「刺身の食卓への出し方」と「結婚した意味」
Kana さんという方が、刺身を食卓に出すということに関して、とても真っ当な tweet をしておいでだ(参照)。
上の画像の tweet をテキストでコピペさせていただくと、こういう内容だ。
今日テレビで、お刺身をパックのまま出したら旦那さんに「刺身はお皿に出してほしい。結婚した意味がない」と言われた人がおり、パックのまま派とお皿に出す派の声を紹介していたんだけど、問題はそこじゃなくてそんなにお皿に出したければ自分で出せってことだと思うなどした。
もし同じ番組を見ていたら、番組が「パックのまま派とお皿に出す派の声を紹介」という流れに移ったという時点で、私も「違う、 そういう問題じゃない!」と声をあげたくなったと思う。
ところが Twitter のスレッドを見ても「お皿に盛った方がおいしそうに見える」とか「最近はパックもおいしそうに盛り付けてある」とか「一手間かける愛情が大切」とかいう視点から、いろいろな反応が寄せられている。「そういう文脈じゃないんだけど」と言うしかない。
このケースの問題を明確にするためのポイントを太字で表示するとしたら、それは夫の「結婚した意味がない」という言葉だろう。要するに「どっちの方がおいしく見えるか」なんてノー天気な話にもっていくようなケースじゃないのである。
私は妻に対して、そんなことは絶対に言わない。誤解されたら不本意なので断っておくが、それは妻に気を使っているというより、そんな馬鹿なことを言ったら、むしろこちらの方が不愉快になってしまうからというだけのことだ。
夫が「刺身を皿に盛られた状態」で食べたいと考えるのは、十分「あり」だろう。ただ、妻がそれを面倒と感じ、「パックのままで十分じゃん」ということなら、夫が一方的に「皿に出してほしい」と要求するのは「わがまま」というもので、さっさと自分でやればいいだけの話である。
自分でやるという発想がなく、妻がやらないなら「結婚した意味がない」とまで言うのは、それは「わがまま」よりヒドい「了見違い」というものだ。繰り返すが、それは「どちらの方がおいしく食べられるか」という話ではないし、「一手間かける妻の愛情表現」とかいう次元の話でもない。
ちなみに「一手間かけた愛情表現」というものを妻が選択し、自らもそれでハッピーだというなら、それはそれで OK だ。しかし、夫の方で「妻なんだから、それぐらいして当然」ぐらいにしか受け取らないとしたら、その「OK」は半分以下の価値にとどまる。
番組の流れが「パックのまま派とお皿に出す派の声の紹介」の方に行ったと知った時点で、私はこの国のピンボケ具合に、ちょいとばかり絶望的なものを感じてしまったよ。そして Kana さん自身も次のように tweet しておいでだ。(参照)。
要するに、そういうことだね。
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