2020/07/13

「シャンプーバー」というものがあるらしい

本日の TBS ラジオの昼の番組「ジェーンスー生活は踊る」の冒頭で、「本日の特集はシャンプーバー」と言う。シャンプーをいろいろ取りそろえた売り場を紹介するのかなんて思ったが、実はまったく違っていて、「固形シャンプー」のことなのだそうだ(参照)。

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この「シャンプーバー」というものがなぜ注目されているのかというと、「環境にやさしいから」ということらしい。液体のシャンプーはプラスチック・ボトルに入っているが、ELLE Shop によると、次のようなことになっている。

「Planetoscope」の調べによるとフランスでは、毎秒5個、そして 1日 47万 6千ものシャンプーボトルが消費されているとのこと。一方、シャンプーバーは、紙での舗装が一般的。処方はもちろん、パッケージも地球に優しいことで支持を集めている。

へえ、そんなこととはちっとも知らなかった。だが、ウチでは詰め替え用袋入りのシャンプーを買っているみたいだから、ボトルの無駄遣いはしていないと思う。ここで「思う」なんてはっきりしない言い方をするのは、私自身はほぼ 30年にわたってシャンプーなんて使わずに、固形石けんで洗髪しているからだ。

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ご覧のように、一昨年の 4月 16日付で「固形石けんで髪を洗うのだ」という記事を書いている。頭の先からつま先まで、無添加の石けんで済ませていて、リンスなんかも使っていない。

というわけで、「シャンプーバー」というのはいかにもお洒落っぽい商品だが、「固形石けんとどう違うの?」なんて思ってしまうわけなのである。まあ、「それなりにそれっぽい成分」が入っているということなのだろうけどね。

ちなみに「バー」というからには「棒」のような形なのかと思ってしまうが、写真を見ると四角っぽい。まあ、「チョコレート・バー」と言えばあの平べったいチョコレート 1枚のことだし、「石けん 1個」のことは "a bar of soap" なんて言い方をするので、これでいいのだろうと思うしかない。

 

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2020/07/12

「Go To トラベル事業」というもの

旅に出ないとカラダがもたない”(6月 2日付)とか、”2020年も半年が過ぎ、ようやく「旅」に戻れる”(7月 1日付)とか書いた私が言うのもなんだが、観光庁がよりによってこの時期に「Go to トラベル事業」なんていうプロモーションを行うのは、疑問符つきまくりだ。

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事業の内容は、上の画像をクリックして縦スクロールすれば確認することができる。申請書を提出すれば、旅行に要した費用の幾ばくかを補助してもらえるというシステムのようだ。

ネット上では「コロナ騒ぎが収まっていないこの時期に、人の移動を促進してどうする」とか「そんな金があったら、今回の豪雨被害復興支援に使え」とかの批判が数多く見られ、私としても「その通りだよね」と思ってしまう。お上のやることといえば、たいていこんなものだが。

まあ、そこはコロナ問題の広がる前から内々に予定されていた利権事業のスケジュールみたいなものがあったんだろう。「夏休みが終わったら実施のタイミングがないから、見切り発車だ」ってなことになったのだとは容易に想像がつく。

ここまで来てしまったら勝手にやらせておくほかない。コロナ騒動で実入りが減った層にとっては、お盆の里帰りでみみっちく申請するという手があるし、無駄遣いということに関しては既に「アベノマスク」が大いに目立ってしまったから、「大問題」というほどにはならないだろう。

ただ、そもそもの話で言えば、キャンペーンの名称自体がダサすぎる。"Go to school" なら「学校に行け」だが、「Go to トラベル」だと「トラベル(というところ)に行け」って意味合いになる。

何だか訳がわからないが、とりあえず行ってらっしゃい。

 

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2020/07/11

通勤電車は相変わらず満員らしいのだ

「ステイホーム」の期間が長引くうちに「満員電車には乗れない体になってしまった」と書いたのは、つい 2ヶ月足らず前の 5月 16日である。 私の体はずっとそのままだが、東洋経済には早くも「「出勤を再開する人」を増やす日本株式会社の闇」という記事が載ってしまっている。

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定年過ぎの再雇用で、週 3日定時出勤の日常に戻った年下の知人は、「朝の通勤はしっかり『満員電車』ですよ。まあ、以前より少しはマシかなという気もしないではないですが」なんて言っている。それを聞いて私は「ああ!」と嘆息した。いや、ここはちょっとヘビーに「嗚呼!」と表記すべきかもしれない。

今回の「コロナ騒動」が、少しは日本型ビジネス社会の弊害の是正に貢献することもあるかと期待したのだが、この間の経過は、日本人の「従順さ」というものを思い知らせるようなことになっている。

冒頭に紹介した東洋経済の記事は、弁護士で名古屋商科大学経営大学院(MBA)教授でもある植田統氏の署名記事。彼はこの現象を、「メンバーシップ型雇用が生み出す弊害」と断じている。「メンバーシップ型」と「ジョブ型」の雇用形態の違いは、彼によると次のようになる。

ジョブ型雇用は、明確に定義された職に対し、そのスキルを持った人間を雇用する。いわば「その人間のスキルに対して金を払う」という欧米型の合理的な制度である。これに対し、メンバーシップ型雇用には、スキルに対して報酬を支払うという発想はなく、組織に対するロイヤルティに対して報酬を支払う。

日本の企業では高いスキルを持った個性的な社員よりも、人脈内での調整能力だけは優れているみたいな社員の方が得てして出世が早い。社外の人間に「おたくの〇〇さんは、デキるね」なんて評価される社員より、社内で「あの人に従っていれば何となく安心」程度に思われている人間が、結局社長になる。

これは、「突出」より「協調」が求められるのだから当然だ。そんなわけで、できれば常に会社で顔を揃えて、いろいろ空気を読みながら仕事をしなければならない。

こうした「日本株式会社」的な土壌が変わらない限り、テレワークなんて一般的にはならないし、満員電車もいつまでも残るのだろう。ただ、そんななかでもつい最近、富士通が「原則テレワーク」のコンセプトでオフィス規模を半減するという方針を打ち出した(参照)。この動きに注目してみたい。

 

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2020/07/10

自然破壊進行で、動物から人間への感染症増加

新型コロナウイルス感染症(corvid-19)のような動物と人間との間で感染する病気は、「動物由来感染症(ズーノーシス/zoonoses)」と呼ばれる。そして HUFFPOST は、このズーノーシスが自然破壊の進行に伴って増加するという国連の警告を伝えている(参照)。

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実を言えば、昨日の当ブログの「肉を食うのは環境によくない」という記事も、本日のこの問題との関連で論じるために、10ヶ月も前の昨年 9月の HAFFPOST の記事(参照)をほじくり出して書いたものだった。つまり肉食と環境破壊、そしてズーノーシスは、一つながりで語られていい問題ということだ。

ちょっとペダンティックに迫ると、ズーノーシスはラテン語では xenosis(ゼノーシス)となり、日本獣医学会のサイトに「xeno はラテン語で異種、nosis は病気の意味」とある(参照)。なるほど、英語で考えると「動物園の鼻?」となってしまうが、"noses" の元はラテン語の "nosis" だったのか。

HUFFPOST によれば、「これまでに確認されている感染症の 60%、最近新しく認知された感染症の 75%がズーノーシス」だという。つまり、時代が下るにしたがってズーノーシス感染に加速度がついているわけだ。これは人間による自然破壊拡大の「因果応報」的結果といえるだろう。

ズーノーシスは古くはペスト、結核、赤痢、狂犬病、インフルエンザなどがあり、比較的新しいものでは、エイズや corvid-19 のほか SARS、MERS などが挙げられる。いやはや、結核やインフルエンザもズーノーシスとは、知らなかった。決して非日常的なものではないのだね。

このまま自然破壊が進めば、今回の corvid-19 以上に感染力が強くて危険な感染症が、いつ人間社会に入ってこないとも限らない。その意味でも、環境保護は決して閑人や金持ちの道楽ではなく、緊急の課題なのだと認識しなければならない。

 

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2020/07/09

肉を食うのは環境によくない

豚や牛などの肉を食うのを控えるようになって 6〜7年、そして完全に止めてから 3年ほどになる。動物性の食べ物を一切食べないのは「ヴィーガン」だが、私の場合は魚や虫(イナゴとかね)は食うので「ペスカテリアン」である。

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HUFFPOST は昨年 9月に「肉を食べることは環境に悪影響? デンマーク、スウェーデン、ドイツが食肉税を検討するワケ」という記事で、次のように伝えている。

多くの先進国では肉離れの動きが広がっています。国連が委託した最近の報告書では、食肉消費量を減らすよう勧める政策のほか、気候変動緩和対策の一環として菜食中心の食事が推奨されています。

肉食が盛んなのは先進国というのは、既に時代遅れの考えとなりつつある。このニュースでは「ドイツ、デンマーク、スウェーデンなどの国では食肉税が検討され、肉を食べる人は非難の矢面に立たされています」という。

食肉用の家畜を育てるには膨大な土地、飼料、水が必要とされる。さらに国連食糧農業機関(FAO)によると、畜産業は人為的に排出される温室効果ガスの約 15%に相当する年 7.1ギガトン(CO2換算)を排出している。つまり、肉食は環境破壊に加担することになるのだ。

このため、検討されている食肉税のようなものは、たばこ税などとともに「罪の税」と呼ばれ、公衆衛生と健康を促進するものと考えられている。しかし一方では、「低所得者層に不公平な負担がかかる」として反対する主張もある。

これ、注目である。先進国における「食肉税」の「低所得者層に不公平な負担がかかる」という認識は、極端に言えば「肉は貧乏人の食い物」になりつつあるということだ。もはや日本の金持ち連中も、高級牛肉をありがたがって血の滴るようなステーキなんて食ってる場合じゃない。

肉食と畜産業が温暖化ガスを増加させる要因となっているのは確かなことだが、「強力な既得権者と権力中枢の存在が、食生活の変化に関わる政治経済を極めて困難にしている」とも言われている。つまり「お肉大好き」な保守層が、畜産業を保護したがっているわけだ。

私は「健康のためなら命も惜しくない」というパラドックスをよく引き合いに出すのだが、「肉を食うためなら命も惜しくない」では、洒落にもならない。

「食と環境」の問題を自覚的に考えるならば、肉食を減らすことが望ましいというのは当然の結論だ。個人的にはペスカテリアン仲間が増えることを強く望んでいる。

 

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2020/07/08

正座と胡座(あぐら)

「知識連鎖」に「正座の由来は格下の座り方 歴史的にはあぐらが古く千利休もあぐらだった」(7月 7日付)という記事がある。下の画像を見ればわかるように、千利休は確かにあぐらで座っている。

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Wikipadia の「正座」の項にはm次のようにある (参照)。

正座とは、元々、神道での神、仏教で仏像を拝む場合や、征夷大将軍にひれ伏す場合にのみとられた姿勢であった。日常の座法は武士、女性、茶人などでも胡座(あぐら)、立膝で座る事が普通であった。
平安装束に見られる十二単や神職の袍は、下半身の装束が大きく作られており、正座には不向きで、あぐらを組むことを前提に作られている。

江戸時代初期、正座の広まった要因としては、江戸幕府が小笠原流礼法を採用した際に参勤交代の制定より、全国から集められた大名達が全員将軍に向かって正座をする事が決められ、それが各大名の領土へと広まった事が一つ。また、別の要因として、この時代、庶民に畳が普及し始めた頃であったことも要因であるという。

なるほど。正座というのは、将軍に相対する時の姿勢が広まったもので、さらに畳の普及と切り離せないようだ。上の図のように、エラい人が半畳分ぐらいの座に胡座をかいているのに、いくら下座の者と言っても、堅い木の床の上に正座しろというのは気の毒過ぎるだろう。

ただ、椅子に腰かける姿勢に慣れてしまった今となっては、畳の上の正座も足がしびれてキツいが、胡座も案外しんどい。長く座っていると腰が痛くなってしまうのである。

胡座というのは、どうしても背中が丸まってしまう。背筋を伸ばして胡座をかこうとすると、正座よりも辛くなってしまう。そんなことも、江戸時代以後は正座の方が文字通り「正しい座り方」となってしまった由縁だろう。

さらに今となっては、長時間の仕事をしようとしたら椅子でないともたない。座卓で仕事をするなんて御免こうむりたいが、明治の頃はあの夏目漱石も胡座で座卓に向かい、『我が輩は猫である』を執筆していたもののようだ(参照)。

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それにしても、明治の文豪の机の上(のみならず床の上も)って、とんでもない乱雑さである。あるいはこれ、一種の演出なのかなあ。

【7月 9日 追記】

小説家の書斎の乱雑さは明治の文豪に限らないようだ。その中でもトップは昭和の坂口安吾かもしれない。これは終戦直後の 1946年の写真だが、こちら を読めば演出でもなんでもないことがわかる。ちなみに、しっかりと胡座である。

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2020/07/07

「一極集中」から脱却するチャンス

愛読ブログ「駅前糸脈」で、「一極集中を打破する好機」が語られている。東京への一極集中からの脱却を、「新型コロナを機会に口先の言葉だけでなく、推し進める必要がある。新しい生活様式以上に新しい生活の場を提供することが政府の仕事だろう」というのは、とても納得できる主張だ。

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この種の議論で最近驚いたのは、数日前のラジオ番組(何の番組だか忘れたが、いずれにしても TBS ラジオ)で「テレワークを推し進めると、どこに住んでもいいのだから、結果的に東京への一極集中を推進することになる」なんて力説する解説者がいたことだ。

「はあ?」と言いたくなる話である。

思うにこの人、よっぽど「東京大好き人間」なのだろう。例えば、地方の支社の仕事をすることになっても、これまで通り東京に住みながら地方の仕事をこなすことができるのだから、いいじゃないかというような考えなのではなかろうか。

つまり「どこに住んでもいいというなら、もちろん東京に住みたいよね」という考えこそが一般的なものと信じているのだろう。彼は「毎日都心に通勤しなくて済むなら、空気が汚れて地価の高い東京なんかより田舎に住む方がいいよね」という考えは理解できないに違いない。

そしてよく考えると、この「できれば東京に住みたいよね」という前時代的、あるいは因習的な考え方こそが、「一極集中」の根本的な原因なのだろうと思い当たった。ここで敢えて「前時代的/因習的」という強めの言葉を使ったのは、このくらいの「思い切り」が必要と思ったためである。

「駅前糸脈」でも、「都落ちを死語にしよう」と書かれているし。

昨日 ”富士通がテレワークを「常態」に” というニュースを聞いて、「それでこそ!」と膝を打った。今回の「コロナ騒動」がこうした「強い思い切り」を促進させる契機になるなら、悪いことばかりともいえない。

 

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2020/07/06

「明日は七夕」というのだが

明日は 7月 7日で「七夕」ということになっていて、THE GATE というサイトの「日本の七夕文化について詳しく学ぼう」という記事に、「日本三大七夕まつり」というのが紹介されている。

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この記事のおかげで、最も有名な「仙台七夕まつり」以外の 2つは「湘南ひらつか七夕まつり」と、「安城七夕まつり」(愛知県)なのだと初めて知った。おもしろいのは、この「日本三大七夕まつり」の紹介が、次のような始まり方をしていることである。

七夕の時期になると、日本各地で開催される七夕まつり。地域によっては旧暦の7月7日、現在の8月に開催する場所もあります。

「七夕」という日本でもメジャーな行事の開催時期が、地域によって一定していない。今となっては新暦の 7月 7日が一般的になったが、「月遅れ」の 8月 7日というのも多く、旧暦の 7月 7日(新暦 8月上旬〜下旬が多い)というのも案外根強い。

紹介されている「日本三大七夕まつり」では、仙台のものが代表的な「月遅れ七夕」で 、安城が 8月の第一金・土・日の 3日間、そして平塚では「毎年 7月上旬」と含みを持たせてある。見方によってはかなりいい加減なものだ。

仙台の場合はさすがに最も有名というだけあって 6日から 8日と明確に定められているが、残る 2つは、要するに「観光の都合優先」というのがみえみえだ。元々のいわれとか伝統とかいうのは、いくら夏休み期間中とはいえ、地元経済の前には霞んでしまうようなのである。

これについては前にも書いている(参照)が、王道は「旧暦の 7月 7日」で、今年の場合は 8月 25日がそれに当たる。「そんなに遅いの?」と言われるかも知れないが、俳句でも「七夕」は「秋の季語」なのだから、実は立秋以後になるのが本来であり、意外でも何でもない。

フツーに考えれば、「そろそろ夜が長くなってきたね」と実感される頃こそが七夕に相応しい時期で、梅雨も明けないうちの新暦 7月 7日では「彦星、織姫が可哀想すぎ」というほかない。個人的には、この設定は無茶苦茶だと思う。

 

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2020/07/05

熊本豪雨のニュースで思う

今回の豪雨で、熊本が大変なことになっている。私は熊本には何度も訪れていて、知り合いも結構多いので心配で仕方がないのだが、下手に電話しても混乱を生じさせるばかりなので控えている。まあ、知り合いのほとんどは熊本市内なので、なんとかなっているだろうとは思うが。

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上の写真をクリックすると西日本新聞の「熊本豪雨、17人心肺停止 球磨川は8カ所氾濫」という記事に飛び、上から 2番目の画像をクリックすると、動画がスタートする。とにかく濁流が橋の上を流れるという惨憺たるありさまである。

今回の豪雨も予報では「数十年に一度の豪雨」なんて表現されていたが、近頃は同じ「数十年に一度」という触れ込みの大雨が毎年あるような気がしている。3年前の今頃、 ”「数十年に 1度の大雨」 が、1年に何度もある時代“ なんていう記事を書いているのを思い出した。

さらにその 4年前の 8月には、"「20年に 1度の大雨」から「経験したことのない大雨」に" なんてタイトルの記事まで書いていて、今回の豪雨も気象庁は 4日午前の記者会見で「これまでに経験したことのない大雨になる」と表現していた(参照)。ちなみにこの表現も、近頃は毎年聞く気がする。

つまり日本の気象は、既にこれまでの常識にかからなくなっているということで、経験知が頼りにならないことを意味する。「これまでだって大丈夫だったんだから」とか、「いくら大水でも我が家まで水は来ないと、ジイさんの代から言われてる」といった言い草が、もはや通用しないのだ。

今回の豪雨でも、逃げ遅れた人が屋根の上に避難している動画が嫌と言うほどニュースで流れた(参照)。「どうしてこんなことになるまで避難しないでいたのだろう」と思われるだろうが、私は 2年前の今頃、"そもそも、水害が差し迫っても「人は逃げないもの」らしい" という記事を書いている。

実は私自身、1986年 8月の豪雨(参照)で、近所の高台の中学校に一家で避難した経験がある。この時は、幼い娘 2人に、3人目を妊娠中の妻と犬 1匹を連れての避難だった。我が家の被害は床下浸水止まりだったが、今でも「あの夜は安心して寝られただけ、避難してよかった」と思っている。

この経験からも、「大雨で避難勧告が出たら、迷わず逃げる方がいい」とオススメする。死なないまでも、水に浸かったせいで低体温症なんかで病院に担ぎ込まれたりするよりずっといい。

 

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2020/07/04

「コロナ」の影響で、上海のコピー商品市場が窮地

TBS テレビが 7月 1日に報じた "上海最大 違法コピー商品市場が窮地" というニュースのビデオをたまたま見つけた。コピー商品販売の店が 400店ほど並んでいた地下街で、今、300店以上が閉店してしまっているというのである。

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これは新型コロナウィルスによる感染症拡大により、外国人の入国が 3ヶ月にわたり制限されているためだ。ということは、これらのコピー商品の顧客の 7割以上は外国人で残りが中国人ということなのだろう。外国人の中には、当然ながら日本人も含まれるはずだ。

ビデオでは、「定価が 1万円以上する時計」が 200元(約 3,000円)、45万円するはずのバッグが「約 1万円」で売られていると報道されている。今どきこんなビジネスが続いていたのかと、ちょっと驚いてしまった。

1980年代のバブル全盛期は、街を行く「若いオネエチャン」が、ルイ・ヴィトンのモノグラムの入ったバッグをぶら下げていた。その中にはコピー商品も少なからず混じっていたのだろうが、そんなことはお構いなしだった。

しかしそれは 30年も前の話で、今となっては完全にアウト・オブ・トレンドなのだと思っていた。"有名ブランドロゴが入ってると逆にダサい" とか "世間の反応「ルイヴィトン、ダサくね?」" とかいう記事もあるほどで、既に「カッコ悪いことの典型」になってしまったという理解だったのである。

私自身、8〜9年も前にこんなような記事を書いているし。

ヴィトンのバッグがクローゼットの奥にしまわれる日 (2011/03/18)
ヴィトンの価値が変容した今 (2012/08/25)

しかし現実には、上海駅の地下街にそれほど多くのコピー商品の店があるというのだから、有名ブランドをありがたがる風潮は、今まだ消え去っていないようなのだ。世の中、本当にわからないものである。

個人的にはブランド全盛だったバブルの頃から、たとえ本物であっても「ヴィトンとかエルメスとか、ただでくれてやると言われても、邪魔くさいからいらねえ!」ぐらいに思っていた。そんなわけだから、金を出してまでその偽物を買おうなんていうメンタリティがまったく理解できない。

こればかりは、「人間の業の深さ」というほかないような気がしている。ただ、この TBS ニュースは「新型コロナの思わぬ余波で、コピー商品が溢れる中国というイメージが払拭されるかもしれません」と結ばれていて、「業にもいろいろあるものだ」と思ってしまったことである。

 

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