カテゴリー「哲学・精神世界」の75件の記事

2008/06/28

世界とのよき縁結び

今月 16日、例の秋葉原の無差別殺傷事件について、「この類のニュースには触れたいとは思わなくなってしまった」 と書いた。

しかし、近頃ようやく少しは自分なりのことを書けるような気がしてきた。やはり、すぐに反応せずに、少しは寝かせておくことも大事なのかも知れない。

無差別殺傷事件といえば、まず思い起こされるのが、5年前の池田小事件である。その後今年になって、3月の土浦市荒川沖での殺傷事件、今月の秋葉原での事件と続いて、世の中にかなりのインパクトを与えている。

今年に入ってからの事件は、荒川沖の事件の金川真大容疑者がかなりのゲームおたくで、頻繁に秋葉原に通っていたことが伝えられ、今月の秋葉原事件の加藤智大容疑者も、ケータイの掲示板サイトで犯行予告していたとして、「秋葉原的」 な、何らかの傾向が犯罪に関わりがあるかのように論じられている。

しかし、問題なのは 「秋葉原的」 という要素ではない。かつては 「新宿的」 要素が犯罪の温床のように言われていた。要するに、その時々の 「満たされない心」 が、シンボルとしての、ある一定の街に惹かれてしまうということになる。

一昔前は新宿に向いていた 「満たされない心」 が、今は秋葉原に向いているというだけのことだ。

その 「満たされない心」 というものが、無差別殺傷事件につながったわけだが、私は、それは最終的に 「破壊願望」 が外に向いた結果だと思っている。内に向いたら自殺という行為になる。奇しくも今年は、硫化水素による自殺が一種の流行現象のようになったが、根っこは同じ 「破壊願望」 だと思うのだ。

池田小事件の宅間守なんかは、死刑判決が決定するやいなや、「死刑は、殺される刑罰や。6ヶ月過ぎて、何時迄も何時迄も嫌がらせをされる刑罰ではない」 と言って、早急な死刑執行を要求している。見ようによっては、自殺するのが嫌だから、死刑になって他人に殺してもらいたがった事件のように思える。

考えてみれば 「満たされない心」  なんていうのはそれほど珍しいものでもない。たいていの人間は 「満たされない心」 をもっている。その心が 「破壊願望」 になってしまうには、やはりそれなりの条件が必要だ。

それは、化学変化を起こすときの 「触媒」 のようなものである。いつの時代にも、「満たされない心」 が 「破壊願望」 に化学変化を起こすために必要な 「触媒」 というものがある。

我々が問題にしなければならないのは、その因果関係と触媒についてなのだと思う。同じものがすべてのケースで 「悪しき触媒」 として機能するわけではない。ある条件にあてはまると、それが暴走を引き起こす。

仏教では、「因果」 ということを重要視する。今の言葉で言えば 「原因と結果」 ということで、実は非常に論理的な考え方だ。そして、仏教の眼の透徹したところというのは、「原因と結果」 だけでは物事は割り切れないと指摘している点だ。そこには 「縁」 という要素が必要になる。

そこで 「因果」 とともに 「因縁」 ということも重要視される。三つの要素をひっくるめて 「因縁果」 と言ったりもする。「縁」 とは、まさに 「触媒」 である。

世の中の大きな動きをせき止めたりすることは、個人の力では難しい。それならば、せめて自分の周りで 「よき触媒」 として機能するような 「縁」 を、少しずつでいいからこしらえていきたいと思うのである。「世界とのよき縁結び」 である。

私にはそれぐらいしかできないが、それが実は大きな力になると考えるほどのオプティミズムを、まだ捨てたわけではない。

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2008/05/31

「信仰」 と 「信心」 は似て非なるもの

「信仰」 と 「信心」 とは、どうやら似て非なるもののようなのだ。読売新聞の調査によると、日本人のうち、特定の宗教を信仰しているのは 26%で、無宗教は 72%なのだそうだ。

そのくせ、「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」 という人は 56%と、半数以上を占めたという。(参照

私は 3年近く前に 「投票と信心」 という記事を書いている。「支持政党なし」 という比率と、「宗教を信仰していない」 という比率が、とても似通っているということに注目して、「日本人は旗幟鮮明にすることを好まない」 と書いたものだ。

この時の記事の元にしたデータは、NHK 放送文化研究所の 『放送研究と調査』 (1999.5) からの孫引き (参照) だが、それによると、具体的に信仰する宗教をあげた人は 35%で、宗教を信仰しない人は 56%だった。

とすると、このほぼ 10年の間に、日本人はより不信心になったようにみえる。ところが、そのくせ、「日本人は宗教心が薄い」と思う人は 45%に止まり、そうは思わない人が 49%となっている。

また、先祖を敬う気持ちを持っている人は 94%に達し、前述の如く 「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」 という人も 56%と多数を占めた。

私はこのブログを書くにあたって、日本人の宗教心について触れるときには 「信仰」 という言葉を使わず、特別な理由がない限り 「信心」 ということにしている。これは、かなり意識してのことである。

多くの日本人は 「信仰深い」 とは決して言えないが、「信心深い」 日本人はいくらでもいるのだ。これは単なる言葉のアヤではない。

今回の読売新聞の調査について、宗教学者の山折哲雄氏は紙上で次のように解説している。

日本人の信仰は多くの神々を信じる多神教だ。日本の豊かな自然は人間をその懐に包みこんで、神や仏といった人間を超えた存在を感じさせる力を持っている。日本人は唯一の超越的な神を信じる一神教を求める必要はなかった。

多神教が 「感ずる宗教」 だとすれば、一神教は 「信ずる宗教」 だと言える。

なるほどうまい表現である。

その上で山折氏は、日本人が明治以降キリスト教的な考え方を受け入れてきたために、「宗教を信じることとは、一神教を信じることなのだ、という価値判断をしてしまっている」 と指摘し、「この尺度は改める必要があるのではないか」 と述べておられる。

そして、「今回の調査からは、日本人の高い宗教心、信仰心がうかがえると言ってよいのではないか」 としている。かなり意表を突いた逆説的結論だ。

ただ、「日本人の高い宗教心、信仰心」 と言ってしまうと、違和感を覚える人が多いと思われる。そこで私は、「信心」 と言い換えているわけだ。日本の神道というのは、「信仰する宗教」 ではなく、「信心する宗教」 なんだと思うのである。

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2008/05/27

大きなお世話も時には必要

作家 曽野綾子さんが産経新聞の一面に連載する 「小さな親切、大きなお世話」 というコラムがある。

その 5月 23日付で彼女は、「世間の青少年の犯罪者が、自分は親から虐待を受けたり放置されたせいで罪を犯すようになったというのを聞くと、腹が立ってくる」 と書いている。

この文は、「私は円満でない家庭に育ったので、多分ひね曲がった根性は残ったのだが」 という節の後に続いており、さらに段落を変えて、「ひずんだ家庭の体験があればこそ、私は自分の家庭がとにかく穏やかであることを望んだ」 と続けている。

つまり彼女は、「円満でない家庭で育ったのであれば、逆に穏やかな家庭を作ろうと努力することこそが望ましいソリューションであり、そのことを、犯罪を犯した理由にするなどというのは、言語道断」 と言いたいのだろう。確かにそれは 「正論」 である。

しかし世の中というのは、正論が通らないところなのである。正論がすいすいと通るようなら、誰も苦労はしないのだ。そして、正論が通らない不条理の世の中であるから、生きていて面白いのだとも言える。

彼女ぐらいに強い自我を持っていれば、親に十分な愛情を注がれなかったら、それを反面教師にすることぐらいは、むしろ容易なことだろう。家庭の問題を自分の非行の理由にするなんて、甘えるにもほどがあるということになる。

しかし、誰もがそのような強い自我を持っているわけではない。多くの人間の自我は、風に吹かれる柳のように、ただ揺れ動いていて、いつも正しい選択ができるとは限らない。逆に、「そうなりたくない」 と思う方向にこそ、強く引かれていってしまうようなところがある。

不幸は甘美な罠なのである。自分以外の誰かのために自分が不幸になれば、自分は弱者と規定されるから、たとえ罪を犯したとしても、自分の意識の中ではむしろ 「被害者」 であり、 「無罪」 であり得るのである。甚だ勝手な理屈だが、元々不条理の産物だからしょうがない。

あるいは、罪を犯すという惨めな境遇にまで追いつめられたればこそ、自分は無実であり得るとも言える。自分が罪を犯すまで追いつめられなかったら、誰かさんに元の罪を着せるわけにいかなくなるから、それは大変な 「不都合」 ということになるのだ。

子が罪を犯すのは、親に向かっての 「お前らの罪に気づけよ!」 と叫ぶサインという場合がある。体を張っての不条理なサインである。世の中には、論理的なソリューションを実行できず、こうした不条理なサインでしか自分の葛藤を表現できない子どもたちが、大勢いるのである。

私が昨日のエントリーで、「不良を讃えるドラマ」 に関して 「功罪相半ばする」 として、一方的に批判しなかったのは、こうした理由があるからだ。ある視点からは、仲間由紀恵はフィクションとしての観音菩薩であったりする。

子どもたちの 「不条理なサイン」 を、彼らのもがき苦しむ煉獄まで降りていって理解してやるというのは、やはり観音菩薩の行なのであって、必ずしも 「不良を讃える」 とか 「甘やかす」 とかいうわけでもなかったりする。それは、時には最大級のお世話でもあり得る。

観音菩薩は三十三身に身を変えて、時には地獄の底まで降りていって、衆生を救い給うのである。地獄の底まで降りていくのに、正論もへったくれもないのである。

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2008/05/26

不良を讃える学園ドラマの功罪

"「ごくせんは不良を讃えるな」 和田秀樹さんがコラムで異論" というのが、「痛いニュース」 で話題になっているのを見つけた。(参照

精神科医の和田さんが 「この手の 『秀才=悪』 『不良=心はきれい』 という図式は、ある種の青春ドラマのステレオタイプのようになっている」 と、雑誌コラムで指摘したらしい。

実は、私はあまりテレビを見ないので、「ごくせん」 という番組も当然ながら、何かの偶然でちらっとしか見たことがない。その上であえて言うのだが、「うん、確かに、『秀才=悪』 『不良=心はきれい』  というステレオタイプは、あるだろうな」 と思う。

これは大衆ドラマでは、ある意味、仕方のない構造である。昔から、「強欲な悪代官 vs 純朴で善良な農民」 とか 「悪徳商人 vs 純朴で善良な町人」 とか、そんな構図がもてはやされてきた。

で、現代社会の矛盾の縮図である 「学校」 を舞台とした学園ドラマでも、「陰険な秀才 vs  (心ならずもワルとして振る舞ってはいるが、実は) 純朴で善良な不良」 という構図が必要なのだ。学園ドラマでの秀才は、悪代官や悪徳商人同様に、「悪の支配階級」でなければいけないのである。

と、ここまでを前提としておいて、敢えて言わせてもらうが、私は 「水戸黄門」 なら見る気がするが、ここで話題とされているようなタイプの学園ドラマは、見る気がしないのである。描かれている 「秀才」 も 「不良」 も、カリカチュアされすぎていて、リアリティがない。

「水戸黄門」 などの勧善懲悪時代劇なら、それでも許せるが、学園を舞台とした現代のドラマでは、それをテレビで見るであろう現実の秀才もワルも、あるいは元秀才も、元ワルも、あまりにもいじらしすぎる。

記事の中でも、東京・多摩地区のある市立中学校校長が、頭がいい真面目な子がバッシングの対象になる 「現代型のいじめ」 という問題を指摘している。「金八先生」 がもてはやされた 20年ほど前から言われているらしい。

大人の社会では、勧善懲悪ドラマの余波で悪く言われるかもしれないお役人や議員の先生は、大衆からある程度離れたところにいる。ところが、学校では同じ教室にいるのである。

これでは秀才もワルも、ストレスが大きすぎてあまりにも気の毒である。それで、頭のいい子の親はこぞって 「有名私立」 という無菌室に入れたがり、公立校は先に触れた 「(心ならずもワルとして振る舞ってはいるが、実は) 純朴で善良な不良 (プチ不良を含む)」 ばっかりになる。

それで、実は純朴で善良な子も、公立校でイジメの対象とならないために、時には心ならずもワルとして振る舞わなければならなくなる。そして、そのセイフティネットは、テレビの中に 「学園ドラマ」 としてきっちりと張られている。

「俺たち、ワルっぽく見えるだろうけど、本当は、純朴で善良なんだからね」 というメッセージを、テレビが代わってどんどん発信してくれる。「だから、俺たちのことをきちんとわかってくれさえすれば、俺たちだって、ちゃんと心を開いてやるからな!」

というわけで、下手すると 「わかってくれるまで心を開かない」 タイプの子ができてしまう。わかってもらえないのは、わかってくれない大人が悪いのであって、自分からは決して説明したりしないというタイプの子が、昔からいる。学園ドラマは、そういう子の免罪符になっているかもしれない。そうした意味で、功罪相半ばするところである。

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2008/03/27

信心と方便

信心深い人の中には、病気になったりすると 「神様が私に病気を与えて、私の生活習慣の至らないところに気付かせてくれたのだから、ありがたい」 なんて言う人がいる。

そんなことを聞くと、私だって決して信心がないわけじゃないが、「そんなうっとうしいことをする神様なら、いらん!」 と思ってしまう。

「神様が病気を与えてくれて ……」 みたいなことを言うのは、私の単なる印象だが、熱心なクリスチャンに多いような気がする。その敬虔さは尊敬に値するが、自分もそうなろうとまでは思わない。

人間の至らなさに気付かせるために、わざわざ病気にしてしまうというのは、全知全能の神にしては芸がなさすぎる。実際のところは、自分の生活習慣に問題があったから、自然の摂理として、自分で勝手に病気になったというだけの単純なことである。

病気の製造元を神様に帰すのは神様に申し訳がなかろう。神様はきっと 「おいおい、わしはお前を病気にした覚えなんかないぞ」 と言うに違いない。

しかし、この誤解もケース・バイ・ケースである。「自分のこれまでの至らなさに気付かせていただき、既に気付いたのだからありがたいことで、この病気もすぐに治る」 と信じて療養すれば、悲観しながら医者にかかるよりも、ずっと治りが早いだろう。

感謝の心に満ちたポジティブな想念を持つ患者が、悲観的な患者に比べて病気の治りが早い傾向にあるというのは、身近な経験知だけでなく、いくつかの調査でも実証されている。

「神様が病気を与えて ……」 というのは、方便というものである。方便というとなんだか軽く聞こえるが、法華経のなかには 「方便品」 という重要な記述があって、なかなか奥が深いのである。ここで論じると長くなるので、こちら をご覧いただくと、糸口にはなる。

方便というのは人間を究極的真理に導くための門のようなものと思えばいい。ということは、方便は便利だが、それ自体は真理ではないのである。そして、真理ではないが、まんざらでたらめというわけでもない。

古き良き時代には、かなりテキトーな方便でも、要するに 「ありがたい」 とさえ思わせてしまえばこっちのもので、病気もひどくならずに、たいした問題もなくことが済んで、丸く収まっていた。ところが、今の世の中はなかなかうっとうしいことになっている。

「人の至らなさに気付かせるために病気を与える神」 の代理人、あるいはその神そのもののような顔をして、信心をぼろい商売にしてしまう者が後を絶たないのである。何しろ病気というのは信心の入り口みたいなものだから、あそこが痛い、ここが苦しいと言っている人に神懸かり的なことを言えば、イチコロなのだ。

今の世の中に生きる我々は、用心しなければならない。方便は方便として、そのからくりを理解した上で、その方便のいいところを抽出して有効活用するほかない。実はそれこそが方便の肝要で、これができないと、方便が迷信に堕落してしまう。

一応、「ありがたさ」 がいいらしいということはわかる。しかしその一方で、「病気を与える神」 は単なる方便の産物で、下手するとうっとうしいことになるということも理解しなければならい。

となれば、要するに、「ありがたさ」 だけ残して 「病気」 は忘れればいいのである。「病気を与える神」 を否定するあまり、「ありがたさを教える神」 まで否定しては、「羮に懲りて膾を吹く」 ということになる。

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2008/03/19

比叡山の頂きに至る道

夏目漱石の 『虞美人草』 という小説は、2人の男が京都から比叡山目指して登って行こうとする描写から始まる。

「随分遠いね。元来どこから登るのだ」 と片方が問えば、もう片方が 「どこか己にも判然せんがね。どこから登ったって、同じ事だ。山はあすこに見えているんだから」 と答える。

先日比叡山延暦寺に初めて参拝して、この小説の冒頭が、延暦寺そのもののメタファーのように思えてきた。「どこから登ったって、同じ事だ。山はあすこに見えているんだから」

今は京都の八瀬と志賀の坂本からケーブルカーで登れるようになっていて、とても楽になったが、漱石の頃には足で歩いて登るしかなかった。なかなかの骨折りである。しかしそれだけに、いくつかある登り口の、どこから登るのも自由だった。

延暦寺は、唐で天台教学、戒律、密教、禅を学んで帰朝した最澄の開いた寺で、当時の最高の学問を学ぶことができた。要するに平安時代の総合大学のようなものだった。それだけに、比叡山からは後の鎌倉仏教の大スターたちが輩出した。

踊り念仏の空也、浄土宗の基礎を築いた源信、京都大原に来迎院を建て、声明を大成した良忍、浄土宗の開祖である法然、その志を継いで浄土真宗を開いた親鸞、禅宗系では、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元。

さらに法華教の日蓮、その他にも、時宗を開いた一遍など、日本仏教のメジャーとして今の世にも大きな影響力を持つ宗派の開祖が輩出している。これほど大きな影響力をもった寺は、他にないだろう。

比叡山に詣でてみると、そこには阿弥陀信仰、法華経信仰、禅のファクターがきちんと存在しているのがわかる。根本中道には、さすがに密教らしい大日如来像があり、さらにその近くに立派な阿弥陀堂がある。

阿弥陀堂だけを見れば、まるで浄土宗系の寺と見まごうばかりだ。私は浄土真宗の家に生まれたせいか、阿弥陀如来像の前だと、いくら座っていても退屈しない。先日は時間がなくてゆったりとしている暇がなく、残念なことだった。

多くのファクターが渾然一体となって、比叡山というエリアを形成している。日本仏教の源みたいなところだ。それだけに、念仏という登り口から登っても、あるいは、法華経、禅という登り口から登っても、確かに比叡山の頂には辿り着けるのだろう。なるほどと思う。

しかしよく考えてみると、山の頂というのは、遠く離れたところからなら明確に眺められるが、いざ山道に入ってみると、視界から外れてしまうのである。山道を登っていると、ただひたすら高きに近付いているという感覚はあるものの、昇り着く頂が何の山だかわからなくなるのだ。

下手したら、とんでもない魔境に行き着いてしまうかもしれない。それだけに、先達は必要なのである。少なくとも信頼の置ける標識がないと、まともな頂には辿り着けない。

わけのわからないカルトには、近付かない方がいいということである。

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2008/03/09

「二の矢」 を受けないために

仏教に 「二の矢を受けず」 という言葉がある。自分の心を整えて、様々な感情に執着しなくて済むようにということだ。

いい感情にしろ悪感情にしろ、それにいつまでもこだわっていると、ますます増幅して執着のタネになる。それを、「第二の毒矢」 に譬え、それを受けないようにするというのだ。

これについては、臨済宗妙心寺派大本山妙心寺のウェブサイトに、次のようにわかりやすく解説されているので、引用させていただく (引用元はこちら)。

雑阿含経の第十七に、『箭経』と名づけられた短いお経がある。

……お釈迦さまが弟子達に尋ねられた。
「人は誰でも、美しいものに出会えば楽しいと思い、痛い目にあえば苦しいと感じるだろう。それでは、仏教を学んだ人とそうでない人との差はどこにあるだろうか?」
 弟子達は教えていただきたいと懇願した。
 そのお答えの要点は 「第二の毒箭 (毒矢) を受けない」 ということだった。

「仏教を知らぬ人達は、楽しい事に出逢うとそれに執着し、『もっと欲しい』 と “貪(むさぼ)り” の念をおこす。同様に、苦に出逢うと “瞋(いか)り” の感情にとらわれてしまう。そうして、いよいよ混迷していくのだ。

 けれども、仏教を学んだ人は、外界の刺激でいろいろな感覚は触発されるが、いたずらに感情を増幅させられることがない。それを、身受を受けても心受を受けずともいう。そこのところを、第一の矢は受けても第二の矢は受けないと表現したのだ」 ……と。

こんな話を持ち出したのは、例の花岡信昭氏の "「反基地」 勢力が叫ぶいかがわしさ" という記事に対するてんやわんやの反応をながめるうちに、なんとなくうんざりしてきてしまったからだ。

花岡氏の記事に対しては、私もそれなりに一言あったので、2月 17日に 「当たり前でない状況での当たり前」 というエントリーを書いた。そして、自分としてはそれで一応のけりをつけたつもりになっていた。

ところが、花岡氏のブログには、いろいろなコメントが殺到し、例えば、3月 1日付のエントリーをみても、賛否両論でかなり賑やかな状況だ。このような状況で花岡氏は昨日、 「気分を害された方に・・・ご容赦のほど」 というエントリーをあげている。

内容は、自分の記事で気分を害した人に対するお詫びでは決してない。自分の記事に対する 「読むに耐えない」 コメントで気分を害した人に、自分のブログはコメントをすべて受け入れて表示する方針なので、その旨、理解してもらいたいとアナウンスしているのだ。

そして、それに対して勘違いも甚だしいとばかりにますます否定的コメントがついているのは、ご想像の通りである。

花岡氏のちょっとセンスの悪い記事で、私まで 「そりゃ、言い方、変だろう!」 と思ったのは事実で、これはいわば 「一の矢」 を受けたのである。その気分の悪さを中和するために、私は前述の 「当たり前でない状況での当たり前」 を書いた。

その上で、私は直接議論をしかける気にはなれなかった。「悪鈍感力」 の豊富な人には、何を言っても、こちらが二の矢、三の矢、四の矢を受けるだけである。「言論の自由」 を自分の側にだけ適用し、反論の多くを 「悪口雑言、誹謗中傷」 の類に帰してしまうクセのある人には、注意が必要なのだ。

まあ、確かに、「感情的な悪口雑言、誹謗中傷」 も多いようだけどね。

とまあ、そういうわけで、ここでこうしてちょっとした注意事項を書いているわけだが、知らぬところで陰口をたたいていると思われるのも嫌なので、礼を尽くす意味で、トラバだけは送っておくことにする。

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2008/03/06

来週は比叡山に行こう

突然だが、今年は比叡山と高野山に行こうと思う。とりあえず、来週は福井に出張するので、帰りに新幹線を米原で途中下車し、大津から比叡山に寄ろうと思っている。

高野山に行く予定はまだ立っていないが、是非とも今年中に行きたい。できれば、一泊して熊野路を辿りたいと思っている。

私は結構な神社仏閣好きなのだが、この年になるまで、まだ比叡山延暦寺と、高野山金剛峰寺には行っていないのである。これは痛恨なのだ。

来週、仕事で福井に行く。おりよく金曜日に出かけることになった。福井とくれば、永平寺である。実は、私の父方の祖父は曹洞宗の坊主で、若い頃に長年にわたって永平寺で修行していた。だから私は永平寺には特別の思い入れがある。

そんなわけで、初めは一泊して翌日の土曜日には永平寺の参拝をしようと思っていた。しかし、考えてみれば、永平寺には 5年前に行っている。ならば、今回は延暦寺にしようと思い立ったのだ。

5年前に永平寺に参拝したのは、2月 15日だった。長い回廊を通って本堂に行くと、何やら法要が営まれている。それも並の法要ではない。大変厳かである。後ろの方に座って、「一体、どなたの法要だろうか」 と思いながら右側の壁をみると、「涅槃会」 と書かれた紙が貼ってあった。

「涅槃会」 とは、釈迦入滅の法要で、つまり、お釈迦様の亡くなった日である。自分が初めて永平寺に参拝した日が、お釈迦様の命日に当たるとは、その時、初めて気が付いた。偶然とはいえ、お釈迦様の命日に、永平寺の本堂でご焼香させていただけたというのは、誠にかたじけないことである。

まあ、そんなことがあったので、永平寺は今回はパスさせていただいて、せっかくだから比叡山に行こうと思ったわけである。思えば、永平寺を開いた道元禅師も、比叡山で学んだ。それだけではない。親鸞も日蓮も、比叡山出身である。

父方の祖父は曹洞宗の坊主だが、父は婿養子に入ったので、我が家は浄土真宗の家である。で、またその本家は、神道の家である。さらに、私の実家の祖父は、なぜだか知らないが、日蓮宗系 (某学会ではない) のお経を毎朝読んでいた。なんだか私は宗教のよろず屋みたいな育ち方をしているのだ。

話は戻るが、浄土真宗を開いた親鸞も、曹洞宗の道元も、法華経の日蓮も、みな比叡山で学んだというのは、これは大変なことなのである。仏教界の大物養成所みたいなところである。これは何としても実際に足を運んで、その空気を吸ってみなければならないのである。

というわけで、近々、比叡山行脚のレポートを書くことになりそうなので、乞うご期待である。

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2008/02/19

想念の具象化 その2

またまた懲りずに 「トンデモ」 を書く。一昨年の 9月 25日に、私は 「想念の具象化」 というタイトルののエントリーを書いている。

私は 平成 15年 7月まで、1年に 1度以上車のタイヤがパンクしてしまう男だった。しかしその後、自分の想念を変えてみたら、3年以上パンクしないでいると書いたのである。

本当に、それまで私の車のパンクは年中行事だったのである。釘を踏んだり、ガラス片が突き刺さったり、タイヤの側面がちょっとした障害物に当たって破れたり、そんなことが、確実に 1年に 1度以上あったのだ。それで、私は普通の人でも、少なくとも 2年に 1度ぐらいはパンクを経験するものだと思い込んでいた。

ところが、近所のタイヤ屋のおやじさんが、「パンクなんて、しない人は一生に一度もしませんよ」 と言う。「そういう人は、パンクなんてしないものと思い込んでて、『近頃のタイヤは進化したから、パンクしなくなったねぇ』 なんて言いますね。実際は、決してそんなわけでもないんですが」

彼の言葉は、私にとっては驚きだった。パンクしないと信じている人は、磨り減って使い物にならなくなった時が、唯一のタイヤ交換の機会なのだそうだ。それは単に 「卵と鶏」 の関係かもしれないが、私はちょっとした気まぐれで、それに賭けてみることにしたのである。

その日から私は、「年に 1度はパンクするものだ」 という思い込みを捨て、「パンクなんてしないものなのだ」 という想念に切り替えた。すると不思議なことに、たったそれだけのことで、実際にパンクしなくなったのである。

一昨年 9月 25日のエントリーの段階で、3年以上パンクしなかった。そんなことは初めての経験だったので、感動のあまりブログに書いたのだが、その後、記録は更新され続けて、本日、平成 20年 2月 19日まで、約 4年 8ヶ月もの間、1度もパンクしないで済んだのだ。

ということは、今朝、パンクしてしまったというわけなのだが、私としては本当に本当に久しぶりのパンクで、なんだか懐かしい気持ちにすらなってしまった。結果としては、単に想念を変えてみるだけで、パンクの頻度がそれまでの 5分の 1近くにまで低減したのである。これって、驚くべき効果ではないか。

まあ、今朝になって久しぶりのパンクを味わってしまったということは、「パンクなんてしないもの」 という私の想念が十分でなかったからか、あるいは単なる偶然の産物と取るかは、そんなことはどっちでもいいのだが、私としては前者でいきたいと思うのである。

よし、今日からは、より強固な想念を抱こう。そうすれば、今度は 10年ぐらいパンクしないで済むかもしれない。

「パンクなんてしないもの」 と思い込むことは、とてもお手軽なメソッドであり、多分、そう思い込むことによって、無意識のうちにパンクを避ける運転をすることにつながることもあるだろう。少なくとも、ポジティブな想念は精神衛生にもいい。

たまたま道路に落ちている釘を、数センチの差とかで偶然にうまく避けていたのかどうかまでは、わからない。もしそうしたことがあったとしても、「想念」 との因果関係は実証不能なので、突き詰めても意味はない。

因果関係は実証不能だが、「想念を変えたら、その日から急にパンクの頻度が激減した」 というのは、紛れもない事実なので、私としては個人的にハッピーになっているということだ。少なくとも、「パンクはするものだ」 という想念に戻る理由はない。

それに、「パンクしない想念の波動を移しこんだ空気」 とかいうものを、高い値段で販売しようなんていうつもりは毛頭ないので、「反疑似科学」 の人も、どうかあまりマジに突っ込まないでいただきたい。神社で交通安全祈願をしてもらってお守りをもらうよりも、ずっと安上がりなのだから。(何しろ、「ただ」 だし)

そういえば、ジャズピアニストの山下洋輔氏が以前、「私の乗った飛行機は絶対に落ちない。なぜならば、私が念力で飛ばしているからだ」 というようなことをエッセイに書いていたのを思い出した。うん、この気持ち、わかるなあ!

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2008/02/18

最大多数の最大幸福

2月 5日の "「かれ」 と見える 「われ」" というエントリーに、きんめさんがとても興味深いコメントを付けてくださった。

で、またしても、「疑似科学」 とか 「トンデモ」 と思われかねない話をする。ただ、これは 「水伝」 とは違い、「科学」 とは初めから一線を画しておくので、そのあたりよろしく。

このエントリーで私は、『無門関』 の第九則、「大通智勝」 という公案について触れて、「私が悟れば世界が悟るはずなのに、世界が混迷を深めているのは、私が迷っているからである」 などと、かなり気負ったことを書いた。まさに 「トンデモ」 に近い。

この 「トンデモ」 に対して、きんめ さんが、次のようなコメントを付けてくれた。

ちょうど昨晩、友人とそんな話しをしてました。

東洋医学をやってたので、人も宇宙も相似性をもったものと規定して、例えば人の変化は宇宙全体の変化につながり、逆に宇宙の変化は人の変化につながるなんて事はあるよねぇと。(ここでの宇宙はまぁ”世界”って感じではあるんですが)

だったら、とことん自分の周りの小さいレベル(家族だとか)で幸せを追い求めるのは、世界を変える事になるねぇと。

「我が意を得たり」 というようなコメントで嬉しくなったのだが、その後、仕事が忙しくなって、このテーマについて語るだけの体力がなくなってしまい、手付かずになってしまっていた。他人はどうだか知らないが、私の場合、知力は体力に規定されがちなのだ。

で、近頃ちょっとネタ切れなので、仕方なく体力を振り絞ってこのテーマについて書く。いかんせん、疲れ気味なので、大したことは書けないが。

「全体」 と 「個」 は、ときに、フラクタル (自己相似) として語られる。全体の中に個の構図があり、個の中にも全体の構図はあるというコンセプトである。カール・ポランニーは 「木を見れば森が見える」 と語ったというが、1本の木の本質を本当に見抜くことができれば、そりゃあ、森だって見えるだろう。

1本の木の中に、森の構図はきちんと宿っているはずだからである。ならば、「自分の周りの小さいレベル (家族だとか) で幸せを追い求めるのは、世界を変える事になる」 というのも、十分にあり得る。

それどころか、1人の人間をとことん愛してしまえば、全人類を愛することだってできる。そうできないのは、それは 「愛している」 のではなく、単に 「執着している」 だけだからだ。そんなこともあって、仏教では 「愛」 という言葉はあまり好まれない。

言い方を変えれば、人類愛につながらない愛情は、それは 「愛している」 のではなく、単に相手を 「縛っている」 のである。同様に、全人類の幸福につながらない幸福は、それは 「幸福」 の名に値しない。

「最大多数の最大幸福」 という民主主義の理念は、そうした視点から見れば、怪しすぎるものである。「あり得ない」 とすら言えるかもしれない。しかし、こうした 「信心」 の世界のコンセプトを限定的に現世に反映させようとしたものと考えれば、なんとなく落ち着くものがある。

「限定的に」 というのは言うまでもなく、政治家や役人を初めとして、大多数が既得権の確保に汲々としたり、権謀術数によって他人を蹴落としたがる現状によるマイナスが大きいからである。信心を忘れたら、世の中こんなものである。

悲しいことに人間は、「愛」 より 「執着」 が、「自分の幸福」 より 「相手の不幸」 が、より好ましく思えたりするものである。だから面白いといえば、そうに違いないんだが。

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2008/02/06

「何でこんなことがわからん?」

「何でこんなに当たり前のことが、わからないんだ」 と、腹を立てる人がいる。自分には 「当たり前」 でも、他の人にはそうでないこともあるということを、彼は理解していない。

そんな人ほど、「わからせるための説明」 は下手である。そして時には、いくら説明してもわからないということもある。

昔気質の職人ほど、弟子には懇切ていねいに仕事を教えるということをしない。「こんな当たり前のことは、見て盗んで覚えろ」 と言う。これも一つの教育論である。教えなくても伸びる弟子は、大変な才能を発揮することが多いし、懇切ていねいに教えなければわからないような弟子は、結局のところ、ハイレベルな職人になる可能性が低い。

しかし、何でも 「見て盗んで覚えろ」 と突き放すのも考え物である。「見て盗んで覚える」 ことのできる才能あふれる弟子に、最初からエッセンシャルな技術を筋道立てて教えると、とても短期間のうちに優秀な職人になる。

昔ほど職人やものづくり技術者志願の若手がいない今の世の中で、昔流の教え方 (教えないやり方) を踏襲しすぎると、優秀な職人・技術者が激減してしまうおそれがある。裾野が広くないと、ピークも高くなりにくいから、それは社会的損失である。

そのため、最近のもののわかった親方あるいは指導者は、「最初からきちんと教える」 というメソッドを重視する傾向がある。そのため、元々才能のある新人は驚くほど上達が早い。やはり、「きちんと教える」 に越したことはないのである。

職人仕事だけでなく、礼儀作法、マナー、望ましいコミュニケーションの仕方、円滑な人間関係の構築の仕方など、社会生活という範疇においても、「初めからきちんと教えておく」 ということは大切だ。それがないと、「あいつは常識がなくて、箸にも棒にもかからない」 なんて言われてしまう。

ただ、最初に触れたように、社会的な問題の 「当たり前」 というのはたった一通りというわけではない。いろいろな当たり前がある。だから、一つの価値観だけを押し付けないということは、前提としておかなければならない。

そして、あるシチュエーションにおいてもっとも妥当と思われる 「当たり前」 を、いくら懇切ていねいに説明してもわからない (あるいは、「頭でわかっても実行できない」) ということもある。

理解力は人並みなのに、どうしてもわからないというのは、どうしてもわかりたくない事情があるのである。問題は、その 「どうしてもわかりたくない事情」 というのを、当の本人が明確にわかっていないということだ。精神分析でいうところの 「無意識」 の領域である。

だから、そうした人には、いくら 「その状況で最も当たり前で最も妥当なこと」 でも、押しつけてはならない。押し付けられると、ますますおかしなことになる。どうせ身に付かないし、プレッシャーに負けそうになって、「自分は社会生活不適格ではないか」 と悩むことになる。

気の毒な彼または彼女が、「当たり前のことをわかる」 ようになるためには、「どうしてもわかりたくない事情」 を取り除く手伝いをしてあげなければならない。悪いことに、当の本人はその事情を自分で意識していないのだから、それは周囲がわからせてあげる必要がある。

しかし、さらに悪いことに、当の本人は、その事情を自分でもよくわかっていない上に、それをわかろうとすることにも猛烈な抵抗をするのである。「わかりたくない事情をわかりたくない自分」 というのも、金輪際わかりたくないのである。

こうなると、残されるのは精神分析的アプローチか、宗教的アプローチかのどちらかである。精神分析的アプローチが発見されていなかった昔は、宗教的アプローチしかなかった。それもほとんどは 「まじない」 のレベルのメソッドだった。それでも 「効くときは効く」 のだから、たとえ迷信でも退けるほどの理由はなかったのである。

だったら、精神分析的と宗教的の二つのメソッドをうまく組み合わせたら、多くの悩める人を救えるかもしれない。しかし問題なのは、まともな宗教よりも、怪しげな手法で人を洗脳してしまうカルトの方が、このメソッドの有効性にきっちりと気付いているらしいということである。

だから私は、「狂信」 ではなく、穏やかな 「信心」 の方に信頼をおきたいと考えるのである。狂信と精神分析は結構金がかかるが、穏やかな信心は安上がりで、それに副作用も少ない。

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2008/02/05

「かれ」 と見える 「われ」

昨日 (参照) は、煎じ詰めれば 「個人という幻想」 ということについて書いたようなつもりになっているのだが、その関連で、もうちょっと補足しておきたいことが見つかった。

それについては既に書いている (参照) のだけれど、ココログの方にはまだアップしてないので、改めて触れておきたいと思う。

それは、「大通智勝」  という禅の公案である。このブログではお馴染みの禅の公案集 『無門関』 の第九則だ。

ある僧が興陽の清譲和尚に 「大通智勝如来 (だいつうちしょうにょらい) が十劫 (こう) もの長い間、道場で座禅を組んだのに仏道を悟れなかったのはなぜか」 と問うと、清譲和尚は 「そんなのは言うまでもない。『かれ』 が成仏しなかったからだ」 と答えたというのである。

大通智勝如来というのは、仏の智恵に大きく通じて勝る如来という名の如く、最高級の悟りを得た存在なのだが、十劫というとてつもなく長い間、道場に結跏趺坐しても、悟りを得られなかった時期があったというのである。

十劫というのは一劫の 10倍という長い時間である。5倍してちょっと擦り切れさすと、落語の 「寿限無」 になる。ちなみに、一劫がどのくらいの長い時間かというのは、件の記事の 2日後、こちら に書いておいた。

本題に戻る。僧の質問への清譲和尚の回答は、正確には 「伊 (かれ) が成仏せざるが為 (ため) なり」 というものだった。この答えを、「大通智勝如来といえども、迷っている間は 『悉有仏性』 という釈迦牟尼仏の教えに気付かなかった」 と、私はずっと解釈していた。

しかし、そればかりでは一面的すぎる理解だったようなのだ。この 「伊 (かれ) が成仏せざる …… 」 の 「伊」 というのは、普通は三人称代名詞と考えられているが、本来は人称に捉われない言葉のようなのだ。

手元にある 『携帯新漢和中辞典』 (三省堂) で引いてみても、最初に 「コれ、コの」 、二番目に 「カれ」 が出てくる。 少なくとも、一人称と三人称に近い使われ方はされてもいいようだ。さらにネットで検索してみると、"元代の戯曲における二人称をあらわす 「伊」" という研究も見つかった (参照)。

とすれば清譲和尚の答えは、表向きの意味の裏に、「それは、お前 (あるいは 「私」 でもいい) が悟らないからでもあるのだよ」 という諭しを込めていると受け取らなければ、表面的理解に終わってしまう。ああ、大通智勝如来がそんなに難儀したのは、とりもなおさず、私が悟らなかったからでもあったのだ。

私が悟りを開いた瞬間、大通智勝如来が悟るのである。私は個人としての私であるばかりでなく、森羅万象につながった普遍の私でもある。私が悟れば世界が悟るはずなのに、世界が混迷を深めているのは、私が迷っているからである。大変申し訳ないことなのである。

禅というのはなかなか厳しいもので、森羅万象の責任は自分にあり、その責任逃れはできないことになっている。本来なら、私ごときの理解のレベルでは、うかつにさわれないほどのものなのだが、私はその辺りは、ずいぶん無鉄砲なのである。

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2008/02/04

"Individual" の意味

「個人」 を英語で "individual" という。この単語は、文字通り受け止めれば 「分割不能」 の意味というのは、ご存知の通りだ。

学校ではその語源について、「社会を分割 (divide) していき、これ以上分けられない最小単位に達するのは、"個人" というレベルだから」 と、フツーは教わることになっている。

このことを知ったとき、私はもやもやっとした違和感に襲われた。その違和感の正体が何であるかは、当時は知るよしもなく、「西洋的な考え方としては、そうなるのかなあ」 と、納得しようとした。

で、無節操なことに、そのように一度納得してしまうと、"individual" という単語に関しては、私は西洋人になってしまったのであった。社会を構成する最も重要な要素は、「個人」 であると、疑いもなく思うようになった。

そのように単純素朴に納得していた私の目の前に、ある日、滅茶苦茶エキセントリックな米国人が登場した。30年以上前に知り合った Ron である。彼は "individual" という単語を 「個人」 (each person) と解釈するのは、大きな誤解であると、情熱を込めて主張するのだった。

「"Individual" という言葉の語源を知ってるか?」 と、彼は問いかける。「それはね、divide できないという意味なんだよ」

「うん、わかってるよ。だから、一人一人の人間なんだろ?」 と私は面倒くさそうに言う。

「違う違う、分割できないのは、人類なんだよ。我々は、一つのファミリー以上のものなんだ。だから、一つ (whole) なんだ。結びついてる (united) んだ。So, We are individual. (だから、我々は individual なんだよ)」

"We are individual." を、「我々は (単数形の) 個人なんだ」 と訳すと、ナンセンスになる。彼は、「我々人類は、分割不可能なんだよ」 というニュアンスを訴えたかったんだろうと思う。なかなか興味深いが、それを英語でコミュニケートするというのは、とても疲れた覚えがある。

私は Ron が何か得体の知れない新興宗教にかぶれていて、私を勧誘しているのかと警戒していたから、極力まともに取り合わないようにした。

「それは、我々の考えている君たち西洋人のコンセプトとはかなり違うようだね」

「そりゃ、違うさ。我々は、大きな誤解をしていたんだ」 Ron はあくまでも大まじめに主張する。

後でわかったことだが、彼は新興宗教というよりは、東洋思想にかぶれていて、極端に個人主義に振れてしまった西洋思想からの脱却を図っていたのだった。だから、東洋人でしかも禅坊主の孫であり、なおかつ合気道なんていう 「神秘的武道?」 をやっている tak-shonai という男なら、話が通じると思ったらしい。

ところが間の悪いことに、私は変なカルトはご免だと警戒ばかりしていたので、けんもほろろに軽くあしらってしまった。今から思うと、Ron には申し訳ないことをしてしまったのである。

彼はその後しばらくして、米国に帰ってしまった。おそらく、多くの日本人は不幸なことに東洋の心を忘れてしまっていると嘆きながら。

ふいに、エキセントリックな米国人、Ron のことを思い出してしまったのは、「根元的存在のビヘイビアとしての複数」 という自分の過去ログをたまたま読み返したからである。私は、このエントリーで次のように書いている。

日本人は古来、「2人の人がいる」 とは見ずに、「人が 2人いる」 としてきた。「2人」 を別個の存在ではなく、同じ根元からの派生として見てきたわけである。

そうか、あの時 Ron の言っていたのも、このようなことだったかもしれないと、30年も経ってから思い至ったのである。複数の人間のように見えているのは、単に 「見かけ」 だけであり、根元は分けられない 「一つの存在」 なのだと。

ただ、「一つである根元」 が、その派生する仮の姿としての 「個人」 を現出させているのだとしたら、せっかくの派生なのだから、見かけ上だけでもせいぜい多様性を発揮してみるのも一興ではないかと、私は考えている。

一つの価値観だけで全てを規定するというのは、考え物だ。多元的な価値観を自由に適用してこそ、世界というのは面白いんじゃないか。それに、いくら 「多元的」 でも、根っこの部分が 「一つ」 なら、元々 「素敵な根元的予定調和」 なんだから、喧嘩にもならないしね。

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2008/02/01

「百尺竿頭」 の意味

「百尺竿頭」 という禅語がある。地上に立てられた百尺の竿の先ということだが、この言葉はたいてい 「百尺竿頭進一歩」 という七文字で掛け軸に書いてあったりする。

百尺といえば約 30メートルの高さということになるが、そこから一歩進めというのだから、禅というのは、よほど無茶をいうものである。

この禅語、普通は 「百尺竿頭 (ひゃくしゃくかんとう) より一歩を進む」 と読む。「百尺」 は 「ひゃくせき」 と読んだりもする。

30メートルの高さの竿の先から一歩踏み出したら、落ちるに決まっている。しかも、昔の中国の度量衡では、1尺というのは 36センチぐらいだったという説もあるから、約 36メートルの高さから一歩踏み出せというのである。死ぬ確率がますます高いのである。

ところが、私はつい最近まで、この 「百尺竿頭進一歩」 という禅語の意味を誤解していたのだ。「百尺竿頭」 というのは、高く立てられた竿の先のような、「にっちもさっちも行かない不安定なポイント」 という意味だと思っていたのである。

「そんな不安定な危ない場所にいるよりは、一か八か空中に踏み出してみる方がましだ」 というようなことだと、私は解釈していた。もちろん、「不安定な危ない場所」 というのは、日常生活を送る娑婆のことだ。安定しているように見えても実は不安定なのだと解釈したら、ずいぶんもっともらしい。

ところが、本来の意味は違っているようなのだ。「百尺竿頭」 とは、「到達すべき最高点、向上しうる極致のたとえ」 という意味だったのだ (参照)。とんでもない間違いをしていたものである。

「不安定な危ないポイントにいるよりは、一か八か、リスクを冒した方がいい」 というようなことなら、「俺だって、しょっちゅうしてるかも」 ぐらいに思っていたのだが、リスクを冒すという行為の前提が 「最高点まで上りつめる」 ということだったら、話は全く別である。

「最高点まで上りつめた」 と、満足しているだけではだめで、そこからさらに、空中に向かって一歩踏み出せと言っているのである。こんなことなら、「しょっちゅうしてる」 どころじゃなく、途中の三十尺付近にも到達していない。

ただ、「たとえ最高点に到達したと思ったとしても、さらに常識外れのダイビングをしなければならない」 というぐらいの意味に拡大解釈すると、私のような向こう見ずの人間には、ちょっと心強い言葉になる。しょっちゅう常識外れをするお墨付きをもらったような気分になる。

まあ、禅語は 「しょっちゅう常識外れをしろ」 と言っているわけじゃなく、「さらなる向上のためには、恐れずに命をかけて踏み出さなければならない時がある」 と言っているわけなのだが。

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2008/01/19

我々の現実は実は全て仮想現実?

我々の現実は実は全て仮想現実、研究者が奇抜な論文発表」 という記事が、一部で話題になっている。

痛いニュース」 では、「マトリックス見すぎ」 といったステロタイプな反応に混じって、「俺が20年前から言ってること」 なんていう注目すべき (?) コメントも寄せられている。

この論文を発表したのは、はニュージーランド、マッセイ大学のブライアン・ウィットウォース (Brian Whitworth) 博士という人だそうだ。

禅宗の坊主の孫である私は、昔から父に 「色即是空、空即是色」 で育てられてしまったので、「すべて仮想現実」 なんて言われても、それほど奇異には感じない。むしろ 「さもありなん」 という気がするほどである。

件の記事の核心部分を引用してみよう。

ウィットウォース博士は宇宙の物理現象の全ては情報として換言できるとした上で、宇宙は多次元の宇宙的時間軸で動いているシュミレーションの産物であると 推論。そう考えることによってビッグバンがなぜ起こったのか、といった物理学上の疑問点も簡単に説明が付くと述べている。

「宇宙の物理現象の全ては情報として換言できる」 というくだりは、「そうかもしれんなあ」 という気がする。そうであった方が、面倒がなくていいなあとも思ってしまう。ただ、科学的な記事としては、「シュミレーション」 ではなく 「シミュレーション」 と表記してもらいたかったところだが。

とはいえ、ウィットウォース博士のいうところの 「仮想現実」 が、「コンピュータ内」 に作られたものという表現は、かなり注意しなければならないだろう。

実際に博士が 「コンピュータ内に作られたもの」 という言い方をしているのかどうか、元の論文を読む機会がないのでわからないけれど、もしそうした言い方をしていたとしても、その 「コンピュータ」 は、我々のイメージするものとは、かなり違ったものなんじゃなかろうか。

PC みたいなものを連想するから、「最悪のクソゲーだな 早くそっちの世界のネコがコンセント抜いてくれ」 とか 「だったら俺をもう少し高スペックにしといてもらいたかった」 とか、それはそれでなかなか面白いコメントが付いているのだが、多分、そうしたもんじゃないのだろう。

ちなみに、博士は次のようなことも言っている。

コンピューター内のシミュレーションでは起こりえないことが、我々の世界で起きることを示すことができれば、それは仮想現実ではなく、現実世界であると証明したことになるだろうとまとめている。

(注) どうでもいいけど、このパラグラフではきちんと 「シミュレーション」 と表記されているのが面妖である。

それにしても、あるものごとが 「コンピューター内のシミュレーションでは起こりえないこと」  であることを証明するのは、一体どうしたらいいんだろう。証明したつもりになっても、「いや、そうしたことが起こり得るようにプログラムしてあったんだ」 と強弁されたら、ナンセンスになる。

この博士、自説を覆す証明が不可能なように、最後にソフィスティックなトリックを仕掛けたような気がする。

あるいは人間というのは、自分の見ている現実が 「仮想現実」 であることに自ずから気付くようにプログラムされており、そのプログラマーに思いを馳せることができる存在であるとすると、「仮想現実」 ではないと証明すること自体がナンセンスになる。

「仮想現実」 の奥底に、何だか知らないが 「現実」 をうかがい知ることができるかもしれない。

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2008/01/02

五感を研ぎ澄ますと

昨年、少年少女向けの野外体験学習プログラムというものにちょっと縁があって、さわりだけ付き合う機会があった。

海辺の林の中で、インストラクターが 「目を閉じて耳を澄ませてください。さあ、何種類の音が聞こえるか、指を折って数えてみましょう」 という。試しに私もやってみた。

初めのうちは、人間の立てる音しか聞こえない。周りの人間の小さな話し声、林の中の落ち葉を踏むカサコソいう音、そして、遠くの国道を走る車の音。しかし、すぐに驚くほど豊かな音の世界に、自分が包まれていることがわかってくる。

風の音が聞こえる。まるで自然が呼吸をしているように、強く、弱く、常に耳のそばで鳴っている。そして、その奥で通低音のように鳴っているのが、磯に打ち寄せる波の音だ。

小鳥たちの声も聞こえる。ツツピー、ピィ~、チュンチュン、チチチ・・・。チュンチュンというのはスズメだろうが、その他は何という鳥かわからない。わからないが、鳴き声がそれぞれ違うので 4種類いることはわかる。そして、カアというカラスの声も聞こえる。これで鳥は 5種類だ。

さらに、風が少し強まると聞こえる葉擦れの音。それも、高い所と低い所では、葉の種類が違うから、鳴る音も違う。少なくとも、12種類の音が確認できた。

しばらくして、子どもたちに何種類の音が聞こえたか、インストラクターが聞く。驚いたことに、ほとんどの子は 3~4種類の音しか聞いていない。話し声、足音、車の音、鳥の鳴き声ぐらいのものだ。

多くの子どもたちには、風の音が聞こえていない。さらに、鳥の鳴き声が聞き分けられず、1つの音にしか聞こえていない。葉擦れの音は意識すらされていない。これって、かなりやばいんじゃないかという気がした。

彼らは決して耳が悪いというわけじゃない。自然の音のちょっとした違いが聞き分けられないのは、彼らが普段、自然とあまり接していないので、違いを意識する訓練ができていないのだ。ハンバーガーしか食べていない子が、他の食材の微妙な味わいを理解できないようなものだろう。

私は昨日、約 10キロの道のりを歩いて、初もうでのはしごをした。途中は、車の往来の激しい県道を避け、ほとんど田んぼの中のあぜ道を歩いた。歩いているうちに、自然と対話している自分に気付いた。

日射しは常に変化している。急ぎ足なので、太陽が現われれば汗ばむほどだが、雲に隠れればとたんに冷え冷えとする。その雲は、地形にも似た上空の大気の状態を見せてくれている。

風には風の道があり、少し移動するだけで耳のそばでなる風の音が変化する。冬の日射しのもとで、鳥たちは思い思いに鳴いている。冬枯れの時期とはいえ、主要な水路が近付くと水の流れる音がする。世界は豊かさに満ちている。しかしそれは、気付いた者のみにもたらされる豊かさである。

いつのまにかハイな気分になっている。ジョギングをしていると、「ランナーズ・ハイ」 という状態になることがあるが、山歩きなどをしていてもそうなることがある。「ウォーカーズ・ハイ」 とでもいうのだろうか。昨日は久しぶりにそれを体験した。

五感を研ぎ澄ますと、世界はこんなにも豊かなのだ。いにしえの人たちは、現代に生きる我々よりもずっと多くの対話を、自然との間でしていただろう。我々の気付かなくなってしまった多くのことを、さも当然のように理解していただろう。

そしてその向こうに、さらに五感以上の何かで感じられる世界が開けてくる。私はそれを 「信心」 と称している。「信仰」 というほど大袈裟なものではない。人間を超えた世界を畏れ敬うという、ほんのちょっとだけ謙虚な心である。

「信仰」 というのは、それが嫌いなら強制するものではないが、ちょっとした 「信心」 はあった方がいいと思う。

2時間 25分の初もうで行脚の記録は、和歌ログ 1月 1日付の記事に書いてあるので、興味のある方はどうぞ。

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2007/12/03

お父さんの中にいるサンタクロース

私の 「知のヴァーリトゥード」 というサイトには、街にジングルベルの流れる季節になると妙に賑わうページがある。「サンタクロースは本当にいる!」 というページだ。

普段は 1日に 2~3 アクセスあれば上等のページに、11月末からは 30~40 のアクセスがコンスタントに集まる。

12月中旬になると、1日のアクセスが 100を超える。そして、25~26日を過ぎて、大晦日、正月になると、いつもの 1日あたり 2~3 アクセス戻る。もろに 「シーズンもの」 である。

しかしこのページは、私のサイトの中で最も美しいページである。子供に 「サンタクロースって、本当にいるの?」 と聞かれたら、「サンタクロースは、本当にいるんだよ」 と、こんなふうに答えてあげればいいという、私の心からの提案だ。

目には見えなくても、サンタクロースは、普遍的存在として、世界を包む愛として、「いる」 のである。そして、子どもたちに届けられるクリスマスプレゼントは、たとえ直接的には父親や母親がどこかのお店で買ってきたものであったとしても、それは紛れもなく 「サンタクロースからのプレゼント」 なのだ。

それは、田舎のおじいちゃんからの贈り物が届くとき、それは、宅急便のお兄さんが届けてくれているとしても、紛れもなく 「おじいちゃんからの贈り物」 であって、宅急便のお兄さんはその仲立ちをしてくれているだけであるのと同じ事だ。

お父さんが買ってきたものだったとしても、お父さんは 「サンタクロースからのプレゼント」 を届ける 「仲立ち」 をしているのである。

そのことを話してやれば、たとえ子供と一緒にクリスマスプレゼントの買い物に行って、子供の目の前でそれを買ったとしても、それはやっぱり 「サンタクロースからのプレゼント」 なのだ。

だから、クリスマスプレゼントをしてあげる親は、「俺が買ってやってるんだ」 なんて思ったら大間違いである。そんなのだったら、買ってやらない方がましだ。サンタクロースの愛を我が子に届けるために、その仲立ちをさせてもらってるんだと思うのが正解なのである。

そう思うことで、子供だってお父さんの中にサンタクロースの大きな愛を見いだす。目には見えないものが、心で見えてくる。そうなってしまえば、「サンタクロースって、お父さんなんだね!」 ということでも、十分に OK なのである。

サンタクロースの愛は 「ユビキタス」 (遍在) だから、お父さんの中にあっても、それは当然のことなのだ。

なお、ここでは便宜上 「お父さん」 で語らせていただいたが、お父さんのない子は、お母さんでも、あるいはお父さんかお母さんの代わりの人でも、誰でもサンタクロースの愛の仲立ちになれることは言うまでもない。

詳しくは、改めて 「サンタクロースは本当にいる!」 をご覧いただきたい。

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2007/11/16

「自分探しの旅」 の効果

最近よくみかける 「自分探しの旅」 という言い回しには、「ニートの甘え」 というシニカル派から 「新しい自分の可能性を見つけられる」 という肯定派まで、いろいろな反応がある。

反応がいろいろというだけでなく、この言葉を使う方の意識も、まさに反応のバラエティ同様、ピンからキリまでのようなのだ。

確かに、ニートの甘えとしか言いようのない 「漠然とした一人旅」 から、「明確な目的を持った修行の旅」、さらに、実際の旅行というわけではなく、メタファーとしての人生修行など、さまざまな意味合いで 「自分探しの旅」 という言葉は使われているようだ。

しかし、ここで注目したいのは 「自分探し」 というレトリックである。文字通りに解釈すれば、自分探しの旅に出る者は、「自分というものがどこか他にある」 と、漠然とだろうが、思っているようなのだ。つまり、「今ここにある自分」 は、「本当の自分」 ではないという前提があるわけだ。

好意的に解釈すれば、これまで育ってきた自分というのは、周囲の環境という鋳型にはめられて、否応なく今の姿になってしまっているが、本当はもっと違う自分というのがあるはずだという考えは、わからないでもない。

そして、「本当の自分」 を手探りするために、周囲の環境をまったく変えてみるというのは、確かに一つの方策ではある。認識というのは、関係性の中で確立するものだから。周囲とのまったく新しい関係性に積極的に順応しようとすれば、自分の新しい可能性が、いやでも引き出される。

だから、「自分探し」 というちょっと甘えたレトリックは、ちょっと気に入らないところがあるけれど、私はその試みをむやみに否定しようとは思わない。

近頃、若者が海外旅行に出かけなくなったという。言葉の通じない海外で嫌な思いをするよりは、勝手の知れた国内で、温泉にでもつかってまったりする方がいいという。想定内のことだけを求め、それ以外のことは拒否する。

そうした 「内向き」 すぎる姿勢よりは、少しは 「自分探し」 と言って、まったく新しい経験をするために、海外にでも出かける方が、気概があると言えるかも知れない。もっとも、日本語だけで足りる 「買い物ツァー」 では、どうしようもないけれど。

ただ、単に周囲の環境を変えただけでは、小手先的な新しい対応をひねり出すというだけに終わりがちだ。その場合、基本的な自分というのは、別段何も変わっちゃいないので、元の環境に帰ったら元の自分に戻るだけということもある。

根本的なことを言えば、「自分」 というものは、決してどこか他にあるのではない。私は、「青い鳥」 という童話を思い出す。幸せの青い鳥を探して長い旅を続けた挙句、それは戻った自分の家にいたという寓話だ。

道元禅師の言葉に、次のようなことがある。

仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

仏の道を習うというのは、自己を習うことだというのである。別の言い方をすれば、「真理を究めるということは、自己を究めるということだ」 ということになり、つまり、それは 「自分探し」 ということにも通じるのだろうが、道元禅師は、そのためには、別に旅になんか出なくても、ただ心を空しくして座ればいいと説いている。

そして、「自己をならふは自己をわするるなり」 とあるように、「自分」 なんていうものにこだわっているうちは、本当のことは見つからないとも説いている。「心身脱落」 したところに、「万法に証せらるる」 という仏性 (すべての法則に即した真理) が現れる。ああ、難しいなあ。

最後に 「自分探しの旅」 の話に戻れば、チルチル、ミチルが、長い旅を経てようやく自宅に青い鳥を発見したように、旅を経験することによって、それまで見えなかったものが見えてくるという効果は、確かにある。それは言い切れる。

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2007/10/30

京都に行きたい病

今月 25日に大阪、29日に名古屋に日帰りのとんぼ返り出張をして、またぞろ 「京都に行きたい病」 がぶり返してきた。

東海道新幹線で大阪に行くと、その手前の京都で停車したときに 「ああ、ここで降りてしまいたい」 といつも思う。名古屋に行けば、「ああ、一駅先の京都に行きたい」 になる。

京都に行って何をするのかといえば、神社仏閣巡りである。私は神社仏閣が大好きなのである。

奈良と京都は神社仏閣の二大巨頭で、それぞれの良さがある。より古い郷愁的なものを感じさせるのは、やはり奈良である。奈良と京都の違いは、フィレンツェとパリの違いみたいなものだという人がいて、乱暴な言い方だとは思うが、なるほど、言いたいことはわかる気がする。

奈良のお寺さんの特徴は、靴を脱がずに拝観できるところが多いということだ、順路に沿って自然にサクサクと拝観が進み、あっという間に外に導き出される。

奈良の街は夕方を過ぎるとさっさと店じまいしてしまうので、そのくらいサクサクと見学しないと、夕飯を食いっぱぐれてしまうから、そのようなシステムなのかもしれないと思ってみたりする。

その点、京都のお寺さんはまったりとしたものである。何しろ、靴を脱いで上がり込めるところが多いから、いつまででも気が済むまで座っていられる。

近頃では、仕事上の出張にかこつけて、もう一日滞在を延ばして京都見物をする程度なので、あまりゆっくりと京都の雰囲気を味わっている暇がない。最近で京都に行ったのは、昨年の十月の大原行きと、一昨年の八月の貴船から鞍馬に抜けたハイキングぐらいのものだ。

昨年、大原に行ったときは、三千院はさすがに人が多かったが、その奥の勝林院まで行くと、ひっそりとしている。例によって上がり込んで、ご本尊の阿弥陀如来と向き合い、しばらく座っていた。

ああ、京都のお寺に行くと、こんなことばっかりしてるから、本当に時間ばかり経ってしょうがない。そのうち、3~4日かけてゆっくりとあちこち廻ってみたいものだ。

で、この時、阿弥陀如来と向かいあって 30分ほど座ってから、さて帰ろうかと振り向いた時、思ったことがある。阿弥陀仏と向かい合って振り向いた時、阿弥陀仏の視線でお堂の外を眺めると、なるほど、そこは浄土なのであった。

仏の視線になれたのは、ほんの一瞬のことであったのだけれど。

(大原のお寺さんで、まったりと座って時間をたくさん潰してしまったときのことは、昨年 10月 15日のエントリーに写真入りで書いてある。勝林院の阿弥陀如来の写真もある)

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2007/10/28

「落ちる」 ってそんなに悪いことじゃない

昨日、カーラジオを聞きながら出かけると、TBS ラジオの永六輔さんの番組に、無着成恭さんが出演しておられた。

無着成恭さんが住職を勤められる国東市の妙徳山泉福寺で、改修中の仏殿 (重要文化財) が落慶式を迎えるそうである。で、今回はこの 「落慶式」 という言葉についてだ。

永六輔さんが突然、「どうして 『落慶式』 には 『落ちる』 なんていう縁起の悪い字が使われるんだろう?」 と言い出された。なるほど、言われてみればもっともな疑問である。神社仏閣では 「落慶式」 というが、一般の建造物でも 「落成式」 なんて言うし。

で、この番組のよろずご用聞き、とくに言葉に関する調べものを一手に担当するはぶ三太郎さんが、さっそく調べてきた。「落」 という字には、「完成する」 という意味があるのだそうだ。

帰宅してから自分でも調べてみると、手持ちの 『新漢和中辞典』 (三省堂) には、「工事ができあがる。また、それを祝う式」 とあり、『明鏡国語辞典』 (大修館) には 「おさまりがつく。できあがる」 とある。

「落」 の文字と 「完成」 という字義とは、なかなか結びつかないが、「おさまりがつく」 という意味合いからすると、「なるほど」 という気がする。要するに、「落ち着くべき形に落ち着く」 ということから、「完成」 という意味合いになるんだろう。

ここで、ちょっと唐突に連想してしまったのが、キリスト教の 「主の祈り」 というものだ。これは、キリスト教における代表的な祈祷文で、イエス・キリスト自身が、「祈りたい時にはこう祈りなさい」 と教えたとされる、次のような祈りである。

天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
アーメン

ここで私が注目してしまうのは、「み心の天に成る如く地にもなさせたまえ」 という部分である。「み心」 というのは、言うまでもなく神の意志である。天において成就している神の意志を、そのまま地上にも反映させてくださいというのだ。

天から地に向かうのだから、垂直方向、しかも上から下への反映である。つまり、落ちてくるのだ。なるほど、完成とは落ちてくることであったのか。天啓のように降り注いでくるものであって、人間技でこねくりあげるものじゃないのだ。

これがわかったら、受験生のいる家庭でも、今日からは 「落ちる」 を禁句にする必要なんてない。落ち着くところに落ち着くのが、一番いいのだ。

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