カテゴリー「心と体」の304件の記事

2019/07/15

「ほうれい線」巡る冒険 その2

昨日は「ほうれい線」の語源が中国の面相学でいうところの「法令紋 - 法令線」からきているらしいというところまで書いた。「法令紋」というのは、これをキーワードにしてググって見ると、中国語のページがいくらでもヒットする。

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上の画像はその中の 1つで、「面相大全」というものだ。これを見ても、語源は「法令紋」なのだろうと無理なく納得できる。

ただしかし、今度は「面相学」とやらではどういうわけで「法令紋」なんていうのかが気になって眠れなくなってしまうので、いろいろググってみた。もしかして中国語のページではきちんとした説明があるのかもしれないが、こちらとしてはそれをちゃんと読めないのが痛恨である。

で、日本語のページでなんとか「それらしいかもしれん」とまでは思えたのが、「人力検索はてな」のページで、次のようにある(参照)。

東洋医学の元をつくった医師たちは、まっすぐに歩きにくい状態の人をみて、
法令線も、左右対照でないから、
【人間としての道を 真っ直ぐに生きる人 → 法令の線を歩ける】
左右の太さと長さが違う人は、骨盤が曲がって、真っ直ぐに歩けなくて、
【人間としての道も真っ直ぐ歩けない人 → 法令を守れない 】
・・と
お顔のシワを見て、骨盤の異常を見分けられたので、・・・こんな、
たとえ方をしたので、【法令線】という名前になりました。

まあ、これで完全に納得したわけではないが、「法令紋が左右対称でない人は骨盤も曲がっていることが多いので、人としての道を真っ直ぐにあるけず、従って法令を守りにくい」という話からきているという「説もある」ということである。ここから先へは今のところ一歩も進めないので、この辺りで一段落つけるしかない。

とにかく、「ほうれい線」の語源は中国面相学の「法令紋」であり、それを長寿の象徴としてご都合主義的に「豊麗線」とか「豊齢線」とかいう当て字で書き習わしてきたことまではよくわかった。一応それで納得しておこう。

ただ、「長寿の象徴」であった「豊麗線」や「豊齢線」のイメージが、長生きが当たり前になった現代に至って一転し、「年寄りくささの象徴」として忌み嫌われるようになったのは、まったくもって皮肉なことである。そして「厭うべきもの」になったとたんに、発音はそのままで表記だけ平仮名にしてしまったというのは、なんだかずいぶんあざといことのように思えてしまうなあ。

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2019/07/14

「ほうれい線」を巡る冒険

近頃、新聞や Web で「ほうれい線対策」の広告をよく目にするようになったが、「ほうれい線って、漢字でどう書くんだろう?」と気になりながら、忙しさに紛れてずっと調べていなかった。今朝になって急に思い立ってしまって手持ちの「大辞林」アプリで調べてみると、なんと「豊麗線」という表記の項目が見つかった。

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語義としては "鼻の横から口角にかけて「八の字」型に広がるシワのこと" とあり、「鼻唇溝(びしんこう)」という即物的な医学用語もあるという。さらにおもしろいことに、「豊齢線」「法令線」という表記もあるという。

いやはや、驚いた。ただ、この類いの広告で「豊麗線」なんて書いてしまったらあまり対策するモチベーションを喚起しないだろうから、敢えて「ほうれい線」とひらがな表記でぼかしているのだろうね。

ただ、「豊齢線」はまだ理解できるが、「法令線」とは一体どういうわけでそう表記するのだろうか。「ほうれい線」の表記の奇々怪々さに関する興味が俄然湧き上がってしまった。

ただこれついては、Wikipedia であっけなく解決してしまった。「語源は中国の面相学における『法令紋』に由来する」とある。あまりあっけなくて拍子抜けしてしまったので、念のため Wiki の記事の「脚注・出典」にある 「Goo 辞書」に飛んでみると、次のようにある。

ほうれい‐せん〔ハフレイ‐〕【法令線】
人相学(観相学)で鼻唇溝 (びしんこう) のこと。
[補説] 語源未詳。中国の面相学では法令紋という。また、長寿のしるしとして豊齢線、豊麗線とも書く。

へえ、「大辞林」なんかより「Goo 辞書」の方がずっとしっかりとした解説がしてあるじゃないか。つまり元々は中国の面相学からきた 「法令紋 ‐ 法令線」が正しくて、「豊麗線」や「豊齢線」はご都合主義の当て字のようなのだ。念のため「法令紋」でググってみると、中国語のページがいくらでも出てくるので、信用していいだろう。

と、本日はここまで。全体としてはちょっと長くなりそうなので、ここから先は明日付けにまわすことにしたい。

 

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2019/06/28

「七五調感覚」さえ不確かな日本人

一昨日の「日本人のアクセント感覚の不確かさ」という記事で、かなり多くの日本人のアクセント感覚がはなはだアテにならないことについて触れ、「アクセント感覚を磨くには、結構訓練が必要」と結論づけた。

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それと同様に「七五調感覚」というか、日本語のリズム感みたいなものも、きちんと身に付けるには訓練が必要ということに最近気がついた。日本語を使いながら日本で暮らしている日本人は、物心つけばいやでも自然に七五調感覚が身につくものと思っていたが、あながちそうとばかりは言えないようなのだ。

上の画像の左 2つは駅名を左から読むと「五七五七七」の短歌調になり、右は上から読むと「五七五」の俳句調になる。これに自然に気付く人はよほど「七五調感覚」が身体化された人で、フツーの人はほとんど無意識のようなのだ。

ちょっと前に、まったくの初心者を対象とした「俳句教室」というのを覗いてみたことがある。私は「五七五七七」の短歌は毎日詠んでいる(参照)が、「五七五」の俳句にはちょっと苦手意識があるので、改めて基礎から学んでみようと思ったのだ。しかしこの講座、こう言っちゃナンだがレベルが低すぎてちっとも勉強にならなかった。

講師の話が一通り終わってから参加者が 1人 1句作って提出し、講師の評を仰ぐ。ところが提出された作品のかなり多くが、習ったばかりの「基本のキホン」から外れまくっている。「季重なり」が多いのは予想できたことだが、そもそもお約束の「五七五」でさえなく「五七七」になっちゃってるのが、どういうわけかメチャクチャ多い。

例えば「花見の日春風吹いてコーヒーを飲む」なんてのがやたら目立つのである。講師に「五七五になっていなくて、季重なりでもありますから、言葉の順序を変えて『花見の日コーヒーを飲む風の中』にすれば解決しますね」なんて添削され、指折り数えて初めて「あ、そうか!」なんて言い出す。小学生ぐらいなら、それもありだろうけどね。

「五七五」のリズム感覚ぐらい、まともな大人になれば自然にカラダに入っているものと思っていたのだが、どうもそうじゃない。聞いて瞬時に「五七五」と「五七七」を識別できる人というのは、案外少ないみたいなのである。ちなみにこの人、どこが季重なりなんだかまではわかっていない様子だった。

言葉に関する意味や感覚がきちんと身体化されている人って、実は驚くほど少ない。勘違いしていたり無意識だったりすることがかなり多いというのが、近頃よくよくわかってきた。

言葉を問題なく使っても、必ずしもその真意が伝わらないというのも、むべなるかなである。プレゼンなどで「あ、これってまともに通じない人や勘違いして逆に受け取る人がいるな」というのが経験則としてわかってきたので、そんな場合にはちょっとクドいほど言い方を変えて説明しなければならないのだよね。

 

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2019/06/08

土下座の作法があるとすれば

昨日から東北方面に出張に出ていて、ホテルで見たテレビのニュース・ショーで、田口淳之介というタレントが保釈された途端に「土下座で謝罪した」という映像がしつこいほど流されていた。こう言っちゃナンだが、違和感と滑稽さともの悲しさの入り交じった妙な映像だった。

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悪いけど、私も一応武道をやっていたので、あれを「土下座」と言うのは抵抗ありすぎだ。あんなのは四つん這いのまま前につんのめっているだけなので、いずれにしても異様なまでに無様な光景としか映らない。やるならやるで、事前に「美しい土下座」を勉強しておけばよかったのにね。

まあ、「正しい土下座の定義」なんてものがあるわけじゃないので、しゃっちょこばったことを言ってもしょうがないが、強いて言えば「通常の座礼」をさらに徹底して、地べたにひれ伏すようにしたのが土下座と思えば、あながち的外れじゃないだろう。

じゃあ、「通常の座礼」ってどんなのかというと、あんなにお尻を高く上げないし、肘を直角に張ったりもしない。正座した状態から両手を膝の前に三角形に揃え、背筋を伸ばしてお辞儀する。すると当然、肘のあたりまでは地に接するようになり、背も丸まらないから頭が地べたに突っ伏すこともない。

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上の写真は天心流兵法のページ(参照)から拝借したものだが、とても立派な座礼である。そして「土下座」となるともっと極端にひれ伏すのだろうから、さらにぺったんこになるものと思えばいいだろう。ただし、いくらひれ伏すと言っても頭だけを下げすぎると背中が丸まってしまうからよくない。ひたすら上半身をまっすぐにしてひれ伏すのが「美学」というものである。

結構筋力も必要だし、ます第一に腹に脂肪が付きすぎていてはできない。美しい土下座をするにも、節制と訓練が必要なのである。

大麻で逮捕されて釈放時にあんな妙ちくりんなパフォーマンスをするってのは、基本的になにやら勘違いしてるんじゃないかと思うほかない。そもそも勘違いしてるからこんなことになるわけなのだが。

それから、「大麻解禁」に向かう国際的潮流の中で日本の警察はことさらナーバスになって頑張っちゃうつもりかも知れないから、隠れて(いるつもりで)ヤッてる芸能人は気をつけた方がいい。「こいつ、何かヤッてるな」というのは、大概わかっちゃうからね。

 

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2019/05/29

カモガヤのアレルギーがひどいので

昨日、ここ 1週間ほどの陽気と比べてちょっとだけ涼しかったので、意を決してエンジン式草刈機で裏の土手に生えるカモガヤを刈りまくった。カモガヤだけでなく、我が家から 200メートルぐらいまでの距離の土手草はすっかり刈ったので大分すっきりした。

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カモガヤをメイン・ターゲットとしたのは、カモガヤ・アレルギーがひどいからである。私は 2月頃から杉花粉アレルギーが出て、それが終わらないうちにヒノキ花粉アレルギーがひどくなり、それがようやく収まったかと思うと、今度はカモガヤに悩まされてしまう。2月から 7月初めまで、1年 12ヶ月のうち 6ヶ月は花粉アレルギー症状が出るという、因果なカラダなのである。

症状に関して言えば、杉やヒノキよりもカモガヤの方が確実にひどい。目は痒いし、鼻水も止まらない。それに大きなくしゃみが 20〜30連発ぐらいになってしまうので、体力も消耗する。

そんなわけで、昨日は必死に草刈りをしたのである。一人で 1時間半ぐらいかけ、土手をすっかりきれいにした。時々町内会の依頼でシルバー人材センターから派遣された人たちが 4〜5人ぐらい来て、3時間以上かけて草刈りをしているが、はっきり言って私が 1人で 1時間半の作業をする方が、ずっと広い面積の草刈りをする。

私だって立派な「前期高齢者」なのだが、どうしてまたこんなにも元気でいられるのか、さっぱりわからない。わからないが、カモガヤが劇的に減ったことはたしかなので、今日はかなり楽である。杉やヒノキなどの高木と違い、カモガヤは背が低いので、近くに生えているのを刈ってしまうと、飛んでくる花粉の量がかなり減るみたいなのだ。

やれやれ。それにしても因果なことである。

 

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2019/05/26

長生きしたくて肉食を避けてるわけじゃないので

昨日の記事で、銀座の「らん月」というしゃぶしゃぶ屋で開かれた同窓会に出席したことに触れた。ご存じのように私は肉食を避けているので、会場に到着して初めてしゃぶしゃぶを食わす店と知った時は「うわぁ、こりゃかなわんなあ!」と思ってしまった。

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近頃では、チャーシューが付き物のラーメンだって避けているほどなので、しゃぶしゃぶ屋なんて正直言って「異様」な佇まいに見えてしまった。そして下世話な話で言えば、「同じ会費払って、俺の食うモノないじゃん!」ってことでもある。

ところがいくらしゃぶしゃぶ屋でも、メニューに肉しかないというわけでもないのだね。しゃぶしゃぶはメイン料理としてコースの最後に出てくるので、そのための差別化なのか、それまで肉はまったく出ない。だから初めにしっかりと食うモノ食って「俺、一丁上がりね」で OK だった。

この時に集まった 30人の中で「肉は食わない」と言っているのは私 1人だけで、「変わり者」扱いされてしまった。どこに行っても「ノーミート」の店は食事時になると長蛇の列になるのにね。これは増えつつある「ノーミート」の需要に対して供給が少なすぎるということでもあるのだが。

それだけではない。医者とか看護師とかになっている同窓生が「肉を食わないと長生きできないよ」なんてことまで言い出す。「医療業界は食肉業界と結託してるのか?」なんて思ったほどだ。上の写真で紹介している『肉を食べる人は長生きする』という本の著者、柴田博さんという人も医学博士のようだし。

生憎だが私は長生きしたくて肉を避けているわけじゃなく、ポリシーとして食わないのである。それにやたら健康なので、早死にしないための心配よりも「一体いつまで生きればいいんだ」という思いの方がストレスになるほどだから、「長生きできない」と言われると逆に「そりゃありがたい。余計な心配が減るわ」と思うばかりである。

私が肉を食わない理由は、完全に肉食を止めるちょっと前の 2006年 1月 25日の「肉を食わされるのは、かなわんね」という記事の中で紹介した「肉食は私たちをどこに導くのか?」というページに書いてある。13年以上前のエントリーだから今さら感があるが、再録しておこう。

NHK の番組によると、世界のトウモロコシ年間生産量約六億トンのうち、約四億トンまでが穀物飼料に使われています。その穀物飼料の一割でも人の食用に回せば、世界から餓えはなくなるというのです。もしそうした場合、肉の生産量は減りますが、それは米国人と日本人が五回に一回、肉料理を減らすだけでしかありません。

この記事はあちこちのニュースサイトで、「米国人と日本人が 5回に 1回肉料理を減らすと、世界から飢餓がなくなる」という短絡的なタイトルで紹介された。アクセスがムチャクチャ増えたのは嬉しいのだが、「そんなことは間違いだ」との反論があちこちでなされていたようなのである。

単純計算が世界の食糧情勢にすぐに反映されるわけがないのは元より承知の上だが、「米国人と日本人が 5回に 1回肉料理を減らすと世界から飢餓がなくなるなんて、間違いだ」という反論こそが間違いである。「それを実現するのはとても困難だ」というのと「それは間違いだ」というのは、論理として別の問題だからだ。

念のため重ねて言うが、人間の「業」というのは、それほど生やさしいものじゃないから、すぐにはできないというのは事実だ。しかしそれを、自分がやらないための理由や言い訳にはしたくない。

ちなみに肉食と長生きの因果関係なんて、上の写真の 2冊の本に代表されるように諸説あって、要するに個別の事情に依存する要素が多いに決まっている。長生きできそうだと信じて肉を食っても、それが世界のためにならないなら、仮にたかだか数年長生きできたところで夢見が悪いやね。

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2019/05/25

フィジカル・コンシャスになっちゃってる今日この頃

Apple Watch を付けていることのメリット(なんだかどうだかわからないが)の一つは、少しはフィジカル・コンシャスで暮らせるということだ。少なくとも運動不足になることに対するプレッシャーというものがある。

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写真は私の Apple Watch の画面で、赤、黄緑、水色の同心円は、それぞれその日のアクティブ・カロリー消費、運動時間、立っている時間を表す。つまり本日の午後 7時ちょっと前まで、私は 870Kcal のカロリーを運動で消費し、ある程度体に負荷のかかる運動(スタスタ歩くだけでも OK)を 79分行い、14時間にわたって 1分以上経っている時間があったというわけだ。

それぞれの目標は 600Kcal、30分、12時間と、(案外控えめに)設定してあるから、環は 3つとも 1周以上している。目標に達しないと環が完成せず、ちょっと気持ち悪くなっちゃうので、ある程度の運動をこなすためのプレッシャーがかかるという仕掛けだ。

このところ、1週間以上にわたって毎日きちんと 3つの環を完成し続けているが、ちょっとサボると、アクティブ・カロリーが 480Kcal ぐらいしか消費されず、赤い環が完成しないなんて日ができちゃったりする。そしてそんな日が 3日続くと、体は正直なもので「ちょっと重いな」という気がしてしまうのである。

人間というのはちゃんと動いている方が気持ちがいい生き物のようで、最近は天気がいいので、30Km ぐらいの距離ならクルマじゃなく自転車で行くというのがフツーになった。するとやっぱり脚の筋肉が締まって、ほかの何をするにも体が楽になる。そして楽に動けるとますます動くことが楽しくなるという好循環が生じる。

というわけで、近頃は体の調子がとてもいい。実は本日開かれた高校時代の同窓会の会場が銀座のらん月とかいう有名なしゃぶしゃぶ屋だったりしたので、同じ会費を払って肉を食わない私は「肉を食わないと長生きできないよ」なんて言われたりした。私としてはしゃぶしゃぶ屋でもその気になれば、肉以外のおいしいメニューがあるってことを知っただけ嬉しかったのだが。

この他にも「きちんと健康診断を受けてる?」と聞かれて 「全然」なんて答えたりすると、「受けた方がいいよ。当人は気がつかなくても、知らない間に体のどこかにガンができてたりするよ」とか、いろいろ還暦過ぎ集団らしいプレッシャーをかけられてしまった。同窓生の中にも、そろそろガンで死ぬ者が増えてきているようなのである。

しかし個人的には「このまま健康すぎるといつまで生きたらいいのかと途方もない気がしてしまうので、適当なところで死ねる方がかえってありがたい」と思っている。我ながらいい気なものだ。

で、そんな感じでのほほんと楽観的に暮らしていると、プレッシャーは Apple Watch からの「きちんと環を完成させましょう」というポジティブなものだけで、鬱屈したプレッシャーというものがない。それでますますヘルシーになったりしちゃうというわけだ。

 

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2019/05/12

年を取ると、疲れが遅れて出る

昨日は 10時間の運転にも体力がもったみたいなことを書いてしまったが、還暦を過ぎると疲れは遅れて出てくるもののようで、今日になってからどっと疲れたような気がしている。

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年を取ると筋肉痛が遅れて出てくるというのはよく言われる。確かに長時間運転し続けたので、腰に疲労が溜まっているような気がするが、この疲労感はそれとは別だ。

一昨日に 10時間運転して昨日はしっかり早起きできたものの、今朝はちょっと辛かった。起き上がっても、しっかりと覚醒した気がせず、いつまで経っても頭がぼんやりしている。日中も何かというと腰を下ろしたくなる。そして「ふう」とため息をつく。

起きていられないとか、仕事に集中できないとかいうほどでもないのだが、「ああ、早めに寝たいなあ」という気がいつもしている。これはもう、「寄る年波」というほかないのか。あるいは、今日は北東の冷たい風が吹き付けて急に寒い日になったことも関係しているかもしれない。

人にも 「tak さん、目が半分寝てるよ」と言われる始末である。というわけで、今日は早く寝る。おやすみなさい。

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2019/04/08

歯の経年劣化

ここ 4日間ほど歯医者通いをした。またしてもモノを食っていて歯が欠けてしまったのである。しかもご丁寧なことに、右下と左上の、2本欠けてしまったので、「クラウン・ブリッジ維持管理説明書」というお約束の書類を 2枚ももらってしまった。

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体のどこにも(花粉アレルギーを除いて)悪いところはなくてピンピンしているのに、歯科医だけは毎年頼りにしてしまう。で、今回歯が欠けた原因は、干し芋を囓っていたことである。還暦過ぎて干し芋をワシワシと噛みちぎるのは、結構アブないと思い知った。

もっとも歯が欠けたのは初めてのことではなく、一昨年の 8月は 65歳の前期高齢者になったとたんに桃を食っていて下の前歯が欠け(参照)、今年の 2月は「大麦ダグワース」という洋菓子で欠けてしまった(参照)。桃と洋菓子ごときで欠けるのだから、みっちりとした歯ごたえの干し芋で欠けるのももっともだと自分を慰めているが、その慰めの前提が「桃と洋菓子で欠ける」というのだからちょっと泣けてしまう。

「やっぱり年なんでしょうかね」と歯科医の先生に聞くと、「元々ヒビが入ってたんでしょう。そうなったら、どんな柔らかいものを食べても、欠けるときは欠けます」と、一昨年に桃で欠けた時と同じ言葉で慰めてくれた。しかし短期間のうちに 3回目(しかも 4本)ともなると、それだけでは慰めにならない。

「その、ヒビが入るってのは、やっぱり年のせいなんじゃないんですか?」としつこく聞くと、「歯の質にもよるんです。歯の柔らかい人はどんどんすり減ってものが食べにくくなる傾向があるし、硬い人は減らない代わりにヒビが入りやすいんですよ」と言う。この先生、「年のせい」とは決して言わない。いい人である。というわけで、どうやら私の歯は、硬くてヒビが入りやすいらしい

ただしかし、すり減ったりヒビが入ったりするというのも、いわば「経年劣化」のようなものだろうから、やっぱり「年のせい」ってことになるんじゃないかなあ。やっぱり近頃は自転車でヒルクライムしても前ほどスピードが出せないし、細かい仕事が長く続くと目がショボショボする。

年は争えないものだが、まあ、同年代の他の連中に比べれば呆れられるほど(そもそも同年代の連中は自転車で山登りなんかしない)元気なので、気を取り直してやっていこう。最近、2歳年下と同年齢の親しい友人 2人が相次いでガンで死んでしまったので、供養のためにも彼らの分まで生きてやらなければ。

 

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2019/01/23

インフルエンザというものにかかった記憶がない

有安伸宏さんという方が、「シーズンイン前の予防接種、オフィスの加湿器は全開、紅茶や緑茶を常飲、人混み避ける、ジム通って体力つける、睡眠と食事両方しっかり」 という対策を全てやって、なおかつインフルエンザ A形と診断されたと tweet しておいでだ (参照)。お気の毒に。

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そうかと思うと、本職の医師が 「インフルエンザワクチンは打たないで!」 という本を書いていたりする (参照)。著者の母里啓子さんという方はウィルス学の専門家ということだが、インフルエンザワクチンが効かないのは 「ウィルスを学んだものの常識」 で、それでも世間がこぞって薦めるのは、「メーカーにも医者にも儲かるいい商売だから」 だと書いておられるらしい。

要するに、ここにもまた 「利権の構造」 というものがあるようなのだ。

まあ、インフルエンザワクチンが本当に効くのか効かないのかというのは、専門外の私がどうのこうの言ってもしょうがない。ただここで単純事実を書くとすれば、私自身は半世紀以上にわたってインフルエンザワクチンなんて打ったことがないが、インフルエンザにかかった記憶がない。こればかりは本当の話なので仕方がない。

中学校まではインフルエンザワクチンを、全員がほとんど強制的に接種されていたような記憶があるが、注射が嫌いな私は 「体調が悪い」 とか何とか仮病を使って逃げていた。高校からは 「希望者だけ」 になったように思うが、私は 「そんなもの、誰が希望するか!」 という態度を通していて、それでもインフルエンザなんて縁がなかったのである。

去年の今頃も、"私は 「インフルエンザにかかりにくい免疫力」 をもっているようだ" なんて書いている。なんでそんなに無事でいられるのかといえば、「そういえば、よくうがいをするからかな」 ということぐらいしか思い当たらない。確かに私は、本当によくうがいをするのだが、これぐらいのことを金科玉条みたいに言いふらしてもしょうがないから、あまり言わない。どうせ 「人による」 ことだろうし。

というわけで、今シーズンもこのまま乗り切ってしまおうと思っている。

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