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2003年1月に作成された投稿

2003年1月30日

赤信号の恐いのは

最近、当サイトの BBS で「赤信号皆で渡れば …… 」が話題になった。

本当は皆で渡る方が恐いのは、当サイトのコラムでも触れたとおりなのだが、今でも大部分の日本人は、皆で渡れば安全と思い込んでいる。

私は平気で赤信号でも一人で渡ってしまうクチなのだが、注意していることがある。

それは私が信号を無視して道路を横断すると、ついつられて道路に出てくる人がいることだ。

私は十分注意を払って横断しているので大丈夫なのだが、つられて渡る人は全然注意を払っていないので、車に轢かれそうになってしまうのだ。若い人ならそれでも身をかわすことができるが、年寄りだったら腰を抜かしてしまう。

皆で渡る方が恐いというのは、このことである。一歩間違えれば皆殺しになる。

だから、私はつられてボーっとしたまま道路を渡ってしまいそうな年寄りがいたら、赤信号では道路を横断しないことにしている。

信号無視も結構気を使うのである。

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2003年1月29日

「SQL スラマー」 でわかったこと

先週末の「SQL スラマー」被害は、全世界に及んだらしい。

その頃、私は酒田の田舎で情報と断絶していたので、友人から電話で知らされてもしごくノホノンとしていた。情報遮断も、たまにはいいものだ。

このワームは、SQLサーバの脆弱性を狙って侵入したらしい。SQLサーバというのは、オラクルより安いので、かなりあちこちで使われている。それで今回は爆発的に広まったようだ。私も以前それを使ったプログラムを管理していたが、最近は Linux にしたので、被害を免れた。

今回は、アメリカン・エクスプレスのサイトもやられてしまったらしい。オラクルを買うのをケチって SQLにしていたのがバレてしまったのである。

それよりも笑ってしまったのが、SQLサーバを開発したマイクロソフト本社のサーバもいくつかやられてしまったということだ。MS のサイトにいくと、最新の修正パッチプログラムを当てて、システムを保護することを呼びかけているが、肝心の自分たちがそれを怠っていたわけだ。

これでユーザーというのはそれほど従順でもマメでもないということが、身に沁みてわかっただろう。

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2003年1月28日

「ねばしファイル」?

仙台弁では貼り付けることを「ねばす」と言う。ネバネバさせてくっつけるのだから、わからないでもない。

ところで、仙台人の約 50%は、この言葉を共通語だと思っているのではないかと思われる節がある。

私の妻は仙台出身である。親戚中、くっつけることを平気で「ねばす」と言ってはばからないのだが、文脈と言葉のイメージで、何のことなく通じてしまうものだから、ますます方言だとは気付かないようなのである。

「ねばす」は、より深化すると「ねっぱす」になる。「あぁ、そのポスター、はがれ落ちそうだから、ねっぱしといて」などと使う。恐ろしいのは、「A夫くんとB子ちゃんをねっぱす」などと、縁結びにまで用いられることだ。ここまでくると「う~む」とうなってしまう。

さらに極めると、「ねっぱらがす」などというようなのである。仙台弁は東北弁の中でもわかりやすい方言なのだが、「ねっぱらがす」くらいになると、やはり古老の部類で、さすがの私も通訳なしには理解不能になるのである。

ちなみに、メールの「添付ファイル」のことを「ファイルをねっぱしといたから読んでね」と言うかどうかは、不明である。

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2003年1月27日

大相撲は 「場」

大相撲の優勝者は、幕内も十両も幕下も外国人である。日本もずいぶん国際的になったものだ。

美術やファッションの中心地と言われるパリでも、中心的なアーティストやデザイナーは皆外国人である。

パリは国際的なアーティストが活躍する「場」を提供しているのである。「舞台」なのである。アーティストは、パリの舞台で活躍することを夢見て世界中から集まる。大変な求心力だ。

こうした状況をみても、相撲や美術のみならず、芸事を成長させるのは当事者そのものよりも周囲の「見巧者(みごうしゃ)」や「パトロン」であることがわかる.

どのような才能のあるものでも、その才能を育てる舞台がなければ開花できるものではない。その意味で、「大相撲という舞台」は日本にしかなく、パリ・コレクションはファッションの最高の舞台として機能しているのだ。

その意味で、大相撲は「パリコレ」になればいいのであり、日本人力士の活躍がないからといって嘆くこともない。もっと国際化してもいいくらいのものである。

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2003年1月25日

差別の助長とは?

選挙で当選するとだるまの目を入れる風習に、視覚障害者団体が「差別を助長する」と廃止を要請したという。

この風習がはたして、本当に「差別を助長」しているだろうか。別に廃止しても死活問題ではないだろうが。

申し訳ないが、首をかしげてしまった。誤解を恐れずに言わせてもらえば、こういうことを言い出したら、かなり不自由な世の中になる。そもそも、だるまという人形の形状自体が、その気になれば 「差別的」 と言えないこともない。

また、例えばプロ野球選手の「打撃開眼」などという比喩的な言い方はどうなるのか。

そうしたことで被差別感をもつ人は、確かに存在するのかもしれない。多分、まったく気にしない人の方が多いのだろうが、気にする人が一人でもいるとしたら、問題なのかもしれない。しかし、一人が気にするからといって問題視したら、問題にならない言い回しや風習は、案外少ない。

「見苦しい」とか 「人聞きが悪い」などという言い回しだって、下手をしたら差別用語になりかねない。

"アメイジング・グレイス"というとてもポピュラーな歌には、 "I was blind, but now I see" という歌詞がある。直訳すれば、"私は盲目だったが、今は見える" という意味である。

これは、あくまでも比喩的表現であり、盲人を差別するような文脈でないことは明らかなのだが、その比喩的表現こそが差別的と言うことだってできる。そうなったら、もうこの歌は歌えない。

<私個人としては、差別的であるか否かは、文脈の中で判断すべきだと思っている。

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2003年1月24日

「記憶力」と「理解力」

遺伝子配列の個人差が記憶力に影響することを、「産総研」などの日米研究チームが解明したという。

記憶力はいいに越したことはないが、「記憶力の良さ」「頭の良さ」とは、直接イコールではない。

それは、算盤上手が必ずしも数学の成績がいいわけではないのと同じようなものだ。

どうでもいいことを細々と憶えているくせに、簡単な理屈を理解できない人もいる。その反対に、高等数学を理解していても、電話番号を覚えられない人もいる。

>私は人の名前と顔を一致させて覚えるのが苦手だ。その代わり、その人がどんなことを言っていたかというのは、案外よく憶えている。顔と名前を一致させるというのは、どちらかというと機械的な記憶だが、その人の主張を心に留めるというのは、記憶力というよりは理解力といった方がいいかもしれない。記憶力と理解力は違うのである。

遺伝子の個人差はスニップ(SNP) と呼ばれ、DNAの塩基数100個に1個の割合で存在するのだそうだ。 私のスニップは、記憶力にはプラスになっていないようなのだが、せいぜい物忘れをしないようにしよう。

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2003年1月23日

完璧な雪だるま

米国ウェストバージニア州立ブルーフィールド大学工学部が、「完璧な雪だるまの作り方」を開発したという。

この真面目か不真面目かわからないニュースを読んで、「雪だるま」と「スノーマン」は別物だとわかった。

「雪だるま」は英語で "Snowman" というと教わったのだが、どうも「雪だるま」と、米国流の「スノーマン」とは基本的コンセプトが違うようなのだ。

まず、リンク先のニュースを読んでもらうとわかるのだが、アメリカの 「スノーマン」 は三段重ねである。一番下に 3フィート、その上に、2フィート、そして最後に1フィートの雪玉を 3段に重ねるのである。これは、Google で "Snowman" の画像を検索してみてもわかる。確かに三段重ねなのである。

こうしてみると、確かに「雪だるま」は「雪で作っただるま」以外の何物でもなく、「スノーマン」は「雪で作った人形」なのである。「スノーマン」にとっては、ニンジンの鼻は不可欠の要素なのだそうだが、「雪だるま」の鼻がそんなにとがっていては、台無しなのである。

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2003年1月22日

アビーロードの写真

ビートルズのアビーロードのジャケット写真を変造したポスターが販売された。何でもポールの右手の煙草が、コンピュータ処理で消されたらしい。

まるで、鬼ヶ島で鬼と仲直りした、桃太郎の最新版のようなお話だ。

私は嫌煙派だが、この処置は如何なものかと思ってしまう。ポールが煙草を指に挟んでアビーロードの歩道を渡る姿は、未成年に喫煙を勧める悪影響があるというのだが、そんなことを言ったら、昔の映像の多くは修正されなければならない。

ンフリー・ボガード主演の「カサブランカ」なぞは、酒場の場面はすべて煙草の煙がもうもうとたなびいていて、今の感覚で言ったら息を止めないで歩くのが困難なほどである。しかし、当時はこれが普通だったのだ。

過去の時代性をもった芸術作品を現代の倫理尺度で判断したら、かなり多くのものが「不道徳」のレッテルを貼られてしまいかねない。それでは、我々の感覚自体が「薄っぺら」なものになってしまいそうだ。

桃太郎は、絵に描いたような勧善懲悪だからいいのである。カサブランカのボギーは、目を細めて煙草をくゆらすからいいのである。同様に、アビーロードのポールは、さりげなく煙草を指に挟んでいるから、当時のカッコよさを体現しているのである。

エリック・クラプトンは、バングラデシュ・コンサートで、吸いかけの煙草をギターのネックからはみ出した弦の端っこにちょいと突き刺していた。それがなんともカッコ良かったのである。今のクラプトンは、決してステージで煙草など吸わないだろうが。

ポリティカリー・コレクト(政治的に正しい)なものは、えてして作品としては陳腐なものになるのだ。

 

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2003年1月21日

「悪霊払い」 のギミック

「悪霊払い」 で数千万円の詐欺というニュースは、都市民俗学そのものだ。

被害者が軒並み女性で、詐欺の手口はいかにも「もっともらしい」ギミックに満ちている。絵に描いたようなモデルケースである。

街でカモを狙うメンバーは、テニスルックを着たり、バイオリンを手に持つなどして、一般の通行人を装ったという。

こんな格好の女の子から「あなたの背中に霊が憑いている」なんて言われたら、それこそマンガである。普通なら「ほっといてくれ」と思うところだが、世の中にはついクラクラッときて、付いて行ってしまう一定の層が存在するのである。そして、それは主に女性なのである。

これらの「引っ掛け要員」は、「自分も祈祷所に行って霊がとれた」などと言っていたという。「不幸体験の共有」というギミックは、非常に効果的なもののようだ。

さらにおかしいのは、4人の自称「霊能者」が全員「伊集院」を名乗っていたというのである。まぁ、「山田」とか「田中」よりはもっともらしく、「綾小路」あたりよりは敷居が低いということなのだろう。

最後の駄目押しは、この詐欺事件の舞台が「鎌倉」ということである。「それらしさ」の局地といえる同じ神奈川県でも、藤沢や新子安ではダメなのである。

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パソコンの寿命

<私としては、パソコンの寿命は 3年だと割り切っている。

しかし、普通の個人ユースの知人に「あなたの 3年前に買ったパソコンは古すぎるから、買い換えるべき」と勧めるのは、ちょっと気が引ける。

つい最近、知人の勤務先のホームページ開設を手伝ったのだが、その会社の事務所においてあるパソコンは、3年前に安く買った型落ちだから、かなり古い。古いのだが、これまでネットにつなぐこともなく、スタンドアロンで使用してきたため、まったく不便を感じていなかったようなのだ。

しかしこれからインターネット常時接続にして、メールもフルに活用しようとすると、CPU が非力過ぎるし、ハードディスク容量も決定的に足りない。しかし、当のオーナーは高い金を出して買ったものが、たった 3年で使い物にならなくなるなどという発想がないから、こちらとしては、買い換えろとはなかなか言い出しにくいのである。

考えてみれば、一般のオフィス機器は、コピー機にしろ、FAX にしろ、3年で使い物にならなくなるものは少ない。パソコンだけは別ということを納得してもらうには、なかなか骨が折れる。

結局、それを納得してもらうには、日頃からガンガン使い込んでもらうしかない。パソコンは、ヘビーユーザーほど買い替えが早いのだ。

パソコンの世界は、まだ一般常識の通じにくいところがあるのである。

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2003年1月19日

1月の時間感覚

カレンダーを見ると、まだ19日かと思う。毎年のことだが、1月は時の経つのがとても遅く感じるのだ。

これは新年で魂が新生したためだと、勝手に思っている。幼い頃に、1日が途方もなく長かったようなものだ。

確かに、子供の頃は、昼から夕方を迎えるまでが恐ろしく長かった。時が止まったような感覚にとらわれたりもしたものだ。同じように、今、正月から、まだ20日も経っていないというのが信じられない。早く春を迎えたいのに、2月の声を聞くまでまだ10日以上もある。

多分、新年で生まれ変わった魂はまだ瑞々しい段階にあるのだ。この段階を過ぎると、時間の感覚は急に足早になる。その証拠に、桜の散り始める頃を過ぎると、とたんに「時の経つのが速い」と嘆くようになる。

それならば、今のうちに新しい刺激をたくさん得ておこうと思う。秋を過ぎてしまうと、魂も妙に老成してしまって、嘆息ばかり多くなりがちだ。ただでさえ毎年、齢を重ねるのだから、感性の瑞々しい季節のうちに新しいタネを蒔いておかなければならない。

時の経つのが遅いと感じられるのは、それだけ多くのことに取り組めるということだ。

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2003年1月18日

天の岩戸で卑弥呼?

1月17日発行の夕刊フジに、芸能プロデューサーの酒井政利という人が、『地上の星』 の中島みゆきを誉めまくったコラムを書いている。

「低迷する歌謡界に現れた『卑弥呼』だ」 というスゴイ見出しだ。

ところが、本文を読んでたまげてしまったのである。 以下に書き出し部分を引用する。

黒四ダムのあの洞窟は、やはり歌謡曲不振時代の "天の岩戸" だった。その扉を開いた中島みゆきは卑弥呼に通じる。

どうして 「天の岩戸」 の文脈で 「卑弥呼」 が出てこなければならないのか? 氏の頭の中では『古事記』と『魏志倭人伝』がゴッチャになっているようだ。

あるいは、「天照大神」と言ってしまっては、あまりにももったいないから、敢えて、同一人物説もある「卑弥呼」と言ってしまったのか? 仮にそうだとしても、ちょっと唐突過ぎる。まともな比喩として成立しない。

私は日本の伝統文化の基盤をなす『古事記』はもっと尊重されるべきで、学校教育の中にもきちんと取り入れられてしかるべきだと考えている。歴史の科目の中に入れるのに抵抗があるというのなら、国語として教えるべきだ。

そうしてこなかったので、今になって、全国的な夕刊紙でこんなピンボケの記述が堂々と出てくるのだ。自国の文化について、これほどまでに無知になってしまっては、「国際化」もへったくれもないのである。

「国際」とは、「国」の「際 (きわ)」と書く。自国の文化を他国にきちんと説明できてこそ、国際化は進行するのである。

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2003年1月17日

知らぬ間に 1周年

実はうっかりして、大切なことを忘れていた。何を隠そう、昨日が当サイトの 1周年記念日だったのだ。

1年かけて約 6,000アクセスになったわけで、多いのか少ないのか、客観的な判断がつかないところだ。

1年で 6,000アクセスということは、月平均で 500アクセスということだが、今月は多分、2,000近くになるだろうと思われる。

実は、月間 1,000アクセスを超えるようになったのは、昨年の10月以後のことで、それ以後、目に見えて増加中だ。このサイトをスタートした時は、敢えてごく身近な友人・関係者にしか知らせなかったので、最初の 3~4ヶ月のアクセス状況は惨憺たるものだった。1日中、自分のアクセスしかなかったという日もあったのである。

それが、だんだん Google に載るようになってからアクセスが増え始め、常連の仲間が増えてリンクの輪が広がるとともに、「結びの力」が発揮され始めた。半年やそこらで放り出さなくてよかったと、今になって思う。

何度か書いたかもしれないが、中国で蝶がはばたくと、アメリカで嵐が起きるかもしれないのである。このサイトの一言が、世界を動かさないという証拠はないのだ。それだけにどんな小さな一言にでもきちんと責任をもって、せいぜい情報発信し続けよう。

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2003年1月16日

ポカポカ陽気は一時的

先日までポカポカして、気象庁の暖冬予測も遅ればせながら実を結んだと思ったら、ここ 2日間はまた真冬の寒さに逆戻りだ。

明日は桜の咲く頃の陽気になって、その後はまた寒くなるという。

まったく忙しい天気だが、結局は「暖冬予測」は外れてしまったと思っていいだろう。これから先、多少暖かくなっても、それは「春に向かうのだから当然」 ということになる。

私は「お天気商売」の繊維・アパレル業界に関係しているので、案外気候の変化には気を使う方なのだが、記憶を辿ると、気象庁の中長期予測は大概外れている。夏は梅雨入り・梅雨明けの予測がまともに当たった試しがないし、酷暑・冷夏の予測もピンボケだ。冬の予測はほとんどでたらめに近い。

それでももっともらしく予測されると、眉に唾を付けながらでも一応は聞いてしまうのである。結局は外れてしまうのだが。

明日や明後日までの予測はかなりの確率で当たるようになったのだが、その延長戦にあるメソッドで中長期を考えても当てるのは無理だということに、そろそろ気付いてもいい頃なのではなかろうか。それは結果が明白に物語っているのだから。

いっそ、中長期予測には、昆虫やカエルの行動観察を取り入れるなどした方がずっと当たるような気がするのだが。

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2003年1月15日

パン屋のお金とカジノのお金

「モモ」の作者 ミヒャエル・エンデによると、「パン屋のお金とカジノのお金は違う」のである。

つまり純粋な交換手段としてのお金と、投機目的のお金とは、同じお金でも性格が違うのだ。

誰もがそう思っていても、普通の経済学では「どちらも同じお金」として片付けられてしまい、言い出せないでいる。しかし、やはり全然違うのだ。

例えばバブル経済の頃、私は自分の住んでいる土地の値段が上がっても、まったくうれしくなかった。ずっと住み続けるために購入したのであり、売って儲けようなどという気が毛頭ないのだから、地価が上がっても支払う税金が上がるだけだ。

多くがこんなノホホンとした考えだったら、バブル後遺症はこれほどひどくはならなかったかもしれない。

土地だけではない。絵画も美術品も、ゴルフの会員権も、本来の目的ではなく、投機目的のために途方もない値段で取引された。実際の価値とはかけ離れた幻の値段が、元に戻っただけである。マグロの値段でパンを売ろうとしたのが、そもそもの間違いのもとだったのだ。

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2003年1月14日

すばやいメモの取り方

毎日更新を宣言したサイトをもってしまったためか、私は近頃、メモ魔になってしまった。

メモは、手のひらサイズのルーズリーフ型メモ帳に書き付けるのだが、いつでもさっと取り出せるようにしてある。

メモの取り方は、基本的に 1ページに 1項目。大きな字の走り書きだ。メモ帳の罫線に沿ってきれいに書こうとすると、書いているうちにアイデアを忘れてしまう。アイデアのスピードに負けない速さで書くには、体裁は構っていられない。

走り書きだから、時間が経ちすぎると、自分でも読めなくなる。アイデアが新鮮なうちにこの欄で使わなければならない。だからネタの腐ることがなくなる。走り書きの効用だ。

それからもう一つ、最近身に付けた 「知恵」 がある。書き付けたメモ帳は閉じないで、そのページを開きっぱなしにしてポケットにしまうのである。閉じてしまうと、次に取り出した時、新しいページを探すのに手間がかかる。常に最新の書き込みのページにしておくと、アイデアの確認と次の書き込みがしやすいのだ。

習慣というものも、意識的に続けると進歩するものである。50歳を過ぎても、まだまだ下り坂ではないようで、うれしい。

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2003年1月13日

PDCA システムは完全じゃない

ISO14001 (環境マネジメントシステム) が大流行で、巷では PDCA システムの亜流が幅を利かせている。

これは Plan-Do-Check-Action を連続させるというマネジメント手法なのだが、私は少々疑問を持っている。

これは日本語では「計画-行動-検証-全体の見直し」とされている。

しかしながら、大体において、事前の計画 (Plan) 通りに何の問題もなく遂行されるようなプロジェクトなど、世の中にはほとんどない。大抵は現場で多少気を利かせたアジャストメントを施してうまく展開しているのである。

ただ、これにも問題がある。現場でのアジャストメントが、ビジネスフローのそれ以降の流れに混乱をもたらすケースが多いのだ。現場では気を利かせたつもりでも、そこから先の流れにおいて「そんな変更は聞いてないよ」ということになり、「勝手にこんな変更をしたのは誰だ」という責任問題にまで発展することもある。

<従って PDCA マネジメントでは、現場は原則的に計画通りの作業を行なわざるを得ないのだが、この段階での問題が大きすぎると、"Check" の段階を待てないほどの混乱が起きることもある。

だから、この PDCA マネジメントはまだ完成モデルとは言えない。現場でのアジャストメントをうまく機能させ、それ以降のビジネスフローに問題なく反映できるようなシステムを作らなければならない。

つまり、各段階で、フラクタル的に無限の PDCA を内包することが重要で、実はちょっと気の利いた企業なら、日常的に行なっていることである。

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2003年1月12日

鉄腕アトムの「善」

鉄腕アトムの誕生日は、2003年 4月 7日なのだそうだ。今年である。

手塚治虫には、あんなロボットができるくらい「はるか未来」に思えた 21世紀の 3年目に、我々はもう既にたどり着いてしまったのである。

夢想した未来は、実際に突入してみると、ひどく日常的で代わり映えのしないものであることに気付く。

アトム以外のロボットは、本来「善」でも「悪」でもない。人間に操縦されるがままなのだから、「善」としても「悪」としても機能できる。徹底的に「受身」なのだ。

>ところが、アトムは常に「善」である。彼は誰からも操縦されず、自発的に人間のために戦う。「悪」を行うという発想がない。「善」という一面性しか持たないがゆえに、「不完全」であると位置づけられたりもする。

そして彼の行なった「善」が必ずしも思惑通りの「善き結果」を伴わなかった場合、彼は悩む。それほどに、彼の「善悪」の観念はプリミティブ(原始的)である。

しかしそれほどにプリミティブな「善悪の観念」さえも、現在のコンピュータは持つことができない。コンピュータは便利ではあるが、「お馬鹿」である。ある意味、「お馬鹿」で幸いである。

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2003年1月11日

無精者と PC

自信を持って言うが、私のパソコンのハードディスクの中は、とてもよく整理されている。

その代わり、これも自信をもって言うが、私の机や書棚は、目を覆うほど乱雑だ。

私の机の上や書棚は、以前はもっとどうしようもないほど乱雑だったのだ。しかし、野口悠紀雄氏の 「超整理法」 を読んだおかげで、見た目の乱雑さを度外視すれば、最低限の整理はできていないこともないという程度までは改善された。

それとは対照的に、私のハードディスクの中は、そんじょそこらの人には負けないくらい整然としている。目当てのファイルが行方不明になることなぞ滅多にない。

この違いは、どこからくるのかというと、結局は「不精」故なのである。「モノ」である書類を整理するには、穴をあけ、バインダにとじなければならない。私はそれをするのが億劫でたまらないのである。

しかし、パソコンならば、保存のフォルダを指定してやるだけで、穴あけやファイリングはいらない。だったら、最も適当なフォルダに時系列で並ぶようなファイル名を付けて保存するくらいのことはするのである。不精だけに、保存時の手間と、あとで探す時の手間を天秤にかけると、こうなるのだ。

パソコンは「不精」にはありがたいツールである。

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2003年1月10日

気配りと無神経

「とてもよく気が付く」と評判の人がいる。そういう人と酒を飲むと、確かに見事な気配りを見せてくれる。

しかし、帰りに同じ電車に乗ると、彼は大また開いて座席を占領することには、とても無神経だったりする。

そういう人は結構いる。がっかりしてしまうのである。

彼が細やかな気配りを見せるのは、「見返り」が期待できる人に対してのみで、電車に乗り合わせる「不特定多数」には、まるで気を使わないのだ。

結局のところ、彼は「よく気が付く」のではなく、「打算」に長けているだけなのである。評判の「気配り は、社内での出世のためだけに使われているのである。

電車に乗った時に、不特定多数に対して、目立たないけれども適切な気配りのできる人の方を、多少無骨でも、私は信用する。

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2003年1月 9日

誰のアクビにうつりたい?

車を運転していて、同乗者がアクビをすると、必ずこちらにもうつる。

ウチの娘は、テレビの画面のキムタクがアクビをするのを見て、ちゃんと自分にもうつったそうだ。自慢になることかどうか知らないが。

「すごいでしょ。キムタクのアクビが、時空を超えてうつったんだよ!」
「そりゃ、確かに凄いことかもしれん」
「お父さんは、誰のアクビがうつりたい?」
「うーむ、藤原紀香のアクビがいいな」
「だめだよ、藤原紀香はテレビカメラの前で、アクビなんかしないよ」

うーむ、そうかもしれん。

「それじゃあ、こいつのアクビだけはうつりたくないという奴はいるか?」

全員一致で、金正日のアクビだけはうつりたくないということに落ち着いたのであった。

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2003年1月 8日

ロシアのクリスマス

ロシアでは、サンタクロースはクリスマスにではなく、正月に来るというのを聞いたことがある。

それはロシアの「旧暦」ともいうべき「ユリウス暦」では、1月 7日がクリスマスにあたるからだと、今日知った。

本当に、いくつになっても知らないことというのはいくらでもあるものだ。

現在、世界の主流として使われているのは、「グレゴリウス暦」で、1582年に、ローマ教皇のグレゴリウス 13世が定めたものだそうだ。それまで使っていた 「ユリウス暦」 の、実際の太陽の運行とのズレが大きくなってしまったため、その修正のために制定したということである。

ところがその約 500年も前に、ローマ教会は東方教会を破門していたので、ロシア正教、ギリシャ正教などの国は、今でも教会暦として「ユリウス暦」を使っている。「俺たちを破門しやがった連中の作った暦なんか、ケッタクソ悪くて、使えるか」というところだろうか。

それで、宗教行事であるクリスマスが、ロシアでは元日より後になってしまっているのだ。決して、妙な土着行事ではない。

これも、昨日購入した『旧暦はくらしの羅針盤』を読んで知ったことである。暦というのは、本当におもしろい。

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2003年1月 7日

旧暦、恐るべし!

以前、この欄でも紹介した小林弦彦氏が、昨年12月に旧暦はくらしの羅針盤』という本を出版されたのを、今日知った。

某大型書店に行ったら、 「占い」本コーナーに平積みされていた。

「決して 『占い』 の本というわけではないのだが …… 」 と思いながら手に取ると、なかなか面白い。「太陰太陽暦」 である旧暦は、実際の季節の変化に合わせるために、19年に 7回の 「閏月」 を入れるのだが、それが太陽暦では説明のつかない季節感の変動を解明するのに非常に役に立つという指摘は、非常に示唆的だ。

ちなみに、氏は一昨年 11月の段階で、この冬を「久し振りに年内(平成14年)に寒さを実感できそう」と予測しておられたが、果たしてその通りになった。

こうして 1年前の予測できちんと当てておられるのに、気象庁の長期予報は、3ヶ月前の段階で「60%の確率で暖冬」などと言ってスカしてしまった。少なくとも、中長期的な予測ではどちらに分があるか、結果が明白に物語っている。

ちなみに、今年は順調な季節感となるそうで、春が実感されるのは、3月 3日頃からとの予測である。昨年より 10日以上早く春が来るわけだ。今が寒いだけに、楽しみなことである。

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2003年1月 6日

「エクセリン」 て何のクスリ?

ラジオのCMソングで「♪ エクセリン、エクセリン、ウェール」というのがある。ずっとクスリの宣伝だと思っていたら、某競艇場の宣伝なのだった。

歌詞は「エクセリン」ではなく、「エクサイティング」と言っていたのである。

日本人は「アイ」という発音を「エ」に音便化してしまうことがよくある。「したい」 が 「してぇ」 になり、「偉い」 が 「えれぇ」 になる。

それで、「エクサイティング」が「エクセリン」になってしまったわけだ。

歌に限らず、新橋から出ている 「新交通ゆりかもめ」 の車内アナウンスでも、"Thank you for riding Yurikamome" と言っているのだが、"riding" が "waiting" に聞こえてしまう。つい日本語の音便化の規則に従ってしまうのだ。

ネイティブの発音を聞くと、[ai] は決して [e] にならず、どちらかと言えば [a] に聞こえる。 だから、ビートルズの "I Want to Hold Your Hand" は、「会わな方丈変」に聞こえる。

日本人は、口をタテに開くべきところをヨコに開いてしまうので、「アイ」が「エ」に聞こえてしまうのである。

"R" と "L"や、"S" と "TH" の区別がつかないだけでなく、母音の音便化という点でも、身についた身体性というものから抜け出るのは容易ではない。

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2003年1月 5日

「松の内」 はいつまで?

新年の挨拶を、いつ頃まですればいいのかというのは、目立たないが大きな問題だ。その年最初に会った人に対してでも、あまり遅くなると「明けまして …… 」とは言いにくい。

「松の内」は一体何日までなのか?

一般的には、「松の内」とは 1月 7日までとされている。しかし、今年みたいに年末年始休暇が長いと、7日以降の初顔合わせというのが、いくらでもあるだろう。そんな時、新年の挨拶をすると、間が抜けてしまうのか?

結論から言うと、1月15日までは「松の内」と言って差し支えないもののようだ。昔はこの頃まで松飾りをしていたらしい。

それが 7日までに短縮されたのは、江戸時代に、冬は火事が頻発するので、門前に燃えやすい飾りをいつまでも置いておくのは防災上よろしくないというので、「松飾りは 7日までにするべし」というお触れが出て以降なのだそうだ。

となれば、15日までは安心して「明けましておめでとう」の挨拶をしてもいいということだろう。しかし、それ以後になると、さすがに間が抜けてしまう気がする。

「新年」の雰囲気も、日常が始まって 2週間も経つと、急速に色褪せるもののようだ。書初め、初詣などがまだの場合は、早目に済ませた方がよさそうだ。

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2003年1月 4日

衣食足りて礼節を知る

コンビニや牛丼屋、パチンコの景品交換所に強盗が入ったというニュースが毎日のようにある。聞けばせいぜい数万から数十万円の被害というのが圧倒的に多い。

不況ゆえの犯罪としか思えない。

私は決して金が全てとは思っていないが、「衣食足りて礼節を知る」というのは否定しようのない事実である。

初めてニューヨークに行ったのは、80年代初頭。米国経済が不調の真っ最中で、街も本当に物騒だった。 それが、昨年シカゴに行ったときは、本当に安全な街になっていた。10年以上好況を続けた国という気がした。

一方、今や日本の方が物騒である。経済的に弱くなると、モラルまで落ちる。

私の専門の繊維・ファッション業界を見ると、その時点で最も経済が好調な国のデザイナーが、世界で最も注目される。イッセイ・ミヤケやコム・デ・ギャルソンが世界に進出して、黒づくめの「ジャパン・ファッション」が注目されたのは、日本経済が世界をリードした 80年代のことだった。

最近はニューヨークのデザイナーが注目だ。まだ比較的、経済がいいから。アジアでは韓国が比較的頑張っている。

経済がいいと、多くのことが底上げされる。逆に、経済が悪いと大抵のことが低レベルになる。単純な話だ。残念だが、経験知からして認めざるを得ない。

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2003年1月 3日

長期予測は当たらない

この冬の長期予報は、「60%の確率で暖冬」と言っていたはずだが、実際にはこの通り、相当に寒い!

天気予報というのは、翌日か翌々日までならかなり当たるが、1ヶ月以上先となるとなかなか当たらない。

今日は妻が外出したので一日家事をしていたのだが、朝の 9時半頃に外に干した洗濯物が、昼前の 11時には凍っていた。山形県なら珍しくないが、関東では滅多にない。それほど寒かったということだ。

天気を予測する上でのいろいろなファクターが、時間的に先になればなるほどカオス的様相を強めるので、長期予測が大変だというのは、よくわかる。

よくわかった上であえて言わせていただくとすると、「なかなか当たらないものを予測するなんて、止めた方がいいんじゃないか」ということだ。 あるいは、「60%の確率」程度では、「眉に唾つけて聞いといてください」と断りを入れた方がいいのかもしれない。

天気予測というのは、かなり複雑系の要素の濃い領域であるようだ。それだけに、長期的なことはあまりもっともらしく言わない方がいい。

「先のことは、はっきりわからないというのが、科学的にも、もっとも誠実で客観的な態度」ということの理解をきちんと広めておいてから、「もしかしたら、これこれの陽気になるかもしれない」という程度にとどめておけば、外れてもあまり腹も立たないだろうにと思ってしまうのである。

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2003年1月 2日

東大寺の鐘楼事件

「ゆく年くる年」のスタッフが、東大寺の国宝の鐘楼にクギを打ち付けていたというニュースにはたまげた。

照明をぶら下げるためというが、放送関係のスタッフの中には、かなり乱暴な連中がいるのは事実である。

貴重な建造物に、無神経にも 9本もクギを打ち込むような連中のことだから、推測だが、他でもずいぶん乱暴にクギを打ち放題だったに違いない。それだからこそ、何の疑いもなく今回の蛮行に及んだのだろう。

NHK は「今後、このようなことがないよう、細心の注意を払うことを現場に徹底した」とコメントしたが、このあたりからしておかしい。「私たちは、『細心の注意』を払わなければこうしたことを防止できないような、常識を知らない下請を使ってます」と広言しているようなものだ。

報道のされ方もおかしい。「無許可で」クギを打ったことが問題であるかのような文脈になっているのだが、実際は、国宝にクギを打ちたいなどという許可申請など、できるわけがないではないか。

厳重抗議を受けた放送局側は「すぐにくぎを引き抜き、ひもでライトを固定した」ということだが、引き抜いただけでは不十分だ。抜いた跡の穴を丁寧に埋めて、色も目立たないように補修するのが筋というものだ。

それから、ここまで言うのは少々恐縮なのだが、年末の多忙な時期とはいえ、東大寺側も、作業には立ち会うべきだったと思う。そうすれば未然に防げたはずだ。寺の出入り業者が発見するまで、当事者が気付かなかったというのは、ちょっと恥ずかしい。

ちなみに「鐘楼 は「しょうろう」ではなく、「しゅろう」 と読むのが本来のようだ。これは今回のニュースで初めて知った。

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日常の中の 「勘」

どこにもでかけずに、年賀状の仕上げをし、やっと投函した。年明けにまでずれ込んだのは、4~5年ぶりだ。

ようやく眠れる。目が覚めたら持ち帰りの仕事に追われ、また暇なしの日常に戻る。

正月気分は元日のみ。あとは週末まで自宅にいられはしても、結局はいつもの仕事に追われるわけだ。

いつもの日常といえば、既にこの「今日の一撃」の更新も大切な「日常」になってしまった。それで思い出したが、昨年 9月 10日の一撃で「今回の小泉首相の訪韓は、もしかしてエポックメイキングなことになるかもしれない」と予言しているのに気付いた。

帰国直後の成り行きでは、「結局、またうまく丸め込まれたか」と失望したが、その後の揺り返しが予想以上に大きく、日本の対朝鮮外交は一変した感がある。

確かに「エポックメイキングなこと」になってしまったようだ。ちょっとしたヒットだったかもしれない。

あの時は、「何となく予感がした」のだが、今年もこの「勘」を大切にしたいと思ったものである。

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2003年1月 1日

新たな生まれ変わり

この欄の日付の「H14」を「H15」に更新して、初めて年明けを実感した。

H15

日本では古来、新年になると人の魂も新しくなるのだとされてきた。魂が新たになるということは、要するに、新たに生まれ変わるのだ。

これは素晴らしい信心である。

キリストは「人は新たに生まれ変わらなければ神の国をみることはできない」と言った。これを聞いたニコデモというユダヤ人は、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と訊ねたということが、聖書に書いてある。

なんと凡庸な質問をしたものだ。日本人は、年毎に新たに生まれることを当然のこととして知っていたというのに。

というわけで、我々はどうやら新たに生まれ変わったのだ。世界で最初に生まれ変わった国民である。どんどん西に向かって、「生まれ変わり」のウェーブが続く。

生まれ変わったからには、生まれ変わったように生きて「結びの力」 のネットワークの中で情報発信をし続けよう。

 

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