カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の921件の記事

2017/02/16

「老い遅れ」 という言葉を初めて知った

「近頃、老眼が進んじゃってさ」 とつぶやいたら、「老い遅れるよりはいいわよ」 と、一緒に仕事をしている女性に言われた。彼女は 70歳を過ぎて、実はいろいろ病気を抱えてはいるらしいが、すこぶる元気で快活に見える。それにしても 「老い遅れる」 という言葉を、この時初めて知った。

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帰宅してググってみると、これは黒井千次著の 『老いのかたち』 という本に出ている言葉らしい。初版は 2010年 4月というから、結構前の本だ。この本は 4章立てになっていて、それぞれ 「病気待ちの列」 「友を送る-これも同窓会」 「老い遅れに気をつけて」 「普通高齢者がイチバン」 というタイトルだという。

第3章の 「老い遅れに気をつけて」 を踏まえて、彼女は 「老い遅れるよりはいいわよ」 と言ったのだろう。私は黒井千次氏の本を 1冊も読んだことがないので、どんな具合に書かれているのか知らないが、まあ、先輩からのありがたい言葉として受け取っておこう。

黒井千次氏はさらに、2014年に 『老いの味わい』 という本も出しているらしい。それだけでなく、『老いるということ』 (2006年)、『老いのつぶやき』 (2012年)、『老いへの歩み』 (2015年) と、「老い」 をテーマに何冊もの本を出している。ふむ、「老い」 というのは、案外商売になるのだな。

私はかなり老い遅れている傾向があるのだが、ある日突然がくっとこないように、少しは老い遅れに気をつけて生きてみようと思う。

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2017/02/13

ずらりと並ぶ額装された表彰状、感謝状

茶の間の鴨居の上に、じいさんの代からのいろいろな表彰状やら感謝状やらをずらりと並べて飾ってある家がある。「すげえなあ!」 とは思うが、自分でもそうしようという気は毛頭ない。まあ、早く言えばそんな趣味はないのだよね。

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私の父は家族にも知られずにいろいろな公職を引き受けていたらしく、何とかの役職を何十年続けたことによる表彰なんてのを受けるために、時々県庁所在地の山形市に出かけることがあった。周囲の人は 「おめでとう」 とか言っていろいろなお祝いをしてくれるのだが、当人は嬉しそうでもなんでもなく、ただ面倒くさそうだった。

で、表彰を受けて帰って来た父に 「その賞状、見せれ」 (ミスタイプじゃなくて、庄内弁なのでよろしく) と言っても、「汽車の網棚に置き忘れてきた」 とか 「駅のゴミ箱に捨ててきた」 とか、滅相もないことを言うのだった。子どもの頃は 「額に入れて飾ればハクがつくのに」 なんて思っていたが、父にはそんな発想がなかったようなのである。

父が死んでから遺品の整理をしていて、丸筒に入れられたまま押し入れの奥に放り込んである表彰状とか感謝状とかをいくつか見つけたりはしたのだが、もらった表彰状をすべてまとめて大切に保管してあるのではなく、1本の丸筒に 1枚だけ入ってる (要するに、もらったまま) 状態のものが何本か、あちこちに無造作に放り込んであるという風情である。多くは本当にどこかに忘れたか捨ててきたようなのだ。世間的栄達には興味のない人だった。

ところが自分自身も大したことはしていないのに、還暦を過ぎてみれば、それなりにいろいろなところから表彰状とか感謝状とかを頂いてはいるのである。こういううことは、ただ一定の年数を大過なく務めさえすれば、自動的にくれるという世の中の仕組みになっているようなのだ。

そしてもらった表彰状や感謝状は、父みたいに 「置き忘れてきた」 とか 「捨ててきた」 とかいう極端なことはないにしても、やっぱり押し入れの奥に無造作に放り込んであるだけで、額装して人目に付くようなところに飾ろうなんていう気には、到底なれないのである。

世の中には 「私も〇〇の役職を長年やったんだから、そろそろ表彰してもらいたい」 とか堂々と口にしたりする人もいて、「すげえなあ」 と思ったりする。「すげえなあ」 と思うのは、その長年の功績に対してではなく、そういうことを堂々と公言するメンタリティに対してである。

中には、国から勲章をもらうためにお手盛りの業界団体を設立して、その理事長に就任したという人までいる。国に対する長年の働きかけが実ってようやく勲章をもらうと、その御仁は間もなく死んでしまい、その最初で最後の理事長が死んでしまった途端に、年に 1度の総会以外にすることがなかった業界団体は、自然消滅してしまった。というわけで、勲章そのものよりも 「名誉欲の強い人だったなあ」 という記憶の方が強烈な印象として残っている。

で、私と言えば、「蛙の子は蛙」 ということなのか、そういうことには全然興味がなくて、くれるというものはもらわないと角が立つし、単なる形式的なものを 「いらない」 と言ってごねる方がよほど面倒なので、ありがたくもらうけど、ただそれっきりのことになってしまうのだよね。

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2017/02/06

「万歳三唱の作法」 を巡る冒険

「代理選挙」 と言われた千代田区長選挙で、小池都知事が指示する石川雅己氏が圧勝した。個人的には 5選目というところにちょっとひっかかってしまうが、まあ、与謝野さんよりはいいか。で、下の写真は当選を喜ぶ小池さんと石川さんである (毎日新聞一面より)。

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この写真を見て、「小池さんって、そつのない人だなあ」 と思った。というのは、万歳の手の平が内側を向いているからである。些細なことだが、これが 「正しい万歳の仕方」 と言われている作法で、一方、手の平を正面に向けるのは 「ごめんなさい、降参です」 と言っているようなものだから正しくないと、ことさらにこだわりのある人は主張する。

2010年に衆議院の木村太郎議員 (自民党) が、当時の鳩山由紀夫首相の万歳三唱 (手の平を正面に向けていたらしい) について、「正式な万歳とは違うように見受けられた。日本国の首相として、万歳の仕方をしっかりと身につけておくべきだ。首相は作法を知っているか」 と質問主意書を出したことがあった。これなんか、「ことさらなこだわり」 の典型例だろう。

巷間、明治時代に発布された太政官布告と称される 「万歳三唱令」 というものが流布しているらしく、そこには 「万歳の発声とともに右足を半歩踏み出し、同時に両腕を垂直に高々と挙ぐるべし。その際、両手指がまっすぐに伸び、かつ両掌過ちなく内側に向くこと肝要なり」 (原文は漢字カタカナ混じり) と書かれているという。これが木村氏の 「質問主意書」 の根拠となったらしい。

しかしこの 「万歳三唱令」 というのは偽書ということが明らかになっていて (参照:国会図書館データベース日経新聞記事)、実際にはそんなお触れが出されたことはない。そもそも万歳の時の手の平の向きなんて意識している日本人は滅多にいないし、ましてや右足を半歩踏み出すなんて、見たこともない。で、この時の答弁書は 「万歳三唱の所作については、公式に定められたものがあるとは承知していない」 という素っ気ないものだった。

私としても万歳の時の手の平の向きなんてどうでもいいと思ってはいるが、世の中にはいろんなイチャモンをつけたがる人がいるので、何かの行事で万歳をする際には、予防線を張る意味で、手の平だけは一応内側に向けている。実際に、「あんたの万歳の仕方は間違ってる」 としゃしゃり出る人を目撃したこともあるし、「あいつは万歳のしかたも知らない」 なんて陰口をたたくやつもいるのでね。

というわけで、「おっ、小池さんも、お隣の石川さんも、きちんと予防線を張ってるな」 と思ったのである。写真を見る限り、後ろにいる人たちはそんなこと全然意識していないみたいだけど。

とまあ、今日はそれだけのお話。

【同日 追記】

「万歳三唱令」 の画像が見つかった。なかなかよくできているが、「明治二十二年四月一日施行」 とあるのがミソだ。(参照

私もこれくらいできのいいエイプリルフール・ネタを作りたいものだ。

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2017/01/19

例の 「聞き流す英会話」 の CM に関する素朴な疑問

昨日の "パソコン教室と、「聞き流す英会話」" という記事の続編である。まあ、あまり上品な内容ではないが、CM に接する度につい心に湧いてきちゃうことなので、ここらで一度吐き出しておかないと健康によくないと思い、敢えて書いてしまう。

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例の 「スピードラーニング」 の CM についてである。プロゴルファーの石川遼選手も愛用なんだそうで、彼はこの教材のおかげで米国での活動にも不自由していないというのである。しかし私としては、あれだけいつも米国にいさえすれば、フツーは日常会話ぐらいはできるようになって当たり前というものだろうと思うのだよね。

彼が英会話に不自由していないとすれば、それは実践で鍛えたものと解釈する方が自然なんじゃないかなあ。少なくとも私なら、周り中が英語をしゃべっている中で、あえて 「聞き流す英会話教材」 なんて聞こうとは思わない。それよりも現地の人間と積極的に付き合えば自然に身につくだろう。

いやしかし、日本人というのは不思議な人種で、仕事で米国に赴任すると、現地で英会話のプライベート・レッスンを受ける人というのが大勢いるらしいから、もしかして石川遼選手も、英語の溢れる中で、ヘッドフォンでスピードラーニングを聞き流したりしているのかもしれない。ちょっと異様な光景のように思えるが。

もう一つの 「素朴な疑問」 は、いつも流れているラジオ CM に関してである。こんな内容だ。

アパレルの仕事で会ったアメリカ人に 「英語ぐらいできるんだろうね」 と言われ、 「ノー」 と言ったら、「英語ができなくて何の仕事ができるんだ。お前帰れ!」 と言われて傷ついた。

CM ではこれをきっかけに一念発起してスピードラーニングを始め、英会話を身につけたということになっているのだが、この 「英語ぐらいできるんだろうね」 という質問は、英語で聞かれたのか、日本語で聞かれたのか、よくわからないのである。

もし英語で聞かれたのなら、それを理解できたのだから、「ノー」 と答えるのは論理的に矛盾している。だから日本語で聞かれたとしか考えられないのだが、それならば 「できません」 と言えばいいだけのことなのに、どうして 「ノー」 なんて答えたんだろうということになる。

それに相手のアメリカ人がそんなに流ちょうな日本語をしゃべるなら、日本語でやりとりすればいい。英語ができないぐらいで 「お前帰れ!」 なんて言うのは無茶苦茶な話で、初めからまともなビジネスをする気がなかったに違いない。いずれにしてもよくわからない CM である。

もうちょっと言ってしまえば、日本の 「アパレルの仕事」 というのは実は、知る人ぞ知る 「ドメスティックな仕事」で、イメージに反して全然国際的じゃない。業界では密かに 「まるドメ」 (まるでドメスティック) と言われるほどのものである。アパレル業界周辺で 30年メシを食った私が言うのだから、間違いない。

英語ができないぐらいで米国人にこんなにまで口汚く罵倒されるとはリアリティがなさすぎて、できの悪い作り話というのがバレバレだ。

というわけで、私としてはつい教材自体を 「胡散臭いなあ」 と思ってしまうのだよね。悪いけど。

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2017/01/18

パソコン教室と、「聞き流す英会話」

もしかしたら、私自身がまだその機会に恵まれていないというだけなのかもしれないが、パソコン教室に通って PC がバリバリに使いこなせるようになったという人と、例の 「聞き流す英会話教材」 だけで不自由なく英語で会話ができるようになったという人には、少なくとも未だかつて会ったことがない。

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パソコン教室に通ったという知り合いは、数人 (いずれも 60代以上) いる。しかしそこで何を教えてもらったかと聞くと、「電源の入れ方・切り方、マウス操作の仕方、キーボード操作、お絵かきの仕方等々」 だそうだ。その結果、メールぐらいはできるようになったようだが、そのメールにファイル (写真とか) を添付して送付する作業は、何年経ってもできない。

添付ファイルの送り方を教えると、その時だけは 「ああ、そうか、なるほど」 なんて言って、手順をノートに手書きでメモしているが、その日のうちにわからなくなってしまっている。というよりメモというアナログ作業に集中する過程で、PC 操作の実感と結びつかくなっているのだろう。

だから何度教えても、「デジカメで撮った画像をメールで送って下さい」 なんて頼むだけ無駄で、実際に訪問して、デジカメの SD カードからコピーさせてもらわなければならない。彼らの 「会報」 作りなんか手伝わされると、大昔に逆戻りしたような気がする。

彼らは PC のハードディスクにはたっぷり空き容量があるのに、デジカメで撮影した画像を 10枚以上の SD カードで保存している。生きてる間は SD カードの画像ファイルが壊れたりしないことを祈るばかりである。

「こんなことならスマホの方がずっと楽ですから、PC は諦めて、その大昔のガラケーから鞍替えしたらどうですか?」 と言うと、「いやぁ、今どきはパソコンぐらい使わないと」 なんて返事が返ってくる。いやいや、あなた、使えてないからね。

同様に、例の 「聞き流す英会話教材」 で英語ができるようになった人というのも、寡聞にして知らない。パソコン教室の場合は 「通ったことがある」 という話は聞くが、「スピードラーニングをやった」 という知り合いは 1人もいない。

あるいはこっそりとやってみて、そのうちに挫折してしまっているのは何人かいるのかもしれないが、そんな人は 「挑戦してはみたんだけどね」 なんて告白はしないのだろう。あれだけひっきりなしにマスコミで宣伝しているのに、それで成果を上げたという人を 1人も知らないのは、この世の七不思議である。

パソコン教室に通っても添付ファイルすら送れない知人が最近、「スピードラーニングをやってみようかと思っている」 なんて言い出したので、「そんなものやっても、せいぜい道案内ぐらいしかできないと思いますよ」 と答えておいた。

すると彼は、「いやいや、道案内できるようになるだけでも立派なものじゃないですか」 なんてことを言う。

「その程度は、中学生英語でいけるはずなんですけどね」 と言うと、黙り込んでしまった。うぅむ、また余計なことを言ってしまったかな。

本日の教訓は、「習うより慣れろ」 である。

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2017/01/17

「民意」 と 「支持率」

JNN 世論調査で、安倍内閣の支持率が 67%に上昇したことについて、「民意に反して支持率を集めている!!」 とした panama slim さんという方の tweet (参照) が、ネット上で 「なぞのいちゃもん、日本中が笑った」 と dis らまくっている。

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上記でリンクした先の netgeek というサイトでは、「一体何を言っているのか到底理解し難い。こんな短い一文で矛盾することができるとはかなりのギャグセンスの持ち主だ。ウケ狙いでやったのでなければもはや思考回路が正常に機能していないのだろう」 と、散々な言われようである。

しかし、ちょっと冷静になって考えれば、「民意」 が 「支持率」 にストレートに反映されないなんて、それほど珍しいことではない。つまり件の tweet は、そんなにまで寄ってたかって笑いものにするほどのことでもない。「思考回路が正常に機能していない」 とは言い過ぎだろう。

そもそも 「民意」 とは、ちょっと考えればわかるように甚だ曖昧な言葉である。『大辞林』 では 「国民の意思。人民の意思」 とされているが、そんなのは解釈によってどうにでもなるもので、「主観要素」 が入り込む余地がたっぷりある。

一方 「支持率」 というのは、一応は統計的調査によって導き出された 「客観数字」 という体裁を取っている。人の数だけあっても不思議じゃない 「民意」 と、客観数字の 「支持率」 が一致しなくても、不思議ではない。さらに 「支持率」 そのものも調査方法によってバラツキの生じるのは毎度のことで、絶対的なものではない。

ということは、「民意」 と 「支持率」 が一致しないというテキストが存在しても、そんなにまで鬼の首でも取ったようにあげつらうほどのものではない。あまりはしゃぎすぎてはいけない。今回の騒動は早く言えば、左がかった tweet を、右がかった人たちが dis りまくっているという構図に見える。

とはいえ、「民意に反して支持率を集めている!!」 というのが、不器用なテキストであることに変わりはない。そして panama slim さんは後日、次のような補足的 tweet を書き込んでいる。(参照

多数意見ではない民意のほかにも、市民によらない市民運動。個人の多様性は押し付けても、ローカルな社会の多様性は認めないリベラル。日々変化する現実を見ようとしない進歩的知識人。自分で翻訳しつつ読まなければいけない言葉はたくさんあります。

問題の tweetは、「安倍内閣は、私の考える民意に反して支持率を高めている」 と翻訳すればいいのだろうけど、後日の tweet にしても 「翻訳」 の必要度の高いテキストではある。気持ちはわかるけど。

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2017/01/09

「毎年の紅白」 が 「一生に一度の成人式」 に置き換わった

今日は成人の日という祝日だったようだが、実は朝起きてニュースを聞くまで、そのことを知らなかった。そういえば、最近の成人の日というのは 3連休になるようにセットされていたのだね。私の仕事は世の中の土日や祝日とは関係ないので、どうもそのあたりの事情には疎くなる。

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元々成人式というものには興味がなく、「自治体による余計なお世話」 と思っていたので、自分の時も当然ながら出席しなかった。当時の若い年代には今よりずっと反体制的なムードあったし、「そんなものに背広や振り袖なんか着てチャラチャラと出席するのは馬鹿しかいない」 と思っていた。

そんなわけで、1970年代の成人式なんて、本当に淋しい限りのものであったらしく、「成人式の出席を増やすために、豪華記念品を配る自治体が増えた」 なんていうのがニュースになったことさえある。私なんか 「モノで釣ってでも馬鹿を集めたいのかよ」 と思っていたぐらいだから、今のように出席して当たり前みたいな風潮を目の当たりにすると、隔世の感がある。

共同通信が伝えた 「日本法規情報」 という東京の調査会社が実施した調査結果によると、約 7割の日本人が成人式に出席しているらしい (参照)。凄いなあと思う。昔の 「紅白歌合戦」 の視聴率みたいな数字だ。

昔は日本人全体が大晦日を紅白歌合戦を見ながら過ごすのが当たり前だったが、今は紅白の視聴率が 50% にも満たなくなった代わりに、20歳の連中が背広や振り袖を着て成人式に集まるのが当たり前になった。というわけで、「毎年の紅白」 が 「一生に一度の成人式」 に置き換わったのだと思うと、個人的にはとてもわかりやすい気がしている。

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2017/01/08

高級腕時計をもつ意味

「高級腕時計を持つ意味」 というのが話題になったことがある。ネットでググってみると、「高級腕時計は一流の証。選ばれし者のみが持つブランド15傑」 というページがあり、飛んでみると見るからにご大層でややこしそうな時計の写真が並んでいる。「ああ、一流でなんかなくていい、選ばれし者になんかならなくていい!」 と、心から思う。

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私の腕時計は、"Reguno" とかいうブランド (シチズンがやってるらしい) の安物である。メーカー希望小売価格みたいなものは 1万円以上するらしいが、ヨドバシカメラだかどこだかで、6,000円ぐらいで買った記憶がある。

安物ではあるが、ソーラー・バッテリーで動き、デザインだってそんなに捨てたものじゃないので気に入っていて、前のが 10年近く使って壊れたので、同じ型のを探して買った。よく訳知り顔に、「高級品を末永く使う方が得だ」 なんていう人がいるが、10万円の時計を一生使うのが 6,000円の時計を 3〜4回買うより得だとは、なかなか思えないのである。

ましてや、数十万円とか百万円とかいう値段の時計なんて、日常的に身につけたいとは思えないし、眺めていたくもない。もしもらったとしても、引き出しの奥にしまい込んで、絶対に使わないだろう。

実際、20歳の頃に金持ちの親戚にもらった高級万年筆は、一度も使ったことがない。持ち歩いたりしたら、絶対に 3ヶ月以内にどこかに置き忘れてくる。それで引き出しの奥にしまったままで、それはつまり、「ない」 のと同じことである。「ないのと同じ」 なら、捨てるか売り払うかしたいのだが、どの引き出しにしまってあるかも忘れてしまって、処分しそびれたままでいる。

高級スーツにしても、私は持っていたとしても着る気になれないだろう。私は図体がデカい上にそそっかしいので、あちこちにぶつかったり引っかけたりして、よくかぎ裂きを作る。だから安物のスーツでも着るのが憚られて、ジーンズみたいな格好でいたいのに、ましてやアルマーニとかの高級スーツなんて身につけたら、肩が凝ってしょうがないだろう。

だから高級品はあったとしても絶対に使わないし、使わないものをしまっておくのはスペースの無駄遣いだから、たとえもらったとしてもありがた迷惑なのである。

私は本当に、高級ブランドとかいうものをもつ意味が理解できない類いの人間のようなのだ。

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2017/01/01

新年のご挨拶

明けましておめでとうございます。昨年は本当に本当に短く感じられ、あっという間に平成 29年になってしまったような気がしています。年を取ると時の経つのが早いというのは、誠にも真実のようでありますね。

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さて、今年は酉年なので、恒例の年賀状はどうしようかと迷ったが、鶏といえばやっぱり若冲ということになるだろうと、昨年 (参照) に引き続きいにしえの日本画のデザインを拝借した。昨年は襖絵、今年は屏風絵である。

恒例の歌は 「鶏声は太き脚にて踏みしむる地より湧き出で天に放たる」 。「鶏声」 は 「けいせい」 と読む。私も今年の夏は 65歳になり、「高齢者」 という範疇に入れられてしまうようなので、少しは地に足を付けて生きたいものだという思いと、とはいえ、相変わらず飛び回っていたいという願いをもっともらしく交錯させたような歌である。

なお、例年正月恒例の年賀状コレクションは、こちらからどうぞ。

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2016/12/31

あっという間の 1年だった

大晦日である。年を取ると時の経つのが早いといわれるが、今年ほど短く感じた 1年はない。正月 4日に 140km のロングライドをしたのがついこないだのような気がしているうちに、いつの間にか 12月の声を聞き、ゴチャゴチャしているうちに大晦日である。

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本当に今年はこれといって新しいことを始めたということもないし、これまでの自分なりの路線を踏襲して、ほんのちょっとだけ磨きをかけられたかもしれないという程度の年だった。ということは、別に大きな悔いが残るということもなく、悪くない年だったのかも知れない。

改めて去年の 「私的十大ニュース」 というのを振り返ってみると、エコ生活が堂に入ってきたというトーンが濃くなっている。今年はそれがさらにブラッシュアップされたということは言えるだろう。別に新しいことではなく、ライフスタイルとして定着してきたということだ。

私ももう還暦を過ぎて、来年の夏には 65歳になり、法的には 「高齢者」 の仲間入りをするので、このライフスタイルを大きく変えるつもりはない。あとはそれを洗練するだけだ。

ただ 「高齢者」 というのは単に法的な分類に過ぎないことで、体力的には老け込んだりはしていないので、一昨年から始めた自転車生活もまだまだ続けられそうだ。最近は仕事で出かけるにしても報復 50km なら、雨でも降らない限りごく当然のごとくペダルを漕いじゃうしね。

というわけで、来年もいろいろ新しい発見だけはし続けたいと思っている。

今年 1年、ご愛読ありがとうございました。よいお年をお迎え下さい。

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