カテゴリー「マーケティング・仕事」の126件の記事

2019/02/16

個々人に最適化したメニュー表示なんかされたら

日経ビジネスが 「客ごとにメニューが変わる すかいらーくの新システム」 という記事を紹介している。すかいらーくは、現在展開中の 「マルチブランドアプリ」 というスマホ向けアプリを使って、それぞれの顧客のデータ履歴から情報を蓄積し、個別に最適なメニューを表示できるようにするのだそうだ。

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各テーブルに置く 「デジタル・メニューブック」 と連動させて、それぞれの顧客に 「オススメ・メニュー」 を表示するという。来店時刻や天候・気温、季節、店舗の立地なども考慮して最適のメニューを提案するだけでなく、客単価を引き上げるために、一定の時間が経てばデザートをすすめるなんて、「余計なお世話」 までするらしい。

要するに 「顧客のニーズにきちんと対応するため」 というよりは、「より効率的で利益率の確保できる仕入れや商品提供を行うため」 ということなのだろうから、下手すると 「つまらないメニューになる」 なんて逆効果だってあり得るだろう。ニュースでは 「プライバシーを見透かされるような居心地の悪さを感じる」 なんて反応まであるらしいし。

ところで私は 2年ぐらい前から肉食を止めたので、外食をしようとすると 「メニューの選択肢がないなあ」 とつくづく感じている。街でレストランに入っても、軒並み肉メインや肉の入ったメニューばかりで、それを避けようとすればパンとサラダぐらいしか食うものがなく。それがいやならば蕎麦屋に入るだけだ。

地方出張の時など、すかいらーくホールディングスの運営する 「ガスト」 みたいな店に入らざるを得ないなんてこともあり、そんな時は煮魚定食ぐらいしか食うものがない。それを繰り返したら、そのうちガストに入っても私向けには、他のメニューが全然表示されないなんてことになるに違いない。

ドリンクバーでもホット・コーヒーを何杯かおかわりするだけで、他の飲み物は飲んだことがないなんていう私のような客が増えると、飲み物の種類が減ったりするのだろうか。個人的にはその方が面倒がなくてありがたいぐらいなのだが、店にしてみれば、運用を間違えると 「両刃の剣」 になるだろう。

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2019/01/18

日本での Subway 不振に見る 「文化の違い」

近所のショッピング・センター内で買い物しながら軽く昼食にしようとフード・コートに立ち寄ると、Subway がクローズしているのに気付いた。たまたま休業の日に当たったのかと思ったが、よく見ると 「事情により営業を中止」 という貼り紙がしてある。

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何となく様子が尋常じゃないので iPhone で検索してみると、Subway の FC 店運営会社が破産してしまったという記事が見つかった。破産宣告の前から、続々と店舗が閉鎖されているらしい (参照)。 いやはや、そんなこととは全然知らなかったよ。

上述の記事によると、日本の Subway 不振の要因としては、価格の高さ、商品提供の遅さ、注文の難しさ、店舗の老朽化が挙げられている。ただ、最近ではショッピング・センターのフード・コートでの展開が増えているので、「店舗の老朽化」 は決定的なものじゃないだろう。個人的には Subway の価格は言うほど高くないと思うが、「商品提供の遅さ、注文の難しさ」 というのは、案外大きいかもしれない。

昼食をファーストフードであっさり済ませようという日本人の多くは、一言二言で簡単に注文するか、あるいは自動販売機でチケットを買って、サクッと商品を受け取り、後は黙々と食ってしまいたいというニーズなのかもしれない。そこへ行くとパンの種類とその中身、野菜の量、ドレッシングに至るまで多くのチョイスの中から好きな組み合わせを店員に口頭で伝えるという Subway 方式は、かなり異質だ。

讃岐うどんチェーンでも多くのチョイスはあるが、トッピングを無言でチョイスして自分で皿に取り、最後に支払いをする。ところが Subway では 「キャベツは多めにね」 とか 「パセリは要らない」 とか、口頭で細かな好みを伝えるうちに、自分なりのオーダーを確定していくというプロセスを辿る。この辺りの 「ハイタッチ (下の注参照) な多様性尊重」 が、「おまかせ文化」 の日本人にはうっとうしく感じられてしまうのかも知れないね。

日本での Subway の不振というのは、こうした 「文化の違い」 によるところが大きいと思う。ただ、Subuway の店頭に自動販売機が置かれ、チケットで注文を決めちゃうなんてことになったりしたら興醒めだ。それで馴染んじゃうと、米国の Subway では注文できなくなっちゃうなんてことになるだろうしね。

【注】
「ハイタッチ」 は両手を挙げた者同士で 「ポン」 とやることだと思われているが、これは和製英語で、本来の英語の "high touch" の意味は、「人間的な触れ合い、感性を大切にする」 ということに近い。その対極が "high tech" (ハイテク)。

これはちょっと冗談ぽい話だが、私は約 7年前の "「ハートアタックグリル」 という命がけのジャンク" という記事に、ニューヨークの Subway での様子を次のように書いている。

日本でもおなじみのチェーン、Subway でサブマリンスタイルのサンドイッチを注文する時、「ハーフサイズ」 (日本の Subway では基本の大きさ) と言うと、カウンターのおねえちゃんがびっくりして目を見開き、"Really?" (本当にそれでいいの?) なんて聞いてくる。

余計なお世話だと思ったが、見ていると、スキニーな若い女の子でも、倍の 「ワンフット・サイズ」 に、じゅるじゅるの肉をはち切れんばかりにはさみこんだやつを、当然の如く注文しているので、"Really?" と聞きたくなるのももっともな話かもしれないと、妙に納得してしまったりする。

日本では Subway の店員が 「本当にそれでいいの?」 なんてフレンドリーに聞いてくるってことは、決してないよね。

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2018/09/29

閉店、撤退の続く百貨店業界

三越伊勢丹ホールディングスが、不振店舗の伊勢丹相模原店、伊勢丹府中店、新潟三越の3店舗を閉店すると発表した。今年度初めの決算発表の席での 「構造改革の主なものは 2017年度の段階で終えた」、「店舗閉鎖は当面ない」 という社長発言が、あっという間に覆されたわけだ (参照)。

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好意的(?)に見れば今回の 3店舗の閉店は、「構造改革の主なもの」 になんか入らない、枝葉末節の話ということなのかもしれない。まあ、とにかく 2011年に三越と伊勢丹が経営統合したことで、この会社の店舗が日本中に多すぎるという結果になったので、店舗閉鎖が連続するのは当然の成り行きだ。いくらなんでも、不採算店のお守りばかりしているわけにいかない。

私はずいぶん前から 「百貨店の歴史的使命は既に終わった」 とみていて、昨年 3月には 「百貨店という業態は、既にオワコン」 という記事を書いている。新宿伊勢丹や銀座三越などの都心店は曲がりなりにも 「高級店」 という差別化ができており、しかもいわゆる 「インバウンド需要」 にも支えられて堅調に推移しているが、他の地方都市では差別化もできないし、顧客もいないのだから、赤字を垂れ流すしかない。

そもそも、今どきファッションに大金を使う客なんて、そんなに多くない。新潟三越のような店が存続していたのは、「一般庶民」 と言われる層がボーナスが出たら一張羅の背広や 「およそ行き」 を、百貨店の売り場で買っていたいう、高度成長期の名残でしかない。

その 「一般庶民」 が百貨店で服を買わなくなり、しかもその層が薄くなる一方でもあるのだから、従来の百貨店の商売が存続できるわけがないのだ。試しにいわゆる地方百貨店の売り場に入ってみればそれがよくわかる。フロアは閑散としていて、客の数より店員の数の方が多い。そして大都市では、アジアからの観光客が従来の 「一般庶民」 の役割を果たしている。

新宿伊勢丹は一時、「メンズ・ファッション・マーチャンダイジングのお手本」 とあがめ奉られていた。しかし私は 「後背地に一大ホストクラブ地帯があるのだから、高級メンズ・スーツが売れるのは当たり前じゃん」 と思っていて、上述の昨年 3月の記事に次のように書いている。

フツーじゃない男たちを相手に磨いたマーチャンダイジング手法を、フツーの都市の百貨店に適用したところで、通用しないのである。どうしてそこに気付かないかなあと、私はずっと不思議だった。甘い夢は、よくよくダメになるまで見続けたいもののようなのだ。

ようやく気付いた時には、閉店するしか選択肢がなかったというわけである。百貨店の数は、今の 3割ぐらいでちょうといい。人口 100万人以上の大都市にポツポツあればいいのである。人口がたかだか 30〜40万人程度の商圏では支えきれない。

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2018/08/05

大塚家具は、末期的状態らしいので

朝日新聞が 「大塚家具、日曜なのに店内ガラガラで末期状態」 と伝えている (参照)。この記事は "大塚社長の手腕で不死鳥のように復活を果たすのか、それとも 「倒産」 に向かって進んでしまうのか。同社株主たちの眠れぬ夜は続きそうである" と結ばれている。

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大塚家具といえば、今どき誰も買わない 「婚礼三点セット」 とか 「桐箪笥」 みたいな家具を売る企業だとばかり思っていたが、画像検索してみると、上の写真ようにかなり 「お洒落な」 ソファみたいなものばかりで、いくら何でも婚礼三点セットなどは見当たらない。売っていないわけじゃないのだろうが、少なくとも主力商品の座はとっくに明け渡しているようだ。

そうなると会社のイメージが、現状についてきていないのだとわかる。大方の消費者は、「店に行っても、どうせ 『昭和の世界』 なんでしょ」 と思っているから、当然の如く客足も落ちる。はっきり言えば、「大塚家具」 という社名が悪さをしているのだ。「昔の 『大塚家具』 じゃない。今どきの家具もちゃんと置いてる」 とわかれば、少しは客足も伸びるだろう。

しかし、イメージチェンジに成功したとしても、私のような消費者は決して足を運ばない。価格帯が高すぎて手が出ないと知っているからである。セレブな部屋にセレブなソファやテーブルを並べたいなんて、まったく思っていないから、いくら 「お洒落な家具もありますよ」 と言われても、私は大塚家具のターゲットではないのだ。

朝日新聞の記事も、 「隣接のニトリは客が溢れ返り熱気充満」 と、大衆価格のマーケットとは市場規模が全然違っていることを伝える。一点当たりの平均単価はニトリの製品より 10倍ぐらい高いのだろうが、客数が圧倒的に少ないので、イメージ的にどんどんジリ貧になる。

というわけで、大塚家具のようなビジネスモデルは、既に歴史的使命を終わりかけているのだろう。倒産しないで存続するためには、外聞を気にせずに、規模を思いっきり縮小しなければならない。

朝日新聞の記者の視点では、「不死鳥のような復活か、さもなくば倒産か」 という二者択一の運命しかないような書き方になっているが、「不死鳥のような復活」 なんて求めたら絶対に潰れる。ここは、「近頃はなかなか話題にならないけど、どっこい、高収益モデルとして生き延びてます」 みたいな企業になるしかないではないか。

いずれにせよまったく思い入れのない企業だから、どうなっても知ったことじゃないのだが。

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2018/01/31

「好きなサービス」 と 「嫌いなサービス」

"日経ビジネス・オンラインに "「店員が出口までお見送り」 好きですか? 1000人に聞いた 「好きな接客」 「嫌いな接客」" という記事がある。

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まず、客に歓迎されている接客というのをあげると、筆頭は 「いらっしゃいませ」 という声がけで、「好き」 が 663人で、「好きではない」 の 24人を圧倒。他には、「弁当に添えられる 『おしぼり』」 は肯定派が 521人、否定派は 18人。「温かい食べ物・冷たい食べ物を別々の袋に分けて入れる」 は肯定派が 604人、否定派は 14人だった。

ホテルや旅館などで 「従業員が、部屋まで荷物を運ぶ」 も、肯定派 473人で、否定派の 78人を大幅に上回ったというのである。

ふぅん、世間一般の受け取り方って、こういうものなのかと、私はかなり違和感をもってしまった。「いらっしゃいませ」 ぐらいは、まあ、フツーのことなんだろうが、弁当に添えられる 「おしぼり」 なんて、私には資源の無駄にしか思われない。

コンビニで従業員が温かいものと冷たいもので袋を分けようとしたら、私はいつも 「分けないで、一つの袋にして」 と逆注文する。そして従業員が部屋まで荷物を運ぶというのは、そんな高級ホテルには泊まらないから、私には関係ない。

記事で 「要注意」 とされた、「好きではない」 という回答が 「好き」 の 3倍を超えたサービスは、飲食店などの 「ご友人同士ですか、会社の同僚ですか」 や、「どちらからお越しですか」 などの声かけ。プライバシーの侵害と思われるようだ。また、タクシー運転手の自己紹介や、「何をお探しですか」 という声かけも歓迎されない。

私は逆に、前の二つ程度の声かけは、フランクな会話のきっかけとなるサービスとして悪いものじゃないと思うがなあ。ただ、タクシー運転手の自己紹介なんてされた覚えがない。そもそも、タクシーってあまり乗らないし。ただ乗った時には大抵楽しく会話が弾むがなあ。性格のいい運転手さんに巡り会う運命なのかもしれない。

ただ、売り場で店員が近寄ってきて 「何をお探しですか」 と声をかけられそうになったら、これ見よがしに売り場を離れることにしている。あれって、邪魔以外の何物でもないんだよね。そもそも、本当に商品知識が豊富で相談するに値する店員なんて、ほとんど出会った例しがない。

調査では 「黄信号」 とされた、「好き」 と 「好きではない」 が拮抗しているサービスの中で興味深いのは、「開店時、入り口に店員らが並んでの一斉の挨拶とお辞儀」 で、「好き」 が 133人、「好きではない」 が 223人という結果だった。私に限って言えば、何が苦手と言って、これが一番苦手なので、百貨店の開店時の入店は絶対に避ける。というか、これのせいで百貨店そのものが嫌いになってしまった。

今回の調査でも 「好きではない」 の方が 2倍近くに達しているのに、どうしてあんなことやるのか、さっぱりわからない。要するに私は、「慇懃無礼」 が嫌いなのだよね。ただ、世の中にはウルトラ慇懃無礼なサービスが大好きな人種もいるから、一筋縄ではいかない。

記事でも、"これら 「黄信号」 は好きな人も一定数いるため、単純にやめてしまえば 「おもてなしが後退した」 と客に受け止められるリスクがある。ある意味では「要注意」よりも要注意なサービスといえるだろう" とされている。つまり一度始めてしまったのが、そもそもの間違いの元だったのだね。

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2017/12/23

クレーム電話の対応を巡る冒険

某メーカーで技術系の仕事をしている友人に聞いた話だが、会社には 「キャクソー」 と称する仕事のプログラムがあるらしい。これは 「お客様相談」 の省略形のようだが、要するに消費者からのクレーム電話の対応を経験するのが目的だというのである。

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趣旨としては、商品開発を行う技術者として、たまには消費者の生の声を聞いてみるということらしいのだが、実際には仕事でドジを踏むと一定時間のキャクソーをやらされるという、「罰ゲーム」 的な色彩のあるものと位置付けられている。建て前と本音とは、このあたりでずいぶんズレてしまう。

私は以前、アパレル関連で消費者クレームに関する管理に関わったことがあるので、そんな仕事をやらされるのは、技術系の人間にとってかなりのストレスの元になってしまうだろうと、心から同情した。ところが実際には、消費者対応のノウハウなんて持ち合わせない木訥な技術者の方が、消費者の怒りを鎮めて丸く収まってしまうケースが案外多いと聞いた。

クレーム対応専門の女性オペレーターが、いかにも手慣れた猫なで声でひたすら 「申し訳ございません」 なんて繰り返すより、即物的に技術論に行ってしまいたがる人間が対応する方が、消費者があっさり折れてしまうというのである。なるほど、ありそうな話だ。

コトを丸く収めようとして、ことさら丁重な対応に出ると、相手は往々にしてかさにかかって高圧的な態度になる。ところが、小難しい技術的な話を訥々と語り始めると、相手は虚を突かれてどう攻めたらいいかわからなくなってしまうのだろう。そもそもクレーム電話なんて些細なことが多いので、「今後は気をつけろ!」 の一言で終わってしまうケースが案外多いという。

要するに、人間というのは下手に謝られると調子に乗って強気で攻めるが、自分には理解できないような内容でドライに淡々とやられてしまうと、逆にちょっと引いてしまう傾向があるようなのだ。これは外交関係でもよく見られる構図である。

そんなわけで、欧米では何かトラブルがあった時には 「簡単に謝っちゃいけない」 というのが常識になっている。日本ではどういうわけか 「とにかく謝っておかないと話がこじれる」 と思われがちだが、実はあながちそういうわけでもないみたいなのである。

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2017/11/28

オフィスの書類キャビネットのパラドックス

今月 22日に、「モノの整理は、捨てなきゃ始まらない」 という記事を書いた。65年も生きてくると、経験則からしてまさにその通りであって、「整理」 という言葉には、「捨てる」 という意味がしっかりと含まれている。世の中では軽い気持ちで 「整理・整頓」 などと言われるが、「整頓」 というのは、まず不要なものを 「整理」 して (捨てて)、初めて成立するのである。

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昔務めていた某団体では、オフィスで最も便利な場所にある書類キャビネットにきれいに収納されているのは、すべて大昔からある不要書類だった。きれいなはずである。10年以上誰も手を触れていないのだから、乱雑になるきっかけがない。

一方でゴチャゴチャになってしまうのは進行中の 「生きた書類」 である。一番便利なキャビネットは誰も手を触れない不要書類に占領されているから、必要書類は机や棚の片隅でゴチャゴチャになるしかない。

「大昔の書類は法定の保管期限もすっかり過ぎてるんだから、捨てちゃいましょうよ」 と言うと、古株職員が 「それはそのうち 『創立 50周年記念誌』 を作る時の資料になるから、捨てられない」 などというのだった。私はそんなものを作る時期が近付いたら、さっさと転職していなくなろうと思った。

いろいろな団体や企業の 「創立」 または 「設立〇〇年誌」 という分厚い書物が送られてくることがあるが、実はそんなもの誰も読まない。ずいぶんな金をかけて、その団体や企業の内部の人間だって読みゃしないものをご大層に作っているだけである。そんなものを外部にまで配るのは、はっきり言って書棚のゴミを押しつけているようなものだ。

百歩譲って、古い書類をどうしても保管しておきたいというなら、倉庫の一番奥に眠らせておけばいい。よりによってオフィスの中で最も出し入れしやすい特等席を、そんなもので塞いでおくことはない。便利な収納スペースはその時々の生きた書類が入るべきで、そして常に整理して循環させなければならない。

人は往々にして、きれいに保管された書類の姿を見て満足してしまうが、死んだものをきれいにしまっておいてもしょうがない。さらに今の世の中では、紙の形ではなくデジタル・データとして保管しておけば、場所を取ることもない。「やっぱり紙に印刷してある方が見やすい」 などという人もいるが、そんなものどうせ見ない。

ほんのたまに見る必要が生じたとしても、デジタル・データにしておく方が検索しやすい。分厚い紙の書類の中から目指す資料を探し出さなければならないなんて、考えただけでぞっとする。

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2017/09/27

ブレインストーミングは、役に立たない

「知識連鎖」 というサイトに、「ブレインストーミングは満足感だけで意味はない 集合知と矛盾?」 という記事がある。内容は 「満足感はあり、むしろすごく楽しいものではあるものの、成果というものを冷静に見てみると、全然ダメという話」 だ。

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これ、「我が意を得たり!」 と言いたくなる記事だ。実際のところ私もブレストは何十回もやったが、役に立ったことは 1度もない。単に大判のケント紙が付箋の山で埋まり、3日経てば忘れ去られてしまうだけの行為に、どうしてあんなに力を注ぎたがるのかわからない。

私は初め、「ブレインストーミングを役に立てられないのは、やり方がまずいか、あるいは単に、こなし方に慣れていないからだろう」 と、希望的に考えていた。30歳になる前のことだから、もう 35年も前のことである。あれからこっち、いろいろなケースで経験したが、さんざん盛り上がりはするものの、すべてその場限りである。

ホワイトボードや大きなケント紙を埋めた付箋を、落ち着いてから改めて眺めてみると、ほとんどは当たり前すぎて改めて言う必要もないことと、愚にもつかない戯れ言ばかりである。「こんなどうでもいいことを、よくも堂々と言えたものだ」 と思うが、それは 「一見下らなそうな考えも歓迎」 だの 「質より量を重視する」 だの 「他人のアイデアを批判しない」 だの 「結論を出さない」 だのいう独特のルールのおかげだ。

そんなわけで、ブレストをやっている時間のほとんどは、他愛もない寝言を述べ合い、それをわざわざ付箋に書き出し、「これとこれとは関係がある」 なんて言いながら、どうでもいいアイデアをいろいろな塊にまとめ、そんなことをしているうちに、本質的な目的をどんどん忘れて 「何かテキトーなことを言いさえすればいい」 という雰囲気に傾いていく。

もしかしたら 100 の戯れ言の中にいいアイデアが 1つや 2つはあるかもしれないが、例えあったとしても、残り 90以上のガラクタに埋没してしまう。翌日には、「あれは一体、何だったんだろう?」 ということになり、付箋のどっさり貼られた大判ケント紙は、倉庫の片隅に積まれ、1年間は辛うじて保管されるが、翌年末の大掃除でこっそり捨てられてしまう。

冒頭に紹介した記事は "ブレストは 「やった感」 以外に意味がない理由" という Diamond Online の記事にリンクしており、そのリンク先には次のような記述がある。Google でチーム・プロセスの改善に取り組んだジェイク・ナップという人の指摘である。

僕は経験上、集団でブレーンストーミングするのではなく、各自がじっくり問題に取り組んだ方がより良い結果が得られることを知っている。

グーグルで何度もワークショップをしたときも、成功したアイデアは、どれもブレストから生まれたものじゃなかった。最良のアイデアは、机に向かっているときやシャワーを浴びているとき、一人で考えたときにこそ生まれていた。その場で考えるのでは、時間が足りなくて深く考えられないのかもしれない。

ブレストで出たアイデアよりも個人で生むアイデアのほうが質が高く独創性に富んでいるということは多くの研究からもはっきりしている。

落ち着いて考えてみれば、「そりゃ、そうだよね」 としか言いようがない話ではないか。ブレストにメリットがあるとしたら、参加者が 「自分は誰からも押しつけられたわけじゃなく、主体的な話し合いを通じて業務改善に取り組んだのだ」 と思い込むことができるということしかないだろう。

ということは、ある種の 「ガス抜き効果」 (あるいは 「ガス充填効果」 か?) のようなものはあるかもしれないので、ブレストで 「いい気分」 になりさえすれば、それでいい。その雰囲気だけを大事にして、内容なんて忘れ去ってしまえばいいのである。忘れ去ってしまわないと、いつまで経っても 「あれは一体、何だったんだろう」 と忸怩たる思いにとらわれるからね。

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2017/08/16

リモートワークになったら、「サボる」 か?

「しらべえ」 というサイトのちょっと前の記事だが、"リモートワーク導入で社員の 3割 「サボる自覚」 喫煙との関係も?" というのがある。喫煙者とゲーマーは、とくにサボりたがる傾向が強んだそうだ。

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私は今は自由業だし、企業に務めていた頃にしても、あちこち出向いて取材し、原稿にして送っちゃえばいいという仕事が多かったから、まあ 「自然にリモートワーク」 みたいなことになっていた。だから空き時間には喫茶店で時間を潰したり、大幅に時間が空いてしまったら映画なんか見たりするのが、ごくフツーだった。要するに 「やるべきことをやりさえすれば、あとは自由でしょ」 ってなもんだ。

だから、上記の記事の調査にしても、「リモートワーク」 において 「サボる」 と答えた人たちが、どういう意味で言ってるのか、よくわからないのである。単に 「9時から 5時まで、1時間の昼休みをはさんで PC に向かいっぱなし」 でさえあれば 「サボってない」 と思っているのだろうか。

オフィスに縛り付けられるシステムから離れたら、「サボる/サボらない」 の意味合いが全く違うんだから、こんなアンケートをとってもナンセンスでしかないと思うがなあ。「さっさと仕事をこなして、あとは残った時間を自由に使いますか?」 という質問だったらわかる。そしてその質問には、「はい」 と答える以外の選択肢なんかないだろう。

ちなみに喫煙ということでいえば、タバコなんかすってる暇があったら、さっさと仕事をこなしてしまって、残った時間を自分のために有意義に使う方がいいだろう。その意味でも、喫煙は非生産的である。

さらにいえば、「みんな一緒」 の環境から離れてしまうと仕事ができないタイプの人にとっては、リモートワークというのは、とまどいがちな労働環境になってしまうのかもしれないなあ。

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2017/06/21

アパレル業界は 「殺される」 のではなく 「自滅」 している

日経 BP の 『誰がアパレルを殺すのか』 という本が注目されている。注目されていると言っても、限られた業界人たちの間だけのことかもしれないが、まあ、業界の裾野はアパレル業界だけじゃなくて小売業界、出版業界などに至るまで広がっているから、その範囲は案外広い。

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この本の内容は 『日経ビジネス Online』 で連載されていた (参照) もので、私はそれをリアルタイムで読んでいたし、今でもネットで読めるみたいだから、改めて買う必要はないと思っている。意外に思われるかもしれないが、私は 50代半ばまでアパレル業界周辺でメシを食っていた人なので、このあたりのことについては少しは詳しいのだ。

で、あえてエラソーなことを言ってしまえば、この本の内容は、アパレル業界を冷めた目で見ている者にとっては、「知ってた!」 の一言で済ませてもいいようなことである。昨年の 10月頃はこのシリーズの  「百貨店 3社トップ激白、“衣料崩壊” 後の針路」 という記事に反応して 「百貨店は付き合いきれない業界」 という記事まで書いている。

まさに率直に言わせてもらえば、アパレルと百貨店というのは一蓮托生の 「付き合いきれない業界」 という印象を持っている。付き合いきれない業界だからこそ、当然の如くに揃って自滅の道を辿っているのだ。「アパレルは銀行が最も金を貸したがらない業界」 なんて言われ始めて久しいし。

ファッション・ビジネス・コンサルタントの坂口昌章氏はこの本について  Facebook で、「『アパレル企業は誰に殺されたの』 というキャッチーな見出しが注目を集めているが、実は誰に殺されたのでもなく、長年の不摂生が祟り、成人病を患い、特定の原因もわからず、老衰で死んでいくのかもしれない」 (参照) と書いておられる。

この見方には全面的に賛成だ。まさに的確な指摘である。アパレル業界は、誰かに 「殺される」 のではなく 「自滅」 しているのである。どうしても 「殺す」 という表現を使いたければ、「自分で自分の首を絞めて殺している」 としか言いようがない。

遙か昔、ビジネス・スーツや 「お出かけ着」 は百貨店で誂えるという時代があった。しかし今や、そうした刷り込みのされた世代は、とっくにそうした服の需要から離れた 「高齢者」 になっていて、一方、若い世代は百貨店なんかで服を買わない。つまり百貨店の言うところの 「お客様」 なんて、既に幻になっているか、そうでないとしても極端に縮小しているのだ。

そして百貨店以外のチャネルの洋服のほとんどは、単価が安い。多少売れたとしても、高度成長期のような金額には遙かに及ばない。つまり昔のやり方を踏襲していては儲からない構造になっているのだが、それにきちんと対応している企業は少ない。

私は今、アパレル関連の仕事からは極力遠ざかっている。まともな報酬が期待できないし、もはや感覚的に 「付き合いきれない」 のだから、どうしようもない。ただ、中には少しはまともな努力をしている企業もあるので、そこに期待するのみである。

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