カテゴリー「住まい・インテリア」の8件の記事

2008/04/07

白熱灯を止めるなんていっても……

「経済産業省が家庭用照明の白熱灯を廃止し、省エネ型の電球型蛍光灯に転換を促す方針」 (参照) とのニュースには、白熱灯派の私としては、ちょっと驚いてしまった。

我が家はかなりエコ意識の高い家庭を自認しているが、蛍光灯だけはやたら少なくて、白熱灯比率が高い。

確かに蛍光灯の方が消費電力が少ないのはわかっているが、こればかりは趣味の問題で、ちょっとだけ贅沢させてもらっている。それでも、要所要所、私のデスクとか、リビングルームのテーブルの上とかは、蛍光灯だ。

白熱灯にしているのは、廊下、階段、玄関、トイレ、台所、寝室など、あまり長時間使わない所である。廊下とかトイレなんかは、ちょっと点けてすぐに消すから、これらを蛍光灯に変えても、消費電力はあまり変わらないと思うのである。

しかも、我が家の白熱灯は、ワット数が最大でも 60ワット止まりである。100ワットの電球なんて 1個も使ってない。あんまりのっぺりと明るすぎるのは嫌いで、40ワットぐらいのうすぼんやりしたのが好きなのだ。廊下とかトイレなんて、20ワットばっかりである。

こんな我が家が全ての電球を蛍光灯に変えたところで、消費電力とか CO2 排出量に大した違いは出ないと思うがなあ。ちょっと白熱灯で贅沢させてもらっている分は、他の部分の省エネでお釣りが来るんじゃなかろうか。

そもそも、白熱灯を蛍光灯に変えて大きな効果が期待できるのは、ヨーロッパ辺りだと思う。とくにドイツとかフランスとかの連中は、蛍光灯嫌いで、白熱灯ばっかりである。そのおかげで、薄っぺらな感じじゃない深みのある陰影のインテリアが実現されている。

彼らが、この深みのある陰影のインテリアってやつをすっぱり諦めて、全部蛍光灯に変えてしまったら、消費電力がかなり少なくなると思う。とはいえ、彼らがそう簡単にインテリアの雰囲気を放り出してしまうとは思えないのだけれど。

一方、日本人の家庭をみると、既にかなりの部分が蛍光灯化されてるじゃないか。我が家みたいに白熱灯だらけの家なんて、あまり見たことがない。オフィスなんてのは、もう、ほとんど蛍光灯みたいなものだし。

こんな日本で蛍光灯化なんて言っても、あまり大きな効果は望めないんじゃないかと思ってしまうのだ。もっと他にやることいっぱいあるだろう。

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2006/09/13

「醤油さし」 のグッドデザイン

グッドデザイン賞が今年で 50周年を迎えるのだそうで、日本産業デザイン振興会と Yahoo が共同企画サイトを展開している。

過去を振り返れば、「何でこれが?」 的なものもいくらでもあった気がするが、「時代を作ったグッドデザイン 100選」 ともなると、さすがに納得できるものが多い。

中でも、私が感心したのは 「キッコーマンしょうゆ (特選) 卓上 150ml びん」 である。場末の定食屋、一人暮らしの学生の台所にいたるまで、まさにどこにでもある、定番中の定番の醤油さしだ。1993年にグッドデザイン賞を受賞している。

私はそのずっと以前から 「これこそ、最高の工業デザイン」 と主張していたのだが、わずか 13年前に受賞とは、遅すぎるぐらいではないか。

我が家では、この形の醤油さしを使い初めて、既に 20年ほどになると思うが、それ以前は、妻がいろいろな形の醤油さしを買ってきてトライしていた時代があった。白山陶器の これ も、もちろん使ったことがある。

しかし、使ってみて初めてわかることなのだが、日常の暮らしにおいては、キッコーマンの卓上びんの方が、断然便利なのだ。

まず、完成された形状である。この形状のおかげで、持ちやすく、倒れにくい。そして、液垂れしない。それに、中の醤油の量が見えるので、自然に最適の傾け方ができるし、詰め替えのタイミングも一目でわかる。さらに、かなり丈夫で、ちょっとぶつけたぐらいでは割れない。

一方、白山陶器のしょうゆさしは、見た目は洒落ているけれど、案外持ちにくい。それに、中身の量が外から見えないので、傾け方に気を使う。蓋の小穴を指先で押さえて出る量を調節できるなんていうが、ただでさえ持ちにくいのに、そんなデリケートなことはしたくない。

さらに、現在はかなり改良されているようだが、以前は口の先から液垂れしやすかった。最後に、陶器の宿命として、欠けたり割れたりしやすい。陶器の醤油さしなんて、その意味でも、子どものいる家庭で使うもんじゃないと思う。

私がいくら 「キッコーマンの卓上びん、最高!」 と主張しても、妻はなお、見た目のお洒落さ加減を追い求め、いろいろな陶器の醤油さしを取っ替え引っ替え買ってくる時代が続いた。

それらがことごとく、蓋が割れたり、口が欠けたりして長持ちせず、ようやく諦めて、キッコーマンの工業デザインとしての優秀性を認めるまでには、一緒に暮らし始めて、10年近くかかったのである。

妻は今でも、「この "萬" 印のロゴさえなければ、確かに最高かもしれないけど」 などと往生際の悪いことを言っているが、私に言わせれば、このロゴがなければ、画竜点睛を欠くというものである。こればかりは、私は自分の価値観を押しつけてしまっている。

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2006/05/15

アンチ収納論

片付け・不用品・部屋片付けの心得とポイント」 というサイトが見つかった。このサイトによると、部屋片づけの際に最も多く出るのは、「本・雑誌」 「ビデオテープ」 「衣類・布団」 「手紙・請求書・明細書」 「趣味の収集品」 で、このベスト 5 で 80%になるという。

なるほど、さもありなんである。

「片づけ」 というと、「収納」 とほぼイコールで語られることが多いが、それに関しては、私はかなり疑問に思っている。

収納スペースにきれいに整理されてしまい込まれたものというのは、要するに、「普段は使わないもの」 というのが多い。「普段は使わない」 というのは 「滅多に使わない」 とほぼイコールで、さらに、「10年に 1度も使わない」 とも、かなり近かったりする。

このような、要するに 「ほとんど使わないもの」 が、貴重な収納スペースにきっちりと整理されてしまいこまわれていると、人はその部屋の住人を 「収納上手」 と誤解しがちである。

しかし、よく見渡してみると、「ほとんど使わないもの」 が、「開ければすぐに取り出せる」 という一等地的なスペースにきちんと整理されているおかげで、「普段よく使うもの」 にしわ寄せがいってしまい、その辺に適当に放り出されていたりすることもある。

さらに、しょっちゅう使う物が、机の上にゴチャゴチャに積み重ねられたりしていると、探し出すのに結構手間取ったりする。

だから、私はいつの頃からか、「きっちりと整理して収納する」 という作業を、いっそきれいさっぱりと諦めたのである。

なまじ 「きちんと整理して収納」 なんてことをしてしまったら、捨てるに捨てられないのである。とっくに捨ててしかるべきものが、後生大事にきれいに整理されて収納されていると、今もっとも現役で活躍しているものの居場所がないのである。

それでなくとも、モノなんてのは、うかうかすると溜まりに溜まって収拾がつかなくなるのだから、溜まらないように、片隅にごちゃごちゃに置いとけばいい。

ただし、横に積み重ねてはダメだ。いったん横にされたモノは、金輪際立ってはくれない。いつまでも寝転がって居座るだけとなる。だから、縦にして並べておくのだ。そうすれば、端から徐々に邪魔になって、適当な頃合いにごっそりと捨てることになる。

このサイクルを円滑にするために、決して 「収納」 なんてことをしてはならない。とにかく、モノはいつでも捨てられる状態にしておかなければならない。いかにも 「邪魔くさい」 場所に、目に付くようにしておいて、いかにも捨てたくなるような雰囲気を漂わせるのだ。

てなことを言いながら、納戸や引き出しの奥に、捨て損なったガラクタが一杯溜まっているのが、痛恨なのだが。

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2005/12/29

男の座り小便

最近あちこちで聞かれるようになった 「社会的 (?) プレッシャー」 に、「男も (洋式便器で) 座って小便をすべきだ」 というのがある。

「へえ、そりゃ面倒な」 と他人事のように思っていたのだが、ついに我が家でも、妻が 「そりゃ、アナタにもそうして欲しいわよ。掃除するのは私なんですから」 と言い出した。

初めは半分冗談かと思っていたが、妻は案外本気である。何と既に 「男が座って小用を足すようになると、かくかくしかじかでトイレの汚れが防がれて、掃除が楽になる」 というような、新聞だか雑誌だかの切り抜きがいくつも用意されていた。油断も隙もない。

さらに、有名人の誰それも、彼それも、皆、家では座って小用を足していると告白しているというのである。しかし、そんなことを告白してどうするのだ。

ただ考えてみると、私は最近、自宅を仕事場としているので、勤め人の男よりもずっと頻繁に自宅のトイレを使用している。ということは、妻にはトイレ掃除の負担を平均以上にかけているということになる。

そう考えると、妻の要求はそれほど理不尽なものではないどころか、もっともなことにさえ思われる。そこで、「座ってしないなら、アナタも応分のトイレ掃除をしなさい」 などと、議論が余計な方向に発展する前に、私は大人しく 「座り小便」 を受け入れることにしたのである。

トライしてみると、確かに跳ね返りがない分、清潔なような気はする。それに、何となく力が抜けて、リラックスして気持ち良く排泄できるような気にもなる。思ったほど悪いものではない。

しかし、思いがけない副次効果があった。座って小便をしてみると、条件反射なのか何なのか知らないが、当初はする気のなかったウンコまでしてしまうことが、ままあるのだ。これについてはどう考えればいいのだろうか。

余計な時間がかかってしまうから、デメリットなのか、それとも、便秘にならずにすむので (元々、私は便秘症ではないが)、メリットなのか。そして、この傾向は慣れるに従って解消されるとの説もあるが、果たして本当なのか?

私はなにぶん座り小便の初心者なので、先のことについては、まったく予測できないでいる。

なお、座り小便についての詳しい情報は、以下をご参照いただきたい。

「男も座り小便をしよう運動」 とは? (ほぼ日刊イトイ新聞)
「男も座り小便をしよう運動」 調査結果があった! (同上)
〜立ちション派、座りション派?〜 「男性のトイレスタイルアンケート」 (TOTO)

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2005/12/18

納戸や押入れの奥は魑魅魍魎

16日の夕方頃から、酒田に来ている。実家の引越しの手伝いだ。実家が今の住まいの向かいに新居を建て、引っ越すのである。

17日は朝から雪が降ったり止んだり、時にはみぞれ交じりという、引越しには最悪の天気。とはいえ、すぐ向かいに移ればいいのだから、のんびりと長期戦である。

私は一昨日も書いたとおり、かなりの晴れ男なのだが、それはお仕事モードでは絶大な力を発揮しても、プライベート・モードでは力が落ちるのかもしれない。

12月にこんなに大雪が降るなんてことは、近頃ではついぞなかったことで、しかも 18日は、暴風雪警報 雷注意報 波浪注意報が発令されている。暴風雪警報というのは、つまり、吹雪になりますということだ。しかも、昨日から雷もバンバン鳴っている。

17日は、小さなものをちょこちょこと運んで、後は、納戸や押入れの奥に潜む得体の知れないものの整理に費やした。

それにしてもまあ、モノがあるある! しかも同じようなものがいくつもある!

一度納戸の奥にしまいこんでしまうと、その品物は 「ない」 ということになってしまって、また新たに買い求めてしまう。そしてその新たに買ったものをまた押入れの奥にしまい、またまた 「ない」 ということになってしまって、さらに同じものを買う。

かくして、引越しのときには、あちこちから同じようなものが、次から次に発掘されることになる。充電式小型掃除機、スリッパ山ほど、魔法瓶型の水筒、タオルケット、毛布、小鉢セット、湯呑みセット、土鍋、卓上コンロ、座布団カバー、目覚まし時計、灰皿、花瓶、旅行バッグなどなど。

その他、いかにも贋作っぽい掛け軸十数本、武者小路実篤の 「仲よきことは美しきかな」 の額、中元で貰ったタオルが熨斗紙付きのまま百数十本、結婚式の引き出物で貰った陶器、漆器の類は数知れず、何とか友の会の積み立てで買ったまま、使いもしない電気毛布、健康器具の数々。

わけのわからなさではトップクラスの、「海軍精神注入棒」 なんてものもある。これは、親父が予科練時代にけつをぶん殴られたバットみたいな棒のレプリカだそうだ。こんなことをしてたから、戦争に負けたのだと、親父も言っている。

引越しのときにまとめて捨てるために、長年の間、後生大事にしまいこんであったようなものだ。収納スペースはないよりはあった方がいいが、ありすぎると、とんでもないことになる。

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2005/10/23

妻には 「信じられない」 マグカップ

私はコーヒー好きである。とくに、パソコンに向かうときには、手元にコーヒーのたっぷり入ったマグカップがないと落ち着かない。

コーヒーをちびりちびりと啜りながら仕事をするのは、私の長年のスタイルになっているのだが、最近まで、コーヒーがすぐに冷めてしまうのが、不満の種だったのである。

しかし、近頃いい買い物をした。コーヒーの冷めにくいマグカップである。

これは外側が透明プラスチック、内側がステンレスの二重構造になっていて、その間は真空に近くなっているようだ。つまり、魔法瓶と同じような構造なのである。

上部にはお盆のような形の蓋がついていて、手前に吸い口となる切れ込みがあり、反対側に空気の通る小さな穴があいている。そして、蓋の上面はテフロン加工で水分を撥じき、吸い口に向かってやや傾斜しているので、コーヒーが蓋の上にたまらないようになっている。

このマグのおかげで、たっぷりと注いだコーヒーをゆっくりと 1時間近くかけて啜っても、最後まで冷たくならないので、私は大満足なのである。

ところがこのマグは、妻には信じられないものらしい。彼女にとっては、蓋の隙間からコーヒーを啜るなんて、どう考えても 「変なこと」 に思えるようなのだ。妻は、スタバのコーヒーでも、吸い口付きの蓋を取って飲む人で、それが 「こだわり」 なのである。

一方、私は仕事中に飲むコーヒーは、味は二の次だ。インスタントで十分である。ちょっとしたリズムをつけるために、マグを手にとってコーヒーを啜るだけだから、こだわりは要らない。最後まで冷めないことの方が、よほど大切なのだ。

私たち夫婦は、大まかな価値観はかなり共通しているのだが、細部に至ると、かなり違ったテイストをもっている。18歳で出会うまで、まったく別の環境で生きてきたのだから、それは当然のことだ。それに二人とも、案外自分の美意識に頑固にこだわるところがあるし。

それでも、私たちはお互いのやり方を否定しはしない。妻は私のマグを 「信じられない」 と言いながら、それでも私がそれを大のお気に入りにしていることを、ちゃんと尊重してくれている。

それに、私だってパソコンの前を離れて、「真面目に」 コーヒーを飲むときには、このマグを使おうとは思わない。

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2005/08/16

ヘンリー・フォードと畳

『さおだけやはなぜ潰れないのか』 という本が話題になり、それに関連して、「街の洋品店はなぜ潰れないのか」 が話題となった際に、私は、「街の洋品店は、本当はよく潰れてる」 という事実を書いた。

それで、今度は畳屋である。なぜ、街の畳屋は潰れずに済んでいるのかという疑問だ。

これだけ住宅事情が洋風化して、畳の部屋が減っている昨今である。多分、街の畳屋さんも激減しているに違いない。それでも皆無にはならない。路地でひっそりと畳を作っていたりする。

畳の大量生産というのは、多分ある。柔道や合気道の道場に敷き詰められている畳は、本当の畳表ではなく、なんだか合成素材っぽいもので覆われていて、いかにも工業生産という感じである。しかし、畳の世界はそれだけではないようなのだ。

以前、ヘンリー・フォードが自動車の大量生産に関するデモンストレーションを行ったというエピソードを聞いたことがある。

彼は、米国の自社工場で生産された 2台の T型フォード (だったと思う、違ってたらゴメンなさい) を英国に運び、そこで 2台とも分解して部品をシャッフルし、もう一度、2台の車を元通りに組み立ててみせ、英国人を感嘆させたという。

今でこそ当たり前の話で、何が感嘆に値するのかわからないくらいのものだが、このデモをしてみせた当時は、自動車は手作業で生産されるものだった。つまり、馬車と同様にカスタム仕様だったので、すべての部品に互換性を持たせるなんていうことは、思いもよらなかったのである。

畳の話に戻る。木造住宅の場合は、今に至るまで、このヘンリー・フォードがデモンストレーションをしてみせる以前の状態のままのようなのだ。つまり、一枚一枚の畳が特注生産であり、標準という意識からは遠いようなのだ。

20年ほど前、我が家の一帯が台風による洪水に見舞われ、我が家もなんと、床下浸水ということになった。幸い、床上までは来なかったのだが、念のため、一階の六畳間の畳を剥がし、二階に運んだのである。

水が引き始めて、二階に上げた畳を下ろし、元のように敷き詰めようとして驚いた。適当に敷こうと思ったら、敷けないのである。つまり、6枚の畳のサイズがすべて微妙に違っていて、それぞれの畳が元の位置にくるようにしないと、部屋にぴったりと収まらないのだ。

つまり、畳というのは、部屋に合わせて特注されるモノのようなのだ。ただ、合理的に考えれば、部屋のサイズを聞いて割り算することで、畳のサイズは自ずから決まる。

しかし、そこはそれ、すっきりとした対称形を潔しとしない日本文化である。六畳間でも、単に 2枚× 3枚で並べるなんてことはしない。図のような形に並べないと、気が済まないようなのである。

これでも、少なくとも、畳 1 と 畳 2、畳 3 と 畳 6、畳 4 と畳 5 だけでも互換が利きそうなものだが、そこはそれ、そんな野暮はしない。周囲の柱の位置や障子、襖との整合性を微妙に取ってあるので、やはり元通りに敷き直さないと、収まりがつかない。

一般的な伝統工法の木造家屋は、「標準化」 という発想が極めて希薄なようだ。細かいところは、大工の棟梁の胸先三寸で決められるのではないかと思ってしまうほどなのである。

まあ、一度建ててしまった 2軒の住宅を解体して、床板や柱や梁をシャッフルしてまた建て直すなんてことはないので、標準化のニーズは薄いのだろう。

しかしこれでは、不要になった畳をもらってきて自分の家に敷くなんてことはできない。畳のリサイクルは、畳表を張り替えるなど、同じ家の中でしかできないようなので、ちょっと不便である。

檜造りの高級住宅などは別として、一般的な住宅は標準化された部品の組み立てという発想にすれば、日本の木造住宅はもっと安く供給されるだろうにと、私なぞは思ってしまう。それともそれは、「ツーバイフォー」 の世界になってしまうのだろうか。

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2005/02/22

「ランドリーリング」 はお薦め

「ランドリーリング」 をご存じだろうか。ドーナツ型のプラスチック製リングなのだが、これを洗濯機に放り込んでおくと、洗剤を使わなくても汚れが落ちるのである。(参照

案外エコ派の我が家としては、数年前から使っていたのだが、ついに壊れてしまい、2つ目をネット販売で注文した。

1個目を購入したときは半信半疑だったのだが、普通の汚れならまったく問題なく落ちる。そのメカニズムは、リングの回転により、洗濯機の中の水の分子が細かくなってどうのこうのと説明されているが、はっきり言ってよくわからない。よくわからないが、実際に汚れが落ちるのだから、結果オーライでいいのである。

汚れがひどい時だけは、さすがに落としきることはできないが、固形石鹸を汚れたところに刷り込んでおけば、綺麗になる。

かなり重宝していたのだが、最近、リングの表面にピンホールが空いたらしく、中身が流出し、効果がなくなってしまった。その辺のスーパーで買えるものではないので、仕方なく久しぶりに洗剤 (エコ派としてはもちろん合成洗剤ではなく、洗濯石鹸) を使い始めたのだが、妻はどうしようもなく不便を感じたようである。

それは例えば、携帯電話のようなものである。携帯電話をもたなかった頃は、そんなものなくても、ちっとも不便を感じなかったのだが、ひとたび持ち始めると、たまに持って出るのを忘れたりすると、ものすごく不便である。今回はそんな感じだったようである。

何が不便かというと、まず、洗濯をするたびに洗濯機に洗剤を入れるのがこんなにも面倒なものだったのかと、実感されたという。さらに、洗剤を使うとすすぎを 2回しなければならないので、洗濯の時間がものすごく長引くようになった。ランドリーリングの場合は、何しろ泡が出ないので、すすぎなんて軽く 1回で済む。

ランドリーリングを使っていた頃は、洗濯なんてサッサッサっとできてしまっていたのが、洗剤を使うと、なかなか終わらない。これはかなりのストレスになるようだ。普通の家庭では洗剤を使うのが当然と思っているので、とくにストレスとは感じないのだろうが、ランドリーリングを一度経験してしまうと、まるで、携帯電話を忘れて外出したような不便さなのである。

そんなわけで、ネット販売で購入した 2つ目のランドリーリングが、明日届く予定なのである。これで、我が家の洗濯は再び楽になる。値段は送料も入れて 8千円ちょっとなのだが、このくらいは、洗剤と水道料が大幅に減るので、半年で元が取れる。

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