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2003年5月10日

大通智勝の公案

禅の公案に「大通智勝」というのがある。ある僧が興陽の清譲和尚に 「大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)が十劫(こう)もの長い間、座禅を組んだのに悟れなかったのはなぜか」と問うと、清譲和尚は「そんなのは言うまでもない。悟らなかったからさ」と答えたというのである。

大通智勝如来というのは、仏の智恵に大きく通じた如来というのだから、最高級の悟りを得た存在だ。それでも十劫というとてつもなく長い間、道場に結跏趺坐しても、悟りを得られなかった時期があったというのである。

清譲和尚の回答は、正確には「伊(かれ)が成仏せざるが為(ため)なり」というものだ。

本来悉有仏性だから、元々仏道を得ていてもいいはずなのに、それができなかったのは、大通智勝如来といえども迷いに気を取られて、本来自らに宿っている仏性に気付かなかったからだ。と、そう私は解釈していた。

しかしそればかりではなかったと、最近知った。この「伊(かれ)が成仏せざる …… 」の「伊」というのは、場合によって「かれ」と読んだり「われ」と読んだりする字なのだそうである。人称に捉われない概念なのだ。

大通智勝如来が勝手に一方的に悟らなかっただけならば、「伊」ではなく「彼」という字を使ったはずである。しかしあえて「伊 という字を使ったということは、大通智勝如来が成仏しなかったのは、「私が悟らなかったから」でもあるということなのだ。彼我一体である。 そこには超越した時間の観念がある。

自分が悟れば、世界が悟る。世界が混迷を深めているのは、自分が迷っているからなのだ。なんとも申し訳ないことである。

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