カテゴリー「唯一郎句集 レビュー」の88件の記事

2009/12/13

『唯一郎句集』 レビュー #86

尊敬する I さんに 「最上川舟歌の四季」 という CD をいただいた。正調最上川舟歌の後に、フラメンコ・ギターと尺八のデュエットで、春夏秋冬バージョンの変奏曲が続く。

I さんは、先月末にアルケッチャーノで食事をした (参照) のがきっかけで、すっかり庄内びいきになられたようだ。

この CD を iPhone に入れて聞きながら、唯一郎句集のレビューである。今回のレビューは 4句。見開きの右側のページに 3句、左側に 1句という所載なので、まとめて 4句のレビューである。

朝乏しい甘藷をはかるおそい南瓜の花

「甘藷」 はサツマイモのこと。朝、あまり量の多くないサツマイモの目方を量っていると、遅成りの南瓜の花が目についたということだろうか。

カボチャの花は鮮やかな黄色。晩秋だけに、これから成る実はそれほど大きくはならないかもしれない。

あが身よけて聞く秋風のぬけてゆく樹々

ずいぶんシュールな句である。はや吹き始めた秋風の樹々の間を抜けて行く音を聞いている。「あが身よけて」 というのは、風が自分の身をよけて吹いていくのか、あるいは別のシュールなイメージを醸し出すためのレトリックなのか。

児ら貯金箱をつくりその屋根を赤くぬりさまざまな虫なく夜

こちらはわかりやすい。子供らが工作で貯金箱をつくり、その屋根を赤く塗っているというのである。夏休みの工作の宿題でもあったのだろうか。その工作をしていると、庭から様々な虫の鳴き声が聞こえる。

晩秋から秋にかけて、夜が長くなりつつある頃の独特の色合い。

ことに朴の葉は秋の日だまりの中にゆれずも

朴 (ホオ) の木の葉は大きい。40センチ近いものもあるという。秋の日だまり、風がほとんどないので、木の葉は揺れない。ことにホオの木の葉は大きいので、揺れずに垂れ下がっている。

夏から秋に向う変化の中で、動かないものがある。それをホオの木の葉の中に見出している。

本日はこれにて。

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2009/12/12

『唯一郎句集』 レビュー #85

さて、今日で 12月の第2週も終わる。早いものである。年賀状を作らなければならないし、年末進行の原稿も書かなければならない。

あちこちから喪中葉書が相次いで届く。私の年頃だと、親が 80歳を越してしまう時期なので、毎年誰かの親が亡くなる。唯一郎が死んだのは 40代だったが。

さて、さっそくレビューである。改めて確認しておくが、ここに挙げられているのは、唯一郎がまだ 20代の頃の作品である。唯一郎は家業を継いでからはどんどん寡作になっていったので、盛んに句を作っていた頃の最終段階ともいえる時期である。

月の出風が吹いて花畠花屋の娘

このページの 3句は秋の頃の句なので、花畠に咲いているのも秋の花だろう。昔のことだから、菊とか桔梗とかだったのではなかろうかと思う。

その花畠の夕暮れ。東の空に満月が出て、秋風が吹く。花の色が宵闇に褪せていく。そんな中で、花屋の娘が花の吟味をしている。ほっそりとしたシルエットが美しく見える。

風がことしの稲穂をならしている百姓の婆さん

「ことしの稲穂」 というのが、いかにも米どころに住む人間の感性である。ことしの稲穂が風に揺れ、さわさわと鳴る。

百姓の婆さんが畦道に腰掛けて休んでいる。すぐに稲刈りが始まる。昔のことだから、稲刈りは家族総出の作業である。婆さんもまだまだ働くつもりで、頼もしい顔つきである。

海女の子よ藪から顔を出して秋の海原

庄内砂丘を昇っていくと、松の防砂林を抜け、海が目前になったあたりは小さな藪になっている。

その藪から小さな子が顔を出してこちらを見ている。夏の間、海で泳ぎっぱなしだったらしく、真っ黒に日焼けした顔だ。波打ち際では海女が海草獲りの仕事をしている。

日本海の秋の海原は、冬とは違い、まだまだ静かである。

本日はこれぎり

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2009/12/06

『唯一郎句集』 レビュー #84

12月最初の日曜日。今年の日曜日は、あと 3回しかない。「3回もある」 と思うことができれば、余裕たっぷりなのだが。

さて、今回のレビューはたったの 2句である。前回が初秋の句で、今回もそのようだから、時系列的な連続性はあるもようだ。ただ、同じ年の秋という保証はない。

さて、さっそくレビューに突入する。

秋口のくらしよ砂利舟きしみ過ぎる

これは多分、家の中にいて作った句だ。時分は宵。電球がついて、部屋の隅のほの暗さに、秋を感じる。

新井田川を行き来する砂利舟の砂利の重さに耐えかねてきしむ音が聞こえる。その音はゆっくりと通り過ぎる。そして次第に小さくなって消えていく。残るは、部屋の隅のほの暗さのみ。

むら肝冷ゆるに目の前鶏頭立ちて赤し

「むら肝」 は五臓六腑のこと。24回目のレビュー (参照) に

じつとして母の炊事の音聞いている我がむらぎもも病める如し

という句がある。また鶏頭も時々登場する。唯一郎得意のモチーフのようだ。

秋口の冷え冷えとした日、目の前には鶏頭の花が赤く立っている。内蔵を冷やしてしまったようで腹具合がよくない。腹の中に収まっている内蔵が、鶏頭の花の形と重なるような気もする。

今回はこれにて。

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2009/12/05

『唯一郎句集』 レビュー #83

あっという間の師走。このレビューを始めた当初は、年内か、そうでなくても来年の初め頃には完了できそうに思っていたが、とんでもない。来年の春まではかかりそうだ。

前回は雪の降る頃の句のレビューだったが、今回はもう晩夏から初秋の句である。この句集、所載の時系列は、はなはだ怪しい。

まあ、そんなことを言っていても仕方がないから、さっそくレビューである。

わづかに灯のとどき秋めくを石のすはり

庭の片隅、家の中の灯りがわずかにそこまで届く薄暗がり。そこに庭石がある。夏の間は座りが悪く感じたが、妙に静まってみえるのは、秋めいてきているからだろうか。

家族の誰も気付かない、心の半分は家の中に収まりきれない唯一郎独特の感性。

母唐きびをやくにそれをじつとまつている

母が唐きび (とうもろこし) 焼いている傍らで、焼き上がるのをじっと待っている唯一郎。

半分は子どものような感覚。もう半分は、老い行く母の後ろ姿を見守りたい大人の感覚。

フアッシヨのともたち青萱原の風吹くに没す

イタリアでファシスト党が結成されたのは 1921年、大正 10年だから、大正末期から昭和初期の日本ではもう、「ファッショ」 という言葉はお馴染みだったのだろう。

「ファッショのともたち」 とは、この全体主義かぶれの友人達のことを指しているのだろうが、唯一郎にはファッショに対する共感があったようには思われない。どうも突き放した見方をしているようだ。

青い萱原が風に揺れる。その中に彼らは消えて行く。そこに唯一郎はそこに何を見ていたのか。

本日はこれにて

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2009/11/29

『唯一郎句集』 レビュー #82

11月というのは、とても早く過ぎるように感じる。なにしろ 30日までしかない。小の月は隔月で来るが、この小の月は格別に短い。

今日は 29日。仕事関連で庄内に行くので、早めに更新しておく。昨日は 4句だったが、今日の番のページには、2句しか載っていない。それもなんだか気に掛かる 2句である。

本日は、2句まとめて論じてみたい。というのは、どうみても連作で、一晩のうちのこととしか思われないからだ。

月影す産科病院の屋根の雪かな

高槻の梢の雪を被れるそのまま朝となる

最初の句は夜である。月が出ているが、さっきまで雪が降っていたので、産科病院の屋根はうっすらと白くなっている。屋根の雪は、下から見上げたのでは見えない。その産科病院の 2階の病室の窓から眺めたのであろう。

とすると、自分の妻がお産のために入院しているのである。昔のお産は産婆を自宅に呼ぶのが普通だったから、産科病院に入院したというのは、よほどの難産だったのかもしれない。

2句目の 「高槻」 の 「槻 (ツキ)」 とは、ケヤキの古称。つまり、高いケヤキの梢に雪が積もっていたというのである。雪は夜になる前に止んだのだが、その梢の雪を見守ったまま朝になってしまったというのである。

よほどの難産で、唯一郎はまんじりともしなかったのだ。

私は、これは私の母が生まれた夜のことなのではないかという気がしている。ただ、私の母の誕生日は 10月 30日なので、いくら酒田でも、雪が降るには少し早すぎるので、違うかもしれない。

ただ、私の母は実の母の産後の肥立ちが悪かったので、私の戸籍上の祖父母に預けられたのだと聞いている。しばらく預けたはずが、そのまま無理矢理養女として引き取られてしまったのだ。今なら考えられないような話だが。

唯一郎がまんじりともしなかったほど心配だったのは、やはり母が生まれた日のことだったのではあるまいかという疑念が晴れないのである。もしかしたら、その年は初雪が特別早かったのかもしれないし。

この疑問は、今となっては誰に聞いても解けないだろう。だから、疑問は疑問のままとしておく。

本日はこれにて。

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2009/11/28

『唯一郎句集』 レビュー #81

11月ももう 28日になってしまった。何度も書いたような気がするけれど、今年は時の経つのがものすごく早く感じる。

月曜日が祝日で休みだったので、いつもの 1週間よりさらに早く土曜日が来てしまった気がする。昨日の昼過ぎまで、まだ木曜日のように錯覚してたほどである。

実際の時の流れもこんなに早いのに、『唯一郎句集』 はもっとすごい。前回が冬の句だったのに、今回はもう、早春になっている。早春といっても庄内の早春だから、まだまだ淡雪が降ったりもするのだが。

さっそくレビューである。今回は珍しく、1ページに 4句載っている。

淡雪ふる春の海ぎしの空瓶一つ

春の海岸。酒田は最上川河口に開けた港町で、港の界隈を離れればすべて庄内砂丘になる。つまり、広大な砂浜だ。

その広大な砂浜に佇む唯一郎の肩に、春の淡雪が落ちてくる。落ちてきてはすぐに消える。

消えずにいつまでも視界にとどまっているのは、砂浜に打ち上げられた空瓶一つである。その向こうには、冬の間の荒々しさは消えたものの、まだ荒涼とした空の色と解け合う日本海である。

道化者の父子に猫柳の芽がくれかかる

川岸によく生えているのが猫柳の木で、春先にほかの花に先駆けて、ふわふわとした花穂を付ける。春の訪れをいち早く告げてくれるので、それを見ただけで、東北の人間はうれしくなる。

子どもを連れて川岸を歩く唯一郎。猫柳の花穂を見ながら、他愛ない話でいつになく盛り上がる。

春の日の落ちるのは、まだ早い。白い花穂が夕陽の赤味に染まり、だんだん日が暮れていく。

ひとり遠火事をきいている春の夜の小雨となる

酒田は火事の多い街だった。とくに冬の間は季節風にあおられて大火事になりやすい。記憶に新しいのが、昭和 51年の酒田大火だが、それほど大火事でなくても、大正末期から昭和初期の酒田では、火事は日常茶飯事だったのだろう。

風の強い季節を過ぎた穏やかな夜だから、遠くで火が出ても、それほど心が騒ぐこともなかっただろう。それに、冷たくない春雨が降り出した。大火事にはならないだろう。

縁側で半鐘の音を聞きながら、日常と非日常の境目で、ぼんやりと遠くを見ている唯一郎。

朝接木をしつつつつましく落ちて行くこころ

朝、庭に出て接木をする。昔の人はこのくらいのことは皆、当たり前にやっていた。

接木をしながら、「つつましく落ちていくこころ」 とは、どんな心で、どこまで落ちていくのだろう。

「落ちる」 といっても、育ちがよく、親孝行で子煩悩な唯一郎の心は、決して堕落するというわけではない。つつましく、ふわりと落下する。落下したところは唯一郎独特の、日常と非日常の微妙な境目である。

本日はこれにて。

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2009/11/22

『唯一郎句集』 レビュー #80

『唯一郎句集』 のレビューも、これでもう 80回目になった。80回目になっても、ページ数からすると、ざっと 3分の 2 を越えたあたりでしかない。なかなかのボリュームだ。

もっとも先のページに行くと、1ページに 1句のみということもあるので、句の数で言えばもうかなりのところに来ているのかもしれないが、これは 100回では終わらないかもしれない。改めて覚悟しておこう。

さて、レビューである。前回はお盆の頃の句だったのに、今回は一足飛びに冬になっている。

わが欲りするものよ冬の夜の頭髪垢 (ふけ) をとり慰まず

「欲りする」 とは、現在はあまり使われないが、「欲す」 (ほりす) の連用形。「ほしがる」 とか 「望む」 とかいう意味である。

自分の欲するものとは何なのか。家庭人に収まったように思ってはいたものの、それでは満たされないものがある。冬の夜、頭のフケを取りながらそのことを思う。

沼波のくろきうねり凍らんとするを見ている

沼の水面に冬の風が吹き、波がうねっている。それが凍り付くのはいつか。見ているがなかなか凍らない。それでも、その黒いうねりから目が離せない。

不思議な感覚の句。時々家庭人に収まりきれぬ感性が、こうして顔を出す。

本日はこれまで。

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2009/11/21

『唯一郎句集』 レビュー #79

この頃の唯一郎の句には、とても子煩悩な家庭人というイメージが強く出ている。妻への愛情はなぜかあまり語られないが、子どものことは可愛くて堪らないという風情だ。

さて、お盆の頃の句である。子どもたちが可愛い盛りの夏、唯一郎は若き日のペシミズムを忘れてしまいたいというように、家業と子どもに没頭しているように見える。

それでも時々、ふとしたはずみに、あの新感覚派的鋭い感性が表れて、遠くをみるまなざしになる。さて、レビューである。

稲妻するきちこうの花や蕾は青く

「きちこう」 は 「桔梗」 の別称。桔梗の蕾は、風船のように丸く閉じていて、徐々に緑から紫に変わり、やがてあの特徴ある花を開く。

その蕾の青く変わってきた頃、遠雷が聞こえ、稲妻が光る。家庭人に収まっている自分自身が、まだ稲妻を聞く蕾なのかもしれないとの思いが、どこかにある。

雷はまだ遠くで鳴っている。

白粉ぬりぬりお盆の帯をして小さい財布

子どもたちがお盆の着物を着せてもらい、お盆の帯を締めて、鼻筋におしろいを塗ってもらっている。

帯の間には、小さい財布をはさみ、お小遣いを入れている。可愛らしい子どもたちをみて、心がなごむ。家庭人に収まるのも悪くない。このまま家業をしながら風流人として生きるのも悪くない。

そんな風に思えたりもする。

朝顔ひまはりの花みな小さい僕の庭痩地

庭に咲く朝顔、ひまわり、みな小振りだ。自分の家の庭は痩地なのかもしれない。

自分も、数年前には新進の俳人として一時注目されたが、そのまま大成することなく今では家庭人に収まっている。これでいいのだろうか。いや、そんなことを思っても仕方がない。

そんな煩悶の垣間見える句だ。

本日はこれまで。

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2009/11/15

『唯一郎句集』 レビュー #78

立冬になったのに、妙に暖かすぎる。『唯一郎句集』 のレビュー中のページが初夏の季節の句だからといって、あまりに暖かすぎて、現実の季節感が狂ってしまう。

そんなことを思っていると、明日の最高気温は今日より 6度も下がって寒くなるのだそうだ。忙しい季節である。

さっそくレビューである。

去年の夏服の小さきに枕べに眠らせる貧しき妻

子どもに着せている去年の夏服が、もう小さくなってしまったのだろう。今年用の夏服はまだ誂えていないので、小さくなった夏服を枕べにおいて、子どもを寝かせ付ける妻。

決して貧しい家ではないのだが、「貧しき妻」 と表現してしまうところに、妻とのちょっとした心のギャップを感じさせる。不和というわけではないし、子どもを愛しているのだが、妻に対しては越えられない溝を意識する唯一郎。

一八地べたより咲きし正しさを人ら歩むなり

「一八」 は 「いちはつ」 と読み、「一初」 とも書く、あやめ、杜若の仲間の花。私なぞは、この花の類は見ただけでは全然区別がつかないが、一番早く咲き始めるのが一八だという。

久し振りで唯一郎らしいシュールさを漂わせる句だ。地べたから突き出るように他に先んでて咲く一八のように、何の疑いもなく、「我こそは正しき者なり」 という顔をして世間を行く人を、唯一郎は憂いをもって句にしているのだろうか。

唯一郎は熱心な浄土真宗信徒だから、自分だけが正しいというような態度を見ると、違和感を覚えてしまうのかもしれない。

山鳩を飼ひ小暗きに蓮の花のそよぎ

これもフラッシュバックのような場面転換で、シュールな感覚に満ちた句だ。

山鳩を飼う小屋の暗さ、早朝の陽を浴びて開く蓮の花のそよぎ。蓮の花というと、浄土の光景を連想させる。ほの暗さに満ちた現実の生活と、浄土の救済の対比を思うのは、穿ちすぎか。

本日はこれにて。

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2009/11/14

『唯一郎句集』 レビュー #77

前回レビューしたのは秋の季節の句だと思うが、次のページに載せられているのはもう初夏の句である。

『唯一郎句集』 の時系列は、ちょっと怪しいところがある。これもみな、唯一郎が作り捨て主義で、句帳というものを持たなかったために、後で整理しにくかったのだろう。

さっそくレビューである。

茂り黒ずむ山麓の川白い浪をたてて

山肌の木が葉を茂らせ、若葉の新緑の頃を越えると色が濃くなる。それを 「茂り黒ずむ山麓」 と言っているのは、かなり思い切った言い方である。

これは多分、最上峡のあたりの光景だろう。五月雨を集めて水量の増えた最上川が、しぶきをたてて流れる。

初夏の眩しい光、緑の濃くなる山肌、そして白い浪。絵画的とも言える句だ。

あみだにかむせて吾子と出づ桐の花落ちくる

子どもの頭にあみだにかむせたのは、多分、麦わら帽子だろう。林の中を行くと、日射しと葉の影がめまぐるしく交錯して、目眩を覚えるほどだ。

無言で連れだって歩く親子に、桐の花びらが降りかかる。

芍薬の日覆に片ほほをかげらしているや

「日覆」 は、ここは 「ひおい」 と読みたいところである。庭先に芍薬の花が見事に咲いて、まるで日除けのようになっている。

縁側に立って庭を眺める子どもの片ほほに、芍薬のかげが映り、コントラストになっている。もう片方は、陽をうけて白く輝いている。

本日はこれぎり

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