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2003年3月に作成された投稿

2003年3月31日

ワープロと文体

ワープロソフトを使って文章を書くと、文体が変わってしまうという人がいる。一見もっともらしく聞こえるが、これは虚言である。

ワープロで文体が変わってしまうのは、それはワープロを使っているのではなく、ワープロに使われているというだけの話である。

これに対して、毛筆で書くのとボールペンで書くのとでは、確かに文体が変わるのであり、同様にワープロで書く場合でも変わるはずだと主張する人がいる。しかし、これも虚言である。

毛筆で書く時に文体が変わるのは、毛筆という道具によるのではない。改まった文体で書く必要がある時に、毛筆を使う場合が多いというだけのことだ。その下書きをボールペンで書いてみれば、如実にわかることである。改まった文書の下書きが、ボールペンではできないなどとということは、ありえない。

昔の変体仮名を使った優雅な書が、ワープロソフトでは不可能だという人もいる。そこまで極論すれば、確かにそうかもしれない。しかしそういうことは、実際に変体仮名で優雅な書が書ける人に言われて初めて説得力をもつ。しかし今の世では、大抵の人は筆を持っても変体仮名を書けないのだから、この議論自体がナンセンスになる。

はっきり言わせてもらえば、ワープロごときで文体が変わってしまうなどというのは、実は、その人は「文体」と称するに足るスタイルを、元々持ち合わせていなかっただけなのである。単にそれだけのことだ。

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2003年3月30日

A Hard Day's Night

今、まさにビートルズの歌の "It's Been A Hard Day's Night" 的気分だ。

朝から本棚の不要な本を整理し、液晶モニターと椅子を誂えて我が書斎コーナーをオフィスらしく整え、最後にテレビの K-1 観戦で、テンションが上り詰めてしまった。

やはり、オフィスの椅子は馬鹿にできない。これまでの安物を処分し、それなりのお金を出して肘掛付きの椅子を買ってきたのだが、非常に快適だ。これで長時間自宅で仕事をしても、腰が痛くならずに済む。

ついでに、パソコンのディスプレイを液晶モニターに付け替えた。これまでの CRT モニターは、ふと気付いてみると、四隅の表示がとても不安定になっていて、常にプルプルと揺れている。最近、道理で目が疲れると思っていたが、このせいだったのだ。恐いもので、画面が揺れているのに、自分の視覚のなかで調整してしまって、それとは気付かなかったのである。気付かないだけ、目に過剰な負担をかけていたわけだ。

椅子とディスプレイが快適になったので、ただでさえテンションが上がっているところにもってきて、夜の10時からテレビで K-1 を見てしまった。このサイトの常連の方々には既にばれてしまっているが、私は結構な格闘技フリークである。

メインのボブ・サップ対ミルコ・クロコップは、戦前から試合を長引かせればミルコ有利と予想していたが、なんと、長引かせないでもミルコが KO 勝ちしてしまった。今夜はテンションが上がってしまって、珍しくなかなか寝付けそうにない。

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2003年3月29日

この期に及んで「あるかないか」 とは……

長野県会議員へのアンケートによると、「田中県政を評価する」が 4割に達し、「評価しない」を上回った。

また内閣府の防衛世論調査によると、 「日本が戦争に巻き込まれる危険性がある」との回答が 8割にのぼったという。

この種の調査結果が発表される度に、「それがどうした」という気がする。

長野県会議員のアンケートなど、「昨年秋に圧倒的多数で不信任案を可決したのはどこのどなた様でしたっけ」と言いたくもなるではないか。田中知事を裁こうとした時にはいかにも元気がよかったが、今度は自分たちが裁かれる番になると、いともあっさりと鞍替えしてしまう。なんとも節操がない。

防衛世論調査にいたっては、いったい何のためにやっているのかわからない。「日本が戦争に巻き込まれる危険性があるか」という設問に「ないこともない」 との回答を含めて「ある」という回答が 約 8割に達したというが、この設問自体がナンセンスである。なぜならば、「戦争に巻き込まれる危険性」というのは、常にゼロではなく「ある」に決まっているからだ。

問題は、常に可能性として存在する「戦争という危険性」にどう対処するかであり、今さら「あるか、ないか」を聞いている場合ではない。結局、こうした世論調査結果は、軍備増強への布石にしたいという意図が見え見えなのである。

私は軍備増強に必ずしも反対するものではないが、こうした茶番は勘弁していただきたいと思うのである。

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2003年3月28日

まともな椅子が欲しい

今月一杯で今の勤務先を辞めてフリーになるにあたり、まずは座り心地のいい椅子を見つける必要がある。

今使っているのは、ホームセンターで確か 2,800円ぐらいで買ってきた椅子なのだが、これは長時間の使用には耐えない。

これまで自宅のデスクに向かうのは、せいぜい夜の 2~3時間か、休日ぐらいのものだったが、これからは、デスクといえば勤務先のものではなく、自宅のものになる。

さすがに安物の椅子ではお尻が痛くなるし、姿勢も悪くなる。椅子の体にもたらす影響というのは、意外に大きなものだ。実は最近、多少自宅のデスクに向かう時間が増えただけで、背中と腰が痛い。このままでは、体を壊してしまいそうだ。

明日からの土日、きちんとした店を回って、まともな椅子を見つけなければならないのである。

それから、今日勤務先から私物を自宅に宅急便で送ったのだが、段ボール箱 2箱になった。あの荷物が部屋になだれ込むと思うとぞっとする。書棚や引き出しを整理して、書類の山に埋もれることにないようにしなければならない。

やれやれ、スタートというのは大変だ。

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「モノ」 は重い

イラク戦争は長期化しそうな勢いである。

最初は、あっという間にけりがつきそうな勢いだったが、バグダッドに迫った前線へのロジスティクスが難しい。ハイテク兵器の空中戦と、実際の 「人とモノ」 のオペレーションは、全然違うもののようだ。

以前、IT化とは、「できるだけ『ビット』の状態で引っ張って、最後の最後まで 『モノ』 の形にしないこと」と書いたことがある。

米国軍も "ビット" の姿でハイテク戦をしているうちは、とても元気だった。それが、イラクの奥深く侵攻して「モノ」の補給路が長く伸びたとたんに、苦戦し始めた。

ハイテクのデータ処理で済むうちは、話が早いのである。処理も楽なのだ。遠くでプログラミングして、ボタン一発でミサイルを撃ち込んでいるのと同じである。ところが、いったん「モノ」の形をとってしまうと、話はとたんにややこしくなる。さらに兵站輸送は、補給路が長くなればなるほど大変になるのだ。

これはビジネスにおいて、デザインデータのままで保管している分には楽だが、実際に製品を作って在庫し、要望に応じて届けるのは結構難しいということと一致している。ずっとハイテクのみでやれるものならかなり楽だろうが、今度は最後のポイントで「モノ」にならないというジレンマが生じる。

とにかく、「モノ」は曲者なのだ。どんなファイルより重いし。

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2003年3月26日

近頃 「団塊の世代」 が……

近頃「団塊の世代」に元気がないと感じるのは、私だけではないだろう。

私は彼らよりほんの少し遅れて生まれたため、「割を食って」きた世代である。直前を行く世代の圧倒的な量的パワーを、斜に構えて受け流すことで、辛うじて生きてきた。

ところが最近、彼らの取り柄である「圧倒的な量的パワー」を全然感じないのである。そうなると私の世代も、いつまでも斜に構えてばかりもいられない。多少は前に出て行かなければ、責任を果たせないということも生じてきたのである。

思えば、これも世の流れの必然なのかもしれない。「団塊の世代」は高度成長の時期に思春期を過ごし、「右肩上がり」の雰囲気の中で突っ走ってきた。基本的に「数を頼んで、行け行けドンドン」という世代である。

ところが今、「団塊の世代」はリストラの波に洗われ、生まれて初めて苦難の道を歩いている。「数を頼みの圧倒的パワー」が通用しない。「数」がかえって邪魔になるという、未曾有の世界に突入したのである。

しかし、それは私の世代にとっては「未曾有」でもなんでもない。思い返せば、今までだって「数が邪魔」でしょうがなかったのである。 数でしか勝負しない「段階の世代」に荒らしまくられた地平を、「個」の感性でチマチマと修復し、尻拭いするという役回りを演じてきた。

そしてふと気付けば、今こそこうした「チマチマとした感性」が活かされる時代になっているのだ。このことに気付かなければならない。

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2003年3月25日

ケータイとインターネット

今日はケータイを家に忘れて仕事に出た。なんとなく不便だった。

ケータイを持たなかった頃は、なくても全然不便を感じなかったのに、一度持ちつけると、たまに持たないで外出すると妙な感じがする。それは一種の喪失感にも近い。

インターネットにも同じようなことがいえる。インターネットを本格的に使い始めて、たかだか 5~6年ほどのもので、無しで過ごした時間の方が圧倒的に長いのに、今やこれなしの生活は考えられない。

「毎日更新」を歌ったウェブサイトなんぞを持ってしまうとなおさらである。今や、体の一部と言ってもいいくらいだ。

しかし、使わない人は、インターネットなんかなくても、全然不便を感じていないのである。「便利ですよ」 「世界が広がりますよ」と勧めても、「それは確かにそうなんでしょうがねぇ」と言われるだけである。手元に常時接続の環境があっても、最低限のメールのやり取りを、仕方なくこなしている程度の人もある。

どうもこの世界は、「親和性」のある人とない人がいるようなのだ。この「親和性」というのは、単にメカに強いとか弱いとかいうものでもないようで、どちらかというと、「習慣」とか「好奇心」の部分の方が大きいような気もする。

私の場合で言えば、常時接続の環境は、勤務先で 3年半、自宅で 1年 3ヶ月程度のものだ。この環境が 10年続いたら、世の中はどんなに大きく変わるのか、あるいは思いのほか変わらないのか。深く関わりながら見守っていきたいものである。

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2003年3月24日

「アラー」 と 「ゴッド」

今度の戦争を宗教戦争だという人もあるが、そうではない。戦争は「神」ではなく、人間の「迷妄」がぶつかるものだ。

イスラム教の神を「アラーの神」というが、「アラー」という名前の神が、キリスト教の神とは別に存在するわけではない。

「神」をアラビア語でいうと「アラー」になるのである。イスラム圏にも少数ながらキリスト教徒は存在していて、アラビア語の聖書というものも当然ながら存在する。そしてアラビア語の聖書では、「神」は「アラー」と表記されている。

つまり、「アラー」はイスラム教独自の神ではなく、英語で「神」を「ゴッド」というのと同様に、アラビア語では「アラー」というだけのことだ。

そもそも一神教では、神を名前で呼ばない。キリスト教の神の名を 「エホバ(Jehovah)」という人もあるが、「エホバ 」とはヘブライ語で、「彼はならせる」という意味があるのだそうだ。要するに「成すもの - 創造主」という意味である。「アポロ」とか「猿田彦」とか「シヴァ」とかいう多神教の神々の「名前」とはニュアンスを異にする。神を「エホバ」と呼びつけるキリスト教徒を、私は見たことがない。

八百万(やおよろず)の神の本拠地、日本にしても、同様である。『古事記』の冒頭に出てくる「天之御中主神 (あめのみなかぬしのかみ) 」は、「天の中心の主の神」という普遍的な呼称で、他の神が「~之神」とか「~之命」(大国主之命など)というように「之(の)」の字がついて固有名詞化されているのとは異質である。根源神の根源神たるところである。

一神教では、本来の意味では「神」に名前などない。「神」と言いさえすれば他に神はないので、名前は必要ないのである。名前というのは差異を強調するものだから、絶対神に名前などつけたら、相対化されて他に神がいることを暗示することになる。それでは絶対神のありがたみがなくなってしまうのである。

だから、「神」は「神」である。今度の戦争も 「ゴッド」と「アラー」の戦いでは決してない。これを宗教戦争といっては、神様に気の毒なことなのである。

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2003年3月23日

♪スィンデレェラァ、スィンデレェリィ♪

イラク情勢の報道を聞く度に、物量面での米国の圧倒的優位を痛感する。まともに戦ったら、米国に敵う国はないだろう。

第二次大戦中に作られたディズニー・アニメ「白雪姫」を見て、「この国に勝てるわけがなかった」と驚いたという話がある。

これは Take-key 氏の「花鳥風月」という BBS に出ている話で、それに対して、私も「シンデレラ」でたまげたというレスを付けた。

大昔に初めて「シンデレラ」を見たとき、 極悪非道の母親がシンデレラを呼び付けるのに、「♪スィンデレェラァ、スィンデレェリィ♪」と、歌うように呼ぶのである。(日本語吹き替えなのに)

絵本の世界では 単に「しんでれら」でしかないのに、ディズニーの世界では、「♪スィンデレェラァ、スィンデレェリィ♪」なのである。たまげてしまったのである。

米国人の家は馬鹿でかい。リビングルームの中に、私の家全体が入ってしまうくらいである。シャワーなんぞも、全部が全部ではないが、微妙な水量調節機能なんかない。最初にドーっと冷水が出てきて、さらに栓をひねり続けると、だんだんと湯がプラスされてくる。この方式だから、ちょうどいい温度になると、その水量はたいへんなものだ。 ほどよい温度でほどよい水量を得るようなデリカシーはないようなのである。

今度のイラク問題でも、この感性は遺憾なく発揮されている。持てる者の強みで、「圧政下」のイラク人民を圧倒的に「開放」してしまおうというのである。

「♪スィンデレェラァ、スィンデレェリィ♪」にしてしまい、そこから先のことは知らないのである。

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2003年3月22日

パロディサイトなんかクラックして……

ホワイトハウスのサイトのトップページが、チャイニーズを名乗るクラッカーに、無残にも書き換えられた。

ところが、やられたのはパロディサイトの "whitehouse.net" (".gov"ではない) の方で、さぞ心外なことだろう。


このパロディサイトは、とても洒脱なものなのに、侵入したクラッカーは頭の中が技術系 100%で、文科系センスが皆無だったらしく、とてもベタでお下劣な落書きで塗り込められてしまった。

今しがた覗いたら、めでたく復旧して、トップページには、いつものパロディニュースが掲載されていた。本日のニュースは、ホワイトハウスは、スペイン語をアメリカ合衆国のもう一つの公用語にすると発表したというものである。

2005年までにすべての公式文書を英語とスペイン語の二ヶ国語で作成することとし、連邦政府職員は強制的にスペイン語の勉強をさせられるのだそうだ。冷や汗モノである。

これは言うまでもなく、スペインが英国とともにイラクに対する武力行使を積極的に支持したことを背景にしている。英語は残念なことに元から公用語なので、スペイン語にお鉢が回ってきたわけだ。もしアフリカのどこかの国がスペイン以上に熱心だったとしたら、スワヒリ語になるところだった。

それにしても、ハッカーの中国人はパロディサイトなんかをクラッキングして、どうするつもりだったのだろう。 もしかして、本物のホワイトハウス・オフィシャルサイトと思い込んで攻撃をしかけたのだとしたら、相当のお馬鹿さんである。 (いくらなんでも、それはないか)

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2003年3月21日

付き合いきれない戦争

20日に空爆を受けたバグダッドの建物内に、サダム・フセインと 2人の息子がいて、サダムは少なくとも負傷したのではないかと報道されたとたんに、サダム自身がテレビに登場して演説。

それが「影武者」との見方まであり、事実は小説よりも何とやらだ。

私自身の印象を言えば、朝のテレビニュースでその演説の映像が流されるのをみて、「サダムもずいぶん老けたなぁ、こんな顔だったっけか……」と思った。後で「影武者の可能性も……」というニュースを聞き、「さもありなん、ありゃ、きっと影武者に違いない」と納得。

しかしその後に、米国の専門家の映像判定の結果、ほぼ本人であろうとの結論に至ったと聞き、「へぇ、そうかなぁ……」と。しかしさらに、サダムの元愛人が、影武者と断定したというニュースも出てきた。この愛人というのは、過去に10回も影武者を見破ったというのだからスゴイ。

ところが件の演説は録画であり、サダムは前以て何通りかの録画を撮っていたとの説まで紹介されて、馬鹿馬鹿しくなってきた。

何だか、この戦争、本当に付き合いきれない。

今からでも遅くない。サダムが亡命を宣言すればこの戦争は終わる。その際には、「イラク国民の生命を守るため、自分は名誉の撤退を決意した」と、せいぜいカッコ付けてもいいのに。

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2003年3月20日

世界一おもしろいジョーク

英国BBC制作のギャグTV番組「モンティパイソン」に、「世界一おもしろいジョーク」というのがあった。

あまりおもしろすぎて、皆、笑い死にするので、ドイツ語訳されて、対独戦争の強力な兵器になってしまうのである.

あるギャグ作家が自宅で「世界一おもしろいジョーク」を書き、それを自分で読み返し、あまりおもしろすぎて笑い死にしてしまう。大笑いして一瞬のうちに体が引きつり、パッタリと死ぬのである。これが発端。

それ以後、その家に突入した人間は、すべて引きつってパッタリといってしまう。件のジョーク原稿を読んで大笑いし過ぎたのが原因である。

これが第二次世界大戦中の出来事だったので、いっそ対独戦争の武器にしてしまえということになる。しかし一人で全体を翻訳したら死んでしまうので、分割してドイツ語訳する。(ちょっと多目の分量を受け持った翻訳家は、病院送りになってしまうのだが)

次の画面には、ヨーロッパ戦線で苦戦する英国軍が登場する。彼らは手に手にドイツ語で書かれたジョークの原稿を持ち、「フェン・エスト・ダス……ヤァ……」 と、声を揃えて読み上げる。すると、どこに潜んでいたものか、大勢のドイツ兵が笑い転げながら現れて、一様に引きつってパッタリといく。(読み上げている英国兵は、ドイツ語がわからないので、無事でいられるというわけだ)

それでドイツ軍も対抗して英語のジョークを作り、英国向けに放送するが、おもしろくもなんともなくて、全然効果がない。ドイツ人はユーモアのセンスが皆無らしい。

結局は、あまりおもしろすぎて危険ということになり、戦後になって永遠に封印されて土に埋められる。その上には、「世界一おもしろいジョーク、ここに眠る」という記念碑が建てられたというのが、オチである。

いいなぁ、こういうセンス。対イラク戦争も、こんな能天気なもので終わってくれないものか。

 

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2003年3月19日

すべての戦争は「各論」

総論として言えば、戦争に賛成する人は少ないに決まっている。

では、なぜ人類は戦争を繰り返すのか? それは、すべての戦争は「各論」として遂行されるからである。「総論反対、各論賛成」になるのである。

これまで「反戦運動」が実を結んだ例がないのは、すべての「反戦運動」は「総論的」だったからである。抽象的な「総論」は、具体的な「各論」の前では、ムード的な力しかもてなかった。

なぜ「各論」にまで降りると、人は「戦争賛成」になるのか。それは、人は結局、物質的な「富」を求めるからである。「富」は有限だから、奪い合いをしなければ十分には得られないという「幻想」を抱いているのである。

これが「幻想」であるのは、明らかだ。奪い合って得た「富 は、分かち合って得た「富」よりも常に「貧しい」のである。それは、「奪い合い」という行為には、確実に「破壊的」な要素が含まれるからだ。「分かち合い」は生産的な行為だから、その過程で必ず「富」は増殖されるのである。

「幻想」から覚めてみると、実は奪い合いさえしなければ、世界の「富」は無限なのだ。

 

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2003年3月18日

戦争では誰も勝たない

"Nobody wins a war." (戦争では誰も勝たない)

これは私が 3度目に行った1983年の米国で、最も印象に残ったフレーズである。ホテルの黒人のメイドのおばちゃんが言った言葉だ。

83年の10月、ベイルートでテロリズムがあった。爆弾を満載したゲリラのトラックが、米軍基地に突っ込んだのだ。そのニュースを、米国のテレビニュースは何度も繰り返した。息子を殺された母親が涙で語る同じ場面を、何度も見た。

私の部屋のシーツを変えてくれたメイドは、「ベトナム戦争の日々には戻りたくない」と嘆いた。そして言った。

"Nobody wins a war." (戦争では誰も勝たないのよ)

米国への3度目の取材旅行で、この言葉が一番心に刻み付けられたのは皮肉なことだった。そして思えば世界人類はこの 20年間、何も進歩していないのだ。

20年前に書いたショートショートを、「知のヴァーリトゥード」に載せておいた。お暇があったら、ぜひ読んでいただきたい。

 

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2003年3月17日

知らずに犯す罪

息せき切って階段を駆け上がって、ドアの閉まりかけた電車に飛び乗った人は、しばらく吊り広告を眺めるのを遠慮しなければならない。

荒い息が収まらないうちに上を向くと、弾んだ鼻息が、前に立った人の顔にバホバホかかるのだ。

これはもしかしたら、気付かずにやってしまいがちな迷惑行為である。人間は、気付かないうちにいろいろな迷惑行為を働いている。

知って犯す罪と、知らないで犯す罪は、どちらが重いかと聞かれたお釈迦様は、「知らないで犯す罪の方が重い」と答えられた。

例えば焼け火箸を握るのに、熱いと知っていて握るのと、知らないで握るのでは、どちらがダメージが大きいか。知っていたら、恐る恐るの行為だから、握るか握らないかのうちに放してしまうだろう。大したダメージは負わずに済む。しかし知らないで握ったら、大やけどを負ってしまうだろう。

この譬えにより、お釈迦様は言わば結果主義で「知らないで犯す罪の方が重い」とおっしゃったように言われている。しかし、それが釈尊の本心だったろうか。

私は「知らない」という、そのこと自体が「罪」なのではないかと思う。人間はいろいろなことを知るべきなのだ。少なくとも、知ろうとすべきなのである。

無関心であることは、憎むよりも残酷だ。世界は我々による真っ当な認識を待ちわびている。

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2003年3月16日

ブッシュの演説スタイル

米国大統領には、細部に至るまでブレインやらコーディネーターが付く。

だから、ブッシュのあの演説の仕方、一言述べては、「そうだろう、みんな?」とでもいうように、表情だけで微妙にうなずいてみせるのも、練習の賜物だ。

あの、ちょっとだけ間を取って、首を動かさずに「表情だけで」うなずいてみせるというのは、彼にしてみればちょっとした「芸」なのだろうが、微妙なニュアンスや、呼吸と間(ま)、ほんのわずかな表情だけでものを語るということについては、プロの領域に達している日本人の目から見ると、大根役者の猿芝居以外の何物でもない。

>ちょっとクサ過ぎるし、いくらなんでも嫌らしい。

それでも、米国人の大雑把な感性には十分に訴えるものらしく、最近の「イラク攻撃」の世論調査では「武力行使」に賛成する意見が 60%を占めたという。

ベトナム戦争の頃は、「愛する人を戦場に送りたくない」というささやかな願いが、一定の「力」たりえたのだが、先の湾岸戦争以来、戦争というのは遠くからミサイルを撃ちまくるだけのものになった。昔の時代劇なら「飛び道具とは卑怯なりぃ!」というところだが、実際にそんな世の中になってしまった。

ここから先は、米国だけに言うのではない。

戦争を仕掛けるものは、正義だの悪だのというよりも、世界そのものを傷つけるのだという重大な「負」の意識を持ってもらいたい。「世界を傷つける」ということは、自らも傷つくことである。

他人を殴れば、自分の拳も痛い。他国にミサイルを撃ち込めば、自国の大切なものも失われるのだ。

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2003年3月15日

「何でもあり」のサイト

昨日のYahoo に因縁をつけた 「一撃」は、ちょっとした反響があった。

>多くのウェブサイトを「カテゴリー」で細分化するのは以前から疑問だったので、率先垂範、当サイトのリンク集に「ごった煮個人サイト」を追加した。

>はてなアンテナで「うさぎアンテナ」を運営する osamu さんからも、BBS で「一つの話題に特化して、いわゆる ”狭く・深く”のサイト作りをすることでアクセスを集めてきたわけだけど、これからはそれだけじゃなく ”人” ベースでカテゴライズするという考え方も広まってくるんじゃなかろうか」という指摘を頂いた。その通りだと思う。

実は、osamu さんこそ「うさぎ」に特化したサイトを運営しておられるのだが、一方で、「”人” ベース」というコンセプトを持っておられることを知り、非常に勇気付けられわけだ。

そこで、まずは自分のサイトのコンセプトからきちんと整備する必要が出て、リンク集である Link Ocean に「ごった煮個人サイト」というカテゴリーを新設したわけだ。しかし、これはカテゴリーであってカテゴリーでない。要するに「何でもあり」の個人サイトの集まりである。

「何でもあり」は格闘技でいえば「ヴァーリトゥード」である。図らずも、このサイトのコンセプトがだんだん明確になってきたわけだ。

それは「カテゴリーに縛られない『何でもあり』の自由なサイト」ということである。ただし、「何でもあり」とはいえ、反則は無しでいきたいものである。

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2003年3月14日

ごった煮的個人サイト

今頃になって、トップページに「ご挨拶」じみた文章を載せた。スクロールしないと見えない下の方だが。

これは、Yahoo に載るには、テーマを極力絞り込まなければならないというのに反発してのことである。

Yahoo に載るにはどうしたらいいかというのを、インターネットで調べた。するとどのサイトも異口同音に、「明確なテーマをもったサイトでなければならない」と言っているのである。

テーマというのは、ラーメンのおいしい店とか、秘湯とか、南京玉簾の練習法とか、エリマキトカゲの飼い方とか、とにかくそういったものである。ユニークなテーマに絞り込まないと、今時、なかなか載せてもらえるものではないらしい。

これは「如何なものか」と言いたくなる。Yahoo というのは、あまたのウェブサイトの管理人を、そんなにまで狭い専門的範囲に閉じ込めておきたいのか。自らの検索システムが、ツリー状の分類をコンセプトにしているので、その分類システムに当てはまらないサイトは価値のないものとでも言いたいのか。

大抵の個人サイトのウェブ管理人は、自分のサイトがどの分類に入るのかで悩む。それはそうだ。自分という存在をトータルに表現しようと思ったら、小さな分類だけに当てはまるサイトを作るわけにはいかない。人間は小宇宙なのだから。Yahoo 的分類コンセプトは、今や限界に達しているのである。

こうしてみると、Yahoo というのはかなり横暴である。既に限界に達した自分の価値観を、この期に及んで振り回している。私は Yahoo 的価値観に縛られない「ごった煮的個人サイト」の興隆を願うものである。

この問題は、もっと深く考察して、近く「知のヴァーリトゥード」に載せたいと思っている。

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2003年3月13日

報道まで「エンベディッド」

近頃、「エンベディッド」(embedded) という言葉が目に付く。「埋め込み式の」といった意味である。

例えば、炊飯器などもマイコンを埋め込んだデバイスなので、 「エンベディッド」の一族である。

「情報家電」というものへの注目が高まるとともに、いろいろなチップやプログラムを「エンベディッド」した道具が増えてきて、今や、冷蔵庫からテレビ、クルマに至るまで、言われてみれば「エンベディッド」でないものとてない世の中になりつつある。

>考えてみれば皮肉なものだ。コンピュータというのは、一台のハードの中にいろいろなプログラムをインストールして、いわば「何でも屋」を実現しようとしてきたのに、一方では掃除機やらビデオ機にチップを埋め込んで、「一芸屋」の復権を画策しているのである。

「エンベディッド」という言葉は、こうした情報機器の分野の専門用語になったものと思っていたら、今度はイラク戦争の報道のあり方についても、「エンベディッド」を採用しているという。

先のベトナム戦争や湾岸戦争などでは、現場での取材は厳選された少数に制限し、一般のメディアはそこから二次的に情報を得るという形になっていた。この方式を「プール式」という。

ところが、これでは情報が制限されて「御用報道」になるとして、今回は可能な限り多数の記者を、米軍の現場に「エンベッド」し、臨場感のある報道をしてもらうことにしているという。既に多くの記者が軍艦の中で米軍兵士と寝起きを共にしているらしい。

軍隊と寝起きを共になんかしたら一蓮托生だから、妙な連帯意識ができてしまい、ますます「御用報道」になると思うのだが、案外それが狙いかもしれない。

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2003年3月12日

正義のフリーダム?

米下院食堂のメニューから「フレンチ」の文字が消えたという。

先月末、ノースカロライナのレストランが「フレンチフライ」を「フリーダムフライ」に改称して話題になったが、その二番煎じで、芸のない話である。

イラク攻撃に反対論を繰り広げるフランスへの抗議の意味があるのだという。ノースカロライナのケースでは、「フリーダムフライ」だけだったが、今回はご丁寧なことに「フレンチトースト」も 「フリーダムトースト」になったらしい。

これを聞いて、戦争中に日本の野球で「敵国語」である英語が使えなくなり、「ストライク」を「よし」、「セーフ」を「安全」などと言っていたというのを思い出してしまった。

ここまできたら、米国も「フレンチドレッシング」を「フリーダムドレッシング」、「フレンチキス」を「フリーダムキス」、「フレンチカンカン」を「フリーダムカンカン」 と徹底的に言い換えたらいい。招待状の末尾に "R.S.V.P."(*) などと付ける気持ちの悪い習慣も、この際やめてしまおう。

>自分が絶対に「正義」であると信じられるというのは、「おめでたい」を通り越して「愚かしい」ことである。

タマちゃんを自然に帰すなどと言って、大捕り物を繰り広げる動物愛護団体のメンタリティも、源を同じくしている。

* "R.S.V.P.": Repondez s'il vous plait (仏語で 「ご返事ください」)

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2003年3月11日

アイデンティティとは?

米国ミネソタ州で不動産金融業を営む普通の男性が、実はナイジェリアの部族の王子だったことが判明した。

養子として暮らしてきたのだが、ある日突然、実母が現れ、それから自分のルーツを辿ることができたのだ。

この人はマーティ・ジョンソン氏(38)で、養子として暮らしてきた。

2年前にアイオワ州に住むという実母が、彼に連絡を取ってきて、そこから、実父はナイジェリアで有力な部族の家柄で、マーティさんはその跡を継ぐ「王子」の立場にあることが判明した。 実父の親族も、全員が彼を一族の「後継者」として認知した。 しかし、彼はアメリカでの仕事を捨てるつもりはないらしい。

「自分は何物なのか」「自分は何処より来て何処に行くのか」- 自分のアイデンティティを探るのは、実はとても難しい。

一介の不動産屋が、実はナイジェリアの王子だったということが判明したとしても、それが「本当の自分」が「本当は何物なのか」ということとは、あまり関係ないような気がする。

自分のアイデンティティとは、「自分は何をもって世の中に関わることができるのか」ということだ。それは言葉を変えれば「使命(ミッション)」である。自分の内側だけでエンジンを空ぶかししすぎては、わからない問題である。

きちんとクラッチをちょうどよくつなぐ技術というのも必要だ。

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2003年3月10日

「バナナ・リパブリック」 の帽子

このサイトの左上の私の写真は「怪しげ」として、すこぶる評判が悪い。

しかし、被っている帽子は 1983年頃に、ニューヨークで開店したての「バナナ・リパブリック」で買ったもので、大変気に入っている。

「バナナ・リパブリック」は、今でこそ妙にハイファッションなお店になっているが、開店当初は、ちょっとだけおしゃれなカジュアルウェアをものすごく安い値段で売りまくるという、今の日本で言えば、ユニクロみたいなショップだった。

スーパーのバスケットみたいなかごに商品をバンバン入れて、レジに並ぶというのも、ユニクロと同じだった。

買ったばかりのロゴ入り Tシャツを着て夕食に出たら、ホテルのカウンターの女の子が、「まぁ、まだニューヨーカーにもあまり知られていないのに、どうして日本人のあなたが着ているの?」と驚いていた。「一部の日本人は、ニューヨーカーよりもニューヨークに詳しいんだよ」と言っておいた。

この帽子がしばらく行方不明になっていて、ちょっとがっかりしていたのだが、このたびの書斎コーナーの大改造で、書棚の隅からひょいと出てきた。今回の改造の最大の収穫かもしれない。

余談だが、日本のユニクロには、今のバナナリパブリックみたいに、あまりスノッブなお店にならないでもらいたいと思う。

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2003年3月 9日

一円玉マーフィー

「マーフィーの法則」というのがある。

「これは避けたいな」と思いながらも、ついやっちまうこと、あるいは「ヤバいことは、こともあろうに、最もヤバいタイミングで起こる」という、ありがたくない法則である。

私には「一円玉マーフィー」という法則がついて回っている。どこで何を買っても、代金を払おうとすると、いつも小銭が 1円足りないのだ。本当に、10回買い物をしたら、8回は 1円玉が 1枚だけ足りない。

例えば、コンビニでミネラルウォーターを買う。レジのお姉さんが 「136円です」と言う。財布の中には、小銭は一杯あっても、5円玉は 1枚だけで、普段はあれだけ邪魔になる 1円玉が、そのときに限って 1枚もない。あぁ、1円玉がたった 1枚あればすっきりするのにと、ちょっとくやしい思いがする。

しかたなく 140円出して、4円のお釣りをもらう。財布の中には、小銭が 789円貯まる。かさばって仕方がない。しかし次は半端な金額でも大抵は払えるぞ。

お昼に讃岐うどんを食う。奮発して、トッピングにかき揚げと春菊天と玉子を付ける。そして、レジのオバサンいわく「790円です」

このオバサンは悪魔である。仕方なく 1000円札を出して 210円のお釣りをもらう。これで、財布の中の小銭は、999円。次の買い物こそ、どんな半端な金額でも、気持ちよく、ちょうどの金額を払えるはずだ。

帰りにスーパーに寄り、ケータイで妻に頼まれたしょうゆと胡椒を買う。レジのお姉さんいわく。「ちょうど1000円です」

あぁ!

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書斎コーナー大改造

>書斎コーナーの大改造をした。寝室の片隅をカーテンで区切った狭苦しいコーナーも、 SOHO に変身だ。

余計なものを捨て、書棚を移動してスペースをオプティマイズし終えたら、「当日のうちに」筋肉痛になった。

この家に引っ越してきた頃は、スペースがあり余っていた。しかし子供が 3人生まれるうちに、書斎を引き払い、寝室の隅に追いやられたのである。

しかし、寝室の隅とて馬鹿にしたものではない。きちんと計算して書棚やデスクを配置してみると、なんとか「使える」スペースになった。

4月からは、ここがメインの仕事場になるのである。やはり、このくらいのスペースがないと仕事にならない。やっと安心である。

ところで、冒頭に「当日のうちに」筋肉痛になったと書いたのは、歳を取ると肉体労働のあとの筋肉痛が 1日遅れになりがちだったからである。今回はかなり気合を入れて取り組んだので、終わったとたんに筋肉痛が来た。

「まだまだ若いぞ」と言いたかったわけだ。

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2003年3月 7日

「今日の一撃」 は 「ウェブログ」か?

「ウェブログ」に対する注目が高まっている。英語では省略して "Blog" なんていうのがクールらしい。

この「今日の一撃」も、 数ある「ウェブログ」の一つに分類されても、あながち間違いではない要素がある。

ウェブログとは何かという問いに、最も端的に答えていると思われるのは、澁谷覚氏のサイトにおいてである。(以下引用)

「ウェブログ」とは、ウェブ上にある興味深いコンテンツへのリンクとその批評を記した、定期更新されているリストのことを言います。大半のウェブログは個人が掲載しているもので、……(以下略)

ちなみに、できの良いウェブログは、かなりアクセスが多い。毎日コンスタントにアクセスする常連が付きやすいと言われる。当サイトなぞ、ヒット数で言えばかわいいものである。

試しに、「今日の一撃」 の 2月のコンテンツで、他のコンテンツにリンクした上で、それに対するコメントを述べるという、典型的な「ウェブログ・スタイル」をとったのは、8回あった。28日のうち 2日サボったので、26回中 8回ということになる。

つまり、厳密な定義に従えば「今日の一撃」のウェブログ率は、30.8% ということで、この程度では、一丁前の "Blogger" とはいえない。

土台、このコンテンツを作る時には「ウェブログ」を意識していたわけでもなんでもなく、逆にネタに困った時の「埋め草」程度にしか考えていなかった。

今でも、自前のネタで書く率を 5割以下にはしたくないので、ここは 「妙にクセの強い変則的ウェブログ」ということで十分だと思っている。

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2003年3月 6日

「人間の盾」 御一行

バグダッドに勇躍乗り込んだ「人間の盾」御一行が、続々イラクを脱出しているという。

開戦時に攻撃目標になることが確実な軍事施設などに立て籠もるよう、イラク側に要求されたためらしい。

3月 5日付産経新聞によると、最高時で日本人を含め約 270人いた「人間の盾」は、100人余りに減少し、そのうち日本人は、一時は約 40人だったが、6, 7人になっているという。

2月 26日付の当欄に「イラク問題は付き合いきれない」と書いたが、ここに来て、ますますその印象が強まった。

外国から来た活動家に、戦略目標に立て籠もるよう要求するイラク政府も、相当に図々しいが、かといって、それにビビって逃げ出してしまう活動家の方も問題だ。「人間の盾」というからには、初めからそのくらいの覚悟をもってバグダッド入りしてしかるべきではないか。

いよいよの時になって怖気づいて逃げ出すようでは、「盾」の名に値しない。甘っちょろいと言われても仕方がないだろう。日本人の「逃亡率」が高いのも、「何だかなぁ」という気がして、恥ずかしい。

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2003年3月 5日

CRM 屋の CRM 知らず

米国の調査で、購入済みの CRM ソフトのうち、42%がインストールされていないことがわかった。

>なんと、半数近くの企業が単に流行りというだけで、使いもしないソフトに大金をはたいていたわけだ。

CRM とはカスタマー・リレーションシップ・マネジメントの略。日本語には訳しにくいのだが、顧客との継続的な信頼関係を維持するための戦略をコントロールするために使われるのが、CRM ソフトである。

常に個々の顧客に最適化した対応を効率よく行なうためには、情報技術が不可欠だとして、「パーソナライゼーション」(個々の顧客の嗜好分析)と、「インテグレーション」(どのような要望に対しても、一貫した行き届いた対応ができるようにすること)の二つのキーワードを具体化するソフトが、いくつも開発された。しかしその結果は、この程度ということだ。

この調査を行なったガートナー社のアナリストは、「真の負け組は、使いもしない技術に何百ドルも浪費している企業の方」 だとしているが、それは一方的な見方だろう。

より憂慮されるべき問題は、顧客志向を徹底する目的の CRM ソフトを開発したベンダー自身が、顧客のニーズを見誤っており、販売後のフォローアップも十分でなく、自社の製品がたなざらしになるのを放りっぱなしにしていることである。

多分、このようなベンダーが開発したソフトは、例えインストールしたとしても、あまり役には立たなかっただろう。

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2003年3月 4日

庄内弁ではのぅ

「No と言える日本」という本があるが、石原都知事が庄内に来たら感激するに違いない。

庄内人は一日中 "No" と言っている。共通語で「~ね」というところを、庄内では「~のぅ」と言うのである。

共通語の「そうだね」は、庄内では「んだのぅ」である。「んだの」と短く言うと、少々ぶっきらぼうになるので、ちゃんと二重母音で発音した方が穏やかである。

「柿、食べる? 食べな、食べよう」を庄内弁で言うと、「柿く、け、こ」になる。ただし「かきくけこ」 ではなく、「かぎくけこ」と、少々なまる。

私は今でも「チラシ寿司」という時に、少し構えてしまう。庄内では「ツラスズス」となってしまうのである。「獅子」も「煤」も「寿司」も「スス」という。「獅子舞」は 「ススメ」である。「進め」 ではない。

「祥月命日」のことを 「ショズギメーヌズ」という。「祥月」も「正直」も同じ発音になる。だから私は子供の頃、毎月の命日は「うそんこの命日」で、年に一度だけ「正直なところの命日」があるのだと思っていた。

方言というのは、とても味のあるものである。ところが、最近は田舎に帰っても、近所で遊んでいるガキンコどもが、あろうことか共通語で喋っているのである。一体どこの子かと思ってしまう。

しかし、彼らも高校生ぐらいになるときちんと庄内弁を身に付けるようになるらしい。しかるべしである。バイリンガルは文化的に厚みが出る。

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2003年3月 3日

まさに旧暦恐るべし

今日、関東、北陸で春一番が吹いた。昨年より12日早いという。

憶えておいでだろうか。1月 7日の当欄で、「春が実感されるのは、3月 3日頃から」という旧暦博士、小林弦彦氏の予言を載せておいたのを。

まさに旧暦恐るべし。あまりにもどんぴしゃりで、唖然としてしまった。旧暦というのは、東アジアの季節感をもっともよく反映しているので、驚くほどのことではないのかもしれないが、それにしても、大したものだ。

明日からはまた冷え込むというのだが、暖かさが行ったり来たりしながら、本格的な春に移行していくのだろう。

ちなみに、小林氏によると、今年の夏は順調で、梅雨入りは平年通り。梅雨明けは6月27日前後だそうだ。猛暑の切り上げも早く、8月28日頃から秋の気配が感じられる。

とにかく、今年は季節の変わり目が昨年よりも早く感じられる年であるらしい。「お天気商売」の各位は、この予測を利用して儲けていただきたい。

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2003年3月 2日

「禅語」 のお話

大企業の社長室などによく「日々是好日」などと書かれた額が飾ってあるが、こうした類の言葉を「禅語」ということを、今日初めて知った。

臨済禅の方の文化らしく、「無門関」などは「禅語」の宝庫である。

「無門関」は「むもんかん」と読んで、中国宋代の僧、無門慧開が編んだ公案集である。「門のない関所」というタイトルからして、ずいぶん禅問答的で、素敵だ。

この書物の第一則は、「趙州狗子」(じょうしゅうくし)というもので、次のように書かれている。

趙州和尚、因みに僧問ふ、狗子に還って仏性ありや、また無しや。州云く、「無」。

ある僧が、高名な趙州和尚に、「犬ころに仏(仏性 = 仏の悟り)があるか」と聞いたら、趙州和尚は「そんなもの、ねぇよ」と答えたというのである。

ちょっと考えたら、とんでもない坊主である。お釈迦様は「山川草木国土悉有仏性」 -「自然物にいたるまで、すべてのものに仏性がある」と説いているのに、それを否定しているのだから。

これは、「お前が言ってるような、『犬ころ』と『仏性』が別々にあって、片方が片方に宿るみたいなもんなら、そんなものはねぇよ。味噌汁で顔洗って、出直して来な」と言っているのだろうか。

はてさて、禅とは深いものである。

ちなみに、「日々是好日」は、「ひびこれこうじつ」ではなく「にちにちこれこうじつ」と読むのが正しい。(一応、漢文だから)

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2003年3月 1日

南米のおおらかさ

南米べネエズラでは、国中の時計が 1日あたり 150秒遅れるという。

大規模な旱魃で水力発電所が使えなくなり、電力不足を補うために、電源周波数を少し下げたため、この現象が約 1年間続いているらしい。

日本やアメリカだったら大騒ぎになるところだが、そこは南米の大らかなお国柄である。国民はなんとも思っていないらしい。「自分が 2分遅刻しても、他の人も 2分遅れるのだから問題ない」という発想だ。なるほど道理である。

しかしそれも一国内の問題ならいいのだが、国際的な関係で見ると、1日に 2分半もの遅れが出るのは問題だ。2日で 5分、24日で 1時間である。

CNN ニュースによると、ある航空管制官は「確かに時計は遅れる。でも 3カ月に 1回合わせているから大丈夫」というのだが、3ヶ月では 4時間近い狂いが出ているはずなのに、本当に大丈夫なのか。大した肝の据わりようである。

時計の遅れは、既に合計 14時間以上になっているというのだから、既に半日以上ずれていることになる。ただ、時計は 12時間しか認識しないから、放っておいたとしても、2時間ちょっとの遅れということで済んでいるのかもしれない。

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