2021年8月 2日

今さらだが、安倍晋三の皇室に関する意識を疑う

一昨日の記事で、恐縮ながら安倍前首相の「滑舌の悪さ」について触れた。東京 2020 大会の開催を決めた IOC 総会のスピーチの冒頭で、"Mr. President" (ミスター・プレジデント)を「ミスター・プレゼント」とやっちゃってる。

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この関連でググってみたところ、"「已む」読めなかった? 安倍首相が歴史的儀式で驚きの大失言" という AERA の記事(筆者は田岡俊次)が見つかった。

平成 31年(2019年)4月 30日、「退位礼正殿の儀」での「国民代表の辞」で、安倍首相(当時)が、「天皇、皇后両陛下には末永くお健やかであらせられますことを願ってやみません」というところを、「〜願っていません」と言っているというのである。これでは意味が逆になるので大問題だ。

YouTube  に登録された動画を確認してみると、確かに「〜願っていません」と聞こえる(11分過ぎ頃)。何度聞き直しても間違いない。

この記事で田岡は、安倍は「教養のある官僚」の書いた原稿の「願って已みません」の「已」の読みがわからず、「いません」と読んでしまったのだろうと推測している。「云々」が読めなくて「でんでん」と言っちゃうような人だから、あり得なくもない。

ただ私としては、このあたりはもうちょっと素直かつ常識的に考えたい。いくら「教養のある官僚」でも「今どきの人間」だし、一応「読み手(「でんでん」なんて言っちゃう人)の教養」まで配慮するだろうから、「已みません」という表記は考えられない。下の首相官邸の tweet (参照)もあるし。

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問題の動画を見ると、彼が口ごもり始めたのは「願ってやみません」の直前、「末永くお健やかであらせられますことを・・・」(10分 50秒頃)あたりからであることに注目したい。この部分、実際に声に出して読んでみればわかるように、アナウンサーの練習課題にしたいほど発音が込み入っている。

安倍としては当然口がついていけずにメロメロになってしまい、「あられますことを」と口走った後に、やっと「あらせられますことを」と言い直した。ただここでアセったせいか、その続きの「願ってやみません」の発音が、ドサクサ紛れ的に端折られてしまったようなのである。

ただ、彼の「代表の辞」はこの部分だけでなく、冒頭の「謹んで申し上げます」からして、まったく「謹んで」なんかおらず、「ツッシンで、モーシャゲます」と、さりげなくも無遠慮に端折られている。その後の「皇室典範特例法の〜」も「コーシキてんぱん〜」としか聞こえない。

彼はどうやら、”ts, d, s, r, y, m" の子音の発音と、日本語の原則、「仮名 1文字= 1拍・同じ長さ」(参照)のキープが苦手のようなのだ。ということはたとえアセらなかったとしても、「やみません」が「いません」に端折られる(下参照)ぐらい、自然の成り行きだったかもしれない。

【や/み/ま/せん → やぃ/ま/せん → い/ま/せん】

「滑舌の良し悪し」は身体的にある程度しかたのないことだから、差別的にどうこう言うつもりは毛頭ない。ただ、彼は普段「右側の政治家の代表」みたいな顔をしているのだから、こうした「荘厳な式典」の原稿は、もっと意識して慎重かつ丁寧に読むのが当然ということぐらいは、言わせてもらってもいいだろう。

「どうせ形式的な式辞だから」とばかり、無造作に本番に臨んだのがバレバレという点で、神経を疑ってしまうところである。

一昨日の記事で触れたように、「言い違い」や「トチり」には、深層意識内にある無意識の思いがひょろりと顔を出してしまいがちというのが定説だ。ということは、少なくとも彼の深層意識では、普段口にしているほどには皇室を尊重していないのではないかと疑われても。仕方のないところである。

 

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2021年8月 1日

オリンピックと、自民党的「老害」の本質

共同通信が昨日付で ”選手の活躍「政権に力」 五輪開催で自民河村氏" というニュースを伝えているが、当初は見出しの意味がわからなかった。そして記事本文を読んでやっと理解できたのは、自民党の「老害」が極まっているということに他ならない。

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この見出しは「オリンピックの日本選手は自民党政権の宣伝部隊」と言ってるようにさえ見え、記事本文もまさに以下の 2点に要約される。

  • 自民党の河村建夫元官房長官は 31日、東京五輪で日本代表選手が活躍すれば、秋までにある次期衆院選に向けて政権与党に追い風となるとの認識を示した。

  • コロナ禍の中でのオリンピック開催に対する批判もあるとの指摘に、「五輪がなかったら、国民の皆さんの不満はどんどんわれわれ政権が相手となる。厳しい選挙を戦わないといけなくなる」とも語った。

これをもっと直接的な表現に翻訳すれば、「日本選手が活躍すれば国民の政権への不満はきれいに解消され、秋の衆院選で自民党に有利」で、「オリンピックは国民の不満を遮るスクリーン」ということになる。炎上ものの言い草だ。

ここまで勝手なものの見方ができて、それをいけしゃあしゃあとマスコミに語れるというのは、もはや「老害」以外の何ものでもない。

森喜朗(84歳)が今回の騒ぎでほんの少しだけおとなしくなったと思ったら、今度はこの人がいろんなことを言い出した。年は順番にとっていくので、老害発揮も順番に担当することになる。

彼は山口 3区で、林芳正との間で党の公認争いになるのが必至とみられていて、馬鹿馬鹿しいほど生臭い様相を呈している(参照)。この人ももう 78歳にもなるのだから、そろそろ縁側で猫でも撫でていればいいのに、そんな様子はまったくない。

それは「(総理と同格の)桐花大綬章を受けるために、最後に衆議院議長をやって辞めたい」(参照)ということのようで、前々から周囲に吹聴もしているらしいのである。今さら後には引けないのだろう。

一方、菅首相は 73歳と、上述の 2人に比べればまだ若いが、老害振りはひけをとらない。AERA では "菅首相会見が NHK 中継されると「支持率下がる」官邸で嘆きの声" と伝えられている。以下、官邸関係者の語ったコメントだ。

NHK は生中継で会見を流していますが、相当程度、支持率低下に貢献していると思います(笑)。首相のボキャ貧はもとより、政治家としての発信力が決定的に欠如しています。プレゼンのトレーニングをした方がよいレベルです。

菅首相と言えば、その素顔に迫る映画『パンケーキを毒味する』というのが話題だ。この人、その筋ではパンケーキが好物と伝えられ、昨年秋には「パンケーキ記者懇談会」なんてものを開いている。

この映画の企画に関わった元官僚、古賀茂明氏の語ったことをまとめた、 ”古賀茂明氏、菅義偉首相について「本当にしゃべらない。本心を見せない」” という日刊スポーツの記事を見つけた。ちょっとおもしろいので、オススメしておく。

要するに菅首相という人、実は「発信力が不足している」というよりむしろ、「発信しない」という手法を自ら積極的に選択してきたと見る方が正確のようなのだ。つまり「自らは決して発信しないかわりに、時々ぶちキレて見せる」というスタイルを武器として、ここまでのし上がってきたわけだね。

これって、自民党的、もっと言えばヤクザ的な「老害」を形成する本質と密接に関連すると思う。

ただ、そもそものことを言えば、こんなスタイルの人が首相なんてやっちゃいけないよね。あまりにも長い間避け続けて来たために習い性となって、ついに「発信」ってどういうものかすら、理解できなくなっているわけだから。

 

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2021年7月31日

「理想的な気候」と「ダイナミックなカタカナ英語」

暑い。こんな中でオリンピックをやってるんだから、ご苦労なことである。まあ、私は開会前から「どうぞご勝手に」と言ってるので、無関係を決め込んでいられるが、屋外競技に出ている選手はまったくもって気の毒だ。

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この件について、日本は 2013年の IOC でのオリンピック招致のプレゼンテーション文書で大嘘をついていたとの批判が、国際的に高まっているという。(参照

そりゃそうだ。「温暖で晴れた天候が多いこの時期は、アスリートにとってベストのパフォーマンスができる理想的な気候」(With many days of mild and sunny weather, this period provides an ideal climate for athletes to perform their best.)なんて、当たり前の感性ではとても言えない。

ちなみに IOC 総会での関係者のプレゼンは絵に描いたようなカタカナ英語のオンパレード(参照)で、滝川クリステルのフランス語はさすがに上手だが(参照)、「お・も・て・な・し」なんていうのは「裏ばかり」ってことかと、思い出すさえ気色悪い(参照:「おもてなし」には、やっぱり裏があった)。

福島の原発の状況を "under control" (制御下にある)とほざいた安倍晋三(当時の首相)は、もっとヒドい(参照)。

表情だけは根拠不明の得意満面さだが、そのスピーチとなると「小学生を相手にしてるみたい」と言いたくなるほどのことさらな単語区切りの上に、その「カタカナ英語」がかなり舌っ足らずのため(この人、母国語も舌足らずで滑舌が悪いし)、「二重の幼稚さ」が印象付けられる。

とにかく最初の一言、"Mr. President" のつもりで「ミスター・プレゼント」なんて言ってるので、8年前のニュースでものっけからコケたのを思い出してしまったよ。

さらに東京について、”one of the safest cities in the world" (世界で最も安全な都市の一つ)と言いたかったんだろうが、どういうわけか、やたらと、区切り、ながら、”one of the, safest, sixties, in the world" (世界で、最も安全な、60年代の、一つ)なんて言ってる。

まあ、多くの出席者はイヤフォンで自国語による同時通訳を聞いてるから、満場がコケずには済んだようだが。

この関連で、当時の都知事で「ダイナミックなカタカナ」(末尾の「注釈」参照)による招致プレゼンをしていた猪瀬直樹という男が後にテレ朝系「大下容子ワイド!スクランブル」 に出演した時の模様を、スポーツ報知が 2019年 10月 30日付で伝えている(参照)。これ、しっかりとむし返しておこう。

杉村氏が「マイルド・サニーじゃないんじゃないかって気もする。それは後ろめたい気持ちはない?」などと聞くと「マイルド・サニーって書いてあるの? ハハハッ…それはそのくらいプレゼンテーションはそんなもんでしょ」と返していた。

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いやはや、テキトーなものである。そばにいたら、どつくよ。

さらに言わせてもらえば、真夏の東京が殺人的な暑さであることは、何も今年に始まったことじゃない。かなり前から世界の常識なのだから、ほとんどの IOC 委員たちにしても知らないはずがないではないか。

プレゼン資料の大嘘が何事もなくスルーされちゃってるのだから、まさに徹頭徹尾「おもてなしで裏ばかり」(つまり損得勘定)というわけだ。日本が「大嘘つき」というだけでなく、それをすらりと受けた IOC 全体が欺瞞的だったのだと言わなければならないだろう。

始まってしまってから「苛酷な暑さ」なんて言い出すのは、率直に言えば「今さら感」ありありだ。

【注釈】

猪瀬直樹のプレゼンを、つい「ダイナミックなカタカナ」と表現してしまったのは、プレゼンテーション・スピーチがまさにそんな感じだったからである。

まず東京という都市について語ろうとして、”Tokyo is the city that is Dynamic..." と言い出したのっけ(開始 7〜8秒あたり)から、「ダイナミック!」(「ミッ」にアクセント)なんて言いつつわざとらしく拳まで振り上げたりしておいでだ。

これ、本来のアクセントは、「ダイミック」(「ナ」にアクセント)ね。でもまあ、安倍前首相の「ミスター・プレゼント」も含めて、「プレゼンテーションなんだから、そんなもん」か。

 

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2021年7月30日

「謝らない謝罪」それは「遠回りな開き直り」

Newsweek 日本版の ”「謝らない謝罪」が日本で蔓延している” という記事に共感した。「その言葉への違和感」として望月優大氏の書いたものである。

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多くの読者は、見出しを見ただけで何のことだかすぐにわかるだろう。そう、例の「誤解を生じさせてしまったことについてはお詫びする」とか、「誤解を与えたのであれば申し訳ない」とかいう(かなり都合良すぎる)決まり文句のお話だ。

世間はとくに最近、この類いの妙なアポロジーに溢れていて、私もかなり気になっていたところである。記事によれば、英語には "non-apology" ("non-apology apology" とも)という言葉があり、オックスフォード大学が運営する辞書サイト "LEXICO" では、次のように説明されている(参照)。

謝罪の形式を取りながら、問題行為や混乱発生に関する責任を認めることや悔悟の念の表明にはなっていない声明(tak-shonai 訳)

つまり、形だけは謝罪のように見えても、言外に「俺、別に悪くないもんね」と語っている詭弁的なコメントを指す。

そのココロは、「そんなつもりはなかったのに、お前らが面倒なことをゴチャゴチャ言いやがるんで、鬱陶しいから一応形だけは謝っといたるわ」ということだ。これ、要するに「遠回りな開き直り」である。

森喜朗が 2月に東京五輪・パラリンピック大会会長を辞任した際の以下のような「〜けれども」「〜だが」の連続する戯言(参照)は、ただでさえみっともない non-apoiogy の中でも最低の部類と言っておく。

まあこれは解釈の仕方だと思うんですけれども、そういうとまた悪口を書かれますけれども、私は当時そういうものを言ったわけじゃないんだが、多少意図的な報道があったんだろうと思いますけれども。まあ女性蔑視だと、そう言われまして。

菅首相も昨年末の多人数での会食についてツッコまれ「国民の誤解を招くという意味では、真摯に反省している」なんて言っている(参照)。しかしコトは「誤解」の余地なんてない「単純事実」なのだから「詭弁」というにもお粗末すぎで、実際はちっとも反省にも謝罪にもなっていない。

この他にも「そういう意味で言ったわけじゃないんですが・・・」とか「差別的意図はなかったんですが・・・」とか言うのは、こうしたコメントの枕詞のようなものだが、ちょっと心理学を囓った者なら、「そういう意味だったんだよ!」「本音がポロリと出たんだよ!」とツッコミたくなるに違いない。

フロイト心理学が広く認知されている米国では、ちょっとした言い間違いやトチりに深層心理内の本音がひょっこり顔を出すということは、知識層の常識みたいになっている。だから「そんなつもりじゃなかった」という言い訳で切り抜けるのは、米国ではもはや困難だ。

つまり彼らの問題発言は、「誤解を生じた」なんてことではなく「本音が図星でバレた」ということに他ならない。形だけの謝罪で済まされることではなく、本気で詫びて反省しなければならないところなのだ。

それができずに「些細な問題」で済ませている限り、彼らの本音はいつまでも醜悪なまま残るし、以後は巧妙にとぼけようとするだけに、ますます始末に負えない。

 

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2021年7月29日

漫才は二人でなければならないか?

やしろぶ」というかなりおもしろいサイトがあり、この中の最新記事が ”国語辞典たちが「漫才」に課すムダ条件、「二人」” である。ほとんどの国語辞典が漫才は「二人」で行う芸能としていることに対して、徹底的に疑問を述べたものだ。

なるほど、昭和のレツゴー三匹、かしまし娘、チャンバラトリオから、1980年代(この頃も昭和といえば昭和か)のトリオ・ザ・テクノ(いやはや・・・)等々に至るまで、三人の漫才芸にはこと欠かない。ただ個人的には、これらの「トリオ芸」は「漫才」の範疇からはみ出すのではないかと思ってきたのだが。

折しもまさにそのトリオ・ザ・テクノのちょっと前頃に大学院にまで進んで古典芸能なんていうゼニにもならない研究をしていた不肖私めとしては、「漫才が二人なのは当然じゃん!」と思ってしまうのだ。というのは、現代の漫才は伝統芸能「萬歳」の系譜を引いているからである。

萬歳は基本的に「太夫」(たゆう)と「才蔵」(さいぞう)の二人一組で演じられる芸能である。それで、その系譜を引きつつ寄席芸能となった「漫才」も当然ながら二人一組なのだ。これ、日本の常識である。

我が故郷、庄内の地でも、私が小学校に入る前(半世紀以上前!)は正月になると萬歳が門付けに廻って来たもので(あれは「秋田萬歳」だったのかなあ?)、幼い私は大喜びで見ていた。ただどういうわけか、あまり教育にはよろしくないと思われていたようで、夢中で見ていると大人に叱られたりもした。

その頃は「大黒舞」(庄内弁では「でっごぐめ」という)なんてのもあったなあ。今では「〽︎ 明けの方から福大黒、舞い込んだなァ・・・」って歌の方が民謡のスタンダードとして有名になってしまっているが。

と、こんな風に考えているうちに、不意に「ありゃ、萬歳は必ずしも二人一組とは限らなかったりして・・・」などと、ここまでの流れからするとかなり「不都合な真実」を思い出してしまった。それでググってみて動画部門の最上位に出てきたのが、なんともはや、上の三河万歳の動画である。

これ、太夫が一人に、才蔵が二人の三人構成で演じられている。このパターンはあくまでも変則ではあるが、実際にはそれほど珍しくもないのだよね。門付け芸としては大抵二人一組だが、神社での奉納や、少々改まってのパフォーマンスとなると、ご丁寧に才蔵を複数にしてしまうことがあるのだ。

Wikipedia にも、「萬歳は太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)の 2人が 1組となるものが基本となるが、門(かど)付けではなく座敷などで披露されるものは 3人以上から、多いもので十数人の組となる」とある(参照)。ただ私は「十数人」の萬歳なんて見たことがないけどね。

というわけで、寄席の「トリオ芸」というのも、才蔵が二人バージョンの萬歳みたいな「派生パターン」と考えていいのかもしれないと思い至った次第である。やしろぶさん、常識外れ扱いしかけてごめん。

 

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2021年7月28日

ウィルスとマスク着用の、かなり面倒なお話

Gigazine の昨日付に 「新型コロナワクチンを接種したらマスクをしなくても OK なのか?」という記事がある。元記事は "Should fully immunized people wear masks indoors? An infectious disease physician weighs in" という記事だ。

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元記事の見出しは訳すと「きちんと予防接種した人は屋内でマスクを着用すべきか? 感染症専門医が意見を述べる」というもので、この疑問にカリフォルニア大学サンフランシスコ校の薬学教授、Peter Chin-Hong 氏が答えている。

私は 7月 23日付の ”ユニクロ「エアリズムマスク」で夏を乗り切るか“ という記事で、「日本全体のワクチン接種率が高くなって、マスク着用をうるさく言われなくなるのを待つだけだ」「次の夏前にはマスクから解放されたい」 なんて書いているが、実はこれ、よく調べるとかなり面倒な話のようなのだ。

昨年初め頃、アメリカ疾病予防管理センター(CDC)は、「病気の場合はマスクを着用し、病気でない場合は病気の人を看病していない限りマスクを着用する必要はない」としていたし、世界保健機関(WHO)に至っては「ガーゼやコットンなどの布製マスクの使用は推奨されない」なんて言っていた(参照)。

WHO は昨年 3月に出した文書でも「マスクの効果は大したことがない」みたいなことを書いていて(参照)、私としても「WHO って、かなり乱暴なこと言うなあ」と思った記憶がある。しかしその後は米国でも何度も指針が更新され、だんだん着用の方向に向いてきた。

その後はワクチン接種が進むにつれて文言上はちょっと緩み、今年 3月 9日、CDCは「新型コロナウイルスワクチンの接種を受けた人同士ならば、マスクを着用せずに屋内で過ごすことが可能」とするガイドラインを公開。これ、我が家の現状でもある。

しかし新規感染者数が再び増加し始めると、7月 15日にはロサンゼルス郡が、ワクチンの接種状況に関わらずマスクを着用することを求める決定を下すなど、マスク着用を促す動きが再び活発化。まさに「行ったり来たり」で訳がわからない。

今回の Gigazine の記事で Peter Chin-Hong 氏は、「アメリカ国内での COVID-19 による入院者数と死亡者数が管理可能であり、医療崩壊に陥っていない限りは、新型コロナウイルスワクチンの接種者に対してマスクの着用を義務づける必要はないでしょう」と締めくくっている。

ところが一方で、ワクチン接種が済んだ人でもマスク着用は続けるべきだとの主張もある。ワクチンを接種しても自身が感染・発症しにくくなるだけで、ウィルスを媒介する可能性は残っているというのがその理由で、日本の厚労省はこの立場のようだ(参照)。

実証的な見地からの話はなかなかよくわからないが、見えてきたことはメンタリティとして、「日本人はマスクに抵抗がないが、西欧人は着用したがらない」ということだ。日本は一貫して「マスクしましょう」で進んできているが、米国は何かプラス要因さえあれば「しなくていい」と言いたがる。

これだけは傾向として確実に言えそうなので、マスクに関する情報は、このバイアスを意識して聞く必要があると思う。

 

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2021年7月27日

「君が代斉唱」という表現を巡る冒険

東京オリンピックが始まっているが、私は「どうぞご勝手に」と言っていることもあって、ほとんど関知していない。ただ、無人島で暮らしてるわけじゃないので、何らかの形で情報は入ってきて、付き合うともなく付き合わされている。

開会式の「君が代斉唱」が MISIA だったというのは、翌日になって初めて知った。それは毎日新聞の「毎日ことば」というサイトで "国歌を「斉唱」か「独唱」か" という記事を読んだからである。なるほど、しっかり言葉にこだわれば、あれは「独唱」であって「斉唱」じゃないよね。

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というわけで毎日新聞的には、「歌手のM I S I Aさんが国歌を斉唱した」の「斉唱した」の部分を、「歌った」と校正している。おそらく「独唱」と表現するのはことさら過ぎると判断したのだろう。

念のため改めて説明すると、こんな感じになる。

合唱 複数のパートに分かれて歌うこと。ハーモニーなどの効果が発生する(コーラス)
重唱 各パートが 1人ずつの場合は、重唱と言う
パートが 2つの場合は二重唱(デュエット)
3つの場合は三重唱(トリオ)
4つの場合は四重唱(クァルテット)
斉唱 2人以上で同一のメロディを歌うこと(ユニゾン)
独唱 1人で歌うこと(ソロ)

で、『君が代』は原則的に全員が同じメロディを歌うので、「合唱」にはなりようがない。2人以上の複数で歌ったら「斉唱」、1人だと「独唱」という、2パターンしかない。

10年ぐらい前だと「君が代合唱」なんていう表記がよく見かけられ、当ブログでも 2010年 8月 7日付の "「君が代合唱」って?" という記事で批判的に触れた。ただ、さすがに最近はこの誤表記はかなり減っている。

ところが今回の MISIA のパフォーマンス(ソロ)は、至る所で「君が代斉唱」と表記されてしまっていて、例えば こちらのページでも、見出しに「MISIA の国歌斉唱は賛否両論」とある。

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これ、いろいろな行事で、参加者全員で歌う『君が代斉唱』という言い方が定番になっているので、独唱の場合でもつい舌や筆が滑ってしまうのだろう。そのあたり私としては理解できなくもないし、大した実害もないので、ことさらに目くじら立てようとは思わない。

というのは、今回の場合でも、MISIA のソロに合わせて参加者が自然に小さく口ずさんだりしたら、それは結果的に「斉唱」みたいなことになるからでもある。別に「黙って聞け」と言われてるわけでもないだろうしね。もっとも、NHK の動画を見ても、そのあたりビミョーでよく聞こえないが。

ちなみに 2年前のサッカー試合での平原綾香のパフォーマンスは、 ”平原綾香 国歌独唱” というタイトルで YouTube に登録されているが、再生してみると、彼女がリードを取る形になって開会式参加者が自然に歌い始めている。で、図らずも結果的に「斉唱」になったわけだ。

ただ、この時の平原綾香の歌は通常より 4度も下で歌われているので、一緒に「斉唱」するにも「低すぎ感ありあり」で、さぞかし歌いにくかっただろうと思う。今回の MISIA のパフォーマンスも、ちょっとビミョーではあるが、通常より半音低い(最初の音が C#)。

最近の女性はアルトの人が多いようで、通常のキー(D で始まる)だと高すぎてしまうのかなあ。絶対音感がある人には、ちょっとむずがゆいかもしれない。

 

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2021年7月26日

年を取ると年を忘れる?

7月 14日付の「女性が男性より長生きするのは」という記事でも触れたが、65歳を過ぎてからというもの、自分の年齢を明確に意識しないで生きてきてしまっている。実は今日が誕生日で、指折り数えれば 69歳になってしまったのだが、「それって、どこのどなたのお話?」みたいな感覚でしかないのだ。

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これ、ひとつには「数字が極端に苦手」というためでもあると思う。このことに関しては、"「数字数式認識障害」とでも言いたくなるほど、数字に弱いのだよ" (2011年 7月 13日付)、"苦手なのは「数学」じゃなく、「数字」なのだった" (2018年 5月 17日付)という 2本の記事に書いている。

とにかく、3つ以上の数は「たくさん」と言うほかないという原始人ほどじゃないが、どうやら 60代半ば辺りから、一桁めの数はとりとめがなさすぎて、どうでもよくなってしまったようなのだ。何ともはや、テキトーなお話である。

これ、来年に「70歳」という区切りを迎えればリセットされて、もう一度明確化されるだろうとは思っている。ただし、もしかしたら自分が 70歳以上という事実が途方もなさ過ぎて(要するに内心で認めたくなくて)、逆にますます混迷の度が深まるかもしれず、油断がならない。

お陰様で見かけだけは結構若作りで、髪の毛も黒いままなので、14日の記事で書いたように「50歳代の連中に平気でタメ口をきかれる」とか「本当の年がバレた途端にやたら恐縮されたりする」なんてことになっている。もっとも本人が年を忘れてるのだから、周囲が相応に見てくれないのも当たり前か。

ただ近頃、時々疲れてストレスが溜まった時など、こめかみのあたりに白髪が 2〜3本現れることがあり、「おお、これで年相応に見てもらえて、面倒が減る!」と思ったりする。ところがしばらく経つとまた黒くなって振り出しに戻るので、なかなか先に進めない。

白髪のメカニズムって、本当にどうなってるんだろう。

とまあ、こんなようなどうでもいいことを考えながら、今年もなんとか夏の暑さを乗り切ろうと思っているので、今後ともどうぞ

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2021年7月25日

庄内弁から見えてくる、日本的発想の「自他」

テレビをほとんど見ない私は、2年ちょっと前の 2019年 6月 19日に放送された「秘密のケンミン SHOW」という番組で、庄内弁が取り上げられていた(参照)なんてことを今頃になって知った。というわけで、ずいぶん寝ぼけた話だが、ここで(おもむろに)語らせていただこうと思う。

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話題となったのは、「わぁだば ただばし いしぇこぐはげ でって まんず はかはかでゅー」という庄内弁らしい。当然ながら私には初見でスラスラ入ってきて、「んだが〜、ほいだば よいでねのぅ〜」(意味は記事末尾参照)なんて言いたくなったわけだが、わからない人にはほとんど未知の外国語だろう。

現代の日本語(つまり「共通語」)に翻訳するには、こんな感じの表を介するのがいいと思う。

庄内弁の原語 中間段階の説明 共通語
わぁだば 我であれば、我といえば
「わぁ」は「一人称」というより、「自分」の意
お前ってば
ただばし ただ + ばっかし(ばかり)  ただ、いつも
いしぇこぐ いきおい(威勢?)こく 深い考えもなく、あくせく事に当たる
〜はげ 「〜さげ」とも言う
関西弁「〜さかい」の訛り
〜から
でって 「全体」の訛り まったくもって
まんず 「まず」の訛り まず、とにかく
はかはかでゅ〜 「はかはか」(オノマトペ)という はらはらする

というわけでこれは、「お前って、いつもあくせく突っ走るだけだから、まったくもって、はらはらするよ」というような意味になる。庄内弁独特のニュアンスまで完璧に再現するのは無理だけどね。

そしてここで注目すべきなのは、「わぁだば」の「わぁ(我)」という言葉である。これに関して、「テレビドガンチ」というサイトの ”「でって まんず はかはかでゅ」という日本人にわからない日本語” のページには、次のようにある。

まずさいしょの「わ」は二人称、「あなた」の意味だそうだ。筆者の妻は津軽出身で、この話をしたら「ええー?」と驚いた。津軽弁では「わ」は一人称、「わたし」の意味で正反対。日本人の直感としても「わ」はすぐ「わたし」につながるので、どちらかで言えば一人称と思いそうだ。だが庄内弁では「わ」は二人称。ほら、日本語離れしている。

端的に言わせてもらうが、これは日本語の原点に関する理解が足りないことによる「完全な誤解」だ。なまじ庄内弁と近い津軽弁話者だけに「わ」の使い方の違いに注目したのだろうが、この場合の「わ」は、たまたま二人称的に受け取るのが自然というに過ぎず、常に二人称になるというわけではない。

上の表でも触れたように「わ = 我」は、西欧語的発想の「一人称」というより、強いて言えばニュートラルな「自分」ということである。文脈によって一人称的になったり二人称的になったりする。これは推測だが、津軽弁だって実はそうなんじゃないかなあ。

例えば「我が身を振り返りなさい」は当然ながら「(あなたは)自分のことを反省しなさい」ということである。「(後ろにいる)私のことを振り返って見なさい」なんて受け取ったら、トンチンカンもいいところだ。

庄内弁でも「てげですっが?」(手伝いしようか)と声をかけられて、「わぁでさいる」(我でされる = 自分でできる)と応えたら、一人称的になる。日本語を西欧的発想で決めつけてはいけないってことだ。

近世以前の日本の中心地である関西の河内弁でも、「やぃ ワレ!」は「おい、お前!」 である(参照)。さらに「自分、どないすんねん?」(お前はどうするの?)なんて言い方もあるしね。

上述のコメント筆者の、「わ」は一人称と思い込んでいる妻は、河内弁で腰を抜かさなければならない。仮に「わ」と「ワレ」は別なんて思うようでは、日本語感覚がなさ過ぎる。

つまり「我」という日本語は、元々一人称とか二人称とかいう概念の枠外にある言葉なのだ。別の言い方をすれば、日本的発想の原点では、「自他の区別」が重要じゃないのである。隣が田植えを始めたら自分も始めればいいし、均質性の濃い社会だから、ことさら区別してもしょうがない。

下記の例をみるまでもなく、現代日本語でも「私は」という主語が省かれるなんてのはごくフツーだ。要するに話の流れの中でわかればいいのであって、初めから自他の相違を明確に意識する西欧的発想との根本的違いは、ここにあると見ていい。

フツーの日本語: 今朝は 6時に起きた。
フツーの英語:  I woke up at six this morning.

そんなわけで私の場合、共通語と庄内弁のかなりディープな「バイリンガル」である上に、英語もそこそここなせる(bi-and-half-lingual?)というのは、同じことでも多様な視点から考察できるという点で、とても有用なことだと思っている。

最後にちょっと触れておくが、最近の若い庄内人はこうしたディープな庄内弁を理解できなくなってしまっているようで、とても残念だ。庄内弁に限らず方言というのは、単に「田舎の言葉」というだけじゃなく、意識の深いところでの比較文化的考察力を養うのにとても役立つのにね。

【種明かし:「んだが〜、ほいだば よいでねのぅ〜」の意味】

んだが〜: そうか〜
ほいだば: そうならば
よいでねのぅ: 容易でないのぅ

通しで「そうか、そりゃ 大変だねぇ」という感じの、ごくフツーの相槌。これに「もっけだのぅ」が付いたりもする。。

 

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2021年7月24日

「ジョン万次郎英語」というもの

昔、知り合いに「英語で『今、何時ですか?』と聞きたい時は、『掘った芋いじるな』と言えば通じるんだってね!」と言われ、即座に「通じないよ。そんなもん!」と返事したことがある。

ところがこの類いの話は、世間では「ジョン万次郎英語」と称され、意外にもマジで語り継がれているらしい。太平洋で漂流して米国に渡り、幕末から明治にかけて日本と米国の橋渡し的役割を果たしたといわれる、あのジョン万次郎の英語という意味だ。

米国に渡ってからの彼は、耳から聞こえるままの英語をそのままカタカナにして覚えていったと伝えられる。「英語の超裏技勉強法」というサイトの「ジョン万次郎の発音法」によれば、こんな感じだ。

「America - メリカ」「Japan - チャパン」
「cat - キャア」「cold - コオル」
「girl − ゲエル」「lip − レップ」
「man − メアン」「net − ネ」
「night − ナイ」「railroad − レーロー」
「river − レバ」「wind - ウィン」

なるほど、確かに「ど」が付くほどのカタカナ英語よりは実際の発音に近いだろう。

とくに「Japan - チャパン」はある意味秀逸で、最初の ”Ja" にはアクセントがないから、「ジャ」よりビミョーに軽い「チャ」と思う方が面倒がないよね。ただ、ここから入って妙にとらわれちゃうと、文字にした時につい ”Chapan” なんて書いてしまい、中国との間に余計な軋轢を生じそうだが。

単語の連なりとして見れば、"Let it be" はフツー 「レット・イット・ビー」じゃなく「レリビー」となる。そして問題の「What time is it now? - 掘った芋いじるな」は、その延長線上の一例とされているらしい。

しかし断言させてもらうけれど、フツーの日本語流の平板口調で「掘った芋いじるな」と言っても、相手は「???」になるだけである。ネタバレした後なら、「強いてそう聞こうとすれば、聞こえないこともないかもしれないかも・・・」ぐらいにはなるだろうが。

上述の「net − ネ」を例に取れば、ただ平板に「ネ」と言っても "net" のことだなんて思ってもらえないのと同じだ。これ、「ネッ」(強調するなら「ネェッ」)ってな感じで、最後に舌を上歯茎の裏に当てた感じにすれば、確実に "net" になる。

同様に「cold - コオル」も、この「まんま」ではまず無理だ。「コゥ」と発音して、舌を上歯茎の裏に当ててすぐに離せば、立派な ”cold" になるが。

とはいえ、これは「英語耳」で対応すれば実に単純な話なのだが、「カタカナ耳」しか持っていない人には雲をつかむようなことであるらしいのだね。

このあたりのことは、冒頭の YouTube 動画「英語耳をつくる最終兵器」で、とても上手にわかりやすく説明されている。要するに「ジョン万次郎英語」というのは、「英語の音がすごく苦手」という人のために限っての「最終兵器」としてならオススメということだ。

つまり、音感があって「ちゃんと耳コピーのできる人」は、そんなものに頼らない方がいいということである。そりゃそうだろう。"Railroad" をちゃんと ”railroad" と聞き、自分の口でも ”railroad" と発音することこそが正攻法であり、初めから「レーロー」なんて廻り道を辿る必要はない。

それにそもそも、”railroad" をどうしてもカタカナで表記したいなら「レーロー」じゃなく「ゥレイゥロゥ」の方がいいと思うがなあ。いや、音感が不足してると、これだとかえって訳がわからなくなってしまうから、せいぜい「レイロゥ」程度かなあ。

最近 Quora に、"日本語で「あぶない!」と叫んだら、英語では「Have an eye!」と伝わって、意味が通じるという話を聞いたことがあるのですが、本当ですか?" という質問が挙がっていた(参照)。これに対する答えは下記のようなことで、これもかなり納得である。

と言う事は、それを叫ぶ状況だという事ですね。それだったら「叫ばれた人は何かに気が付く」でしょう。それが「気をつけて!」と言う意味合いと取るかどうかは疑問です。

要するに「あぶない!」と叫べば、叫ばれた人はハッとして立ち止まるか何かして、とりあえずその場の目的は果たされるだろうが、それは "Have an eye!" とは無関係のストーリーということだ。実際問題として、そんな風に聞こえるというのはほとんど無理だろう。

そもそもこうした場合は、Quora の回答者が指摘されているように "Watch out!" (万次郎英語的には「ウォッチ・アウト!」じゃなく、「ヮチャウ!」ね。念のため)と叫ぶのが定番で、"Have an eye!" だと「見る目を持ちなさい」みたいなことになるだろう。

というわけで、「ジョン万次郎英語」というのは「最終兵器」と言えば聞こえがいいが、そのココロは「溺れかかって苦し紛れにつかむ藁」みたいなもので、初めから積極的に頼るようなものじゃないと思うのである。

 

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