に合った。

私の場合は、通っていた中学の教師をしていた伯父が、「あいつが落ちるようなら誰も受からないから、安心してろ」 と父に言っていたそうで、当人も全然心配していなかった。受験勉強といっても、「今さら何を勉強するんだ」 ってなもので、特別なことは何もせずにあっさりと合格した。

高校在学中も、学校以外で勉強というものをしたことがなく、ただひたすら楽しく遊び回っていた。それでも高校 3年の夏を過ぎて、さすがに大学入試のための勉強というものをしなければならないと気付いたのだが、実際には 11月の文化祭が過ぎるまではその気にならなかった。

文化祭で目立ちまくり、その後はしばらく燃え尽き症候群になったので、受験勉強を始めたのは、12月になってからである。だから受験勉強は 12月と 1月の、実質 2ヶ月しかしていない。

大学は私立文系を受験したので、文系 3科目で済んだ。たった 3科目なら、2ヶ月あれば十分すぎる。しかも社会科では 「倫理社会」 が一番得意だったのだが、それではあまりにも点数を取り過ぎて他の受験生に悪いだろうから、2番目に得意だった 「日本史」 を選択したほどである。

そもそも 「倫理社会」 は 「勉強」 というより 「道楽」 と思っていたので、そんなもので大学入試を受けるのは 「反則」 みたいな気がして、自分から遠慮したのだ。ああ、なんてまあ、呑気な私。

ワセダの入試当日、机の上に裏返しに置かれた問題用紙を、開始のベルが鳴ってひっくり返したとたん、びっくりした。ゴーマンに聞こえたら本当に本当に申し訳ないのだが、「ワセダの入試問題って、こんなに簡単でいいのか!」 と思ってしまったのである。高校入学依頼ずっと必至に勉強してきてこんなので落ちるやつが気の毒だと、心底思った。

当時の私の受験勉強なんてまったくテキトーなもので、今では常識になっているような試験対策なんてほとんどやらなかったし、「過去問」 なんてものも、ざっと流してみた程度だった。「要するに出された問題に答えさえすりゃいいんでしょ。どこからでも、かかっておいで」 という基本姿勢で臨んだのである。

だから、「受験テクニック」 なんてものは、ほとんど身に付いていなかった。当時の田舎の進学校の受験指導なんて、その程度のものだった。こう言っては、ますますゴーマンに聞こえてしまうかもしれないのが恐縮だが、私ってば、テクニックじゃなく、地力であっさり合格したのである。

そして受験テクニックに疎かったというのは、思わぬところでプラスに作用した。

ワセダの前に 「滑り止め」 のつもりで受験した R 大学は、当時珍しいマークシート方式の試験だった。この試験で最後の問題に答え終わり、「さあ、後は寝るか」 と思ったら、なんと回答欄が 1個残っていたのである。

つまり、どこかで問題を 1個飛ばしてしまったのだね。で、私はあろうことか、全部消しゴムで消して、しかも、紛れがないようにきれいに念入りに消して、のんびり最初からやり直したのである。それが礼儀みたいな気がしていた私は、まさに受験生の風上にも置けない呑気すぎる輩だったのだよね。

その結果、その科目は半分もできないうちに時間切れになり、R 大学は当然のごとく不合格となった。

R 大学の合格発表は、ワセダより早かった。だから下手に R 大学に合格していたら、入学金を無駄に支払うところだったが、幸運にも落ちていたために、払わずに済んだのである。

これが、当時の私の唯一の親孝行だったかもしれない。

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2013/12/24

小学校から英語を正式教科にするんだそうだが

文部科学省は中学校の英語授業を、原則として英語で行う方針を決めたのだそうだ。さらに、20年度から小学校の英語教育の開始時期を現行の 5年生から 3年生に引き下げ、5,6年生では英語を正式な教科とするという。

私はこの問題に関して、6年半ほど前に 「早けりゃいいってもんじゃなかろう」 という記事を書いていて、今でも言いたいことはほとんど変わっていない。私は要するに、安易な英語教育の早期化は、子どもたちが 「英語嫌い」 になるのを早めるだけという結果になると思っているのである。

私は件の記事の中で次のように言っている。

どうせ小学校 5~6年の英語なんて言うのは "Good Morning." "Thank you very much." "My name is ****." に毛の生えた決まり文句ぐらいのものだろうから、そんなのは後になってすぐに覚えられる。

中学校に入ってからほんの数時間で覚えられるものに、小学校高学年の貴重な時間を百何十時間も割くというのは、やはり馬鹿馬鹿しい気がするのである。

英語に限らず、人間が言語を操るには 「言葉センス」 というのが結構大きな役割を果たす。野球をする際の 「野球センスがいい」 とかいうのと同様に、「言葉センス」 というのがあるのだ。言葉センスのいい子は、別に学校で詰め込まれなくても、環境さえ整えれば、日本語でも英語でも勝手に上達する。

考えてもみるがいい。いくら学校で体育や音楽や美術を教えても、すべての子どもたちがスポーツや音楽や絵が得意になるわけじゃない。義務教育で 9年も音楽をやりながら、楽譜を読める大人がこんなにも少ない事実をみれば、小学校から英語を教え始めたところで、英語力が全体的に底上げされるなんて、期待できるわけがないとわかる。

英語を体育や音楽や美術と一緒にするなという人もあるかも知れない。それならば、同じ言語系の 「国語」 を例に取ってみよう。小学校から中学、高校まで、10年以上も 「国語」 を教えられたからといって、日本語をまともに使える日本人がどれだけいるか。

情感を的確に言葉で表現したり、ものごとの筋道を順序立てて論理的に説明できたり、人に読ませてわかるような文章を書けたりする日本人がどれだけいるか、考えてみるがいい。

学校だけでなく、日常生活でどっぷり浸かっている日本語にしてからが、学校で何年教わっても、まともに使いこなせないのである。ましてや英語となったら、「高校卒業時点で 『英検 2級か準 1級程度』 の語学力を習得させる」 なんて、ほとんどおとぎ話である。

日本という国は、何も英語なんか使えるようにならなくても、日常生活ではほとんど困らないから、他の国と比較して英語力が落ちるのは当然なのである。英語を身に付けなければ学問やビジネスができないみたいな国だったら、英語力は嫌でも高まる。

逆にこの国では、英語を学ぶ時間を処世術の修行に当てる方が、まともに出世できたりする。こつこつと英語を学んでいっぱしの 「英語使い」 になると、下手したら企業内で疎んじられ、特殊なケースでしか出番が用意されない便利屋扱いになってしまったりする。つまりこの国では、英語を必要とされるのは、「特殊なケース」 でしかないのだ。

私が期待するのは、せめて子どもたちが 「英語嫌い」 にならないように、楽しく英語に接することができるような環境を作ってもらうことだ。そして英語が 「特殊なケース」 以外でも気楽に使われる 「便利な道具」 になればしめたものだ。それだけで、日本人も多面的な思考ができるようになる。

しかしこれも他の教科と同様に、個々の教師の質によって、楽しく学べたり、苦痛でしかなかったりするのだろう。せいぜい、いい教師に巡り会えるように祈ることだ。

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2013/04/17

「浸透圧の原理」 に関する誤解

「サイエンスあれこれ」 というブログの 4月 16日付 「浸透圧の原理」 という記事を読んで、私はびっくりこいた。浸透圧というのは、水が高きから低きに流れるような単純な現象ではないというのである。これに関する限り、私は今日まで完全に間違っていたようなのだ。

これは私が極端な文系 (このことについてのきちんとした掘り下げは、こちら を読んでいただくとして) だからというわけではなく、大方の人が誤解しているだろう。なにしろ、Wikipedia の説明からして間違ってるというのだ。

Wikipedia の説明は、ものすごくかいつまんで言えば、半透膜で隔てられた溶液は、「拡散の原理」 によって、溶媒分子が [高] → [低]へと、平衡状態に達するまで移動するためだとしている。(詳しくは Wikipedia のページへどうぞ。いつ変更されるかわからないけど)

しかし、米・バードカレッジ物理学教授 Eric Kramer 氏によれば、この説明は間違っているんだそうだ。というのは、水の拡散だけによる力は、浸透圧の 1/2 から 1/6 程度の力しか生み出さないことが明らかになっているからだ。

実は浸透圧の原動力は、「拡散の原理」 (両者の平衡が取れるまで高きから低きに流れるイメージ) にあるのではなく、溶質のランダムな運動、すなわち 「ブラウン運動」 なのだそうだ。

半透膜の穴は、溶質が通過するには小さすぎるので、ブラウン運動で動き回る溶質の分子は、半透膜にぶつかるたびに跳ね返されてしまう。しかし単に跳ね返されるだけでなく、その跳ね返された勢いで、周りの分子も一緒に引っ張ってしまう。これは溶質の周囲の粘性によるのだという。

この過程における勢いで、半透膜の向こう側から穴を通して顔を出しかけた溶媒分子を引っ張り込んでしまうんだそうだ。濃度の高い方がブラウン運動が活発で、半透膜に盛んにぶつかっては、反対側から溶媒分子を引っ張りこむので、結果として半透膜の両側の水溶液は濃度の平衡が取れてしまうというのである。

つまり水溶液で言えば、溶け込んでいる物質の分子が、繰り返すけれど 「高きから低きに流れるように」 半透膜の向こうに飛び出してしまうんじゃなく、逆に、跳ね返される勢いで、半透膜の向こうから水の分子を引っ張り込んでしまうのだ。

おもしろいのは、物理学の世界では 60年以上も前の 1951年の時点でこの原理が明らかにされていたにも関わらず、生物・化学系の研究者の間では、今でも誤解が多いという事実なのだそうだ。だから、文系の私が誤解してきたのは、別に恥ずべきことでもない。

Kramer氏は 「物理学者が60年以上もの間、化学者とこの問題について十分な話し合いを持たなかったことは驚きに値する」 とコメントしている。「一見して当然すぎるほど当然の現象」 ほど、思い込みを修正するのはむずかしいということなんだろうね。

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2013/04/08

学校の授業は、セレモニーのようなもの

小学校の少なくとも低学年の頃、学校の授業というのは 「セレモニーのようなもの」 と信じていた。教科書を読めば一瞬で理解できることを、わざわざ大勢の生徒を集め、ばかばかしいいほどの時間をかけて説明する。そして生徒の方もわからないふりをして教師に付き合う。これが 「セレモニーのようなもの」 でなくて、一体何だろう。

だから私は、小学校の授業というものをまじめに受けたことがない。年度が始まったばかりの頃は、退屈だから勝手に教科書の先の方を読んでいた。どんどん読み進める。とくに国語の教科書なんていうのは、最初の 2~3回の授業で最後まで読み終えてしまう。授業中に半期分 (今はどうだか知らないが、昔の教科書は 「上」 と 「下」 に分かれていたので) の予習完了である。

算数だけは、教科書にある問題を一々解くのに多少の手間がかかるから、最初の 2~3時間というわけにはいかないが、まあ、4月中か 5月の半ば頃までには、教科書 1冊分の予習完了である。

授業中に予習するなんていうのも、別に勉強が好きだったからというわけではない。他にすることがないから、目の前に拡げてある教科書を先まで読み進めるほかに、退屈しのぎの方法がなかったというだけのことである。

ところが、教科書 1冊を読み終えてしまうと、それから先はもう、退屈でしょうがない。ついいたずらをしたくなる。だから私は 「授業をまじめに受けない生徒」 の筆頭格として、教師にはいつも睨まれていた。ただ、授業をまじめに受けはしないが、何しろ新年度が始まってから遅くとも 1ヶ月半で教科書 1冊分の予習ができているのだから、成績は良かった。

小学校の 3年までは、テストに 100点以外の点数があると知らなかった。ただ漫然と回答していればほぼ自動的にすべて正解になり、誤回答をするには余計なボケを考えなければならない。だったら 100点取る方がずっと楽で、人間はどうしても楽な方を選ぶ。友達が 90点を取って喜んでいるのを知って、その 「簡単に間違える才能」 がうらやましかったりした。

小学校の高学年になって、ちょっとしたケアレスミスで 98点とかを取ることもあるようになって、自分もそうした中途半端な、しかし新鮮な深みのある点数を取ることができるのだと、新しい発見をしたような気がした。自分の守備範囲が拡がったようで、逆に嬉しかった。人間、ちょっと抜けている方が楽しいと悟った。

教師には 「もったいない。ちゃんと 『見直し』 をしていれば 100点取れたのに」 と言われたものだが、慎重を期してツルンとしておもしろみのない 100点なんか取るより、陰影のある 98点をあっさり取ることの方がずっとかっこいいと思っていた。それに依然として、フツーにやれば 100点取れてしまっていたので、98点の方が新鮮だったのである。

それ以来、私は完全よりも間抜けを愛する人間になってしまったのである。困ったものである。

まあいずれにしても、小学校ぐらいの授業は、「本を読むのがちょっと得意な生徒」 にとっては、今も 「セレモニーのようなもの」 であり続けているに違いない。それだけならまだいいが、さらに今度は高校の英語の授業も、そんなようなものになってしまいそうな気がしている。

というのは、この 4月からの新学習指導要領完全実施で、高校の英語は 「英語による授業」 が基本となるんだそうだ。このせいで、どちらかといえば教師の方がとまどっているらしい (参照)。

で、英語がちょっとできる生徒にとっては、そしてまた英語が全然できない生徒にとっても、英語の授業はばかばかしい 「セレモニー」 になってしまうのだろう。ああ、どちらにとっても気の毒なことである。

ちなみに、高校の英語の授業は英語で行うことが決まった 4年前、別の視点から 「英語の授業と東京タワー」 という記事を書いているので、お時間があったらどうぞ。

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2012/11/02

ネット予備校への危惧

日経ビジネス On Line に、"「ネット予備校」 が広げる教員格差  人気集中が招く画一化" という記事がある。こんな書き出しである。

suffice、serene、connote。

パソコン画面に表示された動画の中で、チョークを手にした講師が黒板にリズムよく英単語を書き付けていく。口調は歯切れがいい。「語尾に e がある場合は、子音の前が長母音になります。この法則を知っていれば、初めて見た単語でも、どう発音するか判ります」。

この書き出しを読んだだけで、記事が紹介するリクルートマーケティングパートナーズがネット上で配信する 「受験サプリ」 というプログラムを信用してはいけないなと判断しなければならない。

動画の中で講師が歯切れの良い口調で説明する 「法則」 というものが真っ赤な出鱈目であることは、"one" "give" "live" "bubble" "infinite"  "tackle" "practice" "requisite"  "exquisit"などの単語を挙げるだけで、簡単に証明できる。

さらに、"active" "negative"  "inclusive" "exclusive"など、あまたの "tive" "sive" という語尾の単語はどうしてくれるのだ。こんなにも 「例外」 の多い話を 「法則」 と言い切る英語教師の頭の中身は、一体どうなっているのだろうか。

日経ビジネス On Line の記事は、予備校の授業がネット配信されれば、人気講師への生徒の人気の集中が加速され、画一化につながると危惧しているが、それ以前に、もっともらしい間違いが広がることの方が心配である。

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2010/10/27

「左右学」 という学問があるんだって

昨日の夕方、NHK BS をちらっと見ていたら、爆笑問題がホストをつとめる番組で、「左右学」 というのをやっていた。これは埼玉大学名誉教授の西山賢一さんという方が始められた学問で、「分子の構造や地球の自転、女性の肖像画の向き、日本文化の特殊性まで、左右が示唆する奥深い世界」 を取り扱うものなんだそうだ。

残念ながら時間が足りなくて、この番組を全部みることはできなかったのだが、なかなかおもしろい内容という気がした。

例えば納豆をかき混ぜるとき、人間は右利きだろうと左利きだろうと、右回り (時計回り) でかき混ぜる人が多いんだそうだ。そのくせ自分が走るときは、陸上競技のトラックをみてもわかるように、左回り (逆時計回り) に走るのが自然だというのだね。

劇場などでも、なぜか左側 (下手側) の座席から先に埋まっていくというから、これは人間の本能的なものなのかもしれない。本が出ていないかと調べたら、西山先生ご本人の著書で 『左右学への招待』 (知恵の森文庫) というのが見つかったが、Amazon では中古出品しかなかった。

私はこの番組の最初の方しかみることができなかったので、もうちょっと知りたいと思ってググってみたら、「井出塾」 というブログで紹介されていた (参照)。私が見たのは、どうやら 10月 21日に NHK 総合で放映された番組の再放送だったらしい。このブログに興味深い記述がある。

今から200~250万年前の原人類は、59%が右利き。5000年前の人類は90%が右利き。壁画や土器の形から分かるそうです。
道具の発達と脳の発達が、左脳を刺激・強化し、右利きを増やすこととなったと西山教授は見る。

へえ、人類は左脳の方をどんどん発達させるにともなって、右利きも一緒にどんどん増えてきたものとみることができるわけだ。壁画や土器の形から推定してわかる時代において、59%が右利きってことは、もっと遡ればほぼ半々に近かったんじゃないかなんて想像できたりする。

話はちょっと変わるが、プロ野球の長嶋さんは今、いつも右手をポケットにしまっておられる。ということは、左脳の方にダメージが残っておいでなのだろう。それに関して平成 17年 7月 10日の記事に、私は次のように書いている。(参照

長嶋さんの脳のダメージが、左脳でなくて右脳だったとしたら、大変だった。直観を司る右脳にダメージが残ったら、長嶋さんが長嶋さんでなくなるところだった。

まさにその通りのようなのである。長嶋さんの脳梗塞がもし右脳を襲っていたら、長嶋さんの、あの直観に満ちた 「動物的カン」 とまで言われたキャラクターが失われてしまうところだった。それは国民的損失と言わなければならなかっただろう。本当に不幸中の幸いだったのである。

いずれにしても、「左右学」 というのはなかなかおもしろい分野のようで、私としては西山先生の新刊が出るのを楽しみに待ちたいと思う。

それから、どうでもいいような話なのだが、西山先生が番組中で 「左右学」 と板書されたとき、「右」 という字の筆順が間違っていた。先に横線を引いていらしたのである。それを見て、私はかえって先生に親しみを感じてしまったりしたのだった。

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2010/01/25

シナプスがつながった感

heis101 さんの Tweet からのリンクで、「邪念草」 というブログの 「なぜ勉強ができないか」 というエントリーを読んだ。このブログでは、その理由をとてもシンプルに結論づけていて、「勉強ができるかどうかは興味が持てるかどうか。以上」 と言い切っている。ずいぶん潔いことである。

で、Twitter の中でも、「点」 が 「線」 になるとかいう話題で少し盛り上がっていた。まてよ、私もそれと似たようなことを書いたことがあるなあと思いつつ、自分の過去記事を辿ったら、"「知ること」 の醍醐味" という記事が見つかった。私はこの 3年 3ヶ月も前の記事で、次のように書いている。

「知ること」 の醍醐味は、いくつかの知識の断片でしかなかったものが、たった一つの新たな知識によって、突然、美しい 「体系」 に姿を変えてしまったりすることだ。

(中略)

「知の醍醐味」 を知るためには、断片的な知識はできるだけ多くあった方がいい。一見無関係に思われるそれらの知識の断片が、一瞬にしてバチバチっと関連付き、見事な体系となるのだから、知識が多ければ多いほど素晴らしいダイナミズムを表現できる。

とまあ、こんなことを書いているのである。この醍醐味を知ってしまったら、「興味が持てるかどうか」 どころじゃない。もう、抜け出せない境地にはまりこんでしまうのである。「点」 が「線」 になる程度で満足しちゃいけない。「面」 になるなんていう言い方もあるだろうが、それでも物足りない。「体系」 にまでならなければつまらないではないか。

で、私も少しそれ関連で Tweet してみたのだが、それは言い換えると、「シナプスがピッとつながった感」 ということだ。長いんで、以後は 「つながった感」 と省略させてもらう。この 「つながった感」 が大切で、それがないと一歩も前に進めないのだ。いや、無理に進めば進めるかもしれないが、それじゃ全然楽しくないのだ。

「つながった感」 もないのに進んでも、それは単なる 「詰め込み」 だから、すぐに忘れてしまう。忘れてしまえばそれっきりで、何も残らない。だから、凡人は 「勉強なんて役に立たない」 と思ってしまうのだ。

と、こんなところまで考えて、自分のことを思い返してみると、近頃、この 「つながった感」 が希薄なことに気が付いた。まったくないわけじゃないが、それはもう、得意分野の延長線上でちまちまとつながっているだけのような気がする。だから、思いっきり新鮮に 「ピッと」 つながったという 「つながった感」 じゃないのだ。

年とると、まったく新しい分野に挑戦して 「つながった感」 を得るというのがおっくうになる。お馴染みマターだと、いくらでもどんどんつながっていくが、それはある種のデジャヴゥでしかない。新鮮じゃないのだ。

だから、おっくうでも少しは新しい分野に興味をもって、新しい 「つながった感」 を獲得しないと、ボケてしまいそうな気がするのである。「興味が持てるかどうか」 というより、「つながった感」 の醍醐味を知っていて、「また、あいつを味わってみたいな」 と思えるかどうかなのだと、私は思ってしまうのだよね。

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2009/01/03

肝心なのは英語教師の力量

「エイゴの時間」 というサイトに 「remember to do と remember doing」 というページがある。2つの言い回しの違いは何かということだ。

正解は "remember to do" は 「これからするこを覚えておく」 ということで、"remember doing~ は 「過去にしたことを覚えている」 ということだ。同じ意味じゃないのである。

その昔、学校英語で、不定詞と動名詞というのを教わった。そして不定詞にも名詞的用法と形容詞的用法と副詞的用法とがあって、どーたらこーたらで、名詞的用法の場合は、動名詞を使った場合と同じ意味になるとかいうのであった。実際はそんな単純なもんじゃないのだが。

前述の二つの用法は、どちらも名詞的用法だが、意味が違ってしまう。いや、もしかして "remember to do~" は副詞的用法の範疇 (「~するために覚えている」 って感じ) なのかなあ。ああ、わけわからん。こればっかりは、文法なんかで覚えるよりも、できるだけ英語に接して感覚で理解する方がずっと確実だ。

ネイティブ・スピーカーだって、いちいち 「これは名詞的用法」 とか 「これは副詞的用法」 なんて考えながら使い分けているわけじゃあるまいし。

昨年 12月 23日に書いた 「英語の授業と東京タワー」 という記事で、「高校の英語の授業は、原則として英語で進める」 という文科省方針に、現場の教師が困惑しているというようなことについて触れた。

高校でそのレベルの授業をするためには、中学できちんとした基礎を身につけなければならないだろう。しかし、中学の英語の先生って、本当に大丈夫なんだろうか。大丈夫な教師もいるんだろうが、私は自分の経験から、ちょっと心配である。

私は田舎の中学での 3年間を、英語教師のあまりのお粗末さに呆れて過ごした。昨年のエントリーで触れた上野先生の塾でちょこっと英語を習ったばかりの私が、中学の教師の教える英語のひどさには、毎回がっくりくるのである。そして、「この教師を信じたら、とんでもないことになる」 と感じていた。

とくに A という教師は発音から何から間違いだらけなのだが、中学校 2年の年のある日、とても我慢のならないでたらめを我々に教え込もうとした。"I stopped to read a book." と "I stopped reading a book." は、両方とも 「本を読むのを止めた」 という同じ意味だというのである。

普段は 「まったくしょうがねえなあ」 と聞き流すことに決めていた私だが、こればかりは我慢がならず、「先生、いくら何でも、それは違う」 と注意したのである。「本を読むために止まった」 と 「本を読むのを止めた」 とは、全然違う。

ところが彼は、「違わない、同じ意味だ」 と言い張る。「不定詞と動名詞は同じ意味だ。文法的にそうなっている」 と、しまいには怒り出すのである。私は 「それじゃ、先生は勝手にそう思っていればいい。こっちも勝手に本当のことを学ぶから」 と、匙を投げた。

この時、クラスメイトはその A という英語教師よりも私を信じた。私の英語の方が使い物になるということは、既に証明済みだったのだ。前述の 「英語の授業と東京タワー」 の記事で書いたように、中学 2年生の私が米国人と英語で話すのを、クラスメイトたちは目撃しているのだから。教師の A の方が、外国人と英語で会話できそうには到底見えなかったし。

後日 A は私にこっそりと、「あの時は済まなかった。後でよく調べたら、お前の方が正しかった」 と詫びてきた。当たり前だ。ただ、それまで何年生徒にデタラメを教えてきたのだ。

私は 「それじゃ、授業でもちゃんとそう言ってください。俺たちは嘘を教えられてしまったんだから」 と言ったのだが、ついに彼は授業の中では自分の間違いを認めなかった。多分、翌年からはその部分だけは修正されただろうが。

平成の御代の中学の英語教師は、いくら何でもこれほどにはひどくないだろうが、それでも私の不安は消えない。英語の授業は (本当は英語の授業だけではないだろうが)、文科省の方針以前に、教師の力量が大きく左右するのである。

高校の教師が、今さらながら英会話スクールに通って会話を学ぶなんてことがあるらしいが、お笑いぐさである。本来なら街の英会話スクールごときは、英語の教師が参加するには、ちゃんちゃらおかしいレベルのはずではないか。

「本当に英語のできるやつは、学校で子どもなんか相手にせず、自分の商売に使う」 と聞いたことがあるが、確かにそうかもしれないと思ったりする。そうなると、ちゃんとした英語を教えてくれる先生に巡り会うのは、よっぽど運がよくなければならないだろう。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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2008/12/10

即物的 「読み・書き・算盤」 の限界

小学 4年と中学 2年を対象に基礎学力を測る 「国際数学・理科教育動向調査 (TIMSS)」 で、日本の子どもは文章題と記述解答を求める問題に弱い傾向があるとわかったという。

詳しい話は こちら に飛んで読んでいただくとして、私は日本人が文章題と記述式に弱いのは、今に始まったことじゃないと思うのだ。

日本人の教養というのは、遙か江戸の昔から 「読み・書き・算盤」 というのが連綿と継承されてきた。江戸時代から寺子屋というシステムがあったので、日本人は庶民に至るまで文盲率が低く、計算もできるということで、教育基盤は世界的にもトップクラスだったのである。

ただ、問題は 「読み・書き・算盤」 というのは、単に 「文字を読み書きでき、四則計算ができる」 ということでしかないということだ。即物的なのである。「文章を読んで解釈し、わかりやすい文章を書き、問題解決のために的確で論理的な計算を行う」 という実践的なレベルまでは、あまり明確に要求されてこなかったのだ。

単純な 「読み・書き・算盤」 と、「文章解釈・文章表現・論理的計算能力」 というのは、実は似て非なるものである。 単なる 「読み・書き・算盤」 は、ユングの気質分類に沿っていえば、「論理」 よりも 「感覚」 の領域に属するものなのだ。「論理的に思考しなくても、ぱっと見てぱっと把握できる」 という能力である。

例えば我々は、犬を見て 「犬だ」 と判断するのに、わざわざ論理的思考はしない。猫との違いを子細に検証したりしなくても、犬は犬だとわかる。これが 「感覚的」 判断というもので、即物的な 「読み・書き・算盤」 も、それと似たところがある。

文字を読むのに、いちいち文字の成り立ちから論理的に類推して読んだりはしない。「あ」 という文字は 「ア」 と読むものと、既に感覚的に理解している。算盤の珠を弾くのに、いちいち論理的に考えていては、読み上げ算について行けない。

算盤が得意な人が論理的思考ができるかといえば、必ずしもそういうわけではない。逆に、いちいち論理で考えるタイプは、算盤が苦手である。算盤というのは、論理で考えなくても感覚的にサクサクと計算結果を出すための道具なのだから、当然といえば当然である。

論理はプロセスが遅く、感覚や直感は速いのである。その代わり、感覚や直感は間違いが多いが、論理はまっとうに突き詰めさえすれば、的はずれに陥る危険性は小さい。で、日常的な些細なことは感覚優先でサクサク処理し、重要な問題は論理優先で突き詰めるというのが、フツーのやり方である。

ところが、日本人はこの 「論理的思考」 が苦手なのである。多分、日本語が 「感情・感覚・直感」 を表現する方向で進化してきて、論理思考に向いた言葉とならなかったということも関係していると思う。

例えば、以前の上司は、「A=B、B=C、故に A=C」 という三段論法を理解できない人だった。A=B なら理解できる。そして B=C もわかる。だが 「故に A=C」 となると、「なんでそう決めつけるんだ。やってみなきゃわからないじゃないか!」 となるのである。

例えば、彼が A というプロジェクトを提案したとする。ところがそれは、明らかに過去の B1、B2、B3 …… といったプロジェクトの単純な焼き直しである。そして元になった過去のプロジェクトは、ことごとくある要件がネックになって期待通りの成果が上がらなかった。

そこで私はその上司に率直に言う。

「そのプランは、過去にもつまづいた○○要件にひっかかりますね」

すると、その上司はこう答える。

「どうして君は、何もしないうちから、そう後ろ向きなことを言うんだ。やってみなきゃわからないじゃないか。やればできるんだ」

恐縮だが、私は決して後ろ向きな人間ではない。むしろポジティブな方である。だからこそ同じやるなら、失敗要因とわかりきっている部分をきちんとクリアしてから着手すべきだと言いたいのである。ところが、その上司は 「やればできる」 と、竹槍で B29 的な姿勢に固執する。

事実、その上司はなかなか行動的な人で、過去の同様のプロジェクトでも自ら額に汗して飛び回り、無理矢理に一定の売上げを叩きだしたという実績を持つ。だからこそ、自信を持って 「やればできる」 と言い張るのだ。

ところが彼の売上げは、それとほぼ同額のコストをかけて達成されたもので、こういうのを日本語では 「経費倒れ」 というのである。

彼は、「売上げが上がった」 という事実は理解できる。というか、それこそが自慢の種だから、積極的にこだわりたいところである。そして、年次決算で支出が増加したという事実も、単純数字だから理解できる。

その支出増の要因については、他の部署は経費をできるだけ切りつめていて、増えているのはあんたのところだけだと、事実として突きつけられて、ようやく理解する。ところが、「それは必要な経費だったんだ。自分は額に汗してかけずり回ったのだ」 と言い張る。

その売上げが会社全体の利益にほとんど貢献していないどころか、他にさくべき人的資源と時間を浪費しただけということには、決して気付かない。そして会社としても、あまりそれについては追及しない。なにしろ、見かけ上の売上げは上がっているので。

かくのごとく、日本のビジネスは、論理ではなく各自の感情論で遂行されているところがある。

それは、即物的な数字を即物的に計算するという単純能力の育成には力を入れるけれど、実際の課題を解釈し、解決し、それをわかりやすく表現するという論理的な教育が軽視されているからということも、背景にあるだろう。

そしてその教育的背景自体も、とりもなおさず社会の実情から発しているわけで、堂々巡りなのだが。

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