カテゴリー「哲学・精神世界」の144件の記事

2017/03/08

「リアルなもの」 と 「リアルに感じられるもの」

世の中で、一体何がリアルで、何がフェイクなのだろうかと考える時がある。現実にしかと存在するものがリアルであるとは、全然限らない。その反対に、作り物でしかないはずなのに、妙にリアルに感じられるものもあったりする。

170308tc

この写真は、かの有名な、と言ってしまうと、その存在すら知らない人があまりにも多すぎることにビックリしてしまうこともあるのだが、まあ、私の中では十分に有名な、上野公園のシロナガスクジラである。公園内の国立科学博物館のシンボルみたいになっている。

この写真、実は撮影した時にはごく平凡に全身を写していた。こんな具合である。修学旅行で来た高校生なんかも、多分こんなような構図で撮影しちゃうだろう。

170308tc2

で、この写真を改めて PC 画面上で見た時、「我ながらつまんねえ写真、撮っちまったなあ!」 と思ったのである。まあ、それは私だけじゃないみたいで、「上野公園 シロナガスクジラ」 というキーワードで画像検索すると、こう言っちゃ悪いが、ほとんどはつまらなすぎる構図だ (参照)。

で、ちょっとだけ細工しちゃおうということになり、落ち着いたのが、上の方の写真だ。この方が、少なくとも私にはリアルに感じられる。とくに、口元に辛うじて存在するちっこい目が、なんともいい。

こんなのは、同じ写真の一部を切り取って拡大しただけなのだから、大した加工を施したわけじゃない。ただそれだけのことなのに、「つまらなすぎる写真」 だったもののリアルさが、ちょっとだけ増したような気がするのである。

多分、「何をリアルと感じるか」 というのは、各人の脳内プログラムによるのだろう。それぞれの人が生まれた時から、いや、生まれる前からの経験で脳内に形成したプログラムによって、あるものをリアルと感じ、あるものをフェイクと感じる。

まあ、同じ人間だから、その感じ方には一定の法則みたいなものもあるんだろうが、細かいことを言えば人によってかなり違う。ある人が感動するほどリアリティを感じているのに、別の人はちっとも心を動かされないなんてことはいくらでもある。

卑近な例で言えば、団塊の世代より上の多くのおっさんたちが 「これぞ心の音楽」 と感じてしまう 「ズンチャチャ、ズンチャ」 リズムの演歌を、最近の若い連中は 「自分たちとは全く無関係の音」 と感じる。コンビニの店先に小さな音で演歌を流すと、ウンコ座りでたむろするヤンキーたちが自然にいなくなるというほどのものである。

逆に最近の 「ピコピコ音楽」 は、団塊の世代には音楽とも感じられない奇異なものにしか受け取られない。同じ日本人でも、脳内プログラムがかなり違ってしまっているのである。

何が言いたいのかというと、世の中には 「リアルなものがある」 というより、「リアルと感じられるものがあるだけ」 なんじゃないかということだ。本当にリアルなものは、多分現実世界ではなく、別の世界にあるのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/08/05

比叡山の横川まで行ってみて

一昨日付の 「和歌ログ」 にも書いたが、先日の京都出張のついでに、比叡山に登ってきた。京都には一泊二日の日程だったが、初日のうちに仕事は済ませてしまい、翌日は帰るだけでよかったので、時間の余裕もあり、せっかくだからと寄り道したのである。

8月の京都は滅茶苦茶暑いので、行くならば都の北の方角、鞍馬〜貴船、大原、比叡山のどれかのコースにしようと漠然と思っていたが、 2日目の朝になって、直感的に 「えい、今日は比叡山だ!」 と決めた。迷った時は直感で決めるに限る。

比叡山には 8年前の 3月にも登ったが、この時は雪がどっさり残っていて、東堂地区と西塔地区には行けたが、比叡山の奥殿ともいうべき横川 (「よかわ」 と読むらしい) 地区までは行けなかった。さらにこの時は、手持ちのノート PC がおシャカになっていて、帰りに秋葉原で新品を買って帰らなければならず、ゆっくり廻る時間もなかったのである。

今回は時間的余裕もあったので、前回行きそびれていた横川地区まで行ってみた。しかも行きはバスに乗らず、4kmの山道を歩いて行ったので、かなり汗をかいた。

行ってみて感じたのは、「比叡山は横川まで来なければわからない」 ということだった。しかもフツーにバスに乗ってちゃちゃっと行ったのではわからない。細い山道を自分の足で辿るからこそ、昔の人の感覚まで思いを馳せることができるのである。

私はこれまで、比叡山については複雑な印象を抱いていた。いうまでもなく比叡山延暦寺は、高野山金剛峯寺の真言宗と並ぶ密教、天台宗の総本山である。さらに 「仏教の総合大学」 とまで言われ、鎌倉期には曹洞宗の道元、浄土真宗の親鸞、日蓮宗の日蓮の、三大スーパースターを輩出した。

そんなにまですごいところであるはずなのに、一方では荒くれの僧兵を擁し、白河天皇が 「賀茂川の水、双六の賽、山法師 (比叡山の僧兵) だけは意のままにならない」 と嘆いたほどの暴力装置を確保していたのである。

このブログでも、4月 17日付の 「大津で思ったこと」 という記事で触れているが、天台宗の内部でも山門派と寺門派に分かれ、抗争を繰り返した。幾多の抗争で寺の堂塔は何度も焼き払われている。有名なところでは、織田信長も火を付けて壊滅状態にまで焼き払った。宗教的に大きな役割を果たしてはいるが、世俗的にもどうしようもないほどの抗争の歴史がある。

延暦寺に行ってみるとわかるが、多くの堂塔は意外なほど新しい建物で、古びた味わいなんてほとんどない。「これで世界遺産なのか?」 と驚くほどだが、まあ、そんなに何度も焼き払われているのだから、古い建物が残っていないのも道理である。それもみな、宗教的深みだけでなく世俗の力を持ちすぎていたからこそのことだ。

どうしてこんな二重構造があったのかと、ずっと解せない思いでいたのだが、今回、横川まで行ってみてなんとなくわかった。横川は比叡山の奥殿と言われるだけあって、別世界なのである。道元、親鸞、日蓮らは、山法師の荒くれた世界から離れた静謐な奥殿で、宗教的研鑽をすることができたのだろう。比叡山は広いのだと実感した。

世の中には、実際に行ってみないと得心しにくいことというのが、確かにある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/03/01

「色」 は脳内にある

"「色」は光にはなく、脳の中にある" という日経ビジネスの記事を、とても興味深く読んだ。我々が知覚している 「色」 というのは、物質 (物質からくる光の波長) 固有のものではなく、我々の脳が波長に応じてそこに 「色」 として塗って見ているというか、貼り付けて見ているというか、まあ、そんなようなものであるというのだ。

このことについては、前から知ってはいた。もっと言えば、あまりよくは知らなかった頃から、「色」 というのは人間が人間の都合で認識しているのだということは、何となくそんなようなものとはわかっていた。とはいいながら、それほどしっくりきていたわけじゃなかった。

例えば大学の哲学の授業などで、教授がもったいぶって 「ここに花がある。赤い花である。しかしそれは本当に 『ここに赤い花がある』 と言えるのか」 なんてことから講義を切り出す。こちらとしては 「なるほど、哲学のとっかかりとしては、そういうところから入るわけね」 なんて思いながらも、遠い世界の話のような気がする。

凡人は 「だって、赤い花。あるじゃん」 なんて思いがちなのだ。そんなこんなで、哲学というのは役にも立たない暇人の知的遊戯なんてことに落とし込まれてしまう。

ところが脳科学の視点からこのように 「色は脳内にある」 と立証されてみると、哲学は俄然プラクティカルなものになる。「へえ、哲学ってその辺りのことを、ずっと昔から問題にしてたんだ」 と、凡人にもやっと理解される。

ただ、哲学の立場からこの辺りの認識論にあまりに深入りすぎると、哲学の醍醐味である存在論や形而上学に行けなくなってしまうような気もするのだよね。もうここまでくると好き好きの問題のような気もするのだが、認識論は存在論の入り口として考えるのがしっくりきてしまうのだよね。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2016/01/22

「まっとうな問いかけ」 への、的外れな反撃

今朝、NHK の朝のラジオを聞いていたら、『よいことと わるいことって、なに? 』 という本が紹介されていた。「こども哲学」 というシリーズ中の一冊で、「フランスの小学校の哲学の授業で先生と子どもたちが交わした対話をそのまま本にした」 ものだそうだ。「ほぼ日」 の記事にある担当編集者のコメントを引用しておく。(参照

「どうして生きてるんだろう?」
「どうして人に親切にしなきゃならないんだろう?」
「宇宙って、ほんとにあるのかな?」
「恋をするって、すてきなこと?」
こどもは毎日、ありとあらゆる質問をします。
親として、おとなとして、あるいは友だちとして、
あなたはどんなふうに答えていますか。
考えてみると、おとなだって、なんで生きてるのか、
なんで親切にしなきゃならないのか、
それから宇宙の謎も、恋の秘密も、
わかっていないんじゃないでしょうか。
そんな素朴な疑問を親子で話し、
考えることができたなら きっとすごく楽しいし、
いろんな発見があるに違いない!

とまあ、こんなような本である。ありとあらゆる問いかけに対して、さらに問いを投げかけるというスタイルで一貫していて、答えは提示されていない。物事を深く考えるきっかけ満載の本である。

この本が紹介されると、聴取者からメールで寄せられたコメントも紹介された。概ねポジティブな反応だったが、中に 「正論過ぎる」 というコメントがあった。私はそれにびっくりしてしまったのである。

何らかの結論が提示されているなら 「正論過ぎる」 という反応もわからないではない。しかしこの本は終始 「問いかけ」 で一貫しているので、結論は提示されていないのである。「問いかけ」 に関して 「正論過ぎる」 なんて思ってしまう人のメンタリティって、一体どうなってるんだろう? 「くどすぎる」 というなら、まだ話はわかるが。

思うにこの人は、「まっとうな問いかけ」 というものに拒否反応を示しているのだ。そして自分の拒否反応があまり誉められたことではないと、薄々わかってもいるので、「正論過ぎる」 という 「おかしな反撃」 を用意したのである。まったく的外れな、あさっての方向を向いた言い草ではあるが、この人にとっては客観的にはどうあれ、自分の心の平安さえ得られればいいので、こんな反応になったのである。

要するに彼 (あるいは彼女) は、「まっとうな問いかけ」 をされたくないのだろう。もっと言えば、「まっとうな問いかけ」 を恐れているのである。問いかけられることによって物事を深く考えざるを得ないという状況に、追い込まれたくないのだ。

だったら正直に、「そんなに深く考えたくない」 と言えばいいのに、「正論過ぎる」 という言葉で、「まっとうな問いかけ」 に反撃したつもりになっている。そして反撃したつもりで、自ら墓穴を掘っているのである。

しかし実は、世の中にはこうした的外れな反撃が案外多い。的外れな反撃によって自分の心の平安を確保したがる人が、そこらじゅうにいるのである。そして言い換えれば、「まっとうな問いかけ」 をする人は、世間からの攻撃に遭いやすいということでもあるから、ちょっと注意深くなってもいい。

ただ、純粋で世間ずれしてない人ほど無警戒に 「まっとうな問いかけ」 をしてしまうので、傷つきやすい。世の中は不条理である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/12/06

日本の仏教寺院がものすごい勢いで消滅しているらしい

今、日本のお寺が危ないらしい。収入源である檀家が過疎・高齢化などで減少し、一方で寺の側も住職の後継者不足という問題があり、今後「寺の消滅」が加速する可能性があると、朝日新聞が報じている (参照)。

宗教のニュース・サイトである World Religion News でも "BUDDHIST TEMPLES ARE CLOSING IN JAPAN AT A STARTLING RATE" (日本で仏教寺院が驚くべきペースで閉鎖している) という記事で、「77,000 の寺院の 40%が機能を停止する」 「既に 20,000 が無住職になっている」 と述べている。

何となくわかる。既に自分の家の宗旨 (浄土真宗とか曹洞宗とか) なんて知らない人もずいぶん多いぐらいだから、寺離れは既に確実に進んでいる。多くの人が地方から大都市部に移住し、その最初の世代は 「墓参りのために帰郷する」 という意識があっても、第二、第三世代になると、自分の家の墓がどこにあるかを知らなくなる。

そうするうちに近郊に墓地を買い求めるようになる。そうした 「霊園」 と称する施設は、特定の宗旨の寺に属するというよりも、お彼岸やお盆になると近所から坊さんを呼んでお経をあげてもらうなんてことになり、田舎の寺との縁は切れてしまう。そうなると、田舎の寺は無縁の墓だらけになり、管理もままならなくなる。

要するに日本の仏教界では、長らく続いてきた 「檀家制度」 というものが機能しなくなりつつあるのだ。「葬式仏教」 として機能してきたものが、人口流動化に対応できなくなっている。仏教寺院がこれからも存在したいと願うならば、死んだ者よりも、今生きている者を相手にする方向に舵取りしなければならないだろう。

今後は 「哲学宗教」 としての 「仏教文化の維持発展」 という役割を、寺院は話さなければならない。ただそのためには、77,000 もの数の寺院は必要ないのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/10/17

「一即多」 の思想による融和のコンセプト

たまたまテレビのスイッチを入れたら 『NHK スペシャル アジア巨大遺跡』 という特集をやっていて、今夜はその第1集 『カンボジア アンコール」 という番組だった。アンコールワット遺跡の紹介から始まり、9世紀から 15世紀にかけてこの地に栄えたクメール人によるアンコール王朝の反映の秘密を解き明かすという構成だった。

1
(画像は NHK 番組より)

恥ずかしながら私は、アンコールワットについて、熱帯の密林の中の謎に包まれた巨大遺跡という程度の知識しか持ち合わせていなかったが、この番組のおかげで、実はこの遺跡は 70万〜100万人の人口をもつ当時の世界最大の都市の中心だったと知った。へえ! 大したもんだ。

この世界最大の都市を支えたのが、高度な水利技術により 1年に 3〜4回もの収穫が可能だった稲作を中心とした農業と、中国からイスラム圏にまで広がった交易ネットワークだったことも、初めて知った。インドシナ半島のど真ん中に、そんなすごい文明があったとは、学校の歴史の時間では習わなかったよ。

さらに、このアンコール文明がほぼ 6世紀にもわたって繁栄した最大の理由が、「平和」 だったということが、この番組では強調された。当時の世界は、十字軍遠征や元帝国建設などに象徴されるように、戦争が盛んに行われていた。しかしインドシナ半島ではアンコール王朝を中心に、平和な時代が続いていたため、高度な文明が栄えたというのである。

この平和はどうしてもたらされたのかといえば、12世紀末のアンコール王朝最盛期の王だったジャヤーヴァルマン 7世が、積極的な融和政策を敷き、周囲の民族との平和を実現したことによるという。彼自身はヒンドゥー教から仏教に改宗していたらしいが、周囲の民族に信仰されていた全ての宗教を受け入れ、融和したことが大きいらしい。

西洋社会のキリスト教とイスラム教の対立を軸とした争いの歴史を考えると、東洋の 「融和」 の思想というのは偉大なるものである。私はそれを知って感動してしまったのである。

アンコール王国の 「全てを受け入れて融和する」 という思想こそ、現代人が学ぶべきものだ。下手すると 「独断的な一神教がいけない」 という議論に持って行きたがる人もいるが、そんなことを言うから、ますます余計な対立が生じる。それを越えて 「一即多」 という思想まで高まらないと、対立は消えない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2015/07/01

「環境的回心」 ということ

ちょっと旧聞になってしまったかもしれないが、Christian Today の "ローマ教皇、回勅「ラウダート・シ」発表 環境問題で回心呼び掛け 正教会・WCC・聖公会・ローザンヌも歓迎" という記事について触れよう。フランチェスコ 1世 (最近は「フランシスコ」 という表記が目立つが、私としてはずっと 「フランチェスコ」 を採用しているので、これで通させていただく) が、「回心」 を呼びかけているというのは、最大限に大きなニュースだ。

「回心」 というのは、「えしん」 と読めば仏教用語で、「邪心を改めて仏道に帰依する」 という意味だが、キリスト教では 「かいしん」 と読み、英語で言えば "conversion" である。「改宗」 あるいは 「これまでの生き方を悔い改めて、信仰に目覚めること」 といった意味だ。動詞は "convert" で、野球の守備位置を変えることも同じ単語を使う。

つまり、これまでとはがらりと変わった立ち位置に立つことである。フランチェスコ 1世は、このほどの回勅で、「環境的回心」 (ecological conversion) が必要であると訴えている。つまり、これまでの 「人間中心主義」 を改め、「統合的エコロジー」 によって自然との共存を目指す生き方をすべきとしている。

つまり、これまでは 「自然は障害であり、人間によって作り替えられ、乗り越えられるべきもの」 という 「人間中心主義」 を改め、「自然は保護し、共存すべきもの」 としている点で、従来の西欧的哲学をひっくり返すほどの意味をもつのである。

これはむしろ、東洋的な思想に近付いているともいえるが、同時に最新の科学的知見をしっかりと取り入れている点で、科学と宗教の和解を促進するものともいえる。つまり今回の回勅は、十分な科学的裏付けをもつ現代的なものなのだ。そうした点で、私はフランチェスコ 1世は歴史に残る偉大な教皇であると思う。

私は過去にも "「フランチェスコ 1世」 という名のローマ教皇" (2013/03/15)、"ローマ教皇が、自然破壊は 「モダンな罪」 と指摘" (2014/07/13) という記事で、「今のローマ教皇はエコロジカルな視点をかなり重視している」 と指摘しているが、今回の回勅はその本領を発揮されているようなのだ。

重要な点は、この回勅をカソリックのみならず、他のキリスト教諸派も歓迎しているという点である。もっとも保守的な勢力とみられていたカソリックが、これほどまでにラジカルなエコロジーを推進するというのは、西欧の宗教哲学が大きな転換を図っているということであり、世界の精神世界に大きな影響を与える。

世界は今、大きく方向変換を始めているのである。これはフツーの日本人が思っているよりずっと大きな意味をもつ。これを理解できないと、世界の潮流に取り残されると言ってもいい。原発再開なんて言ってる場合じゃないのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/05/22

しゃっちょこばらずに動作する

曹洞宗寺院の副住職さんのブログ 「つらつら日暮らし」 に 「禅宗の修行と動作システム」 という記事がある。本日付のこの記事は、「河本英夫先生 『損傷したシステムはいかに創発・再生するか―オートポイエーシスの第五領域』 新曜社・2014年、230~231頁」 からの引用から始まる。孫引きで引用させていただく。

動作の創発に意識はほとんど関与していない。この関与しないことに動作の自然性がある。手足を動かすさいに、いちいちそこに意識を向けていたのでは、とてもなめらかな動作はできない。動作の進行において、意識がそこから消えていくことに動作の自然性がある。この消えていく事態を意識の積極性と考えようと思う。そのため動作を現象学から考察していくためには、意識がそこから消えていく分だけ動作の自然性が出現し、動作がそれじたい作動するように意識が身を引く事象として成立する。こうした設定を行うことが必要である。またそれに応じた工夫が必要である。

卑近なことを言うが、慣れないことをさせられると、動作がぎこちなくなる。若い頃は、葬式の焼香をするのでさえ、しゃっちょこばっていた。前の人の手本を見て、その通りにしようとしてもまったく思いのままにならない。少しはまともにできるようになったのは 40歳を過ぎてからで、故人を追悼する気持ちでできるようになったのは、つい最近である。まあ、それだけ葬式が続いて、慣れちゃったということもあるが。

そういえば、昔習っていた合気道でもそうだった。合気道というのは徹底的に型稽古をする。型稽古しかしないのである。技の型を延々と繰り返すのだが、まともにできるようになるには結構な時間がかかる。

初めはやはりぎこちないもので、そのうちに少しはスムーズに動けるようになり、さらに進むと、ことさらに意識しなくても体が自然に動くようになる。というか、意識しているうちはぎこちない動きから抜け出せない。

武道では 「習うて、而してそれを忘れよ」 などと言う。何度も何度も型稽古を繰り返し、身につけたら、それを忘れてしまえというのだ。せっかく身につけたことを忘れてしまって、初めて本物になるというのである。「動作の創発に意識はほとんど関与していない」 というのは、それと通じると思う。

それは、「条件反射」 というのとも違う。条件反射では、一定の刺激に対して自動的に決まり切った反射的動作しか生じない。しかし 「意識の積極性」 として、動作の中から意識が消えた状態では、自動的な反射行動に留まらない無限のバリエーションが生じる。意識しないからこそそうなるのだというところが、ちょっとおもしろいところだ。

しかし、「意識しない動作」 がいくら 「自然」 だといっても、それでは 「自然の動作」 を行うにあたって、「自己表現」 という問題はどうなるのだという疑問が生じるだろう。「自己表現」 がなければ、それは単なる機械的動作に過ぎないのではないか。「自然」 には見えるかもしれないが、結局は 「決まり切ったつまらない手順」 なのではないか。

この疑問に対しては、まともに答えようとしてもしょうがない。仕方がないから、「自己表現」 しようにも、その表現すべき 「自己」 なんていうものは、実は存在しないんだから、しょうがないじゃないかとしか言いようがないだろう。

「自己」 があると思っている限りはしゃっちょこばってしまう。自己を滅しようとしても、滅しようとしている自己に囚われている。初めからないものを、表現しようとしたり滅しようとしたりしていたのが、そもそもの間違いの元だったのだ。

「動作」 をするというのは、その過程で 「自己」 はないものと少しずつ確認する修行なのかもしれない。恐ろしく手間のかかるプロセスだけれど、そうすることで、「仏性」 に気付くことができるかもしれない。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2015/01/25

還暦を 2年過ぎて、どうやらここまでは悟った

私は昔から、物事を達成するための努力はするが、無駄な 「あがき」 はしないというタイプの人である。別の言い方をすると、自分で何とかしようと努力して、その努力が報いられる可能性が少しでもあれば、真剣に努力するが、自分の力ではどうしようもないことであれば、あっさりと諦めて素直に受け入れるべきだと考えている。

「自分の力ではどうしようもないこと」 というのは、例えばこの世に生まれてきてしまった以上は、自分の両親と親類縁者の面子は変えようがないというようなことだ。端的に言えば、親兄弟を恨んでも仕方がないということである。親兄弟を恨むのは、典型的な 「無駄な努力」 だ。努力なしには、恨み続けることだってできない。だったら素直にありがたく売れ入れる方が手っ取り早い。

同様に、これまでの生い立ちや、自分の文化背景としてのナショナリティなども変えられない。周囲の自然環境も、これ以上悪化させないための努力はできるが、根本的なあり方までは変えられない。何しろ明日のお天気だって、お天道様次第なのである。

政治状況なども、自分の発言や活動の影響力なんて微々たるものだ。だから選挙の度に投票はするが、それによって社会が劇的に変わるなんて期待はしていない。期待していないどころか、ほとんど諦めているという方が近い。投票を棄権しないのは、客観的にみれば単なる 「悪あがき」 みたいなものである。

私は、人生なんて水たまりに散った木の葉のようなものだと思っている。木の葉が水たまりから脱出しようとしても、自分の力ではどうにもできない。悪あがきすればするほど疲れるだけである (もっとも木の葉は、悪あがきしたくてもできないのだけれどね)。

逆にただだまって諦めて、水たまりの中に浮いてさえいれば、いや、たとえ沈んでしまったとしても、さらに大雨が降ってくれれば水たまりが溢れて、外に流れ出ることもある。ただ、流れ出て行き着く先はわからない。行った先々でそれなりに対応して漂い続けるだけである。

あるいは、大雨なんて降らずに日照りが続き、水たまりが干上がってそのまま朽ち果ててしまうかもしれない。それならそれで、朽ち果ててダニに食われ、排泄物となって微生物によってさらに分解され、周囲の植物たちの養分になれれば幸いというものである。そのままミイラのごとく変化しないよりはずっといい。

要するに、努力は精一杯するが、自分の力なんてたかが知れていると思っているのであある。何かそれなりの成果の上がることを成し遂げるとすれば、それはほとんど自分の力によるものというわけじゃなく、周囲の力の方がずっと大きい。自分は周囲の流れにうまく乗っかることができたというだけのことである。

周囲の流れにうまく乗っかるには、周囲とかなりの部分で同化しなければならない。反発していては乗ることなんてできない。それなりに意味のあることを成し遂げようと思うなら、意味のある人たちや物事と、親和しなければならないのである。ということは、「意味のあること」 を見つけることさえできれば、幸せな人生のとっかかりはつかめたのである。あとはそのことに馴染んでしまえばいいだけだ。

馴染めなかったら、選択を間違えたか、自分がわがまますぎるかのどちらかである。要するに、周囲が悪いのではなく、自分がまずかったのだと思えば、腹も立たずにやり直せる。周囲が悪いと思っているうちは、何をどうやり直しても、ことはうまく運ばない。いつも自分で選んで悪い環境の中に飛び込んでしまうだけである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/12/11

また例の、サンタクロースが本当にいるってお話

今年も私の本宅サイトにある "サンタクロースは本当にいる! クリスマス・イブは、「大きな愛」 を知るチャンス" というページに、続々とアクセスが集まる季節になった。12月に入ってからは 毎日 500以上のアクセスとなり、先週の土日は 1000近くにまでのぼった。来週以後は毎日 1000以上になることが確実である。

ありがたいことに 「サンタクロース/本当にいるの」 という 2語のキーワードでググってみると、ここ数年は私のページがずっと トップになっている。あの有名な 「ニューヨーク・サン」 の社説を紹介したページのずっと上にランクされているのだから、我ながら面はゆいぐらいである。

つい最近までは、クリスマスが近付かなかったら、1日に数件のアクセスしかなかったが、最近は 1年を通じて 数十件のアクセスが記録されている。それが 12月の半ば頃になると、1000件以上になるのだから、Google の影響力というのはすごいものだ。このページは 11年前に書かれたのだから、極力少なく見積もっても既に十万人以上の目に触れているだろう。

このページ、我ながらよくまあ、こんなに素敵なページを作れたものだと、ちょっと幸せな気分になる。もし私が突然ぽっこりと死ぬようなことがあっても、このページを世に出したというたった一点の功績で、まあ、地獄に落ちることはなかろうという気がしている。

というわけで、今年も私のページで多くの人がいい気分になってくれるなら、この上ない幸いである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧