2021年10月18日

「スピテロ」というのがあるらしい

きよみ@社労士さんという方が、「スピテロは禁止」という tweet をしておいでだ(参照)。一体何のことかと思ったら、どうやら「スピリチャル・テロリズム」の省略形らしい。最近あちこちの神社の境内で、塩で円を描いて何やらしたがるのが増えているようなのだ。

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きよみさんによれば「塩の結界の中に入って浄化〜」みたいなことをしたがるのがいるらしいが、その痕跡は他人からみたら気色悪いだけのものになってしまう。「普通に境内は汚れるし、掃除が大変だし、勘弁してくれ〜」と言いたくなるのもわかる。

どうしてもこうした「浄化儀式」みたいなことをしたければ自分の家でやればいいのだろうが、世の中の思い込みの激しいカルティックな人は、元々からして十分な「結界」である神社の境内に「さらなる結界」を作ってでも、何やら特別なことをしたがるのだろう。ご苦労なことである。

「塩のもつ浄化力」というのは、古くからの信仰に根ざす考え方ではある。元々は神道の考え方で、神社本庁のサイトの「清め塩について」というページには、「塩の力に祓いの願いを託すことは、祖先から受け継がれた英知なのです」と書かれている。

近頃の都市部の葬儀では、帰りに必ずと言っていいほど「お清め塩」なんてものを渡される。仏教式の葬儀でそんなものを渡されるのは、「神仏混淆」の典型のような気がするが、葬儀屋さんとしては必須の作業で、あれを用意しておかないと「手抜き」扱いされてしまうんだろうね。

葬儀から帰ったら体にかけて死の穢れを払うという趣旨らしいが、これもまた「雰囲気のもの」で、私としてはそんなのしたことがない。かと言って敢えて受け取り拒否するのも無粋だろうし、持ち帰ったところで我が家常備の天然塩とは違うので一緒にしたくないしで、結局捨ててしまう。

いわば「面倒な押しつけ/小さな迷惑」としか感じられないのだよね。一人一人にしてみればほんの少量だが、まとめてみればかなりの「食品ロス」でもある。

まあ、「スピテロ」というほどのことじゃないが、あれって、葬儀屋さんが効率志向によっていつの間にかスタンダードを作ってしまったんだろうね。

話が逸れかかったが、そんなわけで「塩の浄化力」という考え方は理解するとしても、神社の境内でのべつこんなことをするのが流行ってしまったら塩害になるだろう。樹木が枯れるなんてことになったら、完全に「スピテロ」だ。

良い子はこんなの、止めとこうね。

 

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2021年10月17日

「こよなく〜」の「こよ」って何だ?

先日某所で「日本人がこよなく愛する秋晴れの空」というキャプション付きのきれいな写真を目にして、「いや、秋晴れの空を愛するのは日本人に限らないだろう」と思ってしまった。そして同時に「そういえば、『こよなく』の『こよ』って、一体何だ?」と、とてつもなく気になってしまったのである。

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「こよなく」という語を Weblio で引いてみると、上のようなことになった(参照)。同じ小学館の辞書でも、品詞の解説の仕方がビミョーに違う。

『デジタル大辞泉』:副詞(形容詞「こよなし」の連用形から)

『精選版 日本国語大辞典』: 形容詞「こよなし」の連用形。現在では副詞的に用いられる

というわけで、「こよなし」(現代語的には「こよない」)という形容詞が元であり、単純に「『こよ』というものがないほどに」というような意味ではないと確認できた。そりゃそうだよね。それではと、語源の視点から調べてみたところ「広辞苑 無料検索」というページでこんな説明があった(参照)。

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なるほど、「越ゆなし」(越えるものがない)から来ているのか。ようやく納得である。しかしことはそれでは済まない。なんとこんなページにも行き当たった。

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語源に関して "「越ゆるもの無し」とも「此より勝るもの無し」とも言われ・・・" とあるのは、広辞苑と共通するからいいが、この説明に続く文がかなり奮っている。こんな具合である。

日本は古来、比較対象を明確に見据えることをせぬ「絶対文化圏」につき、「こよなし」も比較級というより絶対最上級的ツキヌケ独善讃辞の色彩が濃い。

おぉ 、「絶対最上級的ツキヌケ独善賛辞」と来たか。 こりゃまたすごい! "Far more than everyting in the world" (この世のすべてのものより遙かにスゴい)みたいな恐ろしいまでのことを、日本人は「こよなし」のたった四文字でさらりと言ってきたわけなのだね。

いやはや、そんなにヘビーな言葉だったとは知らなんだ。となると、秋晴れの空を「こよなく」というほど愛するのは、やっぱり日本人しかいないのかもしれない。私のイチャモンの付け所が間違っていたようだ。

しかしよく考えると、秋の青空だの、紅葉だの、複数のものをノー天気に「こよなく - 越ゆるものなく」愛するというのは、論理的にはあってはならないと言わなければならない。このあたり委細構わずどんどんやっちゃうのは、やはり日本人の「雰囲気志向」ゆえなのだろう。

最近、いろいろなことにかこつけて「雰囲気」の力のスゴさに言及している(例えば昨日の記事や、10日前の「写真はイメージです/言葉は雰囲気です」など)が、「こよなく」の場合も、「大切なのは、文字通りの意味より雰囲気」という原則が遺憾なく発揮されている。

ちなみに、上述の「絶対文化圏」というのは、ググってみても特定的な言い方としては「父権絶対文化圏」とか「上の言うことは絶対文化圏」とかいう言い方しか見当たらないが、これも「雰囲気的な絶対」と受け取っておく方が無難そうなので、そのあたり、どうぞ

Yoroshiku4

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2021年10月16日

"Dappi" というツイ垢と、「雰囲気」のトレンド

Twitter に "Dappi" というアカウントがあると知らないわけではなかったが、どうやらうんざりするような tweet しかしていないみたいなので、あまり意識していなかった。ところが最近になって、ずいぶんなニュースになってしまっているじゃないか。世の中、奇々怪々である。

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まあ、かいつまんだところは LITERAX の「ネトウヨ Dappi 運営との取引を報じられた自民党ダミー法人の実名! 岸田首相、甘利幹事長が代表、いまも自民党から年間 4000万円」という記事を読めばわかるので、内容はここでは敢えて触れない。噛み砕いて書くすら不愉快で馬鹿馬鹿しいし。

ちなみに Twitter で Dappi のプロフィル・ページを見ると、「16.7万」ものフォロワーがいるというので驚いた。そして中には、こんなにも見当外れなまでに熱心なのもいる。

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「政治家の発言の生の映像を見たいのです」ってのは、言葉センスのなさに笑ってしまうが、これには、国会の審議中継サイトの URL を記して「10年分見られます。存分にどうぞ」とか「NHKで中継してますけど(笑)」とかいう「正常な人」のレスが付いている。それでも意に介する様子はないのだよね。

思えば私の学生時代(1970年代)の初めの頃は左翼的学生運動の盛んな時期で、とくに日共/民青さえも「欺瞞的」と否定する「全共闘」系がやたら目立っていた。

ワセダの、とくに文学部キャンパスの場合は、いわゆる「全共闘」とは一線を画している(らしい)「革マル」の世界だったが、とにかく大学に通っているだけでやたら議論をふっかけられたりして、否が応でも関わらざるを得ないほどだった。今とは隔世の感がある。

ただ、私は彼らの言うことを目の当たりにして、その「恥ずかしげもなく単純すぎる頭の構造」に呆れるばかりだった。彼らの論理は、自分の領域内だけでは見事なまでに完結しているのだが、初めから他の要素を「ナンセンス」としてシャットアウトしているのだから、それも当然だ。

さらに言えば、全共闘や革マルの下っ端の方は、自分たちが何を言っているのかすら理解していなかった。ひたすら「雰囲気」だけで突っ走っているだけだったと思う。(まさに「雰囲気」ほど強いものはない)

そして月日は巡り、今の「ネトウヨ」も、構図的にはそれと同様だとわかる。右と左が裏返っただけで、「頭の構造の単純さ」及び「下っ端の方のモノのわかってなさ加減」は、ちっとも変わらないという印象なのだ。

要するに、「今の雰囲気」のトレンドが右に向いているというだけのことなのだろうね。やれやれ。

 

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2021年10月15日

大人が都合良く考えた子ども像 (その 2)

昨日付の「大人が都合良く考えた子ども像」という記事の続きである。今日書くのは中学生の頃の、作文コンクールについての記憶だ。

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私は小学校低学年の頃から学級新聞作りに積極的に関わり、記事もほとんど自分で書いていたほどだから、文章を書くのは得意としていた。ところが不思議なことに、年に何度かある「作文コンクール」みたいなものでは、一度も入選したことがなかったのである。

とくに文章が上手とも思われないクラスメートの作文が、市や県などの主催するコンクールで時々入賞するのだが、私はそうした賞には不思議なほど無縁だった。これはもう、「性が(賞が?)合わない」と言うほかない。

ある日、市の作文コンクールだったかで入選した同級生の作品を読んでみたのだが、率直に言って「何だよ、これは!」と思うしかなかった。とくに上手な文章でもなんでもないし、そもそも普段の彼の態度からしたら「偽善そのもの」の「いい子ぶりっ子過ぎ」と言うほかない代物だったのである。

「こんな歯の浮くようなことを恥ずかしげもなく書くと、作文コンクールで入賞しちゃうわけね!」と思うほかなかったのを憶えている。これについては 2006年 5月 16日の「作文も演技さ!」という記事でも書いているが、要するに「国語教育」というのは「道徳教育」なのだと薄々悟ってしまった。

そこで「ものは試し」とばかり、中学時代のちょっと大きな作文コンクールで、自分でも気恥ずかしくなるほどの「優等生的作文」を書いてみた。すると何と言うことか、あっさり「金賞」を獲得してしまったのである。

これはもう「嬉しい」というようなものじゃない。むしろ「作文コンクールなんて、この程度のものだったのかよ!」と、予想していたこととはいえ、がっかりしたのだった。

ところが翌週の全校朝礼で、私は皆の前で「金賞受賞の喜び」を発表することになってしまった。いやはや、勘弁してもらいたかったね。

そこで私は自分への正直さを取り戻すためにも、「ぶりっ子コメント」は一切排除することに決めた。当日は「今回は試しに『心にもないこと』を書いてみたら、こんな賞をもらってしまい、自分でも変な気分です」というようなことを言ったところ、教職員会のどえらい不興を買ってしまったらしい。

というわけで、「大人の期待する『良い子』の姿」を作文するなんて、とてもたやすいことだったのである。しかし私としては、そんな安易なことで点数を稼ぐのは「気分悪過ぎ」だったので、金輪際止めとこうと思ったのだった。

そんなことでチヤホヤされるよりは、それまで通りに「悪童」でいる方がずっと居心地がよかったのである。

 

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2021年10月14日

大人が都合良く考えた子ども像

『たこの歌』という文部省唱歌がある。そう、あの「たこたこあがれ/かぜよくうけて/くもまであがれ/てんまであがれ」という歌詞の歌だ。

子どもの頃、「天」というのは「雲」の上にあるものだということを、この歌で学んだ。ただ、「雲」は具体的だが「天」はかなり茫洋としている。それで「天」というのは「モノ」というより抽象概念なのだということもおぼろげに理解した。もちろん「抽象概念」なんて言葉そのものは知らなかったが。

その意味で、この歌は小学校低学年だった頃の私の論理思考を養うスタート地点みたいなものになったのだが、実はあまり好きな歌じゃなかった。というのは、実際にたこ揚げをしてみると歌詞が無責任すぎるとしか思えないのである。

「風よく受けて、雲まで揚がれ、天まで揚がれ」というのは、一見すると順序だった理窟の上に成り立っているように見えるが、実際やってみると雲までなんて到底揚がらないし、ましてや抽象概念に過ぎない「天まで」なんて、テキトーにもほどがある。

かなり風の条件のいい日に勢い込んでトライすると、タコがかなり小さく見えるまで上昇して、「おぉ、やったね!」と興奮するが、無限に揚がるわけじゃない。用意した糸の長さには限界というものがあるのだ。最大の問題は「たこ」だの「風」だのよりも、「糸」だったのである。

そして私はどういうわけか、たこが揚がっている間、糸が真っ直ぐに張るわけじゃなく、途中で結構たるむものだという「目に見える事実」に新鮮な驚きを感じていた。「こんな糸にも重さってものがあるんだ。いくら風が引っ張っても、ピンとは張らないんだ。これってスゴいじゃないか!」

そしてそのビミョーなたるみ具合に、何か心の中でざわざわっとするような「危うさ」とか「哀れさ」みたいなものを見たりしていたのだが、他の誰もそんなことには頓着せず、ただひたすら糸の先端で風に揺れるたこしか見ていない。私は、それが不思議でたまらなく思えてしまうような子だった。

この「たこの歌」って、どうしてこの「もののあわれ」の部分にちっとも触れずに、ただ「ありがち」な光景しか歌わないのだろう。

「大人の作ったこどもの歌」の多くはちっともリアルじゃなく、「大人が都合良く考えた子ども像」の押しつけに過ぎないと薄々わかったのもこの頃である。続きは明日。

 

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2021年10月13日

サラリーマンと「社畜」

"品川駅の広告「今日の仕事は、楽しみですか。」に批判殺到 → 1日で取り下げ、掲載元が謝罪" というニュースには、「ははぁ、そうですか」という感想しか抱かなかったが、ITmedia ビジネス ONLINE に、それについての解説のような記事が載っている。

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"「今日の仕事は、楽しみですか」になぜイラっとしたのか 「仕事が苦痛」な日本人の病" というタイトルの、窪田順生氏による記事である。「日本人の病」というだけあり、例によって「日本人論」みたいな趣になっている。

その内容はリンク先に飛んで読めばわかるが、煎じ詰めて言うと、日本人は仕事に関して「人は金のためだけに働いているわけではない」という精神的な思い入れがありすぎるのが問題なのだという。それは「カルト宗教のような独自の信仰」とまで化しているのだそうだ。

なるほど、そう言われてみればそんな気もしないでもないが、私は個人的には、会社勤め時代は「給料のため」と割り切っていたから、そんな「カルト宗教」にハマったことは一度もない。金のための仕事で関わる案件が、たまたまおもしろいものであれば、それは「儲けもの」という感覚だった。

不思議なもので、そうした意識でいると、そりゃあ「仕事が楽しくてたまらない」というわけではないが、ことさらなまでに「苦痛」というほどには感じなくて済む。それは独立事業主となった今でも基本的に変わらない。とくに最近は、イヤな仕事は受けないという贅沢の味も覚えたし。

ちなみに品川駅のこのコンコースは、人呼んで「社畜回廊」ということになっているのだそうだ(参照)。ちょっとスゴい言い方だね。

さらに「ちなみに」という言葉で続けることになるが、加藤公一(はむかず)さんという方が、次のように tweet している (参照)。

ふと気になって「社畜」って英訳するとどうなるんだろう、livestock salarymanかな?と思ってググってみたら、Wikipediaの説明によるとsalarymanだけでほぼ社畜の意味だった。

https://en.wikipedia.org/wiki/Salaryman

どれどれと思ってリンク先に飛ぶと、こんな風な書き出しだ。

The term salaryman (サラリーマン, sararīman) refers to any salaried worker. In Japanese popular culture, this is embodied by a white-collar worker who shows overriding loyalty and commitment to the corporation within which he is employed.

【和訳】
サラリーマンという言葉はすべての月給をもらう労働者のことを指す。日本で広く行き渡った文化においては、自分が雇用されている企業に過度の忠誠心と献身を示すホワイトカラー労働者によって顕現されている。

これ、日本人によって多少自虐的に書かれているような気がするが、つい「なるほどね」と納得してしまいそうだ。

 

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2021年10月12日

夫婦別姓反対派の「みんな一緒」志向

ふゆひー さんが、「かつあげ」という穏やかではないハンドル・ネームの方の tweet を取り上げ、 "バカだね。「自分たちではなく、他の夫婦が別姓にすることで、あなたに不利益はありますか?」という質問なのに" とレスしておいでだ(参照)。

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一体どういうことなのかと元スレを辿ると、そもそもは「大人の小学校」を運営する田村淳の、「自分達ではなく、他の夫婦が別姓にすることで、あなたに不利益がありますか?」という tweet への回答(というつもりらしきもの)に対するレスのようなのである。

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で、その答えというのがこんなものだ。

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なるほど、質問の意味をまるで理解せず、「世間一般の話」を強引に「我が家」と置き換えて反対している。私が最初に見た時点でなんと 1,001件もの「いいね」が付いていた。

さらに、「かつあげ」氏はこの質問に答えるためにわざわざこんなようなイラストを描いたのだろうかとも驚いたが、おそらく一度描いたものをいろいろなケースで使い回しているのだろうね。この場合は「見当外れ」というほかないが。

というわけで、この「かつあげ」氏は自分が夫婦別姓にする気は毛頭ないのだろうが、ほかの夫婦が別姓にして、その結果表札が 5枚になったりするのを見るだけでもイヤということのようなのだ。

その家の孫が「我が家っていったい何家なの?」と戸惑うに違いないと勝手に想像し、それによって生じる「ムカつき感」が「自分の不利益」とまで感じてしまうのだろう。ずいぶん律儀なことである。

そんなわけで、夫婦別姓反対派というのは「みんな一緒」でないと気が済まないという志向性が強いようだと察してしまった。多分これ、考え過ぎじゃないだろうと思う。

今さら言うまでもないが、夫婦別姓というのは「夫婦別姓を原則にしよう」という主張じゃなく、「別姓もあっていい」と言っているだけなのである。それに対して「みんな一緒」志向によって反対しているのだから、私には「余計なお世話」としか思えない。

「みんな一緒」の価値感を強制されるのは、私としては息苦しいとしか感じられないんだがなあ。そもそも自分の家を「〇〇家」と認識できなければ「不利益」が生じるなんてことはないしね。

どうしても「〇〇家」と名乗って認識したければ、その主旨による「系図」みたいなものを私的に作ればいい。明治以前の庶民の苗字感覚って、そうしたものだったらしいし。

私なんぞは逆に、「系図作ってみたら、いろいろな苗字の先祖がいて楽しい」なんて感じてしまうだろうというタイプである。

【10月 13日 追記】

上図の「我が家っていったい何家なの?」と言っている石田直人君は、どうしても「〇〇家」と認識したいのなら、とりあえず「石田家」ということにすればいいだけの話じゃないかと思う。自分が「石田姓」を名乗っていることでもあるし、迷うことは何もない。

父系の流れにこだわりたがるから戸惑うのであって、その気になれば母系の方にいくらでも辿れるし、それによる「不利益」なんて何も生じない。(別に「利益」もないが)

 

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2021年10月11日

ロシアとの平和を保つための「おしっこ」規制

ロシアとの平和を保つというのは、「おしっこ」まで規制しなければならないほど難しいことのようだ。The Moscow Times の「ノルウェー北東部のグレンセ・ヤコブセルフ(Grense Jakobselv)という村に新しい観光スポットがあるという」という記事(参照)で、それをしみじみ感じた。

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ロシアとの国境を流れる川沿いに ”NO PEEING TOWARD RUSSIA"(ロシアに向かってのおしっこはダメよ)という立て札があり、違反すると罰金を科される可能性もあるという。看板がなければどうということのないごくフツーの「田舎の川」なのだが、これが観光スポットになっているらしい。

実際問題として、ロシアに向かっておしっこして罰金を科せられたなんて人はまだ一人もいないらしいが、おもしろいのは、この看板が(誰かはわからないものの)ノルウェー人の手によって立てられたということだ。そりゃそうだ。ノルウェー側の岸に立っているのだから。

ということは、ロシア側がことさら無粋なまでの要求をしているというわけではなく、これはノルウェー側の一方的な「自主規制」の産物とわかる。ただ「罰金」なんていうからにはそれなりの法的根拠があるはずで、それに関しては次のように紹介されている。

ノルウェーには国境に関する規則を定めた特別法があります。1950年に制定されたこの法律には、「国境沿いで隣国やその当局者に向けて攻撃的な行為をしてはならない」という条文があり、これに違反すると罰金または3カ月以下の懲役刑が科せられるとのこと。

記事ではさらに続けて「2016年にロシアとの国境に向けて石を投げたノルウェー人 4人が国境警備隊と警察により逮捕された」とある。「おしっこ」が「攻撃的な行為」なのかどうかはビミョーだが、3000クローネ(約 4万円)以上の罰金刑になる可能性があるらしい。

この国境は「ロシアがまだ戦争をしたことがない唯一の隣国であるノルウェーとの平和の象徴」と呼ばれることもあるために、特別視されているらしい。それにしてもロシアと戦争しないためには、こんな自主規制まで必要だったとはね。

ちなみに、このニュースは Gigazine の "ノルウェーには「ロシアに向けておしっこするのが禁止された川がある」" という記事で知った。ただ、こちらの方の見出の下のメイン写真は、元記事とは別のこんなようなことになっている。

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もしかしたら Gigazine の編集部は、元の写真の看板が英語なので(”pee - おしっこする" という俗語は、日本では意外なほど知られていないし)、日本向けには避けたのかもしれない。結果としては、「英語を避けて、お下品を採用」ということになってしまったが。

【同日 追記】

先ほど気付いたのだが、立て札は ”NO PEEING TOWARD RUSSIA" で、前置詞が "toward" だが、The Moscow Times の見出しでは、"Don't Pee On Russia" と、前置詞が "on" になっている。

動名詞の場合とモロに動詞の場合で、前置詞が使い分けられるのだろうかと思ったが、どうやらそうした文法的なものじゃないらしい。"Pee toward 〜" は「〜に向かっておしっこする」という意味だが、"pee on 〜" は「〜におしっこをかける」ということのようだ。

とはいえ、厳密な国境線は川の流れの真ん中らしいから、ロシアにおしっこを「かける」ためには、相当の勢いと追い風の助けが必要だろう。

以上、お粗末さま。

 

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2021年10月10日

英語学習/くずし字解読 と AI 翻訳

Quora に「英語学習はオワコンでしょうか?」という質問が寄せられている(参照)。「あと 5年もしたら会議で日本語喋ったら勝手に相手の言語に翻訳されて、メールも送信ボタン押したら勝手に翻訳されると思うのでこれからビジネス英語を学ぶ意欲が湧きません」というのである。

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昨日の記事で「くずし字」が AI によって瞬時に現代の文字に変わるというプログラムに関して肯定的に述べている私としては、質問者の気持ちがわからないではない。しかしながら、「英語学習がオワコン」と言ってしまうのは短絡的すぎるとも思うのである。

ちなみに昨日の記事には案の定、らむねさんからコメントがついた。本文中からリンクする 1月 5日付記事に彼が付けてくれた「AI に古文書を解読させる試み」紹介コメントへの私のレスに関して、実にソフトに「撤回と謝罪」を要求してくれたものだ。この時の私のレスはこんなものだった。

それにしても、人の書いた文字を人が読めずに AI に頼るというのは、なんだかムカつきますね ^^;)

いやはや、「10ヶ月経ったら、言うことが違ってしまってるじゃないか」と言われても仕方がないことで、お恥ずかしい。しかしながら、言い訳がましいかもしれないが、この「AI に頼る」ことへの「ムカつき」感覚は、私個人としては、決して解消してしまっているわけではないのだ。

それは、昨日の記事でも次のように書いていることで、少々察していただきたい。

「古文は草書体で読んでこそ本物」という実感や、草書体の趣ある美しさを大切にしたいという思いは、私としても十分にわかる。

そうなのだ。不肖私としても、古文は草書体で読みたいという思いには、十分に共感してしまうのである。しかしながら、私自身が決してスラスラと読めるわけではないし、さらに広範な層への訴求というコンセプトを重視すれば、AI で古文を読む試みを否定してはならない。

ここで冒頭の Quora の質問の件戻るが、「会議での発言が瞬時に相手の言語に翻訳されて伝わる」という世の中が来るというのは、私も「そうだろうな」と思うし、そんな時代はかなり近いだろう。いわば「AI 同時通訳システム」だ。

しかしながら、だからといってビジネス英語を学ばなくてもいいということにはならないだろう。それは、言葉というものは翻訳されたとたんに別のニュアンスをもってしまうことが往々にしてあるからだ。勿論、ビジネス英語に関してはそうした要素は最小限に抑えたいところではあるが。

私の 10月 7日付の記事は「写真はイメージです/言葉は雰囲気です」というものだが、まことにも、言葉というのは良かれ悪しかれ「雰囲気」の要素が強く、無視できない。文学作品でも、別の翻訳で読むと印象がかなり変わってしまうことまであるのだから。

やはりリアルのコミュニケーションというのは、翻訳を介さずに同じ言語で丁々発止する方がいい。翻訳を通すのはどうもかったるいし、ピンボケになってしまいがちというのは、私も何度か経験したことがあるからね。

で、ここで 5度目の「しかしながら」という接続詞を使いたくなってしまう(今日の記事は「しかしながら」(however)のオンパレードで、歯切れの悪いことおびただしい)のだが、私は AI による同時通訳は決して否定しないのである。

それは古文書を AI で読むのと同様に、「セカンド・チョイス」として歓迎しておきたいのだ。誰もが英語で上手にコミュニケーションできるわけではないという現実があるのだから、それは当然である。

さらに付け加えれば、日本語のほかに英語を学ぶことのメリットもあると言わなければならない。他言語を学ぶことで母国語での思考とは別の視点による考え方ができて、「思考の重層性」が獲得できる。上手に使いこなせば、人間としての「厚み」みたいなものも身につくだろう。

まあ、ここで言う「他言語」は別に英語でなくてもいいのだが、事実上、最も汎用性のある言語は英語ということで納得していただきたい。

で、古文書を変体仮名ですらすら読むことのメリットも、似た感じではある。ただ、そのメリットは現状では 0.01%の日本人しか実現していないというのだから、その意味では、古文書 AI 翻訳のメリットは、英語の AI 翻訳と比べても圧倒的に大きかろう。

余談だが、もし変体仮名が今の世にも現役で生きていて、新聞が昔の「瓦版」みたいなものだったら、日本語は断トツで「世界一習得困難な言語」の座に君臨していることだろう。なにしろ、こんなだから(下の画像は「地震速報」みたいなものの一部拡大図で、全体像は こちら)。

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見出しは「大坂つなみ」(これ、「大阪」という表記じゃなかった頃の瓦版)。全体として漢字は読みやすいのだが、かなは手強いよね。

 

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2021年10月 9日

文語体と草書体(くずし字)における「文化革命」

十三年半前のことなれど、このブログの記事を文語体にて書きしことあり。「ATOK の文語モード試しみむとて」といふ記事なりき。下の画像よりのリンクも可なり。

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いきなりの擬古文調で戸惑われたかもしれないが、私は「和歌ログ」などという文語体の和歌を詠むブログも毎日更新しているので、ほんのたまにはこんなことも生じる。ちなみに画像右側の「くずし字」は、「毛筆は悪筆なれど今様に QWERTY にて古語の歌詠む」という歌である。

なんでまた唐突にこんなテーマで書き始めたのかというと、"源氏物語が好きすぎて AI くずし字認識に挑戦でグーグル入社  タイ出身女性が語る「前人未到の人生」" という記事にかなり感動してしまったからである。これは素晴らしいニュースだ。

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彼女は日本の古典文学が好きすぎて、タイから単身留学した。上の写真は Zoom でのインタビューの時のものなのだろうが、源氏物語絵巻の背景からもかなりの「本物」と見受けられる

しかし彼女は来日してワセダの大学院で学んだものの、最初は草書体(いわゆる「くずし字」「変体仮名」)が読めないために「F」の成績を取って泣いたこともあるという。そこで一念発起してかな文字を草書体で書く書道を習い、ものにしたというのだから、かなりの根性だ。

かく言う私も、同じ大学で草書体に苦労した経験があるので、彼女のことは他人事と思えない(今年 1月 5日付の「草書体で書かれた古文書というもの」という記事参照)。ただ、日本語が母国語ではない彼女の努力は私どころのものではなかっただろう。

そして彼女は今、「AI くずし字認識」というプログラムに挑戦し、Google に入社するという。

記事によれば、「現在、くずし字をきちんと読める人は日本の人口のたった約 0.01%、約数千人しかしない」のだそうだ。だとすると、「多少は読める」という程度の私は、せいぜい数万人ぐらいのうちの 1人なのだろう。

それでも日本人の 0.1%ぐらいの比率なのか。これって、英字新聞を読める日本人の数よりずっと少ないだろう。てことは、英字新聞と古文書の両方を、とつおいつながら読める(正直言って、英字新聞を読む方がずっと楽だが)私って、結構スゴいじゃないか!(と、我ながらびっくり)。

それほどまでに難しい「くずし字読み」を AI によって広めることができるというのは、まさに「文化革命」という気がする。

しかし彼女はインタビューの中で、「『AIによるくずし字認識は望ましくない』『こんな研究は良くない』という国文学研究者が何人かいました。古典文学を広めようと頑張っているのに、自分が所属する分野の人たちに反対されるのはつらいです」と語っている。うぅむ、これは結構厄介な問題だ。

こうした「何人かの国文学研究者」というのは日本人の中の 0.01% という「特殊権益」(あるいは「密かな楽しみ」)を、自分たちの狭いサークルの中で占有したいなんて思ってるんじゃあるまいか。

「古文は草書体で読んでこそ本物」という実感や、草書体の趣ある美しさを大切にしたいという思いは、私としても十分にわかる。しかし時代の要請の AI 認識を否定するというのは、ある意味で「選民思想」に通じる考え方だとまで思う。そうした意識が「古典嫌い」を育ててしまうのだよ、きっと。

というわけで、彼女の試みに精一杯の拍手を送り、応援したい。いつの日か、Google のサイトで古文書の画像をアップすると、瞬時に現代の文字に置き換わるなんていうサービスが始まることを期待して。

 

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