2021年10月22日

やっぱり「聞き流すだけ」じゃ、ダメだったみたい

"石川遼でおなじみ、英会話教材「スピードラーニング」が事業終了していた 理由は「諸般の事情」” というニュースが飛び込んできた。この手の英会話教材については、過去に何度か書いてクサした記憶があるが、それにしても「諸般の事情」とは笑ってしまうね。

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自分のブログ内をちょっとググってみただけで、以下の 5本の記事が見つかった。いずれも「胡散臭い」と決めつけるトーンで書いている。

「聞き流すだけ」 という英会話教材を巡る冒険(2112年 3月 14日)
「聞き流すだけ」というおとぎ話(2015年 3月 24日)
東京オリンピックと、英会話熱と、当たり前すぎるお話(2015年 8月 9日)
パソコン教室と、「聞き流す英会話」(2017年 1月 18日)
例の「聞き流す英会話」の CM に関する素朴な疑問(2017年 1月 19日)

スピードラーニング以外の同じような教材に関しては、なんと 12年も前からクサしている。私ってば、こうした類いの教材をよっぽど信用していないようで、一昨年辺りからは「ファンタジー」と決めつけている。

たった 90日で 「英語がペラペラ」 になるなんて(2009年 2月 27日)
ファンタスティック過ぎる英語教材(2019年 7月 17日)
英会話教材はさらなるファンタジー化を遂げている(2019年 7月 17日)

ファンタスティック過ぎる英語教材 という記事では、i-smile という悪名高い会社の、電車内吊り広告を槍玉に挙げている。こんなのだ。

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この教材で英語を習うと、たった 2ヶ月で「英語ペラペラ」になって、"Even a train can go on a bus, but where do you go?" (列車さえもバスに乗って行けますが、あなたはどこに行きますか?)なんて、ファンタスティックなことを言うようになるらしい。いやはや。

ちなみに、スピードラーニングを実際使っていたという人の tweet を見つけた。こんなようなものである。

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「毎日 5分聞けば片言ぐらいは喋れるようになります」とあるが、この教材は「毎月 3,800円(税別)からの定額制学習プログラム」というのだから、「片言ぐらい」の英語を喋るためとしては、コスパ悪すぎるんじゃないかなあ。

このあたりのことについては、上述の パソコン教室と、「聞き流す英会話」 という記事で以下のように述べている。

パソコン教室に通っても添付ファイルすら送れない知人が最近、「スピードラーニングをやってみようかと思っている」なんて言い出したので、「そんなものやっても、せいぜい道案内ぐらいしかできないと思いますよ」と答えておいた。

すると彼は、「いやいや、道案内できるようになるだけでも立派なものじゃないですか」なんてことを言う。

「その程度は、中学生英語でいけるはずなんですけどね」と言うと、黙り込んでしまった。

うぅむ、また余計なことを言ってしまったかな。

というわけで、日本では大学を出ても「英語の道案内」程度のことがファンタジーみたいなのである。教材がファンタジーなのもしょうがない。

 

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2021年10月21日

久しぶりで旅ができそう

久しぶりの出張が決まった。来月中旬に大阪に行くことになったのである。東海道新幹線に乗るのが 1年 4ヶ月ぶりになると気付いて、我ながら驚いている。

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ここ 20年ぐらいは、月に 2〜3度は日本各地に出かける仕事が入っていたのだが、コロナ禍のせいで激減し、昨年 1月からの出張を振り返ると、関東圏で日帰りした以外では下に示した10回だけだ。平均すると例年の 5分の 1 以下の頻度である。

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このほか 3月に、「旅の禁断症状」を和らげるためにプライベートで飛騨に旅している(参照)が、これを含めても今年に入ってからは 10ヶ月でわずか 4回。 フツーなら「結構行ってるじゃん!」と言われそうだが、風来坊の私としては、こんなにまで旅が少ないのは高校を出てから初めてだと思う。

それにコロナ禍に配慮して、たまに出張に出てもほとんど寄り道もせずに帰るから、まったく味気ない。昨年 3月末の網走出張で「せっかくこの季節に来たんだから、このまま帰すわけに行かない」と強く勧められ、流氷見物をした(参照 1参照 2)のが唯一の例外である。

ここに来てコロナ禍がやや下火になったので、ようやくまともに「旅らしい旅」ができそうな雰囲気になった。とはいえ、今回はたかだか 2泊 3日ぐらいのちゃっちいものではあるが。

今度の旅では、大阪での仕事の本番の前後どちらかに、京都にでも立ち寄って秋の古都を味わってみようと思う。京都はこれまで何十回も行って見るべきところは見尽くしてしまっている気もするが、見落としてしまっているスポットがあるかもしれない。

さて、どんなところに行こうか。楽しみ、楽しみ。

 

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2021年10月20日

私が依然として「Apple 信者」になり切れないのは

BBC ニュースによると、Apple は中国で ”Quran Majeed” というコーラン・アプリを取り下げたのだそうだ(参照)。これ、コーランを多言語(日本語には対応していない)で読んだり聞いたりできるもので、"Essential app for all Muslims"(全てのイスラム教徒必須のアプリ)と紹介されている(参照)。

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Apple は、この措置は中国政府からの要請によるものだとしているが、中国政府は直接にはこれについて声明を発表しておらず、BBC の取材にも答えていないという。ただ、最近の新疆ウィグル自治区のイスラム教徒に対する迫害と人権侵害と無関係とは考えられない。

私はムスリムではないが、こんなニュースを聞くと「中国に生まれなくてよかった」と単純に思う。中国では信教の自由が表向きは保障されているが、各論ではこんなことになる。いろいろな方面で「無茶な各論」が出てくるのだから、このようなブログを書いても迫害されるだろう。

Apple はこの件に関してはうやむやな態度に終始しているという。最高経営責任者の Tim Cook は米国の政治家の偽善的な発言などは厳しく批判するが、中国に関してはかなり生ぬるい。これは、中国がアップルにとって、生産・販売の両面で重要マーケットとなっているからとみられる。

自分自身について言えば、私は iMac、MacBook、iPhone、iPad、Apple Watch を使っている。傍目には典型的な「アップル信者」に見えても仕方がないが、自分でそう言い切ることには、今でも抵抗がある。

6年半前の「アップル信者になり切れない私」という記事で私は、Apple 製品の仕様に完全には馴染みきっていないことを告白している。しかしその 4年半後の追記では、この面についてもかなり馴染んだことを報告し、"「Apple 信者」に近付いてしまった" なんてことを書いた。

ただ、それでも「まだ今イチ、なり切れていない」としているのは、残念なことに、企業姿勢としてこんなことがあるためでもあるのだよね。

 

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2021年10月19日

葬儀と「清めの塩」と画一化の問題について

昨日の記事で "近頃の都市部の葬儀では、帰りに必ずと言っていいほど「お清め塩」なんてものを渡される" と書いたが、より新しい情報では「必ずと言っていいほど」というわけではなくなってきているようだ。私の中の情報が少々古くなってしまったようで、更新しなければならない。

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ようやく世の中に変化が現れているらしい。上の図は「昭和セレモニー」(千葉の葬儀会社らしい)という会社のサイトから拝借したもので、とてもわかりやすい。

昨日の記事で、「清めの塩」について "「面倒な押しつけ/小さな迷惑」としか感じられない" と書いたのは、次のような理由からである。

  • 「清めの塩」というのは元々は神道の考え方だから、仏教式の葬儀でそんなものを渡されるのは、「神仏混淆」の典型。
  • 葬儀から帰ったら体にかけて死の穢れを払うという趣旨らしいが、これもまた「雰囲気のもの」でしかないし、個人的にはしたことがない。
  • かと言って、敢えて受け取りを拒否するのも無粋だろう。
  • ところが持ち帰ったところで、我が家常備の天然塩とは違うため一緒にしたくないので捨ててしまう。
  • 一人一人にしてみればほんの少量だが、日本中でまとめてみればかなりの「食品ロス」になる。
  • 葬儀屋が効率志向によって、いつの間にか画一的なスタンダードを作ってしまった結果に過ぎないだろう。

最後のポイントの「効率化志向による画一化」というのは面倒な問題だ。「清めの塩」に限らず、近頃ではかなり多くの分野でそんなことが目立つような気がする。一応のスタンダードがあれば便利は便利だが、それにこだわって絶対視したがる人が出てくるので厄介なのである。

例えば昨日の記事でも書いたが、葬儀で「清めの塩」が渡されないと「手抜き」扱いして、苦情をいう人なんかも出てくる。「どうしておたくは、きちんと用意しないんだ」というわけだ。直接面と向かって言わずに、陰で「あそこは気が利かない」なんて言う人はさらに鬱陶しい。

宗教というのは「多くの日本人はこだわらないが、こだわる人は死ぬほどこだわる」という分野だけに、こうした妙な現象が出てきやすい。そんなことでクレームがつくなら一律に配る方が面倒がないということで、画一化はどんどん進行する。

ところが、それでもやっぱり問題は生じる。私のような「こだわらない人」にとっては単に面倒なだけだが、「こだわる人」にとっては、「仏教式の葬儀なのにおかしい」と、クレーム対象になってしまうのだ。やはり「無闇な画一化」というのは問題が多い。

こうしたことで最も癪に障るのが、「画一的な校則」ってやつだ。この記事を読めば、私だけでなく、多くの人がムカついてしまうだろう。

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さらには、こんなこともあるようだし。(信じられないが、実際にあることらしい)

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2021年10月18日

「スピテロ」というのがあるらしい

きよみ@社労士さんという方が、「スピテロは禁止」という tweet をしておいでだ(参照)。一体何のことかと思ったら、どうやら「スピリチャル・テロリズム」の省略形らしい。最近あちこちの神社の境内で、塩で円を描いて何やらしたがるのが増えているようなのだ。

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きよみさんによれば「塩の結界の中に入って浄化〜」みたいなことをしたがるのがいるらしいが、その痕跡は他人からみたら気色悪いだけのものになってしまう。「普通に境内は汚れるし、掃除が大変だし、勘弁してくれ〜」と言いたくなるのもわかる。

どうしてもこうした「浄化儀式」みたいなことをしたければ自分の家でやればいいのだろうが、世の中の思い込みの激しいカルティックな人は、元々からして十分な「結界」である神社の境内に「さらなる結界」を作ってでも、何やら特別なことをしたがるのだろう。ご苦労なことである。

「塩のもつ浄化力」というのは、古くからの信仰に根ざす考え方ではある。元々は神道の考え方で、神社本庁のサイトの「清め塩について」というページには、「塩の力に祓いの願いを託すことは、祖先から受け継がれた英知なのです」と書かれている。

近頃の都市部の葬儀では、帰りに必ずと言っていいほど「お清め塩」なんてものを渡される。仏教式の葬儀でそんなものを渡されるのは、「神仏混淆」の典型のような気がするが、葬儀屋さんとしては必須の作業で、あれを用意しておかないと「手抜き」扱いされてしまうんだろうね。

葬儀から帰ったら体にかけて死の穢れを払うという趣旨らしいが、これもまた「雰囲気のもの」で、私としてはそんなのしたことがない。かと言って敢えて受け取り拒否するのも無粋だろうし、持ち帰ったところで我が家常備の天然塩とは違うので一緒にしたくないしで、結局捨ててしまう。

いわば「面倒な押しつけ/小さな迷惑」としか感じられないのだよね。一人一人にしてみればほんの少量だが、まとめてみればかなりの「食品ロス」でもある。

まあ、「スピテロ」というほどのことじゃないが、あれって、葬儀屋さんが効率志向によっていつの間にかスタンダードを作ってしまったんだろうね。

話が逸れかかったが、そんなわけで「塩の浄化力」という考え方は理解するとしても、神社の境内でのべつこんなことをするのが流行ってしまったら塩害になるだろう。樹木が枯れるなんてことになったら、完全に「スピテロ」だ。

良い子はこんなの、止めとこうね。

 

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2021年10月17日

「こよなく〜」の「こよ」って何だ?

先日某所で「日本人がこよなく愛する秋晴れの空」というキャプション付きのきれいな写真を目にして、「いや、秋晴れの空を愛するのは日本人に限らないだろう」と思ってしまった。そして同時に「そういえば、『こよなく』の『こよ』って、一体何だ?」と、とてつもなく気になってしまったのである。

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「こよなく」という語を Weblio で引いてみると、上のようなことになった(参照)。同じ小学館の辞書でも、品詞の解説の仕方がビミョーに違う。

『デジタル大辞泉』:副詞(形容詞「こよなし」の連用形から)

『精選版 日本国語大辞典』: 形容詞「こよなし」の連用形。現在では副詞的に用いられる

というわけで、「こよなし」(現代語的には「こよない」)という形容詞が元であり、単純に「『こよ』というものがないほどに」というような意味ではないと確認できた。そりゃそうだよね。それではと、語源の視点から調べてみたところ「広辞苑 無料検索」というページでこんな説明があった(参照)。

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なるほど、「越ゆなし」(越えるものがない)から来ているのか。ようやく納得である。しかしことはそれでは済まない。なんとこんなページにも行き当たった。

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語源に関して "「越ゆるもの無し」とも「此より勝るもの無し」とも言われ・・・" とあるのは、広辞苑と共通するからいいが、この説明に続く文がかなり奮っている。こんな具合である。

日本は古来、比較対象を明確に見据えることをせぬ「絶対文化圏」につき、「こよなし」も比較級というより絶対最上級的ツキヌケ独善讃辞の色彩が濃い。

おぉ 、「絶対最上級的ツキヌケ独善賛辞」と来たか。 こりゃまたすごい! "Far more than everyting in the world" (この世のすべてのものより遙かにスゴい)みたいな恐ろしいまでのことを、日本人は「こよなし」のたった四文字でさらりと言ってきたわけなのだね。

いやはや、そんなにヘビーな言葉だったとは知らなんだ。となると、秋晴れの空を「こよなく」というほど愛するのは、やっぱり日本人しかいないのかもしれない。私のイチャモンの付け所が間違っていたようだ。

しかしよく考えると、秋の青空だの、紅葉だの、複数のものをノー天気に「こよなく - 越ゆるものなく」愛するというのは、論理的にはあってはならないと言わなければならない。このあたり委細構わずどんどんやっちゃうのは、やはり日本人の「雰囲気志向」ゆえなのだろう。

最近、いろいろなことにかこつけて「雰囲気」の力のスゴさに言及している(例えば昨日の記事や、10日前の「写真はイメージです/言葉は雰囲気です」など)が、「こよなく」の場合も、「大切なのは、文字通りの意味より雰囲気」という原則が遺憾なく発揮されている。

ちなみに、上述の「絶対文化圏」というのは、ググってみても特定的な言い方としては「父権絶対文化圏」とか「上の言うことは絶対文化圏」とかいう言い方しか見当たらないが、これも「雰囲気的な絶対」と受け取っておく方が無難そうなので、そのあたり、どうぞ

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2021年10月16日

"Dappi" というツイ垢と、「雰囲気」のトレンド

Twitter に "Dappi" というアカウントがあると知らないわけではなかったが、どうやらうんざりするような tweet しかしていないみたいなので、あまり意識していなかった。ところが最近になって、ずいぶんなニュースになってしまっているじゃないか。世の中、奇々怪々である。

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まあ、かいつまんだところは LITERAX の「ネトウヨ Dappi 運営との取引を報じられた自民党ダミー法人の実名! 岸田首相、甘利幹事長が代表、いまも自民党から年間 4000万円」という記事を読めばわかるので、内容はここでは敢えて触れない。噛み砕いて書くすら不愉快で馬鹿馬鹿しいし。

ちなみに Twitter で Dappi のプロフィル・ページを見ると、「16.7万」ものフォロワーがいるというので驚いた。そして中には、こんなにも見当外れなまでに熱心なのもいる。

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「政治家の発言の生の映像を見たいのです」ってのは、言葉センスのなさに笑ってしまうが、これには、国会の審議中継サイトの URL を記して「10年分見られます。存分にどうぞ」とか「NHKで中継してますけど(笑)」とかいう「正常な人」のレスが付いている。それでも意に介する様子はないのだよね。

思えば私の学生時代(1970年代)の初めの頃は左翼的学生運動の盛んな時期で、とくに日共/民青さえも「欺瞞的」と否定する「全共闘」系がやたら目立っていた。

ワセダの、とくに文学部キャンパスの場合は、いわゆる「全共闘」とは一線を画している(らしい)「革マル」の世界だったが、とにかく大学に通っているだけでやたら議論をふっかけられたりして、否が応でも関わらざるを得ないほどだった。今とは隔世の感がある。

ただ、私は彼らの言うことを目の当たりにして、その「恥ずかしげもなく単純すぎる頭の構造」に呆れるばかりだった。彼らの論理は、自分の領域内だけでは見事なまでに完結しているのだが、初めから他の要素を「ナンセンス」としてシャットアウトしているのだから、それも当然だ。

さらに言えば、全共闘や革マルの下っ端の方は、自分たちが何を言っているのかすら理解していなかった。ひたすら「雰囲気」だけで突っ走っているだけだったと思う。(まさに「雰囲気」ほど強いものはない)

そして月日は巡り、今の「ネトウヨ」も、構図的にはそれと同様だとわかる。右と左が裏返っただけで、「頭の構造の単純さ」及び「下っ端の方のモノのわかってなさ加減」は、ちっとも変わらないという印象なのだ。

要するに、「今の雰囲気」のトレンドが右に向いているというだけのことなのだろうね。やれやれ。

 

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2021年10月15日

大人が都合良く考えた子ども像 (その 2)

昨日付の「大人が都合良く考えた子ども像」という記事の続きである。今日書くのは中学生の頃の、作文コンクールについての記憶だ。

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私は小学校低学年の頃から学級新聞作りに積極的に関わり、記事もほとんど自分で書いていたほどだから、文章を書くのは得意としていた。ところが不思議なことに、年に何度かある「作文コンクール」みたいなものでは、一度も入選したことがなかったのである。

とくに文章が上手とも思われないクラスメートの作文が、市や県などの主催するコンクールで時々入賞するのだが、私はそうした賞には不思議なほど無縁だった。これはもう、「性が(賞が?)合わない」と言うほかない。

ある日、市の作文コンクールだったかで入選した同級生の作品を読んでみたのだが、率直に言って「何だよ、これは!」と思うしかなかった。とくに上手な文章でもなんでもないし、そもそも普段の彼の態度からしたら「偽善そのもの」の「いい子ぶりっ子過ぎ」と言うほかない代物だったのである。

「こんな歯の浮くようなことを恥ずかしげもなく書くと、作文コンクールで入賞しちゃうわけね!」と思うほかなかったのを憶えている。これについては 2006年 5月 16日の「作文も演技さ!」という記事でも書いているが、要するに「国語教育」というのは「道徳教育」なのだと薄々悟ってしまった。

そこで「ものは試し」とばかり、中学時代のちょっと大きな作文コンクールで、自分でも気恥ずかしくなるほどの「優等生的作文」を書いてみた。すると何と言うことか、あっさり「金賞」を獲得してしまったのである。

これはもう「嬉しい」というようなものじゃない。むしろ「作文コンクールなんて、この程度のものだったのかよ!」と、予想していたこととはいえ、がっかりしたのだった。

ところが翌週の全校朝礼で、私は皆の前で「金賞受賞の喜び」を発表することになってしまった。いやはや、勘弁してもらいたかったね。

そこで私は自分への正直さを取り戻すためにも、「ぶりっ子コメント」は一切排除することに決めた。当日は「今回は試しに『心にもないこと』を書いてみたら、こんな賞をもらってしまい、自分でも変な気分です」というようなことを言ったところ、教職員会のどえらい不興を買ってしまったらしい。

というわけで、「大人の期待する『良い子』の姿」を作文するなんて、とてもたやすいことだったのである。しかし私としては、そんな安易なことで点数を稼ぐのは「気分悪過ぎ」だったので、金輪際止めとこうと思ったのだった。

そんなことでチヤホヤされるよりは、それまで通りに「悪童」でいる方がずっと居心地がよかったのである。

 

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2021年10月14日

大人が都合良く考えた子ども像

『たこの歌』という文部省唱歌がある。そう、あの「たこたこあがれ/かぜよくうけて/くもまであがれ/てんまであがれ」という歌詞の歌だ。

子どもの頃、「天」というのは「雲」の上にあるものだということを、この歌で学んだ。ただ、「雲」は具体的だが「天」はかなり茫洋としている。それで「天」というのは「モノ」というより抽象概念なのだということもおぼろげに理解した。もちろん「抽象概念」なんて言葉そのものは知らなかったが。

その意味で、この歌は小学校低学年だった頃の私の論理思考を養うスタート地点みたいなものになったのだが、実はあまり好きな歌じゃなかった。というのは、実際にたこ揚げをしてみると歌詞が無責任すぎるとしか思えないのである。

「風よく受けて、雲まで揚がれ、天まで揚がれ」というのは、一見すると順序だった理窟の上に成り立っているように見えるが、実際やってみると雲までなんて到底揚がらないし、ましてや抽象概念に過ぎない「天まで」なんて、テキトーにもほどがある。

かなり風の条件のいい日に勢い込んでトライすると、タコがかなり小さく見えるまで上昇して、「おぉ、やったね!」と興奮するが、無限に揚がるわけじゃない。用意した糸の長さには限界というものがあるのだ。最大の問題は「たこ」だの「風」だのよりも、「糸」だったのである。

そして私はどういうわけか、たこが揚がっている間、糸が真っ直ぐに張るわけじゃなく、途中で結構たるむものだという「目に見える事実」に新鮮な驚きを感じていた。「こんな糸にも重さってものがあるんだ。いくら風が引っ張っても、ピンとは張らないんだ。これってスゴいじゃないか!」

そしてそのビミョーなたるみ具合に、何か心の中でざわざわっとするような「危うさ」とか「哀れさ」みたいなものを見たりしていたのだが、他の誰もそんなことには頓着せず、ただひたすら糸の先端で風に揺れるたこしか見ていない。私は、それが不思議でたまらなく思えてしまうような子だった。

この「たこの歌」って、どうしてこの「もののあわれ」の部分にちっとも触れずに、ただ「ありがち」な光景しか歌わないのだろう。

「大人の作ったこどもの歌」の多くはちっともリアルじゃなく、「大人が都合良く考えた子ども像」の押しつけに過ぎないと薄々わかったのもこの頃である。続きは明日。

 

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2021年10月13日

サラリーマンと「社畜」

"品川駅の広告「今日の仕事は、楽しみですか。」に批判殺到 → 1日で取り下げ、掲載元が謝罪" というニュースには、「ははぁ、そうですか」という感想しか抱かなかったが、ITmedia ビジネス ONLINE に、それについての解説のような記事が載っている。

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"「今日の仕事は、楽しみですか」になぜイラっとしたのか 「仕事が苦痛」な日本人の病" というタイトルの、窪田順生氏による記事である。「日本人の病」というだけあり、例によって「日本人論」みたいな趣になっている。

その内容はリンク先に飛んで読めばわかるが、煎じ詰めて言うと、日本人は仕事に関して「人は金のためだけに働いているわけではない」という精神的な思い入れがありすぎるのが問題なのだという。それは「カルト宗教のような独自の信仰」とまで化しているのだそうだ。

なるほど、そう言われてみればそんな気もしないでもないが、私は個人的には、会社勤め時代は「給料のため」と割り切っていたから、そんな「カルト宗教」にハマったことは一度もない。金のための仕事で関わる案件が、たまたまおもしろいものであれば、それは「儲けもの」という感覚だった。

不思議なもので、そうした意識でいると、そりゃあ「仕事が楽しくてたまらない」というわけではないが、ことさらなまでに「苦痛」というほどには感じなくて済む。それは独立事業主となった今でも基本的に変わらない。とくに最近は、イヤな仕事は受けないという贅沢の味も覚えたし。

ちなみに品川駅のこのコンコースは、人呼んで「社畜回廊」ということになっているのだそうだ(参照)。ちょっとスゴい言い方だね。

さらに「ちなみに」という言葉で続けることになるが、加藤公一(はむかず)さんという方が、次のように tweet している (参照)。

ふと気になって「社畜」って英訳するとどうなるんだろう、livestock salarymanかな?と思ってググってみたら、Wikipediaの説明によるとsalarymanだけでほぼ社畜の意味だった。

https://en.wikipedia.org/wiki/Salaryman

どれどれと思ってリンク先に飛ぶと、こんな風な書き出しだ。

The term salaryman (サラリーマン, sararīman) refers to any salaried worker. In Japanese popular culture, this is embodied by a white-collar worker who shows overriding loyalty and commitment to the corporation within which he is employed.

【和訳】
サラリーマンという言葉はすべての月給をもらう労働者のことを指す。日本で広く行き渡った文化においては、自分が雇用されている企業に過度の忠誠心と献身を示すホワイトカラー労働者によって顕現されている。

これ、日本人によって多少自虐的に書かれているような気がするが、つい「なるほどね」と納得してしまいそうだ。

 

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