2019/12/13

「あおり運転」は、元(通せんぼ走行)から絶たなきゃダメ

今月 1日から改正道交法が施行されて、「あおり運転」すると一発免停の可能性もあるようになった。そのせいなのだろうが、私の印象としても高速道路上の運転が全般的に少しおとなしくなったような気がしている。

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しかし個人的には、「あおり運転」の罰則を厳しくするだけでは不完全だと思っている。今年 9月 15日の記事で書いたように、「あおり運転」と「通せんぼ走行」はワンセットというケースが多いからだ。

前がガラガラに空いているのに、追い越し車線をいつまでも隣の走行車線と変わらないスピードで走って、後続のクルマをせき止める行為を、俗に「通せんぼ走行」と言う。常磐高速道をしょっちゅう利用する私の印象では、この「通せんぼ走行」をするのは、圧倒的にオバサンと老人が多い。

後ろに迫ったクルマは「オラオラ、さっさとどけよ!」とばかりにあおり気味になってしまうのだが、いかんせん、「通せんぼ走行」するタイプのドライバーはバックミラーなんて生まれてこの方、一度も見たことがないような人ばかりだから、いくらあおられても気付かない。

それで、後続のクルマのうち、血気盛んなドライバーがわずかな隙間を付いて左側から追い抜き、さらにはいきなり問題のクルマの直前に出るなどの嫌がらせをしてしまったりする。これで典型的な「あおり運転」の成立で、下手すると一発免停になったりするわけだ。

こんな場合、「あおり運転」の当事者は「悪いのは、前で追い越し車線を塞いでいたヤツだ」と思っていて、ややもすると「義憤に燃え」ちゃってたりするから、「罪の意識」なんてほとんどない。「自分が正しい」と思っているヤツほど極端な行為に出がちだから、さらにアブナい。

ここで煽り運転をかばってるなんて誤解は決してして欲しくないのだが、私としては、こうしたケースでは「あおり運転」を誘発した「通せんぼ走行」のドライバーにも、高い違反点数を課すべきだと思う。

道交法でもクルマは左側の走行車線を走るように規定されていて(20条 1項)、先日ラジオに登場した警察関係者によると、「目安としては、追い越しが終わってもそのまま 20秒以上追い越し車線を走り続けたら違反と見なされる」そうだ。だったら、ちゃんと取り締まってもらいたいものだ。その方が確実に効果的だ。

大昔のトイレ用消臭剤の CM に、「くさいニオイは、元から絶たなきゃダメ!」ってのがあって、これはいろいろな場面で使える便利なフレーズだった。「あおり運転」を減らすには、その「元」となる「通せんぼ走行」を絶たなければならないのだ。

上に挙げた写真は、Twitter に投稿されていた べるべるさん という方の写真である(参照)。「中国の高速道路は車線ごとに最低速度が設定されているため煽り運転が少ないとか。ここだけは完全に日本より優れている」とある。

ちなみに私個人としては、「あおり運転」された経験は一度もない。バックミラーを頻繁に確認しているので、後ろから猛スピードで迫ってくるクルマに気付いたら、すぐに左に寄ってやり過ごすことにしているからだ。

高速道ではなく、一車線しかない一般道でも、路側帯に入るか、左端に寄ってやり過ごす。君子危うきに近寄らず。「そんなにあおりたいなら、先に行って私以外のクルマをあおってくれ」ってことだ。

現実はまさにその通りになるもので、私を追い越したそのクルマはちょっと先まで行くと、お約束のようにのんびりした「通せんぼ走行」にせき止められていることが多い。いくらあおっても全然気付いてもらえず、悲惨なことになっている。

要するに、道路ではいくらあおってもリスクに見合うほどの効果はないってことだ。早く目的地に着きたいなら、スピードを上げるより早出する方が確実なのである。

 

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2019/12/12

ステーキを毎日食いたいという環境大臣が、COP 25 で演説

小泉進次郎環境省の COP 25 での演説は、かなり歯切れの悪いものになったようだ(参照)。「毎日でもステーキを食べたい」と発言していた彼のことだからそんなものかと思い、具体的な発言を確認しようとググってみたら、こんな動画が見つかった。TBS ニュースの直撃取材の模様である。

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記者が「毎日ステーキ」発言について尋ねると、彼はまず、

「この質問って今までなかったと思いません?」
「それだけでも日本の中で、環境問題っていうのを考えるよいきっかけになるなと思います」

と、ずいぶん切れ味の悪いトボけ方で他人事のようなことを言う。こんなような、ちょっとシビアなツッコミには慣れていないようなのだね。まあ、お坊ちゃまだから。

彼自身は初めて受けた質問だったかも知れないが、肉食が地球温暖化の大きな要因であることは、環境に関わる者にとっては既に「イロハのイ」ほどの常識だ(参照)。「環境問題を考えるよいきっかけ」なんて段階を、世の中はとっくに通り過ぎている。

ましてや彼はコロンビア大学で政治学のマスターを取得して、今や環境大臣になっている身なのだから、この程度のことは当然熟知していなければならないのだが、彼の目の泳ぎ方をみると理解が不足しているとしか思われない。だからこそ、環境大臣のくせに「毎日ステーキを食べたい」なんて平気で言い出せたのだろうけど。

で、具体論としてその「毎日ステーキ」発言について問われると、

「毎日でも食べたいということは、毎日でも食べているというわけではないです」

なんて、今どき子供でも恥ずかしくて言わないようなことを言い出す。これ、純粋論理としては、毎日ステーキを食べつつ(さらに今後も)「毎日でもステーキを食べたい」と言っても何ら矛盾は生じないのだから、自らの「論理音痴」をさらけ出してしまっている。そしてその上、

「好きなもの食べたいときありません?」

と、「よくわからない問題では、余計なことは言わん方がいい」とアドバイスしてあげたくなるほどのアホ発言になる。これにはさすがに記者も呆れたのか、結構長い絶句の後に、

「そういうことを聞いているのではなく、大臣としてどう整理しているかを聞いている」

とツッコまれると、言うに事欠いて

「みんなにばれないようにステーキを食べている方が嘘くさくないですか?」

と来た。これが「大臣として整理した上での発言」ということのようなのだ。質問の趣旨を理解できないほど、ただひたすら「ステーキを食いたくてたまらない」ようなのである。全然セクシーじゃない。

ここに至って、この人のオツムの程度が理解できた。「フランクな会話を盛り上げる "カンとセンス" は悪くないみたいだけど、ちゃんとした話になると、要するに『おバカ』なのかもね」ということである。

その彼が、国際会議で環境に関する演説をしたという。もちろん英語で。

3日前まで「カタカナ英語」について 4回連続で論じたばかりだから、敢えて言わせてもらうと、彼の発音は "Thak you" が "Sank you" になりがちだけど、"L" と "R" の区別はちゃんとできているから、それほど恥ずかしいレベルじゃないみたいだよね。

敢えてもう一度言うが、彼は「フランクな会話を盛り上げる ”カンとセンス” は悪くない」ようだから、高度な知識と論理性が要求される話さえ注意深く避けさえすれば、日本国首相になら、なれないこともないだろう。トランプみたいなのが米国大統領になれてしまう世の中なんだし。

とくに彼の前に首相を勤めるにふさわしい人物がほかにいるかとなるとかなり疑問だから、下手するとその時期は案外早いかもしれない。そう思うと、なんだか冷や汗ものだなあ。

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2019/12/11

説明責任を果たさずに、政権に居座り続けられる世の中

この期に及んで、政府は「反社会的勢力の定義は困難」と言い出しているらしい。今回の「桜を見る会」問題で追求されているのは、「反社会的勢力の定義って何ですか?」ということではないのだから、こんな答弁で逃げ切ろうというのでは、オツムの中身を疑う必要があると言わなければならない。

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ちょっと前までは、閣僚たちはスキャンダルが報じられるとすぐに辞任したものだ。それに対して、大新聞などは「辞めるより説明責任を果たすことの方が大事だ」なんて、お約束のように批判していた。

実際には説明責任なんかまともには果たせないから、深く追求される前に辞める方がマシと判断していたのである。つまり、「説明できなければ辞めるしかない」というのが政治の世界の一応の常識だったのだ。

もう 10年以上も前の話でだいぶ風化しかけているのだが、小沢一郎の「陸山会事件」というのがあった。これに関して小沢は結果的には 2012年に「無罪」となったのだが、私はこの判決が出るだいぶ前の 2010年 10月に、"「推定無罪」と「本当に潔白」とのビミョーな差" という記事を書いている。

記事の中身は、"「有罪」が証明されなければ何人も「推定無罪」となる権利があり、小沢も「無罪」となるだろう。しかしこの場合、判決としての「無罪」は必ずしも「本当に潔白」ということを意味しない" というものだ。実際、小沢は形式的には「無罪」となりながら根本的な疑惑を払拭できず、実質的な政治生命を絶たれている。

このことを思い出すにつけ今の安倍政治は、あの疑惑にまみれた小沢時代よりずっとひどくなっていると考えざるを得ない。まともな説明なんか全然できないくせに、なぜか政権に居座り続けることができるているのだから。

つまり 10年前の常識が通用せず、権力者はその座に「居座り放題」の政治風土になりかけているのだ。この「なりかけ状態」が、完了形の「なってしまった状態」に固定化される前に、安倍首相を退陣に追い込まなければ、この先どんなひどい状態になるか知れたものではない。

こうしてみると、政府が「反社会的勢力の定義は困難」と言いたくなるのも道理である。まともに定義したら、自分たち自身がその中に含まれてしまうからね。

 

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2019/12/10

「プレミアムフライデー」が、まだ生きていたとは

そう言えば先月末の 11月 29日にカーラジオで、「今日は今年最後の『プレ金』です」と言っているのを聞いて、「『プレ金』って、何だ?」と思ってしまった。番組では、「来月もあるじゃないですか」、「いや、来月はどうせ年末のお休みに入っちゃうから・・・」なんて言っている。

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ますます「???」になってしまい、家に帰って調べると「プレ金」とは「プレミアムフライデー」の省略形であるという。「ありゃ、プレミアムフライデーって、どこかで聞いたことがあるな」と思ったが、実は「聞いたことがある」どころか 2年前には、このブログで 2度も書いているのだった。

"月イチの午後 3時退社より、毎日定時退社の方が" (2017年 2月 19日付)と、"午後 3時に退社してまで同僚とツルんで飲みたいか" (同 2月 25日付)という 2本の記事である。自分で書いた記事を読んで、今さらのように「月末の金曜日は午後 3時に退社しよう」という、個人消費喚起のキャンペーンだったことを思い出した。

なにしろ最近はすっかりフリーランスの生活に馴染んでしまって、ほとんど曜日を意識しなくなっている。金曜日だからといって、勤め人だった頃のようなウキウキした気分にならないのだ。

そんなわけで、あれから 2年経った今でも「プレミアムフライデー」なんていう話が生きていたとは、ちっとも知らなかったのである。世の中一般としても、もはや「そんな話もあったねえ!」程度の認識なんじゃあるまいか。

そもそも考えてみれば、どうして「月末の金曜日」でなければならないのか、まったくしっくりこない。多くの会社にとって「月末の週末」なんて、普段以上に忙しいだろうに。

こんな設定したのは、当初から「月末は早めの退社なんてムリです」という言い訳を容易にしてさっさと骨抜きにするという、予定調和的なソンタクがあったとしか思われない。何しろ、プレ金導入企業というのは 10%未満だそうだから(参照)。

このプロジェクトの事務局をしているのは、広告代理店の博報堂である。私の偏見かもしれないけど、博報堂ってやることなすことこんなふうに中身の伴わない一過性のものが多い。

大昔、1980年代には、「『ウール』という言葉は古くさいから、『メリノ』と言い換えよう」なんて言い出したことがある(参照)。「メリノ」というのは、衣料用羊毛を供給してくれる羊の種類のことだ(参照)。

この「メリノ・キャンペーン」には立場上、私自身も否応なく直接巻き込まれていたが、内心では「日本人が『ウール』を『メリノ』なんて呼ぶはずがないだろうよ、博報堂さん」と思っていた。「牛乳」と呼ばずに「ホルスタイン」とか「ジャージー」とかに言い換えようったってムリなのと同じことだ。

こんなキャンペーンが屁の役にも立たなかったことは、世の中で「寒くなったから、メリノ・セーター着よう」なんて言い出すのは誰もいないことで、しっかり証明されている。あの時に博報堂に払った大金は、一体何だったんだろう。

最近では「リーママ」とか「キャリジョ」とか「ソロもん」とか「CONPYRA」とかいうプロジェクトをご存じだろうか? ちょっと時間が経ってしまうと、口にするのも気恥ずかしくなる。

博報堂はネーミング・センスからして「オヤジ」だよね。

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2019/12/09

カタカナ英語を巡る冒険 その 4: 発音記号というもの

「カタカナ英語を巡る冒険」というタイトルで書き始めたらなぜかハマってしまって、せいぜい 2回で終わるつもりだったのに 4回目になってしまった。今回は一応の締めくくりとして、「発音記号」というものについて触れておこうと思う。

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「発音記号」という言葉でググってみると、"英語の発音をよくしたいなら「発音記号」を覚えよう” といった類いのページがどっさり検索され、私もそれについては基本的に賛成だ。とくに中学校時代は新しく学ぶ単語の発音はほとんど発音記号で覚えたので、「とても便利でありがたいもの」というイメージがある。

こんなにも便利な発音記号なのだが、中学校の英語教育では驚くほど軽視されているようで、昔から今に至るまで、誰に聞いても「授業でまともに教わった覚えがない」と言う。実際、私の知り合いでもほとんどが発音記号なんてチンプンカンプンのようなのだ。実にもったいない話である。

確かに私も、昨日の記事で触れた「上野先生の英語塾」以外ではまともに教わった記憶がない。中学校の英語教師は「カタカナ発音」よりひどい「ひらがな発音」だったから、発音記号は「タブー扱い」でほとんど触れなかった。下手に触れたりしたら、自分の発音がいかにデタラメかをさらけ出すことになる。

というわけで同級生の多くが、英語の教科書にカタカナで振り仮名を振っていた。私は「カタカナで単語を覚えたりしたら、英語じゃなくなっちゃう」と認識していたので、決してそんなことはしなかったが、多くの場面で「カタカナ」は英語を覚える際の簡便な道具となっていたようなのだ。

で、当然にも、こうした悪循環に陥る。

まともな発音ができる英語教師が少ない

教師は教育現場で発音記号に触れたがらない

生徒が発音記号を覚えない

仕方がないのでカタカナに頼る

発音がカタカナ式で固定される

英語をカタカナで覚えた生徒でも教師になれてしまう

(最初に戻る)

こんな感じで、日本の「カタカナ英語」は「抜きがたいもの」として固定化されてしまったのだろう。古代においてモロコシの漢文をそのまま理解しようとせず、読み下すのに「返り点」なんかを駆使して言葉の順序をひっくり返したりした結果、中国語とは別物になってしまったような現象が、近代において英語でも発生してしまったのだ。

というわけで、日本人の多くが "read" も "lead" もカタカナで「リード」としか認識しないカラダになったので、「日本人は "R" と ”L” が区別できない」というのが国際常識となり、"Apple" が 「アップル」、"McDonald's" が 「マクドナルド」という、似ても似つかない発音に固定された。 

当時の英語の試験で、「次の単語のうち、下線部の発音が他と異なるものはどれか」なんて問題がよく出た。「次の単語のうち」というのは、例えば

"1. urban, 2, arm, 3, earth, 4. early"   なんていうようなものだ。

私は「自分では 4つともまったく同じように『アー』としか発音できない教師が、どうしてこんなのをいけしゃあしゃあと出題できるんだろう? 」と、不思議でしょうがなかった。教師は「自分でできないこと」を、平気で生徒に要求するのである。

あまりにも腑に落ちなかったので、ある時「先生はどうやって区別しているの?」と聞くと、「発音記号を見ればわかる」なんて言うのだった。ということは、発音記号に【ǝ:】【ɑ:】という違いがあると認識しても、その違いが自分自身の発音にまったく反映されていないことに、いささかの気持ち悪さも感じないで済んでいるらしい。

「本音と建前」を使い分ける、ある意味「便利な」日本流文化というのは、英語試験にまでしっかりと浸透している。

ちなみに私はつい最近まで、「発音記号」というのは日本独特のものなのかもしれないと思っていた。というのは、英英辞書や米国の辞書を見ると、見慣れた発音記号とは別のシステムで発音が示されているのである。例えば、こんな感じだ。(写真は "Oxford English Dictionary")

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改めてググってみると、Wikipedia の「発音記号」の項に次のようにある。

既存のアルファベット(通常はラテン・アルファベット)を基本にして、不足する字は文字の変形やダイアクリティカルマークの付加によって補うもの。この方法は現在もっともよく行われており、なかでも国際音声記号 (IPA) が広く用いられている。

(中略)

日本で出版される英語辞典は国際音声記号またはそれを多少変更・簡易化した記号を用いるのが普通だが、アメリカの英語辞典はそれとは大きく異なる発音記号を用いることが多い。

へえ、そうだったのか。英語の発音記号にもいろいろなバージョンがあるのだね。それでもまるっと覚えちゃえば、カタカナ英語にはならずに済むのだが。

 

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2019/12/08

カタカナ英語を巡る冒険 その 3: 中学校の英語教育

「カタカナ英語を巡る冒険」シリーズ 3回目として、自分自身がカタカナ英語にならずに済んだという幸運に感謝しつつ、その経緯をまとめたいと思う。

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今から 15年も前の 2004年 10月 25日に、"「地震」「英会話」「プラモデル」の三題噺" という記事を書いている。一昨日の記事でも書いたように、私は 1964年、小学校 6年生の時に「新潟地震」に遭っている。その地震の救援物資としてもらったのが、なぜかその年の東京オリンピックを当て込んだ英会話教材の「ソノシート」ってやつだった。

どうして「地震の救援物資」が英語教材なんだかさっぱりわからないが、ともあれたまたま巡り会ったソノシート教材のおかげで、私は小学校 6年生で録音されたネイティブの発音を真似て、英語の初歩は身に付けてしまったのだった。そして中学校時代は上野先生という素晴らしい先生の英語塾に通い、さらに磨きをかけることになる。

その頃には、ビートルズやボブ・ディラン、ピーター・ポール&マリーなどの英語の歌を、それぞれの歌真似(訛りまで再現して)で歌えるようになっていた。帰国子女ってわけじゃないが、耳が良かったのか英語の歌はスルリと真似できたのである。

中学校 3年の修学旅行の際には東京タワーで出会ったアメリカのオバチャンと、割とスラスラ会話ができてしまった。この辺りのことは、11年前に "英語の授業と東京タワー"という記事に書いている。

そのオバチャンが後日、米国からプラモデルを送ってくれたので、15年前の記事のタイトルになったわけだ。そして何と、最近ふと思いついてググってみたら、あの時のソノシートと同じもの(上の写真)が オークションにかけられ、500円で落札されているのを発見してしまった(参照)。

この懐かしいデザインのソノシートが、英語を学ぶそもそものきっかけとなったのだから、個人的には 500円では「安過ぎ」と思うほかない。ただ「オリンピック・レコード集」というタイトルでは、「オリンピック記録集」ってことになっちゃうのが痛恨だよね。

こうして小学校 6年でネイティブの発音を身に付けてしまった私は、中学校に入学すると英語教師のムチャクチャな「カタカナ発音」に仰天してしまった。いや、あれは「ひらがな発音」と言う方がいいかもしれない。実際の英語を知らないからこそ、あれで恥ずかしげもなく英語教師でございますと言っていられたのだろう。

中学校時代に英語で苦労したのは、試験で 100点を取ることではなく(100点以外取ったことがない)、授業のリーディングの際に「(心ならずも)なるべくカタカナ発音で読む」ということだった。ともすれば自然に英語らしい発音になってしまうのだが、それだと教師の不興を買って妙な言いがかりを付けられるのだからたまらない。

その教師がある日の授業で動名詞と不定詞の用法に関し、あろうことか「"I stopped reading." と "I stopped to read." は同じ意味」と言い出した(記事末尾参照)。これにはさすがに堪忍袋の緒が切れてしまい、「英語の教師のくせにデタラメを言うもんじゃない!」と、猛然と抗議した。

彼は授業の最後まで自分の間違いを認めず、「お前は生徒のくせに生意気だ」なんてことまで言い出した。これで完全にブチ切れた私は生意気ついでに、「職員室に戻って『指導要領』の『不定詞の副詞的用法』という項目を読んで出直さないと、このまま一生恥かくことになるぞ!」と言ってやったのだった。

2〜3日後に彼は「よく調べたら、お前の方が正しかった」と、こっそり内緒話のように言ってきた。当日中には理解できず、そのくらい時間がかかったようなのだ。「それは授業中にみんなの前で言ってくれ」と申し入れたのだが、それについてはトボけ通されてしまった。彼は人生で出会った中で、最も尊敬に値しない教師の一人である。

というわけで、私にとって「カタカナ英語」というのは田舎の中学校の英語の授業を蘇らせる「悪夢」でしかなく、耳にするだけでストレスなのである。


【言うまでもないことながら、念のため】

I stopped reading the book.  (私は本を読むのを止めた)

I stopped to read the book.  (私は本を読むために立ち止まった)

"Stop" という動詞では、動名詞と不定詞が同じ意味にならない。

 

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2019/12/07

カタカナ英語を巡る冒険 その 2: 「英語アナウンス」と言っても

下の写真は昨日京都から帰ってきた際の、新幹線特急券である。今どきは特急券も自動販売機で購入できて座席だって自由に選べるから、いつも「4号車 13番 A席」にしている。

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4号車はいつも比較的空いていて、13番はとくにガラガラ。隣の B席(3列シートの真ん中)なんてさらに埋まりにくいから、余裕たっぷりに乗車できるのだ。数字で縁起を担ぐ人って少なくないので、JR の窓口でも「4号車 13番」は積極的には売りにくいのだろう。

おっと、昨日の「英語を巡る冒険」の続編を書くつもりだったのに、いきなり横道に逸れかけた。今日は新幹線のナマ英語アナウンスの中身が、いかに「どーでもいい」ものかを考察する。

英語アナウンスは、例えば次は京都に停車するケースだったら、お約束の日本語アナウンスに続いてすぐに、次のように流れる。

We are stopping at Kyoto station.  The door on the left side will open.(次は京都駅に停まります。左側のドアが開きます)

要するにこれだけ。たった二言なのだよ。しかも外国人には英語と気付いてすらもらえないレベルのカタカナ英語なのだから、昨日の記事の画像として使用させてもらった朝日新聞のビデオニュースの「新幹線で肉声英語のアナウンス」なんて見出しさえおこがましい程度のお話だ。

次の停車駅なんて、昔からドアの上の電光掲示板に日英 2カ国語で何度も表示されるし、どちらのドアが開くかなんて、少なくとも私は気にしたことがない。停車したら開いた方のドアから降りればいいだけの話なのだから。

上述のビデオニュースのタイトルは "新幹線で肉声英語のアナウンス” に続いて ”流暢でなくても好評" となっているが、こういうのを世間では「提灯記事」というのだ。ある意味、流暢じゃないからこそ、必要以上に大きな変化に見えているだけなのだろう。フツーにしゃべればフツーの話でしかないのに。

一方、昨日の記事の最後で紹介した文春オンラインの記事は "東海道新幹線の英語アナウンスは逆効果? 問われる「英語の質」" と疑問を投げかけている。ただ、サブタイトルで "グローバル化に向けて歓迎すべき流れだが……" と、半分は矛を収めているのだが。

実際のところは昨日の記事で次のように書いた通りと思うほかないのである。

この "英語アナウンス" は、国内向けに「JR、一応国際化努力してます」とアピールする効果しか果たしていないと言っても、あながち極論じゃない。

「英語アナウンス」が実際に外国人に通じてるかどうかなんてのはどうでもいいことで、要するに「グローバル化と見せかけるための稚拙なアリバイ作り」なのだ。

文春が言うような「英語の質」が問われているわけですらない。だって仮にものすごく流暢な英語でアナウンスしたとしても、内容なんて上述の通り「言わずもがな」のことでしかないのだから。

 

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2019/12/06

カタカナ英語を巡る冒険 その 1 : 新幹線の英語アナウンス

奈良の吉野の山奥への出張を終えて帰宅した。ところで最近、新幹線に乗る度にそこはかとなく気になっているのが「英語の車内アナウンス」である。191206

前々からお馴染みの こんな感じ(← クリックで YouTube 動画が再生される)のネイティブ・スピーカーによる(保母さんが園児たちに諭すような感じの)録音のアナウンスも継続されてはいるが、 今はそれに加えて日本人車掌によるナマの英語アナウンスも流される。ただ、そのほとんどが「見事なまでのカタカナ英語」なのだ。

ネット界隈では「上手な人からカタカナ英語の人まで幅がある」なんて記述を目にする。しかしよく新幹線に乗る私でも、カタカナ英語以外のアナウンスは 1度も聞いたことがなく、ほとんど こんな感じ である。(4番目のアナウンスは比較的マトモだが、"L" と "R" の区別が付いていない)

上の写真のクリックでリンクする動画は、かなりわざとらしさが目立つが、JR 東海の英語アナウンスの練習風景ということになっている。ところが左側の指導担当者自身が相当なカタカナ英語で、飛行機の CA の英語も平均的にはかなりひどかったりするが、それを凌駕するレベルである。

これは朝日新聞によるニュース動画で、一応きちんと現場取材でやらせ動画を撮影しているわけだから、JR としては「ニュースにしてもらうのだから歓迎」というスタンスだったのだろう。「とりあえずちゃんとした英語原稿なんだから、お恥ずかしいものにはならない」程度以上のことは考えていなかったとしか思われない。

動画の中で指導担当者は「アクセントを間違えても気にしないでください。外国人のお客様は理解しようとしてくれています」などと、もっともらしいことを言っている。しかし現場に遭遇すれば、その期待は甘すぎるとわかる。

現場では日本語アナウンスに続いてすぐに英語アナウンスになる。日本人客なら少なくとも 「急に日本語じゃなくなったから、ここから先は英語(のつもり)なんだろう」ぐらいには思ってくれるが、日本語を知らない外国人客には、単にミステリアスな東洋の言葉の連続にしか聞こえないはずだ。

つまり「JR の車掌が英語でアナウンスをしている」という事実に気付いているのは、案外日本人だけかもしれないってことだ。ということはこの "英語アナウンス" は、国内向けに「JR、一応国際化努力してます」とアピールする効果しか果たしていないと言っても、あながち極論じゃない。

このサービス、昨年 12月から始まったというのだから(参照)、既に 1年経過している。そしていつの間にかカタカナ英語のままで妙に早口になってしまい、ますますわからなくなってしまっている。

下手に慣れると逆に劣化してしまうという典型例だ。

ちなみに、このことについては過去にも 2度触れている。

新幹線の 「ムダに流ちょうすぎるカタカナ英語」 アナウンス
  (この記事に添えた録音は、かなりスゴい!)

新幹線の英語アナウンスが肉声になったようだ

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2019/12/05

関東で地震が連続

関東では近頃、毎日のように地震が発生している。私は今朝から関西に出張していて、今夜は奈良のホテルに泊まっているのだが、さっき(午後 10時半頃)も茨城県北部で震度 3 の地震があったようだ。これで 4日連続である。

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FNN PRIME は、【「東京で震度6超える恐れも」関東で頻発する地震は“首都直下型”の前兆!? 備えるべきポイントとは】なんていう物騒なニュースを伝えている。もう 8年以上経ったとはいえ、東日本大震災の記憶がまだそんなに薄れているわけでもないので、かなりイヤな感じだ。

私は既に大地震を 2度経験している。1度目は 1964年の「新潟地震」。小学校 6年の時で、結構長期間にわたって暖水していたので、毎日のようにバケツをもって給水車の列に並んでいたのを思い出す。生長期に毎日両手にバケツをぶら下げて水運びをしていたので、ずいぶん体力が付いちゃったよ。そして 2度目はあの東日本大震災だ。

地震というのは自分の立っている地面がグラグラ揺れ動くのだから、人の力ではどうしようもないレベルの恐怖感がある。大地震となったらなおさらだ、

さらにその後の余震が頻発する中で復旧まで耐えていくというのも、本震の恐怖以上に気の重い話になる。それを 2度も経験したのだから、「3度目はいらないよ」と言いたくなるのは無理もない話だ。つくづくご免こうむりたいと、本気で思う。

とはいえ、地下にエネルギーが溜まってしまったらどこかで放出しなければならないのだから、こればかりは避けようがない。地震はなるべく来てもらいたくないが、それが後になればなるほど大きなエネルギーが溜まっているわけだから、大地震となってしまう。

そうなると、なるべく早めに比較的小さな地震として発生してもらう方がまだマシなのかもしれず、なかなか複雑な思いになってしまう。地震国というのはよくよく面倒な宿命を背負ってしまっているわけだ。

 

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2019/12/04

”Snoopy" って、「うろうろ詮索しまくる」犬ってことなのだね

先月 27日の記事で "完全版 ピーナッツ全集 15 スヌーピー1979-1980" (¥3,080)を Amazon に発注したと書いたが、翌日ちょうど留守にしていた時に届いたようで、すったもんだの挙げ句、29日の日暮れ時にようやく届いた。3cm 以上の厚みのある本で、かなり読み応えがあり、しばらく楽しめそうである。

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ところで、12月 2日に "snoop" という英単語について次のような tweet をした。(参照

単純な英単語でも、知らずに生きてきたということが案外多い。恥ずかしながら最近、今さらのように知ったのは ”snoop” という単語の意味が「こそこそうろつく、嗅ぎ回る」だってこと。
そうか、「スヌーピー」って、そういうことだったのか。

”Snoopy" という固有名詞は知っていても、その元になった "snoop" という英単語の意味については、全然気にしたことがなかった。それだけ ”Snoopy というキャラが独立した魅力を発揮していて、敢えて名前の意味まで「詮索」してみる気になれなかったのである。

ところが、改めて調べてみると、こういうことだった(参照)。

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なるほどね。この単語、私があえて詮索する気になるのを待ちわびていたのかもしれない。

 

 

 

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