カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の972件の記事

2017/08/17

「物言わぬ人たち」 の、電車内の価値観

「電車の中でスマホを操作しっぱなしは、いかがなものか」 なんてよく言われるが、私は 「そんなどうでもいいこと、放っといてくれ」 と思う。車内で新聞を広げるよりずっと迷惑にならないし、そんなことより、もっと大事なことがいくらでもあるだろう。

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ちなみに私が地方出張で電車移動する時なんて、まさにずっとスマホをのぞき込んでいる。何しろ初めて乗る電車というのが多いし、地方は本数が少ないので、降車駅や乗り換えを間違えたら大変なことになる。「乗換案内」 アプリを駆使しなければならないのだ。さらに訪問先の情報もすべてスマホに保存してあるので、到着前にしっかりと頭に入れておかなければならない。

昔だったら手帳にメモするか、あるいは A4 サイズの用紙にプリントアウトしたものをクリアフォルダーにびっしりつめて、それとにらめっこしていたものだが、最近はスマホがあれば紙はいらないのでありがたい。何しろ、紙って案外重いから、できるだけ減らしたいではないか。

ところが電車内で A4 用紙の束を必死に読んでいれば 「仕事熱心な人」 と思ってもらえるが、スマホをのぞき込んでいるのは、「暗くてうっとうしいやつ」 ということになってしまうらしい。電車内というのは、「紙媒体は OK だが スマホは No Good」 という 「物言わぬ人たち」 の価値感が実効支配する空間であるらしい。

話は変わるが、先日、出張から帰って来て、秋葉原から 「つくばエクスプレス」 に乗った。日はすっかり暮れて、勤め帰りのオッさんが多い。私は運良く座ることができたが、出発する頃には、車内の座席はすべて埋まり、立っている人もいた。

そんな中、ドアをはさんで離れた位置に、1人の中年女性がつり革に掴まって立っていた。それ自体はどうということもないことなのだが、問題は彼女の背負ったリュックである。ファスナーが大きく開きっぱなしで、中からモノがこぼれ落ちそうなのだ。

「リュックが開きっぱなしですよ」 と一声かけてあげようかと思ったが、私からはちょっと距離がありすぎて、小さな声で注意して上げるには席を立ち、10歩ぐらい歩かなければならない。それならわざわざ私が言わなくても、近くの人が注意してあげるだろう。

ところが近くにいる人たちは、誰も声をかけない。中身がこぼれ落ちそうなリュックがよほど気になるらしく、皆がちらちら眺めてはいるのだが、アクションをとる者が一人もいないのだ。私には信じられない光景である。まあ、そもそも空いているわけでもない電車内でリュック背負ったままというオバさん自身も、「ちょっとね」 ということではあるのだが。

よほど席を立って彼女の近くまで行き、一声かけてあげようかと思った時に、彼女の目の前の座席が空いた。私は 「よかった。座る時にリュックを降ろせば、いやでも気付く」 と安心したのだが、彼女はなんとリュックを背負ったままどっかりと座ってしまった。そして次の駅ですっくと立ち上がり、そのまま降りて行ったのである。その後どうなったかは、知らない。

電車内でスマホを操作する人を陰で非難する人というのは、もしかしたら、リュックの口からモノがこぼれそうになっているオバさんに、一言注意してあげる親切さも持ち合わせない 「物言わぬ人たち」 と、かなり重なるんじゃあるまいか。確たる根拠はないのだが、私はこの夜、直感的にそう思ってしまった。

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2017/08/13

「エスカレーターの手すりにつかまろう」 という気持ち悪いポスター

「うひゃあ!」 と思ってしまったポスターがある。日本民営鉄道協会に加盟する鉄道各社や商業施設が展開しているらしい 「みんなで手すりにつかまろう」 というキャンペーンのものだ。降りエスカレーターの右側にブルーのスーツ姿の男性、左側にピンクのコート姿の女性が異様なほど整然と並び、手すりにつかまっている。

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「こんな世の中はゴメンだ!」 と思うのは私だけじゃないはずだ。マジでファシズムを感じて気持ち悪くなってしまう。いったいどんなつもりで、こんなデザインのポスターを採用したのだろう。「エスカレーターに乗ったら、片側空けずにしっかり並んで手すりにつかまれ」 と主張する人たちって、こういうのを見て心地良く感じるのだろうか。

一方、日経ビジネスは "「エスカレーターで歩くな」 と無茶言う人の末路  江戸川大学の斗鬼正一・社会学部現代社会学科教授に聞く" という記事を載せていて、私はこっちの記事の内容の方がずっとしっくりくる。

記事中で斗鬼教授は、エスカレーターにおける 「片側空け」 は世界中の先進国の都市部に見られる自然発生的なルールであるとしている。私の経験則からしても、それはまったく特殊なことじゃなく、取り立ててどうこういうほどのことでもないと思っている。

鉄道各社は 「片側を歩いたり走ったりすることで事故につながる」 と言っているが、かといって両側を塞ぐことで安全が確保されるかと言ったら、それはきわめて疑問だと思う。空いたエスカレーターの途中の一つのステップだけ両側がふさがれていたとしたら、私なんか 「こいつら、どんな悪意があるんだ?」 と、思ってしまう。

「中には急ぐ必要のある人もいるんだから、ちゃんと通してあげなよ」 と思ってしまうのだ。私個人としては、「片側を十分に空ける」 乗り方の方が、ずっと安全だと思う。接触の危険があるのは、狭い隙間を無理に駆け上がったり駆け下りたりする時だ。

件の記事は、「とりあえず新しいルールが作られるまでは、歩きたい人は止まっている人に気をつけて、止まっている人も歩いていく人のためになるべくスペースを空けるなど、互いに思いやりながらエスカレーターを使うしかなさそうですね」 という言葉で結ばれているが、私はそれに全面的に賛成するものである。

ちなみに思いっきり個人的な感覚で言ってしまうと、私は 「エスカレーターに乗るとき、皆、なんでわざわざ止まるんだろう?」 と不思議に思っている。それまで歩いてきたんだから、わざわざ止まる方がずっと面倒くさい。

これはまあ、私が幸いなことに足腰丈夫なので、「ことさらに止まるよりは歩き続けて、さっさと登り切る方がずっとせいせいする」 と思っているからこその、個人的わがままだとは十分承知している。だから 「わざわざ止まるんじゃねえよ!」 なんて叫んだりは決してしない。

しかし空港なんかによくある 「歩く歩道」 だと、「こんなので、なんでわざわざ立ち止まるんだろう?」 と、マジで不思議なのだよね。

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2017/08/10

女性のパンツを洗って乾かして取り込んで 「たたむ」 ことについて

Huffpost に 「女性のパンツは誰が洗濯するのか問題、『男尊女子』 の酒井順子さんと考える」 という記事がある。我が家では洗濯は私の担当で、出張などで不在の時以外には、ほとんど私がやっている。その際に妻のパンツだけ特別扱いにして分別し、自分で洗わせるなんて考えたこともないから、それがそんなに大問題だったとはちっとも知らなかった。

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Huffpost の記事は、酒井順子さんという方の次のような言葉で始まる。

「あと 20、30年も経ったら、妻のパンツや娘のブラジャーを夫が洗濯するのも、当たり前のことになっていくと思う。そこに抵抗感を覚えるのは過渡期の人間の感覚なのかな、と思います」

「あと 20、30年も経ったら」 という書き出しに、私はひっくり返りそうになった。我が家のライフスタイルとしては、そんなことを大げさに語ることの方が、よっぽどどうにかしている。20年も経ったら私は 85歳になっていて、生きているかどうかも知れたものではないし、30年なんて、ほとんど 「永遠」 と同義語だ。

私が洗濯を担当するのは、はっきりした記憶がないほど昔からで、今は独立したウチの 3人の娘たちが同居していた頃からずっと続いている。私は妻と娘たちのパンツもブラも 「単なる洗濯物」 として、洗って干して取り込んできた。ただし、たたむことまでは考えたことがなく、ただ取り込んで籠に放り込むだけである。

記事中で酒井さんは、下着をたたむことについて 「大昔は 『それくらいは自分が』 と思っていたんですが、『いや、男に平気でパンツをたたんでもらえるようになるべきでは?』 と考えを改めて、意識を変えました」 と言っている。しかし私の感覚としては、そこまで期待されても困る。それは 「沽券にかかわる」 なんていうつまらない理由からではなく、「洗濯物をたたんで収納するのは、それぞれのスタイルがあるから」 だ。

洗濯機に放り込んで洗い、乾かして取り込むまでは、誰がやってもそれほどの違いはない。しかし 「たたむ」 という作業には、それぞれのスタイルと美意識というものがある。私は自分の服を妻のやり方でたたまれると軽い違和感を覚えるので、出張に出る時も 「自分の服は帰ってから自分でたたんでしまうから、取り込んだらテキトーに籠に放り込んどいて」 と言っている。

というわけで、自分の洗濯物を妻にたたませないのだから、当然私も妻のパンツをたたまない。それは各自の作業である。

そもそも私の感覚では、パンツをきちんとたたむ意味がわからないので、自分のパンツはテキトーにくるくるっと丸めて引き出しに収納するだけだ。ましてや、あんな小さな女物のパンツのたたみ方なんて見当もつかない。「取り込んでから先のことは、自分のやり方で気の済むようにやってください」 としか言いようがない。

というわけで酒井さん、最後の最後で期待に添えなくて、ごめんね。

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2017/07/27

住協という会社の CM

カーラジオを聞きながら長距離運転をしていると、「住協の家は大工さんや職人さんも買っています」という CM がよく流れる。私はこれを聞く度に、「じゃあ、大工さんや職人さんも、自分の客に正直に住協を勧めろや」と思っていた。

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つまり「大工さんや職人さんは、自分の造る家なんかより住協というハウスメーカーが提供する家の方がずっといいと思っちゃう」って意味かと思っていた。「この CM,一体何なの?」という印象だったのである。

この疑問、住協というハウスメーカーのウェブサイト(参照)に行ってみて、ようやく解けた。トップページに載っているのは、いかにも現場の大工さんや職人さんという風情の人たちがズラリと並んで、「私たちも買っています!」というメッセージを発する写真だったのである。

なんだそうか、住協の家の実際の施工をする際の下請けの職人さんたちが、自分の家を買う場合でも住協の家を買っているわけね。自分で仕事してるんだから、そりゃ手抜きもなしに造ってるんだろう。最もリスクの低い買い物だ。

いわば「トヨタの下請けの仕事をしている人もトヨタのクルマを買ってます」というのと、それほど変わらない構造のお話だったわけだ。なるほど、なるほど。

で、今回のお話は「それがどうした?」と聞かれると、「え、えぇと、つ、つまりそれだけのことです」と答えるしかない、住協というハウスエーカーの評判をネットで調べると、購入者の多くは結構満足しているみたいなので、まあ、それでいいわけなのだが、CM に関しては、ちょっとわかりにくいよね。

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2017/07/26

晴れて「高齢者」の称号を獲得したのだが

私は今日が誕生日で 65歳となり、晴れて「高齢者」の称号を獲得した。まあ、気はいつまでも若いつもりだし、パッと見も高齢者っぽくはないが、どうせそうなるのだから、早く区切りをつけてしまいたくて、最近はこの日を心待ちにしていたほどである。

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いつ年を取るかということに関しては、日本の民放では「誕生日の 1日前に加算される」ことになっているらしいので(参照)、実は私も昨日のうちに高齢者になったわけである。とはいえ、気持ちとしての「区切り」は、やっぱり誕生日となりがちだ。

「高齢者」となったからには、それなりの恩恵を享受しようと思って調べてみると、思ったほどの特典はないとわかった。(参照

まあまあ使えるかもしれないと思ったのは交通機関のシニア割引で、ANA と JAL が、全国どこでも 13,300円で行けるサービスを実施している。ただし、「予約はできず当日空席がある場合のみ利用可能」というのが、ちょっと辛いかもしれない。それなら早めの予約で割引を受ける方がずっと得だったりする。

「JR 東日本・大人の休日倶楽部ジパング」というのは、JR 東日本、JR 北海道区間の 201km 以上の切符を何回でも 30%割り引きで購入できるサービスだ。しかし年会費が 3,770円というので、滅多に旅行しない人だと元が取れない。私の場合は年に 10回以上出張で遠方にでかけるが、自腹で会費を払っても交通費はクライアントに請求するので、メリットはあまりない。

小売業のサービスにしても、毎月 5日とか 15日とかに買い物をすると 5%割引になるとかいうのばかりで、大したメリットはない。よほど大きな買い物をするというなら別だが。

居住地域の高齢者向けサービスというのもあるが、私の住んでいる自治体は、寝たきりとか認知症とかにならないと、これといったサービスは受けられないようだ。私がそうなるのはかなり先だろう。

というわけで、勇んで高齢者になってはみたものの、期待したほどの特典はないみたいなのだ。なんだ、期待して損した。

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2017/07/22

「引用」 ということについて

ちょっと古い話で恐縮だが、京都大学の山極壽一総長が今年の入学式の式辞でボブ・ディランの 『風に吹かれて』 (Blowin' In The Wind) の歌詞を引用し、その式辞をそのままサイトに掲載したところ、JASRAC から「著作権料請求」 を匂わせる連絡があったらしい。結局は 「引用」 と判断され、請求はされなかったが、JASRAC としてはあわよくば金を取ろうと思ったんだろうね(参照)。

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明確に決められているわけじゃないが、慣習として全体の分量の 1割程度なら正当な 「引用」 と判断され、著作権侵害にはあたらない。今回の式辞も、結局は沙汰止みになったが、放っておいたら JASRAC は取れるものなら (あるいは 「取れないもの」 まで) どんどん取ってしまおうとするだろう。

さすが京都大学。よくぞ 「毅然たる無視」 を貫いてくれた。

ところで最近 「無断引用」 という言葉を目にすることがある。最近では 「陸奥新報嘱託記者が無断引用=作家の随想、懲戒処分-青森」 というニュースがあった。これ、なんとかならんもんかなあ。

「引用」 というのはたいてい 「無断」 でするもので、出典を明らかにしてさえいれば問題ない。逆にいちいち許可なんて求められたら、うっとうしくてしょうがないだろう。上記の記事に関しては、「無断引用」 ではなく 「盗作」 とか 「剽窃」 とか言うべき行為である。

「盗作」 というとどぎつすぎると思うためか、「無断引用」 なんてボカした言い方が増えているようなのだが、これは明らかな誤用というほかない。こんな程度の曖昧な意識だから、JASRAC がのさばるのである。

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2017/07/21

マクルーハン 生誕 106周年なんだそうだ

Google に行ってみたら、見慣れぬロゴが表示されていて、ちょっとクリックしてみると 「マーシャル マクルーハン 生誕 106周年」 と表示された。「ふ〜ん、そういえばそんな人いたなあ」 ぐらいの感覚だが、よく考えてみると、私自身も案外影響を受けているのかもしれない。

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マクルーハンが生きていたのは 1911年から 1980年までの間だから、死んでからもう 40年近く経つ。フツーの社会学者だったら、「過去の人」 扱いされてもおかしくない。しかし私の学生時代に出てきた彼の新しい主張は、今でも新鮮さをもっている。

私はお恥ずかしいことに、マクルーハンの著書は 1冊も読んでいない。しかし彼のアフォリズム的なもの言いはかなり注目されていて、「メディア自体がメッセージである」 「テクノロジーやメディアは人間の身体の 『拡張』である」 「メディアには 『ホット』 と 『クール』 がある」 などはかなり知られている。

とくに 「メディア自体がメッセージ」 というのは、「なるほど」 と頷ける。同じニュースでも、新聞、ラジオ、テレビ、インターネットなど、異なるメディアを経由すると受け取り方が確かに違う。というか、異なる受け取り方をするそれぞれの人間が、受け取る際にメディアを選択していると言っていいだろう。そのため、メディアは受け手に合わせてさらに明確な特性を得ることになる。

さらに 「テクノロジーやメディアは人間の身体の拡張」 というのは、私の考え方のベースみたいなものともなっている。大昔に書いた 「コンピュータは 『脳みその大腸菌』」 というのは、栗本慎一郎氏の思想にヒントを得たものだが、元々はマクルーハンの思想ともいえる。この記事は 15年前の日付となっているが、元になったのはさらにその 5年前に書いたコラムである。

マクルーハンが死んでから 17年後だ。それを思うと、マクルーハンってすごい。

マクルーハンはとてもキャッチーなフレーズをどんどん提供してくれていたが、そのスタイルこそがメディアの変化を先取りしていたのだろう。彼の時代にインターネットがあったら、ものすごい影響力を発揮していたと思ってしまう。

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2017/07/19

関東の梅雨明けと、蓮舫氏の戸籍公開

今日、関東甲信、東海、近畿、中国地方が一気に梅雨明けしたと発表された。ただ少なくとも関東に関して言えば、ずっと前から 「梅雨ってもう、明けてるよね」 という感じだったから、古きよき日の梅雨明け宣言ほどのすかっとした嬉しさはない。

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問題は、こんなに早くから真夏日が連続する暑さに突入してしまって、この夏は一体どんな酷暑になってしまうんだろうということである。このままだと、8月初旬なんて死ぬほどの暑さになってしまうんじゃなかろうか。

ちょっと都合良く考えると、天気というのは季節の終わりに締めてみると案外帳尻合わせをしてくれているものなので、8月に入る頃にはぐずついた天気が続いて、猛暑日なんてことになりにくく、お盆過ぎには案外早く秋風が吹くなんてことになるんじゃあるまいかなんて期待してみたくなる。しかしその反対にますます熱くなって、その帳尻は厳冬で合わせるなんてことになったら、大変なことになる。

話は変わって、民進党の蓮舫代表が戸籍の一部を公開したらしい。直前まで 「公開する」 と言ったり 「排外主義者・差別主義者の方たちに言われて公開することは、絶対にあってはならない」 と言ったり、態度がコロコロ変わっていたが、「本来あってはならないことまで、特例としてやってあげたんだから、もう文句ないでしょ」 というココロのようだ。

しかし現実的には 「もう文句ない」 というわけじゃない。今回の公開で 「ずいぶん長い間、二重国籍のまま国会議員を務めるという違法状態にあったわけなのね」 という事実が客観的にも証明されたわけだ。これに関しては、「公職につくものとして深く反省している」 の一言であっさり済ませている。

私自身は、蓮舫氏の戸籍なんて見たくもないが、公開が遅れたのは、これまで 「子どもが成人前だったから」 という理由らしい。しかし子どもの情報まで公開したわけじゃないから、それは筋の通った理由とは到底思われない。とにもかくにも他人には厳しく、自分には甘い人のようだ。

世の中には、この問題の根底には 「排外主義、差別主義がある」 と主張する人もいる。毎日新聞のの編集委員、与良正男氏もその一人のようだ (参照)。私なんかこうした主張に接すると、当人の中にそんな意識があることの裏返しなんじゃないかと疑ってしまう。

少なくとも私が問題にしているのは純粋に法的な 「国籍」 であって、「出自」 なんかではない。どんな血が流れていようと、肌の色がどうであろうと、法的にすっきりと 「日本国籍」 ならば (「すっきりと」 というのは、二重国籍問題などをクリアしていればということ)、日本の国会議員になるのに問題はない。

そんなのは言うまでもなく当然のことだ。「いくら日本国籍をもっていても、流れている血が違うのは......」 なんて言う人は、それこそ日本の恥である。「あんたの好きな 『八紘一宇』(世界を一つの家とする) はどこに行ったの?」 と聞いてみたいものだ。

というわけで、蓮舫氏の今回の戸籍公開は、今年の梅雨明けと同様、「それがどうした?」 ということでしかない。

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2017/07/16

「旅館」 という施設には、できるだけ泊まりたくない

『新・観光立国論』 で山本七平賞を受賞したデービッド・アトキンソン氏が、東洋経済 Online で "外国人が心底ガッカリする 「日本の旅館事情」" という記事を書いている。日本の 「旅館」 は、外国人の富裕層が泊まるには多くの問題がありすぎるという指摘だ。(参照

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この記事は富裕層向けの高級旅館に限った話だが、実はごくフツーの旅館も問題ありすぎだ。私は年間 20回以上いろいろな地方に出張するが、宿泊はビジネスホテル専門で、日本に生まれて日本で育った日本人なのに、よほどの事情でもない限り 「旅館」と名のつくところには泊まりたくない。

旅館というのは、とにもかくにも宿泊料金のコストパフォーマンスが悪すぎる。地方のビジネスホテルでは、6,000円も出せばまともな部屋に泊まれる。5,000円で簡単な朝食付というのも珍しくない。

ところが、旅館だと同じ値段で部屋が 「バス付き」 でないことが多いのである。温泉旅館ならまだいいが、家庭用風呂に毛が生えたようなのに交代で入らされることも珍しくない。こんな風呂だと大抵排水が悪く、シャンプーし終えて目を開けてみると、泡だらけのお湯が排水口から溢れて、足をヒタヒタにしているなんてことも覚悟しなければならない。さらに 「トイレ共同」 なんてのもざらだ。

最近ではかなり改善されたが、それでも 「布団が短すぎることがある」 というのも要注意ファクターだ。私は日本人としては長身のため、冬の東北や北海道で短い布団に遭遇すると、足が冷えて往生してしまう。押し入れから予備の掛け布団を引っ張り出して、すっぽりと足を覆わなければならないが、下手すると予備の布団がないこともある。

また、「割烹旅館文化」 というのも始末が悪い。昔、某地方都市に出張した際に、訪問先の会社の世話で、その町に古くからある割烹旅館に泊まらされた。夕方過ぎに部屋に通されてお茶を飲んでいると、さっきまで訪問していた会社のお偉方がいきなりずかずかと上がり込んできたかと思うと、あれよあれよという間に酒肴が運ばれて、酒盛りになってしまった。

何のことはない。あの人たち、その旅館の女将とツーカーになっていて、出張してきた人間をダシにして経費で飲み食いしたいのである。それで 「おもてなし」 と勘違いしてるから始末が悪い。私は酒の無理強いとご馳走攻めは苦手だから (参照)、これ以後、この町に宿泊するスケジュールは絶対に組まないことにした。

そうそう、ビジネスホテルでは常識の LAN や Wifi のサービスが、旅館ではほとんど期待できないのも困る。今どきはスマホ経由でインターネット接続できるからまだいいが、それだとスピードが遅いしね。それに夜になってから座卓に座椅子でデスクワークすると、腰にきてしまうのもしんどい。

というわけで、私は 「旅館」 という施設にはできるだけ泊まらないようにしている。どうやら、ライフスタイルというか、旅のスタイルが全然合わないようなのだ。上の写真をみても、70歳過ぎか、一時の非日常性で盛り上がるギャル以外は喜びそうにない雰囲気である。

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2017/07/15

「加計さん」 という名字を巡る 冒険

加計学園問題で、日本に 「加計」 と書いて 「かけ」 と読む名字があることを初めて知った。Wikipedia の解説によると、加計勉氏が 1961年、岡山市に 「加計学園」 を創立したのが、 「加計学園グループ」 の始まりだそうだ。

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「加計」 と書いて 「かけ」 と読むのは、ちょっと意外と思われるかもしれないが、実は 「か」 と 「け」 という平仮名は、上の画像にあるように、「加」 と 「計」 という漢字から作られたものである。「加」 が 「か」 の字の元というのは誰でも知っているが、「計」 が 「け」 の字の元というのは案外知られていない。

「計」 の 「ごんべん」 を草書体ですらすらっと書いちゃうと、どんどん 「け」 の字の左側に近付いちゃう。だから、「加計さん」 は 「かけいさん」 じゃなく、「かけさん」 なのだね。「かけいさん」 だと、「掛井さん」 とか 「筧さん」 とかの文字になってしまいやすいようだ。

ちなみに 「名字由来 net」 というサイトで 「加計」 を検索すると、全国では上から 17,569番目という結構珍しい名字で、日本中におよそ 290人しかいないという。その由来は次のように説明されている。

現広島県西部である安芸国山県郡加計村が起源 (ルーツ) である。懸と起源をともにする。近年、山県郡など広島県に多数みられる。

なるほど、加計学園は岡山市にあるというし、広島県にルーツをもつ加計勉さんが、隣の県の岡山で学校を作ったのかもしれないと想像する。

で、ここからはまったく余計な話なのだが、「かけ」 と言ったら、私はごく自然に 「もり」 を思い出してしまうのだよね。いうまでもなく蕎麦つながりである。

平仮名の 「も」 と 「り」 の元になった漢字は 「毛」 と 「利」 なのだが、「毛利さん」 はなぜか 「もりさん」 じゃなく、「もうりさん」 なのだよね。ちなみに 「もりさん」 は 「森さん」 一強だと思っていたが、他にも 「茂里さん」 や 「茂利さん」 「盛さん」 「守さん」 がいるらしい。(参照

ただ、「毛利さん」 といえば最強の有名人は戦国大名の 「毛利元就」 で、地元は安芸国 (現在の広島県) だから、ここに 「かけ」 と 「もり」 は、広島県つながりでめでたくリンクする。ちょっと無理矢理だが、このオチにたどり着いて、私は何となくすっきりしてしまったのだった。

これで、森友学園の籠池さんが広島県とか岡山県とかの出身だったら、「かけ」 と 「もり (とも)」 の関係がより濃厚になったところだが、彼は香川県出身ということらしい。残念。ちなみに 「籠池」 という名字は全国で 37,603番目で、およそ 70人しかおらず、「加計さん」 よりもさらに少数らしい。

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