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2002年8月11日

「神様」 のいない夏祭

夏祭りの季節である。あちこちで神輿や盆踊りが見られる。 しかし、気にかかるのは、とくに新興住宅地などで、その祭りに「神様」のいない場合が多くなっているということだ。

本来、祭りというのは神社仏閣を中心としたものである。人々の素朴な「信心」が基になっている。 私は「信心」ということばが好きだ。別に特定宗教に限定しなくても、「信心」はできるのである。

以前、合気道を習っていた時、稽古の前後には必ず全員で神棚に礼拝していた。師匠は外国人には 「自分の神様と違うと感じてもいい、あの神棚の向こうに、貴方の神様がいると思って礼拝すればいい」 と言っていた。それで異を唱えるものは一人もいなかった。


世の中を救うのは「信心」である。「信心」をするには、「俺が俺が …… 」という気持ちが一番邪魔だ。「無私」とか「無我」という姿勢が一番いい。

失うものがあり過ぎると、「信心」はできない。それでは、金持ちや物持ちは「信心」できないのかというと、そうではない。「与える」気持ちになればいいのである。「与えよ、さらば与えられん」である。

「信心」のない祭りで育った子供たちは、これから先、一体どうなるのだろう。

 

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