カテゴリー「哲学・精神世界」の155件の記事

2018/09/09

「即心即佛」 と 「非心非佛」

本当に本当に久しぶりの 『無門関』 ネタ。今回は第三十則の 「即心即佛」 と、三十三則の 「非心非佛」 について書いてみる。

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「即心即佛」 (心がそのまま仏である) も 「非心非佛」 (心も仏もない) も、馬祖大師という唐代の名僧が説いた言葉である。フツーの理窟で考えれば、よくまあ、こんな矛盾したことを同一人物がいけしゃあしゃあと言えたものだということになるが、そのあたりが禅の禅たるところなのだ。

第三十則は、大梅という僧に 「如何なるか是れ佛」 (佛ってどんなの?) と問われた馬祖大師が 「即心即佛」 と答えたという、単にそれだけのことだ。馬祖大師という人はわかりやすく禅を説いた人と伝えられているが、まあ、何しろ禅のことだから、わかりやすいといってもせいぜいこんなものである。

ちょっと翻訳してみれば、「佛を他にあるものと思って探し求めても見つからないよ。佛は己の心そのものじゃ」 と言っているみたいなのだが、いきなりそんなこと言われてもうろたえてしまうだろう。それを 「なるほどね」 と受け入れるためには、結構な修行を積まなければならない。

とはいえ 「そのままの心がそのまま佛」 ってことは、実は修行なんて積まなくても、元から 「心が佛そのもの」 に変わりはなくて、それを迷うことなく認めることができれば OK なのだ。「元からそうなんだよ」 というのは、「後になってやっと悟る」 もののようなのである。でもまあ、悟ろうが悟るまいが、「元々そうなんだよ」 ってことだから、嬉しいっちゃ嬉しいわな。

ところが第三十三則では、「非心非佛」 という強烈なアンチテーゼを食らわされる。「何だよ、さっき 『元々が佛そのもの』 って言ってくれてたじゃん!」 なんて駄々をこねても、禅というのは厳しいもので、警策でぶっ飛ばされるのがオチだ。

そこで、「はいはい、わかりましたよ。心も佛もないものなのよね。はいはい。さっきは 『そのまま佛』 って言ってたくせに、ブツブツ」 と、渋々座禅しているうちに、いつになるかわからないけど、「心も佛もないけど、そのまま佛なのよね」 という悟りが湧いてくるのだろう。

ところで、Google で画像検索すると、世の中では 「即心即佛」 の方が人気があって、書にもよくされているが、「非心非佛」 の方はあまりポピュラーじゃないようなのだ。

私としては、「即心即佛」 のテーゼと 「非心非佛」 のアンチテーゼがワンセットになって、あっと驚く 「悟りのアウフヘーベン」 に飛躍するような気がしていたのだが、どうも禅の世界というのは単純な弁証法を超越しているみたいで、「どっちから入っても、悟る時は悟るさ」 ってなもののようなのだ。

まあ、その悟りにもいろいろなレベルがあるのは、11年前に 「十牛図解釈」 で触れたとおりである。(十牛図のビジュアルは、こちら

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2018/07/04

「潜伏キリシタン」 ということ その2

6月 30日の記事 "「潜伏キリシタン」 ということ »" の続編である。

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私は 6月 30日の記事で、次のように書いた。

(世界遺産に) 登録する価値があるとすれば、「禁教期」 において、250年もの間、カソリックなのにバチカンの指導から隔離された信仰を継続してきたという、極めて特異な点だ。こうした状況では、日本独自のフォークロアリスティックなものに変化しないはずがないじゃないか。

私は長崎に旅行した際に隠れキリシタン関連の遺跡を結構訪問している。その印象から湧いたのは、「隠れキリシタンの信仰は、正当なカソリックとはかなり違っているんじゃあるまいか。そのあたりを、どうやって折り合いつけるんだろう」 という疑問だ。

そして、この辺りを明らかにした宗教学者、宮崎賢太郎さんの 『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』 という本があることを知り、さっそく Amazon で購入申込みをした。この記事は 「本が届いて読んでみてから、改めて書こうと思う」 と結んでいる。

で、早速詠んでみたのである。引き込まれるように読めた。この本の特徴は、第一章の 3ページ目に結論が書かれていて、それ以後はその論拠が丁寧に説明されていることだ。だから上に述べた私の疑問は、のっけから解けた。

いわゆる 「隠れキリシタン」 のほとんどは、自らの意思でキリスト教信仰を始めたのではなく、領主である 「キリシタン大名」 たちによって、強制的に洗礼を受けさせられ、改宗したことにされてしまったというのが本当のところのようなのだ。したがって彼らは、キリスト教の教義についてはほとんど何も理解していなかった。

彼らが守り通してきたものは、キリスト教信仰ではなく、日本的 「先祖崇拝」 と習合した信仰形態であり、先祖が大切にしてきたものを、自分の代で捨てるわけにはいかないという考えが、これほどまで長く続いてきた要因だった。

「神と子と聖霊の三位一体」 を根本教義とする西欧的に論理一貫したキリスト教は、潜伏キリシタンたちにはついぞ伝わらなかったもののようだ。日本にキリスト教を伝えたとされるフランシスコ・ザビエルはまったく日本語ができず、教義を具体的に伝える術を持たなかった。さらにそれを受け入れる側の日本の農民の教育水準も、ほとんど字を読めなかったので、教義を正確に理解することなど不可能だった。

彼らの理解のレベルでは、「新しい南蛮渡りの神様の御利益が大きいらしい」 という程度のもので、私としては、日本の民衆史の中で何度か繰り返された 「流行神」 の一つぐらいに捉えられたと考えると、理解しやすいのではないかと思う。。

だから、"「隠れキリシタン」 たちは当時の厳しい弾圧に耐えながら、純粋なキリスト教信仰を守り通した" というのは、ロマンに彩られた 「幻想」 で、実際には日本的な信心と習合しつつ、キリスト教本来の祈りの言葉も 「オラショ」 と呼ばれる具体的な意味のわからない呪文のような言葉に変わり、「よくわからない民間信仰」 となって受け継がれてきたというのが実際のところらしい。

つまり、「お稲荷さん信仰」 とか 「お地蔵様信仰」 というのと、本質的な違いはないようなのである。「そんなバカな」 と思われるかもしれないが、仏教にしても 「南無阿弥陀仏」 や 「仏教とは四無量心これなり」 という言葉の本来の意味を理解している日本人がどれほどいるかと考えれば、「そんなものか」 と納得がいく。いずれにしても、かなり 「雰囲気のもの」 なのである。「雰囲気のもの」 だけに正面切って捨てにくいのだ。

幕末の開国直後に日本にやってきたプチジャン神父が長崎に創建した大浦天主堂で、長い弾圧に耐えてキリスト教信仰を守り通してきた浦上の信徒たちと感動の 「再会」 を果たしたという逸話も、「飛躍しすぎ」 と断じられている。日本の信徒がプチジャンに 「吾らの胸、あなたの胸と同じ」 と告白したというのは、よく考えるとあり得ない。

実際には、日本の隠れキリシタンたちは、「自分たちが先祖から伝えられた信心の本家本元」 が、突然日本に来たプチジャン神父であるとは、急には認識できなかっただったろう。事実に基づいて推理すると、プチジャン神父が本国に感動的に報告するために、昔からある 「貴種流離譚伝説」 になぞらえて創作したとみるのが自然のようだ。

現代になって信教の自由が認められても、教会に戻らない 「カクレキリシタン」 (もはや 「隠れ」 る必要がないから、宮崎氏はカタカナで表記している) がいくらでもいる。それは、宮崎氏に言わせれば 「隠れてもいなければキリシタンでもないから」 で、「クリスチャンでもない人に 『なぜ教会に行かないのですか』 と問いかける」 ようなものだという。

宮崎氏は、「隠れキリシタンのロマン」 がいかに幻想であるかを、実証的に示してくれているが、これら 「幻想」 の元は、我々現代の日本人がキリスト教に対して抱く幻想によるものなのだろう。確かに現代の日本人は、キリスト教はお洒落でロマンチックな宗教と思っていて、そのイメージを 「隠れキリシタン」 にも投影してきてしまったようだ。

こうした 「幻想」 は、日本に本当のキリスト教が根付きにくい原因にもなっているようである。クリスマスを受け入れ、ミッション系の大学の学生は多いのに、キリスト教信者は、人口の 1%にも満たない。

キリスト教は、中世日本においては 「御利益の多い南蛮渡来の神様」 と受け取られ、現代では 「お洒落な小道具」 程度に思われているようなのである。

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2018/06/30

「潜伏キリシタン」 ということ

日本が推薦していた 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」 が、UNESCO の世界遺産として登録された。これまで 「隠れキリシタン」 と言われていた存在が 「潜伏キリシタン」 と、聞き慣れない名称になっているのが興味深い。

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日本は 2007年に UNESCO への推薦の前段階としての 「暫定リスト」 に、「隠れキリシタン」 関連の資料を追加、そして 2015年に推薦書を提出した。しかしこの時点では却下され、UNESCO の世界遺産関連の諮問機関である国際記念物遺跡会議 (ICOMOS = International council on MOnuments and Sites) の 「日本の特徴である禁教期に焦点を当てるべきだ」 との中間報告に沿って申請し直しを行った結果、今回の登録につながったらしい。

なるほど、頷ける話である。キリスト教関連の遺跡というのは、日本だから珍しいだけであって、世界的に見ればいくらでもあるのだから、とくに 「世界遺産」 として登録するほどのものでもなんでもない。登録する価値があるとすれば、「禁教期」 において、250年もの間、カソリックなのにバチカンの指導から隔離された信仰を継続してきたという、極めて特異な点だ。こうした状況では、日本独自のフォークロアリスティックなものに変化しないはずがないじゃないか。

私は長崎に旅行した際に隠れキリシタン関連の遺跡を結構訪問している。その印象から湧いたのは、「隠れキリシタンの信仰は、正当なカソリックとはかなり違っているんじゃあるまいか。そのあたりを、どうやって折り合いつけるんだろう」 という疑問だ。祈りの言葉を、彼らは 「オラショ」 というようなのだが、それはかなり 「呪文」 の如くに変化しており、当の隠れキリシタンにさえも正確な意味は知られていないものもあるというのである。

これに関して 『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』 という本があることを知り、早速 Amazon で購入申込みをした。著者の宮崎堅太郎さんという方は宗教学者で、自身も隠れキリシタンの家に生まれたという人らしい。

これに関する 「サライ」 の記事に、次のようにある。(参照

宮崎さんは長年の調査研究の結果、「潜伏キリシタン」たちにとってキリスト教とは仏教や神道の神さまと同列か、あるいはそれよりちょっとご利益の大きい神様だったということに気がついた。それはキリスト教本来の一神教の神ではない。実際のところ、彼らの家には仏壇や神棚とともにマリア像がなかよく祀られていた。

彼らはなぜキリスト教風ともいうべき教えを守ってきたのか。聞き書きしたひとりの信者がこう語っている。「先祖たちが大切にしてきたものを、絶やすことなく守り続けるのが子孫としての大切な務めであり、自分の代で絶やしてはならない」。これは形を変えた先祖崇拝だと、宮崎さんはいう。

これはとても興味深いことである。一神教の代表格であるキリスト教が、多神教の国で存続してきたのは、こうした風土があったからだろう。

これ以上のことは、本が届いて読んでみてから、改めて書こうと思う。

【7月 2日 追記】

この件に関して、コラムニストの堀井憲一郎氏が "「潜伏キリシタン」世界遺産へ…日本人がしがちな誤解を解いておこう" という記事を書いている。これは 「制度」 の視点から書かれたもので、「信仰そのもの」 について深く考察したものではないが、確かに 「日本人のしがちな誤解」 を解く助けにはなるから、一読をお勧めする。

【7月 4日 追記】

「これ以上のことは、本が届いて読んでみてから、改めて書こうと思う」 と宣言したので、本日 "「潜伏キリシタン」 ということ その2" を書いた。

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2018/06/02

何事も諦めが肝心

昨年秋の 「東洋経済」 の記事だが、"不安に強い人は 「諦める」 を習慣にしている" というのがある。慈眼寺住職で大阿闍梨のお坊さんの文章だ。

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私の座右の銘の一つに 「何事も諦めが肝心」 というのがあって、自分でも諦めのいい方だと思っていたのだが、大阿闍梨というまでの偉いお坊さんの身に余るお墨付きをもらったような気がして、かえって 「それで本当にいいの?」 と不安になった。こんなことで喜んじゃいけない。こりゃちょっと、どこかに落とし穴がありそうだ。

件の文章を読んで見ると、まず 「四苦八苦」 の話が出てくる。「四苦」 とは仏教でいうところの 「生老病死」 (「しょうろうびょうし」 と読んでね) の 4つの苦しみで、これらは 「どうあがいても、誰も決して逃れることのできない必然的な定め」 であるという。そして 「八苦」 とは 四苦に以下の 4つの苦しみを足したものだ。

「求不得苦 (ぐふとくく))」 欲しいものが手に入らない苦しみ
「愛別離苦 (あいべつりく)」 愛する者と別れなければならない苦しみ
「怨憎会苦 (おんぞうえく)」 嫌な人と出会ってしまう苦しみ
「五蘊盛苦 (ごうんじょうく)」 世の中はままならないものだという苦しみ

これらは、四苦と違って、避けられないものではなく、自分の心でコントロールすることができるものだという。つまり、心次第で 「八苦」 のうちの半分はなくすことができるのだ。イラッとしたりムッとした時などに、「心の針」 をプラスに戻すことによって、苦しみはなくすことができるのだと説かれている。

うむ、これなら、特別難しいことじゃない。それどころか、「生老病死」 の四苦だって、私はことさら耐えられないほど苦痛だと思ったことがないから、根っから 「プラス志向」 で生きてきたものらしい。

既に還暦を 5年も過ぎているから、これからどんどん 「老いの苦しみ」 というのが出てくるのかもしれないが、私としては、「年取るのも結構楽しいしね」 なんて思っている。安倍首相は 「高齢者と言われるのは嫌だ」 なんて言って、名称見直しを言い出しているらしいが、もっと他にやることあるだろうに。

私は早く 「後期高齢者」 と呼ばれる年になりたいとまで思っているほどだし、なんなら 「末期高齢者」 と言われてもいい。このことについては、6年近く前に "「後期高齢者」 という呼称を巡る冒険" という記事で書いているが、この記事、今読み返しても、我ながらなかなかいいことを言ってる。

安倍首相はどうでもいい呼称問題に国民の目を向けさせて、肝心の高齢者医療制度をウヤムヤにしたいんじゃなかろうかと、私なんか疑っているのだよ。

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2018/04/07

土俵と女性

京都府舞鶴市で行われた大相撲の春巡業で、土俵上で倒れた多々見良三・舞鶴市長に心臓マッサージを行っていた女性に、「土俵から降りてください」 と呼びかけたというニュースが結構な問題になっている。これに関して、専門医師が女性の取った措置は完璧と太鼓判を押したことが HUFFPOST に報じられている。(参照

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私はこれに関するビデオを今日初めて見たのだが (上の写真にリンクする HUFFPOST の記事で見ることができる)、土俵に上がった男性がほとんどおろおろしている中で、女性 2人がとても冷静に必要な措置を講じているのが確認できる。舞鶴市長は、倒れた現場にこうした女性が居合わせたことを、「不幸中の幸い」 として天に感謝すべきだろう。

この問題に関して私は、4月 5日に次のように tweet している。(参照

心臓マッサージしてる女性に「土俵から降りろ」 は言語道断だが、それとは別の次元の話として、土俵には命を落としても本望という覚悟で上がらねばならないのだ。たとえ単なる挨拶のためとはいえ、あくまでも「覚悟」としてはね。

この tweet は、その 2日前の 「東京駅のゴミ箱、ぼってる」 より多少はわかりやすかったようで、「リツィート」 と 「いいね」 が 1件ずつあった。

私は 「慣習」 というのか 「伝統」 というのか定かではないが、「女性は土俵に上げない」 という不文律に関しては、大相撲関係者には恐縮だが、「本質的にはどうでもいいこと」 と思っている。あまり語られないことだが、昔は 「女相撲」 という色物的興業もあったことだし、それほどしゃっちょこばって語っても仕方がなかろう。

ただ、宝塚市の中川智子市長が 「土俵上で挨拶したい」 と申し入れて断られた (参照) という件に関しては、上の tweet で述べたように 「『土俵上で命を落としても本望』 という覚悟があるならどうぞ」 と言うほかないと思っている。極端な話ではあるが、狂信的な男性至上主義者が土俵に駆け上って襲いかかり、結果的に命を落としたしても後悔しないほどの覚悟だけはもって上がるべきだということだ。

一方東京都の小池知事は 「東京・両国国技館で自身が土俵に上がり、優勝力士に都知事杯を授与することに関しては、『手渡すことにチャレンジするエネルギーを費やすつもりはあまりない』 と答えた」 と報じられている (参照)。これはこれで賢明な考えだと思う。

こんなことを言いすぎると 「お前は土俵に上がった女性は殺してもいいというのか」 とか 「女性が土俵に上がることについて、不等なプレッシャーを与えるのか」 なんて短絡的な批判が出かねないので、実はあまり直接的には言いたくなかった。しかし冷静に読んでもらえば、そんな馬鹿なことを言っているわけではないと理解してもらえるだろう。「土俵で命を落としても本望」 という覚悟が求められるのは、男女共通のことだし。

この 「覚悟」 というのは、昨日の記事 (参照) で 「私なんか 『伝統』 というのはかなりラジカルな側面をもつと信じているのでね」 と書いた一つの要因でもある。

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2018/04/06

西部邁氏に関する最近の報道から

西部邁氏の 「自殺」 に協力したという人物が 2名いて、自殺ほう助容疑で逮捕されているのだという (参照)。「なんだかなあ」 と思ってしまう話である。自らの死生観に沿って自分で命を絶つのは、まあ勝手にすればいいことだが、複数の人間に自殺を手伝わせて警察沙汰にしてしまったことで、その美学の価値は損なわれてしまったと思うのだ。

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逮捕された 2人は、西部氏の 「信者」 と言われているらしい。こうなるともう、宗教みたいな言い方である。そんなことで他人まで巻き添えにしてしまうのは、いかがなものか。自分で死を選ぶなら、最後まで自分の責任で完遂すべきだった。

西部邁という人には、実はほとんど関心がない。その昔、「新しい歴史教科書を作る会」 という団体の肝いりで出版された 「国民の道徳」 という本を買ったが、内容的に賛成とか反対とかいう以前にあまりの退屈さに匙を投げて、3分の 1も読み進まないうちに古本屋に売ってしまった覚えがある。多分、思考の回路の波長が合わないんだろう。

西部氏は 「経済学者」 という経歴をもつが、 「正統的経済学」 には批判的で、Wikipedia によると次のような思想をもっていたという。(参照

人間の社会的行動とは、合理的な面と不合理的な面の二重性を本質的に保持し、この不安定な二重性を均衡させる力を、西部は 「慣習」 または 「伝統」 と名付けた。

というわけで、この 「慣習」 「伝統」 という要素への積極的信頼が、彼をして 「保守思想家」 たらしめたんだろう。しかし私の感覚からすると、こうした思考そのものが、彼なりの 「合理主義への忠義立て」 みたいに思えるのだよね。

彼の著書を読んで退屈でたまらなくなった要因の一つは、「伝統」 という要素を 「合理」 と 「不合理」 の緩衝材みたいに位置付けているのを感じてしまったことだと思う。私なんか 「伝統」 というのはかなりラジカルな側面をもつと信じているのでね。

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2018/03/03

「我々は既に 『ロボット』 なんだから」 という思い

NHK BS で、"最後の講義 「石黒浩教授」" という番組を見た。見たと言っても、妻が旅行に行っているので、洗濯機を回したり物干しをしたりしながら細切れに見ただけで、みっちりと付き合ったわけじゃない。ただ、それなりに思うことがあったので、ここにちょこちょこっと書いておこうと思う。

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この番組は昨年 7月に放送されたもので、今回は再放送ということになっている。検索してみたら世の中恐ろしいもので、録画の完全版が こちら にあるので、興味のある方は行ってみるといいかもしれない。私は忙しいので、敢えて完全版を見直そうとは思わないが。

番組自体は、「もし今日が人生最後の講義だとしたら、教授は学生に何を語るのか?」 というコンセプトで製作されている。これ、米国で流行った試みのようで、今回は自分そっくりのロボットを作ったことで有名になった石黒教授がこのコンセプトのもとに、「すべての人間はロボットになる」 というメッセージを発しているわけなのである。

彼は 「人間は 1000年後に環境変化に付いていけず、滅亡」 「人間は無機物から生まれ、無機物に帰ろうとしている」 「進化の最終段階としての人間は、自らを無機物に置き換えて、生物の制約である 120年の寿命を越えようとしている」 つまり 「すべての人間はロボットになる」 と、主張している。

なるほどね。これは決して無茶な極論じゃない。「ロボットの研究は人間とは何かという根本的な興味から始まった」 という石黒教授の、現段階での最終回答なのかもしれない。

ところで私は元々、人間というのはロボットみたいなものだと思っている。有機物と無機物の区別さえしなければ、我々みんな、一種のロボットなのだ。ということは、石黒教授が 「自分のロボット」 を製作した如く、「オリジナルの自分」 はどこか別の所にあるので、それを追求したいという思いはあるのだが。

石黒教授が講演依頼を受けて、「本人とロボットの講演どちらにしますか?」 と聞くと、ほとんどが 「ロボット」 という返事なのだそうだ。「本人よりロボットが見たい」 のだという。それは当然だ。ロボット研究の第一人者に講演依頼をして、「ロボットを派遣しようか?」 と言われれば、そりゃ、ロボットの方を見てみたい。それが人情というものである。

で、今のところはどんなに精巧なロボットを作り、精巧なプログラミングをほどこしても、やはりどうみてもロボットじみた動きしか実現されていないから、それを見た人間はある種の安心感を抱く。それは私に言わせれば、「俺の方がロボットとしてずっとよくできてるじゃないか」 という自己満足にほかならない。

そしてそのうちに作り物のロボットに飽きてきたら、より本物と区別が付きにくい新型ロボットを派遣しなければならなくなる。それでもやっぱり生身の人間との 「差異」 が目立ってしまうだろうから、またさらに進化したロボットを作らなければならない。

そして究極的に生身の人間との 「差異」 がわからないほどの進化を遂げたら、人間なんて贅沢な存在だから、今度は 「ロボットとしての面白みがない」 なんて言い出すに決まっている。自分自身が 「ロボットとしての面白みがない存在そのもの」 のくせに。

というわけで、まあ、現段階の 「生身の人間」 に似せたロボットというのは、ロボット進化の初歩の段階なのかも知れないね。我々が 「生身の肉体」 から開放されたところに、新段階があるのだろう。それは 「ロボットとしての面白みたっぷり」 の開発をして、新しい哲学を生み出す段階なのかもしれない。

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2017/12/10

日本人の独特すぎる宗教観

NewSphere が 「日本人の宗教観、海外と違うけど変じゃない? 米メディアが探る日本人の心根」 という記事を報じている。米国のメディアが 「宗教と信仰が大部分において乖離している日本の状況について論じた記事」 を紹介したものだ。

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クリスチャン・サイエンス・モニター紙 (CSM) は、日本人の 62%が無宗教としているのに、多くの人が寺社仏閣などに参拝している日本の状況を、ある参拝者の 「神社にお詣りするのは、宗教を信じているのとは別」 というコメントを切り口にして、日本では、「宗教が生活の慣習の一部として存在」 し、「聖と俗が分かちがたい状況にある」 と説明している。これ、なかなかいいところを突いた指摘だと思う。

米公共ラジオ放送 (PRI) は、東京渋谷の金王八幡宮の田所克敏宮司の言を紹介している。彼は 「ある日、仏陀と呼ばれる神がアジア大陸からやってきた。その後、キリストと呼ばれる神が船でやってきた。すでにいた八百万の神にもう 2つ加わった、というだけのこと」 と、かなり乱暴なことを言っているのだが、まあ、ある意味日本人の宗教観が実際に乱暴だということだ。

田所宮司はこのあたりのことを、「人々は宗教を、何を信仰しているのかという観点ではなく、儀式の観点から見ている」 と説明する。そのため、子どもが生まれれば神社にお宮参りし、結婚式はキリスト教スタイルにし、葬式は仏教の形式で執り行う。西欧的な常識からすれば乱暴極まりなく、冒涜的ですらあるが、日本ではそれを誰もとがめない。

別のアメリカのメディア PBS (Public Broadcasting Service) は、東日本大震災の被災地の人々が見せた忍耐強さを、「荒ぶる神」 の視点から論じている。ケンタッキー州ベリア大学のジェフリー・リチー准教授は 「日本の神は善いものも悪いものもさまざまおり、その心も行いもとりどりであり、人の小さな知恵では計り知れないもの」 とする。

「聖」 と 「俗」 を明確に区別している西洋的な宗教観からすると、日本人のそれは、かなり異質と言わなければならない。日本人は 「聖なる絶対的存在」 である神に 「宗教的導き」 を求めるわけではなく、ただひたすら 「受け入れる」 のである。現世利益を求めながら、時には 「荒ぶる神」 さえも、ひたすら受け入れるのだ。

早稲田小劇場を主宰していた鈴木忠志氏は、活動の場を東京から富山の山奥に移すにあたり、「これは 『信心』 からきたものだ。自分は神仏に対する態度を 『信仰』 ではなく 『信心』 と言いたい」 と語っていた。彼はこのあたりの日本的心根をかなりよく理解していたのである。

私は、日本人にとっての神は、「気配」 なのだと思っている。絶対的なものじゃないのだ。宗教的には非常にプリミティブである。こんなにプリミティブな人たちが高度な文明の中で暮らしているのは、西欧的視点からは確かに驚き以外の何物でもないのだが、当の日本人はこの点について、まったくあっけらかんと全然無頓着なのだよね。

この無頓着さに関しては、日本人の私でさえ時々呆気にとられる。

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2017/07/04

「リアル」 と 「バーチャル」

6月 30日の記事で、私はオーディオや映像のデバイスにやたら高い金をかけることについての疑問を呈しておいた。(参照

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オーディオに関して言えば、記事の中で 「慎ましい音を聞きながらでも、脳内ではオリジナルの素晴らしい音に変換されている。要は、時々ちゃんとしたナマの音楽を聴くことで、想像力を鍛えればいいのだ」 と書いている。オーディオ機器に何十万円もかけるより、1度の 「本物」 のコンサートを聞く方が財産になると思うのだ。

これに関して、山辺響さんが、次のような示唆的でおもしろいコメントをしてくださった。

去年、私の唄三線の師匠がハイレゾ・レコーディング (?) でアルバムを出したのですが (当然ながら CD の容量には収まらないデータ量のため、ダウンロード販売)、弟子どもにとっては、ありがたさがよく分からず……。

確かに 「すぐそこで師匠が歌っているようではある」 とは思うのですが、ふだんから 「すぐそこで師匠が歌っている」 状況に慣れているので、それに比べて音がいいわけもなく。

それどころか、稽古のときにちょっとした IC レコーダーで録音したものでも十分じゃないかと思うのは、さすがに耳が上等でないのかもしれませんが (笑)

これに関して、私はとても共感できたので、次のようなレスを付けた。

その気分、よくわかります。
聞く専門じゃなくて、自分でも演奏する立場だと、「音」 を聞いてるんじゃなくて、「演奏の方法論」 を聞き取ってるんですよね。

一流のギタリストのコピーをしようとする時、音を何度も繰り返して聞くが、その際に 「音質」 はあんまり関係なかったりする。こちらとしてはそのプレイヤーの 「指使い」 や 「息づかい」 までこちらの中に取り入れてしまいたいと思っているので、「即物的な音の良さ」 に関しては忘れてしまっているのだ。まさに、「ちょっとした IC レコーダー」 の音でも十分だったりする。

そもそも 「何がリアルなのか」 を考えてみれば、それはわかる。人間の認識は人それぞれの感覚器官を通じたものだから、人の数だけの 「リアル」 があると言っていい。それぞれの人の認識した 「リアル」 も、実はそれぞれの人の感覚器官を通じて脳内に構築した 「バーチャル」 なのだ。

本当の自然の素晴らしさを知っている人にとっては、ある山の小さな写真 1枚で、その素晴らしい光景が再現され、吹く風の心地よさまで感じることができたりする。そうなると、写真というのは完成形ではなく、いかに素晴らしい入り口を提供できるかという作業だったりすることもあるとわかる。

その 「人それぞれのリアル、あるいはバーチャル」 の奥の奥に、「真実」 のようなものを見出せるかどうかは、その人の感性と経験を通じた訓練によるとしか言いようがない。そして芸術は 「単なる模倣」 ではないので、バーチャルをリアルに近づけることだけを目的とする営みは、あまりおもしろくなかったりする。

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2017/06/12

想念の具象化 その 4

想念の具象化 その 3」 という記事を書いたのは、3年以上前のことだった。そもそもの発端は約 14年前に書いた話で、要するに私はそれまで、毎年 1度以上はクルマのタイヤをパンクさせてしまう男だったのである。

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ところがそれまで抱いていた 「パンクはするものだ」 という想念を 「パンクなんてしないものだ」 と変えたとたんに、突然パンクしなくなったという、ウソのような本当の話なのだ。みっちりと繰り返すのは面倒なので、ことの次第を記した記事を、以下に時系列で示し、遡って読む時間のない人のために、要約を記しておく。

「パンク男」 を返上したい (2003年 7月 7日)

それまで 「パンクはしょっちゅうするものだ」 と思い込んでいたのだが、タイヤ屋のオヤジさんに、「しない人は全然しませんよ」 と言われ、「それじゃあ、自分もパンクしない男になりたい」 と思った顛末。

想念の具象化 (2006年 9月 25日)

それまで毎年のようにパンクしていたのに、「パンクなんてしないものだ」 という想念をもってからというもの、3年以上パンクしていないことに気付いた。

想念の具象化 その 2 (2008年 2月 19日)

本当に久しぶり、4年 8ヶ月ぶりにパンクしてしまったが、毎年 1度以上パンクしていた頃と比べたら、雲泥の差と実感した。

想念の具象化 その 3 (2014年 4月 14日)

「パンクはしないもの」 という想念を持続したおかげで、それからさらに 6年以上、1度もパンクせずに済んでいる。

そしてそれからまた 3年以上、つまり最後にパンクしてから数えれば 9年以上経ったが、その間に 1度もパンクしていない。約 14年前まで、「パンクはするものだ」 と思い込んでいた頃には、毎年 1度以上パンクしていたのに、「パンクなんてしない」 という想念に一転させてからというもの、14年間で 1度しかパンクしていないのだから、我ながら驚きである。

そして、もうすぐ 「10年間パンクなし」 という、クルマを運転するようになってから 1度も経験したことのない快挙を達成しそうな勢いなのだ。くどいようだが繰り返す。この変化の要因は 1つしか思い浮かばず、それは単に、自分の想念を 「パンクなんてしない」 と変えたことである。

この事実の受け取り方には 2種類あるだろう。1つは 「たまたまそうなっただけさ」 という解釈。そしてもう 1つは、「想念を変えると、人生も変わる」 という解釈だ。私としては、後者の解釈で行きたいと思っている。その方がずっと当然の流れと思うからだ。「そんなの疑似科学だ」 と言う人がいても、一向に構わない。

現実的なことを言えば、「パンクなんてしない」 と強く想念することで、釘やガラス片の多そうな所 (道路の端など) は意識的に避けたり、慎重に進んだりするという変化は当然あったしね。想念だけが変わって行動には全然反映されないなんてことの方が、科学的に考えても不自然だ。もし反映されなかったら、それは想念の変わりようが中途半端だってことだ。

これは神社で高額の祈祷料を払って 「交通安全祈願」 なんかしてもらうよりも、ずっと手軽に実現できる。何しろ金は 1円もかからないのだから。それに私は 「水からの伝言」 みたいに 「タイヤからの伝言」 なんて本を出して儲けようって気はさらさらないので、妙なツッコミは無用である。

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