カテゴリー「哲学・精神世界」の147件の記事

2017/07/04

「リアル」 と 「バーチャル」

6月 30日の記事で、私はオーディオや映像のデバイスにやたら高い金をかけることについての疑問を呈しておいた。(参照

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オーディオに関して言えば、記事の中で 「慎ましい音を聞きながらでも、脳内ではオリジナルの素晴らしい音に変換されている。要は、時々ちゃんとしたナマの音楽を聴くことで、想像力を鍛えればいいのだ」 と書いている。オーディオ機器に何十万円もかけるより、1度の 「本物」 のコンサートを聞く方が財産になると思うのだ。

これに関して、山辺響さんが、次のような示唆的でおもしろいコメントをしてくださった。

去年、私の唄三線の師匠がハイレゾ・レコーディング (?) でアルバムを出したのですが (当然ながら CD の容量には収まらないデータ量のため、ダウンロード販売)、弟子どもにとっては、ありがたさがよく分からず……。

確かに 「すぐそこで師匠が歌っているようではある」 とは思うのですが、ふだんから 「すぐそこで師匠が歌っている」 状況に慣れているので、それに比べて音がいいわけもなく。

それどころか、稽古のときにちょっとした IC レコーダーで録音したものでも十分じゃないかと思うのは、さすがに耳が上等でないのかもしれませんが (笑)

これに関して、私はとても共感できたので、次のようなレスを付けた。

その気分、よくわかります。
聞く専門じゃなくて、自分でも演奏する立場だと、「音」 を聞いてるんじゃなくて、「演奏の方法論」 を聞き取ってるんですよね。

一流のギタリストのコピーをしようとする時、音を何度も繰り返して聞くが、その際に 「音質」 はあんまり関係なかったりする。こちらとしてはそのプレイヤーの 「指使い」 や 「息づかい」 までこちらの中に取り入れてしまいたいと思っているので、「即物的な音の良さ」 に関しては忘れてしまっているのだ。まさに、「ちょっとした IC レコーダー」 の音でも十分だったりする。

そもそも 「何がリアルなのか」 を考えてみれば、それはわかる。人間の認識は人それぞれの感覚器官を通じたものだから、人の数だけの 「リアル」 があると言っていい。それぞれの人の認識した 「リアル」 も、実はそれぞれの人の感覚器官を通じて脳内に構築した 「バーチャル」 なのだ。

本当の自然の素晴らしさを知っている人にとっては、ある山の小さな写真 1枚で、その素晴らしい光景が再現され、吹く風の心地よさまで感じることができたりする。そうなると、写真というのは完成形ではなく、いかに素晴らしい入り口を提供できるかという作業だったりすることもあるとわかる。

その 「人それぞれのリアル、あるいはバーチャル」 の奥の奥に、「真実」 のようなものを見出せるかどうかは、その人の感性と経験を通じた訓練によるとしか言いようがない。そして芸術は 「単なる模倣」 ではないので、バーチャルをリアルに近づけることだけを目的とする営みは、あまりおもしろくなかったりする。

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2017/06/12

想念の具象化 その 4

想念の具象化 その 3」 という記事を書いたのは、3年以上前のことだった。そもそもの発端は約 14年前に書いた話で、要するに私はそれまで、毎年 1度以上はクルマのタイヤをパンクさせてしまう男だったのである。

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ところがそれまで抱いていた 「パンクはするものだ」 という想念を 「パンクなんてしないものだ」 と変えたとたんに、突然パンクしなくなったという、ウソのような本当の話なのだ。みっちりと繰り返すのは面倒なので、ことの次第を記した記事を、以下に時系列で示し、遡って読む時間のない人のために、要約を記しておく。

「パンク男」 を返上したい (2003年 7月 7日)

それまで 「パンクはしょっちゅうするものだ」 と思い込んでいたのだが、タイヤ屋のオヤジさんに、「しない人は全然しませんよ」 と言われ、「それじゃあ、自分もパンクしない男になりたい」 と思った顛末。

想念の具象化 (2006年 9月 25日)

それまで毎年のようにパンクしていたのに、「パンクなんてしないものだ」 という想念をもってからというもの、3年以上パンクしていないことに気付いた。

想念の具象化 その 2 (2008年 2月 19日)

本当に久しぶり、4年 8ヶ月ぶりにパンクしてしまったが、毎年 1度以上パンクしていた頃と比べたら、雲泥の差と実感した。

想念の具象化 その 3 (2014年 4月 14日)

「パンクはしないもの」 という想念を持続したおかげで、それからさらに 6年以上、1度もパンクせずに済んでいる。

そしてそれからまた 3年以上、つまり最後にパンクしてから数えれば 9年以上経ったが、その間に 1度もパンクしていない。約 14年前まで、「パンクはするものだ」 と思い込んでいた頃には、毎年 1度以上パンクしていたのに、「パンクなんてしない」 という想念に一転させてからというもの、14年間で 1度しかパンクしていないのだから、我ながら驚きである。

そして、もうすぐ 「10年間パンクなし」 という、クルマを運転するようになってから 1度も経験したことのない快挙を達成しそうな勢いなのだ。くどいようだが繰り返す。この変化の要因は 1つしか思い浮かばず、それは単に、自分の想念を 「パンクなんてしない」 と変えたことである。

この事実の受け取り方には 2種類あるだろう。1つは 「たまたまそうなっただけさ」 という解釈。そしてもう 1つは、「想念を変えると、人生も変わる」 という解釈だ。私としては、後者の解釈で行きたいと思っている。その方がずっと当然の流れと思うからだ。「そんなの疑似科学だ」 と言う人がいても、一向に構わない。

現実的なことを言えば、「パンクなんてしない」 と強く想念することで、釘やガラス片の多そうな所 (道路の端など) は意識的に避けたり、慎重に進んだりするという変化は当然あったしね。想念だけが変わって行動には全然反映されないなんてことの方が、科学的に考えても不自然だ。もし反映されなかったら、それは想念の変わりようが中途半端だってことだ。

これは神社で高額の祈祷料を払って 「交通安全祈願」 なんかしてもらうよりも、ずっと手軽に実現できる。何しろ金は 1円もかからないのだから。それに私は 「水からの伝言」 みたいに 「タイヤからの伝言」 なんて本を出して儲けようって気はさらさらないので、妙なツッコミは無用である。

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2017/05/07

「100年以内に地球外移住を」 と、ホーキング博士が警告

夕刊フジのサイト zakZak に、"ホーキング博士が警告「人類は 100年以内に地球外移住を」" という記事がある。ホーキング博士によると、「人類が生き延びるためには、今後 100年以内に別の惑星に移住を始める必要がある」 野だそうだ。

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博士は前々から 「今後 1000年か 1万年以内に地球は滅びる」 と主張してきたが、今回はそれを 100年に短縮したものだ。「気候の変化、小惑星の衝突で起きる地震や津波、伝染病、人口増加で地球の環境はさらに悪化する」ためだという。

記事は 「詳細はこの夏放映される英 BBC テレビの番組で明かされるが、博士は火星などに移住するためのロケット技術や生物学の新たな研究も発表する予定だという」 と結ばれている。彼の頭の中には、解決案が既にあるらしい。

ただフツーに考えると、今後 100年以内に他の惑星に移住するとなると、それほど遠くの星まで行くわけにもいかないだろうから、やはり 「火星など」 といった選択肢に限られるのだろう。そうなると、「火星くんだりまで行ってまで、生き延びようとは思わない」 とか 「火星に行ってでも生き延びたい」 という、大きく分けて 2通りの反応が出てくるだろう。

さらに、他の惑星に移住するには大変な金がかかるだろうから、「生き延びたいけど、移住の費用が出せない」 という人も出てくるに違いない。国家予算などで全員を移住させることができるとも考えにくいし、経済力などの要因によって 「生き延びられる人」 と 「生き延びられない人」 とに分けられ、新たな、そして決定的な差別が生じるおそれがある。

ホーキング博士の言うように、「今後 100年以内」 他の惑星に移住する必要性が高まるかどうかは、私にはわからないが、いずれにしてもこの地球が未来永劫にわたって人類が住みやすい惑星であり続けることは不可能だろう。既にどんどん住みにくくなっているのは確かなことだしね。

そうなると、我々は 「生きる」 というテーマについて深く考えざるを得ない。哲学的、宗教的な掘り下げが必要な時代に、既に入っているのだろう。

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2017/03/08

「リアルなもの」 と 「リアルに感じられるもの」

世の中で、一体何がリアルで、何がフェイクなのだろうかと考える時がある。現実にしかと存在するものがリアルであるとは、全然限らない。その反対に、作り物でしかないはずなのに、妙にリアルに感じられるものもあったりする。

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この写真は、かの有名な、と言ってしまうと、その存在すら知らない人があまりにも多すぎることにビックリしてしまうこともあるのだが、まあ、私の中では十分に有名な、上野公園のシロナガスクジラである。公園内の国立科学博物館のシンボルみたいになっている。

この写真、実は撮影した時にはごく平凡に全身を写していた。こんな具合である。修学旅行で来た高校生なんかも、多分こんなような構図で撮影しちゃうだろう。

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で、この写真を改めて PC 画面上で見た時、「我ながらつまんねえ写真、撮っちまったなあ!」 と思ったのである。まあ、それは私だけじゃないみたいで、「上野公園 シロナガスクジラ」 というキーワードで画像検索すると、こう言っちゃ悪いが、ほとんどはつまらなすぎる構図だ (参照)。

で、ちょっとだけ細工しちゃおうということになり、落ち着いたのが、上の方の写真だ。この方が、少なくとも私にはリアルに感じられる。とくに、口元に辛うじて存在するちっこい目が、なんともいい。

こんなのは、同じ写真の一部を切り取って拡大しただけなのだから、大した加工を施したわけじゃない。ただそれだけのことなのに、「つまらなすぎる写真」 だったもののリアルさが、ちょっとだけ増したような気がするのである。

多分、「何をリアルと感じるか」 というのは、各人の脳内プログラムによるのだろう。それぞれの人が生まれた時から、いや、生まれる前からの経験で脳内に形成したプログラムによって、あるものをリアルと感じ、あるものをフェイクと感じる。

まあ、同じ人間だから、その感じ方には一定の法則みたいなものもあるんだろうが、細かいことを言えば人によってかなり違う。ある人が感動するほどリアリティを感じているのに、別の人はちっとも心を動かされないなんてことはいくらでもある。

卑近な例で言えば、団塊の世代より上の多くのおっさんたちが 「これぞ心の音楽」 と感じてしまう 「ズンチャチャ、ズンチャ」 リズムの演歌を、最近の若い連中は 「自分たちとは全く無関係の音」 と感じる。コンビニの店先に小さな音で演歌を流すと、ウンコ座りでたむろするヤンキーたちが自然にいなくなるというほどのものである。

逆に最近の 「ピコピコ音楽」 は、団塊の世代には音楽とも感じられない奇異なものにしか受け取られない。同じ日本人でも、脳内プログラムがかなり違ってしまっているのである。

何が言いたいのかというと、世の中には 「リアルなものがある」 というより、「リアルと感じられるものがあるだけ」 なんじゃないかということだ。本当にリアルなものは、多分現実世界ではなく、別の世界にあるのだ。

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2016/08/05

比叡山の横川まで行ってみて

一昨日付の 「和歌ログ」 にも書いたが、先日の京都出張のついでに、比叡山に登ってきた。京都には一泊二日の日程だったが、初日のうちに仕事は済ませてしまい、翌日は帰るだけでよかったので、時間の余裕もあり、せっかくだからと寄り道したのである。

8月の京都は滅茶苦茶暑いので、行くならば都の北の方角、鞍馬〜貴船、大原、比叡山のどれかのコースにしようと漠然と思っていたが、 2日目の朝になって、直感的に 「えい、今日は比叡山だ!」 と決めた。迷った時は直感で決めるに限る。

比叡山には 8年前の 3月にも登ったが、この時は雪がどっさり残っていて、東堂地区と西塔地区には行けたが、比叡山の奥殿ともいうべき横川 (「よかわ」 と読むらしい) 地区までは行けなかった。さらにこの時は、手持ちのノート PC がおシャカになっていて、帰りに秋葉原で新品を買って帰らなければならず、ゆっくり廻る時間もなかったのである。

今回は時間的余裕もあったので、前回行きそびれていた横川地区まで行ってみた。しかも行きはバスに乗らず、4kmの山道を歩いて行ったので、かなり汗をかいた。

行ってみて感じたのは、「比叡山は横川まで来なければわからない」 ということだった。しかもフツーにバスに乗ってちゃちゃっと行ったのではわからない。細い山道を自分の足で辿るからこそ、昔の人の感覚まで思いを馳せることができるのである。

私はこれまで、比叡山については複雑な印象を抱いていた。いうまでもなく比叡山延暦寺は、高野山金剛峯寺の真言宗と並ぶ密教、天台宗の総本山である。さらに 「仏教の総合大学」 とまで言われ、鎌倉期には曹洞宗の道元、浄土真宗の親鸞、日蓮宗の日蓮の、三大スーパースターを輩出した。

そんなにまですごいところであるはずなのに、一方では荒くれの僧兵を擁し、白河天皇が 「賀茂川の水、双六の賽、山法師 (比叡山の僧兵) だけは意のままにならない」 と嘆いたほどの暴力装置を確保していたのである。

このブログでも、4月 17日付の 「大津で思ったこと」 という記事で触れているが、天台宗の内部でも山門派と寺門派に分かれ、抗争を繰り返した。幾多の抗争で寺の堂塔は何度も焼き払われている。有名なところでは、織田信長も火を付けて壊滅状態にまで焼き払った。宗教的に大きな役割を果たしてはいるが、世俗的にもどうしようもないほどの抗争の歴史がある。

延暦寺に行ってみるとわかるが、多くの堂塔は意外なほど新しい建物で、古びた味わいなんてほとんどない。「これで世界遺産なのか?」 と驚くほどだが、まあ、そんなに何度も焼き払われているのだから、古い建物が残っていないのも道理である。それもみな、宗教的深みだけでなく世俗の力を持ちすぎていたからこそのことだ。

どうしてこんな二重構造があったのかと、ずっと解せない思いでいたのだが、今回、横川まで行ってみてなんとなくわかった。横川は比叡山の奥殿と言われるだけあって、別世界なのである。道元、親鸞、日蓮らは、山法師の荒くれた世界から離れた静謐な奥殿で、宗教的研鑽をすることができたのだろう。比叡山は広いのだと実感した。

世の中には、実際に行ってみないと得心しにくいことというのが、確かにある。

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2016/03/01

「色」 は脳内にある

"「色」は光にはなく、脳の中にある" という日経ビジネスの記事を、とても興味深く読んだ。我々が知覚している 「色」 というのは、物質 (物質からくる光の波長) 固有のものではなく、我々の脳が波長に応じてそこに 「色」 として塗って見ているというか、貼り付けて見ているというか、まあ、そんなようなものであるというのだ。

このことについては、前から知ってはいた。もっと言えば、あまりよくは知らなかった頃から、「色」 というのは人間が人間の都合で認識しているのだということは、何となくそんなようなものとはわかっていた。とはいいながら、それほどしっくりきていたわけじゃなかった。

例えば大学の哲学の授業などで、教授がもったいぶって 「ここに花がある。赤い花である。しかしそれは本当に 『ここに赤い花がある』 と言えるのか」 なんてことから講義を切り出す。こちらとしては 「なるほど、哲学のとっかかりとしては、そういうところから入るわけね」 なんて思いながらも、遠い世界の話のような気がする。

凡人は 「だって、赤い花。あるじゃん」 なんて思いがちなのだ。そんなこんなで、哲学というのは役にも立たない暇人の知的遊戯なんてことに落とし込まれてしまう。

ところが脳科学の視点からこのように 「色は脳内にある」 と立証されてみると、哲学は俄然プラクティカルなものになる。「へえ、哲学ってその辺りのことを、ずっと昔から問題にしてたんだ」 と、凡人にもやっと理解される。

ただ、哲学の立場からこの辺りの認識論にあまりに深入りすぎると、哲学の醍醐味である存在論や形而上学に行けなくなってしまうような気もするのだよね。もうここまでくると好き好きの問題のような気もするのだが、認識論は存在論の入り口として考えるのがしっくりきてしまうのだよね。

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2016/01/22

「まっとうな問いかけ」 への、的外れな反撃

今朝、NHK の朝のラジオを聞いていたら、『よいことと わるいことって、なに? 』 という本が紹介されていた。「こども哲学」 というシリーズ中の一冊で、「フランスの小学校の哲学の授業で先生と子どもたちが交わした対話をそのまま本にした」 ものだそうだ。「ほぼ日」 の記事にある担当編集者のコメントを引用しておく。(参照

「どうして生きてるんだろう?」
「どうして人に親切にしなきゃならないんだろう?」
「宇宙って、ほんとにあるのかな?」
「恋をするって、すてきなこと?」
こどもは毎日、ありとあらゆる質問をします。
親として、おとなとして、あるいは友だちとして、
あなたはどんなふうに答えていますか。
考えてみると、おとなだって、なんで生きてるのか、
なんで親切にしなきゃならないのか、
それから宇宙の謎も、恋の秘密も、
わかっていないんじゃないでしょうか。
そんな素朴な疑問を親子で話し、
考えることができたなら きっとすごく楽しいし、
いろんな発見があるに違いない!

とまあ、こんなような本である。ありとあらゆる問いかけに対して、さらに問いを投げかけるというスタイルで一貫していて、答えは提示されていない。物事を深く考えるきっかけ満載の本である。

この本が紹介されると、聴取者からメールで寄せられたコメントも紹介された。概ねポジティブな反応だったが、中に 「正論過ぎる」 というコメントがあった。私はそれにびっくりしてしまったのである。

何らかの結論が提示されているなら 「正論過ぎる」 という反応もわからないではない。しかしこの本は終始 「問いかけ」 で一貫しているので、結論は提示されていないのである。「問いかけ」 に関して 「正論過ぎる」 なんて思ってしまう人のメンタリティって、一体どうなってるんだろう? 「くどすぎる」 というなら、まだ話はわかるが。

思うにこの人は、「まっとうな問いかけ」 というものに拒否反応を示しているのだ。そして自分の拒否反応があまり誉められたことではないと、薄々わかってもいるので、「正論過ぎる」 という 「おかしな反撃」 を用意したのである。まったく的外れな、あさっての方向を向いた言い草ではあるが、この人にとっては客観的にはどうあれ、自分の心の平安さえ得られればいいので、こんな反応になったのである。

要するに彼 (あるいは彼女) は、「まっとうな問いかけ」 をされたくないのだろう。もっと言えば、「まっとうな問いかけ」 を恐れているのである。問いかけられることによって物事を深く考えざるを得ないという状況に、追い込まれたくないのだ。

だったら正直に、「そんなに深く考えたくない」 と言えばいいのに、「正論過ぎる」 という言葉で、「まっとうな問いかけ」 に反撃したつもりになっている。そして反撃したつもりで、自ら墓穴を掘っているのである。

しかし実は、世の中にはこうした的外れな反撃が案外多い。的外れな反撃によって自分の心の平安を確保したがる人が、そこらじゅうにいるのである。そして言い換えれば、「まっとうな問いかけ」 をする人は、世間からの攻撃に遭いやすいということでもあるから、ちょっと注意深くなってもいい。

ただ、純粋で世間ずれしてない人ほど無警戒に 「まっとうな問いかけ」 をしてしまうので、傷つきやすい。世の中は不条理である。

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2015/12/06

日本の仏教寺院がものすごい勢いで消滅しているらしい

今、日本のお寺が危ないらしい。収入源である檀家が過疎・高齢化などで減少し、一方で寺の側も住職の後継者不足という問題があり、今後「寺の消滅」が加速する可能性があると、朝日新聞が報じている (参照)。

宗教のニュース・サイトである World Religion News でも "BUDDHIST TEMPLES ARE CLOSING IN JAPAN AT A STARTLING RATE" (日本で仏教寺院が驚くべきペースで閉鎖している) という記事で、「77,000 の寺院の 40%が機能を停止する」 「既に 20,000 が無住職になっている」 と述べている。

何となくわかる。既に自分の家の宗旨 (浄土真宗とか曹洞宗とか) なんて知らない人もずいぶん多いぐらいだから、寺離れは既に確実に進んでいる。多くの人が地方から大都市部に移住し、その最初の世代は 「墓参りのために帰郷する」 という意識があっても、第二、第三世代になると、自分の家の墓がどこにあるかを知らなくなる。

そうするうちに近郊に墓地を買い求めるようになる。そうした 「霊園」 と称する施設は、特定の宗旨の寺に属するというよりも、お彼岸やお盆になると近所から坊さんを呼んでお経をあげてもらうなんてことになり、田舎の寺との縁は切れてしまう。そうなると、田舎の寺は無縁の墓だらけになり、管理もままならなくなる。

要するに日本の仏教界では、長らく続いてきた 「檀家制度」 というものが機能しなくなりつつあるのだ。「葬式仏教」 として機能してきたものが、人口流動化に対応できなくなっている。仏教寺院がこれからも存在したいと願うならば、死んだ者よりも、今生きている者を相手にする方向に舵取りしなければならないだろう。

今後は 「哲学宗教」 としての 「仏教文化の維持発展」 という役割を、寺院は話さなければならない。ただそのためには、77,000 もの数の寺院は必要ないのだろう。

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2015/10/17

「一即多」 の思想による融和のコンセプト

たまたまテレビのスイッチを入れたら 『NHK スペシャル アジア巨大遺跡』 という特集をやっていて、今夜はその第1集 『カンボジア アンコール」 という番組だった。アンコールワット遺跡の紹介から始まり、9世紀から 15世紀にかけてこの地に栄えたクメール人によるアンコール王朝の反映の秘密を解き明かすという構成だった。

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(画像は NHK 番組より)

恥ずかしながら私は、アンコールワットについて、熱帯の密林の中の謎に包まれた巨大遺跡という程度の知識しか持ち合わせていなかったが、この番組のおかげで、実はこの遺跡は 70万〜100万人の人口をもつ当時の世界最大の都市の中心だったと知った。へえ! 大したもんだ。

この世界最大の都市を支えたのが、高度な水利技術により 1年に 3〜4回もの収穫が可能だった稲作を中心とした農業と、中国からイスラム圏にまで広がった交易ネットワークだったことも、初めて知った。インドシナ半島のど真ん中に、そんなすごい文明があったとは、学校の歴史の時間では習わなかったよ。

さらに、このアンコール文明がほぼ 6世紀にもわたって繁栄した最大の理由が、「平和」 だったということが、この番組では強調された。当時の世界は、十字軍遠征や元帝国建設などに象徴されるように、戦争が盛んに行われていた。しかしインドシナ半島ではアンコール王朝を中心に、平和な時代が続いていたため、高度な文明が栄えたというのである。

この平和はどうしてもたらされたのかといえば、12世紀末のアンコール王朝最盛期の王だったジャヤーヴァルマン 7世が、積極的な融和政策を敷き、周囲の民族との平和を実現したことによるという。彼自身はヒンドゥー教から仏教に改宗していたらしいが、周囲の民族に信仰されていた全ての宗教を受け入れ、融和したことが大きいらしい。

西洋社会のキリスト教とイスラム教の対立を軸とした争いの歴史を考えると、東洋の 「融和」 の思想というのは偉大なるものである。私はそれを知って感動してしまったのである。

アンコール王国の 「全てを受け入れて融和する」 という思想こそ、現代人が学ぶべきものだ。下手すると 「独断的な一神教がいけない」 という議論に持って行きたがる人もいるが、そんなことを言うから、ますます余計な対立が生じる。それを越えて 「一即多」 という思想まで高まらないと、対立は消えない。

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2015/07/01

「環境的回心」 ということ

ちょっと旧聞になってしまったかもしれないが、Christian Today の "ローマ教皇、回勅「ラウダート・シ」発表 環境問題で回心呼び掛け 正教会・WCC・聖公会・ローザンヌも歓迎" という記事について触れよう。フランチェスコ 1世 (最近は「フランシスコ」 という表記が目立つが、私としてはずっと 「フランチェスコ」 を採用しているので、これで通させていただく) が、「回心」 を呼びかけているというのは、最大限に大きなニュースだ。

「回心」 というのは、「えしん」 と読めば仏教用語で、「邪心を改めて仏道に帰依する」 という意味だが、キリスト教では 「かいしん」 と読み、英語で言えば "conversion" である。「改宗」 あるいは 「これまでの生き方を悔い改めて、信仰に目覚めること」 といった意味だ。動詞は "convert" で、野球の守備位置を変えることも同じ単語を使う。

つまり、これまでとはがらりと変わった立ち位置に立つことである。フランチェスコ 1世は、このほどの回勅で、「環境的回心」 (ecological conversion) が必要であると訴えている。つまり、これまでの 「人間中心主義」 を改め、「統合的エコロジー」 によって自然との共存を目指す生き方をすべきとしている。

つまり、これまでは 「自然は障害であり、人間によって作り替えられ、乗り越えられるべきもの」 という 「人間中心主義」 を改め、「自然は保護し、共存すべきもの」 としている点で、従来の西欧的哲学をひっくり返すほどの意味をもつのである。

これはむしろ、東洋的な思想に近付いているともいえるが、同時に最新の科学的知見をしっかりと取り入れている点で、科学と宗教の和解を促進するものともいえる。つまり今回の回勅は、十分な科学的裏付けをもつ現代的なものなのだ。そうした点で、私はフランチェスコ 1世は歴史に残る偉大な教皇であると思う。

私は過去にも "「フランチェスコ 1世」 という名のローマ教皇" (2013/03/15)、"ローマ教皇が、自然破壊は 「モダンな罪」 と指摘" (2014/07/13) という記事で、「今のローマ教皇はエコロジカルな視点をかなり重視している」 と指摘しているが、今回の回勅はその本領を発揮されているようなのだ。

重要な点は、この回勅をカソリックのみならず、他のキリスト教諸派も歓迎しているという点である。もっとも保守的な勢力とみられていたカソリックが、これほどまでにラジカルなエコロジーを推進するというのは、西欧の宗教哲学が大きな転換を図っているということであり、世界の精神世界に大きな影響を与える。

世界は今、大きく方向変換を始めているのである。これはフツーの日本人が思っているよりずっと大きな意味をもつ。これを理解できないと、世界の潮流に取り残されると言ってもいい。原発再開なんて言ってる場合じゃないのである。

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