カテゴリー「経済・政治・国際」の500件の記事

2018/11/19

大臣の劣化は、国民の劣化の現れ

今年 4月 25日の"「弱り目にたたり目」 の政権" という記事で、「近頃、麻生さんの人相が悪くなったんじゃなかろうか。昔はもう少し柔らかみがあったような気がするが、安倍さんなんかとみっちり付き合っているうちに、こんなような顔になってしまった」 と書いたが、最近ではさらに輪を掛けて顔が悪くなってしまったと感じる。

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世の中では 「人の税金で東大に行った」 という発言について、失言だの放言だのと批判されているが、こんなの、批判に値するほどの発言じゃなく、単なる世迷い言に過ぎない。最近の麻生さんの頭の中は、人相以上に劣化してしまったもののようだ。

今月 10日は例の桜田義孝五輪担当大臣の答弁について 「哀れなオッサンを責め立てるしかない、政治の劣化」 という記事を書いた。桜田大臣の場合は、日本語が不自由すぎる答弁が槍玉に挙げられたが、今回の麻生さんの発言もレベルで言えば大体似たようなものである。片や訥々、片や饒舌という違いに過ぎず、要するに頭の中が劣化している現れに過ぎない。

こんな程度の発言をまともな正論で批判しても、馬鹿馬鹿しいだけである。こんなような馬鹿馬鹿しいレベルの人たちが政府の大臣なんか務まちゃってしまってるというのは、我々国民の責任でもあるのだよ。何しろ、国会議員を投票で選んだ結果が、こんなことなのだから。

我々自身が劣化しちゃってるということに、少しは危機感を抱かなければならないのだろうね。

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2018/11/10

哀れなオッサンを責め立てるしかない、政治の劣化

私は普段、テレビをあまり見ないので、ネット上で桜田義孝五輪担当大臣の答弁がやたらと話題になっているのを見て、「一体何がどうしたんだ?」 と思っていた。蓮舫議員から質問の事前通告がなかったとかあったとかなんていうのは、まったくくだらない話じゃないかと。

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しかし今日になって FNN Prime のページ (参照) で実際の答弁の動画を見て、「なるほど、こりゃウケてしまうわけだ!」 と、初めて納得した。山出しの冴えないオッサンが急に晴れ舞台に立たされ、頭の中が白くなって、「素」 に戻りすぎている。しどろもどろの答弁をする様子が、完全に 「見世物」 扱いだ。

この人、スーツのラペルにやたらいろんなバッジをくっつけて、いかにも既成の権威に頼っている様子も、自信のなさの裏返しとしか思われない。これでは本当に 「どうして大臣に選ばれたのかわからない」 のだろう。

で、世間では 「こんな人物に大臣が務まるわけがない」 とか 「早く辞任すべきだ」 とか、いろいろな 「正論」 が飛び交っているわけだが、何だかあんまり 「残念な見世物」 過ぎて、正論を突きつけるのもうっとうしい気がする。こんな 「哀れなオッサン」 を責め過ぎては、気の毒とさえ思ってしまうのだよね。「刀の汚れ」 という言葉を思い出してしまったよ。

で、この 「刀の汚れ」 を一向に気にする様子もなく、気の毒なオッサンを責め立てるのが、あの蓮舫議員である。鞭を手にした女王様の如き鋭い眼光で、哀れな子羊を一片の容赦もなく責めに責める。まさに 「ドS 体質」 丸出しだ。この役者っぷりが鼻につきすぎて、田舎の小芝居を見ているような、もの悲しい感覚に襲われる。

こんなオッサンを大臣にするしかないほど、自民党も人材不足なのか、あるいは、国会なんて元々そんな程度の人物の集まりでしかないのか。そして野党側も、こんな哀れなオッサンを生け贄にするしか点数稼ぎの舞台がないのか。いずれにしてももの悲しい限りの政治の劣化である。

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2018/11/07

若者が投票に行きたがらないのは

NewSphere が 「アメリカの若者が選挙に行かない理由 日本とは異なるシステム上の問題も」 という記事を報じている。見出しでは日本と異なるファクターが強調されている感があるが、内容的をよく読むと日本とも重なる部分が多いように思える。

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記事の内容は、米中間選挙を前に、ニューヨーク・マガジンが掲載したインタビュー記事を紹介したものだ。インタビューに登場するのは、「選挙では多分投票しない」 と答えた 21~29歳の 12人の若者たちである。

米国で若者の投票率が低いのは、投票するためのシステムが日本より煩雑で手間がかかるためでもあるというのは、かなり知られたことである。日本では一定の年齢に達すると自動的に自宅に投票券が届くが、米国では 「事前登録」 の手続きが必要で、これに手間がかかるために敬遠する若者が多い。

また、米国の投票日は (今回の中間選挙のように) 平日であることが多いので、期日前投票や不在者投票ができない州では、仕事を休んで投票に行かなければならない。そのため、米国の選挙システムは 「安定した職と定住場所がある大人に向いており、若者やマイノリティのような不安定な層には向かない」 という指摘がある。

ただ、米国の若者の投票率が低い理由は、こうした制度上の問題だけではない。インタビューによって浮かび上がったのは、若者の抱く選挙への 「幻滅感」 だった。とくに 2年前の大統領選でヒラリーを支持した層にこの幻滅感が大きく、「よくわからないのに投票する有権者になるより、物事をよく知りながら投票しない人でいたい」 という発言が注目される。

また、2016年に民主党サンダース候補のボランティアだった若者の 「最後にサンダース氏が党のために敵対していたヒラリー候補を承認したことなどで、政治は茶番だとわかり、すっかり嫌気がさした」 という反応も紹介されている。

さらに 「知らないことがあるのに、投票に自信が持てない。間違った決定を下したくない」 「自分の一票では変わらない。投票に行かないと非難されるが、有権者を熱狂、関与させるものがない」 「選挙制度が間違いだと思っているのに選挙に行くことはその制度を承認することになる」 などの意見もあったという。

選挙制度の違いによる理由を除けば、日米両国の若者の 「投票しない理由」 というのは、かなり共通したものがあるとみていいだろう。違いといえば、米国の若者はポジティブな姿勢が裏切られたことによる 「明確な不信感」 の増大という傾向が大きく、日本ではもっと漠然とした 「政治不信」 とか、「政治に期待してもしょうがない」 という無力感といった要素が大きいという印象だ。

こうしてみると、若者が自然に積極的に投票に行くためには 「自分たちがきちんと選挙による意思表示をしないと、大変なことになってしまう」 という危機感をもつことが必要ということになる。ただ、そうした 「危機感」 を明確にもたざるを得ないような状況には、あまりなって欲しくない。いや、もしかしたら既にそうした状況にさしかかっているのかもしれないが。

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2018/10/07

天皇のあり方に関する自家撞着があるか、ないか

昨日の 「左も右も、情念の劣化から迷走が始まる」 という記事に貼り付けておいた YouTube 動画 「三島由紀夫 vs 東大全共闘 (長尺版)」 について、今日もまた蒸し返そうと思う。昨日の書き方だけだと、私が三島シンパだなんて誤解されないということもあるし。

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この討論会では 「天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐ」 という三島の発言が世間の注目を浴びた。ところがこの当時、大方はこれを三島の 「トンデモ発言」 としてしか受け取らず、全共闘側もそれほどシリアスな発言としては考えていなかったと思う。つまり 「天皇」 は革命における打倒すべきターゲットとしては考えられていなかった。

「打倒」 とまでは行かないが、(現在の) 天皇の存在というか、あり方を否定する傾向が強いのは、むしろ右側の勢力においてであるだろう。これは注目していいし、実はその傾向は戦前から強かったとも思われるフシがある。

上に貼っておいた画像は、9月 30日付で 「News ポストセブン」 に載った "「陛下は靖国を潰そうとしてる」 靖国神社トップが 「皇室批判」" という記事だ。靖国神社のトップ、小堀邦夫宮司が 「教学研究委員会」 で 「今上陛下は靖国神社を潰そうとしてるんだよ」 と語ったと伝えられているのである。充分あり得る発言だ。

これはほぼ半世紀前の三島の発言と重なる要素を多く含んでいる。昨日の記事に貼り付けた動画の、8分 22秒あたりから先に注目してもらいたい。この時の三島発言を以下に引用しておく。

「私が今、天皇、天皇と言うのは、今まさに洞察されたように、今の天皇は非常に私の考える天皇ではいらっしゃらないからこそ言える。そして私の考える天皇にしたいからこそ、私は言っているんであって……」

「……ところが天皇というものはそれほど堂々たるブルジョアじゃないんだ。もし天皇がたらふく食っているような堂々たるブルジョアであったら、革命はもっと容易だったんだ。それでないからこそ、革命は難しいんじゃないか。そしてその難しさの中で諸君は闘い、私も戦っている。それは日本の民衆の底辺にあるものなんだよ」

「それを天皇と呼んでいいかどうかわからない。たまたま僕は天皇という名前をそこに与えるわけだ」

この発言は非常に重要なものであって、戦前だったら完全に不敬罪になってしまうところだ。右側の少なからぬ人たちは、口では 「天皇、天皇」 とあがめ奉りながら、その実、天皇に非常な不満を抱いている。上述の靖国神社宮司の発言は、それを象徴するものだ。

いわば天皇論に関して自家撞着に陥っているわけだが、この自家撞着は戦前の価値感に立ち返れば一挙に解決する。「教育勅語」 問題に代表されるような彼らの 「戦前回帰欲求」 は、根本的にはここに由来するとみて間違いない。

しかし彼らにとっての最大の問題は、当の天皇陛下ご自身が、戦前の価値感に立ち返るようなお考えは微塵もお持ちでないように見受けられることだ。そして私自身は、こうした今の天皇のあり方についてとても肯定的に捉えている。私は 「愛国者」 を自負しているが、いわゆる右翼との基本的な違いは、天皇に関する自家撞着のないことだと、最近明確に気付いた。

10月 5日付の "柴山文科相の 「教育勅語発言」 の土壌" からの 3日連続シリーズは、ひとまずこれで一区切りとする。

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2018/10/06

左も右も、情念の劣化から迷走が始まる

昨日の 「柴山文科相の 「教育勅語発言」 の土壌」 という記事で、柴山氏を散々くさしてしまったわけだが、まあ、彼も仮にも東大を出て司法試験にも合格しているわけだから、まんざらバカでもないはずなのだ。まんざらバカでもないおっさんが、こと 「教育勅語」 の話になるとあんなにまでおバカになってしまうのは、そこに何か特別な構造があるとしか思われないのである。

まず思い当たるのは、この類いの話になると、人間は 「論理」 ではなく 「情念」 が先走るということだ。上の YouTube 動画は大昔も大昔、1969年 5月に東大教養学部 (駒場キャンパス) で行われた、三島由紀夫と東大全共闘による伝説の討論会 『討論 三島由紀夫 vs. 東大全共闘 ― 美と共同体と東大闘争』 の模様だ。

この動画では、全共闘側は徹底して空疎な論理 (のようなこと) をまくし立て、一方で三島は情念ほとばしる発言を繰り返す。三島の 「天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐ」 という発言は今も語り草だ。彼がこの発言の前に 「これはあなた方に論理的に負けたということを意味しない」 と言っているのは重要なポイントだと思う。

つまり、彼の中で情念は論理に優先しているのだ。そして 2011年にこの動画が YouTube で公開されると、全共闘側の言辞に関して 「口先だけ」 「小賢しい理窟だけ」 とするコメントが付けられまくっているのはご覧の通りで (参照)、あれから半世紀経った今日、勝利したのは三島の情念の方だったようにさえ見える。

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上の画像は、この討論会の前年、1968年に開催された第19回駒場祭のポスターである。「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」 というのは、横尾忠則によるポスターのコピーフレーズだが、今はこれが 「テーマ」 だったと受け止められている。こんなにまで情念迸っていたと思いきや、そのわずか半年後の討論会の場では、あんなに上滑りになる以外の現実的な方法論がなかったのだね。東大全共闘は。

で、私が大学に入ったのは 1971年 (東大じゃなくてワセダだったんだけどね)。この討論会の 2年後で、三島自決の半年後だった。何度か書いているが、私が入学した頃には左翼運動は早くも論理的にも劣化していて、「こいつらと議論していたら、こっちまでバカになってしまう」 としか思われなかった。

そしてさらに言えば、今の日本会議系のお歴々の口走ることを聞くと、やっぱりかなり劣化してしまっているのである。皆ステロタイプの決まり文句を繰り返すばかりで、仲間内だけでいい気持ちになっているのは、私が大学に入った頃の左翼と同じだ。志 (こころざし) 低すぎで、三島的情念は薄れてしまった。

で、例の柴山文科相の 「教育勅語発言」 も、お友達同士だけで通じて 「そうだよね、よくぞ言ってくださった」 と、右側サークルの中での点数稼ぎになっているだけとしか思われないのである。単なる 「点数稼ぎ」 発言だから、論理的であろうはずがなく、その上、情念的にも救いがたいほどに劣化している。

ちょっと前の稲田朋美議員や今回の杉田水脈議員など、女性議員にこうした発言が目立つのは、趣味の悪いオッサンたちに可愛がられて、よほど 「点数稼ぎ」 が身についてしまってるんじゃないかと思ってしまう。ちょっとセクハラじみた言い方になってしまったが、女性全般が点数稼ぎ体質と言ってるわけじゃないからね。その意味では、今回の柴山文科相もその体質に変わりない。

左も右も、情念の劣化から迷走は始まるのだ。そして私としては、その迷走が不健康な方向に進まないように常にチェックしなければならないと思っている。「不健康な」 というのは、端的に言えば 「ナチスのような」 という意味である。ナチスのプロパガンダは、論理よりも感情に訴えることを優先させた。

経験則からすると、一番威勢のいい時期をちょっと越えてしまうと、情念の劣化が目立ち、不健康さも露わになる。そして安倍政権は、既に 「不健康」 の度を増しつつある。

【追記】

この記事は結果的に、前日の "柴山文科相の 「教育勅語発言」 の土壌" から翌日の "天皇のあり方に関する自家撞着があるか、ないか" まで、3日連続の 1シリーズとなったので、時間があれば通して読んでいただきたい。

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2018/10/05

柴山文科相の 「教育勅語発言」 の土壌

柴山昌彦文科相が就任早々舞い上がった上にいきり立って口走っちゃった 「教育勅語」 問題が、もう政治問題というよりも 「お笑いの種」 みたいなことになってしまっている。これはもう本当に、「舞い上がった上にいきり立った」 上での発言としか言いようがない。

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彼の言い草を端的にまとめたのが、上の写真で紹介した BUZZAP の記事の 「教育勅語アレンジしたら今も道徳で使える、普遍性ある」 という見出しだ。これはそのまま機械的に言い換えれば、「アレンジしなきゃ使えない、普遍性はあるけど」 ということで、フツーは、「はいはい、寝言はそこまで。他に何か?」 で、おしまいになるところだ。

そこでおしまいにならないのは、その辺のオッサンの酒飲み話ではなかったからで、さすがに 「文科相発言」 だと、こんな寝言でもここまで問題になる。まったくうっとうしいことだ。

そもそも 「普遍性」 云々なら、ふゆひー 9 さんの tweet にあるように、「普遍的な要素であればわざわざ教育勅語を持ち出す必要はなく、歴史的な背景を考えれば有害無益」 ということになる (参照)。なにしろ当人も認めているように 「アレンジしなきゃ使えない」 のだから、一手間も二手間もかける意味がない。

問題はなんでまた彼が、こんなにも舞い上がった上にいきり立たなければいけなかったのかということで、それはもう、「日本会議の皆さんに向けた御礼とご機嫌取り」 としか思われないのだよ。

そもそも今回の (今回に限らないが) 新内閣の顔ぶれは、President Online でも言っているように 「"右寄りのお友達" で固めた」 ものだ (参照)。それはもう、すごいもので、顔ぶれの大半が 「日本会議国会議員懇談会」 とか、「神道政治連盟国会議員懇談会」 とか、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」 とかに所属している。

なかでも問題の柴山昌彦氏は大したもので、上に挙げた 3団体に加えて、「創生 『日本』」、はたまた 「国際観光産業振興議員連盟 (通称 「カジノ議連」)」 なんていうのにまで所属している。いわゆる 「右方面」 に関してはずいぶんマメなお人のようなのだ。

というわけで、彼は初めて大臣なんかになったものだからつい、舞い上り、いきり立ち、「お世話になった」 これらの日本会議系の皆様に御礼かたがた、精一杯のリップサービスで喜んでいただこうなんて妙なソンタク意識まで加わって、 「教育勅語云々」 の発言になってしまったのだろう。

そして 「お世話した方々」 としては、「よくぞ言ってくれました!」 なんて喜んではみたものの、その 2日後には 「国として検討するとか、積極的に推奨する準備を進めているとか、そういうことはみじんも申し上げていない」 なんて釈明で一歩 (二歩か三歩かな?) 後退してしまうのだから、まさにお笑いぐさだ。笑ってばかりもいられないが。

「もう、ホントに、こういうのやめてくれないかなあ!」 と、つくづく思ってしまう今日この頃である。

なお教育勅語に関しては、今年 4月 22日付の "『教育勅語』 についてちょこっと書いてみる" という記事で触れているので、お暇があれば読み返してみていただきたい。

【追記】

この記事は、結果的に 10月 7日付の 「天皇のあり方に関する自家撞着があるか、ないか」 まで、3日連続の 1シリーズとなったので、時間があれば通して読んでいただきたい。

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2018/08/22

つくば市中心部のクレオの悲劇

私の居住地からそう遠くない、つくばエクスプレス (TX) つくば駅近くの商業施設クレオが、空き家状態になって半年が経過した (参照)。今では馬鹿でかいばかりのお荷物施設になってしまっている。

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この建物、私がつくばに居を構えた 38年前には存在しなかった。現つくば市の中心部は、TX の駅もなく、ちょっと離れたところに筑波大学があるだけの、だだっ広い田舎だったのである。間もなくそこに 「クレオ」 と称する大きなビルができ、西武百貨店とイオン (店名変更以前は 「ダイエー」) が、つくば市中心部開発の二大核店舗として入った。

西武筑波店の初代店長は、つくばに来る前は渋谷店の店次長だったという人で、つくばなんていうド田舎に移動せよという辞令が出た時は 「あまりのショックに、一体何がバレたんだろう? と思った」 と冗談を言っていたほどだ。開店してしばらくは、農作業を終えてゴム長のまま来店する客が多かったので、とくに雨の降った後などは床の掃除が大変だったという。

そうこうするうちにバブル経済の時代となって、西武もダイエーもそれなりに繁盛していたが、混雑時はパーキング・ビル入り口で渋滞が発生するなどの問題もあり、決して入りやすい店じゃなかった。そのうちにバブルは崩壊し、他の地方都市同様、市の周辺部にいろいろな店舗が進出してくるようになると、面倒くさい中心部の店に来る客は少なくなった。

で、核店舗の西武はあんな感じで没落して、いち早く撤退。ダイエーもおかしくなった上に 「イオン」 になってからは他の大型スーパー同様、郊外店に力を入れ始め、やっぱり中心部からは撤退した。こうしてクレオは 「誰も入りたくない巨大なる空き家」 となったまま、今に至るのである。

つくば駅に近いのだから、もっと適正な規模であれば乗降客を拾ってそれなりにやって行けると指摘する人もいるが、いかんせん、駅ビルみたいに直接つながっているわけではないし、そのくせ規模が大きすぎる。やっぱりクルマで来店する客がなければ、ガランとしてしまう。しかしクルマで買い物する消費者は、広い駐車場のある郊外ショッピング・モールに行く。どうにもやっかいな物件なのである。

自分自身のことを思えば、西武筑波店で買い物したことなんて 20年以上の間に 2〜3度しかなかった。ましてや生活必需品は近くのスーパーで買うから、ダイエーの方には足を踏み入れたことすらない。百貨店と駅前大型スーパーの使命が終わりに近付いていた時代に、クレオはスタートしたのである。

今から思えば貧乏くじを引いたわけで、スタート直後にバブルがあったために、それに気付くのが遅れただけだ。再生するには、建物の半分は潰して更地の駐車場にし、残る半分でやっていくしかないと思うのだが、それだとなまじ駅前の一等地なだけに、経済効率に合わない。もっと評価が落ちてからでないと、動くに動けないのだろう。ああ、気の毒に。

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2018/08/16

「万系一世」 という言い草は、世が世なら不敬罪

「主権は国民になく国家にある」 という tweet (参照) をして何かとお騒がせの伊藤純子という伊勢崎市会議員が、またまた妙な tweet をしていると話題だ (参照)。下に画像で掲げておく。

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この tweet には彼女が自ら次のような 2つのレスを付けている。

3行目「折衷折衷」は「折衷説」の誤りです。ごめんなさい。

「万系一世」とありますが、「万世一系」の誤りです。以後、気をつけてます。

この程度の人が市会議員というのだから、啞然とするしかない。

まず、主権の所在について、「全国民の代表 + 有権者の代表を足して二で割る」 のが通説と、「法律の専門家」 から伺ったとのことだが、そんな 「通説」 は初めて聞いた。そもそもこのフレーズの意味がさっぱりわからない。

「全国民」 と 「有権者」 は、「含む/含まれる」 の関係である。だから 「全国民の代表者」 と 「有権者の代表者」 を足したら、「有権者の代表者」 の部分が重複することになる。それとも両者は別の基準で選ばれたので、重複は一切生じないというのか?  もしそうだとしたら、そんな事態はいつ生じたのだ?

それを 「二で割る」 って、そしてさらにそれが 「折衷説」 であるとは、自分で自分が何を言っているのか、わかっていないとしか思われない。どんな 「法律の専門家」 がそんなことを言っているのか、明らかにしてもらいたいものである。

そしてもっと言えば、彼女が 「法律の専門家」 の言うらしい無茶苦茶な 「折衷説」 を信じているのだったら、「主権は 『国民』 ではなく 『国家』 にあるのです」 という自身の先の tweet は、一体どんな気紛れで書いたのかも知りたいところだ。

さらに、「万系一世の皇室」 という言葉違いはひどい。「万世一系」 というならしっかりとした日本語だから、四文字熟語としてごく当たり前にかな漢字変換できるが、「万系一世」 となると、あっさりとは変換できない。ふゆひーさんも、「ATOK と MS IME で確認」 したと、Twitter 上で明らかにされている (参照)。

少なくとも 「まん」 で変換し、「けい」 で変換し、さらに 「いっせい」 で変換しなければならない。つまり、「単なる入力ミス」 ではなく、そのように意識的に、面倒を厭わず入力するしかなかったのだ。日本会議のメンバーでもあるらしい彼女なりの、「無駄な努力の成果」 である。

「以後気をつけます」 で済まされるような話ではない。世が世なら 「不敬罪」 になったところだ。日本会議が彼女を除名処分にしてしまわないとしたら、よほど人材不足で放り出しにくいのである。

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2018/08/01

女性の校長はまだ少ない

先日、80歳を過ぎた女性で、以前は小学校の校長をしていたという人とお会いする機会があった。さすがに聡明な方で、話をしていても楽しかった。

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「20年以上前は、女性の校長先生がとても少なかったんじゃないですか?」 と訊ねると、「いえね、当時はそんなに珍しいことじゃなくて、今よりも多いんじゃないかという印象だったんですよ。でもね、最近改めて統計資料を眺めてみたら、今の方がずっと多いのね。私の印象と全然違うので、びっくりしちゃったんですよ」 とおっしゃる。

上に掲げたのは、舞田敏彦さんという教育社会学者がまとめられた 「校長・学長のジェンダー指標」 という表である。彼の 「データ・エッセイ」 というブログから転載させていただいた (参照)。確かに、彼女が校長を務めていた頃に近い 27年前の 1991年の小学校の女性校長は 4.93% だが、15年経った 2014年では 19.05% と、比率で言えば 4倍近くにまで増加している。

彼女が言うには、「当時は、女性教員はある程度の年齢になると、田舎の小さな小学校に転勤になる傾向があって、そのままそこで教頭、校長になるというケースが多かったんです。私も田舎の小学校で校長になったので、周囲を見回すと女性校長が多いという印象をもってしまったんでしょうね」 ということだった。

彼女の印象が事実だとしたら、当時は 「二重の女性差別」 があったわけだ。小学校全体での女性校長の割合が 5% にも達せず、しかもただでさえ少ない女性校長は、田舎の小さな小学校に集中していたというのだから、かなり気持ちの悪い話である。

このあたりの事情は、この 20年ほどでかなり改善されてきたようだし、小学校のあり方というのは都道府県によってかなり違う。だから一概には言えないだろうが、まだまだ 「男女平等」 にほど遠いのは確かなようだ。とくに中学校の女性校長の比率は、今世紀に入っても驚くほど低い。

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2018/07/26

「LGBT には 『生産性』 がない」 という発言について

例の杉田水脈という議員の LGBT に関する 『新潮 45』 への寄稿記事の問題だが、批判するからには一応記事をしっかり読んでからと思っていたので、タイミング的にはちょっと乗り遅れてしまったかもしれない。

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杉田議員本人も、「批判するならきちんと記事を読んでからにしろ」 みたいなことを言ってるらしいので、「そこまで言うんなら、ちゃんと雑誌買って読んだるわ!」 と、今日、あちこち用事で出かけたついでに書店に寄り、買って来たのである。上にその証拠写真を貼っておく。

ちなみに 『新潮 45』 は 「特別定価 900円 本体 833円」 と表示してあるが、書店のレジでは 1円未満切り捨てで 899円だったよ。おかげで財布の中でジャラジャラしていた小銭を使い切ることができた。

家に帰って一応ちゃんと読んだのだが、結果としては新潮社を無駄に儲けさせただけだった。要するに 「買って読むほどのレベルのものじゃない」 ってことだ。これから 『新潮 45』 を買ってみようかと思っている方は、ほかによっぽど読みたい記事があるのでもなければ、止めといた方がいい。

彼女の寄稿記事に関してまともな批判をするとすれば、既にあちこちでなされている通りのことを繰り返せばいいだけで、改めて私がどうこう言うのも馬鹿馬鹿しい。なので今回は、例によって言葉にこだわって絞り込んだ突っつき方をしてみようと思う。

杉田水脈という人は、件の寄稿記事で "LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼らは子どもを作らない、つまり 「生産性」 がないのです" と、はっきり書いている。「生産性」 と、申し訳程度にカッコ付きにはしてあるが、この単語になんらの注釈も付けることなく使っているのだ。

ここでぶっちゃけた結論を言ってしまえば、杉田議員の寄稿記事は大問題になっているが、LGBT に 「生産性がない」 というのは彼女独自のロジックではなく、お仲間内の悪趣味な決まり文句を、外部に向かってものすごく安易、かつ直接的に発信してしまっただけにすぎないのである。まあ、悪ノリしやすいタイプなんだろうね。

「生産性」 という言葉は、一般的には 「労働生産性」 を指す言葉として使われることが圧倒的に多い。試しに "Weblio" (大辞林) を引いてみると、次のようにある。(参照

せいさんせい 【生産性】
生産のために投入される労働・資本などの生産要素が生産に貢献する程度。生産量を生産要素の投入量で割った値で表す。

ここでは、「子どもを作る能力」 なんて意味は無視されている。それだけに、「同性愛カップルは 『生産性』 がない」 という言い方には、大抵の日本人は強い違和感を覚えるのである。この言い方だと、子どもだけはやたらと何人も作るが、仕事もせずにぐうたらしてるヤツにさえあるらしい 「生産性」 というものが、LGBT カップルだと、どんなに有益な仕事をしても 「ない」 とされてしまうのである。

というわけで、杉田議員は朝日新聞が LGBT を支援することに関して 「違和感を覚えざるをえません」 と書いているが、LGBT には 「生産性」 がないとする決めつけの方が、ずっと大きな違和感を醸し出す。

ここで念のため、「生産性」 という言葉の元になったと思われる "productivity" という英語について調べてみよう。例によって Weblio で調べると 「生産性、生産力、多産(性)」 とある (参照)。やはり 「子どもを作る能力」 みたいなことは出てこない。強いて言えば 「多産(性)」 の中にそうした意味が含まれるのだろうが、ビミョーである。

もう少し念を入れて、"produce" という動詞を調べると、ようやく 「産する、生ずる、製造する、生産する、作り出す、描く、作る、生む、産む、生じさせる」 という意味が表示される (参照)。ただ、英英辞書 (CUERVO) を引いてみても、「子どもを産む」 という意味は直接的には表示されない (参照)。

つまり、「生産性」 という言葉は、とても広義に捉えれば、かなり端っこの方に 「子どもを作る能力」 という意味を確かにもつようだ。それは認めよう。しかし 「LGBT カップルは 『生産性』 がない」 と、唐突に言ってしまう姿勢には、とても意図的な 「ヘイト・スピーチ」 的要素があると言うほかない。

で、さらに問題なのは、杉田議員自身が自民党の先輩議員たちに 「間違ったことは言っていない。胸をはってればいい」 と声をかけられたと tweet したらしいことである (既に削除されているが)。つまり、このようなヘイト的思想は、自民党保守派の間ではとても 「当たり前」 のこととなっているようなのだ。

頭の硬い保守派は子どもを産む能力に関して 「生産性」 という言葉を好んで使いたがる。私自身も彼らの口からこうした言葉が発せられるのを度々聞いていて、その度に不愉快になる。この言い方は、実は保守政治の世界の 「ステロタイプで悪趣味な決まり文句」 になっているのだ。

フツーに考えれば、彼女の発言は 「トンデモ」 に違いないのだが、彼女の仲間内は 「一体何が間違ってるんだ。当たり前の話じゃないか」 と擁護する雰囲気に満ち満ちている。それは間違いない。ということは、いくら批判しても彼女は絶対に反省なんかしないということである。

私としては、彼女だけでなく、彼女の属するサークルをまとめて 「馬鹿扱い」 するしかないと思っている。

さらにちょっと付け足しだが、保守派だけでなく革新派の中にも、こうした言い方を好んでする連中はいくらでも存在する (参照)。バリバリの日教組の中にさえいる。彼らは 「革新派」 の仮面を被った 「因習派」 である。

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