カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の982件の記事

2017/09/20

宝くじは 「夢を買う」 のだという大衆心理

世の中には 「宝くじ」 というものがあり、とくに 「年末ジャンボ」 とかいうのを毎年楽しみにしている人もいる。「そんなもの、当たりゃしないよ」 というと、「いいんだよ。宝くじというのは、『夢』 を買ってるんだから」 などと、発売元の宣伝文句を素朴に信じているようなことを言う。

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「同じ金を出すなら、夢なんかより現実を買いたい」 と、至極当然のことを言うと、「あんたは、夢がないなあ」 なんてなことをのたまう。いや、それは完全に逆だろう。私は夢ならちゃんと持っているから、金で買う必要なんかない。そっちこそまともな夢がないから、金で買おうとしているんだろうに。

その昔、知り合いの男がものすごく分厚い宝くじの束を持っていた。「どうしたのか」 と聞くと、「年末ジャンボを 10万円分買った」 と言う。なんとまあ馬鹿なことをするものかと思っていたところ、そいつは正月早々、会社の金を使い込んでいたのがバレてクビになり、その年の暮れには刑務所送りになった。

使い込んだのは、2000万円あまりだという。彼は使い込みがバレる前に年末ジャンボで使い込んだ分の金額 (あるいはそれ以上) を当てて、こっそり返そうとしていたのだろう。しかし、1000円分買えば 20万円当たるというならともかく、10万円で 2000万円がチャラになるなんてことはまずない。そんなこともわからない頭の構造だから、会社の金も平気で使い込む。

それにしても、宝くじというのは本当に当たらない。私も若い頃にほんの数回だけ買ったことがあり、1度だけ 1000円で 2万円 (だったかな?) 当たったが、すぐに 「宝くじは当たらないもの」 と悟り、それ以後は手を出したことがない。ということは、私の宝くじ収支は非常に稀なことに、少しだけ黒字のはずだが、それは 「ほんの数回」 で止めたからだろう。長く続けたら、大抵大赤字になる。

宝くじファンは 「買わなきゃ当たらない」 と言うが、「買ってもまず当たらない」 という確率論と経験則を信じようとしない。これだけ当たらないというのは、相当高い寺銭 (正式には 「控除率」 というらしい) を取っているのだろうと思っていたが、最近急に思い立って、ネットで調べてみたところ、驚異的な数字と知った。こんな具合だ。(参照

日本の地方公共団体が運営する宝くじ - 55%
スポーツ振興くじ(toto) - 50%
 (中略)
日本の公営競技 - 20%〜30%前後

「日本の公営競技」 というのは、要するに競馬や競輪のことだ。作家の安部譲二氏が 「中央競馬の寺銭はヤクザよりひどい」 みたいなことを言ったと聞いたことがあるが、それと比べても、宝くじの寺銭はひどすぎる。

要するに、宝くじを 1000円買ったら、平均して 450円しか戻ってこないということだ。たまに数万円ぐらい当たってウハウハ言ったとしても、続けているうちに半額以下しか回収できない。「夢を買う」 という宣伝文句の実体は、「はかない夢しか買えませんよ」 ということである。

宝くじを買い続ける人というのは、「自分だけは特別」 で、平均的確率とは別の次元で生きているから、「いつかは当たる」 と信じているのだろう。「自分だけは交通事故に遭わない」 などと信じるのを 「正常性の偏見 (normalcy bias)」 というが、実際は宝くじで一等賞に当たるよりも交通事故で死ぬ確率の方が高い。

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2017/09/18

私も敬われていいらしい 「敬老の日」

今日は 「敬老の日」 なのだそうだ。上天気になったが、夜明け頃までは台風 18号の影響で大変な風だったから、関東でも三連休を目一杯楽しんだ人はごく少ないだろう。それどころか、九州や四国ではかなりの被害が出ているようだ。

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ちなみに、今でも 「敬老の日」 は 9月 15日と思っている人がいるが、9月 15日は 「老人の日」 で、15日からの 1週間を 「老人週間」 といって、ということは、今も老人週間に含まれている。これは 「敬老の日」 とは別に定められているのだが、まったく別というわけでもない。この間の事情は、私の 2年前の記事に詳しい。

総務省統計局によると、今年 9月 15日時点の日本の高齢者 (65歳以上) 人口は 3515万人で、総人口比は27.7%であるらしい。「ふ〜ん」 と思った途端に、「あ、そうか、俺もこの中に入るんだ」 ということを思い出した。今年 7月 26日の誕生日を期して、私は名誉ある 「高齢者」 の称号を得たのだった (参照)。

世の中には 「高齢者」 と呼ばれるのを嫌がる人が多いが、私はまったく抵抗がない。それどころか 「高齢者」 という名目を楽しんですらいるところがあって、そのうち自分のクルマに、「もみじマークと若葉マークの 2枚貼り」 をしたいと思っているほどだ。これって、最強の交通安全ツールになるだろう (参照)。

昔から 「〜らしく」 というのが性に合わなくて (参照)、何かにつけて 「〇〇らしくない tak さん」 と言われ続けてきた。名目と実体は異なるのが当然で、歳の話も例によって 「65歳らしくない tak さん」 ってことになっている。10年も経てば 「75歳らしく」 なれるだろうか。

とりあえず今日になっても、娘たちからの 「敬老の日」 のプレゼントなんてものは、まったく届かない。家族にしても、私が 「敬老の日」 の 「敬い対象」 になったとはまだ気付いていないみたいなのだ。当人も含めて、まったく認識が甘いことである。名目で敬われるという経験をこれまでしたことがないので、少しは経験してみたいという気もするのだが。

ものの試しにネットで 「敬老の日プレゼント」 というのを検索してみたら、上の写真のような、お茶だの和菓子だのみたいなのがざくざく出てきた。うーん、こういうの、あまりいらないなあ。

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2017/09/17

大磯町の給食問題に見る 「食べ残しの集団心理」

神奈川県大磯町の中学校の学校給食で、食べ残し率が異常に高いというのが問題になっている。下のリンクは日テレのニュースへのリンクだ。確かに画像で見ると、めちゃくちゃ食べ残されている。中学生たちは質問に答えて 「おいしいとは言えない」 とか 「冷めていたり、味のバランスがダメだったり」 などと言っている。「残して当然」 と言わんばかりの口調だ (参照)。

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育ち盛りの中学生時代、常に腹を空かしていた自分の感覚からして、多少まずいぐらいで給食をあんなにも食べ残すとは信じられない。そもそも給食なんてまずいと相場が決まってるんだから、つべこべ言わずに食うしかないのである。そうでなくても日本はフード・ロスが異常に多くて、世界に対して顔向けができないほどなのだ(参照)。

私なんかつい、満足に食うものがない飢餓地域の子たちに思いを馳せてしまうので、せっかくの食べ物を残して捨てるなんて論外と思っていて、とにかく米粒 1つ残さずきれいに完食する主義なのである。その方が、自分と他人を問わず、食器を洗うにも楽だし。(参照 1参照 2

というわけで、育ち盛り、食い盛りのはずの中学生が給食を食べ残すなんて、「まずい」 という表面上の理由とは別の事情があるはずと思っていたところ、昨日、「昨年 1月以降、虫や髪の毛、ビニール片などの異物が計約 100回見つかっていたことが町の調査でわかった」 と報じられた (参照)。これで 「食べ残し問題」 の底流が少し見えてきた。

生徒たちの 「食欲減退」 の底にある要因は、多分この 「異物混入問題」 だろう。実はこれ、大多数の生徒にとっては 「事実」 というより 「それらしき伝聞情報」 に過ぎないのだろうが (「計約 100回」 なんていうキリがいいようなテキトーなような数字からして、ちょっとアヤシいし)、多感な年頃の中学生のことだから、見るからにチープなプラスチック製弁当箱の中身に、必要以上の不信感を抱くのも不思議ではない。

さらに、「みんな残してるのに、自分だけ全部食べるのは恥ずかしい」 なんていうメンタリティもある。「そんなの考えすぎ」 という人もいるだろうが、これは、とくにこの年頃の子たちには、絶対に 「大あり」 だ。もしかしたら、これが一番大きなファクターかもしれないとまで、私は疑っている。もはや 「食べ残しの集団心理」 と呼んでもいい現象だ。

大磯町としては生徒たちの健康を考えて、「塩分を控え、細菌繁殖を抑える温度で配送している」 というのだが、こんなにまで妙な集団心理が発生しやすい給食では、配慮が完全に裏目に出ている。一番の問題は、「作ってくれた人たちに感謝して、ありがたく戴く」 という、食事で最も大切な要素を、行政も生徒たちもすっかり忘れてしまっているように思われることだ。私は食い物に関してはかなりストイックなのである。

私としては、そんな弁当でも気にせずきちんと完食するタイプの子 (クラスで 3人しかいないらしいが) を、「見所あるやつ」 と褒めたいと思う。

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2017/09/08

そろそろ捕鯨を止めようじゃないか

先月末、「反捕鯨団体シー・シェパード、今年は妨害を中止」 というニュースが報じられた。「日本の監視技術に太刀打ちできないのが中止の理由」 ということだった。

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シー・シェパードは、「日本は軍事監視技術を使い、衛星からリアルタイムでシー・シェパードの船の動きを見ている。もし彼らが我々の船の位置をいつでも知ることができれば、簡単に我々を避けることができる」 と述べたという。へえ、知らなかった。日本の南氷洋捕鯨は、そんなにもハイテクを駆使するコストをかけてまで継続していたのか。こりゃ完全に 「お上の御用」 だね。

私は数年前までは捕鯨そのものには反対していなかった。「日本文化の一部」 と認識していたためである。また、反捕鯨団体の活動は 「偏狭な動物保護」 なのではないかという疑問もあった (参照)。しかし最近になって考えを変えた。やっぱり捕鯨なんてしなくていい。というか、止める方向に進むべきだろう。

そもそも 「捕鯨は日本文化の一部」 というのも、和歌山県の 「イルカ漁」 などがあるとはいえ、南氷洋まで出て行って捕鯨をするというのまで 「日本文化の一部」 とは到底言いがたい。それに、今の日本人はクジラ肉なんて食わない。食わなくても栄養には困らない。

それに私はここ数年、「肉食」 を避けている。絶対に食わないというわけではなく、鶏肉はほんのたまに食うし、牛や豚も、会食などで出てきてしまったらつべこべ言う方が面倒なので仕方なく食うが、自分で選んでまで食うということはまったくなくなった。

だから昔は大好きだったラーメンや餃子なども、肉が付きものなのでここ数年食っていない。ましてや強いて探さなければ口にはいらない鯨肉となったら、ここ 30年以上食ってないし、探してまで食おうという気もない。

個人的には食いたくもないし、日本人全体にしても、少なくともクジラを食わなくても困らない。そもそも一般的には食う機会すら滅多になくなってしまっても、別に飢えてしまうわけでもなんでもないクジラを、世界中からの非難を浴びながら、わざわざ南氷洋まで出かけていって捕ってくるのは、私の感覚では 「面倒でしょうがない」 ってことになる。

ましてや 「軍事監視技術」 なんてものまで使ってまで継続しなければならないものとは、到底思われないのである。ここまで来たら、裏にきっと何かある。何しろ 「お上の御用」 的な臭いがプンプンする。

必要があるとも思われない 「捕鯨」 という行為を、日本はなぜ継続しているのかという問題を、かなりクールな目で説いたテキストがある。BBC の Rupert Wingfield-Hayes という人が書いた 「日本とクジラ なぜ日本は捕鯨をするのか」 (原文は "Japan and the whale") という記事だ。

「日本が捕鯨を続ける決意が固いのは、捕鯨関係者が多い選挙区から選出された数人の国会議員と、予算を失いたくない数百人の官僚たちのせいと言えるかもしれないのだ」 という文で結ばれるこの記事を読めば、少なくとも捕鯨を続けることに積極的な意味がないと、客観的にも理解される。

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2017/09/07

手書きの重要性

現代は PC などのデジタル機器で作成した文書が全盛で、このブログもほとんどは MacBook Pro (以前は Windows マシンだったが) のキーボードを叩いて作成している。世の中の会議や研修会と称する集まりで、ごく稀に手書きのレジュメなんかが配布されることがあるが、結構上手な字でも読みにくく感じて、「人に読ませるテキストは、PC で打ってよね」 と言いたくなってしまう。

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「ああ、若いうちに快速でタッチ・タイピングができる技術を身につけておいてよかった」 と、しみじみ思う。一時期はメモを取るにもキーボードを使っていて、サラリーマンをしていた頃は、会議終了後 1分以内に議事録をプリントして、参加者に持ち帰ってもらえるというのを 「ウリ」 にしていたこともある。

「ワープロ専用機」 というのが世に出始めた頃、業界の大先輩が定年を迎えるに当たって、最新型のワープロを購入し、「定年後はキーボードを打ちまくって、脳が衰えないようにする。指先を使うと、脳が活性化するというからね」 と話していたのを思い出す。

しかし実は、キーボードを使ってテキストを入力するという作業では、脳はそんなに活性化しないんだそうだ。手書きの方がずっと頭が働くらしい。ウェブを検索すると、それについて論じた記事がいくつも見つかる。その中から 2つの記事へのリンクを挙げておこう。

あなどれない「手書き」の学習効果  「書く」というプロセスが情報を記憶に深く焼き付ける

手書きとキーボード、脳の働きに違い?

上記の 2つの記事はいずれも、キーボード入力よりも手書きの方が脳を活性化させ、学習効果が高いとしている。米国の大学での研究では、「パソコンに打ち込むより、手書きでノートを取る学生の方が総じて成績が良い」 と報告されており、少なくとも手書きの方がずっと記憶に残りやすいらしい。

これを知って私は 「メモは手書きに切り替えてよかった!」 と安心している。20年ぐらい前に、どういうきっかけだったか忘れたが、メモを取るにあたってはキーボードを一切止めて、手書きに切り替えたのだ。幸いなことに私は業界紙の記者をしていたこともあって、手書きもかなり速い。字はメチャクチャだが。

手書きでメモした内容をもとにして、PC に向って記事原稿にするという作業を考えると、キーボードで打ち込んだものをカット・アンド・ペーストを繰り返しつつ編集していくよりも、深みのある原稿が書けるという実感がある。手書きという作業を通じて、自分の中で内容が消化されているんだろうと思う。

手書きメモに問題があるとすれば、速く書きすぎてぐちゃぐちゃになってしまい、自分の字が自分で判読できなくなることがあるということぐらいだろう。最近は手書きはメモにしか使わないので、きちんとした楷書で書くことができない体になってしまった。

「tak さんの字は読めない」 とよく言われるが、自分で読めないことがあるのだから、他人に読みにくいのは当然だろう。これでは昨日の記事で触れた看板をどうこう言えないかも知れないが、まあ、基本的にメモは他人に読ませるものじゃないからね。

最近はノートにメモを取ったり、考えを整理したりする時には、3色ボールペンで、黒、青、赤の文字や印を使い分けている。重要事項を赤い丸で囲んだり、線でつないで考えをまとめたりするのは、PC でもできないことはないが、手書きの手軽さとダイナミズムには遠く及ばない。

タブレットにスタイラスペンで書き付けても、手書き同様の効果が期待できるといわれるが、紙にボールペンで書く方がしっくりくる。これは慣れの問題あるだろうが、とりあえず、そこまでタブレットに頼ろうという気はない。

そんなわけで、最近は必需品のボールペンをどこかに置き忘れても平気なように、バッグの中に常に 4〜5本の 3色ボールペンを忍ばせている。オススメはゼブラの "Clip-on Slim" という定番品だ。ちょうどいい太さで書きやすいし、クリップが破損しにくい。

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2017/09/06

何と書いてあるか読めない看板

先日は 「キャッシュ・アンド・キャリー タジマヤ」 のラジオ CM という、「何と言ってるかわからない CM」 について書いたが、一方で 「何と書いてあるかわからない看板」 というのもある。その一つが、時々通る丁字路の交差点にあり、赤信号で停まっている時に真正面近くに見えて、かなりモヤモヤしていたのである。

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いや、実は読み方の答えはわかる。というか、下の方にローマ字で "ENYA" と書いてあるので、「えんや」 という店なのだろうということまでは想像がつく。しかし、この大きなロゴは、なんだか桜の花びらが散らばったようなイメージで、「無理矢理読んだら 『くん'ロ人ヒや』 かなあ?」 なんて思うばかりだ。どんなウルトラ C を使えば 「えんや」 と読めるのか、さっぱりわからなかったのである。

しかし最近、白内障の手術をして遠くがはっきり見えるようになったおかげで、長年の疑問が解決した。看板の下の方に小さく 「炭火焼肉弁当 炎や」 と書いてあるのが判読できたのである。そうか、このわけのわからないのは 「炎」 という字のつもりだったのか! 「炎や」 で 「えんや」 だったのか!

と、驚いたのが、先月の終わり頃だった。ところが今月初めに通りかかった時には、それをすっかり忘れてしまっていて、「ありゃ、一体何と読むんだっけ?」 と焦ってしまった。その時は赤信号でずっと後ろの方に停まっていて、下の方の小さな字が判別できなかったのだ。

恐ろしいことに、一度は 「なんだ、そうか!」 と納得したはずの読み方が思い出せないのである。これ、年のせいだとしたらショックだなあ。青信号になってそろそろと前進しながら、ようやく小さな字を読むことができて、「そうそう、『炎や』 だったんだよね」 と思い出した。

しかしことほど左様に、この看板の字は読めない。これでは看板として十分に機能しているとは言えないだろう。あるいは、「読めない看板」 ということで印象づける戦略だとしたら、肉を食わない私なんかが取り上げるほどだから、成功と言えるかもしれない。

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2017/09/01

本当に 「結果がすべて」 なのか?

昨日は "「動機が正しくても……」 を身を以て示した麻生さん" という記事を書いた。「政治家は結果がすべて」 ということを強調したいという動機は彼なりに正しかったかもしれないが、方法論と論理展開がメチャクチャだったため、結果的に完全に逆効果となり、まさに 「いくら動機が正しくてもダメだ」 という主張を、身を以て立証する形となったというストーリーである。

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するとこの記事に、山辺響さんからとても鋭いコメントが寄せられた。次のようなものだ。

「結果を出すことがすべてであることを強調する」 ならば、どちらかといえば、「動機は不純だったけど結果が良かったので高く評価されている政治家」 を例に挙げた方がよかったような気がします。

ええと、誰がいるかな……。

これ、麻生さんの論理からすればまさにその通りと言うべき指摘で、「ヒトラーの動機は正しかった」 みたいな受け取られ方をされるような話の展開より、ずっと明快な趣旨を表現できたはずだ。なるほど、なるほど。私もそこまでは考えが至らなかった。

ただ、山辺響さんも最後には 「ええと、誰がいるかな……」 となっちゃってるように、実際に例を挙げようとすると、ちょっとゴニョゴニョにならざるを得ない。もし挙げちゃったりしたら、「○○の業績は高く評価されてるけど、その動機は不純なものだった」 という逆の印象で受け止められて、遺族に名誉毀損で訴えられそうだ。

それを避けるために 「実例は控えるが……」 なんてことにすると、こんどは 「結果オーライのご都合主義」 なんてことで炎上しちゃうだろう。ここまで考えると、「結果がすべて」 というテーゼ自体に問題ありと言わざるを得ない。それで、昨日の記事でも慎重に次のような書き方をしておいた。

異論はあるだろうが、「政治家にとって結果を出すことがすべてであることを強調する」 というテーゼを、ここではとりあえず仮に 「正しい」 としておこう。

そしてそれを強調したいというのが、例の発言の 「動機」 であるとみられるわけだが、いくらその 「動機」 が正しくても、結果として周囲からこんなにまで責められてしまっては、まったくの逆効果だった。なにしろ 「政治家にとってのすべて」 である 「結果」 が出せなかったわけだからね。

とまあ、昨日は 「仮に 『正しい』 としておこう」 と書いたが、実は私自身は 「結果がすべて」 なんて思っていなくて、それよりも 「プロセスが大切」 という考えである。そもそも、今日の結果は明日に向けたプロセスなのだから、「結果がすべて」 という考えはあまりにも短絡的だ。

いずれにしても世間では、麻生批判も麻生擁護も、「ヒトラー」 という 「言葉のアヤ (と言うにはちょっと重すぎるかもしれないが)」 に目を奪われすぎて、本質的議論に至ってないよね。

私としては、批判のための批判や擁護のための擁護には、付き合う気がまったくないので、よろしく。それにしても、どうしてこんなに美味しいネタに、面白くもなんともないステロタイプの反応ばかりするんだろう。

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2017/08/29

今回の 「J アラート」 で、いろいろ考えた

早朝から突然スマホがピロピロ鳴り出し、地域の有線放送もなにやらヒュンヒュン言い出して、何かと思えば 「北朝鮮がミサイルを発射」 したと言う。これが 「J アラート」 ってやつらしい。「急いで頑丈な建物や地下に避難しろ」 というのだが、我が家の近くにはそんな建物なんてない。これで実際に避難した人って、本当にいるんだろうか。結果として 「大して役に立たないシステム」 だとわかった。

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というわけで、私は 「へえ、そりゃヤバいじゃん」 とは思いつつも、椅子から立ち上がりもせず、iPhone で Radiko を起動させて情報確認している間に、ミサイルは日本上空を飛び越えて太平洋に落下していた。そもそも Radiko は実際のラジオより遅れて受信されると知っていながら、そんな呑気なことをするのだから、本当に差し迫った気持ちにはならなかったということだ。

ただ、この騒動を通じて考えたことがいくつかある。脈絡はなくなるが、ちょっと挙げてみよう。断っておくが、ミサイルが飛んできたからといってことさらに深刻なことなんか考えなかったので、その点はよろしく。

まず、「どうせ役に立たない」 とわかっていた J アラートを、今回初めて発動させた意味って、何なんだろうということだ。考えられるのは、政府は 「とりあえず、1度使ってみよう」 と考えたのではなかろうか。経験知はやってみて初めて得られるからね。発動してもそう簡単にパニックになることはないとわかっただけでも、収穫なのかもしれない。

もう一つは、国民の危機意識を煽って、政府批判に傾いた世論の矛先を、今ささらながらの感はあるが、北朝鮮に向けようとしたのだろう。これは十分にあり得る。外的危機が差し迫れば、国内の政治批判どころではなくなるし、それどころか国防費増強の絶好のプロパガンダにもなる。

さらにはっきりわかったのは、世の 「ネトウヨ」 と呼ばれる種族の大多数は、朝に弱いらしいということだ。朝の 7時頃に Twetter を立ち上げて 「ミサイル」 で検索してみても、目立つのはニュースをシェアしただけの誰でも知ってる話ばかりで、ネトウヨ的な書き込みはほとんど見当たらなかった。

ネトウヨたちとしては、口汚く北朝鮮を非難する書き込みをするには、まだ頭が覚醒していなかったのだろう。あるいはぐっすり寝込んでいて、J アラートに気付かなかった可能性だってある。いずれにしても彼らのほとんどは夜型人間であるらしい。

それから、「周囲に不審な落下物を発見したら、警察や消防署に連絡してください」 という呼びかけが発せられたことについてである。私は当初、「そんな呼びかけをしたら、『玄関の前に変なものが落ちてました』 なんていう見当外れな通報が殺到するぞ」 なんて思ったが、少なくとも朝のうちはそんなことはなかったようだ。国民の常識はそこまで落ちていなかったということで安心した。

最後にちょっとした 「言葉の誤用ネタ」 だが、某政治家 (名前忘れた) が朝のラジオ番組に出て今回の騒動に激高してか、「決して許されざることではない!」 と口走ったのには、コケてしまった。怒りの気持ちが強すぎて、つい二重否定 (つまり結果として肯定) になってしまったのかもしれないが、言ってしまってからも自分では気付かなかったようで、そのまま平然と話を続けていた。

これに限らず、政治家には日本語の不自由な人が案外多い。こんなことから失言問題にもつながるのかもしれない。なにしろ、つい変なことを口走っても、自分で気持ち悪くなったりしないみたいなので。

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2017/08/18

「モリリン株式会社」 という社名のアクセント

高速道路を運転しながらラジオを聞きっぱなしでいると、時々ラジオショッピングで 「モリリンの寝具」 や 「モリリンのタオルセット」 などが紹介されるのを聞くことがある。「モリリン」 という会社は繊維業界で長く仕事をしていた私にはお馴染みの会社で、しかも江戸時代初期から続くという老舗である。

ただ、テレビショッピングやラジオショッピングの音声情報として 「モリリン」 という名前を聞くと、ちょっとガクっときてしまったりする。というのは、繊維業界では 「モリリン」 の名称はどこにもアクセントをおかず、平板で呼ばれるのが普通だが、テレビやラジオの MC は上の動画にあるように、初めの 「モ」 にアクセントを置いて発音される。『ドラゴンボール』 に出てくる 「クリリン」 と同じアクセントになってしまうのだ。

「はあ〜」 とため息をつきながら、私は思う。「モリリン (平板型アクセント) も、最近では 『モリリン』 (『クリリン型アクセント』) なんて、どこか外国の会社みたいな感じで呼ばれるようになってしまったのか。世の中、変わってしまったのだなあ」

モリリン株式会社の社名は、Wikipedia にあるように (参照)、江戸時代の創業当時の名称だった 「森林右衛門商店」 を由来としているという。読み方はもちろん 「しんりんえもん」 じゃなく、「森」 (もり) が苗字で 「林右衛門」 (りんえもん) が名前だから、略して 「もりりん」 なのだ。

そして 「榎本健一」 が 「エノケン」 と呼ばれ、「マツモトキヨシ」 が 「マツキヨ」、「木村拓哉」 が 「キムタク」 と呼ばれるように、少なくとも東日本では姓名を縮めて呼ぶ時は平板型のアクセントになると相場が決まっている。だから 「モリリン」 も、業界では平板型で呼ばれていた。

ただしかし、西日本ではそうとばかりも言い切れないと思い当たった。モリリンは愛知県一宮市に本社を置く会社なのだが、そういえばあの辺りから先の西日本の人たちは 「平板型」 ではなく、またちょっと変わったアクセントを置いていたような気もするなあと思い、いろいろ検索してみたら、24年前の TVCM でその痕跡を発見した。

なんと、「モ」 の次の 「リ」 にアクセントが置かれてる。「手間賃」 「果樹林」 と同じアクセントだ。もしかして、これがオリジナル・アクセントなのか、それとも関西型なのか。いずれにしても、「クリリン型」 の 「モリリン」 と同じ会社とは思われないほどである。

とにかく、こうして時代は変わるのである。あるいはカタカナの 「モリリン」 にした時から、こうなることは運命づけられていたのかもしれない。でも漢字の 「森林」 では 「しんりん」 と呼ばれちゃっただろうしね。

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2017/08/17

「物言わぬ人たち」 の、電車内の価値観

「電車の中でスマホを操作しっぱなしは、いかがなものか」 なんてよく言われるが、私は 「そんなどうでもいいこと、放っといてくれ」 と思う。車内で新聞を広げるよりずっと迷惑にならないし、そんなことより、もっと大事なことがいくらでもあるだろう。

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ちなみに私が地方出張で電車移動する時なんて、まさにずっとスマホをのぞき込んでいる。何しろ初めて乗る電車というのが多いし、地方は本数が少ないので、降車駅や乗り換えを間違えたら大変なことになる。「乗換案内」 アプリを駆使しなければならないのだ。さらに訪問先の情報もすべてスマホに保存してあるので、到着前にしっかりと頭に入れておかなければならない。

昔だったら手帳にメモするか、あるいは A4 サイズの用紙にプリントアウトしたものをクリアフォルダーにびっしりつめて、それとにらめっこしていたものだが、最近はスマホがあれば紙はいらないのでありがたい。何しろ、紙って案外重いから、できるだけ減らしたいではないか。

ところが電車内で A4 用紙の束を必死に読んでいれば 「仕事熱心な人」 と思ってもらえるが、スマホをのぞき込んでいるのは、「暗くてうっとうしいやつ」 ということになってしまうらしい。電車内というのは、「紙媒体は OK だが スマホは No Good」 という 「物言わぬ人たち」 の価値感が実効支配する空間であるらしい。

話は変わるが、先日、出張から帰って来て、秋葉原から 「つくばエクスプレス」 に乗った。日はすっかり暮れて、勤め帰りのオッさんが多い。私は運良く座ることができたが、出発する頃には、車内の座席はすべて埋まり、立っている人もいた。

そんな中、ドアをはさんで離れた位置に、1人の中年女性がつり革に掴まって立っていた。それ自体はどうということもないことなのだが、問題は彼女の背負ったリュックである。ファスナーが大きく開きっぱなしで、中からモノがこぼれ落ちそうなのだ。

「リュックが開きっぱなしですよ」 と一声かけてあげようかと思ったが、私からはちょっと距離がありすぎて、小さな声で注意して上げるには席を立ち、10歩ぐらい歩かなければならない。それならわざわざ私が言わなくても、近くの人が注意してあげるだろう。

ところが近くにいる人たちは、誰も声をかけない。中身がこぼれ落ちそうなリュックがよほど気になるらしく、皆がちらちら眺めてはいるのだが、アクションをとる者が一人もいないのだ。私には信じられない光景である。まあ、そもそも空いているわけでもない電車内でリュック背負ったままというオバさん自身も、「ちょっとね」 ということではあるのだが。

よほど席を立って彼女の近くまで行き、一声かけてあげようかと思った時に、彼女の目の前の座席が空いた。私は 「よかった。座る時にリュックを降ろせば、いやでも気付く」 と安心したのだが、彼女はなんとリュックを背負ったままどっかりと座ってしまった。そして次の駅ですっくと立ち上がり、そのまま降りて行ったのである。その後どうなったかは、知らない。

電車内でスマホを操作する人を陰で非難する人というのは、もしかしたら、リュックの口からモノがこぼれそうになっているオバさんに、一言注意してあげる親切さも持ち合わせない 「物言わぬ人たち」 と、かなり重なるんじゃあるまいか。確たる根拠はないのだが、私はこの夜、直感的にそう思ってしまった。

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