カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の1046件の記事

2018/06/16

「フツーの愛国心」 を表現しづらい国

当ブログが 1週間前に 「若い兄ちゃんたちの変な歌」 というタイトルで論じた曲が、どういうわけか大問題になっているようで、RADWIMPS という当事者バンドのライブ会場前で抗議集会を行うなんて話まで持ち上がっているらしい。おいおい、それって、いくら何でも騒ぎ過ぎだろうよ。

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J-CAST ニュース (参照) によると、この動きの主催者は 「(RADWIMPSは) 絶対に許されない歌を出してしまいました」 と訴えていて、次の 3点を求めているらしい。

  • 「HINOMARU」 シングルを回収し、廃盤にすること
  • ライブなどで2度と歌わない事
  • 「HINOMARU」 の内容と、これまでの釈明が間違っていたと早急に表明すること

いやはや、驚いた。何が 「絶対に許されない」 のかわからないが、廃盤にしろだの、ライブで歌うなだの、謝罪しろだのというのは、明らかに行きすぎである。RADWIMPS というバンドは憲法で認められた「表現の自由」 を行使しているだけだが、それに対して上述のことを求めるのは、「表現の自由の否定」 であり、その方がずっと 「許されない」 ことだ。

私は上述の 6月 9日の記事で確かにこの 「HINOMARU」 という歌を思いっきりディスったが、もっぱら 「歌のできばえ」、とくに歌詞の拙さについて批判したのである。一方、この歌で表現されている、というか、作詞者当人が表現したと思っているらしい 「ある種の思い入れ」 については、表現スタイルがだいぶエキセントリックすぎる気はするが、否定するつもりはさらさらない。

この歌の当事者は 「みんなが一つになれるような歌が作りたかった」 などと、結構ナイーブ (元々の意味の 「幼稚な」 という意味で言っている) なことを述べていて、一方それについて騒ぎすぎている勢力は、単なる 「変な歌」 の背後に誇大妄想的なまでに邪悪な思想を想定している。この 「どうしようもない行き違い」 のかなりの部分は、表現する側と受け取る側の、両方の 「拙さ」 から生じている。つまり、両方ともナイーブすぎるのだ。

多くの国の価値感では、「愛国心をもつなんて、ごく当たり前」 のことで、それが非難の対象になることの方がどうかしている。ところがどうやらこの国は、「フツーの愛国心」 を表現しづらい国であるようなのだ。それは、戦前戦中戦後の歴史がごちゃごちゃしちゃったせいで、「フツーの愛国心が成熟する機会を持たなかった」 という特殊事情からくるのだろうね。

逆にみれば、この問題を感情的にならずに理性的に論じることができれば、もしかしたらこの国は 「新時代にふさわしい高次元でインターナショナルな愛国心」 のモデルになれる可能性だってあるのだが、今のままでは、ぶっちゃけ到底無理だろう。

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2018/06/11

アスペルガーはアスペルガーなりに

昨日、朝早くからの仕事があり、そこで 13日に予定されているイベントに関して、「ごめんね、その日は大阪に出張だから、参加できないよ」 と言うと、「新幹線で行くの?」 と聞かれた。「もちろん」 と答えると、相手は 「気を付けてね」 なんてことを言う。

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その日はかなり早起きしていたので、前夜から当日朝一番のニュースをチェックしていなかった。それで、「ことさら、何に気を付けるんだろう」 なんて思っていたが、ほどなく例の新幹線車内殺人事件のニュースを知って、「まあ、確かに気を付けるに越したことはないけど、一体どうやって気を付けたらいいんだ?」 なんて思ってしまった。

今朝になってちょっとテレビのニュースショーを覗いてみると、小嶋容疑者の父親のコメントが報道された。「幼いころから、人の言うことを言葉通りにしか理解できなかった。変わった子だった」 なんて言ってる。

結構他人事みたいな言い方で、思わず 「おいおい、それって、俺のことか?」 と言いたくなってしまったじゃないか。「言葉通りにしか理解できない」 というのは、アスペルガー症候群の典型的な症状である。ただ、調べた限り 「アスペルガー症候群」 という言葉で報じているニュースは見つからなかった。そう言及することに、何か問題があるのかしらん。

私は自分のことについて、このブログで何度も 「アスペルガー 1歩手前」 なんて書いている。6年近く前に書いた 「自閉症スペクトラム指数自己診断」 というのをやってみた」 という記事では、私の 「社会的スキル」 は結構問題ありなのだが、結構大雑把なところがあるのと気分転換の速さでなんとか救われているとわかった。

私がいつまでも細部に執拗にこだわる性格だったら、ほぼ確実に自閉症になっていただろう。まあ、そんなところも決してなくはないのだが、そうした心的傾向はいい具合にこのブログで昇華されているようで、幸いなことに社会生活に大きな問題は生じていない。

AERA の今年 3月の記事に "日本人の 20人に 1人は 「隠れアスペ」? " というのがある。この記事で紹介されているのは 『隠れアスペルガーという才能』 という著書もある吉濱ツトムさんという人で、彼は著書の中で、アスペルガー的傾向はあるが症状が比較的弱い 「隠れアスペルガー」 は、異常な才能を発揮することがあるなんて言っているという。

私の場合は 「異常な才能の発揮」 なんてレベルには至らないが、幸いにも 「自分はアスペルガー的傾向がある」 と自覚できているので、それなりの対策ができている。ただ、この 「対策」 というのは結構な努力を要するもので、実は大きな声じゃ言えないが、「いわゆる 『フツーの人』 と付き合うのって、ほんっとに疲れる。できれば避けて通りたい」 なんて思っちゃったりもしてるのである。

で、そのまま深みにはまらずに生きるためには、自分の心的傾向を客観的に知った上で、自己肯定感につながる方向に向くことなのだろう。「それが簡単にできれば苦労はない」 と言われそうだが、今回の事件の容疑者に関しては、親がちゃんとした対応をしていれば、少なくともこんな陰惨な事件は起こさずに済んだかも知れないのに。

例の父親には、「自分の息子が 『人の言うことを言葉通りにしか理解できない』 とわかっていたなら、彼がきちんと理解できるように的確な言葉を使って育てればよかったのに」 と言いたい気もするのである。あの父親はどうやら、それをせずに放り出してしまったようなのだ。

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2018/05/29

90歳女性の信号無視による事故で思う

3年近く前に 「クルマの運転があぶないのは、高齢者ばかりではない」 という記事を書いた。当時、高齢者の運転が危ないという声が高まっていたのだが、私は運転が危ないのは高齢者ばかりではなく、オバサンの運転もかなり危ないという内容の記事を、「女性への偏見」 と非難されるのを覚悟で書いたのである。

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実際にはこの記事は非難されるどころか、共感を示すコメントが 2件付いたのだった。どうやら世の中では、「オバサンはかなり自分勝手な運転をする」 という認識が強いようなのである。このことに関しては、「わずか 20分の間に 2度唖然とした交通事情」 という記事で具体的に触れているので、よろしければご一読いただきたい。

念のために断っておくが、当然のことながら 「すべてのオバサン」 が自分勝手な運転をするわけではない。しかし自分勝手運転の比率がかなり高いので、残念なことにオバサン全体に対する偏見にまでなりかかっている。

で、今回の 「90歳女性、赤信号無視で暴走」 というニュースでは、「高齢者」 「オバサン (オバアサン)」 というダブル・ファクターに、ちょっとぞっとしてしまったのである。こんなことで死んでしまうのではたまったものじゃないが、決して特殊なケースではなく、身近にだって十分に起こりうることだ。

この条件に当てはまるドライバーと遭遇したら、よほど気をつけなければならない。上述の私の 2番目の記事でも書いたように、オバサンというのはたとえ十分な余裕とアイコンタクトがあっても、無理矢理突っ込んできたりするので、それが高齢による判断力低下と相まってしまったら、相当にヤバい。

冒頭で紹介した 3年前の記事は、「あの類いのオバサンたちが年をとったら、一体どんな運転になってしまうのだろうと、心の底から心配になる」 の一文で結んでいるが、なるほど、わかった。要するに今回の事故みたいなことになってしまうのだよ。

ことは女性ばかりではない。自分自身の運転についても、若い頃に比べたら反射神経や瞬間的判断力などが微妙に落ちていないはずがないのだから、慎重に行かなければならない。というわけでこの記事は、自戒の念もかなり込めて書いている。

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2018/05/26

追憶の国分寺再訪

今日は東京都の国分寺市というところのホテルに泊まっている。昼から夕方まで高校時代の同級会があり、明日は多磨方面の仕事に出かけるので、自宅には戻らず、中央線でここまで来てチェックインしたわけだ。

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実は国分寺という街は私が 20歳前後に 3年ほど住んだことがあり、かなり懐かしい思い出がある。ところが今日、何十年ぶりかで国分寺の駅で下車して驚いてしまった。私が住んでいた 40年前頃は北口と南口に分かれた小さな駅だったが、今はなんと、丸井や東急ハンズの入るステーションビルになって、ずいぶんスタイリッシュなイメージに変わっている。

試しに自分が 40年前に住んでいた東元町 4丁目あたりに足を伸ばしてみると、当時のアパートは当然の如く跡形もなく、隣にあった小さな公園も潰されて賃貸マンションらしき建物になっていた。通っていた 「桃の湯」 という銭湯も、煙突と建物は辛うじて残っているが、営業している様子はない。おそらく近いうちに取り壊されるのだろう。

あの村上春樹が伝説の "Peter Cat" というジャズ喫茶をやっていた頃とは、完全に時代が変わってしまったようなのである。ただ、北口界隈を歩いてみると学生たちが大勢闊歩していて、「学生の街」 という当時のイメージはそのまま残っている。願わくは、このイメージだけは失われることなく続いてもらいたい。

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2018/05/19

「セクハラ罪という罪はない」 発言のナンセンスさ

麻生氏の 「セクハラ罪という罪はない」 発言があちこちで顰蹙をかったが、結局この答弁書がそのまま閣議決定されて、正式の答弁書となったらしい (参照)。まあ、「2018年の日本では、こんなお馬鹿さんが財務大臣やってたんだよ」 というのが動かぬ証拠となって後生に残されるという点では、それなりの意味があるだろう。

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麻生氏はもしかしたら、自分では 「うまいことを言った」 と思っちゃってるのかもしれないが、フツーに考えたら 「セクハラ罪という罪はない」 なんて、大いばりで言うようなことじゃなく、「だったら、それは法律の不備でしょ」 ってことになるだけだ。大急ぎで法的整備を行わなければならない。それは政権与党の責任である。

あるいは、別の見方もできる。答弁書を正式のものとする閣議決定に関連して、政府は野党の質問主意書に次のように答えたという。

答弁書では 「セクシュアルハラスメントに該当し得る行為には多様なものがあり、これらの行為をセクシュアルハラスメントとして処罰する旨を規定した刑罰法令は存在しない」 と説明。そのうえで、「セクシュアルハラスメントが刑罰法令に該当する場合には、強制わいせつ等の罪であり、『セクハラ罪』 ではない」 とした。

かなり幼稚な内容である。直接的に 「セクハラ罪」 という罪はないというわけだが、セクハラを処罰するには、他の法律で十分だというなら、言い換えると、「内容的には十分に 『セクハラ罪』 だが、法律的には他の名称で呼ばれる罪は、いくらでもある」 ということに他ならない。要するに 「セクハラ罪」 という名の罪はないが、セクハラは言うまでもなく、十分に罪になるのだよ。

というわけで、麻生氏はどこから見てもあまり意味のないナンセンスな発言をして悦にいっているだけで、しかもその愚かさを指摘されても、ものすごく幼稚な理窟を振りかざしてまで訂正する気がないという、救いようのない人ということになる。

私はてっきり、「あれは他愛のない冗談で、議事録に残すほどのものじゃない……」 という落としどころにするものとばかり思っていたが、どうやらマジで言ったと、大マジで認めたということになるようで、安倍・麻生コンビ、レベルが低い同志で気が合うんだろうなあ。

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2018/05/16

東京駅のゴミ箱、「ぼってる」 状態は解消したが

先月 5日に、「JR のペットボトルは、ぼってる」 という記事を書いた。東京駅の新幹線ホームのゴミ箱で、仕分け用の表示の 「ペットボトル」 の英語表記が、上の写真のように ”P.E.T. Bottels” になっていたのである。"Bottles" が正しいスペルなのだが "Bottels" なんてことになっていたので、まあ、冗談で 「ぼってる」 という見出しにしたわけだ。

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で、本日、京都への出張のために新幹線に乗ったのだが、「あのゴミ箱はどうなってるだろう?」 と興味津々で確認したところ、さすがに、下の写真のようにあのラベルは剥ぎ取られていたのだった。ただ、ラベルが無造作に剥ぎ取られただけなので、元々ラベルの下に書かれていた 「ペットボトル」 というカタカナ表示まで剥がれてしまっている。

JR 東海としては、「やべ! 外国人乗客もたくさんいるってのに、こんなんじゃ恥ずかしすぎるじゃないか!」 と、大慌てでラベルを剥がしたんだろうが、その下のかすれた文字の修復までには、まだ手が回っていないという状況のようなのだ。ペットボトル用に限らず、ほかの箱のラベルも剥ぎ取られているので、すべての文字がかすれている。

というわけで、東京駅の新幹線ホームは、ゴミ箱の分別用文字表示がよく読めない状態なのである。、まあ、客としては、その下にある絵表示を見て、大して戸惑いもせずに別投棄しているので、致命的なことにはなっていないが、それでもやっぱり、みっともない状態には変わりない。

さて、最終的にどんなような状態で完成するのか、まだしばらく様子を見なければならないようだ。

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2018/05/11

コーヒーは粉じゃなく豆で買うに限る

我が家のコーヒーメーカーは、東芝の HCD-L50M という機種である。豆を挽くミル機能が付いているのが、これを選んだ理由だ。

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ところが、せっかくミル機能が付いているのに、ここ、つくばの田舎ではコーヒー豆 (粉に挽く前の、文字通りの豆) を買うのがなかなか困難なのである。あちこちの食品スーパーに行っても、粉に挽かれたものしか売られていない。

で、つい粉タイプのものばかり買ってきて、せっかくのミル機能は長らく、宝 (というほどのことじゃないが) の持ち腐れ状態になっていた。ところが昨日、久しぶりに都心に出た。と言っても、高崎線に乗るために上野に出ただけだが、帰りにちょっと足を伸ばして御徒町の多慶屋に寄った。ここならお買い得のコーヒー豆があるだろうと思ったのである。

期待したとおりに、豆が見つかった。ストレート (グァテマラ) の豆が結構なお買い得で買えたのである。ちょっと 「お試し」 なので、十分な量は買わなかったが、おいしかったら次に行った時にしっかり買い足そうという魂胆である。

結論。言うまでもないことだが、やっぱりコーヒーは淹れる直前に豆を挽くのがうまい。

私はそんなにペダンティックな人間じゃないから、ことさらなこだわりはないが (こだわりがあったら、手でグリグリ挽くタイプのミルを使い、ネル・ドリップで淹れるだろう)、とにかく粉で買ってきて淹れるのとは、全然違うのである。なにしろ、私の好きな 「超粗挽き」 にできるし、ガラスのサーバーにポタポタ落ちてくる時からして、香りがしっかりと漂うのだよ。

「こりゃ、もう、豆で買うしかないね」 と思ったのだが、ちょっと待て。何と、スーパーで粉のタイプを買う方が、ずっと安いのである。こりゃまた、どういうことだ? どうして粉に挽くという一手間加えた方が安く売れるんだ?

これはもう、スーパーで売られてるコーヒーの粉ってのは、品質的には相当に 「どーでもいい」 レベルのものなんだろうと思うしかない。コーヒーは淹れる直前に豆を挽く方がおいしいに決まっているが、それだけではなく、豆そのものの品質レベルからして違っているようなのである。「どーでもいい豆」 を大量生産で粉に挽いて、真空パックにし、販売時点までは辛うじて鮮度を保っているのだ。

だったら、そりゃ、豆で買ってくる方がおいしく飲めるよね。というわけで、私はいわゆる 「コーヒー通」 からはかなりかけ離れた、単なる 「がぶ飲み派」 でしかないのだが、これからはきちんと豆で買って、直前に挽くことに決めた。

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2018/05/04

ショッピングセンターのトイレの不思議な貼り紙

時々買い物に行っているショッピングセンターのトイレに、前々から気になる貼り紙がある。下の写真の通り、「申し訳ありませんが」 という大きな文字の下に 「こちらのトイレは安全衛生点検・確認のため従業員も使用させていただいております」 と書いてある。

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「安全衛生点検・確認のため」 に従業員がトイレを使用することの、一体何が 「申し訳ありません」 なのか、私は理解できないのである。そういう立派な理由があるなら (あるいは、そんなものなくても)、気にするこたぁないから、どんどん使ってくれってなものだ。こんな妙な貼り紙で客の頭を混乱させることの方を、ずっと申し訳なく思ってもらいたいほどである。

しかしことさらにこんな貼り紙をして、そこだけ不自然なほどの大きな文字にしてまで申し分けながってみせるのは、何かきっと深い理由があるのではなかろうかと、ちょっと深読みしてみた。

まず最初に思い当たったのが、「自分たちと同じトイレに従業員が入ってくることを不愉快がる客がいる」 という仮説だ。私は従業員と客が同じトイレを使うことを別に何とも思わないが、中には 「従業員は従業員用トイレを使えよ!」 とイチャモンつけるとか、「お客様ご意見カード」 かなんかに、そんなような苦情を書いて投書するとか、面倒な客がいたんじゃあるまいか。

そうしたことのガードのために、「私ども従業員がお客様と同じトイレを使うのは、『安全衛生点検・確認のため』 なのでございます。どうぞご理解のほどを」 という意味の貼り紙をして、予防線を張っているのかもしれない。もしこの推察が正しいとしたら、まったくご苦労なことだ。

実際のところは、従業員がトイレに入る度にしっかりと 「安全衛生点検・確認」 の作業をしているなんて、にわかには信じがたい。ということは要するに、「安全衛生点検・確認のため」 なんていうのは、単に従業員が客用トイレを使うための、もっともらしい言い訳に過ぎないんじゃなかろうか。

あるいは、従業員は普段は従業員用のトイレを使っているが、たまたま本当に 「安全衛生点検・確認」 のために客用トイレに立ち入った従業員に、「客用トイレに従業員が入ってくるんじゃねえ!」 とイチャモンを付ける客がいたのかもしれない。そんな時のために、「従業員が立ち入るのは 『安全衛生点検・確認のため』 に必要なことなのです」 と言っているということも考えられる。しかしこれには大きな疑問がつく。

本当に 「安全衛生点検・確認」 のため (だけ) に立ち入るのなら、「従業員も使用させていただいております」 という文言は余計な誤解を招く。単に 「安全衛生点検・確認のため、従業員が立ち入る場合があります」 としておけばいい。まあ、馬鹿丁寧好きの日本の小売業のことだから、「立ち入らせていただく場合がございます」 ってな文言にしたがるだろうが。

いずれにしても、この貼り紙は 「本当に客に申し訳ないから表示してある」 というより、何らかのうっとうしい事態を避けるための予防線と解釈する方がずっと自然だろう。個人的にはこんな表示はするだけ馬鹿馬鹿しいと思うのだが、実際に貼り紙してあるってことは、この国には面倒くさい客が少なくないということの証左なのかも知れない。

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2018/04/27

高速道路上の、ちょっとした、けれど大きな変化

14年も前に、私の 「知のヴァーリトゥード」 のサブサイト、「知の関節技」 に "「高速道路と 「キープレフト」 あるいは 「高速道路のパラドックス」" という記事を書いた。当初は結構な注目記事だった。

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どんな内容かというと、3車線ある高速道路では、もっぱら左端の車線を走り、時々極端にトロいクルマがいたら、その時だけ真ん中車線に出て追い越してまたすぐに左端に戻るというのが、最も速く走れるスタイルだというものである。これはつい最近まで、紛れもなく本当の話だった。

どういうことかというと、日本の高速道路は真ん中車線が一番混み、それを追い越そうとするクルマがみんな右側に行くので、左端の車線がガラガラだったからだ。ウソだと思ったら、上で紹介した私のページ (参照) に行ってみるといい、右側 2車線がびっしりと混んでいるのに、左端車線がガラガラという不思議な証拠写真が、4枚も載せてある。その部分を下に再掲しておこう。

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本当に、右側 2車線はかなり混んでも、左側は見渡す限りガラガラの状態が多かったことがわかっていただけるだろう。ところがこの変則的な状況が、最近になって急に変化してきたのである。最近は遅いクルマがきちんと左端の車線を走るようになってきているのだ。これはまだ完全な変化というわけではなく、まだ真ん中車線をのんびり走るクルマも多いが、いずれにしても上の方の写真のように、左側車線がガラガラというわけではなくなってしまったのである。

この変化の直接的要因は、時速 80km/h に制限されるようになった大型トラックが、きちんと左側車線を走るようになってきたからだと思う。前は高速道路の真ん中を平気で 70km/h 台で走っていたのだが、最近はようやくその 「お行儀悪さ」 に気付いたのか、あるいは当局や事業所の指導が強まったのか、きちんと左端をゆっくり走るようになったのである。

これに伴い、以前はどんなにのんびりでも真ん中車線を走っていた一般車両も、大型トラックにつられるように左側を走るように変わりつつあるのだ。誰かが先例を作ると、皆がぞろぞろとそれに従うという日本人の不思議な習性が、ここでもしっかり現れているというわけだ。

おかげで、真ん中車線がのんびり車両のために塞がれるということが目に見えて減ったため、 「当たり前の状態」 が、日本の高速道路でもようやく現出するようになったのである。ただ個人的には 「キープレフト」 の原則に従っていさえすれば右側車線のクルマより速く走れた変則的な時代の方が、快適でありがたかったような、複雑な気分もあるのだが。

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2018/04/22

『教育勅語』 についてちょこっと書いてみる

押し入れの整理をしていたら掛け軸を巻いたのが出てきたので広げてみると、『教育勅語』 の原文と現代語訳が麗々しく書かれたものだった。そう言えば大昔、知り合いに 「床の間に飾っておくと子どもの教育にいい」 とか言われて押しつけられたことを思い出した。

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「子どもの教育にいい」 なんて言われても、この類いのものを床の間に飾る気には到底なれず、押し入れの奥にしまいっぱなしにしてすっかり忘れていたのである。今回たまたま出てきたので、惜しげもなく捨ててしまった。Yahoo オークションなんかを見ると 4000円ぐらいの値が付くらしいが、この手のものを欲しがるような人とお金のやりとりをしたいとは思わない。

私は九段の辺りで時間の余裕がありさえすれば気軽に靖国神社を参拝するような人間なのだが、教育勅語をことさらにありがたがって掛け軸を飾るほどの 「絵に描いたような右側の人」 ってわけじゃない。憲法改正問題にしても、今年初めに 「当分の間 「本籍・改憲派、現住所・護憲派」 で行きたい」 と表明しているし。

ところでこの教育勅語の内容に関しては、左側の人たちが蛇蝎の如く嫌うほどのものとも思っていない。冷静に読めば、決して邪悪なことが書いてあるわけじゃない。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」 という箇所がよく問題にされるが、私としては自らの国の存亡が危うくなったら断固戦うぐらいの心づもりはあるので、「当たり前のことじゃないか」 とさえ思う。現代においてその余地があるのは、せいぜいゲリラ戦的な抵抗だろうが、ただ、決してそれが必要になるような事態にならないよう祈る。

私が教育勅語を床の間に飾る気になんかならないのは、「邪悪なことが書かれているから」 ではなく、「重要なことが書かれていないから」 である。「書かれていない重要なこと」 とは、「自由」 に関することだ。私は今どき自由を尊重しない教育は、教育の名に値しないとさえ思っているのだが、教育勅語には 「自由」 という言葉そのものだけでなく、「自由を連想させる記述」 すら一言もない。

これは明治 23年当時の時代的制約なのかも知れないから、全否定してしまおうとは思わない。しかし現代の世の中でことさらにありがたがるようなものでもなく、あくまでも 「歴史的遺物」 であることを確認しておこうと思うのだ。

ところが今の世で、教育勅語を宝物の如くありがたがるようなことを大きな声で言いたがる人が少なからずいる。そしてそうしているうちに、なぜか割と簡単に安倍首相のお友達になれて、学校設立に無茶苦茶な便宜を図ってもらえたりするなんてこともある。そういう類いの人が首相なのである。これは本当に困ったことと思っている。

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