カテゴリー「言葉」の387件の記事

2017/04/27

「ぜひぜひ」 に関する考察

数年前に、「言葉のインフレ」 ということを問題にする記事を複数書いた (参照 1参照 2)。とくに言いたかったのは、「是非是非」 という繰り返しと、すすり泣き程度で 「号泣」 と表現する風潮への違和感である。とくに最近の話し言葉では 「是非」 の一言でさえ大げさに感じるような話でも、「是非是非」 と繰り返すのがほとんどお約束のようになっている。

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「号泣」 という言葉の本来の意味は、「大声を上げて泣き叫ぶこと」、つまり 「大泣きすること」 である。ところが最近は、声を上げたわけでもないのに 「号泣」 と伝えられることが多くあって、まさに 「言葉のインフレ」 そのものだ。

これに関しては、7年前の ”「号泣」 という言葉がインフレを起こしてる” という記事で触れたように、近頃は 「号泣」 を 「声を押し殺し大量の涙を流して泣くこと」 と誤解している人が増えたことによるもののようだ。要するに 「感極まった」 という条件さえあれば、実際にはすすり泣き程度でも 「号泣」 と言われてしまいがちになっている。

で、思ったのは、「是非是非」 の方も、本来の 「是非」 という言葉を知らずに使われてしまっているんじゃなかろうかということだ。なにしろ Yahoo 知恵袋に "「是非お願いします」 ってどういう意味ですか?" なんて信じられない質問が寄せられる世の中だから。

この質問をした人にとっては、多分 「是非」 と 「ぜひぜひ」 (敢えてかな表記にする) は別の言葉なのだ。テレビなどで 「ぜひぜひご応募下さい」 と言われても全然疑問を感じないのだろうし、自分でも 「ぜひぜひ来てね」 なんて言っているかもしれない。ところが 「是非お願いします」 と改めて漢字表記されると、「それ何?」 と思ってしまうのだろう。これはちょっとすごいことだね。

ネットの表記をググってみると、「是非是非」 という漢字表記が 「ぜひぜひ」 のかな表記よりも多くなっているが、これはきっと、打鍵時に漢字変換システムが勝手に変換してしまったことによるのだろうと思われる。書いた人の頭の中では、多くの場合 「是非」 と 「ぜひぜひ」 は別の単語なのだ。きっとそうだ。

ちなみに私自身は、「ぜひぜひ」 というのは気持ち悪くて使えない。

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2017/04/14

日本の音楽市場はガラパゴス状態らしい

NewSpere の記事によると、日本の音楽市場はガラパゴス状態なのだそうだ。世界の音楽ソフト販売の傾向が圧倒的にストリーミング・サービスに移行しているのに、日本では相変わらず CD での売り上げが 51.4% (2016年) を占めているという (参照)。へえ! 知らなかった。ずいぶん面倒な市場であり続けているわけだ。

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私自身はもう、音楽 CD は滅多に買うことがない。Apple Music で、妻と 2人のファミリーメンバーシップ会費 (¥1,480/月) を払えば、Apple がカバーしてくれている曲のすべてをストリーミングで聞くことができる。念のため説明すると、自分のローカル・デバイス (PC や iPhone など) にダウンロードすることなく、いつでもインターネット経由で聞けるのである。

もっともインターネット経由だから、飛行機に乗っている時やトンネルを通過している時などは無理だが、それ以外はほぼいつでも OK だ。 最近は東海道新幹線のトンネルだとインターネット接続可能で、飛行機でも Wifi 付きがあるらしいので、ますます便利になりつつある。そして iPhone 本体にダウンロードしてある曲なら、もちろんどこでも聴ける。念のため。

ちょっと前までは、若い頃に買いまくった LP (あの直径 30cm ぐらいあるアナログ音源ね) を、手間暇かけてデジタル変換しなければなんて思っていたが、今思えば、そんな無駄な努力は先延ばしにしておいてよかった。Bob Dylan の ”Freewheelin'” でも Neil Young の ”After The Glod Rush” でも、Apple Music のストリーミングで聞き放題の世の中になったのだから嬉しい。

古い曲ばかりじゃない。最近は Sia という歌手の ”This Is Acting” というのがご贔屓で、娘に 「へえ、お父さんも案外新しい曲聞くんだ!」 なんて妙に感心されたりしている。ただこれも、CD だったら買っていたかどうかわからない。定額のストリーミング・サービスならではの新し物好きである。

だからたまに CD で買うのは、例えば沖縄に行った時に現地の音楽ショップで、マイナーだけどほれぼれするような島唄のコレクションを買うとか、かなりレアなケースになっている。それにしたって、帰ったらすぐに PC に取り込んでしまい、CD で聞くことなんてないのだが。

日本でまだ CD の売上比率が大きいのは、NewSphere によれば 「邦楽優勢でしかもアイドル歌手やグループの売上が大きく、関連するレーベルや音楽事務所は CD 以外の配信を好まない傾向がある」 ためであるらしい。へえ、日本の音楽市場って、消費者志向してないんだ。

そんなわけで、若い子たちは TSUTAYA なんかのレンタル CD からスマホに取り込んだりしてるわけね。今どきは 「宅配レンタル CD」 なんてサービスもあるらしいが、ストリーミングにしてしまえばわけないのに。

もっともストリーミングにしたところで、あの特殊なアイドル市場が拡大するわけじゃないだろうから (私はそんなの聞かないし)、日本の音楽業界の売り上げはかえって激減してしまうんだろうね。ということは、当面ガラパゴス状態を維持するしかないのだろう。かといって何も手を打たないと、そのうち市場崩壊の日がくるかもしれない。

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2017/04/04

カタカナ言葉を巡る冒険

3年ちょっと前に 「私の苦手なカタカナ言葉」 という記事を書いた。カタカナ名前の食べ物がさっぱりわからないのである。「フォンデュ」 とか 「テリーヌ」 とか 「カルパッチョ」 とか、何度聞いてもすぐに忘れて、名前だけではどんな食べ物かイメージすら浮かばない。

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上の表は、かなり前のものだが、平成 20年度の 「国語に関する世論調査」 の、カタカナ言葉に関する結果を示したものである。平成 14年に比して、6年後の 20年にはカタカナ言葉の意味がわかる (「なんとなくわかる」 を含む) 人がかなり増えていることがわかる。とくに下の表の左側なんかは、日本語としても十分にお馴染みの言葉となっている。

この表に出ている程度なら、右側の言葉でもありがたいことに全部わかる。食い物の名前と違って苦もなくわかるのは、これらはすべて英語由来の言葉だからと気付いた。これでも昔は英語でメシを食っていた時期があるので、英語由来でさえあれば、カタカナで初見でも元の英語がすぐに想像がつき、苦労がない。

カタカナ語の嫌いな人は、「日本語で言え、日本語で!」 なんて憤るが、申し訳ないけど、英語圏から入ってきた概念は、そのままカタカナにして使ってくれる方がずっとわかりやすい。下手に漢字を組み合わせて翻訳されると、かえって 「なんじゃ、そりゃ?」 になってしまう。「ロックンロール」 は 「ロックンロール」 以外に言いようがないのだ。

だからカタカナ名前の食べ物でも、元が英語なら大丈夫で、わからないのはフランス語とかイタリア語とか、韓国語とかの食べ物だ。とくに焼き肉系の名前は、肉を食わないことにしているせいもあって、カルビとか、ミノとか、ハツとか、さっぱりわからない。魔法の呪文だ。

そこで気付いたのは、もし私が英語が苦手だったら、世の中にあふれるカタカナ言葉の多くがわからないだろうということだ。知り合いにも、「やたらカタカナ言葉を使う最近の傾向は許せない」 と憤っている人が少なくないが、彼らの大抵は英語が苦手なのである。

なるほど、彼らにとってはカタカナ言葉の多くが、魔法の呪文になってしまうわけだ。私にとってのイタリア料理や焼き肉のメニューみたいなもので、何度聞いてもすぐに忘れてしまう。食べ物の名前ぐらいわからなくても別に苦労はないが、日常用語が魔法の呪文では、確かにストレスが多いだろうと察せられる。

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2017/03/23

世の中にはいろいろなローラがいるみたいなのだ

今日は案外どうでもいい話題である。CM なんかでよく見る顔に、ローラという子がいる。個人的にはあんまり近くにいられたくないタイプだが、いろいろとよく登場するのだから人気があるんだろう。このほど長崎から諫早に向かう快速電車で、JR 九州の鹿児島旅行プロモーションの吊り広告でも目撃した。

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で、「ん?」 と思ったのである。この吊り広告には ”KAGOSHIMA by Rola" とある。「ローラによる鹿児島」 というのも、「なんじゃ、そりゃ?」 という感じだが、それよりも 「ありゃ、ローラって、"Laura" じゃなかったのか?」 と、ちょっと意外な気がしてしまったのだ。

私の知ってるローラは、ローラ・ニーロ (Laura Nyro) でも、ローラ・ブラニガン (Laura Branigan) でも、ローラ・フレイザー(Laura Fraser) でも、みんな Laura である。Laura 以外のローラがいたとは、新しい発見である。

そういえば昔イタリアに、ラウラ・アントネッリ (Laura Antonelli) という女優もいたなあ。彼女も英語読みだったら 「ローラ」 にほかならない。しかし今回鹿児島旅行のプロモーションをしているタレントの名前は、ローラはローラでも、いわゆるフツーの Laura じゃないようなのである。

あまりのことに驚いてインターネットに当たってみると、本当に世の中にはいろいろなローラがいるみたいなのだ。「ローラ」 というカタカナでググると、「ローラ (Laura, Lola, Rola) は、女性の名前」 とある (参照)。「へえ!」 ってなもんである。それぞれみんな異なる発音だ。多くの日本人の耳には、あまり区別が付かないことではあるが。

例えば、中国に ローラ・チャン (Rola Chen) という女優がいるし、イタリアには ローラ・パニーニ (Lola Pagnani) という女優が、ルーマニアにはローラ・ボベスコ  (Lola Bobesco) というバイオリニストがいるという。まあ、見当たらないのは Rora ぐらいのものだ。

世の中にはまだ知らないいろいろのことがあるものなのだね。

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2017/03/20

「スチールカメラ」 という言い方は、何とかならんかなあ

こんなことはとっくの昔に書いたとばかり思っていたのだが、自分のサイト内を検索しても出てこない。どうやらまだ書いていないようなので、今さらながら書く。何かというと 「スチールカメラ」 という表記についてである。

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世の中では、静止画像 (つまり動画じゃない画像) を写すカメラのことを 「スチールカメラ」 と呼び慣わしている。で、その心は 「動かない = 固い = 鉄のかたまり」 みたいな連想で、鉄鋼 (steel) という意味をかぶせて 「スチールカメラ」 と言うのだなんて思っている人までいる。

しかしそれは言うまでもなく誤りで、本当は "still" (動かない、静かな) という英語から来た言葉である。筋から言えば、カメラという道具が発明された時には静止画像しか写せなかったので、わざわざ区別する必要はなかったのだが、世の中が進んで動画を撮影できるカメラ ("movie camera" または "video camera") が一般化してしまったので、それと区別するために "still camera" と言うようになったようだ。

ところがそれがカタカナ語として取り入れられる時に、どういうわけか 「スチールカメラ」 になってしまった。世の中にはその間違いが気になって仕方がない人もいるようで、上に示したように、「スチルカメラ」 と表記するのが正しいと指摘したページまである。(「標記」 じゃなくて 「表記」 だろとか、「鉄」 じゃなくて 「鉄鋼」 だろとか、いろいろツッコミどころは満載だけど)

ともあれ私としては、どうせそこまで言うなら 「スチル」 なんて中途半端な段階にとどめず、 「スティル・カメラ」 が正しいと言って欲しいところなのである。今どき、「スティル」 と発音できない人なんでいないだろうからね。

昔は Steve という名前を 「スチーブ」 なんて表記した時代もあったが、「スティーブ」 になって久しいじゃないか。アップルの創始者の名前の表記は 「スティーブ・ジョブズ」 がごくフツーで、「スチーブ・ジョブズ」 なんて言う人に、私は会ったことがない。どうしてカメラだけが今の世の中で 「スチル」 なんだ。

いや、それどころか一時はやたら混乱していた時期があったようで、「スチルビデオカメラ」 なんてものまで存在していたようなのだ。今どきはコンデジでもスマホでも、動画が撮影できるのは当たり前になってしまったので、そんなのは廃れてしまったようなのだが。

さらについでだから言っちゃうと、オフィスなどの間仕切りをするついたてのことをカタカナ英語では 「パーテーション」 と称するが、あれは本当は 「パーティション (partition)」 が正しい (「パーティーション」 と伸ばさずに、「パーティション」 ね)。どうも日本人はカタカナ語を形成する時に、寸詰まりよりはスラッと伸ばして発音する方が 「それっぽい」 と感じるもののようなのだ。

ちなみに、今どきは滅多にやらないが、ハードディスクなどの記憶領域を分割することは、「パーティション」 と言うことの方が多い。若い人は知らないだろうけど、一時代前までは、「パーティションを切る」 なんて言い方をしたものだ。

これ、「スチールカメラ」 とか 「スチルカメラ」 みたいなことで 「パーチション」 なんかにならなくて本当によかったと思うが、仮に 「パーテーションを切る」 なんて言っちゃうと、ハードディスクの話なのにオフィスのついたてみたいで、ちょっと変な感じがしてしまうのかなあ。元は同じ言葉 (partition) なのに。

【3月 22日 追記】

野球の 「スクイズ」 は、"squeeze" (スクウィーズ = 絞る) が元なのに、伸ばさないで寸詰まりになっている。見るからに忙しく緊迫した場面になるから、呑気に伸ばしていられないのかな。

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2017/03/05

「中学英語で十分」 は、文法に関しては本当に本当だと思う

日経ビジネスに "「中学英語で十分」 は本当だった" という記事がある。書いているのは池田和弘さんという人で、大阪観光大学国際交流学部准教授だそうだ。

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私が中学生だったのは半世紀も前のことだから、今の英語教育がどうなっているのか知らないが、本職の方がそう言うのだから、本当なのだろう。そしてそれは、私が高校英語の授業で感じたこととほとんど同じである。

この記事では 「中学英語で高校文法は完全にカバーできます」 とされている。これはまさに実感で、私も高校の英文法教科書の内容は、「こんなの全部知ってることじゃん!」 と思っていた。「こんな当たり前のことを今さら繰り返すより、もっと役に立つことがあるだろうに」 と、かなり馬鹿馬鹿しく思っていたほどである。

本当に、英文法なんていうのは中学レベルで十分だ。そりゃ、難しいことを掘り下げればいくらでも難しくできるが、日本人がとりあえず 「使える英語」 を身につけるというレベルを求めるというなら、これは本当に本当だ。

もちろん文法だけじゃ英語は使えないから、高校に入ったら単語と英語独特のうまい言い回しを沢山覚えればいい。そうすれば、いきなり米国に出張に行くことになってもちゃんと役に立つ。留学経験があるわけでも、大学の英文科で学んだわけでもないこの私がそうだったんだから、まず間違いない。日本の高校では既に知っているはずの文法をこむずかしく繰り返すから、英語嫌いが増えるんじゃないかとさえ思う。

高校の授業では文法の繰り返しに無駄な時間を割くよりも、とにかく英文を読み込むことと、リスニングに慣れることを重視してくれれば、日本人の英語アレルギーもかなり減るだろうにと思う。今どきは学校の授業でネイティブ・スピーカーのしゃべる英語の録音を流すことぐらい、たやすくできるだろうに、それをやらないのは、学校の教師の発音のまずさがバレバレになってしまうからに違いないと思っている。

そんなわけで、学校でまともなリスニングを学べないから、「スピードラーニング」 なんていうイージーな商売がもてはやされる。

余談だが、最近このスピードラーニングのラジオ CM を聞いていて、たまげてしまったことがある。男性が 「ご紹介はシライ (白井?) さんです」 と言うと、女性の声が 「は〜い、シライシ (白石?) です!」 と続くのである。あまりの違和感に、Twitter で 「何の仕掛けなん?」 と tweet している人もいるほどだ (参照)。

これ、どうやら男性の方の口跡がおそろしく悪いというだけのことのようだが、それがノーチェックで放送電波に乗っかってしまうというのが、ちょっとコワい。こんなにも発音に無頓着な企業がリスニング教材を扱ってるなんて、「スピードラーニング、大丈夫なのか?」 と言いたくなってしまうよね。

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2017/03/03

縦書き、横書き

emi さんが 「縦書き」 について書いておられる (参照)。東アジア系の友人たちへの取材の結果、「伝統を守りたがる日・台と、簡略化、合理化をよしとする中・韓で、考え方がきれいに分かれてるっぽい」 という結論になったのだそうだ。

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ふぅむ、なるほど。ただ、そこへ行くと私なんかは自分の中で 「伝統派」 と 「合理派」 の二極分化があるみたいな気がしていて、縦書き横書き問題を突き詰めると居心地の悪さを感じてしまうところがある。

私は普段は何の問題もなく、断然横書き派である。横書きの便利な点は、日本語も欧米語も数字も、問題なく混在させることができるという点だ。昔はいざ知らず、現代の日本語文にはこれらの混在が当然のようになっていて、それを縦書き表記しようとするとかなり面倒なことになる。

細かいことを言うと、日本語テキストで数字を全角で入力されると、数値の途中で改行されてしまうようなことがあり、とても読みにくい。だから私は、英数字は半角に統一すべきだと思っていて、そのためにも横書きは現代文には必須というようなところがある。

ただ、全面的に横書きオンリーでいいかというと、そうも言い切れない。例えば私は 「和歌ログ」 というサイトも持っていて、そこでは毎日のように和歌を詠んでいる。上手か下手かは別問題として。

で、この 「和歌ログ」 においては、できれば縦書きで運営したいという気があるのだが、それをやろうとするとかなり面倒なことになり、毎日のことなので対応しきれないという現実から、しかたなく横書きで表記している。それでも 「和歌」 と謳っている以上、内心忸怩たる思いは捨てきれないのだよね。

とかなんとか言っているくせに、時々は横書き表記を逆手にとって、旧仮名表記の和歌の中にアルファベットを混在させるなんていう無茶までやらかしている。伝統派なんだかアバンギャルドなんだか、わかったものじゃない。こんな具合だ。

"Crisp" といふ言葉ある彼の国のぱりりとしたる感触思ふ

木の葉散り実の地に落つる頃なれば "fall" といふも腑に落ちたりき

木枯らしの吹く坂東の駅前のライブ Georgia On My Mind

現代の日本語においては、フツーのテキストなら横書きでいいと思う。いっそのこと、新聞なども横書きにしちゃうべきだと思っているほどだ。ただ、美学、芸術学的分野においては、そんなに簡単には割り切れない。

とくに書道などの分野では、草書体の横書きなんて存在し得ないのだから、縦書きは捨てられるはずがない。横書きですら右から書く方がいい。あれは横書きというより 1行に 1文字の縦書きなのである。

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2017/02/07

「デューダ」 って、スウェーデン語で 「虐殺する」 って意味らしい

"DODA" という名の転職情報誌があり、これをなぜか 「デューダ」 と読みならわしていて、昔は転職することをよく 「デューダする」 なんて言っていた。私は 「なんで "DODA" が 『デューダ』 なんだよ」 とずっと思っていたが、今日、ふと思い立って Wikipedia に当たってみたら、「当初は DÖDA とドイツ語表記であり、このため読みがデューダとなり、後に Ö は O に変更されたが、読みはデューダのままとなった」 とある。(参照

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「へえ、そうか、ドイツ語読みだったのか」 と思い、ここまでは納得した。元々は 「アルバイトニュース」 という求人誌を出していた会社だけあって、ドイツ語にこだわってみたのかもしれない。(「アルバイト」 って、元はドイツ語だからね。念のため)

ただ、それだけで済ませられないのが、知りたがり病の昂じている私の悪いクセである。「で、döda って、どういう意味のドイツ語なの?」 という疑問が当然のように湧いてくる。さらに、どうして途中で Ö を O に変えたのかもたまらなく気になる。しかしなぜか、Wikipedia にはそのあたりの説明がまったくないのである。

で、オンラインのドイツ語辞書で "döda" を調べてみたが、該当する単語が出てこない。どうもドイツ語にはそんな単語はないみたいなのである。「なんだ、『なんちゃってドイツ語』 かよ!」 と、拍子抜けした。要するに 「雰囲気のもの」 というだけのことなのね。

とはいえ、ドイツ語以外で "döda" という単語があるのかもしれないと、念のため多言語で調べてみると、スウェーデン語に該当単語がみつかった。それが上の画像である。英語にすると、"slay, murder, kill, slaughter, assassinate" という意味の単語であるという。(参照

「なぬ!」 である。スウェーデン語の "döda" という単語って、「殺害する、殺す、虐殺する、暗殺する」 という意味だったのかよ! よりによって、転職情報誌の名前がそれか! もしかして、「転職者は殺してやる!」 って裏の意味を込めたりしてたのか?

念のため、日本語訳のウェブページの画像も載せておく。確かにこんなことなのである。(参照

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まあ、精一杯好意的に考えれば、当初この  "DÖDA" という雑誌名を考えた時は、スウェーデン語では物騒な意味になるなんてことは、ちっとも知らなかったんだろうね。あの当時 (1989年創刊だから、バブルの最盛期だ) 特有の軽いノリで、まさに 「雰囲気のもの」 として洒落みたいに命名しちゃったんだろう。

ところが後になって、「ちょっと、ちょっと、ヤバいっすよ、"DÖDA" って、スウェーデン語で 『殺す』 とか 『虐殺する』 とかいう意味になっちゃうらしいっす!」 ということが判明したので、しょうがないからとりあえず、Ö を O にしれっと変更することで、「これ、スウェーデン語じゃないっすから、よろしく」 とトボけることにしたんだろう。うん、そうとしか考えられないじゃないか。

初めからきちんと調べておけば、こんなややこしいことにはならなかったのにね。

【補足】

スウェーデン語の "döda" の発音は、こちら で聴ける。「発音したユーザ ret001 (スウェーデンの男性)」 という表示の左側にある 「▷印」 をポチッとすると聴けるが、「ディユタ」 に聞こえないこともないビミョーな発音である。

それにしても、スウェーデン語の単語をネイティブが発音したのをいながらにして聴けるとは、世の中、便利になったものだ。

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2017/01/29

ストロベリーの 「ストロ」 はどういう意味ですか」 という質問

偶然に 「ストロベリーの 『ストロ』 はどういう意味ですか」 という質問が Yahoo 知恵袋に 3度も寄せられているのを知って唖然とした (参照 1参照 2参照 3)。元の英語の綴り (strawberry) をみれば、「ストロ」 は "straw" (ストロー = 麦わら) であることが一目瞭然なのだから、こんな質問が出ること自体、「知の劣化」 と言われても仕方がない。

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ちょっと調べさえすればわかることを、すぐに他人に聞きたがるやつに対して、ネット界隈では 「ググれ!」 の一言で対応することが主流になっているらしい。この言葉の後ろには往々にして 「カス!」 の付けられることが多いらしく、「ググれ、カス!」 というのが定型句になっていたりする。

ただ 「ストロベリーの 『ストロ』 は……」 に至っては 「ググれ」 以前の問題で、「辞書引け、辞書!」 というほかないような気がする。しかしこんな手合いだと、国語辞典で 「ストロ」 を引いてみて、 「そんな言葉、見つかりませんでした」 なんて言い出す可能性大だから、ちょっと始末に負えないかもしれない。

とはいえこの質問に関しては、「ストロ」 は ”straw" で 「麦わら」 のことですよと答えて、それで済むなら話は簡単だ。「ああ、そうだったのか、ストローで麦わらか!」 となって、フツーはそれで十分だと思う。

しかし私みたいに 「知りたがり」 の病がちょっと重症化していたりすると、「どうしていちごが、麦わらと関係あるのか?」 なんて食い下がりたくなる。こうなると、話はちょっとややこしくなるようなのだ。

「語源由来辞典」 によると、「地を這い広がった姿が麦わらに似ているから」 とか 「果実の表面にある小粒の種子が麦わらの切れ端に似ているから」 とか言われているらしいが、「実際のところ解っていない」 ということのようだ (参照)。確かに、どちらの説も 「こじつけ臭さ」 が強すぎて、「一体どこが似てるんだ?」 と突っ込むことすら馬鹿馬鹿しいレベルだ。

ところが、Yahoo 知恵袋に新しい説が見つかった。引用してみよう (参照)。

英名の「strawberry」 の 「straw」 は 「麦」 ではなく、「あちこちに散らす、一面を覆う」を意味する 「strew (strawの古語)」 が語源で、ランナーを伸ばして繁殖する様子を表しているそうです。また、2002年 1月 13日のNHK 「日本人の質問」 では、ランナー自体を麦わらに見立てたという説が紹介されていました。

確かに、"strew" という言葉は 「(砂、種などを) まき散らす、振りまく」 という意味で、「ランナー」 というのは 「親株」 から伸びる 「子株」 のことらしく、家庭菜園インフォパークというサイトには「【簡単!イチゴの子苗取り】 収穫後のランナーから新苗を作る方法」 というページがある (参照)。

そしてこの 「ランナー」 というのは日本語では 「匍匐茎 (ほふくけい)」 というらしく、これをキーワードに引き返してみると、Wikipedia に英語では "stolon" (ストロン) という (参照) とあった。下に引用する。

走出枝 (ランナー/Runner)  と呼ばれる場合もある。厳密には匍匐茎 (ストロン) と走出枝 (ランナー) は異なる物であるが、実際上、両語を明確に区別して使用される場面は少ない。

匍匐茎が 「ストロン」 というと、じゃあ、「ストロベリーの語源はこっちの 『ストロン』 なんじゃないの?」 と言いたくなるかもしれないが、カタカナで書いたら似ていても、"straw" と "stolon" は最初の "st" 以外はまったく別の発音なので、原語を話す人々にとっては日本人が思うほど似た言葉じゃない。ここは慎重にならざるを得ない。

まあ、”strew" から来たとみるのが一番近そうだが、決定的な説ともいえず、語源は 「よくわからん」 としておくのが無難だろう。

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2017/01/12

庄内弁の 「さどけ」 (潔癖症) という言葉を巡る冒険

昨日は庄内弁の 「せやみ」 について考察し、その語源は上方言葉の 「かんしょやみ」 ではないかという新仮説を立てた。「かんしょやみ」 とは度を外れた潔癖症のことを言うらしいのだが、我が庄内ではそうした傾向を 「さどけ」 という。

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この 「さどけ」 というのはどうやらかなり地域限定の方言らしく、ネットで検索しても庄内以外の地域で使われているという記述が見当たらない。昨日の 「せやみ」 はちょっと検索しただけでが北陸から秋田までの広い地域で使われているらしいことがわかるので、エラい違いである。

「さどけ」 はイメージで言えば、自分の家以外の洋式トイレでは、便座をトイレットペーパーなどでカバーしないと腰を下ろせないみたいな人のことである。まあ、上の写真はかなり極端すぎる例だが。

庄内には 「さどけのびしょなし」 という格言じみた言葉があって、「きれい好きで他人にはいろいろとうるさいことを言うくせに、自分自身はまったくだらしない」 という意味で使われる。「紺屋の白袴」 とか 「医者の不養生」 みたいなものだ。

で、この 「さどけ」 の語源だが、これこそ昨日の 「せやみ」 以上の難物で、ググってみても何の手がかりも見つからない。念のため断っておくが、「サドッ気」 とか、そっちの方の話とはまったく関係がない。

私としては、神経が敏感であることを示す 「敏い (さとい)」 という言葉に、「け」 が付いたものと考えている。「け」 は 「もののけ」 (物の化)」 の 「け」 に通じ、異様な状態を示す。つまり 「清潔/不潔という観念に敏感すぎる、フツーじゃない状態」 ということだ。

ちなみに私の母は、潔癖症のことを 「さどけのピー」 と言っていた。この 「ピー」 が何を表しているのかは、今となっては謎である。母が生きているうちに聞いておけばよかったのだが、聞いたとしても多分、母自身もわかっていなかったんじゃなかろうか。

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