2021年7月28日

ウィルスとマスク着用の、かなり面倒なお話

Gigazine の昨日付に 「新型コロナワクチンを接種したらマスクをしなくても OK なのか?」という記事がある。元記事は "Should fully immunized people wear masks indoors? An infectious disease physician weighs in" という記事だ。

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元記事の見出しは訳すと「きちんと予防接種した人は屋内でマスクを着用すべきか? 感染症専門医が意見を述べる」というもので、この疑問にカリフォルニア大学サンフランシスコ校の薬学教授、Peter Chin-Hong 氏が答えている。

私は 7月 23日付の ”ユニクロ「エアリズムマスク」で夏を乗り切るか“ という記事で、「日本全体のワクチン接種率が高くなって、マスク着用をうるさく言われなくなるのを待つだけだ」「次の夏前にはマスクから解放されたい」 なんて書いているが、実はこれ、よく調べるとかなり面倒な話のようなのだ。

昨年初め頃、アメリカ疾病予防管理センター(CDC)は、「病気の場合はマスクを着用し、病気でない場合は病気の人を看病していない限りマスクを着用する必要はない」としていたし、世界保健機関(WHO)に至っては「ガーゼやコットンなどの布製マスクの使用は推奨されない」なんて言っていた(参照)。

WHO は昨年 3月に出した文書でも「マスクの効果は大したことがない」みたいなことを書いていて(参照)、私としても「WHO って、かなり乱暴なこと言うなあ」と思った記憶がある。しかしその後は米国でも何度も指針が更新され、だんだん着用の方向に向いてきた。

その後はワクチン接種が進むにつれて文言上はちょっと緩み、今年 3月 9日、CDCは「新型コロナウイルスワクチンの接種を受けた人同士ならば、マスクを着用せずに屋内で過ごすことが可能」とするガイドラインを公開。これ、我が家の現状でもある。

しかし新規感染者数が再び増加し始めると、7月 15日にはロサンゼルス郡が、ワクチンの接種状況に関わらずマスクを着用することを求める決定を下すなど、マスク着用を促す動きが再び活発化。まさに「行ったり来たり」で訳がわからない。

今回の Gigazine の記事で Peter Chin-Hong 氏は、「アメリカ国内での COVID-19 による入院者数と死亡者数が管理可能であり、医療崩壊に陥っていない限りは、新型コロナウイルスワクチンの接種者に対してマスクの着用を義務づける必要はないでしょう」と締めくくっている。

ところが一方で、ワクチン接種が済んだ人でもマスク着用は続けるべきだとの主張もある。ワクチンを接種しても自身が感染・発症しにくくなるだけで、ウィルスを媒介する可能性は残っているというのがその理由で、日本の厚労省はこの立場のようだ(参照)。

実証的な見地からの話はなかなかよくわからないが、見えてきたことはメンタリティとして、「日本人はマスクに抵抗がないが、西欧人は着用したがらない」ということだ。日本は一貫して「マスクしましょう」で進んできているが、米国は何かプラス要因さえあれば「しなくていい」と言いたがる。

これだけは傾向として確実に言えそうなので、マスクに関する情報は、このバイアスを意識して聞く必要があると思う。

 

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2021年7月27日

「君が代斉唱」という表現を巡る冒険

東京オリンピックが始まっているが、私は「どうぞご勝手に」と言っていることもあって、ほとんど関知していない。ただ、無人島で暮らしてるわけじゃないので、何らかの形で情報は入ってきて、付き合うともなく付き合わされている。

開会式の「君が代斉唱」が MISIA だったというのは、翌日になって初めて知った。それは毎日新聞の「毎日ことば」というサイトで "国歌を「斉唱」か「独唱」か" という記事を読んだからである。なるほど、しっかり言葉にこだわれば、あれは「独唱」であって「斉唱」じゃないよね。

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というわけで毎日新聞的には、「歌手のM I S I Aさんが国歌を斉唱した」の「斉唱した」の部分を、「歌った」と校正している。おそらく「独唱」と表現するのはことさら過ぎると判断したのだろう。

念のため改めて説明すると、こんな感じになる。

合唱 複数のパートに分かれて歌うこと。ハーモニーなどの効果が発生する(コーラス)
重唱 各パートが 1人ずつの場合は、重唱と言う
パートが 2つの場合は二重唱(デュエット)
3つの場合は三重唱(トリオ)
4つの場合は四重唱(クァルテット)
斉唱 2人以上で同一のメロディを歌うこと(ユニゾン)
独唱 1人で歌うこと(ソロ)

で、『君が代』は原則的に全員が同じメロディを歌うので、「合唱」にはなりようがない。2人以上の複数で歌ったら「斉唱」、1人だと「独唱」という、2パターンしかない。

10年ぐらい前だと「君が代合唱」なんていう表記がよく見かけられ、当ブログでも 2010年 8月 7日付の "「君が代合唱」って?" という記事で批判的に触れた。ただ、さすがに最近はこの誤表記はかなり減っている。

ところが今回の MISIA のパフォーマンス(ソロ)は、至る所で「君が代斉唱」と表記されてしまっていて、例えば こちらのページでも、見出しに「MISIA の国歌斉唱は賛否両論」とある。

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これ、いろいろな行事で、参加者全員で歌う『君が代斉唱』という言い方が定番になっているので、独唱の場合でもつい舌や筆が滑ってしまうのだろう。そのあたり私としては理解できなくもないし、大した実害もないので、ことさらに目くじら立てようとは思わない。

というのは、今回の場合でも、MISIA のソロに合わせて参加者が自然に小さく口ずさんだりしたら、それは結果的に「斉唱」みたいなことになるからでもある。別に「黙って聞け」と言われてるわけでもないだろうしね。もっとも、NHK の動画を見ても、そのあたりビミョーでよく聞こえないが。

ちなみに 2年前のサッカー試合での平原綾香のパフォーマンスは、 ”平原綾香 国歌独唱” というタイトルで YouTube に登録されているが、再生してみると、彼女がリードを取る形になって開会式参加者が自然に歌い始めている。で、図らずも結果的に「斉唱」になったわけだ。

ただ、この時の平原綾香の歌は通常より 4度も下で歌われているので、一緒に「斉唱」するにも「低すぎ感ありあり」で、さぞかし歌いにくかっただろうと思う。今回の MISIA のパフォーマンスも、ちょっとビミョーではあるが、通常より半音低い(最初の音が C#)。

最近の女性はアルトの人が多いようで、通常のキー(D で始まる)だと高すぎてしまうのかなあ。絶対音感がある人には、ちょっとむずがゆいかもしれない。

 

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2021年7月26日

年を取ると年を忘れる?

7月 14日付の「女性が男性より長生きするのは」という記事でも触れたが、65歳を過ぎてからというもの、自分の年齢を明確に意識しないで生きてきてしまっている。実は今日が誕生日で、指折り数えれば 69歳になってしまったのだが、「それって、どこのどなたのお話?」みたいな感覚でしかないのだ。

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これ、ひとつには「数字が極端に苦手」というためでもあると思う。このことに関しては、"「数字数式認識障害」とでも言いたくなるほど、数字に弱いのだよ" (2011年 7月 13日付)、"苦手なのは「数学」じゃなく、「数字」なのだった" (2018年 5月 17日付)という 2本の記事に書いている。

とにかく、3つ以上の数は「たくさん」と言うほかないという原始人ほどじゃないが、どうやら 60代半ば辺りから、一桁めの数はとりとめがなさすぎて、どうでもよくなってしまったようなのだ。何ともはや、テキトーなお話である。

これ、来年に「70歳」という区切りを迎えればリセットされて、もう一度明確化されるだろうとは思っている。ただし、もしかしたら自分が 70歳以上という事実が途方もなさ過ぎて(要するに内心で認めたくなくて)、逆にますます混迷の度が深まるかもしれず、油断がならない。

お陰様で見かけだけは結構若作りで、髪の毛も黒いままなので、14日の記事で書いたように「50歳代の連中に平気でタメ口をきかれる」とか「本当の年がバレた途端にやたら恐縮されたりする」なんてことになっている。もっとも本人が年を忘れてるのだから、周囲が相応に見てくれないのも当たり前か。

ただ近頃、時々疲れてストレスが溜まった時など、こめかみのあたりに白髪が 2〜3本現れることがあり、「おお、これで年相応に見てもらえて、面倒が減る!」と思ったりする。ところがしばらく経つとまた黒くなって振り出しに戻るので、なかなか先に進めない。

白髪のメカニズムって、本当にどうなってるんだろう。

とまあ、こんなようなどうでもいいことを考えながら、今年もなんとか夏の暑さを乗り切ろうと思っているので、今後ともどうぞ

Yoroshiku4

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2021年7月25日

庄内弁から見えてくる、日本的発想の「自他」

テレビをほとんど見ない私は、2年ちょっと前の 2019年 6月 19日に放送された「秘密のケンミン SHOW」という番組で、庄内弁が取り上げられていた(参照)なんてことを今頃になって知った。というわけで、ずいぶん寝ぼけた話だが、ここで(おもむろに)語らせていただこうと思う。

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話題となったのは、「わぁだば ただばし いしぇこぐはげ でって まんず はかはかでゅー」という庄内弁らしい。当然ながら私には初見でスラスラ入ってきて、「んだが〜、ほいだば よいでねのぅ〜」(意味は記事末尾参照)なんて言いたくなったわけだが、わからない人にはほとんど未知の外国語だろう。

現代の日本語(つまり「共通語」)に翻訳するには、こんな感じの表を介するのがいいと思う。

庄内弁の原語 中間段階の説明 共通語
わぁだば 我であれば、我といえば
「わぁ」は「一人称」というより、「自分」の意
お前ってば
ただばし ただ + ばっかし(ばかり)  ただ、いつも
いしぇこぐ いきおい(威勢?)こく 深い考えもなく、あくせく事に当たる
〜はげ 「〜さげ」とも言う
関西弁「〜さかい」の訛り
〜から
でって 「全体」の訛り まったくもって
まんず 「まず」の訛り まず、とにかく
はかはかでゅ〜 「はかはか」(オノマトペ)という はらはらする

というわけでこれは、「お前って、いつもあくせく突っ走るだけだから、まったくもって、はらはらするよ」というような意味になる。庄内弁独特のニュアンスまで完璧に再現するのは無理だけどね。

そしてここで注目すべきなのは、「わぁだば」の「わぁ(我)」という言葉である。これに関して、「テレビドガンチ」というサイトの ”「でって まんず はかはかでゅ」という日本人にわからない日本語” のページには、次のようにある。

まずさいしょの「わ」は二人称、「あなた」の意味だそうだ。筆者の妻は津軽出身で、この話をしたら「ええー?」と驚いた。津軽弁では「わ」は一人称、「わたし」の意味で正反対。日本人の直感としても「わ」はすぐ「わたし」につながるので、どちらかで言えば一人称と思いそうだ。だが庄内弁では「わ」は二人称。ほら、日本語離れしている。

端的に言わせてもらうが、これは日本語の原点に関する理解が足りないことによる「完全な誤解」だ。なまじ庄内弁と近い津軽弁話者だけに「わ」の使い方の違いに注目したのだろうが、この場合の「わ」は、たまたま二人称的に受け取るのが自然というに過ぎず、常に二人称になるというわけではない。

上の表でも触れたように「わ = 我」は、西欧語的発想の「一人称」というより、強いて言えばニュートラルな「自分」ということである。文脈によって一人称的になったり二人称的になったりする。これは推測だが、津軽弁だって実はそうなんじゃないかなあ。

例えば「我が身を振り返りなさい」は当然ながら「(あなたは)自分のことを反省しなさい」ということである。「(後ろにいる)私のことを振り返って見なさい」なんて受け取ったら、トンチンカンもいいところだ。

庄内弁でも「てげですっが?」(手伝いしようか)と声をかけられて、「わぁでさいる」(我でされる = 自分でできる)と応えたら、一人称的になる。日本語を西欧的発想で決めつけてはいけないってことだ。

近世以前の日本の中心地である関西の河内弁でも、「やぃ ワレ!」は「おい、お前!」 である(参照)。さらに「自分、どないすんねん?」(お前はどうするの?)なんて言い方もあるしね。

上述のコメント筆者の、「わ」は一人称と思い込んでいる妻は、河内弁で腰を抜かさなければならない。仮に「わ」と「ワレ」は別なんて思うようでは、日本語感覚がなさ過ぎる。

つまり「我」という日本語は、元々一人称とか二人称とかいう概念の枠外にある言葉なのだ。別の言い方をすれば、日本的発想の原点では、「自他の区別」が重要じゃないのである。隣が田植えを始めたら自分も始めればいいし、均質性の濃い社会だから、ことさら区別してもしょうがない。

下記の例をみるまでもなく、現代日本語でも「私は」という主語が省かれるなんてのはごくフツーだ。要するに話の流れの中でわかればいいのであって、初めから自他の相違を明確に意識する西欧的発想との根本的違いは、ここにあると見ていい。

フツーの日本語: 今朝は 6時に起きた。
フツーの英語:  I woke up at six this morning.

そんなわけで私の場合、共通語と庄内弁のかなりディープな「バイリンガル」である上に、英語もそこそここなせる(bi-and-half-lingual?)というのは、同じことでも多様な視点から考察できるという点で、とても有用なことだと思っている。

最後にちょっと触れておくが、最近の若い庄内人はこうしたディープな庄内弁を理解できなくなってしまっているようで、とても残念だ。庄内弁に限らず方言というのは、単に「田舎の言葉」というだけじゃなく、意識の深いところでの比較文化的考察力を養うのにとても役立つのにね。

【種明かし:「んだが〜、ほいだば よいでねのぅ〜」の意味】

んだが〜: そうか〜
ほいだば: そうならば
よいでねのぅ: 容易でないのぅ

通しで「そうか、そりゃ 大変だねぇ」という感じの、ごくフツーの相槌。これに「もっけだのぅ」が付いたりもする。。

 

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2021年7月24日

「ジョン万次郎英語」というもの

昔、知り合いに「英語で『今、何時ですか?』と聞きたい時は、『掘った芋いじるな』と言えば通じるんだってね!」と言われ、即座に「通じないよ。そんなもん!」と返事したことがある。

ところがこの類いの話は、世間では「ジョン万次郎英語」と称され、意外にもマジで語り継がれているらしい。太平洋で漂流して米国に渡り、幕末から明治にかけて日本と米国の橋渡し的役割を果たしたといわれる、あのジョン万次郎の英語という意味だ。

米国に渡ってからの彼は、耳から聞こえるままの英語をそのままカタカナにして覚えていったと伝えられる。「英語の超裏技勉強法」というサイトの「ジョン万次郎の発音法」によれば、こんな感じだ。

「America - メリカ」「Japan - チャパン」
「cat - キャア」「cold - コオル」
「girl − ゲエル」「lip − レップ」
「man − メアン」「net − ネ」
「night − ナイ」「railroad − レーロー」
「river − レバ」「wind - ウィン」

なるほど、確かに「ど」が付くほどのカタカナ英語よりは実際の発音に近いだろう。

とくに「Japan - チャパン」はある意味秀逸で、最初の ”Ja" にはアクセントがないから、「ジャ」よりビミョーに軽い「チャ」と思う方が面倒がないよね。ただ、ここから入って妙にとらわれちゃうと、文字にした時につい ”Chapan” なんて書いてしまい、中国との間に余計な軋轢を生じそうだが。

単語の連なりとして見れば、"Let it be" はフツー 「レット・イット・ビー」じゃなく「レリビー」となる。そして問題の「What time is it now? - 掘った芋いじるな」は、その延長線上の一例とされているらしい。

しかし断言させてもらうけれど、フツーの日本語流の平板口調で「掘った芋いじるな」と言っても、相手は「???」になるだけである。ネタバレした後なら、「強いてそう聞こうとすれば、聞こえないこともないかもしれないかも・・・」ぐらいにはなるだろうが。

上述の「net − ネ」を例に取れば、ただ平板に「ネ」と言っても "net" のことだなんて思ってもらえないのと同じだ。これ、「ネッ」(強調するなら「ネェッ」)ってな感じで、最後に舌を上歯茎の裏に当てた感じにすれば、確実に "net" になる。

同様に「cold - コオル」も、この「まんま」ではまず無理だ。「コゥ」と発音して、舌を上歯茎の裏に当ててすぐに離せば、立派な ”cold" になるが。

とはいえ、これは「英語耳」で対応すれば実に単純な話なのだが、「カタカナ耳」しか持っていない人には雲をつかむようなことであるらしいのだね。

このあたりのことは、冒頭の YouTube 動画「英語耳をつくる最終兵器」で、とても上手にわかりやすく説明されている。要するに「ジョン万次郎英語」というのは、「英語の音がすごく苦手」という人のために限っての「最終兵器」としてならオススメということだ。

つまり、音感があって「ちゃんと耳コピーのできる人」は、そんなものに頼らない方がいいということである。そりゃそうだろう。"Railroad" をちゃんと ”railroad" と聞き、自分の口でも ”railroad" と発音することこそが正攻法であり、初めから「レーロー」なんて廻り道を辿る必要はない。

それにそもそも、”railroad" をどうしてもカタカナで表記したいなら「レーロー」じゃなく「ゥレイゥロゥ」の方がいいと思うがなあ。いや、音感が不足してると、これだとかえって訳がわからなくなってしまうから、せいぜい「レイロゥ」程度かなあ。

最近 Quora に、"日本語で「あぶない!」と叫んだら、英語では「Have an eye!」と伝わって、意味が通じるという話を聞いたことがあるのですが、本当ですか?" という質問が挙がっていた(参照)。これに対する答えは下記のようなことで、これもかなり納得である。

と言う事は、それを叫ぶ状況だという事ですね。それだったら「叫ばれた人は何かに気が付く」でしょう。それが「気をつけて!」と言う意味合いと取るかどうかは疑問です。

要するに「あぶない!」と叫べば、叫ばれた人はハッとして立ち止まるか何かして、とりあえずその場の目的は果たされるだろうが、それは "Have an eye!" とは無関係のストーリーということだ。実際問題として、そんな風に聞こえるというのはほとんど無理だろう。

そもそもこうした場合は、Quora の回答者が指摘されているように "Watch out!" (万次郎英語的には「ウォッチ・アウト!」じゃなく、「ヮチャウ!」ね。念のため)と叫ぶのが定番で、"Have an eye!" だと「見る目を持ちなさい」みたいなことになるだろう。

というわけで、「ジョン万次郎英語」というのは「最終兵器」と言えば聞こえがいいが、そのココロは「溺れかかって苦し紛れにつかむ藁」みたいなもので、初めから積極的に頼るようなものじゃないと思うのである。

 

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2021年7月23日

ユニクロ「エアリズムマスク」で夏を乗り切るか

暑い! もういい加減に、マスクをするのは勘弁して欲しい。勝手な言い草に聞こえるかも知れないが、私は一昨日でコロナ・ワクチンを 2回接種しちゃったことだし。

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とはいえ、今どきマスクなしで人前に出たらまともに人間扱いしてもらえないから、頭がボウッとしそうになりながら、仕方なく律儀に着用している。

買い物なんかだと、まだいい。大抵のショップは店内をかなり涼しく空調していて、そんなに苦しくない。問題は企業や団体を訪問する時だ。エコ意識の高い事業所ほどエアコン設定温度は高めにしているから、会議室などではソーシャル・ディスタンスを確保しながらも、やはりしんどい。

30分以上いると頭がボウッとしてしまいそうだが、こちらとしても普段から「エコ、エコ」と言っているし、付き合いのある事業所の多くも「環境対策」を打ち出しているので、「もうちょっとエアコンを強めにしましょ!」なんて言い出すわけにいかない。これがなかなか辛いところだ。

勤め人たちはオフィスでいつもマスクしているので、案外平気な顔をしているが、フリーの立場の私は家にいる時にマスクなんてしないので、「マスク慣れ」の度合いに差がある。こんな状態が 9月後半になるまで、あと 2ヶ月も続くのだと考えると、何とか対策しなければと思う。

というわけで、ユニクロの「エアリズムマスク」というのを買ってみた。3枚セットで 990円だから、高からず安からずという絶妙な価格設定である。

購入前にユニクロのサイトに行って購入者のコメントを見ると賛否両論ではあったのだが、ものは試しと着用してみたところ、個人的には「うむ、これなら、ほかのマスクよりまだマシ」と思えた。決して「接触冷感」というほどではないが、少なくとも「ムカムカ感」は軽減される。

エアリズムでしのぎながら、あとは日本全体のワクチン接種率が高くなって、マスク着用をうるさく言われなくなるのを待つだけだ。それまでにどのくらいかかるだろう。

来年の年明け早々なんて期待していたら、その時になって失望してしまいそうだから、せいぜい次の夏前にはマスクから解放されたいものである。なにしろ昨年以後に知り合った人たちに関してはマスク着用でしか会ったことがなく、素顔をほとんど知らないのだから、早く正体を知りたいではないか。

女性の中には「マスクしてると、目元さえバッチリ化粧すればいいから楽よ」なんて言ってる人もいるので、彼女らがマスクを外しても美人なのかどうか、確かめてみたいなんていうちょっと下世話な興味もあるしね。「マスクを取ったら誰だかわからなかった」なんてことがないことを望みたい。

最後に蛇足かもしれないが、2度目のワクチン接種直後の体調を報告しておく。人によっては熱が出たり体がダルくなったりして寝込んでしまうことも珍しくないらしいが、私の場合は腕の痛みが少々残っただけで、それ以外の症状はなく、このブログも快調に更新できている。

ありがたいことである。

 

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2021年7月22日

『我は海の子』という歌

ラジオ体操の第一と第二の間で、軽く首を回したりする際に、バックグラウンドでピアノが既成の曲のメロディを奏でるが、昨日はそれが『我は海の子』だった。NHK、文句の出にくいクラシックな季節感を、さりげなく採り入れたがる。

今の子供たちはこんな歌は知らないんじゃないかと思っていたが、Wikipedia によれば 2007年に「日本の歌百選」に選出されており(参照)、今でも小学校 6年生の音楽の教科書に載っているようだ(参照)。

ただ、私の頃(昭和 30年代)でも歌詞の意味をまともにわかって歌っている子なんてほとんどいなかった。クラスの 2割ぐらいは、1番の最後の部分、「我がなつかしき 住家なれ」を、「わ〜がなつか〜しき すみな〜かれ〜」なんて歌っていたし、あろうことか、教師もそれには無頓着だった。

何しろ初出は 1910年(明治43年)発行の文部省『尋常小学読本唱歌』というから、110年以上前の歌である。歌詞が基本的に古色蒼然とした文語というのも頷ける。

そもそも出だしの「我は海の子 白波の / さわぐいそべの松原に」というのでさえ、子ども時代にはきちんとわかっていなかった。私はちょっとおませだったから、「白波の」なんて聞くと歌舞伎の『白浪五人男』を連想して、「問われて名乗るもおこがましいが〜」なんて言いたくなっていたものである。

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白浪五人男 稲瀬川勢揃いの場

小学生の頃は「自分は海、なかんずく白波の申し子で、礒辺の松原で賑やかに騒ぎまくりながら育った」みたいな意味かと思っていた。ところが中学生ぐらいになってようやく気付いたのは、この部分、どうやら意味の区切りと曲の区切りが不自然なほど一致していないようだということである。

つまり意味としては、「我は海の子 / 白波のさわぐいそべの松原に・・・」と区切るべきで、その後の部分とつなげて、「自分は海の子であり、白波のさわぐ礒辺の松原に煙をたなびかせる粗末な家が、懐かしい住処なのだ」というようなことだとわかったのは、かなり成長してからである。

さらに、楽譜に添えられる歌詞は基本的に平仮名なので、2番目の「千里寄せくる海の氣を / 吸ひてわらべとなりにけり」は、20歳を過ぎるまで「海の木を / 梳いて〜」だと思っていた。海岸に打ち上げられる流木を燃料にするために、髪を梳くように選定していたのかなんて、無理矢理に想像していたよ。

この記事を書くに当たって、上述の Wikipedia の歌詞の項目で確認してみたところ、『我は海の子』は正式にはなんと 7番まであるとわかった。つらつら読んでみると、5番目あたりから「鐵より堅きかひなあり」「はだは赤銅さながらに」など、唐突にマッチョなイメージが強調され始める。

とくに 6番の「浪にたゞよふ氷山も/來らば來れ恐れんや / 海まき上ぐるたつまきも / 起らば起れ驚かじ」なんて、大袈裟な悪趣味というほかない。昨今に至っては温暖化で南極の氷山も減少したし、竜巻云々は逆にリアル過ぎて、メタファーとして歌うのさえ気恥ずかしいほどのナンセンスと化してしまった。

そして 7番の「いで軍艦に乘組みて / 我は護らん海の國」に至って、「ほぅら、結局これを言いたかったわけね」となる。海辺で生まれた無邪気で素朴な子も、やがて立派な軍人に育つのだという事大主義的モチーフで、これがあったからこそ明治の教科書に載ったのだろう。

この 7番は、戦後に GHQ の検閲でカットされ、最近はもっぱら 3番までしか歌われないというのも、無難な路線なのだろう。私としても、この歌は先に進むほど大仰なステロタイプの羅列でしかなくなり、芸術的価値は下がる一方だと思う。

ギリギリの 3番目にしても「不断の花のかをりあり」の「不断の花」ってどんなものだか想像もできず、私はずっと「普段の花」と思っていたぐらいだから、せいぜいこのあたりで終わらないと違和感が強まるばかりだ。正直なところ、どうしてこれが「日本の歌百選」に入っているのか理解に苦しむ。

とにかく難解でもったいぶった歌詞だから、ノー天気な替え歌もいくつかあった。最も知られているのは「我はノミの子シラミの子 / 騒ぐ背中や脇腹に」というやつだろう。元歌と韻が共通していて、秀逸のパロディである。

ああ、そういえば今日は「海の日」って祝日だったのか。

【当日 追記】

Wikipedia によれば、この歌は作詞者・作曲者ともに不詳だが、作詞者として 宮原晃一郎(1882年 - 1945年)と、芳賀矢一(1867年 - 1927年)の 2人の名が挙がっており、「最近では宮原の原作を芳賀が改作したとする説が最も信頼されている」とある。

そう考えると、冒頭に児童文学者である宮原の原作の素朴な趣が残っているが、先に進むほど、国文学者で国定教科書の編纂にも関わったという芳賀の権威主義的キャラがどんどん押し出されて、「いい加減にしろや」と言いたくなるのも、もっともなことと納得される。

 

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2021年7月21日

茨城県で発揮された、恥ずかしいまでの事大主義

最近、東京オリンピックをさんざんクサす記事を連発しているが、クサしついでに、我が地元、茨城県でのお粗末過ぎるニュースについても書いてしまおう。東京 2020大会組織委員会と鹿嶋市の教育関係者が、語るも恥ずかしいほどの事大主義ぶりを発揮していたというお話だ。

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HUFFPOST の ”「コカ・コーラ社の飲料持参を」学校が五輪観戦でよびかけ。組織委は「回答を差し控える」” という記事によれば、手短にはこんなようなことだ。

鹿嶋市教委によると、市内のある学校で保護者向けに配布された文書には、大会会場に持参する飲料について、ペットボトルを持ち込む際にはできるだけコカ・コーラ社の製品を持参すること、それ以外の企業の製品は全てラベルを剥がして持ち込むことなどを呼びかける内容が記載されていた。

ちなみにコカ・コーラ社は東京 2020大会のスポンサーで、「ワールドワイドオリンピックパートナー」に位置付けられているという。

なんでまたこんな馬鹿馬鹿しい話になったのか、順を追って話を整理すると、こんなようなことになる。

  1. 7月 9日に開かれた現地説明会(大会組織委員会、市教委、会場で観戦する学校関係者が出席)で、組織委の担当者から「ペットボトルを持参する場合、コカ・コーラ社以外の企業の製品はラベルを剥がして持ち込むよう」と、口頭で説明された。

  2. それを持ち帰った市教委は、飲料メーカーの平等性、実施の際のわかりやすさという点に鑑み、「全てのペットボトルのラベルを一律で剥がすよう促す」と決定して、その旨をマニュアルに記載し、さらに 12日に開かれた参加校の管理職が集まった会議でも、そのように説明した。

  3. ところが、観戦予定の 18校のうち 1校がこの決定プロセスに同期できず、9日時点での呼びかけのまま、コカ・コーラ社の製品を優先的に持ち込むことを求めているように読み取れる文書を配布してしまった。

要するに、組織委は常識を逸脱してまでコカ・コーラ社に配慮しすぎ、それを受けた市教委は単なる見かけ上の「平等性」と「わかりやすさ」を重視しすぎて、さらに常識から外れまくったわけだ。

そしてさらに、1校だけが素っ頓狂だったために、「何じゃこりゃ!?」と、世間に広まった。これがなかったら、粛々と実施されて妙な光景が広がっていただろうが、いずれにしても最初から最後まで、どうでもいいほどお粗末なプロセスである。

市教委は「学校からはコカ・コーラの製品を推奨する意図は全くなかったと聞いているが、誤解を招く表現だった」とコメントしているらしい。推奨する意図は全くなかったものの、「組織委がうっとうしいことを言ってるけど、ここは律儀に従っておかないと、後がコワい」なんて考えたのだろう。

そして肝心の組織委は「個別のやり取りについては回答を差し控えさせていただきます」として、取材には一切答えなかったという。どういう経緯で「コカ・コーラ社以外の飲料はラベルを剥がせ」なんてくだらないことを言ってしまったのか、おそらく、組織内でも明確に把握できていないのだろう。

元々は「一応、軽く触れときましたよ」程度の話だったのが、伝わるうちにどんどん膨らんで、最後には馬鹿馬鹿しいことになるというのが、事大主義の特徴の一つである。鹿嶋市教委にしても、「はいはい、一応承りましたよ」程度で聞き流しておけばよかったのに。

このニュースでわかったのは、東京 2020 の組織委は「すべき配慮」の優先順位をつけられないほど無能ということだ。末端がペットボトルのラベルみたいな些細なことに妙なこだわりを見せる一方で、上層部は開会式音楽担当者の身体検査という当然のことをする器量を、まったく持ち合わせなかったのだから。

余談だが、このまま行けば生徒たちは一律にラベルの剥がされたペットボトルを持ち込むことになるのだろうが、スポンサーであるコカ・コーラ社はそれを見て、いろいろな意味で「はぁ?」と思うしかないよね。

【7月 26日 追記】

この件については、7月 21日付の「鹿嶋市教育委員会教育長 川村 等」名の通達で、「今般組織委員会の方針が転換され、メーカーを問わずラベルを剥がさず持ち込むことが可能となりました」と変更になったようだ(参照)。まさに馬鹿馬鹿しい騒動だったわけである。

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2021年7月20日

今回のオリンピックを象徴するようなドタバタ

Huffpost が「小山田圭吾さん、開会式楽曲担当の辞任を申し出「様々な方への配慮に欠けていたと痛感」とのニュースを伝えている。開幕直前になっての辞任の申し出なんて「配慮に欠けた」ストーリーの極致みたいなものだが、この男にしてみれば他に選択肢がなかったのだろうね。

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昨日の TBS ラジオ「アフター 6 ジャンクション」で、パーソナリティの 宇多丸 が、「この件についてはインターネット上で過去に何度も炎上していて、既に知られた話と思っていた」と語っていた。それを当人も周囲もずっとスルーし続けてきたことが問題で、自分も反省するとの発言だった。

宇多丸氏としては小山田某とは直接的に顔を合わせたことはないそうで、それならばこの問題をことさらには取り上げにくかったという事情も理解できる。ただ、当人や近い関係者が完全に何も発言してこなかったことは、やはり問題だろう。

これも TBS ラジオだが、「週間日本の空気」の 小田嶋隆氏が「(インターネットの)検索窓に(小山田なにがしの)名前を入れてポンとリターンキーを押しさえすればヤバい話が山ほど出てくるのは誰でも知ってる」と言っていた。この男の「悪さ」は、業界では結構知られたことのようなのである。

確かに、そんなような話は実際にボロボロ検索される。しかも障碍者や重病人などの弱者をいじめ、嘲笑うような話がほとんどで、「こいつ、ほんっとにサイテーだな!」と思ってしまうのだよ。

というわけで小田嶋氏は、こんなような話になる前にきちんと身体検査されなかったのは、JOC の関係者が「よっぽどメディアに暗いのか、とんでもないおじいさんなのか、それとも面倒くさいのか、見たくないのか」と呆れていた。

まさにその通りである。彼の名前を知らなかった私がこのニュースを知って最初にしたのは、「小山田」でググってみることだったからね。ちなみに、それで小沢健二とユニットを組んでいたことも初めて知った。

「こんなことなら、オリンピックの音楽も小沢健二に頼めばよかったのにね」と妻に言うと、「小沢健二はそんなの引き受けないでしょ」と返された。なるほど、そうかもしれないね。

 

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2021年7月19日

開幕前から失敗と断定されているオリンピック

昨日付の「さんざんなオリンピック」の続編みたいな話になるが、共同通信が "米紙、東京五輪「完全な失敗」 熱気から敵意に" と伝えている。こうした見出しはフツーには実施後の総括記事につくものだが、開幕前からこんな伝えられ方をすること自体が、文字通り「完全な失敗」を物語っている。

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共同通信の伝え方は、以下のようなもの

米紙ワシントン・ポスト電子版は17日、開幕を23日に控えた東京五輪について、これまでのところ「完全な失敗に見える」と指摘し、1964年の東京五輪のように日本に誇りをもたらすことは期待できないと伝えた。新型コロナウイルス流行の影響で国民に懐疑論が広がり、当初の五輪への熱気は敵意にすら変わっていると報じた。

ワシントンポストの元記事はこんな感じだ(参照)。

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見出しは「問題だらけの続編: 1964年のクラシックなオリンピックを再現しようという東京の企ては、失望に終わった」というものだ。前回の東京オリンピックの、対照的なまでに誇りに満ちた聖火台点灯の瞬間の写真が添えられており、記事は以下のように始まる。

東京発: 1964年の東京オリンピックの開催は、第二次世界大戦敗北の灰の中からの復興を示し、戦後の国際秩序への再参加を象徴するものとなった。

同紙はこの催しがその後の目覚ましい経済発展の端緒を切り開いたと解説。そして今回のオリンピックが、2011年の地震、津波、原発事故からの復活を象徴するものになるという期待があったとしている。

さらに、日本の保守派にとっては 2008年の北京オリンピックに対抗しつつ、日本の東アジアにおける失われたステイタスを取り戻し、経済的不振からの脱却にもつながるという期待があったと述べている。へえ、そんな期待まであったなんて、当の日本人の多くもほとんど意識していなかった。

今回のオリンピックへの期待が、過剰なまでの形で裏切り尽くされているというのは、保守派の思い込みが如何に勝手で過剰なものであったかを示しているだろう。

要するに、今回のオリンピックは東京で開くべきじゃなかったということだ。コロナ禍を別としても。

 

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