カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の941件の記事

2017/04/25

休みたい!

いやはや疲れ気味、というより、正真正銘疲れている。さすがに還暦越えて休日もなくあちこち飛び回りすぎると、疲れが溜まってしまうようだ。

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今月 17日に 「春はとにかく眠い Part II」 という記事を書いている。事実、不規則な生活が続いて睡眠不足気味だった。その眠いところにもってきて、19日から 2泊 3日で 2カ所を廻る強行軍の出張に突入した。そして帰ってみると、ぐったりと疲れているのである。

これほどまでの 「疲れた感」は、生まれて初めてかも知れない。出張から帰った翌日は、疲労と筋肉痛で驚いたが、「まあ、1日経てば回復するさ」 と思っていた。しかし翌々日になると筋肉痛はますますひどくなった。翌々日に筋肉痛というのは、年を取った証拠なんて言われるが、まあ、当人としてもショックである。

とにかく足が重いのである。できれば 1日しっかりと休養を取りたいが、スケジュールが詰まっていてそれが許されない。徐々に疲れを抜いていくしかない。

季節の変わり目に、体力を過信してハードワークを続けると、結構こたえる年になってしまったようなので、これからは気をつけようと思う。とにかく 1日でいいから、何もしないでゴロゴロできる日がほしいと思うのだが、明日から 1泊 2日が 3回連続で続く。

自分で組んだスケジュールなのだから文句を言わずにこなすしかないが、ああ、考えるだに恐ろしい。

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2017/04/24

A3 サイズ対応の FAX 兼用プリンターの使用を止めた

今月 18日の記事で書いたように、デスクサイドにあった馬鹿でかい FAX を取り外した。おかげでデスク回りに余裕ができた。これで、使用プリンターは Brother のモノクロ・レーザー・プリンター と、カラー印刷用の Epson インクジェット・プリンター (スキャナ兼用) の 2台だけになった。いずれも A4 サイズまでの対応である。

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取り外したのは Brother の FAX 兼用インクジェット・プリンターで、A3 サイズまでの印刷と受発信が可能なタイプである。なんでまた、こんなに大きなものを設置していたのかといえば、かつては必要だったからなのである。

まず、FAX 機としてだが、B4 サイズ以上の書類のやり取りが、昔は実際にあった。通常の A4 サイズまでのマシンだと、送り手が B4 サイズ以上のものを送った場合、縮小印刷で対応する。しかし縮小されてしまうと、字が小さすぎて読めなかったりする場合もあり、業務で使う場合には A3 サイズの受発信可能なタイプが必要だった。

さらにプリンターとしても、袋とじ印刷を行う場合は A3、B4 サイズの対応が必要だった。役所に提出する書類は、この袋とじというのが求められたのである。袋とじで A4 サイズにするには、その倍の A3 サイズで印刷しなければならない。

しかし近頃は、役所に提出する書類を作るなんて仕事からは遠ざかった。はっきり言って、そんな仕事はしたくない。役人とつきあうなんて、もうまっぴらだ。

さらに思い起こしてみると、この 2年ぐらい FAX の受発信そのものをしたことがない。すべてメールで済ませる世の中になった。今の世の中で、FAX での情報のやり取りにしか対応できない相手とは、仕事したくない。よって、FAX 機も必要ない。

この 21世紀の世の中になっても、芸能人の結婚や離婚の発表は、マスコミ各社に FAX で送付されるらしい。妙な風習である (参照)。私はそんな世界とは関係がないから、とっくに FAX 機を取り外してもいいはずなのだった。今頃になって取り外すのは遅いぐらいだと気付いた。

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2017/04/22

将来の 「夢」 を語ったことがない

よく 「夢を語れ」 とか言うが、私はそれについて一度もピンときたことがない。「青春時代に、友と夢を語り合った」 などと思い出話をする人もいるが、私にはそんな経験がない。

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実感としては、「夢を語るほど暇じゃなかった」 というのが本音だ。若い頃からいろいろな文化活動に関わったりしていて、とにかく目の前にある 「おもしろいこと」 に取り組むのに没頭していた。先のことまで考える暇なんてなかったのである。

「その関わっていた分野を、自分の 『夢』 とはしなかったのか?」 と聞かれることもあるが、「そんなことを 『夢』 としていいなんて思わなかった」 と言うしかない。熱しやすく冷めやすかったのである。一時的に夢中になっても、それに人生賭けるというほどの発想はなかった。もっと夢中になれるものが出てきたら、いつでも乗り換えるつもりでいた。

それに、何しろ情報不足だったのである。人生を賭けてもいいと思えるものを探してはいたような気がするが、いつも見つからなかった。なにしろ高度経済成長期だったので、世の中がどんどん変わる。そのどんどん変わる世の中をキャッチアップするだけの情報基盤が、その当時はなかった。

田舎育ちの若造には、何もわかっていなかった。何もわからないで 「夢」 を語るほどの無鉄砲でもなかったのである。だから、「今」 しか見ていなかった。とにかく目の前に現れたものに取り組むだけで精一杯だった。そのままずっと、目の前のものとじゃれ合い、取っ組み合いしながら、還暦を過ぎてしまった。

そしてここまで来ると、過ぎ去ったすべてが 「夢」 のような気がするのである。私にとって、「夢」 は未来に置いて語るものではなく、過去として振り返るもののようなのだ。そして今でも、目の前のものとガチンコで取り組みっぱなしでいるというのが、我ながらおもしろい。

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2017/04/21

都会への親和性を失ってしまった

讃岐と京都への二泊三日強行軍出張を終え、夜も更けてから帰宅した。歩きの行程も長く、荷物もかなりの重量だったので、体力を使う旅だった。新幹線で東京に降り立ち、つくばエクスプレスへの乗り換えのために秋葉原の街に出た時には、そのあまりの雑踏に 「うわぁ、こりゃダメだ!」 と思った。

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関西では案外すいすい移動できたのに、東京の秋葉原の街が、もうダメなのである。大学入学以来、40年も東京の空気を吸い続けた自分が信じられない。もう東京では暮らせない体になってしまったことを、しみじみと実感する。

思えば、高校を出て 18歳で、単身上京したのである。田舎の街を出て、東京で暮らしたくてたまらなかったのである。そして30歳手前まで都内に生息し、それから茨城県のつくばの地に家を買って移り住んだ。しかしそれからもずっと、鉄道の定期券をもって都心に通い続けたのである。

ところが今となっては、自分でも信じられないほど東京という都会への親和性を失ってしまった。今回大急ぎで旅した四国と関西の街では、土地の人たちと濃密に接してもあんなにしっくり来ていたのに。

自分は東京という都会からは卒業したのだと思う。もう東京は、乗り継ぎか、美術館や劇場に行くという用事しかない。都会は人間の暮らすところではなく、時々出かければいいところである。

空があり、土があり、山があり、川の流れる土地に住居を構えて、本当によかったと思っている。

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2017/04/20

禁煙を 「健康視点」 で語るのは不毛だ

Biglobe ニュースが、"スモーカーに甘い自民党に言いたい 「他人の受動喫煙で病気になってたまるか!」" という 「週刊女性 Prime」 の記事を紹介している。この問題に関しては私も、今月 15日の 「飲食店内禁煙に、自民党内で反発が大きいらしい」 という記事で触れている。

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まずはっきりさせておこう。私自身は飲食店内禁煙に関して、「健康視点」 というまどろっこしい話をキーワードにしていない。早く言えば、「臭くて、おえっとなるから煙草の煙が漂う中には入りたくない」 ということに尽きるのである。理屈で 「健康に悪い」 だのなんだのいうよりも、とにかく、臭くて生理的に耐えられないということが第一なのだ。

上述の Biglobe ニュースでも、次のように日本たばこ産業 (JT) の見解を一応紹介する。もっとも 「お笑いぐさの見解」 として紹介しているようなんだけどね。

日本たばこ産業 (JT) は 「私たちは受動喫煙というのは喫煙しない人の迷惑になるという点で考える。受動喫煙が身体の害になるという医学的な見解は十分ではない」 (広報) とまでも言い切る。

私としても、この見解は確かにお笑いぐさだとは思うけれど、「受動喫煙というのは喫煙しない人の迷惑になるという点で考える」 という点に関しては賛同する。ただ、彼らの 「迷惑さ加減の考え方」 に関しては、「まったく不十分」 と思うのだが。

で、さらに、iRONNNA というサイトで、漫画家の黒鉄ヒロシ氏の "タバコが健康に悪いかどうかという議論は 「もはや、これまで!」" という記事を見つけた。これは 「愛煙家通信」 No.8 (2014 冬号) に紹介されたものというから、結構古いといえば古くて、まあ、典型的な喫煙者の立場での主張である。

彼は 「喫煙が健康に悪いというのは、ヒトラーの誤解から始まっている」 と主張している。要するに、確固たる根拠はないというのだ。だから 「健康に悪いから煙草を止めろ」 というのは、ナンセンスという議論である。あの 『バカの壁』 の養老孟司氏も 「禁煙はナチズム」 「喫煙の害に根拠なし」 と主張していて、これは喫煙者の言い訳の主流であるらしい。

なんとまあ、要するに近年は喫煙者までが煙草を 「健康」 のキーワードで語り始めているのである。もちろん、禁煙論者とは裏返しの視点ではあるのだが、要するに 「そんなに健康に悪いってわけじゃないんだから、吸ってもいいじゃないか。ごじゃごじゃ言わんといてくれ」 というわけだ。

これは、ことの本質をまったくわかっていない主張である。だからずっと言ってんじゃん! 煙草が嫌なのは、健康云々より、まずとりあえず 「臭くてたまらないから」 だって。喫煙者は自分がいかに不愉快な臭いを垂れ流しているか、全然自覚していないようなのだ。

イヤフォンから垂れ流される大ボリュームの音楽の 「シャカシャカ音」 を迷惑がる人が、自分の垂れ流すタバコ臭さに無頓着なのは、喫煙習慣のせいで鼻がバカになっているからである。耳がバカになっているのと同じで、まさに 「バカの壁」 を構築しているようなのだ。

ここまで来ると、「オメー、臭えんだよ!」 とはっきり言ってやらなければ、わからないんじゃなかろうかとまで思っている。「みんなで一緒にバカになれば大丈夫」 というのは、バカそのもののゴーマンな主張である。

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2017/04/17

春はとにかく眠い Part Ⅱ

今日、仕事で都内にでかけた。守谷駅からつくばエクスプレスに乗り、秋葉原で地下鉄日比谷線に乗り換えるルートだったが、座席に座るとつい眠り込んでしまい、ふと気付いた時には終点の秋葉原から折り返して発車してしまうところだった。ギリギリで飛び降りることができたが、とにかく春は眠いのである。

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こんなに眠いのは年を取ったせいかと思っていたが、思い立って自分のブログ記事を 「眠い」 というキーワードで検索してみると、出てくるわ、出てくるわ、とくに春と秋に多い。昔から季節の変わり目になると、とにかく眠くなる性分のようなのだ。

一番古いところでは 2006年 3月 16日付の 「春はとにかく眠い」 というのがあり、「電車で座席に座ってしまうと、覚醒は 5分と続かない。ちょっと目を閉じただけで、次の瞬間には眠ってしまっている」 と書いている。昨日や今日の話じゃない。こんな昔から眠たがっていたのだから、まんざら年のせいというわけではないらしい。

ちょっと安心したので、堂々と眠たがることにしようと思った次第である。とにかく眠いので、今日のところはこれにて失礼。

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2017/04/11

指導要領での 「銃剣道」 の扱い

先月末に公示された小中学校の新しい学習指導要領で、中学校で教える武道の例に 「銃剣道」 が加わったことで騒々しい議論になっている。あくまで一般的な話としては、「銃剣道」 というのは競技を前提とした 「武道」 であり、実践を想定した 「銃剣術」 とは一線を画す。

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中学校で 「銃剣道」 を教えるのに反対する人の中には、いかにも子供たちに 「戦争での殺し合い」 を教えるもののように言っている人もいるが、それは明らかに正しくない。「剣道」 が刀による斬り合いを教えるのではないのと同様である。

武道、格闘技大好きな私としては、ビデオで銃剣道を眺めると、正直言って 「おもしろそうだな」 と思ってしまう。還暦を過ぎて新たに習い始めようという気にはならないが、若い頃に身近にいい指導者がいたら、習っていたかもしれない。

ただ、現実的には銃剣道の指導者の数はものすごく限られているだろうから、いくら指導要領に載ったとしても、現場で採用されることは極々少なく、影響はなきに等しいとみて間違いない。実際に銃剣道の指導ができるのは、自衛隊出身者ぐらいのものだろうと思う。

ただ、今回ことさらに指導要領に載ったのは、将来的に自衛隊出身者の仕事が確保されるかも知れないというのが、実は大きいんじゃないかと思う。自衛隊で学んだ銃剣道が世間に受け入れられれば、学校での指導者として雇ってもらえるかもしれないし、うまく行けば町道場なんかも開けるかもしれない。

その意味で、今回の指導要領改定は自衛隊の声なき声を 「ソンタク」 したものなんじゃないかとも思われる。文科省は 「あくまで表記に加えただけで、授業で必ず銃剣道をしなくてはいけないものではない」 としているが、いずれにしても安倍政権は 「ソンタク好き」 な上に、ずいぶん自衛隊フレンドリーな印象を受ける。

かくいう私も、自衛隊に友人や知り合いが結構いて、はっきり言って警察よりは自衛隊の方が好きだったりするのだが。安倍政権の政策には毎度のごとく 「そりゃ、違うだろ」 と言いたくなってしまうのだよね。

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2017/04/09

「ふりかけ」 を消化する悪戦苦闘が終わった

日本の食文化の中には 「ふりかけ」 と称するカテゴリーがあって、これがまた、普段はちっとも目立たないようでいながら、いざとなるとかなり強力な存在感を示す。その存在感は時々圧倒的なまでの勢いで迫ってきて、こっちはどうしていいかわからず、うろたえてしまうほどなのだ。

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近頃、この 「ふりかけ」 の頂き物が連続してしまい、どうしていいか困ってしまったのである。最初は知り合いの葬式に参列した際の引き出物、いや、葬式だから 「香典返し」 というのかな? とにかくお約束みたいなペーパーバッグの中のあまり重量のないボール紙箱のセットの中にあった。

その箱の中には、お茶と 「ふりかけ」 のセットが入っていたのである。私としてはお茶は結構飲むからありがたいが、「ふりかけ」 なんてものをもらっても、どうしていいかわからない。

さらにその数週間後、いきさつの説明は省くが、上の写真のような 「超豪華ふりかけ詰め合わせセット」 が、こちらの意思とは無関係に手に入ってしまった。これはもう、葬式の香典返しの比ではないボリュームで、当初はどう対応していいのか見当もつかなった。

わが家は今、子供たちがそれぞれ独立し、妻と 2人暮らしである。さらにメシの上に 「ふりかけ」 をパラパラっとやる食習慣が皆無だ。米のメシの弁当を持ち歩くことでもあれば、なんとか消化できるのかもしれないが、その習慣も必要性もない。早く言えば、この 「ふりかけ」 を 「ふりかけ」 として食うというモチベーションが皆無なのだ。

近所に配るという解決策も頭に浮かんだが、わが家の周囲はじいさんばあさんの所帯、あるいはそのどちらかの単身所帯ばかりになってしまったし、「ふりかけ」 を向こう三軒両隣におすそ分けなんてしまくるのも、違和感そのものである。

かと言って捨ててしまうというのは、ただでさえ食料廃棄の多い日本の世の中で、私としてはとりたくない選択だ。しかし何らかの形で処分してしまわなければ、不要のものがいつまでも残ってしまう。ただでさえ、重量に比してやたら体積が大きくて、めちゃくちゃ邪魔くさいのだ。

仕方ないので、カップにあけてお湯を注ぎ、あたかもインスタントのカップスープのような体裁にして、集中的に飲んだ。朝昼晩、そして間食と、見慣れないスープではあるが、ひたすらぐいぐい飲みまくった。決して不味くはないが、好んで飲みたいというようなものではない。しかし飲まなければ消えてなくならない。

妻はそんなものを口に入れたいなんて決して思わない人だから、孤独で、しかもばかばかしい悪戦苦闘だったが、半月ほどでようやく終わった。

というわけで、後に残ったのは大げさな段ボールパックの 「燃えるゴミ」 と、それぞれの小袋の 「プラスチック・ゴミ」 なのであった。とにかく食料としての重量に比して、パッケージが大げさすぎるから、ゴミの量の方がずっと多い。

教訓、こんな超豪華セットが存在するということは、世の中には 「ふりかけ大好き」 という人もいるのだろう。しかし人を選ばずに贈呈すると、時として妙な苦行を強いることになる。

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2017/04/06

「脱肉食」 を巡る冒険

完全な菜食主義というわけじゃないが、肉をありがたがる食生活には、近頃ものすごい違和感を覚えている。「肉パス!、魚でも資源枯渇気味の鰻、マグロなどはパス!」 という食生活なので、下の写真のような広告を見るとぞっとして、「うわぁ、勘弁しておくれ!」 と言いたくなる。

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別に 「好き嫌い」 で肉を避けているわけじゃないので、それしか食うものがなければ仕方なく食いもするが、最近はどんな高級肉でもおいしいとは感じられない体になった。「妙なものを口に入れちまったなあ」 という気がするだけなので、高い金を払う甲斐がない。

普段は外食するにしても蕎麦、うどん、魚料理などを選択するようにしている。「それじゃ食うものが限られてつまらないだろう」 という人もいるが、私としてはあれこれ迷わず、余計なものを食わずに済むので、かえってありがたい。決してやせ我慢じゃなく、しみじみそう思える。食い物に目移りして選択に時間がかかるなんていうのは、最も馬鹿馬鹿しい時間の無駄遣いと思っている。

ただ、問題もある。ところによって、とくに小さな地方都市などに出張すると、ラーメン、焼肉、揚げ物以外の食い物を提供してくれる店がものすごく少なかったりして、食事する店を探し当てるのに一苦労することがあるのだ。こんな状態では、ビーガン (完全菜食主義者) なんかは外食はほとんど不可能だろう。

例えばラーメンなんか、「肉料理」 のカテゴリーじゃないと思われがちだが、近頃は必ず大きなチャーシューが入っていたり、豚骨で出汁を取っていたりして、実はかなり肉食のかたまりみたいなメニューなのだ。私としては最近、魚介系出汁の名店でチャーシュー抜きを頼んだりすることがある。

巷では 「多様化の時代」 なんて言われているが、実は肉食を避けたい者にとっては、ちっとも多様化なんかしていない。 大きな一つの流れの中での小さな差別化で多様化してるつもりになっているだけで、そこから一歩でも外れたら 「異端」 「希少」 扱いなのだ。

まあ、今日のこの記事みたいに 「脱肉食」 を地道に訴求していって、世の中が変わるのを待つしかない。昔は 「禁煙、せめて分煙しよう」 なんて言っても、「そんなの無理!」 とはねつけられたものだが、今になって、ちゃんと 「喫煙はカッコ悪い」 という風潮の世の中になってきたじゃないか。

「お肉大好き!」 なんて、カッコ悪くて言えない世の中だって、そのうちきっと来るさ。

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2017/04/04

「花見」 という名のもとに子どもに帰る風習

東京では桜が満開になって、週末には桜吹雪になるそうだが、ここ、つくばの地では今日あたりはまだ下の写真のように、三分咲きになったかならないかという程度である。週末には満開になるだろうが、天気は下り坂で冷たい雨風になりそうだ。

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満開になったばかりの桜は、ちょっとやそっとの雨風には持ちこたえるので、急には 「花散らしの雨」 にはならない (ちなみに 「花散らし」 の本当の意味に関しては、私のこの過去記事を参照のこと) だろうが、花見をするには生憎の天気となりそうだ。まあ、自然のことだから、そうそう人間に都合には合わせてもらえない。

ところで今日は、「花より団子」 というお話である。自分が満開の桜を意識的に愛でるようになったのは、10歳を過ぎた頃からだったんじゃないかという気がするのだ。それまでは桜が満開になっても、それほどの感慨を覚えた記憶がない。

父が脱サラ前に務めていた会社では 1950年代末まで、桜の満開の頃にバスをチャーターして、家族連れの花見をする習慣があったようで、昔のアルバムをひっくり返すと、隣町の鶴岡市の大山公園で、車座になって派手な花見をしている写真がある。そして私にもそこに参加した記憶が確実に残っている。多分幼稚園に通っていた頃だ。

ところが私の記憶にあるのは、バスでの移動と、車座になってご馳走を食べたこと、そして何よりも会社のオッちゃんたちがやたら酒を飲みまくって、歌を歌ったり大声でわめき散らしたりしている異様な光景だけで、桜がきれいだったなんていう印象は皆無なのだ。

そんなわけで、満開の桜を愛でるようになるのは、こちらの心がそれなりに成熟して、桜というものに何らかの特別な意味を発見するようになってからだった。それ以前は 「なんだか咲いてるなあ」 というだけの即物的な印象すらない。つまり、満開の桜の美しさというのは、どちらかというと桜そのものよりも、こちらの心の方にあるもののようで、もっと慎重な言い方をすれば、桜そのものと、こちらの心の間にあるようなのだ。

仏教的道歌ででいえば、「鐘が鳴るのか撞木が鳴るか鐘と撞木の間 (あい) が鳴る」 みたいなことである。鐘だけでは鳴らないし、撞木だけでももちろん鳴らない。両方があって始めて鐘の音が鳴るように、桜の美しさも、こちらの受け取りようがあって始めて成立する。

そんな関係が成立するまでは、単に 「花より団子」 の世界なのである。そしてたとえ成立したとしても、そんなことは忘れて飲めや歌えに興じる方がいいと、ある意味子どもの時代に戻りたがる大人もかなり多い。桜の下に集まり、花なんか見ないでひたすらどんちゃん騒ぎをするのは、あれは子どもが酒を飲んでいるようなものと考えるとわかりやすい。

「花見」 という美名に隠れて、子どもに帰ってしまっているのだ。「花散らし」 の方は大人になる儀式なのにね (くどいようだが、過去記事参照)。そして何しろ花見はいわば子どもの仕業だから、後始末までは思いが至らず、圧倒的なゴミの山を残して立ち去ってしまうことが多い。今どきは本当の子どもの方が、まだずっと始末がいいのである。

酒の力で子どもに帰った大人たちの狼藉は、翌朝にボランティアの大人が出てきて掃除することになる。

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