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2003年2月に作成された投稿

2003年2月28日

「総額表示」 方式

来年の春から、小売店における商品の価格表示は、本体価格と消費税を合計した「総額表示」が義務付けられる方向に向かいそうだ。

これで消費税率アップになっても、抵抗感が弱まるらしい。

「総額表示」方式にすれば、消費税率を上げても消費者にはウヤムヤになるから、抵抗感が薄れるだろうと期待しているようだが、これでは、消費者もずいぶん軽くみられたものである。

もっとも、この法案が通るとメーカーと小売店のシステム担当者は大変な苦労が待っている。伝票は総額表示で書かれても、税務会計の基本となる商品の本体価格は税抜きで計算しなければならない。しかも、端数切捨てを一品ごとに行なう場合と、総額表示にして、売上額全体を後で 1.05 で割る場合とでは、微妙な誤差が出る。この帳尻あわせも大変だ。

>もともと日本の 「消費税」 という制度は、一度「売上税」の法案が流れてしまって、いわばリターンマッチで成立したものだから、各所で妥協の産物的「いい加減さ」 が内包されている。

「なぁなぁ」で成立した約束事は、時間が経つといろいろな解釈が成立して、話がややこしくなるのである。

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2003年2月27日

テレビで感動

今日は新宿に泊まり込みだ。

明日までに仕上げなければならない原稿があるので、せっかくの新宿の夜でも、仲間と飲みに行くわけにもいかず、ホテルの部屋に缶詰になって、ノートパソコンの小さな画面と格闘した。

自宅でも職場でも、デスクのそばにテレビなどはおいていないので、私のテレビを見る時間は平均的日本人としては極端に少ない。せいぜい 30~40分で、それも集中して見ることなぞほとんどない。

ところが、ホテルの部屋ではデスクのそばにテレビがおいてあるので、ついスイッチを入れて、「ながら族」になってしまった。仲間はどこかで飲んでいると思うと、テレビぐらいつけなければストレスがたまってしまう。

NHK のドキュメントで、建築家の安藤忠雄氏が、海辺にコンクリート打ちっぱなしの4階建ての住宅を建てるという特集をしていた。これには、原稿を書きながらでも十分感動した。

安藤氏は「建築は生き物だ」と言う。これはどういう意味か。

生物学的な「生命」をもつ「生き物」は、生まれてから成長し続ける。しかし、元々は「モノ」 の寄せ集めに過ぎない「建築」は、完成してしまったら、あとは消耗し続けるしかないはずである。

それが「生命」を持つというのは、作り手と住み手の心が重なり合い、「モノ」として完成した後も、衰えるのではなく、「味=テイスト」が加わり続けるということだろう。

テレビというのも、たまにはいいものだと思った。

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2003年2月26日

面接試験では、両方試される

就職試験で女子高生にキスをした社長が、強制わいせつで逮捕された。

以前、アパレル業界の新入社員にリクルート関連のアンケートをしたが、面接官のいやらしさにブチ切れそうになったとの回答は案外多かった。

こうしたアンケートでは、面接試験でとても失礼な質問をされたり、セクハラ的な扱いを受けたりするのはザラだったという記述回答が、かなり多い。

アパレルメーカーという、消費者に非常に近いポジションに位置する企業がそのようなことをするのは、非常に愚かなことである。就職希望者は、合格すれば自社の社員だが、不合格なら「顧客」 たりうるのである。

面接試験で不愉快な印象をもった若者たちは、以後、そのメーカーの商品は絶対に買わないだろう。それだけでなく、彼らに不快な印象を聞かされた親類縁者、友人たちも買わなくなるだろう。

面接試験というのは、実は案外効果的な企業宣伝の場なのである。好印象を与えれば、たとえ不合格になった子たちでも、その会社の商品を買うだろう。

面接試験では就職希望の若者だけでなく、企業側も試されているのだと自覚しなければならない

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イラク問題は付き合いきれない

イラク情勢が世界の最大の関心事になっているが、私は正直言って、この問題についてコメントするのが嫌だ。

無関心なのでも、ニュートラルなのでもなく、ただひたすらにこの種の問題のあり方が嫌いなのである。

どうしても戦争に持ち込みたいアメリカの態度に、反戦主義の立場から異を唱えるのは簡単なことだ。しかし、9.11 経験したアメリカ人の、過剰に防衛的な気持ちもわからないではない。

その一方で、アメリカは 9.11 を本気で避けようと思えば避けられたはずだという議論も、よく理解できる。真珠湾と同じだ。

アメリカの好戦的態度に真っ向から反対するフランスやドイツにしても、石油利権がらみの事情を知れば、額面通りの受け取り方はできないとわかる。当のイラクにしたところで、フセイン政権なんて、今や誰も積極的に支持しているわけではない。

結局、誰も本気で世界を語っておらず、もっともらしい政治的立場の表明の裏側には、利権、行きがかり上のやりとり、ポリティックな駆け引きなどがトグロをまいている。志の低い思惑同士がぶつかり合っているだけだ。

私は戦争を望むものではないが、今回に関しては、反戦的なコメントを発信しようという気にもなれない。はっきり言って、付き合いきれない気持ちだ。

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2003年2月25日

フラクタル・ポイントで、「ツボ」

新しく作る会社の名前は、「フラクタル・ポイント」にしようと思っている。

ドメイン名を検索したら、"fractal" では、.com も .co.jp も既にふさがっていたので、「ポイント」を付けてしまおうというわけだ。

「フラクタル」というのは、日本語では「自己相似」というが、この類は日本語に訳したからといってわかりやすいというものでもない。

一番わかりやすいのは、こちら をみていただくことだ。ちょっと見てから、ここに戻ってきていただければ幸いだ。

部分の中に全体がある。私の尊敬する鍼灸医の先生によると、フラクタルは東洋医学でも注目の理論なのだそうで、「ツボの中に全身がある」ともいえるのだそうだ。

それならば、「フラクタル/
ポイント」は「ツボ」と大胆に意訳してしまおう。「ツボを押さえた仕事」というのを、ウリにしてしまおうではないかというわけだ。

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2003年2月23日

高級ブランドの名前

山形県庄内出身の私は、高級靴で有名なイタリアの某ブランドの名前を口にするのにちょっと抵抗がある。

そう思っていたら、津軽出身者にとっては、その抵抗はより大きなものになるらしいということがわかった。

庄内では「おちんちん」のことを「かもこ」という。小さな男の子のかわらしい段階のものをいう場合が多いように思うのだが、これについては、別に「かもこ」の専門家ではないので、勝手な思い込みかもしれない。

だから、温泉で有名な佐渡島の加茂湖という地名も、よく「佐渡加茂湖温泉」などと表記されているが、ちょっとなんだかなぁという気がする。加茂湖の地元の方々には、まったく他意はないのでお許しいただきたいのだが、こればかりはいたしかたない。

庄内では「かもこ」なのだが、なおも都を離れて津軽あたりまで行くと、一説には、かわいらしさを表す接尾語の「こ」が取れてしまう場合が多いらしく、さらに訛りが加わわって、単に「がも」となるらしい。

ここまで来れば、何ゆえに私がイタリアの高級靴 (最近は靴ばかりではなく、バッグや香水でもおなじみだが) ブランドの名前を口にするのに抵抗があるか、おわかりいただけたと思う。津軽人にとってはなおさらと思いやられるのである。

なお、「かもこ」が 男女の仲がいいことを現す「ちんちんかもかも」という言葉(国語辞典にも載っている)と関係があるかどうかは、皆目見当がつかない。ご存知の方がいたら、ご教示いただきたい。

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2003年2月22日

「論理」と「直観」

よく「論理」と「直観」について考えることがある。

「論理的」であることは、一見信頼できることのような気がするが、実は 100%論理のみで思考することは至難の業である。「論理」思考は、煎じ詰めればコンピュータで計算することが可能な作業である。

人間対コンピュータのチェスの試合が話題になるが、大金をかけて開発した巨大なスーパーコンピュータが、人間とせいぜい「いい勝負」をするしかできないでいる。これが将棋になったら、コンピュータは人間にとても敵わないといわれる。

人間は「論理的」な思考をしているようでいて、実は各段階で「直観によるショートカット」を繰り返している。それは、「論理」のみで思考を進めたら、いくら時間があっても足りないからである。

「論理」を尽くして調査した結果が、「元々わかっていたことが、もっともらしい数字で立証されただけ」と感じられることも多い。「直観」は常に「論理」の先回りをする。

全てのケースは個別である。一つのケースでうまく行った方策をよく似た別のケースに適用しても、うまく行くとは限らない。それは、「よく似たケース」でも細部の要因はかなり違うことが多いからである。

「まったく同じケース」を仮定しても、「不確実性理論」によって、まったく同じ結果にはならないのだから、「よく似た」という程度のケースでは、かなりの部分で計算し直さなければならない。「論理」とはうっとうしいほど手間のかかるものである。

それならば、「直観による応用」の方が、ずっと手っ取り早い。というわけで、「直観」はとても重要な要素であると思っている。

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2003年2月21日

危機意識と香水

フィラデルフィア空港で、サウジアラビアに帰国する男子学生が、荷物検査所で疑いをかけられた香水を係員に吹き付けて、大騒ぎになった。

時節柄、アメリカ人はずいぶんナーバスになっているようだ。

この学生は、疑われた液体が単なる香水であることを示すために、まず自分に吹きかけて、係官にも噴霧したというのだが、イラク作戦を進行中のアメリカにとっては、中近東の人間に訳のわからないスプレーを浴びせかけられたというだけで、相当ショックの大きいことだったようだ。

以前、湾岸戦争の頃、ロンドン空港に降り立った日本人が、後ろから「荷物をお忘れですよ」と声をかけられ、振り返ったら見知らぬバッグが置いてあったので「私のではありません」と答えたところ、周囲の人間が蜂の子を散らすように一瞬にして逃げてしまったという話を聞いた。当の日本人は、ただ唖然とするばかりだったらしい。

その時は、本当の持ち主が現れたので、何のこともなかったらしいが、日本人は案外危機意識が薄いという話になったわけである。

くだんのサウジアラビア人の学生も、かなり能天気なことで、ハロウィーンの日に「フリーズ!」と言われても動きを止めなかったために、撃ち殺された日本人留学生の悲劇を思い出してしまった。

 

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2003年2月19日

コンプライアンス

「これはあくまでも『原則』ですから、多少のことは目をつぶります」などと言われることがある。

その度に、「あくまでも原則」とは何事かと思う。とにもかくにも遵守すべきなのが「原則」ではないか。

”Compliance" という言葉がある。最近は「コンプライアンス」というカタカナ語として、日本語の文脈の中にも度々出てくるようになった。意味は「遵法主義」といったようなところである。要するに、決まりごとはきちんと守りましょうということだ。

こんなことをことさらに言わなければならないほど、世の中の「原理原則」は軽んじられている。16日の「一撃」にも書いたが、永平寺の団体参拝客は、「廊下は左側を静粛に歩く」と聞かされて30秒も経たないうちに、廊下一杯に広がって歩く。

免許取得の際に「車は左端を通行する」と習ったはずなのに、追い越し車線をノロノロと通行してスムーズな交通を妨げる。

これらは、単に注意力欠如というだけだが、スーパーの食品売場には確信犯があふれている。賞味期限をごまかす。輸入牛肉を国産と偽る。魚沼産こしひかりが一粒でも入れば、袋全体に魚沼産と表示する …… などなど。

決まりごとというのは、わずかばかりの利益を得るために破って戦々恐々とするよりは、守った方が気楽でいられるのである。「原則」もとにかく守るものと思えば、余計な思案でストレスを貯めることもないのだ。

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2003年2月18日

悪いのは 「丸投げ」 ではない

近頃「丸投げ」が何かと問題になっている。「経済政策が『丸投げ』だからいけない」などという文脈だ。

しかし、「金も口も出す」というより、「金を出して、後は信じて任せた」という方が、物事はずっとうまく行く。

例えば自分が何かのプロジェクトの進行を任されたとしよう。その場合、発注側からああだこうだと細部に至るまで余計な注文をつけられたら、うっとうしくてやってられないと思うだろう。

「任せたんなら、信じて任せろ!」と言いたくなる。

だから、信頼関係さえあれば「丸投げ」 というのは非常に有効な手段である。現にそれでうまく行っているケースは、日本中に山ほどある。

「丸投げ」が問題になるのは、公共工事などのケースである。受注した建築業者は、具体的な工事作業を下請けに「丸投げ」する場合が多い。「丸投げ」された下請業者としては、適正マージンをさっぴかれた金額で任されるので、「手抜き」をしないでは工事は不可能なのである。これが典型的な「丸投げ」の弊害である。

しかし、一国の首相が大臣に個別の政策を任せるのは、マージンがどうのこうのという話ではない。失敗したら政権交代させればいいだけのことだ。「丸投げ」自体は非難されるべきことでも何でもないのであって、論議されるべきなのは、あくまでも政策の中身である。

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2003年2月17日

白黒の夢、カラーの夢

小橋昭彦氏の「ざつがく・どっと・こむ」というサイトに、「昔は夢も白黒だった」という指摘がある。

昔はカラーの夢は珍しかったが、今では大半の人がカラーで夢を見た経験を持つというのである。

米国の哲学研究家エリック・シュワイツァベル博士によると、これはテレビや映画の影響だというのである。

それでは、テレビや映画以前の人間はどんな夢を見ていたのかと、突っ込みたくなるところだが、博士は「見る夢は同じでも、思い出すときに、日常見ている映像の影響を受けて白黒になったりカラーになったりする」と説明しており、「香りや触覚を届けるテレビが登場すれば、夢で手触り感などを覚えることが増えるのではないか」とも予測しているという。

そうすると、夢というのはかなり可能性のあるもののようだ。12日の一撃で、夢の中で浮かんだアイデアは愚にもつかないというようなことを書いてしまったが、もしかしたら、本当は素晴らしいアイデアだったのに、思い出し方が悪くて、きちんと再現されていなかっただけなのかもしれない。

アイデアを一瞬の間に記述できるようなシステムが開発されたら、その影響を受けて夢の中のアイデアもきちんと思い出せるようになるかもしれない。

それにしても、インターネットの世界にも「以心伝心」というものがあるようで、12日の 5日後に、まったく別のサイトからアイデアを発展させてくれるようなコンテンツが発信されるというのは、とてもおもしろい。

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2003年2月16日

お尻に聞かせる

昨日に続き、永平寺ネタ。

永平寺では、参拝にあたり「廊下は左側を静粛に歩く」など、注意事項を申し渡される。しかし実際には決まりはあまり尊重されていない。団体での参拝客ほど、馬耳東風だ。

たった今しがた「廊下は左側を静かに」と聞いたばかりなのに、団体客のほとんどは、廊下一杯に広がって、スリッパをバタバタ鳴らしながら歩き始める。

階段に差し掛かると、左側通行なんて聞かなかったように、年寄りは右側の手すりにつかまって昇り始める。 オバちゃんたちは、ペチャクチャとおしゃべりが始まる。

こちらの時間が限られているので急いで歩きたいのだが、団体が廊下一杯に広がっているので、追い抜こうにも追い抜けない。

人の言うことをまともに聞かないことを、田舎の庄内では「けっつさ聞がせる」と言う。「けっつ」とは、尻のことである。「耳で聞かないで、お尻で聞く」という意味である。久し振りに、人の言うことを「けっつさ聞がせる」典型例を目の当たりにした。

昔だったら、一喝されてしかるべき礼儀しらずの衆生でも、最近の禅坊主はやさしくなったのか、案外大切に扱われるのであった。

 

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2003年2月15日

永平寺参詣

金曜日に福井に出張したのを幸いに、自費で一泊して、長年行きたかった永平寺を参詣してきた。

たまたま 2月15日は「涅槃会 (ねはんえ)」の行事が行なわれていて、末席に参列させていただけた。

「涅槃会」というのは釈尊入滅の日、つまり、お釈迦様の祥月命日である。お釈迦様の誕生日(4月 8日)はもちろん知っていたが、恥ずかしながら命日までは知らなかった。今日、参拝して初めて知った。

たまたま行った日が偶然にもそんなに大切な日に当たったというのは、運が良かったのだろう。知らずに入っていったらご焼香までさせていただけて、本当にありがたい。

曹洞宗の大本山でお釈迦様のためにご焼香をした人なんて、そんなに多くはないだろう。きっと、父の父の得明和尚が導いてくれたのだと思う。感謝。

永平寺は入り口からすぐ屋内に入れて、そのまま一番上の法堂までよく磨かれた回廊を通って行けるのだった。屋外の雪深い参道を辿って登る覚悟をしていたのだが、その点は呆気ないほど楽だった。さすがに雪国の修行道場である。ただ、雪道を辿りたかったような気も、しないではないのである。

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2003年2月13日

キスは 「右」派? 「左」派?

ドイツの心理学者の研究によると、キスする時には、首を右に曲げる人が多数派なのだそうだ。

独ボーフム・ルール大学のギュンテュルキュン教授によると、「右」派は「左」派の 2倍に達するらしい。

ギュンテュルキュン教授の研究成果も面白いが、より面白いのは、彼がこのデータを得たところの方法論である。彼は、米、独、トルコの国際空港で、124組のカップルを「こっそり観察」したというのだ。

たった 124組のケースの観察だけで、こんな大胆な発表をしてしまってもいいのだろうか? どうしてキスの本場であるフランスの空港を無視して、トルコを選んだのだろうか? 東洋の傾向は無視されてしまったのだろうか?

<「右」派と「左」派では、行動様式や見かけで、顕著な違いが見られるのだろうか? 同じカップルは、何度キスしても首を傾ける向きは変わらないのだろうか?

疑問は尽きない。

ところで、私自身は多分、「右」派のような気もするが、今夜は妻が早めに寝てしまったので、実地検証できないでいる。

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2003年2月12日

夢の中のアイデア

「ひきこもりイラストレーター」をやっている高校の同窓生が「ひねもす」というサイトで、「夢の中で描いた絵柄は憶えられない」と嘆いていた。

私は絵は描けないが、その気持ちはとてもよくわかる。私の場合は、文章で同じような経験をしている。

夢の中で素晴らしい文章が書けるのである。内容は詩だったり、小説だったり、イベントの企画書だったり、種々雑多なのだが、とにかく素晴らしいアイデアが浮かぶのだ。

しかし、目が覚めて憶えているのは自分で自分のアイデアに舞い上がった陶酔感だけで、その内容はほとんど忘れてしまっている。なんともったいないことかとずっと思っていたのである。

あまりもったいないので、ある時期、枕元にペンとメモ帳を置いて寝るようにしたことがある。夢の中でアイデアが浮かんだら、その印象が薄らいでしまわないうちに、すぐに書き留めるためである。そして、事実何度かは書きとめることができた。

しかし、それは無駄な努力と判明した。朝になってからメモを読み返してみると、「どうして夢の中では、この程度もので、あんなに舞い上がれたのだろう」と思うような、くだらないアイデアが走り書きしてあるのである。自分で読み返すのも恥ずかしいくらいのものだ。

夢の中の感覚というのは、どうもうつつの世界にはほとんど適用できないもののようなのである。夢を見る力学というのは別の次元のお話のようで、それは夢として楽しめば、それでいいことなのかもしれない。

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2003年2月11日

神話オリジンの建国

従来、マスコミは建国記念の日の祝賀行事と反建国記念の集会を並列的にレポートするのを旨としてきた。

ところが、さっき Yahoo のニュースで検索してみたが、「反~」のニュースは見当たらない。

多分、「反~」 の動きをまったく書かなかったわけではないのだろうが、今回は扱いに格段の差がつくほど小さな記事だったかなにかで、Yahoo のサイトでは無視されることになったのだろう。

マスコミは反建国記念派の動きを必ず添えることで、思想的中立性を保ったようなつもりになっていたのだろうが、下卑たアリバイ作りのようなもので、どうも気に食わなかった。今年はようやくまともになりかかったのかもしれない。

反建国記念派の論拠は、「2月11日は神話に基づくもので、歴史的事実ではない」ということと、「紀元節復活は、軍国主義復活につながる」ということだ。

建国記念の日が「歴史的事実」に基づくかどうかなんて、問題ではない。「神話に基づく」という方が、「東洋の神秘の国」らしいアイデンティティが発揮されていいではないか。

世界中で祝われるクリスマスが、実際のイエスの誕生日ではないらしいというのは、ほぼ定説なのに、誰も文句を言わない。それと同じで、昔からそう伝えられているのだから、それでいいのである。

「紀元節復活云々」はナンセンスなステロタイプである。論評するのも馬鹿馬鹿しいので、あえて何も言わない。

 

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2003年2月10日

パパのウンコ

<先日、上野駅のトイレで用を足していたら、小さな男の子を連れた若いオトウサンが飛び込んできて、「大」の方に入り、ドアをバタンと閉めた。

取り残された男の子は、心細そうに「パパァ」と呼びかけた。

パパは「大」の中から、「すぐ出るから、そこで待ってなさい」と応えた。

すると、小さな男の子は「パパァ、すぐになんか出なくていいよぅ。ちゃんと一杯ウンコするんだよ。ゆっくり、一杯するんだよぅ」と健気にも呼びかけたのだった。

周り中、とてもほのぼのとした雰囲気に包まれた。

この子は、きっといつもママにそう言われているのだろう。「大」の方に入ったら、きちんと一杯ウンコをするのがいいことで、それをちゃんと外で待っているのが「優しさ」だと感じているのだ。

だから、見知らぬ場所に取り残された心細さを我慢してでも、パパが一杯ウンコをするのを待っていなければならないと思ったのだ。きっと優しいいい子に育つだろう。

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2003年2月 9日

拝金主義と勤勉さ

<Rick氏の BBSで、 「勤勉」と「拝金主義」の話題で盛り上がった。<

お金は大切だが、そのせいで見えなくなることが多くあることに気付いている人は多い。だが、「何が見えなくなっているか」は難しい議論だ。

とはいえ、お金は確かに必要だ。それゆえに「勤勉」は美徳とされる。しかし、それほど勤勉でなくても生きていくのに困らない風土の人間に、無理やり勤勉を押し付けるのは、「勤勉人」の傲慢である。

貴族的優雅さというものもある。ローマ人は一日中寝転んで飲食と談論風発を楽しんだ。ちょっとうらやましい気もするが、それは奴隷労働の上に立脚したライフスタイルだった。現代では、奴隷を使うことはもはや許されないだろう。

食い物に困らない風土に生まれるか、金持ちの子として生まれるかといった幸運(?)に恵まれなかった者としては、「勤勉」に暮らすしかないのである。しかし、「勤勉一途」の人と酒を飲んでも、あまり面白くはない。

お金以外のものを得ることにも「勤勉さ」を発揮しないと、精神的な「豊穣さ」を感じることはできないだろう。

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2003年2月 7日

独立することになった

私は一つところに 10年勤めたことがない。最長で 9年である。昔なら「ヤクザな奴」と言われるところだが、最近は半分お世辞でも「豊富なキャリア」と言ってもらえるようになった。

世の中、様変わりである。

日本の企業社会は「年功序列」と「終身雇用制」で安定していると言われていたのは、つい 10年足らず前までである。最近では、大企業でも50歳を過ぎると居づらくなる。周りを見ても、定年までまっとうできる人は少ない。

今、定年前に会社を去る人のほとんどは、入社時にはそこに「骨をうずめる」覚悟で入ってきた人たちである。最近の「いつ止めてもいい」ぐらいに思っている若手とは訳が違う。

定年前に会社を去ることを、どこか異常な事態と受け止めてしまう人たちなのである。後姿を見ると、なぜか哀愁が漂う。

そこへ行くと、私は少々異端である。勤めを変わることを何とも思っていない。今までに職場を 5つ変わった。

ところが、近く年貢を治めそうである。何と、独立して社長になることになった。ナンチャッテ社長ではないように、がんばりたい。

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2003年2月 6日

天下り先ばかり多くて

特殊法人の数の多さが問題視されている。確かに訳のわからない財団法人や社団法人が多い。

役人の天下り先としての機能しか果たしていないのではないかと思われるものもある。

大分以前に、ある地方都市の港湾設備の英文パンフレット作成を手伝ったことがある。巻末に関連省庁や団体のリストを載せるのだが、日本語の段階から、似たような名前の役所や団体がズラリと並んでいて、「かなわんなぁ」と思わされた。

それを単純に英文に翻訳してみると、結局同じ名前になってしまうような団体がずいぶん多いのである。Agency と Association の違いくらいのもので、かいつまんで言ってどこが違うの?と聞かれても、答えようがないだろうと思うほどだ。

結局、似たような業務を複数の役所と団体でシェアしているものとしか思われない。気の毒なのは港湾利用者で、これではあちこちに同じような申請を出さなければならず、面倒でしょうがないだろう。

この制度でメリットを感じられるのは、結局は天下りするお役人 OB と、利権に群がる関連業者だけだろう。いつも言うのだが、制度とかシステムとかいうのは、新しく作るのは案外簡単である。しかし、一度できたものを廃止するのは本当にむずかしい。

>初めから余計なものは作らない方針でいないと、どうしようもなくなる。

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2003年2月 5日

7,000ヒット記念

<当サイトの7,000ヒットは、明日くらいになるだろうと、のんびり構えていたのだが、8時過ぎに何気なくのぞいたら、カウンターが "7002" になっていて、驚いてしまった。

変化は速い。何事も風雲急だ。

キリ番ゲット者からは、まだ連絡がない。とりあえずお約束の、記念の和歌は、ここにアップさせていただくことにする。

歳経ちていつむなちへに届きしや 人にも告げず植へし若木は

解説

「いつむなちへに」 は
「五、六、七千あたりに」 と 「何時のまにか胸乳のあたりに」 の掛詞。

誰にも宣伝せずにそっと立ち上げたサイトだけれど、一年経って、胸のあたりまで育つ若木のように成長して、いつの間にか 5~6~7000ヒットしちゃったなぁ という歌

下手くそな古今風(?)で不調法ではあるが、ご勘弁いただきたい。

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2003年2月 4日

「比喩」 で語る

これからの時代は、「真理を比喩で語る」ことが重要になる。

具体的客観的事実のみをありがたがった近代には、「真理」を語るレトリックがなかった。それで、こんなにもつまらない時代を作ってしまった。

具体的事実を客観的に語るというスタイルでは、真理に到達できないのだ。それは「客観的」という概念が、突き詰めれば突き詰めるほど「実体」のないものになるということと遠くない。

考えてみれば、釈迦もキリストも、みな真理を比喩で語ったのである。それは「真理」というものが目に見えないものであるだけに、客観的、具体的には語りえないものだからだ。

これからは、いかにふさわしい比喩を語れるかが、重要なポイントなのである。「物語」を語る手法である。それはテクニックというよりは、直観である。だから、インスピレーションのない者はものを語れないのである。

いかに論理的であるかよりも、いかに直観的であるかが問われる。「論理」で得られるのは「説得」とか「論破」でしかないが、「直観」からは 深い「共感」が得られる。

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2003年2月 3日

「しゃぼん玉」は泣ける

野口雨情作詞の「しゃぼん玉」は、涙の出る曲だ。30数年前、高石友也のコンサートで 「当時の『間引き』の風習を悲しんで作られた」と聞いた。

だが、これは雨情自身の子の夭折を悲しんで作られた歌でもあるようだ。

小橋昭彦氏の「ざつがく・どっと・こむ」というサイトの、「人に擬す」という本日付のコラムにそのことが載っている。

童謡は、「アナロジー」(類推)をもって聞くと、驚くほど豊かな世界が展開される。野口雨情は幼い我が子を亡くした失意の中で、「七つの子」を作り、「しゃぼん玉」を作ったもののようだ。

小橋氏は「しゃぼん玉」の背景にある世界を知って、「雨情さん、ぼくは今、この歌詞を涙なくしては聞けません」と吐露されており、そのコラムには、何と12件のコメントがついている。(そのうちの1件は、私のコメントだ)

しゃぼん玉 消えた
飛ばずに消えた
生まれてすぐに
こわれて消えた
風 風 吹くな
しゃぼん玉 飛ばそ

表面に現れた言葉だけでなく、その裏側にある世界を「アナロジー」によって知るということは、アナライズする側の心にも「豊かさ」がなければならないのである。

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2003年2月 2日

「費用対効果」 という言い方

前から気になって仕方がないのだが、「費用対効果」が高いとか低いとかいう言い方はなんとかならないものだろうか。

「費用に対する効果」という意味だったら、「対費用効果」と言うべきだ。

これは、「人に対する恐怖」を「対人恐怖」というのと同じことで、「人対恐怖」と言ったら、「人 vs 恐怖」という意味か、あるいは「恐怖に対するところの人」ということになる。

同様に、「費用対効果」と言ったら、「費用 vs 効果」か、「効果に対するところの費用」という意味になる。

前者の意味とすると「費用対効果を考える」という用例なら許せるが、「費用対効果が高い」という言い方は意味不明になる。

後者の意味とすると「費用対効果が高い」といったら、「効果に対するところの費用が高い」という意味になり、要するに 「大した効果でもないのに金がかかりすぎる」 ということだ。

それが、一般社会で「費用対効果が高い」と言ったら、普通は「比較的廉価な費用で高い効果が得られる」という意味で用いられる。まったく逆である。これは許しがたいと思うのである。

要するに言いたいのは、誤った言い方は止めて「対費用効果」 という言い方に統一しましょうよという、非常にシンプルなことなのである。

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2003年2月 1日

サラミは人騒がせ

ドイツでサラミを短銃と見間違えて派手なカーチェイスになったらしい。

車内でサラミを食べていたのを短銃と早合点して、警察に通報した人がいたようだ。ずいぶんそそっかしい人がいたものである。

しかし、これが日本だったらどうだろうか。

車の窓が曇っていてよくわからないが、どうも何かを人の顔に突きつけているように見える。ピストルではなかろうか。いや待てよ、そんなばかな。まさかねぇ。きっと違うだろう。

結局、そんな感じでウヤムヤになり、誰も警察に通報することもなかっただろう。しかし、もし本当にピストルを突きつけていたのだったら、大変なことになるところだった。

必要と思われる行動を積極的にとれるというのは、実は素晴らしいことである。うじうじしているうちに手遅れになるより、ずっとましだ。

話は変わるが、ドイツのサラミで思い出したことがある。大分以前に、ドイツの 1メートルもあろうかという、うまそうなサラミソーセージを 3本、おみやげに買って帰った。

成田の税関でチェックされ、「これは何ですか?」と聞かれたので、「見ての通り、サラミソーセージです」と答えたら、あっさりと没収されてしまった。食肉の国内持ち込みは禁止されているというのである。

もう時効だろうから告白するが、実は、その前に 2度ほど、そうとは知らずに国内持ち込みをして、おいしく頂いていたので、今でも思い返すと残念である。ドイツのサラミは、案外人騒がせだ。

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