カテゴリー「書籍・雑誌」の12件の記事

2017/01/25

国民の 61%が 『坊ちゃん』 を読んでいるというのだが

私は 2013年 5月に 「漱石文学って、もっと読まれてもいいと思うのだが」 という記事の中で、「『坊ちゃん』 を読むぐらいは日本人の常識で、少なくとも 3人に 2人は読んでいるものと信じていた」 のだが、高校に入って 「クラスの半分もいないみたい」 と気付いたと書いている。

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ところが、ちょっと古い記事で恐縮だが、昨年 10月の毎日新聞の 「読書世論調査」 という記事の見出しに、『坊ちゃん』 は国民の 61%に読まれているとある。もしそれが本当なら、「少なくとも 3人に 2人は読んでいる」 という私の中学校時代の思い込みはほぼ正しかったことになるが、にわかには信じられない数字だ。

毎日新聞の記事をきちんと読んでみてわかったのだが、『坊ちゃん』 を読んだことがあるという回答が多かったのは、国語の教科書に載っているからということらしい。記事中から引用しよう。

「読んだことがある」 人の多い作品は、小中学校の教科書で取り上げられてきた。1906年に発表された「坊っちゃん」 は小中学生向け国語、「アンネの日記」 は 52年に日本語版が刊行され、中学生向けの国語や英語の教材に採用。「坊っちゃん」 は現在も中学国語の教科書に載っており、国民的文学といえる。

なんだ、そうだったのか。私の使っていた中学校時代の国語教科書には 『坊ちゃん』 は載っていなかった (『アンネの日記』 は載っていたと思うが) ので、そんなこととは少しも知らなかった。しかし教科書に採用されているのは、『坊ちゃん』 のほんの一部だろう。

どの部分が採用されているのかと思い、ググってみると、WKIBOOKS というサイトに 「中学校国語/現代文/坊っちゃん」 というページがあり、それによると、「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」 という有名な書き出しから、坊ちゃんが松山に旅立つために汽車に乗ったところまでである。

こんな冒頭の部分だけ教科書で読んで 「読んだことがある」 なんて言う人は、こう言っちゃナンだが、ちょっと図々しい。『坊ちゃん』 が実際におもしろくなるのはここから先のことなのだから、ぜひ最後まで読んでみることをお薦めしたい。

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2013/12/05

ビギナー向け最強の野鳥図鑑

一昨年の 11月に 「花の図鑑」 という記事を書いて、『花の名前の手帖』 (ブティック社刊、写真と文: 夏梅睦夫) をおすすめした。春編・夏編・秋冬編の 3分冊で、収められている花の種類が多く、しかも季節別、色別で調べられるので、とても便利である。アマチュア向けとしては、これが最強の図鑑だと私は思っている。

ただ、この 3分冊は既に絶版のようで、かなり大きな書店でも 3冊揃っているところは稀だ。私は春編だけは書店で購入したが、夏編と秋冬編は Amazon で古本を購入した。今となっては、3冊とも Amazon で古本を買うのが一番手っ取り早いと思う。

なんで花の図鑑なんかが必要なのかというと、私がこのブログの他に 「和歌ログ」 なんていう酔狂な文芸サイトを運営していて、毎日和歌なんてものを詠んでいるからだ。和歌をやろうとすると、花の名前を知らないでは済まないのである。この図鑑のおかげで、花の名前に疎かった私も、今では人並みまではこぎつけることができた。

同様に、鳥の名前も知らないでは済まないのだが、これまでは手頃でしかも調べやすい鳥の図鑑が見つからなかった。しかし、ようやく見つけたのである。『山野の鳥』 『水辺の鳥』 という姉妹編で、いずれも日本野鳥の会の編集・発行によるものだ。

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しかも、どちらも本体価格 600円という手頃さで、コンパクトな作りなので、どこにでも持って行ける。そして見分け方がとてもわかりやすく解説してある。立ち読みした他のどんな図鑑よりもわかりやすい、かなりありがたいものなのである。ビギナー向けとしては、やはり最強だと思う。

この図鑑を入手して初めてわかったのだが、私は知らず知らずのうちに、野鳥の名前は結構知っている人になっていたようなのである。これはひとえに、30年以上前につくばの地の田園地帯に転居して、ごく自然に鳥たちに接してきたおかげである。

花でも鳥でも、親しむための第一歩はその名前を知ることだと思う。名前を知って、一歩 「お近づき」 になれる。名前を知ってお近づきになれなければ、歌に詠むこともできない。その意味でも、図鑑は手放せないものになっている。

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2013/03/06

iBooks 日本版スタートと、Kindle との違い

Apple が日本版 iBookstore の開設を正式に発表した。(参照

2~3日前から 「ひっそりとオープン」 というニュースが、これまたひっそりと伝えられていて、iBook アプリの "store" ボタンをクリックしてもいつもと変わらないが、次に 「ランキング」 をクリックすると、日本版電子書籍がずらりと出てきていた。それで 「ああ、始まりつつあるんだな」 と思ってはいたのである。

そして今日の正式発表以後は、"store" ボタンをクリックしただけで、日本版のストアが表示される。さらに 「カテゴリ」 ボタンをクリックすると、「ビジネス/マナー」 「フィクション/文学」 「マンガ」 「ミステリー/スリラー」 「ライトノベル」 の 5カテゴリーが表示される。

ちなみに 「ミステリー/スリラー」 と 「ライトノベル」 は文学扱いされていないのが興味深い。確かにこの 2つを 「フィクション/文学」 の中に入れてしまうと、オーソドックスな文学ファンにとっては探しにくくてうっとうしいだろうから、しかるべしである。ただ Kindle の充実したカテゴリーに比べると、これっぽっちではまだまだ見劣りがする。

とはいえ Kindle の場合は、あくまでも Amazon のサイトの中の 「Kindle 本」 に行って選んだり購入したりするというシステムで、Kindle アプリは 「閲覧」 のためと、はっきり切り分けられている。一方 Apple の場合は、PC 版 iTunes からは iBooks に入れるが、iPhone アプリの iTunes からは、今のところ入れない。

この辺りが、Amazon と Apple のコンセプトの基本的な違いのようだ。Amazon の場合は、とにかく Amazon のサイトで買ったものを、Kindle アプリで読む。Apple の場合は、電子ブックを買って読むなら、わざわざ iTunes まで行かなくても iBooks だけでこと足りる。

元々書籍からスタートした Amazon と、音楽からスタートした iTunes の違いなのかもしれない。いずれにしても、Windows 版の iTunes は重いので、iBooks だけで済むのはありがたい。

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2012/10/26

Kindle ストアで、さっそく 2冊購入した

Kindle ストアが日本でもオープンしたので、私もさっそく iPhone アプリの "Kindle" をインストールしてみた。こういうことに関しては、私はちょっとだけ新しもの好きなのだ。「ちょっとだけ」 というのは、やってはみるけど、すぐにはまりまくったりはしないということだ。

例えば私は、2007年 12月という、比較的早い時期に Twitter のアカウントを取得しているが、ぼちぼち実効的に始めたのは 2010年 1月からである。この間の約 2年間は、自分がTwiiter のアカウントを取得したことすら忘れていたので、改めて始めようとした時に、「Twitter の中に自分の偽物がいる!」 と思ってしまったことを、記事にしている (参照)。

というわけで、私は iPhone と iPad に "Kindle" をインストールしてはみたが、実際に 電子ブックを 10冊も 20冊も (電子ブックの場合、「冊」 といっていいのかなあ?) 買いまくったかといえば、そんなことはない。なぜかといえば、買いたい本があまりないからである。

現状の日本版 Kindle ストアは、郊外のステーションビルによくある書店みたいなもので、ベストセラーとハウツー本とコミックしか置いてないみたいな印象なのだ。よく言われることだが、本好きという種族は、ベストセラーをあまり買わないのである。だから、ステーションビルの書店では買う本が見つからないと同様、Kindle ストアでも見つからない。

書籍のカテゴリー分けにしても、例えば 「人文・思想 - 文化人類学・民俗学」 というカテゴリーを覗くと、トップに表示されるのは "あなたの 「ふつう」 はだいじょうぶ? 女のマナー常識 555 (PHP文庫)"、"お墓は、要らない (学研新書) "、"お嬢様ルール入門 正統派マナーから気になるライフスタイルまで (PHP文庫) " というようなことで、ちょっと脱力だ。

もっとも、ステーションビルの書店と違うのは、「0円」 という値段の品揃えが結構あって、これは 「青空文庫」 的なコレクションである。こっちの方がずっとおもしろい。私はさっそく、和辻哲郎の 「古寺巡礼」 をダウンロードして読み始めた。これが、私の Kindle での最初の購入である。(購入といっても、無料だが)

新・リストラなう日記 たぬきちの首 のたぬきちさんは、「電子書籍で読まれるべきは、紙ではもう手に入らない本なのだ」 と喝破しておられて、本日付の記事で、深沢七郎・著 『風流夢譚』 の Kindle 版が出ることを期待しておられる (参照)。

そして、さすが Amazon である。その日のうちに出ている (参照)。著作権はまだ切れていなくて、315円の値段がついているが、たぬきちさんのおっしゃるように、これが Kindle のベストセラーになったら素敵だろう。<・p>

そう思って、私は既に紙媒体の海賊版 『風流無譚』 を持っている (蛇の道は何とやらである) のだが、ついぽっちりしてダウンロードしてしまった。まあ、315円なら、スタバのコーヒー 1杯分くらいだからいいだろう。これが、私の Kindle での 2冊目の購入となったのである。

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2011/11/13

私の中の漱石シンドローム

夏目漱石の 『三四郎』 を、久しぶりに青空文庫で読んだ。しかも i文庫HD というアプリを使い、iPad の画面で読んだのである。ありがたいことに、著者が亡くなって 50年以上経ち、著作権フリーになった文献の多くを、青空文庫で無料で読むことができる。

これでは、文庫本を買うものなどいなくなるだろうと思ったが、どうやらそうでもないらしい。「ファウスト」 編集長の太田克史氏は、日本では既に文庫本という利便性と経済性を兼ね備えた市場があるので、電書書籍市場が拡大しないと言っている (参照)。

うぅん、そうかなあ。私は少なくとも、青空文庫で無料で読むことのできる 「スタンダード」 に関しては、文庫本の出る幕がなくなりつつあると思う。とはいえ、電子デバイスで本を読むのは、紙の本で読むよりもずっと小難しいノウハウが必要と思いこんでいる層がまだ多いというのも、驚くべき事実だけれど。

『三四郎』 を初めて読んだのは、中学 1年の時だったと思う。私の文学開眼は、小学校 5年生の時に読んだ 『坊っちゃん』 で、以後、漱石の小説は立て続けに読んだ。

当時は今以上に世間知らずだったから、日本人が 100人寄れば 100人とも 『坊っちゃん』 ぐらい読んでいると思っていた。しかし実際にはそんなことはなく、読んでいる者は 20人もいないだろうと、後々になって薄々勘付いた。

小学校 5年から 6年になる春休み頃に、『吾輩は猫である』 を通しで読んだが、これを読んだ者なぞ、大人だけをとってみても、100人に 1人もいないだろうということも、後々になって気付いた。

それを覚るまでは、日本人なら誰にでも 「トチメンボー」 とか 「ダーターファブラ」 とかいうジョークが通じると思っていたが、そんなのが通じるのは、せいぜい 500人に 1人ぐらいのものと知った時にはショックだった。漱石は 「国民作家」 などと言われているが、それが本当なら、日本の往来を歩く者は非国民ばかりである。

まあ、私は年端も行かないうちから漱石なんぞに親しんでしまったおかげで、『草枕』 の那美さんとか、『三四郎』 の里見美禰子とかみたいなタイプの女性に弱いという深刻な副作用まで起こしてしまったのである。それを克服するまでちょっと時間がかかったのだが、それは、まあいい。

とにかく、今回久しぶりで 『三四郎』 を読んで、私の中には 「漱石シンドローム」 みたいなのが確実にあるなと、改めて確認してしまったのである。

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2011/10/29

ああ、ゴチャゴチャ言わずに電子書籍化してもらいたいなあ

"「こんなの論外だ!」 アマゾンの契約書に激怒する出版社員 国内130社に電子書籍化を迫る" という記事が BLOGOS の記事が話題になっている。記事の内容は、アマゾンが日本の出版業界にとっては到底受け入れがたい横暴な条件で、電子書籍化を要求しているというものだ。

それに対して、日本の出版業界はかなり反発していて、アマゾンのもくろむ日本の出版業界への電子書籍での参入は、当面大きな抵抗に阻まれることが予想されるというのである。

私は出版業界の中身については全然詳しくないので、かなり安易な立場からかもしれないということを十分に自覚しながらも、「消費者の立場から」 という 「伝家の宝刀」 的な言い方をさせてもらうとすれば、「難しい話はどうでもいいから、日本もさっさと電子書籍化を進めてくれよ」 ということになる。

出版業界の現状は、これまでの 「紙の媒体で売る」 というビジネスモデルに最適化しているのは当然だから、電子書籍化なんてことはしたくないのだろう。しかし、全ての消費者とは言わないし、圧倒的多くの消費者ですらないかもしれないので、ここでは慎重に 「少なからぬ消費者によって」 ということにしておくが、電子書籍化は確実に望まれている。

私は自分の部屋の書棚にぎっしりと収納された本を見るに付け、「ああ、これが小さなハードディスク (あるいは別のデジタル・メディアでもいい) に入ったら、なんと楽だろう」 とため息をつく。

先日の東日本大震災では、書棚の本がガラガラに崩れ落ちて、それをきちんと系統立てて収納しなおすのにかなりの手間がかかった。これが例えば、iPad の中に入っていて、それがどっかのクラウドにバックアップされているのだとしたら、余計な力仕事はせずに済んだのだ。

もちろん、電子書籍に向かない出版物もある。例えば現状での地図、図鑑などだ。紙の媒体としての地図や図鑑は、パラパラとめくれる利便性において、電子書籍に勝る。しかし検索と表示の手法が進化すれば、これらもデジタルの方が有利になるかもしれない。

ごくフツーのテキスト中心の書籍ならば、電子書籍の方がずっと有利だ。もちろん、読みやすさで言えば紙の媒体の方が上回るかもしれないが、「モノ」 としての取り扱いのしやすさということまで考えれば、デジタルの圧倒的勝利である。

読みたい時にさっとダウンロードして、読み終われば収納にスペースをとらず、読み返したくなれば、いつでも即座に取り出すことができる。

日本での電子書籍化にあたっての最大の問題点は、市場の規模ということだろう。

英語の書籍ならば、ほとんど全世界を相手にすることができるが、日本語書籍の市場は人口 1億 2000万ほどの日本国内にほぼ限られる。しかも、その中で電子書籍を読むことのできるデバイスを持っている人口は、まだまだ多くない。

その上、この国では 「本は紙の媒体で持ちたい」 という伝統的 (?) 消費者が少なくないので、電子書籍の可能性は未知数だ。そんな市場を相手にするのは、リスクが大きいだろう。

その辺のショッピング・センターの、大規模でない書店の品揃えをみると、日本の書籍市場の中身が推定できる。よく売れる本というのは、その時々のベストセラーと、メジャーな雑誌と、コミックだけだ。ちなみにコミックは一部で電子書籍化が進行中らしいが、私はあまり興味がないので、ここでは取り上げない。

一番問題なのは、私のようなタイプのちょっと物好きな消費者 (ここでは書籍の話だから 「読者」 と言う方がいいかもしれないが) にとっては、その辺の書店では買う本がないのである。というわけで、私のような読者が本を買うのは、都心に出た時に大型書店で本あさりをするか、目的の本が明確な時にアマゾンで注文するかしかないのだ。

もし日本市場で電子書籍化が進んだら、まずアマゾンなどで注文した時に、本が届くまで待つ必要がなくなる。注文したらその場でダウンロードできるのだから、すぐに読み始められる。さらに、大型書店でするしかなかった本あさりが、いつでもどこでも、手元のデバイスでできるようになる。

私のような読者が読みたい本の多くはテキスト中心だから、電子書籍化にはそれほどの手間がかからないだろう。どうせ今どきのことだから、印刷の前段階ではデジタル化されているはずなのである。

極端にいえば、編集段階での最終原稿をそのままテキスト・ファイルでダウンロードさせてもらってもいいと思うほどだ。こちらで勝手に読みやすいフォーマットに変換しちゃうから。それでは簡単にコピーされちゃうのが問題というなら、特殊処理をした PDF でもなんでもいい。

ベストセラーにはほど遠いような範疇の書籍ほど、紙の本のカタチにしない方がコスト的に有利なはずだ。在庫だって本のカタチにしない方がいいし、ロングテイル対応にしても簡単にできる。

だからあまり数が売れないような、よほどの物好きを対象としたものほど、紙の媒体とはせず、しかも電子書籍のフォーマットにすらとらわれずに PDF か何かで、ちゃちゃっと対応してもらいたいと思うのである。

ああ、ごちゃごちゃ言わずに、本は電子書籍でダウンロードするのが当然という世の中になってもらいたいものなのである。好事家向けの本までそうしろとは、もちろん言わないから。

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2008/12/05

『ガンをつくる心 治す心』 という本

ガンをつくる心 治す心』 (主婦と生活社・刊、土橋重隆・著、本体1,300円+税) という本を読み終えた。

近頃やたら忙しいので、行き帰りの電車の中でしか読めなかったが、それでも 1日半でサクサクっと読み終えた。非常に読みやすく、その上、含蓄に富んだ本である。

私がこの本に興味をもったのは、表紙に記された 「西洋医学にも代替療法にも治癒させる力はない!」 というキャッチコピーのせいである。で、かなりカルト的なものなのかと思ったら、著者の土橋重孝さんという方はれっきとした医学博士で、しかも内視鏡手術の第一人者だというのである。

そのプロ中のプロのお医者さんが、ガンについて、「西洋医学にも代替療法にも治癒させる力はない!」 と言い切っておられるのである。「なんて率直なお医者さんなんだ」 というのが、最初の印象だった。私は率直な人というのは、たいてい信頼に足ると思っているのである。

この本の主要な論点を私なりにまとめると、次のようなことになると思う。

  1. 西洋医学においては、医者の仕事の 8割は 「診断」 であり、正しく診断されさえすれば、治療法は同じようなものになる。
  2. 診断に際しては、病気という 「起きてしまった現象」 のみに注目し、その原因、とくに患者の内面的なことまで踏み込むことはほとんどない。
  3. とくに進行ガンは西洋医学で 「完治」 することはなく、「5年生存率」 をいかに上げるかに終始している。
  4. しかし、末期の進行ガンが治ってしまうということが、現実にある。それらのケースはすべて、病院の治療とは別のところで起きている。本人の心が変わったことで治ったとしか思われない。
  5. 多くのガンは 「心身症」 として捉えられるべきであり、内面の変化、すなわち、ガンになった心理的原因が取り除かれることで完治する可能性がある。
  6. ガンが治るには、それまでの生活習慣、心的傾向などを 「改善」 するのではなく、思い切って 「リセット」 することが必要だ。

これ以上のことを知りたい場合は土橋さんのウェブサイトに行かれるのがいいし、よりダイジェストでお知りになりたいというなら、船井幸雄ドットコムのインタビューページを読むのが手っ取り早いだろう。

「船井幸雄」 と聞いただけで、「トンデモの疑似科学はごめんだ」 と敬遠したくなる人も少なくないと思うが、このページだけは読んで損はないので、オススメしておく。

私が面白いなあと思うのは、この本の著者の土橋氏ご本人が、長年 「西洋医学という科学」 の最前線に立って素晴らしい実績を上げておられながら、自ら 「科学的でない」 というメソッドでガンというものを見つめておられることだ。

「科学的でない」 といっても、トンデモの疑似科学というわけでもない。臨床と患者自身へのインタビューの積み重ねによって、データ分析した結果には違いないのである。ただ、物理的とか化学的とかいうものではないので、ご当人は 「科学的でない」 とおっしゃっているのだろう。

確かに、物理や化学のように厳密なものではなく、「解釈のしかた」 という問題もあるので、「トンデモ」 と思ってながめればそんな風に見えるという人もいるだろう。この辺りはもしかしたら、「科学」 と 「疑似科学」 のクロスオーバーしてしまう領域かもしれないので、機会があれば、改めて慎重に書いてみたい。

なにしろ、私は一部には 「疑似科学側の人間」 と思われているフシがあるので、少しは注意しなければならない。

土橋氏は末期ガン、進行ガン治療の現場という、もっとも患者に近いポジションにいたため、これまでの西洋医学的発想にはない 「ガンになった内面的原因」 を患者自身に聞くというインタビューを数多くこなされた。

これによって収集された多くのケースを分析し、ガン患者にはある心的傾向があり、そして患者の受けたストレスの種類によって、ガンになる部位にもある傾向が生じることを発見されたのだ。心と体というのは、かくも密接な関係があるようなのだ。

そして、そのガンをつくる心的傾向を 「リセット」 あるいは 「フルモデルチェンジ」 することで、医者が見放した末期ガンが治ることがあるという事実を紹介されているのである。

いや、この言い方は少し正確でないかもしれない。というのは、ガンが治った患者は、「ガンを治すために、それまでの心的傾向を、強い意志をもって、無理矢理に変えた」 というわけではないようなのだ。

どちらかというと、「ガンを治そう」 なんてことはしなかったのである。それよりも、自然にもっと別の方向に心が向いたのだ。

例えば、病気のことは忘れて自分以外の誰かのために尽くそうとしたり、感謝を捧げたり、どうせ死ぬならと、それまでのあくせくした生活をさらりと捨てて、残りの人生を楽しむことにしたり、とにかく 「ガンと闘う」 なんてことは全然しなかったようなのだ。

土橋氏によると、ガンを治そうとしたり、闘おうとしたり、あるいはさらに進んで、ガンにならないように、日常生活でも極力気を付けたりするというのは、ガンをつくった心的傾向と同じなのだそうだ。そうした 「真面目な心」 が、ストレスをつくり、ガンをつくるというのである。だから、ガンが治るには、「ガンを忘れる」 ことなのだそうだ。なるほどね。

で、「真面目な心」 の人がガンになりやすいということは、裏返せば 「いいかげんな人」 はガンになりにくいということのようなのである。それを読んだ私は、「ああ、いいかげんな男でよかった」 と、胸をなで下ろしたのであった。

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2007/09/06

「現代用語の基礎知識」 偉い!

新語辞典の 「イミダス」 と 「知恵蔵」 が 2007年版を最後に、休刊するそうだ (参照)。

この 2つは、どうせ 「柳の下のドジョウ」 を狙った物まね企画だから、消えてしまっても別に感慨はない。その点、しぶとく発行を続ける 「現代用語の基礎知識」 は、さすが草分けである。根性が違う。偉いのである。

以前は、3年に 1度は 「現代用語の基礎知識」 を買っていた。毎年買うほどの必要はないが、3年に 1度ぐらいは更新して 「本棚の常備薬」 みたいな位置づけにしておくと、ふとした書き物の参考資料にするのに便利だったのである。

ところが、いつの間にか、物まね企画が出てきたのだ。集英社の 「イミダス」 の出たのが、1986年だという。朝日新聞社の 「知恵蔵」 は、その 3年後の 1989年だ。私は書店にこれら後発の 2つが、草分けの 「現代用語の基礎知識」 を押しのけるようにして平積みにされるのを見て、毎年不愉快な思いをしていた。

あぁ、これからはこの不愉快な思いから解放される。

物まね二番煎じを社是としているようにみえる集英社は、まあ、しょうがない。しかし、朝日までが 「知恵蔵」 なんていうナンセンスな名前の新語辞典を出したのは、不愉快極まるのである。

私は 「老舗大好き」 の人間である。いや、別に古くからあるというわけじゃなくても構わない。そのジャンルで最初にきちんとマーケティングしたブランドをリスペクトするという態度を貫きたいのである。

悲しいことに、発行部数で後発の 2つの後塵を拝して苦しんでいた 「現代用語の基礎知識」 だが、2008年版からは、持ち直す。いかに縮小したとはいえ、このジャンルのシェアを独り占めできるからだ。辛抱強く続けるのは、それだけで価値がある。

とはいえ、私自身は新語はインターネットで調べればすぐに解決するので、今後、新語辞典を買うことはないだろうけど。いや、来年版だけは、ご祝儀の意味も込めて 「現代用語の基礎知識」 を買っちゃおうかな。

ちなみに、「イミダス」 と 「知恵蔵」 は、有料のウェブ版を継続するらしいが、ウェブの世界では無料でいくらでも調べられるので、私の感覚ではそんなものに金を払うのはナンセンスである。本の形になっているものだからこそ、金を払う気にもなるというものじゃなかろうか。

分厚すぎて邪魔ではあるけれど。

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2007/03/22

翻訳の難しいアメリカ小説

村上春樹訳による 「ロング・グッドバイ」 が出たんだそうだ。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」 「グレート・ギャッツビー」 に続くアメリカ小説翻訳の第三弾ということになる。(この点については、最後の 「追記」 参照)

私は 「ギャッツビー」 の原書は読んでないが、「ライ麦畑」 と 「ロング・グッドバイ」 は、たまたまペーパーバックで読んでいる。

書棚の中から、この 2冊はすぐに見つかった。「ライ麦畑」 の表紙は、赤茶色にタイトルと著者名だけという超シンプルなデザインだが、「ロング・グッドバイ」 は、かの有名なカクテル、ギムレットがフィーチャーされてスタイリッシュ。両方の著者のキャラがよく出ている。

この 2冊は、23~4歳の頃に相前後して読んでいる。30年も前のペーパーバックが、書棚からすぐに見つけ出せるというのは、あれから何度も繰り返し読んでいるからだ。もちろん、通しで読み返すのではなく、部分的にだが。

「ライ麦畑」 の方は、とても読みやすい。読みやすすぎて、翻訳するのは大変だ。どう訳しても、原書の雰囲気からは離れてしまう。主人公である 16歳のホールデン・コールフィールド少年のキャラは、日本語にした途端に裏切られてしまう。

それは、このペーパーバックの表紙に、何の画像も使われていないのと同じことだと思うのだ。何らかの画像を使った途端に、それはホールデン少年のイメージを裏切ってしまう。

だから、私は清水訳は何だか違うと思ったし、村上訳も 「やっぱりね」 という感じだった。この小説は、申し訳ないけど、英語で読むのが一番だ。

で、今度の 「ロング・グッドバイ」 である。これは、ちょっと読みにくい。同じスラング満載でも、「ライ麦畑」 は何となくわかるが、チャンドラーの世界はかなりペダンティックなので、わからないと、さっぱりわからない。

それでも (あるいは、「それだけに」 かな?)、日本語にはしやすいと思う。ホールデン君のあまりに直截的な物言いに比べて、チャンドラーの言葉にはある程度のクッションがあるからだ。

そういえば、以前、杉浦日向子さんが亡くなったとき、彼女の有名な 「にじよじ」 という世界のアメリカ版として、「ロング・グッドバイ」 の中の一節を翻訳してとりあげたことがあった (参照)。

俺は夕方前に店を開けたばかりのバーが好きだ。店の中の空気はまだ涼しくて清潔だし、すべてが輝いている。バーテンダーは鏡を覗いて、ネクタイが真っ直ぐで、髪の毛がきちんとしているかどうか確かめている。俺は、カウンターの奥の小ぎれいなボトルと光沢のあるグラスを眺めながら、これから始まる時間について考えるのが好きだ。バーテンダーがその日の最初のカクテルを作ってパリッとしたマットに置き、小さく折ったナプキンを添えるのを見るのが好きだ。そして、それをゆっくりと味わう。静かなバーの夕刻の、最初の静かな一杯 − 素晴らしいじゃないか。

ありゃりゃ、我ながらベタすぎる翻訳だなあ。直訳すぎるし。清水訳なんか、多分かなり意訳してスタイリッシュにこなしてるんだろうと思う。この部分、村上訳ではどうなってるんだろう。

蛇足だが、「にじよじ」 のキーワードでググると、私のどうでもいいエントリーが 494,000件中のトップにランクされている (参照) ことを、たった今、知った。なんとも畏れ多いことである。(Google の検索結果より直接的な固定リンクは、こちら なのだが)

【追記】

「ロング・グッドバイ」 が村上春樹のアメリカ小説翻訳第三弾というのは単行本ベースで言ったつもりだったのだが (彼はそのほかにも尋常じゃないほどの数の翻訳を雑誌で発表しているので)、単行本でも、まだまだあったようだ。だから、第三弾というのは、間違いです。ごめんなさい。

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2005/06/21

田中小実昌氏に座布団三枚!

「ポイズンピル」 をめぐって、昨日に続き、もう一度冒険させていただくことにする。

流れるものと残るもの」 でも触れられているが、ハードボイルド御三家の一人、ダシール・ハメットの 「血の収穫」 という小説に、「パーソンビル」 という町が登場する。この町が 「ポイズンビル」 と呼ばれているという。

私は探偵フィリップ・マーロウの登場するレイモンド・チャンドラーのシリーズならほとんど読んでいるのだが、その先輩格のダシール・ハメットの方は、恥ずかしながら一作も読んでいない。「マルタの鷹」 は、ボギー主演の映画で見たが。

今回は読んでいなくても書けるほどの、些細な内容である。重箱の隅である。まず、そうお断りしておく。

「血の収穫」 の日本語訳には、田中西二郎訳、能島武文訳、田中小実昌訳、小鷹信光訳があるらしい。「孤独のつぶやき」 というサイトに、それぞれの冒頭部分が引用されている。

この小説は、"Personville" (パースンビル) という町があり、それを、"Poisonville" と発音する男がいたというところから始まる。ここで問題にしたいのは、その "Poisonville" が実際にどう発音されていたかだ。

上記の 「孤独のつぶやき」  というサイトによれば、四人の翻訳者のうち、田中西二郎氏、小鷹信光氏の二人は 「ポイズンヴィル」 、能島武文氏は 「ポイズンビル」 と表記している。「ポイズン」 の部分は 3人に共通している。

それに対して、あの田中小実昌氏だけは 「ポイズン」 と濁らずに 「ポイビル」 と表記し (ちなみに、"Personville" の方も 「パービル」 となっている)、その上で、

文字で書けば、Poisonville、毒の町 (ポイソンビル) ってことになる。

と、訳注めいた一文を入れて補っている。つまり、発音だけでは、poison (ポイズン = 毒) そのものにはなっていないということに、並々ならぬこだわりをみせているのだ。

小説では、主人公がこの町の名前を初めて耳にしたのは、とある酒場で "shirt" (シャツ) のことを 「ショイツ」 と発音する炭坑夫が言うのを聞いたということになっている。

つまり、あの "e" をひっくり返した形の発音記号で示される曖昧母音に "r" の付いた発音が 「オイ」 という発音に置き換わる訛りだ。

これは米国では案外よく耳にする。"Girl" なんかも、口の奥にこもったように 「ゴイル」 に聞こえる。数年前にロサンジェルスで泊まったホテルのフロント係の男も、この訛りだった。

この訛りの法則だと、Poisonville も、「パーソン/パースン」 の 「パー」 の部分が 「ポイ」 に置き換わるだけだから、田中小実昌訳の 「ポイソン」 が、多分、いやほぼ確実に、正しいんだろうなあという気がする。

ちなみに 「ポイスン」 の方がより近いのだろうが、"person" を外来語の慣例に従って 「パーソン」 としたからには、「ポイソン」 に帰着させた判断は正しい。

英語では、語尾の 「ズ」 の発音が弱まって 「ス」 に聞こえることはいくらでもあるが、"poison" が 「ポイン」 になることはあまりない。この場合は逆も真なりで、Personville がいくら訛っても、「ポインビル」 にはならないはずなのだ。ズーズー弁じゃあるまいし。

というわけで、私は 「ポイズンビル」 に流れずに 「ポイソンビル」 とした田中小実昌氏の見識に感服するのである。なにしろ、氏は進駐軍将校クラブのバーテンダーなどを経験しているから、米国人の生の発音には、かなり親しんでおられたはずだ。

ハードボイルドというジャンルは、全体の筋以上に、細部へのこだわりが重要なのである。氏はとてもひょうひょうとして、頼りなさそうに見えたが、このあたりは、とてもしっかりと芯が通っていたわけだ。

今日の結論は、「田中小実昌氏に座布団三枚!」 ということである。

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