カテゴリー「マーケティング」の37件の記事

2008/05/30

これでいい? これがいい?

繊維業界の専門紙に 「繊研新聞」 というのがある。その 5月 29日付の 1面に、良品計画の金井政明社長の文章が載っている。

タイトルは "「これがいい」 より 「これでいい」  理性的満足感を提供" というものだ。うむ、なるほど、「無印良品」 というブランドのコンセプトとして、わかるような気がする。

この記事の中で金井社長は、次のように述べている。

当社がめざしているのは 「これがいい」 というように嗜好性を誘導するモノづくりではなく、「これでいい」 という理性的な満足感をお客様に提供すること。つまり、「が」 ではなく 「で」 だ。

まあ、しょうがないなというあきらめとか、不満足とか、我慢で消費が起こりうるかというと、これは無理。したがって、我慢とか不満足のない 「これでいい」 を作ることをビジョンにしてきた。(中略) 豪華でも高級でもないのに、「それでいいよね」 と言って買ってもらえる商品になってきた。

で、まあ、言いたいことはとてもよくわかるのだけれど、その上で私は、「これでいい」 というレトリックにちょっとひっかかってしまうのだ。それって、やっぱり卑下しすぎじゃないか。

私としては、無印良品の商品を買う顧客というのは、決して 「これでいい」 ではなく、むしろ 「これがいい」 と思って買っているんじゃないかと思う。「安かろう悪かろう」 という商品ではないんだし。ただ安いものが欲しいんだったら、他にもっと安いものがいくらでもある。

もとより 「不満足とか我慢ではない」 と、同社長はおっしゃっているわけだが、それでも、「これでいい」 というのはどうみても消極性の残る選択である。しかし私の見るところ、無印良品の主力顧客はむしろ、積極的な意志で選択していると思うのだ。

彼らは、高級品や豪華な品物の代替品として無印良品を選択しているわけではない。むしろ、存在感を主張しすぎる高級品や豪華な商品には魅力を感じないのだ。ラグジャリー商品と並べて 「どっちでも好きな方をあげる」 と言っても、無印良品を選んじゃう人のような気さえする。

だって、そりゃ、ライフスタイルだもの。身の回りがシンプルなもので統一されているのに、何か一つだけ妙に浮いたのが混じっているんじゃ、落ち着かないだろう。

"豪華でも高級でもないのに、「それでいいよね」 と言って買ってもらえる" ではなく、豪華でも高級でもないから、そんな空虚な方向を向いたマーケティングの産物ではないから、「だからこそ、これがいい」 ということがあり得る時代なのではないか。

さらに、無印良品は環境的な配慮も徹底するという。だったらさらに、「これがいい!」 で選ぶ人が増えるだろう。プリウスを買うのに 「これでいい」 なんて人がいないのと同じことだ。

私は無印良品のコンセプトには少なからぬ好感を持っているのである (その割にはあまり持ってないけど)。だからこそ、「これでいい」 なんて言わずに、「これがいい」 として選ばれる商品なんだという自負ぐらい持ってもらいたいのだ。

足なり直角靴下」 なんて、まさに 「これがいい!」 で選ばれそうな商品だと思うがなあ。私も早速、無印良品ネットストアで注文してしまった。届いたら、モニタリング記事を書いてみようと思う。

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2008/03/28

ライセンス・ブランドの商品というもの

何年使ったんだか見当がつかないぐらい使い古した革の定期入れがボロボロになったので、この度ようやく買い換えた。

上野の丸井では 5,500円ぐらい出さないとまともなのが買えなかったが、その隣の御徒町駅近くの多慶屋では、似たようなのが 1,980円で買えた。探してみるものである。

私は定期入れに Suica だけでなく、運転免許証、健康保険証、歯科医の診察券、地元の図書館のカードなど、クレジットカード以外のカードはなんでもゴチャゴチャたくさん入れているので、薄っぺらいのじゃなく、たくさん入るのでないと困るのだ。

それで散々探したあげく、ようやく気に入ったのが見つかったので購入したのである。これまで使っていたのが、イタリアの某デザイナーのブランドがついていて、新しいのは日本人の某デザイナーの名前がついている。

とはいっても、どうせ、そのデザイナーが直接デザインしたわけがなく、ブランド使用のライセンスを受けた会社が、適当に付けているだけだ。

で、しげしげと見比べて気付いたのだが、この新旧の二つ、デザインと作りがまったく同じなのである。違うのは、エンボスされたブランドネームだけだ。いやはや、道理で気に入るわけである。今まで気に入って使っていたのと、ブランド以外はまったく同じなんだから。

もしかしたら、数年前のイタリアン・ブランドそのままのデザインのお古を、日本のデザイナーのために使い回しているのかもしれない。その程度にしか扱われていない日本の某デザイナーには、気の毒な話である。ライセンス・ビジネスなんていうのは、こうしたテキトーさが付きものである。

近頃では直輸入品が多くなったので、ライセンス・ビジネスは一時ほど多くなくなったが、それでも、靴下とかハンカチとかの小物雑貨は、デザイナーやオートクチュールの名前を付けたライセンス商品が幅をきかせている。

例えば、靴下の場合、その辺のテキトーなボリューム商品とライセンス・ブランドの商品は品質的にはどこも変わらないのである。同じ会社が同じ糸を使って、同じ機械で編んでいるだけだから、変わりようがないのだ。

じゃあどこが違うのかというと、もちろんブランド・ネームが付いていることと、そして、ちょっとだけそれらしい色合いになっているということだけである。さすがに、デザイナー・ネームの付いたライセンス商品は、悪趣味とか薄っぺらとかではなく、それなりの色遣いになっている。

あるいは、デザイナー・ブランドの靴下のまともな色を際立たせるために、ボリューム・ゾーンの靴下はあえて安っぽい、あるいは薄っぺらな、はたまた悪趣味な色を使っているとも言えそうなのである。

で、ちょっとした色合いの違いの靴下を買うために、消費者は約 2倍の金を払うのである。市場とはそういうものなのである。そして、定期入れの場合は、別のデザイナーのネーム入りで、まったく同じ商品が流通したりしているわけだ。市場とはまた、そういうものでもあるのである。

そしてそれらが、安売り店で 1,980円で売られたりしているのである。ジャスコあたりで売られているごくフツーの商品より安いぐらいだ。市場とはまたまた、そういうものでもあるのである。もしかしたら、偽ブランド品かもしれないが、市場とはさらにまた、そういうことでさえもあり得るのである。

私としては強いてデザイナーのブランドのついた品物をもちたいというわけじゃなく、気に入った商品にたまたまこのブランドが付いていたというだけのことなのである。個人的にはブランドなんて邪魔だから、ない方がありがたいぐらいのものなのだが。

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2008/03/08

YKK 神話

私はいわゆる高級ブランドにはまったく興味がないが、きちんとした理由があって信頼しているブランドというのは、いくつもある。

例えば、YKK である。アパレル業界では、ファスナーのトラブルに関するクレームが案外多いが、私なんか 「ちゃんと YKK のファスナーを使わないからだよ」 なんて言っている。

ファスナーのクレームで一番多いのは、引っ張ったらつまみが取れてしまったというものだ。次に多いのは、馬鹿になってしまって、閉じても反対の方からポロポロ開いてきてしまうというもの。さらに、すべりが悪くて、開閉が大変だというクレームもある。

YKK は世界シェア 45%を占めるというだけあって、こうしたトラブルは皆無ではないが、非常に少ない。何しろ、アメリカのアウトドアウェアのカタログをみると、"YKK zipper" を使用しているというのが、重要なアピールポイントになっているほどだ。

気候条件の厳しい高山などで、ファスナーの具合が悪くなったりしたら、下手すると命に関わる。命に関わらないまでも、寒さにかじかんだ指先で調子の悪くなったファスナーを無理矢理に開閉するというのは、かなりのストレスだ。

あるいは、寝袋のファスナーを開閉するときに、生地を噛んでしまって動かなくなったりしたら、本当にもう泣きたくなってしまう。だから、アウトドアウェアや寝袋に YKK のファスナーが使ってあるというのは、それだけで信頼される製品ということになる。

普通のアパレル製品の場合でも、YKK ファスナーでトラブルを生じたという報告はかなり少ない。簡単につまみが取れたり、馬鹿になってすぐにポロポロ開いてくるというのは、こう言っちゃなんだが、中国製などの安物に多い。

しかし、最近になって、取っ手に 「YKK」 の文字があるのに、すぐに壊れてしまったという報告が出てきた。「おかしいなあ」 と思っていたら、そのほとんどは、「偽 YKK」 のようなのだ。あらゆる一流ブランドと同様に、YKK にも偽物が出現し、しかもどんどん増加しているようなのである。

偽物の多い日本のブランドには HONDA、YAMAHA、SONY などが挙げられるが、もしかして一番多いのは YKK なんじゃなかろうかと思うほどだ。

面白いのは、かの 「ルイ・ヴィトン」 である。よく 「YKK のファスナーのついたヴィトンは偽物」 なんて言われるが、これは、半分本当で、半分ウソなのだ。

本当のことを言えば、本物のヴィトンが使っているファスナーも、実はれっきとした YKK の製品なのだ。ところが、さすがヴィトンで、自社製品に他のブランドが混じり込むのは許せないようで、「YKK」 の文字の入らない特注の YKK ファスナーを使っているのである。

ところが偽物のヴィトンは、偽物をいかにも高級らしく見せるために、YKK の刻印のついた本物の YKK ファスナーを使うなんていう、あざといというか、回りくどいというか、ちょっとあわれな手段を講じているらしい。

YKK は、その信頼性のなせる技というか、本物のヴィトンにも、偽物のヴィトンにも使われているわけだ。偽物の世界にも、いろいろ複雑な事情があるようなのだ。

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2008/03/04

「業績不振を天候要因に帰すな」 と言うが

アパレル業界では 「業績不振を天候要因に帰すな」 とよく言われる。天候が味方してくれなくても、企画とマーケティング努力で売り上げは伸びるのだという叱咤である。

しかし、そんなきれい事を言っても、やはり衣料品の売れ行きはお天気に大きく左右される。これはどうしようもない事実である。

ハイファッションを買い続けないとストレスになってしまうという、ファッション・マニアックは、ある一定の比率で存在する。こうした消費者は、魅力的な商品さえ提供されれば、暑かろうが寒かろうが、どんどん買ってくれる。寒波到来前に、汗をかきながらダウン・コートを着てくれる。

しかし普通の消費者は、暖冬だったら 3年前に買ったコートをもう 1年着ちゃおうと思うのである。夏が暑すぎたら、夏用のジャケットなんか何着も揃える気になれないのである。アパレルもエアコンもビールも、お天気商売なのだ。

それに、今回のようにかなり寒い冬になっても、本格的に寒くなったのが 1月の中旬以後だったりすると、その頃は既にバーゲンのシーズンになっているので、いくらコートが売れても在庫処分の世界であって、まともな利益にはならない。

アパレル業界が儲かるには、梅雨明けが早くて 7月初めからどっと暑くなり、旧盆が過ぎたら急に秋めいてきて、晩秋からぐっと冷え込み、立春を過ぎたらさっさと春の陽気になってくれればいい。要するに、季節の移り変わりが早め早めになってくれればいいのだ。

ところが、最近は逆で、梅雨明けがいつなのかうやむやのうちにやっと夏になり、そのくせ、秋の彼岸を過ぎてもだらだらと残暑が続く。短い秋が過ぎて暖冬かと思っていると、立春過ぎに急に寒くなる。ようやく春が来ても天候不順で菜種梅雨が長く、そのうちにまた暑い夏になる。

これでは、アパレル業界としては、まともな値段で勝負する期間がない。ようやくそのシーズンにふさわしい天候になった時には、バーゲン・シーズンなのである。当然にも、フツーの消費者はバーゲンになってから服を買う。

とまあ、このように天候要因に大きく影響される業界でメシを食っているせいか、気象予報士試験を受けたら、そりゃあ落ちるだろうが、私は素人としてはお天気ネタには結構強い方である。

いつの年が酷暑で、いつが暖冬だったかなんてことはしっかり頭に入っていて、「よくそんなこと憶えてるね」 なんて言われるが、それは仕事柄なのである。しかし、よく考えてみれば仕事柄だけではなく、これまで暮らしてきた環境のせいでもあるようだ。

高校まで暮らした山形県の庄内地方は、音に聞く地吹雪地帯である。人間が普通に暮らしているところとしては、世界最凶のブリザード地帯といわれることもある。そんなだから、天気には敏感で、天気図の読み方も子供の頃からいつの間にかわかるようになっていた。

学生時代にはよく山登りをして、観天望気なんていう技も身に付けた。さらに、30歳前に引っ越してきた今の家が、なんと洪水地帯に建っていたのである。

引っ越して 1週間目の日曜日に台風が来て、目の前の道路が冠水し、外に出られなくなった。さらに 2年後には床下浸水なんて被害まで経験し、当時勤めていた会社から 「罹災手当」 として 1万円が支給された。伊勢湾台風以来、25年ぶりの支出項目だったそうだ。

というわけで、私はつい最近まで台風が近づくたびに、天気図とにらめっこしながら眠れない夜を過ごしていたのである。

ところが、最近になって近所に遊水地ができ、我が家の裏の川も拡幅工事で川幅が 2倍になった。地域の排水設備もようやく整えられて、なまじの台風では道路冠水なんてしなくなった。引っ越してきてから 30年。長いようで短い期間だが、治水対策だけは確実に進んだ。

おかげで、近頃は台風が近づいても少しは安心して眠ることができるようになって、浸水の心配は忘れ、業界の売れ行きだけを気にかけていればいいようになったのである。ありがたいことだが、一方では地球温暖化なんていう、より大きな心配の種が持ち上がっている。

やはり天候要因というのは大きいのである。

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2008/02/23

「情報共有」 と "information sharing"

「情報共有」 ということについて、もしかして私は、ちょっとした誤解をしていたんじゃなかろうかと、最近思い始めている。

「情報共有」 は大切だといわれているが、単純に 「皆で同じことを知っている状態」 という意味だとしたら、実は、そんなことはあまり意味のあることじゃあるまいと気付いたのだ。

このことに気付くきっかけになったのは、「情報共有」 という日本語と "information sharing" という英語のニュアンスの違いを改めて考えてみたことだ。

普通、"information sharing" という英語を日本語に訳すときは 「情報共有」 という言葉に置き換えられ、その逆もまた普通である。それはもう翻訳作業の定番で、単に機械的に置き換えられるだけだ。しかし、よく考えれば 「共有」 と "sharing" はちょっと違うだろう。

"Share" という動詞は、「共有する」 と訳される時も確かにあるが、本来の意味は 「分かち合う」 ということだ。とすれば、"information sharing" の本当の意味は 「情報を分かち合うこと」 になる。

適当な漢字の熟語がないから、仕方なく 「情報共有」 と言いならわしているが、本来なら、情報をうまい具合に分割して、各々がその得意な部分を担当し、総体として一つの意味あることとして機能させるように、有機的な共同作業を行うことと言った方がいいだろう。

「皆で同じ情報を持つ」 なんていうのは、幻想である。それぞれが、担当分野においてきちんとした解釈をもって情報を編集し、それを次に手渡すということを連続させ、どんどん 「生きた情報」 として育てていくというのが、本来の "information sharing"  なのだと、最近は思うようになった。

「同じ知識を皆で持ち合いましょう」 なんてことでは、その知識は密度が薄まり、しかも総体としても硬直してしまって、何の役に立たないだろう。結果として、「情報は共有しました。だけど、大したことはできませんでした」 ということになってしまう。

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2008/02/07

ヴィトンの価値が変容する日

ルイ・ヴィトンは、おそらく日本市場に限った話だと思うのだが、「最も大衆的な高級品」 などと言われている。

日本国内において全世界売り上げの約 4割に達する 1500億円以上の売り上げを誇り、並行輸入、渡航先での購入を含めると、日本人向けの販売は約 6割になるという。

何しろ、ルイ・ヴィトンの名は誰でも知っているし、あのモノグラムを見てすぐにヴィトンとわからない者は少ない。日本女性の 3人に 1人が所有しており、20代女性に限れば ほぼ半数が所有しているというのだから、すごい。(個人的には 「狂気の沙汰」 と思うが)

日本におけるこの特異な 「ヴィトン人気」 は、冒頭に挙げた 「最も大衆的な高級品」 という不思議なイメージに支えられるところが大きいだろう。つまり、「高級品」 でありながら 「大衆的」 という二面的な価値観が特徴である。

単に 「高級」 というだけでは、これほどまでに売れない。「大衆性」 という要素があればこそ、誰でも安心して、所有していい気持ちになれるのである。この二面性は、日本におけるヴィトンの成功のキーポイントと言える。しかし、いずれこの二面性が崩れてしまう日がくるかもしれないことも、覚悟しなければならない。

ヴィトンの製品のあの 「素晴らしい」 値段というのは、「モノ」 としての価値を買うのではなく、言い古されたことだが、「満足感」 を買うのである。その満足感は、「これは高級ブランドですよ」 という看板からくる。

メーカーは、単なる塩化ビニール・バッグの高級ブランドとしてのイメージとステイタスを維持するために莫大な金を使い、その金は製品の値段に含まれる。つまり消費者はメーカーに対して、「未来永劫に、このステイタスを維持してくれるだろうな」 という委託金を預けているようなものだ。

その信用委託の崩れる日が来るとしたら、ブランドの価値は一体どうなるだろう。

ルイ・ヴィトンは今、中国でのマーケティングに力を入れている。さらにインド市場の可能性にも注目しているらしい。とくに中国はいまや、世界一の 「成金市場」 である。経済成長とともに、ヴィトンの売り上げは急増し、そのうち、確実に日本での売り上げを抜くだろう。

ヴィトンの最重要市場は、日本から中国に移る。中国から大挙して押し寄せるツアー客が皆、あの特徴的なモノグラムのバッグをぶら下げて、辺り構わぬ大声で会話しながら街を歩き、電車に乗り込んでくるだろう。

その時、ヴィトンの価値の二面性は変容するかもしれない。それは日本の消費者にとって、「最も大衆的な高級品」 というより、「あまりにも大衆的過ぎる高級品」 になってしまう可能性がある。既に今でもその萌芽は見え隠れしているが。

20年以上前にヴィトンを購入した消費者は、既に 「委託金」 として預けた金額の元は十分取った。むしろお釣りがくるぐらいだろう。しかし、今後ヴィトンを買う人は、「子供や孫の代にまで残せる高級品」 という謳い文句を、そのまま信じていいものだろうか。

確かに、「モノ」 としては残せるだろう。しかし、「ステイタス」 という情報を発信できる品物としては、子供や孫の代まで残せるだろうか。申し訳ないが、私には疑問である。

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2007/12/14

「ガラパゴス化」 再考

一昨日の 「ガラパゴスという言葉」 を書いてしまってからまた、マーケティングというものについて、いろいろ、つらつらと考えてみた。

マーケティング、とくに SCM (サプライチェーン・マネジメント) 関連の話になると、何につけても 「標準化」 ということが強く求められるが、それもモノによりけりなのだと思う。

私は本業の方で、繊維業界の SCM 推進なんて国レベルの業務に参加したりしているので、あんまりこういうことを言っちゃうとまずいのかもしれないが、何が何でも SCM で、標準化させないと始まらないという考え方には、疑問を感じてしまうのだ。

SCM の世界では、生産プロセスの原料から小売店頭まで、サプライチェーンの情報を共有しなければならず、その情報共有のためには、業務プロセスや言語、情報フォーマットなどは、すべて標準化されていなければならないということになっている。

途中に少しでも方言が入ってしまうと、そこから先の情報は、デジタル・ネットワークにおける共有が不可能になってしまうのだ。

例えば、繊維の世界では、アパレル・メーカーが織物のメーカーや問屋に発注した織物を、「やっぱり要らない」 なんて言って、引き取らない (ということは、金も払わない) なんてことが日常茶飯事である。これを業界用語で 「未引き取り」 なんていう。

こうした前近代的な商習慣をなくして、合理的なものにしないと、SCM は成立しない。だから、「取引近代化」 なんてことが、このポストモダンの世の中で、何十年も叫ばれたりしている。

ところが、少なからぬ中小アパレル・メーカーは、この 「未引き取り」 があればこそ、ビジネスチャンスを創出している。大手アパレル・メーカーが引き取らなかった織物を、安く買いたたき、流行のデザインに仕立てて、短サイクルで供給してしまうのだ。

大手のそれなりのブランドの洋服とまったく同じ織物で、それよりちょっとだけ目新しいデザインの洋服を、お手軽にちゃちゃっと作っちゃうのだから、地域の 「二番店」 と言われるレンジの洋服屋なんかでは、ありがたかったりする。それで商売になる。

だから、こうしたマーケットでは、あまりにも SCM が進展して、「未引き取り」 がなくなってしまうと、ビジネス・モデルが崩壊してしまうのである。SCM のない方が、ビジネスはしやすい。

市場というのは、ある意味、生態系のような様相を呈している。その時々で、それなりのバランスが取れている。その中の一部を 「改善」 しようとすると、それを機に、バランスの崩れが次々に発生してしまい、新たなバランスがとれるまでは、とてもアンバランスな状態になる。

サプライチェーンの一部に、米国で成功を収めたモデルを適用しようとすると、外来種が入ってきたときのような混乱を生じる。多くは日本のマーケットに適応できずに姿を消すが、時には大きな力を発揮して、競争に打ち勝ってしまうこともある。そんなときには、在来種は絶滅に瀕したりする。

日本というのはただでさえ特殊なところのある市場なのだから、単純に海の向こうのビジネスモデルを適用しようとしても、うまく行くはずがない。逆に、既存の生態系 (?) が余計がんばってしまったりする。

それに、なにしろ生態系じみているのだから、多様性が確保されていないと、市場そのものが活気を失ってしまいかねない。

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2007/12/12

「ガラパゴス化」 という言葉

「ガラパゴス化」 という言葉がある。日本の多くのツール、システム、政治経済の制度までが、世界の主流からはずれて、特殊な進化を遂げているという意味で用いられる。

試しにググったところ、「日経エレクトロニクス」 04年 3月 15日号の携帯電話に関する記事 (参照) 辺りが、その端緒のようだ。

この言葉、やはり、日本の携帯電話について語るときによく用いられるようだ。日本の 「ケータイ」 は、ものすごく薄くて小さくて高機能なのだが、世界の標準からみると、かなり特殊な規格のようで、日本のケータイ・ベンダーの世界市場でのシェアも、驚くほど小さい。このままでは、国際競争に勝ち残れないと、警鐘が鳴らされている。

ケータイだけではなく、日本の流通システム、商慣習から、大きな意味での市場のあり方、経済システム、政治状況まで、ガラパゴス化はかなり進展していて、世界の常識から見ると、とても特殊な発展を遂げているとの指摘は、とても多い。なにしろ、かなり前から 「日本の常識は世界の非常識」 と言われていたし。

日本のガラパゴス化を支えているのは、一重に 1億 2000万人を擁する市場規模と、日本語という世界的にはとても特殊な言語だと思う。日本語は最大の非関税障壁になっている。

国際市場でいかに評価の高い製品、システムでも、日本語化されていなければ、日本市場への参入は至難の業である。PC という市場でも、DOS-V で日本語対応が OS のレベルで標準対応されるまでは、ほとんど NEC 「キュッパチ」 の独占市場だった。DELL や HP の安い PC を気軽に買えるようになったのは、ここ数年のことである。

英語は実質的な国際語だが、日本人はこの国際語を必死になって学ぶ必要がない。なぜならば、このそれなりの規模をもつ日本市場においては、日本語の読み書きができれば、ほとんどのことはできてしまうからだ。

母国語さえできれば、大抵の用は足りてしまうというのは、英語圏以外では、日本と、あとはせいぜい中国ぐらいのものだと言われる。他の国では、最新の情報を得ようと思ったら、英語の新聞、雑誌、書籍を読まなければならない。ところが日本では、大抵の情報はちょっと待てば日本語に翻訳されてもたらされる。

そんなわけで、自動車やエレクトロニクスなど、輸出産業と言われる産業を除けば、気心の知れた市場さえ相手にしていればなんとか食っていける。わざわざ英語を使って国際競争のまっただ中に飛び込む必要はない。

しかし、日本もそのうち人口減少時代に入る。人口減少に伴って、国内市場の規模だって当然縮小する。そうなれば、海外市場に打って出ざるを得ないという状況になる。

その日は必ず来るのだから、日本もガラパゴス化をのほほんと謳歌するパラダイス鎖国状態から脱却して、国際標準に準拠したシステムを整えなければならないという指摘は、最近あちこちでなされている。

しかし、海外に市場を求めなければならないほど、国内市場の規模がシュリンクするのは、少なくとも何十年か先の話である。何十年か先の国際標準というのは、今の標準とは、多分違っているだろう。

あまり早めに国際標準準拠なんてことをしてしまうと、本当に必要になった時には、それがレガシー・システムになっていたなんてことになりかねない。

それに、外資が日本に進出して、国際標準とやらを押しつけてきても、ウォルマートが未だに日本市場に根付けないように、いくら外圧でも、日本市場の特殊性を根本から変えるのは大変だ。不可能ではないにしても、めちゃくちゃ時間がかかる。

現場の感覚では、多分、日本の内側からの自律的な国際標準化が軌道に乗るまでと、同じぐらい時間がかかるだろう。てことは、案外 「自然に成り行きまかせ」 というのが正解なんじゃなかろうかという気もするのである。

国際化はもちろん必要である。しかし、ガラパゴス化を心配するあまり、さしあたりあまり国内ニーズのない国際標準化なんてことを、無理にあせってする必要は、一般的には、まだないんじゃないかと思う。

むしろ、ガラパゴス化の中で創出されたものが、そのユニークさ故に国際市場で評価され、インターナショナル・スタンダードになってしまわないとも限らない。アニメとかね。

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2007/12/01

「偽装表示」 を巡る冒険

オッチャン (これは普通名詞でなく、固有名詞の 「オッチャン」) が、メルマガで 「コンプライアンス」 について書いている (参照)。

コンプライアンスは、近頃 「法令遵守」 と訳されていて、企業がこれをおろそかにすると、大変なペナルティを課せられるというのは、一連の食品不祥事の例をみればわかる。

それにしても、食品関連の偽装表示はめちゃくちゃ多い。シューマイの崎陽軒の 「原材料表示ミス」 なんて、「使用量の多い順に原材料を表示するよう定めた JAS 法の規定を知らなかったことによる誤り」 なんて言っているが、そんなこと食品メーカーが知らないわけなかろう。

素人の私だってその程度のことは知っているからこそ、乾麺のそばを買うときは、原材料表示で 「そば粉、小麦粉」 の順に書いてある製品を買うのである。これが逆だと、単に 「そば粉がちょっと混じった色付きうどん」 になっちゃうからだ。まあ、表示そのものが信じられるかどうかは別として。

崎陽軒は、タマネギと干しホタテ貝柱、小麦粉とグリーンピースの表示順を逆にしていたらしいが、そりゃ、その方が 「見た目がいい」 から、わざわざそうしていたに決まっている。一昨日のエントリーで紹介した、「ラクーン」 の表示で 「タヌキ隠し」 するのと同様のメンタリティである。

しかし、こうした 「姑息な偽装表示」 (「姑息」 の原義を十分知った上で、敢えて使う : 参照) と比べて、一連の消費期限 (あるいは賞味期限) の偽装に関しては、私はちょっと割り切れないものを感じてしまうのだ。

あれらは、消費期限 (あるいは賞味期限) の過ぎた食品を、「もったいないから」 と、再利用しているのである。美しきとは言わないが、リサイクルなのである。昔なら、そんなことは当たり前にしていた。

この背景にあるのは、「あえて早めの消費期限 (あるいは賞味期限) を表示しがち」 という業界の体質である。もし何かあって、消費者から 「味が変わっちゃってる」 なんてクレームが来たらうっとうしいから、安全のため、「大事をとって」 早めの期限を表示しちゃうのである。

アパレル・メーカーが、水洗いしても大丈夫な製品に、敢えて 「ドライクリーニング」 という表示をするのと同じである。それで、ドライ表示でも水洗いできちゃうという 「エマール」 なんて洗剤が登場するのである。表示なんて、大体において 「建前」 が 90%だと思えばいいので、実は別にエマールでなくても洗えちゃったりすることもある。

で、食品メーカーは当事者だけに、そうした事情がわかってるから、「どうせまだまだ安全なんだから、捨てるのはもったいない」 気がして、ついついリサイクルしてしまう。つまり、「安全のために大事をとった表示」 が逆に自縄自縛要素となって、「危険でややこしいこと」 に手を染めてしまうのだ。ああ、ばかばかしいなあ。

それだったら、「大事をとり過ぎない表示」 というのをすればいいと思いがちだが、それはそれでなかなか匙加減が難しい。世の中の仕組みって、本当にうっとうしいのである。

でも、偽装表示された 「白い恋人」 や 「赤福」 を食っておなかを壊したなんてことは聞いたことがないから、これまでの表示は、多分、必要以上に 「大事とりすぎ」 だったんだと思うがなあ。

それから、オッチャンの指摘しているように、人というのは、他人の罪はとがめても、自分のいろいろなイリーガル行為 (スピード違反とかね) は棚に上げてしまいがちである。反省。

ただ、道路の制限速度、あれこそ 「不必要に大事とりすぎ」 である。だって、10キロぐらいは時速オーバーしないと、後ろから煽られて、かえって危ないのが実情なんだもの。

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2007/11/25

コピー問題の割り切れない思い

コピー問題について、私は少しだけ割り切れない印象を抱いている。例えば、中国の遊園地で、ディズニーのキャラクターを真似したら、明らかに 「コピー」 として非難される。

これは、オリジナルがとても有名で、市場において圧倒的な優位性を持っているからだ。いわば、「主 ‐ 従」 の関係である。

いわゆるシャネル・スーツを模したデザインも、これにあたる。襟なしジャケットが特徴の女性用スーツの 「シャネル・スーツ」 という名称は、以前は日本では一般名詞に近い形で取り扱われていたが、いつの頃からか、シャネル社が知的所有権を強烈に主張し、「シャネル風スーツ」 でも認められなくなった。

しかし、この 「オリジナル ‐ コピー」 という 「主 ‐ 従」 の関係の成立しない世界では、知的所有権があまり強烈に主張されないことがままある。

例えば、いわゆる 「萌え系美少女」 と称される、一群の女の子の絵がある。私には、あれらの女の子の絵の区別がほとんどつかない。商業的な漫画雑誌に載っているものだけでなく、アマチュアの描く絵でも、大体似通っていて、明確な差別化ポイントがわからない。

マニアックなファンに言わせれば、「何を言ってるんだ、こんなにも違うじゃないか」 ということになるのだろうが、申し訳ないけど、私には 「初音ミク」 と 「鏡音リン」 の差は、今のミッキーマウス1928年の誕生当時のミッキーとの差ぐらいにしか見えないことがある。

音楽では 「ブルース」 というスタイルがある。狭義の 「ブルース」 とは、12小節で、コード進行がほとんど (というか、まったく) 同じである。そればかりか、メロディだってほとんど変わらない別の曲が、いくらでもある。それでも、特定のブルースの作曲者が別のブルースの作曲者を知的所有権侵害で訴えたなんて話は、聞いたことがない。

さらに、いわゆる自己啓発系の 「感動的エピソード」 というのもある。あれらはほとんど大同小異で、自我に拘りすぎていた人物が、ある時にっちもさっちもいかなくなり、ついに 「役に立たないプライド」 みたいなものを捨てて、「感謝」 や 「愛」 の念を強烈に意識したとき、再び人生が開けるというものが多い。

こういうのは昔からあって、「成功哲学」 を説くような本には、同じようなエピソードが何度も繰り返し紹介されている。実話やらフィクションやらわからないものも多くあり、原典への言及なんてまったく無頓着だから、どの話がオリジナルやら、誰が最初に紹介したやらといったことは、ほとんど問題にされない。

これらはいわば、萌え系文化、ポピュラーミュージック、自己啓発系の世界における 「フリーウェア」 のようなものである。これらを誰かが独占しようなどとしたら、とんでもないことになるのは、最近の 「のま猫」 騒動をみても明らかである。

世の中には、コピーが許されない市場と、フリーウェアが大手を振る市場がある。コピーが大きな社会的問題となるのは、次の 2つの場合である。

  • ある特定のオリジナル所有者が大きな既得権を確立している市場で、ゲリラ的なコピーが横行する場合
  • 無名の作者のオリジナルをコピーした作品が、メジャーな市場で商業的成功を収めてしまった場合

要するに、コピーが問題になるのは、ある特定の個人または企業が、独占的利益を得てしまった場合である。逆に、萌え系美少女、ブルース、自己啓発系などは、共通項をもつものの無名性集団としての力を維持する方が (今のところ) 得策なので、フリーウェアのままでいられるのだろう。

コピー天国の中国でも、もっとこうしたフリーウェアを積極的に利用すればいいのにと思ってしまうのだが、どうしても、圧倒的力をもつオリジナルをコバンザメ的に利用する方がいいんだろうなあ。

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2007/11/07

西友とウォルマート

米国のウォルマートが、西友を完全子会社化して、経営再建するんだそうだ。ふぅん、無理だと思うがなあ。

西友というのは、郊外の駅前の、それほど大きくもない店舗で、ちまちまっとした日用品を売るという業態だ。どでかい店舗のウォルマートとは、コンセプトが違いすぎる。

私はウォルマートみたいなお店は、決して嫌いじゃない。日本で言えば、スーパーマーケットとホームセンターとしまむらが、でっかい規模で合体しちゃったようなイメージで、とにかく、安い値段で何でもある。高級品はないが、決して粗悪品というわけじゃない。

お店のサービスだって、決して悪くない。サービスカウンターに行けば、うっとうしそうな顔もせずに、結構いろいろな希望を聞いてくれる。これって、米国のサービス業の中ではなかなかイケてる部類である。

しかし、これは米国の郊外の、だだっ広い土地に千台以上も停まれる駐車場を用意して、体育館の何十倍もありそうな店舗を建てるというビジネスモデルで可能になることだ。お客は車で乗り付けて、リヤカーみたいなショッピングカート一杯の買い物をする。

徒歩かママチャリでやってきて、せいぜいレジ袋 2つぐらいの買い物をして帰るという西友のお客とは、全然違う。こんなちまちましたマーケットに、メガストアのコンセプトで対応してもうまくいくわけがない。

ウォルマートが本国のビジネスモデルをそのまま適用して日本でも成功するためには、車で来るしかないようなど田舎に、でっかい店舗をつくらなければならない。ということは、既存の西友店舗という資産は、役に立たないことになる。

そして、郊外にでっかい店舗をつくろうとすると、そんなところには大抵、既にジャスコのでっかい店が建ってしまっている。

ジャスコに対抗するためには、値段を安くしてやたらと効率のいい店作りをしなければならないだろうが、そうすると、とってもがさつなイメージになるだろう。そして、日本でそうした店作りをすると、一時のダイエーとか、カルフールのように、お客に支持されないのだ。

ウォルマート的なお店が嫌いじゃない私でも、実際問題として、一度買い物したら、それから 3ヶ月は行かなくてもいい気がするだろうと思う。

さらに一番心配なのは、西友の従業員のモチベーション低下である。これまでの企業文化みたいなものを全否定されて、わけのわからん米国流を押しつけられたら、やる気なくすだろう。パートのおばちゃんなんか、とくにそんなところがある。店の雰囲気が暗くかったるくなるのは確実だ。

ということは、ウォルマートが日本で成功するのは、なかなか大変なことだと思われる。日本における 「格差社会」 がもっともっと進行してしまってからなら、やりようもあるかもしれないけれど。

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2007/11/06

ディマンド・アーティキュレーションって何?

新しい術語が気になってしまっている。このほど参加することになった業界関連の調査委員会の基礎資料に、「ディマンド・アーティキュレーション」 という言葉があるのだ。

一体、こりゃ何だ? "Articulation" は辞書を引けば、「関節、音節、連結、滑舌」 などということだ。「需要の関節」 って何だ?

もう、本当に、こうしたマーケティングとかソシオロジーとかいう話になると、時としてわけのわからない新語を偉そうに使いたがる人がいて、私なんか戸惑ってしまったりする。

さらに、それがしばらくすると通俗マーケッターたちの間で広まっちゃって、知ったかぶりで使いまくるやつなんかが出てきて、それでもよく聞いてみると、よくわからないまま、雰囲気だけで使ってるのがばれちゃったりして、そういうのって、あんまり好きじゃないんだよなあ。

というわけで私としては、新語が出てきたら、そのきちんとした意味合いはおさえておきたいと思ってしまうのだ。どこやらの通俗マーケッターと一緒にはされたくないからね。

この言葉は、芝浦工業大学大学院工学マネジメント研究科長の児玉文雄さんが提唱されたのだそうだ。彼の専門分野は、「新産業創出過程と技術開発過程との複雑多岐にわたる相互作用の関係構造を科学的に解明するための分析」 なんだそうだ (参照)。

ふぅむ、ずいぶんややこしいが、新しい産業と技術開発との関係を、複雑系の視点をも援用して分析するというようなことなんだろうな。それで、「アーティキュレーション」 なんていう、漠然とした意味でも使える便利な単語をもってきたんだろう。

元々、"articulation" というのは、解剖学では 「関節」、音声学では 「音節」 を意味していて、そこから広がって、滑舌をはっきり発音して、理路整然たる表現をするというような意味合いをももつ。まあ、そんなようなイメージと思っていればいいだろう。

で、「ディマンド・アーティキュレーション」 ということになると、中小企業基盤整備機構の資料 (参照) では、次のように説明されている。

「ディマンド・アーティキュレーション(需要表現)」 とは
児玉文雄によって提唱されたモデルで、アーティキュレーションとは、分析と統合という相反する 2つの意味を内包している。
ディマンド・アーティキュレーションとは、「潜在需要を統合し製品概念を形成する行為」 と 「製品概念を要素技術の開発項目へ分解する行為」 との2つの行為の 「動学的相互作用」 を指す。

ほほう、この場合は、「製品概念を要素技術の開発項目に分解する」 という分析的行為と、「潜在需要を統合し製品概念を形成する」 という統合的行為を、うまく絡み合わせて行うってことなのだね。

といっても、抽象的でよくわからんから、具体化するには、何か一つのキーワードを設定し、それを呼び水的に活用して、分析と統合をうまい具合に転がしていくということになりそうだ。

もんのすご~く単純な例でいえば、「お伊勢参りのおみやげ物」 っていう需要がありそうだぜってなことに着目する。おみやげ物だから、なんてったって、手軽でうまいものがいいだろう。

そして、伊勢参りってのは、村の中から毎年交代で代参する (江戸時代では、そういうことだったのだよ) のだから、帰ったら、自分の属する共同体に簡単に分配できるものがいいよねってなことになる。だったら、まんじゅうとか餅がいい。煎餅は雰囲気じゃないよね。

これがまず 「製品概念の形成」だ。

よし、それらしい姿と味の餅っぽいのを作っちゃえということで、原料の選定とか、洗練された作り方、そして何よりも 「伊勢神宮」 らしい雰囲気を醸し出す販売手法などをつきつめるということになる。これが 「要素技術の開発項目に分解」 ってなことだろう。

これらがうまく動的に転がって一体化すると、ヒット商品になる。

で、「赤福」 というのは、なかなかの成功をおさめたというわけだ。しかし、「動学的相互作用」 の過程で、「余り物の再利用」 なんていう、一見効率的な要素技術まで採用しちゃったがために、コンプライアンスの重視という新しい需要に反してしまい、その成功もおじゃんになってしまった。

うむ、あまりにも単純化が過ぎるとは思うが、とりあえずはディマンド・アーティキュレーション理解の、最初の糸口が見えてきたような気がするぞ。

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2007/10/29

ハロウィーンの換骨奪胎

日本でもハロウィーンが、だんだん浸透し始めているらしい。そういえば、ショッピングセンターやコンビニでは、あのアカカボチャのジャック・オ・ランタンが山積みされて売られている。

でも、一体どんな形で浸透しているんだろうか? 子どもたちが "Trick or treat" と言って近所を回っている風でもないし。

日本に西洋の風習が定着するのは、商業主義的な思惑と一致したときで、まず最初に、そして最も大規模に定着したのが、クリスマスである。なにしろ、「クリスマス商戦」 という言葉があるぐらいだから、この行事は本来のイエス・キリストの生誕を祝うという意義なんぞすっかり忘れ去られて、商売の道具にされているのだ。

その次に思い浮かぶのが、バレンタインデーだ。これも、本来の意義はどうでもよくなって、チョコレートを贈る日ということになっている。そしてその関連の 「ホワイトデー」 なんて、由来が怪しすぎるのだが、なにしろ 「お返し需要」 の名目で商売するためだから、固いことは言わないのである。

そして、第三のイベントが、ハロウィーンである。これが日本市場に定着し始めるのに、戦後約 60年を費やしてしまったのは、一重に、これをどうやって商売に利用するか、こなし方がわからなかったからである。ジャック・オ・ランタンなんて、チョコレートほど数が売れるとは思われないし。

ところが、近頃になってようやくこなし方が見えてきた。それはパーティ需要である。何でもいいから、仮装パーティを開かせてしまえばいいのだ。その関連で、仮装関連の商品が売れる。パーティ会場などのサービス業も潤う。

私はずっと前から、ハロウィーンの仮装は西欧の顔立ちの子にしか似合わないものだと思っていた。それは当然で、西欧のイメージのお化けを可愛くこなしたのが、ハロウィーンの仮装の定番だからである。あんなのを、のっぺりしたアジア人の顔立ちでやっても、ちょっとなあという感じなのだ。

ところが、さすが日本の商業主義である。ハロウィーンの仮装は、もう西洋のお化けでなくてよくなったのだ。ちょっと変わった格好さえしていれば、何でも OK ということのようなのである。単にハロウィーンという名前の仮装大会ということになったようなのだ。

うちの娘も、こないだハロウィーン・パーティ用の仮装グッズを買ってきた。それは西洋のお化けとは全然無関係の、日本のアニメ趣味である。なるほど、こうして日本の商業資本は、難易度が高くてなかなかこなせなかったハロウィーンを、ようやく換骨奪胎して商売にできたようなのだ。

そういえば、クリスマスでもバレンタインでも、こうして換骨奪胎してローカライズしてきたのだから、何も驚くにはあたらないだろう。(でも、やっぱりちょっと驚くけど)

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2007/10/24

市場における信頼関係の危機

バイトやパートというのは、企業にとって雇っている間は 「使用人」 であっても、すぐにそうではなくなる。大事に使っておかないと、辞められてから悪い評判をまき散らされる。

最近、食品メーカーの不祥事が多いが、そりゃ、世間様に言えぬことをバイトやパートにさせているのだから、すぐにバレて当然だ。

大分前のことだが、自分の勤めている衣料品会社が、「中国製」 と書かれたラベルを切り落として、日本製を装って流通させていると、あるパートのおばちゃんから電話で相談を受けたことがある。いくら何でもそんなデタラメをしてはならないと進言した部長は、ささいな落ち度を理由にクビになったそうだ。

そのパートのおばちゃんは、辞めさせられた部長を慕っていたので (別に色恋沙汰ではないようだが)、その会社の社長一族の横暴なやり方にブチ切れていて、「こんな会社、潰れちゃった方がいいんです。社長一族なんて、路頭に迷えばいい。私は他に勤め口がいくらでもあるから」 と言うのである。

原産国表示を偽るのは明らかな不正であり、そんなに腹に据えかねるなら、公正取引委員会に内部告発したらいいとアドバイスしてあげた。その会社がその後どうなったか、追跡してないので知らないが。

とまあ、かように、使用人は会社にとって時限爆弾なのである。なにしろ、不正な仕事の実行部隊なんだから、証拠をしっかりと握っている。今は個人が情報発信する手段に事欠かないから、そんな単純明快な不正は簡単にバレる。

会社経営を安泰にしたいなら、不正に手を染めず、従業員を大事にすることだ。

さらに、使用人になる以前の問題もある。就職試験の面接で、女性にセクハラまがいの質問をして不愉快な思いをさせるので有名な企業があった。

そんなことをすると、その女性の周辺に会社の悪評判が広まる。私の所まできちんと聞こえてくるし。「あぁ、あの部長はね、昔からスケベで女癖が悪いんだよ」 という評判に拍車がかかる。

そして、面接試験で嫌な思いをして不合格になった女性は、「前はあの会社のファンだったけど、もう、絶対に買わない!」 ということになる。その女性だけでなく、家族親族、友人関係に至るまで、買わなくなる。

そして、以前は個人の周辺だけで済んだが、今は下手したらブログなんかに書かれてしまいかねない。

雇ってしまえば使用人だが、雇う前は 「お客様」 なのである。その 「お客様」 にセクハラしちゃったら、お客を失うのである。で、雇ってしまってからやるのもやっぱりヤバい。例の競馬の調教師と女性騎手の一件もあるし。雇用関係がなくなったら、そりゃもう、敵でしかなくなる。

昔は、辞めた会社の悪口は言わないのが美徳みたいなところがあったが、今は全然違う。バイトやパートでヤバイ仕事の実行部隊をさせられた経験のあるものは、そこらじゅうにいて、その中には、口の軽いのもいくらでもいるのである。

市場における信頼関係が損なわれているのは、中国ばかりじゃないのだ。

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2007/10/18

テレビショッピングという世界

近頃めっきり物欲がなくなったので、個人的には全然ピンと来ないのだが、「テレビショッピング」 が注目なのだそうだ。

お昼の番組で、じゃパネットたかたの高田社長が登場するのだけじゃなく、世の中には 24時間モノを売るだけのテレビ局というのがあって、結構稼いでいるらしい。

テレビショッピングの最大手は 「ショップチャンネル」 という局で、その次が 「QVC」 というのだそうだ。なんでも、ケーブルテレビや衛星テレビで配信され、日がな一日、モノを売りまくっているらしいのだ。

テレビショッピングで売れるものの代表は、ファッション、ジュエリー、コスメ、健康関連、家電その他もろもろなのだそうだが、代表的なヒット商品は、ダイソンの掃除機 とか、松下の ジョーバ とか、ビリーズ・ブートキャンプ とかなんだそうだ。

私なんかは、家の中を使いもしないものであふれさすのはごめん被りたいので、なるべくものを買わないようにしているのだが、世の中には、わざわざテレビを使ってまで買い物をしまくりたい人がいるらしいのである。さすがに 「世の中」 である。

テレビショッピングの番組をみて買い物をする層というのは、大体女性が 90%以上で、年齢は、30代から 70代、とくに 40~50代以上のシニア層が多いらしい。で、まあ、ケーブルテレビとか、衛星テレビとかを引いて、しかも日がな一日テレビを見ていられる層だから、ちょっとした小金持ちというところである。

こうした小金持ちのオバサン (おばあさん?) にモノを買わせるには、その商品のストーリーをいかに熱く語るかという、パフォーマンスの力が大きいようだ。いかに値打ちのある希少な宝石か、いかに効果的なダイエットができるか、掃除機の排気がいかにきれいか等々。

リアルのショップ、とくに百貨店では、いかに著名ブランドのショップを引っ張ってくるかでしのぎを削っているが、テレビショッピングの世界では、ブランドはそれほど重要ではない。それよりも 「単品力」 である。それは、いかに魅力的なストーリーで語られる商品かということである。

なるほど、あの高田社長の語り口に代表されるような、ガンガン来るストーリーが重要なわけだ。そういえば、ジャパネットたかたで売られるロイヤルゼリーなんて、あんまりブランドは意識しないものなあ。それより、あの超ハイテンションのパフォーマンスがキーポイントなわけだ。

ややもすると、「次代は "ブランド" から "単品" へ」 なんていうキャッチフレーズをつくって市場を煽りたがるエセ・マーケッターが出てこないとも限らないが、よく見れば、「ブランドという幻想」 から 「単品力という幻想」 に興味が移りつつあるというだけの話で、要するに、「幻想」 には変わりがない。

ただ、「ブランド」 のもつ幻想性があまりにも行きすぎたきらいがあるので、より現実味のある 「単品力のストーリー」 の方が新鮮に見え始めているということだ。この傾向をじょうずに使えば、成功するベンチャービジネスが出てくるかもしれない。

ただ、この分野、参入障壁が案外高い。カタログ販売ならば、カタログのページ数を増やせばいいだけだが、テレビショッピングは、1日 24時間という時間に決定的に制約されている。それだけに時間あたりの売り上げというのが生命線になる。

一説では、1分あたり 20万円以上の売り上げがないと成立しないらしい。よっぽど煽らないといけないみたいなのだ。煽る方も煽られる方も大変だなあ。

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2007/10/11

アパレル業界のしがらみ

衣類を購入する消費者は、自分の購入するブランドにしっかりこだわっている層と、それには全然こだわらず、その時々で気に入ったものを買う層に大別される。

ブランドにこだわっている層は、話がそれほど込み入らない。彼らの多くは、「プロの消費者」 で、ポリシーがしっかりしているからだ。

ところが、その時々で、ぱっと見で買ってしまう消費者というのは、時々話が面倒になることがある。私はアパレル業界の仕事をメシの種にしているので、いろいろな話を耳にする。

衣料品の内側に縫い付けられているケアラベル (洗濯方法などを表示したもの) には、製造メーカー (または、所属する団体) の名前と連絡先 (主に電話番号) が明示してある。クリーニング店などで何か問題が発生した場合には、そこに連絡してどちらに責任があるかを確かめたりする。

で、この電話番号を頼りに電話してきて、「とても気に入っているので、同じものを買いたいんですけど、直接送ってください」 なんてことをおっしゃる消費者が案外多い。しかし、それは実は無茶な話だ。

無茶だという理由は、2つある。まず、アパレル・メーカーは原則として消費者に直接小売をしないということが挙げられる。消費者だって、メーカーに直接注文するなんておかしいと思わないだろうか。例えば、松下電器に 「ウチに直接冷蔵庫送って」 なんて注文はしないろう。洋服だと平気で注文してみるというのは、なかなか興味深い現象である。

直営店展開を主力にするところを別にすれば、アパレル・メーカーが直接消費者に (おおっぴらに) 小売りしてしまったら、主力顧客である小売店の頭越しに商売してしまうことだから、怒られてしまう。それに、消費者からの 1着ずつの注文にいちいち対応していたら、効率が悪くて仕事にならない。

中には 「直接だから、安く売ってほしいいんですけど」 なんていうあつかましい消費者もおいでだが、いちいち在庫を確認して、1着だけピックアップして、きちんと箱詰めして、宅配便の伝票を書いて、代金回収のリスクを考えたら、逆に、多少高く売っても元が取れない。

無茶であるということの 2番目の理由は、「3年前に買った服がとても気に入っているんだけど、擦り切れちゃったから、同じものを送ってもらいたい」 なんていうオファーが多いことだ。

アパレル・メーカー、とくに婦人服メーカーは、毎シーズン新作を展開して、売れ残りはできるだけ早めに処分してしまう。だから、3年前の商品なんか、残っているはずがないのだ。そんなに前の在庫をいつまでも残しているようでは、利益が出ない。

「好評の商品だけ、たくさん作ってたくさん在庫してくれればいいじゃないの」 という消費者の声もある。もっともなことである。しかし、メーカーとしては、売ってみないとどれが好評かはわからない。わからないものを見込みで大量に作るというリスクはおかしたくない。

「好評な商品は、次のシーズンにもまた作って売ってくれればいいじゃないの」 という声もある。しかし、今年好評だったからといって、来年も売れるとは限らないのが、ファッションの怖いところなのである。「私がまとめて 200着買ってあげるから、また作って」 とでも言ってもらわない限り、生産にはなかなか踏み切れない。

というわけで、アパレル業界というのはある種の矛盾を含んだ業界なのだ。

何しろ、「既製服」 なのである。どうしても気に入ったものを長く着続けたいという向きは、カスタムメイドで作ってもらうしかない。既製服というのは、そうした細かい要望に応じない代わりに比較的安い値段で提供されるのだと、割り切ってもらうしかないのである。

ここでふと気がついた。「私は Windows XP でいいのに」 と言っても、ほぼ自動的に Vista を押し付けられる業界に、アパレル業界はどこか似ている。ただ、アパレル商品は選択の幅が非常に広いという救いがあるだけ、ずっとましなのだが。

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2007/08/30

皆で完成させたものは、誰にも使えない

詳細は伏せるが、今日久しぶりで会った中小企業の経営者が、「最近、新しいビジネス・モデルが軌道に乗って、結構利益が上がってるんですよ」 と言う。

彼は以前、某団体の主導した補助金事業のシステム開発に、委員として、私とともに参加していた。

このシステム開発は、小売りセクターと下請生産セクターがコラボレーションして、効率的な商品開発をしながら短サイクルでの供給を実現しようという趣旨のもとに推進されたものだ。

小売りセクターと下請生産セクターが手を組むということは、本来その間に入っているいわゆる 「メーカー」 を抜いてしまうことだ。「問屋抜き」 は、今では珍しいことでもなんでもないが、「メーカー抜き」 は、ちょっと画期的だ。

商品を売るのは小売店で、生産するのはメーカーである。しかし、実際の生産はいわゆるメーカーではなく、下請生産業者であることが多い。いわゆる OEM である。ただ、その下請生産が、まったくの 「言いなり」 の下請けなのか、あるいは、自力の企画からスタートしたものなのかで、実態はかなり異なる。

最近では、メーカーは 「下請けさん」 がイチから企画生産したものを 「拾い買い」 するだけというケースが多い。じゃあ、それは 「メーカー」 じゃなくて、「ブランドを持った問屋」 に過ぎないだろうということになる。だったら、賢い小売りセクターは、名ばかりの 「メーカー」 を中抜きして、下請けの工場さんと直接手を組むことになる。

問題は、以前私と彼が参加していたプロジェクトが、政府からの補助金を得るために、業界から選出された代表による 「開発運営委員会方式」 で推進されていたことだ。この方式だと、結局はいろいろバラバラな意見を反映するため、動きが鈍くなり、成果物もシャープさがなくなる。

私も、そのプロジェクトに参加しながら議論を進めるうちに、「こりゃ、きっと "絵に描いた餅" になっちまうな」 と、思っていた。「こんなの、成功するわけないじゃん」 と確信してしまったのである。

だったら、個別企業がさっさと自分のやりたいようにやってしまう方がいい。今回の成功例は、「ああ、あのプロジェクトのコンセプトを、余計なしがらみなしに、さっさと実現してしまいたい」 という、まったく単純な動機から導かれたものだ。

結論を言ってしまおう。崇高な理念があって、それを実現するために国や地域が音頭を取り、業界の代表が集まって、「業界全体のために」 、ああでもないこうでもないと、議論に議論を重ねて作ったものというのは、大概成功しないのである。

一見、すべてのセクターが活用できる完璧なプログラムのようにみえて、実は、どのセクターにとっても使えないものになってしまっているのだ。

それより、単独で 「えーい、やっちまえ!」 と、勢いで始めたモノの方が、ずっと成功する確率が高い。

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2007/08/12

学習塾に通わせるのはコスト効率が悪い?

私の知り合いは、「子供を学習塾に通わせるのは、対費用効果の視点で考えると、コスト効率がはなはだ悪い」 と主張する。

親は少しでも偏差値の高い大学に子供を入学させようと必死なのだが、偏差値がたかだか 2~3ポイント高い大学を出たところで、就職に決定的に有利というわけじゃない。

「東大とか京大とか、早慶とか、上智とか、六大学とかなら、少しは就職に有利なんだろうけど、その他のちょっといい大学を出たからって、必ずしも一流企業に就職できるってわけじゃないし、三流大学を出ても、世間で成功してるやつだって、いくらでもいるんだし」 と、彼は言うのである。

「だったら、偏差値がちょっとばかり高い大学に入学させるためだけに、月に何万円も子供に投資するなんていうのは、馬鹿馬鹿しい。他のことに金を使って、子供をのびのびと育てるほうが、ずっといい」

なるほど、その主張にはほとんど同意せざるを得ない。ちょっとだけ反論するとしたら、私なんか、一応ワセダの、しかも大学院を出ているけど、一流企業なんて、全然縁のない暮らしをしてきたということだけだ。

そしてまた、学習塾に子供を通わせる親のすべてが、子供を一流大学に入れて、そして一流企業に就職させようと、明確に意識しているのだろうか。それもちょっとだけ疑問だ。

かなり多くの親は、ただ自分自身の漠然とした安心のためにだけ、子供を塾に通わせているだけなんじゃあるまいか。マジに子供の偏差値を上げたいというなら、もう少し塾の選択をしてもいいと思うのだが、多くは、単に手近な塾に通わせているだけだ。

月にたった数万円の出費で、ある程度の安心感を得られるのなら、それはもしかしたら、精神衛生上かなり安い投資かもしれない。子供の将来は、全然別問題として。

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2007/08/02

コンサルタントはそんなに酷くはないが

「傍目八目 (おかめ -)」 とは、囲碁を傍から見ると、八目先まで読めるということだ。往々にして、当事者という立場には、先が読めなくなるというハンデがつきもののようなのだ。

それ故に、客観的な立場にある外部のアドバイザーというのは、とても重要になる。しかし、これが 「コンサルタント」 となると、どうか?

「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」 というブログに、 「コンサルタントの危ない流儀」 という本について触れた、「そろそろコンサルタントについて一言いっておくか」 というとても興味深いエントリーがある。

この本は、「集金マシーンの赤裸々な内幕を語る」 という副題が付いているぐらいだから、結構な内幕暴露本のようだが、上述エントリーの、Dain さんによる紹介を読むと、なんとなく薄々感じていたことが、「やっぱりそうなんだよねぇ」 と得心されるといった内容のようだ。

Dain さんは、「最初にハッキリ言っておく、コンサルタントは、こんなに酷くない」 と言いつつ、「しかし、コンサルタントの手口は、著者の暴露するとおり」 ともおっしゃるわけである。その気持ちもよくわかる。

そして、なおおもしろいことに、このエントリーには 「コンサルを使いこなせないのは大抵の場合は客の側に問題があります。自分にコンサルを使うスキルがないことすら知らないヤツは、コンサルに騙されて当然です」 という、かなりワイルドなコメントまでついていて、物議を醸しかけている。

私自身は、安易にコンサルタントを使う経営者のメンタリティは、安易に子供を学習塾に通わせる親とほとんど変わらないと思っている。

本当に 「デキる子」 は、学習塾のメソッドよりもずっと自分に適した学習法をもっていて、「いい成績」 をとっている。そして、申し訳ない言い方だが、「デキない子」 は、いくら学習塾に通っても、期待通りのはかばかしい成績は上げられない。それと同じことだ。優秀な経営者は、コンサルタントの言うことを参考にしても、盲信はしない。

ただ、Dain さん同様、私としても 「コンサルタントは、こんなに酷くない」 とは思っている。多くのコンサルタントの指摘することは、概ね妥当なことが多いからである。問題なのは、その指導が、基本的には 「学習塾メソッド」 と大差ないことだ。

「こうすれば、業績が上がる」 というメソッドは、その通りにやれば本当に有効なものであるだろうけれど、大抵は 「その通り」 に実行することがとても困難なことであり、それが実行できない場合は、クライアントの責任に帰されがちなのだ。

実際には、いくら傍から八目先まで 「こうしろ」 と言われても、当事者としては 「うるせぇなあ」 ぐらいにしか思えないことが多いのだ。現場の末端になるほど、その傾向は強い。

そしてまた、コンサルタント自身も 「コンサルティングという仕事の当事者」 であるため、さらに傍の立場にある者から 「そんな言い方をしても、現場では通じないよ」 と指摘されても、それを受け入れにくいだろうし。

そして、多くの医者と同じで、コンサルタントも 「セカンドオピニオン」 なんてものはうっとうしく思うだろうし。さらにまた、クライアントにしても、ただでさえ高いコンサルタントを二人も雇おうなんて、そもそも思わないし。

なかなか難しいものである。そして、「コンサルタントはこんなに酷くない」 というのは概ね事実だけれど、中には、「いくら権威あるメソッドとはいえ、そんなに強引な適用をしたら、絶対に失敗するだろう」 と思われるようなことを平気でする人もいると、ちょっとだけ指摘しておきたい。

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2007/07/13

伝統的な 「会社帰りの飲み会」 の悲劇

朝日新聞によると 、若者を中心に 「酒離れ」 が進行しているんだそうだ。ビール主要 5社の今年上半期のビール関連飲料出荷量が、過去最低になったという (参照)。

そういえば、私もビールはあまり飲まなくなった。今年は缶ビールで 10本飲んでいないと思う。(どうか私を 「若者」 と言っておくれ)

記事を読む限り、確かにビール類の消費は徐々に減っているようだ。しかし、それをもって 「酒離れ」 と言っていいのかどうか。酒全体のデータがなければ、「ビール離れ」 なのか 「酒離れ」 なのかわかるまいと思い、探してみたら、こんなページ が見つかった。

日本酒造組合中央会の 「酒類消費数量の推移」 という統計である。これによると、確かに、平成 6年から 16年の間の 10年間で、酒類消費はかなり減っているということがわかる。主要なカテゴリーで増えているのは、焼酎だけだ。

いわゆる 「ビール類」 ということでは、本物のビールの激減を、発泡酒が補ってまだ足りないということのようなのだ。

しかし、これを 「酒離れ」 と言っていいのかどうか。ちょっと疑問だ。もしかしたら 「飲み会離れ」 なんじゃないか。

「会社帰りの飲み会」 という文化が衰退しているだけなんじゃないかと言う気がする。会社の同僚、上司と部下というメンバーによる飲み会というのが、急速に減ってきているのじゃなかろうか。

「最近の若い社員は、飲み会に付き合わない」 とよく言われるようになった。しかしそれは、若い社員ばかりじゃない。私も会社帰りの飲み会は嫌いである。大嫌いである。サラリーマン時代には、できるだけ付き合わないようにしていた。

なんで勤務時間が終わってまで、代わり映えのしないメンバーで酒を飲まなければならないのだ。そんな連中と飲んでも、せいぜい仕事の愚痴か、逆に上司の自慢話を聞かされて、うんざりするだけだ。

「一緒に酒を飲んで、初めてお互いがわかりあえる」 と言って、酒を強要する人種がいる。私は酒に酔って初めてわかるようなことなど、わからなくていいと思っている。そんなことは、実は酒なんて飲まなくても大抵見当がつくし、わかったところでどうしようもないことだ。

そんな連中と下劣なレベルでの共犯意識をシェアして、いったいどうなるというのだ。

今だから言うが、私は 「会社帰りの飲み会」 に付き合わなくて済むように、サラリーマン時代は 「酒を飲めない体質」 を装ったりもしていた。気のおけない友人同士の飲み会では、しっかりと飲んでいたのだけれど。

で、統計をちょっとみればわかることだが、消費減少の目立つ酒というのは、伝統的な 「会社帰りの飲み会」 での定番なのだ。ビール、ウィスキー、日本酒等々。

ところが、家に帰ってからの晩酌の定番、発泡酒、焼酎などは伸びているじゃないか。また、日本酒でも全体としては減っているが、一部の吟醸酒への注目は高まっている。「宮仕えの酒」 は減っているが、「私的な酒」 は、決して減っちゃいないのだ。

普通の考え方では、景気が回復すれば酒類の消費も増えるはずなのだが、どうやらそうなっていない。つまり、大きな声じゃ言わないが、「会社の同僚、上司なんかと飲みたくない」 という意識が、統計数値としても表れてきているということなんじゃあるまいか。

飲み会で強要されないから、自然に飲む量も 「無理のない適量」 に抑えられる。お酒のメーカーも、この方向での商品開発に向いているようだし。

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2007/06/10