カテゴリー「世間話」の50件の記事

2008/06/25

「酒離れ」 の事情

若者の酒離れ→女性“登板” 開発・販促の主役に」 という記事が目を引いた。酒をがばがば飲む男が減ったので、女性にちまちま飲んでもらおうということのようなのだ。

最近、本当に酒離れが進んでいるらしい。かくいう私も最近酒を飲まなくなって、酒代は若い頃の 2割以下に減っていると思う。

私は、体質的にそれほどの量の酒は飲めない。前はそれでも大分鍛えたから相当飲めたが、近頃はまた酒量が減ってきて、ちょっと飲むといい機嫌になる体質に戻った。とはいえ、酒そのものは嫌いではなく、どちらかと言えば好きな方だ。美味しい酒をちびちび飲んで楽しみたい口である。

だが、世の中では迂闊に 「酒が好き」 なんて言えないのである。「酒が好き」 なんて聞くと、待ってましたとばかり大酒に付き合わせたがるオッサンが多いからだ。私は酒は好きだが、酒にだらしのない人は嫌いなのである。

「ちょっと小一時間」 とか言うので、仕方なく付き合っても、それで済むなんて事はまずない。2時間、3時間になる。コンスタントに飲み続けて 1時間を越したら、まともな話になんてなるはずがないのである。付き合いきれないじゃないか。

だから、いっそのこと、「私は酒は一滴も飲めません」 ということにしてしまいたいのだが、今さらそんな白々しいことを言っても、私が飲めないわけじゃないことはみんな知ってるので、そういうわけにも行かない。

だが、若い連中、とくに新入社員は、「酒は嫌い」 とか 「体質的に飲めない」 とか公言してしまう方が楽なので、そういうことにしているのが案外多いと思う。

実際には親しい友達とはちびちび飲んでたり、あるいはカクテルにはめちゃくちゃウンチクがあったりしちゃうのかもしれないが、今の世の中、表向きには 「一滴も飲めません」 ということにしてしまう方がずっと楽だ。大酒飲みに延々と付き合わされずに済むからである。

「社内の飲みニケーションは付き合いとして重要で、社会的なことを学ぶ機会になる」 なんていう人も多いが、それも人によりけりだ。確かに上手に飲み食いしながらいろいろなことを教えてくれる先輩もいないではないが、80%は、一人で酒を飲むのがわびしいので、人を巻き添えにしたがるだけのオッサンである。

さらに良くないのは、一緒に大酒を飲んで妙な共犯関係を構築しておきたいという意識のオッサンである。そんな人とは、距離を取って付き合う方がいい。そうでないといつの間にか、周囲からは芳しくない派閥の一員と目されてしまっていたりする。

一緒に酒を飲むことで、社内の非公式な情報や世の中のアヤを知ることができるなんていう向きもある。しかしそんなことは、ちょっとアンテナを研ぎすまして意識的になることで、酒なんて飲まなくても知ることができる。

私の見るところでは、酒で神経が鈍感になってしまうために、気付くべきところに気付かないで失敗してしまうことの方がずっと多い。

私の場合、近頃では 「車を運転して帰宅しなければならないので」 といえば、大酒には付き合わなくてもすむようになった。ありがたいことである。酔っぱらい運転への罰則強化は、思わぬ効果をもたらしている。

というわけで、「若者の酒離れ」 という現象には裏があると思うのである。だから、だらしなく延々と飲む酒は売れなくなるだろうが、ちょこっと楽しむ酒は、ちょこっと売れるだろう。お酒のメーカーとしては、大量に飲んでもらわないと儲からないだろうが。

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2008/06/07

免罪符としての taspo

私はタバコを吸わないのでどうでもいい話だが、自動販売機でタバコを買うのに、taspo という IC カードが必要になるのだそうだ。

で、前々から気になっていたのだが、この "taspo" なる名称は、一体どういう意味で、どういう由来なのだろうか。これが、実はよくわからないのである。

JT のサイトで調べてみても、このカードの正式名称が "taspo" と、アルファベット小文字で表記されるという以上のことはわからない。こういう話が好きそうな Wikipedia でも、少なくとも今日の朝の段階では、名前の由来についての言及はない。 (参照)。

あの JR 系の IC カードだって、まあ、日本語の雰囲気重視の遊び的要素が強いにしても、以下のような、もっともらしく思われなくもない由来が提示されている。

JR 東日本  SUICA   Super Urban Intelligent CArd
JR 西日本  ICOCA    IC Operating CArd
JR 東海    TOICA    Tokai Ic CArd
JR 北海道   KITACA   JR北(キタ)海道のICカード
JR 九州    SUGOCA  Smart Urban GOing CArd

私鉄の "PASMO" にしても、"「PASSNET」 の 「PAS」 と、「もっと」 の意味を表す 「MORE」 の頭文字 「MO」 をとって名づけられました」 (参照) という、ちょっと苦しいが、まあ、わからないでもない説明がされている。

ところが、JT の taspo には、何の説明もないのである。巷では 「タバコを買うときのパスポート」 なんてこともいわれているが、そりゃ、こじつけすぎて、苦しいなんてもんじゃない。それに、JT はそれに対して何のオーソライズもしていない。わけわからんのである。

この曖昧さは、名称だけの話ではない。運用全般にわたってすっきりしたところがなく、実効性だってかなり疑問である。カードを作る会社が儲かるだけだ。

案の定、世の中では taspo の貸し借りが、かなり一般的に行われているようなのである。母親が未成年の息子に貸したり、自販機に誰でも利用できるように備え付けたりする例が報道されていて、それらは言語道断としても、自販機を管理する店舗が客に一時的に貸すのは、かなりおおっぴらのようだ。

このシステムを先行導入した種子島では、未成年者の喫煙が一時的には減ったが、その後、逆に増加しているという報告もある (参照)。何らかの方法で taspo を入手してしまえば、あとはノーチェックでタバコが買えてしまうので、根本的な対策にならないようなのだ。

タバコの吸いたいやつは、どんな手を使ってでも taspo を手に入れてしまうのだ。蛇の道は蛇というものである。

本気で未成年者の喫煙を防止したいのであれば、自動販売機でタバコを売るなんてことは止めて、すべて対面販売にしてしまえばいい。要するに JT は、タバコの販売を減らしたくないので、taspo を免罪符にしているだけなのではなかろうか。本気とは思えない。

単なる免罪符なので、まともな由来も説明できない、いい加減な名称にしているのだとしか、私には思われないのである。

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2008/05/23

どうして夏時間導入に反対なの?

朝のラジオを聞いていたら、時計を 1時間勧める 「夏時間」 導入に関するアンケートをしていて、その結果は、賛成はわずか 20数パーセントで圧倒的に不評だった。

賛成の理由は、エネルギー節約とか、時間の有効活用とか、アフターファイブが長くなるとか、既に言い尽くされているもの。

一方、反対の理由として挙げられたのは、「これ以上早起きしたくない」 「4時に仕事を終えても、飲み屋が開いていない」 「結局、サービス残業が増える」 など、なんとなく生活実感的なものが多い。

しかし、よく考えてみれば、「これ以上早起きしたくない」 と言っても、早起きするのは最初の 1日だけで、あとは同じ。逆に、冬時間に戻るときに 1時間寝坊ができるから、それでチャラだ。「4時に飲み屋が開いてない」 というのは、時計自体が進んでるんだから、ナンセンスな錯覚である。

ただ、「サービス残業が増えるだけ」 というのは、いかにもありそうな気がする。このあたりが一番の問題だろう。要するに、日本人のメンタリティの問題である。

結局、日本人は 「嫌々ながらだらだらと仕事をすることから逃れられない民族」 なのだなあと思うのである。1時間早く仕事を始めたのだから、たとえサービス残業をするにしても、1時間早く終えることができるはずなのである。1時間分の仕事が増えたというならともかく。

そこにあるのは、「だらだらと会社にいるのが、嫌だけど、案外心地よい」 とか、「自分だけ 『お先に失礼』 と言って先に退社しにくい」 とか、そういった風土というか、とにかく不思議な何物かである。

自分の仕事をさっさと終えるのが有能である証拠であり、その有能さを周囲がフツーに評価する風土が醸造され、さらに、「会社を終えたら、プライベートタイムでしたいことがたくさんある」 という人間が増えれば、夏時間導入は大歓迎なはずなのである。

ところが、現状は 「自分だけさっさと帰るやつは勝手なやつ」 とか 「会社から出ても、飲む以外することないし」 とか思っている人間が多いのか、あるいは、見えない圧力によってそう思わされているのか、とにかく、そういうことなのである。

もうおわかりかと思うが、個人的には、私は夏時間導入に大賛成なんだがなあ。

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2008/05/21

遺影に使える写真をもってますか?

母校の高校の昭和 46年卒業組で、首都圏に在住する者たちが、毎年 5月下旬に集まって例会を開いている。そして、今年は私がその例会の幹事の順番になっている。

例年 20名ぐらい集まるのだが、今年はそれを少しだけ下回りそうだ。それぞれいろいろな都合があるものである。

いつも出席する常連が、今年は 3~4人ほど欠席である。欠席の理由は、米国駐在になってしまったとか、仕事の都合でその日は日本にいないとか、経営する店の閉店イベントとか、親の介護で手が離せないとか、なかなかバラエティに富んでいる。だがよくみると、「ああ、俺たちもそんなような年になったのかなあ」 と思わせるものが多い。

その代表格が、「死んでしまった」 というものだ。数年前から、同級生の訃報がぽつぽつと入ってくるようになったが、今年はこの会の常連の一人が、通勤途中に倒れて急死したという。いたましいことである。そのほかにも、脳梗塞で入院したとかいう話が複数伝わってくる。

最近、結婚式に出席する機会が減って、葬式に出席する機会がぐっと増えた。結婚式なんて、年に一度もなくなったが、葬式は 3ヶ月に一度はある。若い頃は、年に 3回以上結婚式に出て、そのうちの 1度ぐらいは司会を引き受けていたのに、近頃とんとお見限りである。

葬式に出ると、まず正面に飾られた遺影が目に入る。この遺影が、いかにも故人の人柄をうかがわせるようなよく撮れたものだと、追悼の気持ちにも実が入るというものである。

そして、参加したもの同士で 「君は遺影にできるようなまともな写真があるかい?」 ってな話になる。考えてみると、私は 「和歌ログ」 をやっているせいで写真はよく撮る方だが、自分が個人的に写してもらうなんてことは滅多にない。

たいていの人も、何かの機会に撮った集合写真やスナップぐらいはもっているが、遺影に使えそうな写真なんてないようなのだ。それで、「そろそろ、俺たちも 『あの時』 用の写真を撮っといた方がいいんじゃないかねぇ」 なんて話になってしまうのである。

生前に自分の墓を建ててしまう人がいる。また、生前葬なんてものをする人も希にある。しかし、そういうことをした人に限って、なかなか死なないそうである。それなら、元気なうちに遺影用の写真を撮ってしまっても、もしかしたら長生きできるかも知れない。

かといって、改まって個人的な写真を撮ってもらうなんていうのも、なかなかうっとうしい話で、私もまだそれ用の写真なんてない。

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2008/05/07

連休の渋滞のピークがばらけたらしい

連休明け初日。いつもの田んぼの中の抜け道を通って取手駅に向かうと、交通事故が 2件。車が 2台、田んぼの中に落ちていた。

帰省の U ターンラッシュの中をくたくたになって帰ってきて、ゆっくり寝る間もなく仕事に向かう途中だったのだろうか。いずれにしても、連休明けは頭がボケている。

ところで、ゴールデンウィークの帰り車の渋滞は、今年は当初の予想ほどではなかったらしい。ところによっては気が抜けるほどスムーズな流れだったと、今朝のニュースで伝えられていた。日本人も、ようやく真剣に渋滞を嫌悪して、避けようとする意識が出始めたらしい。

私は 30年以上、少なくともお盆の時期には車で帰省しているが、いわゆる帰省ラッシュとか U ターンラッシュとかいうものに巻き込まれたことが、ほとんどない。今回の母の一周忌の帰省にしても、渋滞の定番ポイントを避け、しかも帰りは夜間の移動にしたので、「渋滞って何?」 というほどサクサク移動できた。

そりゃ、途中で少しは渋滞にはまったことはあるが、それは、その地点ではいつも起きている短距離の通勤渋滞とか、突発的な事故渋滞とか、農家のじいさんが運転する軽トラが、稲藁を山ほど積んで先頭をトロトロ走っていたとかいうものである。

それらを別とすれば、私は 10km 以上続く渋滞で往生したという記憶がない。不運にして高速道路で 「○○より渋滞、*0km」 とかいう表示が出ていたら、次の出口でさっさと降りて、一般道の抜け道を通って移動する。探せば抜け道はいくらでもあるものである。

抜け道が遠回りになって、時間的にはせいぜい数十分程度の短縮にしかならなかったとしても、のろのろと動いたり止まったりを繰り返しているよりは、精神衛生的にも燃費的にもずっといい。

私は渋滞を嫌悪しているのある。混雑の中で身動きの取れない状態になるのが、何より嫌いなのだ。だから、渋滞に巻き込まれないよう、あらゆる方策を駆使して移動するのである。

ところが世の中には、渋滞をそれほど苦にしない人もいるようなのだ。いや、そりゃ 「苦にしない」 といえば語弊があるだろうが、少なくとも、私が 「死ぬほどいや」 と思っているほどには、シリアスに避けたいとは思っていないような気がする。「仕方ないね、覚悟しなきゃ」 ぐらいの意識なんじゃないかと思うのだ。

そんなわけで、連休の両端の日中に、30km だの 40 km  だのという気の遠くなるような渋滞に、自ら進んで飛び込んで行くのである。避けようと思えば避けられるのに。

以前、TBS の永六輔さんの番組で、永さんが 「どうしてみんな、混むところに出かけたがるんだろう」 と言うと、アシスタントのはぶ三太郎さんが 「僕、混んだところに出かけるの、好きですよ。だって、楽しいじゃないですか」 と言っていた。さすが、熱狂的巨人ファンである。

なるほど、少なからぬ日本人は、人混みが好きなのだ。そして、その行き帰りの渋滞にしても、それに伴う付帯事項として十分に許容範囲なのだ。多数派の中に埋没するのが、意識的か無意識的かは別として、安心感をもたらすということがあるのかもしれない。

しかし、ここに来てようやく、「渋滞、死ぬほどいや」 という人が増えてきているようだ。そのせいで、高速道路の渋滞予報が少しは外れるという事態が生じているのだろう。

しかし、そのために渋滞のピークがばらけて、渋滞を避けたつもりだったのに、思いの外に混雑したなんてことが、これから生じるかもしれない。私としては、混むときは思いっきり混んでくれる方が、対策を立てやすいのだが、これからは裏の裏まで読まなければいけなくなるのかなあ。

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2008/05/06

水は、話しかければおいしくなる

フジテレビが 「あっぱれさんま新教授」 という番組で、「話しかければおいしくなる水学」 なんていうのをやったそうで、「水伝」 関連がまたぞろ話題になっている。

過去に何度かこの問題に触れたせいで、一部では水伝シンパに色分けされているらしい私としては、ちょっと見過ごせない気がする。

で、ますます水伝シンパと思われてしまいかねないリスクを、私はこれから好んで冒そうとしている。どんなことかというと、「水は、話しかければおいしくなる可能性が高いよ!」 と、言ってしまうことである。ああ、なんて向こう見ずな私。

ただ、結晶がきれいとか美しいとかいう問題に関しては、私は 「どーでもいい」 という立場である。明確に批判しないのは 「ぬるい」 と思われるかもしれないが、私ってば、こういうの、明確に批判するのも気恥ずかしいのである。で、批判よりつれない 「冷淡」 で、まかなおうと思っているのである。

ちなみに、コンクリートの研究という仕事で、水や氷についてもかなりの実証的研究をされたというやっさんが、私の過去記事に、以下のような明快なコメントを付けてくれている。(参照

結晶を美しく造りたいなら結晶の核になるものを超微粒子として急速に凍結すれば美しいものが出来ます。発生途上に、残業残業で安月給でコキ使いやがって、コノヤロォー、上司はもう帰って、今頃、呑んでんだろうなぁチクショーと、悪態をつきながらイヤイヤやっても綺麗な結晶が出来ます。別に美しい心が無くても美しい結晶は、いくらでも出来ます。

ということなのだそうだ。水の結晶が美しくなるかどうかは、心根の問題ではなく、単純な物理条件に左右されるようなのだ。そりゃそうだろう。水伝に命を懸けたければ、物理条件をコントロールしながらやればいい。もちろん、そんな物理条件なんてネグレジブルと言ってしまえるほどの、圧倒的な感謝の気持ちでね。

ここまで述べた上で、「水は話しかければおいしくなる」 ということを、私はあえて肯定しちゃおうと思うのである。私は以前、「パンからの伝言」 という記事で、次のようなことを書いている。

我が家では天然酵母のパンを作るのだが、私はパン生地をこねる時、「よ~し、よしよし、おいしくなれよ~」 なんて語りかけている。その方がうまいパンができるような気がしている。

ここまで書いてしまった以上、「水に話しかけても、おいしくなんてならない」 とは言えないじゃないか。

まず、「おいしい」 とはどういうことか、そこから入らなければならない。まず前提として確認しておきたいことは、「おいしいと感じればおいしい」 ということだ。「おいしい、おいしくない」 なんていうのはかなり主観的な問題で、結晶が美しければおいしいなんていうわけでもないのである。

その証拠に、フジテレビの件の番組では、「水にはうるさい」 と豪語する長谷川初範氏が、利き水に見事に失敗している。きれいな結晶という水も、単なる水道水も、区別がつかなかったというのである。そりゃ、ちょうどいい具合に冷やした水を飲んだら、よっぽど軟水と硬水の差でもない限り、区別するのは難しい。

感覚というのは、これほどまでに曖昧なものなのだから、自分でサイドストーリーを作ってしまったら、それに影響されて、大したことのない水でも極上の水に感じられたりしてもちっとも不思議じゃない。

そして一番簡単なギミックは、水に語りかけて、すっかり感情移入してしまうことだ。そうすれば、簡単に 「おいしい水」、あるいは 「おいしいと感じられる水」 になる。「おいしい」 と感じさえすれば、それは彼にとっての 「おいしい水」 なのだから、「文句あるか」 である。

A, B, C 3種類の水の、A だけに思い切り感情移入し、それを第三者がこっそりすり替えて、「あなたが思いを注ぎ込んだ水ですよ」 として B の水を差し出したら、多分、満足しておいしく飲めるだろうとさえ思う。

要は 「気分の問題」 なのだが、だからといって、軽々しく扱ってはならない。世の中というのは、案外 「気分」 で動くものだというのは、日常的に感じることだし。

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2008/05/02

ヨッコイ、ショーイッツァン!

近頃、どの新聞も活字がまたまた大きくなった。いつ頃だったか忘れたが、前にも 「活字が大きく読みやすくなった」 と宣伝されたことがあって、今はそれよりもまた大きくなったというわけだ。

ちょっと見ると、なんだか異様に字がでかいような気がするのである。

こんなに活字がでかくなってしまったのは、日本の人口で最大の勢力を誇る 「団塊の世代」 がいよいよ、じいさんばあさんの域に突入してしまったからである。さすがに 「数の力」 というのは大きい。

軒並み老眼になってしまった団塊の世代に、新聞社は合わせざるを得ないのである。なぜなら、彼らは誰か一人が 「新聞の字が小さくて読みにくい」 と言い出せば、声を合わせて 「そうだ、そうだ」 と言いたがる傾向があるからである。こんな風にして、昔からあっという間に 「トレンド」 やら 「ニーズ」 やらを形成してしまう人たちなのである。

だから、「ウチの新聞は活字が大きくて読みやすくなりました」 と 1社が宣伝すると、あっという間に他社の新聞もみな活字が大きくなって、特定の社のアドバンテージではなくなってしまう。すべて 「右へ倣え」 ということになる。

今は新聞社のお偉方もみな、団塊の世代だから、そうならざるを得ないのである。「ウチの新聞は、活字は昔のままの大きさで、情報量をしっかりと確保しています」 なんてことを訴求するようなことにはならない。

「多様性の時代」 なんて、通俗マーケッターは言いたがるが、そんなことはない、今こそ 「画一化の時代」 というのが言い過ぎならば、少なくとも 「類型化の時代」 なのである。

団塊の世代だけではない。新入社員の格好を見てみるがいい。ほとんど全員、コムサ (あるいはそのコピー) の黒スーツで、髪の毛を微妙にツンツン立てて、昼休みのビジネス街をつるんで歩いている。

「多様化」 なんてことを真に受けて、本当に好きなような生き方をしてみるがいい。この国では、「KY」 とか言われて排除されてしまう。

ところで、団塊の世代もいい年になったので、玄関で靴をはくだけで 「どっこいしょ」 なんて口にするようになった。つい口をついて出るようなのである。「どっこいしょ」 が多いほど年寄りじみているなんて言われるが、それはちょっと酷だという気がする。

知り合いの女性が 「ウチの旦那、何かするたびに 『ヨッコイ、ショーイッツァン!』 ってかけ声かけるのよ。もう、オヤジ丸出し!」 と言っていた。私なんか、「お、それいいじゃん!」 と思ってしまったんだが、オヤジかなあ。

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2008/04/12

「後期高齢者」 てふ名称

「後期高齢者医療制度」 の始まりて以来、この 「後期高齢者」 てふ言葉の評判、甚だ芳しからず。とりわけ当の 75歳以上の高齢者、いと腹立たしきやうなり。

「我らに早う死ねてふことなるか」 と、憤慨し給ふ翁、嫗 (おきな、おうな) の声、をちこちにて聞き及びしなり。(参照

この制度の名称、定めし人情の機微を知らぬ木端役人の、木で鼻をくくる如くに命名せしらむと思ひきや、誠にはさにあらず、「後期高齢者」 てふ呼称は、医療、福祉の世界にてはかねてより、ごく普通に使われ来るものなり。役人的発想としては、既に定着せる名称としてただ機械的に使いたるものならむ。

これに対し、「75歳以上の老人に対して失礼」 などと、あたかも今に始まりたるやうなる怨嗟の声、巷に満ちたるは、偏に医療制度改革によりて、老人の負担の増ゆると知りたるがためなり。

もし 「後期高齢者には、年額 60万円の医療補助を与ふることとす」 なる法律の作らるれば、かほどの声の上がるや否や、甚だ疑はしきなり。逆に、70代前半の者は 「我も早う 『後期高齢者』 になりたし」 などと言ひ出さむとも限らざるものなり。

さればこのたびの制度、徒 (いたづら) に 「長寿医療制度」 などと名称を代へたるとても、国民は容易には合点せざること必定なり。知るべし。「後期高齢者とは失礼なり」 との声の多くは、名称批判に名を借りたる制度批判の声なりと。

ましてや我が 75歳にならむ日には、100歳以上の者に 『末期高齢者医療制度』 (「まつご~」 と読むなり) なるもの適用されむとも限らず。何があろうとも驚くべからず。たたただ、達者 (まめ) にて暮らさむこそ本願なれ。

ATOK の 「文語モード」 なるものを見つけて以来、新しき玩具を手にしたる童べの如く、ひたすら弄びて楽しみをる次第なり。

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2008/02/08

ずっと気にかかってた看板

近頃、ヘビーなテーマで書きすぎたせいか、ちょっと息切れがしてしまった。で、息切れのタイミングにふさわしい軽いネタを仕入れておいたので、今日はそれを放出したい。

前から気にかかっていたのだが、言い出せなかったことがある。だって、この看板の顔が、見ようによっては、ちょっとコワそうだし。

それは、上野駅の階段に掲げてある電光看板である。かなり大きいのである。どんなのかというと、こんなのである。

あるラーメン屋さんの看板だ。大層おいしいという評判である。そのおいしさは、私自身は味わったことがないのだが、食べたことのある人は、みんな 「おいしい」 と言っているので、間違いないのだと思う。私もそのうち食べたいと念願しながら、昼時は行列が並ぶという噂に恐れをなして、つい食べそびれている。

そんなわけで、私はその味にイチャモンをつけようというのではない。決してそんなつもりはない。ただ、ずっとずっと前から疑問だったというだけのことなのだ。

何が疑問なのかというと、"東池袋本店に通い続けて 「20年」 その間食べたラーメン 1000杯 ついに上野に暖簾分け" というコピーについてなのだ。20年通い続けて、1000杯のラーメンを食べたというのである。その 「1000杯」 の文字は、一段と大きなフォントで強調してある。

しかし、20年で 1000杯といえば、10年で 500杯、1年で 50杯である。1年は 52週とちょっとだから、平均すれば 1週間に 1杯も食べてないことになる。これって、そんなに強調するほどのことかなあ?

私は個人的に、10000杯 (1万杯) の書き間違いじゃないかと思っているのだが、本当のところはどうなんだろう?

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2008/02/03

「水伝」 については、はい、これで終わり

初めは正直言って 「馬鹿馬鹿しい」 ぐらいに思っていた 「水伝論争」 だが、なかなかどうして、面白いことになってきている。

で、私自身の考えを整理してみたら、ずいぶん単純なことなのだった。要するに、「愛と感謝の想念は好き」 だけれど、「"水商売" はうっとうしい」 というだけのことなのである。

私は実を言って、「水からの伝言」 という本を読んだことはおろか、見たこともなければ、江本勝氏という人に興味をもったこともない。ただ、一見ファンタジックなことを言いつつ、変な商売にまで歩を進めている人らしいという認識があるのみである。

で、私はこの江本氏に代表されるような存在が、ご当人たちには恐縮だが、ちょっとうっとうしいのである。「愛と感謝の想念」 は大切だが、それを説くのに、そんな水の結晶とか 「波動」 なんていう話を持ち出さなくてもいいじゃないかと、内心ではむかついていることに気付いたのだ。

ただ、ここで誤解を恐れずに言うのだが、「愛と感謝の想念」 を注ぎ込んだ水が、「とてもいい水」 になっていても、それは全然不思議じゃないとは思う。結晶の形が美しいかどうかは知ったことじゃないが、もしかしたら美しくても、それはそれでいいかもしれんぐらいには感じている。

"「科学的法則」 が、いつもは (この 「いつもは」 という部分は強調しておきたい) この世界で淡々と働いている" ということに信頼をおきながらも、時にはそれ以上の法則が働くこともあるなんてことを、私は本気で信じている。

だから、他人から 「科学の当事者」 と勝手に規定される (参照) のは、実害があるわけじゃないから別にいいんだけど、「やっぱり少しだけ心外かも」 なんて感じているわけだ。

科学以外の法則が働くことがあるという私の信念は、改めて説明するのは面倒だが、これまで 「哲学・精神世界」 というカテゴリーで書いてきたエントリーのいくつかを読んでいただければ、共感するかどうかは別として、「そんなような、ちょっと変な信念もっちゃってる人なのね」 ということぐらいはわかっていただけると思う。(読めと頼んでるわけじゃないけど)

ここで江本氏の話に戻るが、彼の論理はあまりにも単純すぎて、ファンタジーの世界での 「出来具合」 としても、「ちょっと待て」 といいたくなる程度のものでしかないと思っている。この程度のコンセプトの持ち主に、人生相談を持ちかけようとは思わない。

それに、やや繰り返しになるが 「愛と感謝」 を説くのに 「水の結晶」 なんていう道具立てを使おうとは、私なら決して思わない。

「水伝」 は、ちょっとセンセーショナルで、確かに世の中の話題にはなるだろうが、別のプロセスでより効果的に説けることを、怪しげな道具立てで語ったせいで、結局は 「愛と感謝の価値」 まで損ねてしまうことになりかねないと、私は危惧する。

現実に、「水伝」 の単純ビリーバーたちの中には、科学の立場からの水伝批判によって、「愛と感謝の大切さ」 まで否定されたような気分になり、その結果、自ら 「愛と感謝」 を忘れて感情的反応を示したりする人もいるのが、ちょっと残念だ。

水の結晶の形ぐらい、どうだっていいじゃないか。大切なのは 「愛と感謝」 の方でしょ。「健康のためなら命も惜しくない」 みたいなエキセントリックな態度は、洒落だけにしときたいものだ。

それから、これはもしかしたら薄っぺらな処世術に過ぎないのかもしれないので、余計なお世話かもしれないが、科学の立場からの水伝批判者の方にも、いわゆる "yes, but" のレトリックぐらいは学んでもらいたいと思ったものである。

「あなたのいう 『愛と感謝』 の大切さは、とてもよくわかる。だけど、それと水の結晶というのは、科学の立場からすると、全然関係ないんだよね」 というような言い方だったら、それほど角が立たずに済むんだよね。

「いや、"水商売" のトンデモな連中には、そんな生やさしい言い方じゃ通じん」 と反論されるかもしれないが、連中には、どんな激烈な言い方をしたって、どうせ同じである。しかし、大多数の 「穏健水伝ビリーバー」 とは、それで何の問題もなく握手できると思うよ。

だます連中はどうせ宗旨を変えないのだから、彼らと争うよりも、マーケットの方の常識と握手する方が賢い。穏健ビリーバーとまで争う必要はない。逆効果である。科学とファンタジーは、使う筋肉が違うんだから、無理矢理同じ土俵に上がって角突き合わす必要はないのである。

というわけで、水伝については、とりあえずこれで終わりにしたいと思う。

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2008/01/31

「波動測定器」 を巡る冒険

何しろ伝聞 (あるいは、伝聞の伝聞? その辺、不明瞭) なので、真偽のほどは明らかでないのだが、世の中には 「波動測定器」 というものがあるらしい。

で、もちろんそれは、かなり 「トンデモ」 っぽいのだが、それを巡る現象というのは、なかなか興味深いものがある。

ああ、私は 「水伝」 を巡る 「科学 vs 疑似科学」 のマターなんて、元々それほど興味がなくて、深入りするつもりもなかったのだが、ちょっと覗いてみたらその周辺事情が存外面白いので、今月、これで 4本もそれ関係の記事を書くことになってしまった。

だが、私がブログで関わっているのは、疑似科学の 「周辺」 というつもりなので、そりゃ、疑似科学批判の方々みたいに、先鋭的に切って捨てるみたいな書き方はしない。それで、こんな 批判も受けてしまうのである。

まあ、確かにこの件に関する私のエントリーのトーンが無責任に見えても、そりゃしょうがないのだけれど、別に私は 「科学」 にも 「疑似科学」 にも、全然 「当事者」 としてなんかタッチしてないのだから、どちらにも義理立てする必要がないのである。

件のブログは、 「結局のところ、ニセ科学を肯定する側も批判する側も、根底の部分では科学に基本的な信頼を置いている」 ということを前提としているようだ。「そうしないと、ふつうの生活が成り立たないから」 だそうだ。

ただ、それってちょっと我田引水っぽい。こう言っちゃなんだが、私はそれほど 「科学に信頼をおいている」 というわけじゃない。(いや、それじゃ語弊があるから、「科学以上に信頼をおいているものだっていくらでもある」 と言い換えさせてもらおう)

それでも科学的法則は、別に私が信頼をおこうがおくまいが、信頼のおきかたが中途半端だろうが、絶大な信頼をおいている人と区別なく、いつもは淡々と働いてくれているので、ふつうの生活はできているのだけれどね。

ただ正直に言ってしまうと、私が出張先で必ずと言っていいほど (天気予報が何を言っていようと) 天気に恵まれるのは、一重に自分が 「晴れ男」 だからなどと、かなり非科学的なことを相当本気で信じている。

だって、これほどの確率で天気に恵まれたり、一度なんか、大型台風さえ予想進路を大幅に外れて避けて通ってくれたり (参照) したのは、「自分が晴れ男だから」 と説明するのが最も端的にわかりやすいじゃないか。

だから、科学に関する 「当事者意識のなさ」 を 「不誠実」 呼ばわりされても、ちょっとなあというところなのだ。もしかしたら、私の立場は見方によっては水伝信奉者の方により近く見えたりなんかするかもしれないので、その辺り、どうぞよろしく。

何しろ私は、5年ちょっと前に、少なからぬキリスト教聖職者が聖母マリアの処女懐胎に懐疑的であるというニュースを聞いて、本気で驚いてしまったという人間である。「よくまあ、自分自身が信じてもいない教義を、いけしゃあしゃあと説くことができるものだ」 と、難じているのである。(参照 その下に表示される記事にも注目!)

おっと、横道に逸れてしまった。「波動測定器」 の話をしようとしていたのだった。

これは大分前に聞いた話なので、冒頭でお断りしたように、伝聞だか、そのまた伝聞だか、その辺りは私もはっきりしないため、話半分で流してくれていいのだけれど、波動測定器というものを入手した方がおられるのだそうだ。まったく物好きなことである。

で、その波動測定器で、あるお寺さんの御守りを測定したら、ものすごく針が振れて、その近くにある別のお寺の御守りではさっぱりだったんだそうだ。針の振れなかった方の寺の坊主は、あまり評判がよろしくない生臭坊主だったという。

それから、その波動測定器の持ち主の信仰する宗派の最も重要とされるお経の経本を測定したら、「針が振り切れるほど波動が高かった」 のだそうだ。それがどういう意味をもつのだか、私にはよく理解できないのだが、その測定器の持ち主はとても気分よくしたらしい。

で、それを聞いた私は、これこそ 「都市伝説」 というか、現代の民間伝承というに値するかもしれないと、とても興味深く思ったのだった。測定結果とやらが、その測定器の持ち主の主観丸出しっぽいのが、かなり気にかかったのだけれど、そうした怪しさも含めてますます面白い。

私は、民間伝承はフォークロア資産としてしっかりと保存しておきたいと願うものである。しかも、「生きたフォークロア資産」 として伝えるためには、本当にそれを信じる人がいてくれないと困る。そうでないと、「死んだ資産」 になってしまう。

それを信じる人が多少いたところで、迷信だらけの世の中になるなんて心配はいらない。人間はそれほどお馬鹿じゃないから、科学とファンタジーはきちんと語り分けできるのである。いわば使う筋肉が違うのだ (たまに同じ筋肉を使う人がいるので、困るのだけど)。筋肉はバランス良く鍛えた方がいい。

というわけで、その測定器が 5000~6000円ぐらいで買えるのなら、私もぜひ 1台欲しいと思ったのだが、伝え聞くところによると、200万円近くするとかいうので、「それじゃ、売れんわ!」 と、ちょっとむかついた。「もっと量産努力して、コスト下げろよ!」 と。

まあ、実際には 「あまりにも売れない」 から、需給を無視した高い値段を設定せざるを得ないということもあるのだろう。つまり、まともなマーケットが形成されていないということだ。惜しいことである。

できれば、一家に 1台ぐらいまで普及させ、同じものをみんなで測定して、その結果の違いを自慢し合える世の中になったら、波動のコンセプトもしっかりと定着 (風化?) するのだろうに。

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2008/01/30

パンからの伝言?

昨日のエントリーへのオッチャンからのコメントにレスを付けていて、私の中にも 「水伝信奉メンタリティ」 があることに気付いた。

我が家では天然酵母のパンを作るのだが、私はパン生地をこねる時、「よ~し、よしよし、おいしくなれよ~」 なんて語りかけている。その方がうまいパンができるような気がしている。

こんな風に、食べ物に関する作業をする時、とくにパン作りとか味噌の仕込みとか、発酵作用に依存したものを作る際には、いい想念を込めるのが望ましいというのは、私のこの方面の師匠である食工房の Mikio さんからの口伝である。

断っておくが、「いい想念を込めれば、必ずおいしくできる」 と教わったわけじゃない。だが、確かに少なくとも、「こんちくしょう、手間かけさせやがって!」 なんて言いながらやるよりは、ずっといい具合に仕上がる気がする。単に 「気分の問題」 と片付けるにしても、まあ、気分のいい方が、ムシャクシャしてるよりはずっといいのである。

発酵食品というのは微生物の働きに依存するので、無機質である 「水」 を問題にするよりは、ちょっと信憑性があるかもしれない。ただ、作り手の想念そのものが直接微生物に作用するのかどうかとなると、そこが議論の分かれ目だ。

測定可能で、しかも再現性がなければならないという科学の立場からすれば、いい想念をもつことによって、具体的にいいレシピにつながり、作業もうまくいって、その結果、微生物の作用に良好な環境が作られやすいのだと考えるのが自然だろう。それが常識というものだ。

ただ、日常生活の中でそれをじっくりと科学的に検証するというのは、面倒だし金もかかるので、「いい想念を込める」 という、まあ、「心がけ」 のレベルでさっと語ってしまう方が、手っ取り早いし、安上がりで、しかも実際に効果的なのである。

科学的には、「心がけ」 なんてものがどうであろうと、ほぼ同一の条件下でほぼ同一のプロセスを辿れば、ほぼ均一な結果が得られるという結論になるだろう。しかし実際のパン作りの場面では、同一条件なんてことはまずあり得ない。

気温や湿度はその度に違うし、酵母の状態だって、常に理想的にピンピン元気というわけじゃない。だが、こちらは工業生産をしているわけじゃないのだから、その時々のデータを詳細に記録していくのも億劫だし、第一、詳細な測定ができる機器を買うのも馬鹿馬鹿しい。

というわけで、結局は 「勘と経験」 の勝負なのだ。そして、「勘と経験」 がうまく働くためには、経験則で言っちゃうけど、やっぱり 「いい心がけ」 でいる方がいい。ずっといい。そして、「いい心がけ」 の呼び水になるのは、やはり 「ポジティブな言葉」 である。

この辺のプロセスは、物理学や化学ほどの純粋な 「科学」 ってわけじゃないが、科学的手法でも十分に検証可能なことだと思う。

ただ、それを 「酵母にやさしくしてあげたから、酵母が喜んだ」 みたいなレトリックで語ったとしても、あながち責められるようなことじゃないだろう。人間の日常会話がすべて自然科学の文脈で語られなければならないとしたら、そりゃあまりに窮屈すぎる。

というようなわけで、私は 「水からの伝言」 についても、科学としてはトンデモだとは思うが、「有害無益」 とまで決めつけるのは、ちょっとためらわれるのである。少なくとも、社会生活を送るのに望ましい (あるいは、少なくとも余計な軋轢を軽減させる) 「心がけ」 の (文字通り) 「呼び水」 にはなることもあるだろうから。

「科学を道徳の根拠にしてはいけない」 という批判もあるが、個人的には、それは取って付けた理屈のように思われる。望ましい道徳の根拠が科学だったとして、何の不都合があるだろう。その逆では、確かに困るが。

あるいは 「道徳の根拠が 『疑似科学』 では困る」 と言えば、説得力が増す。だが、それもケース・バイ・ケースだ。結果的に、当人にとって望ましく、周囲にも軋轢の少ない道徳が形成されたのであれば、その結果は尊重しつつ、放っといてあげようというのが、23日のエントリーで、私が述べたことである。

ちょっと視点を変えよう。世の中には拝み屋にかかったおかげで病気が治ったという人が、実際にいる。この場合、現実に病気が治ったというなら、医者のおかげだろうが拝み屋のおかげだろうが、どっちでも構わないじゃないかというのが、私の立場である。「その治り方は間違ってる」 とは、私には到底言えない。

「病気治し」 と称して法外な金額をふっかけるインチキ宗教を別にすれば、大抵の巷の拝み屋に払う金額なんて、せいぜい 「ささやかな御奉納」 程度のものだ。それでずっと昔からやってきているのである。べらぼうな金額を要求したら、医者との競合に負ける。

ただ、私自身は病気をこじらせたら拝み屋じゃなく、(仕方なく) 医者にかかるし、人にもそう勧めるということは、念のため明らかにしておきたい。

さらに念のため繰り返し付け加えるけど、水伝を初めとする 「疑似科学」 に狂信的になるあまり、道徳の授業やボロイ商売に結びつけるのは、やはり困る。そして、科学と見紛うようなスタイルと仕掛けで語られるのも、問題だ。その程度の 「歯止め」 は社会的に共有したいものだし、それは既にある程度されてるんじゃないかなあ。

ただ、たとえ正統派の科学であっても、あまりにも極端な応用をされたら、それは 「正しさという名の暴力」 になりかねない。さじ加減を上手にすれば、疑似科学だって役に立てられるし、それを間違ったら、正統科学でも大迷惑なことになる。

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2008/01/29

水伝論争と自虐史観論争は似てる

そう言えば、1月 23日の 「プラシーボとしての水伝」 に、山辺響さんがとても納得しやすいコメントをつけてくれたのだった。

「あたかも科学であるような体裁を繕おうとするから問題になる」 というのである。科学を無理矢理共犯者にしたてようとするから、科学が怒ってしまうというわけだ。

山辺響さんの、絶妙の喩えを以下に引用する。

要は、私が愚にもつかぬ主張をしていたところで放置されるだけだが、「takさんも同じように主張しているとおり」 などとよけいなことを付け加えれば、takさんにご迷惑がかかるかも、という話ではないかと。

うぅむ、なるほど。

ただ、Wikipedia によると、水伝の発信源である江本勝氏自身は AERA のインタビューに答えて、水伝は "「科学」 ではなく 「ファンタジー」 「ポエム」 " と認めているという。しかし、"いずれは証明されるとも述べており、事実ではないとは認めていない"ということなので、なかなか微妙なところだ。(参照

「科学でない」 と言いながら、「いずれは証明される」 などと、まだ科学の文脈で往生際の悪いことをおっしゃる。水伝信奉者に共通するこのあたりのいい加減な曖昧さが、純粋な血を引く科学君にとっては我慢のできないところであるようなのだ。

つまり、科学でもないのに科学のような体裁を取ろうとした、あるいは、現状の科学では理解不可能だろうが、科学ももう少し進化すればわかるだろうという (エラソーな) 言い方をしたために、科学君の方がむっときてしまったというわけだ。

そう考えると、科学君の気持ちもよくわかるというものである。科学君は、「俺はそんなこと、一言も言ってねぇだろ、コノヤロー!」 とか、「いくら進化したって、そんなのはウチの家風じゃねぇ!」 とか、立腹しているのである。

ただ、私は水伝信奉者の気持ちもよくわかるのである。「確かに、科学じゃない。科学かどうかなんて、そんなのも興味がないし、どうでもいい。ただ、自分の信じてる現象を語るために、科学っぽいレトリックを借用しただけだ」 というのが、彼らの心情だろう。

純血科学君には悪いけど、水伝信奉者は科学 (みたいなもの) の言葉を勝手にメタファーとして使っているだけなのである。科学用語に著作権なんてないんだから、いいだろうよと。

しかし、科学とメタファーは本来馴染みにくいものだから、科学君としては 「おいおい、いい加減にしろよ」 と言いたくなってしまうのも無理からぬところである。「お前のイベントの後援名義に、俺の名前を勝手に使うんじゃないよ」 と。

このあたり、幻影随想の黒影さんが、「科学というモノサシ」 というエントリーで、うまい分析をされている。疑似科学を科学の立場から批判することは、「科学」 という共通のモノサシを持っていない疑似科学信奉者にとって、次のような作用であるという。

・ よく分からんモノサシを問答無用で押しつけられた揚句
・ そのモノサシによって自分の信じたものを否定され、
・ さらには自分のモノサシ (価値判断基準) まで否定された
に等しい暴挙なのである。
だからこそ彼らは、疑似科学批判者が 「科学という絶対的モノサシ」 を押し付けてくると感じるのである。

なるほど、よく言えていると思う。要するに、持っているモノサシが違っていて、そのモノサシのお墨付き度合いに、格段の差があるのだ。国家認定モノサシと、怪しげな新しいモノサシとの対決である。どっちが強いかは目に見えている。

疑似科学に対して科学の視点で真っ正面から批判することに、私はある種の 「苛立ち」 というか、徒労感を感じていた。ある意味、横綱が素人に本気で相撲を挑むようなものである。しかも、自分の土俵で。

そんなようなこともあって、件の  「プラシーボとしての水伝」 というエントリーを書いた。黒影さんの指摘は、このエントリーで書ききれなかったものである。

黒影さんと私とは立脚点が違っているから、論の全体が共通するわけではないけれど、「モノサシの違い」 ということについては、「わが意を得たり」 という気がする。これが、この不毛な論争のキモである。

いわゆる 「自虐史観」 に対して 「どうして自分の国をそんなに悪く言わなければならないんですか?」 と、情緒的愛国者の視点から批判することにも、私は同じような苛立ちを感じてきた。それについては、"なるほど、そりゃ 「自虐史観」 じゃない" というエントリーで述べた。

「疑似科学信奉者」 対 「疑似科学批判者」 の対決は、「(いわゆる) 自虐史観」 対 『自由主義史観」 の対決と同様に、初めからすれ違いばかりで、交わるところがない。

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2008/01/23

プラシーボとしての水伝

近頃ブロゴスフィアでは、またぞろ 「水からの伝言」 が大きなトピックになっているようで、驚いてしまった。なんだか時間が逆戻りしてしまったような錯覚すら覚えてしまう。

こんなの、むきになって言い合うような問題じゃないと思うのである。「科学じゃない」 というのは、既に大方のコンセンサスのようだし。

言葉をかけたぐらいのことで水の結晶が影響を受けるなんてことは、そりゃあないだろう。精神世界大好きの私だって、そのくらいの分別は持っている。しかしその一方で、そうしたファンタジーを馬鹿馬鹿しいと切り捨てるつもりもない。

そうしたファンタジーを作り出したり信じたりし、さらに、それによっていい心持ちになってしまったりする人間の心理というものを、無闇に否定するよりも、むしろ、人文学的興味の対象として捉えたいと思うのだ。

私自身、あくまでもファンタジーとして、さらに仮定法に則って、「もし本当にそうだったらおもしろいかも」 ぐらいのことは、ちょっとだけ思ったりしないでもない。仮定法をかなぐりすてるほどの勇気はないけれど。

世間では、仮定法なしでもろに信じている人が結構多いのが問題視されているのだけれど、個人的なファンタジーとして楽しんでいる分には、私は放っておいてあげたいのである。彼らが科学の常識に対して、牙を剥いて総攻撃をかけてきているわけでもないのだし。

それに、彼らがどう信じようと、科学的法則そのものが変わってしまうわけでもないのだから、その点に関しては安心していい。

私としては、こういうのは 「心の安定のためのプラシーボ (偽薬)」 だと思っている。小麦粉を腹痛の特効薬だと思い込ませて飲ますと、本当に治っちゃったりするようなもので、「水伝」 を信じて、常に感謝の思いで心の平安を得て、安らかな生活を送れるというのなら、それはそれで、そっとしといてあげたいと思う。

私にとっては、大学受験に天神様のお守りをぶら下げていく受験生をほほえましく思うのと、大差ないことである。

とはいえ、水伝の類をあまりにも狂信的に世の中に広めようというのは、かなりうっとうしいし、困りものだ。ただ、それは水伝に始まったことじゃないし、世の中にはもっとずっと困りもののカルトがいくらでもある。その意味では、水伝なんてまだ罪が軽い方だろう。

しかしながら (「とはいえ」、「ただ」、「しかしながら」 と、"however" を 3つも続けるレトリックは、我ながら心苦しいが)、学校の教師が授業で水伝をもっともらしく教材にするというのは、やはり止めておいてもらいたいとも思う。

ちょっと話はずれるが、常に感謝の思いで道具や機械を使うと、故障や不具合が減って長持ちすることがあるというのは、経験的に本当のことである。しかしそれは、そうした気持ちで常日頃から大切に使うからであって、人間の思いが直接機械に働きかけて性能を上げるというわけじゃない。

感謝の言葉をかけた水を飲み続けて健康になったという人がいたら、それは、いい結晶になった水のおかげというより、そうした自分の心持ちのおかげで、過剰なストレスが軽減されたせいなのだろう。それは、科学的にも十分にあり得る。

水に自分の心持ちを投影することで (あるいは投影できるというつもりになることで)、望ましい方向にセルフコントロールできるとしたら、とてもお手軽で有効なことだと思う。「非科学的だ」 という理由で、そうしたツールを取り上げようとするのは、ちょっと野暮かもしれない。

水伝の 「プラシーボ効果」 の方を、科学的な視点で事例研究してみるというのも一興かも知れない。やり方は結構難しいだろうけど。

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2008/01/08

ネットのトレンドは 「陰謀論批判」

今、ネットのトレンドは 「陰謀論批判」 らしい。いまさら批判しなければならないほどに、陰謀論というのは力を持っているらしいのだ。

9,11 が陰謀だったとか、サンフランシスコとロスアンジェルスと阪神淡路の大地震が、人工地震だったとか、まあ、確かに陰謀論というのは探せばいくらでもある。

私の以前の知り合いにも強烈な陰謀論信奉者がいて、顔を合わせるたびに、湾岸戦争はでっち上げだったとか、ロスアンジェルスと阪神淡路の大地震がどちらも 1月 17日に起きたのは偶然ではないとか、湾岸戦争の始まったのも 1月 17日だとか、様々なファンタジーを真面目に語ろうとしていた。

とにかく、世界のすべての大事件はフリーメイソンの策略のもとに起こされているというのである。ふぅむ、フリーメイソンというのは、大地震や戦争を、時間的にも空間的にもピンポイントで発生させられるほどの素晴らしい技術力と政治力を持ち合わせているのに、それほどの技術力と政治力をもってしても、思い通りの世の中を実現できていないらしい。

それまで大地震なんてなかった阪神地区にあれだけの被害をもたらすほどの地震をピンポイントで発生させられるのだったら、当時、他に地震のターゲットにしていいはずの都市が世界にはいくつもあっただろうに (バ○ダッドとか、ハ○ナとか、カ○ールとかね)、それらよりも、神戸や LA を狙ったというのは、フリーメイソンの頭が悪いとしか思われない。

世の中というのはそれほどまでに複雑系の世界なので、彼らの強烈な意図と力をもってしても、その目的はなかなか達成されないのだね。とにかく、複雑系の世界を単純系の意図で思い通りにしようというのだから、ご苦労なことなのである。

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2007/12/29

「日本三大」 検定にチャレンジしてみた

ネタに困って、日経トレンディの "「日本三大」 検定" というのをやってみた。「日本三大ほにゃらら」 に関する 5カテゴリー・25問である。

これは、「品格ある大人ならぜひとも知っておきたい基礎知識」 なんだそうだ。この程度の雑学知識で 「品格」 とは、ちょっと眉唾だが、とりあえずチャレンジしてみた。

で、結論。私の成績は 76点 (全国平均55点) で、全国順位は 1107人中 66位 だそうだ (12月28日23時58分現在)。これって、結構上位になるのかしらん。(証拠画像はこちら

講評を読んでみると、"6割以上正解したあなたの 「日本三大」 レベルは上出来。立派な知識人と胸を張っていいでしょう" とある。へぇ、6割以上の正解程度で 「上出来」 とか 「立派な知識人」 とかは、かなり大甘なんじゃなかろうか。

内容をみると、私は建築と景色・自然に詳しくて、観光のカテゴリーに弱いようなのである。さらに、神社・仏閣のカテゴリーでは、5問中 3問しか正解していないのも、神社仏閣好きを自認する私としては、ちょっと不本意である。

しかし、よく考えてみると、観光、景色・自然、建築、文化、神社仏閣という 5カテゴリーって、なんだか無理矢理分けているような気がする。果たして、これでいいんだろうか? だって、どれもみなオーバーラップして、整然とは分類しきれないように思うのだが。

まあ、この際、余計な詮索はしないで、「立派な知識人」 ということで気をよくして、新年を迎えようと思う。

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2007/12/27

年賀状に書き添える手書きの一言

今年もずいぶん押し詰まってきたような気がしてはいるのだが、いつもの年と比べると、何だか切羽詰まった気がしない。

何でだろうと考えてみると、これは一重に、年賀状を作らなくていいという、今年の特殊事情によるものだと気付いた。5月に母が亡くなったので、まだ喪中なのである。

「新年のご挨拶を失礼させていただきます」 という喪中葉書は、先月のうちにさっさと出してしまった。おかげで、今年の暮れは 「あぁ、まだ年賀状を作ってなかった!」 という強迫観念にさいなまされずに済んでいるのである。

思えば、年賀状を作るというのは、一仕事なのである。私は案外年賀状に凝ってしまう方なのだ。デザインは PC 上でやるので、実際の仕事に取りかかれば、半日足らずでできてしまうのだが、その構想と素材集めには 1ヶ月以上かけてしまう。

そして、できたデザインを 200枚以上印刷するのが、また結構な手間暇なのだ。最近のインクジェット・プリンターがいくら高性能になったとはいえ、印刷は 1枚当たり 10秒ぐらいはかかる。

それに、はがきというのは結構な厚みがあるので、時々プリンターの送りがうまくいかなくなって、止まってしまう。その度に詰まった葉書を引っ張り出して、セットし直す。さらに、一度に 30枚ぐらいしかセットできないので、付きっきりで葉書を補充してやらなければならない。

そして、宛名印刷もかなりの手間がかかる。移転や住所表示の変更通知の来ている先はきちんと修正し、喪中の知らせが来ている先には出さないように、きめ細かくチェックしなければならない。

そして、最終段階として、一言二言、手書きで短い言葉を書き添える。これがあるのとないのとでは、えらい違いなのである。

考えてもみるがいい。業者からの営業年賀状ですら、気の利いたのは何か一言書いてあったりする。それなのに、親戚とか友人からのものが、いかにもコンビニで買ってきたありきたりのデザインで、手書きの一言が何も書いていなかったりすると、「フン! お前って、そういうやつか」 みたいな気がしてしまう。

ところが、200枚からの賀状に、それぞれ気の利いた一言二言を手書きするというのは、これはもう、かなりの重労働なのである。最後の方になると、ただ何か書いているというだけのことで、「気の利いた」 という形容詞なんか、どっかに飛んでしまっている。「気の利かない」 一言になりかねない。

「手書きの一言が全然ない年賀状って、もらってもあまりうれしくないですよね。でも、その一言が 『お元気ですか?』 だけっていうのも、ちょっと悲しいものがありますよ」 と、仕事関係の女の子が嘆いていた。

「あぁ、私宛のって、きっと最後の方の、力尽きた時に書いたんだなあっていうのは、わかるような気もするんですけどね」

うんうん、わかる。どっちの気持ちもよくわかるぞ。

「で、私、今年はその人宛のは、『元気です』 って返そうと思ったんですけど、かなり年上の先輩だし、どうしようかなぁって、悩んでるんですぅ」

うぅむ、そんなことで悩む必要はないと思うがなあ。

いずれにしても、今日の教訓は、「年賀状の手書きの一言で、『お元気ですか?』 だけというのは、いくらなんでもまずい」 ということだ。芸も愛想もなさすぎる。

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2007/12/15

統計と直観

Diamond Online に、立正大学経済学部教授の林康史氏の 「人は統計的な発想が苦手だ」 という興味深い記事がある。

確かに、統計学的手法による論理的な推論と、人間の直観的な判断は、時として相容れない場合があるので、私のような直観タイプの人間はよほど気をつけなければならない。

例えば、次のような問題があるので、ちょっと考えてみよう。

例えば、Aさんに子どもが2人いるとする。うち1人は女の子であることがわかっている。残りが男の子の可能性はどうだろうか。

直観的には、「半々」 と答えたくなるだろうが (少なくとも、私はそうだった)、正解は違う。残りが男の子の可能性は、3分の 2だ。その理由は、次のように述べられている。

世の中の2人キョウダイ (兄弟・姉妹) すべてを調べると、2人の性別の可能性は4通りで、「男・男」:「男・女」:「女・男」:「女・女」=1:1:1:1(「男・男」:「男・女」:「女・女」=1:2:1)である。

ここで、Aさんの子どものうち1人は女であるから、「男・男」の可能性はない。したがって、Aさんの子どもの性別の可能性は、「男・女」:「女・男」:「女・女」=1:1:1(「男・女」:「女・女」=2:1)。つまり、残りが男の子の可能性は、3分の2だ。

と、ここまで読んでみて、正直に告白してしまうが、私は確かに理屈としては理解できたものの、実感としては、まだぼんやりとしていた。正解はまだ霧の中でちょっとだけ先にあって、しっかりとこの手で掴んだような気になれなかったのである。お恥ずかしいことに。

ところが、世の中には、私以上にこの問題を理解できない人が多いようだ。林氏は、ある新聞への寄稿でこの例題とその正解について触れたのだそうだが、その新聞の編集部には、その日のうちから 「答えは2分の1ではないのか」 という猛烈な抗議の電話が押し寄せた。

ついにデスクが音を上げてしまい、「読者が納得しやすい説明をしてください」 と泣きついてきたのだそうだ。

そこで、林氏は、次のように言った。

「間違う人の多くは、『今後、生まれる子どもの性別』 と勘違いするようです。もちろん、それは1対1です」

「なぁんだ、そうか!」  ここまで読んで、私の頭の中の霧はさっと晴れた。上記の論理的説明も、何の問題もなく、しっくりと理解できた。「なぁるほどね!、もう、このパターンの論理では、錯覚しないですむぞ」

もし、このきっかけでもまだしっくり来ない人は、上記の記事の 4ページ目の懇切な説明を読めば、きっと理解できるだろう。林氏も、さすがに 「これでわからなかったら、もう知りません」 と言っている。

林氏は、「言い方を変えると理解できるというのも、行動経済学・心理学の教えるところ」 と述べておられるが、まさにその通りである。

一つの視点からのみの説明を、いかにていねいに繰り返そうとも、しっくりとこないものには永遠にしっくりこない。しかし、別の視点からの説明をちょっと付け加えてもらうだけで、突然、頭の中に電気が灯る。

要するに、どこに視点をおくかである。人に説明するのが下手な人というのは、マルチ視点でのものの見方のできない人である。最もシンプルでわかりやすい視点はどこにあるかをすぐに発見できる人は、ものごとの説明も上手である。

(関連で、「どうして鏡に映ると左右が反転して見える?」 という記事で 「視点」 について触れているので、興味があればご覧いただきたい)

ただ、しょっぱなの例題に戻るが、私には、きょうだいの 2人目が男である可能性が 2分の 1だろうが、3分の 2だろうが、正直なところ、「それがどうした?」 というレベルの事象に思えてしまって、心の底からの興味の対象にならないのである。

私は、統計的な結論は、ごく身近な例には必ずしもその通りの確率で現われるものではないということを、経験則として知っている。身近にみられる (あるいは、意識的に関わってしまう) 実感的現象が 「完全に平均的」 ということは、それほど多くない。

それらは 「常に特殊」 である。世の中というのは、なかなかうまくかき混ぜられないのだ。そして、うまくかき混ぜられないからこそ、世の中は面白いのである。林氏のいう 「認知的不協和」 も、まんざら根拠のないわけじゃない。

林氏の記事の、「ひき逃げ事件のタクシー問題」 の確率論は、つまるところ、「目撃者の証言は、それほど当てになるものではない」 ということの認識につながりさえすれば、十分なことである。いかに数字を突き詰めても、それがそのまま犯人検挙につながるわけでもない。

統計を無視せよというのではなく、その有効性は十分に認めながらも、それでも、すべてのトランザクションは個別なのだということも、しっかりと認識しておかなければならない。

統計的手法の適用はとても有効だが、身近で起こった重大問題のソリューションに、それを単純に適用しさえすればいいというわけでもない。直観派としては、それだけは、ごく控えめにではあるが、確認しておきたいと思う。

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2007/12/13

銀座の歩道にはガードレールがない?

先日、車を運転しながらラジオを聞いていると、銀座の街づくりの話になった。地元の人の言うところによると、銀座の歩道にはガードレールがないのだそうである。

車で乗り付けてそのまま店に入れるようにするためで、つまり、ガードレールがないというのは、銀座のステータスなのだと言っていた。

その時は、「ふぅん、なるほどね。さすが銀座ってわけね」 なんて、何の疑いもなく聞いていたが、あとで思い出して、「待てよ、なんだか眉唾だなぁ」 と思い始めたのである。だって、日本中にガードレールのない歩道なんて、いくらでもある。何も銀座に限ったことじゃない。

例えば、私がいつも仕事で出没する神田のあたりも、歩道にガードレールなんてない。この街は、中小企業と問屋の集積した、ステータスとはあまり関係のない雰囲気である。

この街で歩道にガードレールがないのは、ある意味では便利である。建ち並んだ中小企業、問屋に乗り付けた商用車が、台車に乗せた荷物を車に積み込んだり、あるいは車から降ろした荷物を店に運び込んだりするのに、ガードレールは邪魔になる。

ガードレールがない街はステータスがあるなんていうのは、そりゃ、銀座地元民の我田引水である。それに、銀座だって大通りからはずれた小路なんかでは、歩道と車道の境目にちゃんとガードレールがあるじゃないか。

それにしても、何でもかんでも、もっともらしく言ってみるものである。信じ込むやつが結構いるのである。私だって、もう少しで信じるところだったじゃないか。

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2007/12/11

厨房のゴキブリ

「ケンタッキー・フライド・ゴキブリ騒動」 の高校生が、通っていた都内の某有名私大付属高校を、「社会的責任を感じた」 と自主退学しちゃったそうだ。(参照

てことは、もう彼は 「高校生」 じゃなくなったわけだ。余計なことを mixi なんかに書いたせいで、人生狂っちゃったようだ。

私がここで、「余計なこと」 と言ったのは、まさに 「余計なこと」 だからである。飲食店でバイトをしたことがある者は、その厨房の多くがゴキブリの巣窟になっているということぐらい、普通に知っている。しかし、だからといって、余計なファンタジーを衆目に触れるところで書いていいってわけじゃない。

飲食店の厨房がゴキブリだらけなのは当然のことで、あまりにも当然のことである上に、それほど気分のいい話題でもないので、ことさらに公衆の面前では話題にしないだけのことである。それに、そんなことを気にしていたら、外食ができなくなっちゃうので、あえて 「忘れたフリ」 をするというところもある。

私も学生時代、いろいろな飲食店でバイトをしたが、ゴキブリの出ない厨房なんてなかった。印象としてはネコぐらいの大きさのネズミがはね回っていることすら、それほど珍しくなかった。

最もすごかったのは、飲食店スタッフという仕事ではなく、某大型店舗の掃除夫のバイトをしたときである。朝一番、開店前の店舗の掃除をするのだが、テナントとして入っていた某レストランを掃除するために厨房に足を踏み入れると、「床一面のゴキブリ (実は床だけじゃないけど)」 が、サァーっと潮の引くように物陰に逃げ込むのであった。

あれほどの大群のゴキブリは、調理や皿洗いのバイトをしていては、なかなかお目にかかれるものではない。それを目撃できるのは、朝一番に厨房に足を踏み入れる掃除夫の特権 (?) である。でも、フツーは、あまりそれを外部で得々と語ったりはしない。

(私は今、それをやっちゃってるわけだけれど、まあ、時効だから勘弁してもらいたい)

この高校生、じゃない、元高校生は、よほど育ちが良すぎたんだろうか、ゴキブリが厨房にあふれているのが、とても珍しくて、舞い上がってしまったんだろうね。それで、ちょっとしたファンタジーを書いてみたくなったんだろう。それがどんな反響を呼んでしまうかには、あまり思いをいたすこともなしに。

要するに、苦労が足りなかったってわけだ。その分、今苦労をすることになったわけだが。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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2007/12/10

「鏡衆」 が台頭してるんだってさ

電通消費者研究センターが、またまた目新しくてかつ怪しげな通俗マーケティング用語を発表してくれた (参照)。

互いに共振する消費者 「鏡衆 (きょうしゅう)」 が台頭し、世の中を動かし始めているんだそうだ。電通のニュースリリースを見て、共感を覚えるようなら、あなたも立派な鏡衆だ。

このリリースは、今年 7月と 9月の 2回実施された 「電通・新大衆調査」 によって見えてきた 「情でつながろうとする新しい大衆意識の芽生え」 と 「お互いに影響を与え合いながら共振する消費者 = 鏡衆」 の台頭という現象をレポートしたものだそうである。

調査結果のポイントは、1に "情動化社会"、2に "「共振する消費者」 の台頭" だそうだ。

「情動化社会」 とは、「情報化社会」 のもじりなのかもしれないが、以下のような現象なんだそうである

現在の消費者が、様々な社会現象的ブームにひかれるのには確固たる合理的理由はなく、「何か引きつけられるものを感じるから (44%)」 「わくわく・エキサイティングな気分になれるから (32%)」 など情緒的なものに突き動かされている様子がうかがわれます。

ふぅん、そんなことは、別に 「現在の消費者」 でなくても、今に始まったことじゃ