カテゴリー「心と体」の101件の記事

2008/06/20

自己嫌悪と感傷と、土壌改善

産経新聞の一面、題字横に、「朝の詩」 というのがあって、読者の作ったらしい詩のようなものが載せられている。

少し前の 「朝の詩」 の中で気になるフレーズを見つけた。「自己嫌悪はいい/いけないのは感傷だ」 とかいうものだったと思う。私は 「なんだ、そりゃ?」 と驚いた。

私自身の感覚としては、自己嫌悪しているやつに、付き合っておもしろいやつはいないと思っている。そりゃ、ナルシシズムの強すぎるのも付き合いきれないが。人間、基本的に自分が嫌いでは具合が悪かろう。

そして、時にはちょっとした感傷に浸ることもいいじゃないかと思うのである。感傷は人生の潤滑剤だ。レイモンド・チャンドラー作のあのハードボイルドな探偵フィリップ・マーロウだって、根は案外センチメンタリストである。

ところが、この 「朝の詩」 の作者は、私の感覚とはまったく逆のことを言っているのである。言わんとすることは、感傷なんかに浸っていないでがんばれということらしい。自己嫌悪すれば、嫌悪しなくてすむ自分になるようがんばれるという文脈のようなのだ。ほほう、そういう考え方もあるのか。

これを読んだ直後に、例の秋葉原の事件があった。そして加藤智大容疑者に関する記事を読むと、こいつはどうも、「自己嫌悪」 というのをあまりしていないようだ。どちらかというと、悪感傷に浸っている。

彼のロジックでは、悪いのは自分ではなく、親と世の中である。そして、たまたま不細工な容姿に生まれついたせいで彼女ができないとか、職場で不当な扱いを受けるとかの不運にしか見舞われない自分が不憫でならないという、妙な感傷を抱いているようなのだ。

なるほど、「自己嫌悪はよくて、感傷はいけない」 という論理にも、一理あるかもしれないと思った次第なのである。しかし、よく考えると、問題は少し別のところにある。どれがよくてどれがよくないという問題ではなく、変な言い方かも知れないが、要するに 「運用次第」 なのである。

例えば、「お金そのもの」 は、ニュートラルである。いいものでも悪いものでもない。それは 「金にきれいか、きたないか」 という人間次第の要因で、よくも悪くもなる。そして、世の中のほとんどは、そんなようなものである。

「上手な自己嫌悪」 というものがあるかどうかしらないが、もしそれをすれば、「朝の詩」 の作者の言わんとするように、自分が好きになれるように努力できるかもしれないし、うまく感傷的になれば、人に優しくもなれるかもしれない。

根っこの部分でポジティブな方向を向いているか、ネガティブな方向を向いているかの違いだろう。

加藤智大容疑者は、根っこの部分でネガティブな方を向いてしまったみたいなのである。それを修正するには、土壌 (つまり、周囲の心配りかな?) から改善しなければならなかったんだろうが、それに気付いてくれる人が身近にいなかったのだろう。こういうのは、いたちごっこになりやすい。

ここまで考えて、今、一応幸せと感じていられる人は、自分の周囲の土壌改善に少しだけ気を配ってあげられるといいなあと、遅ればせながら気付いた。七面倒くさい議論で時間つぶしするよりも、その方がずっと役に立つだろう。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/06/18

熱中症対策は 「我慢しないこと」 らしい

取手駅に向かう道すがら、カーラジオで気象予報士の森田正光さんが熱中症について解説するのを聞いた。

熱中症にかかるのは、男の方が圧倒的に多いんだそうだ。東京消防庁の熱中症患者の搬送データによると、毎年、男がほぼ 70%を占めるらしい。(参照

こう聞くと、男の方が暑い日向で肉体労働をする機会が多いとか、いくらクールビズが普及しても、男の方が圧倒的に暑苦しい格好を強いられるからとか、いろいろな社会的条件を思い浮かべてしまうが、そもそも肉体構造的に、男女には体温調節機能の差があるんだそうだ。

筋肉活動は体温を上昇させる結果をもたらすが、男は女より 10%程度筋肉量が多いので、体温が上がりやすいという。さらに、外界温と体温との緩衝材になる体脂肪が男の方が少ないので、体温が変化しやすいということになっている。

そうであったか! 夏になると真っ赤な顔して汗だくになり、扇子をパタパタさせながら 「暑い暑い」 とわめきちらすのは圧倒的にオッサンに多いとは思っていたが、それは無理からぬことだったのである。オッサンの存在が暑苦しいのは、仕方がないのだ。

ただ、森田さんはこうした肉体的条件のほかに、精神的な 「限界耐性」 ということに触れておいでだ。人間が肉体的なつらさを我慢する限度というものにも、男女差があるらしい。

出典は不明だが、森田さんによると、平均的に女は限界の 50%ぐらいで 「あたし、もうダメ」 と感じ、一方、男は 70%ぐらいまで我慢してしまうらしい。つまり、男の方が体力の限界近くまでがんばってしまう傾向があるというのだ。

熱中症で病院に運ばれるケースをみると、オッサンがジョギング、ゴルフの最中に倒れてしまったというのが、圧倒的に多いらしい。ああ、悲しいかな、男というのはジョギングだのゴルフだのでも、しなくてもいい我慢をしてがんばってしまうもののようなのである。

熱中症予防には、とにもかくにも水分を補給することと言われるが、それ以前に、下手に我慢してがんばりすぎないことが、最も重要のようなのだ。私なんか、普段はいい加減なくせに、妙なところでがんばっちゃうところがあるので、気を付けようと思う。

もっとも、がんばらなくても熱中症になってしまう例もあるらしい。夏の暑い中で寝ているうちに、いつの間にか発汗で脱水症状になっているのに、当人は眠っているのでそれに気付かないで、熱中症になってしまったなんてこともあるというのだ。

がんばらなきゃいいと言っても、寝てばっかりもいけないのである。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/04/04

ソメイヨシノによるストレス増幅

4月 1日の春嵐にも負けず、関東の桜が満開を維持している。桜ははかなく散るものと思われているが、実際には盛りを過ぎるまでは、強風でも必死に枝にしがみついている。

それでも、桜ははかなく、あるいは潔く散るというのは、日本人の DNA の中に深く擦り込まれた固定イメージのようなのだ。

昨日の和歌ログで、「のどけきを忘るる春の曉に静かなるかな桜散らざり」 と詠んだ (参照)。日本人の桜のイメージに、敢えて反旗を翻してみた。こんな風に詠いたくなるほど、今年の桜は健気である。

この日の和歌日記にも書いたのだが、在原業平に、「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」 という超有名な歌がある。桜さえなかったら、今日散るか、明日散るかと思いを馳せることもなく、平穏な心で春を過ごせるのにという歌だ。

しかし、業平の頃の桜の主流は山桜である。ソメイヨシノはずっと時代を下って江戸末期に品種改良の末に作られたものだから、日本人は山桜に馴染んだ期間の方がずっと長い。有名な吉野の山の桜も、山桜である。

山桜というのは、Wikipedia によると、ソメイヨシノよりもずっと花の盛りが長いらしい (参照)。そのため、昔の花見はその長い花の盛りの間に、散発的に行われたとある。今のように集中してどっと繰り出すというようなことはなかったようだ。

それなのに、業平は 「絶えて桜のなかりせば」 と詠んだのである。今から思えばずっとのどかな花見をしていた時代に、なおこんな風な感慨を抱いていたわけだ。今の我々と、平安貴族のスピード感は、ものすごいギャップがあるようなのである。

思えば、我々はあまりにも急ぎすぎているような気がするのである。1年を 8年分生きるドッグイヤー感覚に慣らされすぎているようだ。

そういえば、今では日本の桜の 80%がソメイヨシノになってしまっているようだが、これでは 「種の多様性が維持できない」 と警鐘を鳴らす人もいる。なるほど。日本中のソメイヨシノがたった 1本の木のクローンだというのだから、もし何か大きな要因でソメイヨシノにダメージが与えられたら、日本中の桜の 8割が消えてしまいかねない。

政府の首脳が全員 1機の飛行機に乗って移動するようなものである。何かの事故で墜落したら、国がマヒしてしまう。日本の桜はそれと同じような状態にある。

そして、平安の代の貴族ですらソワソワしていた感覚を、開花期間の短いソメイヨシノで、さらに増幅させてストレス社会に輪をかけている。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008/03/30

ハードとソフトのエクスタシー

「快感」 と一口に言っても、それには大雑把に 2通りあると思うのだ。まず、「ちょっと苦しいけど快感」 というやつ。

最近のビールの CM を見ると、「うんまぁ~!」 という感覚を表現するのに、サッポロの西田敏行にしろキリンのぐっさんにしろ、眉間にしわを寄せてエクスタシーを表現している。

先日の電車の吊り広告の件でついでに写しておいたのがこれだ。「旨い!」 という快感を表現しているのはわかるが、「くぅ~~っ!」 という苦しさが、そこにほんの少しだけ混じっている。

ここで便宜上、こういう快感を 「ハード・エクスタシー」 と名付けておこう。その代表的なものがセックスの快感だと思うのだが、ここではそうした画像を掲げるのは遠慮して、ビールの旨さのレベルにしておいた。

その一方で、「苦しさのない柔らかな快感」 というのがある。やさしく肩もみなんかしてもらうと、「ほぇ~~」 という感じで、えもいわれぬ気持ちよさに包まれる。これを便宜上、「ソフト・エクスタシー」 と名付けておこう。

「ハード・エクスタシー」 と 「ソフト・エクスタシー」 の関係は、「くぅ~~っ!」 対 「ほぇ~~」 の関係である。

で、この他に快感はないのかと考えてみると、どうも思いつかないのだ。「笑い」 を誘うおもしろさなんて、どっちでもないように思えるが、強いて分類すれば、笑いでさえも、ハードな 「お腹のよじれるような笑い」 と、ソフトな 「癒しの微笑み」 のどっちかに入ってしまうと思う。

人間は、「くぅ~~っ!」 と 「ほぇ~~」 のために生きているような気さえしてしまう。

で、自分のことを考えてみると、若い頃は結構 「ハード・エクスタシー」 を求めていた。何でも疲れるほど突き詰めてガンガンやっていた。ところが、いつの頃からか、「ソフト・エクスタシー」 派に鞍替えしてしまっている自分がいるのである。

年を取ると 「ハード・エクスタシー」 を得るほどの体力がなくなるんだという人がいる。「くぅ~~っ!」 に絶えきれなくなって、どんどん 「ほぇ~~」 方向ににのめり込んでしまうのだという。

「なるほど、一面の真理だと思う。若い頃にツェッペリンやディープパープルをガンガンに聞いていたのに、40歳や 50歳を過ぎて、最近のクラプトンの方がいいなんて言い出す人も多い。

それでも、そういう連中をそれなりの空間に連れ出してハードロックをガンガンに聞かせると、いい年をしたオッサンが驚喜してノリまくる。そして、家路を辿るときには 30年ぐらい若返ったような顔をしている。

人間、いくら歳を取っても、たまには 「くぅ~~っ!」 がないといけないようなのだ。で、私としても、年に何度かは 「ハード・エクスタシー」 で、息を切らせてノリまくる余地を残しておきたいと思っているのである。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008/03/24

脳内オーディエンスを育てるには

ちょうど 1週間前に書いた 「脳内オーディエンス」 という記事が、いくつかの個人ニュースサイトで紹介されて、木曜、金曜あたりに、いつもよりちょっとだけアクセスが増えた。

一見マニアックすぎるみたいな感じのテーマだが、結構いいところを突いた話だと思う。ネタ元の漫画家、浦沢直樹氏に感謝である。

ざっと言ってしまえば、浦沢直樹氏は自分の 「脳内オーディエンス」 に向かって漫画を書くと語っていたということである。子どもの頃から、自分の書いた漫画をクラスの 40人に見せるよりも、自分の脳内の 100万人に見せる方が良かったというのだ。

私はこの記事を、「一流というのは、脳内に一流のオーディエンスを持っている人のことを言うようなのだ」 と結んでいる。しかし、たったこれだけで結ぶのは、いかにも舌足らずだという気がする。

で、あれからさらにわかったのは、「脳内オーディエンスは、育てることができる」 ということだ。最初から自分の中に一流オーディエンスを飼っているやつなんて、そんなにはいない。

脳内オーディエンスを育てるには、やはり常にいい情報を与え続けることしかない。いい情報には、もちろん他人による一流の作品も含まれるが、自分でも常に作品を作り続けることだ。そうでないと、自分の脳内オーディエンスが自分用のオーディエンスになってくれない。

自分が自分の脳内オーディエンスを育て、そうして育てられた脳内オーディエンスが、今度は自分を育ててくれる。不思議なフィードバック関係である。

脳内オーディエンスは、自分の中の 「他」 ではあるが、それを認識するのは自分の感覚でしかない。それは、録音した自分の声を聞くようなものだ。録音した自分の声を聞くと、誰でも最初は絶えられないほどの違和感、それも恥ずかしい違和感に襲われる。

それでも自分の声を自分で聞かなければならない。そうでないと、脳内オーディエンスが自分のオーディエンスになってくれない。

たまたま 「録音した自分の声」 を引き合いに出したが、自分の作品、原稿、何でも同じようなものだ。それはまた、写真にも似ているかもしれない。

自分のみた風景は、実は外界そのままではない。脳内で相当な解釈を加えて自分流に作り上げた映像である。自分のみた風景を写真に撮ってみて、そのあまりのイメージの違いに驚くことがある。

人間というのはえてして、自分の印象の方が正しいと思いがちだが、印象というのはかなり勝手な解釈を加えたものだから、実は写真の方が現実に近かったりする。だから、写真というのは、それもいい写真というのは、見れば見るほど新たな発見があるのだ。

人間というのは、自分になったり他者になったりすることができる。自分の中の印象に止まるだけでなく、録音された声を聞いたり、撮影された写真をウォッチすることができる。それは、直接録音しなくても、写真に撮らなくても、メタファーのレベルで可能だ。

時々は 「他者になる」 ことで、人間はどうしようもないエゴイズムから離れることができる。これのできない人は、傲慢な人というしかない。気の毒なことに、脳内にちゃんとしたオーディエンスのいない人である。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/03/17

脳内オーディエンス

昨日仕事先からの帰り道、カーラジオを聞いていたら、タレントの伊集院光の番組に漫画家の浦沢直樹さんが出ていた。この人、なかなかおもしろいトークをする人である。

中でも一番興味深かったのは 「脳内オーディエンス」 という言葉だ。彼は自分の脳の中にいる読者のために漫画を描くのだそうだ。

彼が言うには、小学生の頃に漫画を描いている子はクラスに何人もいた。自分で描いた漫画を友達に見せている子供もいたが、そういう子はなぜかプロの表現者にはなっていない。自分はその頃、ほとんど自分のためだけに描いていて、せいぜい気の合う 2~3人にしか見せなかった。

「引き籠もりといえば言えるけど、クラスのせいぜい 40人に見せるよりも、自分の中の100万人に見せる方がよかった」 という。彼はそれを 「脳内オーディエンス」 と表現し、番組ホストの伊集院光もそれにいたく共感した。

伊集院光の言うには、ラジオの生放送で 「あ、今すごく受けてる」 と直感することがあるそうだ。スタジオの中にいて、聴取者の反応が直に伝わるわけでもないのに、とてもリアルに直感する。それは、自分の 「脳内オーディエンス」 に受けていたわけだ。

芸術家と職人の違いが話題になることがある。しかし、芸術家も職人も、オーディエンスに受けようとして作品を作ることに変わりはないようだ。そのオーディエンスが、自分の脳内により多くいるか、ほとんどが市場に 「他」 として存在するかだけが違うのかもしれない。

そして、一流になると芸術家でも職人でも、自分の 「脳内オーディエンス」 の方により忠実であろうとして作品を作るんじゃないかと思う。一流というのは、脳内に一流のオーディエンスを持っている人のことを言うようなのだ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/03/05

KONISHIKI さんのガストリック・バイパス

昨日から "Today's Crack" に、「ガストリック・バイパス」 というキーワードで検索したアクセスが目立っている。

KONISHIKI さんが病的肥満解消のため、ハワイでガストリック・バイパス手術を受けた (参照) ようだが、自分がそれについて書いた覚えはないので、驚いてしまった。

しかし、人間とは恐ろしいもので、自分のブログのサイト内検索をしてみたら、ちゃんと触れているのである。しかも 1年半以上も前に。

問題のエントリーは、一昨年 8月 19日付の、"「マンガ」 が英語として認知された" というもので、出だしはこんなふうになっている。

Cube New York に 「メリアム・ウェブスターズ・カレッジエイト辞書 2006年版に加わった新語リスト」 という記事がある。

今回、新たに同辞書に加わった約 100語のうち 21語が紹介されている。今さらながら "Google" が初登場し、 "manga" (マンガ) なんていう日本発の外来語もある。

で、この21語について触れた中に、「Gastric Bypass / ガストリック・バイパス (過度の肥満解消の外科手術。胃のサイズを小さくし、小腸とつなぐバイパス手術。セレブの間で静かな流行らしい)」 という記述がある。自分で書いてすっかり忘れていた。

ここに紹介された 21語は、ウェブスターが厳選した 100語のうちから、さらに Cube New Nork が選んだだけあって、ほとんどは米国で定着して、今でも (多分) 使われている言葉である。

中でも、米国でのガストリック・バイパス手術の増加はかなりなもののようで、ひょんなことから日本でも話題になるとは、1年半前には思わなかった。

この記事を書いた時、ガストリック・バイパスは 「セレブの間で静かな流行」 とあるが、その手術跡はどうやって隠すんだろうと、ちらっと気になった覚えがある。セレブだけに、肌を露出する機会はけっこう多いだろうし。

今回、その疑問が解けた。ガストリック・バイパスは大きく切開するような野蛮なことはしないのである。「腹腔鏡手術」というメソッドによるもので、手術跡は 5ミリから 1センチで済むらしい。そのかわり、かなり高度なテクニックを要するらしいのだ。

それにしても、そんな高度な手術なら、費用もかなり高額に違いない。さらに、これは こちら からの孫引きだが、Agency for health care Research and Quality の調査では、手術後 6ヶ月以内に 10人のうち 4人が合併症を起こし、死亡率も 100 ~ 200人に 1人の割合という。なかなか気軽に踏み切れるものではないようなのだ。

しかし、考えてみれば、セレブだからお金には困らないだろうし、100 ~ 200人に1人死ぬというリスクも、そのまま病的に太り続けて生活習慣病で死ぬリスクに比べれば、まだ低いのかもしれない。肥満で死ぬか、手術で死ぬかといえば、手術で痩せて死ぬほうがましということなのだろう。

それにしても、こんなことまでしないと解消しない肥満というのも、なかなか大変だと思いやられるのである。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/02/29

ペットを飼うと心臓発作リスクが減る

米国脳卒中協会 (ASA) によると、ネコの飼い主は心臓発作リスクが低いのだそうだ。

さらに、「どのような動物でも、飼い主がその動物を大切に思っていれば、健康によい効果をもたらすはず」 との医学者の見解も紹介されている。これは決して 「トンデモ」 というわけでもなさそうなのである。(参照

このニュースから読み取れるのは、猫を飼っている場合のみが統計的にまともなデータとして発表されているが、他の動物の場合でも同様の効果があるはずだと、医学者たちは見ているようだということである。

我が家では、猫を 2匹飼っている。以前はそれに加えて犬も 1匹いた。さらに、私が子供の頃は我が家には猫が何匹いたかわからないほどだった。私にはどうやら、犬猫好きの血が流れているらしい。

その犬猫好きの私の感覚で言うと、ペットと接するというのは、確かに 「癒される」 ことに間違いはない。しかし、実を言うと 「癒される」 ばかりではない。ペットというのは実に手のかかる存在なのである。飼い主は 「癒し」 と引き換えに 「世話」 という結構な負担を強いられる。

まず基本的に、餌を与えなければならないし、餌を与えるのだからその結果として、糞の始末も日常的にしなければならない。抜け毛のかたまりは室内に漂うし、蚤やしらみの対策もしてあげなければならない。病気になれば、人間と違って健康保険も利かないから、結構な出費である。

それだけではない。急ぎの仕事であせってパソコンに向かっているときなど、猫が甘えてひざの上に乗ってきて、喉をゴロゴロ鳴らしながら頭を摺り寄せてこられると、かわいいにはかわいいが、邪魔でしょうがない。相手も生き物だから、こちらの都合だけの思い通りにはいかないのである。

こうしてみると、「世話」 の負担と、その結果として享受できる 「癒し」 の効果というのは、案外チャラなんじゃないかと思う。そして、さらに言うならば、飼い主に強いられる 「世話」 の負担すらが、実は 「癒し」 の効果を発揮しているんじゃないかということだ。

「癒し」 の効果を一方的に 受け取るだけでは、実は、あまり健康の役には立たないような気がする。「世話」 をするからこそ、心理的にちょうどいいストレスを感じ、体を動かすことによる運動効果も発揮され、結果、心臓発作リスクも軽減されるんじゃなかろうか。

人間、受け取るだけではだめで、「愛を与えること」 が必要ということなのだと思うのである。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/02/27

「ありがとう」 を言うナルシシズム

あちこちで 「ありがとう問題」 が盛り上がっていて、私まで先日一言書いてしまった (参照) が、他にもちょっと面白い指摘がある。

"店員に対して 「ありがとう」 を言える自分って、カッコいい!" と感じるナルシシズムが、底流にあるんじゃないかというものだ。うん、これって結構言えてるかもしれない。

先日のエントリーにも書いたが、私自身、結構気軽に 「ありがとう」 を言う人である。そして、言われてみれば、「ありがとうを言える俺って、かっこいいかも」 という感慨が心の奥に存在することは、決して否定できないと思う。

だが、あまりこの感慨にこだわって、私を 「やらしいナルシスト!」 みたいに思わないでもらいたい。確かにそんなような感慨がなくもないことは認めるが、私がよく 「ありがとう」 と言う主な理由が、ナルシシズムというわけじゃないのだ。

別に 「ありがとう」 の言葉を発するたびに、ナルシシズムに酔っているわけじゃない。一応、ちゃんと感謝し合える方が当たり前だし、気持ちいいよねということで、自然に身に付いているという感覚の方がずっと勝っている。

だが、「その当たり前で気持ちいい社会を作るために、率先垂範して自然に身につけた俺って、かっこいいかも! と思ってるんじゃないの?」 とまでからまれたら、「はいはい、おっしゃる通りですよ。そんな感覚だって、確かになくはないですよ」 と言うしかない。

で、その上で言うのだが、人間、「かっこいい」 と思えることをしたくて、「かっこ悪い」 ことはしたくないのは、ごくフツーのことなのである。大抵の行為は、ちょっとしたナルシシズムから発するといってもいいぐらいのものだ。

そりゃ、何かするたびにナルシシズムに酔いまくられたら、周りの人間は付き合いきれないが、それをきちんと昇華した行為なら、ちゃんと好意的に受け止められるものだ。

中年過ぎてハーレイ・ダビッドソンを乗り回すナルシシズムと、店員に 「ありがとう」 というナルシシズムは、根っこの部分で似ていると私は思う。で、私は多くの中年ハーレイ・ライダーたちの、マナーの良いライディングを好ましく見ている。

ハーレイ・ダビッドソンの、あの一見押し出しの強すぎるデザインと、ライダーたちの好ましいマナーが補完しあって、「あいつら、目立ち過ぎといえばいえるけど、でも、存在としてはなかなかいけてるじゃん」 と、思わせてしまうところがある。

そうしたような感慨も含めて、相手と時と場所に応じて、感謝の言葉のバリエーションを上手に使い分けられるようになりたいと思うのだ。変な言い方かもしれないが、ハーレイ・ライダーたちの外見よりも自然にね。

そうすれば、ひょっとして 「ありがとう」 が気に障るかもしれないというようなケースでは、ごく自然に、あっさりとした 「どうも」 だけで済ませられるようになるだろう。さらに、ちょっとした表情と軽い会釈だけで、十分に感謝の意を伝えられる達人になれるかもしれない。

そのレベルまで到達するには、ちょっと人生経験が必要で、ぎこちない時期が長く続くかもしれないけれど、それはそれで、見習い期間として認めてあげるという共通認識が必要だと思う。なにしろ、"日本語の 「ありがとう」 は難度が高い" のだから。

だから、「ありがとうが大嫌い」 なんて、あまり声高に言わないでねと、お願いしたい。ちょっとキザに聞こえる見習い期間の 「ありがとう」 も、そのうち身に付いて、自然に聞こえるようになるだろうから。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2008/02/21

よく転ぶ人は好きですか?

フツーに平坦な道で、目の前を歩いていた女性が、何の前触れもなく、いきなりずってんどうと転んだりすることがある。

世の中には 「よく転ぶ人」 というのが存在する。作家の森茉莉という人も、生前はよく転ぶ人だったと伝えられる (参照)。何もないところでも、とにかく転ぶのである。

よく転ぶ人が、何もつまずくもののないところでもいきなり転ぶのは、「空間認識と肉体感覚のずれ」 によるものだと、どこかで聞いたことがある。実際に歩いているポイントと、自分の歩行のリズムが微妙にずれてしまって、そのずれに対応できなくて転んでしまうものらしい。

これを聞いて、「なぁるほど!」 と思った。私は 「よく転ぶ人」 というわけでは決してないが、そう言われれば身に覚えがないわけじゃない。それは、長い階段を大急ぎで駆け下りる時の感覚である。

私は階段を駆け下りるのがかなり速い。というか、階段は駆け下りるものだと思っている。重力によって加速度のついた自分の体重を、いちいちステップごとに自分の膝で受け止めるなんて、体にいいはずがない。

だから、加速度は加速度としてそのまま自然に開放したい。そうなると、とにかく足を高速回転させて駆け下りるしかないのだが、それで危険を感じることはほとんどない。足の回転がどんなに速かろうと、そのリズムと階段のステップがきちんと調和している限りは、決して転がり落ちたりはしない。

しかし、たまにぼうっとしたときなど、ふと気づくと、自分の足の動きと階段のステップとの調和が、微妙にずれかけていることがある。幸いなことに、これまでのところは咄嗟の微修正を効かせて、派手に転がり落ちるなんてことは経験せずに済んでいる。

これはひとえに、私のリズム感の良さによるものだと思っている。私は反復横とびにしろ、陸上のハードル走にしろ、そしてもちろん音楽にしろ、リズム感の要求されるものはたいてい得意なのである。

そして、このリズム感というのは、自分の体内の感覚だけの都合ではなく、外界との関係性の、不断のアジャストメントによって成立するものだと気づいた。つまり、「リズム感のいい人」 というのは、外界をスムーズに認識し、それを自分の身体感覚にしっくりインポートできる人でもあるようなのだ。

しかし、いくらリズム感がよくても、長い階段を駆け下りるときに、たまに外界と自分の身体感覚との間にちょっとした 「ズレ」 を感じて、ひやっとしてしまうことがある。そして、外界認識の苦手な人というのは、フツーの平坦な道でも、それと同じことをやってしまうようなのだ。

つまり、よく転ぶ人というのは、「そこにいても、そこにいない人」 なのだ。当人の意識は、ちょっと別のところにいるのである。別のところの歩き方で歩いてしまうのだから、転ぶのも当然である。

世の中には 「よく転ぶ女の子が好き」 という男が結構いる。なるほどねという気がする。夢見がちな少女を守ってあげたいという本能が働いてしまうのだろうね。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/26

ジョーバ・ン線運動

近頃、ダイエットがうまくいっていて、1週間で 3kg 体重が減った。やっているのは、「ジョーバ」 ならぬ 「ジョーバ・ン線運動」 である。

1週間に 4日以上は乗る JR 東日本常磐線快速電車は、他の路線よりもかなり揺れが激しい気がする。この揺れを、せっかくだからフィットネスに利用しようと思い立ったのだ。

私がこの快速電車に乗るのは、取手駅から上野駅までの、約 42分間である。どちらも始発と終点だから、その気になれば、たいていは座席に座ることができる。とくに並行して走るつくばエクスプレスが開通してからは、座れる確率が格段に高くなった。

しかし、私は今週の月曜日に 「よほどのことがない限り、常磐線では座席に座るまい」 と、悲壮な決心をしたのである。あまり体を甘やかすと、体重が減らない。体重が減らないと、動くのがおっくうになる。動くのがおっくうになると、ますます運動をしなくなる。この悪循環を断ち切らなければならぬ。

というわけで、私は取手から上野までの往復を、ずっと立っていることにしたのである。しかも、吊革にもポールにも、どこにもつかまらない。そしてなお、体のバランスを取りにくくするために、荷物は網棚に載せ、胸の辺りで腕組みをして、両腕の動きでバランスを取ることもできなくするのがミソだ。

そして、どんなに揺れても、できるだけ両足をステップさせない。つまり、一度立った位置から、足を動かさないのである。ということは、膝と腰の動きでバランスを取るしかなくなる。

これは、案外運動になる。吊革につかまらなくても、手に荷物を持っていると、その荷物を微妙に動かしてバランスを取っているものだと気付いた。さらに荷物を持っていなくても、電車が揺れるたびに、両腕は無意識に微妙な動きをしてバランスを取っている。

このバランスを取る働きに、腕組みをすることで封印を施してしまうのである。するとまあ、常磐線というのは、とてつもなく揺れるものだということに気付く。とくに上りより下りの線路の方が揺れる。時々は暴力的なほど揺れる。

常磐線電車の中で立って腕組みをしていると、こうした暴力的なまでの揺れに体が反応して、かなり必死にバランスを取らなければならない。それは音に聞く 「ジョーバ運動」 に近いのではないかと思われる。それで、「ジョーバ・ン線運動」 と名付けたのである。

1週間で 3kg も体重が減るという効果には、我ながらびっくりである。単に脂肪が落ちただけではない。体全体の筋肉が増強された気がする。

とにかく、歩いていても体が軽い。駅の階段の 2段飛びなんか、楽々である。上り坂も加速しながら行ける。エレベーターなんか乗る気がしない。ちょっと前までは、常磐線の行き帰りは座席に座って居眠りでもしなければ体がもたないと思いこんでいたが、まったく逆だ。「ジョーバ・ン線運動」 している方が、ずっと疲れないのである。

揺れの激しい電車は、福音である。通勤や通学のためだけの、非生産的な時間をフィットネスに利用すれば、他の貴重な時間を使って運動なんかしなくて済む。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2007/12/31

年の瀬に、健康について考えた

平成 19年も、いよいよあと 24時間を切ってしまった。長年寝たきりだった母が、5月に亡くなってしまい、それからあっという間に年の瀬を迎えたような気がする。

そうこうしているうちに、今年も当コラムの 「毎日更新」 を達成。これで 4年連続、掛け値なしの毎日更新となった。

2年とか 3年とか連続更新を達成した頃は、「我ながら、よくもまあネタ切れもせず……」 と思っていたが、4年も続けてしまうと、ネタだのなんだのいう以前に、我が身が健康であることがありがたい。

私の場合は、この "Today's Crack" だけではなく、もう一つ 「和歌ログ」 という文芸サイトまでやっていて、こちらも 4年以上、毎日毎日和歌を一首ずつ詠み続けるという酔狂だ。どちらか一つなら、多少寝込んでも毎日更新は続けられるだろうが、2つを継続するとなると、やはり、ネタ以前に健康の勝負である。

今でこそ、風邪をひいても一晩ぐっすり寝ればなんとかなると思いこんでいて、実際なんとかなるぐらい丈夫なのだが、子供の頃はけっこう虚弱児だった。すぐに腹をこわしてしまう子で、運動も苦手だった。運動会ではいつも、ビリから二番目だった (もっと遅い子もいたのだ)。

丈夫になったのは、中学校 2年頃からである。その頃、我が家が引っ越しをし、本来なら転校しなければならなかったのだが、なんとなくそれは嫌だったので、越境通学をしたのである。約 4キロの道のりを、毎日重い鞄をぶら下げて、1時間近くかけて歩いて通った。

あんまり真面目な生徒じゃなかったので、帰り道は必ずどこかに寄り道をするから、往復すれば 10キロ近くになる。時間にして 2時間ほどだ。とくに朝は遅刻しないように早足で歩いていたから、自然に体が鍛えられてしまったようなのである。

春から秋まではまだいい。問題は冬である。庄内のこととて、しかも今のように地球温暖化に至っていない頃だから、冬の間は根雪になっている。そして、しょっちゅう吹雪である。よくまあ、毎日通ったものだ。

で、気付いてみると、私はいつの間にか健康になっていて、無欠席で皆勤賞をもらった。苦手だった運動会でも、先頭でゴールのテープを切るようになっていた。いかに女の子たちにアピールするような形でテープを切るかを、余裕を持って練習できるようになっていたのだから、変われば変わるものである。

で、この実体験からも言えるのだが、歩くということは、本当に健康にいいようなのである。近頃は、どこに行くにも車で行くようになってしまったが、改めて、なるべく歩こうと思うのである。

こうして毎日ブログを更新していて、頭の方はなかなか呆けないだろうけれど、体の方の健康も、可能な限りは維持したい。寝たきりの母の介護は少しだけさせてもらったが、自分が寝たきり老人になるのは、真っ平ご免なのである。

とまあ、55歳にもなると、たまにこんなことを考えてしまう。それにしても、私の子供の頃の 55歳の男といったら、それなりに老人じみていたがなあ。自分がなってみると、まだまだ青くささが抜けきらない。

というわけで、大晦日のお約束の言葉を述べる段になった。明日は元旦だが、喪中のため新年らしい挨拶は控える習わしなので、今日のうちに、この言葉をしっかりと発しておこう。

皆様、本当に本当に、よいお年を!

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2007/12/25

意識化しないと、見えるものも見えない

"Christmas" の表記で、「"Xmas" は間違い」 と指摘する人がずい分多いけど、決して間違いってわけじゃないのになあと、私は長年にわたって思っていたのである。

ところが、これ、「"X’mas" は間違い」 ということだったのだ。ずっと、アポストロフィに気付いていなくて、今年のイブに初めて気付いた。

つい最近までずっと、「どうして日本人は 『"Xmas" という表記は間違い』 だなんて、いい加減なことをヒステリックに言いたがるんだろう?」 と、不思議に思っていたのだ。そりゃ、省略せずにきちんと "Christmas" と表記するのが一番なんだろうけど、広告とか、スペースが限られてる場合は、そんなに目くじら立てなくてもいいだろうにと。

実際、"Xmas" という表記は、英語圏でもよく見かける。Goo 辞書で引いてみても、以下のように説明されている (参照)。

Xmas  クリスマス ((ギリシア語のΧΡΙΣΤΟΣ (Christ) の頭文字より

英語できちんと書けば  "Christmas" なのだが、聖書が一番初めに書かれた時の文字はギリシャ文字だったので、それにちなんだ "Xmas" でも、かなり大手を振って許されてしかるべしという感じのようなのである。だったら、それでいいじゃないかと、ずっと思っていた。

ところが、本当に最近も最近、今年のクリスマスイブになって初めて気付いたのだ。私がこれまで 「"Xmas" は間違い」 なんていい加減なことを言ってるんだと思いこんでいた指摘は、「"X’mas" は間違い」 と、極めてまともなことを言っているのだった。

申し訳ないけど、私は本当に、このアポストロフィの存在にはずっと気付いていなかったのだよ。

で、念のため、このブログでは、アポストロフィの部分はイレギュラーにも全角を使って表記している。半角にすると "X'mas" となってしまって、ちょっと目立ちにくいのだ。私がずっとこのアポストロフィに気付かなかったのも、無理もないと思わないだろうか。

で、それと気付いて改めて見回してみると、なるほど、日本においては "X’mas" という誤表記が、あるわ、あるわ、ずいぶん多いのだ。こんなに誤表記が多いとは、本当に気付いていなかった。

意識化しないと、見えるものも見えないという好例である。あるいは、私がそそっかしいだけということなのかもしれないが。

それにしても、なんでまた日本人は、要りもしないアポストロフィを X の後に付けるようになったんだろう? 省略したのだから、付けるのが当たり前 ("isn't it?" みたいに) とでも、勝手に気を利かしてしまったんだろうか? それとも、単に 「見た目」 を整えちゃったんだろうか?

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2007/12/20

うぅ、だるい

うぅ、だるい。どうやら、風邪を引いてしまったようだ。いや、もしかしたら、かの有名なノロウィルスのせいかもしれない。

尾篭な話で恐縮だが、昨日からちょっと下痢っぽいかなと思っていて、それでも 「すぐに収まるさ」 と高をくくっていた。しかし、それがだんだんしんどくなってきてしまったのだ。

昨日は、夜に妻と待ち合わせて食事をする予定にしていた。ちょっとつらいかなと思ったが、久しぶりの夫婦水入らずのデートなので、予定通りにでかけた。しかし、こちらは食欲がないので、「悪いけど、もりそば 1枚ぐらいにしたいから、そば屋にして」 と、手打ちそば屋に入ったのだ。

ところが、もりそば 1枚を食うのに、こんなに苦労したことはない。いつもは、「そばは別腹」 なんて言って、いくらでも食べられるのに、1枚平らげるのがやっとで、あとはさっさと帰りたい一心である。

ところが、その時、妻は鍋焼きうどんを注文していた。昨夜のあの寒さだから、鍋焼きうどんを食いたくなる気持ちはわかる。十分にわかる。ところが、鍋焼きうどんは熱いのだ。熱くて、少しずつしか食えないのである。

私はいくら腹具合が悪いからとて、もりそば 1枚は既に食い終わって、「あぁ、早く帰って、風呂に入って寝たい」 と切望しながらぐったりしている。妻は、「食べるの遅くてごめんね、ごめんね」 なんて言いながら、うどんを 1本ずつすすっている。

妻の食べるのが遅いのは今に始まったことじゃないが、食い終わるのがあんなに待ち遠しかったことはない。待っている間にも、私はどんどんぐったりしてくる。ああ、助けてくれ。せっかくの久しぶりのデートなのに、ぶち壊しである。申し訳ないことであった。

ようやく帰宅して、9時半には寝て、久しぶりに 10時間寝た。おかげで、夕べよりは少し楽になった気がする。

そして、今日はどうしても休めない仕事があって、東京都内に出てきている。因果なことである。仕事を終えたら、さっさと家に帰って、風呂に入って寝てしまおうと思う。医者は嫌いだから、行かない。

というわけで、今日はこんな愛想のない記事で失礼。皆様も、体には十分気をつけていただきたいということで。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/11/12

暑がりと寒がり

オッサンは暑がりで、若い女性は寒がりというイメージがある。夏のオフィスで、脂ぎったオッサンが、ワイシャツを汗でぐっしょり濡らしながら、冷房を 「強」 にすると、OL は青ざめてカーディガンを羽織り、膝掛けをたぐり寄せる。

電車の 「弱冷房車」 も、圧倒的に女性の乗客が多い。

私は最近、かなりダイエットに気を付けないとウェストサイズがすぐに大きくなってしまうのだが、決して 「脂ぎった」 オッサンというわけではないと自分では信じている。それでも、電車の中では、「もしかして、俺って、かなり暑がり?」 なんて思ってしまう。

近頃、ようやく秋が深まってきた。私も、11月になってから、やっと春夏物の一重仕立てのジャケットから、総裏仕立ての秋冬物ジャケットにチェンジした。10月一杯は、秋冬物のジャケットなんて、着る気になれなかった。

何しろ、この地球温暖化である。11月の声を聞くまでは、秋の格好で街を歩いたりすると、すぐに汗をかく。電車に乗れば暑苦しい。ましてや、コートを着るなんて、とんでもない。

ところが、先週の土曜日は何となく冷え込んだような気がしたので、この秋初めてコートを着込んで外出した。ところが、すぐにそれは失敗だったと気付いた。肌寒さを感じたのは、朝のうちだけで、その朝のうちでも、電車に乗ると暑すぎる。

なまじちょっと冷え込んだものだから、電車内は早くも暖房が入っている。そのうえ、私の乗った京王線は、東京競馬と東京ヴェルディのサッカーの試合があって、かなり混み合っている。こんなに混んだ車内で暖房を効かせるのは、ちょっとした暴力だ。

窓は水滴で曇っていて、外の景色なんて見えない。周囲を見回すと皆、額と鼻の頭に玉の汗をかいて、じっと耐えている。あぁ、ついに極端な冷房で凍える夏が遠ざかり、むっとするような暖房で大汗をかく冬が来つつあるのだと実感した。まったく、電車のエアコンはパラドックスの極みである。

一泊して日曜日に帰宅するときには、電車はそれほどの混雑ではなかった。それでも、うっすらと暖房が入っていて、ちっとも寒くないから、コートは脱いで手に持っていた。結局、二日間で実際にコートを着たのは、初日の朝、駅までの道を歩くときだけで、後はずっと手に持って歩くだけだった。

ところが、帰りの電車の中で見回すと、周囲の女性は、ほとんどマフラーを巻き、ウールやダウンのコートを着ている。よく暑くないもんである。私が暑がりなのか、周囲の女性が寒がりなのか。

実際問題として、私は別にそんなに極端な暑がりというわけじゃない。周りには、私がうっとうしくなるぐらいの暑がりのオッサンがいくらでもいる。それでも、私は電車で乗り合わせた女性たちのような厚着はできない。

などと思っていると、途中駅から女子高生の一団が乗ってきた。日曜だというのに、皆制服を着ている。何か学校の行事でもあったんだろうか。

彼女らは制服のブレザーの下にテキトーなシャツとベストを着ているだけで、スカートは、最近の女子高生にありがちな超ミニである。股下 3センチぐらいといっても大袈裟じゃない。それに、当然のごとく 「生足」 である。ほとんど風呂上がりみたいなものである。

周囲のマフラーを巻いてコートを着た女性たちと同じ種族とは、到底思われない。そして彼女らは、真冬になってもこのまま超ミニに生足なのである。なんともはや、我慢強いことである。

女性というのは、高校を卒業すると急に寒がりになるのだろうか。それとも、高校時代のあんな格好がたたって、年若くして冷え性体質になってしまうのだろうか。それとも、単に暑さ寒さを我慢してでも、ファッション雑誌と同じ格好がしたいのか。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/06/29

繰り返しのストレス

知人が近頃急に太ったように見えても、あまり気軽に 「ちょっと太ったんじゃない?」 なんて声を掛けてはいけない。

声をかける者にとっては 1度きりのことでも、声を掛けられる方にとっては、1度じゃ済まないのだ。おそらく、何百回、何千回にもなる。それがボディブローのように効いてしまう。

同様に、近頃頭の毛の薄くなった友人にも、あまり気軽にそれを言ってはいけない。彼は、1日に何十回も、ということは、おそらく 1ヶ月では、何百回も言われているのだ。1度当たりのショックはそれほど大きなものではないとしても、蓄積したら相当大きなストレスになる。

おそらく人間は、同じネガティブなことを複数の人間に指摘されると、かなりストレスに感じてしまうという傾向があると思う。たった 1人に言われるのなら、真面目なヤツならきちんと反省するし、やんちゃなヤツなら、「ふん、知ったことか!」 とスルーすることができる。

ところが、それを複数の人間、それも 5人とか 6人とかいう単位の人間に、短時間のうちに言われると、反省とかスルーするとかいう余裕がなくなる。むかっとくるか、へこんでしまうかのどちらかということになりやすい。

だから、よってたかって欠点を指摘するのは考え物である。欠点を直してあげたいと思っていうのでも、大抵は逆効果になる。そんなことなら、むしろそいつの 「いいところ」 を褒めてやる方がずっといい。これは、教育の基本である。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/06/26

またしても 「マイ箸」 にこだわってみる

今年の 1月から 「マイ箸」 を持ち始めて、半年近くになる。ここまで来ると、つい最近まで、何の疑問もなく安物の割り箸を口に含んでいたことが、信じられない気がする。

近頃、「安物の割り箸免疫」 が切れてしまったようなのだ。だから、たまに割り箸を使うと、明らかに違和感がある。

私の関係先のオフィスの近くに蕎麦屋がある。特別旨いというわけでもないが、値段の割には許せるそばを食わせてくれるので、昼食はそこで食うことが多い。そして、先日、マイ箸を持参するのを忘れたので、何ヶ月ぶりかで、その店の割り箸を使ってそばをたぐった。

すると、明らかにツユの味が違うのである。なんだか、薬臭い 「いやぁな味」 がするのだ。半年近くも、しょっちゅう食いつけてきた味だから、その違いは明らかにわかる。店の割り箸の先を浸してしまったツユには、確かに、変な刺激のある夾雑物が溶け出しているのである。

ほとんどの割り箸は、防かび剤、防腐剤、農薬、漂白剤で処理されているというが、この時、確かにそうなのだろうと実感した。それらの薬品が、そばつゆの中に溶け出しているのを、私の舌は敏感に感じ取ったのである。

割り箸を当たり前に使っていた頃は、それには気付かなかった。しかし、半年近く割り箸から遠ざかった後に、久しぶりで使ってみると、その違和感は隠しようもない。

せっかく無農薬だの減農薬だのという食材を選んで食しても、安物の割り箸を使ったら、その意味がかなり薄れてしまうとみていいような気がする。

というわけで、私は今、マイ箸を使おうよと、改めて大いに勧めたい気持ちになっている。環境保護のためというのはもちろんだが、それは自分の健康のためにもなりそうだ。「環境なんか知ったことじゃないが、自分の健康だけは守りたい」 というエゴイスティックな動機でも、とりあえずは、ちっとも構わないと思う。

とは言いながら、やっぱりマイ箸使用に踏み切れない人は多いだろうなあと思う。以前にも書いたが、電車で気軽に老人に席を譲ることのできない自意識過剰の人は、なかなかマイ箸も使えないだろう。

ということは、ある意味では、無理矢理にでもマイ箸を使うのは、余計な 「我 (が)」 に執着することを捨てるトレーニングにもなりそうだ。マイ箸を気軽に使えるようになったら、神経症とは無縁の人になれるかもしれないぞ。そして、電車で老人に席を譲ることをためらわずに済むかもしれない。

ちなみに、これまでの当ブログの 「マイ箸」 関連エントリーは、以下の通り。今回のは、第 5弾である。

 「マイ箸」 を持ち始めた  マイ箸その後  「マイ箸」 について再び考察
 やっぱり 「マイ箸」 でないとね

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (13) | トラックバック (0)

2007/06/06

夏は、生命活動の本場所なのだが

最近、我が家の裏の土手の道を散歩すると、夏らしさを色濃く感じる。とにかく、「生命」 の気配が濃厚なのだ。

動物でも植物でも、夏は生命活動の本場所なのだろう。鳥や虫や魚の動く気配に満ち満ちているし、植物でも、緑や色とりどりの花が、鬱蒼としている。

花々の多くはは春から秋にかけて咲くが、夏に咲くのがとくに多い。夏の間のハイシーズンに紛れ込めないのが、春とか秋とかに咲くんじゃないかと思うほど、夏は花々のラッシュだ。

それに、土手の道を歩くと、虫が多い。夕方なんか、虫が多すぎてジョギングなんかできないほどだ。下手に口を開けて呼吸してしまったら、小さな虫を吸い込んでしまいそうだ。

とにかく、目に見える動植物のみならず、肉眼には見えない微生物に至るまで、夏が大好きのようなのだ。多くの動植物は、夏に最適化しているように思われる。

これほどまでに生命が満ちあふれる夏なのだが、我ら人間は、その暑さが苦手で、「夏痩せ」 なんてものをする。

思うに、我ら人間は、一年中活発に動き回るために、春と秋に最適化してしまっているんじゃなかろうか。他の動植物のように夏に最適化してしまったら、冬が寒過ぎて、凍えてしまうだろう。

他の動植物は、寒い冬の間は、冬眠するとか、卵や種、あるいは落葉した状態で越冬するとかが多いのに、人間は冬でもジタバタとしょうもない活動をして過ごす。そんな 「業」 のようなものを抱えているので、せっかくの生命の本場所である夏に最適化しきれないのだ。

一年中ジタバタするために、夏と冬には、多少の我慢をして乗り切らなければならない。ああ、なんと業の深いことであるか。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/06/03

やっぱり 「マイ箸」 でないとね

今年の 1月からマイ箸を持ち始めて (参照)、もうかれこれ 5ヶ月近くになる。ここまでくると、もう元には戻れない。

最近では、いかにも安物の割り箸を見ると、「こんなん、使って大丈夫かなあ?」 という気になる。そしてこの感覚が、単なる気のせいではなく、根拠のあることだとわかった。

中国製の安物の割り箸は、実は、薬品漬けであるらしい。中国製品は、キクラゲやペットフードや薬や粉ミルクで、危険性が次々に明るみに出ているので、割り箸がへんてこな薬品漬けであっても、今さら驚かないが。

楽しい株式会社 (という社名) の、CERES 竹割り箸を訴求するウェブページ (参照) を見ると、従来品の割り箸というのは、防かび剤、防腐剤、農薬、漂白剤で処理されているらしい。

このウェブページでは、従来品の割り箸を 15膳、金魚鉢の中に沈めておくと、3日後に水が黒く濁り、1週間で金魚が死んでしまったと報告されている。自分でやったわけじゃないから、完璧に信用するわけじゃないが、まんざらデタラメでもなさそうな気がする。

それに、どんな割り箸でも、従来品なら多少は薬品処理されているのかもしれないが、中国製は限度知らずなんじゃあるまいかなんて、疑心暗鬼になってしまう。そして、外食産業で使われている安物の割り箸は、ほとんどが中国製なのだ。それを考えると、ちょっとコワイ。マイ箸にしておいてよかった。

私はそもそもは、環境保全に微力ながら貢献しようと思ってマイ箸にしたのだが、それは我が身の健康を守るためにも役立っているようなのだ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2007/05/24

歳はとりたくないもので…

30代の頃までは、激しい運動や労働をしても、一晩眠れば疲れは取れていた。翌日に筋肉痛に悩まされることがあっても、翌々日には楽になっていたものである。

ところが 40代になると、筋肉痛の出るのが翌々日に持ち越されるようになった。疲労感も、2晩寝ないと取れないのである。

そして、50代半ばに差し掛かって、さらに哀しいことになった。はっきりした筋肉痛すら現れないのである。日曜日に町内会の一斉草刈りで、我が班に男手が決定的に不足していたため、孤軍奮闘してほぼ土手一つ刈ったのは、「和歌ログ」 でも触れた (参照)。

これはけっこうな重労働だったので、例によって翌々日 (翌日でないのがまず哀しいところ) には筋肉痛に悩まされるだろうと覚悟していたのである。ところが、今回は翌々日になってもあまり痛くない。どういうことなのだ?

で、ふと気付いたのだが、昨日 (水曜日) あたりから、ほんの少しだけ、腰や背中や太腿のあたりの筋肉が 「かったるい」 のである。それは、今日になって少し強まってしまい、駅の階段を上り下りするときに、ほんのちょっとだけ意識されたりするのである。

要するに、目立った筋肉痛が翌々日になっても出なくなった代わりに、3日後あたりから大したことのないかったるさが出て、それがじわじわ続くようになってしまったようなのだ。体の反応がそれだけ鈍くなってしまったのかもしれない。

で、疲労感の取れるのも遅くなったようで、昨晩はこのブログの更新もしないうちに、あっという間に眠ってしまい、珍しく今朝になってからシコシコと更新しているわけだ。

ある意味、10日に母が亡くなってから精神的というか、神経的というか、妙な疲労感があって、夜中に目を覚ましたり、時差ぼけに似た状態になっていたのだが、それは圧倒的な肉体疲労のおかげで解消されたので、幸いなことである。しかし、その肉体疲労が取れにくくなっていることは、ちょっと哀しい。

それに、体の反応が鈍くなっているということは、パンチを見切ったつもりでもぶっ飛ばされてしまうという可能性があるということだから、ちょっと気をつけよう。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/05/07

ジャンボジェットはなぜ 「浮かぶ」 か?

"Hatena Question" の、「ジャンボジェット機はなぜ空に浮かんでいられるのですか?」 という質問が、妙な注目を浴びている。

回答者たちは論理、比喩、ジョーク等々、あらゆる手を尽くして質問者に納得させようとするが、その試みは未だ成功していない。質問者の得心を得るのは、至難の業なのである。

質問者は、"「空気の密度と機体の速度により翼下に揚力が発生し、機体重量よりも揚力が大きいと浮力が、、、」 のような、純科学的な説明は求めていません。そんなことは頭では分かっています" と公言している。決して馬鹿ではないのである。

それだけに、「非常に主観的な命題」 であると自分で納得していて、この 「非常に主観的な感覚」 に、ストンと腑に落ちるような説明を求めている。そして、なまじの説明ではまったく受け付けようとしないのである。

それだけに、このケースに付き合うには、「ジャンボジェットがなぜ飛ぶか?」 という物理学的理解よりも、「こうした心的傾向をもつ人間は、何故にこのような質問をするか?」 という、心理学的理解が優先されなければならない。物理的な説明をしようと試みた回答者は、まずこの最初のステップでつまづいているのである。

要するに、質問者は、物理学的なプロセスでの理解なんか、初めからしたくないのである。そして、自分が納得しようがしまいが、ジャンボジェットは現実に空を飛んでいるので、いくら理解を拒否しても、自分にも世間にも、何らの損害も与えないのだから、とても気楽だ。

つまり、なまじのことでは理解なんかしたくない。しかし、何かとてつもなく素敵でファンタスティックでチャーミングな論法による説得があったら、そこで初めて納得してあげてもいい。ただ、よっぽどチャーミングな論法でなければ、納得の安売りなんかしたくないのだ。

ふーむ、何と素敵なポジションに、質問者は座しているではないか。まるで、火鼠の皮を所望するかぐや姫のようである。

ただ、この質問者のアキレス腱は、「ジャンボジェットはなぜ空に浮かんでいられるのですか?」 と聞いていることだ。お気づきかと思うが、「浮かぶ」 という言葉は、このケースでは適切ではない。ジャンボジェットは、決して船や風船のように 「浮かんでいる」 わけではないからだ。

つまり、質問自体に隙があって、ちょっとだけナンセンスなので、この質問に付き合うことも、ちょっとだけナンセンスということになる。敢えていえば、これが私の結論だ。

ところで、高所恐怖症気味の私は、初めてジャンボジェットに乗って海外旅行をしたとき、離陸と着陸の際には、緊張して両足を踏ん張っていたことを思い出す。しかし、二度目からは極めて安心して飛行に身を任せていた。

「人間が飛ばそうと思って作ったんだから、飛ぶに決まっている」 と、私は納得したのである。「時々落ちることもあるのは、普段は飛ぶからこそなのだ」 と。そして、私自身は常に 「普段」 の方に乗り合わせる人だと信じたのである。

これこそ、「非常に主観的」 (あるいは、"normalcy bias") ではあるが。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/05/06

人間のディスプレイ行動

私は 「つくばみらい市」 という、れっきとした 「市」 に住んでいるのだが、家は住宅地と農地との境界線に近いところにあって、かなりというか、とことん 「のどか」 である。

で、今の季節、昼はヒバリのひっきりなしにさえずる声、そして、夕方以後は蛙の大合唱が聞こえてくる。

これだけひっきりなしに動物の鳴き声が聞こえてくると、うるさくて気に障っても不思議ではないが、実際には、あまりうるさいとは感じない。聞こうと思えば聞こえるが、気にしなければ聞こえないという音になっている。

とくに蛙の鳴き声は、いわばクラシック音楽の通低音みたいなもので、本当に気に障らない。しかし、ヒバリの鳴き声は、何かの拍子に気にし始めたら、ちょっとうるさく感じても不思議じゃないようなレベルである。

絶え間なくさえずりながら必死に羽ばたいて上昇するヒバリを、俳句の世界では 「揚雲雀」 と言って、春の季語になっている。私は、ヒバリが空中を上昇するのに、あんなに必死に羽を動かしているのに、その上、あんなに鳴き続けていたら、エネルギー効率がさぞ悪かろうにと、つい最近まで思っていた。

ただでさえ、ほかの鳥よりも飛ぶのが不器用そうで、必死に羽ばたかなければ上昇できないくせに、なんでまた、あんなに声まで出し続けなければならないのかと。

しかし、あれはヒバリにとっては縄張りを主張する 「ディスプレイ行動」 なのだと最近知って、納得した。なるほど、それならば単に飛び上がるだけでは足りなくて、うるさいぐらいの鳴き声だって動員して、自己主張しなければならないだろう。

で、ここまで考えて、私は自分が 4日前に書いたエントリーを思い出した。電車の中で、自分の言葉を不必要なまでに周囲に聞かせつけるような、小うるさい話し方をする人種の話である。

私は、こうした小うるさい話し方をするタイプの潜在意識の中に、「ねぇ、お願い、みんな、わかって、私をわかって!」 という欲求があるのではないかと推論した。なるほど、あれもまた、ヒバリの絶え間ない鳴き声と同様に、「ディスプレイ行動」 だったのだ。

でも、あまり電車の中なんかでディスプレイ行動なんて、しないでもらいたい。単純にうるさいから。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/05/02

言葉をきちんと届かせるには

昨日、久しぶりで電車の中の話し声が 「癇に障る」 タイプの女性がいた。決して大声で話しているわけじゃないのだが、その声が妙に周囲に小うるさく感じられるのだ。

こういうタイプの人というのは、自分の話している相手に言葉が 「ストン」 と伝わるのではなく、無駄に拡散してしまっているのである。

その女性は連れの男 (多分、職場の親しい同僚) と、仕事関係の話をしているのだが、「ああ、それはそうね。確かにそうね」 とか、「ふぅん、そうなんだ」 とかいう相づちのほか、「うーん、それはちょっと違うんじゃないかな」 とか、単純なことを言うだけなのに、無駄に周りに聞かせるような声の出し方をするのだ。

それは、決してことさらな大声というのではないが、不思議なほど周囲に無駄に響いて、小うるさいのである。

ことばが劈(ひら)かれるとき』 という本の著者で、演劇を通じて障害児その他の教育活動にも関わっておられる竹内敏晴氏のメソッドに、「声を相手に届かせる」 という訓練がある。

発する言葉が、目指す相手の胸に 「ストン」 と伝わらないというのには、大きく 2種類あって、それは距離と方向の問題だ。

距離の問題は、単にパワー不足で相手に届かない場合と、力みすぎて相手を通り越してしまい、その向こうに話しかけてしまっている場合がある。これらは、力の配分で案外単純に修正できるのだが、決定的に難しいのは、方向性の意識が欠如している場合だ。

竹内氏のメソッドを経験してみると如実にわかるのだが、声というものには、方向性 (ディレクション) があるのである。それを心と体でコントロールできるのだ。

自分の話しかけている相手に、きちんと声のディレクションを集約して届けられる人と、ばらけてしまう人がいる。声がばらけてしまうのは、要するに、心が相手にきちんと向かい合っていないからなのだ。そして、それを当人が全然意識していない場合が多い。

こんなタイプの人と話をすると、何となくきちんと通じ合っていないんじゃないかという不安を感じる。相手の発する声が、上の空のような感覚だからだ。

そうした人は多分、一見すると直接の相手と会話をしているようだが、実は、むしろその周囲に向かって、「ねぇ、お願い、みんな、わかって、私をわかって!」 と、無意識的に訴えているのである。対象を見る意識が拡散してしまっているので、発する声まで拡散してしまう。

「私をわかって!」 と訴える声は、しかし、実際は単に癇に障るだけだから、誰にも永遠にわかってもらえることはない。一種の悲劇である。自分を本当にわかってもらうためには、直接話している相手に、きちんと言葉を届かせるほかないのである。

そして、世の中にはそれができない人がいる。言葉による単純なコミュニケーションでも、本当に心を通い合わせるためには、意識的な心と体の訓練が必要なのだ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/04/26

自分だけの都合による偏見

"「自分だけは大丈夫」,セキュリティ対策を妨げる 「正常化の偏見」" という興味深い記事を見つけた。昨年夏に書かれた記事だが、全然古くなっていない。

「正常化の偏見」 と