2021年4月13日

「会議は 30分」というトヨタ的テーゼの導くものは

東洋経済 ONLINE に "トヨタの会議が「30分で終わる」超合理的な理由" という記事がある。"少しの差を積み上げ最終的に大きな時間を作る" というサブ見出し付きだ。

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この記事の筆者である山本太平氏は「トヨタ本社のエンジニアとして、長らく生産現場にいた」方のようで、"社内で「会議は 30分!」と、口を酸っぱくして言われていた" と力説している。会議の時間が短いと他の仕事に回すことのできる時間が増えて、非常に効率的であるというのだ。

これはまことにもって「もっともな話」である。反対する理由は極めて見つけにくい。

ちなみに私は以前、合計 10年以上業界団体事務局というところに関係していて、その団体の理事が集まる「理事会」を主催していた。その他にもプロジェクトごとに企業から派遣される委員の集まる「〇〇委員会」という会議も頻繁にあったと記憶している。

業界団体の会議というのは、最低でも 1時間半ぐらいの時間を設定していた。そのくらいの時間を取らないと、定められた会議室までわざわざ各社から集まってもらうための「もっともらしさ」が出ないのである。この時間の長さは、「必要悪」というものかもしれない。

そうなると、この長い時間を埋めるために、どうしても「無駄な時間」を会議に盛り込む必要が生じる。本当に必要な話だけなら 30分足らずで終わってしまうので、適当な名目で「世間話」を交わす時間を確保するわけだ。

本当に有能な理事や委員なら、この「一見どうでもいい世間話」の中から自分の仕事に役立たせる「エキス」を吸い上げることができる。しかし他のほとんどの出席者にとっては、単に「楽しい雑談」に過ぎず、そのまま会議後の「飲み会」に突入するためのプレリュードみたいなことになってしまうのだ。

こうした体験から、「会議は 30分もあれば十分」ということには私も充分に賛成だ。とはいいながら 1時間や 1時間半の「一見無駄な時間の多い会議」をしても、有能な人はその「無駄」の中にさえ、あるいは「無駄」の中にだからこそ、貴重な何ものかを見出すことができるものである。

ただ、問題は「有能な人なんて、出席者の 1割程度でしかない」という現実だ。つまり、9割の人にとっては 30分以上の会議は「時間の無駄」でしかない。たった 1割の人のために、9割の人に「不合理」を強いるなんてことは徹底して避けるというのが、トヨタのスタイルなのだろう。

ということは、トヨタのクルマというのはほぼ 9割の人を満足させる「超合理性」を発揮することはできても、「たった 1割の人にだけアピールするようなユニークな面白さ」には欠けることが多いというのも道理である。社風そのものなのだね。なるほど、なるほど。

「面白さ」とは「無駄」の中にあることが多いものだから。

 

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2021年4月12日

「ウザいおっさん」になってしまうのが憚られて

ちょっと悩んでしまっている。というのは、関係先の女性スタッフから来たメールに「今後は代替えとして使うことにしましたのでよろしく」なんて表現があったからだ。公式の業務メールだけに、「代替え」という字面にどうしても「うっ!」となってしまったのだよね。

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「この場合は『代替』と表記して、『だいたい』と読んでもらう方が、軽々しくみられずに済みますよ」なんてアドバイスをするのは、それほどの手間じゃない。それにその女性スタッフとは日頃からあまりよそよそしくない程度のお付き合いはさせてもらっているので、その方が親切といえば親切だろう。

ただ、つい最近「東洋経済 ONLINE」で "ウザい「教え魔」が日本人に多すぎる訳" なんていう記事を読んでしまったので、そんなように思われるのもナンだしなあと思ってしまったわけである。この記事の冒頭の写真が上のように、いかにも「ウザいおっさん」そのものということも邪魔をする。

私は 2年ちょっと前の "「慣用読み」という便利すぎる言い訳" なんて記事で「代替」というのは「読み違えベスト 10」の 9位にランクされていると書いている。ちなみにトップは 「乳離れ」(正しくは「ちばなれ」)だそうだ。

この記事の中で私は、Amazon ショッピングの「PC 電源代替えボタン」という商品を紹介している。これ、さすがに「ヤバい」ということになったのか、すぐに「PCケース 電源ボタン リセットボタン 移動可能 ボタン スイッチ」なんていう長ったらしい名称に変更されていた。

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それが現在ではさらに「PCケース用 電源ボタン」になっていて、「PC 電源代替えボタン」よりずっとわかりにくい表現になっているというのも皮肉な話である。いずれにしてもそんなような(半分は個人的な)裏の事情があるので、軽い気持ちでアドバイスするのを躊躇しちゃってるわけだ。

それにしても「代替」が「だいがえ」と読まれがちなことに関しては既に慣れてしまったが、文字として「代替え」なんて書かれることにはまだ抵抗がある。最近は日本語入力システムが妙に気を利かせすぎで、「だいがえ」という入力であっさり「代替え」に変換してしまうのは、問題ありすぎだよね。

というわけで「ウザいおっさん」と思われるのを憚るあまり、勝手に「悩めるおっさん」になってしまっているのである。

 

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2021年4月11日

野菜を食べるカレー camp

出張で博多に来ている。本州から出るのは、昨年 3月の北海道出張以来、1年以上ぶりだ。

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博多は大好きな街なのだが、ただ一つ不満があった。それは、「食」に関する話である。豚骨スープベースが多い博多ラーメンの店が多いので、肉を食わない私にとっては食うものがかなり限られるのだ(参照)。

そもそも大阪からこっちは肉料理の店が多くて閉口してしまうのである。それに西日本は私の好きなそばを食わしてくれる店が少ないし、博多のうどんはこしがないのが特色なので、まずいというわけじゃないが、好みからはちょっとはずれる。日が暮れてから食うメシを探すのが大変なのだ。

ところが、偶然にいい店を見つけた。野菜カレーの専門店 "camp" という店である。とにかく肉を使わないカレーの店なのだ。駅ビル KITTE の地下にある。今日食べたのは、「1日分の野菜のカレー」(だったかな?)というもので、とにかくもう、野菜がたっぷり入っていておいしい。

この店、私は博多に来て初めて知った。今日はいい発見をしたのでネットで検索してみたところ、新橋、代々木、渋谷にもあるようだ(参照)が、残念ながら地元のつくば周辺では見つからなかった。

今朝は早起きして出てきて疲れたので、このくらいで失礼。

 

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2021年4月10日

「PCR 検査」の "PCR" ってどういう意味?

知人が近頃、熱が出て咳が止まらなくなり、こんなご時世でもあるので慌てて PCR 検査を受けたところ、コロナに関しては陰性という結果でほっとしたらしい。電話で声を聞いても当人とわからないほどのかすれようで、気の毒な限りだった。しっかり静養してもらいたい。

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そして電話を切ったところで、いつものように言葉のどうでもいいところに引っかかる悪いクセが出て、「はて、『PCR 検査』の "PCR" って、一体何だ? どういう意味だ?」 というのが気になってしょうがなくなってしまった。

それで 「PCR 検査 英語」というキーワードでググってみたところ、英会話スクール AEON の "「PCR検査」って英語でなんて言う? スクールブログ 姪浜校" というページが検索されたので早速開いて見ると、こんなことになっていた。

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いやはや、これにはコケた。こんなにも思いっきりコケたのは本当に久しぶりというほどにコケた。「QR コード」を調べて「英語では "QR code" です」なんて言われても何の解決にもならないのと同じである。(今さら言うまでもないが、 ”QR” は ”Quick Response“ の略)

気を取り直して、"PCR 何の略" というキーワードでググったところ、福山市医師会のページがヒットして、"Polymeranase Chain Reaction" の略語とめでたく判明した(参照)。日本語で言っても私にはどうせちんぷんかんぷんだが、「ポリメラーゼ連鎖反応」だそうだ。

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そしてその下に長々と続く説明を読んでも、「ふぅん、わかったような、わからないような、まあ、とにかくこの検査で感染症に感染してるかどうか、判明する訳ね」という程度のものだが、とりあえず「英語で "PCR test" です」よりはずっと奥まで踏み込めた気がする。

それにしても世の中の多くの人って、「『PCR 検査』は、英語で "PCR test" です」で、すっきりと納得してしまうのかなあ。何と平和なことだ。

 

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「国民文化祭 2008」てのが茨城で開催されたらしい

茨城県南の守谷市に、つくばエクスプレスと常総線の乗り入れる「守谷駅」というのがあって、その正面入り口に続く石段の下に、カラー・タイルを石膏で固めたような不細工なモニュメントが飾ってある。私はこれまで、市内の小学生が無邪気に共同制作したものだろうぐらいに思っていた。

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何だか作りがかなりテキトーなようで、右上の拡大写真でわかるように、雨風で溶けた石膏がドロドロ流れ落ちてしまっている。そのためタイルには隙間が生じて、そのうち剥がれ落ちるんじゃないかと思えるほどだ。

ところがこの像の台座は、流れ落ちた石膏で鳩の糞まみれと見間違うようなみっともない状態になっているとはいえ、上に載ったモニュメントとは不釣り合いなほど立派な大理石みたいなのである。不思議に思ってその台座に刻まれた文字(右下写真)を読むと、こんなことだったのである。

2008 国民文化祭記念

  設  置  者 守谷市長  会田真一
  デザイン監修 守谷市文化協会会長
    塚原   三千勝
  制    作 (一文字不明)翔 市民有志

守谷市長の氏名は一つながりで彫ってあるのに、デザイン監修者の方は 1文字分(以上)の空白を取ってあるのが不統一で気になるものの、少なくとも小学生の共同制作ではないようなのだ。正直言って驚いてしまったよ。

それにしても「国民文化祭」なんてちっとも知らなかったので調べてみると、Wikipedia には "文化庁主催の行事で、国文祭と略され、「文化の国体」といわれている" なんてことになっている(参照)。そして確かに、2008年には 11月 1日から 9日までの 9日間、茨城県で開催されたようなのだ。

茨城県のウェブページでは「観客数は目標を上回る118万人を数え、大きな盛り上がりを見せました」なんて自画自賛されている(参照)が、これ、いわゆる「主催者発表数字」の典型なんじゃなかろうか。関係者に押しつけられた入場券を受け付けに置いてすぐに帰った人も相当多いだろうし。

なにしろ前世紀末から当の茨城県民をしている私としては、文化に関心がないわけでは決してないのに、そんな行事が開かれていたなんて全然記憶にないのだよ。念のため 2003年 12月から毎日更新している当ブログの 2008年 11月の記事を見ても、「国民文化祭」なんて文字はまったく見当たらない。

今年は和歌山県で 10月 30日から 11月 11日まで、3週間以上にわたって開催されるらしいのだが、まともな関心を集めているようには到底思われない。どうやらこの行事、関係者が身内だけで盛り上がる「ちょっともったいぶった発表会」の集合体みたいなもののようなのだ。

文化庁としてはこれによって「文化振興」を図っていると言いたいのだろうけど、効果のほどは何とも言いようがない。

そして 13年前の国民文化祭のなれの果てが、この鳩の糞まみれと見紛うような、守谷駅前のモニュメントである。どうにも複雑な気分になってしまうよね。

ちなみに「デザイン監修」として名前の挙がっている 塚原三千勝さん は、守谷市在住の陶芸家で、私の大学の先輩のようなのである(参照)。デザインの「監修」をしただけで、実際の制作にはあまり関わらなかったのかなあ。

 

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2021年4月 9日

唱歌『かたつむり』の「やりだせ」問題をむしかえす

昨日の "「つのだせ やりだせ あたまだせ」の疑問が解けた" という記事で、文部省唱歌『かたつむり』の「やりだせ」の「やり」は、生物学的には 「恋矢(れんし)」というものとわかったと書いた。これでかなりすっきりした気がしたのだが、もう少しつついたところで、さらにややこしくなってしまった。

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まず発端は、昨日の記事に付けられた乙痴庵さんのコメントへのレスを書く際に、「恋矢」はどうみても日本語オリジナルっぽくはないなと思ったことである。早速 Wikipedia で調べてみると、このようなことだった(参照)。

恋矢(れんし、英語: love dart、別名gypsobelum)は、雌雄同体のカタツムリやナメクジが生殖器の内部で生成する、石灰質またはキチン質の槍状構造物である。

どうやら「恋矢」は、英語の "love dart" (恋のダーツ)からの直訳のようなのだ。道理でお洒落すぎる命名だと思った。

ところがこの時、私の頭の中に「この歌の作詞者には、生物学における "恋矢/love dart" に関する知見があったのだろうか?」という疑問がふと湧いてしまったのである。まったく、細かいことにこだわり出すと話が面倒になる一方で、ろくなことがない。

そこで、池田小百合さんという方の「なっとく童謡・唱歌」という素晴らしい労作サイトのページに当たってみると、文部省唱歌の『かたつむり』は明治 44年 5月 8日発行の『尋常小學唱歌』第一学年用に収められたのが初出のようだ(参照)。明治 44年といえば西暦 1911年だから、110年も前の歌なのである。

そしてこのページには、次のような記述がある。

歌では「触角」を「角」や「槍」に見立てて「♪ 角だせ槍だせ めだま出せ」と歌っています。

つまりここでは「恋矢」は完全にスルーされて、「触角」を「角」や「槍」に見立てたということになっているのだ。この「見立て」というのは、古来から日本文化における重要な要素とされており、決して荒唐無稽な話ではない。

私見ではあるが、当時の日本には「恋矢」という翻訳語が存在しなかっただけでなく、カタツムリが頭の横から槍のような器官を突き出すことがあるということすら、広くは認識されていなかったのではなかろうか。

というのは、それがもし広く認識されていたとしたら、今日「恋矢」と呼ばれる器官には、翻訳語ができる前から伝わる日本古来の呼称があったはずだが、それがない。ということは、昔の日本人は「恋矢」と呼ばれる器官を知らなかったか、少なくとも意識していなかったのだと思うしかない。

念のために細かいことを言えば、仮に明治末期の日本で「恋矢」が「知る人ぞ知る知見」となっていて、作詞者がそれに沿って作詞したのだとしたら、歌詞は「槍だせ」とはならなかっただろう。「矢をだせ」になっていたはずだ。

結局のところ、文部省唱歌『かたつむり』の歌詞に出てくる「やり」というのは、元々は「触覚」を「槍」に見立てたものだったのだろう。どうやらそう考えるのが自然のようだ。

とはいえ令和の世の中に生きる者としては、明治的直感主義の「触覚説」と、現代的合理主義の「恋矢説」の、両論併記とするのもおもしろいと思う。オリジナルの意図にとらわれずに「恋矢」と解釈するのは、なかなか新鮮でいい感じだし。

私は昨日の記事で、西浩孝さんのページについて「強引な決めつけを避け、"一説には『恋矢(れんし)』だと言われています" と控えめな記述にとどめておられる」ことを賞賛したが、彼は私が当初思った以上に、学者としての正しい姿勢を保っておられるのだと、ここに至って再認識した。

改めて賞賛させていただく。何事も軽はずみな決めつけはよくないのだね。

 

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2021年4月 8日

「つのだせ やりだせ あたまだせ」の疑問が解けた

今日の記事は一見軽いようだが、ちょっとしたウンチクも含むことになる。文部省唱歌の『かたつむり』の歌詞についての長年の疑問が解けたという話だ。

この歌は、多分誰でも知っているだろう「♫ でんでんむしむし かたつむり おまえのあたまは どこにある」という、あの歌だ。ところが私はこの歌の後半、「♫ つのだせ やりだせ あたまだせ」という歌詞に、子どもの頃からそこはかとない疑問を感じていた。

「かたつむりの 『やり』って何だ?」ということだ。

「つの」はわかるし、「めだま」も、その先の小さな丸い部分のことを言ってるんだろうとわかる。しかしカタツムリが「槍」なんてもってるわけないじゃないか。この疑問については、大人に聞いても誰もまともな回答は与えてくれなかった。半世紀以上にわたる謎だったわけである。

ところが今日、ふとした気まぐれでググってみたところ、あっさりと、そして見事に疑問が解けたのである。それは BuNa というサイトの「カタツムリのツノって何? 目玉はどこにある?」という記事のおかげだ。西浩孝さんというカタツムリ研究の専門家の書かれたものだから、信頼性に問題はないだろう。

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この記事を読めば、カタツムリについてかなり詳しくなること請け合いだが、ここはスペースも限られるので、カタツムリの「やり」に関する部分に絞って紹介しよう。下は、このページの上から下に 3分の 2 ぐらい辿ったあたりの位置にある写真のスクリーンショットだ。

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カタツムリの頭の右から突き出ている、まさに「やり」のように見える白い突起に注目していただきたい。これ、「恋矢(れんし)」と呼ばれる器官だそうで、次のように説明されている。

ちなみに、歌詞の中の「ヤリ」は、一説には「恋矢(れんし)」だと言われています。恋矢は一部のカタツムリが交尾の際に相手を突き刺すのに使います。石灰質で先がとがっており、まさしくヤリの形(写真はツルガマイマイの恋矢)

強引な決めつけを避け、"一説には「恋矢(れんし)」だと言われています" と控えめな記述にとどめておられることで、逆に私は信頼を深めてしまったよ。長年の疑問を晴らしてくれた西先生に、心から感謝である。それに、そもそもこの器官の名が「恋の矢」だなんて、なかなか粋な話ではないか。

それにしても子どもの頃はよくカタツムリを捕まえてきて遊んだものだが、「恋矢」なんてものには全然気付かなかった。まさに大切なのは「じっくりとした観察」であると、つくづく反省した次第である。

【追記】

乙痴庵さんのコメントへのレスを書くにあたってのいろいろな四方山話を、一時的にこの記事の「追記」として書いたが、あまりにも長くなるため削除し、明日付の別記事とさせていただくことにした。

【4月 9日 追記】

この件について "唱歌『かたつむり』の「やりだせ」問題をむしかえす" という記事にまとめた。本日の結論とは違って、「カタツムリの『触覚』を『やり』と見立てたものと解釈するのが、とりあえず妥当ではないか」という結論に達した。とはいえ、「恋矢」説も捨てがたく、いろいろうだうだ述べているので、合わせて

Yoroshiku4

 

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2021年4月 7日

テレワークが定着しない日本の「飲み会メンタリティ」

緊急事態宣言が解除されてから、朝夕の電車や道路の混雑が元に戻ってしまったように感じているのは、私だけではないと思う。テレワークというシステムをきちんと定着させていれば、こんなことにはならなかっただろうに。

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東洋経済 ONLINE の ”ドイツと日本「テレワーク格差」が拡大したワケ” という記事によれば、最近までは日本と同様「テレワーク小国」だったドイツが、コロナ禍をきっかけに「テレワーク大国」へ進化を遂げたという。"日本人は「出社したがり病」に見えている" というサブタイトルが衝撃的だ。

記事によれば、日本におけるテレワークの実施率は「会社の規模」によって差が生じている。小規模な企業ほど  IT インフラへの投資が難しいためか、テレワークの実施率が目に見えて低い。

しかし IT インフラの未整備という以上に大きな理由は、小規模な企業ほど「仕事は会社の大部屋で、みんなでするもの」という考えから離れられないことだと思う。不思議なことに多くの日本人は、同僚との雑談といった「お付き合い要素」も含めないと、「仕事」をしたような気がしないようなのだ。

こうした思い込みは、仕事が終われば一緒に酒を酌み交わさなければ気が済まないというメンタリティに通じる。厚労省の役人がコロナ禍の中で深夜まで送別会という名の宴会をしていた(参照)というのも、同じ根っこだ。多くの日本人は同じ根っこをもちながら、健気に(?)我慢しているわけなのだが。

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上の写真からリンクされる記事は生々しいまでに具体的な目撃証言といった風情で、まさに「あぜん」としてしまう。ここまで来ると日本でテレワークが定着しない最大の理由は、「飲み会ができなくなるから」ということなのかもしれない。

ちなみに私がドイツのフランクフルトに定期的に出張していた 1977〜83年頃は、ドイツのおっさん連中も飲み会が大好きという印象だった。ビアガーデンで大きな声で(さすがドイツだけに、フツーにハモって)歌いながらビールをがぶ飲みしていたものだが、最近は変わったのかもしれない。

それなら日本人も変われるかというと、団塊の世代ジュニア以上のおっさんたちには難しかったりして。

 

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2021年4月 6日

日本人は「赤・青・白・黒」以外の色のコンセプトが薄い

昨日の "「太陽が赤い」というのは日本人だけということについて" という記事で、大切なことを書き落としていた。それは、太陽は国際的には黄色という認識が一般的だが、古代日本人には「黄」という色の概念がなかったので、赤く描くほかなかったという事情である。

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「雑学カンパニー」というサイトに、「不便…? 古代日本には赤・青・白・黒の 4色しかなかった」というページがある。ただ「4色しかなかった」というのはある意味ビミョー過ぎる表現で、より具体的に言えば「どんな色でも 4色でしか認識しなかった」ということだ。

日本語で色を表す言葉は、今では数多くあるが、元々あったのは「赤・青・白・黒」の 4語のみである。それ以外の色名は、後世になって加わったものだ。

基本となる「赤・青・白・黒」は初めから名詞としてあったわけではなく、以下のように形容詞から名詞化したものと考えられている。

古語 読み/意味   色名
明し あかし/明るい
淡し あはし/淡い
顕し しるし/明白だ
暗し くらし/暗い

このため、現代語でも色名に「い」を付けて形容詞になる(あるいは戻る)のは、「赤い、青い、白い、黒い」の 4語だけだ。「黄」と「茶」は基本的色名のようでも「黄色い、茶色い」と、「色」という言葉の助けが必要だし、「緑」「紫」などは、「緑色い、紫色い」とすることもできない。

というわけで古代日本人にとっては、太陽は「明るい」のだから、その色は「赤」に他ならなかったのである。その認識が 21世紀の現代に至るまで続いているというのは、ある意味すごいことだ。

ちなみに新鮮な木の葉や草の色を一般的には「緑葉」と言わずに「青葉」と言うのも同じ事情によるが、絵に描かれるとさすがにブルーではなく、ごく自然にグリーンになる。これには、葉っぱまで青くしたら背景の青空と区別が付かなくなるからということもあるだろう。

一方で太陽の「赤」は青空を背景に燦然と表現できるので、古来から変わることなく象徴的な意味合いも強めつつ続いてきた。つまり日本人の「赤い太陽」という認識は、かなり根強いものと言うほかない。

昨日の記事は、この「根強い認識」に関する説明としての方が意味が明らかになるかもしれない。どうやら書く順番を間違えたようで、本来は今日の記事を先にすべきだったのだろうが、もう変えるわけにいかないので、

Yoroshiku4

 

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2021年4月 5日

「太陽が赤い」というのは日本人だけということについて

よく「太陽が赤いと思っているのは、日本人だけ」と言われる。日本の子どもが太陽の絵を描くと、ほとんどが赤く塗られるが、外国の子どもの絵では黄色系の色になることが多い。

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上の写真は、私が「和歌ログ」で撮りためた太陽の写真の中から選んだもので、左上は昼に近い時刻の太陽。右上と左下は夜明けの太陽で、とくに左下は昇ってきたばかりのものだ。そして右下は夕焼けの太陽である。

こうしてみると、高く昇ってしまった太陽はほとんど「白」といっていい。一方、夜明けと日没時の低いところにある太陽は赤っぽいが、これは太陽光線が自分のいるところに届くまで長く大気中を通過するために、波長が長くて散乱しにくい赤の光線が届くためといわれる(参照)。

ただ、よく見れば朝夕でも実際に赤っぽいのは太陽そのものよりも周囲の空や雲の色であることが多く、太陽そのものは左下の 1枚を除けばむしろ白っぽい。大気中を長く通過して、赤い光が最後に散乱しているのだろう。左下の太陽が例外的に周囲より赤いのは、薄い雲を透かしているためだと思う。

日本人が「太陽は赤い」と思ってしまう最大の理由は、「日の丸」の印象が圧倒的に強いということだろう。日本人の心の中にあるのは、「実際の太陽」というよりむしろ「象徴としての太陽」のようだ。

もう一つの理由は、真昼の太陽は眩しすぎてまともには見ることができないので、朝と夕方の太陽が印象に残りやすいということだろう。しかし上述のように、多くの場合で赤いのは「太陽そのもの」よりも、光線の散乱によって染まった「周囲の色」であることに注目したい。

日本人は「無意識的な認識操作」を作動させることによって、「対称物そのものと、その周囲」を一緒くたに認識することが多いようなのだ。それで、実際に赤いのは「周囲の空の色」でも、意識の中ではそれが「太陽の色」として印象付けられるのだろう。

そもそもの話として、国旗「日の丸」が赤い真ん丸で表現されるのも、日本人のこうした意識傾向によるのだろうと思われる。

【同日 追記】

「ヤシろぶ」の "国際比較「子供が描く太陽の色」" という記事によると、国際的には黄色が主流だが、タイの子どもは日本人同様に太陽を赤く描くらしい。

【4月 6日 追記】

「みんなの知識 ちょっと便利帳」というサイトの ”「太陽」を配した国旗・地域旗” というページには 25の国・地域の旗が紹介されているが、多くは太陽が黄色で表現されており、それ以外の色は以下の通り。

白: 台湾、ネパール民主共和国、マーシャル諸島
赤: 日本、バングラデシュ人民共和国、マラウイ共和国
オレンジ色: ニジェール共和国
多色使い: フランス領ポリネシア

ちなみに、「赤い真ん丸」は日本とバングラデシュというアジアの 2カ国のみ。アフリカ南東部、マラウイの国旗にある太陽は、地平線上に半分が顔を出したようなデザインなので、朝日か夕陽なのだろう。

 

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