カテゴリー「哲学・精神世界」の152件の記事

2018/06/02

何事も諦めが肝心

昨年秋の 「東洋経済」 の記事だが、"不安に強い人は 「諦める」 を習慣にしている" というのがある。慈眼寺住職で大阿闍梨のお坊さんの文章だ。

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私の座右の銘の一つに 「何事も諦めが肝心」 というのがあって、自分でも諦めのいい方だと思っていたのだが、大阿闍梨というまでの偉いお坊さんの身に余るお墨付きをもらったような気がして、かえって 「それで本当にいいの?」 と不安になった。こんなことで喜んじゃいけない。こりゃちょっと、どこかに落とし穴がありそうだ。

件の文章を読んで見ると、まず 「四苦八苦」 の話が出てくる。「四苦」 とは仏教でいうところの 「生老病死」 (「しょうろうびょうし」 と読んでね) の 4つの苦しみで、これらは 「どうあがいても、誰も決して逃れることのできない必然的な定め」 であるという。そして 「八苦」 とは 四苦に以下の 4つの苦しみを足したものだ。

「求不得苦 (ぐふとくく))」 欲しいものが手に入らない苦しみ
「愛別離苦 (あいべつりく)」 愛する者と別れなければならない苦しみ
「怨憎会苦 (おんぞうえく)」 嫌な人と出会ってしまう苦しみ
「五蘊盛苦 (ごうんじょうく)」 世の中はままならないものだという苦しみ

これらは、四苦と違って、避けられないものではなく、自分の心でコントロールすることができるものだという。つまり、心次第で 「八苦」 のうちの半分はなくすことができるのだ。イラッとしたりムッとした時などに、「心の針」 をプラスに戻すことによって、苦しみはなくすことができるのだと説かれている。

うむ、これなら、特別難しいことじゃない。それどころか、「生老病死」 の四苦だって、私はことさら耐えられないほど苦痛だと思ったことがないから、根っから 「プラス志向」 で生きてきたものらしい。

既に還暦を 5年も過ぎているから、これからどんどん 「老いの苦しみ」 というのが出てくるのかもしれないが、私としては、「年取るのも結構楽しいしね」 なんて思っている。安倍首相は 「高齢者と言われるのは嫌だ」 なんて言って、名称見直しを言い出しているらしいが、もっと他にやることあるだろうに。

私は早く 「後期高齢者」 と呼ばれる年になりたいとまで思っているほどだし、なんなら 「末期高齢者」 と言われてもいい。このことについては、6年近く前に "「後期高齢者」 という呼称を巡る冒険" という記事で書いているが、この記事、今読み返しても、我ながらなかなかいいことを言ってる。

安倍首相はどうでもいい呼称問題に国民の目を向けさせて、肝心の高齢者医療制度をウヤムヤにしたいんじゃなかろうかと、私なんか疑っているのだよ。

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2018/04/07

土俵と女性

京都府舞鶴市で行われた大相撲の春巡業で、土俵上で倒れた多々見良三・舞鶴市長に心臓マッサージを行っていた女性に、「土俵から降りてください」 と呼びかけたというニュースが結構な問題になっている。これに関して、専門医師が女性の取った措置は完璧と太鼓判を押したことが HUFFPOST に報じられている。(参照

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私はこれに関するビデオを今日初めて見たのだが (上の写真にリンクする HUFFPOST の記事で見ることができる)、土俵に上がった男性がほとんどおろおろしている中で、女性 2人がとても冷静に必要な措置を講じているのが確認できる。舞鶴市長は、倒れた現場にこうした女性が居合わせたことを、「不幸中の幸い」 として天に感謝すべきだろう。

この問題に関して私は、4月 5日に次のように tweet している。(参照

心臓マッサージしてる女性に「土俵から降りろ」 は言語道断だが、それとは別の次元の話として、土俵には命を落としても本望という覚悟で上がらねばならないのだ。たとえ単なる挨拶のためとはいえ、あくまでも「覚悟」としてはね。

この tweet は、その 2日前の 「東京駅のゴミ箱、ぼってる」 より多少はわかりやすかったようで、「リツィート」 と 「いいね」 が 1件ずつあった。

私は 「慣習」 というのか 「伝統」 というのか定かではないが、「女性は土俵に上げない」 という不文律に関しては、大相撲関係者には恐縮だが、「本質的にはどうでもいいこと」 と思っている。あまり語られないことだが、昔は 「女相撲」 という色物的興業もあったことだし、それほどしゃっちょこばって語っても仕方がなかろう。

ただ、宝塚市の中川智子市長が 「土俵上で挨拶したい」 と申し入れて断られた (参照) という件に関しては、上の tweet で述べたように 「『土俵上で命を落としても本望』 という覚悟があるならどうぞ」 と言うほかないと思っている。極端な話ではあるが、狂信的な男性至上主義者が土俵に駆け上って襲いかかり、結果的に命を落としたしても後悔しないほどの覚悟だけはもって上がるべきだということだ。

一方東京都の小池知事は 「東京・両国国技館で自身が土俵に上がり、優勝力士に都知事杯を授与することに関しては、『手渡すことにチャレンジするエネルギーを費やすつもりはあまりない』 と答えた」 と報じられている (参照)。これはこれで賢明な考えだと思う。

こんなことを言いすぎると 「お前は土俵に上がった女性は殺してもいいというのか」 とか 「女性が土俵に上がることについて、不等なプレッシャーを与えるのか」 なんて短絡的な批判が出かねないので、実はあまり直接的には言いたくなかった。しかし冷静に読んでもらえば、そんな馬鹿なことを言っているわけではないと理解してもらえるだろう。「土俵で命を落としても本望」 という覚悟が求められるのは、男女共通のことだし。

この 「覚悟」 というのは、昨日の記事 (参照) で 「私なんか 『伝統』 というのはかなりラジカルな側面をもつと信じているのでね」 と書いた一つの要因でもある。

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2018/04/06

西部邁氏に関する最近の報道から

西部邁氏の 「自殺」 に協力したという人物が 2名いて、自殺ほう助容疑で逮捕されているのだという (参照)。「なんだかなあ」 と思ってしまう話である。自らの死生観に沿って自分で命を絶つのは、まあ勝手にすればいいことだが、複数の人間に自殺を手伝わせて警察沙汰にしてしまったことで、その美学の価値は損なわれてしまったと思うのだ。

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逮捕された 2人は、西部氏の 「信者」 と言われているらしい。こうなるともう、宗教みたいな言い方である。そんなことで他人まで巻き添えにしてしまうのは、いかがなものか。自分で死を選ぶなら、最後まで自分の責任で完遂すべきだった。

西部邁という人には、実はほとんど関心がない。その昔、「新しい歴史教科書を作る会」 という団体の肝いりで出版された 「国民の道徳」 という本を買ったが、内容的に賛成とか反対とかいう以前にあまりの退屈さに匙を投げて、3分の 1も読み進まないうちに古本屋に売ってしまった覚えがある。多分、思考の回路の波長が合わないんだろう。

西部氏は 「経済学者」 という経歴をもつが、 「正統的経済学」 には批判的で、Wikipedia によると次のような思想をもっていたという。(参照

人間の社会的行動とは、合理的な面と不合理的な面の二重性を本質的に保持し、この不安定な二重性を均衡させる力を、西部は 「慣習」 または 「伝統」 と名付けた。

というわけで、この 「慣習」 「伝統」 という要素への積極的信頼が、彼をして 「保守思想家」 たらしめたんだろう。しかし私の感覚からすると、こうした思考そのものが、彼なりの 「合理主義への忠義立て」 みたいに思えるのだよね。

彼の著書を読んで退屈でたまらなくなった要因の一つは、「伝統」 という要素を 「合理」 と 「不合理」 の緩衝材みたいに位置付けているのを感じてしまったことだと思う。私なんか 「伝統」 というのはかなりラジカルな側面をもつと信じているのでね。

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2018/03/03

「我々は既に 『ロボット』 なんだから」 という思い

NHK BS で、"最後の講義 「石黒浩教授」" という番組を見た。見たと言っても、妻が旅行に行っているので、洗濯機を回したり物干しをしたりしながら細切れに見ただけで、みっちりと付き合ったわけじゃない。ただ、それなりに思うことがあったので、ここにちょこちょこっと書いておこうと思う。

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この番組は昨年 7月に放送されたもので、今回は再放送ということになっている。検索してみたら世の中恐ろしいもので、録画の完全版が こちら にあるので、興味のある方は行ってみるといいかもしれない。私は忙しいので、敢えて完全版を見直そうとは思わないが。

番組自体は、「もし今日が人生最後の講義だとしたら、教授は学生に何を語るのか?」 というコンセプトで製作されている。これ、米国で流行った試みのようで、今回は自分そっくりのロボットを作ったことで有名になった石黒教授がこのコンセプトのもとに、「すべての人間はロボットになる」 というメッセージを発しているわけなのである。

彼は 「人間は 1000年後に環境変化に付いていけず、滅亡」 「人間は無機物から生まれ、無機物に帰ろうとしている」 「進化の最終段階としての人間は、自らを無機物に置き換えて、生物の制約である 120年の寿命を越えようとしている」 つまり 「すべての人間はロボットになる」 と、主張している。

なるほどね。これは決して無茶な極論じゃない。「ロボットの研究は人間とは何かという根本的な興味から始まった」 という石黒教授の、現段階での最終回答なのかもしれない。

ところで私は元々、人間というのはロボットみたいなものだと思っている。有機物と無機物の区別さえしなければ、我々みんな、一種のロボットなのだ。ということは、石黒教授が 「自分のロボット」 を製作した如く、「オリジナルの自分」 はどこか別の所にあるので、それを追求したいという思いはあるのだが。

石黒教授が講演依頼を受けて、「本人とロボットの講演どちらにしますか?」 と聞くと、ほとんどが 「ロボット」 という返事なのだそうだ。「本人よりロボットが見たい」 のだという。それは当然だ。ロボット研究の第一人者に講演依頼をして、「ロボットを派遣しようか?」 と言われれば、そりゃ、ロボットの方を見てみたい。それが人情というものである。

で、今のところはどんなに精巧なロボットを作り、精巧なプログラミングをほどこしても、やはりどうみてもロボットじみた動きしか実現されていないから、それを見た人間はある種の安心感を抱く。それは私に言わせれば、「俺の方がロボットとしてずっとよくできてるじゃないか」 という自己満足にほかならない。

そしてそのうちに作り物のロボットに飽きてきたら、より本物と区別が付きにくい新型ロボットを派遣しなければならなくなる。それでもやっぱり生身の人間との 「差異」 が目立ってしまうだろうから、またさらに進化したロボットを作らなければならない。

そして究極的に生身の人間との 「差異」 がわからないほどの進化を遂げたら、人間なんて贅沢な存在だから、今度は 「ロボットとしての面白みがない」 なんて言い出すに決まっている。自分自身が 「ロボットとしての面白みがない存在そのもの」 のくせに。

というわけで、まあ、現段階の 「生身の人間」 に似せたロボットというのは、ロボット進化の初歩の段階なのかも知れないね。我々が 「生身の肉体」 から開放されたところに、新段階があるのだろう。それは 「ロボットとしての面白みたっぷり」 の開発をして、新しい哲学を生み出す段階なのかもしれない。

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2017/12/10

日本人の独特すぎる宗教観

NewSphere が 「日本人の宗教観、海外と違うけど変じゃない? 米メディアが探る日本人の心根」 という記事を報じている。米国のメディアが 「宗教と信仰が大部分において乖離している日本の状況について論じた記事」 を紹介したものだ。

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クリスチャン・サイエンス・モニター紙 (CSM) は、日本人の 62%が無宗教としているのに、多くの人が寺社仏閣などに参拝している日本の状況を、ある参拝者の 「神社にお詣りするのは、宗教を信じているのとは別」 というコメントを切り口にして、日本では、「宗教が生活の慣習の一部として存在」 し、「聖と俗が分かちがたい状況にある」 と説明している。これ、なかなかいいところを突いた指摘だと思う。

米公共ラジオ放送 (PRI) は、東京渋谷の金王八幡宮の田所克敏宮司の言を紹介している。彼は 「ある日、仏陀と呼ばれる神がアジア大陸からやってきた。その後、キリストと呼ばれる神が船でやってきた。すでにいた八百万の神にもう 2つ加わった、というだけのこと」 と、かなり乱暴なことを言っているのだが、まあ、ある意味日本人の宗教観が実際に乱暴だということだ。

田所宮司はこのあたりのことを、「人々は宗教を、何を信仰しているのかという観点ではなく、儀式の観点から見ている」 と説明する。そのため、子どもが生まれれば神社にお宮参りし、結婚式はキリスト教スタイルにし、葬式は仏教の形式で執り行う。西欧的な常識からすれば乱暴極まりなく、冒涜的ですらあるが、日本ではそれを誰もとがめない。

別のアメリカのメディア PBS (Public Broadcasting Service) は、東日本大震災の被災地の人々が見せた忍耐強さを、「荒ぶる神」 の視点から論じている。ケンタッキー州ベリア大学のジェフリー・リチー准教授は 「日本の神は善いものも悪いものもさまざまおり、その心も行いもとりどりであり、人の小さな知恵では計り知れないもの」 とする。

「聖」 と 「俗」 を明確に区別している西洋的な宗教観からすると、日本人のそれは、かなり異質と言わなければならない。日本人は 「聖なる絶対的存在」 である神に 「宗教的導き」 を求めるわけではなく、ただひたすら 「受け入れる」 のである。現世利益を求めながら、時には 「荒ぶる神」 さえも、ひたすら受け入れるのだ。

早稲田小劇場を主宰していた鈴木忠志氏は、活動の場を東京から富山の山奥に移すにあたり、「これは 『信心』 からきたものだ。自分は神仏に対する態度を 『信仰』 ではなく 『信心』 と言いたい」 と語っていた。彼はこのあたりの日本的心根をかなりよく理解していたのである。

私は、日本人にとっての神は、「気配」 なのだと思っている。絶対的なものじゃないのだ。宗教的には非常にプリミティブである。こんなにプリミティブな人たちが高度な文明の中で暮らしているのは、西欧的視点からは確かに驚き以外の何物でもないのだが、当の日本人はこの点について、まったくあっけらかんと全然無頓着なのだよね。

この無頓着さに関しては、日本人の私でさえ時々呆気にとられる。

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2017/07/04

「リアル」 と 「バーチャル」

6月 30日の記事で、私はオーディオや映像のデバイスにやたら高い金をかけることについての疑問を呈しておいた。(参照

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オーディオに関して言えば、記事の中で 「慎ましい音を聞きながらでも、脳内ではオリジナルの素晴らしい音に変換されている。要は、時々ちゃんとしたナマの音楽を聴くことで、想像力を鍛えればいいのだ」 と書いている。オーディオ機器に何十万円もかけるより、1度の 「本物」 のコンサートを聞く方が財産になると思うのだ。

これに関して、山辺響さんが、次のような示唆的でおもしろいコメントをしてくださった。

去年、私の唄三線の師匠がハイレゾ・レコーディング (?) でアルバムを出したのですが (当然ながら CD の容量には収まらないデータ量のため、ダウンロード販売)、弟子どもにとっては、ありがたさがよく分からず……。

確かに 「すぐそこで師匠が歌っているようではある」 とは思うのですが、ふだんから 「すぐそこで師匠が歌っている」 状況に慣れているので、それに比べて音がいいわけもなく。

それどころか、稽古のときにちょっとした IC レコーダーで録音したものでも十分じゃないかと思うのは、さすがに耳が上等でないのかもしれませんが (笑)

これに関して、私はとても共感できたので、次のようなレスを付けた。

その気分、よくわかります。
聞く専門じゃなくて、自分でも演奏する立場だと、「音」 を聞いてるんじゃなくて、「演奏の方法論」 を聞き取ってるんですよね。

一流のギタリストのコピーをしようとする時、音を何度も繰り返して聞くが、その際に 「音質」 はあんまり関係なかったりする。こちらとしてはそのプレイヤーの 「指使い」 や 「息づかい」 までこちらの中に取り入れてしまいたいと思っているので、「即物的な音の良さ」 に関しては忘れてしまっているのだ。まさに、「ちょっとした IC レコーダー」 の音でも十分だったりする。

そもそも 「何がリアルなのか」 を考えてみれば、それはわかる。人間の認識は人それぞれの感覚器官を通じたものだから、人の数だけの 「リアル」 があると言っていい。それぞれの人の認識した 「リアル」 も、実はそれぞれの人の感覚器官を通じて脳内に構築した 「バーチャル」 なのだ。

本当の自然の素晴らしさを知っている人にとっては、ある山の小さな写真 1枚で、その素晴らしい光景が再現され、吹く風の心地よさまで感じることができたりする。そうなると、写真というのは完成形ではなく、いかに素晴らしい入り口を提供できるかという作業だったりすることもあるとわかる。

その 「人それぞれのリアル、あるいはバーチャル」 の奥の奥に、「真実」 のようなものを見出せるかどうかは、その人の感性と経験を通じた訓練によるとしか言いようがない。そして芸術は 「単なる模倣」 ではないので、バーチャルをリアルに近づけることだけを目的とする営みは、あまりおもしろくなかったりする。

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2017/06/12

想念の具象化 その 4

想念の具象化 その 3」 という記事を書いたのは、3年以上前のことだった。そもそもの発端は約 14年前に書いた話で、要するに私はそれまで、毎年 1度以上はクルマのタイヤをパンクさせてしまう男だったのである。

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ところがそれまで抱いていた 「パンクはするものだ」 という想念を 「パンクなんてしないものだ」 と変えたとたんに、突然パンクしなくなったという、ウソのような本当の話なのだ。みっちりと繰り返すのは面倒なので、ことの次第を記した記事を、以下に時系列で示し、遡って読む時間のない人のために、要約を記しておく。

「パンク男」 を返上したい (2003年 7月 7日)

それまで 「パンクはしょっちゅうするものだ」 と思い込んでいたのだが、タイヤ屋のオヤジさんに、「しない人は全然しませんよ」 と言われ、「それじゃあ、自分もパンクしない男になりたい」 と思った顛末。

想念の具象化 (2006年 9月 25日)

それまで毎年のようにパンクしていたのに、「パンクなんてしないものだ」 という想念をもってからというもの、3年以上パンクしていないことに気付いた。

想念の具象化 その 2 (2008年 2月 19日)

本当に久しぶり、4年 8ヶ月ぶりにパンクしてしまったが、毎年 1度以上パンクしていた頃と比べたら、雲泥の差と実感した。

想念の具象化 その 3 (2014年 4月 14日)

「パンクはしないもの」 という想念を持続したおかげで、それからさらに 6年以上、1度もパンクせずに済んでいる。

そしてそれからまた 3年以上、つまり最後にパンクしてから数えれば 9年以上経ったが、その間に 1度もパンクしていない。約 14年前まで、「パンクはするものだ」 と思い込んでいた頃には、毎年 1度以上パンクしていたのに、「パンクなんてしない」 という想念に一転させてからというもの、14年間で 1度しかパンクしていないのだから、我ながら驚きである。

そして、もうすぐ 「10年間パンクなし」 という、クルマを運転するようになってから 1度も経験したことのない快挙を達成しそうな勢いなのだ。くどいようだが繰り返す。この変化の要因は 1つしか思い浮かばず、それは単に、自分の想念を 「パンクなんてしない」 と変えたことである。

この事実の受け取り方には 2種類あるだろう。1つは 「たまたまそうなっただけさ」 という解釈。そしてもう 1つは、「想念を変えると、人生も変わる」 という解釈だ。私としては、後者の解釈で行きたいと思っている。その方がずっと当然の流れと思うからだ。「そんなの疑似科学だ」 と言う人がいても、一向に構わない。

現実的なことを言えば、「パンクなんてしない」 と強く想念することで、釘やガラス片の多そうな所 (道路の端など) は意識的に避けたり、慎重に進んだりするという変化は当然あったしね。想念だけが変わって行動には全然反映されないなんてことの方が、科学的に考えても不自然だ。もし反映されなかったら、それは想念の変わりようが中途半端だってことだ。

これは神社で高額の祈祷料を払って 「交通安全祈願」 なんかしてもらうよりも、ずっと手軽に実現できる。何しろ金は 1円もかからないのだから。それに私は 「水からの伝言」 みたいに 「タイヤからの伝言」 なんて本を出して儲けようって気はさらさらないので、妙なツッコミは無用である。

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2017/05/07

「100年以内に地球外移住を」 と、ホーキング博士が警告

夕刊フジのサイト zakZak に、"ホーキング博士が警告「人類は 100年以内に地球外移住を」" という記事がある。ホーキング博士によると、「人類が生き延びるためには、今後 100年以内に別の惑星に移住を始める必要がある」 野だそうだ。

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博士は前々から 「今後 1000年か 1万年以内に地球は滅びる」 と主張してきたが、今回はそれを 100年に短縮したものだ。「気候の変化、小惑星の衝突で起きる地震や津波、伝染病、人口増加で地球の環境はさらに悪化する」ためだという。

記事は 「詳細はこの夏放映される英 BBC テレビの番組で明かされるが、博士は火星などに移住するためのロケット技術や生物学の新たな研究も発表する予定だという」 と結ばれている。彼の頭の中には、解決案が既にあるらしい。

ただフツーに考えると、今後 100年以内に他の惑星に移住するとなると、それほど遠くの星まで行くわけにもいかないだろうから、やはり 「火星など」 といった選択肢に限られるのだろう。そうなると、「火星くんだりまで行ってまで、生き延びようとは思わない」 とか 「火星に行ってでも生き延びたい」 という、大きく分けて 2通りの反応が出てくるだろう。

さらに、他の惑星に移住するには大変な金がかかるだろうから、「生き延びたいけど、移住の費用が出せない」 という人も出てくるに違いない。国家予算などで全員を移住させることができるとも考えにくいし、経済力などの要因によって 「生き延びられる人」 と 「生き延びられない人」 とに分けられ、新たな、そして決定的な差別が生じるおそれがある。

ホーキング博士の言うように、「今後 100年以内」 他の惑星に移住する必要性が高まるかどうかは、私にはわからないが、いずれにしてもこの地球が未来永劫にわたって人類が住みやすい惑星であり続けることは不可能だろう。既にどんどん住みにくくなっているのは確かなことだしね。

そうなると、我々は 「生きる」 というテーマについて深く考えざるを得ない。哲学的、宗教的な掘り下げが必要な時代に、既に入っているのだろう。

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2017/03/08

「リアルなもの」 と 「リアルに感じられるもの」

世の中で、一体何がリアルで、何がフェイクなのだろうかと考える時がある。現実にしかと存在するものがリアルであるとは、全然限らない。その反対に、作り物でしかないはずなのに、妙にリアルに感じられるものもあったりする。

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この写真は、かの有名な、と言ってしまうと、その存在すら知らない人があまりにも多すぎることにビックリしてしまうこともあるのだが、まあ、私の中では十分に有名な、上野公園のシロナガスクジラである。公園内の国立科学博物館のシンボルみたいになっている。

この写真、実は撮影した時にはごく平凡に全身を写していた。こんな具合である。修学旅行で来た高校生なんかも、多分こんなような構図で撮影しちゃうだろう。

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で、この写真を改めて PC 画面上で見た時、「我ながらつまんねえ写真、撮っちまったなあ!」 と思ったのである。まあ、それは私だけじゃないみたいで、「上野公園 シロナガスクジラ」 というキーワードで画像検索すると、こう言っちゃ悪いが、ほとんどはつまらなすぎる構図だ (参照)。

で、ちょっとだけ細工しちゃおうということになり、落ち着いたのが、上の方の写真だ。この方が、少なくとも私にはリアルに感じられる。とくに、口元に辛うじて存在するちっこい目が、なんともいい。

こんなのは、同じ写真の一部を切り取って拡大しただけなのだから、大した加工を施したわけじゃない。ただそれだけのことなのに、「つまらなすぎる写真」 だったもののリアルさが、ちょっとだけ増したような気がするのである。

多分、「何をリアルと感じるか」 というのは、各人の脳内プログラムによるのだろう。それぞれの人が生まれた時から、いや、生まれる前からの経験で脳内に形成したプログラムによって、あるものをリアルと感じ、あるものをフェイクと感じる。

まあ、同じ人間だから、その感じ方には一定の法則みたいなものもあるんだろうが、細かいことを言えば人によってかなり違う。ある人が感動するほどリアリティを感じているのに、別の人はちっとも心を動かされないなんてことはいくらでもある。

卑近な例で言えば、団塊の世代より上の多くのおっさんたちが 「これぞ心の音楽」 と感じてしまう 「ズンチャチャ、ズンチャ」 リズムの演歌を、最近の若い連中は 「自分たちとは全く無関係の音」 と感じる。コンビニの店先に小さな音で演歌を流すと、ウンコ座りでたむろするヤンキーたちが自然にいなくなるというほどのものである。

逆に最近の 「ピコピコ音楽」 は、団塊の世代には音楽とも感じられない奇異なものにしか受け取られない。同じ日本人でも、脳内プログラムがかなり違ってしまっているのである。

何が言いたいのかというと、世の中には 「リアルなものがある」 というより、「リアルと感じられるものがあるだけ」 なんじゃないかということだ。本当にリアルなものは、多分現実世界ではなく、別の世界にあるのだ。

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2016/08/05

比叡山の横川まで行ってみて

一昨日付の 「和歌ログ」 にも書いたが、先日の京都出張のついでに、比叡山に登ってきた。京都には一泊二日の日程だったが、初日のうちに仕事は済ませてしまい、翌日は帰るだけでよかったので、時間の余裕もあり、せっかくだからと寄り道したのである。

8月の京都は滅茶苦茶暑いので、行くならば都の北の方角、鞍馬〜貴船、大原、比叡山のどれかのコースにしようと漠然と思っていたが、 2日目の朝になって、直感的に 「えい、今日は比叡山だ!」 と決めた。迷った時は直感で決めるに限る。

比叡山には 8年前の 3月にも登ったが、この時は雪がどっさり残っていて、東堂地区と西塔地区には行けたが、比叡山の奥殿ともいうべき横川 (「よかわ」 と読むらしい) 地区までは行けなかった。さらにこの時は、手持ちのノート PC がおシャカになっていて、帰りに秋葉原で新品を買って帰らなければならず、ゆっくり廻る時間もなかったのである。

今回は時間的余裕もあったので、前回行きそびれていた横川地区まで行ってみた。しかも行きはバスに乗らず、4kmの山道を歩いて行ったので、かなり汗をかいた。

行ってみて感じたのは、「比叡山は横川まで来なければわからない」 ということだった。しかもフツーにバスに乗ってちゃちゃっと行ったのではわからない。細い山道を自分の足で辿るからこそ、昔の人の感覚まで思いを馳せることができるのである。

私はこれまで、比叡山については複雑な印象を抱いていた。いうまでもなく比叡山延暦寺は、高野山金剛峯寺の真言宗と並ぶ密教、天台宗の総本山である。さらに 「仏教の総合大学」 とまで言われ、鎌倉期には曹洞宗の道元、浄土真宗の親鸞、日蓮宗の日蓮の、三大スーパースターを輩出した。

そんなにまですごいところであるはずなのに、一方では荒くれの僧兵を擁し、白河天皇が 「賀茂川の水、双六の賽、山法師 (比叡山の僧兵) だけは意のままにならない」 と嘆いたほどの暴力装置を確保していたのである。

このブログでも、4月 17日付の 「大津で思ったこと」 という記事で触れているが、天台宗の内部でも山門派と寺門派に分かれ、抗争を繰り返した。幾多の抗争で寺の堂塔は何度も焼き払われている。有名なところでは、織田信長も火を付けて壊滅状態にまで焼き払った。宗教的に大きな役割を果たしてはいるが、世俗的にもどうしようもないほどの抗争の歴史がある。

延暦寺に行ってみるとわかるが、多くの堂塔は意外なほど新しい建物で、古びた味わいなんてほとんどない。「これで世界遺産なのか?」 と驚くほどだが、まあ、そんなに何度も焼き払われているのだから、古い建物が残っていないのも道理である。それもみな、宗教的深みだけでなく世俗の力を持ちすぎていたからこそのことだ。

どうしてこんな二重構造があったのかと、ずっと解せない思いでいたのだが、今回、横川まで行ってみてなんとなくわかった。横川は比叡山の奥殿と言われるだけあって、別世界なのである。道元、親鸞、日蓮らは、山法師の荒くれた世界から離れた静謐な奥殿で、宗教的研鑽をすることができたのだろう。比叡山は広いのだと実感した。

世の中には、実際に行ってみないと得心しにくいことというのが、確かにある。

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